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2021年1月25日月曜日

次年度の学部ゼミテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年

 次年度の学部ゼミ最初のテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年とした。今年度は後藤先生の『アジア経済とは何か』と塩地洋・田中彰両先生編著の『東アジア優位産業』を読んだので,その流れに沿っての選書である。前年度にちゃんと勉強したはずの新4年生は新3年生をきちんとサポートせよ,という建前も成り立つ。

 今年度の反省点としては,「アジア」を論じるはずが,学生の思考が「日本とそれ以外」という風に向かってしまいがちだということだ。そして,「日本は高付加価値で高品質の分野に集中し……」という永遠の回転木馬に流れてしまう。いや,実際にそういうことが起こっている産業ではいいのだが,よくわからない,調べてないけど,こう言っておけばいいんだろ的になると問題である。

 その点,本書は「アジア化するアジア」「生産するアジア」「移動するアジア」「都市化するアジア」「老いていくアジア」といったように,「アジア」そのものが切り口になっていることを特徴としている。次年度は「他のアジア諸国に対する日本」でなく「アジア」を考えるために,本書の構成と切り口を活用させていただきたい。もちろんそれは,「アジア」の経済・社会がどこでも同じだという意味ではないし,本書もそんなことは書いていない。「アジア」は現実においてダイナミックな経済・社会変容の場であり,その変容を捉えるための思考の単位であろう。



2021年1月22日金曜日

中島裕喜『日本の電子部品産業:国際競争優位を生み出したもの』名古屋大学出版会,2019年を読んで

 中島裕喜『日本の電子部品産業:国際競争優位を生み出したもの』名古屋大学出版会,2019年。大きなところでは,1)戦後日本の電子部品産業において,戦前からのラジオ生産や戦時中の電波兵器製造で獲得した技術的能力が継承されていたこと,2)分野別の技術的イニシアチブは,戦後少なくとも1950年代まではセットメーカーよりも部品メーカーにあったこと,3)上記二つの事情もあって,当初は規格品の市販による供給が主流であり,やがて完成品メーカーとの長期相対取引によって特注品を供給する度合いが強まるが,それでも自動車部品産業ほどではなかったことが実証的に解明されていた。現状分析のところも「日本経済」講義の参考になるもので,本書で使用されている資料をさっそく注文した。個人的には,大阪・日本橋電気街の起源が出てくるのも楽しかった。日本のサプライヤー・システムを論じようとする研究者が,自動車部品産業の事例だけを見て一般化する誤りを避けるために読むべき本だ。



2021年1月6日水曜日

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年を読んで

 ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。原題もGerald A. Epstein, What's wrong with modern money theory?なので邦題は間違っていないのだが,内容はタイトルとちょっと違う。もともとあったのに邦訳では省略された副題A policy critiqueというニュアンスが重要だ。本書は実際には,「実際の経済政策に応用しようとしたらMMTには何が足りないのか?」を明らかにしようとしているのである。著者は進歩主義的マクロ経済政策の研究者であり,公共投資と社会保障のために必要な財政支出は行うべきという立場を取っている。その点においてはMMTと同じ方向を向いている。しかし著者によれば,MMT論者は,制度的要因を無視して抽象理論から政策的主張をいきなり導いたり,本来自ら持っている理論的枠組みを当面の政治的主張のために無視したりするという問題を持っており,その弊害は無視できないというのである。

 詳細は本書にぜひ当たっていただきたいが,私は著者のMMT政策論批判は,おそらく妥当であると思う。おそらく,というのは,私がMMTの研究者がアメリカでどのように政策を論じ,とくに政治的な論戦の場でどのように対抗理論と切り結んでいるかについて詳しい知識を持たないからである。しかし,著者がMMT論者の主張を正確に読み取っている限りにおいて,その批判は正しいように思える。私は,MMTについて,貨幣の本源的理解は同意できないものの(※),信用貨幣論と内生的貨幣供給論による中央銀行券論を肯定している。にもかかわらず著者に賛同できるのは,著者もまたMMTの貨幣理論や銀行理論を根本において否定していないからである。その上で,著者がMMT論者の,抽象理論から規範的な政策論を導く際の論理と実証の弱さを批判していることは,もっとなように思えるのだ。

 とくに私は,日本のMMT論者の政策的主張でも手薄なところについての著者の批判を重視したい。列挙してみよう。
 第一に,MMTが抽象的な次元で統合政府を論じるのは良いとして,現実の制度の上で政府と中央銀行の間の政策協調が実現するかどうかは別問題だということである。当然,個々に制度分析と制度改革論が必要になる。
 第二に,財政拡張がインフレを招いた場合に,どのようにして支出削減や増税という政策転換を行うのかということである。安定した税の制度と運用を確保しながらこれを行う方法を開発しないと,こうしたファイン・チューニングは実行できないだろう。
 第三に,MMT論者は変動相場制の自動調整機能を信頼し過ぎている。発展途上国の通過に対して,投機的な資金の動きがインフレ率と乖離した為替相場の急落をもたらすおそれについて無警戒過ぎる。
 これは第四に,米ドルについてさえいえる。在外ドル資産がどれほどあり,それらを他の通貨で持ち替えようと動きがどれほどあるかによって,ドルの地位も左右される。
 第五に,MMT論者はミンスキーの支持者であるにもかかわらず,「金融不安定仮説」に無頓着である。これは通貨発行権を持つ政府の債務創出はヘッジ金融にしかならずポンツィ金融になる心配がないと考えるからかもしれないが,だからといって通貨供給量の拡大が民間におけるバブルに結びつく危険性は無視できない。MMTは,理論的にはその危険性を認識しうる枠組みだが,政策的考察が弱い。第三,第四の点とあわせて言えば,MMTでは金融規制への関心が弱い。
 第六に,MMT論者は,その理論的枠組みにおいてはフリーランチがありえないことを認識しているのに,政治的主張の場でそうでないかのように主張している。MMTにしたがっても,財政拡張によって完全雇用に達した後は資源を何に用いるかについてトレードオフとクラウディング・アウト(その表現としてのインフレ)が生じる。ところがMMT論者は,政治的主張の場において,あたかも財政赤字が誰にも何の犠牲ももたらさずに利益だけを実現できるかのように主張している。

 以上,やや大胆に著者によるMMTの政策論批判を要約した。著者の批判は破壊的批判でなく,MMTが実践に寄与するためには何を充実させねばならないかを指し示した,建設的批判である。MMTの理論に立って政策論を構築しようとする際に,聴くべき重要な警告であると思われる。

※MMTは歴史的にも理論的にも貨幣は最初から信用貨幣であったとみなす。私はマルクスに従い,資本主義社会における貨幣を理論的に理解するにあたっては,まず本源的に金を典型とする商品貨幣のモデルで理解した上で,その発展形として銀行券や預金通貨の存在するモデルで理解し,さらに管理通貨制という条件下のモデルで理解すればよいと考える。

ジェラルド・A・エプシュタイン(徳永潤二ほか訳)『MMTは何が間違いなのか?』東洋経済新報社,2020年。



『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞によせて:戦前生まれの母へのメール

 『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞。視覚効果で受賞したのは素晴らしいことだと思います。確かに今回の視覚効果は素晴らしく,また,アメリカの基準で見ればおそらくたいへんなローコストで高い効果を生み出した工夫の産物であるのだと思います。  けれど,私は『ゴジラ -1.0...