(この拙文は,映画『シン・ウルトラマン』をすでにご覧になった方に向けたものです)
大澤真幸「ウルトラマンはどうして人類を助けるのか?~映画『シン・ウルトラマン』から考える」imidas,2022年7月8日は,は,かつての佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋,1992年と同様に,ウルトラマンと人類の関係を戦後の日米関係に見立てる論稿である。大澤氏は「『ウルトラマン』では、日米安保条約的な態度と関係性が、無意識のうちに肯定されていた。『シン・ウルトラマン』は、逆に、日米安保条約的な態度と関係性を意識的に拒絶している」という。これは神永や禍特対の人々が,人類を滅ぼそうとするザラブや,人類を資源として管理下に置こうとするメフィラスと日本政府との条約を阻止したことを念頭に置いている。だが「人類はウルトラマンから自立できたことになるのか。人類は、(ほぼ)自分の手で自分たちを救うことに成功したことになるのか」というと,そうではないと大澤氏は言う。「人類だけではゼットンを退けることはできず、むしろ最も難しく肝心なところに関してはウルトラマンのおかげである」からだ。ウルトラマンが人類を助ける理由は結局不明であり,これは「自分たちが発揮できる利他性は同胞の範囲にとどまっているのに、日本人は、その範囲を超えて利他的にふるまってくれる強い他者を必要としている」という日本社会の困難の表れなのだと大澤氏は結論付けている。
大澤氏と佐藤氏の具体的な意見は異なるが,構図の取り方,ウルトラマンの世界と現実の世界の対応のさせ方はそう変わっていない。ウルトラマンはアメリカで,人類は日本だというのだ(※1)。だが,私は大澤氏の構図の取り方は,作品の構造に即していないと思う。日米関係に関する氏の見解に異を唱えたいのではなく,シン・ウルトラマンに日米関係を読み込むことが適当ではないと思うのである。具体的には,氏は二つのことを見落としていると思う。
ひとつは,『シン・ウルトラマン』は「光の星」「リピアー(ウルトラマン)=神永」「禍特対」「群れとしての諸国家」という四つのアクターからなっており,このうち国家や社会になぞらえることができるとすれば,光の星と地球の諸国家である。だが,その中間にいるリピアー(ウルトラマン)=神永と禍特対こそが本編の主人公である。どうして,この,身も心もある諸個体を無視して,「アメリカ」と「日本」という二つの国になぞらえることができるのだろうか。どうしてもなぞらえたいならば,せめて光の星=アメリカ,日本政府=日本とすべきだろう。しかし,外星人の出現に右往左往する日本政府を現実の日本とするのはまあいいとして,問答無用で地球を消滅させようとする光の星をアメリカに例えられるのだろうか。
もうひとつは,主人公であるリピアー(ウルトラマン)が神永新二と融合していることである。言うまでもなくこれはSF的設定であり,現実にあり得ないことである。大澤氏は,「同胞同士の助け合いの行動は、同胞の範囲を超えた利他性を引き起こす力はない」として,リピアーの人間への関心を非現実的だとするが,そんなことは当たり前である。ありえないことを敢えてあるとした上で,そこから何か新しい認識を得ようとするのが,SFの一つの機能である。それをただ非現実的だと見るのは,SFの論じ方として実りあるものとは言えまい。
本稿は,大澤氏の評論と対話しながら,『シン・ウルトラマン』では国家間の関係よりも,個体と個体の出会いが描かれているという見方を示すものである(※2)。もとより作品の解釈は多様であり,唯一正しい見方などないことは承知である。その上で,どのような見方が整合性を持ち,作品の解釈として説得力を持ち,新たな認識を生み出す力を持つかの問題だ。その判断は読者に委ねたい。
*リピアー=神永の融合
光の星から来たリピアーは,身を挺して子どもを助けた人間・神永に興味を持った。このように生きる個体もいることに関心を持ち,そのような個体を好ましく思い,知りたいと思った。だから,神永と一体化して彼をよみがえらせた。神永と一体化したリピアー=ウルトラマンは,人類と別の存在として人類を守ってあげているのではない。浅見弘子の「あなたは外星人なの。それとも人間なの」という問いかけに対して,神永は「両方だ。敢えて狭間にいるからこそ,見えることもある。そう信じてここにいる」と答えている。リピアー=ウルトラマンは神永に変身しているのでもないし,普段は神永で,返信した時だけリピアーの人格になるのでもない。ウルトラマンは同時に神永でもあり,外星人でもあれば人間でもあるのだ。だから,神永という人類と同じように,人類の思考や肉体の限界も認識しているし,人類のように思考し,感じ,行動する。外星人を恐れるとともにそれに依存し,仲間を信じると同時に信じられない。ウルトラマンは,そのような人類を外星人として見つめると同時に,そのような人類に自らなっているのだ。だから迷う。だから戸惑う。融合した相手の身になり,それを理解しようとし,しかし,結局,「人間とはわからないものだ」と思う。大澤氏はそこに説得力がないと言うが,リピアー=ウルトラマンは,そこまで共感する力を持った存在として敢えて設定されているのだ。もしもそんな存在がいたら,人はどのように向き合うのか。問題はそこにある。
*ウルトラマン=神永と禍特対の人々の出会い
ウルトラマンに向き合うのは,抽象的な人類一般でもなければ,単一の群れとしての人類でもない。禍特対のバディ・仲間たちである。ウルトラマン=神永は膨大な量の本を速読しつつ,禍特対の人々と交流し,バディとは何か,仲間とは何か,群れとは何かを知ろうとする。そして,浅見をバディと認めてベータカプセルを託し,ウルトラマンの圧倒的な力に無力感を覚えて自暴自棄になる滝明久に,自分の知識も有限であることを示しながらベータシステムの記述を残す。リピアーは神永を通して人類に関心を持ったのであり,ウルトラマン=神永は,禍特対の人々を通して人間と信じあう経験をするのである。極論を言えば,リピアーにとって大事なのは神永であり,ウルトラマン=神永にとって大事なのは浅見や禍特対の仲間である。仲間と切り離された人類や,その群れ=諸国家それ自体を大事だと思っているわけではない。また,浅見や禍特対を通して知った人間のためであれば,光の星の掟を破ることもいとわない。
*掟ではなく人類ではなく仲間が大切だ
リピアーが神永と融合したことは,光の星のゾフィーによればすでに禁断の行いであった。そして,リピアー=神永は,ゼットンを繰り出して人類を太陽系もろとも1兆度の火の玉で焼き尽くそうとする光の星の決定に反抗し,人類を守ろうとする。禍特対もまた,地球上の諸国家に歯向かう。人類に対して「上位概念」として君臨し,その資源としての利用をたくらむメフィラスに対して,日本政府は真っ先に技術供与を求め,これに全面的に依存する。それが人類の自立的発展を不可能にすると見抜いたウルトラマン=神永は,禍特対とともに実力でこれを阻止する。神永と禍特対は,日本政府に逆らってでも人類の自立を守ろうとする。
ウルトラマン=神永は,人類や諸国家にも与せずに行動する。ゼットンの脅威を禍特対に知らせようとした際,「政府の男」らに同行を求められ,諸国家の共同管理下に入らなければ禍特対の安全は保証しないと脅迫されると,きっぱりと拒否する。あげく,「もしそれを実行すれば,私はゼットンよりも早く,ためらうことなく人類を滅ぼす」とまで言い放つ。そして「われわれ禍特対」に干渉するなという。ここでただ一度,ウルトラマン=神永は,「われわれ禍特対」と言っている。ウルトラマン=神永は外星人にして人間であり,ウルトラマンにして禍特対の一員である。大事なのは禍特対の仲間であり,仲間と信じあえるからこそ人類を守る,われわれ仲間を滅ぼすような国家や人類など,守るに値しないし,自分が滅ぼそうとまで断言しているのだ。日本政府は勘違いしている。ウルトラマンは,無条件に人類を守ってくれる神様ではない。仲間が大切だと思うからこそ,仲間が属する人類も守ろうとしているだけなのだ。
リピアー(ウルトラマン)=神永にとって大事なのはバディとしての浅見であり,仲間としての「われわれ禍特対」である。人類の価値とは仲間を通して知るものだ。仲間を抑圧するならば,人類に守る価値はない。大事なのは掟でなく,人類一般でなく,国家でなく,仲間である。このストーリー展開を,安保条約だの日米関係だのに押し込めるのは筋違いというものであろう。
*個体が個体と出会って,何を問われるのか
ウルトラマン=神永は言う。「ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する」。大澤氏は,これを「私はあなたたちの救世主ではない、あなたたち人類は自分で自らを守り、救わなくてはならない」という意味にとり,結局人類にはそれはできなかったという。しかし,そうではない。ウルトラマン=神永が言っているのは,スペシウム133のような人類にとって未知の力を駆使できるとしても,ウルトラマンも有限な存在であり,その点は人類と何も変わらないということだ。生きるために,神永=ウルトラマンもたたかい,人類もたたかう。そのようなもの同士として,お互いを尊いと思う。わからなくても尊重する。どちらがどのくらい強いかに関係なく,認め合うことだ。肝心なのはそこだとウルトラマン=神永は言っているのだ。
リピアーと神永の融合も,ウルトラマン=神永と禍特対の人々との出会いも,どういじったところでアメリカ国家と日本国家が云々という話にはならない。どうしても現実に例えて言わねばならないとしても,これらの関係は国家間の安全保障ではなく,個人と個人の出会いの究極の姿だろう。神永=ウルトラマンに向き合う人類が問われることは,自分自身が主役になり,他者をわき役にして誰かに勝利することではない。他者であるウルトラマンとともにあろうとすることであり,自分にできる最大限のことをすることだ。リピアー=神永にとっても禍特対の人々にとっても大事なことは,様々な隔たりを超えて他の個体と共感し,それを好きになり,理解しようと思い,理解し切れなくてもお互いを尊重して生きることに他ならない。それは難しいことであり,できないかもしれない。滅びてしまうかもしれない。だが,できるかもしれない。挫折を覚悟でそれを試みた時に驚きが生まれ,新しい世界が開ける。光の星の掟を代表するゾフィは,未熟な別の種の個体と一体になり,その生命と未来のためにたたかうリピアー=ウルトラマンという個体のありように驚き,そこまで彼に思わせた人間たちに驚き,「そんなに人間が好きになったのか,ウルトラマン」と言ったのである。
※1 佐藤氏の見解については,未完ながら「佐藤健志氏の金城哲夫論について ウルトラセブンを中心に」で述べたことがある。この拙稿は蛸井潔氏の「糸納豆ホームページ」で公開されている。執筆したのは1994年である。また補足として,「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日もご覧いただけると幸いである。
※2 本稿の見方は,私が以前に『ウルトラマン』最終回と『ウルトラセブン』最終回について示したものと本質的に同じである。ウルトラマンは,ただハヤタを生かしたかったがために地球に居続けたのであり,モロボシ・ダンはただアマギ隊員を助けるために最後の変身をしたのである。前者については「ウルトラマンはハヤタと出会った (2014/7/10)」Ka-Bataアーカイブ,2018年11月8日,後者については前掲「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」を見て欲しい。ただし,以前の二つの拙文では,ウルトラマンとハヤタの融合,ウルトラセブンのモロボシ・ダンへの変身についての考察が弱い。今回は,リピアーと神永の融合の意味をいくらか掘り下げた。
2022/7/21 当初「リピア」と表記したが,日本語字幕版での表記が「リピアー」であることを知り,修正。最終的には公式発表を待って確定したい。