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2024年7月22日月曜日

麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書,2024年を読んで

 麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書,2024年を読んで。

 本書を読んで認識を新たにしたのは,何よりも「日ソ戦争」という名称でくくられる一つの戦争があったということである。この戦争は,対中国の戦争とも対米英の戦争とも異なる性格のものであり,1945年8月15日を過ぎても戦闘が終わらなかった戦争であり,戦後の日ソ関係,今日の日露関係にも重大な影響を及ぼしている,独自なものだった。本書の最大の意義は,この戦争の独自性をはっきり示したことにあるように思うし,また著者の狙いもここにあったのだろうと思う。

 一方において,日ソ戦争は第二次世界大戦の一部であり,その意味で相対化される。大日本帝国の軍事支配体制が背景となり,アメリカの戦略によっても規定されたものである。しかし,繰り返しになるが,それでもやはり日ソ戦争は日ソ戦争という独自の戦争なのであって,それ自体としても評価されねばならない。本書で,著者は日ソ戦争の特徴として3点を挙げている。第1に,民間人の虐殺や性暴力など,現代であれば戦争犯罪である行為が停戦後にも頻発したことである。第2に,住民の選別とソ連への強制連行である。第3に,領土の奪取である。もっともな指摘である。

 こうして改めて見直してみれば,戦後の日本における世論がソ連に対して否定的になったことはもっともであった。それはアメリカと同盟を結んだが故の反共イデオロギー宣伝の結果だけではなく,根拠のある話であった。また,この話を敢えて裏返すならば,日本の社会主義者たちがある時期までソ連に批判的に接することができなかったことの問題も,やはり深刻であった。戦後の日ソ関係や日露関係とは,そういうトラウマや呪縛との格闘であったのかもしれない。


出版社ページ
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/04/102798.html




2023年6月19日月曜日

「不足経済」と「余剰経済」を同一平面上で扱う観点:コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』を読んで

 コルナイ・ヤーノシュ(溝端佐登史ほか訳)『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』講談社学術文庫,2023年。2016年に単行本が出ていたのに気づかず,今になって読んだが,重大な収穫があった。

 今回注目したのは第2部である。コルナイは,社会主義計画経済を「不足」の経済と把握する理論で世界的に著名となったが,本書ではこれを拡張し,社会主義を不足経済,資本主義を余剰経済として,同一の論理平面上で把握しようと試みているのである。私はずっと,そうすべきではないかと漠然と思っていて,いちどだけ経済学入門の講義(2002年度)で「不足の政治経済学」と「過剰の政治経済学」を対比しながら話したこともある。しかし,それ以上,どのように理論化したらよいか見当もつかずに放置していた。そのため,今回は大いに勉強となった。いま,過去の自分の講義レジュメを見ると,教科書はA.アダムス&J.ブロック『アダム・スミス,モスクワへ行く』で,さらにコルナイの『「不足」の政治経済学』とガルブレイスの『ゆたかな社会 第4版』を使って財の不足・過剰を論じようとしたのだが,労働力の不足・過剰が抜けていて,付け焼刃を露呈している。本書でコルナイが効率賃金と産業予備軍に触れているのを見た瞬間,「しまった」と思った。


講談社BOOK倶楽部の本書ページ

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000373948




2023年5月15日月曜日

中山俊宏『アメリカ知識人の共産党 理念の国の自画像』勁草書房,2023年を読んで

  本書は2022年に55歳で逝去された中山氏の博士論文(2001年学位取得)を出版したものである。

 予約して5月1日に入手した。連休中は,5日までは論文作成に集中し,6-7日と温泉に行って,寝転びながら本書を読む予定であった。だが,実際には論文を書いてはへばり,へばったら本書を読み,叙述に引き込まれてつい読みふけり,温泉に行く前に読み終えてしまった。まっとうな市民や研究者の方には理解しがたいことであろうが,左翼崩れでアメリカ研究者のなりそこないである私には,本書はマンガや小説を読むようにすらすら面白く読めたのである。

 短評を可能にするために単純化を許していただくとすれば,本書は「米国共産党史」を研究したものではなく,「アメリカの知識人による米国共産党研究史」を論じた書物である。言説分析の手法によって米国共産党研究史を解釈することによって,米国の政治史の重要な断面を観ようとするものである。米国共産党はソ連とコミンテルンの方針に忠実な党であり,またスターリン時代に定式化されたボリシェヴィズム,マルクス・レーニン主義に忠実な党であった。その姿勢を,1956年のフルシチョフによるスターリン批判以後も変えようとしなかったことが致命傷となり,現実のアメリカ政治にほとんど影響を与えない存在になってしまった。しかし,にもかかわらず,著者によれば,米国共産党をどう評価するかは,アメリカ知識人にとって重要な問題であり続けたというのである。なぜなら,米国共産党を評価することが,「アメリカの理念」の把握とそれに対する自らの態度表明に深くかかわっていたからである。

 著者は,米国共産党史を三つに時期区分する。第一期は,1950-70年代後半の,ダニエル・ベル,セオドア・ドレーパーらによるものであり,いわば「反共リベラル」を中心にした研究である。多くの研究者が左翼からの転向を経験している。研究対象は共産党の幹部を中心にしたものであり,共産党がソ連のコントロール下にあったことを中心的に解明する。そして米国共産党は非アメリカ的なもの,アメリカにあってアメリカに属さないものとされる。

 第二期は,1970年代後半以後の,モーリス・アイサーマンなど,ニューレフト世代の研究者によるものである。第一期の研究を批判し,共産主義よりも反共主義の排他性がアメリカにとって問題であるとする「反・反共主義」の立場をとる。著者はこの世代の研究者を「見直し論者」と呼んでいる。この期の研究は社会史の隆盛などを歩調を合わせ,党幹部や党の公式方針ではなく,一般党員による草の根の運動にフォーカスする。党とソ連との関係がどうあれ,草の根では社会の問題を解決するための活動が行われていたことを解明し,米国共産党は,実はアメリカ的であり,アメリカ・ラディカリズムの伝統の中にあったのだとされる。そのあらわれとしてブラウダー主義が再評価される。

 第三期は,1980年代後半以後に目立ち始める,新保守主義を背景としたものであり,ハーヴェイ・クレア,ジョン・E・ヘインズらによるものである。反共主義の正統性を第一期以上に主張し,それをソ連の崩壊によって入手できるようになった旧ソ連側一次資料,さらにNSA(国家安全保障局)が保管していたヴェノーナ文書によって実証しようとする。端的に米国共産党をソ連に操作された陰謀組織とするものである。

 これ以上本書の内容に立ち入ることは控えるが,上記の三つの時期区分を見ることで,米国共産党を論じることが,アメリカ社会の自己認識に関わる問題であるという,著者の見地が了解できるだろう。

 私は本書によって説得される部分が大きかったし,本書によって扱われている問題を,たいへん親しみのあることとして読んだ。というのは,私は,キリスト教徒にして日本共産党支持者という両親の下で育った経験から,普遍性を求めることによって日本社会に独特な問題を超克することと,日本の歴史・習俗を尊重することによってその社会の一員となることの,二つの方向の間を振動しながら暮らして来たからである。日本にあって,日本のしがらみに属さないことを良しとするのか,それとも日本に属することで多くの人とつながろうとするのか,そして左翼であることとはそのどちらなのかは,ものごころついて以来,私が考えねばならないことであったし,いまもそうである。

 また本書によって,ある研究者との邂逅において不可解であったことがようやく理解できた。1998-99年,ヘンダーソン大学のMartin Halpern氏がフルブライト基金を受けて来日され,東北大学経済学研究科の客員研究員として滞在された。その専門がアメリカ労働史,とくにUAW(全米自動車労働組合)の歴史ということで,私も大学院の授業に参加し,また何度か食事を共にして交流させていただいた。その際に驚いたのは,氏がアメリカにおける労働運動でコミュニストが積極的役割を果たした,コミュニズムはアメリカの精神に即していたと繰り返し強調したことであった。あまりのことに私は(私ですら),アメリカ共産党がソ連の方針に常に従っていたが故に大衆的支持を失ったのではないかと質問したが,氏はソ連は関係ない,アメリカの現場に根差していたことが肝心だと言われた。私は,当時腑に落ちないところを残した記憶があるが,本書を読んで,Halpern氏の研究も,この第二期の流れの中にあったのであろうと了解できた。

 私は中山氏の政治学者としての活躍にまったく無知で,その訃報によって彼の存在を知ったほどであった。彼の生きた声に接する機会を持てなかったことや,もはや持つことができないことが残念でならない。

 なお些細なことであるが,137ページでStudent Nonviolent Coordinating Committee. SNCCの訳が「学生暴力調整委員会」になっている。「学生非暴力調整委員会」であろう。解説者の押村高氏によれば出版に際して最低限の形式的な修正はしたとのことで,逆に言うと形式的な修正はするという編集方針なのであろうから,2刷りの際に訂正されることを希望する。もちろん,2刷りが発行されること自体も。



2023年2月10日金曜日

水田洋『マルクス主義入門 この思想の流れを創造した人々』カッパブックス,1966年のこと

 水田洋氏の訃報に接する。私は何しろ古典にたいする教養を欠いているので,水田氏の著作もほとんど読んでおらず,お恥ずかしい。唯一,読み通したのが古書店で見かけて買った『マルクス主義入門 この思想の流れを創造した人々』カッパブックス,1966年だが,これは実に面白かった。もちろん,学説の内容としては今では乗り越えられているところもあるだろうが,感心したのは思想史としての書き方であった。マルクスだけが,レーニンだけが真理だ,他の連中はだめだみたいな決めつけが全くなく,むしろ,マルクス主義者たちがどのような問題に突き当たり,それを解決するために何を主張し,どうしたか,その問題は後続の人々にどう受け継がれたかという風に書いてあるので,読者自身が課題に向き合い,追体験しながら読める。例えばレーニン,ルクセンブルク,トロツキー,スターリン,ブハーリンのいずれについてもそのように書いてある。ある意味で客観的で公平であり,しかし正確な意味で実践的な記述なのであったのだと思う。いや,もちろん本当は近代的個人と社会主義についてもっと深く読み取らねばならないのであろうが,教養が足りずに申し訳ない。




2022年3月31日木曜日

「ビッグマックは絶対さ!」とゴルバチョフの人形は言った

 1987年のゴルバチョフ訪米,中距離核戦力(INF)全廃条約直前のことだったと思う。アメリカのテレビで,レーガンとゴルバチョフの人形が会話しているものがあった。

レーガン「アメリカでは何を食べたい?」

ゴルバチョフ「○○と××と,,,,ビッグマックは絶対さ!」

 若者には説明を要する。かつて社会主義国には,多国籍民営企業マクドナルドは出店していなかった。また,1968年に開発されたビッグマックは,当時のマクドナルドでは最上級メニューであった。

 マクドナルドがゆたかな西側諸国のイメージを代表していたことは,1990年1月31日にモスクワにマクドナルドがオープンしたときに3万人の顧客が押し寄せたことで明白になった。時代は大きく変わっていた。私はその光景をテレビで見ていたが,「マクドナルドなんかどうでもいいじゃないか」と思う気持ちとブラウン管の中の現実に折り合いが付けられなかった。

 やがてソ連は崩壊してロシアに戻り,市場経済化とグローバル化は,褒め称えるに値するかどうかは別としても,不可避の流れになったように見えた。1993年,アメリカからの帰りの飛行機の中で読んだAdams and Brock, Adam Smith goes to Moscowの表紙にはマクドナルドモスクワ店開店日の写真が使われていた。私は2000年にこの本を訳し,またベトナム市場経済化支援プロジェクトに参加して,グローバリゼーションを不可避と認めた研究や提言を行うようになった。

 2022年3月8日,ロシアのウクライナ侵攻を受けてマクドナルドはロシアの850店舗すべてを閉鎖すると発表した。時代は一回りしたのだ。そして私は,「マクドナルドなんかどうでもいいじゃないか」とは思えなくなった。




2022年3月5日土曜日

政治経済学の独自の視点:資本主義への道,アソシエーションへの道 第9回(最終回)

 マルクス経済学入門講義の最終章。私のマルクス経済学理解として,念頭に置いていたことは以下の2点である。もっとも講義では時間がないしあまり複雑なことは言えなかった。

1.私の『資本論』理解は浅いものであるが,東北大学における『資本論』研究の伝統のかけらくらいは意識しているつもりである。一方で,この講義では,宇野弘藏氏の提起した命題,つまり,資本の一般理論は「できる限り資本形態の理論,あるいは純粋資本主義の理論として叙述されるべきである」ことを認める(※1)。しかし,「原理論は資本の運動が永久に繰り返されるかのように叙述するべきである」という宇野氏のたどり着いた結論には否定的である。ではどのように展開するのかというと,「できる限り資本形態の理論,あるいは純粋資本主義の理論として叙述されるべきであるが,どうしてもそうし切れないところはそのように指摘する」のである(※2)。それはいまふうに言うならば,「資本主義には,どうしても市場によっては決定されない側面が含まれている」ということである。『資本論』第1巻の範囲だけで行っても,

・剰余価値率の水準は,経済的に一義的には決まらない。標準労働日をめぐる闘争や国家の介入によって政治的・社会的に決まる(※3)。
・起こるかどうか不確定なイノベーション(生活手段生産部門での生産力上昇)なしには資本主義は発展できない。
・産業予備軍は労働力の再生産費を賃金として受け取ることができないから,資本と市場によっては再生産されない(※4)。

などがこれにあたる。

2.さて,それでもできる限り資本の運動法則が貫徹するものとして叙述しなけばならない。そうした叙述は,一方で上述のように理論的限界に突き当たるが,他方で歴史的限界につきあたる。つまり,資本の法則が歴史的・社会的要因によって修正を受けることがある。その最たる例は,賃金は労働力の価値に等しいという賃金本質論であり,開発経済学ふうに言うならば生存賃金説である。

 この資本の法則が労働運動をはじめとする社会的要因によって修正されたことはまちがいない。賃金が資本の費用としてのみならず,経済成長を支える購買力としても作用するようになり,また労働者家計も貯蓄を持つようになった。そして,資本はこれらを新たな前提条件として資本蓄積の態様を変えていったのである。このような修正によって,資本主義にも様々な局面が生まれる。私はこのように理解するので,例えば大量生産・大量消費による経済成長を歴史的に認識するレギュラシオン・アプローチや社会的蓄積の構造理論(SSA)には肯定的である。

 プラグマティックに言うと,正直,この2がないと授業が成り立たなかった。学生が「なんか資本主義は地獄みたいですが」と質問して来るからである。その先は二つに分かれる。一つは,「とても生きられる気持ちがしなくて絶望的になります」というもので,もう一つは「現実がそこまでひどいと思えないんですが」というものだ。2の視点を持っていることで,この疑問に一応,経済学的に答えることができた。

 この程度の理解しかない奴に講義をさせるなというご意見はあるかと思うが,マルクス経済学の講義がまったくなくなるよりはましということで,ご勘弁いただきたい。

※1 東北大学では,田中菊次氏と原田三郎氏が,宇野氏の問題意識と格闘されたうえで,宇野氏と異なる結論に達した。そのため,両氏の理論を受け継ぐ研究者も,例え宇野派でなくても宇野氏の問題意識を尊重するのが普通の習慣となった。他大学のマルクス経済学者の方には意外かもしれないので記しておく。

※2 ご本人がどう思っているかわからないが,私は守健二氏からこの観点を教えられたつもりである。

※3 それは服部英太郎氏と服部文男氏の受け売りではないかと言われればそうである。

※4 それは原田三郎氏の受け売りではないかと言われればそうである(近年になって梅本克己氏もこの論点を宇野氏に対して提起していたと知った)。

政治経済学の独自の視点:資本主義への道,アソシエーションへの道 第9回(最終回)




2022年2月23日水曜日

マルクス説の不足と補充の必要性(2)どのように個人的所有を実現し,人間と自然の物質代謝を持続可能にするか:資本主義への道,アソシエーションへの道 第8回

 マルクス説の不足と補充の必要性(2)。政治革命後にアソシエーションの経済を構築しなければならないが,集権的計画経済の失敗を経た今,個人的所有を再建する仕組みとはどのようなものなのかはまだ明らかになっていない。詳細は,実際にやりながらでないとわからないにしても,概要くらいわからないと経済思想として成り立たない。

 もちろん現実には,社会主義運動が強まり,その勢力が政権を取ることがあるとしても,相当な長期間,商品・市場・貨幣を用いた経済計算に依拠しつつ,その弊害を改めていくことにならざるを得ないだろう。そしてその経験が国際的に広がるにはさらに長い道のりとなる。政治転換における「革命」はあり得るとしても,アソシエーションへの経済改造は漸進的なものにならざるを得ない。

 しかし,理論と思想としては,未来のアソシエーションとは,資本主義とどう異なる社会であり経済であるかを構想できていなければならない。とくに,経済学者には有名な問題として,1)商品と市場と貨幣に依拠しない経済計算がどのように可能になるのか,2)生産手段が社会的所有であり,大規模組織による生産が行われる条件下で,個人的所有,大雑把に言えば生産の意思決定の民主化と自己労働に基づく取得をどう実現するのかが難問である。ここではその課題の指摘のみにとどめたし,私自身が答えを発見しているわけでもない。

 もう一つ,近年ではどうしても見過ごせないのは,マルクスが機械と大工業の生産力をおおむね未来社会に継承できるとみなしていることだ。しかし,汚染にせよ地球温暖化にせよ,技術と労働の関係そのものを改編しないと対処できないことは明らかである。生産関係を変えるとともに,生産力の質的性格を変えていかなければ,環境破壊は手遅れになるだろう。だから,具体的にどの分野の技術をどうするか,そのための規制や誘導の手段,その背後にある思想は何かは大事なのである。

 なお,動画で「マルクス自身も『資本論』を書いた後で,もっとエコロジストになったという研究もある」と言っているのは,もちろん斎藤幸平氏のことである。ただ彼の研究については『人新世の「資本論」』だけでなく,主著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読まないと判断できないので,それ以上触れていない。同書は積ん読状態なので,いい加減読まねばならない(2022/9/9補記。読みました。「斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年7月27日)。


資本主義への道,アソシエーションへの道⑦マルクス説の不足と補充の必要性(2)どのように個人的所有を実現し,人間と自然の物質代謝を持続可能にするか



2022年2月21日月曜日

マルクス説の不足と補充の必要性(1)資本主義的生産様式は何をもたらすか:資本主義への道,アソシエーションへの道 第7回

 マルクス説の不足と補充の必要性その1。これは経済学入門の講義なので,政治的価値判断ではなく経済学として考える姿勢で臨む。またいろいろ言い出すときりがないので,『資本論』第1巻の範囲内で,もっとも根源的と私が思うところを述べる。それは,資本主義的生産様式の発展が,スキルの平準化された労働者階級を生み出すという捉え方の問題点である。

 マルクスは「発達した機械の体系」の下での協業を生産様式の最高の発展と見ており,この生産様式が資本主義下で発展すると,小経営をネグリジブルなほどに極小化し,管理・監督者をごく一握りの存在として労働者階級を多数派とし,労働者の特殊なスキルを不要なものとすると考えていた。こうして労働者階級は搾取されるが,それゆえにこそ誰もが平等に経済運営に参加できる新時代が準備されるとも考えていた。生産力と生産関係の捉え方として,ここには過度の単純化,あるいは機械制大工業の作用の過大評価があったと思う。

 現代社会において「金持ちとそれ以外」という点では,1%と99%の対立は確かに進行している。しかし,99%の側に階級的・階層的等質化は進行しておらず,その根拠としてのスキルと知識の底上げと平等化が進行していない。現代の技術は,分散的な経営組織を経済の周辺部において生み出してはいるが,いまなおスキルと知識の階層性に対応した形での組織運営が中核的存在である。その一方,小経営は資本主義社会においても頑強に存在しており,その再生産は様々な家族関係によって支えられている(講義のこの箇所では述べなかったが,賃労働者の再生産にも家族関係が作用している)。

 私たちは,この現実を踏まえ,技術と労働と組織と家族の関係について,現実の作用は何であり,未来に向かって準備されていることは何であって,したがって現在の人間には何ができるのかを,考えていくよりない。「生産力ーその具体的形態としての生産様式ー生産関係との対応」というマルクスの枠組みは,そうした構想力を呼び覚ます助けになる。それは,マルクスの,ときに古くなっている記述内容とは区別して活用されるべきだ。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑦マルクス説の不足と補充の必要性(1)資本主義的生産様式は何をもたらすか



2022年2月19日土曜日

人類史の段階区分:資本主義への道,アソシエーションへの道 第6回

  マルクスは人類史をどのように段階区分したと見るべきかという無茶苦茶にデカい話を,何のためらいもなく数分で行う。前回も言ったが,そうせずに考え込み過ぎると,授業が終わる前に一生が終わるからである。

 この講義では,教科書の著者大谷禎之介氏とともに人格依存ー物象依存―自由な諸人格の連合という3段階区分,そしてアソシエーションという概念を肯定しつつ,より具体的には生産様式による区分を採用している。ただし,伝統的な5段階区分(原始共同体ー古代奴隷制ー封建制ー資本主義ー共産主義)やアジア的生産様式を加えた5段階区分(アジア的ー古典古代的ー封建的ー資本主義的ー共産主義的)ではない。原始共同体と資本主義の間はすべて前資本主義で一括する「原始共同体的ー前資本主義的ー資本主義的ーアソシエーション的」の生産様式による4段階区分である。これも大野節夫説に倣ってのものである。

 歴史学においては,前資本主義の社会をみな奴隷制か封建制にあてはめて理解しようとする理解は,早くも1960年代には批判にさらされ,いまでは学術的にはほとんど支持を得ていない。つまり,前資本主義社会は多様である。この伝統的5段階区分批判がそのままマルクス批判や「進歩史観」批判としてなされることもしばしばである。しかし,むしろ多様であること自体の根拠がマルクスの理論に見いだせるというのが,大野説をもとにしたここでの解釈である。

 生産様式は,何らかの生産諸関係に包摂されている(日常用語でいえば,技術と労働は社会の中に存在している)。そして生産様式と生産関係にはフィットしやすい組み合わせとそうでない組み合わせがあり,よくフィットした生産関係が生産様式の呼称となる。「発達した機械の下での協業」という生産様式は資本主義との適合性が極めて強いために「資本主義的生産様式」なのである。マルクスがしばしば「生産様式とこれに対応する生産諸関係」という表現を使ったのはこの意味である(大野説)。

 前資本主義における生産様式の代表は小経営的生産様式である。小経営の特徴は,様々な生産関係と両立することである。小経営主が奴隷を支配下に置くこともできれば,封建領主が小経営に吸着して余剰を吸い上げることも可能である。小経営は発達すれば自由な小経営・小商品生産となるが,そうであっても小経営内の家族のありようはさまざまである。また小経営はそれ自体で再生産を完結させられないため,相当な規模の共同組織を必要とし,したがって様々なタイプの共同体によって補完される(時代をさかのぼるほど,小農家の農業経営は村落の共同作業や秩序なしに完結しない)。だから,小経営は特定の生産関係によって呼称されず,「小経営的生産様式」であり,敢えて言えば原始共同体以外は実に多くの生産関係と結びつく「前資本主義的生産様式」なのである。この小経営理解は,いまだ十分ではないとはいえ,栗原百寿説と安孫子麟説を私なりに理解したものである。

 以上のことから,マルクスの個々の記述でなく理論的枠組みに基づくと,生産様式による段階区分は「原始共同体的ー前資本主義的ー資本主義的ーアソシエーション的」になるというのが,ここでの解釈である。

 なお,以上は過去に向かっての話であるが,未来に向かっては,「アソシエーション的生産様式とはどのようなものか」という難問がある。マルクス本人は,「発達した機械の下での協業」が発展すれば,そのままアソシエーションの生産関係ともフィットする生産様式になると考えていた節がある。21世紀に暮らす者の後知恵ではあるが,これは無理というものだ。20世紀の経験を踏まえるならば,発達した機械の下では,どこまで行っても技能の階層性と組織の階層性はほぼ不可避である。アソシエーションがもしあり得るならば,それを可能とする生産様式,日常用語では技術と労働のありかたが見出され,開発されねばならない。だが,マルクス解釈として言えるのはここまでで,それなら電化は,再生可能エネルギーは,コンピュータは,インターネットは,AIはどのような可能性を開いているのかは,より具体的な次元の問題である。

<参考文献>
大谷禎之介『図解 社会経済学』 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年。
大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年。
栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年。
安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑥人類史の段階区分



2022年2月14日月曜日

アソシエーションの下での個人的所有の再建(2):資本主義への道,アソシエーションへの道 第5回

 「アソシエーションの下での個人的所有の再建」の内容。ここでのマルクス理論史上の問題は,『資本論』においてアソシエーション,端的には共産主義社会への変革が「私的所有を再建しない」が「個人的所有を再建する」と断定していることをどう理解するかである。これに対する理解でもっともありふれたものは,共産主義社会では「生産手段は社会的に所有され,生活手段は個人的に所有される」というものである。しかし,これでは字面の上でも,『資本論』が「私的」と「個人的」を対比していることの意味を理解できない。また個人の生産へのかかわり方についてのマルクスの思想がまったく読み取れない。この二点について,もっと深く読み取るべきではないかという問題意識から,様々な研究が行われた。これはもちろん,個人が尊重されていない旧社会主義国の現実を念頭に置きながらの議論であった。

 私が大野節夫氏や有井行夫氏の研究から自分なりに理解したところでは,こうである。

 まず前提として,個人的所有が「否定の否定」によって「再建」されるという時に,「否定」される前とはどの時点なのかを確定しておかねばならない。これは,自由な小生産の時点である。自由な小生産は,生産関係としては単純商品流通に対応している。「第一の否定」によって自由な小生産が否定され,資本主義的生産の確立する。

自由な小生産→第一の否定→資本主義的生産→第二の否定→アソシエーション

というシェーマである。だから第一の否定は,生産者と生産手段を切り離す本源的蓄積過程とイコールではなく,もっと短いスパンの過程である。

 さて,所有は本来社会的関係の中に存在している。しかし,そこから孤立した,社会とのつながりを極小化された,とにかく排他的権利が法認されているというだけの所有も考えられる。この次元での所有とは,小生産においては生産手段の私的所有である。それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者が生産手段を所有しないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては再建されない。

 それでは,再建される「個人的所有」とは何かというと,二つの側面がある。ひとつは,「意思決定過程に関与することとしての所有」である。諸個人が生産物や生産方法の決定に参画できることである。これは,自由な小生産においては,個人個人がまったくばらばらに行う形で確立される。資本主義的生産においては,それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者は生産物も生産方法も決定できないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては,連合した諸個人が社会的組織を通して意思決定を通して行うという形で再建される。つまりは,民主的に運営されていてメンバーの意志が尊重されている協同組合のような状態である(この授業で私が何度も言ったのは,アソシエーションの理想とは,うまく運営されている生協のようなものであるということだった)。

 もうひとつは,「生産物の取得様式としての所有」である。自由な小生産においては,自己労働に基づく取得が実現する。それは資本主義的生産においては建前だけのものになり,搾取すればするほど多く搾取できるという資本主義的取得法則に歴史的に転化する。そして,アソシエーションにおいては自己労働に基づく取得が再建され,低い段階では「労働に応じた取得」,高い段階では「必要に応じた取得」が実施される。

 マルクス解釈としては,これでよいと思う。問題は,社会的組織を通して行う意思決定が「自分で生産物や生産方法を決めている」という実質を持ちうるにはどういう運営がされねばならないか,また社会的組織の中で働いて「自己労働に基づく取得」という内実を持つしくみとはどのようなものであるか,そして,それらはどうすれば実現できるかというところにある。それらは,どのような労働手段を基礎にしてどのような経営様式によって成り立つのかということである。これらは難問であるが,マルクス解釈から答えが出る問題ではない。より具体的な次元での難問である。

<参考>

大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年
有井行夫『新版 株式会社の正当性と所有理論』桜井書店,2011年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑤アソシエーションの下での個人的所有の再建(2)





2022年2月12日土曜日

資本主義の発展と消滅。アソシエーションの下での個人的所有の再建(1):資本主義への道,アソシエーションへの道 第3回、第4回

 「個人的所有の再建」。さすがにこれを避けると授業が終わらないので,歯が立とうが立つまいが,やる。まずはとりあえず,それは「いろいろな事情で:今までの社会主義国では成り立たなかった」と言っておく。「それだけかい!」と突っ込みが入って当然だが,ここで「まずその前に,これまでの社会主義と称するものが××だった理由について○○し,マルクスの問題点を■■しなければならないのではないか。そうすることなしに++を語ることはできないのではないか」とか言っていると授業が終わる前に一生が終わるので,まずは原典解釈を淡々と進めることとする。マルクスの問題点は第7回以降にまとめて論じる。「個人的所有の再建」の内容は次回。

資本主義への道,アソシエーションへの道③資本主義の発展と消滅



資本主義への道,アソシエーションへの道④アソシエーションの下での個人的所有の再建(1)



2022年2月8日火曜日

個人的所有の生成と否定:資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 

 「経済学入門A」のオンライン講義最終回の抜粋,第2回。この講義は小経営的生産様式と自由な小商品生産を区別し,前者が基礎になって後者が成立するのは長い歴史的過程を経てのことであるという風に『資本論』を読んでいます。

 生産様式とは,一定の生産関係の中での生産諸力の運動形態であり,具体的には労働手段と労働の結合の具体的なあり方です。つまり,直接には生産力のありかたであって生産関係のあり方ではありません。しかし,どのような生産関係にフィットするかという適合・不適合があります。そして,もっともフィットする生産関係が名称について「封建的生産様式」「資本主義的生産様式」などと呼ばれるのです。

 小経営的生産様式は,小経営という生産関係にフィットしたものです。小経営は社会全体を長い時期にわたって支配する生産関係ではありません。むしろいろいろな前資本主義的生産関係の中にある経営様式であり,解体する共同体にかわり,また変容する共同体とともに,ゆっくりとはったつしてくる経営様式です。そして,発達し切ると,自由な小商品生産の下での小経営的生産様式になります。商品経済の中で独立した自営農民や独立した手工業者です。そのとき,生産手段の法的所有という意味でも,生産物の経済的取得様式という意味でも,個人的所有が発達します。

 しかし,自由な小商品生産は,社会全体を支配することなく,発達すればするほど資本主義的生産に転化してしまいます。そうすると,個人による生産手段の法的所有は法的建前に過ぎなくなり,大多数の直接生産者は生産手段を持たない賃労働者になります。また,経済的取得様式としての個人的所有は,他人を搾取すればするほどより多く搾取できるという資本主義的取得法則に転化してしまいます。これが個人的所有の第一の否定です。

 この見解は,大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年と栗原百寿『農業問題入門』青木書店(初版,1955年,有斐閣)に強く影響を受けてまとめたものです。いずれも今後アップする動画の第9回で文献リストに掲げています。

資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 個人的所有の生成と否定








2022年2月2日水曜日

小経営的生産様式の歴史的意義:資本主義への道,アソシエーションへの道 第1回 

 東北大学経済学部で2020年度第2学期に1年生向けに行った「経済学入門A」のオンライン講義から,2021年1月18日に行った最終回の後半部分を,9本に分割して配信します。講義内容はマルクス経済学の入門で,教科書に使用したのは大谷禎之介『図解 社会経済学 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年です。動画の内容は,教科書第1篇第10章「資本の本源的蓄積」第2節「資本主義的生産の歴史的位置」に相当する部分です。これは,カール・マルクス『資本論』で言えば,第1部「資本の生産過程」第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に相当する部分です。

 第1回は小経営的生産様式の歴史的位置づけを行ったものです。小経営的生産様式を重視するのは,ある意味では東北大学における経済学研究の伝統であり,これを定式化した業績は栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年に帰せられます。栗原理論の問題意識は安孫子麟氏に受け継がれ,その新たな定式化は,安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年などに示されています。また,これとは別に,平田清明氏の個体的所有論をめぐる討論から大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店が書かれました。私はこれらの業績から多くを学びました。

第1回 小経営的生産様式の歴史的意義





2021年8月3日火曜日

「目の前には資本主義しかない」:ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』は何を語るか

 ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』みすず書房,2021年。本書は,骨太な現代資本主義論であり,様々な角度から検討すべき論点を含んでいる。一度に整理できないので,何度かに分けてノートしたい。

 まず今回はタイトルについて。現代はCapitalism, Alone: The Future of the System That Rules the Worldである。このメインタイトルに「だけ残った」というニュアンスはあるのだろうか。「だけ残った」というのは,端的に「社会主義が消えて」ということのように思えるのだが,本書の趣旨は「残った」と言う「過去から現在へ」の視線ではないと思う。副題が示すように,「現在から未来へ」の視線で資本主義を捉えているのだ。直訳すれば「資本主義だけがある」であり,ニュアンスとしては「資本主義だけの世界」「資本主義しかない現実」「ただ資本主義だけが存在する、いま」ではなかろうか。

 われわれの目の前には資本主義しかない。なぜなら中国も資本主義だと著者は考えているからだ。資本主義の主要なタイプを著者は「リベラル能力資本主義」(liberal meritocratic capitalism)と「政治的資本主義」(political capitalism)に二分する。一方において,著者はいわゆる西側の資本主義国における従来の分類,たとえばアングロサクソン型,ライン型などの分類をとらず,アメリカを代表として欧米先進諸国はみなリベラル能力資本主義であるとする。さほど明確に述べていないが,日本もここに含まれるのだろう。他方において,著者は中国は資本主義であり,政治的資本主義の典型であると断言する。そして,シンガポール,ベトナム,ビルマ,ロシアとコーカサス諸国,中央アジア,エチオピア,アルジェリア,ルワンダにも政治的資本主義が存在するという。

 ここで著者は資本主義について独特な定義をしているのではなく,マルクスとヴェーバーによって,社会で生産の大半が民間所有の生産手段を用いて行われ,労働者の大半が賃金労働者であり,生産や価格設定についての決断の大半が分散化した形でなされているのが資本主義だというだけである。だから著者にとっては,アメリカも市場経済化した中国も資本主義なのだ。

 二つの資本主義には違いもある。リベラル能力資本主義は,古典的資本主義や社会民主主義的資本主義と区別されるものである。キャリアが才能ある者に開かれているという点で「能力主義」であり,社会的移動性が存在するという意味で「リベラル」とされる。しかし,リベラル能力資本主義は,資本主義一般と同じく不平等をもたらす傾向がある,その上二つの独自性,つまり資本所得の金持ちが労働所得の金持ちでもあること,金持ち同士が結婚することにより,いっそう不平等を強化するのだという。他方,政治的資本主義は,支配政党やイデオロギーがどうあれ資本主義である。ただし政治的資本主義は「優秀な官僚」「法の支配の欠如」「国家の自律性」というシステム的特徴を持つのだという。こちらにも不平等はあるが,システムに独自な問題はむしろ腐敗である。

 目の前には資本主義しかない。ただし,大きな違いを持つ二つのタイプの資本主義がある。そして,資本主義しかないことそれ自体はしばらく変わらないだろうが,二つのタイプの資本主義には,重点は違えどともに不平等と腐敗という問題があり,それぞれ独特の矛盾も存在する。二つの資本主義が,今後はどのような資本主義になるかは,いろいろな選択肢があり得る。ただし,資本主義とはいずれもエリート層が支配するものであるから,その変化とは,効率の良いものへの自動的変化ではない。エリート層が,あるいはその支配に対する他の人々が,自らの立場を貫徹しようとする選択と行動の結果である。

 以上は本書が描く大まかな世界像の紹介である。あえて言えば,邦題によって,とくに私を含む一定以上の年齢層の読者が「資本主義しかないよなあ,そうだよなあ,しかたないよなあ。社会主義って何だったんだろうなあ」という本だと思い込んでしまわないための紹介である(そういう話もあるがメインではない)。そうではなく「気がつけばどこを見てもおおむね二つの資本主義しかないんだけど,一体,これからどうしろというんだ」という本なのだ。だから面白い,と私は思う。もちろん,面白いということと,著者の分析に賛同するということは異なる。考察と評価は,他日を期したい。

https://www.msz.co.jp/book/detail/09003/

2022年8月4日追記:読み終えてのノート
「資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』最終章によせて」Ka-Bataブログ,2022年8月4日。






2021年2月25日木曜日

「私営」でも「国有」でもない「共有企業」という改革案:張春霖「企業所有制の伝統的概念を改める必要について」を読んで

 張春霖「企業所有制の伝統的概念を改める必要について」『財新』2021年2月19日。

 正しく読めたかどうか自信はないが(→留学生に確認したら大丈夫とのこと),著者はおおむね以下のように主張している。

 中国における「公有」「非公有」の二分法は単純に過ぎるので,三分法にすべきである。自由放任資本主義や完全な社会主義と異なり,現代の市場経済では個人の貯蓄が大量に形成されている。それらは,何らかの機構に委託されて投資されるが,受託者は利益に対する排他的な権利を保有している。こうした金融仲介を行う企業,すなわち民営であれ公共管理の下にあるのであれ養老基金,保険会社,商業銀行,投資基金,単位信託基金などは私営とも国有とも異なる「共有企業(jointly owned enterprise)と呼ぶべきである。

 この共有企業の考えを年金保険制度の改革に活かし,個人口座に対する個人の排他的な請求権,基金の受託者責任,政府の非介入を実現すべきである。

 また,国家が保有する国有企業の株式の一部は機関投資家に委託し,その投資収益は国民全体に配分し,政府は制度の運行と受託機関投資家の選択に責任を負って,企業の経営的意思決定には関与しないという運用が可能である。これにより国有資本の国家所有権を保持しつつ「政企分離」を徹底し,国家所有権と市場経済の対立を減らすことができる。また低所得者の保護を手厚くし,国民全体の共通利益を促進することができる。

(感想)

 現代資本主義における機関所有の増大に注目しつつ,これを中国の経済改革に結びつけた面白い発想と思う。ピーター・ドラッカーの年金基金社会主義やアドルフ・バーリの財産なき権力論を,中国の現状に対応させたような感触を得た。これら機関投資家所有に注目したアメリカの議論では,個人所有から機関所有へのシフトに注目し,機関所有家の行動原理は個人投資家と異なるのではないか,異なるべきではないかと問う。そこでの議論のポイントの一つは,一方で個人大資本家が縮小し,他方で労働者が年金基金加入者になって,いずれの資本も機関投資家が管理し,投資先を決定していることである。

 この張春霖氏の論稿の場合,国有資産も個人資産も実は機関投資家に運用を委託されているのだから,機関投資家の行動原理に従うべきではないかという風に構成されている。それによって,一方では国家の個々の企業活動への介入を抑制しようとして,近年危うくなっている政企分離を改めて進めようとし,他方では個人の年金資産や投資にに対する権利を確定しようとしているように見える。巧みな構成である。中国の政治経済においてどのくらい実行可能性を持つか,私の知識では判断できないが,少なくともいきなり政治的に否定されにくい論理になっているように見える。

 ただ,著者の改革が仮に実現しても,その先には,欧米資本主義と同じように,機関投資家が実際にはだれの立場を代表しているのかという問題が生まれだろう。一方で機関投資家が「物言う株主」になった場合に,それは誰の立場をどのように代表しているのかという問題がある。他方で,個人は年金基金に加入していても受益権があるだけで,投資決定や投資先企業の意思決定には参与できないという問題がある。これらは,著者の改革が実現しても難題となるように思える。

 なお部分的なことであるが,銀行は貯蓄を貸し付けに仲介しているのではなく,銀行が(原理的にはその株主が)リスクを取って預金を創造することで同時に貸し付けている。よって,金融仲介を根拠に銀行を「共有」企業に入れることは賛成できない。銀行は,通貨供給と決済という機能を持つ独自の機関であると位置づけた方がよいと思う。

2020年10月4日日曜日

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年を読んで

  私の日本社会主義運動史への関心の一つは,日本共産党の組織と運動はいつ,どのようにして国際共産主義運動の一部から分離・独立したかという事にある(もうひとつは,日本資本主義分析における小経営への視座の変遷だ)。しかし,関心はあっても専門的な研究を行う余裕がなく,本や論文が目につけば読むくらいが限界だ。本書は,この関心に正面から応えてくれる労作だった。「帝国に抗する社会運動」という関心から,日本の共産主義運動と日本共産党の歴史を,中国,朝鮮半島,日本のコミュニスト,社会運動家,独立運動家の交流を軸として描いた研究だ。著者によれば新たな史実の発掘に努めたのではなく,すでに明らかな事実を統合して歴史の新たな語りを提示したということであるが,こちらの不勉強ゆえに初めて知ることも多かった。

 本書は,共産党のある組織論上の論点をめぐって展開されている。コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」がとられており,したがって在日朝鮮人や在日中国人が多数日本共産党に加入していたこと,逆に日本人が日本以外の共産党に加入していたことだ。この原則は米ソの平和共存論への転換,第三世界台頭の中での内政不干渉原則の浮上を背景に解消され,日本共産党は日本人のみによって構成される政党となり,議会進出を中心に合法活動による政権獲得をめざす路線に転換していく。

 これまで,コミンテルンの日本共産党への指導と援助,あるいはその名の下での支配介入のことはまあまあ常識程度に知ってはいたが,朝鮮人や中国人のの日本共産党への加入のことは,本当に形式的にしか知らなかった。『日本共産党の60年』で,戦後直後の中央委員会の構成に金天海という名前を見つけ,はてこれは誰だろうと思ったことが最初だったと思う。その後,コミンテルン時代から1950年半ばまで,在外コミュニストは居住国の共産党に加入するという「一国一党の原則」により,在日朝鮮人が多数日本共産党に加入していたこと,府中刑務所から志賀義雄,徳田球一,金天海を含む政治犯が釈放されたときに出迎えに来ていたのがほとんど在日朝鮮人であったことを知り,宮崎学『不逞者』で金の足跡を多少たどることができた。

 しかし,本書により,そもそも結成時点から,日本共産党は東アジアの社会運動家たちのネットワークの中にあり,その中で活動家たちの交流もあれば,日本帝国主義の朝鮮半島支配や在日朝鮮人の労働問題への運動家たちの関わりや関心・無関心も問われていたことを知った。例えば,大韓民国臨時政府と日本の共産主義運動の人的交流などは,これまで全く知らないことだった。これらは,今この瞬間を含む後の時代になって見れば,「光」とされることも「影」とも,果ては「闇」とされることもあるだろう。しかし,記録されるべきであり,書き落としてはならないことであると思う。その意味で,本書は大変貴重なものだと思う。

 本書を読んで私がうまく整理できなかったのは,著者が「東アジア/日本のコミュニストの活動は国際共産主義の路線に強く規定されてきた」(295頁)ということと,中野重治の「雨の降る品川駅」を冒頭から末尾に至るまで繰り返し参照して描く,活動家たちの個人としての交流の関係だ。明らかに著者は,政治の因果関係を規定する要因としての前者を重視しているが,後者を前者に解消していない。著者は,生活と運動の現場での国境を越えた交流と連帯,葛藤には,それ自体に意味があるものとして歴史を語ろうとしている。あえて単純化した言い方をすれば,ソ連共産党は東アジアの活動家を政治の駒のように扱おうとしたが,活動家たちは駒ではなく自律的に動く人間だったのだ。しかし,そうであるならば,この二側面を論理的に区別する視点が欲しい。

 著者は,国際共産主義運動と称した運動の相当部分が,一党制により政権を握った共産党が他国の社会運動に支配介入を行なうものであったことを認識している。しかし,その支配介入を伴った国際的な運動の中で,活動家同士の交流は培われ,現実への新たな視座と創造的な運動が生まれていく。逆に,草の根から始まった交流はモスクワや北京との連絡が生じるにつれて,ソ連共産党や中国共産党の路線がインプットされる回路に変質させられる。国際共産主義運動と呼ばれたものと,国境を越えた活動家の交流はイコールではなく,両者の間には相互に促進し,また対立する関係があったことを著者は描いている。そうであればこそ,読後感としてどうしても残る疑問がある。現実においてこの二側面が切り離せなかったのか,そうではなかったのか,あるいはいつまでは切り離しようがなく,どこで新たな選択肢が生まれたのか,実際にどのような試みが行われたのかということだ。しかし,これは本書の達成があればこそ生じる疑問であり,著者が書き通してくれた通史の土台に立って,読者が考えるべきことなのだろう。

黒川伊織『戦争・革命の東アジアと日本のコミュニスト 1920-1970年』有志舎,2020年。




2020年9月18日金曜日

「経済学入門A」の教科書は再び大谷禎之介『図解 社会経済学』桜井書店,2001年

 10月より「経済学入門A」=政治経済学入門を開講する。前回,2015年度に担当したときは,教科書をどうするかであれこれ迷ったあげく,7つの理由で大谷禎之介『図解 社会経済学』桜井書店,2001年にしている。今回も同様にこの本で行く。その理由としてとりわけ重要なのは,「図解があること」だ。お前はそんな理由で『資本論』の教科書を選ぶのかと言われるかもしれないが,今の学部1年生に講義するには極めて切実な問題だ。そして,実に不思議なのだが,戦後75年,山のように『資本論』の解説書や『経済原論』の教科書が出ているのに,詳細に「図解」したものがほとんどないのだ。

 一般向けアンチョコレベルのものはある。例えば,図解によるビジネスプレゼンのプロである久恒啓一氏の『図解 資本論』イースト・プレス,2009年などは,なかなかよくできている。世界金融危機時の出版で,結構売れただろう。だが,やはり経済学部の授業には物足りない。大学教科書レベルのものとなると,かなり探し回ったのだが,院生時代に守健二氏の本棚で見かけて覚えていた越村信三郎『図解 資本論』春秋社,1966年(初版第1巻1948年)くらいしか見つからない。しかも,これも図書館の奥深く入って見てみたが,思考法が違うのかまったくピンと来ない。

 そして,結局見つかった唯一の,学生が理解できそうな図解入り『資本論』解説書が,大谷教授のものであった。大谷教授も図解が必要だと考え,越村本を念頭に置いて書かれたのだそうだ。

 出版社のページを見たら15刷まで行っている。教科書執筆者としては本望ではあるまいか。それだけに,大谷教授が昨年亡くなられたのは残念だ。

大谷禎之介『図解 社会経済学』桜井書店,2001年。




2020年9月5日土曜日

塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』(有志舎,2020年)が提起した問題

 塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』有志舎,2020年。第1,2部を中心とした読後感です。

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 私はロシア史は素人にすぎないが,マルクス学徒の一人としてロシア革命からソ連崩壊に至る経過には,ありがちな程度の関心は持ってきた。塩川氏の研究に最初にどう接したのか正確には思い出せないが,おそらく1990年代に大阪の古書店で購入した『「社会主義国家」と労働者階級:ソヴェト企業における労働者統轄 1929‐1933年』(岩波書店,1984年)が,私になじみのある経営管理論(エルマンスキー,藻利重隆,山本潔らの研究)のロジックを用いて,ソ連における労働合理化方式の科学化・近代化の過程を論じていたのが非常に面白く,それをきっかけに氏のペレストロイカ期に関する同時代的論稿を読むようになったのだと思う。

 当時私が塩川氏の論稿に衝撃を受けたのは,ソ連崩壊が,党・国家の癒着した支配や集権的計画経済が崩壊したのみならず,旧来の社会主義を何とか改革しようとする努力が挫折したことの深刻さを示すことを示唆していたからであった。

 この度刊行された本書においても,この論点は強調されている。ペレストロイカから崩壊までのソ連においては,「「民主的な社会主義」「自由と人権の尊重」等の目標がこの国と無縁だったわけではなく,一時期それなりに熱心に追求された後に挫折したという事情」が深刻なのである。「現代世界で自由・民主主義・公正・人権などといった価値と『新しい社会主義』を結び付けようと考えている人たちにとって,末期のソ連は「それを目指さなかったから無縁」というものではなく,むしろ「それを目指しつつも挫折した」事例として,他人事でない」からである(20頁)。旧ソ連は真の社会主義ではないとして,自分たちはもっと違う社会主義をめざしたいとする人々も,旧ソ連の歩みを学ばなければ同じ轍を踏むかもしれないという警告だ。

 とはいえ,このような警告を警告と受け止めるには,読者の側の一定の問題意識が前提される。つまり,塩川氏の提起は,党・国家社会主義とは別の社会主義が望ましいか,少なくともあり得るかもしれないという問題意識を持つ,私のような読者には深刻である。しかし,はなからそんなことは考えていない読者には響かないかもしれない。むしろ《著者の言う通りで,社会主義も社会民主主義も非現実的で結局挫折するものなのであり,資本主義とリベラル・デモクラシー以外には何もあり得ない。多少のバラエティがあろうが何だろうが,それしかない》と読まれることもあり得る。つまり,この論点だけだと,塩川氏の強調するペレストロイカ期の紆余曲折にもかかわらず,その試みがみな挫折したが故に,かえって《やはりソ連崩壊は唯一必然の道で,何も幅のある話ではない》と解釈される可能性がある。

 しかし,本書は,実はそうした単純化にからめとられない,より進んだ論点を提起しているように思う。つまり,指令経済から市場経済への「軟着陸かハードランディングか」「破局を伴うことなしにそれを実現することができるかどうか」という問題であり(40-41頁ほか),もう少し違う形で言うと「現実政治における中道路線の困難性という問題」である。「ゴルバチョフに象徴される『中道』(漸進的手法による革命)は,『漸進的』側面に対する急進派の批判と,『革命的』側面に対する『保守派』からの批判の両者の間で股ざき状態となった。政権中枢への両翼からの激しい攻撃が高まる中で,政治闘争は一層昂進していった」(90頁)。この困難がソ連を崩壊させ,対外的には「欧州共通の家」路線を挫折させ,欧州分断を克服できずにそのラインを東へ寄せる結果を招いたという因果をたどることには意味があると思う。

 なぜなら,このような因果関係に注目することによって,ソ連崩壊は《ソ連の体制に問題があるが故の必然》でもないし,分断ラインの東への移動は《当時のソ連が対外的に弱体化したが故の地政学的必然》でもなくなるからである。当時のソ連だけの問題ではなくなるのである。

 ここでこの股裂き状態を規定する構造を,本書に即してもう少し具体的に言えば,ゴルバチョフらの「体制変動を暴動・放棄・瓦解などといった暴力的形態でなく漸進的改革の道をとって平和裏に進めようとする路線」(95頁),「漸進的・改良的手法をもってする革命」が,それを進めていくに従って矛盾につきあたったということである。

 一つは,本書ではそれほど取り上げられていないが経済改革である。集権的統制の解除と市場経済化は大きな制度改革であり,ある程度以上進めようとすると,権利・義務・取引のルールを国家権力を持って定めていくことがどうしても必要になる。ところがこの改革は進展するにつれ,誰もが得をするパレート改善ではなく,一部の人々・組織の権限をはぎ取り,所得を減らす可能性,少なくとも短期にはそうする可能性がある。しかも,改革に期待した人々に対してもである。とくに上からの改革の場合は,旧体制下における既得権益を形を変えて防衛していると解釈される可能性もある。ゴルバチョフらの社会民主主義路線が「旧体制から決別しきっていない」という批判である(22頁)。したがって,改革反対派のみならず改革支持派内部からも抵抗が強まる。

 もう一つは政治改革である。「政治改革の開始はかえって紛争続発や犯罪急増といった社会的混乱を招いた」(21頁)からである。それでも改革を進めるか,秩序維持を優先するかという問題が生じる。しかし,社会的混乱を一時容認しようとしても強権的に秩序を回復しようとしても,改革支持派と改革反対派の両方から非難される可能性がある。

 三つめは対外関係である。ゴルバチョフらにとっての改革とは,ブレジネフ・ドクトリン,つまり東欧諸国に対する軍事力を担保とした干渉をやめることである。しかし,やめればNATOが東欧諸国を取り込もうとすることは避けられない。そこに,軍事的に対応するのをやめた場合,衰退するソ連国家の外交力だけで対抗することは困難であった(第6章)。このような路線を進める指導部に対しては,国内で地政学的権益を重視する立場から非難が起こる。

 これら,改革を進めるが故の困難は,一方で改革阻止の圧力を生み,その対極に改革実行のためには「権威主義」が必要だ,ピノチェトが模範だという主張を浮上させた(21,109頁)。

 私はこれは,体制がすでにボロボロになっていたという旧ソ連固有の問題ではなく,より普遍的な困難であるように思える。例えば,池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』(岩波書店,2017年)を読んだ後に本書を読むと,ゴルバチョフが直面したジレンマと1917年に臨時政府が直面したジレンマは,私には重なって見える。いずれも民主化と経済再建という課題に耐えきれずに政権から滑り落ち,「合意形成や法的手続きを軽視して革命的突撃の手法に訴える」ボリシェヴィズムや「逆向きのボリシェヴィズム」に敗北した(23頁)。どうして方向性が逆向きのところに類似性が現れるのか。塩川氏はそこに「『民衆』の名において,その敵を排撃し,法的手続きを軽視する」という,ポピュリズム現象と「ボリシェヴィズムとの意外な共通性」(27頁)を見出している。政権を突き上げる一方の勢力に注目すればそうなるだろう。しかし,反対側にも別な勢力がいるし,政権は両者に挟まれる。それらの諸アクターを含めて,もう少し距離を取ったところから見てみると,違う表現ができるように思う。ここには,激しい利害対立を伴わざるを得ない状況下で「自由」や「民主主義」や「人権」を掲げて合意形成による体制改革を進めるとき,とくに自らの支持基盤の利害に一部ないし短期的には反してでも進める時に起こる政治変動の問題が潜んでいるように思う。その改革が右を向くものであれ左を向くものであれ,である。そのようにとらえると,ソ連解体期の問題は,旧ソ連だけの特殊な問題ではなく,現在でも,多くの諸国で多くの政治勢力が直面しうる問題だと思えてくるのである。

塩川伸明『歴史の中のロシア革命とソ連』有志舎,2020年。



2020年8月21日金曜日

川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感

 川端康雄『ジョージ・オーウェルー「人間らしさ」への賛歌』岩波新書,2020年の読後感。

 私がオーウェルを読みふけったのは大学院生の頃であり,つまりは社会主義というものを単純にではなく,もっと様々な角度から理解しなければならないと思っていた頃である。今は時代と人生が一回りして,かえってプリミティブなことを赤面もせずに書くようになったが,当時は一応,物事は単純ではないという方向に頭が向いていた。『1984年』は最初,自分の持ち物でないハヤカワ文庫で読み(SF研の部室にあったのかもしれない),その後に早川書房のハードカバーを蔵書にした。本棚にオーウェルコーナーをつくるくらいには大事にしていた。だが,文庫本の棚に入れていた角川版『動物農場』を失くしてしまったのが痛い。

 川端氏(親戚ではない)の著書はオーウェルの伝記としてコンパクトながら詳細である。今回読んだおかげで,自分がオーウェルを読んで何をどう思ったのかをいくらか思い出せた。本書がオーウェル研究史の中でどういう位置にあるのかは,残念ながら私にはわからない。

 この書物は,副題にある通りオーウェルの思想を「人間らしさ」への賛歌に代表させている。ここで「人間らしさ」というのはdecencyである。イギリス英語の文脈は私には全く分からないが(本当に教養がない),話としてはうなずける。しかし,腑に落ちないのは,本書が『動物農場』や『1984年』に見られる,「ディストピアの言語学」,「言語決定論」,つまりは言語による思想支配に対して,「人間らしさ」を対置して終わりとしているように見えることだ。対置すれば言語による支配を免れるというものだろうか。

 著者はわざわざ「ニュースピークの実現(不)可能性」という項を設けて,「権威主義的言語がいかに『単声』たることをめざしても,それがこの小説の形によって権威をはぎとられる」として,オーウェルは「ディストピア世界を描きながら,その裂け目を広げる道を示唆している」という。それは,確かにそうだろう。しかし私には『1984年』は,それがどんなに困難な道であるかをも示した作品だと思える。言語による思考と感情のコントロールは,拷問によってウィンストンに心にもないことを言わせるのではなく,本心からビッグ・ブラザーを愛するところまで持っていくのである。「人間らしさ」も,党は党なりに定義してこれを回収しようとするだろう。そうした権力と言語の結合が,当時のソ連のみならず,現在でも世界に広く行き渡って一定の威力を発揮しているのはなぜなのか。何にどう依拠すれば,そこに裂け目が見つかるのか。どうすればそれは押し広げられるのか。それは,私には非常に困難な課題であり,悲観的にならざるを得ない課題のように思える。正直,「人間らしさ」でどうにかなるならば,ソ連も中国も北朝鮮もトランプも安倍晋三も何とかできただろう。それが容易でないから,どう容易でないのかを考える必要があるのではないか。

 本書は,おそらく精緻なオーウェル伝として優れているのだろう。けれど,私個人の読後感としては,言語のディストピアに対して「人間らしさ」で歯が立つような気がしなかったのだ。



ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。  会田...