オンラインリアルタイム大学院ゼミと資料持ち帰りのため出勤。院生が博士論文に使う文献が紙しかないという場合が困る。図書館が閉まっているので,買ってもらうか,私の研究室にあるものをコピーorスキャンして送るしかない(教育目的としてご勘弁いただきたい)。
今回必要なのは写真の2点。私はもう10年以上にわたり,この清晌一郎論文2点は浅沼萬里『日本の企業組織』よりはるかに正しい,サプライヤー研究をやるならこれを読むべきだと言い続けているが,なかなかわかってもらえない。また,「曖昧・無限」論文はそれでも多くの研究者が引用するが,「価格設定方式」論文はほとんど引用されない(『関東学院大学経済研究所報』がCiNiiにインデックスされていないというのもまずい)。よく見れば,副題に「自動車産業における日本的取引関係の構造原理分析序論」とその(2)とあり,一対であることが明示されているのだが,(2)を知らない人が多い。この5年くらいは,「曖昧,無限」だけを使うのは偏ったつまみ食い的利用だと言い続けているが,だいたい「価格設定方式」の方は「そんな論文もあったのか」という顔をされて終わる。頭にくるので講義でもゼミでも事細かに紹介し,浅沼説と対比している。学生はサプライヤ管理とはそんなにも厳しいものかとうんざりした顔をし,何でも暗く考えすぎる私の偏向ではないかと疑うが,某ガラス,じゃない素材のメーカーに入った卒業生は「完全に先生の言う通りでした」と報告してきた。
不正確を承知で大雑把に言うと,「曖昧,無限」論文は日本的取引のモノの管理に関する側面が品質・技術水準を向上させるというものであり,マルクス用語では生産力研究,組織経済学の用語ではコーディネーション研究だ(もちろんそれだけではないが,その側面が強いということだ)。「価格設定方式」論文は日本的取引方式がカネの管理に関する側面がサプライヤーを品質・技術水準の向上に向かって動機づけるというものであり,生産関係研究であり,インセンティブと利害調整の研究だ。前者だけ引用すると「品質管理が厳しいけれど優れているなあ」という話に終わりやすい。本当の厳しさはカネの側面を含めないとわからない。そして,カネの側面とはカネが誰のものかという,所有権に関する一定の制度・慣行と結合している。その厳しさとは,ただ単線的な物差しの上にゆるくなくて厳しいというのではなく,契約の在り方,権利と義務の在り方における日本の独自性を表現している。
下請・系列研究は,サプライヤーシステム研究と名を変えようとも,日本資本主義研究なのである。私はそう考えている。
清晌一郎(1990)「曖昧な発注,無限の要求による品質・技術水準の向上:自動車産業における日本的取引関係の構造原理分析序論」中央大学経済研究所編『自動車産業の国際化と生産システム』中央大学出版部,193-240。
清晌一郎(1991)「価格設定方式の日本的特質とサプライヤーの成長・発展:自動車産業における日本的取引関係の構造原理分析(2)」『関東学院大学経済研究所年報』13,50-62。
私が唯一,両論文の意義をまとまった文章で述べたものは以下。
川端望(2017)「中国経済の『曖昧な制度』と日本経済の『曖昧な制度』 ―日本産業論・企業論からの一視点―」『中国経済経営研究』1(1),中国経済経営学会,26-32。
2020年4月27日Facebook投稿の再録。