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2025年8月19日火曜日

波多野澄雄『日本終戦史1944-1945:和平工作から昭和天皇の「聖断」まで』中央公論新社,2025年を読んで

 本書は日本が「大東亜戦争」と呼んだ戦争が「日米戦争」「日英戦争」「日中戦争」『日ソ戦争』の複合戦争であったとしたうえで,その終戦史を論じるものである。問いは二つであり,一つは「ポツダム宣言の発表から二度目の『聖断』まで,きわめて重大な二週間余りのあいだに,なぜ最高指導者たちは戦争終結の決断ができなかったか」(ⅳ頁),もう一つは「『徹底抗戦論』が国内に横溢するなか,なぜ二度の『聖断』で終戦が可能であったか」(同上)である。その回答は「『複合戦争』の収集が対米戦争の終結に絞られたことで早期の終戦が可能になり,戦後の日米同盟を導く伏線ともなる」(同上)というものである。著者の紹介による本書の構成は,1941年12月8日の対米英戦の開始から始まっての太平洋戦線と大陸戦線の展開を叙述する第1部,小磯国昭内閣と鈴木貫太郎内閣における様々な和平論の行き詰まりを描く第2部,ポツダム宣言発出から終戦までのか知恵を論じる第3部に分かれる。しかし,読者としての受け止めでは,第2部と第3部はほとんど連続していると感じられるだろう。背景として戦局の展開,序論として小磯内閣期が論じられた後,本書の約半分が本論としての鈴木内閣の終戦指導に費やされ,その後に8月15日以降に関する記述が補足されて,結論に入ると読むほうが素直である。少なくとも政治史の専門家以外の読者が読めば,鈴木内閣が主人公だと思える。このことは本書全体の評価に関わるが,それは最後に述べる。

 以下,本書で関心をひかれた論点を列挙していこう。

 第一に,本書が正面から取り上げた鈴木の終戦指導への評価である。著者はその特徴を「早期終戦を念頭に置きつつも,『軍の士気,国民の士気』を温存しながら,徹底抗戦論を排除しない閣議や戦争指導会議の運営に腐心したこと」(269頁)とする。そして「こうした迂遠な終戦指導は,降伏決定を遅らせたことは確かである」(同上)としつつ,「国体護持という究極的な目的を貫徹するために,もっとも有効な選択肢を探り続けたことも事実である(269-270頁)」とする。「その鈴木に聖断の発動を決意させたのは,8月6日の原爆以降であったと思われる」(270頁)。「さらにソ連参戦が追い打ちをかける」(同上)。

 本書は,鈴木の行動原理について,納得のいく見通しを与えている。「国体護持」を前提にしつつ「終戦」を実現する。しかし,そのためには,内閣の瓦解や軍のクーデターを防止しなければならない。したがい,徹底抗戦論を取る阿南惟幾陸相を閣議をもって説得しつつ,閣議の結果をもって陸相に陸軍をまとめてもらわねばならない。

 この行動原理が「聖断」という手段に結び付く具体的契機は,結局のところ「本土決戦を推進してきた陸軍に,この機に及んで『国策転換』は期待できず,米内ら海軍首脳部にも『転換』の意欲は薄れていた」(170頁)ことが1945年6月8日の「戦争指導の基本大綱」をめぐる動きで明らかになったことである。そこで木戸幸一内大臣が「時局収集対策試案」で天皇の「御勇断」による終結という路線を打ち出し,「軍部より和平提案がなされない限り,『聖断』によって終戦に運ぶほかはないという『試案』の考え方を,6月22日の御前会議にいたる過程において,構成員会議(六巨頭会談)のメンバーや高木,松平,富田らの『サブリーダー』が共有した」(178頁)という。この時点の『御勇断』とは天皇の親書を携えた使者がソ連に飛んで和平仲介を求めることであったが,その希望がソ連参戦でついえたのちはポツダム宣言の受け入れに関する「聖断」へと変わっていく。本書からはこのように読み取れる。

 陸軍の本土決戦論が内閣での合意形成によって克服できないとみなされたときに「聖断」要請へと転換するというすじみちはたいへん明快であり,納得できる。ただ気になるのは,それならば「聖断」方式への舵切りにおいて重要な役割を果たしたのは木戸であって,鈴木は「聖断」要請という選択肢を得たうえで合意形成方式の内閣運営を続けただけではないかと思えることである。確かに,それでも鈴木の終戦指導なくしては,ポツダム宣言受諾をめぐる最後の局面で内閣が瓦解し,宮城事件よりはるかに深刻なクーデターが「成功」してしまったかもしれない。とはいえ,木戸の工作なくして,鈴木の内閣運営だけでは「聖断」にたどり着かなかったかもしれないとも言えるのではなかろうか。

 第二に,本書の後半では鈴木内閣の動向が精緻に分析されているが,その分だけ昭和天皇の動きがよく見えないことである。「聖断」に頼る方式は昭和天皇が即時終戦の意志を持っていることを前提としているのであって,その意思を天皇がどの時点で,何を根拠に持ったかという疑問である。この点についても本書は「昭和天皇に限ってみれば,内外を通した本土決戦体制の不備,それを糊塗する統帥部に対する不信感などが終戦を決意させる要因であったことが判明している」(276頁)とだけ述べており,掘り下げはない。それまで御前会議は意思決定の場ではないという建前を守っていた天皇が「それでは国体も国民も救えないと考え,肝胆あい許した鈴木と運命をともにすることを決断する」(170頁)というのであるが,この過程を実証していない。木戸による工作と昭和天皇自身の姿勢については既に多くの研究があるのだろうが,たとえ先行研究に依拠するのであっても,実証的な叙述に加えておくべきだったのではないか。

 第三に,古くからの問題であるが,降伏・終戦は遅かったか,早かったかの問題をどう扱うかである。著者はこの問題を明瞭に立てたうえで,アメリカの戦争指導者と他の連合国にとっては,想定よりも『早かった』とする。一方,敗戦国日本では「早かった,遅かったを明確に発言していた戦時指導者は少ないが,前線の将兵には『遅かった』と見なす発言が多い」(274頁)とする。第33軍参謀野口省己が言うように「終戦がもう1か月早かったら,2万人近い将兵の命は助かったであろう」(同上)からである。一方,ソ連の介入が避けられたことをよしとする阪急電鉄創業者小林一三と昭和天皇の発言も紹介されている。そして著者自身は「終戦の決断のタイミングという問題は,それを議論する人々の戦後の立場によって,また戦争のゆくえと,戦後をどのように見通していたかによっても異なっていた」(275-276頁)という記述にとどめ,必ずしも切り込んでいない。

 これは,歴史の記述で「if」を論じることがどのくらい可能かという,これまた古くからの問題にかかわる。論じるとしても,当時,政治指導を行っていた人々にとっての選択肢の範囲で論じるべきか,それを越えてより超越的に論じるかという問題があるかもしれない。しかし,このように慎重に扱うのであれば,そもそも「遅かったか,早かったか」という風にではなく,「何が終戦工作を妨げていたか」と問題を立てるべきであったように思える。本書冒頭では,その問いをポツダム宣言発表以後に限って発しているが,「遅かったか,早かったか」の問いと同じく,より長いスパンで発するべきだったろう。しかも,本書は叙述内ではその回答を事実上出しているように思える。鈴木内閣成立時に「陸軍中堅層の強硬な抗戦論の封殺や排除は,ただちに政変やクーデターにつながる一触即発の政治情勢にあったこと」(112頁)である。これは常識と化している回答であるのかもしれないが,結論部で改めて確認すべきことであったのではないか。

 第四に,ポツダム宣言受諾とは結局,日米戦争を終結させるものであり,そういう限定されたものとして戦後政治を規定していくという著者の観点である。ポツダム宣言受諾の論理とは,武装解除や戦争犯罪処罰には条件を付けず(つけるべくもなく)降伏するが,「国体」は護持されるものと(一方的に)解釈するというものであった。「国体」とは,世界に通じる政治の言葉で言えば天皇制である。そう翻訳した上で,受諾の論理は,連合国の中核として日本を占領したアメリカによって採用されることになった。「アメリカが『妥協的和平』に応じず天皇制の将来をあいまいにしたまま,『紛争原因の根本的解決』に固執したがために,他の選択肢の余地を閉ざしたのである」(278頁)と指摘している。著者が千々和泰明氏の表現を借りているためにわかりにくいが,アメリカに反抗する武装や戦争の正当化は許さないが,天皇制は残したということであろう。そして,昭和天皇のみならず戦前・戦時に日本の中枢にいた人々が,一部は歴史の表舞台から消えながらも一部は残存して戦後も日本の政治を動かしていったために,受諾の論理は,国体と民主主義は両立するという「一君万民論」に展開して戦後日本政治を規定していく。こうして,ポツダム宣言受諾の論理が戦後の日本政治と対米関係の論理の起源となっていくという著者の分析は精緻である。もっとも,「二度の聖断によって日本が必死に護ろうとした国体は,占領軍とのせめぎ合いの中で,その『尊厳的機能』に導くことで戦後も生き延びたのである」(273頁)というのは,いささか「国体」という言葉に引きずられているように思われる。

 最後に,本書が大日本帝国が遂行した戦争を「日米戦争」「日英戦争」「日中戦争」「日ソ戦争」の「複合戦争」としていながら,ポツダム宣言発表から8月15日までに限った問題設定を行い,叙述の約半分は鈴木内閣の動きに置いたことをどう見るかである。鈴木内閣が,軍事力の激突で圧倒的に負けている対米戦争に対象を集中したがゆえに降伏できたというのは,わかりやすい話である。しかし実際には複合戦争なのであるから,ポツダム宣言を受諾し,終戦の詔勅を発しただけでは戦争は終わらなかった。著者も,終戦の詔勅をもって戦争終結とするような記述を取らず,「百万の大軍を擁する支那派遣軍を降伏させ,始まったばかりの日ソ戦争を停戦に導くのは容易ではなかった。南方軍もまた,三外征軍(関東軍,支那派遣軍,南方軍)が一致して徹底抗戦を大本営に訴えるよう提案していた」(254頁)と指摘して,実際に停戦するまでの困難と,その在り方が戦後政治に残した影響を記述している。中国については「大戦末期には,国連創設に力を尽くすなど戦勝国としての立場の確立に努めたが,内戦の中で著しくその国際的地位を低下させ,戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒に立ちえなかった。一歩,日本にとっては,そのことは日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ,中国との戦争の記憶が遠ざかることを意味したのである」(263頁)と指摘する。またソ連については,「日本の降伏プロセスにおいてソ連の参戦はもっとも重要な要因の一つであったが,戦後の日ソ関係の展開という観点からすれば,むしろ8月15日以降も続いた『日ソ戦争』が大きな意味を持った」(267頁)という。いずれももっともな指摘である。

 しかし,著者の言うとおりであるならば,日中戦争や日ソ戦争については,ポツダム宣言受諾の仕方ではなく,それとは独自に進行した戦闘終結のあり方の方が,戦後を規定したということになる。となると,鈴木内閣に焦点を当て,とくにポツダム宣言発表以降の動きに最大の紙幅を割くという方法では,「日本終戦史」を描ける範囲が限られてしまうのではないか,という疑問が湧いてくる。これが本書の全体構想に対して残った疑問である。

 私は波多野澄雄氏の研究に通じておらず,本書のみを孤立的に取り上げた。それ故に読み方が浅い点や,他の著作で書かれていることを知らないだけの点もあるかもしれない。本書は,全体として手堅い政治史的な記述がたいへん勉強になり,また検討すべき論点を深める手掛かりとなる書物であった。


版元ページ
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/07/102867.html



2024年7月22日月曜日

麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書,2024年を読んで

 麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書,2024年を読んで。

 本書を読んで認識を新たにしたのは,何よりも「日ソ戦争」という名称でくくられる一つの戦争があったということである。この戦争は,対中国の戦争とも対米英の戦争とも異なる性格のものであり,1945年8月15日を過ぎても戦闘が終わらなかった戦争であり,戦後の日ソ関係,今日の日露関係にも重大な影響を及ぼしている,独自なものだった。本書の最大の意義は,この戦争の独自性をはっきり示したことにあるように思うし,また著者の狙いもここにあったのだろうと思う。

 一方において,日ソ戦争は第二次世界大戦の一部であり,その意味で相対化される。大日本帝国の軍事支配体制が背景となり,アメリカの戦略によっても規定されたものである。しかし,繰り返しになるが,それでもやはり日ソ戦争は日ソ戦争という独自の戦争なのであって,それ自体としても評価されねばならない。本書で,著者は日ソ戦争の特徴として3点を挙げている。第1に,民間人の虐殺や性暴力など,現代であれば戦争犯罪である行為が停戦後にも頻発したことである。第2に,住民の選別とソ連への強制連行である。第3に,領土の奪取である。もっともな指摘である。

 こうして改めて見直してみれば,戦後の日本における世論がソ連に対して否定的になったことはもっともであった。それはアメリカと同盟を結んだが故の反共イデオロギー宣伝の結果だけではなく,根拠のある話であった。また,この話を敢えて裏返すならば,日本の社会主義者たちがある時期までソ連に批判的に接することができなかったことの問題も,やはり深刻であった。戦後の日ソ関係や日露関係とは,そういうトラウマや呪縛との格闘であったのかもしれない。


出版社ページ
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/04/102798.html




2022年8月15日月曜日

安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』中央公論新社,2022年を読んで

  著者にいただいた安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』を読了した。以下,今回気づかされた点を列挙する。

*泥縄。「大東亜共栄圏」の語が初めて登場したのは,日独伊三国同盟の交渉の過程で,日本の勢力圏を認めさせるためであった。ところがこの勢力圏としての大東亜共栄圏は対米開戦のために実行不可能となった。逆に,より切実でそれなりに具体的な排他的自給圏としての大東亜共栄圏が浮上したのは,対米開戦後,実際に東南アジアを占領してからであった。そんなことで間に合うわけがない。

 大東亜共栄圏が,結果として東南アジアからの資源収奪に終わったことは,原朗「『大東亜共栄圏』の経済的実態」『土地制度史学』第71号,1976年(現在は原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会,2013年)などから理解はしていた。今回,本書からは,大東亜共栄圏が,そもそも経済的に可能だという見通しをもって計画的に試みられたものではなかったことを知ることができた。

*食糧不足という要因。フィリピンでの綿花増産や鉱山復旧については,治安の悪化,ゲリラの抵抗によって困難となったのに対して,北支での銑鉄,アルミナ増産などの経済開発挫折の最大要因は,食糧不足による労働力確保難であった。私は,大陸での小型高炉による銑鉄増産がなぜ挫折したのかについて知りたいと思っていたのだが,食糧不足が基本要因であることを初めて認識した。

*重光葵の外交路線が意味するもの。重光は,大東亜共栄圏から,日本を頂点とする階層秩序である排他的自給圏であるという外観を,なんとか薄めようと努力した。それは,国際経済秩序についての戦後構想を示し,日本の戦争と外交に国際的な正統性を獲得するためであった。重光は大東亜共同宣言を大西洋憲章に対置できるように努力したが,果たせなかった。

 著者からいただいたメールには,重光についての記述に力を入れたとのことなので,その点について,やや話を広げた感慨を述べる。

 本書に先立って,先日加藤陽子『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版社,2016年をようやく読んだ。そこで認識を新たにしたのは,大日本帝国がリットン調査団報告以後,対米交渉に至るまで,諸外国から繰り返し「より開放的な国際秩序への復帰」を呼びかけられていながら,これを拒絶してしまったということだった。

 私も経済学者の端くれなので,自由な通商体制によって排他的行動を抑制するという経済思想を,その経済的望ましさによって評価しがちである。しかし,むしろ国際政治の面から,この思想の正統性,他者に対する包容力,説得性を含めて理解することが,デカップリングの可能性が話題となる今日,重要ではないだろうか。つまり,開かれた,多くの諸国を包括する通商体制は,国際秩序から離れて自国中心の秩序をつくろうとする国家に対する批判と説得の論理として,歴史的に重要な局面で用いられてきたということだ。

 当時,日本は開かれた通商に戻れという呼びかけをついに振り切って,国際連盟を脱退し,日独伊三国同盟を結び,対米開戦に踏み出してしまった。しかし,開戦してから泥縄で構築しようとした大東亜共栄圏について,本書が注目した重光は,何とかその閉鎖性を緩和し,国際的な正統性をもたせようとした。それは英米が,領土不拡大・民族自決・自由な貿易をうたった大西洋憲章を提示していたからである。手遅れで,到底無理な試みではあったが,重光はこれに対抗する構想を提示せざるを得なかった。開戦してから慌てて言い訳をするくらいならば,リットン調査団と国際連盟脱退の時点,あるいは三国同盟締結交渉の時点,せめて日米交渉の時点で,もっと国際的に正当性を確保する道を選ぶべきだったのに,と思わざるを得ない。

 当時も,そして遺憾ながら21世紀の今も戦争は政治の延長であり,政治はあからさまな軍事力を含む力関係に規定されている。パワーのない正統性は無力であり,戦争で敗北した国家は,基本秩序(憲法)を転換させられるかもしれない。しかし,正統性を伴わない力は支持を得ることができず,国家はその行使によって国際秩序の中で安定した地位を獲得することができない。その意味では,長い目で見てやはり弱体である。

 開かれた通商体制は,戦争によって踏みにじられるかもしれない。しかし,どの国家も,開かれた通商体制の中で生きるという建前をかなぐり捨てることは難しい。戦争とは軍事力の衝突であると同時に,戦後の開かれた秩序を提示し,それへの支持を獲得する政治的競争でもある。このダイナミズムがかつてどのように作用したかを知ることは,21世紀の目前の問題にとって重要な示唆を与える可能性があるように思われる。


2022年8月28日:9段落目に一文追加。

安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』中央公論新社,2022年。




2020年12月1日火曜日

青木清「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」を読み,韓国大法院判決の論理の深刻さを知る

 昨年度のアジア政経学会秋季大会共通論題「東アジアと歴史認識・移行期正義・国際法ー徴用工問題を中心としてー」を基礎とした論文が『アジア研究』66巻4号に掲載された。昨年12月1日に投稿した通り,私はこの大会での青木清報告に強い衝撃を受けていたので,この度,整った論文を読むことができて,たいへんありがたかった。門外漢ゆえに見落としはあるかもしれないが,私はこの青木論文「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」こそ,元徴用工に関する韓国大法院判決の論理を理解するために待ち望まれたものだと思う。実に丁寧かつはっきりと説明してくださっている。この判決が正しいと思う人であれ,間違っていると思う人であれ,この論文は読む価値があると思う。J-Stageで無料公開されている。以下,私なりに要旨紹介するが,関心ある方は実物に当たられたい。

 青木論文は,まず「徴用工判決」の裁判としての性質は,国境を隔てて発生する私法上の問題を扱う渉外私法事件であることを明示する。外国裁判も外国法も,内国でその効力を認める国際法上の義務はない。しかしそれでは片付かないことから,外国裁判といえども一定の条件を満たせば国内でその効力を認め,事件を解決するにふさわしい外国法であればその方を適用するというシステムを国際社会は採用している。この裁判はそういう性格の事件において,韓国大法院が日本の判決,日本法の適用を認めなかったものなのである。

 認めない理由は「公序」に反するからである。漠然としているようであるが,これは韓国の法律にも日本の法律にもあることで,おかしなことではない。その上で,この大法院判決の特徴は,公序に反することの根拠を,韓国憲法の理念に反するところに求めていることだ。韓国憲法の前文は日本の植民地統治の合法性を認めない。それが根拠になり,日本の裁判所での判決を否認している。具体的には,戦時中の日本製鉄と新日鉄(日本での裁判の判決当時)の法人格の同一性を否認し債務の継承を否認した日本法の適用を,否認しているのだ(ややこしくて申し訳ない)。さらに積極的に,強制動員慰謝料請求権が成立するとしているのだ。そして,この権利が請求権協定の対象とならない根拠を,日本が植民地支配の不当性を認めず,強制動員被害の法的賠償も否認しているからだとしている。

 この青木報告を聞いたときに唖然としたことをよく覚えている。素人判断は危険ではあるが,私が思うには,この判決の論理は極めて深刻である。深刻というのは,正しいとか間違っているとかいうのではなく,判決の命じるままに行動すれば深刻な政治的問題を引き起こす一方で,覆すのも政治的に困難なように出来ているという意味だ。

 まず,この判決は韓国憲法の理念に根拠を置いている。ということは,憲法が比較的国民に支持されている韓国の政治においては,容易には否定されないであろう,と見通すことができる。逆に言えば,憲法の理念からいきなり日本の判決の適用の否認,日本法の適用の否認を根拠づけ,個人の存在賠償請求権まで根拠づけているわけで,それは,事の正否とは別に法解釈として飛躍があるように思う。

 次に,仮にこの判決の論理が通るならば,日本製鉄の行為にとどまらず,戦前戦中に朝鮮半島で行われた広範な行為を,それが直接間接に日本の植民地統治に肯定的にかかわっていた際には,事後に制定された韓国憲法の理念により,日本法を否定してで裁くことが可能になってしまう。それは韓国政治における日本帝国主義への批判を後押しするものなだけに,やはり韓国政治において容易には否定されないだろう。しかし,この,あまりにも事後法と言うべき論理が通るならば,政治・外交が過去の清算に注がねばならないエネルギーは止めどもないものになる可能性がある。そのようなことが大混乱や取り返しのつかない対立を起こさずに可能とは思えない。

 青木論文は,一方において,1965年の日韓基本条約や4協定では,植民地統治をもたらした条約を「もはや無効」と玉虫色の決着をしたため,棚上げ,先送り,犠牲にされた問題があることに注意を促す。日本は,これらの事柄に対応すべきだというのである。「1965年しか見ない日本」とされるゆえんである。他方,青木論文は,だからといって国際合意を覆し,条約の中身を否定するのは「法解釈としてはやはり行き過ぎ」だとする。「『日帝』にこだわる韓国」の法的行き過ぎである。結論として青木論文は,建設的な政策の再開を訴えている。

 私も青木教授に共感する。法の上では,韓国大法院の論理は行き過ぎであると思う。韓国の政府や司法が,徴用工問題を契機に,司法の論理で過去の清算を進めようとすることには無理がある。しかしそれは,日本政府が過去の清算問題などないという態度を取ってよいことを意味しない。法や条約の論理にはかからなくても,徴用工や強制労働(強制労働の実態があったことは日本の大阪地裁判決も認めている)という過去の出来事にどう向かい合うのかという問題は,本来,政治と外交において存在しているはずだ。韓国大法院の判決を押し立てるだけでも,それを国際法違反として頭から退けるだけでも,問題は解決しないのだと思う。本来は,過去の出来事にどう向かい合うのかという,基本的なところから出直さねばならない。しかし,ここまで話がこじれた状態で,どうすればそうした出直しができるのか,正直私にもわからない。青木論文は,問題の深刻さ,抜き差しならなさを教えてくれたのだ。


青木清「1965年しか見ない日本,『日帝』にこだわる韓国ーー『徴用工判決』の法的分析を通して」『アジア研究』66(4),2020年10月。 https://doi.org/10.11479/asianstudies.66.4_22



2020年8月21日金曜日

靖国神社への閣僚参拝は「中韓から言われること」だ

  靖国神社に参拝した衛藤晟一領土問題担当相が「われわれの国の行事として慰霊を申し上げた。中国や韓国からいわれることではないはずだ」と発言したそうだ(「衛藤担当相 靖国参拝「中韓からいわれることではない」 記者に反論」『産経新聞』2020年8月15日)。

 何を言っているのだろうか。靖国神社は中立的な慰霊の場所ではない。大日本帝国が行った戦争を自衛のためのやむを得ざるものと肯定する特定の歴史観を宣伝する団体である。大日本帝国に尽くした軍人・軍属だけを祀る神社である。

 だから,閣僚がそこに参拝することを中国や韓国が批判するのは当たり前である。仮にそれが正しいと認めるかどうかは別にしても,「中韓からいわれること」なのである。衛藤担当相は,批判が間違っていると思うならば,「靖国神社の戦争観が正しい。大東亜戦争は自衛戦争であった」と堂々と言ってみてはどうか。それがさすがに無理だから,靖国神社に特定の価値観はないかのように言い張ってごまかしているのではないのか。


2020年6月15日月曜日

鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々~円谷英二と戦時東宝特撮の系譜~』文芸社,2020年を読んで

 鈴木聡司『映画「ハワイ・マレー沖海戦」をめぐる人々~円谷英二と戦時東宝特撮の系譜~』文芸社,2020年。「特撮の神様」円谷英二による特殊撮影によって名高い『ハワイ・マレー沖海戦』とその前後の戦時東宝特撮映画の系譜を描いた著作である。

 本書の主人公は特殊技術担当の円谷英二,東宝映画株式会社取締役の森岩雄,監督の山本嘉次郎であり,その周囲を,この映画に携わった様々な人々が取り巻いている。「働き盛りの男達が国家や軍部といった強大な力を有する相手を向こうに廻して,映画作りに奮闘する様子を追いかけていくのが本稿の主題となる」(7ページ)。と同時に本書は,その戦時という時代背景を書き込み,『ハワイ・マレー沖海戦』の前後の事情をも明らかにする。すなわち,戦争映画の製作によって東宝の特殊技術部門が拡大し,『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめとする戦意高揚映画が全盛期を迎え,敗戦とともに一瞬で消滅して戦後へと変転していく過程を描いている。主人公たちは,その波を積極的に担いながら,波に翻弄されるのである。

 類書をそれほど読み込んだわけではない私にも,本書は2点において重要な意義を持っているように思える。

 ひとつは,『ハワイ・マレー沖海戦』の製作過程を,キーパーソンの行動に即して明らかにし,とくにこれまで不明であった軍との関係を解明したことである。とくに著者は,本作品に関して語られる様々な「伝説」について詳細に資料を検討して,ある時はこれを覆し,あるときは裏を取り,ある時は新たな文脈に置きなおしている。例えば「軍事機密の関係で海軍側からの資料提供が得られなかったために,新聞に掲載された報道写真を参考にして真珠湾軍港のミニチュア・セットが作られた」という伝聞は誤謬であるという。一方で,確かに軍事機密の壁にぶつかったことも事実であるが,他方で,軍人にハワイのミニチュア作成の指導に当たってもらっていたのである。こういう,一見相反することが,どのようにして起こったのかが,製作過程に即して解明されている。著者のこうした考察は,軍艦資料の入手からミニチュアの縮尺率,さらに「1億人が見た!」と言われることの実情に及ぶ。とくに厄介なのは,円谷や山本自身の文章にも相矛盾することが書かれている場合であり,著者は当人の証言だからと言ってうのみにせずに検証していく。また,軍との協力に関する事実関係は,映画関係資料だけからではなく,軍の関係者が残した手記や伝記の方からも探求されていて,資料を多面的に用いることの重要性も感じさせてくれる。例えば上記のミニチュア作成の指導の件は,原田種寿・村上令『予科練教育―ある教官と生徒の記録』新人物往来社,1974年によって確認されたのだ。

 もうひとつの意義は,戦時東宝特撮の生成から消滅,そして戦後への変転を時間の経過に即して一気に描き切ることで,その短期間での変転の激しさ,異様さ,それを担いながらそれに翻弄された人々の複雑な思いを読者に提示したことである。当たり前のことだが,1942年12月の『ハワイ・マレー沖海戦』封切りから1945年8月のポツダム宣言受諾までは2年8か月,1948年3月の第三次東宝争議までは5年4か月しかたっていない。しかし,戦後に生まれ育った私のような人間は,社会科学者のつもりであっても戦時と戦後の断絶という「常識」的感覚のもとで生きており,戦時と戦後を,まったく異なる時代のように思ってしまうくせがついている。そうではなく,わずか5年の間に戦時特撮は高揚し,滅びて戦後に突入したのだと,本書はいやおうなくわからせてくれる。戦意高揚映画を作り続けていた数年後,山本監督は組合委員長に推挙されながら戦争責任を問われて辞することになり,屈折の中で生きる。宮島義勇カメラマンは一転して組合急進派となる。取締役の大沢善夫は,近代的な経営を目指して組合と対峙するようになるのである。翻弄されながら身を転じていくその姿を,著者は告発するでもないし,特撮技術が発達したからそれでよかったと肯定するだけでもない。森や山本や円谷がどのように時代の変化と,それをめぐる人間の態度の変化を受け止めていたのかを,その行動と残された証言から再構成し,『ハワイ・マレー沖海戦』の重みを明らかにしながら,その後ろめたさをも照射するのだ。とはいえ,森岩雄と円谷英二については,その寡黙さの前に,著者も立ちつくしているようにも見えるのだが。

 「現在ではクールジャパンの代名詞の一つとして扱われる『特撮』も『アニメーション』も,ともに誕生した直後には,そうしたきな臭い時代の風を満帆に受けることで技術的な躍進を果たしてきた事実」(8ページ)は消えない。そのことの受け止めについては,容易に結論を出せるものでもなければ出すべきでもないだろう。なので,その時代を生きた人々の歩みの複雑さを,複雑さとして受け止めることから始めねばならない。本書はそのための重要な,確固たる礎石であるように思う。

出版社サイト。
https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-21687-4.jsp

『ハワイ・マレー沖海戦』Amazon Prime。



クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...