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2021年12月28日火曜日

日本の高炉メーカーは,イノベーターのジレンマにはまりつつあるのか? 高炉における水素利用と水素直接還元製鉄の選択について考えるべきこと

 鉄鋼業をカーボン・ニュートラル化するためには,鉄鉱石を炭素で還元する製造法を改めねばならない。これは,世界の鉄鋼業が等しく直面している難題である。現存技術でこれに貢献できるのは,すでに鉄鋼となって存在している鉄スクラップを電気炉で溶解精錬するスクラップ・電炉法である。もちろん発電でCO2を出さないことが必要であり,発電を再生可能エネルギーで行ったうえで電炉で精錬するということになるだろう。今後,世界の鉄鋼業で電炉法のシェアが高まることは確実である。しかし,それだけで世界の需要をまかないきれるわけではない。どうしても,鉄鉱石を製錬する製造法の脱カーボン化が必要である。いまのところ,その最終的な解決は,炭素でなく水素で鉄鉱石を還元することと想定されている。

 この,水素製鉄に向けての技術選択について,日本とヨーロッパで異なる経路が生じつつある。本稿では,このことの意味を考えてみたい。

 日本鉄鋼連盟や日本製鉄,JFEスチールのゼロカーボン・スチール構想では,最終目標は水素直接還元製鉄とされている。しかし,両者も日本鉄鋼連盟も,その実用化には時間がかかると考えて,当面は高炉での水素利用,カーボンリサイクル高炉,高炉+CCS/CCU(CO2貯留・有効利用)の開発に注力している。これに対して,自然エネルギー財団の「鉄鋼業の脱炭素化に向けて 欧州の最新動向に学ぶ」(2021年12月14日公開)によれば,ヨーロッパでは,まず天然ガスで還元する大型の直接還元製鉄炉(製鋼は電気炉)を2025-2030年に立ち上げ,これを水素還元に切り替えていくというプロジェクトが次々と立ち上がっている。ヨーロッパメーカーは,早々に製鉄法を直接還元法に切り替えようというのである。

 製鉄法が高炉法と直接還元法に分かれると,製鋼法もまた分かれる。高炉法では製造される銑鉄が溶融状態なので,精錬には,酸素を吹き付けるだけで脱炭できる転炉を用いるのが効率的である。一方,直接還元炉で製造されるのは固体としての還元鉄であるため,精錬には加熱・溶解が必要なため酸素転炉が使えず,電炉を使うことになる。高炉は転炉と,直接還元炉は電炉とセットなのである。

 高炉・転炉法は現状では非常にエネルギー効率が良い製造技術であり,それ故高炉・転炉法の技術を蓄積している日本の高炉メーカーは,現在に至るまで競争力を維持できている。しかし,もし水素還元が早期に確立すると,直接還元・電炉法の方がCO2削減効果が大きくなる可能性がある。なぜなら,高炉法では,炉内の装入物の荷重を支え,還元ガスや溶けて降下する鉄の通路を確保するために固体のコークスが不可欠であり,これを,気体である水素に完全に置き換えることができないからである。一方,直接還元炉は還元をガスによって行うことができるので,この制約がない。

 日本の高炉メーカーは,現存する高炉・転炉による一貫製鉄所の設備と,国内に蓄積されている高炉・転炉法の技術・ノウハウを活用する方が,技術的にも手を付けやすく,また当面は低コストであるために,次世代技術の第一弾として高炉での水素利用を選択しているのだと思われる。対してヨーロッパメーカーは,高炉・転炉法のレガシーが強力でないがために,当初より水素直接還元製鉄を目指していると解釈できる。

 もし高炉の水素利用を早期に確立できるならば,当面は日本メーカーが優位に立つかもしれない。高炉・転炉を座礁資産にせずに,長く使うことも可能になるだろう。しかし,技術発展の経路が高炉・転炉法にロックインされると,水素直接還元製鉄技術の最終的確立,CO2排出規制への対応において,ヨーロッパメーカーに遅れを取るかもしれない。

 水素直接還元製鉄は,しばらくの間,エネルギー効率においては高炉・転炉法に追い付かず,したがって通常の意味での生産コストは高いだろう。しかし,CO2排出規制への適応性が高いために,カーボン・プライシングのレベルによっては不利は相殺されるかもしれない。CO2排出の社会的費用を含んだ生産コストでは,水素直接還元製鉄が,早々に優位に立つかもしれない。

 かつて製鋼技術が平炉から純酸素転炉に置き換わる際に,アメリカ高炉メーカーは,すでに巨額の設備投資を行っていた平炉法の維持・改善に固執して転炉導入に後れを取り,そのことがコスト高・競争力喪失につながった。鉄鋼業の脱カーボン化において,日本メーカーは同じ轍を踏まずに済むだろうか。脱カーボン製鉄技術の選択については,エンジニアリングの側面だけでなく,経済の側面からもよく検討する必要があるだろう。

 これをやや一般化して言うならば,既存大企業は,保有する現存の設備・技術を自ら陳腐化させるカニバライゼーションをためらい,従来技術の延長線上にある持続的イノベーションで環境規制に対応しようとする。その分だけ,市場における挑戦者企業よりも新技術採用で後れを取る危険がある。一方,挑戦者企業はレガシーの重みがないために,果敢に新技術に挑戦する。新技術は,しばらくの間は,従来の市場における基準ではパフォーマンスが劣る。しかし,環境規制への適合性が高いために,まず規制や世論による環境基準が高い市場の一部で支持される。その支持を足場にして,挑戦者企業は生産を拡大して生産性とコストを改善する。並行して,技術それ自体も洗練されていく。そして,ついには新技術が従来技術にとってかわり,挑戦者企業が既存大企業にとって代わるかもしれない。クレイトン・クリステンセンの言う「イノベーターのジレンマ」は,カーボン・ニュートラルをめざす環境技術においても生じ得るのである。

 本件は,まだデータによって裏付けられる話ではなく,あり得る可能性についての問題提起と注意喚起にとどまる。しかし,関係者がそれぞれの立場から検討すべき論点であることは,間違いないと思う。拙論への賛否を問わず,生産的な討論が起こることを切望する。

2022/4/16 語句修正。


2021年12月18日土曜日

山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの

 山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年について。日本的経営等についての周辺的な話も交じってはいるが,貨幣制度改革論を中心とした本であり,MMTを批判し大きく異なる通貨改革案を正面から主張しているので読んでみた。

1.主張

 著者たちは以下のことを主張している。

1)現在の貨幣システムは,大部分を債務貨幣が占める債務貨幣システムである。
2)債務貨幣システムのもとでは不況やバブルを克服できないし,累積した債務の利払いを通して富が銀行資本に吸い上げられる。
3)貨幣システム改革の決め手は公共貨幣システムである。

 著者の言う債務貨幣とは,より一般的な言葉で言えば信用貨幣である。また著者の言う公共貨幣とは,債務ではなく資産とみなされる貨幣であり,日本政府の発行する硬貨はこれに当たる。より一般的な言葉で言えば,政府貨幣や,その電子化されたものである。ただし,資産と見なされると言っても固有の価値を持つ商品貨幣ではなく,古典的用語では価値標章,日常用語で言えばシンボルとしての貨幣である。

 著者の主張する公共貨幣システムとは,簡単に言えば次のようなものである。

A)日本銀行を財務省と合併させて政府機関の「公共貨幣庫」とする。つまり,名実ともなる統合政府論である。
B)公共貨幣は政府が創造する,政府にとって債務でなく資産となる通貨である。つまり,中央銀行発行の信用貨幣を廃絶し,シンボル貨幣としての政府貨幣に置き換える。
C)民間銀行の法定準備率を100%とする。つまり,準備金の範囲でしか貸し出せないようにし,無から貸し付けて預金を生み出す信用創造を禁止する。ナローバンク論の一種である。

 これによって,バブルは根絶され,利払いによる銀行の支配もなくなり,通貨発行がゼロサム(MMTの言う「誰かの負債は誰かの資産」)ということもなくなって,通貨発行の度に国全体の金融資産が増え,通貨は民主主義的統制のもとに置かれる,と言うのである。著者は,これが大恐慌下でアービング・フィッシャーらによって提案された「シカゴ・プラン」を継承するものだと自負している。だから,経済学的にはシカゴ学派に近いのだが,銀行の利益と権力を排除して民主主義を拡張することを志向しているためか,リベラル側の社会活動家でも肯定的に見る人がいるようだ。


2.批判

(1)デフレ不況を引き起こする金融システム:信用創造の禁止は,実体経済が要求する通貨供給を不可能にする

 まず重要なことは,著者が,現実の貨幣システムが信用貨幣システムだと認めており,現実の説明としては主流派経済学の外生的貨幣供給論より,MMTを含む信用貨幣論の内生的貨幣供給論が正しいと認識していることである。このため,現実の説明の部分は私にも抵抗なく読めた。

 しかし,著者の提案する公共貨幣システムには問題があると思う。最も大きな問題は,信用創造の禁止により,民間実体経済の要求に対応した柔軟な通貨供給が不可能になるということである。

 現実の信用貨幣システムにおいて,政府の財政支出を別とすれば,民間経済に通貨が供給されるのは,企業が銀行から借り入れを行い,銀行が無から貸付金と預金を創造するからである。それに対応した一定の準備金は中央銀行が銀行に供給する。これが唯一のルートである。こうして預金通貨が供給され,それが引き出されると中央銀行券となる。これらの通貨は,流通に不要となれば預金やたんす預金として遊休することもあるが,企業が倒産などしなければ,結局は,貸付金の返済を通して流通から出て消滅する。経済成長とともに財・サービスの流通に必要な通貨が増える時は,主要には貸付けが返済を上回ること,副次的には遊休している預金やたんす預金の流通への復帰によって賄われる。

 ナローバンクシステムでは,この機能が果たせない。貸出が準備金の範囲までと厳しく制限されている以上,経済成長に対応した預金通貨が供給されないのである。それどころか,運転資金や決済資金が一時的に不足する際の,支払い手段としての通貨についても供給に弾力性がない。したがって,経済成長期には投資のための通貨供給が不足し,経済危機の際には運転資金や決済資金が不足して,恒常的なデフレ不況圧力がもたらさせるだろう(※1)。

 それを防ごうとしたら,政府が公共貨幣を増発して銀行に準備金を供給しなければならないが,政府は基本姿勢としてそれを抑制するだろう。なぜならば,もともとこのシステムは,企業と銀行の取引を通した信用創造がバブルを生むから抑制するという思想で設計されているからである。銀行の貸出量は厳格に制限される方向で運用されるだろう(※2)。

 「手形を振り出し,その手形を与えて貸し付ける」ことによる信用貨幣の伸縮性を否定し,シンボル通貨で金融システムを運用しようとすると,確かにバブルは防げるだろうが,肝心の実体経済が必要とする通貨供給が満たされず,不況を引き起こしてしまうのである。


(2)インフレへの歯止めがない財政システム:財政赤字も利払いもなくなるが支出の歯止めもなくなる

 さて,公共貨幣とナローバンクの下では,経済はデフレ不況気味に推移するだろう。金融システムでの拡張はナローバンクの趣旨からいって限度があるだろうから,デフレ不況に対抗しようとすれば財政を拡張するよりない。すると,今度はインフレの制御が,現行の信用貨幣システムよりも難しくなるし,公共貨幣論は主流派経済学やMMTよりもそれに対して脆弱である。これが副次的な問題である。

 財政システムにおいては,信用貨幣であれ公共貨幣であれ,課税と支出のバランスによって追加供給量が外生的に決まることは同じである。しかし,公共貨幣システムでは金融システムが実体経済の通貨要求に柔軟に反応できない分だけ,財政拡張の必要は強力になる。また,少なくとも本書では,公共貨幣論は財政支出の質に関する理論を示していない。例えば,インフレにならないように財の購入より失業している労働者の雇用に重点を置くと言った話がない。そして,公共貨幣は政府の決定一つで資産として発行できるので,財政赤字もなければ利子を銀行に持っていかれる心配もない代わりに,通貨価値を維持する見地から通貨供給量をチェックするしくみもない。これでは公共貨幣の信認は信用貨幣の信用より揺らぎやすく,通貨価値下落=インフレの圧力は現行システムよりもはるかに強くなる。インフレなき完全雇用実現への道は遠いであろう。


(3)通貨供給の中央集権化による硬直性

 以上のように,著者の主張する公共貨幣システムとナローバンクは,金融システムとしてはデフレ不況を促進するバイアスを持ち,それを補おうとすると財政システムがインフレ促進バイアスを持つ。そのため,マクロ経済の問題を何ら解決しないと,私には思える。

 著者は,政府・公共貨幣庫に対する民主主義的統制と効率的行政によって,必要なだけの公共貨幣を政府が創造し,準備金不足にも対応すれば,財政が膨張しすぎないようにコントロールもするのだと主張するのかもしれない。しかし,準備金供給に関する政府の委員会決定や財政に関する年次での国会での議決だけに通貨供給を委ねるのはあまりに中央集権的であり,日々の企業活動に対する柔軟な反応を期待できない。いかに銀行の行動に問題があろうとも,資本主義経済のままで改革を行うのであれば,銀行による,私的で分権的な預金通貨の供給量調整は認めざるを得ないであろう。率直に言って,公共貨幣システムでの通貨供給の硬直性は,シカゴ学派に由来する提案にもかかわらず,集権的計画経済の硬直性に類似していると思う(※3)。


(4)公共貨幣論の幻想はどこから生まれるか:信用貨幣システムへの不信

 なお,公共貨幣論が有効に見えることがあるとしたら,それは現実の信用貨幣システムが機能不全になっている瞬間を切り取り,それと公共貨幣システムを対比すると後者の方がましだと思えるからである。具体的には,世界大恐慌下の信用収縮を前にすれば,必要な貨幣を民主国家が自ら供給できればこの事態を解決できるかのように見えるだろう。シカゴ学派が,通貨供給量の確保を求めてシカゴプランを提示したというのはこの文脈でであろう。またバブル経済とその崩壊を前にすれば,経済を不安定化させる信用創造がない仕組みの方がよいように見えるだろう。1980年代以来,ナローバンク論が時おり唱えられる理由はここにあるだろう。しかし,これは錯覚であり,政策提案としてはすりかえである。公共貨幣システムは,政府介入によって大不況の時に通貨供給を緊急に増加させたり,バブルを制度的に起こりにくくすることだけはできるかもしれない。それはそれでよい。しかし,通貨システムは,非常事態に対処できればよいというものではないし,バブルさえ起こらなければよいというものでもない。恒常的に多方面にわたって機能するかどうかが重要なのである。公共貨幣システムは,金融システムにおいては信用を収縮させてデフレ不況を引き起こす傾向を持ち,これを反転させようと財政拡張を行えば供給過剰=インフレになるものであり,機能しないであろうと,私は考えるのである。


3.MMT批判のインプリケーション:銀行改革の課題

 さて,批判としてはここまでだが,本書の批判を通して浮き上がってくる理論的インプリケーションがある。それは,本書のMMT批判が,批判としては重要な論点を含んでいることである。

 第一に,利払いの問題である。著者は,MMTが利付き債務の設定を通して貨幣が供給される信用貨幣システムを肯定したまま,マクロ経済政策の改革を行なおうとすることを批判する。財政赤字の累積とともに国債の利払いもまた累積していき,銀行をもうけさせるだけではないかというのである。これはMMTに対する誤解であって,MMTは主流派マクロ経済学とともに,経済成長率が金利を上回ることは必要だと認めているのである。しかし,この批判は,MMTの制約を示してはいる。つまり,MMTは雇用創出を何より重視するのであるが,利払いを賄う程度の経済成長は実現しなければならないし,利子と言う不労所得が発生することは認めざるを得ないのである。MMTは,その面では革命的でなく穏当なマクロ経済政策の改革論なのである。

 第二に,バブルの問題である。著者は,MMTは銀行の信用創造に手を付けないからバブルを防げないではないか,と批判する。これは,ある意味もっともな批判だと私は思う。MMTは,成長率と金利の関係,インフレ,為替レート下落,そしてバブルを指標として財政支出をチェックすべしとする。このうち,バブルの発生を防止する手法の開発が最も難しいであろう。実体経済の好況とバブル,実体経済のための通貨供給と金融的流通に回る通貨供給を区別してコントロールしなければならないが,両者を区別して可視化し,制御することは,確かに難しいからである。この問題への有効な対処を開発することは,MMTにとって深刻な課題であろう。その意味では,著者の批判は批判として成り立つ。

 第三に,より根本的に,通貨発行量に関する意思決定の問題である。著者は,MMTが,銀行と企業が信用供与に関する私的意思決定を認めていることを,バブルと不況期の通貨収縮を生むものとして批判する。確かに,MMTはこの私的意思決定自体はやむを得ないものとしている。その点でもMMTは革命的社会改革を唱えるものではなく,資本主義の下での現実的マクロ経済政策を唱える理論であることは確かである。著者がこれを民主主義の見地から批判するのは,政治論として一理あるだろう。

 このように,本書はMMTに対して,銀行批判,具体的には不労所得批判,バブル批判,通貨供給の私的意思決定批判が弱いではないかと批判し,それによって,MMTが根本的な銀行改革案を持つものではないことを浮き彫りにした。MMTや他の政策論が解かねばならない問題がここに残っていることが明らかになった。

 しかし,著者による対案は,問題を解決せずに悪化させるものであった。バブルは食い止めても,肝心の実体経済への通貨供給を危うくするものであった。政治的に議会の権限を強めるかもしれないが,経済を機能させえないものであった。信用創造の全否定は,いわばお湯といっしょに赤ん坊を流すものだったのである。不労所得を減らし,バブルを失くし,民主的意思決定領域を広げるという,政治的に魅力的に見える提案であっても,必ず経済的に望ましい結果が得られるとは限らない。公共貨幣論は,地獄とまででは言わないが,苦難への道を善意で敷き詰めるものであった。同様のことはどのような通貨改革論にも起こり得るのであり,規範的に経済政策を論じる際に,十分心しなければならないことであろう。


※1 著者らの場合は異なると思うが,ナローバンク論の中には,企業は銀行から借りられなくとも,証券発行や投資銀行経由の金融仲介で資金調達できるだろうという意見がある。これはとんだ勘違いである。証券購入や投資銀行経由で投資しようとしている投資家のお金はどこから来たのか。もともと,経済のどこかで,どの時点かで,企業が銀行から借り入れたから存在しているのである。信用創造を統制すれば,証券投資に回るべき遊休資金もやがて枯渇する。

※2 政府がデフレ不況を防ごうと,節を曲げて銀行への準備金供給を増加させるとどうなるだろうか。その場合,不況から脱出できるかもしれないが,当然バブルの可能性も再燃するので,何のために公共貨幣システムに移行したのかわからなくなる。

※3 本書が述べているわけではないが,準備金増減については,裁量的に調整するかわりにミルトン・フリードマンが通貨供給量について主張した「X%ルール」のようにルール化してはどうかという意見があるかもしれない。「X%ルール」は,公共貨幣システムでも信用貨幣システムでも,借り入れ需要を「伸び率X%」に抑制するためには有効である。つまり,景気過熱,悪性インフレ,バブルを抑制する際には有効であろう。マネタリストが1970年代に勢いを増したのももっともであった。しかし,借り入れ需要が弱いときに通貨供給量を「伸び率X%」まで増やそうとしても無理である。企業に借り入れ意欲がなければ準備金が積み上がるだけに終わるだろう。アベノミクス期の量的金融緩和と同じである。なので,公共貨幣システムがいったん景気をデフレ不況に冷え込ませてしまい,借り入れ需要が低迷すると,これを「X%ルール」で救うことは不可能である。


2021年12月16日木曜日

MMTはケインズ派の困難を克服できるか?

 MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。この点では,MMTはケインズ派の常識的見解とそう外れているものではない。

 だとすれば,MMTに投げかけられるべき疑問は「MMTは,1970年代にケインズ派が陥った困難を克服できるのか」というものだろう。どうしたことか,MMTと聞くと脊髄反射的に「財政赤字をいくらでも出してもいいはずがないだろう」と批判する人が多いが,以前から述べているように,MMTはそんなことは言っていない(※1)。そんな浅い批判でなく,本質的な批判が望まれる。批判によって議論は深まり,理論と政策は鍛えられるからだ。

 ケインズ派は1970年代に経済理論と現実への対処の二つの方面で困難に陥った。ケインズ派の応用としてのMMTがこれらを克服する道を提起しているかどうか,以下,考えてみたい。

1.合理的期待に基づく財政の中立命題

 まず,理論的問題としての,合理的期待に基づく財政の中立命題である。これは単純化すると,以下のようなケインズ派批判であった。財政赤字はいつかは返済されねばならない。すると,現在の財政赤字と将来の財政黒字はプラスマイナスゼロなので,赤字期間と黒字期間を通算すれば,本質的には有効需要は増えない。増えるとすれば,拡張政策を行ったときに,有効需要が増えると国民(納税者)が錯覚して,投資や消費に対する態度を積極的なものに変えた場合である。しかし,将来の財政について合理的に予想できる国民は,そうした錯覚を起こさず,将来の増税を予想する。なので,拡張政策に反応して投資や消費を増やしたりはしないであろう。

 MMTはこの問題にどう立ち向かうだろうか。実は,MMTにとっては,この問題は,本来存在しないものを存在するかのように見せかける偽問題なのである。MMTは,インフレなき完全雇用が保てるならば財政赤字は出し続けてもよく,財政赤字を将来完済する必要はない,むしろすべきではないと考えているからである。

 なぜ財政赤字が常に必要なのか。MMTはケインズやマルクスとともに,自由放任の資本主義経済では有効需要は完全雇用を実現する水準に達せず,失業が不可避だと考えるからである。失業防止のためには通貨供給による需要創造が必要である。現代では,通貨は統合政府の負債であり,失業を救済しながら経済規模に見合った通貨供給を行うには,中央銀行がバックアップする銀行からの信用供与と言う金融ルート(中央銀行と銀行の債務増)だけでなく,課税より大きい財政支出という財政ルート(中央政府の債務増)を併用しなければならない。財政ルートで通貨供給を増やそうとすれば,財政赤字は常に存在し続けるし,経済規模ともに増え続けてもおかしくないのである。国債が自国通貨建てで計上されている限りは,デフォルトすることはない。満期になった国債は借り換えればよい。以前に述べた通り(※2),国債発行は民間貯蓄を吸収しないので,カネのクラウディング・アウトが起こることもなく,金利が高騰することもない。財政赤字が増え続けること自体は問題ないのである。

 もちろん,ここで財政支出の質も重要である。完全雇用達成前はモノのクラウディング・アウト=インフレに注意し,完全雇用達成後はヒトのクラウディング・アウト=悪性の賃金・価格スパイラルに注意し,全過程を通して通貨の金融的流通への滞留=バブルと通貨投機=為替レート急落に注意しなければならない。これを政策プログラムや運営の制度(中央銀行と中央政府の新たな関係)・手法に具体化することは,MMTの重要な課題である。その主要な提言は雇用保証プログラム(JGP)であるが,これは次に述べよう。

 いずれにせよMMTによれば「財政赤字が出た以上,政府はいつかは債務を完済しなければならず,そのための増税がある」というのは合理的期待でも何でもなく,むしろこれこそが錯覚なのである。したがって,財政の中立命題も,もとより成り立たない。なので,この理論的なケインズ批判は,MMTにはあてはまらないのである。

2.スタグフレーション

 次に,現実的問題としてのスタグフレーションである。インフレと不況が共存する状況では,従来の公共事業や呼び水政策によるケインズ政策では,拡張的財政・金融政策も取れず,引き締めもできないというジレンマに陥ってしまうと言う問題である。スタグフレーションの再来は,2021年末の現在でも警戒されているだけに,過去の出来事ではない。

 私の解釈では,MMTは,この問題への反省も行っている。スタグフレーションとは,言い方を変えると,完全雇用に達する前にインフレになってしまうことである。これは,財政支出で作り出されるはずの有効需要が,失業の吸収に結びつかないことによって生じる。この時,財政支出は雇用創造以外の何に作用しているかというと,まず,財の価格を引き上げることに結びついてしまっていると考えられる。政府調達や公共事業における水増し的価格設定,独占による価格つり上げ,ボトルネック財の価格上昇等々である。次に,失業吸収ではなく,既に雇われている労働者の賃金引き上げに結びついていると考えられる。例えば大企業でだけ賃上げが行われ,それが賃金・価格スパイラルを生み出しているのに,失業者は放置されたまま,というような状態である。これがスタグフレーションを引き起こす。そして,経済が混乱して,価格が硬直したままで投資や消費がさらに停滞するとスタグフレーションは深化する。

 こうなってはだめだということを,MMTははっきりと意識している。それゆえ,MMTは呼び水的公共事業には批判的である。そして対案として掲げるのが,公共部門が最低賃金で,希望する失業者を全員雇用するという,雇用保障プログラム(JGP)である。仮にJGPが実施できたとすれば,支出の多くが失業者を雇用して賃金を支払うことに用いられるので,労働市場や財市場を圧迫しない(ヒトやモノのクラウディング・アウトを起こさない)。そしてその賃金水準は最低賃金なので,最低賃金が適度に設定されていれば,デフレも賃金・価格スパイラルも起こさずにすむ。MMTにとって,JGPはスタグフレーションのリスクを乗り越える方策なのである(※3)。

 もちろん,JGPにも種々の問題はある。最低賃金で大量に失業者を雇って,社会的に有用な事業を組織できるかどうかが最大の問題である。また日本に適用しようとすると,そもそも未活用な労働力は家庭に眠ってしまっていたり非正規雇用になっていたりして,完全失業者として現れていないという問題もある。JGPが財政政策の本流になるには,まだ乗り越えねばならない課題は多いだろう。しかし,JGPは原理的に不合理なことを言っているわけではなく,スタグフレーションを回避して,インフレなき完全雇用を実現する一つの道筋は示していると思われる。

 私の理解では,以上が,1970年代にケインズ派が直面した困難をMMTが克服しようとする理論的・政策的方向である。未解決の問題はあるし,具体的な政策に落とし込むまでに至っていない論点も多々あるだろう。しかし,MMTはケインズ派の困難を乗り越える手がかりを示していると,私には思える。重要なことは,現在の地点を否定することでもそこに安住することでもなく,前進することである。

※1「いくらでも財政赤字を出してもいいはずがないだろう」という批判には,ひとつ前の投稿で応えているので,以下を参照して欲しい。「小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い」Ka-Bataブログ,2021年12月14日

※2 MMTがカネのクラウディング・アウトは起こらず,ヒトとモノのクラウディング・アウトは起こり得るとしていることは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。

※3 だから,雇用増加を第一に考える姿勢を持たずに,漠然とした「景気対策」で,もっぱら「所得増大」の効果を狙って公共事業を推進しようとするのはMMTではないのである。それでは完全雇用達成前のインフレ,言い換えるとインフレと失業のトレード・オフに直面してしまうからである。インフレ率で財政政策をチェックすることでMMT的な政策を取ったつもりでも,インフレを抑えるために失業を許容することになる。それでは,フィリップス曲線を使った旧来のケインジアンの発想である。

*2021年12月19日。表現を修正。

2021年12月14日火曜日

小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い

  小幡績教授のMMT批判の論稿が出たが,どうも誤解が多い。私もMMT(現代貨幣理論)を理解し,自分が若い頃に学んだ信用貨幣論とすり合わせるのに1年かかったが,小幡教授ももう少し虚心坦懐にMMTの言い分を聞かれてはどうか。

 小幡教授によればMMTの政策には三つの害悪があるそうだ。

「第1に、財政支出の中身がどうであっても、気にしない。
 第2に、金融市場が大混乱しても、気にしない 。
 第3に、インフレが起きにくい経済においては、その破壊的被害を極限まで大きくする。」

 一つずつ検討しよう。

 1番目。MMTが「財政支出の中身がどうであっても、気にしない」というのはまったくの誤解である。MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,成長率は金利を上回っていなければならない,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。その意味でMMTは小幡教授の主張される「ワイズスペンディング(賢い支出)が必要である」という議論なのである。

 小幡教授は「MMTがインフレ率だけを頼りに財政支出の規模を決めることが誤っている」とも言われるが,MMTにとって財政支出の歯止めはインフレだけではない。まず,雇用増加に貢献するように支出することが大前提であり,その上でインフレ,バブル,為替レートの急落によって財政膨張をチェックするのである。なぜバブルによってもチェックするかと言うと,バブルと言うのは,財政支出で投入した通貨が有効需要に結びつかず,キャピタルゲインを求めて金融的流通を繰り返すことだからである。また為替レート急落に注意するのは,レート急落がインフレとパラレルだからであり,また対外債務の支払いを困難にするからである。MMTが,「国債が自国通貨建てならデフォルトしない」と主張していることはよく知られているが,裏返すと,「外貨建てであればデフォルトし得るから気を付けろ」と言っているのである。

 2番目。小幡教授はMMTにしたがえば「大規模な財政支出により、民間投資が大幅に縮小する、という典型的なクラウディングアウト(英語の元は「押し出す」の意味)を起こす」「投資資金は限られており、金利という価格による需給調節が効かなくても、政府セクターに取られてしまえば、リスク資金は民間へ回ってこない」と言う。しかし,まさにそうした考えが理論的に間違いだとMMTは主張しているのである。財政支出はカネのクラウディングアウト,つまり民間投資資金の押しのけと金利高騰を起こさない。なぜならば,財政支出とは,統合政府が新たに通貨発行量を増加させて支出することだからである。財政赤字を出して支出するたびに通貨供給量も同じ額だけ増えるので,金融はひっ迫しないのである(※1)。

 もっとも,財政支出が一方的に膨張すると,モノやヒトのクラウディング・アウト,つまり機械設備や原材料や人材が公共部門と民間投資とで奪い合いになることはあり得る。その帰結は悪性インフレである。MMTは財政膨張は金利は高騰させないが悪性インフレは起こし得るとして,だからこそインフレに警戒しているのである(※2)。これを避けるためには,財政支出が,なによりも遊休している労働力の稼働に用いられるとともに,利用可能な経済的資源の着実な増大につながる必要がある。

 3番目。小幡教授はMMTでは「インフレが起こりにくい経済においては、財政支出の歯止めが効かないからである。その結果、とことん、経済が破滅的におかしくなるまで、財政支出は拡大され続けるのである」と言われる。しかし,既にみたように,MMTはそんな放漫財政を奨励するものではない。雇用を増大させない支出はすべきではないとし,インフレのみならずバブルをも基準として財政膨張をチェックするのである。

 以上で紹介したMMTの主張は,例えばL・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社,2019年)で懇切丁寧に説明されている。小幡教授は「これ以上、MMT理論を批判する必要はない。もうたくさんだ」と言っているが,全否定する前に,もう少し相手の言い分に耳を傾けてはいかがだろうか。

※1 具体的にカネの流れがどうなるかは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日を参照して欲しい。


※2 詳しくは拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。

小幡績「日本では絶対に危険な「MMT」をやってはいけない:MMTの「4つの誤り」と「3つの害悪」とは何か」東洋経済ONLINE,2021年12月13日。 

+2021年12月17日。「成長率は金利を上回っていなければならない」を追記。

+2022年4月30日追記。コメントをもとに成長率と金利に関して再考したが,やはり「成長率は金利を上回っていなければならない」という記述はない方がよいと考えるに至った。財政運営の観点から具体的に問題になるのは,マクロ指標としての成長率と金利(たとえば名目成長率と長期金利)ではなく,より具体的な税収増加率と利払い費増加率の関係である。後者は長期金利の影響をまともに受けるが,税収増加率は課税のあり方によって相当な幅がある。また,所得に占める税の比率が変化することもありうる。なので,成長率が金利を下回ると債務比率が発散する,とまで定式化することは適切でないと考えた。

2021年12月11日土曜日

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」の早期公開版を公表しました

 唐嫘夢依さんの修士論文を改訂した共著論文「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」が査読を通り,研究年報『経済学』に掲載されることになりました。ただ,掲載巻号が未定であり,年1回しか出ない雑誌であるため,発行までかなりかかると予想されます。そこで許可を得てネット配信可能なTERG Discussion Paper, No. 455として東北大学機関リポジトリTOURに登載してもらいました。DP版は研究年報『経済学』が発行されるまで時限公開します。

 中国のネット小説の世界を一言で言うと,日本で言うラノベやハーレクイン系恋愛小説が紙の本ではなくネットで発表され,スマホで読まれています。また,アマチュアからトップ作家までがシームレスに同じプラットフォーム上で活動しています。その市場規模は2017年に90億元(同年末レートで1556億円)に達しています。中国ネット文学の世界にどうぞ触れてみてください。

起点中文網

起点軽小説

起点女生網

2023/3。最終版が雑誌に掲載されました。以下でご覧いただけます。

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」研究年報『経済学』79巻1号
http://doi.org/10.50974/00137113


唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」TERG Discussion Paper, No. 455, 東北大学大学院経済学研究科,1-21。→公開停止しました。


2021年12月3日金曜日

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む:CBDCは銀行による貸し出しを困難にするのか

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む:CBDCは銀行による貸し出しを困難にするのか

※2022年12月5日追記。本稿は原形をとどめないほど大幅に改定し,ディスカッション・ペーパーとして発表しました。こちらです


1.問題の所在

 野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読んだ。本書の論旨は多岐にわたり,また中央銀行デジタル通貨(CBDC)の話だけでなく,デジタル人民元の話,リブラ=ディエムの話,ビットコインの話,キャッシュレス決済の話が盛りだくさんに語られている。しかし,論じるべきことがらを対象でなく分野によって分けるならば,マネーやその流通に用いる情報技術の話,それに関連した匿名性の話,デジタル人民元への対抗という政治問題,そしてデジタル技術によって貨幣・信用・金融業がどう変わるのかという経済問題に分かれると思う。情報技術と匿名性,政治問題は他の専門家にお譲りし,またリブラ=ディエム等もいったん対象から外して,ここではCBDCによる,貨幣・信用・金融業の変貌について,本書の気になった点を指摘したい。

 本書は随所に個性的な主張を含みながらも,この変貌を,基本的には経済学における主流派の銀行論によって理解しようとしている。しかし,それ故にこそ,CBDCによる貨幣・信用・金融業の変貌をとらえ損なっている部分があると,私には思える。主流の経済理論ではCBDCの行方を正しく把握できないという,深刻な問題が,本書には表れているのだ。それでは主流派理論でなければ何を使えばよいのかというと,信用貨幣論による銀行論が必要だと私は考える(※1)。

 よって本稿は野口教授個人を批判するというものではなく,野口教授が体現しておられる主流派理論によるCBDCの説明を批判し,その説明ではCBDCによる金融業の変貌をとらえそこなうことに注意を促そうというものである。なお,ここでいう主流派理論とは,銀行を「受け入れた預金を用いて貸し出しを行う」ものと理解していることである。これは,近代経済学においてもマルクス経済学においても多数の見解と思われるので主流派と呼んでいる。これに対して信用貨幣論は,銀行は「貸し付けることによって預金を作り出す」と考えるのである。両者の具体的な違いは行論のうちに明らかとなるだろう。


2.トークン型CBDCとは何か

 野口教授は,CBDCの構想に口座型とトークン型があることを指摘されつつ,トークン型が主流であり,すでに中国,スウェーデンをはじめ導入に向けた動きが進んでいることを指摘される。私もその認識を共有する。

 トークン型CBDCとは,財布の中に日銀券や硬貨を入れる代わりにスマートフォン内のウォレット(電子財布)にCBDC入れ,手渡しで支払う代わりにスマホのウォレットからウォレットへとCBDCを送金する仕組みである。入手するには,預金を下ろしてウォレットに入金すればよい。逆にウォレットから出して預金することもできる。CBDCは日銀券(以下,事例を日本のものとして日銀券とする)と同じく日銀が発行する。そして日銀券と同じく,銀行は日銀当座預金を下ろすことによってCBDCを入手し,預金者の預金引き出しに対応する。CBDCは原理的には個人間でも法人間でも用いることができるし,個人や法人が持つウォレット間を転々と流通する。要は,現金のデジタル化である。

 野口教授は,CBDCに限度額が附されなければ,世の中に流通するマネーはほとんどCBDCになると予想している(Kindle版92, 93ページ他。以下ページはみなKindleによる)。というのは,CBDCは現金取引のコストを大きく下げるからである。個人の買い物や送金だけでなく,企業間の取引もそうなるという。これをイメージするに,買い物も送金もスマホ内のウォレットでCBDCを操作すればよいことになる。企業間の取引も,現金を山のように積み上げたり輸送したり保管したりという手間がなくなるため,CBDCというデジタル現金で取引することが便利となり,口座振替は用いられなくなるということだろう。私も,もし口座振替サービスの革新がなければそうなると思う(※2)。ハイスペックのCBDCは,現金取引を復権させ,口座振替を後退させるだろう。


3.中央銀行は万能になるか

 問題はこの先である。多くの預金が引き出されてCBDCとして流通するようになると,銀行はどうなるのだろうか。野口氏は,まずこう言われる。「CBDCの世界においても,銀行が貸し出しを行うことはもちろん可能である。それによって預金が増大する。それがCBDCの形で引き出されるにせよ預金の形で残っているにせよ,マネーストックは増大する。したがって,信用創造は現在と同じようにできる」(69ページ)。私もそう思う。

 ところが野口教授はこうも言われる。CBDCについてわかりやすく考えるために,中央銀行券の利便性が飛躍的に向上したと仮定してみる。すると「決済手段としての銀行預金はいらなくなり,中央銀行券だけが流通する社会になる。つまり,中央銀行はマネーの総量の決定に対して決定的な力を持ち,銀行はそれに対して関与しない。金利や準備率の操作は必要なくなる。中央銀行の力が最大限に発揮できる。CBDCは,これと同じことを,現実に実現する手段なのである。」(92-93ページ)ここがわからない。いったいどうやってCBDC発行量を中央銀行が直接コントロールするのか。情報技術によってCBDCを生み出したり消滅させたりするという意味では可能である。しかし,制度的には異なる。CBDCの発行と流通が日銀券と同じルールに従うならば,預金者が預金を下ろした際に銀行は無条件でCBDCに交換しなければならない。とすると,CBDCの発行量は,銀行が企業に貸し付けるためにどれほど預金を設定したか,借り手の企業がどれほどその預金をおろしてCBDCに転換したか,流通するCBDCがどれほど預金として還流して来るかにかかっている。それを日銀が直接コントロールすることはできない。できるのは,金融政策によって短期金利と日銀当座預金残高を操作して,銀行の信用創造を間接的にコントロールすることである。つまり,今と変わらないはずである。仮に中央銀行の力を強化できるとしたら,CBDCの発行量を直接操作して預金のCBDCへの交換に規制を加えたり,CBDCのウォレット当たり保有高や1日当たり利用高を規制した場合であろう。それはそうした強い権限を中央銀行に与えた場合に起こることであって,CBDCが増えて預金が減ること自体から生じることではない。現金やデジタル現金の取引が増えただけで中央銀行が万能になるわけではない。

 野口教授がこのように思われる理由ははっきりしないが,中央銀行が発行する以上,中央銀行が発行量を自由に操作できるだろうと仮定しているのかもしれない。野口教授は日本銀行券についてはそうは考えていないはずなのであるが,CBDCの場合は違うというのであろうか(※3)。

 なお,野口教授は,預金が減ることとはまた別に,CBDCでは通貨に直接利子やマイナスの利子をつけることが可能であり,それがまた中央銀行の金融政策を強化する(69ページ)ことを見通しておられる。私は,付利は教授の指摘以上に重大な制度変化を誘発すると思うので,この点は本稿の最後に改めて述べたい。


4.銀行は貸し出しができなくなるか

 野口教授は,送金・決済が銀行預金の振り替えからCBDCに代替されると,預金が必要なくなり,「すると,銀行は貸し出しができなくなる。つまり,銀行の存在意義がなくなってしまうのだ」と言われる(93ページ)。銀行は自己資本の範囲だけしか貸し出すことができなくなり,ナローバンク構想での銀行と似た状態になるという(95,189ページ)。ここでのナローバンクとは預金準備率が100%の銀行のことだ。しかし,69ページでは「信用創造は現在と同じようにできる」と言われていたのに,どうしたことか。

 もし93・189ページの指摘通りだとすると,銀行貸出は著しく縮小する。しかし,そうすればCBDCの流通も成り立たないはずである。なぜならば,これも教授が説明される通り,CBDCとはそもそも銀行預金がおろされることで発行されるものだからである。そして,預金とはそもそも銀行が貸付を行うから設定されるのである。社会に出回る通貨とは,銀行が貸し付けた預金通貨が,その後転々と流通して借りて以外の手元にわたったものであるか,そうした預金が降ろされて現金になったものである(※4)。

 だから,CBDCが豊富に出回るということは,貸し付けの際に預金が豊富に設定されて,それが引き出された結果である。もし銀行が貸付不可能になったり,そこまでいかなくても自己資本の範囲でしか貸し出せないナローバンクになれば,その分だけCBDCに転換できる預金も減り,CBDCも減り,流通に必要な通貨は十分に供給されないだろう。CBDCは豊富に出回るが銀行は貸し出せないという世界は,論理的に存在し得ないので,野口教授の想定は成り立たないのである。

 この「貸し出しができなくなる」という考えは,野口教授が「銀行は,増加した預金の一部を用いて貸し出しを行う。その大部分は預金となって戻ってくる。そこで,さらにその一部を貸し出す」(88ページ),「預金を用いて貸し出しを行う」(189ページ)という風に信用創造を理解されていることに由来している。最初の預金がなくなれば貸し出しもできなくなるというわけだ。これは経済学の主流理論というか,ほとんど常識視されている見方である。

 しかし,私はここに問題があると思う。教授自身が69ページで言われたように,「CBDCの世界においても,銀行が貸し出しを行うことはもちろん可能である。それによって預金が増大する」のである。銀行は,受け入れた預金を取り崩して貸すのではない。自己宛て債務である預金を使って,企業に貸し付けるのである(※5)。やはり教授が言われるように,「それがCBDCの形で引き出されるにせよ預金の形で残っているにせよ,マネーストックは増大する」。そして企業は,返済の際はCBDCを預金に変えて貸し手の銀行に返済する。返済=回収により,預金は消滅し,マネーストックは減少するのである(※6)。あらかじめ預金がなくとも,貸し付けはできるのである。

 野口教授は,なぜか69ページと93・189ページでまったく逆のことを言われているように私には思える。そして,私は69ページの教授が正しいと思う。CBDCが普及し,預金を引き出す人が増えた場合でも,銀行は預金を設定して貸し出すことができるだろう。


5.日銀による準備金供与は不健全か

 では,銀行は貸し出せるとして,何も問題が起こらないのかというと,そうではない。野口教授の思考内部では銀行は機能停止かナローバンク化に追い込まれているが,そこまで行かなくても問題は起こる。それは準備金の不足である。準備金は貸し出しの原資としては不要だが,他のことに必要だからである。

 個人も企業もデジタル現金であるCBDCで支払いを行い,預金を利用しなくなると,預金が増えるのは銀行が企業に貸し出した瞬間と返済の瞬間だけになってしまい,事実上ほとんど滞留しなくなる。すると,銀行にとってバランスシートの負債側では預金が減少し,資産側では日銀当座預金,すなわち準備金が減少する。くどいようだが,準備金は貸し出し原資としては必要ない。しかし,貸し倒れへの備えが必要であるし,銀行間決済で送金側になった際に,日銀当座預金が不足しては困る。そして,預金者が預金を下ろす際にはCBDCが要求されるので,銀行はCBDCに替えられる日銀当座預金を十分に持っておかねばならない。

 つまり,ここで真の問題は,CBDCが使われて口座振替が使われなくなると,銀行にとって日銀当座預金という名の準備金が減少してしまうということなのである。当然,放置すれば短期金融市場はひっ迫し,銀行が資金ショートを起こすかもしれない。つまり,CBDCというデジタル現金が用いられる世界は,預金通貨が用いられる世界よりも金融が引き締まるのである(※7)。

 しかし,これは解決可能であろう。日銀が銀行に貸し付けて日銀当座預金を供給すればよいからである。現代では国債が大量に流通しているので,現に日銀が行っているように買いオペレーションをしてもよいであろう。実は野口教授も,中央銀行が銀行に貸し出してその機能を支える可能性を検討しておられる。ところが教授は,銀行の預金不足を日銀からの信用で補うのは,高度成長期のオーバーローンと同じく不健全ではないかと言われるのである。

 しかし,そうではない。いま,通貨流通はCBDCによって担われ,預金通貨が皆無であったと想定しよう。このCBDCがどうやって発行されたかというと,野口教授が46-47ページで解説されている日銀券の場合と同じようにである。つまり,銀行が日銀に保有している当座預金を取り崩してCBDCを引き出し,預金者が銀行の預金を下ろしてCBDCを受け取ったのである。CBDCは銀行がもつ日銀当座預金を下ろすことでしか発行されないのだから,それが豊富に出回るためには,まずそれと同額の日銀当座預金が設定されねばならない。この預金設定は,当然に必要なことであって,別に不健全ではないのである。


6.銀行が直面する真の問題:競争激化による淘汰

 では,日銀が準備金さえ供給すれば何の問題も起こらないかというと,そうでもない。そして,ここで起こる問題は,野口教授もある程度把握されている。教授はCBDC発行に当たって「中央銀行が直接に利用者と接することが現実的には不可能である以上,中間段階に金融機関が介在せざるを得ない」(99ページ),「仲介機関に選定されなかった金融機関の預金は不利な立場に置かれることになるので,預金が流出する危険がある」(同上)と指摘されている。これは全くその通りだと私にも思われる。ただし,教授が「金融機関が貸し出しできるのは預金があるからだ。だから,預金がなくなれば貸し出しができなくなってしまう」(98-99ページ)と言われるのは,違う。前節で述べた通り,貸し出し自体は預金がなくてもできるし,準備金は日銀が供給すれば確保されるからである。

 弱小な金融機関の困難は貸し出せないことではなく,CBDCへの交換窓口になれないがために,顧客企業が離れてしまうことである。貸し出すことは制度的に可能だが,CBDCに転換できない銀行には,企業が借りに来ないのである。預金とCBDCの交換を行うハード・ソフトのシステムを整備できる大銀行と,それが困難な銀行の経営格差が大きくなり,淘汰が生じることこそが,銀行に降りかかる真の困難なのである。


7.さらに大きな問題:中央銀行制度を一変させるCBDCへの付利

 以上,現金をデジタル化するトークン型CBDCが普及した場合に予想される事態について,野口教授の見解を追いながら,私見を対置してきた。しかし,もう一つ残る問題がある。それはCBDCに金利やマイナス金利が付される場合である。野口教授は,これを中央銀行の権限を強化するものととらえており,私もそれは賛成である。しかし,私見では,付利はCBDCに,現金を置き換えることを超えたまったく新しい性質を持たせる。それは,中央銀行制度をも揺るがすほどの変革である。よって,ここでは野口教授の記述を超えて試論を述べておきたい。

 CBDC自体に金利やマイナス金利をつけることは,情報技術的には可能である。また制度上も,それ自体はできないことはない。現金に利子を課すというのは,現金保有を債権債務関係とみなすことである。これは金貨や国家紙幣については不合理であろう。誰とも貸し借りをしていないのに利子がついてはおかしいからである。CBDCは日銀の債務なので,日銀に対する利子付き債権とみなすことは不可能ではない。そして,金利やマイナス金利を各ウォレットと日銀の間で直接にCBDCによって支払うように設計することも不可能ではないだろう。

 しかし,これはCBDCのウォレット当たり保有高制限などよりはるかに重大な制度変革である。なぜならば,日銀が「銀行の銀行」であるのみならず,企業・個人と直接に金融取引を行うようになるからである。そしてまた,日銀が通貨価値を安定させて民間の取引を間接的に支える立場から,通貨価値を直接操作して金融政策の目的を達成する立場に移行するからである。野口教授は,付利可能なデジタル人民元が中国政府の力を強くする可能性に触れているが(69ページ),中国に限らず,より一般的にCBDCのしくみが持つ可能性/危険性として強調すべきであったと思う。この極度に大きい権限と責任は,多くの国でとられている中央銀行制度,すなわち財政政策は民主主義的に統制され,金融政策は一定の独立性のある中央銀行に委ねられるという制度となじまない。日銀のCBDC金融政策に対して,生活がそれに直接左右される国民の意思を反映しろという要求は不可避であろう。逆に言えば,国民の意思を反映させずとも存続する政治制度下の中央銀行でないと,CBDCへの付利は実現できないかもしれない。CBDCに直接利子をつけることは,民主的なものであれ権威的なものであれ,中央銀行制度の根底的変革を前提としなければならないように思われる。その可否や可能性は,慎重な検討が必要であろう。


8.終わりに:銀行論の転換を

 以上が,野口教授の著書に対する私の論評である。結論を要約すれば,野口教授も私も,CBDCの典型をトークン型とみなす点で一致している。また,ハイスペックでよく機能するCBDCがデジタル化された現金取引を復権させ,口座振替を後退させるという見通しでは一致している。見解が異なるのは,CBDCが普及した時に銀行に生じる問題の所在である。野口教授の見地から見れば,CBDCは直接に金利が付されなくても,普及すると銀行の貸出機能を縮小させ,中央銀行の力を巨大にするものである。一方,私の見地から見れば,CBDCは銀行全体の貸出機能には影響を与えない。そうではなく,銀行間競争を激化させ,銀行間格差を大きくするのである。野口教授と私が見解としては一致しているが,問題の深さについての認識が違うかもしれないのが,CBDCへの付利についてである。もしCBDCに直接金利が付与されると中央銀行が金融政策上の強大な権限を持つことになるという点では一致している。ただ,私はそれだけでなく,この付利は中央銀行制度を根底から変革させずにはおかないものと考えているのである。

 本稿ではいくつかの批判を行ったが,これは野口教授個人への批判ではない。野口教授は主流派理論に依拠してCBDCを理解されているのであり,私の野口教授への批判のほとんどは,主流派理論そのものへの批判なのである。主流派理論における銀行論の根本的な問題は,「銀行は,増加した預金の一部を用いて貸し出しを行う」という命題から出発するところである。銀行は,既に存在しているお金を貸し出しに回すというのである。この命題から出発すれば,銀行は預金が減少すると貸し出せなくなる,日銀からの貸し付けが増えるのは不健全だ,ということになる。しかし,この理解こそが問題である。主流派理論に従って銀行とCBDCを理解しようとすれば,その未来像や,問題の所在を見誤ることになる(※8)。通貨のデジタル化という一大変革を理解するためには,銀行は預金という手形を切り,手形を渡して貸し付けているという理解を経済理論に浸透させねばならない(※9)。信用貨幣論がどうしても必要だと私は考える。


※1 近年,一般に知られている信用貨幣論といえばMMT(現代貨幣理論)であるが,私自身はマルクス派の信用貨幣論に依拠している。ただし,本稿で取り上げている論点については,マルクス派信用貨幣論であってMMTであっても同じ見解になると予想する。

※2 銀行がこの事態に手をこまねいておらず,口座振替サービスをデジタル化によって革新すれば,CBDCによるデジタル現金取引に対抗できるかもしれない。DCJPYはその試みであろう。DCJPYについては「DCJPYはデジタル技術によるデビットカードサービスの付いた預金であり,新たなデジタル通貨ではない -誇大広告をやめ真の可能性を論じよう-」Ka-Bataブログ,2021年11月27日を参照して欲しい。

※3 野口教授のアベノミクス批判を拝見すると(例えば野口悠紀雄「異次元緩和は空回り、日銀は政策変更を」東洋経済ONLINE,2013年7月29日や野口悠紀雄「間違った報道はしないでほしい」note, 2019年3月5日),中央銀行が発行する通貨であっても,その発行量を自由に操作できるわけでないとはっきりと認識しておられる。にもかかわらず,どうして現金がCBDCに置き換わり,預金がCBDCとして引きだされただけで中央銀行の金融政策が強大になるのか,理解に苦しむ。

※4 このことは,日銀券や預金がすでにある状態からCBDCへの交換をイメージされるとわかりにくいかもしれない。こうした交換は過渡期なのである。CBDCの使い勝手を皆が認めて交換が一通り終わり,預金は非常に少なくなったとする。そして,その後,経済成長に伴い新たにCBDCが必要な場面を考えて欲しい。この時,それはどこから供給されるかと言うと,新たに預金が設定され,その預金を誰かがおろしてCBDCに替えることを通してである。それでは,新たに設定される預金はどこで生まれるかと言うと,銀行が貸し付けを行うことによってである。例えば銀行が会社に貸し付け,会社が借入金を預金から引き出してCBDCに替え,仕入れ代金や賃金を払うのである。

※5 わかりやすく言うと,銀行はすでにある預金を貸し付けに用いるのではなく,自分あての手形を切り,その手形を渡すことによって貸し付けているのである。

※6 これもわかりやすく言うと,銀行は金貨や銀貨で返してもらったならば自分の手元にそれを資産として確保するであろうが,この場合は,自分の手形を取り戻したので,それを廃棄するわけである。自分の借用証書を取り戻した人は,当然それを廃棄する。

※7 これは別にデジタル化された世界に限った話ではない。同一の通貨流通量では,預金通貨に対して現金通貨の割合が高くなると金融は引き締まる作用が働くのである。

※8 学問的論争の際に,学会で主流と長年認められている理論には敬意を払わねばならないことは,作法として私も認める。しかし,この論点に関する限り,主流派理論と信用貨幣論に基づく銀行論は根本的に異なっており,争わざるを得ないのである。

※9 主流派の考えは預金先行説・現金の貸し付け説ともいえる。この説の方が自然にイメージできるという方もいらっしゃると思うので,最後にこのモデルの問題点を指摘しておく。預金先行説は,最初の預金に使われる日銀券はどこから来たのかを説明することができない。これでは,個々の銀行の取引はモデル化できても,一社会全体の通貨流通のモデルにはなりえない。日銀券は預金がおろされたから存在しているのであり,その預金はなぜ新規に発生したのかというと銀行が企業に貸し付けたからである。そこをモデル化しなければならない。
 管理通貨制度であって仮に財政赤字はない条件を想定しよう。預金通貨は銀行が貸し付けることで創造され,貸し倒れにならない限り,返済によって消滅する(兌換はされない)。日銀券やCBDCは日銀当座預金が下ろされることによって銀行の手持ちとなり,銀行預金が下されることによって流通に入る。逆に,預金として預けられることによって銀行の手持ちとなり,日銀当座預金として預けられることによって消滅する(兌換はされない)。このように信用貨幣論の貸し付け先行説・手形の貸し付け説で考えることによって,個々の銀行の取引と一社会全体の通貨流通を整合的にモデル化することができるのである。

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年。

2021年11月27日土曜日

DCJPYはデジタル技術によるデビットカードサービスの付いた預金であり,新たなデジタル通貨ではない -誇大広告をやめ真の可能性を論じよう-

 1.新たなデジタル通貨?

 2021年11月25日の『日経』紙版の1面(13版)をかざったDCJPY(ディーシージェイピーワイ。呼びづらっ!)は,「デジタル通貨で企業決済」を実現するのだとうたわれている。円と並ぶような新たなデジタル通貨が出現するのだろうか。あるいは,円建てなのだけれど,日銀券でも硬貨でも預金通貨でもないデジタル通貨が出現するのだろうか。ホワイトペーパーを一読した限りでコメントしたい。

2.同一銀行内の支払ができる,デジタルデビットカード付き預金

 結論から言うと,現在開始されようとしているDCJPYはデビットカードをデジタル化し,付加的なサービスをつけたものである。ただし,送金ができるのは同一銀行の範囲に限られる。以下,説明しよう。
 まず思い出しておかねばならないのは,そもそも普通預金であれ当座預金であれ,預金自体がいまやコンピュータ上のデジタル化された存在だということである。そして決済が可能な預金は通貨の一種とみなされる。すでにデジタル通貨は存在しているのである。DCJPYも円建て預金の一種とのことなので,同じくデジタル預金通貨である。それはよい。ただし,これまでの預金通貨はアナログで,DCJPYはデジタル通貨だと言う話は成り立たない。
 DCJPYは確かにデジタル通貨である。ただし,いままでも存在しデジタル通貨の中に登場した新種に過ぎない。いままではアナログな通貨しかなかったところにデジタル通貨が新たに出現したということではないのである。
 さて,DCJPYは円建て預金の一種であり,通常の預金と引き換えに発行される。何が普通の預金と異なるかと言うと,A社がB社にDCJPYを使って払うと,双方が取引口座を持つX銀行内で決済される。そのスピードが速く,付加的な様々なサービスと結合しやすいのが売りとされる。このサービスの負荷とセキュリティに,ブロックチェーンを含むデジタル技術が活躍する。
 だから,預金自体は今までもデジタルであり,今後もデジタルなのであって,何も新しくない。通貨のデジタル化が起こるのではない。新しいのは,情報端末から簡単・迅速に支払い決済を完結させられることである。単純化したイメージでは,スマホなどの端末操作一つで企業間決済が完結するような仕組みであろう。DCJPYが行うのは,預金への支払指図のデジタル技術による効率化であり,わかりやすく言えばデビットカードのデジタル化である。そして,それを企業間決済にも使えるようにするというのである。
 ただ,ホワイトペーパーによれば,「現在は同一の銀行が管理するデジタル通貨口間の送金に限定しており,異なる銀行が管理するデジタル通貨口座間の送金については商用時を見据えて今後検討を続けていく予定です」(9ページ)となっている。つまり,同一銀行内の口座間決済にしか使えない。なので,ますます通貨と呼ぶには値しない。
 以上のように,DCJPYは同一銀行内の決済を,デジタル化されたデビットカードサービスが使える新種の預金なのであって,円と並ぶ新通貨でもなければ,アナログ通貨にとって代わるデジタル通貨でもなんでもないのである。誇大広告をしてはならない。
 DCJPYが同一銀行内で用いられるだけであれば,そもそも普及せずにしりすぼみに終わる可能性もある。成功するとすれば,それは顧客を事項のサービスに囲い込もうとする銀行間競争の手段になるだろう。

3.銀行間送金ができれば通貨になるか

 しかし,ホワイトペーパーが構想しているように,異なる銀行間での送金ができるようになればどうだろうか。そうなればDCJPYはまったく新しいデジタル通貨と言えるだろうか。これも答えはノーである。
 理由を述べよう。送金の送り手をA社,受け手をB社とする。そして,両者の取引銀行が違っていて,A社はX銀行,B社はY銀行と取引しているとする。A社はX銀行に預金としてDCJPYを持っている。これをDCJPYに送ろうとすれば,どうなるか。DCJPYは預金の一種であって現金ではないところがネックになる。
 現金ならば,そもそも銀行を介する必要はない。大規模な電子的決済システムをつくり,A社のスマホ内のデジタル現金をB社のスマホ内に移せばよい(※1)。しかしA社がX銀行に持つ預金である以上,これを引き落とした上で,X銀行からY銀行に送金し,Y銀行が受け取ると同時にB社のDCJPY口座に振り込むしかない。
 では,円建てDCJPYをどうやってX銀行からY銀行に送るのか。これは,通常の銀行間預金振り替えと全く同じで,日銀当座預金を使えばよいし,そうするしかない。新種の預金に対応した制度改正は必要だろうが,DCJPYが預金の一種である以上,原理的に不可能ではないだろう。
 だからDCJPYの銀行間送金は実現するかもしれない。しかし,実現したところで,それは単に新種の預金の振り替えであって,既存の通貨と異なるデジタル通貨が出現したわけでも何でもないのである。

4.DCJPYの真の可能性

 では,DCJPYの銀行間送金が実現したとして,それは何の意味もないものなのかというと,そうではない。銀行間の口座振替がスピードアップした上に,デジタル化されたデビットカードで簡単に送金できるようになるからである。新しいデジタル通貨が出現するわけではないが,飛躍的に便利なデビットカードはデジタル技術で実現する。これはこれで結構なことと言わねばならない。
 このことは,通貨と金融サービスのデジタル化の流れの中で,大きな意味を持つ。このデジタル化には二つの側面がある。一つは,まだデジタル化していない通貨がデジタル化することである。つまりは紙幣や硬貨と言った現金のデジタル化であって,これこそが本当の意味での新たなデジタル通貨の出現である。もう一つは,金融サービスの一丁目一番地である口座振替サービスがデジタル化することであって,DCJPYのようなデジタルデビットカードサービスがここに含まれる。
 通貨と金融サービスのデジタル化が進むとすれば,その最大の要因は中央銀行デジタル通貨(CBDC)である。CBDCの望まれる形は現金の電子化であり,100円玉や1万円札の代わりにスマホをつかってトークンを操作することである。これは預金には本質的にかかわりがない(※2)。預金は中央銀行でなく,各市中銀行の発行する通貨だからである。
 さて,ここで預金の取扱いをCBDCに負けないように便利にするためには何が必要か。預金自体は既にデジタル化されているから,そのスペックを上げる必要はあっても本質を変える必要はない。必要なことは,預金口座の利用の便宜をアップさせ,スマホなどからの簡便な操作で送金ができるようにする必要がある。スマホ操作で口座間送金をすること,預金をおろしてCBDCにすることや,またはその逆だ。もしDCJPYが発展すれば,これを実現することができる。CBDCと補完しあって,通貨・金融サービスのデジタル化を推進することができるだろう。とくに,使い勝手の良いCBDCができた場合は,CBDC,つまりデジタル化された現金取引が優位に立ち,預金通貨による口座振替が縮小することが予想される。DCJPYのような口座振替サービスのデジタル化は,預金通貨の側からこれに対抗するものとなるだろう。これが,DCJPYが持つ真の可能性であり,社会的意義である。

 そして,その新たな土俵の上で,個人や企業はDCJPYのような預金通貨と,CBDCすなわちデジタル化された現金とを使い分けるようになり,預金通貨と現金通貨の割合が変化するだろう。もしDCJPYのようなサービスが先行すれば預金通貨の割合が大きくなるし,もしCBDCが先行すればデジタル現金通貨の割合が大きくなるだろう。

5.結論

 DCJPYは,円に代わる新通貨でもなければ,これまでデジタル化していなかった通貨をデジタル化させるものでもない。デジタル技術によるデビットカードサービス付きの新種の預金である。そして,現在の構想ではそれは,同一銀行内の決済にしか用いられないものである。なのでしりすぼみに終わるかもしれないし,成長したとしても,その意義は銀行間の競争手段としてのものでしかない。
 しかし,もしDCJPYが銀行間送金を十分な範囲で可能にするならば,話は違ってくるかもしれない。それはやはり新種のデジタル通貨の出現ではなく,デジタル技術によるデビットカードサービスであるが,銀行システム全体の便宜を高め,CBDCを補完して通貨と金融サービスのデジタル化を推進する手段となる可能性がある。
 DCJPYの可能性を過大評価も過小評価もせず,誇大広告やミスリードなワーディングに惑わされないように見据えていくことが必要である。

※1 トークン型の中央銀行デジタル通貨(CBDC)はこのように取り扱える。それはトークン型CBDCが現金のデジタル化だからである。

※2 個人が直接中央銀行に預金を持つ「預金の中央集権化」としてのCBDC構想もあるが,いくつもの観点から適切でない。このことは,簡単には2020年7月15日の拙ブログ投稿,詳しくは2019年12月4日の拙ブログ投稿を参照してほしい。


「DCJPY(仮称)ホワイトペーパー」デジタル通貨フォーラム,2021年11月。

「中央銀行デジタル通貨(CBDC)再論:口座型は個人預金の準国営化という奇策であり,トークン型が合理的」Ka-Bataブログ,」2020年7月15日。

「中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき」Ka-Bataブログ,2019年12月4日

「デジタル通貨で企業決済 74社、来年にも まず電力売買 取引数秒・低コスト」『日本経済新聞』2021年11月25日。


2021年11月25日木曜日

MMTを含む信用貨幣論が「債務を増やす」というのは「手形を切ること」であり,「誰かの持っているお金を借りること」ではない:生産的討論のための解説

 MMTを含む信用貨幣論について議論すると往々にして食い違いが生じるのは,「債務を増やす」と言う時にイメージしている行為が異なるからだと思う。ここがボタンの掛け違いを生み,生産的な議論を困難にし,支持者と反対者が互いを非常識扱いするもとになる。この投稿は,この食い違いの理由を解きほぐした上で,信用貨幣論が「債務を増やす」ことをどのように理解してるかを説明することを目的としている。

 たいていの人は,「債務を増やす」と言う時に,「誰かが持っているお金を借りる」ことをイメージする。しかし,信用貨幣論が言っている「債務を増やす」とは,「手形を切る」ことである。信用貨幣とは,広範に流通することができて期限が特定されていない手形の一種である。

 手形を切って何ができるかと言うと,1)財・サービスを購入する,2)人を雇う賃金として支払う,3)手形をつかって貸し付ける,4)手形と別種の金融資産を交換することが可能である。

 既にこの世に存在していて,誰かが持っているお金を借りるのであれば,誰かが債務を増やしても流通する通貨は増えない。誰かが債務を増やそうとすればするだけ金融市場は需要超過になって金利は上昇する。

 一方,誰かが手形を発行し,その手形が受取人から別の人へと流通して通貨になるのであれば,債務が増えると流通する手形=通貨は増える。誰かが債務を増やしても金融市場は需要超過にはならず,直接には金利は上昇しない。ただし債務の信用度には高い低いがあるので,信用度が低くなれば金利は上昇する。

 「債務を増やす」とは主要には「手形を切る」ことだというのが,MMTを含む信用貨幣論の理解である。

 よく「MMTは無から有が生まれるように言っている」と非難する人がいるが,企業が商業手形を切り,銀行が銀行券を発券する時,商業手形や銀行券は無から生まれているのであって,それをおかしいという人はいない。同じように,信用貨幣論は,現代の通貨は手形なのであって,発行される時には無から生まれると言っているに過ぎない。

 もう少し具体的に言おう。手形を切って債務を増やすのは政府であり,中央銀行であり,民間の銀行である。政府が財政赤字を出して支出を行うのは本質的に上記分類の1)や2)であり,中央銀行が銀行に,銀行が企業に貸し付けを行うのが2)であり,中央銀行や銀行が国債や債券を購入するのが3)である。発行される手形とは、具体的には中央銀行当座預金、中央銀行券、民間銀行当座預金、現在日本にはないが民間銀行券である。

 信用貨幣論は「政府が財政赤字を出すと通貨供給量が増える」,「財政赤字は民間貯蓄を吸収しない」と主張している。この主張は,政府が「誰かが持っているお金を借りてきて支出する」と想定すると不合理に響くだろう。しかし,政府が「手形を発行し,手形で支払うことで支出する」と考えると理解できるだろう。

 信用貨幣論が,「銀行が貸し出しを増やすと通貨供給量が増える」,「社会全体では、預金量は貸し出しを制約しない」と主張するのは,銀行が「誰かが預けた預金をまた貸し出す」と想定すると不合理に聞こえるだろう。しかし,銀行が「預金と言う手形を発行し,手形で貸し付ける」と考えると理解できるだろう。

 MMTを含む信用貨幣論は以上のように考えている。支持者と批判者にはこの共通理解に立って討論して欲しいと思う。

※この話だけだとさらなる疑問が生じることはわかっているが,これ以上進むと少し専門的になるので,まずはここまでの話,つまり「すでに誰かが持っているお金を借りて来る」ことと「手形を切っている(振り出している,発行している)」ことのちがいをご理解いただきたい。より展開された論点については,別の機会に述べたい。一部は,これまでの私の投稿でも論じている。


2021年11月15日月曜日

行き過ぎた財政赤字が悪性インフレを招く理由は、「貯蓄を吸収するから」なのか:標準的マクロ経済学と信用貨幣論(MMTを含む)の対比

 *課題:財政赤字をどこまで拡大すると悪性インフレになるのか

 財政赤字とは,政府が債務を背負ってでも財政支出を拡大することを意味する。それが必要なのは,失業減少,景気回復や,市場メカニズムでは達成されない社会的目標の実現のために必要とされるからである。だから財政赤字には望ましい効果があるが,望ましくない効果もある。後者があまり大きくなった場合は,それ以上財政赤字を拡大すべきではない。望ましくない効果に含まれるのは,成長率を上回る金利による債務の発散,悪性インフレ(※1),バブル,為替レート急落である。ここまでは,ほぼすべての研究者,実務家にとって共通了解である。

 では,どのような時にこの望ましくない効果が表れやすいか。一番典型的な場合として,財政赤字をどこまで拡大してしまうと悪性インフレになるのか。この投稿では,この論点についての標準的なマクロ経済学と,私が依拠する信用貨幣論(MMT=現代貨幣理論もその一種)との違いを説明したい(※2)。


*標準的なマクロ経済学の見解:貯蓄を吸収し過ぎた時

 リンク先の齊藤誠教授の論稿「国家財政は破綻するのか、神学論争回避への提言 財務省・矢野次官の「財政破綻」投稿を考える」が指摘されるように,標準的なマクロ経済学は,「財政規律を遵守せざるを得ない」環境,もし遵守しなければ悪性インフレが生じてしまうような環境が生じるのは,国債発行が大量になりすぎて国内の貯蓄の多くを吸収してしまい,国債・貨幣需要が消えてしまう時だと考える。歪曲でない証拠に引用しておく。

「標準的なマクロ経済学が用意している解答は、「旺盛な国債・貨幣需要は、いつか消えてしまう」となる。(見出し替えをはさんで)おそらく、そのきっかけとなるのは、大規模な自然災害や経済危機が起き、国内の貯蓄水準をはるかに上回る財政支出をせざるをえない事態だろう。その結果、内外の金融市場で円建ての長短金利が跳ね上がり、国内の物価水準が高騰すると、それまで旺盛な国債・貨幣需要を支えていた要因が一挙に失われてしまう」。


*信用貨幣論(MMTを含む)の見解:財政赤字は貯蓄を吸収しない

 実は,ここに標準的マクロ経済学と信用貨幣論の違いがある。信用貨幣論のモデルでは,国債発行は民間貯蓄を吸収しない。正確に言うと,日銀に口座を持つ民間銀行が国債を引き受ける限り,貯蓄を吸収しないとする。そして信用貨幣論は,それが実務に即しても事実だと主張するのである。これは国債発行と財政のモデルの非常に基本的なところで両者が異なっていることを意味する。両者の議論がしばしばすれ違い,互いに相手を非常識扱いする物言いになりやすい理由は(※3),深いところでの前提が異なるからなのである。

 信用貨幣論の立場から,国債発行の仕組みを説明しよう。政府が国債を発行し,民間銀行がこれを引き受けると,政府への貸付金(国債という証券の代金)は,銀行が日銀に持つ準備預金から,同じく日銀に政府が持つ政府預金に払い込まれる。政府が財政支出を行うと民間の企業や個人がもつ銀行預金が増加する。企業や個人の預金が増えると,その分だけ銀行が日銀に持つ準備預金も増加する。このプロセスが完結してみると,銀行の準備預金は増えても減っておらず,財政赤字の分だけ通貨供給量は増え,そして民間全体の預金も増えている。従って金利上昇圧力は,国債発行と政府支出のタイムラグによるもの以外は発生しない。ただし,法人や個人が手持ち現金を増やし,また銀行が手持ち現金を増やそうとすれば,準備預金はその分だけ減額される。以上である。

 この説明は何ら特定の価値判断によるものではなく,単に実務に即した事実である。しかし,国債発行で民間貯蓄が吸収されるという標準的マクロ経済学の説明とは異なっている。標準理論は,この事実をどう受け止めるのかについて説明を求められると,私は思う。


*政府は「既にあるカネを借りる」のではなく「手形を切る」

 しかし,日常感覚からすると上記の説明は不思議に思われるだろう。なぜ政府がお金を借りるのに,借りるもとでになるはずの民間貯蓄が減らないのか。貸す側のお金が減らずに借りる側のお金が増えるのは変ではないかと感じる人が多いだろう。この疑問に対する信用貨幣論からの答えは,ここで起きていることの本質は「既に存在するカネを借りる」ことではなく,「手形を切ること,その手形が流通すること」だということである。政府の赤字支出とは手形を切る行為であり,管理通貨制度下の通貨流通とは,手形(信用貨幣)が流通している状態なのである(※4)。

 ただし,日本の統合政府は日銀と政府の二つからなっており,政府は直接に政府手形を発行するのではないから,お金の流れはやや複雑である。政府が小切手または日銀券で赤字支出を行うことが,いわば政府手形による支払に相当する。このとき,政府の債務は増える。企業や個人は政府が支出した分だけ預金という銀行に対する債権を増やす。振込先となった民間銀行では,預金者宛ての債務と,日銀向けの債権が同時に増える。日銀から見れば準備預金と言う名の債務が増える。これが本質的なプロセスである。単純化して言えば、統合政府が手形を切って支払いを行って債務を増やし,民間部門が統合政府に対して持つ債権も増えたのである。

 しかし,日本では発券集中が行われており,しかも国債の日銀引き受けは禁止されている。そのため,政府は,直接に自己名義の手形を切れず,同額の日銀債務証書を入手して自己の支出の裏付けとしなければならない(※5)。だから国債を発行する。銀行がこれを引き受けると,銀行が持つ準備預金は増えるのではなくプラスマイナスゼロになる。こうして全プロセスが完結する。

 いささか複雑であるが,このように財政赤字=政府債務増とは,「発行された手形が流通する」ことであるから,発行された分だけ通貨供給量を増やすし,貯蓄を吸収はしないのである(※6)。


*民間貯蓄の規模は財政赤字の限界を画さない。では何が画すのか

 したがって,信用貨幣論によれば,民間貯蓄の規模は,財政赤字の限界を画さない。ここが標準的マクロ経済学との相違点なのである。齊藤教授が指摘されるように,1995年以降の超低金利環境は現金や国債に対する需要を旺盛なものにしていた。その分だけ消費需要や投資需要が盛り上がることがなく,景気はなかなか回復しないが悪性インフレにもならないような状態が続いてきた。これが齊藤教授の言う「財政規律を棚上げにしてもできる」環境である。齊藤教授が依拠される標準的マクロ経済学は,この「財政規律を棚上げにできる」環境から「「財政規律を順守せざるをえない」環境への移行を画すのが民間貯蓄の枯渇だと考えるが,信用貨幣論はそれは関係ないというのである。

 しかし,民間貯蓄の枯渇が関係ないとすれば,何が関係あるのだろうか。これは信用貨幣論の側が問われる問題である。1990年代後半以来,日本政府は財政赤字を拡大してきたが,悪性インフレは発生しなかった。その理由は「民間貯蓄が豊富にあったから」ではないとすれば,何なのだろうか。これまでの条件と何がどう変化すると悪性インフレが発生し得るだろうか。

 さしあたり理論的には,第一に,「政府の課税能力に対する信認」には関係あるとするのが妥当であろう。債務は全額返済する必要はないが,コントロール可能でなければならない。課税能力に対する信認が失われると通貨への信用も失われ,悪性インフレとなる。第二に,財政支出と動員可能な生産能力・経営資源の関係である。財政支出が過大であり,程よく生産を刺激するのではなく,生産能力や経営資源が追い付かない状況となれば悪性インフレとなる。この場合,総量として追いつかない場合も,ボトルネックが生じて重要物資が不足して価格が特別に高騰し,生産や生活の危機が生じる場合もあり得る。貯蓄というカネが枯渇することは問題ではないが,機械や原料や労働力というモノが足りないことは問題なのである(※7)。第三に,海外との相対価格の変動によって原燃料輸入価格が高騰し,それを財政支出による需要刺激が実現させてしまうような場合である。この場合は価格ショックが生じるが,景気の実物的要因との関係では,良性インフレが維持されることも悪性インフレになることもあり得る。1990年代以来の日本では,以上の三点までは生じていなかったため,悪性インフレは生じなかったのだと考えられる。逆に言えば,この三点での悪化が疑われると悪性インフレは起こりうる。

 いずれにせよ,「財政規律を棚上げにできる」環境から「「財政規律を順守せざるをえない」環境への移行を画す要因の理論的・実証的分析は,低成長期突入以後,これまでの日本経済を総括するためにも,今後の日本経済において,景気・雇用,インフレをにらみながら財政政策のあり方を決めていくためにも重要な課題である。信用貨幣論の立場からも解明していかねばならない。ただし,悪性インフレ以前に,財政支出が景気回復と良性インフレを刺激できなかった理由の解明,逆にこれができるようになる条件の解明も必要であることは言うまでもない(※8)。

※1 悪性インフレとは,所得や雇用を拡大する効果がなく,物価だけが引き上がっていくようなインフレのことである。良性インフレとは,その逆である。端的に好況を反映したインフレと,インフレと好況の量循環を刺激するようなインフレである。

※2 ここでは信用貨幣論をより包括的な概念とし,MMTをその一種としている。私はマルクス派信用貨幣論に依拠しているが,本稿の論点についてはMMTと同意見である。念のため記しておくと,私の信用貨幣論とMMTが異なる点は大きくは二つである。一つは,私は金本位制度などにおける正貨は価値物であり,信用貨幣論が全面的に妥当するのは管理通貨制度の下でであると考えるが,MMTはすべての通貨制度について信用貨幣と見なす傾向があることである。もう一つは,私は中央銀行は統合政府の一部であると同時に銀行資本が発展した「銀行の銀行」であると見ており,その信用が銀行原理に依拠している度合いを高く見る。MMTは根本では「信用ピラミッド」論によりこの考えを採用しているように見えるのだが,具体的な議論になると統合政府論を強く主張し,中央銀行を政府の一部と見る傾向が強いと思う。

※3 ただし,齊藤教授は冷静に理論的な説明をされている。だからこそ,碩学にコメントすることにためらいはあったが,ここでとりあげたのである。

※4 ちなみに,日銀の信用供与とは,日銀が日銀当座預金と言う自分の債務証書を用いて貸し付けを行う行為である。そして,その債務証書が流通するのが,日銀当座預金を用いた銀行間の支払決済であり,銀行と政府預金との間での支払い決済である。

※5 国債の代金を振り込んでもらうならば,「既に存在するカネを借りる」のではないかという指摘があるかもしれない。しかし,そうではない。準備預金(日銀当座預金)はマネタリーベースを構成するが,マネーストックを構成しない。まだ流通に出て行っていない,そのいみではまだ流通内に存在しないお金なのである。銀行の持つ準備預金が政府預金に移動しても,通貨供給量は変動しない。

※6 なお,国債は銀行からさらに転売される。転売により生損保など日銀に口座を持たない金融機関や年金基金,民間企業や個人によって購入された分については,貯蓄が吸収される。しかし,ここで言いたいのは,このような機関投資家や個人が購入する以前の銀行引き受けの時点において金融はひっ迫せず,民間貯蓄が枯渇したから銀行が国債に応札しないという因果関係は存在しないということである。生損保や年金基金が国債を購入するかどうかはポートフォリオ選択の問題である。なお,2021年6月末の国債保有割合は日銀48.2%,銀行等14.7%,生損保等20.6%,海外7.2%,その他9.2%である(財務省サイトにおける速報値)。

※7 発展途上国が経済危機に陥ると,この最初の二つの要因によるインフレが起こりやすい。その際も,標準理論の立場からはしばしば「貯蓄不足」が指摘されるが、信用貨幣論から見れば,この場合もカネとしての貯蓄が不足しているのではなく,政府の課税能力と,モノやヒトとしての資源を動員する能力が不足しているのである。

※8 この課題はMMTを含む信用貨幣論にとって重要なものだと私は思う。しかし,なぜか日本におけるMMTの政治的支持者たちは,従来の政権下で悪性インフレが生じなかった理由についてはあまり探求せず,単純に政府の財政支出が少なすぎたからだと決めつける傾向がある。私は,これは行き過ぎた単純化だと思う。同規模の財政赤字であっても,インフレを起こさないか,良性インフレを起こすか,悪性インフレを起こすかは支出内容や様々な経済主体の振る舞いとの関係による。これらを研究しておくことは,MMTの政治的支持者が,MMTに依拠した財政政策を実施しようとするときにも重要なはずである。

<参考>

齊藤誠「国家財政は破綻するのか、神学論争回避への提言 財務省・矢野次官の「財政破綻」投稿を考える」東洋経済ONLINE,2021年11月2日。

2021年11月12日金曜日

第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」動画できました

 第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」(2021年11月6日)動画できました。最初の方は同じ画面が続きますが,5:23付近から始まります。

※2023年7月9日。リンク修正しました。

リンク
https://www.youtube.com/watch?v=GeE6_lIjFbw







2021年11月5日金曜日

大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」11月6日13:30YouTube Live配信です。

 明日11月6日の大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」YouTube Live配信は13時30分よりこちらのサイトからの模様。スライドもダウンロードできます。

https://www.festa-tohoku.org/?page_id=1964

11月13日追記。模擬講義終了。録画された動画は以下で配信されています。

https://youtu.be/AKotBfeM5Zs





2021年11月4日木曜日

総選挙の結果について:経済政策はどうなるか。コロナ禍での経済的苦境は反映されたか

 経済政策の面から見ると,今回の総選挙で大きな意味を持つのは維新の躍進ではないかと思う。自民がさほど減らず,維新が躍進したことで,経済政策はより新自由主義=小さな政府路線に傾く可能性が高くなったからだ。実は自民党は,小泉内閣の時を除くと新自由主義一本やりではない。アベノミクスは超金融緩和路線であったし,安部・菅内閣ともコロナ禍では財政を拡張するよりなかった。それに比べると,維新の方がはるかに新自由主義だ。他の面はおいておいて,経済政策は維新の方が「右」なのだ。

 維新の躍進が経済政策への積極的支持を意味するとは断言できない。むしろ政治の次元で,あまりに実行力と説明がない自民党内閣に対する批判票を集めたのだろう。少し長い目で見ると,前回の選挙で希望の党に集まった保守二大政党への期待が維新に集まったともいえるかもしれない(※)。だが,少なくとも,維新の新自由主義路線は全体として有権者に拒否されなかった。年代別投票先の報道を見ると,維新は30-50代に支持されており,他の党が若年ほど支持される(自民,国民),高齢ほど支持される(立民,共産),どの年代も同じくらい(公明)であるのとはっきり異なっている。これは,ビジネスパースン層に支持されているとみてよいのではないか。ビジネスパースン層の相対的上層は,成長重視と自己責任論,行政の無駄排除を説く維新になじみやすいのだ。

 総裁選で分配重視,新自由主義からの転換を言った手前,岸田首相も給付金や子育て支援を口にせざるを得ない。景気がどの程度回復するかも政策を左右する。しかし,時間とともに,経済政策は財政の全体としての引き締め,大企業支援,個人生活の自己責任路線に傾くだろう。

 対する立民・共産・社民・れいわは,これに対抗する格差是正,社会的支え合い,経済のボトムアップ路線をはっきり掲げて政権交代まで訴えたが,全体として遠く及ばなかった。実は,2017年総選挙と比べると立民は伸びているので,少し長い目で見れば,格差是正を求める勢力が弱まっているわけではない。しかし,少なくとも強くもなっていない。立民はこの間,国民民主の多くを統合して議員を増やし,その上で経済政策を「左」へとシフトさせた。しかし,その勢力を維持できなかった。

 2017年と今回では,経済政策を考えるうえで大きく異なることがある。まず客観的にはコロナ禍に突入して,仕事と収入を失う人が増えたことだ。そして政党の側では,分配重視・格差是正をはっきり掲げて選挙に臨んだことだ。にもかかわらず,この政策が有権者の多数に届かなかったのだ。

 では,この格差是正路線を一番届けるべき人々,大まかにいうとコロナ禍で仕事と収入を失った非正規労働者や自営業者の投票行動はどうなっていたのか。両者で違いもあるだろう。自民や維新に多く投票したのか。それとも,投票しなかったのか。その理由は何か。残念ながら今の私にはわからない。しかし,このことの解明が,今後の政治を見通すうえで重要だ。なぜなら,遺憾ながら政治が転換しない限り格差と貧困は拡大し続け,それに苦しむ人の数は増えこそすれ,減りはしないからだ。格差是正勢力が学ぶべきこともここにあると,私は思う。

※今回の選挙だけ見れば「第三極」への期待なのだろうが,むしろ「保守の中で選択肢が欲しい」という期待であろうと私は思う。保守なのは変わらないが,自民党が失政続きの時は別のところに入れたいという人は少なからずいる。


2021年10月23日土曜日

コロナ禍においては「分配なくして成長なし」は相対的に正しい:総選挙にあたって(2)

 コロナ禍においては「分配なくして成長なし」は相対的に正しい。

 総選挙前には,立憲民主党も岸田首相も「分配なくして成長なし」と言っていたが,岸田首相と自民党の政策はどんどんあいまいになり,金融所得課税も給付金も約束されずにスローガンは「成長と分配の好循環」に変わった。そして,『日本経済新聞』は10月になってから成長政策の不足を強調し,また訳知り顔に「成長なくして分配なしが常識だよ」という人もいる。だが,本当にそうなのか。

 抽象的な長期の一般論としては,所得を増やして分配しないと1人当たり所得は増えないという話は正しい。しかし,抽象的に正しいことが,今この瞬間の具体的な状況で正しいとは限らない。

 「分配なくして成長なし」は漠然とした一般論ではなく,いまがポストアベノミクス期であり,コロナ不況が続いていることを念頭に置いた不況対策のスローガンであることに注意しなければならない。私の意見では,いまこの瞬間の不況期には「分配なくして成長なし」は,ある意味では正しいし,別の意味では正確ではないが,少なくとも「成長なくして分配なし」よりは正しいと思う。

 ポストアベノミクス期でありコロナ禍である現在,不況の何が問題か。それは,まともな仕事の減少である。失業や,一時休業(シフト減少含む)や,労働市場からの退出が増えて,所得が減っていることであり,自営業の売り上げが激減して自営業主の生活が脅かされていることである。何より非正規労働者と自営業者の仕事と所得が大きく減っていて,その家族とともに生活を脅かされている。先ずこの問題を解決しなければならない。

1.再分配を行えば次期には成長する

 生活危機にある人々は,所得が増えれば必ず多くを支出する。変えなかった生活用品を買い,払えなくなりそうだった家賃やローンや学費を払い,控えていた病気治療を行い,営業を立て直すために必要な支出をするからだ。

 対して,コロナ禍で苦しいことはあっても所得が激減したわけではない高所得層は,所得がさらに増えたりところで支出を増やさず,いくらか減ったところで支出を減らさない。これは昨年の10万円給付金の結果,家計貯蓄が激増したことで明らかだろう。眠り込んでいる貯蓄も多い。

 ということは,発生が見込まれている所得について,政府が再分配を強化すればどうなるか。高所得者から低所得者に移転させ,中所得者には中立とすれば需要は増えるだろう。眠り込む貯蓄が減り,消費が増えるからだ。

 このように,格差と貧困が拡大している社会で所得の再分配を強化することは,それだけで次期の所得を増やすだろう。再分配した方がしないより成長するのであって,その意味では「分配なくして成長なし」は正しいのである。これを否定するために「成長なくして分配なし」と難癖をつけるのは,不況対策を誤らせ,生活危機を放置するに等しい。

2.まともな雇用を増やせば分配と成長は同時に改善する

 不況期には労働力が完全に利用されていない。完全失業率が他の先進国より常に低い日本でも同じである。非正規雇用者の労働時間が切り詰められたり,専業主婦や高齢者が家庭と非正規の職を行き来し,労働市場から退出して所得減に耐えているから,失業率が低くても労働力は遊休しているのだ。世界的にも,コロナ禍では労働市場からの退出と参入延期が増えているから,失業率だけでは労働力活用度は測れなくなっている。

 さて,不況対策は失業を減らすためにある。不況対策は,成長率を上げること自体のためにやるのではない。そう決めつけて「ケインズ的政策は古くて無効だ」と非難する人が市場優先主義者にもエコロジストにもいるが誤解または曲解である。本来のケインズ理論による不況対策とは,まともな雇用を増やして失業や不安定就業を減らし,完全雇用を目指すことである。したがって資本主義が自由放任では失業を失くせない限り,必要である。

 雇用を増やして失業や不安定就業が減れば,当然,当人たちの所得も経済全体の所得も増える。失業者やシフトが大幅に減っていた労働者は困窮しているのだから,その人たちの賃金所得が増えれば,必ず格差も緩和される。つまり,不況対策で雇用を創造することは,経済を成長させると同時に分配を改善するのである(※)。

 逆に言うと,不況対策はこのように行われねばならない。もしも不況対策が,雇用をつくらず,不安定就業を改善せず,ただ一部の業界の企業利益ばかりが増えるように行なわれれば,経済は成長するが分配は改善しない。しかもアベノミクス期の教訓として,企業利益を増やしたところで,企業は個人消費が停滞していることを知っているので新規投資を行わずに企業貯蓄を眠らせる。そして,個人間の所得格差が拡大すると,高所得層は所得増分を低所得層ほど消費しない。

 この意味で,不況対策は,「分配と成長の同時達成」にも「成長だけ」にも「成長したが分配悪化」にもなりうるのである。「分配なくして成長なし」は確かに正確ではないが,分配を重視し,「分配が同時に起こるような成長」を目指すことは理に適っている。「成長なくして分配なし」と難癖をつけてまず成長だけ考え,分配のことは今重視しなくてよいという態度は,まともな仕事を増やさず,「成長だけ」あるいは「成長したが分配悪化」を招きかねない。この意味でも「分配なくして成長なし」の方が「成長なくして分配なし」よりは適切な政策を期待できるのである。

 以上のように不況期,ましてポストアベノミクス期とコロナ禍で分配を重視することは適切なのであり,分配政策の強度と内容は総選挙の重要な判断基準なのである。

 分配を重視する野党(共産,社民,れいわ,立民,国民)の政策が真にこれに適っているかどうかはなお検討の余地があるが,方向性としては妥当である。分配政策をどんどんあいまいにし「成長の方が大事だ」と煙に巻く自民の方がおかしいのだ。

※この論理の詳しい説明は松尾匡『この経済政策が民主主義を救う』大月書店,2016年を参照。


2021年10月17日日曜日

分配重視を効果的にすすめるためにボトムアップで:総選挙にあたって

 選挙公約の経済政策に対する考え方をおおまかに。与党・野党とも分配を重視するのはいいのだが,いくつか注意すべき,また投票に当たって留意すべき点があると思う。

 まず,コロナ禍で誰が苦しんできたか。画像中の表は橋本健二教授が作成されたものだが,コロナ禍の経済的影響は不均等であり,誰よりも非正規労働者と自営業者が苦境に立っている。救済は,社会階層としてはこの二つの部分,所得水準では低所得者に重点を置かねばならない。



 次に,これまでのコロナ対策はどう作用したか。低利・無利子融資等の金融支援,給付金などの財政支援は確かに家計・企業を救済する作用を持った。しかし,とくに一律10万円の給付金と企業への優遇融資は,家計と企業に貯蓄(主要部分が現預金)を積み上げる一方で,真に苦境に陥っている家計・自営業者を救済できていないので,十分に効果的で公正とは言えない。そして企業は,金融・財政支援を受けても,まだ投資をためらっている(「コロナ対策は何をもたらしたか:信金中央金庫地域・中小企業研究所のレポートを手掛かりに」2021年5月16日投稿。)。

 これらを踏まえると,分配を重視する緊急対策では,1)苦境にある低所得者に支援が届くことが必要であり,2)財政支出を消費や投資に直結させねばならず,貯蓄積み上げに帰結させないことが大事である。給付金や減税や助成金が,低所得者,非正規労働者,自営業者に届けられる分には,その効果は十分見込める。しかし,昨年から手元現預金を積み上げている高所得層や,コロナの直撃を受けてない業種の企業にお金を渡しても,経済全体への効果は限られる。

 とすれば,いま各党から提案されている減税や給付金については,以下のことに注意して評価しなければならない。

 所得税減税は,高所得層ほど1人当たり減税額が大きいという意味で恩恵が大きい。低所得者は逆で,課税対象でないほどの低所得者だと減税額はゼロになってしまう。しかも,高所得層ほど減税分を支出せずに貯金・貯蓄に回すので,需要への効果は限られる。

 その意味では,消費税減税の方が,減税額の大小については所得税と同じであるものの,低所得層にも効果が及ぶという点ではベターだ。

 対して,一律給付金は,どの所得層にも同じ金額という意味では誰にも等しく恩恵がある。しかし,低所得層の生活を支えるのに十分なほどの金額を一律支給すれば,高所得層は,同じ金額を得ても昨年と同じく消費せずに貯蓄を増やすだろう。その分はすぐには需要にならずに眠り込んでしまう(これは恒久的なベーシック・インカムの是非とは別の話だ)。

 つまり,減税と給付金を,いま無造作に行ってもうまくいかないので,組み合わせ方を工夫するか,累進性を持たせるなどの傾斜をつけることが必要になる。与野党とも,この点をどこまで考えぬいているのかが問われる。

 続いて財政負担の問題。いずれにせよ緊急対策では財政赤字をを増やさざるを得ないし,それ自体は円建てである限りは問題ない。しかし,貯蓄に回ってしまったり,雇用と所得を改善せずに偏った需要を生み出すような財政支出は無駄であり有害である。無駄に赤字をふくらませれば,悪性インフレとバブルへの圧力を生み出す一方で,政府がそれに対抗する力を失うからだ。

 少しややこしいが,インフレと言っても,景気回復を反映するインフレならば問題ない。低所得層がひといきついてのボトムアップで景気が回復し,先行き不安を解消した企業が生産と雇用を拡大し,それで価格と賃金がともに上がるならばいい。しかし,財政がおかしなところに作用すると,悪性インフレや,最悪スタグフレーションになりかねない。原材料価格高騰だけが実現してしまい消費が伸びない「価格革命下のスタグフレーション」(高齢者は70年代をご記憶だろう)や,株価バブル,住宅バブルなどになっては困る。これらが起こると,政府は拡張も引き締めもできなくなり,政策が綱渡りを強いられる。なので,景気回復は,トリクルダウンでなく,確実なボトムアップにすることが必要で,そのためにも低所得者重視の方がよい。ボトムアップになるような政策であるかどうかが肝心だ。

2021年9月27日月曜日

「親ガチャ」の背後にある現実:ヒオカ氏の記事に寄せて

 「親ガチャ」をめぐる議論について,もっとも納得できたのは,シェア先のヒオカ氏のものだった。「人生の成果は、ベース×本人の努力だろう」(引用)という言葉を手掛かりに,私なりの表現に置換えて述べる。

 「ベース」には本人が選べない環境があり,そこにはマクロ的なものからミクロ的なものまであるが,それを,いつ,どこの,どんな家庭に生まれたかということに収斂させれば,今話題の「親ガチャ」という表現になる。

 戦後の日本では,1980年ごろまでは「ベース」で決まってしまう部分が縮小し,「本人の努力」や,生まれて以降の運で決まる部分が拡大していった。「ベース」自体が「本人の努力」を後押ししてくれたと言ってもよい。つまり社会の流動性が広がっていった。ある瞬間には階級や階層があるのだが,生きている間にその境目を望む方向に越えて行ったり,自分は無理でも次世代では越えることが可能であった。例えば農民の子どもが大企業のサラリーマンになって「旧中間階級」が次世代には「新中間階級」になることが増えて行った。

 ところが1980年代を境に所得と資産の格差が拡大しはじめ,しばらくすると,二つのことが目立ってきた。一つは,ある瞬間を見ても,「一億総中流」ではなく「新中間階級」「労働者階級」「アンダークラス」の差があると感じられるようになってしまったことだ。ホワイトカラーの管理職や専門職と,正規の販売員や工場労働者の所得は結局は違っていたし,非正規労働者が絶対的にも割合としても増えて行った。

 もっとも,非正規労働の問題は,最初は深刻と受け止められなかった。その主力は1980年代までは,夫と言う主要な稼ぎ手を家庭内に持つパート主婦だったからであり,また非正規労働が増えても完全失業者はさほど増えなかったからだ。しかし,1990年代以後,非正規の低い賃金で家計を切り盛りする層が徐々に拡大し,状況が違ってきていることが認識され始めた。明らかに好き好んでやっているわけではない,例えば普通の事務員や販売員やサービス員(なのに身分だけ非正規),中高年フリーター,シングルマザー,年金が少ない高齢者,といった非正規労働者が増えてきた。

 もう一つは,社会的流動性が弱まり,すくなくとも高資産・高所得が次世代も高資産・高所得とし,低資産・低所得が次世代も低資産・低所得にする関係が目立ってきたことだ。資産・所得により子どもにかける教育費用や教育意欲が異なるからだ。さらにはなはだしいことに,21世紀になるとアンダークラスは未婚率が高く,それ故に子どももつくらないという事実が明らかになった。日本は,格差や貧困が世代を越えない社会から,格差や貧困が再生産される社会に変わってしまったのだ。

 苦しい境遇を「ベース」が決める度合いが強まり,「本人の努力」で逆転できない場合が増えている。若者は,あるいは自分の家庭のから,また嫌でも入ってくる情報から,そう考えざるを得ない。これが「親ガチャ」と言う言葉の背景にある現実だろう。最後に再びヒオカ氏の表現を借りるならば,「環境のせいにするな」と説教してすむ状態ではない。必要なのは「自分の問題は自分だけの問題ではなく、環境の影響があって、社会問題なのだ」という認識を広げていくことだ。さもなくば,日本社会の分裂は広がる一方だろう。

※なお,本当にそこまで深刻なのかという方には,橋本健二教授の『アンダークラス』(ちくま新書,2018年)や,とくに氷河期世代にフォーカスした『アンダークラス2030:置き去りにされる「氷河期世代」』(毎日新聞出版,2020年)などで,具体的な数値にあたって確認されることをお勧めする。

シェア先

ヒオカ「「親ガチャ」論争で気になる上から目線、真に語るべき貧困再生産の深刻」DIAMOND ONLINE,2021年9月24日。

2021年9月26日日曜日

関係者はぜひ活用を:渡邉真理子 ・加茂具樹・川島富士雄・川瀬剛志「中国のCPTPP参加意思表明の背景に関する考察」

 これほどまでにどんぴしゃりのタイミングで,政策関係者に大いに役に立つペーパーが出ることは滅多にないだろう。誰もが知りたいことがちゃんと書かれている。例えばこのあたり。

「中国が正式にCPTPP 加入申請をするのであれば、次のように考えている可能性がある。つまり、①国有企業章については、現行の適用除外、例外および留保、とりわけ地方政府所有国有企業留保を活用すれば大きな支障がない、あるいは CPTPP 加入交渉時により幅広い国別留保を獲得することが可能であると考えている。②電子商取引章についても CPTPP 全体に適用される安全保障例外の活用を考えている。以上 2 点については、このように楽観的に考えている可能性が高い一方、③労働章の規律を受け入れる準備があるのか大いに疑問が残る。」(30ページ)

 私もこの研究プロジェクトの隅っこに一応いるので,著者の先生方が以前からこの話をしているのをちらちら横目で見ておりました。ただ拍手です。

渡邉真理子 ・加茂具樹・川島富士雄・川瀬剛志「中国のCPTPP参加意思表明の背景に関する考察」RIETI Policy Discussion Paper Series 21-P-016,(独)経済産業研究所,2021年9月。




2021年9月20日月曜日

川端望・銀迪「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」の公表に寄せて

 銀迪さんとの共著「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」が掲載された『アジア経営研究』第27号が発行されました。このテーマで科研費の申請をしたのが2016年の秋ですから,論文にするまで5年を要したことになります。今回は,現実の事態が紆余曲折を伴って進行していくときに,それを学問的に把握することの難しさに突き当たり,結果として現実の方が一段落ついたところでまとめることができました。現時点(2021年9月)では,この研究対象に関して最も詳しい事例研究であり,より広く中国の産業政策のあり方にも一石を投じている論文であると自負しています。

 J-Stageに登載されるまで少し時間がかかるため,編集委員会の許可をいただき,大学サイトでPDFを公開いたしました。

こちらからご利用ください

  なお,本稿はRIETIプロジェクト「現代国際通商・投資システムの総合的研究(第Ⅴ期)」の成果であり,RIETI Discussion Paper Series, 20-J-038の完成形です。







2021年9月14日火曜日

高炉・転炉を新設すると座礁資産になりかねないか

 アメリカに拠点を置くNPO,Global Energy Monitorのレポート。このNPOは何と世界中の製鉄所の動向をトラッキングするデータベースを構築している。そして,6月に発表されたレポートによれば,温室効果ガスの低排出製鉄技術が予測されるペースで商業規模に達した場合,鉄鋼業界は大規模な座礁資産(Stranded asset)を抱え込むことになるという。つまり,環境規制の下で資産価値の大幅低下が生じるのである。レポート作成時点で計画または建設中の高炉・転炉法による生産能力は,インドで少なく見積もって300万トン(※),中国では4367万5000トン。それらが座礁資産となることによるリスクはインド30-45億ドル,中国437-655億ドルである。当然,他の国においても,高炉・転炉法による一貫製鉄所に投資しようとする限り,このリスクは存在する。

 確かに,高炉・転炉への投資のタイミングが遅ければ遅いほど,また低排出製鉄技術の実用化が早まれば早まるほど,このリスクは高くなる。このレポートが両者について時期をどう想定しているのか精査する必要があるが,この視点自体はきわめて重要であり,鉄鋼業関係者が今後常に意識しなければならないことである。

※この他,高炉,転炉,電炉,平炉などが混在しているプロジェクトが2600万トン確認されているので,実際には高炉・転炉法の建設はもっと多く計画されている可能性が高い。

Caitlin Swalec and Christine Shearer, Pedal To The Metal: No Time To Delay Decarbonizing The Global Steel Sector, Global Energy Monitor, June 2021.


2021年8月10日火曜日

2021年8月3日火曜日

「目の前には資本主義しかない」:ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』は何を語るか

 ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』みすず書房,2021年。本書は,骨太な現代資本主義論であり,様々な角度から検討すべき論点を含んでいる。一度に整理できないので,何度かに分けてノートしたい。

 まず今回はタイトルについて。現代はCapitalism, Alone: The Future of the System That Rules the Worldである。このメインタイトルに「だけ残った」というニュアンスはあるのだろうか。「だけ残った」というのは,端的に「社会主義が消えて」ということのように思えるのだが,本書の趣旨は「残った」と言う「過去から現在へ」の視線ではないと思う。副題が示すように,「現在から未来へ」の視線で資本主義を捉えているのだ。直訳すれば「資本主義だけがある」であり,ニュアンスとしては「資本主義だけの世界」「資本主義しかない現実」「ただ資本主義だけが存在する、いま」ではなかろうか。

 われわれの目の前には資本主義しかない。なぜなら中国も資本主義だと著者は考えているからだ。資本主義の主要なタイプを著者は「リベラル能力資本主義」(liberal meritocratic capitalism)と「政治的資本主義」(political capitalism)に二分する。一方において,著者はいわゆる西側の資本主義国における従来の分類,たとえばアングロサクソン型,ライン型などの分類をとらず,アメリカを代表として欧米先進諸国はみなリベラル能力資本主義であるとする。さほど明確に述べていないが,日本もここに含まれるのだろう。他方において,著者は中国は資本主義であり,政治的資本主義の典型であると断言する。そして,シンガポール,ベトナム,ビルマ,ロシアとコーカサス諸国,中央アジア,エチオピア,アルジェリア,ルワンダにも政治的資本主義が存在するという。

 ここで著者は資本主義について独特な定義をしているのではなく,マルクスとヴェーバーによって,社会で生産の大半が民間所有の生産手段を用いて行われ,労働者の大半が賃金労働者であり,生産や価格設定についての決断の大半が分散化した形でなされているのが資本主義だというだけである。だから著者にとっては,アメリカも市場経済化した中国も資本主義なのだ。

 二つの資本主義には違いもある。リベラル能力資本主義は,古典的資本主義や社会民主主義的資本主義と区別されるものである。キャリアが才能ある者に開かれているという点で「能力主義」であり,社会的移動性が存在するという意味で「リベラル」とされる。しかし,リベラル能力資本主義は,資本主義一般と同じく不平等をもたらす傾向がある,その上二つの独自性,つまり資本所得の金持ちが労働所得の金持ちでもあること,金持ち同士が結婚することにより,いっそう不平等を強化するのだという。他方,政治的資本主義は,支配政党やイデオロギーがどうあれ資本主義である。ただし政治的資本主義は「優秀な官僚」「法の支配の欠如」「国家の自律性」というシステム的特徴を持つのだという。こちらにも不平等はあるが,システムに独自な問題はむしろ腐敗である。

 目の前には資本主義しかない。ただし,大きな違いを持つ二つのタイプの資本主義がある。そして,資本主義しかないことそれ自体はしばらく変わらないだろうが,二つのタイプの資本主義には,重点は違えどともに不平等と腐敗という問題があり,それぞれ独特の矛盾も存在する。二つの資本主義が,今後はどのような資本主義になるかは,いろいろな選択肢があり得る。ただし,資本主義とはいずれもエリート層が支配するものであるから,その変化とは,効率の良いものへの自動的変化ではない。エリート層が,あるいはその支配に対する他の人々が,自らの立場を貫徹しようとする選択と行動の結果である。

 以上は本書が描く大まかな世界像の紹介である。あえて言えば,邦題によって,とくに私を含む一定以上の年齢層の読者が「資本主義しかないよなあ,そうだよなあ,しかたないよなあ。社会主義って何だったんだろうなあ」という本だと思い込んでしまわないための紹介である(そういう話もあるがメインではない)。そうではなく「気がつけばどこを見てもおおむね二つの資本主義しかないんだけど,一体,これからどうしろというんだ」という本なのだ。だから面白い,と私は思う。もちろん,面白いということと,著者の分析に賛同するということは異なる。考察と評価は,他日を期したい。

https://www.msz.co.jp/book/detail/09003/

2022年8月4日追記:読み終えてのノート
「資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』最終章によせて」Ka-Bataブログ,2022年8月4日。






2021年7月16日金曜日

脱炭素時代に日本鉄鋼業はどう変わるか(『Value One』No.73,株式会社メタルワン,2021年7月15日掲載原稿)

  メタルワン社の広報誌『Value One』No.73,2021年7月に寄稿した原稿を,許諾を得て公開します。

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脱炭素時代に日本鉄鋼業はどう変わるか

 2020年から2021年にかけて,日本の地球温暖化・気候変動に対する取り組みは新段階に突入した。すなわち,日本政府は2050年カーボンニュートラルを宣言し,温室効果ガス(GHG)排出を2030年度に2013年度比46%削減するという目標を設定したのである。地球温暖化対策推進法も改正され,「我が国における2050年までの脱炭素社会の実現」が明記された。これらの目標は,パリ協定に基づく取り組みに立ち遅れた日本がキャッチアップを図るものであるが,鉄鋼業にとっては,これまでよりレベルの高い脱炭素の方策を迫られることを意味している。

 すでに高炉メーカー3社は2050年カーボンニュートラル達成を方針化しており,コミットメントを明確にしている。問題は,カーボンニュートラルやゼロカーボンを達成するための様々な技術が様々な段階にあり,かつ全体としてまだ見通しがついていないことである。当面どのような既存技術を用い,中長期にはどの技術をどのようなペースで開発し,どのように組み合わせて実機化するかの戦略的な選択が求められている。

 現在,革新的高炉用原料であるフェロコークス,部分的水素還元とも言うべき革新的高炉技術COURSE50が開発中であるが,直接のCO2排出削減効果は10%にとどまる。そのため,さらなる超革新技術の開発も求められており,水素還元比率を向上させるSuper COURSE50,さらに石炭を用いない水素直接還元製鉄が構想されている。しかし,COURSE50でさえ実機化されるのは2030年とされており,次々世代技術の開発にはいっそう時間がかかる上,不確実性も伴う。開発を進めるとともに既存技術も活用するのが現実的な方法であって,CO2排出原単位の低い電炉法の適用を拡大することが不可避である。日本製鉄が大型電炉での高級鋼製造を目指すと明言したことは,柔軟な技術ミックスへの第一歩となろう。

 カーボンニュートラル,そしてゼロカーボン実現をめざして変化するのは製鉄技術だけではない。再生可能エネルギーによる電力のゼロエミッション化はもちろん,廉価な水素の大量製造,CCS/CCU(二酸化炭素回収・貯留・利用)の実用化など関連技術の発展,それとの結合が必要である。したがって,鉄鋼事業と他の事業との連結性にも変化が生じる。すでにヨーロッパで鉄鋼メーカーと電力会社との提携が始まっているように,業種を超えたプロジェクトが有効となるだろう。

 制度設計に由来する課題も発生する。一方において,鉄鋼業はカーボンプライシングや排出キャップの設定という政策課題に向き合わねばならない。また,製造プロセスからのCO2排出が残る間は,カーボンニュートラルのためにオフセットへの取り組みが必要となる。他方において,鉄鋼業の立場からは,水素還元という未踏の領域に挑むための公的支援,またエコプロダクトや海外へのエコソリューションの貢献を排出削減にカウントする手法と制度が求められるだろう。

 事業が変化し,事業と事業の連結性が変化し,制度が事業を必要とする。地球温暖化防止への取り組みが,鉄鋼業の姿と境界線を変えていくだろう。そこに,商社の貢献すべき空間も生まれる。温暖化防止が人類的課題となった時代の経営理念を探ること。GHG排出削減と事業発展が両立するビジネスモデルを構想し,鉄鋼業と関連産業の融合を図ること。GHG削減の貢献が制度と市場で評価されるような,ファイナンスや取引の仕組みを作ること。やるべきことは多い。カーボンニュートラルに貢献しながら付加価値を生み出していくための,事業創造が求められるのである。



2021年7月15日木曜日

Book review: Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020

Matthew C. Klein and Michael Pettis, Trade Wars Are Class War: How Rising Inequality Distorts the Global Economy and Threatens International Peace, Yale University Press, 2020 (The reviewer read the Japanese version translated by Eri Kosaka, published by Misuzu Shobo). This book has two theoretical backbones. One is "The General Theory of Employment, Interest and Money" by J. M. Keynes. The other is "Imperialism" by J. A. Hobson. Especially the author respects the latter. The book opens with a quote from Hobson, and the preface praises Hobson's insights.

 Why Hobson? Using the examples of China and Germany (and with Japan in mind), the author unravels the secret of the persistence of current account surpluses by using the term I-S balance, but differently than in conventional macroeconomics.

 The logic of the book, with some interpretation of mine, can be summarized as follows.

 A persistent savings surplus cannot be explained as the result of individuals saving and depositing. It should be seen as the result of the suppression of consumption in the country due to distributional inequality.

 The persistent current account surplus cannot be understood from the perspective of merchandise trade itself. First, excess savings are invested outward. Excess savings is what Hobson calls an "excess capital”. They create excess demand as unhealthy investment projects are carried out abroad. Excess demand, in turn, creates excess exports at home. Capital exports support commodity exports, not the other way around.

 Therefore, it is essential to raise people's income and revise inequality in countries with current account surplus, such as China, Germany, and Japan, to eliminate structural imbalances. Such measures increase domestic consumption and eliminate excess savings. This solution is just what Hobson emphasized.

 The arguments in this book are clear and persuasive. In particular, the reviewer thinks that the perspective of excess capital leads to meaningful insight. First, capital with no domestic investment destination is invested overseas, and then the purchasing power generated by that investment leads to commodity exports. This perspective reverse traditional thinking that commodities are exported first, and then the surplus is invested overseas. This book gives us a new approach to analyzing the world economy based on macroeconomic balance.

 Of course, some points need to be reconsidered. The emphasis on the active role of outward investment from surplus countries may lead to undervaluation of the role of financial institutions and corporations in organizing investment for unsound projects in deficit countries, such as the United States. Theoretically speaking, excess savings wandering around in search of investment is not a sole financing measure for investment. Money creation by bank loans is also an important measure.

 In addition, the author may be torn between the view that "investment generates the same amount of savings" and the view that "volume of saving limits investment." 

 However, even those questionable points are stimulant for readers. This book makes us aware of the importance of these theoretical issues to analyze the current world economy. It will be the mission of subsequent studies to solve the remaining puzzles.




マシュー・C・クレイン&マイケル・ペティス(小坂恵理訳)『貿易戦争は階級闘争である:格差と対立の隠された構造』みすず書房,2021年を読んで

 マシュー・C・クレイン&マイケル・ペティス(小坂恵理訳)『貿易戦争は階級闘争である:格差と対立の隠された構造』みすず書房,2021年。本書を理論的に導くのはJ・M・ケインズ『雇用,利子および貨幣の一般理論』とともにJ・A・ホブスン『帝国主義論』,とくに後者である。私が勝手に言っているのではない。本書冒頭にはホブスン(訳書表記はホブソン)からの引用が掲げられ,序文ではホブスンの洞察力が称えられている。

 なぜホブスンか。著者は,中国とドイツを例に(日本も念頭に置いて),経常収支黒字が継続することの秘密を,I-Sバランスの用語を用いて,ただし通常のマクロ経済学とは異なる仕方で用いて解き明かしているのだ。

 本書の論理を,多少の解釈を加えて強引に要約すると以下のようになる。

 継続的な貯蓄余剰は,個人がせっせと節約して預金した結果としては説明できない。分配の不平等により,その国の消費が抑圧された結果と見るべきである。

 継続的な経常収支黒字は,商品貿易それ自体からでは理解できない。まず過剰貯蓄が対外投資される。ホブスンの言う「資本の過剰」である。それによって不健全な投資プロジェクトが海外で実行されることで超過需要が生まれ,それによって自国の輸出超過が生じる。資本輸出が商品輸出を支えるのであって,逆ではないのだ。

 したがって構造的不均衡をなくすためには,中国,ドイツ,日本など経常収支黒字国での賃金抑圧をはじめとする不平等な分配を改善して国内の消費を高め,過剰貯蓄を解消することが不可欠である。これもホブスンが強調したことにほかならない。

 本書の主張は極めて明快であり,説得力は強力だ。とりわけ,「まず商品が輸出され,その黒字が海外投資される」のではなく,「まず国内に投資先のない資本が海外投資され,そこで生み出された購買力が商品輸出をもたらす」という視点は,マクロバランスに基づく世界経済分析を刷新するものだと思う。

 むろん検討すべき点はある。経常収支黒字国側の対外投資の能動的役割を強調し過ぎると,アメリカを代表とする経常収支赤字国の側において,不健全なプロジェクトへの投資を組織する金融機関と企業の役割を過小評価することになるかもしれない。理論的に言えば,投資をファイナンスするのは,投資先を求めてさ迷う貯蓄だけではない。信用創造を通した借り入れによる通貨膨張によってもファイナンスされるはずだ。さらに言えば,著者は「投資が同額の貯蓄を生み出す」と見る見地と「現存する貯蓄が投資の量を制約する」という見地の間で迷っているようにも見える。

 しかし,これらの問題点すら読者の思考を刺激してくれる美点である。これらの理論的諸問題が現状分析にとって持つ重要性に気づかせてくれること自体が,本書の功績なのだ。残されたパズルを解くのは後に続く研究が負うべき使命である。



2021年7月1日木曜日

『未来をつくる!日本の産業(全7巻)』ポプラ社のうち2巻を産業学会が監修しました

 『未来をつくる!日本の産業(全7巻)』ポプラ社刊。一体何事だとお思いでしょうが,産業学会で「4 軽工業」と「5 重化学工業・エネルギー産業」の2冊を監修したのです。でも,私がやったわけではなく,他の理事の先生が苦労されました。

出版社サイト
https://www.poplar.co.jp/book/search/result/archive/7223.00.html





2021年6月27日日曜日

川端望・銀迪「現代中国鉄鋼業の生産システム: その独自性と存立根拠」を『社会科学』(同志社大学人文科学研究所)に発表しました

 同志社大学人文科学研究所発行の『社会科学』誌に,院生の銀迪さんとの共著論文を発表しました。極度の鉄鋼オタク論文ですが,一応,生産システムの理論的考察を深めたつもりです。また実証的には,21世紀初めの中国鉄鋼業の爆発的成長は大型高炉一貫システムだけによって担われたものではなく,むしろその中心には,中低級品の需要に対する中小型高炉一貫システムによる供給があったこと,誘導炉によるインフォーマル極小ロット生産も相当な寄与をしていたことを明らかにしました。それは技術水準が低かったことをあげつらっているのではなく,その逆で,これらの中小型システムが需要に応えたのだから経済的には合理的だったと評価しています。

 次の問題は,企業・産業レベルで視た場合にはどのような企業が鉄鋼生産を担っていたかということです。そして,このように建設用を中心とした中低級品の需要に民営企業が応えようとしていた時に,政府が実行した産業政策はどのような目的と内容を持ち,どのような役割を果たしたかです。これらは,銀さんが主要著者となって論じる予定で,前者はディスカッション・ペーパー,後者は学会報告までできています。私は,これらの研究が論文として仕上がるように,ここからは支援に徹します。


川端望・銀迪(2021)「現代中国鉄鋼業の生産システム: その独自性と存立根拠」『社会科学』51(1), 同志社大学人文科学研究所,1-31。 

こちらが続編のDP版
銀迪・川端望(2021)「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造 ―巨大企業の市場支配力と小型メーカーの成長基盤の検証―」TERG Discussion Paper, 452, 1-34。



2021年6月15日火曜日

日本製鉄における国際競争の論理:伸びる市場と縮む市場

  日本製鉄の橋本英二社長が中国鉄鋼業との競争の厳しさを盛んに訴えているが,日本国内では反応が鈍い。これは,他の産業と異なり,中国製鋼材に日本市場にあふれているわけではないからだろう。実は,中国政府自体も貿易摩擦を警戒するのと脱炭素のため,鉄鋼輸出を抑制しているの現実だ。

 それでは中国鉄鋼業との競争とは虚構の煽り文句なのかというと,そうではない。中国製品が海外にあふれるというのとは違う形で起こっているのだ。以下のグラフでお分かりの通り,コロナ以前から鉄鋼需要は中国とインドで伸びていて,日本やその他の地域計では伸びていない。そして,中国とインドの鉄鋼業は,すでに伸びた需要の分を国産化するくらいの競争力は持っている。ということは,他国の鉄鋼業が,拡大する中国とインドに割り込みにくくなっているということである。しかし,それ以外の地域は成長していない。これが,中国およびインド鉄鋼業との競争である。

 この壁を超える方法はクロスボーダーM&Aである。つまりインドか中国で生産拠点と販売ルートを手に入れてしまえばいい。しかし,中国は鉄鋼業への過半数出資禁止を解除したばかりであり,政治情勢から見ても入りにくい。だからこそ日鉄はアルセロール・ミタルと共同でインドのエッサールを買収して,AM/NS Indiaを設立したのである。これにより合弁ながら粗鋼生産能力960万トンを獲得した。一方,コロナ危機を経て日本では2025年度までに1000万トンを削減すると発表している。瀬戸内製鉄所(旧呉製鉄所)は丸ごと廃止され,九州製鉄所八幡地区小倉(旧小倉製鉄所)も非一貫化する。鹿島も高炉1基が止まる。伸びる市場を獲得し,すぼむ市場からは足を抜いていく。日鉄の目指すところは国内生産4400万トン,海外生産5000万トンという内外逆転である。



『産業学会研究年報』第36号刊行

 『産業学会研究年報』第36号,発行されました。今号は,査読制度改革後の最初の号です。「招待論文」「投稿論文」のそれぞれの性格を明確にしました。また書評選考プロセスを改革し,NDL-ONLINEを用いて会員著作を見逃さないようにしました。論文10本,書評15本が掲載されています。

 編集委員長になってから3冊目を無事に発行出来て一安心です。なお,昨年発行の第35号はJ-Stageで公開されました。
■ 招待論文
□ ふくしま医療機器クラスターの現状と課題,今後の動向(石橋毅)
■ 投稿論文
□ 日本における介護ロボットの普及課題-ビジネス・エコシステムの視点に基づいて-(北嶋守)
□ 医療機器におけるAM技術の普及-中小製造業を事例にして一(藤坂浩司)
□ テスラの事業戦略研究・序説(佐伯靖雄)
□ カーエレクトロニクス部品の国内需要に関する試算-産業連関表におけるデバイス製品からの推計-(太田志乃)
口 自動車部品ビジネスにおけるトップ・セールスの有効性について-人脈による企業間関係構築の媒介性と速度感の視点からの考察-(宮川正洋)
□ 日本の法人向け自動車販売における企業間関係(岸田淳)
□ 周辺地域における航空機部品受注と次世代航空機への対応一秋田県を事例として一(山本匡毅)
□ ファーストリテイリングのSDGsに向けての未来戦略(畑中艶子)
□ デザイン経営における感性のマッチング-岩手県内中小企業における実験的取組みに基づく実証研究からの考察-(三好純矢・近藤信一)
■書評
塩地洋・田中彰編著『東アジア優位産業:多元化する国際生産ネットワーク』中央経済社,2020年3月(赤羽淳)
前田啓一・塩地洋・上田曜子編著『ASEANにおける日系企業のダイナックス』晃洋書房,2020年10月(肥塚浩)
明石芳彦『進化するアメリカ産業と地域の盛衰』御茶の水書房,2019年3月(川端望)
公文溥・糸久正人編著『アフリカの日本企業:日本的経営生産システムの移転可能性』時潮社,2019年3月(小林哲也)
中島裕喜『日本の電子部品産業』名古屋大学出版会、2019年2月(佐伯靖雄)
山﨑朗編著『地域産業のイノベーション・システム:集積と連携が生む都市の経済』学芸出版社,2019年2月(松原宏)
奧山雅之『地域中小製造業のサービス・イノベーション : 「製品+サービス」のマネジメント』ミネルヴァ書房,2020年5月(山﨑朗)
加藤秀雄・奧山雅之『繊維・アパレルの構造変化と地域産業 : 海外⽣産と国内産地の行方』文眞堂,2020年8月(杉田宗聴)
赤松裕二『フルート製造の変遷 : 楽器産業の製品戦略』大阪公立大学共同出版会,2019年11月(中道一心)
久保隆行『都市・地域のグローバル競争戦略-日本各地の国際競争力を評価し競争戦略を構想するために-』時事通信社、2019年1月(杉浦勝章)
李澤建『新興国企業の成長戦略: 中国自動車産業が語る"持たざる者"の強み』晃洋書房,2019年11月(上山邦雄)
石鋭『改革開放と小売業の創発:移行期中国の流通再編』京都大学学術出版会,2020年3月(田中彰)
十名直喜『人生のロマンと挑戦 : 「働・学・研」協同の理念と生き方』社会評論社,2020年2月(熊坂敏彦)
中瀬哲史・田口直樹編著『環境統合型生産システムと地域創生』文眞堂,2019年3月(中山健一郎)
日野道啓『環境物品交渉・貿易の経済分析 : 国際貿易の活用による環境効果の検証』文眞堂,2019年12月(堀井伸浩)

2021年5月21日金曜日

銀迪・川端望「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造 ―巨大企業の市場支配力と小型メーカーの成長基盤の検証―」を公表しました。

 ゼミ生の銀迪さんが第一著者のディスカッション・ペーパーを発刊しました。このペーパーは,私を第一著者としてまもなく『社会科学』(同志社大学人文科学研究所)に出る論文と対をなし,高成長期中国鉄鋼業の生産システムと企業・産業構造を論じます。画像は本稿の分析枠組みを示すもので,6ページに掲載されています。



銀迪・川端望(2021)「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造 ―巨大企業の市場支配力と小型メーカーの成長基盤の検証―」TERG Discussion Paper, 452, 1-34。



2021年5月19日水曜日

Q&A 管理通貨制下における信用貨幣・現金・貨幣的インフレーション

 学生との対話用メモ。

Q:「管理通貨制のもとでは債務が正貨で返済されない」「債務をより信用度や通用性の高い上位の債務に置き換えて返済することしかできない」とはどういうことか。それでは債務はどこまでいってもなくならないのではないか。

A:債務を返済する際に,管理通貨制のもとではそれ自体価値を持つ金貨や銀貨(=正貨)で返すことができない以上,返すときも債務証書しか使えません。自分が誰かに100万円借金をしている時,貸しては自分の100万円の債務証書(借用書)を持っています。これを返すときに,自分の借用書100万円を書いて,「これで返すから」と言っても「馬鹿か」と怒られます。しかし金貨で返すわけにもいきません。そこでどうするかというと,自分よりは信用度が高く,流通性のある債務(証書)で返すわけです。すなわち,預金への振り込み(銀行の債務)100万円か,日銀券(日銀の債務証書)100万円です。これなら貸し手は受け取ってくれるでしょう。かわりに私は自分の100万円の債務証書を取り戻し,無効化して(破って捨てていい)終了です。これが「債務の返済の時には,より上位の債務(証書)で返す」ということであり,別の言い方をすると「貸し手が持つ自分の債務証書を,より上位の債務(証書)と引き換えに取り戻す」ということです。

Q:債務をより上位の債務で返済するのはいいとしても,一番上位の債務はどうやって返済するのか。具体的には,金兌換が停止されると,中央銀行の債務は返済されないことになるが,それで問題は起こらないのか。返済されない債務証書である中央銀行券が,どうして現金として使えるのか。

A:金兌換が停止されているので,中央銀行や一般政府よりも上位の債務は一国内にありません。なので,上位の債務に置き換えて支払うということができません。
 では,中央銀行が債務を負って,返済しなければならないときに問題は起こらないのはなぜか。具体的には,金に換えられない中央銀行当座預金や中央銀行券が使用されるのはなぜか。これは非常に大きな問題です。
 その理由は,第一に,債務証書は,「発行人に対する債務の返済に使える=発行人の債務と発行人の債権は相殺できる」ことによります。私がAさんから100万円借りているとして,何かのはずみでAさんが別のどこかで発行した100万円の借用証書を手に入れたら,それをAさんに渡すことで私の返済は完了するでしょう。同じように,中央銀行券や中銀当座預金は,少なくとも中央銀行からの債務の返済に使えます。そして第二に,中央銀行券や中銀当座預金は,そもそも中央銀行が銀行に貸し出すときに発行されているので,銀行にとって中央銀行への返済に用いることができるのは,非常に大きな意味を持つのです。第三に,中央銀行は広い意味の政府の一部なので,中央銀行券や中銀当座預金は一般政府への支払い=納税にも使えるということです。この三つの事情が,金と交換できない中央銀行券や中銀当座預金が支払い手段であり得る根拠です。そして,この支払い手段としての成り立ちを基礎にして,中央銀行券は一般的支払い,つまり日常用語でいう現金払いにも使える流通手段にもなってるのです。
 しかし,中央銀行券や中銀当座預金は正貨と異なり,それ自体が価値を持っているわけではありません。そのため,減価=貨幣的インフレーションを起こすことがあり得ます。

Q:貨幣的インフレーションとはどういうことか。

A:中央銀行債務が財・サービスに対して過大に供給されることにより,その一単位当たりが代表する価値量が減少することです。財・サービスに対する需要超過で生じる価格上昇とは理論上は区別されます。

Q:貨幣的インフレーションはどのような時に起こるのか。

A:貨幣的インフレーションは,中央銀行-銀行ー企業の貸し出し・返済のシステムを通した通貨供給ルートでは,通常は起こりません。民間経済に供給される主要な通貨は銀行の預金通貨であり,それを下ろした場合に必要な中央銀行券ですが,これらは経済の必要に応じて貸し出されるし,返済によって消滅するからです。つまり内生的に供給されるからです。これに対して,一般政府ー企業・家計の財政支出・課税のシステムを通した通貨供給ルートでは,一般政府の政策により通貨が外生的に供給されます。そのため,財政赤字によって通貨が供給されると貨幣的インフレを起こす圧力が生じます。貨幣的インフレが生じるかどうかは,その通貨供給が財・サービスの生産を拡大するかどうかと,供給された通貨が財・サービスの購入に向かうかどうかに依存します。

Q:どういう場合には何が起こるのか。

A:まず,財政支出が生産を刺激すれば,財・サービスの量が増えるのでインフレ圧力は相殺されます。赤字を伴う財政政策で景気が回復した場合などはこれに当たり,生産の拡大とゆるやかな物価上昇が生じます。この時の物価上昇が貨幣的インフレなのか需要超過による価格上昇なのかを区別するのは難しくなります。
 赤字財政支出が生産を刺激せず,しかし供給された通貨は財・サービスの購入に向かえば貨幣的インフレーションが生じます。景気が過熱して生産余力がないときや,戦争直後など生産力が壊滅しているときに,財政支出で雇用や経営を支えようとすると起こることがあります。
 財政支出によって供給された通貨が,財・サービスの流通を媒介せずに預金や手持ち現金のまま遊休したり,金融資産の購入に向かってしまう場合もあります。遊休や金融的流通に向かっている通貨は貨幣的インフレ圧力をもたらしませんが,需要も増加させません。財政赤字を増やしても人々の預金が増えるばかりであったり,景気が回復しないのにバブルになってしまうことなどをイメージしてください。
 なお,供給された通貨が金融的流通に向かうのは,中央銀行-銀行-企業という供給ルートでも起こり得ることにも注意が必要です。企業が金融資産購入のためにお金を借り入れるとこれが起こります。


2021年5月16日日曜日

コロナ対策は何をもたらしたか:信金中央金庫地域・中小企業研究所のレポートを手掛かりに

 信金中央金庫 地域・中小企業研究所から発行された峯岸(2021)は,この1年間の新型コロナ対策をマクロ経済政策として評価する上で,貴重な分析を提供してくれている。このレポートを基礎に,コロナ対策の家計と企業への影響を整理してみた。なお,峯岸(2021)が主に使用した日銀『資金循環統計』から部門別資金収支の推移を表すグラフを貼り付けておく。このグラフが全体状況を最も集約的に表現しているからだ。


1.一般政府は赤字国債発行で財源を賄ったコロナ対策により,大幅に債務を増加させた。日銀や政府の資金供給・財政支出はマクロ的には相当な影響力を持っていた。

2.家計は,全体としてみれば資産を増加させている。その主要因は預金増である。雇用者報酬は減少したが,これを上回る消費減+経常移転(給付金等)+社会給付(雇用保険給付,生活保護等)+税・社会負担の減があったからだ。峯岸(2021, pp. 6-8)はこの関係をはっきりと示している。
 しかし,失業者は29万人増加,休業者は80万人増加し,とくに非正規労働者,低所得者の状態は悪化している(総務省「労働力調査」)。零細自営業者,フリーランスも業種により苦境に直面している。よって,家計内部に格差が進行している恐れがある。

3.企業は,休廃業は増加しているものの倒産は増えておらず,現時点で全体としては大規模資金ショートは起こしていない。そして,意外にも金融資産を増加させた。なぜそうなったのかについて,峯岸(2021, pp. 12-15)の記述を再構成すると,次のように言えると思う。
 企業利益は縮小したが,赤字により内部留保積み上げがマイナスになることはなかった。一方,設備投資や運転資金への投下は縮小したので,投資のために負債を増やす必要はなかった。にもかかわらず,企業は金融支援を活用して,世界金融危機時に比べても借入金を大幅に増やした。一方,世界金融危機時と異なり,借り入れを上回る返済に追われてはいない。そのため,調達した資金の多くは手持ち現預金として積み上げられている。一部は金融資産購入に充てられているが,過去数年と比べて大きくはない。大企業では,M&Aを含む関係会社株式購入が従来の趨勢の延長線上で生じている。

4.以上からコロナ対策の影響を総括しよう。低利・無利子融資等の金融支援,給付金などの財政支援は確かに家計・企業を救済する作用を持った。しかし,家計と企業に貯蓄(主要部分が現預金)を積み上げる一方で,真に苦境に陥っている家計を救済できていないので,十分に効果的で公正とは言えない。そして企業は,金融・財政支援を受けて「投資をためらい,現預金を積み上げ,一定のM&Aを行う」という,アベノミクス期の延長線上での動きをしつつあるのだ。

峯岸直輝(2021)「日本の経済主体別にみた資金需給と金融資産・負債の動向」『内外経済・金融動向』No. 2021-2,信金中央金庫地域・中小企業研究所,1-23。




2021年5月12日水曜日

新ウルトラマン(現:ウルトラマンジャック)はいつ初代ウルトラマンと別人になり,いつウルトラ兄弟になったのか

 『帰ってきたウルトラマン』最大の謎。それは,なぜ「帰ってきたウルトラマン」なのに初代ウルトラマンと別人なのか,逆になぜ別人なのにウルトラマンが「帰ってきた」ことにされているのかである。さらに,その設定はいつからできたのか,当時の視聴者は別人だと認識していたのか,ウルトラ兄弟という設定はいつできたのかという事である。

 この度,白石雅彦氏『「帰ってきたウルトラマン」の誕生』を上梓されたことで(画像),私はこのタイトルと別人設定の謎がついに明かされるかと期待していた。結果,確かに明かされたはしたが,その経過は期待したほど詳細には書かれていなかった。前作『「怪奇大作戦」の挑戦』までは事実確認のためにふんだんに用いられた上原正三氏の手帳が,1971年以降の分について未発見だからだろう。『帰ってきたウルトラマン』は,その名の通り以前に地球で戦ったウルトラマンが帰って来るという企画であり設定であった。なのにウルトラマンが別人になった次期は詳細不明であり,企画担当の満田かずほ氏もクランクイン直前まで考えていなかったこととしている。「そもそもウルトラマンが帰って来たという設定であったため,スーツは前のデザインで制作されていた。デザインの変更は,版権営業上の問題である」(136-137ページ)。版権を扱う会社,日音から「新しいウルトラマンが出せれば新たな契約ができる」(満田氏。137ページ。ただし『帰ってきたウルトラマン大全』からの引用)という話があったとのこと。まったく資本主義な大人の事情である。放映開始は1971年4月2日,クランクインは2月6日というから,たいへんな泥縄だったと言えるだろう。しかし,これが「ウルトラ兄弟」という設定を可能にしたのだから,何がどうなるかわかったものではない。


 では,これを視聴者はどう認識していたか。ここから個人的回想となる。

 『帰ってきたウルトラマン』は,私が最初にリアルタイム放映で視聴したウルトラシリーズであった。ときに1971年4月,小学校に入学する年のことであった。まだ眼鏡をかけていなかったので,ちゃんと子どもに見えた。自宅にあったのは白黒テレビであった。当時の私は上記の謎をどう認識していたか。

 まず,そもそもインターネットも何もない時代,『帰ってきたウルトラマン』についてのまとまった事前情報を得られた唯一のルートは,子ども向け雑誌であった。私の場合,小学館の『小学二年生』であった。なぜ1年生なのに2年生向けの雑誌を読んでいたかというと,話はやや寄り道して前年の秋に遡る。幼稚園児だった私は,小学館の『幼稚園』ではなく講談社の『たのしい幼稚園』を買ってもらっていたが,ある時,書店で『小学二年生』が欲しいと言い張った。理由は,『たの幼』には載っていない『ドラえもん』が載っていたからである。すでに虫コミックス版『オバケのQ太郎』全12巻を読みつくしていた私は,藤子不二雄先生の次のマンガ『ドラえもん』に目を付けたのだ。さんざせがんで手に入れた『小学二年生』には,確か『ドラえもん』「人間あやつり機」が載っていた。今になって調べてみると,1970年10月号だったようである(発売は9月1日)。この成果に味をしめた私は,その後も『小学二年生』をねだり続けた。そして,1971年の初めに,『帰ってきたウルトラマン』の記事を見たものと思われる。放映前に,第1話についての記事を読んだ記憶がある。タッコング,ザザーン,アーストロンの3体の怪獣が出ることを知っていたし,「タッコングに食いちぎられ,ザザーンは死んでしまいます」という文面が記憶にある。ウルトラマンが出る前に死んでしまうのが妙に悲しく心に残ったのだろう。

 そうして1971年4月2日,第1話『怪獣総進撃』放映。記憶の混濁があるかもしれないが,主観的には「君にも見えるウルトラの星」という歌詞がたいへん印象的だったことを覚えている。問題は,このときに『帰ってきた』ウルトラマンが,以前のウルトラマンと別人だとすでに認識していたことだ。「あれ,模様が違うけど別のウルトラマンなのか」と思ったことは一度もない(別人という情報がなければ,理屈っぽい私がおかしいと言って回らないはずがない)。ということは,『小学二年生』で別人だとすでに知っていたという事になる。しかし,どのように知ったのか。長年,漠然とした考えはあったのだが,確証が持てなかった。

 手掛かりは,2003年に出た『ウルトラ博物館』にあった。これは小学館の学習雑誌にかつて掲載されたウルトラシリーズに関する記事を復刻した,大人のおもちゃもきわまれりという本である(ので当然,買っている)。残念ながら放映開始直前の『小学二年生』4月号や5月号は再録されていないが,『小学一年生』1971年4月号の記事が再録されていて,そこでは「まえのウルトラマン」「こんどのウルトラマン」のデザインが対比され,別人であることが示されている。おそらく他学年の雑誌でも同様の特集が組まれていたことだろう。だから私も周囲の子どもたちの相当部分も,放映前に「帰ってきたウルトラマンはウルトラマンと別人」と認識していたのだ。なにしろ,当時,低学年の小学生には,学習雑誌の影響力はたいへんなものであった。

 では,別人はよいとしてウルトラ兄弟という設定はいつできたのか。テレビの放映画面内でウルトラセブンが登場するのは8月6日放映の第18話「ウルトラセブン参上!」であり,その後,12月24日放映の第38話「ウルトラの星光る時」に初代ウルトラマンとウルトラセブンが登場する。この時,はじめて「初代ウルトラマン」という呼称が番組内で使われた。番組内においては,この時点で初代ウルトラマンと新ウルトラマンが別人であることがはっきりしたことになる。だが,ここまでは「ウルトラ兄弟」という呼称は登場しない。この呼び名が初めて番組内に登場するのは1972年3月31日の第51話=最終回「ウルトラ5つの誓い」であり,光の国侵略を狙うバット星人の口からである。

 しかし,ウルトラ兄弟という情報は,実は相当早くから流されていた。少なくとも私は,最終回よりも第38話よりも早く,ゾフィ―,初代ウルトラマン,ウルトラセブン,新ウルトラマンは兄弟,ただし血はつながっていないと認識していた。その理由について長い間,記憶に自信がなかったのだが,『ウルトラ博物館』に『小学二年生』1971年8月号(7月1日発売)の記事が再録されていたために,この情報の起源に確証が持てた。「ウルトラセブン参上!」放映以前で,まだベムスターの存在が明らかにされていない時点で発売されたこの号で(※1)「ウルトラマンにはきょうだいがいますか」「います。M78星雲で生まれた四人きょうだいです」と断言されていたのである(画像)。新ウルトラマンを「いちばん下のおとうと」と書いているところは私の記憶のとおりであり,まちがいなくこれを読んでいたのだ。ついでに「アーストロンはゴーストロンのおにいさんです」「シーゴラスはシーモンスのおむこさんです」,「ペギラはチャンドラーのおにいさんです」というささいな情報まで記されていた。同書収録の満田氏インタビューでは「ウルトラ兄弟の設定については学年誌が先行した企画ですね。そうした扱いをしたいとの問い合わせが当時の『小学二年生』の井川編集長からあってね,こちらとしては『まあいいでしょう』とご返事しました。ただ『本当の兄弟ではない』ことのエクスキューズは出してもらうようお願いしたと思います」とある。ウルトラ兄弟とは,『小学二年生』のアイディアだったのであり,私はその設定が明らかにされた最初の出版物を目にしていたのだった。


 それでもわからないことはある。まず,この7月時点での情報は,『小学二年生』以外でも展開されていたのかということだ。子どもたちのうち小学2年生だけが「ウルトラ兄弟」とか言い出せばおかしなことになるので,広く情報は流されたのではないか。他の学年誌では流されたのか。『週刊少年サンデー』や『別冊少年サンデー』は使われたのか。これはまだわからない。また,この『小学二年生』には血はつながっていないということは書かれていない。私は,この情報は別のところで得たことになるが,それに初めて触れたのがどこであったかはどうしても思い出せない。2017年に出た『学年誌ウルトラ伝説: 学年別学習雑誌で見る「昭和ウルトラマン」クロニクル』小学館によれば,「4人を血の繋がった兄弟と設定したことに対し、円谷プロから抗議を受けた」「そこで『小学三年生』同年11月号で「ほんとうのの兄弟ではないけれども,とてもなかがよいので,みんなはこの4人のことを,4兄弟と呼んでいる」と修正を加えつつ、「ウルトラ兄弟」の名称を推し出していったという。なので「本当の兄弟ではない」は後から流された情報なのだろう。しかし,『小学三年生』を読んだ記憶はないので,私は何か別のソースから得たのだと思う。『小学三年生』11月号と同時に他のメディアでも展開されていったのだろうか。これはまだ謎である。

※1 兄弟紹介記事の下には「『帰ってきたウルトラマン』にはうちゅう怪獣や,星人が,出て来ないのですか」という質問に「もうすぐ出て来ます」と答える記事がある。ベムスターの存在はまだ明らかにしないが,第2クールで宇宙怪獣を出す路線は予告したのだろう。

※2 余談。ちなみに,ここで『ウルトラマン』最終回にしか登場しないゾフィーが,たいへん神秘的な存在として子ども心に植え付けられた。当時の小学館の雑誌では「ゾフィ」でなく「ゾフィ―」の表記が多かった。しかし『ウルトラマンタロウ』第18話のサブタイトルは「ゾフィが死んだ!タロウも死んだ!」だった。

※3 余談。当時の学年誌のお楽しみは豪華付録だった。懐中電灯を光源にする簡易映写機のような付録がついていたことを覚えている。『学年誌ウルトラ伝説: 学年別学習雑誌で見る「昭和ウルトラマン」クロニクル』によれば,『小学二年生』1971年12月号に「怪獣幻灯機」がついており,これだったかもしれない。ただ,この幻灯機は静止画を映し出すだけなのだが,私はタッコングが暴れる映像を3秒くらいカラー動画で見た記憶があり,それで強烈な印象を覚えたのだ。記憶の混濁なのだろうか。


白石雅彦『「帰ってきたウルトラマン」の復活』双葉社,2021年。

円谷プロダクション監修,秋山哲茂編『ウルトラ博物館: 学年別学習雑誌で見る昭和子どもクロニクル1』小学館,2003年。

円谷プロダクション監修,秋山哲茂編『学年誌ウルトラ伝説: 学年別学習雑誌で見る「昭和ウルトラマン」クロニクル』小学館,2017年。

2021年5月5日水曜日

研究倫理教育とAPA法研修

 大学から学部生への研究倫理教育を義務づけられているのだが、「盗作するな。注を付けろ」と説教しただけで身につくわけもない。そこで、近年はゼミでAPA法の注の付け方の研修を行っている。今回は、古典的スタイルで注記された論文をAPA法の注記に直すという実習だ。まともに10何人も添削するとたいへんなのだが、学生が提出したファイルと正解のファイルをワードの「比較」機能で照合すれば、違っている点が自動的に朱書きされることに気づき、添削の自動化を実現。それでもコメントを入れねばならないから、結構大変だ。しかし、実験も数学も教えられない私が、将来とも役立つグローバルスタンダードな手法を教えられる領域はごく限られているので、これだけはそれなりにやることにしている。まあ、「うちの教授は何てチマチマした人間なんだ」と思われるだけかもしれんが。

 APA法の使い方で、唯一、自分でもブレがあって決まらないのが日本語文献を注記する際にカンマと括弧は半角か全角かだ。これは英語ベースのAPA法にグローバルスタンダードはなく、日本では雑誌によりまちまち。すべて半角にすれば英語文献との統一は取れるが、少し見にくい。どこまで半角スペースを入れるかという問題もある。日本語や漢字圏の文字が前後にある時だけ全角にするとそこは見やすいが、統一が取れない。また、日本語と英数字が混じった時に一義的に決まらず迷う。あまり考えたことがなかったのだが、学生に教えるとなると困る。

というわけだ(川端, 2006, pp. 22-25)。 半角

というわけだ (川端, 2006, pp. 22-25)。 半角。括弧前にスペース

というわけだ(川端,2006,pp. 22-25)。 全角

というわけだ(Smith, 2020, p. 20; 川端,2018)。 半角・全角混合

というわけだ(Smith, 2020, p. 20;川端,2018)。 全角

日本語で論文を書く同業者のみなさんは、どうされているのだろうか。




2021年4月26日月曜日

小川一夫『日本経済の長期停滞:実証分析が明らかにするメカニズム』日本経済新聞出版,2020年を読んで

  「日本経済」講義準備。業務の波に飲まれかかり,読むのに2週間以上かかってしまった。

 本書で小川一夫教授は,日本経済の長期停滞のメカニズムを,主に投資停滞の原因を探るという角度から,計量的実証によって明らかにしている。不確実性を伴う期待収益率の動きが投資停滞の原因と考える私にとっては,非常に重要なテーマを扱っている。

 本書の特徴は,1990年代以降の日本経済の長期停滞を,人々の長期的な期待形成と関連付け,どのような長期期待が設備投資の停滞につながったかを明らかにしていることである。

 その主張は明快である。日本の設備投資の低迷は,収益性に設備投資が反応しないことによるものであり,その理由は企業による長期経済見通しの悪化である。この悪化を規定する最大の要因は過去から現在にかけての消費成長率の低迷である。そして,消費の低迷を規定するのは,家計,とくに貯蓄の取り崩しに慎重な家計が持つ,公的年金制度の脆弱性への不安による予備的貯蓄の増大であり,その慎重さは夫婦の雇用形態に影響されているのである。

 もう少し詳しく見よう。まず著者は,日本企業の設備投資が長期にわたって停滞し,とくに世界金融危機以降は利潤率が回復しているにもかかわらず,停滞が続いていることを確認する(第1章)。この停滞をもたらした要因分析が次章以後の課題となる。

 その前に著者は,2000年代初頭にGDPが年1.5%程度の成長を回復したことについて,輸出の貢献が大きく,とくに世界所得という需要要因よりも企業による生産性向上という供給要因の貢献が大きかったことを示している。ここで次章以降に,設備投資が停滞し続けているのに生産性が向上したとすれば,その要因はコスト削減のためのリストラ活動ではないかという課題が持ち越される。

 続いて著者は,設備投資が収益性に反応しない理由の検討にかかる。収益性に対する設備投資の反応は第1次石油危機以降,継続的に低下してきた。その背景には,趨勢的な「成長企業群」の割合低下と,「リストラ企業群」の割合増加があった。成長企業群とは売上高成長率,生産費用上昇率がともに正,リストラ企業群とは両比率がともに負の企業群である。リストラ企業群は自社に対する需要減に対して,生産コスト削減で収益性を高めてきた。このような企業は収益性が向上しても設備投資には慎重なのである(第3章)。

 期待成長率が高まらなければ企業は設備投資を増加させない。では,期待成長率は何によって左右されるか。著者は設備投資率の長期均衡値系列を求め,これが企業による日本経済に対する長期の経済見通しと連動していることを明らかにした。長期の経済見通しは,正規雇用の規模や負債増分・資産比率にも影響を与えていた。企業が日本経済の長期見通しに悲観的であり続けたために設備投資は伸びず,正規雇用は増えず,負債も増加しなかったというのである。かわって取った行動がコスト削減,非正規雇用の増大というリストラ活動であり,現預金の蓄積による流動性確保である(第4章)。

 それでは,企業の長期経済見通し自体は何によって左右されるか。著者はこれを需要要因と供給要因に分け,2001年度から2018年度のデータによって定量的に検討する。その結果,企業がGDP成長率を予測する上で,需要側では各業界の需要見通し,マクロレベルでの過去から現在の消費成長率,供給側では現在の資本ストック成長率,労働成長率,全要素生産性(TFP)を同時に考慮した場合の説明力が高いこと,しかし需要要因の方が供給要因の方よりも重要であることが判明する。つまり,過去から現在の消費の低迷が企業にとっての日本経済の長期見通しを悪化させ,それが設備投資を停滞させるのである(第5章)。

 それでは,消費の停滞は何によって規定されているのか。これを明らかにするために,著者は家計の消費行動の分析に移る。まず家計の意識調査データを分析し,家計が公的年金制度を脆弱であると捉え,老後の成果に不安を抱えていることを明らかにする(第6章)。

 次に著者は,1970年代以降現在までの家計行動を分析する。その結果,年間収入が停滞する一方,家計の非消費支出,とりわけ社会保険料の割合が高まってきたこと,世帯主の収入減少をカバーすべく妻の就業率が上昇したこと,持ち家率の上層が負債残高を押し上げてきたことを指摘する(第7章)。

 この結果に対して,著者は勤労所得に占める社会保険料の割合の増大が,社会保障制度に対する脆弱性の認識につながるのではないかと考え,この認識の分析をさらに進める。老後を心配している家計の割合は1990年代に急上昇した。そして家計を年金と老後の暮らしに関する主観的評価によってグルーピングすると,「年金や保険が十分でないから,老後の暮らしを心配している」家計の比率が一貫して増加している。年金制度の改正は家計から全体としてはポジティブな評価を得ているが,家計属性によって評価は異なっていた。公的年金制度の脆弱性の認識の強まりという問題は解決されていない(第8章)。

 そこで問題となるのが,公的年金制度が家計の貯蓄と消費に及ぼす影響である。著者はマクロデータとマイクロデータを用いて,家計の貯蓄行動と公的年金の関係を分析する。その結果明らかになったのは,家計は納付した公的年金保険料を資産としてでなく,負担としてとらえていること,したがって家計収入に対する公的年金保険料の割合が上昇すると,家計の負担感が高まり,公的年金制度への信頼感が揺らぐこと,それ故に家計は消費を抑制し,老後の生活のために貯蓄率を高めてきたことである。しかも,公的年金の納付額が貯蓄を増大させる傾向は,貯蓄の取り崩しに慎重な家計ほど顕著であった。そして,貯蓄の取り崩しに慎重な家計の態度は,夫婦の雇用関係に影響されていた。夫婦ともに正規雇用であれば,貯蓄の取り崩しに慎重である確率が著しく低下する。つまり将来の不確実性に対して予備的な貯蓄を行う誘因が低くなるのである(第9章)。

 著者が引き出した政策的インプリケーションは名白である。男女とも希望すれば正規雇用で働ける環境を整備すること,公的年金制度への信頼を回復することである。これらにより,予備的貯蓄の縮小を消費の拡大が期待でき,企業の長期的な経済見通しの回復,設備投資の回復が期待できるというのである(終章)。

 本書のインプリケーションを裏返せば,ただひたすらに企業の収益性を重視し,家計の所得と消費を置き去りにして企業の投資だけを回復させようとする経済政策は誤りだと言うことである。正規雇用の充実と公的年金制度への不安の解消こそが,消費と投資双方の回復につながることを示した,本書の意義は大きい。

小川一夫『日本経済の長期停滞:実証分析が明らかにするメカニズム』日本経済新聞出版,2020年。

2021年4月14日水曜日

研究年報『経済学』の発行主体変更について

 東北大学経済学研究科・経済学部の紀要である研究年報『経済学』は,1934年の創刊以来,「東北大学経済学会」を発行母体としてきました。外部団体の体裁をとって,教員や読者から会費をいただいて発行し,発行した雑誌の一定部分を大学が買い取っていたのです。一時は岩波書店から販売もしていました。しかし,この方法は財務や人事を複雑にするなどの問題を伴うことは否めません。昨年度一年かけて検討した結果,東北大学経済学会をこの3月末で解散し,4月より研究年報『経済学』を東北大学大学院経済学研究科が直接編集・発行する方式に移行しました。今後も外部からの投稿や講読は可能です。名実ともに紀要となりますが,院生やポスドクの投稿,外部投稿などには査読制度を維持します。

 画像1枚目は移行にあたり,経済学会のもともとの性格を探るために参考にした,米澤治文教授の文章です。「経済学会会報」(1954年)に掲載されました。2,3枚目は,私が古本屋で買った43号(1956年)です。目次には鈴木光男,原田三郎,服部文男といった先生方の名前が並んでいます。4枚目は最新号です。43号の頃はA5版縦書きで,この後,ある時期にB5版2段組み横書きに変わって今に至ります。

 紀要の地位は,査読付き学術誌への掲載が求められるに従って低下しつつありますが,他方でネット時代になって利用頻度は以前よりも上がっています。また国際的にも,ジャーナル出版業の寡占化のもとで大学が出版機能を持つことの意義が見直されています。研究年報『経済学』が果たす役割は今後ともあると私は思っています。

研究年報『経済学』発行団体変更のお知らせ












2021年3月30日火曜日

低所得で暮らす家計が増えた20年

 「日本経済」講義準備。日本では,20世紀末までは年間所得300-400万円の世帯が一番多かったが,所得の全般的低下の結果,いまでは200-300万円の世帯の方が多いという話(※)。

 世帯数の分布の推移を見るとグラフのようになる。1998-2013年までの傾向は一貫しており,低所得の側では年収100-400万の世帯比率が上昇する。高所得の側では多くの階層で比率が低下する。つまり,全体として所得が低下し,少なくない世帯が階層を降下した結果,100-400万の世帯が拡大したのだ。2013-2018年は曲がりなりにも好況となって雇用が拡大したためか,この傾向に多少の歯止めはかかったが,20年間の趨勢は変わらない。所得の中央値は1998年に544万円だったが,2019年には437万円となった。

 所得の集中については,傾向がはっきりしない。平均所得金額以下の世帯比率は60.6%から61.1%へとわずかに上昇した。

 それより明確なのは,困難にある家計の割合の増加だろう。1998年には所得200万円以下で暮らす家計は14.2%であったが,2018年には19.0%になった。逆に,富裕層と言えない程度の高所得であっても,得ることは困難になりつつある。1998年には所得800万円以上を得る家計が28.6%あったが,2018年には21%になった。

 これらの変化は,世帯あたりの人数の低下(2.81人から2.44人)を考慮しても著しいものだ。日本は過去20年の間に,全体として貧しくなった。

※ひとつ前に投稿したWIDによる所得分布とは切り口が異なる。WIDは国際比較可能な統計を整備するため,個人の税引き前所得を対象としている。これに対してここで使用した日本の厚労省統計からは,世帯の税引き前所得の分布がある程度わかる。他国と比較はできないが,これはこれで直観的に理解しやすい。

4/17追記。 当初この統計を「可処分所得」についてのものと記していましたが,正しくは「所得」でした。修正してお詫びします。





『ウルトラマンタロウ』第1話と最終回の謎

  『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないこと...