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2024年11月8日金曜日

ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。

 会田弘継氏が『破綻するアメリカ』岩波書店,2017年から『それでもなぜ,トランプは支持されるのか』東洋経済新報社,2024年まで訴えてこられたことを私なりにまとめるならば,トランプ台頭の客観的背景はアメリカにおける資産・所得の絶望的な格差拡大であり,格差の下方に追いやられた人々が民主党に絶望したことであった。そこに対して,長年,財政均衡,金融引き締め派であった共和党を,財政拡張・金融緩和論に逆転させ,またMake America Great Againで豊かな白人中間層再建を最優先とする政策を,種々の差別,マッチョイズム,反エリート主義のイデオロギーに乗せたトランプとその取り巻きが,主体的に働きかけたのである。

 経済政策と党派という角度から単純化して言えば,経済的地位が転落した人々,とくに白人男性が民主党でなく共和党につき,共和党が財政・金融緊縮派から拡張派に転換したことが,トランプ台頭時代の特徴である。

 そこまでは分かる。謎なのはバーナムである。会田氏の上記二著や論文「ジェームズ・バーナム思想とトランプ現象」『アメリカ研究』52,アメリカ学会,2018年5月によれば,バーナム『経営者革命』(原書1941年,武山泰雄訳,東洋経済新報社,1965年)の予言が,エリート支配の文脈で保守的政治思想の世界で復権させられたのだとという。一体,どういうことか。

 身もふたもない言い方ができる可能性はある。エリート支配,階級分裂,貧富の格差を右から批判する潮流が,自分たちには使いようがないマルクス主義や左派思想の代わりに,バーナムを利用したのかもしれない。

 しかし,結論を急がないようにしよう。経済・経営学者としては,バーナムのそのような活用が妥当なのか,そこに落とし穴や見落としはないのかということを理論的に考えていきたい。

 第一に,バーナムの経営者革命論は経営者というよりテクノクラートによるエリート支配をペシミスティックに予言したが,その後発展した経営学の経営者革命論はどちらかと言えばホワイトカラー主導の安定した社会をオプティミスティックに描いたということである。バーナムは,資本主義でも社会主義でもなく,管理能力を基礎にしたエリート支配が到来すると予言した。元トロツキストらしい着眼点とも言える。しかし,経営学の世界では,経営者革命論は,高生産性と高所得,ホワイトカラー職務の拡大・多様化と,それによる安定的雇用とキャリア形成を保証するものと受け取られた。それが経営史の強力なパラダイムとなったアルフレッド・D・チャンドラー Jr.『経営者の時代』(原書1977年,鳥羽欽一郎・小林袈裟治訳,東洋経済新報社,1979年)の「見える手」の理論である。チャンドラーはバーナムを自身の理論形成のヒントとしたことを明言している。またジョン・ケネス・ガルブレイス『新しい産業国家』(原著1967年,都留重人監訳,河出書房,1968年)は,社会に対しては批評的姿勢を崩さなかったものの,大企業については技術発展を体現するものとしたし,その具体的担い手としてテクノクラートとそれが形成する構造としてのテクノストラクチュアの生産性を高く評価した。ホワイトカラーの世界の経営者革命論は,ブルーカラーの世界のフォーディズムとともに,20世紀アメリカ資本主義の繁栄を描写する思想・理論となったのである。現代の保守派は,バーナム理論の構造に即した活用よりも,価値判断だけの引用に走っていないだろうか。

 第二に,バーナムにせよチャンドラーにせよガルブレイスにせよ,経営者革命論であって産業資本家論や株主支配論や金融資本主義論ではなかった。しかしアメリカの現実は経営者革命,つまりテクノクラート支配という一面だけを持っているのではない。それはむしろ1970年代の話であり,以後は株主反革命,株式ファイナンスによるハイテク産業創出,金融市場の肥大化の時代とされている。一方においてITプラットフォームを利用した大企業支配があり,株式保有を通した少数のハイテク資本家支配が復権している。他方において,金融資産を保有すればするほどさらに蓄積できる,金融機関と金融資産家の世界が存在する。トマ・ピケティ『21世紀の資本』(原著2013年,山形浩生ほか訳,みすず書房,2014年)が明らかにしたように,アメリカの資産保有者は,確かに専門家として高額の労働所得も得ているが,異常に高額の経営者報酬をも得ており,これは偽装された資本所得と言ってよい。そして労働所得を上回る資本所得を得ており,その多くはキャピタル・ゲインなのである。現代のエリート支配はテクノクラート支配であると同時に株主産業資本家支配であり,また金融資産家支配でもある。保守派はバーナムを利用することで,株主資本主義と金融資本主義による格差から人々の目をそらしてはいないだろうか。エリートを批判するのに不動産資本家トランプがボスであって,ハイテク資本家イーロン・マスクが味方でよいのだろうか。

 これらは漠然とした問題提起に過ぎない。30年以上前に読んだきりのバーナム『経営者革命』を書棚から出した。今後,テキストに即して確かめていく必要がある。トランプの背後でバーナムが政治思想として復権した今,その理論を経済・経営学の見地から再検討することも意味があるだろう。




2023年10月27日金曜日

「同一価値労働同一賃金」を実現するための法改正について:共産党と立憲民主党の提案を手掛かりに

  2023年10月,共産党が「非正規ワーカー待遇改善法案」(骨子)を発表した。論点ごとにどの法律を改正しなければならないかを列挙しているので具体的である。また,立憲民主党は2020年11月に「同一価値労働同一賃金」法案を衆議院に提出している。野党から均等待遇に向けた具体案が出ていることは望ましい。

 ここでは,処遇の根幹である賃金において,正規・非正規の格差をどう是正するか,とくに法的措置としては何ができるかについて,両党の提案を手掛かりに検討したい。

 共産党の法案骨子は「『同一価値労働同一賃金』『均等待遇』の具体化を法律に明記します」「企業の恣意的な判断ではなく,客観的基準に基づいて評価し,非正規雇用を理由とする賃金・労働条件の差別を禁止します」と宣言している。もっともなことであるが,問題は,どのような「客観的基準」を設定するかである。他の論点に比べると,共産党の提案はここのところで具体性を欠いている。

 他方,2020年の立憲民主党法案は正規と非正規の待遇格差の合理性に関する挙証責任を使用者側に求めること,すでに起こった訴訟を踏まえて賞与・退職金の格差是正の規定を盛り込むこと,また複数個所(正規・非正規の待遇差の説明義務と,派遣労働者と通常労働者の処遇に不合理な差を付けないために考慮すべき要因)で「職務の価値の評価等を踏まえた」場合に言及していること,基本給・賞与・退職金が賃金の後払いまたは継続的な勤務に対する功労報償の性質を持つ場合については,他の性質を持つ部分とわけて扱うことを求めている。これは具体的な格差是正基準に迫ったものである。

 立憲民主党法案が,この間に起こった様々な正規・非正規格差に関する訴訟を踏まえ,「継続的な勤務に対する功労報償」を他の部分と区分せよという着眼点を入れたことは,理論的には鋭い。しかし,この区分を実務的に行うこと,つまり基本給や賞与や退職金について年功的部分と他の部分を分離することはかなり難しいだろう。実施するなら手法開発が必要である。また,職務の価値の評価という,格差を是正するためのまぎれのない視点に注目しながら,それを考慮すべき要因にとどめてしまっており,これも実務的に具体化することは難しい。既に法にある「職務の内容」規定に溶け込んで独自の意味を持たなくなってしまう恐れがある。

 日本において,正規雇用労働者の賃金は,何に基づくか不明だが勤続とともに昇給する漠然とした「基本給」と,職務遂行能力に基づく「職能給」を中心に置いていることが多い。これは,年功的基本給と職能給は,人の特性を基礎にしたメンバーシップ型雇用の賃金である。ところが非正規雇用労働者はおおざっぱな職務給であり,適切に職務を評価されていない。差別的に切り下げられたジョブ型雇用の賃金である。このままでは両者のものさしがまったく異なっていて,客観的基準に基づいた格差是正ができようもない。「働き方改革」の目玉であった正規・非正規の不合理な格差是正がなかなか進まないのも,ここに原因がある。

 是正のために,理論的妥当性を実務的実行可能性を両立させる措置を考えた。

*案1)企業には就業規則の一部として賃金表作成を義務付けるとともに(ない会社もあるのだ。驚くべきことだが),正規・非正規間で賃金の主要部分について賃金形態と賃金表を統一する。つまり,非正規労働者も正規労働者の給与表を用いて,そのどのランクに該当するかに基づいて賃金を支給する。これで少しは客観的な基準が生まれる。ただし,これは公務員や独立行政法人の少なくとも一部ではすでに実施されていて,それで問題が解決した様子もないので,部分的な効果しかない。

*案2)案1に加えて,賃金のうちとくに「職務の価値と職務の成果に基づく部分」については,職務評価を義務付ける。職務評価に関する規程を就業規則の一部分として作成必須とすればよいので,法的にはそれほど複雑ではない。

 職務評価とは,簡単に言えば,職務を分析し,諸要因(技術難易度,資格必要度,肉体負荷度,精神負荷度,責任度,安全衛生リスク,業績への貢献度等々)に基づいてランク付けし,ランクごとの賃率を決める,というものである。職務の価値をもとに,それについて成果を達成した場合の賃率も決められる。まちがってはならないのは,人ではなく,職務(job)の方をランク付けするのである。本来,産業別の統一基準が欲しいところだが,すぐにはできないし,法的義務になじまない。よって法的には各社ごとの職務評価でよいこととし,その適切性について要件を定める。

 やや専門的な論点が二つある。一つは,職務給は成果を評価できないのではないかという疑問がみられることである。これは単なる誤解である。職務価値に基づいて職務の成果についても賃率が付けられる。成果給とは職務の成果給なのであり,むしろそうしてこそ成果の評価にそれなりのものさしがうまれる。

 もう一つの論点は,厳密な意味での職務評価,すなわち個々の職務の価値・その成果を評価するものでなければならないか,すでに大企業が正社員にある程度取り入れている「役割」評価でもよいかということである。「役割」「行動特性」評価は職務の評価と人の能力評価の中間になるので,客観性担保のためには職務評価としたいところだが,実行可能性を踏まえ,また職務内容が流動的な場合も踏まえると,「役割」評価的なものは許容せざるを得ないだろう。ただし,ぼんやりとした行動特性ではなく,職務に即し,職務を果たすために必要な役割に限定する必要がある。

 なお,職務評価の導入は企業にはそれなりの負担となるので,中小企業に何らかの公的支援をつけるのがよいだろう。

 これにより,賃金体系の一部または全部について,端的に職務ランクと賃率が「A:時給○○円」「B:時給△△円」などと,同一基準で正規についても非正規についても定まっている状態を生み出すことができる。就いている職務がAランクならば,正規だろうと非正規だろうと,まだ性別が何であろうと,年齢が何才だろうと,職務給は○○円×労働時間だけ支給されるのであり,この部分については差別はなくなる。「同じ仕事をしているのに非正規の方が給料が安い」という問題を大幅に改善できる。

 もちろん,これでも問題は残る。そもそも就いている仕事そのものの格差による賃金格差はなくせず,これは職務給が一般的なアメリカの現実である。ただし,その差の根拠は客観化されるので,身分的な説明のない差別的格差は緩和できる。また,会社は正規労働者だけに勤続に基づく給与部分を残すであろうから,その部分では非正規との格差が生じる。これは,立憲民主党法案の考え方を,より具体化する手法を開発して変えていく必要がある。

 これによって,正規・非正規ともに「職務の価値と職務の成果に基づく部分」についてはまったく同一の基準によって賃金が支給されることになり,差別は法的に禁止される。この方策が「同一価値労働同一賃金」原則の直接的な具体化策であることは言うまでもない。

 いったんこの制度ができれば,職務評価を公正にするために,労働団体,コンサル,使用者団体がそれぞれに工夫し,ナショナルな,まだ産業別の基準が形成されていくことが期待できる。それによって,会社の枠を超えて,賃金の在り方を社会的なこととして議論し,改善していく動きが強まるだろう。

 以上が,「同一価値労働同一賃金」を,実行可能な形態で具体化するための私の提案である。

「『非正規ワーカー待遇改善法』の提案」『しんぶん赤旗』2023年10月21日。

「賞与・退職金等に係る正規・非正規労働者の待遇格差を是正、 同一価値労働同一賃金法案を衆院に提出」立憲民主党,2020年11月13日。


2022年12月29日木曜日

日経金融PLUSの「デジタル円」論と対話する:「預金先行説」でなく「貸付先行説」で考えよう

 日経金融PLUSの「デジタル円」論だが,多くの論者が陥るのと同じ誤解をしていると思う。一つ一つ対話してみたい。


記事:
「CBDCは銀行預金を駆逐してしまう可能性がある。マネーは大きく預金と現金にわけられる。CBDCは基本的に現金をデジタルに置き換えるものだ。預金は銀行が破綻してしまうと手元に戻ってこない可能性があるが、現金は基本的に手元に残る。CBDCはスマホの中にある現金のようなもので、預金と違って原則的に消失リスクはない。そうなると、生活者はマネーを銀行預金から安全性の高いCBDCに置き換えていくだろう。」

コメント:
 使い勝手の良いCBDC=デジタル円ができれば,銀行預金が減ってデジタル円をスマホ等の中で持つ人が増える。その見通しには私も賛成だが,理由が少しずれている。デジタル円ができたとしても,人はそうしょっちゅう銀行の破綻を心配するわけではない。しかし,銀行の破綻が心配ないとしてもデジタル円の方が便利になる理由がある。それは,口座振り込みよりも,デジタル現金取引の方が便利になった場合である。もし口座振り込みにイノベーションがなく,現金がデジタル円になれば,人はみなスマホ操作でデジタル円を送金して取引するだろう。当座性預金を保持し続ける理由がない。企業の当座預金は利子がつかないし,個人の普通預金の利子も雀の涙だからである。これが,預金が流出する主な理由である。
 銀行がこれを防止したければ,口座振り込みをデジタル円並みに便利にするしかない。つまり,いまのデビットカードとネットバンキングの使い勝手を良くし,銀行を超えて手数料なしで支払いできるようにすればよいのである。これが銀行の課題となる。


記事:
「みえてくるのは、デジタル円を使って決済・送金サービスに特化する「ナローバンク」の誕生だ。CBDCの最大の利点は、安全・安価にスピード決済できることにある。」

コメント:
 デジタル円=デジタル現金と預金通貨が混同されている。預金が流出した場合に起こることは,決済がデジタル円で,個人や企業によって,銀行を介在せずに,スマホとスマホの間で行われるようになるということである。札束の持ち運びが要らない,現金取引のデジタル版である。
 だから,銀行からは決済・送金サービスが真っ先に流出する。銀行が「デジタル円を使って決済・送金サービス」をする必要そのものが失われるのである。繰り返すが,銀行がこれを防ぎたければ,口座振替をデジタル円よりも便利にするしかない。


記事:
「一方で多くの商業銀行は預金を徐々に失い、経済成長を支えてきた預貸ビジネスも見直しが必要になる。商業銀行は預金を集めるのではなく、市場で資金を直接調達して、それを元手に融資するようなノンバンクに近い形態になっていく可能性もある。CBDCが銀行システムの劇薬になりうるのはそのためだ。」

コメント:

 預金を集めなければ貯貸ビジネスができないというところがおかしい。商業銀行が預金を集めるとか,市場で資金を直接調達するというが,それは現金が大量に流通しているか,あるいは自行以外が預金を持っているから可能なことである。では,そもそも流通している現金や預金通貨とはどこから来たものなのか。金本位制であれば結局金鉱から金貨が来るように,現金や預金もどこからか来たはずである。
 その答えは,預金はどこかの銀行がどこかの企業,まれには個人に貸し付けた時に生まれたのであり,現金は,誰かが預金をおろした時に発行されたのである。まず預金が預けられ,銀行がそれをもとに貸し付けるのではない。銀行が貸し付ける時に預金も生まれるのである。預金とは銀行の手形であり,銀行貸付とは,「うちの手形は通貨として使えるほど信用があるので,これで貸してあげる」という行為なのである。この時,預金は必要ないが,もちろん,預金の現金引き出しや,他行への送金による引き出しや,貸し倒れリスクに備えた準備金は必要である。それは,準備預金=中央銀行当座預金を持つことによって確保される。そして,中央銀行当座預金もどこで生まれるかと言えば,中央銀行が銀行に与信することによって生まれるのである。
 だから,社会全体としては預貸ビジネスは決してなくならない。なくなったら通貨が供給できず,経済は成り立たないし,おろすべき預金がなければデジタル円も存在できない。銀行が企業に貸し付けることによって預金通貨が供給されるのは,デジタル円ができても同じなのである。違うのは,デジタル円が便利であるために,いったん供給された預金が,早期に大量に引き出されてデジタル円に変わるということである。
 預金が引き出される時,銀行は中央銀行当座預金を引き出してデジタル円を確保しなければならない。だから,資産側で準備預金が減り,負債側で預金が減る。このことは,銀行の貸し出し能力を制約する。社会全体で多くの銀行にこれが生じるが,程度は銀行によってさまざまであろう。預金流出に耐えられるような規模の大きい銀行,あるいはデジタル円に対抗できる口座振替サービス,さらにそれ以外の金融サービスを提供できて預金を保持してもらえる銀行には競争力があるが,それ以外にはないというように銀行間格差が広がる。これが実際に起こり得ることである。
 このとき,市場性資金を集めざるを得ない銀行は確かに発生する。しかし,それは,集めた資金を元手に融資するためではない。貸付自体は信用創造でできるのであって,必要なのは準備金である。準備金について日銀からの与信が制約された場合に,市場からの資金取り込みに依存することになるのである。また預貸ビジネスで劣後した場合に,市場性資金を取り込んで自ら証券市場等で運用すると言ったハイリスク・ハイリターンの行為に走ることになるのである。


記事:
「商業銀行とナローバンクへの銀行ビジネスの二分化は、それでも検討に値する。利点は金融システムリスクを和らげる効果だろう。」「CBDCを本格導入すれば銀行機能の二分化は避けられない。」

コメント:
 結論として,起こるのは商業銀行とナローバンクへの二分化ではない。銀行間の収益力格差による淘汰である。


 以上のように,この記事は多くの点で誤っているのだが,それでも有意義なことがある。それは,理論的根拠があって誤っているために,理論的示唆が得られるということである。この記事は,「銀行は,預金を受け入れて,それを原資に貸し付ける」という,多くの経済学者が採用している「預金先行説」に基づいており,それ故に誤っている。そのため,「預金先行説」を逆転させ,「銀行は,貸し付ける際に預金という自己宛て手形を創造する」という「貸付先行説」にすれば,整合的な予想が成り立つのである。この記事は,誤っている記述を通して,「預金先行説」の問題と,「貸付先行説」による現実理解や将来予測の必要性を示してくれているのである。

「デジタル円」は良薬か劇薬か 銀行システム、二分化へ(金融PLUS 金融部長 河浪武史)日本経済新聞,2022年12月12日。


2022年6月16日木曜日

「インフレか失業か」という金融政策の限界について

 金融政策では,景気過熱によるディマンドプルインフレに対して利上げで対抗する。それは中央銀行にとって,できることはそれしかないという点ではもっともだ。しかし,この政策がマクロ経済に対して果たす客観的役割は,失業率を高めて労働市場にバッファを作り出すことで,インフレを鎮めるというものである。インフレを更新させない程度の失業率を,マクロ経済学者は「自然失業率」と呼び,失業率を下げられる下限とする。言い換えれば,「完全雇用」と言っても失業率を下げられるのはせいぜい「自然失業率」までであり,それ以上下げようとしても下がらずにインフレだけ起こると言っているのだ。

 しかし,実際の労働市場はあちこちに移動障壁や独占や情報の非対称性や差別が存在するものであり,どの集団や地域も均一に「自然失業率」が生じることなどない。

 たとえば2022年6月16日付けロイターのコラムで,コラムニストのGina ChonはFRBが利上げを行っているアメリカの状況について,以下のように書いている。
「(FRBが--引用者)前のめりの利上げに乗り出した今、これらの労働者は再び見捨てられる危険が出てきている。5月の黒人の失業率は6.2%と、全体の3.6%や白人の3.2%を大きく上回った。そしてFRBの最新見通しに基づけば、失業率自体も今後数年で上昇してしまう。さらに先のニューヨーク連銀調査を見ると、学歴が高卒以下の人々の間でこれから借金を期限通り返済できなくなるとの見通しが強まった。このように全体から置いて行かれたままになる人たちをどう支援するのが最善かを決めるのは、もはや中央銀行当局者ではなく、政治家の仕事になっていくだろう。」

 「自然失業率」と呼ばれているものは実際には自然でもなんでもなく,現在の経済構造を与えられたもの,動かせないものとした場合に成立するものに過ぎない。このコラムの筆者が言う通り,そこに生じる理不尽な格差は,中央銀行ではなく政治の課題である。

 やっかいなのは,現在(2022年6月)のアメリカのようにすでにディマンドプルインフレが加速している時,まして現在のように輸入物価によるコストプッシュも同時に発生している時には,格差是正の措置を財政赤字拡大によって行うことが困難だということである。それは再分配や雇用制度・慣行の改革によって行わねばならない。もっと一ひねりした方法としては,MMTが主張するように,公的セクターが最低賃金で失業者を無制限で雇うという道もある。これなら財政赤字を拡張しながらでも賃金インフレは抑えられるが,実際上の課題が多い(最低賃金への不満の矛先が政府に向かうであろうことと,無制限で雇い入れた政府が有効な事業を創造できるかということが主な問題だ)。

 弱者を対象とした上に再分配を行うという,格差是正の政治的障壁は低くはない。しかし,そこに立ち向かわなければ,マクロ経済政策は「インフレなき完全雇用」を達成することは出来ず,弱者から先に失業させることでインフレを鎮めるという,上出来とはいいがたい方法に頼り続けることになるだろう。

参照
Gina Chon「コラム:FRBの「柔軟な物価目標」、わずか2年で自ら幕引き」REUTERS,2022年6月16日。



2022年4月9日土曜日

累進課税の強化としての負の所得税を:ベーシック・インカムと社会保障の「あれか,これか」の話とは別に

 『東京新聞』2022年4月6日付の 「『これが福祉なのか...』困窮者への特例貸付で破産連絡700件超 コロナ禍で大量申請、支援現場に葛藤」という記事を読んで。 

 生活困窮対策として緊急対策を改善することも必要であるが,恒常的な対策が必要だ。私は,所得税の累進課税を拡充し,非課税世帯には「マイナスの所得税」を導入する減税が適切と思う。所得が一定以下であれば,低いほど高率の給付金を受け取れる。ある所得で給付・課税ともゼロになり,それ以上は現行のような累進課税とする。

 緊急小口資金や総合支援資金は効果を上げていると思うが,返済問題が大きい。給付金の提案は,肝心の低所得者に届かない提案や,焼け石に水的金額の提案がなされていて,効果的でない。所得に応じた,権利としての恒常的給付を,所得の証明のみでそれ以上の手間ひまなく実施する,恒常的制度にすべきだ。税制改革として行うのが,時間は多少かかるけれど一番安定する。

 そして,マイナスの所得税は,「税制の改善,累進課税による所得再分配の強化」として,他の施策とは独立に,プラスアルファとして行うべきである。「社会保障制度の代わりにベーシック・インカムを実施する」というトレードオフの議論に迷い込むべきではない。




2021年12月14日火曜日

小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い

  小幡績教授のMMT批判の論稿が出たが,どうも誤解が多い。私もMMT(現代貨幣理論)を理解し,自分が若い頃に学んだ信用貨幣論とすり合わせるのに1年かかったが,小幡教授ももう少し虚心坦懐にMMTの言い分を聞かれてはどうか。

 小幡教授によればMMTの政策には三つの害悪があるそうだ。

「第1に、財政支出の中身がどうであっても、気にしない。
 第2に、金融市場が大混乱しても、気にしない 。
 第3に、インフレが起きにくい経済においては、その破壊的被害を極限まで大きくする。」

 一つずつ検討しよう。

 1番目。MMTが「財政支出の中身がどうであっても、気にしない」というのはまったくの誤解である。MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,成長率は金利を上回っていなければならない,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。その意味でMMTは小幡教授の主張される「ワイズスペンディング(賢い支出)が必要である」という議論なのである。

 小幡教授は「MMTがインフレ率だけを頼りに財政支出の規模を決めることが誤っている」とも言われるが,MMTにとって財政支出の歯止めはインフレだけではない。まず,雇用増加に貢献するように支出することが大前提であり,その上でインフレ,バブル,為替レートの急落によって財政膨張をチェックするのである。なぜバブルによってもチェックするかと言うと,バブルと言うのは,財政支出で投入した通貨が有効需要に結びつかず,キャピタルゲインを求めて金融的流通を繰り返すことだからである。また為替レート急落に注意するのは,レート急落がインフレとパラレルだからであり,また対外債務の支払いを困難にするからである。MMTが,「国債が自国通貨建てならデフォルトしない」と主張していることはよく知られているが,裏返すと,「外貨建てであればデフォルトし得るから気を付けろ」と言っているのである。

 2番目。小幡教授はMMTにしたがえば「大規模な財政支出により、民間投資が大幅に縮小する、という典型的なクラウディングアウト(英語の元は「押し出す」の意味)を起こす」「投資資金は限られており、金利という価格による需給調節が効かなくても、政府セクターに取られてしまえば、リスク資金は民間へ回ってこない」と言う。しかし,まさにそうした考えが理論的に間違いだとMMTは主張しているのである。財政支出はカネのクラウディングアウト,つまり民間投資資金の押しのけと金利高騰を起こさない。なぜならば,財政支出とは,統合政府が新たに通貨発行量を増加させて支出することだからである。財政赤字を出して支出するたびに通貨供給量も同じ額だけ増えるので,金融はひっ迫しないのである(※1)。

 もっとも,財政支出が一方的に膨張すると,モノやヒトのクラウディング・アウト,つまり機械設備や原材料や人材が公共部門と民間投資とで奪い合いになることはあり得る。その帰結は悪性インフレである。MMTは財政膨張は金利は高騰させないが悪性インフレは起こし得るとして,だからこそインフレに警戒しているのである(※2)。これを避けるためには,財政支出が,なによりも遊休している労働力の稼働に用いられるとともに,利用可能な経済的資源の着実な増大につながる必要がある。

 3番目。小幡教授はMMTでは「インフレが起こりにくい経済においては、財政支出の歯止めが効かないからである。その結果、とことん、経済が破滅的におかしくなるまで、財政支出は拡大され続けるのである」と言われる。しかし,既にみたように,MMTはそんな放漫財政を奨励するものではない。雇用を増大させない支出はすべきではないとし,インフレのみならずバブルをも基準として財政膨張をチェックするのである。

 以上で紹介したMMTの主張は,例えばL・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社,2019年)で懇切丁寧に説明されている。小幡教授は「これ以上、MMT理論を批判する必要はない。もうたくさんだ」と言っているが,全否定する前に,もう少し相手の言い分に耳を傾けてはいかがだろうか。

※1 具体的にカネの流れがどうなるかは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日を参照して欲しい。


※2 詳しくは拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。

小幡績「日本では絶対に危険な「MMT」をやってはいけない:MMTの「4つの誤り」と「3つの害悪」とは何か」東洋経済ONLINE,2021年12月13日。 

+2021年12月17日。「成長率は金利を上回っていなければならない」を追記。

+2022年4月30日追記。コメントをもとに成長率と金利に関して再考したが,やはり「成長率は金利を上回っていなければならない」という記述はない方がよいと考えるに至った。財政運営の観点から具体的に問題になるのは,マクロ指標としての成長率と金利(たとえば名目成長率と長期金利)ではなく,より具体的な税収増加率と利払い費増加率の関係である。後者は長期金利の影響をまともに受けるが,税収増加率は課税のあり方によって相当な幅がある。また,所得に占める税の比率が変化することもありうる。なので,成長率が金利を下回ると債務比率が発散する,とまで定式化することは適切でないと考えた。

2021年11月12日金曜日

第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」動画できました

 第73回東北大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか:持続可能なしくみを求めて」(2021年11月6日)動画できました。最初の方は同じ画面が続きますが,5:23付近から始まります。

※2023年7月9日。リンク修正しました。

リンク
https://www.youtube.com/watch?v=GeE6_lIjFbw







2021年11月5日金曜日

大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」11月6日13:30YouTube Live配信です。

 明日11月6日の大学祭模擬講義「日本の雇用はどう変わるか」YouTube Live配信は13時30分よりこちらのサイトからの模様。スライドもダウンロードできます。

https://www.festa-tohoku.org/?page_id=1964

11月13日追記。模擬講義終了。録画された動画は以下で配信されています。

https://youtu.be/AKotBfeM5Zs





2021年11月4日木曜日

総選挙の結果について:経済政策はどうなるか。コロナ禍での経済的苦境は反映されたか

 経済政策の面から見ると,今回の総選挙で大きな意味を持つのは維新の躍進ではないかと思う。自民がさほど減らず,維新が躍進したことで,経済政策はより新自由主義=小さな政府路線に傾く可能性が高くなったからだ。実は自民党は,小泉内閣の時を除くと新自由主義一本やりではない。アベノミクスは超金融緩和路線であったし,安部・菅内閣ともコロナ禍では財政を拡張するよりなかった。それに比べると,維新の方がはるかに新自由主義だ。他の面はおいておいて,経済政策は維新の方が「右」なのだ。

 維新の躍進が経済政策への積極的支持を意味するとは断言できない。むしろ政治の次元で,あまりに実行力と説明がない自民党内閣に対する批判票を集めたのだろう。少し長い目で見ると,前回の選挙で希望の党に集まった保守二大政党への期待が維新に集まったともいえるかもしれない(※)。だが,少なくとも,維新の新自由主義路線は全体として有権者に拒否されなかった。年代別投票先の報道を見ると,維新は30-50代に支持されており,他の党が若年ほど支持される(自民,国民),高齢ほど支持される(立民,共産),どの年代も同じくらい(公明)であるのとはっきり異なっている。これは,ビジネスパースン層に支持されているとみてよいのではないか。ビジネスパースン層の相対的上層は,成長重視と自己責任論,行政の無駄排除を説く維新になじみやすいのだ。

 総裁選で分配重視,新自由主義からの転換を言った手前,岸田首相も給付金や子育て支援を口にせざるを得ない。景気がどの程度回復するかも政策を左右する。しかし,時間とともに,経済政策は財政の全体としての引き締め,大企業支援,個人生活の自己責任路線に傾くだろう。

 対する立民・共産・社民・れいわは,これに対抗する格差是正,社会的支え合い,経済のボトムアップ路線をはっきり掲げて政権交代まで訴えたが,全体として遠く及ばなかった。実は,2017年総選挙と比べると立民は伸びているので,少し長い目で見れば,格差是正を求める勢力が弱まっているわけではない。しかし,少なくとも強くもなっていない。立民はこの間,国民民主の多くを統合して議員を増やし,その上で経済政策を「左」へとシフトさせた。しかし,その勢力を維持できなかった。

 2017年と今回では,経済政策を考えるうえで大きく異なることがある。まず客観的にはコロナ禍に突入して,仕事と収入を失う人が増えたことだ。そして政党の側では,分配重視・格差是正をはっきり掲げて選挙に臨んだことだ。にもかかわらず,この政策が有権者の多数に届かなかったのだ。

 では,この格差是正路線を一番届けるべき人々,大まかにいうとコロナ禍で仕事と収入を失った非正規労働者や自営業者の投票行動はどうなっていたのか。両者で違いもあるだろう。自民や維新に多く投票したのか。それとも,投票しなかったのか。その理由は何か。残念ながら今の私にはわからない。しかし,このことの解明が,今後の政治を見通すうえで重要だ。なぜなら,遺憾ながら政治が転換しない限り格差と貧困は拡大し続け,それに苦しむ人の数は増えこそすれ,減りはしないからだ。格差是正勢力が学ぶべきこともここにあると,私は思う。

※今回の選挙だけ見れば「第三極」への期待なのだろうが,むしろ「保守の中で選択肢が欲しい」という期待であろうと私は思う。保守なのは変わらないが,自民党が失政続きの時は別のところに入れたいという人は少なからずいる。


2021年9月27日月曜日

「親ガチャ」の背後にある現実:ヒオカ氏の記事に寄せて

 「親ガチャ」をめぐる議論について,もっとも納得できたのは,シェア先のヒオカ氏のものだった。「人生の成果は、ベース×本人の努力だろう」(引用)という言葉を手掛かりに,私なりの表現に置換えて述べる。

 「ベース」には本人が選べない環境があり,そこにはマクロ的なものからミクロ的なものまであるが,それを,いつ,どこの,どんな家庭に生まれたかということに収斂させれば,今話題の「親ガチャ」という表現になる。

 戦後の日本では,1980年ごろまでは「ベース」で決まってしまう部分が縮小し,「本人の努力」や,生まれて以降の運で決まる部分が拡大していった。「ベース」自体が「本人の努力」を後押ししてくれたと言ってもよい。つまり社会の流動性が広がっていった。ある瞬間には階級や階層があるのだが,生きている間にその境目を望む方向に越えて行ったり,自分は無理でも次世代では越えることが可能であった。例えば農民の子どもが大企業のサラリーマンになって「旧中間階級」が次世代には「新中間階級」になることが増えて行った。

 ところが1980年代を境に所得と資産の格差が拡大しはじめ,しばらくすると,二つのことが目立ってきた。一つは,ある瞬間を見ても,「一億総中流」ではなく「新中間階級」「労働者階級」「アンダークラス」の差があると感じられるようになってしまったことだ。ホワイトカラーの管理職や専門職と,正規の販売員や工場労働者の所得は結局は違っていたし,非正規労働者が絶対的にも割合としても増えて行った。

 もっとも,非正規労働の問題は,最初は深刻と受け止められなかった。その主力は1980年代までは,夫と言う主要な稼ぎ手を家庭内に持つパート主婦だったからであり,また非正規労働が増えても完全失業者はさほど増えなかったからだ。しかし,1990年代以後,非正規の低い賃金で家計を切り盛りする層が徐々に拡大し,状況が違ってきていることが認識され始めた。明らかに好き好んでやっているわけではない,例えば普通の事務員や販売員やサービス員(なのに身分だけ非正規),中高年フリーター,シングルマザー,年金が少ない高齢者,といった非正規労働者が増えてきた。

 もう一つは,社会的流動性が弱まり,すくなくとも高資産・高所得が次世代も高資産・高所得とし,低資産・低所得が次世代も低資産・低所得にする関係が目立ってきたことだ。資産・所得により子どもにかける教育費用や教育意欲が異なるからだ。さらにはなはだしいことに,21世紀になるとアンダークラスは未婚率が高く,それ故に子どももつくらないという事実が明らかになった。日本は,格差や貧困が世代を越えない社会から,格差や貧困が再生産される社会に変わってしまったのだ。

 苦しい境遇を「ベース」が決める度合いが強まり,「本人の努力」で逆転できない場合が増えている。若者は,あるいは自分の家庭のから,また嫌でも入ってくる情報から,そう考えざるを得ない。これが「親ガチャ」と言う言葉の背景にある現実だろう。最後に再びヒオカ氏の表現を借りるならば,「環境のせいにするな」と説教してすむ状態ではない。必要なのは「自分の問題は自分だけの問題ではなく、環境の影響があって、社会問題なのだ」という認識を広げていくことだ。さもなくば,日本社会の分裂は広がる一方だろう。

※なお,本当にそこまで深刻なのかという方には,橋本健二教授の『アンダークラス』(ちくま新書,2018年)や,とくに氷河期世代にフォーカスした『アンダークラス2030:置き去りにされる「氷河期世代」』(毎日新聞出版,2020年)などで,具体的な数値にあたって確認されることをお勧めする。

シェア先

ヒオカ「「親ガチャ」論争で気になる上から目線、真に語るべき貧困再生産の深刻」DIAMOND ONLINE,2021年9月24日。

2021年8月3日火曜日

「目の前には資本主義しかない」:ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』は何を語るか

 ブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った:世界を制するシステムの未来』みすず書房,2021年。本書は,骨太な現代資本主義論であり,様々な角度から検討すべき論点を含んでいる。一度に整理できないので,何度かに分けてノートしたい。

 まず今回はタイトルについて。現代はCapitalism, Alone: The Future of the System That Rules the Worldである。このメインタイトルに「だけ残った」というニュアンスはあるのだろうか。「だけ残った」というのは,端的に「社会主義が消えて」ということのように思えるのだが,本書の趣旨は「残った」と言う「過去から現在へ」の視線ではないと思う。副題が示すように,「現在から未来へ」の視線で資本主義を捉えているのだ。直訳すれば「資本主義だけがある」であり,ニュアンスとしては「資本主義だけの世界」「資本主義しかない現実」「ただ資本主義だけが存在する、いま」ではなかろうか。

 われわれの目の前には資本主義しかない。なぜなら中国も資本主義だと著者は考えているからだ。資本主義の主要なタイプを著者は「リベラル能力資本主義」(liberal meritocratic capitalism)と「政治的資本主義」(political capitalism)に二分する。一方において,著者はいわゆる西側の資本主義国における従来の分類,たとえばアングロサクソン型,ライン型などの分類をとらず,アメリカを代表として欧米先進諸国はみなリベラル能力資本主義であるとする。さほど明確に述べていないが,日本もここに含まれるのだろう。他方において,著者は中国は資本主義であり,政治的資本主義の典型であると断言する。そして,シンガポール,ベトナム,ビルマ,ロシアとコーカサス諸国,中央アジア,エチオピア,アルジェリア,ルワンダにも政治的資本主義が存在するという。

 ここで著者は資本主義について独特な定義をしているのではなく,マルクスとヴェーバーによって,社会で生産の大半が民間所有の生産手段を用いて行われ,労働者の大半が賃金労働者であり,生産や価格設定についての決断の大半が分散化した形でなされているのが資本主義だというだけである。だから著者にとっては,アメリカも市場経済化した中国も資本主義なのだ。

 二つの資本主義には違いもある。リベラル能力資本主義は,古典的資本主義や社会民主主義的資本主義と区別されるものである。キャリアが才能ある者に開かれているという点で「能力主義」であり,社会的移動性が存在するという意味で「リベラル」とされる。しかし,リベラル能力資本主義は,資本主義一般と同じく不平等をもたらす傾向がある,その上二つの独自性,つまり資本所得の金持ちが労働所得の金持ちでもあること,金持ち同士が結婚することにより,いっそう不平等を強化するのだという。他方,政治的資本主義は,支配政党やイデオロギーがどうあれ資本主義である。ただし政治的資本主義は「優秀な官僚」「法の支配の欠如」「国家の自律性」というシステム的特徴を持つのだという。こちらにも不平等はあるが,システムに独自な問題はむしろ腐敗である。

 目の前には資本主義しかない。ただし,大きな違いを持つ二つのタイプの資本主義がある。そして,資本主義しかないことそれ自体はしばらく変わらないだろうが,二つのタイプの資本主義には,重点は違えどともに不平等と腐敗という問題があり,それぞれ独特の矛盾も存在する。二つの資本主義が,今後はどのような資本主義になるかは,いろいろな選択肢があり得る。ただし,資本主義とはいずれもエリート層が支配するものであるから,その変化とは,効率の良いものへの自動的変化ではない。エリート層が,あるいはその支配に対する他の人々が,自らの立場を貫徹しようとする選択と行動の結果である。

 以上は本書が描く大まかな世界像の紹介である。あえて言えば,邦題によって,とくに私を含む一定以上の年齢層の読者が「資本主義しかないよなあ,そうだよなあ,しかたないよなあ。社会主義って何だったんだろうなあ」という本だと思い込んでしまわないための紹介である(そういう話もあるがメインではない)。そうではなく「気がつけばどこを見てもおおむね二つの資本主義しかないんだけど,一体,これからどうしろというんだ」という本なのだ。だから面白い,と私は思う。もちろん,面白いということと,著者の分析に賛同するということは異なる。考察と評価は,他日を期したい。

https://www.msz.co.jp/book/detail/09003/

2022年8月4日追記:読み終えてのノート
「資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』最終章によせて」Ka-Bataブログ,2022年8月4日。






2021年3月30日火曜日

World Inequality DatabaseにみるG7諸国,日本,中国の所得集中(2013-2019年)

 「日本経済」講義準備。世界経済の動態と格差編。ピケティらのWorld Inequality Databaseを使った所得集中のグラフを更新。対象は個人の税引前所得。2年前に作図した後にデータが更新されており,日本の数値は WIDのチームが作成したMarc Jenmana; Rowaida Moshrif and Li Yang(2020),“Regional DINA update for Asia”にしたがっているようだ。

*日本の上位1%の高所得層(年収1392万円以上)への所得集中度は12.4%で,アメリカ,イギリス,ドイツ,カナダほどではなく,G7では5位。ちなみに中国は日本より高い。

*日本の上位10%高所得層への所得集中度は43.3%で,G7ではアメリカに次いで2位。ちなみに中国も日本より低い。

*今回は,下位50%のデータをとることができたのでグラフを追加。日本では年収が270万円以下の人々が成人個人の50%を占めており,その所得のシェアは19.5%に過ぎない。このシェアは1990年代以後,他の先進諸国とともに低下傾向にあり,G7諸国では4位。なお,G7諸国ではアメリカの極端な低さが目立つ。また中国は改革・開放の進行とともに急速にシェアが低下している。

 以前から指摘されているように,日本は1%集中度が低く,10%集中度が高い。そして上位10%とは最新のデータによると年収915万円以上であり,富裕層というほどではない。しかし,その水準に届かない個人が90%だということである。そして,今回確認できたのは,年収270万円以下の人々が全体の50%を占めていることだ。アメリカやイギリスと比べると,超富裕層に所得が集中する問題よりも,下位の低所得層の抱える困難の大きさという問題の比重が相対的に大きいことになる(※)。


※今回,データが2019年まで更新されたのは良いが,過去データもすべて見直された結果,1%や10%の閾値の数値は大きく変わっている。日本の上位1%の年収は,以前は2010年に2161万円以上とされていたが,最新データでは2010年に1193万円以上,2019年に1392万円以上と大幅に低下した。日本の上位10%の収入は,以前は2010年に960万円以上とされていたが,最新データでは2010年は789万円以上と大幅に減少し,2019年は915万円以上となった。なぜこんなに変動したのか,説明が欲しいところだ。

World Inequality Database
https://wid.world/





ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。  会田...