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2024年2月6日火曜日

立原透耶編『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』新紀元社,2023年を読んで

 立原透耶編『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』新紀元社,2023年。帯にも抜粋されている解説で林譲治氏は「『世界の中で中国とは何か?』という問いかけが無意識のうちになされているように思う」と書かれているが,私はむしろ,本書に収録された作品はどれも中国という場所にこだわらず,人間とは,人類とは何であり,何でありうるか,という問いに向かっているように思う。舞台が中国であれ,主人公が中国人であれ,ガジェットが中国で知られたものであっても,そこで問われているのは個々の人間の生が,また人類という種が,どこまでのことを経験し,どこまでのことをなしうるかなのだと思う。

 中国SFをそれほど多くを読んでいるわけではないが,その方向性は多様である。SF的想像力に基づきながら現代中国の内面を掘り下げた小説もある。その一方,本書のように中国という限られた場から解き放たれていくようなSFもある。ともに世界で読まれるべき中国発のSFと思う。

出版社ページ

http://www.shinkigensha.co.jp/book/978-4-7753-2023-5/



2023年8月21日月曜日

宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)読後感

 宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)。

 この本はケン・リュウが編集した中国SF集の2冊目である。私は書店で1冊目の『折りたたみ北京』とどちらを買おうか迷っていたが,本書を開いてぎくりとし,こちらを買うことにした。


「紫令は強硬すぎる」


という文字が目に映ったからである。もちろん,よく知られた実在の人物は紫玲であるが。

 表題作「金色昔日」の著者は,宝樹の作品で日本で知られているのは,『三体X 観想之宙』(原書2011年,日本語訳2022年)であろう。劉慈欣『三体』シリーズを著者公認の上で受け継いだスピンオフだ。彼は中国で活躍する作家だが,「金色昔日」は,2015年に英文誌に発表されたものであり,中国では出版されていない。中国の検索エンジン「百度」で「宝树 "金色昔日"」と入力しても,この日本語出版を紹介する記事しかヒットしない。

(以下,10 行空白の後,本作品のSF設定を明かします。知らずに読みたい方はここでおやめになることを勧めます。)

ーーーー

 「金色昔日」は時間小説である。登場人物たちは別の世界の中国を生きている。主人公は幼児期に北京オリンピックを見に行く。その後に経済停滞の時代が訪れ,高校時代には上海に住む幼馴染に紙の手紙を書くようになる。大学生になって天安門広場に立つ。やがて鄧小平は失脚し,毛沢東という人物が台頭する。そして文革が始まる。そう書いてもわけがわからないかもしれないから,イメージを喚起するために少しだけ主人公の言葉を引用しよう。

(引用)「ベルボトムのジーンズと鄧麗君の歌が大通りにあふれていた青年時代。香港四天王や台湾のテレビドラマが全国的に人気だった少年時代。ネットゲームやオリンピックや3D映画があった幼年時代。あれらは本当に存在したのだろうか。どこから来てどこへ消えたのか。すべては一場の夢だったのか。」(引用終わり)

 歴史は逆に流れているはずなのに,主人公が直面する状況はみなリアルである。また,個人の時間は読者と同じように流れ,主人公は出会いと別れに翻弄されながら生き,年老いていくのだ。

 SFにはなじみがなくとも,現代中国になじみがある人には一読をお勧めしたい。


出版社ページ
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015280/




2023年1月29日日曜日

「あそこに座ってない時は,死んだ時です」:三谷昇氏の訃報に接して

 俳優の三谷昇氏が亡くなられた。読売新聞の報道では、『ウルトラマンタロウ』出演とタイトルに書いてくれている。そう,特撮オタクにとっては,三谷氏と言えば『ウルトラマンタロウ』である。もちろん他にも,『帰ってきたウルトラマン』第22話のピエロ,映画『宇宙からのメッセージ』のカメササ,『電子戦隊デンジマン』第13話のアドバルラー人間態,『宇宙刑事ギャバン』の魔女キバなどもあるが。

 三谷氏は、『タロウ』の最終盤3話に、ZATの二谷一美副隊長として出演された。前任の荒垣副隊長の東野英心氏が骨折したことを受けてのピンチヒッターだったということだ。

 3話だけの出演だったが、第52話「ウルトラの命を盗め!」(脚本:石堂淑朗,監督:筧正典,特撮監督:大木淳)では堂々主役を務められた。このエピソードは,終盤の『タロウ』にいくつか見られるシリアス編である。宇宙では戦争が続いており,怪獣ドロボンはそこにウルトラ兄弟を巻き込もうとして地球にやってくる。ウルトラマンジャックはこれを止めようとして返り討ちにあり,地球ではタロウと協力して自らのカラータイマーをはぎとられてでもドロボンを阻止しようとする。そしてドロボンの人質となった二谷は,タロウがたたかいやすいように自らの命を絶とうとこめかみにZATガンを当てるのだ(幸い,故障かエネルギー切れで不発だったが)。

 どうにかドロボンを撃退し,ウルトラマンジャックも二谷も助かってラストシーン。人質になってしまったことを副隊長失格だと言って自席に座ろうとしない二谷に(画像1),東光太郎(篠田三郎)が言う。


東「副隊長,それはいけないですよ。」

二谷「いいんだ。」

東「隊長が死ねば副隊長が指揮を執り,副隊長が死ねば北島さん,北島さんがだめなら南原さん。ZATの規則は,そうでしょ?」

二谷「まあ,そりゃあ。」

東「なら,副隊長は死ぬまで副隊長です」。二谷の表情が,何かに気づいたかのように変わる。そして,ここまで勢いよくたたみかけていた光太郎は,静かに言う(画像2)。「あそこに座ってない時は,死んだ時です。」


二谷「……わかった。」

東「わかったら,どうぞ!」

 自席に戻った二谷が威勢よく「定時警戒態勢,出動!」を命じてエピソードは閉じられる(画面2)。


 「あそこに座ってないときは,死んだときです」。平常なら縁起でもないが,ドロボンとの戦いの後なので説得力がある。自分の心情だけで職責を放棄してはならない。生きているのだから、するべくことをしなければならない。命を捨てても任務を果たそうとしたあなたならば,わかっていらっしゃるのではないですか。副隊長は,生きて帰って来てくれたではないですか。光太郎はそう問いかけたのである。

 ここで『タロウ』の世界に奥行きが生まれる。明るくおちゃらけているZATも,実は死と隣り合わせの職場なのである。戦闘の場でなく作戦室の平常時の会話でそのことを表現したこのシーンは貴重なものだと,私は思う。

 どうぞ安らかにお休みください。

2023年1月11日水曜日

忍者っ娘萌えか,ネタ切れか:光瀬龍著・大橋博之編『光瀬龍ジュヴナイルSF未収録作品集』書肆盛林堂,2021年からの発見

 光瀬龍著・大橋博之編『光瀬龍ジュヴナイルSF未収録作品集』書肆盛林堂,2021年。以前にとりあげた『光瀬龍 SF作家の曳航』ラピュータ,2009年と対になる本だが,ISBNなしの直販品なので,ごく最近まで気づかなかった。

 単行本未収録作品14点が収められているが,最初の3点からは驚愕の事実が明らかになる。

『夕映え作戦第2部 指令B-3を追え』:再び現代に召喚された風祭陽子の活躍(死んでなかったんかい)
『ダッシュ9.9』:江戸時代からやって来た少女忍者「ふう」の活躍
『花冠作戦(ジ・オペレーショ・カロライン)』:過去からタイムスリップしてきた少女忍者「きららぎ」の……。

 つまり,「少女忍者現代に現る」物は,大ヒットしてNHK少年ドラマにもなった『夕映え作戦』だけではなかった。それ以降,少なくとも3作あった。光瀬先生は,強度の「忍者っ娘」萌えであったか,当時ネタに詰まっていたらしい。おそらく両方ではなかろうか。

直販サイト




2023年1月3日火曜日

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年を読む

 萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。新装版だの豪華特典付き××版だのは基本的に買わないのだが,これは例外中の例外で購入した。エッセイやインタビューが付け加えられているからだ。

 私は,この作品について以前から知りたいことがあった。それは,原作になくマンガにのみある部分は,どういうルールの下で誰が創作したのかということだ。今回,「萩尾望都に聞く「SF100の質問」」で,エルカシアの巫女ユメは萩尾先生の創作であったことはわかった。また,これまで読んだものの中に,光瀬先生がマンガのストーリーに介入された形跡がないので,おそらくマンガにのみある部分は,萩尾先生の創作によるものなのだろう。

 大きな展開での違いを見ると,原作では都市ZEN-ZENはアスタータ50にあって,そこの首席はユダではないが,マンガではゼン・ゼン市は別の場所にあり,そこの首席は惑星開発委員会のマインド・コントロールを受けたユダだ。原作ではアスタータ50から最後の目的地に一気にジャンプするが,漫画ではゼン・ゼン市から一度トバツ・シティーへ移動し,弥勒像の口からアスタータ50へとジャンプ,それから最後の場所に向かう。

 私にとって気になるのは登場人物の方で,当然かもしれないが漫画の方が阿修羅王もオリオナエもシッタータも表情が多面的で豊かであり,また重要なセリフも付け加えられている。

 阿修羅王の「私は相手が何者であろうと戦ってやる。この 私の住む世界を滅ぼそうとするものがあるなら,それが神であろうと戦ってやる」というセリフ,オリオナエの「わしはアトランティスの生き残りだ」「神と信じあがめていたものが我々に与えた裁きを忘れないぞ」というセリフは,原作にないものだ。また,原作では阿修羅王の幻覚の中でしか活躍しない帝釈天が,漫画では阿修羅王に対峙するトバツ・シティの軍事指導者として現れる。破滅を運命として受け入れる者の代表として。しかし,戦い続ける阿修羅王に関心を寄せるものとして。「あの極光の下に阿修羅王がいる。阿修羅王……が……。美しいものであろう,太子。あれの心のように微妙に移り変わる……」。しかし,阿修羅王は決して戦いをあきらめない。首を振って言う。「あなたは老いた,帝釈天」。帝釈天は言う。「勝てるのか!神と戦って!シと戦って!あなたはおのれの死と戦って勝てるか!」。その表情は悲しげに変わる。「…もう戦うことをやめぬか,阿修羅。おまえは勝てない…勝つことはできないのだ。」。阿修羅王の右目を涙がつたう。これらも,みな原作にないものだ。

 しかし,こうした原作にない部分が私にとっては印象深く,原作よりも漫画の方を繰り返し読む理由になった。10-20代の頃には阿修羅王がこの上なく美しく見えたし,いまでは帝釈天の阿修羅へのまなざしも,わかりたくはないがわかるような気がする。

 今回も直接には謎は明かされなかったが,おそらくこれらの部分も萩尾先生が創作されたのだと思われる。複数のインタビューや今回のQ&Aからは,萩尾先生の興福寺阿修羅王像に対する思いがとても深いものであることがわかる。「あの像の中にすべてが収まっていますね。運命も。宇宙も。永遠も」。「あのお顔と身体がなかったら,あの阿修羅は生まれませんでした」。数々の追加シーンも,先生の阿修羅王への思いの産物であり,それが他の登場人物にも反射したものだったのであろう。

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。




2022年7月20日水曜日

リピアーは神永と出会い,神永と融合したウルトラマンに禍特対の人々は出会う。そこにいるのは個体と個体であって,アメリカと日本ではないーーー『シン・ウルトラマン』を観て大澤真幸説と対話する

(この拙文は,映画『シン・ウルトラマン』をすでにご覧になった方に向けたものです) 


 大澤真幸「ウルトラマンはどうして人類を助けるのか?~映画『シン・ウルトラマン』から考える」imidas,2022年7月8日は,は,かつての佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋,1992年と同様に,ウルトラマンと人類の関係を戦後の日米関係に見立てる論稿である。大澤氏は「『ウルトラマン』では、日米安保条約的な態度と関係性が、無意識のうちに肯定されていた。『シン・ウルトラマン』は、逆に、日米安保条約的な態度と関係性を意識的に拒絶している」という。これは神永や禍特対の人々が,人類を滅ぼそうとするザラブや,人類を資源として管理下に置こうとするメフィラスと日本政府との条約を阻止したことを念頭に置いている。だが「人類はウルトラマンから自立できたことになるのか。人類は、(ほぼ)自分の手で自分たちを救うことに成功したことになるのか」というと,そうではないと大澤氏は言う。「人類だけではゼットンを退けることはできず、むしろ最も難しく肝心なところに関してはウルトラマンのおかげである」からだ。ウルトラマンが人類を助ける理由は結局不明であり,これは「自分たちが発揮できる利他性は同胞の範囲にとどまっているのに、日本人は、その範囲を超えて利他的にふるまってくれる強い他者を必要としている」という日本社会の困難の表れなのだと大澤氏は結論付けている。

 大澤氏と佐藤氏の具体的な意見は異なるが,構図の取り方,ウルトラマンの世界と現実の世界の対応のさせ方はそう変わっていない。ウルトラマンはアメリカで,人類は日本だというのだ(※1)。だが,私は大澤氏の構図の取り方は,作品の構造に即していないと思う。日米関係に関する氏の見解に異を唱えたいのではなく,シン・ウルトラマンに日米関係を読み込むことが適当ではないと思うのである。具体的には,氏は二つのことを見落としていると思う。

 ひとつは,『シン・ウルトラマン』は「光の星」「リピアー(ウルトラマン)=神永」「禍特対」「群れとしての諸国家」という四つのアクターからなっており,このうち国家や社会になぞらえることができるとすれば,光の星と地球の諸国家である。だが,その中間にいるリピアー(ウルトラマン)=神永と禍特対こそが本編の主人公である。どうして,この,身も心もある諸個体を無視して,「アメリカ」と「日本」という二つの国になぞらえることができるのだろうか。どうしてもなぞらえたいならば,せめて光の星=アメリカ,日本政府=日本とすべきだろう。しかし,外星人の出現に右往左往する日本政府を現実の日本とするのはまあいいとして,問答無用で地球を消滅させようとする光の星をアメリカに例えられるのだろうか。

 もうひとつは,主人公であるリピアー(ウルトラマン)が神永新二と融合していることである。言うまでもなくこれはSF的設定であり,現実にあり得ないことである。大澤氏は,「同胞同士の助け合いの行動は、同胞の範囲を超えた利他性を引き起こす力はない」として,リピアーの人間への関心を非現実的だとするが,そんなことは当たり前である。ありえないことを敢えてあるとした上で,そこから何か新しい認識を得ようとするのが,SFの一つの機能である。それをただ非現実的だと見るのは,SFの論じ方として実りあるものとは言えまい。

 本稿は,大澤氏の評論と対話しながら,『シン・ウルトラマン』では国家間の関係よりも,個体と個体の出会いが描かれているという見方を示すものである(※2)。もとより作品の解釈は多様であり,唯一正しい見方などないことは承知である。その上で,どのような見方が整合性を持ち,作品の解釈として説得力を持ち,新たな認識を生み出す力を持つかの問題だ。その判断は読者に委ねたい。

*リピアー=神永の融合

 光の星から来たリピアーは,身を挺して子どもを助けた人間・神永に興味を持った。このように生きる個体もいることに関心を持ち,そのような個体を好ましく思い,知りたいと思った。だから,神永と一体化して彼をよみがえらせた。神永と一体化したリピアー=ウルトラマンは,人類と別の存在として人類を守ってあげているのではない。浅見弘子の「あなたは外星人なの。それとも人間なの」という問いかけに対して,神永は「両方だ。敢えて狭間にいるからこそ,見えることもある。そう信じてここにいる」と答えている。リピアー=ウルトラマンは神永に変身しているのでもないし,普段は神永で,返信した時だけリピアーの人格になるのでもない。ウルトラマンは同時に神永でもあり,外星人でもあれば人間でもあるのだ。だから,神永という人類と同じように,人類の思考や肉体の限界も認識しているし,人類のように思考し,感じ,行動する。外星人を恐れるとともにそれに依存し,仲間を信じると同時に信じられない。ウルトラマンは,そのような人類を外星人として見つめると同時に,そのような人類に自らなっているのだ。だから迷う。だから戸惑う。融合した相手の身になり,それを理解しようとし,しかし,結局,「人間とはわからないものだ」と思う。大澤氏はそこに説得力がないと言うが,リピアー=ウルトラマンは,そこまで共感する力を持った存在として敢えて設定されているのだ。もしもそんな存在がいたら,人はどのように向き合うのか。問題はそこにある。

*ウルトラマン=神永と禍特対の人々の出会い

 ウルトラマンに向き合うのは,抽象的な人類一般でもなければ,単一の群れとしての人類でもない。禍特対のバディ・仲間たちである。ウルトラマン=神永は膨大な量の本を速読しつつ,禍特対の人々と交流し,バディとは何か,仲間とは何か,群れとは何かを知ろうとする。そして,浅見をバディと認めてベータカプセルを託し,ウルトラマンの圧倒的な力に無力感を覚えて自暴自棄になる滝明久に,自分の知識も有限であることを示しながらベータシステムの記述を残す。リピアーは神永を通して人類に関心を持ったのであり,ウルトラマン=神永は,禍特対の人々を通して人間と信じあう経験をするのである。極論を言えば,リピアーにとって大事なのは神永であり,ウルトラマン=神永にとって大事なのは浅見や禍特対の仲間である。仲間と切り離された人類や,その群れ=諸国家それ自体を大事だと思っているわけではない。また,浅見や禍特対を通して知った人間のためであれば,光の星の掟を破ることもいとわない。

*掟ではなく人類ではなく仲間が大切だ

 リピアーが神永と融合したことは,光の星のゾフィーによればすでに禁断の行いであった。そして,リピアー=神永は,ゼットンを繰り出して人類を太陽系もろとも1兆度の火の玉で焼き尽くそうとする光の星の決定に反抗し,人類を守ろうとする。禍特対もまた,地球上の諸国家に歯向かう。人類に対して「上位概念」として君臨し,その資源としての利用をたくらむメフィラスに対して,日本政府は真っ先に技術供与を求め,これに全面的に依存する。それが人類の自立的発展を不可能にすると見抜いたウルトラマン=神永は,禍特対とともに実力でこれを阻止する。神永と禍特対は,日本政府に逆らってでも人類の自立を守ろうとする。

 ウルトラマン=神永は,人類や諸国家にも与せずに行動する。ゼットンの脅威を禍特対に知らせようとした際,「政府の男」らに同行を求められ,諸国家の共同管理下に入らなければ禍特対の安全は保証しないと脅迫されると,きっぱりと拒否する。あげく,「もしそれを実行すれば,私はゼットンよりも早く,ためらうことなく人類を滅ぼす」とまで言い放つ。そして「われわれ禍特対」に干渉するなという。ここでただ一度,ウルトラマン=神永は,「われわれ禍特対」と言っている。ウルトラマン=神永は外星人にして人間であり,ウルトラマンにして禍特対の一員である。大事なのは禍特対の仲間であり,仲間と信じあえるからこそ人類を守る,われわれ仲間を滅ぼすような国家や人類など,守るに値しないし,自分が滅ぼそうとまで断言しているのだ。日本政府は勘違いしている。ウルトラマンは,無条件に人類を守ってくれる神様ではない。仲間が大切だと思うからこそ,仲間が属する人類も守ろうとしているだけなのだ。

 リピアー(ウルトラマン)=神永にとって大事なのはバディとしての浅見であり,仲間としての「われわれ禍特対」である。人類の価値とは仲間を通して知るものだ。仲間を抑圧するならば,人類に守る価値はない。大事なのは掟でなく,人類一般でなく,国家でなく,仲間である。このストーリー展開を,安保条約だの日米関係だのに押し込めるのは筋違いというものであろう。

*個体が個体と出会って,何を問われるのか

 ウルトラマン=神永は言う。「ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する」。大澤氏は,これを「私はあなたたちの救世主ではない、あなたたち人類は自分で自らを守り、救わなくてはならない」という意味にとり,結局人類にはそれはできなかったという。しかし,そうではない。ウルトラマン=神永が言っているのは,スペシウム133のような人類にとって未知の力を駆使できるとしても,ウルトラマンも有限な存在であり,その点は人類と何も変わらないということだ。生きるために,神永=ウルトラマンもたたかい,人類もたたかう。そのようなもの同士として,お互いを尊いと思う。わからなくても尊重する。どちらがどのくらい強いかに関係なく,認め合うことだ。肝心なのはそこだとウルトラマン=神永は言っているのだ。

 リピアーと神永の融合も,ウルトラマン=神永と禍特対の人々との出会いも,どういじったところでアメリカ国家と日本国家が云々という話にはならない。どうしても現実に例えて言わねばならないとしても,これらの関係は国家間の安全保障ではなく,個人と個人の出会いの究極の姿だろう。神永=ウルトラマンに向き合う人類が問われることは,自分自身が主役になり,他者をわき役にして誰かに勝利することではない。他者であるウルトラマンとともにあろうとすることであり,自分にできる最大限のことをすることだ。リピアー=神永にとっても禍特対の人々にとっても大事なことは,様々な隔たりを超えて他の個体と共感し,それを好きになり,理解しようと思い,理解し切れなくてもお互いを尊重して生きることに他ならない。それは難しいことであり,できないかもしれない。滅びてしまうかもしれない。だが,できるかもしれない。挫折を覚悟でそれを試みた時に驚きが生まれ,新しい世界が開ける。光の星の掟を代表するゾフィは,未熟な別の種の個体と一体になり,その生命と未来のためにたたかうリピアー=ウルトラマンという個体のありように驚き,そこまで彼に思わせた人間たちに驚き,「そんなに人間が好きになったのか,ウルトラマン」と言ったのである。

※1 佐藤氏の見解については,未完ながら「佐藤健志氏の金城哲夫論について ウルトラセブンを中心に」で述べたことがある。この拙稿は蛸井潔氏の「糸納豆ホームページ」で公開されている。執筆したのは1994年である。また補足として,「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日もご覧いただけると幸いである。

※2 本稿の見方は,私が以前に『ウルトラマン』最終回と『ウルトラセブン』最終回について示したものと本質的に同じである。ウルトラマンは,ただハヤタを生かしたかったがために地球に居続けたのであり,モロボシ・ダンはただアマギ隊員を助けるために最後の変身をしたのである。前者については「ウルトラマンはハヤタと出会った (2014/7/10)」Ka-Bataアーカイブ,2018年11月8日,後者については前掲「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」を見て欲しい。ただし,以前の二つの拙文では,ウルトラマンとハヤタの融合,ウルトラセブンのモロボシ・ダンへの変身についての考察が弱い。今回は,リピアーと神永の融合の意味をいくらか掘り下げた。

2022/7/21 当初「リピア」と表記したが,日本語字幕版での表記が「リピアー」であることを知り,修正。最終的には公式発表を待って確定したい。


2020年1月13日月曜日

テッド・チャン『息吹』『あなたの人生の物語』を読んで

テッド・チャンの中短編集から考えさせられるのは,時間に対する感覚や意識的・無意識的な思考の枠組み,あるいは思い込みが,私たちのものの見方,考え方,人生に対するとらえ方を深いところで規定しているということだ。作者は,その感覚,枠組み,思い込みが通用しない世界を見せてくれる。ただし,読者の感覚を暴力的に揺さぶって怯えさせるのではない。時間が,私たちが普段考えているのとは違う形,違う秩序を取り,違う風に流れる,あるいはそもそも流れない世界を鮮やかに構築して,そこに読者をいざなうのだ。そして,別の見方,別の考え方,別のとらえ方があると気が付かざるを得ないようにしてくれる。運命がすべて決定されているとしても,それを受け入れて価値ある人生を送ることは可能だろうか。逆に運命に無数のバラエティがあるならば,決断に意味があるだろうか。過去を正確に知ることは,現在にどのような可能性をもたらすだろうか。テッド・チャンの世界では,それらの問いがまったく自然に目の前に現れてくるのだ。

Ted Chiang, Exhalation: Stories, Alfred A. Knopf, 2019.
https://www.amazon.com/Exhalation-Stories-Ted-Chiang/dp/1101947888/
テッド・チャン(大森望訳)『息吹』早川書房,2019年。
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000014399/

Ted Chiang, Stories of you life and others, Vintage Books, 2002.
https://www.amazon.com/Stories-Your-Life-Others-Chiang/dp/1101972122
テッド・チャン(浅倉久志ほか訳)『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫,2003年。
https://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/11458.html


2019年6月21日金曜日

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』Godzilla: King of the Monsters

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』Godzilla: King of the Monsters視ました。ネタバレにならない範囲での感想。

*映像はすごかった。さすがはハリウッドだ。
*ゴジラシリーズの怪獣たちへの「愛」は感じられた。「わかってるな」と思わせるショットも多い。
*ゴジラは人智を超えた自然の守り神みたいなもんになっている。この点は前作(「東宝チャンピオンまつり ゴジラ対ムートー サンフランシスコ大決戦」だったっけ)よりはるかに明確に打ち出されていて,ストーリーの骨格をなしていた。なので,そういうものなんだと自己暗示して受け入れれば面白く見られる。
*前作で何しに出て来たのか全く分からなかった芹沢博士が,ちゃんと活躍したのには安心した。
*核兵器の取扱いについては,例によって,ざけんな馬鹿野郎と思いつつ視るしかない。


2018年10月8日月曜日

『特撮秘宝』第8号。「特撮の悪役」

『特撮秘宝』第8号。一般社会に紹介できるネタがほとんどないのだが,表紙を飾る『ウルトラマンA』第23話『逆転!ゾフィ只今参上』の巨大ヤプールにはかろうじてメジャー感があり,わかる人ならわかるかもしれない。このエピソードでは,怪しい老人が「お前は俺を信じなさい,ほれ信じなさい,ほれ信じなさい」と歌うと子どもたちがぞろぞろついていき,異次元に連れ去られていく。

 砂浜で老人が「花はとっくに死んでいるのだ」と言えば,子どもたちは「そうだ,死んでいるのだ!」と唱和する。そして忽然と消える。北斗星司(ウルトラマンA)は,猿人に変身して火を噴く老人に崖から落とされて負傷する。しかし,そのこと自体をTACの仲間に信じてもらえない。いや,それでも南夕子(ウルトラマンA。当時合体変身だった)は信じようとするのだが,二人で事件現場に行って見ると,砂浜自体がない。北斗は,異変を告げたはずなのに,逆に自らが異常とされ,疎外されていく(まあ,北斗隊員はいつもそうだったけど)。

 脚本を自ら書いて監督した真船禎氏のインタビューによれば,氏は戦後直後の価値観の急転換を念頭においてこの話を書いたのだという。

「だから,あそこで一番やりたかったのは,老人が子どもたちを集めて,「海は青いか?」「海は青い」と答えると,「違う!海は黄色だ」って言うと,海が本当に黄色になっちゃう。それが洗脳っていうものですよ。でも,「この人は怖いから,言うとおりにしとこう」だったら,まだいいんですよ。一番怖いのは,本当に黄色く見えちゃうっていうことなんです」
「僕は小学生時代に,信じて死ねって言われて,死ぬつもりだった。ところが一夜明けたら,今から生きろと。命が大事だって。何が真実なんですか?」(ともに84ページ)

 それでも30分のヒーロー番組だから,真船監督はBパートでAを勝利させ,真実はこちら
にあるとした。しかし,ヤプールは怨念となってウルトラマンシリーズに繰り返し現れる。人が人に裏切られ,語りかけても信じてもらえない世界をつくろうとする。それがヤプールの復讐だ。

『特撮秘宝』第8号,洋泉社,2018年。
https://www.amazon.co.jp/dp/480031545X


『ウルトラマンタロウ』第1話と最終回の謎

  『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないこと...