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2026年3月30日月曜日

「スタグフレーション」が到来した場合に経済政策はどう調整されるべきか

  原油価格の上昇により,「スタグフレーション」が到来するのではないかと話題になっている。物価上昇と不況が同時に起こった場合に,高市政権の経済政策の作用はどう変わるだろうか。また,物価上昇と不況に対して,経済政策はどう調整されるべきだろうか。

1 コスト・プッシュ不況の到来か

 日本経済はコスト・プッシュに見舞われつつある。これは正確に言うとインフレーションつまり名目的・全般的物価上昇ではない。一時的ないし実質的物価上昇である(川端,2025)。インフレーションとは,貨幣の過剰発行による名目的・全般的物価上昇であり,特定部門のコストを引き上げるものではないし,日本全体の実質所得を低下させるわけではない。また,いったん上がった物価は二度と元に戻らない(これをインフレ・デフレの非対称性という)。一方,一時的・実質的物価上昇は,特定部門のコストを実際に引き上げるものであり,輸入物価を起点とする場合は日本全体の実質所得を低下させる。そして,おおもとになった原油価格の引き上げが一時的か恒久的かどうかに応じて,物価上昇も一時的か恒久的かが決まってくる。端的に原油供給が元に戻れば収まることもあり得る。

 さて,実質的物価上昇は特定部門の価格を引き上げると言っても,起点が原油であるため,その影響は産業連関に即して原燃料から製品へ,資本財・生産財から消費財へ,産業から家計へと広がっていく。原油の販売先構成から言って(alterne, 2026年3月16日),原油→ガソリン・軽油→自動車を用いる企業と家計のルートがメインであるが,他にも原油→ナフサ→エチレン→化学製品(包装材,自動車部品,洗剤,医療機器など。『日本経済新聞』2026年3月24日)があるし,原油→重油→電力→産業と家計というルートも,かつて石油火力発言が主流だったころほどではないが,今でもある。価格転嫁に川下の産業や家計が耐えられなくなれば産業の利潤率低下による生産停滞,ないしは家計の買い控えによる最終消費停滞が生じて,不況となる。円安を利用した輸出は可能だが,現状,アメリカにはむやみと輸出できず,中国の景気がいまひとつであるため,そこには限界がある。非常に難しい状況であるが,未曽有の事態ではなく,いくつか異なる要素はあるとはいえ,1970年代に起こったことでもある。

 このように経済情勢が激変した場合,現行の経済政策の意味が変化する可能性がある。何度か述べてきたように,植田日銀の金融政策は,金融市場の正常化を図り金利の機能を回復させるために緩やかに短期金利引き上げを行うものである。それはもっともなことであった。また,高市政権の経済政策はインフレかつ過熱気味の経済を維持しながら産業の国内投資を促進して,競争力を高め供給の天井を引き上げようとするものである。そこにはインフレ昂進,インフレ税による市民から政府への所得移転,円安による輸入物価高放置,長期金利上昇リスクという問題があった(川端,2026.2.27)。しかし,政策環境の激変によって,同じ政策が良かれ悪しかれ別な意味を持ってくる可能性がある。そうすると,これに対置されるべき望ましい経済政策も異なって来る。


2 マクロ経済政策のジレンマ

(1)金融政策

 まず金融政策。これまで,過度に低い金利を是正するために,日本銀行がじわじわと利上げするのはもっともなことであった。しかし,ここから先は話が違ってくる。

 一方において,金利引き上げは不況を加速する。原油価格引き上げが起こすのはインフレではなく実質的物価上昇だ。日本のような原油輸入国にとって,原油価格の高騰は購買力の流出をもたらし,総所得を減退させる。したがい,ここで金融を引き締めれば,不況への突入を後押しすることになる。物価だけを下げることはできない。過熱した景気を覚ますどころではなくなる。

 他方において,金利を据え置くことの弊害もなくなってはいない。円安がいっそう進行し,いよいよもって輸入物価が上昇するからである。それでも輸出産業は利益を上げるだろうが,おそらくそのGDP押し上げ効果より輸入価格高騰による押し下げ効果の方が大きいだろう。いまや主要企業を日本を輸出拠点としておらず,海外拠点で投資収益を稼ぐようになっているからである。

 つまり,物価上昇と不況が同時発生すると,日銀は,2022年頃のような,しかし帰結がやや異なるジレンマに逆戻りしてしまう(川端,2022.6.20,2022.6.26,2023.7.8)。金利を引き上げればコストプッシュ下で需要を減退させることにより,不況への突入を後押しする。金利を据え置いても円安による輸入物価高騰を招き,コストプッシュをさらに加速する。なぜこのようなジレンマに見舞われるかと言うと,アベノミクス期の「過剰に金融緩和していたが景気はたいして良くならなかった」という状態から出発したためである。このジレンマは,金融政策だけでどうにかできるものではない。


(2)財政政策

 次に財政政策。これまで高市政権は,景気が過熱気味で労働力と設備の供給制約に突き当たりつつあるのもかまわずに,積極財政に進もうとしていた。これはリスクの高いナローパスへの賭けであった(川端,2026.2.27)。しかし,輸入価格高騰というコストプッシュによる不況が発生し,遊休設備と失業・不安定就業の増加が生じた時には,話が違ってくる。積極財政は一面では合理的となる。物価高対策の給付や減税も,インフレを加速せずに行える余地が広がるからである。だから赤字財政自体への批判は当たらなくなる。もちろん,支出を何に使うか,つまり子育て支援やグリーン投資支援に回すか,軍事費拡張に回すかは,また別の問題である。

 しかし,この場合の財政赤字拡大は,国債消化,またその反面であるが利払い急増の問題を引き起こす。アベノミクス期と異なり,長期金利が財政赤字に反応して上昇する動きを見せているからである。これを防ぐもっとも単純な手立ては国債発行の規模を抑制することである。限られた規模で何を優先するかが問われるだろう。それでは不況を緩和できないというのであれば,財政出動を拡大しながら金利上昇を緩和するために,いまは減額中である日銀による国債の買い上げを,再び増額することが必要になるだろう。日銀による国債買い上げは,同時にマネタリーベースの拡大であり金利の引き下げである。これは,国際的に日本が突出して行うことになる可能性が高く,そうすると円安はますます進む恐れがある。

 アベノミクス期と異なり,物価の上昇傾向が明らかなので,賃金をまったく抑え込むわけにはいかない。企業は,エネルギーと賃金の双方のコストプッシュの価格転嫁,債務者利得を利用した借入増,生産水準の維持を図ると予想される。すると,物価はさらに上昇する。

 積極財政は,不況に転じた場合には本来妥当である。ところが,これからコストプッシュ不況が起こった場合に適用すると,物価を引き上げてしまう公算が高い。なぜかというと,すでに円安,輸入物価高騰,ホームメイドインフレ,賃上げ復活が起こっているため,アベノミクス期と企業行動がかわってしまっているからである。

 物価上昇が小幅にとどまる道があるとしたら,財政を引き締めるか,企業が「不況になったので賃上げどころではない」という姿勢に転じて賃金を再び徹底的に抑え込む場合であるが,その結果は消費が停滞し,さらなる不況となるだろう。


3 産業政策の方向性

 日本経済がこのような苦しい状態になるとすれば,その直接の主要因は原油価格急上昇による実質所得の減退である。だから,これを解決するには,原油価格上昇に影響されない経済,あるいはエネルギー価格高騰化に強い日本産業という経済のけん引力を作り出すしかない。これは1970年代のことを思えば,わかりやすい課題である。

 そこで産業政策である。これまでの高市政権のように,17分野を総花的に手掛けて,成長のスイッチを押している場合ではなくなるだろう。肝心なのは脱石油・脱化石燃料,省エネルギーであり,これを促進できる産業の競争力向上,またエネルギー消費に左右されない産業の競争力向上を最優先させることである。すると,やはり再生可能エネルギー,EV,スマートシティ,断熱建築,それらと関連した材料,半導体,機器,二次動力,サービス,AIを含むシステムである。AIとデータセンターの省エネルギーも必要である。いまさら何をと言うだろうが,結局,そこなのである。

 これらの技術の大規模導入は,日本においては,住民合意を無視した環境破壊を伴う発電所建設や,EVのコスト低減の遅れにより,障壁に突き当たっている。2100年の気温上昇幅より今の生活だという感覚からの反発もある。しかし,問題はいまや2100年だけではない。目の前のエネルギーコストの急上昇であり,まさに今の生活なのである。極論すれば,地球温暖化に関する価値判断は人により,政治勢力により分かれていても,省エネルギーの課題を共有すべきだろう。1970年代の環境投資も,一方では公害防止運動の成果であったが,他方ではコスト低減を求める企業の省エネ運動の成果であったことを思い出すべきだ。例えば自動車の燃費改善や製鉄所の熱回収は両方の成果であった。正直,やや手遅れの感はあるものの,開発規制を強めた上で再エネは推進すべきだし,EVのコストを下げて効率を引き上げることを支援すべきだし,都市のエネルギーマネジメントシステム,データセンターの省エネに投資すべきなのだ。

 ここで技術選択についての議論が必要になる。日本の政府と産業界が現にとっている方向は,原子力発電や石炭火力発電のアンモニア吹込,ハイブリッド技術の改良でまだ対処できるというものだ。これらの技術を全面否定するつもりはない。それらも同時に推進しても良い。だが,これらは現存技術の改良であり,原発と石炭火力発電については,この技術を現存老朽施設を長期間使用するとコスト安になるという次元のものである。これらの技術の発展経路が将来に至って長く続くとは思えない。原発もハイブリッド車もアンモニア発電も,あくまで将来へのつなぎ技術であって,これが本流だ,日本式だと自慢気に依存するものではないのである。

 なお,産業政策においては政策の方式も重要である。公的資金を特定企業に集中させて育成する方式はリスクも高ければ,モラル・ハザードによる停滞も生みやすいので回避すべきである。複数企業が競争できて,また新規参入が可能な方式をとらねばならない。周辺インフラに公費で支援するとか,スタートアップが公共調達に参加しやすくするといった形が望ましい。中国の政策を参考にするなら,特定企業に補助金を与えるのではなく,四輪EVの充電施設や,オートバイのカセット式バッテリー交換施設といったあたりに公的支援を行うのである。つまり,複数企業が競争のフィールドに乗りやすくし,フィールド上での競争を促すのである。円安を利用して日本企業の国内回帰と外資企業の対日直接投資を促進することも重要だ。関連機器やシステムがすべて輸入品になっては半ば失敗であるが,外資企業が日本で開発・製造することは,国内に雇用と所得を生むものであって有益である。何しろ日本企業も対外投資し,投資収益を海外で再投資しているためにお金が日本に還流しない現状である(唐鎌,2024)。それならば,むしろ外資企業に日本に投資し,収益も再投資してもらうことの価値に注目すべきだろう。


5 補足

(1)AIバブル崩壊との同時発生のリスク

 以上は,経済危機のきっかけとして原油価格高騰のことだけを考えた場合の話である。AIバブルの崩壊が同時に来た場合には,より苦しい状態になることは言うまでもない。AIの開発とそのアプリケーションは,傾向としては確実に成長する。しかし,大規模エクイティファイナンスを通して投資を行っているために,アメリカを中心地としたバブルと崩壊というサイクルは避けられない。昨年以来AI投資はすでに過熱気味であったので,エネルギーコストが下降局面の引き金を引くことになってもおかしくはないのだ。


(2)スタグフレーションというべきか

 今後到来する事態は,しばしば「スタグフレーション」と呼ばれている。スタグフレーションとはインフレーションと不況が同時発生する事態をさす用語とされている。私は,すでに述べたように,輸入品価格の上昇から生じる物価上昇は,厳密な意味でのインフレーション,つまり全般的・名目的物価上昇とは考えていない。特定産業での(ただしかなり広範な)実質的物価上昇である。したがい,輸入物価高騰から不況が生じることはコスト・プッシュ不況であり,これをただちにスタグフレーションと呼ぶのは正確ではない。そもそも持続的な物価上昇をすべてインフレと呼ぶ日常用語が定着してしまっている以上,これもまた日常用語としてはやむを得ないかもしれない。しかし,議論の正確性を損なう形で使用されるべきではなかろう。

 なお,コスト・プッシュ不況対策で財政を拡張し,それが生産拡大・雇用確保に十分な作用を持たなかった場合や,逆に設備と労働力の余裕がなくなっても財政拡張が続けられた場合は,厳密な意味でのインフレが生じる。この時,不況から回復していなければ,不況と厳密な意味でのインフレが併存することになり,スタグフレーションと呼ぶこともおかしくない事態になる。

 用語の正確さにこだわって何の意味があるのかと言われるかもしれないが,政策論議を誤らせないために必要なのである。安倍政権や黒田日銀は持続的物価下落をすべてデフレと呼んでいた。ところが岸田・石破政権以後は,物価が既に上昇に転じたのに,需要の弱さによる不況があればデフレだとして,「日本はまだデフレから脱却していない」と言い張るようになった。これではわけがわからない。このようなちぐはぐさをなくすためにも,物価変動分類論は必要なのである。詳細は川端(2025)を参照して欲しい。


唐鎌大輔(2024)『弱い円の正体:仮面の黒字国・日本』日経BP。
川端望(2025)「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492, 1-20。https://doi.org/10.50974/0002002920
川端望(2026.2.27)「高市首相の施政方針演説について:ナローパスに賭けるべきだろうか」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2026/02/blog-post_27.html
川端望(2023.7.8)「賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/2023.html
川端望(2022.6.28)「安倍晋三氏には「悪夢のような」現実を作り出した責任がある」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2022/06/blog-post_28.html
川端望(2022.6.20)「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」Ka-Bataブログ。https://riversidehope.blogspot.com/2022/06/blog-post_20.html



2026年2月7日土曜日

政府債務のGDP比率は何を語っているのか:Allison Shrager氏の記事から考える

 ブルームバーグのコラムニストAllison Shrager氏による記事「日本の国債市場変調から学ぶ3つの教訓、米財政政策への警鐘鳴り響く」2026年2月6日。私は,長期的にはかなり共感できるところがあるが少し違う視点を取りたい。また,短期的には別な評価も必要だと思う。論点整理の作業として投稿するために,話が行きつ戻りつすることをご勘弁いただきたい。

 短期の方から行こう。そのポイントは,政府債務/GDP比率を示したグラフにある。コロナ禍以後,日本の政府債務/GDP比は,依然として他国より高いが,他国より急速に低下していることに注意する必要がある。これはコロナ対策終了でいったん財政支出が縮小したことにもよるが,同時にインフレ・輸入物価高騰のためである。ストックで言うと,物価上昇によって日本に住む人が持つ貯蓄は実質的に目減りする。一方,政府の累積債務は実質的に軽減される。この現象は「インフレ税」と呼ばれる。また,物価上昇に対して,名目所得や名目消費額は追い付いていないが,見かけ上は所得や消費の額もそれなりに大きくなるので,税の支払額は増える。とくに所得税など累進性のあるものは,課税区分が上昇して税率が上がることがあり,実質的負担増となる。これらが,長年上昇傾向にあった日本の政府債務/GDP比が下がりだした理由である。

 だから短期でいうと,政府債務/GDP比率が下がれば良くて,上昇すると悪いというわけではない。いま述べたように,日本の比率が下がっているのは,住民から政府に所得移転を行っているようなものだからである。住民搾取の結果として政府債務が減るのは,よいこととは言えない。

 しかし,では積極財政が正しいかというと,いまは異なる。もし仮にに今が不況であり,失業率が世界金融危機の時のように5%に達し,遊休設備が存在するのであれば,しばらく積極財政,減税でもよい。雇用が生まれ所得が生まれるからである。しかし,2026年の現実はインフレ・輸入物価高と同時に景気は過熱気味で,失業率は昨年末2.5%であり,遊休設備はほとんど存在しない。だから,財政赤字を拡大してはだめなのである。なぜなら,実質所得が増えずにインフレが加速し,また円安が進んで輸入物価がさらに上昇するリスクを高めるからだ。これが目の前の問題である。債務が大きすぎるからではなく,すでに生産能力を使い切った状態だから,財政赤字が益少なく害多いことになるのである。

 次に長期である。コラムの言うことは間違っていないとは思うが,少し視点を変えた方がよい。政府債務/GDP比が長期にわたって上昇していることを,分子の政府債務の大きさだけに即して評価するのでなく,分子と分母の関係に即してみるべきである。つまり,「財政赤字が所得に寄与していないのに拡大し続けていること」が問題なのである。これは明らかな事実である。またもうひとつは,マーケットに対し,政府が課税能力を徐々に失っているという疑念を発生させることである。これは期待の問題である。この二つは,通貨価値の毀損=インフレのリスクを高め,日本国債に対する評価を下げ,主に円安と長期国債価格の下落,長期金利の上昇を引き起こす。また,短期金利を調節する日銀も板挟みに陥る。このコラムの以下の指摘は正しい。「インフレと闘うために金利を引き上げれば、債務コストが急増する。一方,金利を低く据え置いてインフレを高止まりさせれば,円は下落する」。

 日本政府にもジレンマが生じる。一つの道は,緊縮財政をとって国民をさらに苦しめつつも長期金利の上昇を防ぎ,国債市場と外為市場での信認をつなぎとめることである。もう一つは,国債をさらに増発して日銀に買い上げを求めることである。日銀は,たとえ独立性を持っていようとも,国債暴落を放置することはできない。黒田時代のように買い上げざるを得ないだろう。すると,しばらく国際市場での信認は維持されるだろうが,インフレ圧力がさらに強まる。

 最後に,このコラムが引き出した教訓と対話しよう。一番目の教訓は,「長期金利はマーケットが決める価格であり,下手にいじれば危ないということ」である。これは正しい。ただ,その意味はもっと深い。長期金利が上がるのは,財政支出に効果がなく,また課税能力が疑われているということである。借金の金利が高くなってたいへんだというイメージで考えるべきでなく,円という通貨の価値が疑われているというレベルでとらえるべきである。

 このコラムによる二番目の教訓は,「インフレはいずれ戻り,財政計画を揺るがすということ」である。これもほぼ正しい。「インフレリスクは決して消えない」というのはさらに正しい。たとえ財政赤字を容認する学派であろうとも,その限界を悪性インフレ=通貨価値の毀損を引き起こさない範囲に置く。例えば機能的財政論の元祖であるラーナー『雇用の経済学』を見よ。これを踏み外すべき根拠はどこにもない。

 ただし,インフレリスクを政府が逆用する可能性を見落としてはならない。仮にマーケットをパニックに陥れず,国民が反攻に転じないという前提が成り立つならば,インフレによって政府が債務者利得を得られるのである。現に,いまそうなっている。だから日本政府は,インフレを放置するという積極的な賭けに出るかもしれないし,あるいは無策のまま何とかなることを期待する結果として消極的な賭けに出ることもありうる。

 最後の教訓は,「第三に、政府が巨額の債務を抱えても何も起きないことは時にあるだろうが、それは長期戦略にはなり得ないということだ。卑近な例を用いれば、断層の上に家を建て、何十年も地震で倒壊せずに住めるかもしれないが、それが賢明だったことにはならない」というものだ。これは正しくない。脆弱地盤しかないとことろでは,地盤を徹底的に改良して家を建てることは賢明な選択である。資本主義社会に生きるとは,地盤の脆弱な土地に住むようなものである。自由放任では成し遂げられないことは多い。しかし,公的機関の努力によって失業を減らし,外部効果の高い科学研究や技術開発を支援し,環境破壊を食い止め,市場では供給されない公衆衛生のようなサービスを提供するならば,インフレなき完全雇用と,環境保全と社会の安定を確保できる可能性が高まる。それに寄与するならば,債務は創造しがいがあるし,長期金利は上昇しない。理論的にも,いまの日本の現実に沿っても,問題は債務の金額が大きいことそれ自体ではない。財政支出が有効に使われずに,供給能力を伸ばさず,インフレを起こし,格差を放置する結果をもたらすことなのである。

Allison Shrager「日本の国債市場変調から学ぶ3つの教訓、米財政政策への警鐘鳴り響く」Bloomberg, 2026年2月6日。
https://www.bloomberg.com/jp/news/articles/2026-02-05/T9U3UHKGIFPZ00


2025年10月30日木曜日

アベノミクスの金融・財政政策を継承すると,物価高対策にならない:高市政権下でのマクロ経済政策の方向性について

 高市政権は,金融緩和,財政出動という意味でアベノミクスを継承する気配を見せている。むしろ財政支出に関してはアベノミクスより積極的になるかもしれない。アベノミクスは,金融緩和は政府の日銀への圧力のもとで「超」がつくほど徹底して行ったが,財政赤字はそれまでの水準を維持したというレベルであり,さらに拡大したわけではなかった。むしろコロナ後の岸田政権以後の方が,財源の手当てなく大型支出を次々提案している。防衛費のGNP比2倍化,子育て支援,グリーントランスフォーメーション等々である。高市政権では,物価高対策を理由に何らかの形での家計向け減税が加わるであろう。これは歳出増というより,むしろ歳入減となる面が強いが,赤字財政による需要刺激という点では同じである。

 高市政権の政策の詳細がどうなるかが判明するのはこれからである。しかし現時点で重要なことは,金融緩和,財政出動をいま行うとどうなるかを考えておくことである。それが,今後の政策評価の出発点になるだろう。

 ここで大事なことは,2010年代に行われたアベノミクスと,2025年以後に行われそうな高市政権の金融緩和・財政出動では,経済環境も違うし,予想される結果も違うということである。

 まずアベノミクスは,物価がほとんど上がっていない状態と,円ドル相場が購買力平価より高い状態(世銀国際比較プログラム2011推計)から出発した。また,失業率も4%を超えている下で出発した。そこで,金融を引き締めるよりは緩和する方向に,財政を引き締めるよりは拡大する方向に舵を切るのはもっともなことであった。その限りでは普通であった。

 問題は,アベノミクスは,物価上昇率を年率2%にすることをめざし,とくに財政よりも金融政策に力を入れてこれを実行しようとしたことである。そして,結局,達成できなかった。いくら量的・質的金融緩和(日銀による国債買い上げとETF/J-REIT購入)を激しくおこなっても,またそれなりに財政赤字を出し続けても,通貨供給量(マネーストック)が増えなかったからである。そして,それはなぜかというと,金融緩和だけでは,企業においては日本市場で長期をにらんで設備投資しようという意欲を喚起できなかったからであり,家計においては消費意欲を喚起できなかったからである。企業は日本市場が活性化する見通しを持てず,個人は,すぐあとで述べる賃金抑圧と雇用の非正規化により,家計が好転するだろうという見通しを持てなかったからである(※1)。一方,株式市場と外国為替市場は,財政赤字は従来ベースだが金融は超緩和という組み合わせに対して敏感に反応した。株高・円安の実現である。これにより一部輸出向けの設備投資は喚起できたが弱弱しかった。大々的に喚起されたのは対外直接投資と金融資産購入,とくに外国投資家の株式市場への呼び込みであった。

 だから,アベノミクスは,高く評価できるようなものではない。できるだけよく言うならば,金融・財政引き締め策を取らず,日本経済を政策不況のどん底に陥れなかったという点だけは評価できる。しかし,しかし,自ら掲げた日本経済再興を達成したわけではまったくなかったのである。それは,金融緩和という一面的なツールでは,日本経済がよくなると経営者にも個人にも信じてもらえなかったからである。これは経済政策の責任者としても政治家としても失敗だろう。アベノミクスを継承するのをポジティブなことと見なす言説が,私には理解できない。

 さて,高市政権である。政権が2025年に直面している情勢は,安倍政権発足時とは大きく異なっている。まず,物価上昇率はG7諸国で最高になっている(熊野,2025)。そして,円ドル相場は購買力平価を超える極端な円安になっている。一方,失業率は2.5%にとどまっており,人手不足が起こっている。

 国民生活にとって最大の直接的問題が物価高であることは,高市総理も強く意識している。裏返して言うと,物価の停滞が企業行動を停滞させるという問題や,働こうとする人が仕事を見つけられずに困っているという,安倍政権発足時のような問題があるわけではない。アベノミクス開始時とまったく異なる条件に置かれ,国民生活の問題も異なっているのである。これで,どうしてアベノミクスと同じ金融緩和・財政拡大で対処できるのであろうか。いったい,どういう理屈になっているのか,私には理解できない。

 もう少し丁寧に言う。マクロ的に金融緩和・財政拡大をするというのは,国内総需要を刺激するということである。総需要刺激は,未稼働の労働力と設備,滞貨,その他未利用の物的資源が存在し,それらを使えば生産が拡大して所得が生み出せるような場合には有効である。しかし,現在の日本経済はこうなってはいない。未稼働の設備や失業している人は決めて少ないので,総需要を刺激しても生産と所得が伸びにくいのである。

 さらに詳しく言う。内閣府推計のGDPギャップでみるとプラス,つまり需要超過に転じている状態である(※2)。日銀推計のGDPギャップはまだマイナスであるが,それも資本には遊休があるものの労働は既に需要超過となっている(※3)。そして,いずれの潜在成長率推計をみても,労働者数はまだ伸びる余地があるものの,労働時間はマイナスであり伸びる余地がない。確かに完全雇用状態ではなく,いま雇われていない女性全般と男女高齢者が勤めに出る余地はあるが,労働時間は短縮傾向にある。そして前者の作用より後者の作用方が大きいから,労働投入を増やすのは困難なのである。つまり,総需要を刺激して実質総生産(GDP)を伸ばすことは難しい状態なのである。GDPが成長できるとすれば,イノベーションが盛んになって供給能力が伸びた場合,労働時間を延長した場合,労働力供給を過程からもっと引き出した場合であるが,いずれも容易ではない(※4)。しかも,イノベーション政策にせよ労働市場政策にせよ,金融・財政の拡張か引き締めかという次元では不可能である。よって,マクロ経済政策とは別の話が必要となる。

 こうした状況で高市政権が日銀の金利引き上げを牽制し,財政を拡大すれば,何が起こるだろうか。生産が拡大せず,名目所得の増加を物価上昇が打ち消すだろう。つまり,さらなるインフレである。これでは物価高対策という目的は達成できない。さらに日本の低金利が国際的に突出すれば,益々の円安が加速する。それは輸出産業には刺激となるが,エネルギー,食料,さらに各種製造品,海外から提供されるITサービスを含めて,輸入物価の高騰を一層加速する。これもまた物価高対策という目的に逆行する(※5)。ついでに言うと,工場を建設するような対内直接投資の刺激には役立つが,外資による不動産購入も加速する。またインバウンドも過度に促進することになり,オーバーツーリズム問題は悪化するだろう。さらに付け加えるならば,実物経済から実質的な利益が見込めないとなれば,金融資産購入を意図した資金調達が強まり,株式や不動産や商品市場でのバブルが強まることも十分あり得る。

 なお,財政赤字の拡大が国債引き受けの困難を増し,長期金利を高騰させるという問題も指摘されるかもしれない。しかし,ここは複雑であり,数年単位では何とも言い難い。長期金利に逆方向から影響を与える複数のベクトルが作用するからである。長期金利が急騰するのは,きっかけは金融的要因で起こるとしても,結局のところ景気の先行きと政府財政の持続性が危ぶまれるからである。高市政権が景気過熱状態でのインフレを起こした場合,悪性インフレが経済を混乱させていると見られるか,何はともあれ過熱状態程度の好景気が保たれていると見られるかは決め難い。長期的には前者だろうが短期的には全く状況依存的であって後者になるかもしれない。また,財政赤字を拡大した場合,一方では円の価値が毀損されるが,他方でインフレはあらゆる債務を目減りさせるので,政府の実質利払い負担や実質債務残高も軽減される。したがい,円の信認は長期的には低下するだろうが,短期的には維持される可能性もあり,やはり状況に依存する。二つの軸のいずれで見ても,金融・財政拡張策は長期的には長期金利を高騰させるリスクを高めながら,数年のスパンでは,どうなるともいえないのである。いわゆるマーケットとの対話や偶発的ショックに左右されながら状況依存的に推移するだろう。

 まとめよう。設備も人も余っていない状態,とくに労働面のGDPギャップが極小化されている現状では,金融緩和・財政拡張はインフレを起こすだけで実質的所得を生まない。したがい,物価高対策として有効ではない。高市政権の経済政策について現時点で言うべきは,まずもってこのことである。

 それでは,物価高による市民生活圧迫にどのような対策をとればよいのか。これが次の問題となる。マクロ的な緩和・拡張か引き締めかというだけでなく,労働市場政策,労使間の分配や社会的格差是正,イノベーション刺激など,よりブレークダウンされた次元で考えねばならない。

※1 公平のために言うと,当時の企業行動は,安倍政権や日銀の予想を超えていた。アベノミクス期のみならず,「失われた30年」と呼ばれる時期にも企業セクターは,実はそこそこの生産性向上は実現し,過去の実績に劣らぬ利益率を計上していた(河野,2025)。しかし,国内での正社員を拡大せず,増やすとすれば非正規労働者に限り,あわせて労働組合が極度に弱体であるのをいいことに賃金を決定的に抑圧し続けたのである。これはコロナ前に物価が頑として上昇しない要因であった。賃金が上がらないので消費が喚起されなかった。賃金を上げない経営者は,富裕層以外には消費を伸ばしそうにないと理解していたので,国内市場拡大に展望を持てず,設備投資に意欲的になれなかった(海外直接投資には意欲的だった)。したがい,企業は価格を引き上げる気になれなかった。むしろ人件費節約を選び続けた。これにはむしろ安倍政権の方が慌て,次第に賃上げを自ら奨励するようになったほどである。

※2 月例経済報告のGDPギャップデータ(2025年10月30日),内閣府ウェブサイト。( https://www5.cao.go.jp/keizai3/getsurei/getsurei-index.html#sonota )。

※3 需給ギャップと潜在成長率(2025年10月3日),日本銀行ウェブサイト( https://www.boj.or.jp/research/research_data/gap/index.htm )。

※4 もし日銀推計のように設備側にまだ遊休があるならば,生産を拡大する方法も三つくらいあるように思われる。第一に,残された非労働力である女性と男女の高齢者が,ワークライフバランスを尊重してなお,もっと働きたいと思えるように,労働条件を改善することである。これにより,従来の推計以上に労働力が生み出せるかもしれない。そのような政策が期待されるが,現時点ではその気配がない。第二に,この真逆であり,ワークライフバランスの放棄という首相の姿勢を国民に強制し,労働時間規制を全面緩和することである。高市政権は,労働時間規制緩和を提唱しているが,これは抵抗もあるし,実施できるとしても大規模なものになるかは疑問である。第三に,外国人労働力の急拡大である。一部の業界がこれを望んでいることは明らかだが,高市政権の政治的傾向から言ってこの選択は取らないであろう。

※5 正確に言うと,引き起こされる物価上昇は三種類ある。第一に,金融緩和が景気過熱を招き,需要超過で一時的に物価を上昇させる。これが定着してコスト構造が変わってしまうと,実質的物価上昇になる。第二に,財政赤字拡大により厳密な意味のインフレ,つまり通貨の外生的投入による名目的物価上昇が生じる。第三に,金利差が引き起こす過度な円安によって,輸入品の価格が高騰する。これは円の購買力が低下することであり,一時的な物価上昇,定着すれば実質的な物価上昇である(川端,2025)。

参考文献

熊野英生(2025)「気がつけば、日本の物価上昇率はG7最高~消費者物価は日本が3.6%上昇、各国2%台~」経済レポート,第一生命経済研究所,6月5日( https://www.dlri.co.jp/report/macro/465617.html )。

川端望(2025)「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492, 1-20.
https://doi.org/10.50974/0002002920

河野龍太郎(2025)『日本経済の死角:収奪的システムを解き明かす』筑摩書房。

※2025年11月22日:言葉を補った。「企業においては日本市場で長期をにらんで設備投資しようという意欲を喚起できなかったからであり,」の前に「金融緩和だけでは,」を追加。「日本経済がよくなると経営者にも個人にも信じてもらえなかったからである。」の前に「金融緩和という一面的なツールでは,」を追加。河野(2025)を参考文献に追加。



2025年9月22日月曜日

日銀による保有ETFの売却発表によせて

 日銀が,保有するETF(信託財産指数連動型上場投資信託)とJ-REIT(信託財産不動産投資信託)のゆるやかな売却を発表した(「日銀 ETF売却開始を発表 植田総裁「全売却に100年以上かかる」NHK NEWS WEB,2025年9月19日)。その保有残高は昨年度末(3月31日現在)でそれぞれ37兆1862億円と6657億円だ。これらは当初は信用緩和,後には質的金融緩和と称して白川総裁時代に始まって黒田総裁時代に加速,昨年3月までに買い付けられたものである。その目的はリスク・プレミアムの低下とされたが,私は不適切な政策であったと考えている。なぜならば,ETFやJ-REITに組み込まれる上場企業株式や大手不動産「のみ」を買い支える,特定企業,特定物件優遇策だったからであり,中立性が求められる日本銀行に許されない偏向であり,議会の決定を通さずに行う財政政策だったからである(※1)。もはや購入せず,むしろ売却するという植田日銀の決定は妥当であろう。

 ただし,ここで一言いいたいのは,いったん買ってしまったETFとJ-REITからは,日銀が最大の利益を追求すべきだということである。日銀が利益(剰余金)を出せば,それは国庫に納付され,日本全体のために使用されるからである。また,とくに金利がある時代に復帰したいま,日銀は財務リスク,正確には財務に関する評判リスクを抱えており,財務状態の悪化を避けた方がよいからである。少し詳しく言うと,日銀は銀行ではあるが,その主要収入は貸出利息ではなく,長期保有する国債の利息と,ETFの運用益である。現に昨年度決算では,それぞれ58億円,2兆774億円,1兆3826億円であった。他方,支出側には補完当座預金制度利息,つまりは銀行が預けている準備預金の一部に対する金利があり,これが1兆2517億円に上っている。国債の多くは固定金利であるため,金利が上がっても日銀が長期保有国債から受け取る利息は変わらない一方で,支払うべき預金利息は膨れ上がる。日銀は,原理的には準備資産を持たずとも運営できるが,日銀の財務状態の悪化は日本という国の信用悪化とみなされ,市場での円や国債の信用を揺るがしかねない(※2※3)。

 だから,ETFとJ-REITの売却に当たり,日銀は,市場にショックを与えないように配慮しつつも,日銀自身が(結局は国庫が)最大の利益を得られるように売却を行うのが妥当であろうと,私は考える。日銀は,ETFやJ-REITを買うべきではなかった。しかし,買ってしまったものからは利益を上げるべきである。倫理的にはねじれた話であるが,このように言うべきだと私は思う。

※1 川端「日銀のETF購入は上場企業優遇の財政政策ではないのか:日銀のETF購入(2)」Ka-Bataブログ,2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf2.html

※2,3  川端「通貨供給システムとしての金融システム」研究年報『経済学』pp. 39-40 ( https://doi.org/10.50974/0002003359 )。また日銀総裁その人による植田和男(2023)「中央銀行の財務と金融政策運営 日本金融学会2023年度秋季大会における特別講演」。この講演の見地は,日本銀行企画局(2023)「中央銀行の財務と金融政策運営」として日銀公式見解となった( https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2023/ron231212a.htm )。




2025年7月20日日曜日

斉藤美彦『ホモ・クアンティフィカンスと貨幣:「価値形態論」から「負債論」へ』丸善プラネット,2024年8月を読んで

 斉藤氏はイギリス金融論の実証的研究者である。東京大学で山口重克氏に師事され,研究職に就かれる前は全国銀行協会連合会(全銀協)に勤務された。本書は,斉藤氏自身の理論形成につながった人々の内生的貨幣供給論への歩みをたどること,複数の諸国の中央銀行が内生的貨幣供給説の見地から量的金融緩和に関する続説を否定していることを紹介し,その意義を確認すること,ミッチェル・イネス,デヴィット・グレーバー,金井雄一などの説に依拠して,信用貨幣を貨幣の起源でもあり本来の姿であるという観点からマルクス経済学の貨幣論を再構築することを呼びかけることという,三つの内容を持っている。私は本書より後の2025年3月に「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」を発表したが,原稿を提出したのは2024年4月であり,本書を参照できなかった。

 斉藤氏が,マルクス経済学宇野派に立脚しながら,現代の預金貨幣と中央銀行券は信用貨幣であって,銀行・中央銀行から内生的に供給されるという立場をとっていることには,私は心より賛同する。また,山口重克氏によって宇野弘蔵氏の商業信用論,すなわち手元遊休貨幣の融通として商業信用を規定する見地が克服されたことを有意義とすることも納得できる。いわゆる日銀理論が横山昭雄『現代の金融構造』(東洋経済新報社,1977年)によってもっとも体系化されていること,全銀協に勤務されていた吉田暁氏と斉藤氏自身の内生的貨幣供給論も日銀理論と同一の潮流にあるという認識・自己規定にも異存はない。

 もっとも,マルクス経済学における信用貨幣の起源は山口氏ではなく岡橋保氏に置くべきである。本書では,わずかに不換銀行券論争における岡橋の立論が紹介されているだけであるが,1940年代から50年代にかけて,信用貨幣論の礎を築いたのは岡橋氏である。それだけではない。結局,今日に至るまで,マルクス体系に立脚した信用貨幣論を,もっとも徹底した姿で示しているのは岡橋説だというのが私の理解である。この点は上記拙稿をご覧いただきたい。

 続いて斉藤氏は,イングランド銀行,ドイツ連邦銀行,スウェーデンのリクスバンクといったヨーロッパ諸国の中央銀行が,量的緩和を自ら行いながら内生的貨幣供給説のペーパーを発行していたことに注目する。三行はそろって,預金貨幣は貸し付けを通して生まれるのであり,中央銀行による準備預金供給によって増えるものではないと主張しているのである。各行とも行っていた量的金融緩和の効果を自己否定するかのような主張である。斉藤氏は,おそらくいずれの中央銀行も,周囲の圧力に押されて量的緩和を行ったものの,それは実は景気刺激策としては無意味であると認識していたのだろうと推定している。各行の内部事情はうかがいしれないものがあるが,少なくとも黒田総裁時代の日銀と異なり,三行は量的金融緩和でリフレーションが起こせるとは考えていなかったことは確認できる。

 本書は,ここまではうなずけるところが多い。しかし,最後になって斉藤氏は,イネス,グレーバー,金井雄一氏らの主張にほぼそのまま追随し,貨幣はその起源から信用貨幣であり計算貨幣であったのだから,本来の貨幣は金属貨幣・商品貨幣だとするのは誤りであり,スミスもマルクスも誤っていたとあっさり認める。そして,マルクス経済学の貨幣論も全面的に見直すべきだと述べて稿を閉じられるのである。これには同意できない。斉藤氏は,マルクス経済学の宇野派であることに相当な自意識を持たれているのだから,もう少しマルクス体系を駆使して粘ってみてはいかがだろうか。

 私が近年の信用貨幣論の諸潮流にもっとも納得できないのがこの点である。マルクス体系によって貨幣の発展を論理的に跡付けるならば,商品流通はほんらいの貨幣として商品貨幣・金属貨幣を必要とする。しかし,資本主義の発展は商品貨幣・金属貨幣が現に流通することを桎梏とする。そのため代行貨幣が発展し,商品貨幣・金属貨幣を流通から排除して預金貨幣や中央銀行券に置き換えていくしくみが作り出される。このような整合的説明は十分可能だというのが私の意見である。斉藤氏や彼が依拠した論者は,口をそろえて「物々交換は昔からなく,金属貨幣はさほど用いられていなかった」という経済史上の事実をもとに,貨幣論が商品貨幣・金属貨幣から出発することを論難する。しかし,これは認識論としておかしい。経済理論は経済史ではない。資本主義における様々な事柄を論理的に説明するのに適切な順序は,前資本主義から資本主義に向かっての出来事の時間的順序とは異なるはずである。

 マルクス派が貨幣論が商品貨幣・金属貨幣をほんらいの貨幣とするのは,昔々に金属貨幣が主要な貨幣として使われていたからではない。当たり前だが,21世紀の今日に商品貨幣・金属貨幣が流通しているからでもない。商品貨幣・金属貨幣に即してみることで,貨幣の価値尺度・流通手段・支払い手段・蓄蔵貨幣・世界貨幣という主要側面を余すところなく説明できるからである。そうすることで,資本主義発展とともに商品貨幣・金属貨幣を用いることが桎梏となり,代行貨幣が発展していく道のりをも明らかにできるし,その発展が種々の矛盾を伴うことをも主張できるのである。批判や嘲笑を招くであろうことを承知の上であえて言うが,2025年の今この瞬間も,商品流通は商品貨幣を必要としている。と同時に,資本主義は商品貨幣の不便さを代行貨幣で克服している。と同時に,そこには飛躍的な機能拡張とともにインフレやバブルを引き起こす矛盾が潜んでいるのである。このように端緒的規定と発展的規定の関係を前資本主義の過去から資本主義の現在への移行とみるのではなく,資本主義という同時代を説明する論理的説明の進行とみることがマルクス派貨幣論の思考であり,またそれは妥当だろうと私は考えるのである。

斉藤美彦『ホモ・クアンティフィカンスと貨幣:「価値形態論」から「負債論」へ』丸善プラネット,2024年8月
https://www.maruzen-publishing.co.jp/book/b10123118.html


2025年7月14日月曜日

政府支出は課税することなく可能か?:MMTとの一致点と相違点(覚書)

  SNS上では,「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」と主張する意見がある。これに対しては,たいてい激しい反駁も見られる。しかし主張者はひるまず,全くかみ合わない議論となっている。

 ここでは,この意見について通貨供給論の見地から考える。先取りして言うと,私の意見は以下のとおりである。

A.「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」という主張は,中央銀行を考慮しない1)「中央政府の一般モデル」の次元では正しい。

B.MMTは「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」という主張を2)中央政府と中央銀行を合わせた「統合政府の一般モデル」の次元で正しいとしている。これは正しくない。

C.現実の政策を議論するためには,まず1),次に2)統合政府(中央銀行+中央政府)の制度的枠組みの次元で議論しなければならない。中央銀行を考慮した場合には,中央政府は「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」けれども,中央銀行マネーを借り入れねばならない。その上でさらに,3)国ごとに中央銀行と中央政府の制度が異なることを踏まえて,具体的に議論しなければならない。

 この投稿ではAとBについて説明する。

ーー

 MMTは,「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」と主張している。この主張は,1)一般理論のモデル,2)一般的な統合政府の制度的枠組み,3)実際の各国の中央政府と中央銀行の制度という,三つの次元で区別して議論する必要がある。

 1)は最も抽象化された経済理論上のモデルであり,いかなる資本主義社会の政府にも妥当するような基本モデルである。2)は,中央政府と中央銀行の間で,もっとも結ばれやすい関係によって描いた統合政府モデルである。中央政府と中央銀行の間に結ばれる関係は,資本主義である以上必ずこうなるというほど一義的に決まるものではない。しかし,このようになるのが合理的であろうという程度には叙述できる。3)実際に政策を議論する際の,当該国の中央銀行と中央政府の諸制度である。

 この覚書では,まず1)一般理論のモデルを素描することで,必要な議論の基礎を築きたい。


■貨幣発行主体としての中央政府の一般モデル

*モデルの叙述

 ここでは,中央政府が貨幣供給にどうかかわっているかの一般モデルを叙述する。ここでは中央銀行の民間組織としての側面を捨象し,権力的側面は,抽象的な中央政府に含まれているものとする。このモデル設定はMMTと似て異なるのだが,その点は最後に述べる。

 中央政府と貨幣経済のかかわりにおいて最も重要なことは,中央政府は,唯一ではないが重要な貨幣供給の担い手だということである。政府は貨幣を供給するのである。そして,まず貨幣を供給して支出し,しかる後,課税して自ら発行した貨幣を回収するのである。これは,実際に存在してきた政府発行不換紙幣や政府発行硬貨のことを考えれば,何らおかしくない想定であることがわかるだろう。

 主流派経済学が明示的に描く政府モデルや,多くの実務家,市民が漠然と心に抱くイメージは,貨幣が既に十分に流通している経済があって,政府はまず課税によってその貨幣の一部を取り立て,それを必要な支出に充てるというものである。しかし,この想定は適切ではない。通貨発行権を持つ中央政府は,まず貨幣を作り出して支出することができるからである。政府支出によって流通に投じられた貨幣が経済活動(商品の流通)を媒介するようになる。そして,政府は課税によって貨幣を回収するのである。この次元では,貨幣の動きは,流通→課税→支出→流通ではなく,「支出=発行」→流通→「課税=回収」と理解すべきである。

 このように政府を貨幣発行主体とするならば,確かに「政府は課税することなく支出する」し,「課税は財源確保のためではない」。「中央政府の一般モデル」の次元ではこうなるのである。一般的な「流通する貨幣への課税主体としての政府」説と「財政の課税先行」説に対して,私は「貨幣発行主体としての政府」説と,「財政の支出先行」説をとるべきだと主張しているのである。

 しかし,中央政府発行貨幣は,どうして流通することができるのだろうか。それ自体が価値を持つ商品を用いた商品貨幣(素材に即して言い換えるならば金属貨幣)であれば,もちろん問題なく流通する。ただし,商品貨幣を発行するためには,政府が十分な商品貨幣を供給するための素材を保有していなければならない。例えば金山や銀山を保有していなければならない。それでは商品流通に必要な貨幣を確保できる保証がない。

 そこで中央政府は,それ自体は無価値な素材を用いた貨幣を発行して,流通させる必要がある。中央政府は国家権力の行使者であるから,それ自体は無価値な素材を用いた貨幣であっても,価値のシンボル,すなわち価値章票として,強制通用力を持たせて流通させることができる。これが法定通貨である。とくに政府は,貨幣の発行のみならず回収も必要であるため,政府発行貨幣を納税に利用可能なものとする。納税に利用可能であるがために,人々は政府発行貨幣を有効な通貨として利用するだろう。これが「貨幣の通用力に関する租税駆動説」である。


*MMTとの一致点・相違点

 さて,私は以上のような理解で,貨幣発行主体としての中央政府の一般的な理論モデルを設定する。これはMMTとどのような関係にあるか。

 ここで種を明かせば,「貨幣発行主体としての政府」説と「財政の支出先行」説,そして「貨幣の通用力に関する租税駆動説」は,いずれもMMTが主張するものである。なので,私は「中央政府の一般モデル」としてはMMTを支持している。

 しかし,重大な留保がある。MMTは以上の関係を「統合政府の一般モデル」,つまり中央政府と中央銀行を含んだ包括的な政府のモデルとして理解している。統合政府全体を「貨幣発行主体としての政府」説と「財政の支出先行」説,そして「貨幣の通用力に関する租税駆動説」で理解すべきだというのである。

 しかし,私は,そうは考えない。中央銀行は半官半民組織だと考えるからである。通貨供給システムとしての金融システムは,商品流通と資本主義的生産の中から発生する。商品貨幣や信用貨幣は,民間経済の中から生まれるし,信用貨幣は商業銀行によって供給される。そして,銀行システムを,一国の貨幣制度として,準備集中と発券集中によって完成させるのが中央銀行である(川端,2025)。つまり,貨幣供給システムとしての金融システムは,権力によって完成させられるものではあるが,もともと民間経済の中から生じるものである。

 だから,中央政府を貨幣発行主体として抽象的に描く際に,私は中央銀行の権力的側面はここに含める。中央銀行の権力的側面は,中央政府から分化したものとして捉えるのである。しかし中央銀行の民間組織としての側面は,そもそも中央政府モデルに含めないし,含めるべきではないと考える。商品・資本主義経済自体が生み出した貨幣と信用のシステムは,中央政府がどうあれ,それとは別に存在していると想定するのである。通貨供給システムを論じる際には,一方に「中央政府の一般モデル」を置き,他方で「銀行―中央銀行の一般モデル」を置く必要がある。そして,それらが取り結ぶ関係として「統合政府(中央政府+中央銀行)の制度的枠組み」を論じるべきである。以前にこれを「二層の銀行・政府」モデルと呼んだことがあるが,今後,もっと詳しく論じていきたい。

 「中央政府の一般モデル」の次元では,確かに,「政府は課税することなく支出する」し,「課税は財源確保のためではない」。しかし,「銀行―中央銀行の一般モデル」を踏まえて「統合政府(中央政府+中央銀行)の制度的枠組み」を論じる次元では,そうなるとは限らない。政府が,中央銀行マネーを借り入れる必要が出て来るからである。

 この点で,私の見解はMMTとは異なる。MMTは,中央銀行の全体を含めて,統合政府を「貨幣発行主体としての政府」説と「財政の支出先行」説,そして「貨幣の通用力に関する租税駆動説」で理解する。銀行―中央銀行システムまでも,政府の課税権力によって成り立っているかのように描くのである。だから中央銀行を考慮した場合でも,平然と「政府は課税することなく支出する」し,「課税は財源確保のためではない」と言い切ってしまうのである。MMTは,現実の銀行を説明するときには信用貨幣論に立つのに,貨幣の存在を根本的には租税駆動説で説明し切ろうとする。預金貨幣や中央銀行券が,もっぱら課税権力ゆえに流通しているかのように描いてしまう。商品流通と資本主義経済そのものが,貨幣や信用制度を作り上げる力が軽視される。ここに問題があると考える。

<参考>

川端望(2025)「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」研究年報『経済学』81,23-52。
https://doi.org/10.50974/0002003359

川端望「財政赤字に伴う国債発行をどのように把握するか:「二層の銀行・政府」モデルの提示」Ka-Bataブログ,2024年11月25日。
https://riversidehope.blogspot.com/2024/11/blog-post_25.html





2025年7月9日水曜日

信用貨幣論から見た金融・財政の制度とオペレーション:ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年を読んで

  ポール・シェアード氏と言えば,日本では1990年代に『メインバンク資本主義の危機』で話題になったエコノミストであるが,今度の日本語訳本は貨幣論である。しかも,現代の貨幣は統合政府の債務であるとする信用貨幣論である。

 その主張を一言で言うと,「長期経済観や政治的インプリケーションを取り除いたMMT」といった趣である。ランダル・レイ『MMT 現代貨幣論入門』と類似のことを,ただしより金融制度論の教科書風に体系立てて漏れなく述べたという感じである。貨幣の起源論はごくさらりと流しており,中央銀行,中央政府,中央銀行,商業銀行のオペレーションに関する記述は信用貨幣論,とくに預金貨幣論に基づいている。長期経済観や政治的インプリケーションはないというというかやや保守的である。例えば再分配政策はほとんど無意味であり,富裕層が資産として保有している株式が企業価値を支えていることは尊重せざるを得ないとしている。この本の推薦者が,一方ではステファニー・ケルトン氏(『財政赤字の神話 MMT入門』著者)であり,他方では新浪剛史氏(サントリー・ホールディングス代表取締役会長)や宮内義彦氏(オリックス・シニアチェアマン)であることは,本書の性格を適切に表示している。

 実務的で淡々としている本書であるが,一つの積極的主張は統合政府論である。中央政府と中央銀行は本質論(著者の表現では「エデンの園」。邦訳41ページ)ではもともと一体なのあり,制御不能なインフレーションを抑止するための制度的工夫として両者が分離されているにすぎないというのである。中央銀行・銀行とともに,中央政府もまた貨幣供給主体である。中央政府の財政支出とは通貨供給であり,預金を増やし,準備預金も増やす。著者によれば,本質論としては,政府預金の残高をマイナスとしたまま,言い換えれば政府を債務超過にしたままでもよい。国債発行は必然ではないのである。しかし,制度的工夫として中央政府と中央銀行,財政機能と金融機能が分離していることにより,多くの場合,政府には国債発行による政府預金残高確保という制約が課されている。国債を発行した場合は準備預金が減るので,財政支出によって増加することと相殺される。ただし,この場合も預金貨幣は増えているので,政府は貨幣を供給しているのである。

 統合政府論の政策的インプリケーションは,金融政策と財政政策の境目があいまいになっていくということであり,それに応じて制度的枠組みも金融と財政を一体にすべきであろうということである。ただし,それは財政を徹底拡張するということでは必ずしもない。なぜならば財政は経済の尻尾であり,実体経済が犬であって,尻尾が犬を振り回してはならないからである。「物理的・人的・技術的・社会的資本の量と質を反映した経済の生産能力」(邦訳294ページ)を確保・拡大することが大事である。それなしに金利低下,さらに量的金融緩和をいくらやっても大した効果はなく,財政を拡張してもインフレになるだけだというのである。

 さて,私は,現状の制度的枠組みとそのオペレーションに関する理解については,シェアード氏にほぼ同意するし,理論的に冷静に論じられている限りMMTにもほぼ同意する(運動家が意見の異なるものを短文で罵倒する限り同意しない)。つまり,大きく見れば現状の説明について,1)信用貨幣論と2)銀行-中央銀行の二重システム論に立つ。低成長下においては銀行システムだけではなく財政システムも必要な通貨は供給して需要を刺激しなければならない。しかし,肝心なことは生産能力の量と質を充実したものにすることである。その「質」については人によって意見が違うので議論がひつようである。しかし,どの方向であろうと,一方では均衡財政は無意味である。他方で,内容抜きに,財政を拡張し,金融を緩和し続ければよいというものでもない。このような財政と金融のオペレーション原理については,シェアード氏にもMMTにも私は同意できる。

 問題は,こうした制度的枠組みとオペレーションのもとで,21世紀の先進諸国においては,金利調節がいっこうに効かずに量的金融緩和に追い込まれ,それでも流動性確保以外の効果がほとんどないのはなぜなのかである。財政赤字を継続的に出しても経済格差と貧困が緩和されず,コロナが収まった瞬間にインフレになってしまうのはなぜなのかである。シェアード氏には,歴史的局面として現在を把握する視点がない。むしろ,格差は単に実力と運の産物だったと言いたいかのようである。しかし,そうではなく,成熟した資本主義の歴史的傾向の到達点として現在をとらえるべきだと私は思う。これにはいくつかの側面がある。

 第一に経済発展により,工業社会は脱工業化社会に移行する。そうすると,投資は生産設備とインフラストラクチュアへの投資から,ハードだけでなくソフトウェアが大きな割合を占める情報システムへの投資,人的資源への投資に移行する。このことは投資需要の量的成長を減退させる。

 第二に,長期傾向としては,供給能力不足の経済から供給能力過剰の経済に移行する。格差と貧困を伴いつつ,平均的には生活水準が上がる。そうすると,相対的高所得層では所得が増えた場合に家計の消費に充てる部分,つまり限界消費性向が下がる。小野善康氏が述べるように,消費ではなく貯蓄,それも金融資産購入に充てる割合が高まっていく。その一方で,中低所得層は所得そのものが伸びない。そして,それ故に需要不足・供給過剰が慢性化する。

 第三に上記二つの傾向を目にした企業経営者は,たとえ既存事業で利潤を計上できた実績があっても新規設備投資をしなくなる。家計だけでなく法人企業が投資不足により資金余剰セクターになってしまう。余剰資金は国内では流動性としての現金や,金融資産に回ってしまう。設備投資がなされるとしても,新興国への直接投資に向かう部分が大きくなる。

 経済発展の結果として,生産能力に対する設備投資と消費が不足して不況への傾向が生まれる。実現できた所得が金融資産に投下されればバブルになる。好況があってもすぐバブル化してしまい,その反動で金融危機が生じやすくなるのである。

 第四に,移民によって補充されない限り,資本主義の成熟局面では人口が減少し,また人口構成が一時期は高齢化するということである。そのことにより,社会保障の需要が不可避的に増大する。これを営利ビジネスに委ね切ることはむずかしく,公的支出によって支えざるを得ない。したがい,人口減少期においては財政支出に占める社会保障支出の割合は拡大し,その支出は景気循環に関わらず必要となる。

 第一,第二,第三の要因によって,景気循環に対するバブルの影響が大きくなるとともに,不況の際の需要不足は深刻化する。金利調節では反転させることができず,財政支出によって対応するしかない。貯蓄(遊休貨幣)を課税によって吸収することもある程度は可能であるが,資本主義が民間主体の自由な支出決定に依拠したシステムである限り,これには限度がある。そのため,政府は財政赤字を一定程度出して貨幣を供給し,不足する需要を作り出すことになるのである。この際,第四の要因が,財政赤字の幅を拡大し,恒常化させる方向に作用する(※1)。

 だから,私の意見では,財政赤字の恒常化は,資本主義の成熟に伴う不可避の傾向である。財政赤字を出すか出さないかと言う二択については,よいか悪いかの問題ではなく,選ぶことができる問題でもない。ある程度の財政赤字は出ざるを得ないのである。それが嫌なら均衡財政で慢性大不況の社会を独裁権力を持って統治する,あるいは資本主義を直ちに廃止することになるが,まず現実的でない。問題は,悪性インフレを起こさないという制約条件の下で,財政赤字という名の通貨供給をどの程度,どのような内容で,どのような利害関係に沿って,どのような手続きで行うかなのである。その目的は生産能力の量と質の維持・充実であり,有効活用でなければならない。

 その「量と質」については人によって意見が違う。私は小野善康氏とともに失業こそが生産能力の最大のムダであり遊休であることについて注意すべきと思うが,そこまで思わない人もいるかもしれない。私は地球温暖化防止を前提にして豊かな暮らしを追求すべきであり,個人消費や教育・医療・福祉経済の充実や環境対策や老朽インフラストラクチュアの更新や再生可能エネルギーを重視すべきだと思うが,人によっては輸出中心の先端産業や金融センターや軍備拡大や原子力発電の育成が必要であり,個人の所得を豊かにすれば,医療・福祉費用の増大には自己責任で対応できるというかもしれない。シェアード氏にはまたそれなりの意見があるだろう。そこは議論すべきだ。1981年に刊行された『現代資本主義と国家』の中で,宮本憲一氏は現代資本主義国家の三類型として「軍事国家」,「企業国家」,「福祉国家」をあげた。その後の新自由主義的潮流の下でこの類型化はあまり普及しなかったように思うが,財政赤字=中央政府による通貨供給それ自体は結局不可避だということが明らかになりつつある今日,再評価されるべきだろう。大事なことは,財政赤字=中央政府による通貨供給の中身であり,それによって経済をどのような方向に動かすかなのだ。

 こうした歴史的文脈においてみた場合,シェアード氏が言う,財政政策と金融政策の境目のあいまい化は,確かに必然傾向であるようにも見える。ただし,ここで「エデンの園」への見方の違いが,原罪への見方の違いとなって生きてくる。シェアード氏は,またMMTなどの論者はよりいっそうそうだが,中央銀行はもともと統合政府の一部だと考えている。私は,それには反対である。

 中央銀行は,もともと「銀行の銀行」であって,銀行の原理によって動いているものである。中央銀行当座預金も中央銀行券も信用貨幣である。信用貨幣であるということは支払い約束だということであり,請求権だということである。現代の中央銀行は中央銀行券を突きつけられて「債務を返済せよ」と言われても金貨や金地金で払うことはない。ここまでは,私はシェアード氏やMMT論者とまったく同意見である。問題は次である。金兌換に応じない中央銀行は,そのかわり,支払い請求が押し寄せることがなく,また人々が中央銀行券を信用せず屑籠に放り込まないようにする必要がある。そのために通貨価値を維持しなければならない。通貨価値を維持するとは,財政支出の過剰によるインフレーションを防止し,景気過熱による物価高騰を抑止し,為替レート暴落によるコストプッシュ的物価高騰を防ぐことである(※1)。これらは,中央政府と区別された中央銀行の本来的使命である。これらの使命は,中央銀行が政府の附属物であることに由来するのではなく,「銀行の銀行」であることに由来する。私はこのように考える。私はこの主張によって信用貨幣論を修正しているのではない。逆である。シェアード氏よりもMMTよりも信用貨幣論を徹底するとこうなるというのが私の見解である。

 確かに現実において,財政政策と金融政策の相互浸透は不可避なように見える。シェアード氏が政治的立場を交えずに述べているだけに,そこは本書に説得力のあるところだ。しかし,通貨価値の維持という中央銀行の本来的使命はもっと重く見ておくべきだろう。

 シェアード氏は,長期的歴史観の提示や政治的価値判断を最小に抑えたうえで,制度とオペレーションを正確に理解する見地から現代の貨幣と金融機構を解説された。そのことにより,信用貨幣論の主張の一部が特定学派に由来するものでなく,むしろ実務の素直な理解によるものであることを明らかにしてくれた。これは本書の功績である。しかし,その同じく制度とオペレーションに徹する見地から来る物足りなさと,ごくわずかに本質論に立ち入ったところでの統合政府論に由来する問題は見過ごしてはならない。今日,財政拡張を主張する政治勢力は数多い。それに対してなすべきことは,財政均衡をあるべき姿として緊縮を主張することではなく,財政支出の在り方について選択し,よく考えることである。財政赤字=中央政府による通貨供給がどのような制約のもとにあるかを踏まえ,どのような水準と内容でこれを実施し,それによってどのように経済を動かすのかを論じるべきなのである。本書にはこの水準と内容への手掛かりはない。ただし,読者は本書を踏み台にすることで,手掛かりを見つけるために自分の頭を一つ高い視点に置くことができるだろう。

ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年。

https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210432/

2025年9月27日:読み取りにくい箇所に言葉を補った。

2025年1月7日火曜日

「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」ディスカッション・ペーパー版公開にあたって

 「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」をTERG Discussion Paper 492として発表しました。このブログでも書き連ねてきた内容ですが,考察を重ねて修正し,先行研究との対話を加えて学説的位置を明確にしました。researchmapからダウンロードいただけます。

 本稿は,マルクス派貨幣論に基づいて,物価変動の種別を解説しています。教科書的解説ですが,念頭に置いているのは「物価は上がっているがデフレから脱却していない」「コストプッシュインフレが続いているが,物価上昇目標は大事」といった混乱した議論を解きほぐしていく基準を設定することです。

 私は,「いろいろなことが一回りして,昔の理論の良いところが再評価されるべき時に来ている」と思っています(もちろん,だめなものがだめなままなところもあります)。マルクス派貨幣論,とくに信用貨幣論はその一つです。それは政治的価値観の問題ではありません。インフレ,デフレを名目的な物価上昇と物価下落として厳密に定義することが,そうではない物価上昇,物価下落との区別を明確にして,それぞれの真のメカニズムを探る道を拓くと思うからです。

 しかし,マルクス派貨幣論による物価論を再評価するには,二つの議論を乗り越えねばなりません。それは信用インフレーション論と独占価格インフレーション論です。もともとマルクス派の物価論は,代用貨幣の外生的投入によってインフレーションが起こるという貨幣的インフレ論でした。持続的物価上昇ならすべてインフレと呼ぶ日常用語とは異なっていたのです。ところが年輩の方ならご記憶のように,高度成長期に,財政赤字の額は大きくないのに物価が持続的に上昇するという現象が起こりました。このとき,近代経済学だけでなくマルクス経済学でも,これらを新種のインフレーションとして定式化しようとする動きが起こったのです。その中でもっとも理論的に整っていた議論の一つが,川合一郎氏の信用インフレーション論でした。銀行信用の拡張からもインフレーションが起きるという説です。もう一つは,高須賀義博氏の独占価格インフレーション論でした(高須賀氏自身は,当初は「生産性格差インフレーション」,後には「相対的価格調整機構」と呼んでいました)。一般商品部門での価格引き上げによる事実上の価格標準切り下げと,金生産部門での公定価格水準の据え置きによる不等価交換が新たなインフレの本質だとする議論です。両者は鋭い現実感覚と理論的体系性によって一世を風靡しましたが,結果として,マルクス経済学のインフレーション概念を広げ過ぎて,日常用語の「持続的物価上昇はみなインフレ」論に近づけてしまったと思います。

 私は日本経済論の講義をしてアベノミクスを扱っているうちに,「金融緩和ではインフレは起きないのではないか」「そもそも日本はデフレだったのか」と疑い,古い貨幣的インフレーション論の方が正しく,政策的論争の混乱を解きほぐすのに役に立つのではないかと考えるようになりました。とはいえ,いまどき古いマルクス派の議論に注目して,わざわざ説明しなおす人はほとんどいませんし,信用インフレ論や独占価格インフレ論にわざわざ反論する人もいません。だから私がやろうということです。ご笑覧いただければ幸いです。


PDF直リンク(researchmapサイト)
https://researchmap.jp/read0020587/misc/48869037/attachment_file.pdf

関連論文

「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」TERG Discussion Paper, 489, April 2024.→2025/3/7追記。研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。 https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

「貨幣分類論」TERG Discussion Paper, 490, September 2024.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170






2024年8月1日木曜日

追加利上げに見る日銀のジレンマ:解決策としての賃上げ・雇用改革

 日本銀行は7月30-31日に開いた金融政策決定会合で,政策金利を「0-0.1%」から「0.25%」程度に引き上げることを決定した。この引き上げには,日銀が抱えるジレンマが表現されている。このジレンマは,コロナ後に深刻になったものであり,日本経済の抱える問題を表現したものである。

 もともとアベノミクス期=黒田総裁期の量的・質的金融緩和は,「金利を上げれば景気をくじき,いつまでも上げなければ企業体質が弱っていく」というジレンマを抱えていた。コロナ後,各地の干ばつとウクライナ戦争による食料・燃料の輸入価格高騰,さらにアメリカのインフレとこれを鎮静化させようとする金利引き上げがドル高円安を招いたことにより,事態は悪化した。

 まず輸入価格の影響である。もともと日銀が描いていたのは,金融緩和が経済を活発化させ,ディマンド・プルによって物価が2%上がることであった。そこで緩和を解除すればいいのである。しかし,一方では賃金が上がらず,賃金が上がらない限りディマンド・プルは起こりそうにないことが明らかになった。他方で輸入価格高騰がコスト・プッシュで景気の足を引っ張り,物価が上がっても緩和を解除できなくなってしまった。

 次にアメリカのインフレとドル高。アメリカのインフレは財政赤字による貨幣的インフレと,景気回復によるボトルネック顕在化という実質的物価上昇の混合である。インフレ率は日本よりアメリカの方がはるかに高いので,貿易のベクトルではドル安になるはずであった。しかし,インフレ対策の高金利が,米日の間に金利差を作り出し,しかもアメリカの高金利も日本の低金利も,どちらも政策的にしばらく続くだろうという期待を持続させてしまった。そのためポートフォリオ,つまり金融資産のストックの組み替えがドル資産に向かい,激しいドル高円安が生じた。1980年代と異なるのは,アメリカの貿易赤字や財政赤字の持続性がさほど心配されておらず,高金利・ドル高でも,ドルが暴落するという不安が広がっていないことである。

 このように,過去数年のドル高円安は,もっぱら金利格差継続の期待という,金融的要因と政策的に要因によるものである。インフレ率格差によるものでもなければ(それなら全く方向が逆である),米日の生産性向上率格差に基づくものでもない。日本経済の停滞が円安を招いているという論評があるが,感情的悲観である。購買力平価は円安に振れておらず,また現実のレートは購買力平価よりはるかに円安に振れているからだ。

 インフレ率格差による相場調整ならば,二国間の財の交換比率は変わらない。ところが,金利格差によるドル高円安では,輸入価格は実質的に上昇し,輸出価格は実質的に下落するので,財の交換比率,つまり交易条件は日本にとって悪化する。円の購買力が落ち,輸入品の値上がりを通して物価は実質的に上昇する。したがい,内需向け中小企業の活動条件や市民生活を圧迫する。

 一方,輸出品は安売りとなる。日本企業は輸出に際してドル価格を引き下げて大量販売するのではなく,製品を高級化させてドル価格を維持し,円換算での収入を増やしているようだ。なんにせよ輸出企業は利益を上げている。

 つまり,企業利益は増えて景気はそこそこ回復しているが,賃金が上がらず物価が上昇したため市民生活は悪化し,リベンジ消費も盛り上がらない。これが2022年頃までに生じた状態であった。「賃金が上がらない限りディマンド・プルによる景気回復が起こらない」とようやく察した政府は,比較的あからさまに,また日銀は遠回しに賃上げを奨励するようになった。経団連も,過去30年間賃上げ抑制を訴えてきた路線を手のひら返しし,会員企業に賃上げを呼び掛けるようになった。その結果,2023年以後,名目賃金はついに上がり始めたが,物価上昇に追いつかず,実質賃金はいまなお低下し続けている。

 説明が長くなったが,これでコロナ後の日銀のジレンマの正体が明らかになる。「賃金が上がらなければディマンド・プルでの物価上昇はおぼつかないが,なかなか実質賃金が上がらない。これが実現するまでは金利を上げて景気をくじくことはしたくない」。一方,「円安によるコスト・プッシュの物価上昇は実質的物価上昇=円の購買力低下であって困る。これを止めるには金利を上げて,米日金利格差の継続期待を解消しなければならない」。それでは,いったいどうしたらよいのか。これが,ポストコロナ期に激しくなったジレンマなのである。

 今回,日銀は金利をわずかに引き上げた。これは,一方で景気をくじかない程度の引き上げにとどめ,他方で,日銀が緩和に固執するのではないという姿勢を金融市場に見せて,金利差継続期待を解消するためであろう。こうした熟慮は,植田総裁の会見詳細にもにじみ出ている。しかし,うまくいく保証はない。

 日銀のジレンマは,日本経済のジレンマでもある。金利が上がらなくても上がってもダメージを受けかねないのである。これは,日銀だけでは解決できるものではない。問題の根源は,賃金が極度に上がりにくいことである。賃金が上がれば,市民生活は改善され,労働分配率は上がって経済格差は緩和され,物価上昇はディマンド・プル型となって経済活性化に寄与するものに変わる。

 では,どうすれば賃金が上がるのか。政府が呼びかけるだけでどうにかなるものではない。賃上げを迫る社会的圧力を強めねばならないし,雇用慣行を変えねばならないだろう。専門職の給与はジョブ型にして引き上げるべきではないのか。非正規の差別的低賃金は,ジョブ型正社員にすることで引き上げるべきではないのか。多くの正社員がメンバーシップ型雇用のままであるとしても,労働組合は産業別または職業別に組み替えて,会社に忖度しない賃金交渉をすべきではないのか。そして政治・社会運動は「はたらく者の賃金が上がりやすい社会」という古典的テーマのためにもっと力を配分すべきではないのか。ジレンマ解決の道は,金融政策ではなく,雇用改革に求めねばならない。

「日銀 追加利上げ決定 政策金利0.25%程度に【総裁会見詳細も】」NHK,2024年7月31日。

過去記事

「賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済」2023年7月8日。

「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」2022年6月20日。


2024年5月31日金曜日

日銀エコノミストの祖,深井英五の『通貨調節論』

 4月から研究科長・学部長となり,産業資料を積み上げて事実関係をじっくり解読し,解釈していく作業ができなくなってしまった。しかたがないので,貨幣・信用論の読書だけ続ける。この深井英五『通貨調節論』日本評論社,1932年は,白川方明総裁時代までの日銀エコノミストによる内生的貨幣供給論の淵源と言われている(小栗誠治『中央銀行論』知泉書館,2022年,323-325ページ)。この考え方を,1970-80年代には小宮隆太郎氏,1990-2010年代には岩田規久男氏やリフレーション派エコノミストが「日銀(流)理論」と名付けて攻撃した。

 日銀の金融調節論は,過去から受け継がれてきたというだけではない。実は「日本銀行が行っていた金融調節も他の多くの先進国とまったく同じであったにもかかわらず,不幸なことに,日本銀行の金融調節は『日銀理論』と揶揄されることが多かった」(白川方明『中央銀行』東洋経済新報社,2018年,35ページ)。

 いくら金融緩和をしても通貨供給量も増えず,物価も上昇しなかったというアベノミクス期の実績から言って,リフレーション政策の破綻は明らかである。彼らの日銀攻撃とは何であったのか。その誤りは,貨幣理論の理論的に深いところで,また歴史的な経済学の流れの重要な分岐点で発生しているのではないか。このあたりを,文献をさかのぼりながら考えていきたい。とにかく毎日,少しずつ読む。



2024年5月25日土曜日

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」:異端の信用貨幣論に反応はあるのか

  古い話題で恐縮ですが,いしいひさいちのマンガに,作家・広岡達三ものというのがあります。元プロ野球選手・広岡達朗がモデルですが,とにかく偏屈で頑固で,それ故に墓穴を掘るところがあります。彼のセリフで私が一番好きなのは,危うい表現続出の小説を書いたあげく激怒して断筆を宣言するときに言い放ったものです。

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」

 もしかすると,先月公表した拙稿「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」もこうなるかもしれません。

 この論文は教科書風の説明に徹しているのですが、実は1)常識的な考えとも、2)マルクス経済学の多数とも、3)宇野理論とも異なることを言っています。ついでに言うと4)MMT(現代貨幣理論)とも違います。例えば、

1)銀行業務の本質とは、既に存在している貨幣の融通をすること(金融仲介)ではなく、支払い決済サービスと、新規の代用貨幣発行によって貸しだすこと(信用創造)だとしています。

2)遊休貨幣を集めるところから銀行信用(金融仲介)を説明するのではなく、銀行信用(信用創造)の結果として遊休貨幣が生じるのだとしています。

3)商業信用は既に存在している資金の相互融通だという宇野弘蔵説を採用せず、単に後払いの約束だとしています。手形が成立すると後払い約束証書の方が流通するようになり、それで債権債務の相殺もできるようになります。手形とは貨幣を貸すものではなく、貨幣の現物の代わりに手形で済ます仕組みを作るものなのです。手形が発達したのが預金貨幣であり中央銀行券です。

4)兌換されない信用貨幣が流通する根拠を,MMTのように納税に使えるからだとするのではなく,手形債務だからだとしています。3)で述べたように,手形という後払い約束証書は金などの商品貨幣に代わって流通し,債権債務を相殺できるようになります。貨幣流通の根拠は国家権力を持ち出さずとも,経済そのものによって可能なのです。

 これらは師匠の師匠である岡橋保教授が1930-50年代に確立していた見地なのです。私はそれを再発見し、一部修正し、弱点と思われるところ(準備金論)を補強して、現代の金融システムの説明に使ったに過ぎません。なのでオリジナリティをそれほど主張するわけにはいきません。私の論文は,岡橋説を再発見し,現代の問題を説明できるように一部修正して徹底したことに意味があります。

 ただ,最大の問題は、この主張の特異さを気づいてもらえるかどうかです。昔は、岡橋教授の論文には直ちに反論が寄せられ,それにまた岡橋教授が反論して激論になったことが,文献からうかがえます。だから,拙論に対していろいろなところから矢が飛んできてもいいはずで,私としても批判を受けて討論できることを期待しています。しかし,マルクス経済学や宇野理論で信用理論をやっている先生も昔に比べるとずいぶんと減り,主流派経済学の方は拙論を読んでくださらないでしょう。残るはMMTerの方の批判を待つくらいかもしれません。

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」だと寂しいです。批判を歓迎します。

いしいひさいち『わたしはネコである殺人事件』講談社文庫,1996年(Amazonのページ)。引用したセリフは8ページより。

https://www.amazon.co.jp/dp/4063300242

<2025年3月7日追記>


 「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」完成版が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。以下からダウンロードいただけます。↓
https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008


2024年4月30日火曜日

論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあります。そこで,著者最終版原稿(Accepted Manuscript)としてDPで公開します。

 学部講義「日本経済」担当になってから6年。マクロ経済政策論と格闘し,自身の師匠である村岡俊三の信用論を30年ぶりに学び,さらにさかのぼって師匠の師匠である岡橋保の理論の先駆性を確認しました。これまであれこれとブログに書き散らしてきましたが,ようやく一部が論文になりました。

 この論文は学説史的に誰が正しい,誰が間違いだということを主眼とするのではなく,通貨供給システムの半分を占める金融システムを,わかりやすく,あえて言えば学部学生にもわかるように教科書的に書くことに努めました。なお,通貨供給システムのあと半分は財政システムであり,こちらの研究もいつかは書き遂げたいと思います。

<目次>

通貨供給システムとしての金融システム
―信用貨幣論の徹底による考察―

Ⅰ はじめに

Ⅱ 金融仲介か信用創造か
 1 問題の所在
 2 信用創造を通した新規の通貨発行
 3 正貨流通下での金融仲介
 4 正貨流通停止下での金融仲介
 5 管理通貨制度下での金融仲介は信用創造を前提とする
 6 小括

Ⅲ 銀行システムの成立
 1 問題の所在
 2 信用貨幣の基礎としての手形流通
 3 銀行による自己あて債務による信用供与
 4 中央銀行による社会的支払い決済システムの成立
 5 信用貨幣としての預金・中央銀行券
 6 小括

Ⅳ 銀行システムにおける準備金の必要性と役割
 1 問題の所在
 2 正貨流通・兌換下での準備金
 3 正貨流通停止・兌換停止・中央銀行成立下での準備金
 4 個別銀行にとっての準備金と社会全体の準備金
 5 中央銀行当座預金を頂点とする代用貨幣のシステム
 6 通貨価値の保全という難題
 7 小括

Ⅴ 管理通貨制度下の金融システムにおける貨幣流通と物価
 1 問題の所在
 2 貨幣流通の基本モデル
 3 預金貨幣の発行と還流:信用創造
 4 中央銀行券の発行と還流:預金からの形態転換
 5 管理通貨制度下における貯水池なき蓄蔵貨幣機能
 6 貨幣流通法則の作用=内生的貨幣供給
 7 遊休と金融的流通
 8 小括

Ⅵ おわりに

<2025年3月7日追記>

 本稿完成版が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。以下からダウンロードいただけます。これに伴い,DP版の公開は停止しました。↓

https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

DOI
https://doi.org/10.50974/0002003359



2024年4月27日土曜日

岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。

 なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏が最も徹底的に,おそらくはもっとも古く戦前から,首尾一貫性を持って信用貨幣説を論じ,それによって,現在,広く使われている言葉でいう内生的貨幣供給を主張したからである。そして私には,手形流通から信用貨幣の生成をマルクス的に論じる岡橋説の方が,近年興隆しているMMTの租税駆動説や国定貨幣説よりも妥当だと思えるからである。

 なぜ批判的徹底か。それは,私の理解では岡橋説にも不徹底な部分があり,これを信用貨幣論としてさらに徹底する方向で修正・発展させる余地があるからである。

 そして何よりも,岡橋説の批判的徹底により,それによって,現代の通貨供給システムをわかりやすく,敢えて言うなら教科書的に俯瞰できると考えられるからである。

 ところが,岡橋説は,氏が九州大学で教鞭をとられ,学界でも経済論壇でも活躍されていたにもかかわらず,今日の貨幣・信用をめぐる論争でもほとんど顧みられていない。せいぜい昔の学説の例として,一応注記されるだけだというのが現状である(※1)。

 なぜ岡橋説は黙殺されているのか。論文にはなじまないことなので,ここで考えてみたい。

 第1点。岡橋説は,相当に文献をさかのぼらないと理解しにくい。岡橋氏が自説を積極的に,体系的に展開されたのは,1936年発行の『貨幣本質の諸問題』から1957年の『貨幣論 増補新版』までである。あえて加えるならば,1969 年発行の『銀行券発生史論』も金融史についての自説の記述である。ところが,その後の著作は,冒頭何分の一かは自説の説明なのであるが,ページの過半は他者の見解への批判である。それもかなり激烈である上に,「論者は○○だという。××というわけである。……なのだ。かくて貨幣数量説に陥るのである」などと,岡橋氏が批判対象に成り代わって,その論理の帰結を探る文体であるため,時々,どこまでが批判対象の見解で,どこからが岡橋氏の批判なのかがわからなくなる。正直,極めて読みづらい。私は貨幣論を研究する留学生に岡橋説を伝授したが,あえて60年以上前の『貨幣論 増補新版』を使用した。それ以降の文献を留学生が読むのはあまりに難儀と思われたからである。

 第2点。岡橋氏の影響下で多くの研究者が生まれたが,なぜか,楊枝嗣朗氏などごく一部を除いて岡橋氏の信用貨幣論をより徹底させる方向に進まれず,別の方向に進まれた。例えば岡橋氏は預金貨幣と銀行券をともに重視されたが,後続の研究者は,なぜかもっぱら銀行券に注目した。また,岡橋氏は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣を集積して貸し付ける「貨幣の貸付」を銀行の基本規定とすることに反対して「自己宛て債務の貸付」を対置されたが,後続の研究者はなぜか氏の批判対象だった見解に組みすることが多かった(※2)。実は私の貨幣・信用論研究は,師匠である村岡俊三氏の著作を読み直すことから始まったのだが,結局,師匠よりもそのまた師匠である岡橋氏の方が正しいという結論に至らざるを得なかった。

 第3点。最近のマルクス派による信用貨幣論研究が,もっぱら宇野派による商品論次元でのものだということである。宇野弘藏氏自身は商業信用も資金の相互融通と捉えるほどであり,手形から出発する信用貨幣論とは縁遠かった。しかし,ある時期以降,宇野派の中に信用貨幣論に転じる研究者が現れた。それは現在では,小幡道昭氏の提起を江原慶氏らが継承した試みとなっている。その内容を一言で表現するのは難しいが,強引に要約すると,商品論の次元で,物品貨幣と信用貨幣を同等の位置づけで導出する試みとなっている。それはそれで注目すべき試みなのであるが,商品論のところでマルクスを再構築するものなので,たいへん抽象度が高い。また,これらの研究はみな,金を本来の貨幣とする従来の観点では,不換制となっている現代の通貨制度を説明できないと想定して議論されている。そのため,岡橋氏の見解は単に過去のものとされ,注1に記した岩田氏の論稿を除いて深く検討されていない。

 第4点。見当違いな(と私には思われる)神話崩しである。これは少し詳しく論じたい。

 上記の宇野派の議論もそうであるが,貨幣史において金属貨幣の使用範囲が従来考えられていたよりも狭かったことや,現代においてもっぱら信用貨幣が用いられていることを根拠に「金などの金属製商品貨幣が本来の貨幣というのはおかしい」とする議論が盛んになっている。だから,マルクスのオーソドックスな理解も,退けられる傾向にある。しかし,これは行き過ぎであろう。

 まず,歴史の時系列順序と経済理論の編成における順序は同じではない。マルクスが金属製商品貨幣を本来の貨幣としているのは,金属貨幣が純粋な価値表現(使用価値で価値を表す)を可能とし,また貨幣の諸機能(価値尺度,流通手段,支払手段,蓄蔵貨幣,世界貨幣など)を統合しているからである。だから,商品流通の世界には,金であるか,金属性であるかどうかはとにかく,何らかの特殊な商品が貨幣になる必然性がある。しかし,発達した商品流通と資本主義生産を機能させるには,商品貨幣の現物利用は不便で仕方がないし,現物利用をしなくても資本主義は発達できる。だから,代用貨幣が発達するのである。金などの金属製商品貨幣から出発するのは,昔,金が貨幣として使われていたからではない。貨幣に必要な機能を金属製商品貨幣が一身に体現しており,理論的に典型だからである。いま,この瞬間の資本主義経済でも,金属製商品貨幣は必要とされている。しかし同時に,その現物利用は不便で仕方がないから,発達した代用貨幣が使われているのである。マルクス派は,「昔々,金が貨幣として使われていました」という歴史を主張しているのではなく,現在の資本主義社会で,「日々,金では不便だから代用貨幣が使用されているのだ」と理論的に説明しているのである。

 そもそもマルクス派の貨幣・信用論とは,「金が貨幣であって,金が使われるべきだ」と言い張るものではなく,「金が貨幣だが,その利用はどんどん節約される」という貨幣節約論なのである。金属製商品貨幣の現物使用が,商品流通と資本主義生産の発展とともに節約され,代わってデジタル信号である預金や紙切れの銀行券が貨幣の役割を果たすようになる理論的根拠を明らかにしているのである。だから現在,金が貨幣として流通していないのは,マルクスの間違いを証明するのではなく,むしろマルクスのパースペクティブの延長上で資本主義と代用貨幣が発展したことを示しているのである。

 安直な神話崩しへのこうした反論は,岡橋氏の理論的遺産を継承すればすんなり言えるはずなのであって,それが忘れられたことによって誰も言わなくなったのだと,私は理解している。

 私は現在,岡橋氏の理論的遺産と,日銀や全銀協の実務家の議論をもとに,通貨供給システムとしての金融システムを描こうとする論稿を準備しているが,上記のような事情ゆえに,ほんのわずかな存在価値はあるように思えるのである。

2025/3/7 追記。論文は研究年報『経済学』(東北大学大学院経済学研究科)に掲載されました。「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」ダウンロード

※1 例外的に紙数を割いて検討されたのは,Yoshihisa Iwata (2021). "Even inconvertible money is credit money : Theories of credit money in Japanese Marxian economics from the banknote controversy to modern Uno theories"『東京経大学会誌(経済学)』311,99-120.である。この論文について教えてくださった上垣彰氏に感謝申し上げる。

※2 信用貨幣論を徹底した教科書としては松本朗(2013)『改訂版 入門金融経済:通貨と金融の基礎理論と制度』駿河台出版社がある。

2024年2月4日日曜日

アメリカ経済の運命を左右するのはFRBのQTか,それとも国債の償還・借り換えか

 FRBの金融引き締めがいつ,どのように転換を迎えるかが話題となっている。しかし,その議論はかなり入り組んでいる。たとえば,「リバースレポ残高が枯渇すると市場の流動性がひっ迫するおそれがあるので,QTのペースを落とした方がいい」などと主張されているが,多くの人には何が何やらだろう。

 しかし,そもそもQTの理解に問題があるのではないかというのが,本稿のテーマである。FRBはコロナ後のインフレに直面して金融引き締めを行っているが,伝統的な手段,つまり手持ち国債を売却して金利を引き上げるという方法が,市場にショックを与えやすくとりにくいという問題に直面している(これは金融緩和の出口を模索する日銀も同じである)。そのため,引き締めは,準備預金金利引き上げ,リバースレポ金利引き上げ,そしてQTによって行われている。QTとは,売りオペレーションをするのではなく,保有している国債が満期償還されたら,再び国債を購入しないことによって,バランスシートを縮小することである。本稿は,この三つの引き締め手段のうち,QTに対象を絞って論じる。

 さて,QTに関する市場関係者の議論を聞いていると,そのほぼすべてが「QTをすれば準備預金が減って金融が引き締まる」,もう少し正確に言うと「QTをすれば準備預金またはリバースレポ残高が減る」と理解している。だから,最近のリバースレポ残高の減少について,「リバースレポがなくなってしまった後もQTを続けると,準備預金が大きく減って金融が引き締まる」と理解して,その行き過ぎで金利が急騰することを心配しているのである(※1)。

 しかし,「QTをすれば準備預金が減って金融が引き締まる」というのは果たして正しいのだろうか。QTのオペレーションをよく見てみよう。注意すべきポイントは,QTに国債が関わることである。国債購入に投じられたマネーは政府の下で眠り込むのではなく,財政支出される。このことを含めてQTと国債償還,または借り換えの効果を見る必要がある。

1)QTが行われる。まず,政府は国債償還のために課税等を強化してマネーをかき集め,政府預金を増やす。そして国債を償還する。FRBのバランスシートでは,まず負債側で政府預金が増えて連邦準備銀行券(つまりドル札の現金)発行高が減る。その後,資産側で国債が減り,負債側で政府預金が減る。結果として,負債側で減ったのは銀行券発行高である。通貨供給量(マネーストック)は減少する。準備預金は減少しない。ただし政府が課税した際に銀行預金を引き出して応じた人が多ければ,その分は銀行券でなく準備預金が減少する。

 このように,QTが行われ,政府債務が減少した場合は,マネーストックは確かに減るので,おおむね金融は引き締まる。ただし,銀行券と準備預金がどういう割合で減るかは,場合による。

2)話がここで終わらず,政府は国債を借り換えて政府債務総額を維持した場合を考えよう。借り換え国債は銀行が購入するとしよう(MMFが購入することもあるのだが,それについては別途考察する)。今度は銀行の準備預金が減り,政府預金が増える。しかし,これで終わりではない。政府は財政支出をする。仮に小切手支払だとすると,受け取り手はこれを取引銀行に持ち込んで預金か現金にかえる。銀行は政府に支払いを要求し,FRBの決済システム上で,政府預金から準備預金へと振り込んでもらうことで支払いを受ける。これで銀行の準備預金は回復する。したがいFRBのバランスシートは変化しない。ただし,政府支出の受け取り手が現金を選ぶと,その分だけ銀行は準備預金を引き出すので,準備預金は完全には回復せず減少し,その分だけ現金発行高が増える。政府債務は借り換え債発行前よりは増え,以前の国債償還前とは同額になる。そして,マネーストックは,借り換え債発行前と比べると,財政支出の受け取り手が得た預金または現金の分だけ増える。そして国債償還前と同額まで回復する。

(2025/6/30追記:後日の見直しにより,ここから先の議論には誤りが発見されました。お詫びして訂正します。訂正趣旨は末尾をご覧ください)

 このように,QTが行われて政府債務総額は維持された場合は,マネーストックは変動しない。したがい金融もおおむね引き締まらない。準備預金は,政府支出が預金で受け取られた分は変動せず,現金で受け取られた分だけ減る。現金で受け取られる割合は,これも全く場合による。

 以上の理解が正しいとすると,「QTで準備預金は減って金融が引き締まる」と思い込むところが,そもそもおかしいのである。単純化のために,仮にこれらの取引に現金が用いられることはないとすると,1)では準備預金は減るし金融は引き締まるが,2)では全く減らないし,金融も引き締まらない。この大きな違いを左右するのは,国債が借り換えられるか否かであることがわかる。

 「QE(量的緩和)では準備預金が増えるんだから,QTでは減るだろう」と思う人がいるかもしれない。しかし,そうではない。QEとQTではちょうど正反対のことをしているわけではないからである。QEでは,FRBは買いオペレーションを行う。つまり銀行が購入した国債を買い上げているので,準備預金が増えるのである。対してQTは,QEの正反対である売りオペレーションをするのではない。売りオペレーションによるバランスシート縮小は,市場へのショックが大きいため行われていない。QTとは満期国債の償還を受けることなのである。

 だから,QTそれ自体では,金融が引き締まるかどうかは決まらない。それを決めるのは,償還された分の国債が借り換えられるか否かなのである。

 だから,金融政策であるQTの効果とみられるものは,実際には財政政策の効果である,それも,QTによって一義的な結果が出るものではない。国債発行の縮小か継続かによって効果は全く異なる。FRBによるQTの選択ではなく,財政民主主義による財政支出の選択こそが本当の問題だ。

 QTそれ自体に効果があるとすれば,「もうこれ以上,国債を買いオペしませんよ」というシグナル,もっと言えば「国債をFRBで買い支える事実上の財政ファイナンスははやりませんよ」というシグナルを政府に対して送ることだろう。それも,金融システムそれ自体を操作するのではなく,結局は国債借り換えに対する警告である。

 国債発行を選択の問題とした場合,国債消化がそれを制約しないかという問題はある。QTの下で国債発行を続けた場合,FRBのによる買い上げを当てにせず,市中で消化しなければならないからだ。しかし,現状のアメリカで国債の引き受け手がなくなるとは考えにくい。むしろ,世界金融危機後の金融商品取引への規制は,銀行やMMFを国債に買い向かわせる効果を持っている。

 国債の消化自体は問題がないとすると,問題は,国債償還による財政支出の縮小か,借り換えによる財政支出の継続かである。QTと国債発行高縮小の組み合わせが取られた場合は,需要にはマイナスの圧力がかかる。逆にQTと国債借り換えの組み合わせが取られた場合は,その圧力はかからず,従来規模の財政赤字の下での政府支出規模が維持される。どちらが望ましいかの問題だ。まったくマクロ的に見れば,現状では,支出を絞れば超過需要によるインフレを冷ますにちょうどよいだろう。しかし,財政の問題は,支出規模だけでなく,内容も問題となる。物価を上昇させるだけで実質的に需要を拡大できない支出は無駄である。しかし,政府機関を止めずにその機能を維持するための支出は必要だろう。また,インフレ下での生活苦から消費者を救済する支出や,技術開発や人材育成や脱炭素社会のインフラ整備など経済の供給能力を改善して,長期的インフレ圧力を軽減することも有益だ。ポストコロナのインフレ下では,財政の総支出規模を絞り気味にすることと,必要な支出を確保することは区別する必要がある。

 財政の問題を抜きに,また財政支出の内容の吟味を抜きに,「QTが金融をどれほど引き締めるか」という次元だけで議論しても,空転気味の車輪で前進を図るようなものだと,私には思えるのである。

※1 話が横道にそれて複雑になるので,注で説明する。市場関係者は以下のように考えているのだと思われる。
<FRBがQT(量的引き締め)をする,つまり「保有している国債が満期償還されたら,再び国債を購入することはせずに,バランスシートを縮小する」と,FRBバランスシートの資産側で国債が減少する。では,負債側では何が減少するか。それは政府が借り換えのために発行した国債を,誰が購入するかによる。国債を銀行が超過準備で購入したならば,銀行の資産側,FRBの負債側で準備預金が減る。一方,MMFが購入したならば,MMFの信託勘定の資産側,FRBの負債側でリバースレポが減る。2023年半ばからリバースレポ残高が急速に減っているのは,FRBがQTを続ける一方,MMFが運用先をリバースレポから短期国債に切り替えているからである。FRBがQTを続け,政府が国債を借り換え続けると,FRBの負債側では準備預金かリバースレポが減る。リバースレポがなくなってしまうと,減るのは準備預金になる。準備預金が減ると銀行の融資や金融商品購入が制約され,金利が急騰するかもしれない。だから,リバースレポがなくなる前にQTのペースを落とした方がいい。>
 この議論の問題は,政府が国債を発行して集めたお金を支出した際の効果を見落としていることである。実際に銀行が借り換え国債を購入した場合には,FRBの準備預金は減少しないことは,本文を参照して欲しい。

<2025/06/30追記>

 本稿の議論には,準備預金の動きについての誤りがあった。個々の記述は誤っていないのだがまとめがおかしい。

 FRBがQTを行った際に、国債償還に当たって納税者が預金口座から納税すると銀行預金も準備預金も減少する。

 その後,政府が同額の国債を発行して銀行が準備預金でこれを購入すると準備預金は減少する。一方,政府が財政支出を行うと銀行預金が増え,準備預金は増加する。準備預金はこの動きを通してプラスマイナスゼロである。

 この二つの動きを合算すれば,銀行預金はプラスマイナスゼロ、準備預金は減少である。マネーストックはプラスマイナスゼロ,マネタリーベースはマイナスである。

 だから,QTで確かにFF金利には上昇圧力はかかるのであって,この点の理解が誤っていた。※1で紹介した市場関係者の懸念も妥当と認めるべきだった。拙論が,アメリカ経済の運命を左右するのは国債を償還して財政赤字を縮小するか,借り換えて需要を刺激し続けるかである,と述べたことは間違っていない。しかし,QTが準備預金を縮小しすぎれば金利の急騰は起こり得るので,QTが独自の意義を持つことを否定する結論にしたのは誤りであった。










2024年1月30日火曜日

預金のMMFへのシフトとFRBによるMMF相手のリバースレポはどのように行われ,どのような効果を持つか

 1.はじめに

 アメリカでは2022年から銀行預金が縮小し,またそれ以前の2020年から公社債投資信託の一種であるMMFが急増している。MMFは高利回りで安全度の高い運用先を求めるが,それは現在では政府やFRBの発行する債務へと向かう。一方,コロナ後になってFRBはインフレを食い止めようと金融引き締めにとりかかった。ここで両者の利害が一致する形で,2021年から2023前半までのFRBのリバースレポ(実質的には短期借り入れ)にMMFが応じるという取引が拡大した。本稿では,このリバースレポの金融政策上の意義について,貨幣流通の視角から論じる。なお,2023年半ばからは,MMFが運用先を短期国債にシフトさせたためリバースレポ取引は縮小し始めるが,その局面については,別の機会に委ねる。

 本稿はバランスシートを使った説明が長くなるので,結論を先取りしておくと,以下のようになる。

 家計が預金を引き出してMMFを購入すると,市中では預金貨幣が減り,現金流通高が増える。FRBの準備預金は減る。企業金融が銀行融資から証券発行にシフトしただけではこのようなことは起こらないが,MMFが投資信託であるために預金減と現金増が起こる。なお,個人にとっての流動性だけに注目して「フィナンシャルイノベーションによりMMFは通貨のようなものになった」「何が貨幣なのか曖昧になった」などという議論があるが,社会全体を見ればそうではない。単に現金流通が増えて,MMFという金融商品に買い向かったのである。

 次に,FRBがMMF相手のリバースレポを行なうと,市中では預金貨幣量は変化せず,現金流通高が減少する。FRBの準備預金は変化しない。FRBのリバースレポとは,現金通貨の吸収を通した金融引き締めなのである。このような取引が拡大していることは,FRBが中央銀行ー銀行ー企業・家計という本来のルートで信用創造を調節するだけでは金融調節が十分にできなくなり,遊休貨幣のほぼ直接的な回収に乗り出したことを意味する。しかもその回収方法は,金利というコストを支払って短期借り入れを行うというものである。本来信用を供与する側である中央銀行が,金利を支払って借り入れないと政策目的を達成できないのは,リバースレポも超過準備預金への付利も同様である。このことの意義は別途検討したことがあるが(※1),さらに考察を深める必要がある。

 預金のMMFへのシフトとFRBのMMF相手のレバースレポ取引がともに行われると,市中では預金貨幣が減り,発行済み現金は変化しない。FRBの準備預金は減る。したがい全体としては通貨供給量は減って金融引き締めとなる。預金縮小はFRBのオペレーションによるものではなく,家計の金融資産シフトによる効果である。一方,発行済み現金がいったん増加したのは,やはり家計の金融資産シフトの効果であるが,これを縮小させたのはFRBによるオペレーションの効果である。FRBは,市場の動きによっていったんは増加した現金を,MMFにリバースレポの金利を払うというコストをかけて政策的に回収したのである。FRBが回収しているのは現金だが,結果として減少しているのは預金と準備預金であることに注意が必要である。

 銀行預金と準備預金が減少することの引き締め効果は,超過準備預金が豊富にある状況ではごく小さなものである。しかし準備預金残高の縮小が進むと,効果が強まる可能性がある。FRBのリバースレポ金利支払が大きくなると,FRBの業績は悪化する。FRBの業績悪化は財務省への納付金の減少をもたらし,それによって連邦政府財政収支を赤字の方向に動かす効果を持つ。

 以下,これらのことを関連する経済主体のバランスシートの動きによって示す。なお,(+)は増額,(-)は減額で,金額はすべて同じである。

※1 「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023年7月6日。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


2.家計の資産が銀行預金からMMFにシフトすると,預金が減り,発行済現金が増え,準備預金が減る

ステップ1.家計が銀行から預金を引き出す

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),発行済現金(+)

家計
資産:預金(-),現金(+)
負債:

 家計が預金を引き出すとき,銀行は自ら準備預金を引き出して現金を確保して,これを家計に渡すのである。ここで発行済現金が増える。

ステップ2.家計がMMFを購入

家計
資産:現金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:現金(+) 
負債:MMF残高(+)

 この後MMFが何らかの金融商品で運用される。そうすると,MMF信託勘定の資産側で現金(-),金融商品(+)となり,金融商品の売り手の資産側で現金(+),金融商品(-)となる。本稿ではリバースレポで運用される話をするため,ここでいったん止める。

+取引前と後の変化

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),発行済現金(+)

家計
資産:預金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:現金(+) 
負債:MMF残高(+)

 結果として預金貨幣が減り,発行済現金(連邦準備銀行券)は増え,FRBの準備預金も減っている。


3.FRBがリバースレポ取引によってMMFから現金を回収する

 FRBはポストコロナ下で,公社債投資信託の一種であるMMFを相手にリバースレポ取引を行っている。リバースレポ取引とは,保有国債を翌日買い戻すという条件付きで売ることであり,事実上は短期の借入である。この節の目的は,これがFRBによる現金回収を通した金融引き締めであることを,バランスシートによって示すことである。

 リバースレポ取引のプロセスを見る場合にややこしいのは,MMFはFRBに口座を持っていないことである。したがって直接取引することができず,中間にクリアリングバンクを介在させていると思われる。よって取引プロセスの段階が大きくなるが,煩を厭わずにおっていきたい。取引手数料は無視する。実務の詳細が不明であるために,取引のありようを完全に再現することは難しいが,基本的にはこのような理解でよいと思われる。

ステップ3.MMFは信託された現金をリバースレポで運用することとし,まず現金をクリアリングバンクに預金する。

MMF信託勘定
資産:現金(-),預金(+)
負債:

クリアリングバンク
資産:現金(+)
負債:預金(+)

ステップ4.クリアリングバンクがFRBの準備預金を増やす

クリアリングバンク
資産:現金(-),準備預金(+)
負債:

FRB
資産:
負債:準備預金(+),発行済現金(-)

 連邦準備券はFRBの負債であるため,FRBに還流すれば負債としては消滅する。紙券として再利用が可能であるかどうかは別問題である。

ステップ5.FRBがリバースレポを実行しクリアリングバンクが応じる

クリアリングバンク
資産:準備預金(-),リバースレポ(+)
負債:

FRB
資産:
負債:準備預金(-),リバースレポ(+)

ステップ6.クリアリングバンクとMMFの間での清算が行われ,リバースレポの債権がMMFに移される

MMF信託勘定
資産:預金(-),リバースレポ(+)
負債:

クリアリングバンク
資産:リバースレポ(-)
負債:預金(-)

+取引前と取引後の変化

MMF信託勘定
資産:現金(-),リバースレポ(+)
負債:(変化なし)

クリアリングバンク
資産:(変化なし)
負債:(変化なし)

FRB
資産:(変化なし)
負債:発行済現金(-),リバースレポ(+)

 リバースレポ取引前後で起こる通貨流通量の変化とは,預金貨幣残高や準備預金残高が変化せずに発行済現金(連邦準備銀行券)残高が減少することであるとわかる。


4.二つの局面を経ての変化の確認と結論

 銀行預金のMMFへのシフトと,FRBのMMF相手のリバースレポ取引の二つの局面による変化は以下のとおりである

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),リバースレポ(+)

家計
資産:預金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:リバースレポ(+) 
負債:MMF残高(+)

 これによって,冒頭で先取した通りの結論が得られる。

 なお,2023年後半からリバースレポ取引残高は急速に縮小した。MMFが財務省証券(短期国債)に買い向かっているからだという。財務省証券の発行は,昨秋の政府の債務上限引き上げ合意に基づくものであり,永続的なものとは考えにくいが,この動きをめぐって金融政策についての論評が行われているので無視はできない。また,FRBが金融引き締めをいつ,どのように終了するかも問題になってきており,その際にリバースレポと準備預金はどう変化するのかも考えねばならない。別途考察したい。


2024年1月26日金曜日

MMF再考

  これまで私は,証券金融がいくら進んでも銀行預金は減少しないと書いて来た。それはおおむね正しかった。例えば会社が銀行からお金を借りるのをやめ,借りていたのと同じ額を,社債を証券会社引き受け経由で発行して資金調達するようになっても,社会全体としては預金は減少しない。社債購入者-証券会社ー調達企業のいずれも,銀行口座に持つ預金を介して取引を行うからである。同じようなことは,電子マネー決済が増えるとか,PayPayで給料を払うとかいう話にも言える。いずれも銀行預金残高を減少させない。

 しかし小さくない例外があった。信託に該当するものである。例えば投資信託の一種であるMMFである。諸個人が低金利の銀行預金を引き出し,より高い利回りを求めて同額のMMF購入にあてたとする。このとき,預金引き出しで発行された現金が,MMF購入に充てられて,信託銀行に預けられる。しかし,預金としてではない。信託銀行の銀行勘定と分離された信託勘定に預けられる。したがい,銀行預金とMMF残高は重複しない。銀行預金が減って,現金発行高が増えるのである。増えた現金発行高がMMF購入高に等しい。投資信託を通貨供給高統計で処理する際にはテクニカルな問題があり,アメリカと日本では扱いが違ったりする。しかし,理論的には,このように理解すべきである。なので,私がMMFを証券金融一般と同じに扱ってきたのは誤りであった(※1)。

 だから,MMFについては,「マネーが銀行預金からMMFにシフトする」と言われていることは,家計による運用先選択としてはもっともである。確かにMMFが増えると預金が減るのである。ただし,通貨論としては現金の動きを忘れることはできない。「銀行預金口座から引き出された現金がMMF購入に買い向かう」のである。

 ここの認識を改めることで,FRBがポストコロナ期に行っている,「超過準備預金への金利引き上げ」と「MMF相手のリバースレポ取引の拡大とその金利引き上げ」の意味がはっきりしてきた。前者は,FRB-銀行‐企業・家計のルートを通した金融引き締めである。後者は預金から外れてMMFに買い向かった現金の回収による金融引き締めである。FRBがMMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているという認識は誤りではなく,よりクリアになった。

 ただ,リバースレポ取引が現金回収による金融引き締めだというのは,わかりにくいかもしれない。そこで,銀行預金の減少とMMFの拡大,FRBのMMF相手のリバースレポ取引の拡大によって,通貨供給量と構成がどう変動するかを,次稿で扱おうと思う。

 信託勘定の扱いについてご教示くださった,小林陽介先生に感謝します。

※1 「なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか」Ka-Bataブログ,2023年4月30日。
https://riversidehope.blogspot.com/2023/04/frbmmf.html


<参考>

小林陽介(2023)「グローバル金融危機後の米国シャドーバンクの動向」『証券経済研究』124,111-136。
伊豆久(2023)「FRB・RRP・MMF—資金余剰下の金利引き上げ—」『証券経済研究』124,43-56。
https://www.jsri.or.jp/publication/periodical/economics/2023

2024年1月4日木曜日

銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察

 1.問題の所在

 本稿は,銀行システム成立に当たっての準備金の必要性と役割について考察する。

 銀行を経済学的に理解する上での立場は,大きく「現金の又貸しによる金融仲介」説と「信用貨幣の貸付による信用創造」説に分かれる。前者の方がイメージはしやすいものであり,一般社会でも研究者の多数においてもこちらによって銀行が理解されることが多い。流通している現金が銀行に預け入れられ,預金となって集積され,集積された貨幣が借り手に又貸しされるというものである。後者は,銀行は自分の手形(債務証書)を発行して,それを手渡すことで貸しつけるというものである。具体的には預金貨幣が創造されて貸付けられる。借り手が預金を引き出した場合に,当該銀行が発券銀行であれば当該銀行券が発券され,発券集中が行われていれば中央銀行券が発券される。預金貨幣も銀行券も貸付けられた債務が貨幣化したものであり,信用貨幣である。

 銀行の貸付と預金という二つの業務に即していえば,前者は「預金先行」説とも言えるし,後者は「貸付先行説」とも言える。なぜなら前者では預金が先に形成されて現金が集積され,しかる後それが貸し付けられるからである。対して後者は,預金が集積されるよりも前に貸付が行なわれるからである。

 私はこれまでも述べてきたように「信用貨幣の貸付による信用創造」「貸付先行」説(以下「信用創造=貸付先行」説)に立っているが(※1),この立場に立った場合,銀行を説明する上で二つの点が「現金の又貸しによる金融仲介」「預金先行」説(以下「金融仲介=預金先行」説)よりも複雑になる。一つは,正貨流通・金兌換停止下において,預金貨幣や銀行券が信用貨幣であることの説明である。しかし,この点はこれまでも説明済みであり,ここではとりあげない(※2)。もう一つは,準備金の説明である。あらかじめ預金を集めないままに信用創造で貸し付けを行うこと自体は可能であるとしても,準備金を確保しなければ預金引き出し請求や他行からの支払い請求に応じられない。「信用創造=貸付先行」説では,準備金の確保のしくみ,準備金の役割をどう説明するのか。これが本稿の解明すべき課題である。

※1 「貨幣発行と流通のしくみ」(その1)から(その9),Ka-Bataブログ,2023/12/8-2023/12/17,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post.html

※2 「貨幣発行と流通のしくみ(その5)預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?」Ka-Bataブログ,2023/12/13,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post_13.html 。金兌換がなされずとも,より上位の債務による返済,債権債務の相殺という二つの方法での決済が可能であるから,信用貨幣と言えるということである。


2.考察の前提

 本稿では,ある一つの資本主義経済を,別の言い方をすれば国境に区切られていない単一の資本主義経済を想定した考察を行う。これにより,国境に区切られた世界経済において生じる対外支払い・決済の問題を捨象する。その理由は,プラグマティックには,対外支払い・決済については独自の問題が多く,それだけで紙数を必要とするからである。この措置は,理論的にも正当化できる。というのは,まず国境のない単一資本主義経済の下で考察することは,国境で区切られた世界経済を考察する上での基礎となるからである。

 本稿では,正貨(金貨など)が流通している場合と流通していない場合,全国的決済システムと発券集中を実現して中央銀行が存在する場合としない場合を分けて考察する。ただし,正貨流通が停止していて中央銀行券が成立していない状態,つまり正貨も法定通貨も存在しない状態,さらに言い換えるといわゆる「現金」のない状態,は考えにくい。よって正貨流通・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を考えればよい。より一般的な表現では,前二者は金本位制をはじめとする金属本位制の場合,後者は管理通貨制の場合だと考えればよい。

 正貨流通の下では,銀行は発券機能を持ち,正貨流通停止の下では発券集中により持たないものとする。よって,正貨流通の下では正貨,預金貨幣と,銀行券または中央銀行券が流通しており,正貨流通停止の下では預金貨幣と中央銀行券が流通している。

 銀行は預金の払い出しに応じなければならない。加えて,正貨流通の下では兌換請求にも応じなければならず,正貨流通停止の下では兌換も停止するものとする。正貨流通の下では,銀行・中央銀行は預金の正貨での払い出し,自行銀行券の金との交換に応じなければならない。一方,正貨流通停止・中央銀行成立の下では,兌換は行われない。ただし,銀行・中央銀行は預金の中央銀行券での払い出しを行わねばならない。

 また口座開設者の取引の結果を決済するために,銀行内の口座間と,銀行間での送金義務が発生する。銀行内であれば口座間の預金振替でことは足りる。しかし銀行間ではそうはいかない。支払いと受け取りの差額が支払超過である場合,銀行は送金を行わねばならない。正貨流通・中央銀行未成立下では,他行に対して正貨または相手行銀行券での支払いが必要である。正貨流通・中央銀行成立下ではこれらに加えて,中央銀行当座預金での支払いが可能である。正貨流通停止・中央銀行成立換えは中央銀行当座預金での支払いが可能である。なお中央銀行当座預金に換えて中央銀行券で支払うことも可能であるが,緊急時以外には行われないであろう。

 本稿では,中央政府財政の赤字・黒字はないものとする。したがって,財政収支による通貨供給への影響はないし,国債発行による影響もないものとする。

 本稿が根本的に問題とするのは一社会において銀行というものが成り立つ条件である。既に他の銀行が成立している下で個別銀行が追加で成立する条件ではない。このことを明確にするために,個々の「銀行」と区別される社会全体としての銀行のしくみを「銀行システム」と呼ぶこともある。ただし,個別銀行について述べることと社会全体の銀行システムについて述べることが矛盾しない場合には単に「銀行」という用語を使う。


3.「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明批判

 まず,「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明について一瞥しておこう。この説だと,一見,準備金の説明は簡単に見える。先に預金が銀行に集められるからである。しかし,場合分けしてみていくとそうでもない。正貨流通・中央銀行不成立の下では預金は正貨と自行・他行銀行券,正貨流通・中央銀行成立下では正貨と中央銀行券で集められる。正貨流通停止下では,中央銀行券で集められる。

 このうち,又貸しが簡単に説明できるのは貸付が正貨または中央銀行券で行われる場合である。まずもって預金は銀行に集積されているのであるから,借り手が預金の引き出し要求,兌換請求,他行からの支払い請求に応じることは当然に可能である。また正貨流通・中央銀行不成立下の他行銀行券についても,当該銀行に兌換請求すれば正貨が入手できるので正貨で預金された場合に準じて考えることができる。準備金残高が不足することもありうるが,それは貸し出しが過大であったり,不良な借り手ばかり集まっているからという量的問題であり,本来的に準備金になるものを持っておらず支払い不可能だという質的問題ではない。

 正貨流通の下では預金として集めた正貨の一部,正貨流通停止の下では集めた中央銀行券の一部が準備金となっているので,そこから払い戻しを行う。ここに何の不思議もないように見える。

 しかし,正貨の場合は良いとして,銀行券の場合は子細に観察すると問題がある。「金融仲介=預金先行」説は,社会全体として銀行システムを考察した時,預金となって集積すべき通貨のうち,他行銀行券や中央銀行券が,そもそもどうして流通しているかを説明できないのである。預金するためにはあらかじめ流通していなければならない。しかし,銀行券というものは,そもそもどのようにして発行され,流通に入るのか。銀行券は,まず発券銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合に発券される。また,最初から銀行券で貸し付けを受けた場合にも発券される。中央銀行券もこの論理の延長上で説明できる。銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合,あるいは最初から中央銀行券で貸し付けを受けた場合に,銀行は中央銀行券を必要とする。その中央銀行券は,銀行が中央銀行に持つ中央銀行当座預金設定を引き出すことで発券される。中央銀行当座預金は,正貨流通下では,流通している正貨が銀行に預けられ,さらに中央銀行に預けられることと,中央銀行が銀行に貸し付けを行うことの二つによって形成される。また正貨流通停止下では,後者の方法によってのみ形成される。

 だとすると,正貨が関与する場合を除いて,他行銀行券や中央銀行券による預金は,貸付に先行するものではありえない。もともと,どこかで銀行が企業や個人に,あるいは中央銀行が銀行に信用を与えたからこそ存在しているものである。ということは,銀行システム全体としては「預金先行」がありうるのは正貨についてだけである。銀行券,中央銀行券は,個々の銀行から見れば「預金先行」に見えても,銀行システム全体を見れば必ず「貸付先行」なのである。

 だから,「金融仲介=預金先行」説は正貨流通下で,正貨については整合的に説明できるとしても,銀行券が関与した瞬間に論理的に成り立たなくなる。よって,銀行システム成立の論理としては否定されるべきである。


4.「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明

 では「信用創造=貸付先行」説ではどうか。これが,本稿の積極的に解くべき問題である。以下,場合分けをしながら考えよう。


(1)正貨流通下の場合

 まず正貨流通の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造するか,自行銀行券を借り手に渡して貸し付けを行ったとしよう。ここで,借り手が正貨での払い出しまたは兌換を要求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 正貨流通・中央銀行未成立下では,銀行は一定額の正貨を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。つまり銀行は,信用創造を行うこと自体は準備金がなくともできるが,正貨での準備金を,借り手が払い出し請求,兌換請求を行い,他行からの支払い請求が来る以前に準備することが必要になる。抽象化すれば,正貨が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。これらを満たすのは正貨での預金である。いったん銀行システムが成り立てば,個々の銀行にとっては他行銀行券でもよい。他行銀行券を当該銀行に提示すれば当該銀行に対する支払いができるし,正貨も入手できる。しかし,他行の存在を前提せず,銀行システム自体が成り立つ条件としては,正貨が必要である。正貨流通・中央銀行未成立下の下では,銀行システムが成立するためには,預金された正貨での準備金が必要なのである。

 念のため付記すれば,正貨準備その量は,払い出し,兌換,支払支給に応じるに十分なだけあればよいのであって,銀行は準備金ショートのリスクに注意しながら,準備金の額以上に貸し出すことができる(※3)。

 正貨流通・中央銀行成立下では,事情は多少修正される。預金者の正貨払い出し・兌換請求には正貨でなければ応じることができないが,他行に対する支払いは正貨を持ち出さなくとも,中央銀行当座預金を通して支払うことが可能である。また正貨を入手することは,中央銀行当座預金を正貨で引き出すことや,手持ちの中央銀行券を中央銀行に提示して兌換請求を行うことで可能である。つまり,正貨流通・中央銀行成立下では,銀行が準備金として確保すべきは,預金された正貨または中央銀行当座預金なのである。

 ここでまず注目すべきは,預金された正貨である。この正貨は「金融仲介=預金先行」説の言う本源的預金ではない。受け入れた正貨をまた貸しするのではないからである。しかし,銀行の成立に当たって必要な預金であるという意味では,本源的預金に類似したものである。正貨流通の下では,銀行はこうした,いわば準本源的な預金を必要とするのである。同じことを別の角度から言えば,貸付という行為自体は,預金がなくとも可能である。しかし,預金の払い出しや銀行間支払の必要に備えた,正貨による預金は必要なのである。

 ところで正貨での預金というのは,貨幣流通の見地から言えば,金などの貨幣商品が商品流通外に出ることを意味するものであり,蓄蔵貨幣の形成を意味する。正貨による蓄蔵貨幣の形成は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,銀行システムの成立とそれによる信用創造の拡大は,当該社会での正貨による蓄蔵貨幣の形成に外的に制約されるのである。

 中央銀行の成立はこの制約条件を緩和する。中央銀行が当座預金を創造して銀行に供給することによって,銀行の準備金に伸縮性が与えられるからである。ただし,中央銀行自身が銀行からの兌換請求に応じなければならないので,中央銀行自体に正貨や貨幣金属(典型的には金地金)の準備が一定程度必要とされる。この正貨や地金は,流通にいったん入りながら,商品流通に一時的に不要とされて形成された蓄蔵貨幣から成る。具体的には,正貨での銀行預金が,再度中央銀行当座預金として預けられたものである。しかし,それだけではない。新産の貨幣商品金属を通貨当局である中央銀行が,直接に,あるいは政府を通して平価で無制限に買い入れることによっても形成される。これにより準備は補填される。ここでも,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の産出は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,中央銀行がもたらす準備金の伸縮性も,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の買い上げという別個の運動によって外的に制約されるのである。


※3 銀行は準備金の額以上に信用創造ができる。これは,「信用創造・貸付先行」説に立つならば,正貨流通下か否か,中央銀行成立下か否かにかかわらず妥当する。よって,以後,いちいち記述しない。


(2)正貨流通停止・中央銀行成立下の場合

 次に正貨流通停止,かつ中央銀行成立の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造して貸し付けを行った後に,借り手が中央銀行券での払い出しを請求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 銀行は,中央銀行券を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。また中央銀行当座預金を保持していなければ,他行に対する支払いを行うことができない。中央銀行券は,中央銀行当座預金を引き出すことによって入手できる。つまり銀行は,信用創造を行う際に,中央銀行当座預金または中央銀行券での準備金を事前に,あるいは事後であっても少なくとも借り手が払い出し請求や兌換を行いそうになる前に準備することが必要になる。抽象化して言えば,事後に中央銀行当座預金・中央銀行券が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。 

 では,このような条件を満たす中央銀行当座預金・中央銀行券の入手方法とは何か。一見すると,正貨流通下では正貨の預金であったように,正貨流通停止の下では中央銀行券での預金であるように思える。しかし,そうではない。預金者が中央銀行券で預金を行うためには,あらかじめ中央銀行券が発券されていなければならない。ところが,財政支出が捨象されている限り,中央銀行券が発券されるのは,預金者が預金を引き出した場合だけである。そして,預金が生まれるのは銀行が企業・個人に貸し付けを行った場合である。個人や企業が銀行に中央銀行券を預け入れる場合にも預金は生まれるように見えるが,その中央銀行券はどこかで預金を引き出したから発券されているのであり,やはりそれ以前の,貸付によって生まれた預金に由来する。いずれにせよ,預金や中央銀行券が生まれる大本は銀行による企業・個人への貸付なのである。ということは,銀行システムが成立するにあたって中央銀行券での預金が必要となるというのは循環論法である。中央銀行券での預金は,どこかで銀行が企業・個人に貸し付けた結果としてでなければ存在できないのであり,銀行システムがすでに成立していることを前提するからである。

 だから,銀行システム成立に当たって銀行が必要とする中央銀行券での準備金は,銀行への預金によって形成されるものではない。中央銀行が創造した中央銀行当座預金を引き出したものなのである。正貨流通停止の下での銀行の準備金とは,本質的に中央銀行が供与するものなのである。この点が,正貨流通の場合とは決定的に異なる。

 再び貨幣流通の見地から見ると,中央銀行当座預金や,銀行によって引き出されて銀行が手持ちしている中央銀行券は,一時的に遊休し,商品流通を媒介していないという意味で遊休貨幣である。しかし,蓄蔵貨幣ではない。預金や銀行券は価値を持たないデジタル信号や紙券に過ぎないので,流通から出て価値を保蔵するという意味での蓄蔵貨幣にはなり得ない。正貨流通停止下では,遊休貨幣は存在しても蓄蔵貨幣は存在しないのである。

 しかし,中央銀行当座預金や銀行手持ち中央銀行券が蓄蔵貨幣でないことは,むしろ積極的な意味を持つ。蓄蔵貨幣ではないがために,信用創造の運動に従属し,信用創造の運動に反応して形成される伸縮性を持つからである。正貨流通停止下では,銀行の信用創造は,正貨による蓄蔵貨幣形成の制約を離れて拡大できる。中央銀行は,信用創造を促進するとともに,それが過大とならないように,自らの信用創造による準備金供給を,金利調節を通してコントロールする。そして中央銀行もまた,蓄蔵貨幣の多寡や新産貨幣金属を買い上げる必要によって外的に制約されなくなるのである。

 正貨流通停止下では中央銀行は兌換請求を受けることはない。そのため中央銀行自身の準備金としても正貨や地金は必要とされなくなる。本稿が想定する条件の下では,原理的には他の形態での準備資産さえ必要とされない(※4)。政府財政の影響を捨象する限り,正貨流通停止下では,中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に対して信用を供与した結果であり,預金貨幣は銀行が企業・個人に対して信用を供与した結果であり,中央銀行券の発券は預金の引き出しによって預金貨幣が置き換えられた結果である。このような銀行システムの下では,銀行が中央銀行に求めることは,中央銀行当座預金での支払い決済の遂行であり,中央銀行からの借り入れの返済に際して当座預金または中央銀行券の利用を認めよということである。それは,金兌換が停止されていても何ら問題なく中央銀行が遂行できることである。つまり,本稿の前提の下では,中央銀行に対して銀行から兌換請求に変わる準備資産請求が殺到することは通常はない。あるとすれば,それは恐慌の勃発などによって通貨価値の激しい毀損が生じた場合であろう。その時には,本稿の想定の外にある財政赤字累積の結果として,中央銀行が供与してもいない中央銀行当座預金が積み上がっているであろう(※5)。中央銀行が銀行システムの健全さを維持できている限りは,そうした事態は生じない。本稿が想定する条件下では,中央銀行が準備資産を持つのは当然に必要なことではない。預金払い出しや決済に必要だからではなく,こうした通貨価値の毀損が激しくなることや,そのおそれによって通貨の信認が低下する事態を抑止する効果を持つために,政策的に選択されることである。


※4 対外取引を含めて考えるとここに修正が必要であるが,本稿は単一経済を前提しているので,こう言ってもよいのである。対外取引がある場合については,6節で最小限補足する。

※5 このことについては,ここで詳しく触れる余裕はない。さしあたり以下の拙稿を参照されたい。「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023/7/6。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


5.中央銀行当座預金の独自の役割

 ここで,中央銀行当座預金の独自の性質を論じておく必要がある。ここまでは正貨流通下・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を機械的に区分して論じてきたが,ほんらいこれらは資本主義の発展とともに歴史的に変化する通貨体制の変遷を表している。資本主義の発展とともに中央銀行設立という形で通貨体制が整備され,正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積されるとともに,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられる。そうすると,自らは必ずしも準備を必要としない中央銀行の信用供与が,銀行の準備金の主力供給源になるということである。

 では,この中央銀行の信用供与は貨幣論としてどう位置づけられるか。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金が引き出されると中央銀行券が発券される。この関係は,銀行預金と銀行券の関係と全く同じであり,ここから中央銀行当座預金も信用貨幣であり,中央銀行券に対してより本源的なものだということができる。

 しかし,中央銀行当座預金は商品流通を直接に媒介しない。その意味では通常の通貨とは異なる。しかし,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な信用貨幣であり,独自な預金貨幣だといわねばならない。今日の用語で,マネタリーベースに含まれるが,マネーストックには含まれないということが,この独自の位置を表している。このような独自な預金貨幣が生まれるのは,銀行システムが銀行と中央銀行という二層によって成立しているからである。

 貨幣流通の見地から言うと,中央銀行当座預金の発生は,前述の通り蓄蔵貨幣の形成ではない。正貨や貨幣金属ではないからである。また,少なくとも発生する時点においては,すでに流通している貨幣が遊休するのでもない。それでは何なのかと言えば,独自な貨幣の新規供給なのである。そして,その役割は,銀行の信用創造による預金貨幣供給を準備金として支えることである。こうしてみると,中央銀行当座預金が,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによる新規正貨の供給が担っていた役割を,正貨流通停止のもとで代行する信用貨幣であることがわかる。新規正貨供給に取って代わることこそ,新規に設定される中央銀行当座預金の本質的役割である。


6.対外支払い・決済論についての補足

 最初に断った通り,本稿は対外支払い・決済を捨象するという前提下で考察を行っている。ただ,ここまでの考察を踏まえて対外支払い・決済論への展望をわずかに述べておく。対外支払い・決済においては貿易や金融取引がその通貨建てで行われる中心国通貨と,それ以外の非中心国通貨が存在する。ここでは非中心国を想定する。ここでも各国財政の通貨供給への影響は捨象する。

 本稿で言う正貨流通下とは,対外的には国際的な金本位制,正貨流通停止下というのは金兌換停止に対応すると考えてよい。正貨が国内で流通し,対外的には金兌換と金現送が行われるという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた貨幣商品金属または中心国正貨,あるいは中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。正貨が国内で流通せず,対外的に金兌換も金現送も行なわれないという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。

 このように対外支払・決済論では商品貨幣金属,中心国正貨,中心国銀行に持つ中心国通貨建て預金が重要な役割を果たすと予想されるのである。しかし,この先は別の機会に委ね,今は本稿の課題についての結論を述べよう。


7.結論

 ここまで,「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明を試みて来た。銀行は,信用創造,つまり預金という自己宛て債務による貸し付けを行うものであり,この行為自体は又貸しではないので,事前の預金を必要としない。しかし,銀行は,預金払い出しの請求や他行からの支払い請求が発生に備えて準備金を確保しなければならない。

 具体的には,銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならない。

 正貨流通下では,正貨による預金形成とは蓄蔵貨幣形成である。信用創造は,蓄蔵貨幣形成という,自らとはまったく別個の運動によって制約される。中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属し,伸縮性を持つ。ただし,正貨流通下での中央銀行は,正貨による蓄蔵貨幣形成と新産貨幣金属買い上げの運動によって,外的に制約される。正貨流通停止・中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属して伸縮性を持つし,蓄蔵貨幣形成にも新産貨幣金属の無制限買い上げにも制約されない。そして,自ら準備資産を持たずとも可能である。ただし,中央銀行は通貨価値と,通貨に対する信認を維持しなければならないので,準備資産はその助けになる。中央銀行は,金利調節を通して準備金供給をコントロールすることで,銀行による信用創造の拡張を促したり,抑制したりするのである。

 ただし,この結論は,本稿が冒頭に設定した,国境によって区切られていない単一資本主義経済の下で妥当するものである。国境の存在を踏まえて国際金融を考察した場合には,一定の拡張や修正が必要である。


8.理論的示唆

 本稿は三つの場合を区別して考察を行ったが,ここから,一定の理論的示唆を引き出すことができる。正貨流通とその停止,中央銀行の未成立と成立の区別と関連を説明できる,包括的な理論の形成に向かっての示唆である。

 銀行システムが必要とする準備金とは,当該社会において現金とされるもの(正貨,中央銀行券),あるいはただちにそれに転換できるもの(中央銀行当座預金,正貨流通下での他行銀行券)でなければならない。これはいかなる学説においても共通である。

 しかし,本稿の分析結果からすれば,この準備金の出所を,蓄蔵貨幣や遊休貨幣に,言い換えると既に存在している貨幣の融通に不当に一元化,もっと強く言えば矮小化してはならない。この矮小化を典型的に行っているのは種々の学派に共通した「金融仲介=預金先行」説である。また,マルクス経済学の場合は「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点が存在するが,この観点もまた不当な一元化,矮小化である(※6)。これらの説は部分的に,具体的には正貨流通下の正貨については妥当する。それ故,現実に根拠を持つ説ではある。しかし,一般理論としては間違いなのである。

 本稿の分析結果が示すのは,準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の信用供与でもありうるということである。そして,資本主義の発展とともに正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積され,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられると,中央銀行の信用供与が準備金の主力供給源になる。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金は商品流通外にあって,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な預金貨幣である。中央銀行当座預金の役割は,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによって生まれる新規正貨に取って代わり,準備金形成を担うことである。

 資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,銀行システムの準備金の発生源は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行による,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行に移っていくのである。


※6 マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が非常に強い。それ故,後者の説に対する批判によって前者の観点に対する批判をかなりの程度カバーできる。しかし,「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,信用貨幣論や貸付先行説をとる論者でも採用することがある。例えば村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」である。この説については独自の検討が必要であるが,これは別稿に委ねなければならない。

続稿
「村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から」Ka-Bataブログ,2024年1月7日。




2023年7月6日木曜日

超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)

 1.従来の考察への反省

 私は以前に準備預金への付利に関する考察を2通の投稿によって行い(※12),以下のように結論した。「中銀当座預金への付利とは,中央銀行にとって,銀行に過剰準備保有を促すためのコストであり,それは結局は,ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコストだったのである」。しかし,この結論はいくらか修正を要する。

 中銀当座預金への付利は,「ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコスト」である。これは正しい。しかし,「銀行に過剰準備保有を促すためのコスト」というのは不正確であった。付利は,銀行に超過準備を保有させるために行われているのではない。付利がなくても,銀行全体としては超過準備を持つだろう(※3)。ただ,ゼロ近傍以下に金利を誘導した場合,個々の銀行の行動が予測不能になり,その運用が不確定・不安定になってしまう。これを防止するために金利を付すというのが,実際にリーマン・ショックの際にFRBや日銀が直面した状況であった。つまり正しくは「銀行による超過準備の運用が不確定・不安定にならないためのコスト」なのである。

 このように修正した上で,さらに考察を進める必要がある。そもそも超過準備はなぜ発生するのだろうかという問題である。本稿の目的は,超過準備が発生する根拠を把握し,その上で,中央銀行がそれに付利せざるを得なくなることの意味を考えることである。


2.なぜ中央銀行の方が借り入れを行わねばならないのか--財政赤字の累積

(1)超過準備はなぜ,どのように発生するか

 銀行の超過準備預金運用を安定させるために中央銀行が金利を付さねばならないというのは,言葉を変えると,「銀行が利子を払わないと,安定して預金を集められない状態」だということである。なぜ中央銀行でそのようなことが起きるのだろうか。

 いま財政システムを捨象し,金融システムだけを考えるならば,中央銀行はまずもって銀行にお金を貸す側である。中銀当座預金とは,中央銀行が銀行に信用供与(貸し付け)を行った際に発生する当座預金である(※4)。したがって,そのコントロールは,さしあたり中央銀行による貸し出し利子率を通してコントロールすればよい。しかし,経済規模の拡大とともに中銀当座預金規模も拡大し,また銀行間の資金過不足も顕在化する。そこで銀行間では準備預金の超過・不足分を短期の貸し借りで調節するようになり,ここに短期金融市場が成立する。この短期金融市場での金利調節が中央銀行の任務となる。しかし,そうであっても,金融システムの範囲内では,中央銀行は貸し付ける側だという基本的立場には変わりはない。

 これよりも話を現実に近づけるには,財政システムを考慮する必要がある。現代の資本主義においては,しばしば需要不足による不況が発生する。政府はその対策として,しばしば財政赤字を出して需要を支える。財政赤字を出すということは,たいていの場合,通貨供給量を増やすことを意味する。より正確に言えば,銀行が超過準備預金で国債を引き受けた場合や,その後に中央銀行が買いオペを行った場合,通貨供給量が増える(※5)。とくに,中央銀行が買いオペを行った場合は,銀行全体として超過準備預金も増えていく。銀行が国債を引き受け,その国債を中央銀行が買いあげることで赤字財政が可能になるというこのしくみは,事実上の財政ファイナンスと言ってよい。

 買いオペを行う際に中央銀行が銀行に対して行うのは,信用供与(貸し付け)ではなく信用代位である。つまり,国債を購入することで,銀行に代わって中央政府に対する債権者となるのである。買いオペ超過による事実上の財政ファイナンスを行うと,財政赤字の金額に対応して中銀当座預金も増えていく。そうすれば,その金額が法定準備を超えて,各銀行の超過準備となる可能性は極めて高くなる。つまり,超過準備が発生する根本的な理由は財政赤字なのである。中央銀行から見れば,この超過準備は,中銀の信用供与で発生したものではない。だからこそ,中銀にとってコントロールが難しいのである。


(2)金融調節において超過準備はどのように作用するか:中銀当座預金付利の根拠

 まず,金融緩和の場合である。今日,金融緩和の効果は,金融危機の広がりを抑止する際には有効であるが,景気対策としては先進諸国では限界に達しており,ゼロ近傍への金利誘導をせざるを得ない局面が生じる。ところが短期金利がゼロになると超過準備が不確定・不安定な動きをし,短期金融市場が著しい緩和とマヒのどちらになるかもわからなくなる。それを防ぐために,中央銀行は,超過準備の有利子での運用方法を人為的に設定しなければならない。つまりは,運用してもらうために中央銀行が超過準備を借り入れねばならない。それが超過準備預金への付利である。

 次に金融引き締めの場合である。金融引き締めというのは,短期金利を高め誘導することであるが,今日,中銀の貸し付け金利を操作することではそれは到底なしえない。したがい売りオペレーションを行うか,中銀保有の国債が満期になっても新規購入は行わないという形で引き締めを行うことになる。ところが,金融引き締めに比して財政赤字の縮小には政治的困難が大きく,またそれが可能だとしても実施の速度は遅い。国債は市場に累積したままであって,追加で発行すらされてくる。こうなると,中央銀行は売りオペや満期後の買い替え停止を一定以上の規模では行なえなくなる。国債価格の急落と長期金利の急騰によって,景気の底割れを招くからである。

 国債の信用を毀損せずに金利を高め誘導しようとすれば,中央銀行自身が高い金利を付けて借り入れを行うしかない。それがすなわち超過準備預金金利の引き上げである。

 要するに,財政赤字に起因する超過準備が膨れ上がっている今日においては,中央銀行が金融調節を行おうとすれば,超過準備を自ら借り入れ,その際の金利を指標とせざるを得ないのである。これこそが,中銀当座預金に付利が必要となる根拠である。中央銀行が当座預金に付利せざるを得ないことの根源は,中央政府が財政赤字を恒常化させ,中央銀行が量的緩和による事実上の財政ファイナンスを行っていることにあるのである。


3.中央銀行の業績悪化は,財政赤字累積と財政従属のコストである

(1)結論

 以上の考察に立ってみれば,超過準備とは,財政赤字が恒常化し,中央銀行の財政従属がある程度進んだことの現れである。そして,中銀当座預金への付利とは,財政赤字の隠れたコストと見ることができる。

 現代の成熟した資本主義は,資本主義世界の外延的拡大や技術体系の大転換に恵まれた時期でない限り,需要不足に陥る傾向をもっている。そのため金利は傾向的に低落するが,そこにはゼロという限界がある。したがい,需要創出を恒常的な財政赤字に依存せざるを得ない。そして,中央銀行は国債消化ために中央政府と強調せざるを得ず,短期金融市場での金融緩和に加えて,国債買い上げによる量的金融緩和に踏み込まざるを得なくなる。これは事実上の財政ファイナンスである。

 財政赤字は,完全雇用を実現して需要不足を解消し,市場の失敗を補正して公共財を供給し,経済を活性化させる可能性はあるが,よく知られているようにインフレ,バブル,為替レート下落というリスクも伴う。これらのリスクを管理するためには,必要な際に財政の引き締めや金利の引き上げを行わねばならないが,政治的・行政的な困難から金利の引き上げに手段が偏りがちになる。中央銀行は国債を大量売却することなく金利を引き上げねばならず,中銀当座預金の金利を引き上げることになる。しかし,このことは中央銀行の業績を悪化させる。この利払いや中央銀行の業績悪化は,財政赤字累積と中央銀行の財政従属のコストであり,中央政府による財政赤字コントロールの困難のつけを中央銀行が引き受けるものなのである。

 中央銀行の業績悪化はどこに導くか。このことは以前にも考察したが,政治的要因や金融市場の不安定性を伴うために,一義的に予測することは不可能である。しかし,あまり空想的にならない程度に考えておこう。

 以前に考察したように,原理的には,中央銀行は業績が悪化し,債務超過になってさえもオペレーションを続けることは可能である。しかし,金融市場と政府,議会で全く問題にされないとは考えにくい。まず,多くの国では,中央銀行の収益は中央政府に納付されている。業績悪化は納付金の消滅を意味するので,それ自体が政府財政の赤字要因となる。また中央銀行が債務超過に至るほど業績を悪化させると,信用秩序維持能力への疑義を呼び起こすだろう。しかも,この時,財政赤字はおそらく質的には十分な効果をあげること,つまりインフレなき完全雇用の達成に失敗しており,量的には引き締めが出来ずに歯止めなく膨張している可能性が高い。もともとそのような場合にこそ,インフレ対策として金利引き上げへの依存が起こるからである。

 つまり,中央銀行の業績が悪化する場合には,独立性を持った中央銀行による通貨価値の安定と,財政民主主義による完全雇用,経済成長,公共財供給がいずれも機能していないと疑われる状況が発生すると予想されるのである。これは,赤字財政政策が機能しなかった場合の,一つの負の到達点とみなさざるを得ない。経済学においては,財政政策が失敗した場合のリスクとして,悪性インフレという通貨価値の崩壊が古くから認識されている。しかし,それと並んで,中央銀行の独立性と財政民主主義という制度が破綻の危機に瀕することを,想定しておくべきではないか。

 準備預金金利の引き上げは,ただちに経済危機を引き起こすわけではない。しかし,制度の危機に向かって一歩近づくリスクがあることを認識しておくべきではないだろうか。大風呂敷に過ぎるかもしれないが,問題提起としておきたい。


(2)残された課題

 本稿では準備預金付利に考察対象を絞った。しかし,財政赤字に起因する通貨膨張が金融調節に際して中銀にコストとリスクを課す経路は,他にもあると考えられる。例えば,2022年から2023年にかけて急速に膨張した米国のリバース・レポ取引の金利にもそのように考えるべき根拠はある。しかし,こちらは銀行の信用創造とは別に,証券金融による金融仲介が発達したこととも関係しており,財政赤字にのみ出発点を求めることは適当ではないかもしれない。別の機会に論じたい。


※1 「日銀の業績が悪化するとどのような問題が起こるか:準備預金への付利に関する考察(1)」Ka-Bataブログ,2022年11月16日。


※2 「超過準備維持・金融緩和・国債消化:準備預金への付利に関する考察(2)」Ka-Bataブログ,2022年11月19日。


※3 中銀当座預金が無利子であっても,銀行全体が,自分のポートフォリオ選択によって超過準備を持たなくなることはありえない。ある銀行が,利子のつかない超過準備預金A円を持つことを嫌って別の資産での運用を図るとしようすると,当該資産の売り先にA円が振り込まれ,売り先の取引銀行が持つ準備預金がA円増える。預金が引き出されて現金になることはあるが,銀行セクター全体としての「準備預金+手持ち現金」は増減しないのである。各銀行のポジションの違いにより超過準備とみなされる部分は増減し得るが,銀行セクター全体としての変動幅は一定範囲に収まるだろう。

※4 ここでは金融システムを通した貨幣供給を内生的に理解している。発券集中を伴う管理通貨制において,政府財政を捨象して金融システムのみを考察するならば,預金貨幣は銀行が信用供与したことによって発生するものであり,中央銀行当座預金は中央銀行が信用供与したことによって発生するものである。中央銀行券とは,預金貨幣の一部,またそれと同額の中央銀行当座預金の一部が引出されることによってのみ発行される。

※5 ここでは信用貨幣論に基づいて,財政赤字を政府による自己宛て債務の発行,すなわち通貨供給量(マネーストック)の増大と理解している。国債を銀行が超過準備で引き受けた場合や中央銀行が事後に買い取った場合は,この増大は相殺されないので通貨供給量は増えたままになる。対して,証券会社や法人企業,家計などが買い取った場合には,それによるマネーストック減が,財政赤字によるマネーストック増を相殺する。


2023年5月20日土曜日

「統合政府だから政府債務はプラマイゼロ」論の誤り:加藤出「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」によせて

 東短リサーチ社長チーフエコノミスト・加藤出氏による「経済教室」欄への寄稿「「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」は,重要な論点を提起している。短資会社で実務に携わって来られたためであろう。多くの学者が見落としていることに気づいているのだ。具体的には,この「経済教室」は,

「日銀が国債で債権を,中央政府が債務を持てば,統合政府としてはプラマイゼロ」

という主張(以下「プラマイゼロ」論)の誤りをはっきり指摘しているのである。

 該当するのは以下の箇所である。「日銀が国債を大量に保有しても、政府と日銀のバランスシートを合わせた「統合政府」の債務は一円たりとも減少しない。民間が保有する国債が減っても、代わりに日銀当座預金(統合政府の超短期の債務)が増えている」。

 なぜそうなるのかを補足して説明しよう。以下は,財政法で禁止されている日銀による国債引き受けを実施した場合でも,現在行われているように銀行が国債を引き受けた後,「量的緩和」と称して日銀が買いオペをした場合でも同じである。

 債権増を(+),債務増を(-)で表すと,「プラマイゼロ」論は,日銀が国債を持てば,

日銀(+) 中央政府(-)

になり,統合政府としてはプラマイゼロだと考える。しかし,そうではない。なぜなら,このとき中央政府は財政支出を行っているので,民間の経済主体の所得が増加し,

民間企業・家計(+)

となっているからである。民間企業は,政府小切手を受け取って銀行に持ち込み,政府からの取り立てを依頼する。あるいは,政府が政府預金をおろし,自ら,あるいは民間銀行を通して民間企業・家計に現金を支給する。手続きはどうあれ,このお金の流れの結果は以下のようになる。

民間企業・家計(+)
銀行(+)(-)
日銀(-)

企業・家計の預金が増える。その分だけ銀行の日銀当座預金も増える。これで銀行はプラマイゼロであるが,日銀にとっては債務増になるのである。

 これを,国債自体に関する債権債務と合わせるとこうなる

中央政府(-)
日銀(+)(-)
民間企業・家計(+)
銀行(+)(-)

 だから統合政府としては,

日銀(+)(-) 中央政府(-)

であって,合算すれば(-)で,債務は増えているのである。具体的には,1)企業・家計が所得の増分を預金で持っていれば,同じ額だけ日銀の超過準備預金が増える。2)企業・家計が一部を預金でなく日銀券で持っていれば,その分だけは超過準備預金の代わりに日銀券発行残高が増える。

 「プラマイゼロ」論者のどこがおかしいかというと,国債の発行と引き受けのところしか見ないところである。政府が赤字支出した結果として民間から統合政府への債権が増えるというところを見落としているのである。

 もちろん「プラマイゼロ」論者が言うように,国債の元利償還については,中央政府が日銀に払い,日銀は黒字が出たら納付金で中央政府に戻される。そこだけ見れば,統合政府の負担はない。また,日銀当座預金が無利子であれば,日銀には利子の負担もない。

 しかし,現在のように,日銀が超過準備預金に付利せずにいられなくなると,話は違ってくる。日銀はゼロ近傍まで金融を緩和する際は,短期金融市場の安定のために超過準備預金の少なくとも一部はプラス金利にせざるを得ない。また金融引き締めの際は,超過準備預金金利を引き上げないと有効な引き締めができない。実際,植田総裁も引き締めは超過準備預金金利引き上げで行うことになるだろうと国会で述べている。

 しかし,このことは当然に日銀のコストになる。加藤氏が言う通り「統合政府の債務の平均残存期間は著しく短期化しており、金利上昇局面がやってきたら統合政府の利払い費は急増しやすい危険な構造だ」ということである。利払いがかさんで日銀の業績が悪化し,債務超過に至れば,政府や国会の側から日銀の経営への疑義が提起される。もともとの発端は財政赤字なのであるが,政府や国会はそれを認めないか,認めるとしても,財政赤字の帰結はすべて自分たちに管理させろ,日銀の独立性など制限せよと言い出すかもしれない。かくて,「中央銀行の独立性と財政民主主義」という組み合わせの制度が揺らいでいく可能性がここにある。その結果は,財政赤字のコントロールが一層難しくなるということだろう。

 種々の「プラマイゼロ」論がいうように,自国通貨建て国債はデフォルトはしない。借り換え続けることも可能である。しかし,何の問題も起こらないわけではない。まともな研究者や実務家ならば,MMT論者を含めて知っている通り,インフレ,バブル,課税能力への疑義による為替下落が起こるかもしれない。加藤氏の議論を借りて私が言いたいのは,それらに加えて,中央銀行制度の動揺に至る可能性があるということなのである。

加藤出「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」日本経済新聞,2023年5月19日。

2023年4月30日日曜日

なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか

1 理解すべき現状

 本稿の目的は,2023年春において,FRBが,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っていることの理由と意義を論じることである。本稿が念頭に置いている事実関係は以下のものである。

・FRBはインフレ対策のため,短期金利(FFレート)の高め誘導を続け,またQT(FRBのバランスシート縮小)を行っている。3月半ばに一時的に拡大したが,その後再び縮小に入っている。
・経営が不安定な個々の銀行のみならず,銀行セクター全体の預金が減少している。
・公社債投資信託の一種であるMMFの残高が拡大している。
・銀行の準備預金が2021年末をピークに縮小している。
・FRBのリバースレポ取引が増加している。(したがい,FRBのバランスシート負債側で準備預金の割合が縮小し,リバースレポ取引残高の割合が拡大している)
・アメリカの通貨供給量は,M1, M2とも2022年半ばから減少している。
・現金流通量は緩やかな拡大傾向であり,3月はやや増加速度が速まった。
・銀行貸出額は2月以降減少している。

 以上の事実関係は,ほとんどはFRBサイトで,またTrading Economicsサイトなどを補完的に使うことで確認できる。

2 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するか

 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するのだろうか。まず,全体として景気がリセッションに向かう懸念が強まっている上に,速いペースでの金利高騰のために,銀行のポートフォリオ管理が難しくなっている。シリコンバレーバンクに続く銀行の経営破綻への不安も解消されていない。したがい,企業は銀行から借りず,銀行はリスクを取っての貸し出しに慎重である。まずもって,銀行貸出額が減少することにより預金残高も抑制されるのである。

 しかし,預金残高が減る理由はこれだけではない。銀行への経営不安と,預金金利の上昇が公社債金利上昇より遅れることから,預金者は銀行預金を引き出している。そのごく一部は現金で保有され,他の一部はMMFに向かっている。

 ほんらい,貯蓄性預金がおろされてMMFが購入されるだけでは,銀行セクターの預金残高は減少しない。預金者の貯蓄性預金が減り,MMFの運用会社や公社債の売り手の要求払い預金が増えるだけである(大畠,1987)。それでは,いま現実に預金残高が減っているのは,なぜか。理論的に考えられることの一つは,銀行不安の下で,流動性を現金で保有しておこうという指向が強まっているからである。つまり,預金がMMFに化けるのではなく,預金が現金に化けるルートである。しかし,これでは現金のわずかな伸びとMMFの急増を説明できない。

 より説得力がありそうなのは,銀行セクターから脱落した預金がいったん現金となり,MMFを介してFRBに貸し付けられていることである。MMFはFRBのリバースレポ取引の利用額を急増させている。これは,FRBに売り戻し条件付き国債購入,実質的には国債を担保にとっての短期貸し付けを行うことである。形式的にはおそらく銀行(クリアリング・バンク)を仲立ちにするが,実質的にはMMFとFRBの間の貸し借りである。したがい,通貨は預金貨幣→現金→MMFのリバース・レポ取引残高となって,市中から消え,FRBの負債残高になっているのだと思われる。

3 FRBは何を行っているのか

 いま起こっていることの本質は,FRBが銀行とMMF相手に金融を引き締めているということである。先ず注意すべきは,銀行相手の伝統的な金融調節とは異なるルートが生まれていることである。通常,中央銀行は通貨供給量を直接操作することはできず,短期金利を誘導することで銀行の信用創造を間接的にコントロールする。ところが現在FRBがMMF相手に行っているレポ取引は,銀行を実質的に介さずに,直接に金融調節を行うルートとなっている。新たな金融調節ルートが生まれているのである。

 まずFRBは引き締めのためにQTを行う。具体的には保有国債が満期を迎えた時に再度の購入を市中から行わないことで,バランスシートを縮小する。この時,FRBのバランスシート資産側では国債が減る。負債側では直接には政府預金が増減する。国債償還で減少し,FRBが利益を納付することで増加するからである。しかし,政府は再度国債を発行して銀行やMMFに購入してもらうであろうから,結果としては準備預金かリバース・レポ取引残高のどちらかが減ることになる。どちらが減るかは不確定であり,FRBは直接にコントロールできないが,必ず減る。

 またFRBのFFレートに対する金利調節は,超過準備預金金利を上限,リバースレポ金利を下限としている。前者はQTにより高め誘導されるが,後者は市中の翌日物国債レポレートにより定まる(服部,2022)。FRBはMMFとのリバースレポ取引を拡大することで,FFレートの高め誘導を行っていると言える。つまり,QTもリバースレポ取引も金融引き締めの手段なのである。

 FRBがQTを行えば必ずバランスシートが縮小するが,負債側で準備預金が減るかリバース・レポ取引残高が減るかは自動的には決まらない。しかし,MMFとのリバースレポ取引は,FRB自身の意思で量を調節できるはずであり(カネを借りるか借りないかを決める自由はFRBにもあるだろう),これを積極的に拡大することでリバース・レポ取引残高が減らず,銀行の準備預金残高が減る結果を招いている。これが現状だと思われる。ただし,準備預金残高が減りすぎると,FRBの意図を超えて短期金利が急騰する危険がある(Bartolini et al, 2023)。そのリスクはFRBも注視していると思われる。

4 残された問題

 現状は以上のように解釈すると整合的に説明できるが,残念ながら,私の知識では,まだわからないことが二つある。

 一つは,レポ取引やリバースレポ取引にクリアリング・バンクを介在させているのか,介在させているとすればどのようになのかがわからないことである。もともとFRBに口座を開設できるのは預金金融機関だけであり,MMFが開設することはできないはずである(中島・宿輪,2013)。クリアリング・バンクを介在させているならば,まずMMFが銀行に現金を預けて預金し,銀行が現金をFRBに貸し付け,FRBはバランスシート負債側から現金を消去してリバースレポ取引残高に変える,という風になるはずである。しかしこれは,銀行セクター全体として預金が減少していることの説明がつかない。それでは,現状をどう説明するのか。クリアリングバンクの介在が銀行にとってオフバランスになるような実務がなされているのではないかと想像するが,確証が持てない。

 二つ目は,M2の減少の度合いはこれで説明できるかどうかである。もちろん,金融が引き締められているので,預金貨幣が減ることでM1が減ることは説明できる。しかし,アメリカのM2はMMF残高を含んでいる(※)。アメリカのM2では,MMF残高が増えると預金減少がかなり相殺されるはずなのである。例えば,預金者が預金をおろしてMMFを購入しただけでは,預金残高は減らず,現金が増え,MMFも増えるという二重計算が起こる。また,リバースレポ取引でFRBが通貨を吸い上げると,現金流通残高は減るがMMF残高は減らない。このような欠陥があると私には思えるのだが,にもかかわらず,現在,M2が素直に減っていることが,むしろ不思議である。

 以上については,さらなる調査を進めるとともに,金融実務専門家のご教示を賜りたい。

※アメリカのM1(narrow money)は社会全体の通貨量を捉える概念であるが,M2は個人にとっての流動性を合算する概念である。日本の場合,M1,M2,M3は前者,広義流動性が後者である。


5 暫定的考察

 FRBは伝統的ルート,つまり公開市場で形成されるインターバンクレートへの波及をめざしたQTの他に,非伝統的ルートとしてのリバースレポ取引による金融引き締めを行っている。しかも,現時点では後者に熱心であるようにも見える。これはなぜなのだろうか。すでに金融危機であって金融を緩和しなければならない時であれば,まだわかりやすい。レポ取引を通してMMFに信用を供与し,MMFの破綻による信用崩壊を防ぐのである。しかし,引き締めていくときにまでリバースレポ取引を使い,市中のマネーストックを事実上直接吸い上げるのはどういうことなのか。

 現段階での私の理解は,そうしなければFFレートの下限を引き上げらないからだ,というものである。現在のアメリカでは,インターバンク市場からはコントロールできない金融,つまりは銀行貸付ではない証券金融の役割が大きくなってしまった。それは長期的傾向でもあるが,短期的には,コロナ下での金融緩和や財政拡張によって供給はされたものの,増殖機会を見つけられない貨幣,それも企業・金融機関に加えて家計の手元にあるそれが,市中をさまよっているからである。これらの貨幣の動きを政策目標に向かって誘導するために,FRBは,直接の操作に乗り出さざるを得なくなった。それも,金融危機に際して緩和する場合だけではなく,インフレに際して引き締める場合もそうせざるを得なくなった。このように理解すべきではないだろうか。

<参考文献>

大畠重衛(1987)「銀行対証券ー『資金シフト』論から『金融証券化』論への系譜ー」『金融経済』220。
中島真志・宿輪純一(2013)『決済システムのすべて第3版』東洋経済新報社。
服部孝洋(2022)「SOFR(担保付翌日物調達金利)入門 -米国のリスク・フリー・レートおよび米国レポ市場について-」『ファイナンス』2022年3月号。
Bartolini, Steven et al(2023)「量的引き締めの意味合い」ティ-・ロウ・プライスのインサイト米国債券。

※2024年1月26日追記。本稿でのMMFについての認識には誤りが含まれていました。以下で修正していますのでご覧ください。

「MMF再考」Ka-Bataブログ,2024年1月26日。

クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...