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2023年3月23日木曜日

岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年を読んで:マルクス学の商売,その歴史と現在

 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年。一体,何が起こったのかと思った,まさかの復刊。旧青土社版(1983年)を買ってはいないが,渡辺寛氏との問答の記述が記憶に残っているから,たぶんちらちら見たことはあるのだろう。岡崎次郎と言えば,私の世代(1964年生まれ)にとっては国民文庫や『マルクス・エンゲルス全集』の『資本論』,岩波文庫版『金融資本論』など,マルクスやマルクス主義文献の翻訳者である。本書はその生涯を振り返って自ら書き記したものである。

 その生涯は,私には,ああ,こういう人もきっと昔のマルクス主義者にはいたよなあ,そんな名残は私の先生たちにもあったよなあ,と読めるものであるが,今の若者が読むとぎょっとするのかもしれない。極端に言えば遊民,やや穏やかに言って浮世離れしたところがあり,もっと穏やかに言って超マイペースな人生だからである。マルクスの翻訳だけでこんなにお金が入ったことも(大月書店からの『マルエン全集』と『資本論』各版の印税1億5000万円!=今の貨幣価値で2億6650万円),また当人が暴力革命以外ありえないだろうという思想を持っているのに,本書では社会に対する理想や思いよりお金や大学の人間模様や翻訳業務をめぐるドタバタに頁を費やしているのも,私の世代では,まだ「あるある」と思うが,今の若者には理解しがたく,もしかすると不快に思うかもしれない。とくに,著者は本書刊行後間もなく,奥方とともに旅立ち,消息を絶ったことで知られているだけに,初見の読者が本書をマルクスに殉じた歩みを記したもの,と考えて手に取ると,「何だこりゃ」となるおそれがある。

 しかし,本書はそういうものではないのである。では,どういうものか。資本主義社会で生きる以上,マルクスに携わる研究者も大学教員も翻訳家も,運動家さえも,原稿料や印税や給与や講演料を得てくらしていかねばならず,それなりに「商売」感覚を持たざるを得ない(持たない場合,すぐに野垂れ死ぬか,あるいは家族に多大な負担をかける)。これは,岡崎氏が,自らの生涯のうち,当時のマルクス業界の「商売」に関する部分を中心に記述した本だと思えばよいのである(そういう記述をした本として,他に野々村一雄『学者商売』がある)。そして,その「商売」感覚が,昔と今とでは相当に異なっているのだ。マイペースにお金を稼げるマルクス業界は,もうどこにもないからである。

 そんなわけで,本書はもはや一つの歴史であるが,どうしても,時代を超えて,いまこうす「べきだ」と言いたくところがひとつだけある。それは,岩波版『資本論』の翻訳について,向坂逸郎と岩波書店が岡崎氏にとった態度についてである。文庫版第2分冊以降をほとんど岡崎氏に訳させ,共訳とするはずの約束を「下訳」扱いして自分の単独訳とし,印税だけ折半するなどという行為が,なぜまかり通ったのか。マルクス業界にも,なぜこのような親分・子分関係が存在したのか。もちろん,このことも本書の他の内容とともに歴史として扱うべきかもしれない。しかし,岩波書店は,この出来事をなかったかのように扱い,『資本論』を向坂の単独訳として,今なお販売し続けているのである。それは,現在の問題として改めるべきであろうと,私は思う。



2023年1月3日火曜日

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年を読む

 萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。新装版だの豪華特典付き××版だのは基本的に買わないのだが,これは例外中の例外で購入した。エッセイやインタビューが付け加えられているからだ。

 私は,この作品について以前から知りたいことがあった。それは,原作になくマンガにのみある部分は,どういうルールの下で誰が創作したのかということだ。今回,「萩尾望都に聞く「SF100の質問」」で,エルカシアの巫女ユメは萩尾先生の創作であったことはわかった。また,これまで読んだものの中に,光瀬先生がマンガのストーリーに介入された形跡がないので,おそらくマンガにのみある部分は,萩尾先生の創作によるものなのだろう。

 大きな展開での違いを見ると,原作では都市ZEN-ZENはアスタータ50にあって,そこの首席はユダではないが,マンガではゼン・ゼン市は別の場所にあり,そこの首席は惑星開発委員会のマインド・コントロールを受けたユダだ。原作ではアスタータ50から最後の目的地に一気にジャンプするが,漫画ではゼン・ゼン市から一度トバツ・シティーへ移動し,弥勒像の口からアスタータ50へとジャンプ,それから最後の場所に向かう。

 私にとって気になるのは登場人物の方で,当然かもしれないが漫画の方が阿修羅王もオリオナエもシッタータも表情が多面的で豊かであり,また重要なセリフも付け加えられている。

 阿修羅王の「私は相手が何者であろうと戦ってやる。この 私の住む世界を滅ぼそうとするものがあるなら,それが神であろうと戦ってやる」というセリフ,オリオナエの「わしはアトランティスの生き残りだ」「神と信じあがめていたものが我々に与えた裁きを忘れないぞ」というセリフは,原作にないものだ。また,原作では阿修羅王の幻覚の中でしか活躍しない帝釈天が,漫画では阿修羅王に対峙するトバツ・シティの軍事指導者として現れる。破滅を運命として受け入れる者の代表として。しかし,戦い続ける阿修羅王に関心を寄せるものとして。「あの極光の下に阿修羅王がいる。阿修羅王……が……。美しいものであろう,太子。あれの心のように微妙に移り変わる……」。しかし,阿修羅王は決して戦いをあきらめない。首を振って言う。「あなたは老いた,帝釈天」。帝釈天は言う。「勝てるのか!神と戦って!シと戦って!あなたはおのれの死と戦って勝てるか!」。その表情は悲しげに変わる。「…もう戦うことをやめぬか,阿修羅。おまえは勝てない…勝つことはできないのだ。」。阿修羅王の右目を涙がつたう。これらも,みな原作にないものだ。

 しかし,こうした原作にない部分が私にとっては印象深く,原作よりも漫画の方を繰り返し読む理由になった。10-20代の頃には阿修羅王がこの上なく美しく見えたし,いまでは帝釈天の阿修羅へのまなざしも,わかりたくはないがわかるような気がする。

 今回も直接には謎は明かされなかったが,おそらくこれらの部分も萩尾先生が創作されたのだと思われる。複数のインタビューや今回のQ&Aからは,萩尾先生の興福寺阿修羅王像に対する思いがとても深いものであることがわかる。「あの像の中にすべてが収まっていますね。運命も。宇宙も。永遠も」。「あのお顔と身体がなかったら,あの阿修羅は生まれませんでした」。数々の追加シーンも,先生の阿修羅王への思いの産物であり,それが他の登場人物にも反射したものだったのであろう。

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。




2022年5月1日日曜日

夜の世界から来た怪物くん:藤子不二雄A先生の訃報に接しての投稿

 私は1964年生まれですが,自分にとって藤子不二雄A先生の独自作と言えば『怪物くん』です。もっとも,幼少の頃はF先生とA先生が別々の作品を描かれていたことにはまったく気づきませんでした。『怪物くん』のストーリーや登場人物は,『オバケのQ太郎』ほどには覚えていないのですがが,キングコミックス版10巻も持っていたし,1968-69年放映の白黒アニメも見ていました。放映が日曜日だったのが重要なところで,当時わが家にはテレビがなかったのですが,祖母と伯母が暮らす家にはありました。日曜日の夜は家族が祖母の家に集まる習慣があったので,『怪物くん』は無理なく見ることができたのです(この頃,私が他の番組を隣の家に入り浸って見るので,両親はまずいと思い,やがて泣く泣く白黒テレビを買いました)。解説は淀川長治さんで,「サヨナラ,サヨナラ,サヨナラ」もこの番組で覚えました。スポンサーは不二家で「不二家,不二家,でーはまた来週」というエンディングが楽しく,私はむやみにメロディチョコやペンシルチョコを両親にねだりました(パラソルチョコは傘の柄に当たる芯があって食べにくいのと,ペンシルチョコより小さいような気がしてあまり好みませんでした)。

 『怪物くん』のイメージは「夜」でした。そこが決定的に『オバQ』と違っていました。そもそもマンガ版第1話のタイトルは「怪物くんたちが来た夜」でしたし,重要な話には夜のシーンが多くありました。怪物くんはとにかく,ドラキュラや狼男やフランケンが昼間おおっぴらに出歩けないという事情もあったでしょう。怪物たちは夜に忍び出て来て,怪しげに行動するのでした。怪物くんたちの国に向かう超特急モンスター号も深夜0時に出発しました。背景ばかりでなく,人物もベタ塗りがきつく,日常から闇へのつながりを連想させました。のちにカラーアニメになると,かえってなじめない気持ちが起こったのも,『オバQ』とちがうところでした。

 オバQは,太陽の光が降り注ぐ雲の上の国からやって来ました。怪物くんは,異形の者たちがうごめく夜の世界からやって来ました。世界は光ばかりだけでなく闇からもできていました。そして,どちらも私のすぐそばにある世界であり,どちらにも友達はいると,幼い私は信じたのです。

 さようなら,藤子不二雄A先生。『怪物くん』と会わせてくれて,ありがとうございました。

2022年4月11日Facebook投稿に加筆。

「藤子不二雄Aさん死去、88歳 「怪物くん」「忍者ハットリくん」」朝日新聞DIGITAL,2022年4月7日。



『ウルトラマンタロウ』第1話と最終回の謎

  『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないこと...