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2024年1月7日日曜日

村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から

 1.課題と目的

 本稿の課題は,前稿(※1)での考察を踏まえて,村岡俊三の銀行信用論を検討することである。その目的は,マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点(以下,「蓄蔵・遊休貨幣出発説」と呼ぶ)に対し,十分な批判を行うことである。考察の前提は前稿と同じであり,国境のない単一の資本主義経済のみを想定して国際金融の影響を捨象する。また,財政収支の影響を捨象する。いわば一国の金融システムのみについての理論的考察である。そして,既に銀行が成立している下で個別銀行が活動する諸条件ではなく,銀行システム全体が成立する諸条件を考察する。

 さて,前稿での分析結果を要約すると,銀行システムが持つ支払準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の中央銀行当座預金設定でもありうる。そして,資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,準備金の主な出所は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行へに移っていくのである。

 本稿は,銀行を「信用貨幣の貸付による信用創造」として把握し,「貸し付けが預金に先行して説明されねばならない」と主張する立場に拠っている。以下,これを「信用創造=貸付先行」説と呼ぶ。前稿ではこの観点から準備金を論じることで,銀行を「現金の又貸しによる金融仲介」として,「預金が貸し付けに先行する」ものとして考える,「金融仲介=預金先行」説を批判した。「金融仲介=預金先行」説は研究者内でも学派を問わず多数であるため,この批判には意味があった。

 ただ,話をマルクス経済学に絞ると,いささか複雑になる。上述のようにそこには「蓄蔵・遊休貨幣出発説」があり,前稿はこれに対しても批判を行うものであった。「蓄蔵・遊休貨幣出発説」は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が圧倒的に強い。それ故,後者に対する批判によって前者に対する批判をかなりの程度カバーできた。

 しかし,信用貨幣論であっても「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点を採用した学説もある。それが,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」であり,それに続く著作である。本稿は,この村岡説を批判的に検討するものである。検討の中心は上記の論文(村岡,1976)に置くが,必要に応じて同『世界経済論』有斐閣,1988年(村岡,1988)も参照する。

 なお,村岡の信用論は,世界経済論の一部として公表されたこともあり,学会でも必ずしも十分に検討されていない。その中で,詳細な批判を行ったものとして岡橋保『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年(岡橋,1993)があり,参照したことをお断りしておく。岡橋の村岡批判を援用する際は,その都度注記する。

※1 川端「銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察」Ka-Bataブログ,2024年1月4日,https://riversidehope.blogspot.com/2024/01/blog-post.html


2.村岡説の検討

(1)村岡説の立ち位置

 村岡説は,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」(村岡,1976,p. 286)(※2)を行うと主張するものである。まず,この村岡説の理論的立ち位置を確認しよう。

 第一に,村岡は独自の折衷的立場を取っている。村岡は銀行券は銀行手形であり,銀行は預金を集めるのに先立った銀行券発券による貸し付けを行うと考えている。その点で,「信用貨幣=貸付先行」説に立っている。しかし同時に,「銀行とは,さし当り,このように利子生み資本として移納すべき遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣を預金として集積し,これを必要とする産業資本に貸付けることを業とする一特殊的資本」と規定しており(p.283),その点では「信用創造」でなく「金融仲介」説に立っているのである。ただし「現金の金融仲介」ではなく銀行券での貸し付けと預金を想定している。「貸付先行」と「金融仲介」がどうして両立するかというと,「先取的媒介」だからである。貸付けは先行して行われるが,それは将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介だというのである。本稿は,村岡説に対して,「信用創造=貸付先行」説を徹底させる見地から検討を加える。

 第二に,村岡が説明しようとしているのは,銀行券が信用貨幣だということであって,準備金の必要性ではない。村岡のいう「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」とは,「銀行券の預金還流」,つまり「銀行信用を供与された産業資本家以外の者(資本家又は労働者)からの預かり金」が発券銀行に預託されることである(pp. 290-291)。銀行Aは産業資本家aに銀行券で貸し出し,aと取引した産業資本家bや,aやbに雇われた労働者cが銀行Aに銀行券で預金を行うということである。村岡は,これを銀行券の還流,つまり信用貨幣が発行元へ戻ることによって消滅することの最重要形態として重視している。村岡は信用貨幣の発行と寒流の説明を目指したのであって,著者の前稿のように,銀行の準備金の成立を論じたわけではない。しかし本稿は,準備金論を深めることによって,村岡説に対する批判と代替的見地の提示が可能になると考えている。

 以上の2点を踏まえた上で,論評に移ろう。


※2 以下,書名を明示しないページ番号はすべて(村岡,1976)のものである。


(2)「銀行券の預金還流」説批判

 著者の見地から見れば,村岡説が銀行信用を「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介では」ないとする点は支持できる。他方,「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という点の妥当性は,それが何を意味するかによる。村岡説では,これを「銀行券の預金還流」に求めているが,これは問題を含むと考えられる。

 まず,銀行券が発行元に還流する最大のルートは,貸付金の返済である。企業・個人に対する貸出債権と,銀行券という銀行債務が相殺されるのが返済であり,これによって銀行券が信用貨幣である証拠とするのが,むしろ自然な説明であろう(岡橋,1993,p. 147)。銀行券は貸付によって流通に入り,返済によって流通から出て消滅するのである。ところが村岡は「およそ貸付があれば返済されるのは当然のことであるから,その点で銀行信用に固有な還流とは言えない」(p. 291)として,これを軽視し,預金還流を重視する。しかし,これは,預金の性質を取り違えた議論である。今日の銀行貸し付けの実態から明らかなように,銀行による貸付とは借り手に預金口座を開かせ,預金創造を行うことによってなされる。銀行信用とはこの預金という銀行手形による貸し付けのことである。銀行券,また発券集中の下では中央銀行券が発券されるのは,借り手が預金を引き出した場合に他ならない。より本源的なのは預金債務であり,銀行券債務は派生的なものとみるべきである。そして,預金が生まれるのはまずもって貸し付けの時なのであって,企業・個人が手持ち銀行券を銀行に預け入れることは,派生的なことである。

 また,村岡の言う「銀行券の預金還流」がなされても,還流してなくなるのは銀行券だけであり,預金債務は還流していない。村岡がマルクス『資本論』を引用して述べているように,このとき銀行は依然として産業資本家に対する債権者であり,また預金者に対して債務者である(p. 293)。銀行の貸付金も決済されていないし,信用貨幣としての預金もまだ決済されていないのである。つまり,村岡の説明では信用貨幣論として完結していないのである。村岡が信用貨幣として説明すべき対象を銀行券だけとして預金を軽視したこと,より具体的には貸付けは銀行券の札束でなされ,預金とは既発銀行券が預けられることで形成されるのだ,と想定したために,このような中途半端な説明になったのだと考えられる。

 さらに,村岡は銀行貨幣の信用貨幣であることの説明に全力を注いだために,準備金がなければ銀行は機能できないのではないか,という疑問に答えていない。村岡は正貨流通下を想定しているので,本稿も同様に想定しよう。前の段落で述べたように,銀行券が預金還流しただけでは,銀行は預金者に対し依然として債務者である。預金者が正貨での引き出しを要求したらどうするのか。また,銀行券を発券して貸し付けを行なったとして,その後その銀行券を入手したものが兌換を請求してきたらどうするのか。村岡は銀行が金を運備金として持つことは想定しているのだが(p. 300),銀行の金準備がどこからどのように形成されるのかを述べていない。中央銀行券成立下を想定した場合に就いては記述があり,「市中銀行の金での預け金と新産金の購入によって中央銀行に集積された金が中央銀行の金属準備を構成する」とは書いている(p. 300)。あるいは村岡は,市中銀行に金でも預金がなされることを当たり前と思い,説明しなかったのかもしれない。では,仮にそうだとして,正貨流通が停止されている現代では,準備金はどのような形を取り,どこからやってくるのだろうか。預金者が中央銀行券での引き出しを要求したらどうするのか。銀行はどうやって中央銀行券を入手するのか。金属準備と無関係に中央銀行券が発券されるとは理論的にどのような事態なのか。村岡は兌換・不換を問わず,資本主義社会一般に通用する銀行の規定を獲得しようとしていたのであるから,正貨流通が停止した場合,銀行はどのようにして準備金を成り立たせるかを説明する必要があったように思う。

 このように,村岡の「銀行券の預金還流」説は,銀行システム成立の説明としては,種々の問題をはらむものと言わねばならない。


(3)「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」説批判

 それでは,村岡説の「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という説明は,どう見たらよいか。

 鍵は,この「先取的媒介」という視点が有意義か,そうでないかというところにある。村岡が「先取的媒介」されるとした「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」と見ると中途半端な説明になることは既にみた。しかし,正貨での預金,また新産貨幣金属の中央銀行による買い上げと見るならば,ある程度妥当する部分がある。正貨流通の下では,銀行システムは,預金または中央銀行からの信用供与によって,準備金に必要な正貨を獲得できるという見込みを持てるからこそ,貸し付けを行える。このときにあてにしている正貨準備や金属準備を「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできるだろう。

 しかし,中央銀行券,中央銀行当座預金,とりわけ正貨流通停止下のそれについてはどうか。銀行にとってどうしても必要なのは準備金であるが,それを正貨以外で準備しようとすれば,中央銀行による信用供与,中央銀行当座預金という独特な信用貨幣の新規発行によって準備するよりない。また,村岡の想定に歩み寄って,銀行は中央銀行券で貸し出すとしても,銀行は既に発券を行なっていないので,中央銀行券を貸付けに先立って入手しなければならない。それにも中央銀行当座預金が必要である。中央銀行当座預金は,中央銀行が銀行に対して信用を供与する際に創造されるのであるから,「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできないだろう。

 もちろん,銀行システムがすでに成立している下でならば,個々の銀行は預金獲得競争に力を入れて中央銀行券を集めつつ,貸し出しを増やしていくことはある。しかし,集めるべき中央銀行券は,そもそもどこかの銀行がどこかの企業・個人に貸付けた結果存在している。銀行システム全体が成立するためには,準備金は中央銀行から獲得されると見るしかないのである。

 このような違いが生じるのは,正貨であれば蓄蔵貨幣になり得るが,貸付ける際に創造され,返済されれば消滅する預金貨幣や銀行券は,流通の外で蓄蔵されようがないからである。次項でさらに確かめるが,村岡は正貨と預金を混同し,預金も蓄蔵貨幣になると誤認したのである。

 村岡説の問題点は以下のとおりであるが,村岡が自説を通して述べたかったことは,貨幣流通の全体像にかかわる問題である。このことについての主張は村岡(1988)第4章に記されているので,そちらに即して検討しよう。


3.「銀行預金=蓄蔵貨幣」説批判

 村岡は「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を問題にしたが,銀行システムにおいて「蓄蔵貨幣」とはそもそも何なのかが問題である。金属準備が蓄蔵貨幣であることは村岡も指示している(p. 300)。しかし,村岡にとって蓄蔵貨幣とはそれだけではない。「預金還流」した銀行預金全体が蓄蔵貨幣なのである。「銀行預金こそは資本制的生産における蓄蔵貨幣の主要な存在形態である」(村岡,1988,p. 215)と断定されているのでまちがいはない。

 しかし,ここには二重の問題がある。まず,デジタル信号でしかない銀行預金が流通外で金と同等の価値保蔵機能を持つとしてよいかという問題である。これはマルクス経済学における,金・正貨以外のものも蓄蔵貨幣になり得るかという論争と絡む(※3)。しかし,村岡説のより大きな問題は,預金が流通外にあるとしていることである。蓄蔵貨幣であるとは流通の外にあることである。しかし,預金とは通貨であって流通している(岡橋,p. 149)。その証拠として,日々口座振り込みによってキャッシュレスの支払が行なわれているではないか。預金貨幣は流通内にある信用貨幣なのである。

 村岡は銀行預金に蓄蔵貨幣の「プール機能」を見出していた(村岡,1988,p. 215)。しかし,これは見当違いである。銀行預金は流通内にある預金貨幣である。預金貨幣は貸付によって流通に入り,返済によって還流して消滅する。中央銀行券は,中央銀行当座預金が引き出されることによって流通に入り,中央銀行当座預金に預け入れられることによって還流して消滅する。なにもプールには溜まらないのである。

 もう少し深めよう。「プール機能」があるとすれば,それは創造される元,還流する先にあると言わねばならない。だから「プール機能」があるとするならば,銀行信用においては銀行そのもの,中央銀行券については中央銀行当座預金である。しかし,あるのはプールと流通をつなぐ導管機能だけである。すなわち,商品流通が必要とする際に貨幣がそこから流通に入り,不要な際にそこを通って流通から出ていく導管はある。しかし,プールはない。信用貨幣は,発行の際に創造され,発行元に還流した時には消滅するからである。導管機能のみ残り,実在する蓄蔵貨幣のプールはなくなるというのが,銀行券と預金貨幣のもとでの貨幣流通の在り方なのである(※4)。

 実は,ここでも村岡の主張は,正貨での預金については部分的に妥当する。預金者が正貨で預金をするとき,銀行は預金という自己宛て債務,自己宛て預かり証を発行する。そうすると,正貨そのものは預金者の手から銀行に移動してその資産となる。と同時に,銀行の負債として預金が新たに発生する。預金は通貨として流通する一方,正貨は流通から出て蓄蔵貨幣となる(※5)。銀行はこれを自ら保有し続けるかもしれないし,中央銀行に預けるかもしれないが,それはここでは問題ではない。要は,正貨での預金がなされたときには,確かに蓄蔵貨幣が発生し,銀行・中央銀行が「プール機能」を果たすのである。しかし,同時に発生する預金は流通する。だから,やはり銀行預金そのものは蓄蔵貨幣ではないのである。

 銀行システムが成立している下での「プール機能」を解明しようとした村岡の問題意識は正当である。しかし,預金貨幣の性質を見誤り,また正貨と預金を混同したために,村岡説は的を射抜くことができなかったのである。


※3 本稿著者は,金属貨幣・正貨以外のものは,流通から外に出て価値を保蔵することはできない,つまり蓄蔵貨幣にはなり得ないと考える。ただし,流通内にあって,一時的に商品流通を媒介することなく遊休することはあるし,減価するリスクを伴いながら価値保蔵が図られることはあるとも考える。川端「遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために」Ka-Bataブログ,2022年3月28日,https://riversidehope.blogspot.com/2022/03/blog-post_28.html

※4 貨幣が現れたり消えたりするのはどういうことかと,直観的な違和感を持たれる読者がおいでかもしれない。その答えは,「手形を発行して貸し付け,回収したら破棄するから」である。債務証書である預金や銀行券が通貨となっているから,このようなことが起こるのである。

※5 自行銀行券で預金がなされた場合にこのようなことが起こらないのは,自行銀行券は銀行にとって債務であるため,預金されると資産として保蔵されることがなく,還流・消滅するからである。銀行にとって新たな預金債務が発生することは正貨で預金された場合と同じである。


4.準備金の確保を見込んだ貸し付け

 ここまで見たように,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」を行うとし,この「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」に見出した村岡説には,種々の問題点が指摘できる。しかし,村岡が「先取」という言葉を使って表現したことには,重要な合理的契機が含まれているように思う。それは,銀行における貸付が,貸付とは別に何かを確保できることを当てにし,その確保を条件として行なわれなければならない,ということである。本稿の見地からすれば,これは準備金の重要性を示している。

 「信用貨幣=貸付先行」説においては,銀行は事前に確保した預金を又貸しするのではない。ということは,貸し付ける際に,支払準備の確保は保証されていない。一体,どのような形の貨幣で,どのように確保されるのか。これが,村岡や本稿著者を含め,「信用貨幣=貸付先行」説に要請される課題である。また,もちろんここには,貸付だけでなく預金も含めて銀行をトータルに把握すべきだという,預金論の課題も含まれている。

 「信用貨幣=貸付先行」説において,準備金は次のような理論的位置を持っている。準備金は,銀行自身が創造する信用貨幣を決済できるもので確保しなければならない。それには,正貨,相殺可能な債権,より信用度の高い債務の三種類が考えられる。このうち,銀行に何の困難ももたらさないのが債権債務の相殺であり,典型的には貸付金の返済である。銀行は信用創造によって貸付金債権を保持すると同時に預金債務を負う。そして返済=回収の際には,銀行の貸付金債権も預金債務も消滅する。多くの銀行債務=預金貨幣が,この返済=債権債務相殺によって決済されるために,銀行は準備金を貸付金の全額にわたって準備する必要がないのである。しかし,預金の引き出しや他行からの支払い請求など,債務返済を一方的に迫られる事態もありうる。そのために,債務と相殺できる債権(すなわち貸付金)以外に,一定額の正貨か,自ら創造した信用貨幣よりも信用度の高い信用貨幣(すなわち自行預金貨幣より信用度の高い中央銀行当座預金)を保持しておかねばならない。これが準備金である。定義上,それらは銀行自身が作り出せるものではない。そして,確保できるという絶対の保証はない。こうした事情から,貸し付けのための信用貨幣の発行は,別途,準備金を確保できることを当てにした,リスクを伴うものにならざるを得ないのである。これは貸付金の貸し倒れリスクとはまた別の,準備金ショートリスクであることに注意していただきたい。準備金ショートリスクは,銀行システムの成り立ちに必然的に伴うものなのである。村岡説は,この準備金ショートリスクを,「先取」の必要性という,いささか核心からそれた形で表現したのである。

 「銀行は別途,必要な準備金を確保出来るという見込みの下に,預金貨幣の創造による貸し付けを行う」。これが村岡説に対置する本稿の見地である。この確保がどのような形と経路で行われるかは,前稿で示した通りである。銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならないのである。

 準備金論に残された課題は,中央銀行に本稿の規定は当てはまるのかということである。まず正貨流通下では,中央銀行は正貨や貨幣金属地金で準備金を保有しなければならない。よって同じ規定が当てはまる。しかし正貨流通停止下では異なる。前稿で述べたように,対外支払い・決済を捨象した次元で考える限り,中央銀行には通常の意味での支払準備金は必要とされない。正貨や貨幣金属は準備金の対象外になっており,中央銀行当座預金や中央銀行券より信用度の高い信用貨幣は国内にはないからである。準備金に代わって必要とされるのは,通貨価値が毀損されないであろうという社会の信任であろう。準備金は,本質的に必要とされるのではなく,中央銀行の政策として保有するものになるだろう。ここでは準備金の性質が変わっており,貸付を行うに際して確保が必要という規定は当てはまらなくなるようにも見える。この中央銀行の独自の性質については,なお検討が必要であろう。今後の課題としたい。


参照文献

岡橋保(1993)『貨幣数量説の新系譜:マルクス貨幣信用論の俗流化批判』九州大学出版会。
村岡俊三(1976)『マルクス世界市場論:マルクス「後半の体系」の研究』新評論。
村岡俊三(1988)『世界経済論』有斐閣。

2023年11月3日金曜日

岡橋保の信用貨幣発生論を継承し,批判的に徹底する

  これまで,信用貨幣論を論じるに当たり,先駆者として岡橋保にたびたび言及してきた。岡橋は私にとっては,師匠の師匠にあたる。その岡橋学説に対して,ようやく一定の位置と距離を持って向かい合えるようになってきた。それは,自分のゼミ生にこの学説を伝えるにあたり,無理解なままや,ただ追随するままではいられないからである。以下は,大学院ゼミでの解説用に作成したノートである。

ーー

1.徹底した信用貨幣論としての岡橋説

 岡橋保の学説は,信用貨幣理論において一つの極をなす。それは,現代の貨幣が信用貨幣であるという見地を徹底したからである。

 すなわち,岡橋は,預金貨幣と銀行券を信用貨幣であるとし,また金兌換が停止されて以降も信用貨幣であるとした。また,貸付・返済によって発行・回収される預金貨幣・銀行券は伸縮性を持っており貨幣流通法則にしたがうとした。これらは,預金貨幣や銀行券が,国家の強制通用力や漠然とした人々の信認によって流通する価値シンボルであるという,マルクス経済学,近代経済学を問わず多数の研究者に保持されている常識と決定的に対立するものであった。また岡橋は,同じ預金貨幣・銀行券であっても,発行ルートの違いによって性質が異なることを指摘し,貸付によって発行された預金貨幣・銀行券発行は貨幣流通法則にしたがうが,中央銀行引き受けによる国債発行を通して発行された預金貨幣・銀行券は紙幣流通法則にしたがうことを明示した。

 そのことにより,岡橋は,厳密な意味での貨幣的インフレーション=物価の全般的名目的上昇と,日常用語でいうところのディマンドプルインフレーション=需給ひっ迫から来る物価の実質的上昇をはっきり区別した。そして,貨幣的インフレーションは,いかに中央銀行が金融を緩和しようとも,手形割引や貸付による預金貨幣・銀行券の発行を通しては決して起こらず,政府の赤字財政こそ貨幣的インフレーションの発生源であることを,理論的根拠を持って明らかにした。

 岡橋説は,それに賛同する者から見ても反対する者から見ても,徹頭徹尾の信用貨幣論なのである。また,それは期せずして,今日再興隆しつつある国定貨幣説的な信用貨幣論と,一部親和し,一部対立していて,興味深い対比をなしている。岡橋説を出発点とする徹底した信用貨幣論を用いると,今日の金融問題の見え方,例えば「日銀の超金融緩和はインフレーションを引き起こしうるか」といった問題への回答が,常識的な貨幣論とは異なってくる。そうしたアクチュアリティを持った学説なのである。

2.信用貨幣発生論の検討

(1)課題設定

 とはいえ,当たり前のことであるが,岡橋説が何から何まで正しいというわけではない。ここでは『貨幣論 増補新版』(春秋社,1957年)に見られる,その信用貨幣発生論を検討する。ここまで岡橋の信用貨幣発生論の徹底性,独自性を強調したが,信用貨幣の発生については,意外なほどに,マルクス派の多数説と共通のところがある。それは,「銀行券は手形割引から生まれる」というテーゼを持っているところである。したがい,その批判も岡橋説の検討を超えた射程を有するだろう。以下,解説する。目指すべき方向は,岡橋説を部分修正することで,むしろその信用貨幣論をさらに徹底することである。

(2)「ほんらいの信用貨幣=手形割引によって発行された銀行券」説の批判

 信用貨幣の発生を,国定貨幣説でなく手形流通説から理解するところと,貸付によって流通に入った銀行券が貨幣流通法則にしたがうとするところは,岡橋説の核心である。しかし,岡橋が,手形割引によって発行される銀行券だけが「ほんらいの信用貨幣」であり,貸付によって発行される場合は「ほんらい的でない」というのは,おかしい,というより不徹底に思える。岡橋がこのように言う理由は,貸付による銀行券発行は貨幣流通法則には基づいていても,手形流通法則に基づいていないというものである。貸付けられた銀行券は,一般的流通にも入るものであって,手形とは異なるというのである。

 岡橋説がこのような主張を取るのは,信用貨幣の基本形態を銀行券に置くことと結びついている。しかし,それは逆ではないか。信用貨幣の基本形態は預金貨幣であり,預金を引き出した場合に生じる二次的形態が銀行券だと考えるべきではないか。銀行と企業が取引をするとは,企業が銀行に口座を持つということである。銀行が企業に貸付を行うというのは,銀行が信用創造によって,自己の負債として企業の持つ預金口座の残高を増額させるとともに,自らの資産として貸付金を計上することである。借り手企業が銀行券を手にするのは,預金口座からお金を引き出すときである。だから,銀行券が預けられて預金になるのではない。まず預金があって,それが引き出されるときに銀行券が発券されるのである。岡橋は,預金貨幣を重視する研究者であるが,それでも,最初からいきなり銀行券で貸し付けが行われると想定することによって,預金の意義を軽んじてしまっている。

 企業が預金貨幣によって銀行から借り入れるというモデルで考えてみよう。企業は借り入れたお金を預金口座に持っている,この時,1)同一銀行に口座を持つ他社から原材料や設備を購入することは,銀行手形の流通として理解できる。預金貨幣とは,銀行の自己宛て一覧払債務だからである。2)また,同一銀行内に口座を持つ他社との預金振替によって,債権債務の相殺による決済が可能となる。3)もちろん,返済も一種の相殺として理解できる(これは岡橋も銀行券について指摘している)。返済直前の状態を見ると,銀行は企業に貸付けているが,企業は銀行債務である預金を同額だけ持っている。ここで互いの債権=債務を相殺することが返済なのである。利子生み資本を貸付けているのは銀行の側なのであるが,それが現金による貸付でなく銀行手形による貸付であるために,このようなことが起こるのである。

 以上の1),2),3)から見て,貸付による預金貨幣発行も手形原理,すなわち手形による商品の流通,二者または多者の相殺による決済という原理に立脚しているのであり,ほんらいの信用貨幣の在り方を代表しているというべきなのである。岡橋説は,このように部分修正され,かつ信用貨幣論として徹底される必要がある。

(3)手形割引と貸付の違い:購買力は創造するが貨幣流通法則にしたがう

 では,手形割引と貸付の違いはどこにあるのか。前者ではすでに流通した商品価値に対応した信用貨幣が事後的に発行されるのに対して,後者では産業資本や商業資本の運動の起点となる貨幣が事前に供給され,その後で生産手段や労働力が購入されることにある。貸付では,貨幣がまず前貸しされ,それから商品を流通させるのである。その意味では購買力は創造される。

 ただし,貸付が購買力を創造すると言っても,流通貨幣量が一方的に膨張してインフレが生じるわけではない。そもそも,貸付金は満期になったときに返済されて流通から消えることが,はじめから予定されているのである。その意味では,購買力の創造は一時的である。また,産業資本・商業資本の運動が正常に行われれば,前貸しされた信用貨幣の価値は,購入される生産手段や,雇われた労働者が消費する消費手段の価値に対応する。つまり,貸しつけられた信用貨幣は,それに見合う商品を流通させることに用いられる。

 岡橋は商品価値との対応を強調するのだが,そのことをもって貸付が購買力を創造すること自体を否定している。それは行き過ぎであろう。信用貨幣の前貸しによって創造された購買力は,事後的に商品流通と対応すると見るべきであり,むしろそのことが貸し付けの特徴なのである。

 個々の企業経営は成功することもあれば失敗することもある。成功すれば,資本の価値増殖により,流通する商品価値は拡大し,いっそうの貨幣が必要になるかもしれない。また失敗すれば,銀行には貸し倒れが生じ,流通に投じられた貨幣がそのままとなるかもしれない。しかし,社会全体としては,貨幣流通速度を所与とすれば,経済が拡大して商品流通が拡大すれば貨幣の前貸しが返済を上回り続け,縮小すれば返済が前貸しを上回り続ける。こうして,流通貨幣量は,商品流通を媒介するために必要な水準に収まるのである。だから,信用の拡大による購買力の一時的拡大は,貨幣的インフレーションを起こさない。景気が良くなって貸付が増え,企業が投資を拡大した場合には,生産手段に対する需要が拡大して物価が上昇することはもちろんある。しかし,これは生産が拡大している産業部門での実質的物価上昇であって,貨幣的インフレ=全般的名目的物価上昇ではないのである。

 預金貨幣や銀行券の前貸しは一次的な購買力増大を引き起こすが,社会全体としては商品流通の必要によって貨幣流通量が規制される。つまり,貸付によって発行される信用貨幣は,根本的には貨幣流通法則にしたがうのである。これは岡橋説の核心のひとつであり,継承すべき点である(ただし,前節で述べたように手形流通法則にも従うというのが私の主張である)。信用貨幣である預金貨幣や銀行券のこの性質こそ,いったん流通に入ると国家の課税強化によらなければ出られなくなる,価値シンボルである国家紙幣との違いなのである。

ーー

 今回,岡橋説をようやくある程度整理できたが,この後には,師匠の一人村岡俊三の学説が控えている。村岡俊三の専門は世界経済の理論であったが,その一環として世界的スケールにおける貨幣・信用関係にも重大な関心を寄せ,岡橋説をモディフィケーションした主張を持っていた。例えば,村岡説は,銀行が自己の手形によって貸し付けるとする点では岡橋説を継承しており,銀行信用の本来の在り方を貸付に置くという点では,岡橋説を修正している。この二つの論点は,私にとって受け入れやすい。しかし,その貸付を「後日の預金を引き当てにして目下の貸付を行う」とするところに検討すべき点がある。他日を期したい。



2023年7月30日日曜日

泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで

 泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで。

 泉氏はマルクス経済学の言う剰余価値率を実証的に計測しようと,長年研究を続けて来られた研究者である。本稿は,国際貿易を導入した上で,剰余価値率の国際比較を行う理論の提示と実証を試みたものである。個人的にはたいへんなじみ深い領域であり,勉強になった。泉論文で書かれていることの理論的側面を,注記で多少のコメントを加えながら要約すると以下のようになる。

 マルクスによれば剰余価値率は「不払い労働/支払い労働」または「剰余価値/労働力価値」である。いま複雑労働と単純労働の還元問題を捨象すれば,一社会内では物理的労働量でとらえた前者と,労働価値でとらえた後者は一致する。しかし,複数国民経済の間で貿易が行われるという前提で,実際に計測を行おうとすると難しい問題が生じる。

 それは,異なる国の間での労働量をどのように扱うかである。世界経済の一次モデルでは,労働力は移動しないと仮定する(※1)。移動しないことにより,国民経済間の労働生産性が均衡化せず,格差が存在し続けることが説明できる。では,国民経済間に労働生産性格差がある場合,先進国の1労働日と途上国の1労働日は等質等量と扱うべきなのか否か。これが問題である。

 もし全世界の労働を等質として扱うと,何が起こるか。労働時間で計算した労働量ベースで計算した剰余価値率と価値価格(※2)で計算した剰余価値率は大きくずれてしまうのである。

 先進国の労働者が消費する賃金財は,途上国からの多くを輸入している。それらの生産は先進国よりも労働集約的に行われている。このため,労働者による輸入賃金財の消費が増えることにより,全世界等質の労働量ベースで見た支払い労働が大きくなる(※3)。このことが大量に行われると,先進国の剰余価値率は低下する。実証を試みるとマイナスにすらなるそうである。

 しかし,国際価値論を踏まえて価値ベースで考えると異なる。労働力が国内移動はするが国際移動はせず,各国間の労働生産性に格差があるのだから,全世界の労働を等質に考えるのは適当ではない。むしろ,国民経済全体の平均的労働生産性が格差を持ったままで貿易が行われることを説明すべきである。つまり,A国1労働日=B国2労働日=C国5労働日などという関係を前提して貿易が行われる。この関係を国民的労働生産性格差と言う。そして,この格差が労働の国際交換比率でもある。もちろん,このとき各産業部門での労働の社会的平均的生産性も国ごとに違うままである。

 上記のようにA国の国民的労働生産性がB国の2倍であるとき,ある産業α部門での生産性格差が2倍,つまりA国1労働日=B国2労働日ならば,α部門では両国での生産物の価値価格は等しい(※4)。日常用語で言えば競争力は同等である。もし,先端産業のβ部門では生産性格差が2倍より大きく,例えばA国1労働日=B国5労働日であれば,β部門ではA国の生産物の方が価値価格が低い。つまりは製品が安く,国際競争力がある。ローテクのγ部門では逆に生産性格差が2倍未満であれば,たとえ絶対的生産性はA国の方が高くともB国の生産物の方が価値価格が低い(※5)。

 このように観た場合,先進国労働者の消費する輸入賃金財は,国産品よりも労働時間は多く費やされているが,価値価格はむしろ小さい。したがい,全世界等質の労働量で支払い労働を見た場合のように剰余価値率の分母が大きくなることは起こらず,むしろ労働力価値とともに分母が小さくなることすらありうる。したがい,先進国の剰余価値率が低下するということも起こらないのである。推計してみると,国民的生産性の高い国ほど剰余価値率が高く,また平均賃金が極度に低い国の剰余価値率も高いという結果になる。

 読解に誤りがないとすれば,泉論文が言いたいことは,以上のようなことである。

 さらに進んで言えば,全世界等質の労働ベースによる先進諸国の剰余価値率がマイナスだという推計が妥当ならば,先進国労働者は途上国労働者を価値論レベルで搾取しているという含意をもたらす。国際価値ベースによる,先進国や特別に低賃金な国の剰余価値率が高いという推計が妥当ならば含意は全く異なり,先進国の労働者も途上国の労働者も搾取されているということになる。労働を全世界等質を考えるのは適当ではない以上,前者の考え方は適当ではなく,後者のように考えるべきだ。泉氏が意識しているのはこのようなことである(※6)。

 私は泉氏の分析にほとんど賛成である。貿易を含めた場合の剰余価値率は,全世界等質の労働ベースではなく,国際価値論を前提にして,価値ベースで理解すべきである。このことを両説対比の上で明らかにした本稿には重要な意義があると思う。

 ただ,この力作にも,注記について気になる点がある。泉氏は,国際価値論に関する諸文献を文献リストに列挙し,それらを参照したことを明示されているが,国民的生産性格差説の説明のところで,依拠された先行研究を特定して注記されていない。そのため,この分野になじんでいない読者が読むと,あたかも国民的生産性格差説が泉氏の独創であるかのように見えてしまうだろう。泉氏が文献リストにより,誠実に参照指示をされようとしたことは理解できる。ただ,客観的には上記の誤読の余地はあると思う。国民的生産性格差説は戦後の国際価値論研究の中で種々の模索の末に確立された学説であり,他方では過去も現在もこの説に依拠しない国際価値論も存在する(※7)。泉氏には,自らが他の説でなく国民的生産性格差説の研究蓄積に依拠していることを明記し,それに該当する文献はリストの中のどれであるかを指示して欲しかったと思う。


※1 資本が移動すると仮定するかしないかは論者によって異なり,泉氏は移動しないとしているが本稿の論旨にはどちらでも影響はない。なお,マルクス経済学で国際労働移動が基本的にはないというモデルを立てる場合は,部分的な労働移動は国際価値論ではなく相対的過剰人口論で扱う。

※2 価値価格とは,労働価値どおりの価格という意味である。

※3 たとえば,労働者は,より労働集約的につくられたシャツを着るようになるからである。

※4 専門家はご存知の通り,3国以上あると計算は極度に複雑になるし,価値価格と生産価格と市場価値でも話は異なって来るが,いまはそれは脇に置く。

※5 泉氏はこの語を用いないが,これが比較生産費説のマルクス的国際価値論による説明である。泉氏の説明は,金貨幣による価値表現を省略しているが,それ以外は以下と一致する。村岡俊三『グローバリゼーションをマルクスの目で読み解く』新日本出版社,2010年。

※6 この記事で最初にこの話をしなかったのは,この記事を読む方に,実践的価値判断から経済理論の正否を裁断するのではなく,あくまで理論的妥当性によって判断して欲しかったからである。
 念のため付記するが,泉論文もこの記事も,あくまで国際価値論(世界経済における労働価値の修正)のレベルでこうだという話をしているのであり,現実の世界経済に対する判断は,もっとたくさんの理論的,個別的条件を踏まえた上で,行なうべきことは当然である。

※7 泉氏が列挙されている国際価値論の諸文献も,みな国民的生産性格差説を採っているのではない。例えば,名和統一『国際価値論研究』日本評論社,1949年は基軸産業が労働の国際交換比率を決めるという見解であった。日本では名和説を出発点に種々の研究と論争が行われ,整合性の高いモデルとして国民的生産性格差説が生まれた。木下悦二『資本主義と外国貿易』有斐閣,1978年や村岡俊三『世界経済論』有斐閣,1988年はこれに依拠している。一方,中川信義『世界価値論研究序説』御茶の水書房,2014年は産業部門ごとに世界レベルで社会的平均的労働が確立するが,部門間交換比率は問題にもしないという特異なものである。
 なお,これらの学説の相違については,佐藤秀夫『国際分業=外国貿易の基本論理』創風社,1994年で整理されている。

2023年3月23日木曜日

岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年を読んで:マルクス学の商売,その歴史と現在

 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年。一体,何が起こったのかと思った,まさかの復刊。旧青土社版(1983年)を買ってはいないが,渡辺寛氏との問答の記述が記憶に残っているから,たぶんちらちら見たことはあるのだろう。岡崎次郎と言えば,私の世代(1964年生まれ)にとっては国民文庫や『マルクス・エンゲルス全集』の『資本論』,岩波文庫版『金融資本論』など,マルクスやマルクス主義文献の翻訳者である。本書はその生涯を振り返って自ら書き記したものである。

 その生涯は,私には,ああ,こういう人もきっと昔のマルクス主義者にはいたよなあ,そんな名残は私の先生たちにもあったよなあ,と読めるものであるが,今の若者が読むとぎょっとするのかもしれない。極端に言えば遊民,やや穏やかに言って浮世離れしたところがあり,もっと穏やかに言って超マイペースな人生だからである。マルクスの翻訳だけでこんなにお金が入ったことも(大月書店からの『マルエン全集』と『資本論』各版の印税1億5000万円!=今の貨幣価値で2億6650万円),また当人が暴力革命以外ありえないだろうという思想を持っているのに,本書では社会に対する理想や思いよりお金や大学の人間模様や翻訳業務をめぐるドタバタに頁を費やしているのも,私の世代では,まだ「あるある」と思うが,今の若者には理解しがたく,もしかすると不快に思うかもしれない。とくに,著者は本書刊行後間もなく,奥方とともに旅立ち,消息を絶ったことで知られているだけに,初見の読者が本書をマルクスに殉じた歩みを記したもの,と考えて手に取ると,「何だこりゃ」となるおそれがある。

 しかし,本書はそういうものではないのである。では,どういうものか。資本主義社会で生きる以上,マルクスに携わる研究者も大学教員も翻訳家も,運動家さえも,原稿料や印税や給与や講演料を得てくらしていかねばならず,それなりに「商売」感覚を持たざるを得ない(持たない場合,すぐに野垂れ死ぬか,あるいは家族に多大な負担をかける)。これは,岡崎氏が,自らの生涯のうち,当時のマルクス業界の「商売」に関する部分を中心に記述した本だと思えばよいのである(そういう記述をした本として,他に野々村一雄『学者商売』がある)。そして,その「商売」感覚が,昔と今とでは相当に異なっているのだ。マイペースにお金を稼げるマルクス業界は,もうどこにもないからである。

 そんなわけで,本書はもはや一つの歴史であるが,どうしても,時代を超えて,いまこうす「べきだ」と言いたくところがひとつだけある。それは,岩波版『資本論』の翻訳について,向坂逸郎と岩波書店が岡崎氏にとった態度についてである。文庫版第2分冊以降をほとんど岡崎氏に訳させ,共訳とするはずの約束を「下訳」扱いして自分の単独訳とし,印税だけ折半するなどという行為が,なぜまかり通ったのか。マルクス業界にも,なぜこのような親分・子分関係が存在したのか。もちろん,このことも本書の他の内容とともに歴史として扱うべきかもしれない。しかし,岩波書店は,この出来事をなかったかのように扱い,『資本論』を向坂の単独訳として,今なお販売し続けているのである。それは,現在の問題として改めるべきであろうと,私は思う。



2023年2月10日金曜日

水田洋『マルクス主義入門 この思想の流れを創造した人々』カッパブックス,1966年のこと

 水田洋氏の訃報に接する。私は何しろ古典にたいする教養を欠いているので,水田氏の著作もほとんど読んでおらず,お恥ずかしい。唯一,読み通したのが古書店で見かけて買った『マルクス主義入門 この思想の流れを創造した人々』カッパブックス,1966年だが,これは実に面白かった。もちろん,学説の内容としては今では乗り越えられているところもあるだろうが,感心したのは思想史としての書き方であった。マルクスだけが,レーニンだけが真理だ,他の連中はだめだみたいな決めつけが全くなく,むしろ,マルクス主義者たちがどのような問題に突き当たり,それを解決するために何を主張し,どうしたか,その問題は後続の人々にどう受け継がれたかという風に書いてあるので,読者自身が課題に向き合い,追体験しながら読める。例えばレーニン,ルクセンブルク,トロツキー,スターリン,ブハーリンのいずれについてもそのように書いてある。ある意味で客観的で公平であり,しかし正確な意味で実践的な記述なのであったのだと思う。いや,もちろん本当は近代的個人と社会主義についてもっと深く読み取らねばならないのであろうが,教養が足りずに申し訳ない。




2022年11月3日木曜日

手形交換所や紙の手形がなくなっても,現代の金融システムは手形原理に依拠している:MMTとの見解の相違にも触れて

1.手形交換所の交換業務終了と決済の今後

 11月2日,全国の手形交換所が交換業務を終了した。4日以降は電子交換所が稼働するとのことだが,これはいわば「つなぎ」的存在だ。というのは,紙の手形をスキャンして,スキャンデータで交換業務を行うだけのものだからだ。経産省は,約束手形を2026年までに廃止する方針とのことである。今後の企業間債権決済業務の本命は「電子記録債権」,略称「でんさい」とこれを決済する「でんさいネット」で,要は初めから紙をつかわない電子手形である。

 紙の手形は姿を消すし,「でんさい」もかつての紙の手形ほどはつかわれないだろう。いわゆる「現金決済」が増えたからであるが,これは正確ではない。札束としての現ナマで支払うことが増えたのではなく,ただちに預金口座振り込みで決済することが増えたのである。預金口座振り込みとは,つまり「預金=銀行の一覧払手形」を用いた決済である。手形の債権債務の差額が手形交換所で相殺されるように,銀行間の債権債務の差額は,日銀当座預金内で相殺される。もちろん銀行業務はオンライン化されていて,銀行手形もいわば電子化されている。

2.金融システムを成り立たせている手形原理

 紙の手形や電子手形だけでなく,銀行振り込みも手形原理によって成り立っている。それどころか,そもそも銀行による貸し付けも手形原理によって成り立っている。貸付とは銀行が預金という名の自らの手形を振り出して,その手形で貸し付けることである。そして銀行への利払いや返済には,預金という,その銀行自身の手形をもちいることができるのである。

 ここでいう手形原理とは,1)手形を切ることによって発生した債務証書が流通し得ることであり,2)債権債務は,多角的相殺により決済されること(その一環として,手形は,手形の振出人に対する支払いに用いることができること)であり,3)相殺し切れない差額は,通貨によって決済されることである。銀行はこの手形原理に,資本の貸し付けの原理,すなわち,利潤を生む商品としての資本を貸し付け,利子を得るという原理を上乗せして成り立つ。約束手形などの商業手形を振り出すのは商品を購入する際であるが,銀行手形=預金は貸し付ける際に振り出される。

 このうち3)の「通貨」は本位貨幣制度と管理通貨制度では性質がいくらか異なる。通貨には,金貨や銀貨などの正貨,銀行預金,銀行券,補助貨幣がある。銀行券は現代では中央銀行のみが発券する国が多い。また,民間企業では流通せずに金融機関内取引のみで流通する独自な預金として中央銀行当座預金がある。そして,このうち銀行預金,(中央)銀行券は,銀行手形がその信用度の高さと流通性の良さによって通貨となった信用貨幣である。

 正貨は,本位貨幣制が停止されて管理通貨制度に移行すると流通しなくなる。正貨流通が停止された通貨制度の下では,補助貨幣以外の通貨は信用貨幣になってしまう。そうすると,上記3)の規定はより具体的に,3)相殺し切れない差額は,より信用度の高い債務と交換されることで決済される,となる。中央銀行券の現ナマでの支払いであれ銀行振り込みであれ中央銀行による決済であれ,正貨流通が停止されても成り立っているのは,1)2)3)の手形原理は,金兌換があろうがあるまいが成り立つからである。

 このように,管理通貨制度の下での信用貨幣のシステムは,手形原理に立脚して,その上に資本の貸し付けの原理を重ねて成り立っている。紙の手形が消え,電子手形がそれほど使われなくても,手形原理は金融システム内部に綿々と生き続けているのである。

3.学説上の論点:マルクス派信用貨幣論とMMT

 私の依拠するマルクス派信用貨幣論は,以上のように手形原理から現代の通貨と金融システムを説明する。より大きく見れば,商品流通と資本主義経済の発展が信用貨幣システムの発展を支えているととらえる。

 近年,同じく現代の金融システムを信用貨幣論で説明する学説としてMMT(現代貨幣理論)がある。金融システムの説明としては,私もMMTと意見を共有するところが多くあるし,中央銀行当座預金の機能や,より信用度の高い債務との交換という理解の仕方など,MMTに学んだところもある。しかし,金融システムを成り立たせる根拠については,MMTと理解が異なるので,説明しておきたい。

 MMT(現代貨幣理論)は,現代の金融の運動様式を説明する際には信用貨幣論を取るものの,貨幣が流通する根拠は国家による課税に置く。納税に用いることができるから,人々は貨幣を受け取るというのである。それはそれで法定通貨論としてはわかる。しかし,国家のみから貨幣を説明するのは一面的であり,また信用貨幣という形態を説明するには不十分ではないか。MMTは,商品経済と資本主義経済の発展の中から信用貨幣システムが確立する論理を把握していない。商品経済自体から手形原理が生じることや,手形原理に資本貸し付けの原理を重ねて銀行が発達したことへの考慮がない。ここで,マルクス派信用貨幣論とMMTは意見が分かれるのである。

「「手形交換所」最後の業務 仙台も103年の歴史に幕 全国179カ所、電子化移行」河北新報ONLINE,2022年11月3日。

でんさいネット

「「取引適正化に向けた5つの取組」を公表しました。」経済産業省,2022年2月10日。

<関連投稿>

「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。

「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

「続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか」Ka-Bataブログ,2022年9月8日。


2022年9月8日木曜日

続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか

 先日「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」というノートを書き,MMT(現代貨幣理論)が貨幣流通の根拠は国定貨幣説(表券主義)で,現代の金融システムの説明は信用貨幣説で説明する二元論を取っていることを記した。その時は,どうしてそのような二元論を取るのかが理解できなかったのだが,ランダル・レイの論文「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」の邦訳を読んで,どうにか理解できそうに思えてきた。レイが「ミンスキーの『誰でも貨幣を創造できる。問題はそれを受け取ってもらうことだ』という見解に従うことになった」というところに関係しているようだ。

 ハイマン・ミンスキーは債務のピラミッド論の創始者である。「このピラミッドでは、最も受けとられやすい政府の負債が頂点にあり、次に商業銀行の負債、そして『ノンバンク金融機関』の負債、非金融法人企業の負債、最後に中小企業や家計の負債が最下層に位置している。このピラミッドは、負債の受容性と流動性を反映したものであり、ピラミッドの下位に位置する主体は、支払いにおいてピラミッドのより上位にある負債を用いる」。レイはこれを受け継いでおり,ここまでは信用貨幣説である。

 では,頂点にある政府の負債はなぜ受け取ってもらえるのか。レイやそのほかのMMT論者は,ここを国定通貨説で説明しているのである。「納税者が税金の支払いのために自国の通貨を政府に返還すると、納税者と政府の両方が償還される。納税者にはもはや税金という負債はなくなり、政府の自国の通貨を受け入れる義務は果たされる」というわけである。つまり,「納税に使える」ということが,政府の負債が貨幣として流通する根拠なのである。以上がMMTにおける信用貨幣説と国定貨幣説の結びつき方である。

 とすれば,私の理解する日本の伝統的なマルクス派信用貨幣論との違いは,以下のようになる。もっとも,日本のマルクス派信用貨幣論にもヴァラエティがあるので,これは私が,できる限り首尾一貫して理論を組み立てればこうなるだろうとした理解の仕方に過ぎないことをお断りしておく。なお,欧米ではこれに近い考え方はホリゾンタリストと呼ばれるようである。

 マルクス派の信用貨幣論は,伝統的に政府を捨象し,民間の商品経済と資本主義経済の発展の中に,信用貨幣が流通する根拠を求めてきた。中央銀行も,まず「銀行」として理解し,それが発展して国家から決済システムと最後の貸し手機能を付与されるという風に理解してきた。不換制の下で預金貨幣や中央銀行券が流通する根拠も,手形流通の原理を根拠に,手形の債権債務相殺機能によって理解してきた。商品経済が発達し,手形流通が発達しているからこそ,資本主義的な銀行業は銀行手形として預金貨幣や銀行券を発券できるのである。手形の債権債務相殺機能は金兌換と不換とにかかわらず機能する。そして,銀行間の決済システムと信用維持に必要だからこそ中央銀行が選定されるのである。民間経済の発展こそが根拠である。信用貨幣の流通性に相違を認めることは,MMTのピラミッド論と同じである。しかし,頂点に立つ信用貨幣である中央銀行の債務が流通する決定的根拠は,MMTのように「納税に使える」ことではない。「中央銀行への支払いに使える」ことである。

 もう少し対比を続けよう。

 MMTでは頂点に立つのは政府債務である。これはMMTが非常に強い意味で統合政府論を理解し,中央銀行を「政府」の一部と理解するからである。マルクス派信用貨幣論では頂点に立つのは中央銀行債務である。これは中央銀行をまずは「銀行」として理解したうえでその政府との結合を考えるからである。

 MMTは頂点に立つ政府債務が有効性を証明する場面として,納税に注目する。そこでは納税者の債務と政府の債務が相殺される。納税者は納税義務を果たすし,政府は自分の債務である貨幣を受け取るからである。マルクス派信用貨幣論は,頂点に立つ中央銀行債務が有効性を証明する場面として,中央銀行への返済に注目する。そこでは銀行の債務と中央銀行の債務が相殺される。銀行は中央銀行からの借り入れを返済するし,中央銀行は自分の債務である中央銀行当座預金を受け取るからである。

 MMTは国定通貨の根拠を貨幣史に求める。通時的理解である。前近代社会から国定貨幣が用いられてきたから資本主義社会でも国定貨幣が用いられるというのである。日本のマルクス経済学では(論者によって意見が異なるものの※1),私の理解では,資本主義経済そのものの構造に求める。共時的理解である。現時点で,資本主義経済が機能するためには,ほんらいは価値尺度として金を貨幣とすることが要請される一方で,そのようなプリミティブなしくみでは経済発展が制約されるために,貨幣代替物として預金貨幣や中央銀行券が用いられるとみるのである。

 おそらく以上のように対比してまちがいないものと思う。賛否はともあれ,こうした突き合わせをきちんとしておくことは,理論的対話のために必要であると思う。

※1 これは,かつてマルクス派の世界で「論理=歴史」説と「論理」説の論争と呼ばれていた話のことである。論理的前後関係と時間的前後関係は照応すべきであり,例えば『資本論』の商品論よりも剰余価値論の方が時間的に後の話だと考えると,「論理=歴史」説となる。論理的前後関係と時間的前後関係は別だと考え,商品論から剰余価値論への流れは,同時点で論理が抽象的なところから具体的なところに進んでいるのだと考えると「論理」説になる。ここで私は「論理」説に立って説明しており,MMTをいわば「論理=歴史」説とみなしているのである。

ランダル・レイ(WARE_BLUEFIELD,ゲーテちゃん,kenta460,sorata31,望月慎訳)「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」(2020年7月)経済学101。


2022年8月23日火曜日

預金貨幣の内生的供給と外生的供給:岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社,1948年の先駆的意義

  岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』は,戦後直後の日本におけるインフレーションを,貨幣理論によって把握しようとした労作である。本書は1948年発行であり,紙質も印刷状態もよくないものであって,今日どれほど残存しているのかが懸念される。しかし,実は本書は,今日の貨幣をめぐる論議に見通しを与えてくれる先駆的なものだと,私は考えている。

 本書で重要なのは副題である。岡橋氏は,戦後直後のインフレーションを念頭に置いて,「こんにち,銀行券にかはって預金貨幣が支払流通手段の中心的形態」(序言3頁)であると述べている。インフレーションは,商品流通に必要な貨幣量を超えて,貨幣代替物が流通界に投じられた際に生じるものである。この貨幣代替物の主役が預金貨幣だと岡橋氏は主張しているのである。

 これは,金融実務に携わる人にとっては当たり前のことである。実務家は,戦後直後であれ21世紀であれ,預金が通貨として大きな役割を果たすことを知っている。マネーストック指標のM1,M2,M3は預金通貨を含んでいることは少し調べればわかることである。

 ところが,多くの一般市民,経済評論家,経済学者は,実はそのように考えていない。今日では多くの人が,しばしば銀行振り込みを利用し,公共料金やクレジットカードの利用高を口座引き落としで決済している。しかし,同時に国や中央銀行が定めたものだけが貨幣であり,現代の通貨制度とは「中央銀行がお札を刷って通貨にする」ものだと思いこんでいる。そして,財政赤字やインフレを論じる時も「日銀がお札を刷ってばらまく」云々という風に考えている。そして深刻なのは,一般市民だけでなく,経済評論家や経済学者も真顔でそのように論じることである。場合によって,経済学の教科書にその趣旨が記されていることすらある。この考えに立てば,通貨供給とは日銀券の発行であり,インフレーションとは日銀券の刷りすぎから起こるということになる。

 これは間違いであって,経済学の理論でも預金貨幣を正面からとらえねばならないと,岡橋氏は1948年に述べているのである。

 ここで説かねばならない問題がある。預金貨幣といっても,中央銀行当座預金は直接商品流通を媒介しない。民間の取引で用いられているのは市中銀行の預金である。では,銀行の企業に対する貸し付けによってインフレーションが起こるのだろうか(※1)。そうではないと岡橋氏は言う。「インフレーションとは国家の強権的な貨幣的手段の創造によるところの一般物価の騰貴である」(序言2-3頁)。つまりは政府が税収以上に支出する財政赤字,そのための国債の発行から生じるものである。では,どうして政府の財政赤字が,中央銀行券の過大な発行でなく市中銀行による預金貨幣の過大な発行となるのか。岡橋氏は,戦時統制期の軍需に即して以下のように言う。

 「赤字公債のうえに形成された日本銀行における政府当座預金は,政府支払小切手によっていろいろな軍需会社に撒布された。これらの政府小切手は,それぞれ軍需会社の取引銀行をつうじ,手形交換所をへて日本銀行に提示され,ここに政府当座当座預金は一般預金にふりかえられたのであって,前者の減少が後者の一般預金の増大となってあらはれたのである」(104-106頁)。

 これは,軍需会社を政府の支出先企業とし,手形交換所を電子交換所とすれば,21世紀の今日も同じである(※2)。

 つまり,財政赤字による通貨供給量の増大の多くは,預金貨幣の増大となって表れる。この増大分が,商品流通量の増大を超えている時にインフレーション作用が生じるわけである。念のためいえば,岡橋氏は財政赤字が直ちにインフレを起こすと述べているのではない。失業を減らし,遊休設備を稼働させ,滞貨を動かして,通貨供給に見合った商品流通量の増大を引き起こすのであれば,インフレーションは起こらないのである。

 さて,こうした財政赤字による預金貨幣の発行を,岡橋氏は「信用貨幣の変質」と呼んでいる。預金は銀行の債務であって,預金貨幣は信用貨幣である。しかし,同じ預金貨幣であっても,ほんらいの信用貨幣の場合と変質した場合があるというのである(※3)。

 銀行が企業に貸し出す際に生み出される預金貨幣は,商品流通に対応したものである。そして,貸付金が回収されれば消滅する。よって,商品流通の内在的な動きに応じて伸縮性を持っている。商品流通が拡大するから貨幣流通量も増えるし,逆なら逆である。現代の用語で言えば,貨幣は内生的に供給される。

 しかし,財政赤字を通して生み出される預金貨幣は,流通外から政府が権力的に投じたものである。そして,上記のような伸縮性を持たない。縮小させようとすれば,政府が課税を強化するなどして,やはり権力的に回収するしかない。つまり,ここでの貨幣供給は外生的である。

 銀行貸出を通した預金貨幣の供給は内生的であり,財政赤字を通した預金貨幣の供給は外生的である。同じ預金貨幣でも供給ルートによって性質が異なる。このことを,岡橋氏は1948年に見抜いていたのである。

 この見地からは,今日の貨幣をめぐる議論に二つの示唆が得られる。

 まず一つ目は多くの研究者や市民への警告である。多くの研究者が,金兌換が停止された預金通貨は信用貨幣ではなく不換国家紙幣だとみなしており,その日常感覚バージョンとして,多くの人が日銀が自らの意思でお札を刷って紙幣を供給できると考えている。これらは日銀・銀行ルートの貨幣供給を外生的とみているのである。しかし,これでは,預金通貨が市中銀行の貸し出しと回収を通して伸縮することを説明できない。この見地をとってはならないのである。

 もう一つは,内生的貨幣供給論者への注意である。内生的貨幣供給論者は,銀行の貸し出し・回収による貨幣供給量の伸縮を正しく説明する。その点で外生的貨幣供給論よりはるかに妥当である。しかし,そこから,信用貨幣であるから,いつでもどこでも内生的に供給されるのだと硬直した規定を与えてはならない。うかつにそうすると,財政赤字を通した預金貨幣供給が外生的であることを位置づけられなくなる。信用貨幣論は,信用貨幣が供給ルートによって性質を変えることまで射程を伸ばす必要がある。

 以上が,1948年発行の本書から得られる認識である。岡橋保氏の学説は,今日の貨幣をめぐる論議を深めるために,なお深く検討する価値を持つものだと,私は考える。


余談:本書は世界文化社から発行されている。この出版社は,戦前に存在した雑誌『世界文化』とは関係がない。しかし,現在存在している「世界文化社グループ」とも異なる。その実態は「電通」である。住所が「電通ビル」となっているが,これは現在の電通銀座ビルである。電通は1946年に総合雑誌『世界文化』を発行したが,GHQによって「活動制限会社」に指定されたために出版事業を縮小し『世界文化』の発行も,大地書房,そして世界文化社に移されたのである。
 また,同社の代表は廣西元信氏である。マルクス経済学の世界では著書『資本論の誤訳』で有名であり,また空手家として有名な人物である。廣西氏が『世界文化』の編集に携わっていたことは知られているが,同社の代表も務めていたのである。
 世界文化社の本は1953年くらいまで出ていたようであるが,それと入れ替わるように1954年には,子供マンガ新聞社と世界文化画報社が改組されて世界文化社となり,現在の世界文化社グループに至る。両社に何らかの関係があったのかはわからない。


※1 そうだという研究者もいる。この見解については以下で論評した。
「インフレもバブルも「過剰な貸出」によって生じるのか?:建部正義「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」との対話」Ka-Bataブログ,2022年1月25日。

※2 こうした預金をめぐるオペレーションを貨幣理論のモデルに組み込まねばならないことは,今日,MMT(現代貨幣理論)が主張しているところである。その点ではMMTが妥当である。岡橋氏を含むマルクス派信用貨幣論とMMTは信用貨幣論において共通するところが多いが,商品貨幣論から出発して信用貨幣論に至るか,表券主義と信用貨幣論を使い分けるかというところが異なる。この点は以下で対比した。
「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

※3 これを岡橋氏が「変質」と呼ぶ理由は,政府の財政赤字による通貨投入は,商品流通の必要性に応じたものではないからである。なお,ここでは,国債を民間に向けて売り出した場合と日銀引き受けとした場合とでどのような相違があるかについては触れなかった。この点では岡橋説と拙論は異なってくるが,それはまた別の論点となる。







2022年8月17日水曜日

マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について

1 問題の所在:マルクス派信用貨幣論とMMTが対話する必要性

 私は,現代の貨幣のほとんどを信用貨幣,すなわち流通する債務証書として説明する立場である。この立場は,近年台頭している現代貨幣理論(MMT)も唱えるところである。ただし,私の立脚点は,貨幣と金融システムについては,日本のマルクス経済学で発達した信用貨幣論である(※)。マルクスは信用貨幣論とMMTには重なるところもあるが異なるところもある。以下のノートは,私が理解するマルクス派信用貨幣論の論理を説明し,それがMMTとどこが一致し,どこが異なるかを明らかにしようとする試みである。その目的はMMTを論破して否定することではない。私はMMTが,主流派経済学の問題点を衝き,ケインズ派の財政政策を創造的に発展させようとしていることに肯定的な立場である。そして,MMTの理論的な創造性は信用貨幣論にあると考えている。理論的対話を通して信用貨幣論という共通の財産を育てることが,このノートの目的である。
 あらかじめ要約しておくと,マルクス派信用貨幣論とMMTの,理論の深いところでの相違点は以下の2点である
 1)マルクス派信用貨幣論は,資本主義経済を説明する際に,価値を持った特殊な商品が貨幣になるという商品貨幣論から出発したうえで,貨幣の発達の結果として信用貨幣がもっぱら流通するようになると考える。対してMMTは,商品貨幣論を誤りとして否定したうえで,理論の出発点から信用貨幣論に依拠しようとする。
 2)マルクス派信用貨幣論は,通貨が流通する根拠をまずは民間経済に求め,これを補完するものとして政府を位置づける。対してMMTは,現代の金融の動きは信用貨幣論で説明するが,通貨が流通する根拠は「租税が通貨を起動する」という表券主義によって説明する。
 以下,詳しく見よう。

2 マルクス派信用貨幣論の論理構成

 まず,あまり一般には知られていない,マルクス派信用貨幣論の基本論理を,私の理解によって説明しよう。

(1)商品貨幣から出発し,信用貨幣を説明する
 マルクス派は,価値を持った特殊な商品=金などが貨幣として用いられることを基本モデルに置く。つまりマルクス派の基本モデルは商品貨幣論である。しかし,この商品貨幣が,発達した資本主義では流通せずともよくなり,通貨の大半が信用貨幣になるという重層的理論構成をとる。発達した資本主義を説明するには,まず商品貨幣からはじめ,手形を説明し,貸し付けを説明し,産業資本のみならず銀行資本の存在を踏まえた説明することが必要である。そうして,発達した信用機構が,プリミティブなモデルでは必要とされる商品貨幣の流通を,もはや必要としなくなる理由をも説明するのである。
 なお,ここでいう基本モデルとは,「かつてはそうだった」という時間的先行性を表すのではなく,あくまでも現在の資本主義経済を説明する際の,論理的に出発点となるモデルのことであることに注意して欲しい。これはMMTの説明との対比で重要な意味を持つ。
 さて,商品流通の発達とともに,貨幣の代用物が様々に用いられるようになるが,とくに注目すべきは,商業手形が貨幣の支払い手段機能を果たすようになることである。商業手形は商品の購入にあたって債務者が振り出すもので,債権者を起点として一定範囲で流通する。そして,通貨による返済や債権債務の相殺によって決済される。手形が普及した経済では,債務証書で支払うことや,財・サービス購入をしてから,事後に決済することが可能になる。さらに,信用機構が発達し,利子を取ることを追求する銀行資本が登場すると,銀行が手形を発行する。すなわち,当座性預金と銀行券である。当座性預金は,銀行が企業に対して貸し付けを行う際と,商業手形の割引を行う際に設定される。当座性預金を企業が引き出すと預金が減額され,その分だけ銀行券が発券される。貸し付けが返済されれば銀行券も当座性預金も消滅する。預金や銀行券も手形原理に依拠しているが,購買の際ではなく,信用供与の際に発行されるところ,一覧払であるところが独自の特徴である。当座性預金や銀行券は正貨を代用する購買手段や支払い手段となり,また,インフレーションというリスクを抱えるので不完全ではあるが,価値保蔵手段ともなる。
 さらに,一社会全体の支払い決済と信用供与システムを維持するために中央銀行が成立すると,中央銀行当座預金と中央銀行券が成立する。多くの場合,銀行券の発券は中央銀行に集中される。商業手形は流通範囲が狭く,信用供与期間が短く,企業間流通にしか用いられないため通常は通貨と認められないが,より信用度が高く一般的流通に投じられる当座性預金や中央銀行券は通貨と認められる。中央銀行当座預金は一般には流通しないが,銀行間の決済と銀行への信用供与を通して一社会の金融システムを統一し,支える。

(2)管理通貨制度においても,信用貨幣は決済可能である
 それでは,管理通貨制度の下で,金貨などの正貨流通が停止されると,信用貨幣は流通できなくなるのであろうか。マルクス派の中にも,そのように考える研究者はいる。金本位制の下では銀行券は信用貨幣だが,金兌換が停止されれば信用貨幣ではなくなるというのである。この見解では,現在流通している預金通貨や中央銀行券は国家が強制通用力を付与した価値シンボルだとされる。しかし,正貨流通が停止されても,信用貨幣は信用貨幣のままだというのがマルクス派の信用貨幣論である。
 正貨流通が停止されるというのは,具体的には預金や銀行券が金兌換されないということである。では,金兌換されない預金や中央銀行券が,どうして信用貨幣なのだろうか。それは,信用貨幣に表されている債務の決済方法が元々複数あり,正貨での決済はそのうちの一つに過ぎないからである。
 債務としての信用貨幣を決済する方法は,3通りある。第一に,正貨との交換(正貨による債務の返済)である。兌換紙幣の金兌換はこれに該当する。第二に,債権・債務の相殺である。中央銀行や民間銀行の口座内で債務と債権が相殺されれば一方的返済は必要なくなる。また,信用貨幣を用いた貸し付けを信用貨幣で返済することも一種の相殺である。例えば銀行から預金通貨で借り入れを行った企業は,借り入れを行ったという点で債務者である。と同時に,当該銀行の預金を所持しているという点で銀行に対する債権を保持している。この借入を預金通貨を用いて返済するのは,債権と債務を帳消しにする行為と理解できる。第三に,債務を,債務者の債務よりもより信用度の高い債務証書で返済することである。債務には,債務の流通する範囲による階層性が存在する。個人の債務よりは企業の債務(手形など),企業の債務よりは銀行の債務(当座性預金や銀行券),銀行の債務よりは中央銀行の債務(中央銀行当座預金や中央銀行券)の方が流通する範囲が広い。この関係を利用し,個人や企業の債務は,債権者に対してより上位の債務,例えば銀行預金や中央銀行券を引き渡すことで決済できるのであり,銀行が他行や中央銀行に負う債務は,中央銀行当座預金や中央銀行券で決済できるのである。
 管理通貨制度の下では正貨流通が停止しており,兌換は行われない。しかし,債権債務の相殺や,より信用度の高い債務証書への置き換えは可能である。なので,預金通貨や中央銀行券は,管理通貨制度でも依然として信用貨幣としての機能を果たすのである。この機能を安定させるために必要なことは,悪性インフレーションの防止であり,債務の階層構造の安定である。

3 マルクス信用貨幣論とMMTの違い

(1)MMTの特徴:表券主義
 さて,上記のマルクス派信用貨幣論とMMTは,現に流通している預金通貨や銀行券が信用貨幣だとするところ,債務の階層(ピラミッド)構造による決済を認めることでは一致している。大きく異なるのは,マルクス派は信用貨幣の流通根拠を債務の決済可能性に求めていることであり,それは民間経済内部で可能になっているとすることである。対して,MMTは通貨の流通根拠を表券主義で説明する。政府が国民なり住民なりの人々に対して租税債務を課し,その租税債務の支払いに使えるものとして通貨を発行し,流通させるのだというのである。租税債務の支払いに用いることができること,その可能性を政府が保証することが,通貨の流通根拠なのである。
 私は,租税債務の支払いに用いられることが,法定通貨の流通根拠の一つでありうることは否定しない。マルクス派の理論構造になかには,これを否定するものはない。しかしマルクス派の信用貨幣論では,信用貨幣生成の論理の中に流通根拠が含まれているので,表券主義を必要としないのである。
 この両説の違いには,どのような理論的背景があるのか。

(2)共時的・論理的説明と通時的・歴史的説明
 まず,マルクス派は,現代の通貨の流通根拠を,共時的に,現在のシステムが成り立っている論理的説明として行うのに対して,MMTは,過去から現在に向かっての通時的・歴史的説明として行うという違いがある。
 マルクス派の内部でもこの二つの説明方法については長年の論争があるが,信用貨幣論が依拠するのは共時的・論理的説明である。説明すべきは現代の通貨であり,現代とはつまり資本主義社会であり,管理通貨制度である。管理通貨制度を,より抽象的なモデルから具体的なモデルへという順序で,商品通貨から出発し,商品経済における手形の論理を加え,さらに資本主義経済における貸し付けの論理を加えて,実際の複雑な金融システムを説明しようとするのである。
 対してMMTは,前資本主義社会や資本主義社会の初期に商品通貨が用いられていたことを否定し,過去から現在まで政府が租税支払いに使えるものとして発行した政府通貨が用いられてきたことを,現代の資本主義経済における通貨の流通根拠の説明に用いようとする。歴史的に,政府通貨が租税支払いにもちいられてきたことが現在の通貨の表券主義的説明の根拠なのである。
 ここに両説の違いがある。私は,説明の仕方として,現在のシステムが成り立っている根拠は,あくまでも現在のシステムの論理的説明によるべきであり,システム成立の歴史的経過の説明によるべきではないと考える。

(3)信用貨幣論による説明と表券主義による説明
 次に,マルクス派は信用貨幣論から出発し,信用すなわち債権債務の決済の論理で通貨の流通根拠を論じる。対して,MMTは貨幣本質論措定は信用貨幣論なのだが,通貨流通根拠論になると表券主義を強調する。MMT派はそうは考えていないであろうが,私には信用貨幣論と表券主義は異なるものであり,MMTは二元論的説明を行っていると思える。
 信用貨幣とは,流通する債務証書が貨幣の役割を果たすものである。それが流通するのは,債務証書が債務証書として健全だからであり,端的にいって決済が可能だからである。したがって信用貨幣の流通根拠は,債務証書としての決済可能性に求めなければならない。私の意見では,それが上記の三つの方法であり,管理通貨制度の下ではそのうち二つが機能しているということである。
 MMTの表券主義は,租税債務の支払いに使えることを通貨流通の根拠としている。しかし,それならば,信用貨幣でなくとも,国家が強制通用力を付与した価値シンボルでよいはずである。政府の債務としてでなく資産として発行する通貨でもよい。中央銀行券でなく国家紙幣やコインでもよいはずである。いずれでも租税債務の支払い手段として認めることは可能である。
 つまり,MMTの主張する表券主義の政府通貨は,必ずしも信用貨幣でなくともよい。表券主義の基本論理は,信用貨幣論を必要としていないのである。MMTは,租税債務の論理を信用貨幣論と接続させているようであるが,私の見るところ,その接続は十分ではない。信用貨幣とは,債務を負う側が発行する債務証書である。しかし租税の場合,債務を負うのは人々であり,通貨を発行するのは国家の方である。これでは,政府の債務としての信用貨幣の成立を説明することにはならない。政府通貨は信用貨幣でなくても成り立つのである。
 マルクス派信用貨幣論は,現代の通貨の流通根拠自体を信用貨幣論によって説明する。信用貨幣が生成する論理の中で信用貨幣の流通根拠も説明するのである。対してMMTは,現代の金融システムの説明には信用貨幣論を駆使するが,通貨の流通根拠自体はそれとは別に表券主義で説明する。以上が両説の違いである。私は,表券主義による説明自体について否定するものではないが,信用貨幣論を駆使するのであれば,信用貨幣の流通根拠は,信用貨幣生成の論理の中で明らかにすべきだと考えている。

※マルクス派信用貨幣論の中にもまたヴァラエティがあるが,ここでとくに念頭に置いているのは,岡橋保,村岡俊三,吉田暁,松本朗の学説である。本ノートで記したことはこれらの先学に多くを負っている。ただし,いずれとも完全に一致するわけではない。

※このノートを書いた後,類似の問題意識による飯田和人「MMTおよび内生的貨幣供給論における貨幣把握について-現代貨幣の流通根拠を巡って-」『政経論叢』90(1/2),2022年(飯田和人『現代貨幣論と金融経済:現代資本主義における価値・価格および利潤』日本経済評論社,2022年に収録)が発表されていることを知った。拙論とは見解が異なるが,参考になる。

続編:「続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか」Ka-Bataブログ,2022年9月8日。

2022年7月27日水曜日

斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで

  いま世間で話題のマルクス経済学者と言えば,斎藤幸平氏であろう。実は,私は『人新世の資本論』(集英社新書,2020年)については,共産主義をめざせ的なアジテーションにいま一つついていけなかった。私が政策論としてはグリーン・ニューディール論者だからであろう。しかし,今回,同書より前に出版されている斎藤氏の研究成果である『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』をようやく一読し,新鮮な驚きを覚えた。テレビや一般向けの文章で氏が語ることとはずいぶん異なる印象を受けた。やはり主著を読むべきである。

 斎藤氏が本書を通して言わんとすることは,大きく二つと思える。

 一つ目の主張は,学説史的に言えば,マルクスは『資本論』第1巻を出版した後,自然科学の研究を深め,それまでよりもエコロジカルな視点を強めたということである。なので,マルクスのエコロジーは出版された『資本論』よりも深まっていたということになる。これはマルクスの著作だけからでは読み取ることができないため,斎藤氏は新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)に収録されたマルクスの読書の記録である「抜粋ノート」や,蔵書への書き込みを検討し,解釈することで自説を主張した。マルクスがリービッヒの農芸化学を熱心に研究し,そこからリカードの収穫逓減法則批判の根拠を獲得したことや,土地疲弊の例を中心に物質代謝の攪乱の視点を得たことはよく知られている。しかし,斎藤氏によると,マルクスはその後,フラースの沖積理論と,過剰な森林伐採から地域全体の気候変動を論じる観点を学び,気候や植物が時間とともに変化すること,その変化の過程に与える資本主義的生産の破壊的影響はリービッヒが示唆するよりも広範であり,容易に修復できないことを認識したのである。

 二つ目の主張は,理論的には,マルクスは,『ドイツ・イデオロギー』以後,一貫して「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被るか」(MEGA II/3:57より。『大洪水の前に』110頁)という問いを持ち,そこから人間と自然の物質代謝の亀裂を分析しようとしていたということである。ここで生じるのは「素材」(ものとしての在り方)と「形態」(資本主義の下での経済的規定)の絡み合いである。経済学が対象とするのは「形態」の方(価値や価格や蓄積)だけだと思われがちであるが,そうではない。「マルクスの経済学批判の方法は,このような社会的生産から生じる素材的世界の攪乱を,資本の論理が引き起こした矛盾として,その歴史的特殊性を把握することにある。ここで重要なのは,単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であったということである」(『大洪水の前に』254頁)。だから環境破壊は「資本主義のせいだ」というだけでは十分ではないし,環境破壊について経済学の課題でないとすることも適当ではない。「資本主義の運動が,具体的に環境のどこをどれほどどのように破壊しているか」を分析するのがマルクスの視点であった。

 なので斎藤氏によれば,ある時期以降のマルクスは,自然を人間が思うがままに支配するプロメテウス主義でアンチ・エコロジーだったわけではない。倫理的に「資本主義が環境を破壊する」と告発するだけでもない。また,斎藤氏によればエンゲルスにやや顕著な,自然法則を正しく理解して「自然の復讐」を防ぐという超歴史的視点でのエコロジーをとっていたわけでもない。「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被る」かを分析し,どのように「物質代謝の亀裂」が入り,資本の「有機的」構成に影響し,素材の弾力性の損傷によって資本の弾力性も損なわれるかを論じようとしたのである。

 私には正確な学説史上の評価を行う素養が不足しているものの,文献学の迷宮のような新MEGA研究の理論的意義がこれまで呑み込めなかっただけに,「抜粋ノート」を読み込んで晩期マルクスの思想を探るという切り口は,たいへん面白かった。現在の温室効果ガスによる地球温暖化とは異なるものであるが,森林伐採による気候変動論をマルクスが自説に取り込もうとしていたということには,率直な驚きを覚えた。

 また「単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であった」ことは,もとより産業論の研究者として大いに支持するところであるが,マルクス自身がこの視角をエコロジーまで伸ばそうとしていたことにも新鮮な驚きを覚えた。この視角ならば,単に資本主義の自然破壊を抽象的に告発するのではなく,どのように破壊するのか,元々変動するものである自然に資本主義がどのように影響を与えるのか,文明を崩壊させる限度はどこにあるのかという,具体的で,いまでいう持続可能性を視野に入れた分析が可能になるだろう。

 このように,私は『大洪水の前に』を,マルクス研究としては久しぶりに興奮をもって読むことができた。

 最期に,本書から逆に,マルクスには時間がなくてできなかったことを考えたい。つまり,エコロジーの社会変革論であり階級論である。マルクスは,資本主義は労働者階級を生み出し,彼/彼女らに厳しい労働条件と生活状態を強いることを明らかにする一方で,資本主義的生産は労働者を社会変革の担い手として,また将来社会の生産の担い手として鍛え上げることを論じた。その論じ方が正しかったかどうかは別にして,少なくとも理論的,歴史的に論じたことは事実である。対してエコロジーについては,マルクスは,斎藤氏の言うとおりだとすれば,資本主義による環境破壊を分析する視点を確立する途上で世を去った。とすれば,その先の問題,つまり資本主義による環境破壊が,社会のどのような階級をどのような状態に置き,したがって,どの階級が環境を保全し,そのために必要な社会改革に立ち上がるのかという必然性や蓋然性を検討する時間的余裕を持てなかったのであろう。

 それは,後の世代に残された課題である。斎藤氏がその課題に取り組むためのマニフェストが『人新世の資本論』だとすれば,私は斎藤氏のマルクス研究の成果を学びつつ,現代の課題については,私なりに何かを言えるようになりたいと思うのである。


斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年。




2022年3月28日月曜日

遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために

 ポストコロナの物価を理論的に考える上での難問は,コロナ以前やコロナ禍で行なわれた財政支出が,今後の物価上昇の遠因となるかどうかである。またもう少し解像度を上げて言うならば,現時点や今後の財政支出の他に,企業や個人の手元に蓄積されている現預金や金融資産が,物価形成に参与していくかどうかである。

 これまで私は,リフレーション論批判,「量的・質的金融緩和」論批判,財政拡大の必要性とその方向性に関する議論を行ってきた。そのために必要な理屈として,マルクスの貨幣流通法則,紙幣流通法則,手形論,信用論,銀行論を学び直して動員し,そこにMMTの考え方も取り込んできた。しかし,インフレが再燃しつつあるポストコロナの物価を考える際には,これらだけでは十分ではない。不足している理論装置の一つが遊休貨幣論である。このノートでは,貨幣流通論における遊休貨幣論の必要性とその位置づけについて,基礎的な論点を提示したい。

 「講義ノート:管理通貨制度における信用貨幣の供給」「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」「講義ノート:管理通貨制度下の貨幣流通,蓄蔵貨幣機能,遊休と金融的流通」で論じたように,管理通貨制の下での貨幣流通の基本的な動きを理解する枠組みは,マルクス派の諸理論を適切に用いることによって構築可能である。「金兌換が停止された世界はマルクス経済学では理解できない」などというのは俗論に過ぎない。

 とりわけ重要なのは,貨幣流通法則,すなわち「価格で見た商品流通総額を貨幣の流通回数で割ることによって,流通に必要な貨幣量が得られる,商品流通総額と貨幣の流通回数が流通に必要な貨幣量を決めるのであって逆ではない」というものである。貨幣流通法則は,現代の信用貨幣である預金通貨と中央銀行券が,金融システムにより,貸付・返済を通して流通に出入りする時には全面的に適用される。他方,これらの通貨が財政システムにより,政府支出・課税を通して流通に出入りする際には,紙幣流通法則も働く。

 金融システムによる通貨供給は貨幣流通法則にのみしたがうものであり,商品の世界からの必要に応じた内生的通貨供給である。したがって名目的物価上昇という意味での貨幣的インフレーションを起こさない。他方,財政支出による供給は紙幣流通法則にもしたがうので,商品総量を所与とした,外生的で一方的通貨供給にもなり得る。実際にそれが起こるかどうかは,財政支出が,失業者の就業,遊休している設備の稼働,滞貨の流通,そして未利用資源の商品化を引き起こすか,それらを起こさずに通貨供給量だけを引き上げるかにかかっている。最後の場合には物価だけが名目的に上昇する貨幣的インフレとなる。なお,ここでマルクスの理論とケインズの理論は重なっている。もちろん,どのような通貨供給によっても,個別的需給不均衡による価格上昇や,生産費上昇による実質的物価上昇は起こり得る(※1)。

 しかし,このように整理した場合でも,なお理解が難しい領域がある。それは遊休貨幣の動きである。21世紀突入以来,日本の大企業が現預金や金融資産を積み上げてきたことはよく知られている。この傾向はコロナ禍でも続いた。そして家計もまた長らく貯蓄超過であり,コロナ禍でも日本全体で見れば現預金を積み上げた。賃金の低下幅を上回って消費が減退し,さらに給付金が支給されたからである。これを理論的に言うならば,一方では,産業企業による,利潤を産業資本に転化するという意味での資本蓄積が停滞しているのであり,他方では,労働者家計を含めて家計内部には相当な格差があり,一定の家計では相当な貯蓄を形成しているのである。これらの滞留する,あるいは金融的流通に向けられている現預金は,貨幣論的には,「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある。これをどのように理解すべきか。

 一方において,これらはマルクス派の言う蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣とは,流通から外部に出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される貨幣である。これを満たすのは,それ自体が価値を持つ,金貨や銀貨などの正貨だけである。預金通貨や中央銀行券は,貨幣流通法則の次元での蓄蔵貨幣にはなり得ない(※2)。

 他方において,滞留する現預金や金融資産は,少なくとも一定期間,財・サービスの物価形成に参与していない。財・サービスの流通を媒介せずにたんす預金や貯蓄性預金として停滞するか,あるいは金融的流通に回り,株式や社債や国債に投じられているからである(※3)。

 管理通貨制度の下で「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある通貨を整合的に取り扱う理論的方向自体は,古くから提起されている。これらを流通内で一時的に休息している休息貨幣と見なすのである(岡橋保『新版 貨幣論』春秋社,1956年)。この規定は,理論的には貨幣流通法則と整合するものであり,本稿の出発点となる規定である。しかし,問題はこの一時的休息,休息貨幣という規定によって通貨供給の動きと物価形成の関係をどこまで把握できるかである。また,一時的に休息し得るということは,管理通貨制の下での預金通貨や中央銀行券にも一時的な価値保蔵機能が認められるということである。蓄蔵貨幣にはなり得ないが一時的な価値保蔵機能を持つとはどういうことか。

 まずは休息について考えよう。「一時的休息」という規定は,結局は動き出して財・サービスの流通を媒介するというニュアンスを持つ。しかし,現代の資本主義では,この休息する貨幣の量が大きく,休息する期間が長くなり,経済全体への影響が無視できなくなる傾向にある。なぜなら資本主義の成熟とともに,産業資本は投資機会を見つけにくくなって法人貯蓄を積み上げ,家計の一部も貯蓄を形成するからである。これらの貯蓄は現時点では物価形成に参与していない。しかし,今後もしばらく参与しないのか,結局は参与するのか。また参与するにしても,いつどのようなタイミングと方法で参与するか,例えばリベンジ消費か設備投資か在庫積み上げか,何に対する消費や投資か。これらは重要な問題であるが,「一時的休息」という規定だけから直接に答えることはできない。

 とくに問題なのは,財政赤字によって外生的に投入された通貨の行方である。ある時点で財政の一方的拡大が行われても,支出のかなりの部分がいったん遊休貨幣ないし休息貨幣となったとする。その中には家計の所得としての遊休貨幣もあれば,企業の手元での遊休貨幣資本もある。しばらくしてからこれらが支出されると,それらが支出に対応しただけの生産拡大を誘発すれば,需要超過による物価上昇は起こったとしても貨幣的インフレは生じない。しかし,これらの支出が生産拡大を誘発しなければ,貨幣的インフレが発現するだろう。2020年の財政拡大は,2022年や2023年に貨幣的インフレを起こすこともあり得るし,2022年や2023年に雇用と景気を改善して貨幣的インフレは起こさないこともあり得るのである。どちらになるかは,財政を拡大した時点では決定されない。

 「一時的休息」という規定は,通貨供給量の増大からインフレーションの発言までタイムラグがある可能性を示唆している。ここにこの規定の積極的意義がある。しかし同時に,一時的に休息している遊休貨幣が,結局のところ物価を引き上げるのか,それとも引き上げないのかは,場合によるとしか言えないということにもなる。ここの問題は,貨幣流通法則が誤っているとか無効になっているとかいうことではない。しかし,貨幣流通法則が抽象的であるが故に,それだけでは具体的な局面の理解に十分ではないということである。遊休貨幣の運動についての,より具体的な運動法則を用いなければ,その物価への影響は解明できないのである。

 次に,一時的な価値保蔵についてである。それ自体価値を持たない,不換の預金通貨や中央銀行券での価値保蔵がなぜ可能となるのだろうか。これらの通貨は,すでに流通内にあるのでインフレーションによる減価のリスクにさらされている。なので,持ち手にとっては,流通手段として用いる以外に道がないように思える。しかし,そうではない。インフレによる減価リスクを相殺するような利得があれば,そこに流通手段以外の利用方法が生まれる。それは現金のまま保有することによる流動性の確保であり,またそれ自体は価値を持たない架空資本,つまりは金融資産への投下による資本蓄積である。もちろん後者は,それ自体リスクのある営みである。しかし,持ち手に取ってこの二つの意義が大きくなるような条件があれば,不換の預金通貨や中央銀行券のままの保有や,金融資産への投下による価値保蔵や価値増殖が試みられるのである。

 遊休貨幣の運動とは,これらが財・サービスの消費に向かうか,財・サービスの購入や雇用の拡大を通した投資に向かうか,それとも現預金のまま遊休し続けるのか,あるいは現預金以外の金融資産の購入に向かうのかという問題である。これを支配するのは,産業活動に投資した場合の利潤の見通しと,流動性選好による利得と,金融資産選好による利得の関係であり,それらを規定する諸条件に他ならない。ここで再び,マルクスの世界とケインズの世界は重なるべきである。マルクス派は,遊休貨幣の運動を論じるために,ケインズの流動性選好説を摂取しなければならないし,そうすることによって自らの体系を損なうことなく拡張することが可能になるだろう(※4)。

 マルクス派の貨幣理論では,管理通貨制の下での遊休貨幣を蓄蔵貨幣として取り扱うことはできない。遊休貨幣は流通内で一時的に休息している貨幣であって蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣ではないにもかかわらず,一定の価値保蔵機能を持つために,現金のまま保有されたり,金融資産に投下されたりすることが可能なのであり,そうされている期間は物価形成に参与しないのである。この遊休貨幣の運動を取り扱おうとするときに,マルクス派はケインズの流動性選好論を摂取しなければならない。これが,このノートの差し当たりの主張である。


※1 このような理解は,マルクス派の中でも貨幣流通法則の現代における作用を最大限に認めるものであり,管理通貨制の下では紙幣流通法則しか働かないという議論の対極に位置するものである。同じマルクス派の中でも,預金や中央銀行券は金本位制であれ管理通貨制であれ信用貨幣だと認めれば前者の理解に近づき,両者は金債務だから金本位制では信用貨幣であっても管理通貨制では価値シンボルに過ぎないと考えると後者の理解になる傾向を持っている。私は前者に立っている。よく言われる話題で言えば,「金・ドル交換停止以後のドルは紙切れに過ぎず,国家権力の強制で流通している」という議論には立たない。ドルは連邦準備銀行の信用ある手形だから流通しているのである。

※2 貨幣蓄蔵をめぐる法則自体は,管理通貨制の下でも作用する。預金通貨は,貸付けや信用代位によって流通に入り,返済や信用代位によって流通から出る。そして流通から出れば消滅する。また中央銀行券は,預金が引き出されることによって発行され,預金として預け入れられると消滅する。両方とも,商品世界の動きに従属して流通に入り,また流通から出る。この意味では貨幣蓄蔵の法則に従っている。しかし,これらが流通から出るのは消滅する時である。流通から出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される正貨は,管理通貨制では存在しない。

※3 株式や社債への投下とは,企業の投資をファイナンスすることではないかという疑問があるかもしれない。株式・社債の発行市場での購入はその通りである。しかし,流通市場での購入はそうではない。既発行の株式・社債といった金融資産を購入すれば,購入に投じた貨幣は前の持ち主のもとに移るだけである。この場合の貨幣流通は金融的流通なのであり,金融的流通にまわっている貨幣は,財・サービスの購買に用いられないという意味では遊休貨幣のままなのである。

※4 ここでは流動性選好を広く定義すれば金融資産選好も含まれると考えたが,小野善康『資本主義の方程式』中公新書,2022年では流動性選好と資産選好は別物として定義されているように見える。今後検討したい。


2022年3月5日土曜日

政治経済学の独自の視点:資本主義への道,アソシエーションへの道 第9回(最終回)

 マルクス経済学入門講義の最終章。私のマルクス経済学理解として,念頭に置いていたことは以下の2点である。もっとも講義では時間がないしあまり複雑なことは言えなかった。

1.私の『資本論』理解は浅いものであるが,東北大学における『資本論』研究の伝統のかけらくらいは意識しているつもりである。一方で,この講義では,宇野弘藏氏の提起した命題,つまり,資本の一般理論は「できる限り資本形態の理論,あるいは純粋資本主義の理論として叙述されるべきである」ことを認める(※1)。しかし,「原理論は資本の運動が永久に繰り返されるかのように叙述するべきである」という宇野氏のたどり着いた結論には否定的である。ではどのように展開するのかというと,「できる限り資本形態の理論,あるいは純粋資本主義の理論として叙述されるべきであるが,どうしてもそうし切れないところはそのように指摘する」のである(※2)。それはいまふうに言うならば,「資本主義には,どうしても市場によっては決定されない側面が含まれている」ということである。『資本論』第1巻の範囲だけで行っても,

・剰余価値率の水準は,経済的に一義的には決まらない。標準労働日をめぐる闘争や国家の介入によって政治的・社会的に決まる(※3)。
・起こるかどうか不確定なイノベーション(生活手段生産部門での生産力上昇)なしには資本主義は発展できない。
・産業予備軍は労働力の再生産費を賃金として受け取ることができないから,資本と市場によっては再生産されない(※4)。

などがこれにあたる。

2.さて,それでもできる限り資本の運動法則が貫徹するものとして叙述しなけばならない。そうした叙述は,一方で上述のように理論的限界に突き当たるが,他方で歴史的限界につきあたる。つまり,資本の法則が歴史的・社会的要因によって修正を受けることがある。その最たる例は,賃金は労働力の価値に等しいという賃金本質論であり,開発経済学ふうに言うならば生存賃金説である。

 この資本の法則が労働運動をはじめとする社会的要因によって修正されたことはまちがいない。賃金が資本の費用としてのみならず,経済成長を支える購買力としても作用するようになり,また労働者家計も貯蓄を持つようになった。そして,資本はこれらを新たな前提条件として資本蓄積の態様を変えていったのである。このような修正によって,資本主義にも様々な局面が生まれる。私はこのように理解するので,例えば大量生産・大量消費による経済成長を歴史的に認識するレギュラシオン・アプローチや社会的蓄積の構造理論(SSA)には肯定的である。

 プラグマティックに言うと,正直,この2がないと授業が成り立たなかった。学生が「なんか資本主義は地獄みたいですが」と質問して来るからである。その先は二つに分かれる。一つは,「とても生きられる気持ちがしなくて絶望的になります」というもので,もう一つは「現実がそこまでひどいと思えないんですが」というものだ。2の視点を持っていることで,この疑問に一応,経済学的に答えることができた。

 この程度の理解しかない奴に講義をさせるなというご意見はあるかと思うが,マルクス経済学の講義がまったくなくなるよりはましということで,ご勘弁いただきたい。

※1 東北大学では,田中菊次氏と原田三郎氏が,宇野氏の問題意識と格闘されたうえで,宇野氏と異なる結論に達した。そのため,両氏の理論を受け継ぐ研究者も,例え宇野派でなくても宇野氏の問題意識を尊重するのが普通の習慣となった。他大学のマルクス経済学者の方には意外かもしれないので記しておく。

※2 ご本人がどう思っているかわからないが,私は守健二氏からこの観点を教えられたつもりである。

※3 それは服部英太郎氏と服部文男氏の受け売りではないかと言われればそうである。

※4 それは原田三郎氏の受け売りではないかと言われればそうである(近年になって梅本克己氏もこの論点を宇野氏に対して提起していたと知った)。

政治経済学の独自の視点:資本主義への道,アソシエーションへの道 第9回(最終回)




2022年2月23日水曜日

マルクス説の不足と補充の必要性(2)どのように個人的所有を実現し,人間と自然の物質代謝を持続可能にするか:資本主義への道,アソシエーションへの道 第8回

 マルクス説の不足と補充の必要性(2)。政治革命後にアソシエーションの経済を構築しなければならないが,集権的計画経済の失敗を経た今,個人的所有を再建する仕組みとはどのようなものなのかはまだ明らかになっていない。詳細は,実際にやりながらでないとわからないにしても,概要くらいわからないと経済思想として成り立たない。

 もちろん現実には,社会主義運動が強まり,その勢力が政権を取ることがあるとしても,相当な長期間,商品・市場・貨幣を用いた経済計算に依拠しつつ,その弊害を改めていくことにならざるを得ないだろう。そしてその経験が国際的に広がるにはさらに長い道のりとなる。政治転換における「革命」はあり得るとしても,アソシエーションへの経済改造は漸進的なものにならざるを得ない。

 しかし,理論と思想としては,未来のアソシエーションとは,資本主義とどう異なる社会であり経済であるかを構想できていなければならない。とくに,経済学者には有名な問題として,1)商品と市場と貨幣に依拠しない経済計算がどのように可能になるのか,2)生産手段が社会的所有であり,大規模組織による生産が行われる条件下で,個人的所有,大雑把に言えば生産の意思決定の民主化と自己労働に基づく取得をどう実現するのかが難問である。ここではその課題の指摘のみにとどめたし,私自身が答えを発見しているわけでもない。

 もう一つ,近年ではどうしても見過ごせないのは,マルクスが機械と大工業の生産力をおおむね未来社会に継承できるとみなしていることだ。しかし,汚染にせよ地球温暖化にせよ,技術と労働の関係そのものを改編しないと対処できないことは明らかである。生産関係を変えるとともに,生産力の質的性格を変えていかなければ,環境破壊は手遅れになるだろう。だから,具体的にどの分野の技術をどうするか,そのための規制や誘導の手段,その背後にある思想は何かは大事なのである。

 なお,動画で「マルクス自身も『資本論』を書いた後で,もっとエコロジストになったという研究もある」と言っているのは,もちろん斎藤幸平氏のことである。ただ彼の研究については『人新世の「資本論」』だけでなく,主著『大洪水の前に:マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読まないと判断できないので,それ以上触れていない。同書は積ん読状態なので,いい加減読まねばならない(2022/9/9補記。読みました。「斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年7月27日)。


資本主義への道,アソシエーションへの道⑦マルクス説の不足と補充の必要性(2)どのように個人的所有を実現し,人間と自然の物質代謝を持続可能にするか



2022年2月21日月曜日

マルクス説の不足と補充の必要性(1)資本主義的生産様式は何をもたらすか:資本主義への道,アソシエーションへの道 第7回

 マルクス説の不足と補充の必要性その1。これは経済学入門の講義なので,政治的価値判断ではなく経済学として考える姿勢で臨む。またいろいろ言い出すときりがないので,『資本論』第1巻の範囲内で,もっとも根源的と私が思うところを述べる。それは,資本主義的生産様式の発展が,スキルの平準化された労働者階級を生み出すという捉え方の問題点である。

 マルクスは「発達した機械の体系」の下での協業を生産様式の最高の発展と見ており,この生産様式が資本主義下で発展すると,小経営をネグリジブルなほどに極小化し,管理・監督者をごく一握りの存在として労働者階級を多数派とし,労働者の特殊なスキルを不要なものとすると考えていた。こうして労働者階級は搾取されるが,それゆえにこそ誰もが平等に経済運営に参加できる新時代が準備されるとも考えていた。生産力と生産関係の捉え方として,ここには過度の単純化,あるいは機械制大工業の作用の過大評価があったと思う。

 現代社会において「金持ちとそれ以外」という点では,1%と99%の対立は確かに進行している。しかし,99%の側に階級的・階層的等質化は進行しておらず,その根拠としてのスキルと知識の底上げと平等化が進行していない。現代の技術は,分散的な経営組織を経済の周辺部において生み出してはいるが,いまなおスキルと知識の階層性に対応した形での組織運営が中核的存在である。その一方,小経営は資本主義社会においても頑強に存在しており,その再生産は様々な家族関係によって支えられている(講義のこの箇所では述べなかったが,賃労働者の再生産にも家族関係が作用している)。

 私たちは,この現実を踏まえ,技術と労働と組織と家族の関係について,現実の作用は何であり,未来に向かって準備されていることは何であって,したがって現在の人間には何ができるのかを,考えていくよりない。「生産力ーその具体的形態としての生産様式ー生産関係との対応」というマルクスの枠組みは,そうした構想力を呼び覚ます助けになる。それは,マルクスの,ときに古くなっている記述内容とは区別して活用されるべきだ。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑦マルクス説の不足と補充の必要性(1)資本主義的生産様式は何をもたらすか



2022年2月19日土曜日

人類史の段階区分:資本主義への道,アソシエーションへの道 第6回

  マルクスは人類史をどのように段階区分したと見るべきかという無茶苦茶にデカい話を,何のためらいもなく数分で行う。前回も言ったが,そうせずに考え込み過ぎると,授業が終わる前に一生が終わるからである。

 この講義では,教科書の著者大谷禎之介氏とともに人格依存ー物象依存―自由な諸人格の連合という3段階区分,そしてアソシエーションという概念を肯定しつつ,より具体的には生産様式による区分を採用している。ただし,伝統的な5段階区分(原始共同体ー古代奴隷制ー封建制ー資本主義ー共産主義)やアジア的生産様式を加えた5段階区分(アジア的ー古典古代的ー封建的ー資本主義的ー共産主義的)ではない。原始共同体と資本主義の間はすべて前資本主義で一括する「原始共同体的ー前資本主義的ー資本主義的ーアソシエーション的」の生産様式による4段階区分である。これも大野節夫説に倣ってのものである。

 歴史学においては,前資本主義の社会をみな奴隷制か封建制にあてはめて理解しようとする理解は,早くも1960年代には批判にさらされ,いまでは学術的にはほとんど支持を得ていない。つまり,前資本主義社会は多様である。この伝統的5段階区分批判がそのままマルクス批判や「進歩史観」批判としてなされることもしばしばである。しかし,むしろ多様であること自体の根拠がマルクスの理論に見いだせるというのが,大野説をもとにしたここでの解釈である。

 生産様式は,何らかの生産諸関係に包摂されている(日常用語でいえば,技術と労働は社会の中に存在している)。そして生産様式と生産関係にはフィットしやすい組み合わせとそうでない組み合わせがあり,よくフィットした生産関係が生産様式の呼称となる。「発達した機械の下での協業」という生産様式は資本主義との適合性が極めて強いために「資本主義的生産様式」なのである。マルクスがしばしば「生産様式とこれに対応する生産諸関係」という表現を使ったのはこの意味である(大野説)。

 前資本主義における生産様式の代表は小経営的生産様式である。小経営の特徴は,様々な生産関係と両立することである。小経営主が奴隷を支配下に置くこともできれば,封建領主が小経営に吸着して余剰を吸い上げることも可能である。小経営は発達すれば自由な小経営・小商品生産となるが,そうであっても小経営内の家族のありようはさまざまである。また小経営はそれ自体で再生産を完結させられないため,相当な規模の共同組織を必要とし,したがって様々なタイプの共同体によって補完される(時代をさかのぼるほど,小農家の農業経営は村落の共同作業や秩序なしに完結しない)。だから,小経営は特定の生産関係によって呼称されず,「小経営的生産様式」であり,敢えて言えば原始共同体以外は実に多くの生産関係と結びつく「前資本主義的生産様式」なのである。この小経営理解は,いまだ十分ではないとはいえ,栗原百寿説と安孫子麟説を私なりに理解したものである。

 以上のことから,マルクスの個々の記述でなく理論的枠組みに基づくと,生産様式による段階区分は「原始共同体的ー前資本主義的ー資本主義的ーアソシエーション的」になるというのが,ここでの解釈である。

 なお,以上は過去に向かっての話であるが,未来に向かっては,「アソシエーション的生産様式とはどのようなものか」という難問がある。マルクス本人は,「発達した機械の下での協業」が発展すれば,そのままアソシエーションの生産関係ともフィットする生産様式になると考えていた節がある。21世紀に暮らす者の後知恵ではあるが,これは無理というものだ。20世紀の経験を踏まえるならば,発達した機械の下では,どこまで行っても技能の階層性と組織の階層性はほぼ不可避である。アソシエーションがもしあり得るならば,それを可能とする生産様式,日常用語では技術と労働のありかたが見出され,開発されねばならない。だが,マルクス解釈として言えるのはここまでで,それなら電化は,再生可能エネルギーは,コンピュータは,インターネットは,AIはどのような可能性を開いているのかは,より具体的な次元の問題である。

<参考文献>
大谷禎之介『図解 社会経済学』 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年。
大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年。
栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年。
安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑥人類史の段階区分



2022年2月14日月曜日

アソシエーションの下での個人的所有の再建(2):資本主義への道,アソシエーションへの道 第5回

 「アソシエーションの下での個人的所有の再建」の内容。ここでのマルクス理論史上の問題は,『資本論』においてアソシエーション,端的には共産主義社会への変革が「私的所有を再建しない」が「個人的所有を再建する」と断定していることをどう理解するかである。これに対する理解でもっともありふれたものは,共産主義社会では「生産手段は社会的に所有され,生活手段は個人的に所有される」というものである。しかし,これでは字面の上でも,『資本論』が「私的」と「個人的」を対比していることの意味を理解できない。また個人の生産へのかかわり方についてのマルクスの思想がまったく読み取れない。この二点について,もっと深く読み取るべきではないかという問題意識から,様々な研究が行われた。これはもちろん,個人が尊重されていない旧社会主義国の現実を念頭に置きながらの議論であった。

 私が大野節夫氏や有井行夫氏の研究から自分なりに理解したところでは,こうである。

 まず前提として,個人的所有が「否定の否定」によって「再建」されるという時に,「否定」される前とはどの時点なのかを確定しておかねばならない。これは,自由な小生産の時点である。自由な小生産は,生産関係としては単純商品流通に対応している。「第一の否定」によって自由な小生産が否定され,資本主義的生産の確立する。

自由な小生産→第一の否定→資本主義的生産→第二の否定→アソシエーション

というシェーマである。だから第一の否定は,生産者と生産手段を切り離す本源的蓄積過程とイコールではなく,もっと短いスパンの過程である。

 さて,所有は本来社会的関係の中に存在している。しかし,そこから孤立した,社会とのつながりを極小化された,とにかく排他的権利が法認されているというだけの所有も考えられる。この次元での所有とは,小生産においては生産手段の私的所有である。それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者が生産手段を所有しないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては再建されない。

 それでは,再建される「個人的所有」とは何かというと,二つの側面がある。ひとつは,「意思決定過程に関与することとしての所有」である。諸個人が生産物や生産方法の決定に参画できることである。これは,自由な小生産においては,個人個人がまったくばらばらに行う形で確立される。資本主義的生産においては,それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者は生産物も生産方法も決定できないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては,連合した諸個人が社会的組織を通して意思決定を通して行うという形で再建される。つまりは,民主的に運営されていてメンバーの意志が尊重されている協同組合のような状態である(この授業で私が何度も言ったのは,アソシエーションの理想とは,うまく運営されている生協のようなものであるということだった)。

 もうひとつは,「生産物の取得様式としての所有」である。自由な小生産においては,自己労働に基づく取得が実現する。それは資本主義的生産においては建前だけのものになり,搾取すればするほど多く搾取できるという資本主義的取得法則に歴史的に転化する。そして,アソシエーションにおいては自己労働に基づく取得が再建され,低い段階では「労働に応じた取得」,高い段階では「必要に応じた取得」が実施される。

 マルクス解釈としては,これでよいと思う。問題は,社会的組織を通して行う意思決定が「自分で生産物や生産方法を決めている」という実質を持ちうるにはどういう運営がされねばならないか,また社会的組織の中で働いて「自己労働に基づく取得」という内実を持つしくみとはどのようなものであるか,そして,それらはどうすれば実現できるかというところにある。それらは,どのような労働手段を基礎にしてどのような経営様式によって成り立つのかということである。これらは難問であるが,マルクス解釈から答えが出る問題ではない。より具体的な次元での難問である。

<参考>

大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年
有井行夫『新版 株式会社の正当性と所有理論』桜井書店,2011年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑤アソシエーションの下での個人的所有の再建(2)





2022年2月12日土曜日

資本主義の発展と消滅。アソシエーションの下での個人的所有の再建(1):資本主義への道,アソシエーションへの道 第3回、第4回

 「個人的所有の再建」。さすがにこれを避けると授業が終わらないので,歯が立とうが立つまいが,やる。まずはとりあえず,それは「いろいろな事情で:今までの社会主義国では成り立たなかった」と言っておく。「それだけかい!」と突っ込みが入って当然だが,ここで「まずその前に,これまでの社会主義と称するものが××だった理由について○○し,マルクスの問題点を■■しなければならないのではないか。そうすることなしに++を語ることはできないのではないか」とか言っていると授業が終わる前に一生が終わるので,まずは原典解釈を淡々と進めることとする。マルクスの問題点は第7回以降にまとめて論じる。「個人的所有の再建」の内容は次回。

資本主義への道,アソシエーションへの道③資本主義の発展と消滅



資本主義への道,アソシエーションへの道④アソシエーションの下での個人的所有の再建(1)



2022年2月8日火曜日

個人的所有の生成と否定:資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 

 「経済学入門A」のオンライン講義最終回の抜粋,第2回。この講義は小経営的生産様式と自由な小商品生産を区別し,前者が基礎になって後者が成立するのは長い歴史的過程を経てのことであるという風に『資本論』を読んでいます。

 生産様式とは,一定の生産関係の中での生産諸力の運動形態であり,具体的には労働手段と労働の結合の具体的なあり方です。つまり,直接には生産力のありかたであって生産関係のあり方ではありません。しかし,どのような生産関係にフィットするかという適合・不適合があります。そして,もっともフィットする生産関係が名称について「封建的生産様式」「資本主義的生産様式」などと呼ばれるのです。

 小経営的生産様式は,小経営という生産関係にフィットしたものです。小経営は社会全体を長い時期にわたって支配する生産関係ではありません。むしろいろいろな前資本主義的生産関係の中にある経営様式であり,解体する共同体にかわり,また変容する共同体とともに,ゆっくりとはったつしてくる経営様式です。そして,発達し切ると,自由な小商品生産の下での小経営的生産様式になります。商品経済の中で独立した自営農民や独立した手工業者です。そのとき,生産手段の法的所有という意味でも,生産物の経済的取得様式という意味でも,個人的所有が発達します。

 しかし,自由な小商品生産は,社会全体を支配することなく,発達すればするほど資本主義的生産に転化してしまいます。そうすると,個人による生産手段の法的所有は法的建前に過ぎなくなり,大多数の直接生産者は生産手段を持たない賃労働者になります。また,経済的取得様式としての個人的所有は,他人を搾取すればするほどより多く搾取できるという資本主義的取得法則に転化してしまいます。これが個人的所有の第一の否定です。

 この見解は,大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年と栗原百寿『農業問題入門』青木書店(初版,1955年,有斐閣)に強く影響を受けてまとめたものです。いずれも今後アップする動画の第9回で文献リストに掲げています。

資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 個人的所有の生成と否定








2022年2月2日水曜日

小経営的生産様式の歴史的意義:資本主義への道,アソシエーションへの道 第1回 

 東北大学経済学部で2020年度第2学期に1年生向けに行った「経済学入門A」のオンライン講義から,2021年1月18日に行った最終回の後半部分を,9本に分割して配信します。講義内容はマルクス経済学の入門で,教科書に使用したのは大谷禎之介『図解 社会経済学 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年です。動画の内容は,教科書第1篇第10章「資本の本源的蓄積」第2節「資本主義的生産の歴史的位置」に相当する部分です。これは,カール・マルクス『資本論』で言えば,第1部「資本の生産過程」第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に相当する部分です。

 第1回は小経営的生産様式の歴史的位置づけを行ったものです。小経営的生産様式を重視するのは,ある意味では東北大学における経済学研究の伝統であり,これを定式化した業績は栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年に帰せられます。栗原理論の問題意識は安孫子麟氏に受け継がれ,その新たな定式化は,安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年などに示されています。また,これとは別に,平田清明氏の個体的所有論をめぐる討論から大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店が書かれました。私はこれらの業績から多くを学びました。

第1回 小経営的生産様式の歴史的意義





2020年9月18日金曜日

「経済学入門A」の教科書は再び大谷禎之介『図解 社会経済学』桜井書店,2001年

 10月より「経済学入門A」=政治経済学入門を開講する。前回,2015年度に担当したときは,教科書をどうするかであれこれ迷ったあげく,7つの理由で大谷禎之介『図解 社会経済学』桜井書店,2001年にしている。今回も同様にこの本で行く。その理由としてとりわけ重要なのは,「図解があること」だ。お前はそんな理由で『資本論』の教科書を選ぶのかと言われるかもしれないが,今の学部1年生に講義するには極めて切実な問題だ。そして,実に不思議なのだが,戦後75年,山のように『資本論』の解説書や『経済原論』の教科書が出ているのに,詳細に「図解」したものがほとんどないのだ。

 一般向けアンチョコレベルのものはある。例えば,図解によるビジネスプレゼンのプロである久恒啓一氏の『図解 資本論』イースト・プレス,2009年などは,なかなかよくできている。世界金融危機時の出版で,結構売れただろう。だが,やはり経済学部の授業には物足りない。大学教科書レベルのものとなると,かなり探し回ったのだが,院生時代に守健二氏の本棚で見かけて覚えていた越村信三郎『図解 資本論』春秋社,1966年(初版第1巻1948年)くらいしか見つからない。しかも,これも図書館の奥深く入って見てみたが,思考法が違うのかまったくピンと来ない。

 そして,結局見つかった唯一の,学生が理解できそうな図解入り『資本論』解説書が,大谷教授のものであった。大谷教授も図解が必要だと考え,越村本を念頭に置いて書かれたのだそうだ。

 出版社のページを見たら15刷まで行っている。教科書執筆者としては本望ではあるまいか。それだけに,大谷教授が昨年亡くなられたのは残念だ。

大谷禎之介『図解 社会経済学』桜井書店,2001年。




『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞によせて:戦前生まれの母へのメール

 『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞。視覚効果で受賞したのは素晴らしいことだと思います。確かに今回の視覚効果は素晴らしく,また,アメリカの基準で見ればおそらくたいへんなローコストで高い効果を生み出した工夫の産物であるのだと思います。  けれど,私は『ゴジラ -1.0...