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2026年2月11日水曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(4)

  近年の金需要のうち,まず需要に継続性がある中央銀行の金購入から見ていこう。

 World Gold Councilの統計では,中央銀行の金購入は2010年からプラスになったが,そのボリュームは2022年に1000トンを突破し,3年間1000トン超えを維持した。2025年は多少減退したが,863トンである(※1)。Brooking Institutionの最新レポートによる中央銀行金保有残高も同様の傾向である(※2)。

 この金購入は,その時々の価格上昇とは連動していない。金価格が上記的な上昇に転じたのは2000年前後,急騰したのは2008年の世界金融危機から2012年まで,2019年から2020年まで,そして2024年初からである。とはいえ,長期的に見て中央銀行がネットで連続購入する時代になったことは,需要の底支えになっているとみるべきだ。

 中央銀行の金保有額の重みを世界GDP比で見ると,2000年以後上昇し,2024年末には2.5%に達している(※3)。金保有の多くは先進諸国中央銀行によるものであるが,重量で見たその保有量は横ばいで,過去15年ほどの増加はもっぱら新興国中央銀行によるものである。外貨準備に占める金の割合は金額で見るよりないが,ユーロ地域では62%,アメリカでは75%,ロシアでは32%,中国では6%,日本では6%である。暫定的な推計では世界全体では約4分の1と見られている。

 近年の金購入の動機と傾向については,シンクタンクOfficial Monetary and Financial Institutions Forum(OMFIF)のレポートが参考になる(※4)。OMFIFによると,中央銀行の80%は,いまなお安全性と流動性のためにドルに投資している。また調査回答者の92%は,米国債市場はなお十分な流動性を保っていると回答している。しかし,中央銀行の58%は,来る1-2年の間に多様化を計画している。ドルへの投資をくじく要因は,アメリカの政治環境,地政学,アメリカの財政政策である。一方,ほぼ全ての中央銀行が、準備資産の中核あるいは増加傾向にある構成要素として金を挙げている。このレポートを作成したワーキンググループの議論の中では,外貨準備運用担当者は,配分決定が主に地政学的考慮によって駆動されており,財務的リターンは補助的な役割しか果たしていないと報告している。なお,ETFを保有しようとする中央銀行は少数派である。

 つまり,新興国中央銀行が,地政学的な理由から準備資産としての金の保有を増やそうと地金の形態で毎年購入していることが,金価格の底支えになっているわけだ。

 これを裏返すと,相対的にドルの信認が下がっているということである。ドル建て準備資産は当座預金や紙幣のまま持たれることは少ないので,より具体的には,価値保蔵資産としてのアメリカ国債の信認が下がっているわけである。

 一部のアナリストは,ドル国債信認低下=金価格高騰=インフレーションと見ている。繰り返し述べてきたように,これは部分的に正しいが,部分的にしか正しくない。インフレは金価格を高騰させる。しかし,インフレ以外の要因も金価格を高騰させる。そして金価格高騰はインフレを起こさない。インフレとは別に,地政学上の理由によってドル国債信認低下=金価格高騰が起こっていると見なければならない。金が今では流通手段や支払い手段ではなく,しかし価値保蔵手段ではあるために,このようなことが起きるのである。

 では,2024年以後に先鋭化した地政学的要因とは何か。それは,大国が互いに武力の行使を辞さないものに変転しつつあることである。中国一国が台湾への武力侵攻を放棄しないだけではない。ロシア一国がウクライナを攻撃するだけでもない。アメリカ一国がベネズエラを攻撃し,デンマークを脅迫するだけでもない。複数の大国が武力行使をためらわないために,相互作用が破滅的な結果をもたらしかねないことである。これは新興国にとって,国際通商システムや決済システムへのアクセスに障壁が生じることを意味する。これら諸国の通貨当局は,平和裏にドル国債をドル建預金に転換できないリスクや,ドル建預金で国際決済ができなくなるリスクを考慮せざるを得ないのだ。インフレーションのリスクだけではなく,国際政治による通商・決済の途絶リスクが高まりつつある。中央銀行の購入による金価格底支えの意味はそこにある。

※1 World Gold Council, Gold Demand Trends: Q4 and Full Year 2025, January 29, 2026.
https://www.gold.org/goldhub/research/gold-demand-trends/gold-demand-trends-full-year-2025

※2 Gian Maria Milesi-Ferretti, How important are central bank holdings of gold?, Brookings Institution.
https://www.brookings.edu/articles/how-important-are-central-bank-holdings-of-gold/

※3 この段落の終わりまで同上レポートによる。なお,アメリカの場合,金の現物は財務省が保有しており,FRBはそれに対するGold Stockを保有している。この経過は,重見吉徳「【マーケットを語らず Vol.211】米国政府の保有ゴールド含み益とBITCOIN法:その①」フィデリティ証券,2025年8月21日を参照。
https://www.fidelity.co.jp/page/strategist/vol211-the-fed-gold-revaluation-and-bitcoin-act

※4 この段落の記述は,OMFIF Global Public Investor Working Group, Redefining resilience  in reserve management How global public investors are navigating  uncertain time, 2025による
https://www.omfif.org/redefining-resilience-in-reserve-management/

2026年2月6日金曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(3)

 金価格は1月末から2月初めにかけ,暴騰したかと思えば暴落している。このことは,前回までに論じたことの傍証となっている。つまり,金価格上昇がもっぱらインフレーションの表現だという見解は誤りなのである。数日以内でインフレとデフレが逆転するはずもないし,そもそも管理通貨制のもとでは不況による価格下落はあっても厳密な意味でのデフレは起きないのであり,したがい,金が暴落してもデフレのせいではないのである。

 さて,それでは,資産としての金需要をどう考えればよいか。ここからはある程度実証的に論じる必要がある。公開情報しか取れない立場では限界があるが,できるだけやってみよう。

 金について比較的信頼できる統計は,World Gold Council(WGC)のものである(※1)。1月30日に発表されたばかりのGold Demand Trends Full year and Q4 2025によると,2025年の金需要は5002トンに達し,前年比1%増加した。1年前の2024年の金需要は4962トンであった。

 需要の内訳は以下のようになる。1トン未満は四捨五入している。

2025年
・宝飾品製作需要1638トン,総需要に対するシェア32%,前年需要量比16%減
・技術需要323トン,シェア7%,前年比1%減
・投資需要2175トン,シェア44%,前年比73%増
・中央銀行その他の機関の需要863トン,シェア17%,前年比37%減
・店頭取引その他3トン,シェアほぼ0%,前年比で1%未満に
・合計5002トン

2024年
・宝飾品製作需要2026トン,シェア41%
・技術需要326トン,シェア7%
・投資需要1185トン,シェア24%
・中央銀行その他の機関の需要1092トン,シェア22%
・店頭取引その他331トン,シェア7%
・合計4961トン

 WGCのいう宝飾品製作と技術の需要が,前回まで述べた商品としての需要,投資需要と中央銀行の需要が資産としての需要に相当する。

 投資需要の内訳は,以下のようになる。

2025年
・地金(延べ棒と鋳貨)1374トン,シェア28%,前年比30%増
・上場投資信託(ETF)および類似商品801トン,シェア16% ,前年は3トン売り越し

2024年
・地金(延べ棒と鋳貨)1188トン,シェア24%
・上場投資信託(ETF)および類似商品マイナス2.9トン

 さて,ここで注目すべき点は二つである。

 第一に,中央銀行が買い手となっていることである。WGCによれば,2010年以来連続して買い手となっている(※2)。中央銀行は通常はETFを購入しないので,地金の購入である。

 第二に,投資需要が極めて大きく,まだ拡大していることである。そしてまだ地金の水準には及ばないものの,2025年にETFを通した金保有が急拡大していることである。

 以下,この2種類の需要について検討していこう。

※1 World Gold Council, Gold Demand Trends: Q4 and Full Year 2025, January 29, 2026.
https://www.gold.org/goldhub/research/gold-demand-trends/gold-demand-trends-full-year-2025

※2 Gold Demand Trends Full year and Q4 2019, January 30, 2020.
https://www.gold.org/goldhub/research/gold-demand-trends/gold-demand-trends-full-year-2019


2026年2月4日水曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(2)

  さて,まず問題とすべきは,最近になってアナリストの一部が主張するように,金価格の高騰をもっぱらインフレーションによって説明できるかである。今回は,この点を主に理論的に考察する。

 前回述べた基本的観点をもう少しかみくだくと,金価格を規定する要因は四つあると思われる。

 第一に,管理通貨制と変動相場制の下では,金の生産費(金の投下労働価値)が変化すると,それによって産金業者の金売却価格も変動するといこうとである。これは金1グラム=Xドルと価格標準が固定されている金本位制とは異なる現象である。

 第二に,一般商品としての金に対する需要によって価格が変動する。主に工業用および宝飾用としての需要によるものである。

 第三に,財政赤字を通した外生的な代用貨幣(預金貨幣または中央銀行券)の供給によって事実上の価格標準が切り下がり,厳密な意味でのインフレーションとなることで金価格が上昇する(※1)。これについては上昇だけがあり得て,下落は起こりえない。なぜなら代用貨幣が不足すれば,単に物価が実質的に下落して不況となるのであり,価格標準切り上げとしてのデフレーションは起こらないからである(※2)。

 第四に,資産としての金の需要により,金の投下労働価値から乖離して金価格が上下する。

 コロナ禍での巨額の財政赤字を背景にして,ポストコロナ期には先進諸国でインフレーションが生じたことは確かである。上記の第3要因,つまり厳密な意味でのインフレーションによる金価格上昇も起こっているとみてよいだろう。しかし,それだけでは十分な説明要因とはなりえない。というのは,最近の金価格高騰はポストコロナのインフレーションがいくらかおさまってきた2024年以後に起こっているからである。また,それ以前の高騰も,リーマンショック後,物価が下落気味になっていた2009-11年頃に起こっている。加えて,傾向的には上昇している金価格であるが,この2月初めに見られたように,時に下落することもある。前述のように管理通貨制のもとでは厳密な意味でのデフレーションは起こりえないので,金価格がこれを反映することはない。

 金価格が上がったからインフレなのだと,逆の説明をするのも間違いである。これは金本位制と管理通貨制を混同するあやまりである。

 金本位制のもとでは,公定価格標準としての金価格を切り上げれば,物価全体も上昇する。例えば以下のようになる。=は投下労働価値に沿って等価交換されることを意味する。

1)出発点
投下労働価値量X=金1g=100ドル=商品100個
商品1個=1ドル

2)金本位制のもとでの公定価格標準の切り下げ
投下労働価値量X=金1g=200ドル=商品100個
商品1個=2ドル

 しかし金貨流通や兌換が停止され,公定価格標準が廃止された管理通貨制のもとでは,金価格は他の商品と同じように独立して上昇しうるし,下落しうる。金価格が上がれば,金で測った物価はむしろ下落する。しかし,金に対して通貨が下落しているから,通貨で測った物価は一定なのである(※3)。なお,ここで金価格の上昇が金生産費の高騰(金の労働価値の増加)によるのか,単に需要超過によるのかで本質的な意味は異なるが,現象としては同じである。例えば以下のようになる。×は,不等価交換が行われることを表す。

1)出発点
投下労働価値量X=金1g=100ドル=商品100個
商品1個=1ドル

3)管理通貨制のもとでの金生産費の2倍化
投下労働価値量2X=金1g=200ドル=商品200個
商品1個=1ドル

4)管理通貨制のもとでの需給関係による金価格2倍化
投下労働価値量X=金1g × 200ドル=商品200個=投下労働価値量2X
商品1個=1ドル

 3)でも4)でも,金価格のみが上昇するのであり,通貨ドルで測った物価が上がるわけではない。たしかに通貨の金に対する購買力は下がっているが,だからといって物価全般が上昇するわけではなく,インフレーションになるわけではない。金価格が上がっていることを,それに相応するインフレーションが起こっている証拠と見なすのは,まちがいなのである。

 確かにポストコロナでインフレーションは起こっている。しかし,金価格の2000年以来の傾向的上昇や2024年以来の急騰をすべてインフレで説明することは,情勢論としては行き過ぎであり,理論的にはむしろ間違いと言わねばならないのである。

 とすると,金価格の高騰の相当部分は第1,第2,第4要因に求めねばならない。第1要因の金生産費の上昇は,2000年代半ば以後,確かに生じている(※4)。しかし,短期間に急激に起こるものではない。第2要因の商品としての需要も,急騰しているとは考えにくい。銀の場合は工業需要が急増しているが,金についてはその証拠はない。すると,第4の,資産としての需要の増加が最も説明力のある要因であろう。

 この資産需要は何によるものか,それは商品に対する純然たる投機なのか,それとも貨幣に関わることがらなのか。これが,次の問題である。

※1 ここで厳密な意味でのインフレーションとは,価格標準の切り下げによる全般的・名目的物価上昇のことである。厳密な意味でのデフレーションは,その逆である。特定商品の需要超過により物価が上昇することは,日常用語ではインフレーションであるが厳密な意味では一時的または実質的物価上昇である。

※2 岡橋保『金の価格理論:価格標準の研究』日本評論新社,1956年,216-221頁。同『増訂 金投機の経済学』時潮社,1973年,88-89頁。川端望「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492,2025年,6-7頁(

https://doi.org/10.50974/0002002920)。 当たり前であるが,「不況だから物価が下がる」ことはある。物価の持続的下落をみな「デフレ」と呼ぶ日常用語にしたがうとしても「不況だからデフレになる」のである。逆に,不況と無関係に,通貨不足から物価下落期待が生じ,そして実際に物価下落が起こり,それゆえに不況になる「デフレだから不況になる」ということはあり得ない。あるとすれば,単に「不況で物価が下がっていて,いよいよそれがひどくなりそうだから不況になる」だけである。通貨と商品の量的関係を抜きに,「期待で物価は決まる」とする理論は誤りである。

※3 金本位制の場合と管理通貨制の場合の相違については,村岡俊三『資本輸出入と国際金融』白桃書房,1998年,121-127頁を参照。金本位制の場合から出発して,管理通貨制度になるとそれがどう変わるのかを説明することが大事なのであって,金を理論から追放して事足れりとするのは誤りなのである。

※4 松本朗「金価値と金価格の動向とその理論についての考察―最近のドイツにおける研究動向を参考にして―」『立命館経済学』61(6),2013年,350-351頁(http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/61617.pdf)。



2026年2月3日火曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(1)

 2024年以降,金価格の高騰が著しい。また,2026年1月末から2月初めにかけては暴騰と暴落を示すなど,値動きも激しい。この理由は,直接的なマーケット心理としては,安全資産を求めてのリスクヘッジまたは逃避行動とされている。それにしても,主要国の物価上昇率をはるかに超える値上がり率である。また株式についても,先進国の市場はコロナ突入直後のショックから立ち直った後は,おおむね好調に推移しており,むしろ株価と金価格の同時上昇が不思議がられるという状況である。ちなみに銀とプラチナも似たような傾向を示している。

 過去1年間の金価格高騰は何を意味するのか。リスクヘッジまたは安全資産への逃避とは何なのか。このことに対する見方は,大きく見て二つに分かれるようである。

 ひとつは,単に商品としての金が極度に選好されて投機が激しくなっているという見方である。この背後には,金は単なる商品の一つであり,その希少性,耐久性,分割・結合の容易性,あるいは過去に貨幣商品であったことの記憶から,極端に関心を集めているに過ぎないのであって,そこに貨幣論上の意味は何もないという見方がある。1970年代以来,常識として定着してきた金廃貨説の立場と言ってもよい。

 しかし,あまりに金が選好されることについて,別の見方も浮上している。それは,金価格の高騰は各国通貨の信用失墜の裏返しであり,結局のところ金が貨幣である,あるいは貨幣として復権しつつある。という見方である。このような見方は,1971年8月の金ドル交換停止,そして1973年の変動相場制移行後,衰退する一方であったが,ここにきて復活している。それも研究者の間にではなく,アナリストの間で広がっているのである。金価格高騰とは,ドルの金に対する購買力暴落の裏返し,通貨に対する信認の崩壊,インフレーションの表現またはその予兆だというのである。

 しかし,私は,いずれに対しても与することはできない。金の位置はアンビバレントだからである。金のような価値を持つ商品が貨幣であることは,資本主義にとって必要であるとともに制約である。だから資本主義は,ひとたびは金を貨幣としながら,金の実際の流通を回避できる代用貨幣のシステムを構築してきた(川端望「通貨供給システムとしての金融システム」研究年報『経済学』第81巻,東北大学大学院経済学研究科,2025年3月)。そのことによって資本主義は発展し,しかし,その代償としてインフレやバブルという,自己の基盤を掘り崩す問題をも発生させてきたのである。

 今この瞬間,金は貨幣として流通していない。しかし,あらゆる商品の中で相対的に貨幣に最も近いものとみなされている。この両面をともに重視する見地から,金価格高騰について考えていきたい。しかし,途中で行き詰まって止めるかもしれないことをご容赦いただきたい。何しろ,明日にはどんなショックがマーケットを襲うともしれず,言うべきこともどんどん変わっていくのかもしれないのである。

 ともあれ,金価格に対する基本的観点は,以下のようなものである。古いと馬鹿にするなかれ。時代が一回りしてみると,古い理論が実は正しかったということもあるのだ。

「金の市場価格には価格標準の逆数と,一定金量を代表する代用貨幣の支配金量の逆数を示す二つがある。前者の価格標準の切下げを反映する金の市場価格の騰貴は,兌換の停止された銀行券が流通必要金量をこえて濫発されて価格標準が事実上切り下げられても,あるいは平価の法律上の切下げや,金の買い上げ価格の引上げ,為替相場の引上げなど,価格標準を直接切り下げる方法によってもおこる。これにたいして,後者の金の市場価格の騰貴は,価格標準の切下げとはなんの関係もなしにおこる。金との自由な兌換が禁止されているときには,いろいろな事情から金選好がおこり,銀行券の代表金量にすこしの変更もないにもかかわらず,一定量の金がそれ以上の金量を代表する銀行券と交換されるという不等金量の交換があらわれる」(岡橋保『増訂 金投機の経済学』時潮社,1973年,47頁)。



2025年7月20日日曜日

斉藤美彦『ホモ・クアンティフィカンスと貨幣:「価値形態論」から「負債論」へ』丸善プラネット,2024年8月を読んで

 斉藤氏はイギリス金融論の実証的研究者である。東京大学で山口重克氏に師事され,研究職に就かれる前は全国銀行協会連合会(全銀協)に勤務された。本書は,斉藤氏自身の理論形成につながった人々の内生的貨幣供給論への歩みをたどること,複数の諸国の中央銀行が内生的貨幣供給説の見地から量的金融緩和に関する続説を否定していることを紹介し,その意義を確認すること,ミッチェル・イネス,デヴィット・グレーバー,金井雄一などの説に依拠して,信用貨幣を貨幣の起源でもあり本来の姿であるという観点からマルクス経済学の貨幣論を再構築することを呼びかけることという,三つの内容を持っている。私は本書より後の2025年3月に「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」を発表したが,原稿を提出したのは2024年4月であり,本書を参照できなかった。

 斉藤氏が,マルクス経済学宇野派に立脚しながら,現代の預金貨幣と中央銀行券は信用貨幣であって,銀行・中央銀行から内生的に供給されるという立場をとっていることには,私は心より賛同する。また,山口重克氏によって宇野弘蔵氏の商業信用論,すなわち手元遊休貨幣の融通として商業信用を規定する見地が克服されたことを有意義とすることも納得できる。いわゆる日銀理論が横山昭雄『現代の金融構造』(東洋経済新報社,1977年)によってもっとも体系化されていること,全銀協に勤務されていた吉田暁氏と斉藤氏自身の内生的貨幣供給論も日銀理論と同一の潮流にあるという認識・自己規定にも異存はない。

 もっとも,マルクス経済学における信用貨幣の起源は山口氏ではなく岡橋保氏に置くべきである。本書では,わずかに不換銀行券論争における岡橋の立論が紹介されているだけであるが,1940年代から50年代にかけて,信用貨幣論の礎を築いたのは岡橋氏である。それだけではない。結局,今日に至るまで,マルクス体系に立脚した信用貨幣論を,もっとも徹底した姿で示しているのは岡橋説だというのが私の理解である。この点は上記拙稿をご覧いただきたい。

 続いて斉藤氏は,イングランド銀行,ドイツ連邦銀行,スウェーデンのリクスバンクといったヨーロッパ諸国の中央銀行が,量的緩和を自ら行いながら内生的貨幣供給説のペーパーを発行していたことに注目する。三行はそろって,預金貨幣は貸し付けを通して生まれるのであり,中央銀行による準備預金供給によって増えるものではないと主張しているのである。各行とも行っていた量的金融緩和の効果を自己否定するかのような主張である。斉藤氏は,おそらくいずれの中央銀行も,周囲の圧力に押されて量的緩和を行ったものの,それは実は景気刺激策としては無意味であると認識していたのだろうと推定している。各行の内部事情はうかがいしれないものがあるが,少なくとも黒田総裁時代の日銀と異なり,三行は量的金融緩和でリフレーションが起こせるとは考えていなかったことは確認できる。

 本書は,ここまではうなずけるところが多い。しかし,最後になって斉藤氏は,イネス,グレーバー,金井雄一氏らの主張にほぼそのまま追随し,貨幣はその起源から信用貨幣であり計算貨幣であったのだから,本来の貨幣は金属貨幣・商品貨幣だとするのは誤りであり,スミスもマルクスも誤っていたとあっさり認める。そして,マルクス経済学の貨幣論も全面的に見直すべきだと述べて稿を閉じられるのである。これには同意できない。斉藤氏は,マルクス経済学の宇野派であることに相当な自意識を持たれているのだから,もう少しマルクス体系を駆使して粘ってみてはいかがだろうか。

 私が近年の信用貨幣論の諸潮流にもっとも納得できないのがこの点である。マルクス体系によって貨幣の発展を論理的に跡付けるならば,商品流通はほんらいの貨幣として商品貨幣・金属貨幣を必要とする。しかし,資本主義の発展は商品貨幣・金属貨幣が現に流通することを桎梏とする。そのため代行貨幣が発展し,商品貨幣・金属貨幣を流通から排除して預金貨幣や中央銀行券に置き換えていくしくみが作り出される。このような整合的説明は十分可能だというのが私の意見である。斉藤氏や彼が依拠した論者は,口をそろえて「物々交換は昔からなく,金属貨幣はさほど用いられていなかった」という経済史上の事実をもとに,貨幣論が商品貨幣・金属貨幣から出発することを論難する。しかし,これは認識論としておかしい。経済理論は経済史ではない。資本主義における様々な事柄を論理的に説明するのに適切な順序は,前資本主義から資本主義に向かっての出来事の時間的順序とは異なるはずである。

 マルクス派が貨幣論が商品貨幣・金属貨幣をほんらいの貨幣とするのは,昔々に金属貨幣が主要な貨幣として使われていたからではない。当たり前だが,21世紀の今日に商品貨幣・金属貨幣が流通しているからでもない。商品貨幣・金属貨幣に即してみることで,貨幣の価値尺度・流通手段・支払い手段・蓄蔵貨幣・世界貨幣という主要側面を余すところなく説明できるからである。そうすることで,資本主義発展とともに商品貨幣・金属貨幣を用いることが桎梏となり,代行貨幣が発展していく道のりをも明らかにできるし,その発展が種々の矛盾を伴うことをも主張できるのである。批判や嘲笑を招くであろうことを承知の上であえて言うが,2025年の今この瞬間も,商品流通は商品貨幣を必要としている。と同時に,資本主義は商品貨幣の不便さを代行貨幣で克服している。と同時に,そこには飛躍的な機能拡張とともにインフレやバブルを引き起こす矛盾が潜んでいるのである。このように端緒的規定と発展的規定の関係を前資本主義の過去から資本主義の現在への移行とみるのではなく,資本主義という同時代を説明する論理的説明の進行とみることがマルクス派貨幣論の思考であり,またそれは妥当だろうと私は考えるのである。

斉藤美彦『ホモ・クアンティフィカンスと貨幣:「価値形態論」から「負債論」へ』丸善プラネット,2024年8月
https://www.maruzen-publishing.co.jp/book/b10123118.html


2025年7月14日月曜日

政府支出は課税することなく可能か?:MMTとの一致点と相違点(覚書)

  SNS上では,「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」と主張する意見がある。これに対しては,たいてい激しい反駁も見られる。しかし主張者はひるまず,全くかみ合わない議論となっている。

 ここでは,この意見について通貨供給論の見地から考える。先取りして言うと,私の意見は以下のとおりである。

A.「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」という主張は,中央銀行を考慮しない1)「中央政府の一般モデル」の次元では正しい。

B.MMTは「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」という主張を2)中央政府と中央銀行を合わせた「統合政府の一般モデル」の次元で正しいとしている。これは正しくない。

C.現実の政策を議論するためには,まず1),次に2)統合政府(中央銀行+中央政府)の制度的枠組みの次元で議論しなければならない。中央銀行を考慮した場合には,中央政府は「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」けれども,中央銀行マネーを借り入れねばならない。その上でさらに,3)国ごとに中央銀行と中央政府の制度が異なることを踏まえて,具体的に議論しなければならない。

 この投稿ではAとBについて説明する。

ーー

 MMTは,「政府は課税することなく支出できる」,「課税は財源確保のためではない」と主張している。この主張は,1)一般理論のモデル,2)一般的な統合政府の制度的枠組み,3)実際の各国の中央政府と中央銀行の制度という,三つの次元で区別して議論する必要がある。

 1)は最も抽象化された経済理論上のモデルであり,いかなる資本主義社会の政府にも妥当するような基本モデルである。2)は,中央政府と中央銀行の間で,もっとも結ばれやすい関係によって描いた統合政府モデルである。中央政府と中央銀行の間に結ばれる関係は,資本主義である以上必ずこうなるというほど一義的に決まるものではない。しかし,このようになるのが合理的であろうという程度には叙述できる。3)実際に政策を議論する際の,当該国の中央銀行と中央政府の諸制度である。

 この覚書では,まず1)一般理論のモデルを素描することで,必要な議論の基礎を築きたい。


■貨幣発行主体としての中央政府の一般モデル

*モデルの叙述

 ここでは,中央政府が貨幣供給にどうかかわっているかの一般モデルを叙述する。ここでは中央銀行の民間組織としての側面を捨象し,権力的側面は,抽象的な中央政府に含まれているものとする。このモデル設定はMMTと似て異なるのだが,その点は最後に述べる。

 中央政府と貨幣経済のかかわりにおいて最も重要なことは,中央政府は,唯一ではないが重要な貨幣供給の担い手だということである。政府は貨幣を供給するのである。そして,まず貨幣を供給して支出し,しかる後,課税して自ら発行した貨幣を回収するのである。これは,実際に存在してきた政府発行不換紙幣や政府発行硬貨のことを考えれば,何らおかしくない想定であることがわかるだろう。

 主流派経済学が明示的に描く政府モデルや,多くの実務家,市民が漠然と心に抱くイメージは,貨幣が既に十分に流通している経済があって,政府はまず課税によってその貨幣の一部を取り立て,それを必要な支出に充てるというものである。しかし,この想定は適切ではない。通貨発行権を持つ中央政府は,まず貨幣を作り出して支出することができるからである。政府支出によって流通に投じられた貨幣が経済活動(商品の流通)を媒介するようになる。そして,政府は課税によって貨幣を回収するのである。この次元では,貨幣の動きは,流通→課税→支出→流通ではなく,「支出=発行」→流通→「課税=回収」と理解すべきである。

 このように政府を貨幣発行主体とするならば,確かに「政府は課税することなく支出する」し,「課税は財源確保のためではない」。「中央政府の一般モデル」の次元ではこうなるのである。一般的な「流通する貨幣への課税主体としての政府」説と「財政の課税先行」説に対して,私は「貨幣発行主体としての政府」説と,「財政の支出先行」説をとるべきだと主張しているのである。

 しかし,中央政府発行貨幣は,どうして流通することができるのだろうか。それ自体が価値を持つ商品を用いた商品貨幣(素材に即して言い換えるならば金属貨幣)であれば,もちろん問題なく流通する。ただし,商品貨幣を発行するためには,政府が十分な商品貨幣を供給するための素材を保有していなければならない。例えば金山や銀山を保有していなければならない。それでは商品流通に必要な貨幣を確保できる保証がない。

 そこで中央政府は,それ自体は無価値な素材を用いた貨幣を発行して,流通させる必要がある。中央政府は国家権力の行使者であるから,それ自体は無価値な素材を用いた貨幣であっても,価値のシンボル,すなわち価値章票として,強制通用力を持たせて流通させることができる。これが法定通貨である。とくに政府は,貨幣の発行のみならず回収も必要であるため,政府発行貨幣を納税に利用可能なものとする。納税に利用可能であるがために,人々は政府発行貨幣を有効な通貨として利用するだろう。これが「貨幣の通用力に関する租税駆動説」である。


*MMTとの一致点・相違点

 さて,私は以上のような理解で,貨幣発行主体としての中央政府の一般的な理論モデルを設定する。これはMMTとどのような関係にあるか。

 ここで種を明かせば,「貨幣発行主体としての政府」説と「財政の支出先行」説,そして「貨幣の通用力に関する租税駆動説」は,いずれもMMTが主張するものである。なので,私は「中央政府の一般モデル」としてはMMTを支持している。

 しかし,重大な留保がある。MMTは以上の関係を「統合政府の一般モデル」,つまり中央政府と中央銀行を含んだ包括的な政府のモデルとして理解している。統合政府全体を「貨幣発行主体としての政府」説と「財政の支出先行」説,そして「貨幣の通用力に関する租税駆動説」で理解すべきだというのである。

 しかし,私は,そうは考えない。中央銀行は半官半民組織だと考えるからである。通貨供給システムとしての金融システムは,商品流通と資本主義的生産の中から発生する。商品貨幣や信用貨幣は,民間経済の中から生まれるし,信用貨幣は商業銀行によって供給される。そして,銀行システムを,一国の貨幣制度として,準備集中と発券集中によって完成させるのが中央銀行である(川端,2025)。つまり,貨幣供給システムとしての金融システムは,権力によって完成させられるものではあるが,もともと民間経済の中から生じるものである。

 だから,中央政府を貨幣発行主体として抽象的に描く際に,私は中央銀行の権力的側面はここに含める。中央銀行の権力的側面は,中央政府から分化したものとして捉えるのである。しかし中央銀行の民間組織としての側面は,そもそも中央政府モデルに含めないし,含めるべきではないと考える。商品・資本主義経済自体が生み出した貨幣と信用のシステムは,中央政府がどうあれ,それとは別に存在していると想定するのである。通貨供給システムを論じる際には,一方に「中央政府の一般モデル」を置き,他方で「銀行―中央銀行の一般モデル」を置く必要がある。そして,それらが取り結ぶ関係として「統合政府(中央政府+中央銀行)の制度的枠組み」を論じるべきである。以前にこれを「二層の銀行・政府」モデルと呼んだことがあるが,今後,もっと詳しく論じていきたい。

 「中央政府の一般モデル」の次元では,確かに,「政府は課税することなく支出する」し,「課税は財源確保のためではない」。しかし,「銀行―中央銀行の一般モデル」を踏まえて「統合政府(中央政府+中央銀行)の制度的枠組み」を論じる次元では,そうなるとは限らない。政府が,中央銀行マネーを借り入れる必要が出て来るからである。

 この点で,私の見解はMMTとは異なる。MMTは,中央銀行の全体を含めて,統合政府を「貨幣発行主体としての政府」説と「財政の支出先行」説,そして「貨幣の通用力に関する租税駆動説」で理解する。銀行―中央銀行システムまでも,政府の課税権力によって成り立っているかのように描くのである。だから中央銀行を考慮した場合でも,平然と「政府は課税することなく支出する」し,「課税は財源確保のためではない」と言い切ってしまうのである。MMTは,現実の銀行を説明するときには信用貨幣論に立つのに,貨幣の存在を根本的には租税駆動説で説明し切ろうとする。預金貨幣や中央銀行券が,もっぱら課税権力ゆえに流通しているかのように描いてしまう。商品流通と資本主義経済そのものが,貨幣や信用制度を作り上げる力が軽視される。ここに問題があると考える。

<参考>

川端望(2025)「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」研究年報『経済学』81,23-52。
https://doi.org/10.50974/0002003359

川端望「財政赤字に伴う国債発行をどのように把握するか:「二層の銀行・政府」モデルの提示」Ka-Bataブログ,2024年11月25日。
https://riversidehope.blogspot.com/2024/11/blog-post_25.html





2025年7月9日水曜日

信用貨幣論から見た金融・財政の制度とオペレーション:ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年を読んで

  ポール・シェアード氏と言えば,日本では1990年代に『メインバンク資本主義の危機』で話題になったエコノミストであるが,今度の日本語訳本は貨幣論である。しかも,現代の貨幣は統合政府の債務であるとする信用貨幣論である。

 その主張を一言で言うと,「長期経済観や政治的インプリケーションを取り除いたMMT」といった趣である。ランダル・レイ『MMT 現代貨幣論入門』と類似のことを,ただしより金融制度論の教科書風に体系立てて漏れなく述べたという感じである。貨幣の起源論はごくさらりと流しており,中央銀行,中央政府,中央銀行,商業銀行のオペレーションに関する記述は信用貨幣論,とくに預金貨幣論に基づいている。長期経済観や政治的インプリケーションはないというというかやや保守的である。例えば再分配政策はほとんど無意味であり,富裕層が資産として保有している株式が企業価値を支えていることは尊重せざるを得ないとしている。この本の推薦者が,一方ではステファニー・ケルトン氏(『財政赤字の神話 MMT入門』著者)であり,他方では新浪剛史氏(サントリー・ホールディングス代表取締役会長)や宮内義彦氏(オリックス・シニアチェアマン)であることは,本書の性格を適切に表示している。

 実務的で淡々としている本書であるが,一つの積極的主張は統合政府論である。中央政府と中央銀行は本質論(著者の表現では「エデンの園」。邦訳41ページ)ではもともと一体なのあり,制御不能なインフレーションを抑止するための制度的工夫として両者が分離されているにすぎないというのである。中央銀行・銀行とともに,中央政府もまた貨幣供給主体である。中央政府の財政支出とは通貨供給であり,預金を増やし,準備預金も増やす。著者によれば,本質論としては,政府預金の残高をマイナスとしたまま,言い換えれば政府を債務超過にしたままでもよい。国債発行は必然ではないのである。しかし,制度的工夫として中央政府と中央銀行,財政機能と金融機能が分離していることにより,多くの場合,政府には国債発行による政府預金残高確保という制約が課されている。国債を発行した場合は準備預金が減るので,財政支出によって増加することと相殺される。ただし,この場合も預金貨幣は増えているので,政府は貨幣を供給しているのである。

 統合政府論の政策的インプリケーションは,金融政策と財政政策の境目があいまいになっていくということであり,それに応じて制度的枠組みも金融と財政を一体にすべきであろうということである。ただし,それは財政を徹底拡張するということでは必ずしもない。なぜならば財政は経済の尻尾であり,実体経済が犬であって,尻尾が犬を振り回してはならないからである。「物理的・人的・技術的・社会的資本の量と質を反映した経済の生産能力」(邦訳294ページ)を確保・拡大することが大事である。それなしに金利低下,さらに量的金融緩和をいくらやっても大した効果はなく,財政を拡張してもインフレになるだけだというのである。

 さて,私は,現状の制度的枠組みとそのオペレーションに関する理解については,シェアード氏にほぼ同意するし,理論的に冷静に論じられている限りMMTにもほぼ同意する(運動家が意見の異なるものを短文で罵倒する限り同意しない)。つまり,大きく見れば現状の説明について,1)信用貨幣論と2)銀行-中央銀行の二重システム論に立つ。低成長下においては銀行システムだけではなく財政システムも必要な通貨は供給して需要を刺激しなければならない。しかし,肝心なことは生産能力の量と質を充実したものにすることである。その「質」については人によって意見が違うので議論がひつようである。しかし,どの方向であろうと,一方では均衡財政は無意味である。他方で,内容抜きに,財政を拡張し,金融を緩和し続ければよいというものでもない。このような財政と金融のオペレーション原理については,シェアード氏にもMMTにも私は同意できる。

 問題は,こうした制度的枠組みとオペレーションのもとで,21世紀の先進諸国においては,金利調節がいっこうに効かずに量的金融緩和に追い込まれ,それでも流動性確保以外の効果がほとんどないのはなぜなのかである。財政赤字を継続的に出しても経済格差と貧困が緩和されず,コロナが収まった瞬間にインフレになってしまうのはなぜなのかである。シェアード氏には,歴史的局面として現在を把握する視点がない。むしろ,格差は単に実力と運の産物だったと言いたいかのようである。しかし,そうではなく,成熟した資本主義の歴史的傾向の到達点として現在をとらえるべきだと私は思う。これにはいくつかの側面がある。

 第一に経済発展により,工業社会は脱工業化社会に移行する。そうすると,投資は生産設備とインフラストラクチュアへの投資から,ハードだけでなくソフトウェアが大きな割合を占める情報システムへの投資,人的資源への投資に移行する。このことは投資需要の量的成長を減退させる。

 第二に,長期傾向としては,供給能力不足の経済から供給能力過剰の経済に移行する。格差と貧困を伴いつつ,平均的には生活水準が上がる。そうすると,相対的高所得層では所得が増えた場合に家計の消費に充てる部分,つまり限界消費性向が下がる。小野善康氏が述べるように,消費ではなく貯蓄,それも金融資産購入に充てる割合が高まっていく。その一方で,中低所得層は所得そのものが伸びない。そして,それ故に需要不足・供給過剰が慢性化する。

 第三に上記二つの傾向を目にした企業経営者は,たとえ既存事業で利潤を計上できた実績があっても新規設備投資をしなくなる。家計だけでなく法人企業が投資不足により資金余剰セクターになってしまう。余剰資金は国内では流動性としての現金や,金融資産に回ってしまう。設備投資がなされるとしても,新興国への直接投資に向かう部分が大きくなる。

 経済発展の結果として,生産能力に対する設備投資と消費が不足して不況への傾向が生まれる。実現できた所得が金融資産に投下されればバブルになる。好況があってもすぐバブル化してしまい,その反動で金融危機が生じやすくなるのである。

 第四に,移民によって補充されない限り,資本主義の成熟局面では人口が減少し,また人口構成が一時期は高齢化するということである。そのことにより,社会保障の需要が不可避的に増大する。これを営利ビジネスに委ね切ることはむずかしく,公的支出によって支えざるを得ない。したがい,人口減少期においては財政支出に占める社会保障支出の割合は拡大し,その支出は景気循環に関わらず必要となる。

 第一,第二,第三の要因によって,景気循環に対するバブルの影響が大きくなるとともに,不況の際の需要不足は深刻化する。金利調節では反転させることができず,財政支出によって対応するしかない。貯蓄(遊休貨幣)を課税によって吸収することもある程度は可能であるが,資本主義が民間主体の自由な支出決定に依拠したシステムである限り,これには限度がある。そのため,政府は財政赤字を一定程度出して貨幣を供給し,不足する需要を作り出すことになるのである。この際,第四の要因が,財政赤字の幅を拡大し,恒常化させる方向に作用する(※1)。

 だから,私の意見では,財政赤字の恒常化は,資本主義の成熟に伴う不可避の傾向である。財政赤字を出すか出さないかと言う二択については,よいか悪いかの問題ではなく,選ぶことができる問題でもない。ある程度の財政赤字は出ざるを得ないのである。それが嫌なら均衡財政で慢性大不況の社会を独裁権力を持って統治する,あるいは資本主義を直ちに廃止することになるが,まず現実的でない。問題は,悪性インフレを起こさないという制約条件の下で,財政赤字という名の通貨供給をどの程度,どのような内容で,どのような利害関係に沿って,どのような手続きで行うかなのである。その目的は生産能力の量と質の維持・充実であり,有効活用でなければならない。

 その「量と質」については人によって意見が違う。私は小野善康氏とともに失業こそが生産能力の最大のムダであり遊休であることについて注意すべきと思うが,そこまで思わない人もいるかもしれない。私は地球温暖化防止を前提にして豊かな暮らしを追求すべきであり,個人消費や教育・医療・福祉経済の充実や環境対策や老朽インフラストラクチュアの更新や再生可能エネルギーを重視すべきだと思うが,人によっては輸出中心の先端産業や金融センターや軍備拡大や原子力発電の育成が必要であり,個人の所得を豊かにすれば,医療・福祉費用の増大には自己責任で対応できるというかもしれない。シェアード氏にはまたそれなりの意見があるだろう。そこは議論すべきだ。1981年に刊行された『現代資本主義と国家』の中で,宮本憲一氏は現代資本主義国家の三類型として「軍事国家」,「企業国家」,「福祉国家」をあげた。その後の新自由主義的潮流の下でこの類型化はあまり普及しなかったように思うが,財政赤字=中央政府による通貨供給それ自体は結局不可避だということが明らかになりつつある今日,再評価されるべきだろう。大事なことは,財政赤字=中央政府による通貨供給の中身であり,それによって経済をどのような方向に動かすかなのだ。

 こうした歴史的文脈においてみた場合,シェアード氏が言う,財政政策と金融政策の境目のあいまい化は,確かに必然傾向であるようにも見える。ただし,ここで「エデンの園」への見方の違いが,原罪への見方の違いとなって生きてくる。シェアード氏は,またMMTなどの論者はよりいっそうそうだが,中央銀行はもともと統合政府の一部だと考えている。私は,それには反対である。

 中央銀行は,もともと「銀行の銀行」であって,銀行の原理によって動いているものである。中央銀行当座預金も中央銀行券も信用貨幣である。信用貨幣であるということは支払い約束だということであり,請求権だということである。現代の中央銀行は中央銀行券を突きつけられて「債務を返済せよ」と言われても金貨や金地金で払うことはない。ここまでは,私はシェアード氏やMMT論者とまったく同意見である。問題は次である。金兌換に応じない中央銀行は,そのかわり,支払い請求が押し寄せることがなく,また人々が中央銀行券を信用せず屑籠に放り込まないようにする必要がある。そのために通貨価値を維持しなければならない。通貨価値を維持するとは,財政支出の過剰によるインフレーションを防止し,景気過熱による物価高騰を抑止し,為替レート暴落によるコストプッシュ的物価高騰を防ぐことである(※1)。これらは,中央政府と区別された中央銀行の本来的使命である。これらの使命は,中央銀行が政府の附属物であることに由来するのではなく,「銀行の銀行」であることに由来する。私はこのように考える。私はこの主張によって信用貨幣論を修正しているのではない。逆である。シェアード氏よりもMMTよりも信用貨幣論を徹底するとこうなるというのが私の見解である。

 確かに現実において,財政政策と金融政策の相互浸透は不可避なように見える。シェアード氏が政治的立場を交えずに述べているだけに,そこは本書に説得力のあるところだ。しかし,通貨価値の維持という中央銀行の本来的使命はもっと重く見ておくべきだろう。

 シェアード氏は,長期的歴史観の提示や政治的価値判断を最小に抑えたうえで,制度とオペレーションを正確に理解する見地から現代の貨幣と金融機構を解説された。そのことにより,信用貨幣論の主張の一部が特定学派に由来するものでなく,むしろ実務の素直な理解によるものであることを明らかにしてくれた。これは本書の功績である。しかし,その同じく制度とオペレーションに徹する見地から来る物足りなさと,ごくわずかに本質論に立ち入ったところでの統合政府論に由来する問題は見過ごしてはならない。今日,財政拡張を主張する政治勢力は数多い。それに対してなすべきことは,財政均衡をあるべき姿として緊縮を主張することではなく,財政支出の在り方について選択し,よく考えることである。財政赤字=中央政府による通貨供給がどのような制約のもとにあるかを踏まえ,どのような水準と内容でこれを実施し,それによってどのように経済を動かすのかを論じるべきなのである。本書にはこの水準と内容への手掛かりはない。ただし,読者は本書を踏み台にすることで,手掛かりを見つけるために自分の頭を一つ高い視点に置くことができるだろう。

ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年。

https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210432/

2025年9月27日:読み取りにくい箇所に言葉を補った。

2025年5月5日月曜日

ホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)はデジタル札束だった

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)について,これまでどうしてもわからなかった謎が解けたように思う。何種類かの実証実験がなされている「ホールセール型CBDCを使って国際決済を行う」という試みは,貨幣論的にどういう仕組みになっているのかということだ。

 これまで私は,リテール型CBDCが「トークン型」つまり中央銀行券のデジタル化,ホールセール型CBDCが「口座型」,つまり中央銀行当座預金の最新IT技術による高度化だと思っていた。しかし,「口座型」では対外支払いに使えそうにない。中央銀行当座預金で対外送金するには,外国銀行が自国中央銀行に口座を持つことになり,それはいくらなんでもありそうにないからだ。

 しかし,この思い込みがつまずきのもとであった。国際決済銀行(BIS)の分類によれば,国際決済に用いるホールセール型CBDCも「トークン型」,つまり現金,中央銀行券がデジタル化したものだったのある。そう考えると,対外支払いも合理的に説明できる。

 簡単に言えば,「銀行間で国際的なプラットフォームを築き,その上で,海外の銀行にデジタル札束を送って払う」のである。ここでは,「堅固で安全で高速なプラットフォームさえできれば(まあ,それが現実には難しいのだが),デジタル通貨の取引コストは低い」という特徴がいかんなく発揮される。

 CBDCでは,プラットフォームの上で,ある人(銀行)が持つ残高を,別な人(銀行)の残高に移すだけで国際送金ができる。これなら,紙での現金取引,つまり札束をトランクに詰めて飛行機や船で運ぶよりも手間暇がかからない。また,ことによると口座振り込みよりも簡単で安上がりかもしれない。とくに,国際的な銀行間送金はコルレス・バンキングという仕組みが必要で,国内取引の口座振り込みよりもはるかに手間も時間もお金もかかる。国内では,銀行間の決済を,どの銀行も共通に持っている中央銀行口座をつかって預金振替で行っている。世界経済には世界中央銀行はないので,これが行えないのだ。しかし,CBDCというデジタル現金を使えば,デジタル現金をプラットフォーム上で送ればいので,簡単になるということだ。

 国境を越えてやりとりされるデジタル札束が,唯一,紙の札束と違うのは,プラットフォームに参加する銀行間でしか流通しないということである。だから銀行が,受け取った外貨建てのデジタル札束を普通の取引に使う際には,自国の紙の札束や中央銀行当座預金に変換する必要がある。その際には,国内通貨に両替しなければならない。

 実用化までは紆余曲折があるだろうが,ともあれホールセール型CBDCを用いた国際決済の骨格は以上である。特徴も問題点も,ここを出発点として考えればよいはずだ。

<参考>

Committee on  Payments and Market Infrastructures Markets Committee, Central bank  digital currencies,  Bank for International Settlements, March 2018.






2025年4月23日水曜日

なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保とうとするのか:管理通貨制における最終決済手段としての中央銀行マネー

 トランプ大統領はFRBの独立性などお構いなしに金利引き下げを要求し,議長の解任の可能性にまで言及している。景気が冷えそうなのは自らのでたらめな高関税のせいなのに,責任転嫁も甚だしい。絶対自分が悪いとは認めたくないのだろう。

 ところで,中央銀行にはなぜ独立性が必要とされるのだろうか。よく知られているのは,通貨価値の安定を保つ必要があるという理由だ。これは正しい。しかし,なぜ中央銀行は通貨価値の安定を保たねばならないのだろう。また,なぜ保とうとするのだろうか。

 それは管理通貨制のもとでは,中央銀行が発行する貨幣(中央銀行マネー)が通貨システム全体を支える最終決済手段だからである。以下,やや複雑だが説明しよう。

 現代経済では,多くの支払いが異なる銀行の間で発生する。銀行間の支払い決済は,現金輸送車で札束を運ぶ例外的な事態を除き,中央銀行当座預金を使用して行われる。中央銀行当座預金がなければ口座振替は同一銀行内でしか行われなくなり,経済はマヒする。したがい,中央銀行当座預金が通貨価値を毀損されないことは決定的に重要である。

 またすべての現金は,銀行預金を預金者が引き出すことによって現金流通界に供給される。銀行はこの引き出しに耐えるために,中央銀行券を手元に持っていなければならない。この中央銀行は,銀行が準備預金(中央銀行当座預金)を引き出すことによって銀行の手元にわたる。では中央銀行当座預金はどこから来るかというと,中央銀行が民間銀行に信用を供与することによって設定される(融資される場合もあるが,現在では中央銀行が民間銀行から国債を買い入れるオペレーションによって供給される割合が高い)。ここでも根源は中央銀行当座預金であるから,その通貨価値が損なわれないことは決定的に重要である。

 銀行間システムでは中央銀行当座預金が最終支払い手段である。現金流通界では,中央銀行券が最終支払い手段である。しかし,その通貨価値は金属貨幣と異なり内在的な価値に基づいていない。これらはいずれも信用貨幣であり,中央銀行債務であるから,その価値を支えるのは返済能力である。中央銀行は債務返済を迫られないのだろうか。銀行は,中央銀行に要求して,中央銀行券を中央銀行預金に換えることや,その逆はできる。しかし,「そんなものじゃだめだ。管理通貨制など信用できない。金か実物資産で払え」と中央銀行に迫ることはないのだろうか。

 実は,通貨価値さえ安定していれば,こうした要求を中央銀行に突きつける銀行はない。なぜならば,銀行は,中央銀行当座預金で他の銀行から,あるいは中央銀行券で経済界の誰かから,価値の安定した資産を買えばよいからである。こうして,最終支払い手段が中央銀行の信用貨幣であって金でなくても不都合はなく,通貨システムは回っていく。中央銀行は,準備資産を持たなくてすら成り立つのである。

 しかし,悪性インフレや物価の乱高下によって通貨価値が毀損されれば別である。中央銀行券が紙くずに準じた扱いとなり,中央銀行当座預金が意味のない電子信号に準じた扱いになれば,通貨システムは崩壊するだろう。中央銀行は,何か価値の認められる別の資産を持ち出して支払いに応じないと,倒産の憂き目を見るかもしれない。

 このように,中央銀行が発行する当座預金と銀行券が最終決済手段であるためには,悪性インフレや物価の乱高下が起こらないことが必須条件である。したがい,中央銀行は,通貨価値を安定させる強力な動機を持つのである。


(専門的補足)
 厳密に言うと通貨価値の低下には,1)金生産費の低下など正貨の内在的価値の低下,2)正貨に対する代表価値の低下,3)商品に対する購買力の低下,の三つの意味がある。1)は管理通貨制ではほぼ意味をなさない。2)が損なわれるのは財政赤字によって代用貨幣が一方的に増加する場合だけである。3)はその場合に加えて,景気過熱によって物価が一時的,実質的に上昇する場合にも生じる。なので,FRBが金利引き下げに慎重だというのは,3)を防ごうとしているからだと言っていい。国債買い入れに慎重になるとすれば,それは2)を警戒するからである。


(詳細こちら)
川端望「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」https://doi.org/10.50974/0002003359

2025年3月7日金曜日

「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」完成版が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました

  論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。

 学説史的には二つのことを言っています。

*戦前から活躍していたマルクス経済学者である岡橋保の信用貨幣論は実は正しかった。近年唱えられている諸々の信用貨幣論よりも妥当なところが少なくない。

*日本銀行や全国銀行協会出身の研究者が,実務を論理化しようと出された著作群は,上記の岡橋説と類似しており,やはり基本的に正しかった。

 理論的には,以下のことを述べています。かなりの部分が,多数説に反しています。

*銀行の基本的機能は金融仲介ではなく,信用創造である。

*信用創造による貸し付けとは,商品流通に必要な貨幣の新規供給である。

*返済とは,商品流通に不要な貨幣の退出である。

*当座性預金は支払い手段として機能する限り貨幣の一種である。

*預金貨幣も中央銀行券も手形債務である。既に存在する現金を借りたことによる債務ではなく,支払い約束である。

*預金貨幣も中央銀行券も手形債務であり,信用貨幣である。金債務ではない。金債務ではないから,管理通貨制になっても信用貨幣のままである。

*預金は,誰かが現金を銀行に預けたときに生まれるのではない。銀行が貸付を行った際に生まれる。

*銀行券が発行されるのは,預金が引き出されることによってである。

*預金貨幣と銀行券は金貨でもないし兌換紙幣でもないが,商品流通の必要に応じて流通に入り,また出るという伸縮性を持つ。

*銀行部門全体にとっての準備金は,結局は中央銀行によって供給される。銀行が社会から集めた預金によって確保されるのではない。

*通貨価値が安定している限りにおいて,中央銀行は準備金を必要としない。

*民間金融システムによる信用の膨張だけでは,物価上昇は起きても厳密な意味でのインフレーションは起きない。

*マルクス経済学にも外生的貨幣供給説と内生的貨幣的供給説があり,金融システムについては内生的貨幣供給説が正しい。

researchmapからダウンロードいただけます
https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

3/19追記。DOIが付き,東北大学機関リポジトリTOURからもダウンロードいただけるようになりました
https://doi.org/10.50974/0002003359






2025年2月7日金曜日

ユニバーサルでニュートラルな中央銀行デジタル通貨(CBDC)の抱えるジレンマ

 NRIの石川純子氏が,「若年層はCBDCに経済的メリット、高齢者層はユニバーサルアクセスを求める」と指摘している。これは重要な点であるため,私なりに少し敷衍したい。言いたいことは,「CBDC(中央銀行デジタル通貨)はユニバーサルでニュートラルでなければならない。しかし新決済手段は,特定個人・企業に経済的メリットを与える方式でないと普及しにくい」ということである。

 あまり使われる用語ではないが,決済手段には1次,2次と言った階層性がある。個人や企業が直接支払いに用いるのが1次決済手段であり,例えば現金であり,預金振り込みであり,電子マネーであり,QRコード決済である。2次と言うのは1次決済手段を支える決済手段であり,たとえば電子マネーにクレジットカードでチャージしていればクレジットカードが2次決済手段となる。この階層性をたどって最後に行きつくのが最終決済手段である。その重要性は,研究者・実務家によってもファイナリティの問題として概念化されている。管理通貨制のもとでは,最終決済手段になりうるのは現金であり,預金通貨であり,中央銀行当座預金である。預金通貨が最終決済手段になるのは,債務者と債権者が同一銀行の口座を用いている場合であり,異なる銀行となると中央銀行当座預金が必要になる。たとえば1次決済は電子マネーで行い,それは2次決済としてのクレカに支えられており,それは3次決済としての預金貨幣に支えられており,それはまた最終決済手段としての中央銀行当座預金に支えられている,などと考えればよい。

 さて,CBDCにはホールセール型とリテール型があるが,ここで話題とするのはリテール型である。リテール型CBDCとは正式な通貨であり,中央銀行券をデジタル化したものである。現在のチャージ式電子マネーやQRコード決済のような感覚で用いることができるが,制度的には現金払いのデジタル化を実現するものであり,最終決済手段である。

 中央銀行が提供する最終決済手段は,その国の誰もが使うことができるという意味でユニバーサルアクセスを実現しなければならない。また,特定個人・企業のみに超過利得をもたらすようなものであってはならないという意味でニュートラルでなければならない。これが石川氏が話題にしている事柄の半面である。

 しかし,1次決済手段は,制度上認められているものの中から個人が自由に選択できる。そして日本を含む多くの諸国では,この分野にクレカ,電子マネー,QRコードなど民間企業による,いわゆる「キャッシュレス決済」手段が入り込んでいる。これらを運営する企業は,割引,クーポン,ポイント,その運用,ネットショッピングやオンラインゲームでの便宜など,さまざまなメリットを個人に与えて,自己の経済圏に囲い込もうとする。それは正当な取引でもあるし,古典的寡占やネットワーク外部性を利用した寡占によって超過利潤を得る場合もある。しかし,いずれにせよ個人に経済的メリットを感じさせるものになっていることは事実である。

 そこで問題は,ここにCBDCが入り込み,最終決済手段のみならず1次決済手段として,個人に選択してもらえるかどうかである。現金使用比率が高く,かつその現金取引に不便の多い社会ならば選んでもらえるだろう。たとえばニセ札が多く出回っていたり,激しいインフレに見舞われていたり,現金取引でごまかしが行われやすい社会である。しかし,さほど現金取引に不便がない上に,種々の「キャッシュレス決済」が1次決済手段として個人を取り込もうとしのぎを削っている日本においてはどうであろうか。人々がユニバーサルでニュートラルだからCBDCを使うということには,なりにくいおそれがある。これが石川氏が話題にしている事柄のもう半面である。

 CBDCは最終決済手段でもあり1次決済手段でもある。そしてユニバーサルでニュートラルでなければならない。しかし,そうであるがゆえに1次決済手段として選択されにくい。このジレンマを超えて行けるかどうかが,導入にあたっての課題であろう。

(私は上記の観点から経済学部4年生,奥野瑛紘氏の卒論指導を行った。そのため,ここで述べたことの一部は,奥野氏の東北大学経済学部2024年度演習論文「キャッシュレス決済の将来像」に一部表現されていることを明記しておく)

<参考>
石川純子「中央銀行デジタル通貨「CBDC」、日本での導入は進むのか」NRI Journal,2025年2月3日。https://www.nri.com/jp/media/journal/20250203.html


2025年1月7日火曜日

「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」ディスカッション・ペーパー版公開にあたって

 「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」をTERG Discussion Paper 492として発表しました。このブログでも書き連ねてきた内容ですが,考察を重ねて修正し,先行研究との対話を加えて学説的位置を明確にしました。researchmapからダウンロードいただけます。

 本稿は,マルクス派貨幣論に基づいて,物価変動の種別を解説しています。教科書的解説ですが,念頭に置いているのは「物価は上がっているがデフレから脱却していない」「コストプッシュインフレが続いているが,物価上昇目標は大事」といった混乱した議論を解きほぐしていく基準を設定することです。

 私は,「いろいろなことが一回りして,昔の理論の良いところが再評価されるべき時に来ている」と思っています(もちろん,だめなものがだめなままなところもあります)。マルクス派貨幣論,とくに信用貨幣論はその一つです。それは政治的価値観の問題ではありません。インフレ,デフレを名目的な物価上昇と物価下落として厳密に定義することが,そうではない物価上昇,物価下落との区別を明確にして,それぞれの真のメカニズムを探る道を拓くと思うからです。

 しかし,マルクス派貨幣論による物価論を再評価するには,二つの議論を乗り越えねばなりません。それは信用インフレーション論と独占価格インフレーション論です。もともとマルクス派の物価論は,代用貨幣の外生的投入によってインフレーションが起こるという貨幣的インフレ論でした。持続的物価上昇ならすべてインフレと呼ぶ日常用語とは異なっていたのです。ところが年輩の方ならご記憶のように,高度成長期に,財政赤字の額は大きくないのに物価が持続的に上昇するという現象が起こりました。このとき,近代経済学だけでなくマルクス経済学でも,これらを新種のインフレーションとして定式化しようとする動きが起こったのです。その中でもっとも理論的に整っていた議論の一つが,川合一郎氏の信用インフレーション論でした。銀行信用の拡張からもインフレーションが起きるという説です。もう一つは,高須賀義博氏の独占価格インフレーション論でした(高須賀氏自身は,当初は「生産性格差インフレーション」,後には「相対的価格調整機構」と呼んでいました)。一般商品部門での価格引き上げによる事実上の価格標準切り下げと,金生産部門での公定価格水準の据え置きによる不等価交換が新たなインフレの本質だとする議論です。両者は鋭い現実感覚と理論的体系性によって一世を風靡しましたが,結果として,マルクス経済学のインフレーション概念を広げ過ぎて,日常用語の「持続的物価上昇はみなインフレ」論に近づけてしまったと思います。

 私は日本経済論の講義をしてアベノミクスを扱っているうちに,「金融緩和ではインフレは起きないのではないか」「そもそも日本はデフレだったのか」と疑い,古い貨幣的インフレーション論の方が正しく,政策的論争の混乱を解きほぐすのに役に立つのではないかと考えるようになりました。とはいえ,いまどき古いマルクス派の議論に注目して,わざわざ説明しなおす人はほとんどいませんし,信用インフレ論や独占価格インフレ論にわざわざ反論する人もいません。だから私がやろうということです。ご笑覧いただければ幸いです。


PDF直リンク(researchmapサイト)
https://researchmap.jp/read0020587/misc/48869037/attachment_file.pdf

関連論文

「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」TERG Discussion Paper, 489, April 2024.→2025/3/7追記。研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。 https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

「貨幣分類論」TERG Discussion Paper, 490, September 2024.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170






2024年11月25日月曜日

財政赤字に伴う国債発行をどのように把握するか:「二層の銀行・政府」モデルの提示

 1.切り口としての「財政赤字と金利上昇圧力」

 先に「財政赤字に伴う国債発行はクラウディング・アウト効果を持つか」,より原理的には「財政赤字に伴う国債発行は金利上昇圧力を発生させるか」という問題についての拙論を修正することを表明し,ブログにも掲載した(※1)。これは実は,金融・財政システムの双方を「通貨供給システム」と把握しようとする研究構想の基本部分とかかわっている。この研究構想は,通説・通念とも現代貨幣理論(MMT)とも異なる通貨供給システム論を提示しようとするものである。

 問題を明瞭にする切り口として,財政赤字と国債発行のオペレーションが金融市場に与える影響を通説・通念,現代貨幣理論(MMT),拙論について対比すると以下のようになる。なお,ここでは追加の貨幣供給はともあれ有効需要を生み出すと仮定しており,その有効性を左右するより財市場や労働市場の具体的な条件は考察の外に置いている。

 まず経済学の「通説・通念」において,国債発行とは,国が民間からお金を借りることである。財政赤字とは,借りたお金での支出である。この点だけを見れば,政府は国債発行により民間から資金を吸い上げ,財政支出によりまた民間に戻しているに過ぎない。それでも有効需要を増やせることがあるのは,民間の遊休資金を借り入れ,支出によって需要に転じる場合である。この時,金融市場は需要超過となって金利に上昇圧力がかかる。

 続いてMMTにおいては,財政赤字とは統合政府による新規の預金貨幣発行である。赤字支出とは,貨幣の追加発行によって有効需要を生み出すものである。預金貨幣が増えれば準備預金も同額だけ増え,超過準備が生まれる。統合政府は通貨発行権を持つので,国債発行による資金調達は本質的には必要ではない。国債発行が果たしているのは,新規に生まれた超過準備に対して運用先を提供することである。金融市場の需給は変動せず,金利に上昇圧力はかからない。

 最後に私見によれば,財政赤字とは中央政府による新規の預金貨幣発行である。赤字支出とは,貨幣の追加発行によって有効需要を生み出すものである。しかし信用貨幣を発行するのは中央銀行でなく政府であるため,政府はこの支出のために,国債を発行して中央銀行預金貨幣を調達しなければならない。政府は国債発行により,市中からは資金を吸収しないが,銀行の準備預金から中央銀行預金貨幣を吸収する。一方,財政支出により預金貨幣が追加供給されるので,連動して準備預金も増え,準備預金残高はプラスマイナスゼロに回復する。しかし,全体として預金残高が増えているため,準備預金所要額が増え,金利に上昇圧力がかかる。


2.三つの金融・財政システム論

 この三つの考え方の背後には,国債発行をめぐる経済主体とその関係,より立ち入っていえば金融・財政システムを通貨供給の観点から理論化する方法に関する違いがある。ここではその違いを説明するとともに,なぜ,どのように私見が妥当であるかを説明する。

 私見によれば,用いるべきは,信用で結ばれた「民間ー銀行ー中央銀行」と課税・支出で結ばれた「民間ー政府」が並立し,また政府も中央銀行に口座を持つことで両者が統合されるモデルである。これを仮に「二層の銀行・政府」モデルと名付ける(図)。




 貨幣の流通は二つの領域で行われている。一つは市中であり,商品の流通界である。ここを流通するのがマネーストック(預金貨幣+銀行手持ち以外の中央銀行券+補助硬貨)である。マネーストックは本質的に銀行信用か財政支出によって生み出される。もう一つの領域は銀行間システムである。ここを流通するのはマネタリーベースから市中に出回っている中央銀行券を差し引いたものである(中央銀行当座預金+銀行手持ち中央銀行券)である。銀行間システムにおける貨幣は,本質的に中央銀行信用か,財政支出によって生み出される。

 この「二層の銀行・政府」モデルを用いることによって,商品流通界を流通する貨幣と銀行間システムを流通する貨幣を区別することができる。それによって,政府が「銀行間システムから中央銀行預金貨幣を調達し,市中に(民間銀行の)預金貨幣を投じる」という仕組みが理解できるのである。

 このモデルは,実務上の事実をほぼそのまま写し取ったものであり,何ら奇異ではない。経済理論の立場からすると,より抽象化して「民間ー政府」モデルや「民間―統合政府」モデルを設定したくなるであろうが,こと財政赤字と国債発行を論じる際には,それが間違いなのである。拙論が強調したいのは,「二層の銀行・政府」モデルからさらに抽象化をしてはならないということである。

 通説・通念は「民間ー政府」というモデル設定を行っている。このモデルは例示するまでもないほど当たり前のように普及しているが,これこそが誤りの元なのである。「民間ー政府」モデルを用いる限り,国債発行は政府が民間資金を吸収するとしか理解しようがない。ところが,実際には国債発行は市中の通貨流通には関与せず,銀行間システムから通貨を吸収する。銀行間システムから吸収するということは,市中への影響は準備預金を介したものとなるということであり,また銀行信用で創造された預金貨幣でなく,中央銀行信用で創造された中央銀行預金貨幣の需給に影響を及ぼすということである。したがい,その調節はもっぱら中央銀行のタスクとなる。こうした関係が「民間―政府」モデルでは全く把握できない。

 そもそも「民間―政府」モデルでは,誰が通貨供給を行っているのかが不明瞭であり,したがい通貨供給を論じるのにはなじまない。一方では漠然と,政府が何もしなくとも貨幣が流通しているかのように想定されている。国債発行が民間資金を吸収するというのはこの想定があるからである。他方では漠然と,管理通貨制だから政府が貨幣を供給すると想定しているかのようでもある。しかし,それでは国債発行などする必要がないだろう。政府と中央銀行の関係をモデル内に取り入れていないから,このような理路不明なことが起こるのである。

 他方,MMTは,一次的接近として「二層の銀行・政府」モデルを採用しているところは妥当である。MMTが銀行のオペレーションについて通説を批判するのも妥当である。また政策論議でMMT論者が強調するように,財政赤字を追加の貨幣発行と見ることも正しい。

 ところがMMTは,ここにとどまらず中央銀行と中央政府とを「統合政府」という単一主体とみなした「民間―統合政府」モデルを本質として強調する。ここから事実との不整合が生じる。MMTは「統合政府は通貨発行権を持っているので,財政赤字を出す際に資金調達は必要ではない」と本質論を主張して,国債発行を資金調達ではないとする。しかし,これは詭弁であり,MMTが重視するはずのオペレーション上の事実に反する。国債発行は超過準備に運用先を与えているだけではなく,これを資金調達のために吸収しており,だからこそ一般的には準備預金不足・金利上昇を誘発するのである。準備預金が不足せず金利が上昇しないようにするためには,統合政府のもう一方の主体である中央銀行が中央政府に協力して金融を緩和しなければならない。現に,21世紀の先進諸国では景気対策と金融危機対策により中央銀行が緩和基調で金融政策を運用しており,銀行は常に超過準備を保有している状態なので,国債発行による金利上昇は起こりにくい。つまり,現状分析としてはMMTの主張通りになっていることは確かであり,この点を指摘したのはMMTの功績である。しかし,MMTがこの状態を,超過準備がない状態でも通じる一般論として主張するのは誤りなのである。

 MMTの「民間―統合政府」論は,実際には「統合政府は通貨発行権を持つ以上,資金調達は必要ない」という抽象命題を現実の中央政府に不用意に適用している。中央銀行が政府に解消される存在であるかのようである。しかし,これはすでに説明したように,事実分析としてはオペレーション上の因果関係を無視した決めつけである。中央政府は,市中に対して預金貨幣を新規に投入できるが,預金貨幣は銀行債務であって政府債務ではない。だから,政府は債務を負わせた銀行に対して銀行間システムを用いて支払いをしなければならず,そのために中央銀行預金貨幣を必要とする。そして,これを自ら発行できない以上,国債発行によって調達せざるを得ないのである。このとき,中央銀行が中立的立場であれば金利に上昇圧力がかかる。それを防ぐためには,中央銀行による金融緩和という中央政府との協調政策が必要なのである。つまり,統合政府において中央政府と中央銀行は協調しなければならない。「民間ー統合政府」論の名のもとに,両者の関係をぞんざいに扱ってはならないのである(※2)。

3.まとめ

 財政赤字に伴う国債発行という事態を正確に把握するためには「二層の銀行・政府」モデルを用いなければならない。これを無理に抽象して「民間ー政府」モデルや「民間―統合政府」モデルとすることは,事実認識を誤らせる不合理な抽象である。そして,私見によれば「二層の銀行・政府」モデルを用いた分析によってこそ,財政赤字と国債発行を含む,通貨供給システムとしての金融・財政システムが記述できる。その詳細な展開は他日を期したい。

※1 「「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件」Ka-Bataブログ,2024年11月23日。

※2 経済思想としてみれば,MMTのこの中央銀行を政府に解消するかのような把握は,貨幣発行は銀行信用や中央銀行信用に由来するのではなく徴税権に由来するのだという国定貨幣説に由来するのだと思われる。これは中央銀行に対する過小評価である。資本主義経済における貨幣発行は商品流通における価値尺度・交換手段・支払手段の必要性に由来する。しかし,実物としての貨幣の使用は,資本主義の発展にとって制約となる。金融システムとは貨幣流通に伴う諸問題を商業信用,銀行信用,中央銀行信用が解決することによって発展したものである。政府は通貨名の設定によってそれに関与する。通貨名は国家が制定するという点では国定貨幣説は正しい。しかし,政府が貨幣を自ら生み出しているわけではなく,この点では国定貨幣説は誤りである。貨幣の発生は,主要には財政システムよりも金融システムに由来する。中央銀行は政府に解消される存在ではなく,貨幣システムを安定させる使命を負った銀行として,中央政府から相対的に独自な役割を持っている。「中央銀行の政府からの独立性」が問題になることは根拠のあることなのである。以上の点は,財政赤字に伴う国債発行の理解という本稿の直接の課題と離れるため,問題提起にとどめる。詳しくは,川端(2024a,2024b)をご覧いただきたい。

<参照文献>

川端望(2024a)「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」TERG Discussion Paper, 489, 1-39, April.→2025/3/6追記。研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。 https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

川端望(2024b)「貨幣分類論」TERG Discussion Paper, 490, 1-19, September.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170




2024年11月23日土曜日

「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件

  従来,私は赤字財政に伴う国債発行は,カネのクラウディング・アウト(金融市場ひっ迫による金利高騰)は起こさず,モノとヒトのクラウディング・アウト(財・サービス・人材の供給ひっ迫とインフレ)は起こすという見地を採ってきた。これは現代貨幣理論(MMT)と同じ見解である。しかし,「一般論としては,カネのクラウディングアウトはある程度起こる。ただし,通説が言うほどではない。また,超過準備が一定以上あるという条件の下では起こらない」と修正しなければならないように思う。

 通説は,「財政赤字は民間貯蓄を吸収するので,金利を高騰させる。財政支出によって通貨供給量が増えるとしても,貯蓄が吸収されるためにプラマイゼロになってしまう。財政支出は需要を増やすが,貯蓄の吸収は民間の投資・消費をクラウド・アウトして,需要を減少させる」と考えるものである。対して,MMTは「財政赤字は民間貯蓄を吸収しない。国債は市中を流通する通貨ではなく準備預金(中央銀行当座預金)によって購入されるからだ。その際,準備預金は減るものの,国債発行額と同額の赤字支出が行われると預金貨幣が増え,同額の準備預金が増える。通貨流通量は一方的に増えるし,需要を拡大する。準備預金はプラスマイナスゼロなので金利は上昇しない。なので,クラウディング・アウトは起こらない」と主張している。

 中央銀行ー銀行の二重システムのオペレーションを踏まえている点では,MMTの方が現実に近い。しかし,このオペレーションによって金利が上昇しないということは,一般論としては問題をはらむ。

 なぜか。まず理論的考察のために,銀行が準備預金を,金融市場の状態に適応して過不足なく持っている状態を考えよう。成熟した資本主義国では預金準備率は規制されていないので,必要な預金準備率は銀行の経営判断として,預金の種類や金融市場の状態に応じ,幅を持って設定されている。しかし,一定の率で設定されると仮定することは許されるだろう。ここで,国債発行前の準備預金が,銀行セクター全体として,預金支払準備金として過不足ない水準で確保されるような準備率を必要準備率と想定する。また必要額を超えて保有される準備預金を超過準備と呼ぶ。

 さて,銀行が必要準備率だけ準備預金を持っている状態で政府が赤字支出のために国債を発行したとする。MMTが説明する上記のオペレーションにより,銀行預金は増加して,準備預金(中央銀行当座預金)はプラマイゼロとなる。しかし,この時,プラマイゼロの準備預金は,国債発行前よりも大きな額の預金と対応しているので,銀行セクター全体として「銀行預金増加額×必要準備率」だけ準備預金不足になる。この時,中央銀行が介入しなければ,インターバンク市場での金利上昇が起こり,and/or銀行セクター全体として貸出しの縮小が生じる。これを補うべく,インターバンク市場での中央銀行預金貨幣の流通速度上昇,市中の遊休貨幣を動員しての預金の増額が生じるかもしれない。

 このように,準備預金額がプラマイゼロでも,預金額そのものが増えているので,準備預金不足の分だけ金利が上昇するか,銀行貸し出しが減少するか,またはその両方が置き,民間の投資・消費を抑制するクラウディング・アウト効果が生じるのである。

 ただし,その程度には幅がある。もし,銀行が必要準備率の回復のためにもっぱら貸出しを減少させると,国債発行額=預金増加額と同額だけ貸出額が減らなければならない。通貨供給量は国債発行前と同じになってしまう。この場合は,クラウディング・アウトがもっとも激しく生じるだろう。しかし,短期金利の上昇によるインターバンク市場の効率化(中央銀行預金通貨流通速度の拡大),市中での遊休資金動員による預金増加が起こるならば,クラウディング・アウト効果は小さくて済むだろう。預金増加は国債発行額ほどでなくても済み,通貨供給量は国債発行前より増加するからである。つまり,通説が抽象的にイメージしているような,金融市場において国債発行額と同額の資金を市中から引き抜くようなことは,極端な場合,つまり超過準備がない状況下で,準備預金所要額の回復がもっぱら貸出し減によって実現する場合にのみ生じるのである。

 さて,超過準備が存在するという条件を加えると話は変わってくる。現実の先進諸国の銀行セクターは,基本的には金融市場の発展により,また特殊には経済の成熟に対応して中央銀行が金融緩和基調をとらざるを得ないことにより,さらに特殊には金融危機のリスクに備えて流動性の供給を多目にすることにより,超過準備を確保している。この場合,国債発行前後で準備預金所要額が「預金増加額×必要準備率」だけ増加しても,超過準備が多少減少するだけで,金利への影響はほとんどない。かてて加えて,これもまた現実の先進諸国で起こっているように,中央銀行が政府と協調し,国債発行時に金利を低め誘導したり,銀行が購入した国債を事後に買い上げて金融緩和を行えば,金利上昇が抑えられる。

 まとめるとこうなる。一般論としては,国債発行はカネのクラウディング・アウト効果を持つ。ただし,通説が想定するように国債発行額と同額の民間貯蓄を吸収する,ということによってではない。国債発行額と同額の銀行預金増分に必要とされる準備預金が追加で必要とされる,ということによってである。したがい,クラウディング・アウト効果も通説が想定するほど大きくはない。そして,超過準備の存在によってクラウディング・アウト効果は緩和され,超過準備の拡大とともにほとんどなくなる。また,中央銀行が国債発行時に金融緩和を行えば,やはりクラウディング・アウト効果はなくなる。


 MMTの主張については,次のように言える。1)財政赤字が通貨供給量を増やすことについては正しい。2)「クラウディング・アウト効果はない」という主張は,一般論として主張するのは誤っている。3)この主張は,超過準備が一定以上存在する下では妥当する。3)また,この主張は,中央銀行が政府と協調して金利を低め誘導するという条件下でも妥当する。


関連過去記事

「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。

「財政赤字は貨幣を追加で生み出すのか,それとも国債消化と相殺されるのか:米山隆一氏の山本太郎氏への批判によせて」Ka-Bataブログ,2024年2月15日。

2024年10月3日木曜日

BISによる「プロジェクト・アゴラ」とは何なのか:どうやってホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)で国際決済を行うのか

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)にはリテール型とホールセール型がある。リテール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)とは,要するに中央銀行券をデジタル化し,専門的な用語で言えばトークン化したものである。他方,ホールセール型CBDCとは,中央銀行への預金をより高度なIT技術を使って効率化し,さらに金融機関のみならず民間の経済主体も使えるようにしたものである。

 リテール型は,いま紙であるものいがデジタル信号のまとまりになるわけで,その変化は分かりやすい。個人が支払うときの感覚だと,現金で払っていたものがバーコード決済での支払いや知人への送金になる感覚で理解して,そう間違いない。一方,ホールセール型とは,割り切っていえば単に中央銀行預金が便利になり,民間人も使えるようになるものであるから,どういう意味があるのかわかりにくい。

 現在,ホールセール型CBDCを使って国際決済を便利にしようという「プロジェクト・アゴラ」が国際決済銀行(BIS)によって推進されている。現在の国際決済にはコルレス・バンキングが用いられており,その手続きをSWIFTというしくみで簡素化して迅速化を図っている。しかし,それでも煩雑だということで,新プラットフォーム上で素早く決済するのだという。強引に簡略化していえばそうなる。民間企業も中央銀行に口座を持って,中央銀行間が連携し,情報技術の活用で素早く決済しようということではないかと推測できる。

 一見,わかりやすそうな話であるが,私にはまだ理解できない大きな謎がある。「どの時点でどのように両替するのか」である。現代世界経済には統一通貨はない。払うとすればドルとかユーロとか円とか元とかで払うしかない。例えば日本企業が日銀に口座を持つとして,円建ての日銀預金でどうやってアメリカのFRBやアメリカ企業に払うのか。

 考えられることは三つくらいある。

1.どこかの時点で外貨に両替し,CBDC化したドル現金を入手してバーチャル送金する。イメージとしては,デジタルドルを入手し,支払元が日本で持っている端末から,支払先がアメリカで持っている端末に送るようなものである。CBDC化したドル現金に両替することは確かに考えられる。しかし,それならばリテール型CBDCを使うことになり,ホールセール型の出番はない。

2.ドル預金をアメリカの銀行に持つことで払う。支払元はドル預金口座をアメリカの銀行(US-A行とする)に持ち,そこから支払先の取引銀行(US-B行とする)の口座に振り込んでもらう。A行とB行の銀行間決済はFRBの当座預金にバックアップしてもらう。しかし,これならば従来のコルレス・バンキングそのものであり,情報技術でスピードアップする以外は何も新しいことはない。

3.ホールセール型CBDCに積極的役割を持たせるとすれば,次のようになるのかもしれない。支払元の日本企業が日銀とFRBの両方に中央銀行預金(ホールセール型CBDC)を持ち,支払先のアメリカ企業はFRBに中央銀行預金を持っている。そして,日本企業は中央銀行預金を引き出してドルに両替し,ただちにFRBに預け,FRB内の預金振替でアメリカ企業に払う。これならば,ホールセール型CBDCが生きるし,確かにコルレスバンキングよりは手順は簡素になるかもしれない。ただし,各国中央銀行には非常に大きな負荷がかかる。日本からアメリカへのあらゆる大口送金について,FRBが自ら振替処理をしなければならないからだ。そんなことが可能なのだろうか。これを可能にする新しいプラットフォームを作るということだろうか。

 これまでのところ一番詳しいBISの報告は,2023の国際決済銀行(BIS)年次経済報告第3章「Blueprint for the future monetary system: improving the old, enabling the new」だと思うのだが,これを読んでも,決裁を迅速にするトークン技術の新しさが解説されているだけで,ここでの疑問である「どの時点で外貨両替するのか」が一言も書かれていないように見える。だから上記の3であるのかどうか,確証が持てない。

 このように,「アゴラ・プロジェクト」とは,国際決済としてどこをどう新しい仕組みにするのか,まだ私には謎である。BISのページを見ただけではよくわからない。現在,この領域を対象としているゼミの院生が文献を調査しているところだ。

BISの実験プロジェクト『アゴラ』への日本銀行の参加について,日本銀行,2024年4月4日

Project Agorá: central banks and banking sector embark on major project to explore tokenisation of cross-border payments, April 3, 2024, BIS.

2024年10月1日火曜日

岡橋保の貨幣・信用論はなぜ少数派だったのか?この説を継承・発展させるためには何が必要か?

 ここ数年,再評価作業を行っている岡橋保氏の貨幣・信用論であるが,学界では当人の生前から少数派にとどまっていたようである。その原因を考えてみると,四点ほど思い当たることがある。

 第1に,その叙述スタイルである。まず前提として,岡橋氏が活躍した時代は,雑誌論文よりも著書が主要な研究成果発表形態であったことを踏まえておく必要がある。岡橋氏の著書は,1957年の『新版 貨幣論』までは,自己の理論を体系的に叙述するスタイルであった。しかし,その後の著作では,歴史書である『銀行券発生史論』を除いて,冒頭では自己の見解を要約し,その後は論敵に対して批判を行う形で記述されるようになった。取り上げられた論客は,当初は不換銀行券を信用貨幣でなく国家紙幣とみなす飯田繁,麓健一,三宅義夫の各氏であり,信用インフレーションを説く川合一郎氏であり,新しいインフレーションを説く高須賀義博氏であり,ドルを国際通貨とみなす岩野茂道,木下悦二,深町郁彌の各氏であり,信用を現金の貸し付けとみなす宇野弘蔵氏であり,最後は預金貨幣を貨幣と認めず,また経済法則の適用対象を国民経済でなく経済一般とみなす村岡俊三氏であった。批判を中心とした岡橋氏の叙述スタイルは,当時としては論点をビビッドに取り出すものであったのだろうが,後年の読者からすると,その積極的見解をわかりにくくし,また過去の議論とみなされやすくしたことは否めない。また批判の方法が,一方では相手の論旨を「というのである」「ということになる」とその帰結までたどる丁寧なものであったのだが,後年の読者が読むと,どこまでが相手の議論の紹介でどこからが岡橋氏の見解がわかりづらくなったことは否めない。他方で,批判の表現は,今日ではもちろん,おそらく当時の基準でもあまりにも苛烈であったために,その理論的内容が素直に受け取られにくかったことも想像に難くない。

 第2に,金でなければ本来の貨幣にならず,価値尺度にならないという主張を貫いたことである。これは,マルクスその人の貨幣論を素直に継承したものなのであるが,多くのマルクス経済学者はこの規定がリジッドに過ぎて管理通貨制下の資本主義を分析する際の障壁になるとみなし,多かれ少なかれ修正しようとした。しかし,岡橋氏はまったく譲ることがなく,ほんらいの貨幣は金でなければならないとし,その一方で,金が流通しなくなり,公定価格標準が廃止された現実を現実としてそのままみとめたのである。岡橋氏は,特定の商品貨幣が流通して直接の価値尺度機能を果たすことはもはやなく,代用貨幣のみが流通し,中央銀行券と中央銀行当座預金が最終決済手段になっていると,事実上主張していた。ここにはマルクス経済学の中核的命題を維持しながら現実の説明を可能とする理論的発展の手掛かりがあったはずである。しかし,岡橋氏はこのことについてまとまった説明を与えなかったために,読者にはその主張が十分に伝わらなかった。

 第3に,不換の預金貨幣や銀行券を信用貨幣とみなし,マルクス経済学を含む通念に真っ向から反対したことである。岡橋氏は,不換制の下での預金貨幣や銀行券・中央銀行券を,兌換制のもとと変わらず信用貨幣であるとした。しかし,当時,マルクス経済学を含めて信用貨幣とは金債務であるとするのが常識であった。つまり<銀行券などは金で支払われるから信用貨幣なのであり,不換制の下では国家紙幣になる>というのである。岡橋説は論敵の三宅義夫氏をして「岡橋教授の所説はおそらく教授以外の何人も納得しえないものと思われるが」と言わしめたほど少数派であった。しかし,その三宅氏もすぐ続けて「こんにちの不換制下においても,日銀のバランス・シートでは発行銀行券は『負債の部』に計上されている。これをどう説明するかはエレガントなパズルと言えよう」(三宅「兌換銀行券と不換銀行券:岡橋・飯田両教授の所説に寄せて」『経済評論』1957年3月号)と認めざるを得なかった。岡橋氏は,不換制のもとでも商業信用が執り行われ手形が存在する以上,銀行券・中央銀行券を手形と認めないのは不整合であることや,不換銀行券の流通量は伸縮しうること,返済を含む債権債務相殺の機能は生きていることを述べて,自説を主張した。しかし,金債務説がもっとも問いたいであろう,<中央銀行券が金債務でないというのならば,何によってどのように支払われるのか>については,岡橋氏は中央銀行券が最終支払い手段になったのだという以外のことは述べなかった。このため,岡橋説にあっては,中央銀行券・中央銀行当座預金の信用貨幣としての流通根拠が,今一つ積極的に説明されないままにとどまった。

 第4に,マルクスの「貨幣流通法則」と「紙幣流通の独自法則」を厳密に解釈した結果,現状分析の上で,1960年代から1975年にいたるまで,日本には厳密な意味でのインフレーションは起こっていなかったと主張したことである。岡橋説によれば,価格標準の切り下げによる名目的物価上昇としてのインフレーションは,公定価格標準(金平価)の切り下げか,財政赤字による投げ込み的(今日的に言えば外生的)貨幣投入によって生じる。一方,銀行貸付の肥大化による通貨供給は,商品流通量の増大に伴う,貨幣流通法則に沿った(今日的に言えば内生的な)供給であり,貸付・返済によって伸縮するものであるから,景気を過熱させることはあってもインフレーションを起こすものではない。したがい,岡橋氏から見れば,戦時中の物価上昇は厳密な意味でのインフレであったが,高度成長期から1975年までは日本の財政は赤字ではなかったので,インフレも生じなかった。岡橋氏は,高度成長期や過剰流動性期の物価上昇を,景気の過熱による一時的及び実質的物価上昇だったとみなしたのである。岡橋説では,また,1970年代には,アメリカの物価高騰や,オイルショックによる原燃料価格の高騰を反映して「輸入インフレ」と呼ばれる事態が生じたが,岡橋はこれも円の相対的価値の低下による不等価交換とみなし,やはりインフレーションとはみなさなかった。この,日常用語としては誰もが「インフレ」と呼んでいたものを,厳密にはインフレではないと言い切った岡橋説は,マルクス経済学者を含めて極論とみなされたのである。

 以上を踏まえると,岡橋説の現代的意義を主張する際には,これらの論点に対応した解明が必要である。第一に,岡橋貨幣・信用論の体系をわかりやすく再現する説明を行うことである。第二に,資本主義における貨幣システムの発展を,本来の貨幣としての金属貨幣=商品貨幣の流通を排し,代用貨幣によって代える傾向を持つものとして叙述することである。そしてその発展が,資本主義発展をどのように媒介し,どのように矛盾を蓄積させているかを明らかにすることである。第三に,不換の預金貨幣や中央銀行券が信用貨幣であることについて,その支払い能力がどう担保されているかの適切な説明を行うことである。第四に,日常用語として「インフレ」とされている現象について,厳密な意味でのインフレーションであるか,そうでない物価上昇であるかについて納得のいく説明を行うことである。これらは実は,1990年代以後の「デフレ」やポスト・コロナの「インフレ」,「異次元の金融緩和」とその解除の意味を問ううえでも必要な論点であり,その解明は歴史的にも現代的にも意義を持つと,私は考える。

(写真は,ようやくそろった岡橋の全著書・編著と追悼文集)




2024年9月13日金曜日

「貨幣分類論」を東北大学経済学研究科のディスカッション・ペーパーとして公開しました

 先にこのブログに分割投稿した「貨幣分類論」を修正し,東北大学経済学研究科のTERG Discussion Paper, 490として公開しました。思考の整理のためにDPにしましたが,先行研究をサーベイせずに教科書風の解説だけ述べているので,雑誌論文として投稿するには苦しいかもしれません。しかし,それだけに読みやすいはずです。貨幣論にありがちな衒学的表現を全く使わずに,用語を定義し,対象を分類して,何を言いたいのか明確にすることに努めました。先に公開した「通貨供給システムとしての金融システム」ともども,ご批判をお待ちしています。

目次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 外形的分類
Ⅲ 本質分類
Ⅳ 形態分類と物的定在分類
Ⅴ 通用根拠分類
Ⅵ 機能分類
Ⅶ 支払い方法分類
Ⅷ 供給領域による分類
Ⅸ 供給の内生性,外生性による分類,そして兌換と不換
Ⅹ 中央銀行デジタル通貨(CBDC)の場合
Ⅺ おわりに

以下の2か所からダウンロードいただけます。
researchmap
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170

東北大学機関リポジトリTOUR
https://doi.org/10.50974/0002002578






2024年9月8日日曜日

カネゴンがお金を食べるのと人間がお金を貯めるのはどう違うのか:代用貨幣の蓄蔵可能性をめぐって

 『ウルトラマンアーク』第8話「インターネット・カネゴン」。AIのバーチャル配信者カネゴンが人気がありすぎて,地域電子マネーのほとんどがカネゴンへの投げ銭に費やされてしまう。カネゴンはお金を貯めることだけが目的なので,地域電子マネーが流通しなくなり,地域経済が不況に陥るという話である。

 今度のカネゴンは,『ウルトラQ』で初登場した時とはいろいろ違いがある。リアルではなくバーチャルな存在であるし,食べるものは硬貨でなく地域電子マネーである。しかし,もう一つ重要な違いは,食べたお金を消化するのではなく,貯めこんでいることである。ここから,今度のカネゴンは経済学上の理論問題にかかわって来る。

 地域通貨は,国家貨幣や補助硬貨と同じく,それ自体は価値を持たない代用貨幣であり価値章標(シンボル)である。地域経済が必要とする最小限,つまりはどのみち受け取ったらすぐ使わざるを得ない量の範囲では,住民の信認があれば流通する。しかし,商品流通界では役に立っても,その外に出れば無価値である。したがい,金貨のように蓄蔵されることはない。これが貨幣論の古典的命題である。

 しかし,人々がカネゴンのように行動すればどうだろう。今回のカネゴンは「星元ペイ」という地域電子マネーをため込み,決して使おうとしない。これは代用貨幣を蓄蔵していることにならないのだろうか。代用貨幣も,お金を貯めたいという気持ちが人々に強ければ蓄蔵されるのではないだろうか。これが問題である。

 さて,カネゴンの行動原理は独特である。価値のない代用貨幣に絶対的価値を見出しているか,あるいは代用貨幣に「美味しい」という独特の使用価値を見出しているために,お金をひたすらため込むのである。カネゴンはため込んだお金を使わない。だから,もしインフレが起こってもカネゴンにとっては1万円は1万円であり,価値が目減りしたとは感じないだろう。商品と交換することがないからである。

 これに対して人間が代用貨幣をため込むのは,ため込むこと自体に意義を見出しているのでもないし,美味しいからでもない。まず背景として,お金が流通しにくくなり,個々人や企業の手元で遊休するのは不況だからであり,企業が生産的に資本を投下しても利潤を得られないからである。実物資産に投資して事業を行っても利潤を得られそうに社会状況であるからこそ,個人や企業は,他の形態でなく,いざとなればなんにでも転換できる貨幣のままで財産を保持しておこうとする。これを経済学では「流動性選好」と呼ぶ。しかし,これは結局何かに転換しようとしているから持っているのであって,経済が本格的に回復しなくてもわずかなきっかけがあれば,個人は貨幣を他の形態の財産に移し替えたり消費したりしてしまうだろう。その際に,インフレで目減りするリスクにもおびえざるを得ない。流動性選好とは結局は使うために貨幣を持つことであり,このとき代用貨幣は商品流通界内で一時的に休息しているだけと言ってよい。

 ただ,事態はもう少し複雑だ。流動性選好によって代用貨幣を保有するとしても,代用貨幣はそれ自体価値を持たないため,その通貨価値は常に変動リスクにさらされている。一方,資本主義経済では,実体経済に投資しなくとも金融資産で稼ぐことが可能である。そのため個人や企業は,金融資産の保有と売買による価値増殖を図る。これが「金融資産選好」である。金融資産価格が上昇し続けている間は,代用貨幣は金融資産の買い手と売り手の間だけを行き来し,いわゆる金融的流通に閉じ込められる。しかし,金融資産価値の価値は擬制的なものである。正確に言えば,もともと実体的な価値の裏付けを持つが,膨張するにつれてその基礎から離れていくものである。実体経済の収入が資本還元されて擬制的価値を持つ証券となり,さらに証券市場での売買によって擬制的価値は増殖する。証券が担保となってされに別種の証券が発行されるといった具合である。擬制資本価値は投機によって増殖するが,行き過ぎればどこかで崩壊せざるを得ない。崩壊とともに代用貨幣は金融的流通からはじき出され,やはり商品流通界に戻らざるを得ない。

 だから,人間は金貨は蓄蔵できても,カネゴンのように代用貨幣を蓄蔵することはできない。その理由は,カネゴンは代用貨幣にも絶対的な価値を見出せるが,人間は代用貨幣それ自体には価値がないという事実に振り回されるからである。流動性選好によってお金をため込むことはできても,それはやがて使うためであるし,インフレにも警戒しなければならない。金融資産選好によってお金をため込むことはできても,擬制資本価値はいつ崩壊するかわからない。代用貨幣は蓄蔵されるのではなく,商品経済界に戻る機会をうかがいながら,一時的に遊休するか,金融的に流通しているのである。





2024年8月7日水曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その3・完)

  Ⅰ はじめに

Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上その1
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
(以上その2
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに
(以上今回)

V 遊休とバブル

貨幣の遊休

 さて,民間経済活動に対する信用供与によって投入された預金貨幣であれ,政府が発行して流通に投じられた不換国家貨幣であれ,財政赤字によって投入された預金貨幣であれ,はたまた預金貨幣が預金引き出しによって形態転換された中央銀行券であれ,商品貨幣そのものでなく代用貨幣であることは変わりない。代用貨幣はそれ自体価値を持たないため,退蔵されえない。つまりいったん発行されると,商品流通を媒介し続けるか,民間経済活動に貸し出された預金貨幣に限っては,銀行に返済されて消滅するかである。

 しかし,本質規定としてはそうであっても,代用貨幣の実際の運動を詳細に見れば,一時的に持ち手の手元で停滞し,一定期間は商品流通を媒介しないこともある。これは,本質的には貨幣の流通速度の低下と言える事態であり,事実上の価格標準を変更しているわけではない。しかし,ことは人々の目には本質と違って見える。本質的には商品生産の拡大による資本蓄積が困難であることが代用貨幣を遊休させるのであるが,個々の経済主体の意識からみれば,他の商品に対する価値保蔵の相対的便宜や,種々の商品への来るべき転換の便宜確保が代用貨幣保有の動機となり,もっぱらそのことによって需要が停滞しているように映る。いわゆる流動性選好である。こうして家計がもつたんす預金や定期性預金,企業が持つ手元現預金,金融機関保有現金などが積み上がる 。これらの遊休貨幣は,物価に影響する。遊休貨幣が遊休貨幣のままとどまるということは,すなわち有効需要の減退によって不況への突入ないしは継続が生じ,物価が下落するということだからである。

 この物価下落は本質的には不況によって商品流通が停滞することによる物価下落であるから,一時的であり,また継続すれば実質的である。別の角度から言えば,一時的に貨幣の購買力が上昇し,後に商品生産費が切り下がればもとにもどるような状態である。価格標準が切り上がって貨幣的デフレが起こったわけではない。個々の経済主体の動機に即して見れば流動性選好によるものであるから貨幣的と見えるが,それは社会的視点と個々の個別経済主体視点の混同である。物価下落そのものは,商品の需要が弱いことから生じ,またそれが継続して生産コストの切り下げが生じることから生じるのであり,個々の経済主体による流動性選好は,この価格下落を媒介し,加速するに過ぎない。なので,社会的規定としては一時的・実質的下落と見なければならない。

 とはいえ,流動性選好は代表貨幣遊休を極端にしたり長引かせたりすることで,物価下落をも極端にしたり長引かせたりすることは否定できない。代用貨幣の遊休,不況,一時的・実質的物価下落の関係は,今日の経済の個々の局面を理解するうえで極めて重要である。

バブル

 代用貨幣は遊休するが蓄蔵されえない。遊休は,本質的には商品生産・流通の停滞から生じるが,こうして遊休した貨幣に単なる継続保有以外に,もうひとつ,擬制的な価値増殖機会が現代経済には与えられている。それが金融資産への投下である。

 金融資産への投下は,新規発行株式や新規発行社債の購入であれば,生産的投資と言いうる。購入資金が生産的用途に充てられ,商品流通媒介に復帰するからである。しかし,流通市場での金融資産購入は,擬制資本に価格を付け,持ち手を転換しているだけである。金融資産からの収益は,株式の配当や社債の利子,不動産証券の賃料配当であれば,利潤からの分配と言えるが,多くは売買差益(キャピタル・ゲイン)である。今日,資本市場の一大部分がこのキャピタル・ゲイン追求行動によって成り立っており,そもそも銀行貸し付けによる信用創造が,事実上キャピタル・ゲインの追求を目的として行われる場合も少なくない。

 こうなると,貨幣流通量の一部は,商品流通を媒介せずに金融的流通にとどまり,擬制資本の価格形成だけを媒介し続けるようになる。その規模が拡大し,ほんらいの物価から見かけ上独立して金融資産価格のみが高騰し,商品流通の要求から離れて金融的流通に一層の貨幣が投じられることがありうる。この現象が,バブルと呼ばれるのである。

 バブルは,現代において貨幣の蓄蔵が起こりえず,代用貨幣の遊休だけが生じることから派生する現象である。と同時に,単なる遊休とは異なる現象でもある。

遊休,バブルの攪乱作用

 不況は一次的・実質的物価下落を引き起こし,貨幣流通量を停滞させるとともに,流通内の貨幣を遊休させる。遊休貨幣はまた商品側にある程度反作用し,不況を悪化させ長引かせる。バブルは実物経済の景気から相対的に独立して金融資産価格のみを騰貴させ,貨幣流通量の一部を金融的流通に滞留させる。

 政府が財政赤字をもって投入した預金貨幣が遊休貨幣やバブルに帰結した場合は,より複雑である。本来,これら外部からの代用貨幣投入は貨幣的インフレーションを引き起こす可能性を持っている。しかし,貯蓄となって遊休する貨幣が大きくなれば,名目的物価上昇としての貨幣的インフレの発現は,一時的物価下落によって遅延させられるし,実質的物価下落によって相殺されるかもしれない。このとき生産的に支出すれば可能だったはずの景気回復と一時的・実質的物価上昇もまた遅延させられる。またバブルが生じた場合は,貨幣的インフレ,景気回復と一時的・実質的物価上昇の代わりにバブルが生じるということになる。遊休とバブルが関与した場合の物価変動の複雑性には十分な注意が必要である。

 本節の解説をまとめると表4のようになる。遊休は物価変動要因であるが,バブルは物価変動要因とは異なるため独自の欄を設けていない。





VI 外国為替相場と物価

 外国為替相場の騰落と物価との関係は,本来は二通りに分けて考える必要がある。本来,経済法則として生じるのは各国の物価変動率の差異が外国為替相場の変動を引き起こすことである。例えば,各国における貨幣的インフレ率の相違によって事実上の価格標準の切り下げ率の違いが生じるために,外国為替相場は変化する。また,各国の景況と生産性向上に伴う一時的・実質的物価変動が原因となって,外国為替相場は一時的,さらに恒久的に変化する。これらの場合は,物価変動は結果でなく原因である。これらは理論的には重要であるが,物価変動の種別を扱う本稿の主題ではない。

 ここでの問題は,外国為替相場が上記以外の何らかの理由で先行して変動し,それが物価変動を引き起こす場合である。この理由として貿易と金融取引の不均衡があげられるが,今日には金融的要因による変動が大きいと考えられる。これにより自国通貨の上昇が続けば,自国通貨建てでみた輸入品価格は下落するし,自国通貨の下落が続けば自国通貨建てで見た輸入品の価格は高騰する。この変動は,為替相場の騰落自体が一時的であれば一時的物価変動であり,持続して自国産業の生産費や産業組織に影響を与えるならば実質的変動である。

 この変動は通貨の交換比率の変動が転じて通貨と商品の交換比率の変動となったものであるから,貨幣的物価変動と言ってよい。しかし,貨幣商品の生産費という意味での価値変動ではないし,価格標準の変動でもない。交換手段としての貨幣の購買力の変動であり,貨幣と商品の交換比率の変動である。通貨安による輸入物価の上昇は,日常用語では「コストプッシュ・インフレ」などと呼ばれるが,その実体は自国通貨購買力の低下による一時的・実質的物価変動であり,貨幣的インフレではないのである。

 本節の解説をまとめると表5のようになる。



VII おわりに

 ここまで論じてきた種々の物価変動の違いをまとめると表6のようになる。

 日常用語でいうインフレ,デフレは,それぞれ持続的な物価上昇と,持続的な物価下落のことである。しかし,これは物価の一時的変動,実質的変動,名目的変動という重要な区別,また実物的変動と貨幣的変動という重要な区別を覆い隠したものである。

 経済が好況や不況に向かう際の,商品の需給関係に起因する物価の一時的変動と実質的変動は実物的変動である。その根拠は商品の需給関係や生産諸条件や産業組織にあるのであって,貨幣的要因によって起こるものではない。自立的好況による物価上昇は「ディマンド・プル・インフレーション」と呼ばれるが,厳密な意味でのインフレーションではない。なお,課税等により,商品流通の外部から流通する貨幣を強行に引き抜いた場合は,貨幣的要因が実物的要因に作用し,実質的物価下落を伴う不況となるが,この場合も貨幣的要因の作用は間接的であり,直接の要因は実物的要因である。

 物価の名目的変動は貨幣的変動である。商品の需給関係や生産諸条件や産業組織によらず,貨幣の側の要因のみによって生じるからである。とりわけ,価格標準に起因する名目的変動こそ,厳密な意味でのインフレーション,デフレーションであり,また貨幣的インフレ,デフレである。管理通貨制が採用されている現代においては,それは不換代用貨幣の商品流通に外在的な投入による名目的物価上昇,すなわち貨幣的インフレという形でのみ起こりうる。

 代用貨幣の遊休は,本質論としては商品の需給関係の需要不足・供給過剰方向への変動や,商品生産条件の変動を反映したものである。しかし,流動性選好は商品の側に反作用し,物価の一時的・実質的下落の程度や継続期間に影響する。つまり遊休は,この表では最上位の2項目に属するが,その在り方を変動させ,攪乱させる作用を持つ。またバブルはほんらいの物価変動ではないため,この表では独立した項目にならない。

 代用貨幣の遊休とバブルは,貨幣流通を攪乱する。価値保蔵の動機で代用貨幣の遊休が持続すると不況を加速し,一時的・実質的物価下落を加速する。遊休貨幣が金融資産購入,とくにキャピタル・ゲイン狙いのそれに投じられると,商品流通を媒介するはずの貨幣流通量の一部が,相対的に独自な金融的流通を形成する。この商品流通と乖離した金融的流通の拡大が,資産価格の高騰とともに生じるのがバブルである。遊休と金融的流通は,商品流通を媒介する貨幣流通や,金融・財政政策の波及をかく乱する。

 注意すべきは,金融・財政とインフレ,デフレの関係である。銀行信用の伸縮は,好況または不況に伴って起こる物価の一時的変動や実質的変動を加速するし,バブルの発生や崩壊を促進する。しかし,厳密な意味での,言葉を換えていえば貨幣的なインフレ,デフレを引き起こすことはない。他方,不換国家紙幣の発行や,財政赤字による預金貨幣の散布は,貨幣的インフレの原因となる。ただし,財政支出がどれほど商品の生産と流通を誘発するかによって,貨幣的インフレが現実化するかどうか,貨幣的インフレが一時的・実質的物価上昇とともに現れるかどうかが左右される。財政拡張による好況期の物価上昇が「ディマンド・プル・インフレ」と呼ばれる時,そこには貨幣的インフレと一時的・実質的物価上昇が混在しているのである。生産や雇用の拡大を意図した財政拡張は,遊休とバブルによってその効果を減殺されたり,遅延させられたりすることもある。貨幣的デフレは,管理通貨制が採用されている現代では生じ得ない。財政黒字によって商品流通に外在的に預金貨幣・中央銀行券を引き上げると商品流通量も縮小して不況となり,物価は名目的にではなく一時的・実質的に下落してしまうからである。

 外国為替相場の変動に起因する物価変動は,通貨と輸入商品との交換比率の変動によるものであり,一時的または実質的物価変動である。ただし,通貨の交換比率の変動が転じて通貨と商品の交換比率の変動となったものであるから,貨幣的物価変動と言える。自国通貨安に起因する物価上昇は「コストプッシュ・インフレーション」と呼ばれるが,その実体は自国通貨購買力の低下による一時的・実質的物価上昇であって貨幣的インフレではない。

 インフレ,デフレと好況,不況,バブル,金融政策と財政政策の効果をめぐる諸問題は,以上の区別と関連を踏まえて論じられるべきである。


(完)



2024年8月6日火曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その2)

 Ⅰ はじめに

Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上その1
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
(以上今回)
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに


IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか

要因分類

 一時的,実質的物価変動が,景気の拡大や停滞による商品の需給変動によって引き起こされることは明らかでる。では,現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるかというと,すでに述べたように不換代用貨幣の商品流通外からの投入によってである。しかし,そうした代用貨幣の一方的投入はどのように引き起こされるか。

 不換代用貨幣が商品流通内に一方的に投入され,結果として純投入となる経路は,いくとおりか考えられる。
(1)銀行の信用創造による預金貨幣の創出,あるいは預金貨幣から転換された中央銀行券の流通
(2)政府による不換国家貨幣の発行
(3)財政赤字を通した,政府による預金貨幣での支出超過

 それぞれの場合について,貨幣的インフレが生じるかどうかを考えよう。

銀行の信用創造

 ここでは,民間の経済主体,主には企業,また時には家計の求めに応じて銀行が貸付や割引を行う際のことを指す。国債入札による政府への貸し付けによって政府の支出超過を支える場合は,次項で考察するので,除くものとする。

 さて,銀行が民間の経済主体に貸付や割引を行うのは,それらの主体が生産活動や消費活動のための貨幣を必要としているからである。企業は利潤追求を目的に機械設備や原材料を仕入れ,労働者に賃金を払い,必要と思われる製品を保管し,流通させるために貨幣を必要とし,銀行から借り入れる。家計は,のちの収入を引き当てにして,これを先取りする形で銀行から住宅ローン等を借り入れる。その際に,銀行は自らの手形である預金を発行して貸し付ける。別の言い方をすれば,借り手の預金口座に残高を設定する形で貸し付ける。銀行のバランスシート上では,資産側に貸付金,負債側に預金が増加する。これが預金貨幣の創造であり,新規発行である。借り手は必要な支払いを預金振替で行うこともできるし,預金を引き出して中央銀行券に形態転換し,これを現金として購買することも可能である。

 企業の利潤追求活動が成功するか,少なくとも企業が倒産しない程度に継続し,家計が事後の収入をそれなりに得られた場合は,金利とともに元本が返済される。返済に際しては,企業や家計は自己の口座に返済元本を預け入れる。銀行は,バランスシート上で,資産側から貸付金,負債側から預金を同時に除去することで,返済を完了する。これは預金貨幣の還流・消却でもある。

 この全過程を見ると,預金貨幣は,商品流通のために新規発行され,持ち手を変え,時に一時的に中央銀行券に姿を変えながら,実際に商品流通を媒介する。そして,返済の際に発行銀行に還流して消滅する。

 つまり,民間経済主体に貸し付けられる預金貨幣は,商品流通の側の要求に応じて流通に投じられる。そして,流通から出ることもできる。ただし,退蔵されることはなく,流通から出れば消滅するのである。不換代用貨幣である預金貨幣が,このように商品流通側の要求に応じて伸縮できるのは,預金貨幣が信用貨幣,具体的には銀行の債務だからであり,銀行が貸す時に生まれ,銀行に返済される時に消えるからである。

 さて,個々の貸付・返済の元本についてみれば,貨幣流通量の増大と縮小はゼロサムである。しかし,社会全体としてみれば,商品流通量が拡大する好況期には,銀行の新規貸付額が増加し,過去の貸付の返済額を上回るだろう。逆に商品流通量が縮小するほどの不況になれば,新規貸付が停滞して過去の貸付の返済額を下回るだろう。こうして,経済成長や経済収縮に対応した貨幣量が確保される。

 このように,銀行の民間経済活動への貸し付けや割引に起因する預金貨幣の流通量は,商品流通に対応して伸縮するものであり,この意味で預金貨幣の供給は内生的である。預金貨幣は不換代用貨幣であるにもかかわらず,民間経済活動への信用供与である限り,流通外から一方的に投入されることはないのである。したがって,銀行が企業の求めに応じて活発に信用供与を行っても,貨幣的インフレーションは生じない。起こるとすれば,好況を信用拡大が支えることによる一時的・実質的物価上昇である。

 銀行の過大融資が「信用インフレーション」を起こすという説があるが,これは厳密な意味でのインフレーションではなく,好況を信用拡大が支えることによる一時的・実質的物価上昇である。逆に,金融引き締めが「デフレ」を起こすという説があるが,これもまた厳密な意味でのデフレーションではなく,不況の際の信用収縮による一時的・実質的物価下落である。だから,中央銀行の金融政策によって銀行の信用供与を促進・抑制することを通してでは,景気を刺激することや過熱を抑制することはできても,貨幣的インフレも貨幣的デフレも起こすことはできないのである。1990年代以降の日本における「貨幣的現象としてのデフレが生じた」「日銀の金融緩和不足がデフレを起こした」「日銀は超金融緩和によってインフレを起こそうとした」という議論は,いずれも本来の貨幣的インフレ,デフレとは異なるものをそのように呼び,また実物的な不況を貨幣的現象と取り違え,日銀の権限と責任を過大視した議論である。

政府による不換国家貨幣の発行

 銀行による信用創造とある意味で対極にあるのが政府による不換国家貨幣の発行である。不換国家貨幣は紙幣のばあいと補助硬貨の場合がある。一般的に補助硬貨は小口流通円滑化のために発行されるので,通貨供給量の増加を引き起こすのは不換国家紙幣の場合であろう。政府は,自らの資産として不換国家貨幣を発行し,これを支出する。その支出は,民間経済活動の要求とは全く独立に行われるので,商品流通量とは独立に貨幣流通量だけが一方的に増える。

 ただし,この政府支出が製品在庫の直接買い取り,困窮する消費者の購買力増大による製品在庫の間接買い取り,遊休設備や失業者を稼働させ原材料在庫を流通させての生産活動の増大などにつながる限りは,商品流通量も増大するのであって,それが貨幣量通量の増大と釣り合っている限りでは,物価は名目的には上昇しない。むしろ,好況が惹起されることで一部商品の需要が超過となって一時的上昇が引き起こされるだろう。

 問題は,政府支出の増加が,すでに生産資源のフル稼働のもとで行われたり,戦争時の軍需のように生産した商品を流通外で消耗してしまったり,独占・寡占などの産業組織上の問題に突き当たったりすることにより,商品生産増加を十分に伴わず,製品価格の上昇を引き起こす場合である。この価格上昇は一部の製品価格の上昇に始まるが,産業連関を通して経済全体に浸透し,ついには全般的名目的物価上昇を引き起こすだろう。すなわち貨幣的インフレーションである。不換国家貨幣の発行は,商品流通量の増大に相殺されない限り,貨幣的インフレを引き起こすのである。

 では,銀行融資が回収されることで信用貨幣の流通量が収縮するように,課税によって不換国家貨幣が回収されるとどうなるのか。

 民間活動向け信用創造と異なるのは,不換国家貨幣は流通に投じられる時点で外部投入であり,投入されれば貨幣的インフレを誘発する効果を持っていることである。いったん貨幣的インフレが生じてしまうと,価格標準が事実上切り下がっているために,増加した代用貨幣量がそのまま流通に必要な貨幣量となってしまう。この後に,課税によって不換国家貨幣が回収されると,それは商品流通を媒介している貨幣量を外部から引き抜くことになり,商品流通量そのものを縮小させ,不況を誘発する。その際物価は下落するであろうが,それは一時的下落であり,持続すれば生産コストの高い生産者の退出による生産コストの低下をもたらし,実質的な物価下落となるだろう。不換国家貨幣の投入による貨幣的インフレがいったん起こると,不換国家貨幣の回収によっても貨幣的デフレを起こして相殺することはできないのである。これが「インフレ・デフレの非対称性」の具体的表現である。

財政赤字を通した,政府による預金貨幣での支出超過

 いささか複雑なのは,財政赤字が政府による預金貨幣創出によってなされる場合である。これは政府が国家貨幣を発行できない状況の下で,財政赤字を出す際に起こることであるが,今日のほとんどの諸国での財政赤字とはこのようなものである。あえて言うならば中央銀行券インフレーションではなく預金貨幣インフレーションである(岡橋,1948)。

 この支出は,政府が支出先の民間経済主体に対して,預金貨幣を振り込むことによって行われる。具体的には,政府は政府預金を中央銀行に振り込み,中央銀行が一般銀行に中央銀行当座預金を振り込み,一般銀行が民間経済主体,例えば公共事業を受注した企業に銀行預金を振り込むのである。もちろん,政府預金が不足すれば,国債を発行して借り入れを行わねばならない。

 この時,商品流通の外部から預金貨幣が流通に投じられる。預金が引き出されれば,預金貨幣に代わって中央銀行券が投じられる。ここでは,不換国家貨幣を投入した場合と同様の効果が生じる。商品生産を誘発できれば名目的物価上昇は起こらず,十分に誘発できなければ名目的物価上昇,すなわち貨幣的インフレが生じる。

 ただし,不換国家貨幣の発行と異なるのは,政府が国債を発行して借り入れを行っていることである。そこで,政府の借り入れによって流通している貨幣が吸収されてしまい,それが投入される貨幣量を相殺しないのかという問題を検討しておく必要がある。

 まず,中央銀行が国債を引き受ける場合を考えよう。この場合,国債による借り入れ分だけ,中央銀行預金貨幣が政府預金として新規発行される。この政府預金が支出されると商品流通に対して外的に一般銀行預金貨幣が投じられる。民間経済主体から貨幣が吸い上げられることはないので,貨幣流通量が純増していることは明らかである。

 では,民間銀行が国債を購入した場合はどうなるか。この場合,国債購入代金は民間銀行が持つ中央銀行当座預金から政府預金へと払い込まれる。つまり,この時も民間経済主体から貨幣が吸い上げられることはない。もっとも,銀行準備預金が社会全体として減少するため,これによって銀行の信用創造が制約されることはありうる。しかしながら,政府支出によって預金貨幣が増大すると,その分だけ中央銀行当座預金も増大するため,結局銀行準備預金はプラスマイナスゼロとなり,結果として信用創造は制約されない。つまり,民間銀行が国債を購入した場合も,やはり預金貨幣流通量は純増するのである。これは,国債の購入が,商品流通を媒介している預金貨幣によってではなく,商品流通を媒介していない中央銀行当座預金によってなされるためである。

 こうして,財政赤字を通した預金貨幣による支出も,国債を中央銀行が引き受けるか民間銀行が購入するかにかかわらず,貨幣的インフレを引き起こす要因となるのである。中央銀行が引き受けた場合にだけ貨幣的インフレ圧力が生じるという通念は誤りである。

 さて,不換国家貨幣による場合と同じく,いったん貨幣的インフレが生じてしまうと,価格標準が事実上切り下がっているために,増加した代用貨幣量,つまり預金貨幣と,預金が引き出された結果としての中央銀行券を合わせた総量が,そのまま流通に必要な貨幣量となってしまう。では,この後で政府が財政黒字を計上すれば貨幣的デフレが起こるだろうか。財政黒字というのは,単純化すれば支出を上回る課税を行った結果である。課税は,一部は中央銀行券で納付されるものもあるが,多くは納税者の預金口座から引き落とされ,銀行を通して政府預金へと振り込まれる。だから課税が政府支出を上回ると,預金貨幣の流通量が縮小する。すると,不換国家貨幣の回収と同じように,商品流通量そのものを縮小させ,不況を誘発する。その際の物価下落は一時的下落であり,持続すれば実質的下落となる。財政赤字は貨幣的インフレ圧力を生じさせるが,財政黒字は貨幣的デフレ圧力を生じさせない。生じるのは不況と一時的・実質的物価下落への圧力なのである。これもまた「インフレ・デフレの非対称性」の具体的表現である。
 本節の解説をまとめると表3のようになる。


その3に続く)

<参考文献>
岡橋保(1948)『インフレーションの経済理論:預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社。








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