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2021年11月27日土曜日

DCJPYはデジタル技術によるデビットカードサービスの付いた預金であり,新たなデジタル通貨ではない -誇大広告をやめ真の可能性を論じよう-

 1.新たなデジタル通貨?

 2021年11月25日の『日経』紙版の1面(13版)をかざったDCJPY(ディーシージェイピーワイ。呼びづらっ!)は,「デジタル通貨で企業決済」を実現するのだとうたわれている。円と並ぶような新たなデジタル通貨が出現するのだろうか。あるいは,円建てなのだけれど,日銀券でも硬貨でも預金通貨でもないデジタル通貨が出現するのだろうか。ホワイトペーパーを一読した限りでコメントしたい。

2.同一銀行内の支払ができる,デジタルデビットカード付き預金

 結論から言うと,現在開始されようとしているDCJPYはデビットカードをデジタル化し,付加的なサービスをつけたものである。ただし,送金ができるのは同一銀行の範囲に限られる。以下,説明しよう。
 まず思い出しておかねばならないのは,そもそも普通預金であれ当座預金であれ,預金自体がいまやコンピュータ上のデジタル化された存在だということである。そして決済が可能な預金は通貨の一種とみなされる。すでにデジタル通貨は存在しているのである。DCJPYも円建て預金の一種とのことなので,同じくデジタル預金通貨である。それはよい。ただし,これまでの預金通貨はアナログで,DCJPYはデジタル通貨だと言う話は成り立たない。
 DCJPYは確かにデジタル通貨である。ただし,いままでも存在しデジタル通貨の中に登場した新種に過ぎない。いままではアナログな通貨しかなかったところにデジタル通貨が新たに出現したということではないのである。
 さて,DCJPYは円建て預金の一種であり,通常の預金と引き換えに発行される。何が普通の預金と異なるかと言うと,A社がB社にDCJPYを使って払うと,双方が取引口座を持つX銀行内で決済される。そのスピードが速く,付加的な様々なサービスと結合しやすいのが売りとされる。このサービスの負荷とセキュリティに,ブロックチェーンを含むデジタル技術が活躍する。
 だから,預金自体は今までもデジタルであり,今後もデジタルなのであって,何も新しくない。通貨のデジタル化が起こるのではない。新しいのは,情報端末から簡単・迅速に支払い決済を完結させられることである。単純化したイメージでは,スマホなどの端末操作一つで企業間決済が完結するような仕組みであろう。DCJPYが行うのは,預金への支払指図のデジタル技術による効率化であり,わかりやすく言えばデビットカードのデジタル化である。そして,それを企業間決済にも使えるようにするというのである。
 ただ,ホワイトペーパーによれば,「現在は同一の銀行が管理するデジタル通貨口間の送金に限定しており,異なる銀行が管理するデジタル通貨口座間の送金については商用時を見据えて今後検討を続けていく予定です」(9ページ)となっている。つまり,同一銀行内の口座間決済にしか使えない。なので,ますます通貨と呼ぶには値しない。
 以上のように,DCJPYは同一銀行内の決済を,デジタル化されたデビットカードサービスが使える新種の預金なのであって,円と並ぶ新通貨でもなければ,アナログ通貨にとって代わるデジタル通貨でもなんでもないのである。誇大広告をしてはならない。
 DCJPYが同一銀行内で用いられるだけであれば,そもそも普及せずにしりすぼみに終わる可能性もある。成功するとすれば,それは顧客を事項のサービスに囲い込もうとする銀行間競争の手段になるだろう。

3.銀行間送金ができれば通貨になるか

 しかし,ホワイトペーパーが構想しているように,異なる銀行間での送金ができるようになればどうだろうか。そうなればDCJPYはまったく新しいデジタル通貨と言えるだろうか。これも答えはノーである。
 理由を述べよう。送金の送り手をA社,受け手をB社とする。そして,両者の取引銀行が違っていて,A社はX銀行,B社はY銀行と取引しているとする。A社はX銀行に預金としてDCJPYを持っている。これをDCJPYに送ろうとすれば,どうなるか。DCJPYは預金の一種であって現金ではないところがネックになる。
 現金ならば,そもそも銀行を介する必要はない。大規模な電子的決済システムをつくり,A社のスマホ内のデジタル現金をB社のスマホ内に移せばよい(※1)。しかしA社がX銀行に持つ預金である以上,これを引き落とした上で,X銀行からY銀行に送金し,Y銀行が受け取ると同時にB社のDCJPY口座に振り込むしかない。
 では,円建てDCJPYをどうやってX銀行からY銀行に送るのか。これは,通常の銀行間預金振り替えと全く同じで,日銀当座預金を使えばよいし,そうするしかない。新種の預金に対応した制度改正は必要だろうが,DCJPYが預金の一種である以上,原理的に不可能ではないだろう。
 だからDCJPYの銀行間送金は実現するかもしれない。しかし,実現したところで,それは単に新種の預金の振り替えであって,既存の通貨と異なるデジタル通貨が出現したわけでも何でもないのである。

4.DCJPYの真の可能性

 では,DCJPYの銀行間送金が実現したとして,それは何の意味もないものなのかというと,そうではない。銀行間の口座振替がスピードアップした上に,デジタル化されたデビットカードで簡単に送金できるようになるからである。新しいデジタル通貨が出現するわけではないが,飛躍的に便利なデビットカードはデジタル技術で実現する。これはこれで結構なことと言わねばならない。
 このことは,通貨と金融サービスのデジタル化の流れの中で,大きな意味を持つ。このデジタル化には二つの側面がある。一つは,まだデジタル化していない通貨がデジタル化することである。つまりは紙幣や硬貨と言った現金のデジタル化であって,これこそが本当の意味での新たなデジタル通貨の出現である。もう一つは,金融サービスの一丁目一番地である口座振替サービスがデジタル化することであって,DCJPYのようなデジタルデビットカードサービスがここに含まれる。
 通貨と金融サービスのデジタル化が進むとすれば,その最大の要因は中央銀行デジタル通貨(CBDC)である。CBDCの望まれる形は現金の電子化であり,100円玉や1万円札の代わりにスマホをつかってトークンを操作することである。これは預金には本質的にかかわりがない(※2)。預金は中央銀行でなく,各市中銀行の発行する通貨だからである。
 さて,ここで預金の取扱いをCBDCに負けないように便利にするためには何が必要か。預金自体は既にデジタル化されているから,そのスペックを上げる必要はあっても本質を変える必要はない。必要なことは,預金口座の利用の便宜をアップさせ,スマホなどからの簡便な操作で送金ができるようにする必要がある。スマホ操作で口座間送金をすること,預金をおろしてCBDCにすることや,またはその逆だ。もしDCJPYが発展すれば,これを実現することができる。CBDCと補完しあって,通貨・金融サービスのデジタル化を推進することができるだろう。とくに,使い勝手の良いCBDCができた場合は,CBDC,つまりデジタル化された現金取引が優位に立ち,預金通貨による口座振替が縮小することが予想される。DCJPYのような口座振替サービスのデジタル化は,預金通貨の側からこれに対抗するものとなるだろう。これが,DCJPYが持つ真の可能性であり,社会的意義である。

 そして,その新たな土俵の上で,個人や企業はDCJPYのような預金通貨と,CBDCすなわちデジタル化された現金とを使い分けるようになり,預金通貨と現金通貨の割合が変化するだろう。もしDCJPYのようなサービスが先行すれば預金通貨の割合が大きくなるし,もしCBDCが先行すればデジタル現金通貨の割合が大きくなるだろう。

5.結論

 DCJPYは,円に代わる新通貨でもなければ,これまでデジタル化していなかった通貨をデジタル化させるものでもない。デジタル技術によるデビットカードサービス付きの新種の預金である。そして,現在の構想ではそれは,同一銀行内の決済にしか用いられないものである。なのでしりすぼみに終わるかもしれないし,成長したとしても,その意義は銀行間の競争手段としてのものでしかない。
 しかし,もしDCJPYが銀行間送金を十分な範囲で可能にするならば,話は違ってくるかもしれない。それはやはり新種のデジタル通貨の出現ではなく,デジタル技術によるデビットカードサービスであるが,銀行システム全体の便宜を高め,CBDCを補完して通貨と金融サービスのデジタル化を推進する手段となる可能性がある。
 DCJPYの可能性を過大評価も過小評価もせず,誇大広告やミスリードなワーディングに惑わされないように見据えていくことが必要である。

※1 トークン型の中央銀行デジタル通貨(CBDC)はこのように取り扱える。それはトークン型CBDCが現金のデジタル化だからである。

※2 個人が直接中央銀行に預金を持つ「預金の中央集権化」としてのCBDC構想もあるが,いくつもの観点から適切でない。このことは,簡単には2020年7月15日の拙ブログ投稿,詳しくは2019年12月4日の拙ブログ投稿を参照してほしい。


「DCJPY(仮称)ホワイトペーパー」デジタル通貨フォーラム,2021年11月。

「中央銀行デジタル通貨(CBDC)再論:口座型は個人預金の準国営化という奇策であり,トークン型が合理的」Ka-Bataブログ,」2020年7月15日。

「中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき」Ka-Bataブログ,2019年12月4日

「デジタル通貨で企業決済 74社、来年にも まず電力売買 取引数秒・低コスト」『日本経済新聞』2021年11月25日。


2021年11月25日木曜日

MMTを含む信用貨幣論が「債務を増やす」というのは「手形を切ること」であり,「誰かの持っているお金を借りること」ではない:生産的討論のための解説

 MMTを含む信用貨幣論について議論すると往々にして食い違いが生じるのは,「債務を増やす」と言う時にイメージしている行為が異なるからだと思う。ここがボタンの掛け違いを生み,生産的な議論を困難にし,支持者と反対者が互いを非常識扱いするもとになる。この投稿は,この食い違いの理由を解きほぐした上で,信用貨幣論が「債務を増やす」ことをどのように理解してるかを説明することを目的としている。

 たいていの人は,「債務を増やす」と言う時に,「誰かが持っているお金を借りる」ことをイメージする。しかし,信用貨幣論が言っている「債務を増やす」とは,「手形を切る」ことである。信用貨幣とは,広範に流通することができて期限が特定されていない手形の一種である。

 手形を切って何ができるかと言うと,1)財・サービスを購入する,2)人を雇う賃金として支払う,3)手形をつかって貸し付ける,4)手形と別種の金融資産を交換することが可能である。

 既にこの世に存在していて,誰かが持っているお金を借りるのであれば,誰かが債務を増やしても流通する通貨は増えない。誰かが債務を増やそうとすればするだけ金融市場は需要超過になって金利は上昇する。

 一方,誰かが手形を発行し,その手形が受取人から別の人へと流通して通貨になるのであれば,債務が増えると流通する手形=通貨は増える。誰かが債務を増やしても金融市場は需要超過にはならず,直接には金利は上昇しない。ただし債務の信用度には高い低いがあるので,信用度が低くなれば金利は上昇する。

 「債務を増やす」とは主要には「手形を切る」ことだというのが,MMTを含む信用貨幣論の理解である。

 よく「MMTは無から有が生まれるように言っている」と非難する人がいるが,企業が商業手形を切り,銀行が銀行券を発券する時,商業手形や銀行券は無から生まれているのであって,それをおかしいという人はいない。同じように,信用貨幣論は,現代の通貨は手形なのであって,発行される時には無から生まれると言っているに過ぎない。

 もう少し具体的に言おう。手形を切って債務を増やすのは政府であり,中央銀行であり,民間の銀行である。政府が財政赤字を出して支出を行うのは本質的に上記分類の1)や2)であり,中央銀行が銀行に,銀行が企業に貸し付けを行うのが2)であり,中央銀行や銀行が国債や債券を購入するのが3)である。発行される手形とは、具体的には中央銀行当座預金、中央銀行券、民間銀行当座預金、現在日本にはないが民間銀行券である。

 信用貨幣論は「政府が財政赤字を出すと通貨供給量が増える」,「財政赤字は民間貯蓄を吸収しない」と主張している。この主張は,政府が「誰かが持っているお金を借りてきて支出する」と想定すると不合理に響くだろう。しかし,政府が「手形を発行し,手形で支払うことで支出する」と考えると理解できるだろう。

 信用貨幣論が,「銀行が貸し出しを増やすと通貨供給量が増える」,「社会全体では、預金量は貸し出しを制約しない」と主張するのは,銀行が「誰かが預けた預金をまた貸し出す」と想定すると不合理に聞こえるだろう。しかし,銀行が「預金と言う手形を発行し,手形で貸し付ける」と考えると理解できるだろう。

 MMTを含む信用貨幣論は以上のように考えている。支持者と批判者にはこの共通理解に立って討論して欲しいと思う。

※この話だけだとさらなる疑問が生じることはわかっているが,これ以上進むと少し専門的になるので,まずはここまでの話,つまり「すでに誰かが持っているお金を借りて来る」ことと「手形を切っている(振り出している,発行している)」ことのちがいをご理解いただきたい。より展開された論点については,別の機会に述べたい。一部は,これまでの私の投稿でも論じている。


2021年11月15日月曜日

行き過ぎた財政赤字が悪性インフレを招く理由は、「貯蓄を吸収するから」なのか:標準的マクロ経済学と信用貨幣論(MMTを含む)の対比

 *課題:財政赤字をどこまで拡大すると悪性インフレになるのか

 財政赤字とは,政府が債務を背負ってでも財政支出を拡大することを意味する。それが必要なのは,失業減少,景気回復や,市場メカニズムでは達成されない社会的目標の実現のために必要とされるからである。だから財政赤字には望ましい効果があるが,望ましくない効果もある。後者があまり大きくなった場合は,それ以上財政赤字を拡大すべきではない。望ましくない効果に含まれるのは,成長率を上回る金利による債務の発散,悪性インフレ(※1),バブル,為替レート急落である。ここまでは,ほぼすべての研究者,実務家にとって共通了解である。

 では,どのような時にこの望ましくない効果が表れやすいか。一番典型的な場合として,財政赤字をどこまで拡大してしまうと悪性インフレになるのか。この投稿では,この論点についての標準的なマクロ経済学と,私が依拠する信用貨幣論(MMT=現代貨幣理論もその一種)との違いを説明したい(※2)。


*標準的なマクロ経済学の見解:貯蓄を吸収し過ぎた時

 リンク先の齊藤誠教授の論稿「国家財政は破綻するのか、神学論争回避への提言 財務省・矢野次官の「財政破綻」投稿を考える」が指摘されるように,標準的なマクロ経済学は,「財政規律を遵守せざるを得ない」環境,もし遵守しなければ悪性インフレが生じてしまうような環境が生じるのは,国債発行が大量になりすぎて国内の貯蓄の多くを吸収してしまい,国債・貨幣需要が消えてしまう時だと考える。歪曲でない証拠に引用しておく。

「標準的なマクロ経済学が用意している解答は、「旺盛な国債・貨幣需要は、いつか消えてしまう」となる。(見出し替えをはさんで)おそらく、そのきっかけとなるのは、大規模な自然災害や経済危機が起き、国内の貯蓄水準をはるかに上回る財政支出をせざるをえない事態だろう。その結果、内外の金融市場で円建ての長短金利が跳ね上がり、国内の物価水準が高騰すると、それまで旺盛な国債・貨幣需要を支えていた要因が一挙に失われてしまう」。


*信用貨幣論(MMTを含む)の見解:財政赤字は貯蓄を吸収しない

 実は,ここに標準的マクロ経済学と信用貨幣論の違いがある。信用貨幣論のモデルでは,国債発行は民間貯蓄を吸収しない。正確に言うと,日銀に口座を持つ民間銀行が国債を引き受ける限り,貯蓄を吸収しないとする。そして信用貨幣論は,それが実務に即しても事実だと主張するのである。これは国債発行と財政のモデルの非常に基本的なところで両者が異なっていることを意味する。両者の議論がしばしばすれ違い,互いに相手を非常識扱いする物言いになりやすい理由は(※3),深いところでの前提が異なるからなのである。

 信用貨幣論の立場から,国債発行の仕組みを説明しよう。政府が国債を発行し,民間銀行がこれを引き受けると,政府への貸付金(国債という証券の代金)は,銀行が日銀に持つ準備預金から,同じく日銀に政府が持つ政府預金に払い込まれる。政府が財政支出を行うと民間の企業や個人がもつ銀行預金が増加する。企業や個人の預金が増えると,その分だけ銀行が日銀に持つ準備預金も増加する。このプロセスが完結してみると,銀行の準備預金は増えても減っておらず,財政赤字の分だけ通貨供給量は増え,そして民間全体の預金も増えている。従って金利上昇圧力は,国債発行と政府支出のタイムラグによるもの以外は発生しない。ただし,法人や個人が手持ち現金を増やし,また銀行が手持ち現金を増やそうとすれば,準備預金はその分だけ減額される。以上である。

 この説明は何ら特定の価値判断によるものではなく,単に実務に即した事実である。しかし,国債発行で民間貯蓄が吸収されるという標準的マクロ経済学の説明とは異なっている。標準理論は,この事実をどう受け止めるのかについて説明を求められると,私は思う。


*政府は「既にあるカネを借りる」のではなく「手形を切る」

 しかし,日常感覚からすると上記の説明は不思議に思われるだろう。なぜ政府がお金を借りるのに,借りるもとでになるはずの民間貯蓄が減らないのか。貸す側のお金が減らずに借りる側のお金が増えるのは変ではないかと感じる人が多いだろう。この疑問に対する信用貨幣論からの答えは,ここで起きていることの本質は「既に存在するカネを借りる」ことではなく,「手形を切ること,その手形が流通すること」だということである。政府の赤字支出とは手形を切る行為であり,管理通貨制度下の通貨流通とは,手形(信用貨幣)が流通している状態なのである(※4)。

 ただし,日本の統合政府は日銀と政府の二つからなっており,政府は直接に政府手形を発行するのではないから,お金の流れはやや複雑である。政府が小切手または日銀券で赤字支出を行うことが,いわば政府手形による支払に相当する。このとき,政府の債務は増える。企業や個人は政府が支出した分だけ預金という銀行に対する債権を増やす。振込先となった民間銀行では,預金者宛ての債務と,日銀向けの債権が同時に増える。日銀から見れば準備預金と言う名の債務が増える。これが本質的なプロセスである。単純化して言えば、統合政府が手形を切って支払いを行って債務を増やし,民間部門が統合政府に対して持つ債権も増えたのである。

 しかし,日本では発券集中が行われており,しかも国債の日銀引き受けは禁止されている。そのため,政府は,直接に自己名義の手形を切れず,同額の日銀債務証書を入手して自己の支出の裏付けとしなければならない(※5)。だから国債を発行する。銀行がこれを引き受けると,銀行が持つ準備預金は増えるのではなくプラスマイナスゼロになる。こうして全プロセスが完結する。

 いささか複雑であるが,このように財政赤字=政府債務増とは,「発行された手形が流通する」ことであるから,発行された分だけ通貨供給量を増やすし,貯蓄を吸収はしないのである(※6)。


*民間貯蓄の規模は財政赤字の限界を画さない。では何が画すのか

 したがって,信用貨幣論によれば,民間貯蓄の規模は,財政赤字の限界を画さない。ここが標準的マクロ経済学との相違点なのである。齊藤教授が指摘されるように,1995年以降の超低金利環境は現金や国債に対する需要を旺盛なものにしていた。その分だけ消費需要や投資需要が盛り上がることがなく,景気はなかなか回復しないが悪性インフレにもならないような状態が続いてきた。これが齊藤教授の言う「財政規律を棚上げにしてもできる」環境である。齊藤教授が依拠される標準的マクロ経済学は,この「財政規律を棚上げにできる」環境から「「財政規律を順守せざるをえない」環境への移行を画すのが民間貯蓄の枯渇だと考えるが,信用貨幣論はそれは関係ないというのである。

 しかし,民間貯蓄の枯渇が関係ないとすれば,何が関係あるのだろうか。これは信用貨幣論の側が問われる問題である。1990年代後半以来,日本政府は財政赤字を拡大してきたが,悪性インフレは発生しなかった。その理由は「民間貯蓄が豊富にあったから」ではないとすれば,何なのだろうか。これまでの条件と何がどう変化すると悪性インフレが発生し得るだろうか。

 さしあたり理論的には,第一に,「政府の課税能力に対する信認」には関係あるとするのが妥当であろう。債務は全額返済する必要はないが,コントロール可能でなければならない。課税能力に対する信認が失われると通貨への信用も失われ,悪性インフレとなる。第二に,財政支出と動員可能な生産能力・経営資源の関係である。財政支出が過大であり,程よく生産を刺激するのではなく,生産能力や経営資源が追い付かない状況となれば悪性インフレとなる。この場合,総量として追いつかない場合も,ボトルネックが生じて重要物資が不足して価格が特別に高騰し,生産や生活の危機が生じる場合もあり得る。貯蓄というカネが枯渇することは問題ではないが,機械や原料や労働力というモノが足りないことは問題なのである(※7)。第三に,海外との相対価格の変動によって原燃料輸入価格が高騰し,それを財政支出による需要刺激が実現させてしまうような場合である。この場合は価格ショックが生じるが,景気の実物的要因との関係では,良性インフレが維持されることも悪性インフレになることもあり得る。1990年代以来の日本では,以上の三点までは生じていなかったため,悪性インフレは生じなかったのだと考えられる。逆に言えば,この三点での悪化が疑われると悪性インフレは起こりうる。

 いずれにせよ,「財政規律を棚上げにできる」環境から「「財政規律を順守せざるをえない」環境への移行を画す要因の理論的・実証的分析は,低成長期突入以後,これまでの日本経済を総括するためにも,今後の日本経済において,景気・雇用,インフレをにらみながら財政政策のあり方を決めていくためにも重要な課題である。信用貨幣論の立場からも解明していかねばならない。ただし,悪性インフレ以前に,財政支出が景気回復と良性インフレを刺激できなかった理由の解明,逆にこれができるようになる条件の解明も必要であることは言うまでもない(※8)。

※1 悪性インフレとは,所得や雇用を拡大する効果がなく,物価だけが引き上がっていくようなインフレのことである。良性インフレとは,その逆である。端的に好況を反映したインフレと,インフレと好況の量循環を刺激するようなインフレである。

※2 ここでは信用貨幣論をより包括的な概念とし,MMTをその一種としている。私はマルクス派信用貨幣論に依拠しているが,本稿の論点についてはMMTと同意見である。念のため記しておくと,私の信用貨幣論とMMTが異なる点は大きくは二つである。一つは,私は金本位制度などにおける正貨は価値物であり,信用貨幣論が全面的に妥当するのは管理通貨制度の下でであると考えるが,MMTはすべての通貨制度について信用貨幣と見なす傾向があることである。もう一つは,私は中央銀行は統合政府の一部であると同時に銀行資本が発展した「銀行の銀行」であると見ており,その信用が銀行原理に依拠している度合いを高く見る。MMTは根本では「信用ピラミッド」論によりこの考えを採用しているように見えるのだが,具体的な議論になると統合政府論を強く主張し,中央銀行を政府の一部と見る傾向が強いと思う。

※3 ただし,齊藤教授は冷静に理論的な説明をされている。だからこそ,碩学にコメントすることにためらいはあったが,ここでとりあげたのである。

※4 ちなみに,日銀の信用供与とは,日銀が日銀当座預金と言う自分の債務証書を用いて貸し付けを行う行為である。そして,その債務証書が流通するのが,日銀当座預金を用いた銀行間の支払決済であり,銀行と政府預金との間での支払い決済である。

※5 国債の代金を振り込んでもらうならば,「既に存在するカネを借りる」のではないかという指摘があるかもしれない。しかし,そうではない。準備預金(日銀当座預金)はマネタリーベースを構成するが,マネーストックを構成しない。まだ流通に出て行っていない,そのいみではまだ流通内に存在しないお金なのである。銀行の持つ準備預金が政府預金に移動しても,通貨供給量は変動しない。

※6 なお,国債は銀行からさらに転売される。転売により生損保など日銀に口座を持たない金融機関や年金基金,民間企業や個人によって購入された分については,貯蓄が吸収される。しかし,ここで言いたいのは,このような機関投資家や個人が購入する以前の銀行引き受けの時点において金融はひっ迫せず,民間貯蓄が枯渇したから銀行が国債に応札しないという因果関係は存在しないということである。生損保や年金基金が国債を購入するかどうかはポートフォリオ選択の問題である。なお,2021年6月末の国債保有割合は日銀48.2%,銀行等14.7%,生損保等20.6%,海外7.2%,その他9.2%である(財務省サイトにおける速報値)。

※7 発展途上国が経済危機に陥ると,この最初の二つの要因によるインフレが起こりやすい。その際も,標準理論の立場からはしばしば「貯蓄不足」が指摘されるが、信用貨幣論から見れば,この場合もカネとしての貯蓄が不足しているのではなく,政府の課税能力と,モノやヒトとしての資源を動員する能力が不足しているのである。

※8 この課題はMMTを含む信用貨幣論にとって重要なものだと私は思う。しかし,なぜか日本におけるMMTの政治的支持者たちは,従来の政権下で悪性インフレが生じなかった理由についてはあまり探求せず,単純に政府の財政支出が少なすぎたからだと決めつける傾向がある。私は,これは行き過ぎた単純化だと思う。同規模の財政赤字であっても,インフレを起こさないか,良性インフレを起こすか,悪性インフレを起こすかは支出内容や様々な経済主体の振る舞いとの関係による。これらを研究しておくことは,MMTの政治的支持者が,MMTに依拠した財政政策を実施しようとするときにも重要なはずである。

<参考>

齊藤誠「国家財政は破綻するのか、神学論争回避への提言 財務省・矢野次官の「財政破綻」投稿を考える」東洋経済ONLINE,2021年11月2日。

2021年11月12日金曜日

第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」動画できました

 第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」(2021年11月6日)動画できました。最初の方は同じ画面が続きますが,5:23付近から始まります。

※2023年7月9日。リンク修正しました。

リンク
https://www.youtube.com/watch?v=GeE6_lIjFbw







2021年11月5日金曜日

大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」11月6日13:30YouTube Live配信です。

 明日11月6日の大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」YouTube Live配信は13時30分よりこちらのサイトからの模様。スライドもダウンロードできます。

https://www.festa-tohoku.org/?page_id=1964

11月13日追記。模擬講義終了。録画された動画は以下で配信されています。

https://youtu.be/AKotBfeM5Zs





2021年11月4日木曜日

総選挙の結果について:経済政策はどうなるか。コロナ禍での経済的苦境は反映されたか

 経済政策の面から見ると,今回の総選挙で大きな意味を持つのは維新の躍進ではないかと思う。自民がさほど減らず,維新が躍進したことで,経済政策はより新自由主義=小さな政府路線に傾く可能性が高くなったからだ。実は自民党は,小泉内閣の時を除くと新自由主義一本やりではない。アベノミクスは超金融緩和路線であったし,安部・菅内閣ともコロナ禍では財政を拡張するよりなかった。それに比べると,維新の方がはるかに新自由主義だ。他の面はおいておいて,経済政策は維新の方が「右」なのだ。

 維新の躍進が経済政策への積極的支持を意味するとは断言できない。むしろ政治の次元で,あまりに実行力と説明がない自民党内閣に対する批判票を集めたのだろう。少し長い目で見ると,前回の選挙で希望の党に集まった保守二大政党への期待が維新に集まったともいえるかもしれない(※)。だが,少なくとも,維新の新自由主義路線は全体として有権者に拒否されなかった。年代別投票先の報道を見ると,維新は30-50代に支持されており,他の党が若年ほど支持される(自民,国民),高齢ほど支持される(立民,共産),どの年代も同じくらい(公明)であるのとはっきり異なっている。これは,ビジネスパースン層に支持されているとみてよいのではないか。ビジネスパースン層の相対的上層は,成長重視と自己責任論,行政の無駄排除を説く維新になじみやすいのだ。

 総裁選で分配重視,新自由主義からの転換を言った手前,岸田首相も給付金や子育て支援を口にせざるを得ない。景気がどの程度回復するかも政策を左右する。しかし,時間とともに,経済政策は財政の全体としての引き締め,大企業支援,個人生活の自己責任路線に傾くだろう。

 対する立民・共産・社民・れいわは,これに対抗する格差是正,社会的支え合い,経済のボトムアップ路線をはっきり掲げて政権交代まで訴えたが,全体として遠く及ばなかった。実は,2017年総選挙と比べると立民は伸びているので,少し長い目で見れば,格差是正を求める勢力が弱まっているわけではない。しかし,少なくとも強くもなっていない。立民はこの間,国民民主の多くを統合して議員を増やし,その上で経済政策を「左」へとシフトさせた。しかし,その勢力を維持できなかった。

 2017年と今回では,経済政策を考えるうえで大きく異なることがある。まず客観的にはコロナ禍に突入して,仕事と収入を失う人が増えたことだ。そして政党の側では,分配重視・格差是正をはっきり掲げて選挙に臨んだことだ。にもかかわらず,この政策が有権者の多数に届かなかったのだ。

 では,この格差是正路線を一番届けるべき人々,大まかにいうとコロナ禍で仕事と収入を失った非正規労働者や自営業者の投票行動はどうなっていたのか。両者で違いもあるだろう。自民や維新に多く投票したのか。それとも,投票しなかったのか。その理由は何か。残念ながら今の私にはわからない。しかし,このことの解明が,今後の政治を見通すうえで重要だ。なぜなら,遺憾ながら政治が転換しない限り格差と貧困は拡大し続け,それに苦しむ人の数は増えこそすれ,減りはしないからだ。格差是正勢力が学ぶべきこともここにあると,私は思う。

※今回の選挙だけ見れば「第三極」への期待なのだろうが,むしろ「保守の中で選択肢が欲しい」という期待であろうと私は思う。保守なのは変わらないが,自民党が失政続きの時は別のところに入れたいという人は少なからずいる。


『ウルトラマンタロウ』第1話と最終回の謎

  『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないこと...