『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないことである。
最近出版された白石雅彦『「ウルトラマンタロウ」の青春』双葉社,2023年には,この番組のメインライターであった田口成光さんの証言が収録されている。「最終回は第一話の裏返しです。東光太郎が,最後は人間に戻るというのは,最初から決めていました。光太郎は旅から帰って来て,また旅立つ。ウルトラマンタロウの時は,本当の自分じゃないんですよ。ですから最終回,またペギーさんが出て来る。タロウは,人間が好きになったんですね」(244ページ)。
この証言は,「ああ,やっぱり」と思わせるものでもあるが,それでもすんなり受け止められないところはある。例えば,初代ウルトラマンがハヤタという地球人を好きになり,彼を生かし続けようとしたことは,その最終回のゾフィーとの会話で知られている。しかし,タロウのそうした意思を表現するシーンは,『ウルトラマンタロウ』の最終回にはない。またさかのぼってみれば初代ウルトラマンは第1話で,自分と衝突して命を失いかけているハヤタに「申し訳ないことをした」といい,自分が彼と一体化することでその生命を救う。一方,『ウルトラマンタロウ』第1話でも東光太郎は命を失いかけるが,タロウが自らの意思で光太郎と救おうとするシーンはないのである。タロウと光太郎の関係は,「タロウは,人間が好きになった」という風には見えないのだ。
『タロウ』に即してみてみよう。第1話「ウルトラの母は太陽のように」で東光太郎は,アストロモンスと戦って負傷したところを,実はウルトラの母である緑のおばさんに手当てをしてもらう。そして二度目の戦いでは命を失いかけ,再びウルトラの母に助けられて,ウルトラの命を与えられてタロウとなる。タロウは,赤子の鳴き声とともに出現する。その時にウルトラの母はウルトラ5兄弟に対して「おまえたち兄弟はみな,このようにして生まれたのです」と言っている。タロウは,この時に誕生したものとして描かれているのだ。
また最終回「さらばタロウよ!ウルトラの母よ!」では,光太郎は「僕も一人の人間として生きてみせる。僕はウルトラのバッジを,もう頼りにはしない」と言って,バッジをウルトラの母に返し,一人の人間に戻って旅に出る。ウルトラの母はそんな光太郎に「光太郎さん,とうとうあなたも見つけましたね。ウルトラのバッジの代わりに,あなたは生きる喜びを知ったのよ。さよなら,タロウ。さよなら」と言って去っていく。ウルトラの母はバッジを自分の胸元に戻したが,タロウを光太郎と分離してウルトラの国に呼び戻したのではない。タロウに別れを告げたのである。
どちらにも,光太郎と別人格のウルトラマンタロウは登場しない。主人公とウルトラマンが第1話で融合し,最終回で分離するという点では初代ウルトラマンと同じに見えるが,内実は大きく異なる。光太郎とは別人格としての人間とは別のタロウは出てこないのである。唯一の人格は光太郎であって,光太郎の持つウルトラの命,ウルトラの力がタロウなのだ。光太郎がバッジを手放せば,ウルトラの母は光太郎だけでなくタロウとも別れることになる。だからさよなら,光太郎さんではなく,「さよなら,タロウ」と言っているのだ。
もちろん,『ウルトラマンタロウ』の全編を通してみれば,明らかに光太郎と別にウルトラマンタロウという存在がいて,子どものころからウルトラの国に住んでいる。田口さん自身が第24話「これがウルトラの国だ!」第25話「燃えろ! ウルトラ6兄弟」に見られるように,そうしたタロウを書いている。そしてウルトラマンシリーズを通してみても,タロウは後にウルトラマンメビウスの教官になって,再び地球を訪れたりもする。公式設定では,光太郎とタロウは別人格なのだ。
しかし,『タロウ』の第1話と最終回だけを見ると,様子は違っている。タロウとは,東光太郎にウルトラの母から与えられた不思議な力であって,もともと存在した別人格ではないのだ。光太郎がウルトラのバッジを捨てたときに,タロウというウルトラの力はなくなって,光太郎という人間だけが残る。そういう風に描かれているとしか思えない。私は昔から,光太郎が一人の人間に戻った後,ウルトラマンタロウはどこに行ってしまったのだろうと気になって仕方がなかった。その答えは,東光太郎がウルトラのバッジを捨てたときに,ウルトラマンタロウはいなくなったということなのだと思う。
以上の解釈は,それほど無理とは思えない。偶然このように見えるだけにしては,あまりに作りこまれている。私は,田口さんが,基本設定やシリーズ構成からはみ出しながら,しかしぎりぎり破綻して見えないように,第1話と最終回を意図的にこのように書かれたのではないかと思う。その理由は,東光太郎の青春の物語として,『ウルトラマンタロウ』を完結させたかったからではないか。
この離れ業によって,『ウルトラマンタロウ』の世界は,多少の矛盾をもちつつも,その不都合を相殺して余りあるほどの重層的な奥深さを持つようになった。雑踏に紛れ,去っていった人間としての東光太郎は,長く,強く,私を含む視聴者の心に印象付けられるようになったのである。
参考文献
私も常々考えていることを、今年言及されている方がいらして大変嬉しくなってしまい、コメントさせて頂くご無礼をお許しください。
返信削除1話と最終話に絞らずとも、光太郎と別に「タロウ」という人格と過去が存在するように描写されているのは、24〜25話のムルロア回、33〜34話のテンペラー星人回のわずか4話だけだと思われます。
また、翌年の『レオ』にはタロウのみ客演がありません。
タロウの独自性は、田口さんの中だけでなく、スタッフ全体にわりと広く共有されていたものと私は考えています。
『メビウス』時に整理された設定に基づくここ20年のウルトラシリーズにおいては、かつてパラレル扱いされた『ウルトラマン物語』(と本編24,25,33,34話)が正史で、『ウルトラマンタロウ』本編がパラレルであると見ると、矛盾がかなり少なくなります。
光太郎を演じた篠田三郎氏が客演せず、『物語』でタロウを演じた石丸博也氏がメビウス以降のタロウを演じていますが、タロウは二人いるわけです。
壮大なウルトラシリーズの一角という側面と、光太郎という若者か駆け抜けた等身大の青春という二面性が、タロウというキャラクターと作品を、令和に至ってなお、より味わい深いものにしていると私は考える次第です。
白石雅彦氏の著作、恥ずかしながら存じ上げなかったので、明日にでも買い求めます。
素敵な考察をありがとうございました。
コメントありがとうございます。タロウ本編が独特な存在であることについてお考えの方が私の他にもいらっしゃることがわかり,嬉しく存じます。
返信削除「タロウ」の「人格」はあちこちに出て来るのですが,それが東光太郎と別かどうかが普段はよくわからないところが,この問題を見えにくくしています。タロウの「過去」は,ご指摘の通り24-25話では明確に示されています。さすがに田口さんも表の設定としてはそうせざるを得なかったのでしょう。33-34話は,苦しいところですが,「タロウという末っ子は第1話で生まれた」と言いはれなくもないと思います。それ以外に,過去をイメージさせるのは,あえていえば39話の「(夕子さんのことは)エース兄さんに聞いたことがあります」というセリフくらいでしょうか。
田口さんが「タロウは1話で生まれ,最終回で消えた」というウラ設定を意識的に作りこまれたのかどうか,ぜひうかがってみたいものです。
ご丁寧なご返信を頂き、誠にありがとうございます。
返信削除嬉しさのあまり愚にもつかない論考を連ねてしまいますことお許しください。
そうでした、モチロン回でエースの名を出していましたね。
論が広がりすぎるため自重していたのですが、田口さんが当時盛り上がっていた「ウルトラシリーズ」の設定を汲む新作ではなく、全く新しいヒーロー像を模索していたことは、私は間違いないと考えています。
タロウの独自性に加え、父と母のそれぞれの扱いが傍証です。
父は『エース』初登場の際に死亡していることが、しばらくスタッフの意識に残っていたと思われます。ナマハゲ回では「ワシは魂だけ…」と言っちゃってますし、『タロウ』のリンドン回も他のウルトラ戦士の客演とは明らかに異なる演出をされ、この世ならざる者の神秘性が意図されていると思われます。
ただ、モチロン回の餅つきを見守る父の佇まいは生きてるそのへんのおじさん然としています。
私は田口さんが1話で掲げたテーゼが53話中何度か揺れたものの、最終話含めて概ね貫徹しているという考えでして、モチロン回もその揺れの一つではないかと思います。
母はサブタイにあるように、また最終話の描写から、一貫して「太陽」のメタファーを付与されています。
そして1話では、地球とウルトラの星の位置関係が無視されています。父はその隔たりゆえに命を落としたというのに、です。
母は「生活感のある宇宙人女性」というより、神秘なる母性の具現化、原始宗教の太陽神のような描かれ方をしており、そうすると1話の5兄弟は使徒のようです。そして父が死亡している状態でタロウが「生まれて」います。
田口さんは、初代ウルトラマンとは全く異なるアプローチで、ウルトラマンに神秘性を付与しようとしたのではないか、と私は考えています。
田口さんの、「タロウは,人間が好きになったんですね」の発言は、もし70年代に同じインタビューを受けていたなら、違ったものになっていたのではないかと私は疑っています。
田口さんの想定では最終話で「ウルトラマンタロウ」は永遠に失われて東光太郎の青春と成長だけが残ったと仮定しても、50年に及ぶ後輩たちの苦労を多少なりとも意識すれば、「タロウは消えた」とは言わないだろうと…
長々と大変申し訳ございません。
私の考えは、『タロウ』はかなり筋が通った独特な神話で、円谷プロ的には切羽詰まっていた状況なのに、設立10周年記念作でそんなことができた昭和の一時代は、今思うとすっごくキラキラしていてまるでタロウみたいだな、という前向きな羨ましさを内包した作品で、だから私は大好きなんだ!というところです。
『ウルトラマンタロウの青春』、早速電子書籍で購入したものの、未読のうちの勇み足で大変お恥ずかしいのですが、一人で考え続けていた自説に豊かな交感を頂けたことがもたらしたおっちょこちょいだとご寛恕頂けますと幸甚です。