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2024年4月6日土曜日

信用貨幣は商品経済から説明されるべきか,国家から説明されるべきか:マルクス派とMMT

 「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。

https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/daa72c2f544a4ff93a2bf502fcd8786b9f93ecab


 島倉原氏によるここの記事は,MMT(現代貨幣理論)の理論の根源を,新古典派やマルクス派とわかりやすく対比して主張しているので面白い。しかし,賛成はできない。私の立場からコメントする。

 島倉氏が,「主流派にせよマルクス派にせよ、『政府がなくても商品経済やその交換手段たる貨幣は成立する』という世界観を有している点では同根であり」というのは,乱暴ではあるがおおむね妥当であろう。ただし,一点留保しなければならないところがあり,これは後で述べる。

 主流派もマルクス派も,商品交換の必要性から貨幣が生まれると考えることは,同じである。だから商品貨幣を本来の貨幣とする。そこまでは確かにそうである。


*主流派における手形の貨幣化論の欠如

 しかし主流派は,貨幣が成り立つ必然性といった論点にはあまり関心がないので,管理通貨制になれば,貨幣流通の根拠は「国家の強制通用力」または「人々の信認」だろうと,あっさりと乗り換えてすませるところがある。しかし,このプラグマティズムには,落とし穴がある。商品貨幣(金貨など)→紙幣での代用,という構図を当然だと思い込んで採用するところである。しかし,現在流通している預金貨幣や中央銀行券は,商品貨幣→商業手形での部分的代用→銀行手形(預金貨幣と銀行券)での代用という風に,手形が貨幣化する過程を必須条件として成立しているのである。手形が抜けると,現代の貨幣の運動がつかめなくなる。手形というのは,債務発生のたびに新規発行され,債務が決済されると消失するものである。現代の預金貨幣は,銀行が貸すたびに新規発行され,返済されるたびに消えるのである。国家紙幣にはそのようなことは起こらない。だから主流派が銀行実務をまったく考慮せずに貨幣を論じると,現実とずれてしまうのである。実は,現代経済においては,毎日毎日,銀行から通貨が新規発行されたり,逆に還流・消滅したりしているのである。この独特な運動を捉え損ねると,銀行とはお金を持っている人から持っていない人に仲介するものだという,当たり前のようでまったく間違いな見解が生じるのである。


*マルクス派の商品貨幣節約論

 マルクス派も,商品貨幣を本来の貨幣とする。しかしマルクス派は,発達する資本主義にとって,商品貨幣の現物を用いることが制約となり,それを乗り越えるために様々な代用貨幣が出現し,商品貨幣に代わって流通するようになることを重視する。商品経済から貨幣が生まれ,貨幣を用いた取引から手形が生まれ,販売と購買の分離,流通する手形を用いた債権債務相殺という手形原理が成立し,銀行手形による貸し付けが出現する,という順序で信用貨幣としての代用貨幣の論理を構築するのである。これにより預金貨幣や中央銀行券の運動が説明可能になる。

 しばしば誤解されているが,マルクス派とは「金が貨幣だから,いまそれが流通していないのは異常事態だ」というものではない。乱暴な単純化を覚悟で言えば「ほんらい金が貨幣なのだが,そんなものを使っていては不便で仕方がないので,代用貨幣,とくに信用貨幣が発達し,金の現物は流通しなくなる」ことを明らかにする見地である。もちろん,マルクスは資本主義に批判的だから,この発達には矛盾も伴うとしている。例えば金兌換が停止されると,財政赤字によるインフレの悪性化のリスクは大いに高まる。信用貨幣が膨張すると,経済は拡大する半面,バブルや金融危機も起こりやすくなる。しかし,そうした矛盾を含めて,代用貨幣が発達し,商品貨幣が流通から姿を消す必然性を述べるのがマルクス派である。


*商品貨幣は歴史的主流でなく論理的基本形

 島倉氏は,経済史の研究成果をもとに,「貨幣が導入される前は物々交換経済があり、貨幣も元々は市場で交換される商品の1つであった」ということを否定し,「商品貨幣論が想定するような物々交換経済はそもそも存在していなかった」とする。しかし,経済史と経済理論は異なる。例えばマルクスの『資本論』は商品論から始まって貨幣論に進み,貨幣が資本に転化する剰余価値論へと進む。しかし,商品論がt時点,貨幣論がt+1時点,剰余価値論がt+2時点での話だと歴史的順序を述べているのではない。商品論が資本主義以前,剰余価値論が資本主義というのでもない。あくまで資本主義社会を念頭に置いて論理的な抽象を行い,説明のために適した順序でものごとを論じているのだ。だから,金が貨幣として必要だというのも現代社会のことであり,しかしそんなものを使っていては不便で仕方がないから金の現物は用いずに,預金貨幣や中央銀行券で代替するというのも現代社会のことであり,同時に起こっていることなのである。


*歴史的経過で経済理論を否定することはできない

 商品貨幣は資本主義以前に主流の貨幣ではなかったと言われれば,そうかもしれない。しかし,それは歴史の問題である。他方,現代社会での信用貨幣の説明は,現在の論理の問題である。マルクス経済学が言っているのは,むかしむかし物々交換と金貨が主流でしたという歴史物語ではない。貨幣としての性質や機能を理解する際に,特定の商品にすべての性質・機能が体現されている状態から出発するのがよいということである。いわば金属貨幣は論理的な万能貨幣である。ところが,現実に貨幣を使う際には,そもそも貴金属の量が限られていること,重さがある物体であること,販売と購買が結合していることなどの制約もあって,不便極まりない。だから代用貨幣が発達するという説明になる。「過去に主要なものとして用いられていた」ことが問題ではなく,「今を説明する際の基本形と設定できる出発点」であることが問題なのである。

 これをやや哲学的に言えば,歴史的経過によって,論理的説明力を否定することはできないのである。


*国家の重要性はどこにあるか

 島倉氏は「歴史学・人類学・宗教学などの知見を総合すれば、近代的な主権国家の登場前も含め、古代以降の様々な貨幣は「神」を含む主権者との関係に基づいて成立していると考えられる」と主張する。経済学が他の諸科学の補完によって経済を説明しなければならないのは確かだろう。例えば,クナップの表券主義による貨幣論にも重要な貢献はある。それは冒頭で私が保留した一点であり,「価格標準は国家が定める」としたことである。価格標準には二つの面があり,ひとつはドルとか円などの貨幣名を定めること,もう一つは貨幣金属の一定量を貨幣名での一単位と対応させ,昔のIMF体制で言えば「金1オンス=35ドル」などと水準を定めることである。このうち前者は今でも機能しているが,後者は機能していない。このことは,現代を説明する上でも確かに有効であり,それはマルクス派も認めるべきことである。だから,国家の貨幣へのかかわりは確かに重要である。


*経済はできるだけ経済で説明すべき

 しかし,だからと言って経済学の論理自体を軽視してよいはずがない。商品交換にとって貨幣が必要とされる論理,購買と販売が後払いによって分離し,後払いの証書として手形が生まれ,手形が流通することによって債権債務の相殺が可能となり,商品貨幣を節約する可能性が生まれることを無視して良いとは思えない。経済のことは,なるべく経済によって説明すべきであり,それが限界に達したところで他の論理による補完を考えるべきだろう。MMTの国定貨幣説は,「それは国家の力による」という説明に安易に頼りすぎている。それゆえ私は,手形債務説によって現代の預金貨幣や中央銀行券を説明する道を選びたい。

2024年2月4日日曜日

アメリカ経済の運命を左右するのはFRBのQTか,それとも国債の償還・借り換えか

 FRBの金融引き締めがいつ,どのように転換を迎えるかが話題となっている。しかし,その議論はかなり入り組んでいる。たとえば,「リバースレポ残高が枯渇すると市場の流動性がひっ迫するおそれがあるので,QTのペースを落とした方がいい」などと主張されているが,多くの人には何が何やらだろう。

 しかし,そもそもQTの理解に問題があるのではないかというのが,本稿のテーマである。FRBはコロナ後のインフレに直面して金融引き締めを行っているが,伝統的な手段,つまり手持ち国債を売却して金利を引き上げるという方法が,市場にショックを与えやすくとりにくいという問題に直面している(これは金融緩和の出口を模索する日銀も同じである)。そのため,引き締めは,準備預金金利引き上げ,リバースレポ金利引き上げ,そしてQTによって行われている。QTとは,売りオペレーションをするのではなく,保有している国債が満期償還されたら,再び国債を購入しないことによって,バランスシートを縮小することである。本稿は,この三つの引き締め手段のうち,QTに対象を絞って論じる。

 さて,QTに関する市場関係者の議論を聞いていると,そのほぼすべてが「QTをすれば準備預金が減って金融が引き締まる」,もう少し正確に言うと「QTをすれば準備預金またはリバースレポ残高が減る」と理解している。だから,最近のリバースレポ残高の減少について,「リバースレポがなくなってしまった後もQTを続けると,準備預金が大きく減って金融が引き締まる」と理解して,その行き過ぎで金利が急騰することを心配しているのである(※1)。

 しかし,「QTをすれば準備預金が減って金融が引き締まる」というのは果たして正しいのだろうか。QTのオペレーションをよく見てみよう。注意すべきポイントは,QTに国債が関わることである。国債購入に投じられたマネーは政府の下で眠り込むのではなく,財政支出される。このことを含めてQTと国債償還,または借り換えの効果を見る必要がある。

1)QTが行われる。まず,政府は国債償還のために課税等を強化してマネーをかき集め,政府預金を増やす。そして国債を償還する。FRBのバランスシートでは,まず負債側で政府預金が増えて連邦準備銀行券(つまりドル札の現金)発行高が減る。その後,資産側で国債が減り,負債側で政府預金が減る。結果として,負債側で減ったのは銀行券発行高である。通貨供給量(マネーストック)は減少する。準備預金は減少しない。ただし政府が課税した際に銀行預金を引き出して応じた人が多ければ,その分は銀行券でなく準備預金が減少する。

 このように,QTが行われ,政府債務が減少した場合は,マネーストックは確かに減るので,おおむね金融は引き締まる。ただし,銀行券と準備預金がどういう割合で減るかは,場合による。

2)話がここで終わらず,政府は国債を借り換えて政府債務総額を維持した場合を考えよう。借り換え国債は銀行が購入するとしよう(MMFが購入することもあるのだが,それについては別途考察する)。今度は銀行の準備預金が減り,政府預金が増える。しかし,これで終わりではない。政府は財政支出をする。仮に小切手支払だとすると,受け取り手はこれを取引銀行に持ち込んで預金か現金にかえる。銀行は政府に支払いを要求し,FRBの決済システム上で,政府預金から準備預金へと振り込んでもらうことで支払いを受ける。これで銀行の準備預金は回復する。したがいFRBのバランスシートは変化しない。ただし,政府支出の受け取り手が現金を選ぶと,その分だけ銀行は準備預金を引き出すので,準備預金は完全には回復せず減少し,その分だけ現金発行高が増える。政府債務は借り換え債発行前よりは増え,以前の国債償還前とは同額になる。そして,マネーストックは,借り換え債発行前と比べると,財政支出の受け取り手が得た預金または現金の分だけ増える。そして国債償還前と同額まで回復する。

 このように,QTが行われて政府債務総額は維持された場合は,マネーストックは変動しない。したがい金融もおおむね引き締まらない。準備預金は,政府支出が預金で受け取られた分は変動せず,現金で受け取られた分だけ減る。現金で受け取られる割合は,これも全く場合による。

 以上の理解が正しいとすると,「QTで準備預金は減って金融が引き締まる」と思い込むところが,そもそもおかしいのである。単純化のために,仮にこれらの取引に現金が用いられることないとすると,1)では準備預金は減るし金融は引き締まるが,2)では全く減らないし,金融も引き締まらない。この大きな違いを左右するのは,国債が借り換えられるか否かであることがわかる。

 「QE(量的緩和)では準備預金が増えるんだから,QTでは減るだろう」と思う人がいるかもしれない。しかし,そうではない。QEとQTではちょうど正反対のことをしているわけではないからである。QEでは,FRBは買いオペレーションを行う。つまり銀行が購入した国債を買い上げているので,準備預金が増えるのである。対してQTは,QEの正反対である売りオペレーションをするのではない。売りオペレーションによるバランスシート縮小は,市場へのショックが大きいため行われていない。QTとは満期国債の償還を受けることなのである。

 だから,QTそれ自体では,金融が引き締まるかどうかは決まらない。それを決めるのは,償還された分の国債が借り換えられるか否かなのである。

 だから,金融政策であるQTの効果とみられるものは,実際には財政政策の効果である,それも,QTによって一義的な結果が出るものではない。国債発行の縮小か継続かによって効果は全く異なる。FRBによるQTの選択ではなく,財政民主主義による財政支出の選択こそが本当の問題だ。

 QTそれ自体に効果があるとすれば,「もうこれ以上,国債を買いオペしませんよ」というシグナル,もっと言えば「国債をFRBで買い支える事実上の財政ファイナンスははやりませんよ」というシグナルを政府に対して送ることだろう。それも,金融システムそれ自体を操作するのではなく,結局は国債借り換えに対する警告である。

 国債発行を選択の問題とした場合,国債消化がそれを制約しないかという問題はある。QTの下で国債発行を続けた場合,FRBのによる買い上げを当てにせず,市中で消化しなければならないからだ。しかし,現状のアメリカで国債の引き受け手がなくなるとは考えにくい。むしろ,世界金融危機後の金融商品取引への規制は,銀行やMMFを国債に買い向かわせる効果を持っている。

 国債の消化自体は問題がないとすると,問題は,国債償還による財政支出の縮小か,借り換えによる財政支出の継続かである。QTと国債発行高縮小の組み合わせが取られた場合は,需要にはマイナスの圧力がかかる。逆にQTと国債償還の組み合わせが取られた場合は,その圧力はかからず,従来規模の財政赤字の下での政府支出規模が維持される。どちらが望ましいかの問題だ。まったくマクロ的に見れば,現状では,支出を絞れば超過需要によるインフレを冷ますにちょうどよいだろう。しかし,財政の問題は,支出規模だけでなく,内容も問題となる。物価を上昇させるだけで実質的に需要を拡大できない支出は無駄である。しかし,政府機関を止めずにその機能を維持するための支出は必要だろう。また,インフレ下での生活苦から消費者を救済する支出や,技術開発や人材育成や脱炭素社会のインフラ整備など経済の供給能力を改善して,長期的インフレ圧力を軽減することも有益だ。ポストコロナのインフレ下では,財政の総支出規模を絞り気味にすることと,必要な支出を確保することは区別する必要がある。

 財政の問題を抜きに,また財政支出の内容の吟味を抜きに,「QTが金融をどれほど引き締めるか」という次元だけで議論しても,空転気味の車輪で前進を図るようなものだと,私には思えるのである。

※1 話が横道にそれて複雑になるので,注で説明する。市場関係者は以下のように考えているのだと思われる。
<FRBがQT(量的引き締め)をする,つまり「保有している国債が満期償還されたら,再び国債を購入することはせずに,バランスシートを縮小する」と,FRBバランスシートの資産側で国債が減少する。では,負債側では何が減少するか。それは政府が借り換えのために発行した国債を,誰が購入するかによる。国債を銀行が超過準備で購入したならば,銀行の資産側,FRBの負債側で準備預金が減る。一方,MMFが購入したならば,MMFの信託勘定の資産側,FRBの負債側でリバースレポが減る。2023年半ばからリバースレポ残高が急速に減っているのは,FRBがQTを続ける一方,MMFが運用先をリバースレポから短期国債に切り替えているからである。FRBがQTを続け,政府が国債を借り換え続けると,FRBの負債側では準備預金かリバースレポが減る。リバースレポがなくなってしまうと,減るのは準備預金になる。準備預金が減ると銀行の融資や金融商品購入が制約され,金利が急騰するかもしれない。だから,リバースレポがなくなる前にQTのペースを落とした方がいい。>
 この議論の問題は,政府が国債を発行して集めたお金を支出した際の効果を見落としていることである。実際に銀行が借り換え国債を購入した場合には,FRBの準備預金は減少しないことは,本文を参照して欲しい。

2024年1月30日火曜日

預金のMMFへのシフトとFRBによるMMF相手のリバースレポはどのように行われ,どのような効果を持つか

 1.はじめに

 アメリカでは2022年から銀行預金が縮小し,またそれ以前の2020年から公社債投資信託の一種であるMMFが急増している。MMFは高利回りで安全度の高い運用先を求めるが,それは現在では政府やFRBの発行する債務へと向かう。一方,コロナ後になってFRBはインフレを食い止めようと金融引き締めにとりかかった。ここで両者の利害が一致する形で,2021年から2023前半までのFRBのリバースレポ(実質的には短期借り入れ)にMMFが応じるという取引が拡大した。本稿では,このリバースレポの金融政策上の意義について,貨幣流通の視角から論じる。なお,2023年半ばからは,MMFが運用先を短期国債にシフトさせたためリバースレポ取引は縮小し始めるが,その局面については,別の機会に委ねる。

 本稿はバランスシートを使った説明が長くなるので,結論を先取りしておくと,以下のようになる。

 家計が預金を引き出してMMFを購入すると,市中では預金貨幣が減り,現金流通高が増える。FRBの準備預金は減る。企業金融が銀行融資から証券発行にシフトしただけではこのようなことは起こらないが,MMFが投資信託であるために預金減と現金増が起こる。なお,個人にとっての流動性だけに注目して「フィナンシャルイノベーションによりMMFは通貨のようなものになった」「何が貨幣なのか曖昧になった」などという議論があるが,社会全体を見ればそうではない。単に現金流通が増えて,MMFという金融商品に買い向かったのである。

 次に,FRBがMMF相手のリバースレポを行なうと,市中では預金貨幣量は変化せず,現金流通高が減少する。FRBの準備預金は変化しない。FRBのリバースレポとは,現金通貨の吸収を通した金融引き締めなのである。このような取引が拡大していることは,FRBが中央銀行ー銀行ー企業・家計という本来のルートで信用創造を調節するだけでは金融調節が十分にできなくなり,遊休貨幣のほぼ直接的な回収に乗り出したことを意味する。しかもその回収方法は,金利というコストを支払って短期借り入れを行うというものである。本来信用を供与する側である中央銀行が,金利を支払って借り入れないと政策目的を達成できないのは,リバースレポも超過準備預金への付利も同様である。このことの意義は別途検討したことがあるが(※1),さらに考察を深める必要がある。

 預金のMMFへのシフトとFRBのMMF相手のレバースレポ取引がともに行われると,市中では預金貨幣が減り,発行済み現金は変化しない。FRBの準備預金は減る。したがい全体としては通貨供給量は減って金融引き締めとなる。預金縮小はFRBのオペレーションによるものではなく,家計の金融資産シフトによる効果である。一方,発行済み現金がいったん増加したのは,やはり家計の金融資産シフトの効果であるが,これを縮小させたのはFRBによるオペレーションの効果である。FRBは,市場の動きによっていったんは増加した現金を,MMFにリバースレポの金利を払うというコストをかけて政策的に回収したのである。FRBが回収しているのは現金だが,結果として減少しているのは預金と準備預金であることに注意が必要である。

 銀行預金と準備預金が減少することの引き締め効果は,超過準備預金が豊富にある状況ではごく小さなものである。しかし準備預金残高の縮小が進むと,効果が強まる可能性がある。FRBのリバースレポ金利支払が大きくなると,FRBの業績は悪化する。FRBの業績悪化は財務省への納付金の減少をもたらし,それによって連邦政府財政収支を赤字の方向に動かす効果を持つ。

 以下,これらのことを関連する経済主体のバランスシートの動きによって示す。なお,(+)は増額,(-)は減額で,金額はすべて同じである。

※1 「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023年7月6日。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


2.家計の資産が銀行預金からMMFにシフトすると,預金が減り,発行済現金が増え,準備預金が減る

ステップ1.家計が銀行から預金を引き出す

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),発行済現金(+)

家計
資産:預金(-),現金(+)
負債:

 家計が預金を引き出すとき,銀行は自ら準備預金を引き出して現金を確保して,これを家計に渡すのである。ここで発行済現金が増える。

ステップ2.家計がMMFを購入

家計
資産:現金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:現金(+) 
負債:MMF残高(+)

 この後MMFが何らかの金融商品で運用される。そうすると,MMF信託勘定の資産側で現金(-),金融商品(+)となり,金融商品の売り手の資産側で現金(+),金融商品(-)となる。本稿ではリバースレポで運用される話をするため,ここでいったん止める。

+取引前と後の変化

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),発行済現金(+)

家計
資産:預金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:現金(+) 
負債:MMF残高(+)

 結果として預金貨幣が減り,発行済現金(連邦準備銀行券)は増え,FRBの準備預金も減っている。


3.FRBがリバースレポ取引によってMMFから現金を回収する

 FRBはポストコロナ下で,公社債投資信託の一種であるMMFを相手にリバースレポ取引を行っている。リバースレポ取引とは,保有国債を翌日買い戻すという条件付きで売ることであり,事実上は短期の借入である。この節の目的は,これがFRBによる現金回収を通した金融引き締めであることを,バランスシートによって示すことである。

 リバースレポ取引のプロセスを見る場合にややこしいのは,MMFはFRBに口座を持っていないことである。したがって直接取引することができず,中間にクリアリングバンクを介在させていると思われる。よって取引プロセスの段階が大きくなるが,煩を厭わずにおっていきたい。取引手数料は無視する。実務の詳細が不明であるために,取引のありようを完全に再現することは難しいが,基本的にはこのような理解でよいと思われる。

ステップ3.MMFは信託された現金をリバースレポで運用することとし,まず現金をクリアリングバンクに預金する。

MMF信託勘定
資産:現金(-),預金(+)
負債:

クリアリングバンク
資産:現金(+)
負債:預金(+)

ステップ4.クリアリングバンクがFRBの準備預金を増やす

クリアリングバンク
資産:現金(-),準備預金(+)
負債:

FRB
資産:
負債:準備預金(+),発行済現金(-)

 連邦準備券はFRBの負債であるため,FRBに還流すれば負債としては消滅する。紙券として再利用が可能であるかどうかは別問題である。

ステップ5.FRBがリバースレポを実行しクリアリングバンクが応じる

クリアリングバンク
資産:準備預金(-),リバースレポ(+)
負債:

FRB
資産:
負債:準備預金(-),リバースレポ(+)

ステップ6.クリアリングバンクとMMFの間での清算が行われ,リバースレポの債権がMMFに移される

MMF信託勘定
資産:預金(-),リバースレポ(+)
負債:

クリアリングバンク
資産:リバースレポ(-)
負債:預金(-)

+取引前と取引後の変化

MMF信託勘定
資産:現金(-),リバースレポ(+)
負債:(変化なし)

クリアリングバンク
資産:(変化なし)
負債:(変化なし)

FRB
資産:(変化なし)
負債:発行済現金(-),リバースレポ(+)

 リバースレポ取引前後で起こる通貨流通量の変化とは,預金貨幣残高や準備預金残高が変化せずに発行済現金(連邦準備銀行券)残高が減少することであるとわかる。


4.二つの局面を経ての変化の確認と結論

 銀行預金のMMFへのシフトと,FRBのMMF相手のリバースレポ取引の二つの局面による変化は以下のとおりである

銀行
資産:準備預金(-)
負債:預金(-)

FRB
資産:
負債:準備預金(-),リバースレポ(+)

家計
資産:預金(-),MMF残高(+)
負債:

MMF信託勘定
資産:リバースレポ(+) 
負債:MMF残高(+)

 これによって,冒頭で先取した通りの結論が得られる。

 なお,2023年後半からリバースレポ取引残高は急速に縮小した。MMFが財務省証券(短期国債)に買い向かっているからだという。財務省証券の発行は,昨秋の政府の債務上限引き上げ合意に基づくものであり,永続的なものとは考えにくいが,この動きをめぐって金融政策についての論評が行われているので無視はできない。また,FRBが金融引き締めをいつ,どのように終了するかも問題になってきており,その際にリバースレポと準備預金はどう変化するのかも考えねばならない。別途考察したい。


2024年1月26日金曜日

MMF再考

  これまで私は,証券金融がいくら進んでも銀行預金は減少しないと書いて来た。それはおおむね正しかった。例えば会社が銀行からお金を借りるのをやめ,借りていたのと同じ額を,社債を証券会社引き受け経由で発行して資金調達するようになっても,社会全体としては預金は減少しない。社債購入者-証券会社ー調達企業のいずれも,銀行口座に持つ預金を介して取引を行うからである。同じようなことは,電子マネー決済が増えるとか,PayPayで給料を払うとかいう話にも言える。いずれも銀行預金残高を減少させない。

 しかし小さくない例外があった。信託に該当するものである。例えば投資信託の一種であるMMFである。諸個人が低金利の銀行預金を引き出し,より高い利回りを求めて同額のMMF購入にあてたとする。このとき,預金引き出しで発行された現金が,MMF購入に充てられて,信託銀行に預けられる。しかし,預金としてではない。信託銀行の銀行勘定と分離された信託勘定に預けられる。したがい,銀行預金とMMF残高は重複しない。銀行預金が減って,現金発行高が増えるのである。増えた現金発行高がMMF購入高に等しい。投資信託を通貨供給高統計で処理する際にはテクニカルな問題があり,アメリカと日本では扱いが違ったりする。しかし,理論的には,このように理解すべきである。なので,私がMMFを証券金融一般と同じに扱ってきたのは誤りであった(※1)。

 だから,MMFについては,「マネーが銀行預金からMMFにシフトする」と言われていることは,家計による運用先選択としてはもっともである。確かにMMFが増えると預金が減るのである。ただし,通貨論としては現金の動きを忘れることはできない。「銀行預金口座から引き出された現金がMMF購入に買い向かう」のである。

 ここの認識を改めることで,FRBがポストコロナ期に行っている,「超過準備預金への金利引き上げ」と「MMF相手のリバースレポ取引の拡大とその金利引き上げ」の意味がはっきりしてきた。前者は,FRB-銀行‐企業・家計のルートを通した金融引き締めである。後者は預金から外れてMMFに買い向かった現金の回収による金融引き締めである。FRBがMMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているという認識は誤りではなく,よりクリアになった。

 ただ,リバースレポ取引が現金回収による金融引き締めだというのは,わかりにくいかもしれない。そこで,銀行預金の減少とMMFの拡大,FRBのMMF相手のリバースレポ取引の拡大によって,通貨供給量と構成がどう変動するかを,次稿で扱おうと思う。

 信託勘定の扱いについてご教示くださった,小林陽介先生に感謝します。

※1 「なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか」Ka-Bataブログ,2023年4月30日。
https://riversidehope.blogspot.com/2023/04/frbmmf.html


<参考>

小林陽介(2023)「グローバル金融危機後の米国シャドーバンクの動向」『証券経済研究』124,111-136。
伊豆久(2023)「FRB・RRP・MMF—資金余剰下の金利引き上げ—」『証券経済研究』124,43-56。
https://www.jsri.or.jp/publication/periodical/economics/2023

2024年1月7日日曜日

村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から

 1.課題と目的

 本稿の課題は,前稿(※1)での考察を踏まえて,村岡俊三の銀行信用論を検討することである。その目的は,マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点(以下,「蓄蔵・遊休貨幣出発説」と呼ぶ)に対し,十分な批判を行うことである。考察の前提は前稿と同じであり,国境のない単一の資本主義経済のみを想定して国際金融の影響を捨象する。また,財政収支の影響を捨象する。いわば一国の金融システムのみについての理論的考察である。そして,既に銀行が成立している下で個別銀行が活動する諸条件ではなく,銀行システム全体が成立する諸条件を考察する。

 さて,前稿での分析結果を要約すると,銀行システムが持つ支払準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の中央銀行当座預金設定でもありうる。そして,資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,準備金の主な出所は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行へに移っていくのである。

 本稿は,銀行を「信用貨幣の貸付による信用創造」として把握し,「貸し付けが預金に先行して説明されねばならない」と主張する立場に拠っている。以下,これを「信用創造=貸付先行」説と呼ぶ。前稿ではこの観点から準備金を論じることで,銀行を「現金の又貸しによる金融仲介」として,「預金が貸し付けに先行する」ものとして考える,「金融仲介=預金先行」説を批判した。「金融仲介=預金先行」説は研究者内でも学派を問わず多数であるため,この批判には意味があった。

 ただ,話をマルクス経済学に絞ると,いささか複雑になる。上述のようにそこには「蓄蔵・遊休貨幣出発説」があり,前稿はこれに対しても批判を行うものであった。「蓄蔵・遊休貨幣出発説」は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が圧倒的に強い。それ故,後者に対する批判によって前者に対する批判をかなりの程度カバーできた。

 しかし,信用貨幣論であっても「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点を採用した学説もある。それが,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」であり,それに続く著作である。本稿は,この村岡説を批判的に検討するものである。検討の中心は上記の論文(村岡,1976)に置くが,必要に応じて同『世界経済論』有斐閣,1988年(村岡,1988)も参照する。

 なお,村岡の信用論は,世界経済論の一部として公表されたこともあり,学会でも必ずしも十分に検討されていない。その中で,詳細な批判を行ったものとして岡橋保『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年(岡橋,1993)があり,参照したことをお断りしておく。岡橋の村岡批判を援用する際は,その都度注記する。

※1 川端「銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察」Ka-Bataブログ,2024年1月4日,https://riversidehope.blogspot.com/2024/01/blog-post.html


2.村岡説の検討

(1)村岡説の立ち位置

 村岡説は,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」(村岡,1976,p. 286)(※2)を行うと主張するものである。まず,この村岡説の理論的立ち位置を確認しよう。

 第一に,村岡は独自の折衷的立場を取っている。村岡は銀行券は銀行手形であり,銀行は預金を集めるのに先立った銀行券発券による貸し付けを行うと考えている。その点で,「信用貨幣=貸付先行」説に立っている。しかし同時に,「銀行とは,さし当り,このように利子生み資本として移納すべき遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣を預金として集積し,これを必要とする産業資本に貸付けることを業とする一特殊的資本」と規定しており(p.283),その点では「信用創造」でなく「金融仲介」説に立っているのである。ただし「現金の金融仲介」ではなく銀行券での貸し付けと預金を想定している。「貸付先行」と「金融仲介」がどうして両立するかというと,「先取的媒介」だからである。貸付けは先行して行われるが,それは将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介だというのである。本稿は,村岡説に対して,「信用創造=貸付先行」説を徹底させる見地から検討を加える。

 第二に,村岡が説明しようとしているのは,銀行券が信用貨幣だということであって,準備金の必要性ではない。村岡のいう「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」とは,「銀行券の預金還流」,つまり「銀行信用を供与された産業資本家以外の者(資本家又は労働者)からの預かり金」が発券銀行に預託されることである(pp. 290-291)。銀行Aは産業資本家aに銀行券で貸し出し,aと取引した産業資本家bや,aやbに雇われた労働者cが銀行Aに銀行券で預金を行うということである。村岡は,これを銀行券の還流,つまり信用貨幣が発行元へ戻ることによって消滅することの最重要形態として重視している。村岡は信用貨幣の発行と寒流の説明を目指したのであって,著者の前稿のように,銀行の準備金の成立を論じたわけではない。しかし本稿は,準備金論を深めることによって,村岡説に対する批判と代替的見地の提示が可能になると考えている。

 以上の2点を踏まえた上で,論評に移ろう。


※2 以下,書名を明示しないページ番号はすべて(村岡,1976)のものである。


(2)「銀行券の預金還流」説批判

 著者の見地から見れば,村岡説が銀行信用を「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介では」ないとする点は支持できる。他方,「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という点の妥当性は,それが何を意味するかによる。村岡説では,これを「銀行券の預金還流」に求めているが,これは問題を含むと考えられる。

 まず,銀行券が発行元に還流する最大のルートは,貸付金の返済である。企業・個人に対する貸出債権と,銀行券という銀行債務が相殺されるのが返済であり,これによって銀行券が信用貨幣である証拠とするのが,むしろ自然な説明であろう(岡橋,1993,p. 147)。銀行券は貸付によって流通に入り,返済によって流通から出て消滅するのである。ところが村岡は「およそ貸付があれば返済されるのは当然のことであるから,その点で銀行信用に固有な還流とは言えない」(p. 291)として,これを軽視し,預金還流を重視する。しかし,これは,預金の性質を取り違えた議論である。今日の銀行貸し付けの実態から明らかなように,銀行による貸付とは借り手に預金口座を開かせ,預金創造を行うことによってなされる。銀行信用とはこの預金という銀行手形による貸し付けのことである。銀行券,また発券集中の下では中央銀行券が発券されるのは,借り手が預金を引き出した場合に他ならない。より本源的なのは預金債務であり,銀行券債務は派生的なものとみるべきである。そして,預金が生まれるのはまずもって貸し付けの時なのであって,企業・個人が手持ち銀行券を銀行に預け入れることは,派生的なことである。

 また,村岡の言う「銀行券の預金還流」がなされても,還流してなくなるのは銀行券だけであり,預金債務は還流していない。村岡がマルクス『資本論』を引用して述べているように,このとき銀行は依然として産業資本家に対する債権者であり,また預金者に対して債務者である(p. 293)。銀行の貸付金も決済されていないし,信用貨幣としての預金もまだ決済されていないのである。つまり,村岡の説明では信用貨幣論として完結していないのである。村岡が信用貨幣として説明すべき対象を銀行券だけとして預金を軽視したこと,より具体的には貸付けは銀行券の札束でなされ,預金とは既発銀行券が預けられることで形成されるのだ,と想定したために,このような中途半端な説明になったのだと考えられる。

 さらに,村岡は銀行貨幣の信用貨幣であることの説明に全力を注いだために,準備金がなければ銀行は機能できないのではないか,という疑問に答えていない。村岡は正貨流通下を想定しているので,本稿も同様に想定しよう。前の段落で述べたように,銀行券が預金還流しただけでは,銀行は預金者に対し依然として債務者である。預金者が正貨での引き出しを要求したらどうするのか。また,銀行券を発券して貸し付けを行なったとして,その後その銀行券を入手したものが兌換を請求してきたらどうするのか。村岡は銀行が金を運備金として持つことは想定しているのだが(p. 300),銀行の金準備がどこからどのように形成されるのかを述べていない。中央銀行券成立下を想定した場合に就いては記述があり,「市中銀行の金での預け金と新産金の購入によって中央銀行に集積された金が中央銀行の金属準備を構成する」とは書いている(p. 300)。あるいは村岡は,市中銀行に金でも預金がなされることを当たり前と思い,説明しなかったのかもしれない。では,仮にそうだとして,正貨流通が停止されている現代では,準備金はどのような形を取り,どこからやってくるのだろうか。預金者が中央銀行券での引き出しを要求したらどうするのか。銀行はどうやって中央銀行券を入手するのか。金属準備と無関係に中央銀行券が発券されるとは理論的にどのような事態なのか。村岡は兌換・不換を問わず,資本主義社会一般に通用する銀行の規定を獲得しようとしていたのであるから,正貨流通が停止した場合,銀行はどのようにして準備金を成り立たせるかを説明する必要があったように思う。

 このように,村岡の「銀行券の預金還流」説は,銀行システム成立の説明としては,種々の問題をはらむものと言わねばならない。


(3)「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」説批判

 それでは,村岡説の「いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」という説明は,どう見たらよいか。

 鍵は,この「先取的媒介」という視点が有意義か,そうでないかというところにある。村岡が「先取的媒介」されるとした「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」と見ると中途半端な説明になることは既にみた。しかし,正貨での預金,また新産貨幣金属の中央銀行による買い上げと見るならば,ある程度妥当する部分がある。正貨流通の下では,銀行システムは,預金または中央銀行からの信用供与によって,準備金に必要な正貨を獲得できるという見込みを持てるからこそ,貸し付けを行える。このときにあてにしている正貨準備や金属準備を「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできるだろう。

 しかし,中央銀行券,中央銀行当座預金,とりわけ正貨流通停止下のそれについてはどうか。銀行にとってどうしても必要なのは準備金であるが,それを正貨以外で準備しようとすれば,中央銀行による信用供与,中央銀行当座預金という独特な信用貨幣の新規発行によって準備するよりない。また,村岡の想定に歩み寄って,銀行は中央銀行券で貸し出すとしても,銀行は既に発券を行なっていないので,中央銀行券を貸付けに先立って入手しなければならない。それにも中央銀行当座預金が必要である。中央銀行当座預金は,中央銀行が銀行に対して信用を供与する際に創造されるのであるから,「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」と見ることはできないだろう。

 もちろん,銀行システムがすでに成立している下でならば,個々の銀行は預金獲得競争に力を入れて中央銀行券を集めつつ,貸し出しを増やしていくことはある。しかし,集めるべき中央銀行券は,そもそもどこかの銀行がどこかの企業・個人に貸付けた結果存在している。銀行システム全体が成立するためには,準備金は中央銀行から獲得されると見るしかないのである。

 このような違いが生じるのは,正貨であれば蓄蔵貨幣になり得るが,貸付ける際に創造され,返済されれば消滅する預金貨幣や銀行券は,流通の外で蓄蔵されようがないからである。次項でさらに確かめるが,村岡は正貨と預金を混同し,預金も蓄蔵貨幣になると誤認したのである。

 村岡説の問題点は以下のとおりであるが,村岡が自説を通して述べたかったことは,貨幣流通の全体像にかかわる問題である。このことについての主張は村岡(1988)第4章に記されているので,そちらに即して検討しよう。


3.「銀行預金=蓄蔵貨幣」説批判

 村岡は「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を問題にしたが,銀行システムにおいて「蓄蔵貨幣」とはそもそも何なのかが問題である。金属準備が蓄蔵貨幣であることは村岡も指示している(p. 300)。しかし,村岡にとって蓄蔵貨幣とはそれだけではない。「預金還流」した銀行預金全体が蓄蔵貨幣なのである。「銀行預金こそは資本制的生産における蓄蔵貨幣の主要な存在形態である」(村岡,1988,p. 215)と断定されているのでまちがいはない。

 しかし,ここには二重の問題がある。まず,デジタル信号でしかない銀行預金が流通外で金と同等の価値保蔵機能を持つとしてよいかという問題である。これはマルクス経済学における,金・正貨以外のものも蓄蔵貨幣になり得るかという論争と絡む(※3)。しかし,村岡説のより大きな問題は,預金が流通外にあるとしていることである。蓄蔵貨幣であるとは流通の外にあることである。しかし,預金とは通貨であって流通している(岡橋,p. 149)。その証拠として,日々口座振り込みによってキャッシュレスの支払が行なわれているではないか。預金貨幣は流通内にある信用貨幣なのである。

 村岡は銀行預金に蓄蔵貨幣の「プール機能」を見出していた(村岡,1988,p. 215)。しかし,これは見当違いである。銀行預金は流通内にある預金貨幣である。預金貨幣は貸付によって流通に入り,返済によって還流して消滅する。中央銀行券は,中央銀行当座預金が引き出されることによって流通に入り,中央銀行当座預金に預け入れられることによって還流して消滅する。なにもプールには溜まらないのである。

 もう少し深めよう。「プール機能」があるとすれば,それは創造される元,還流する先にあると言わねばならない。だから「プール機能」があるとするならば,銀行信用においては銀行そのもの,中央銀行券については中央銀行当座預金である。しかし,あるのはプールと流通をつなぐ導管機能だけである。すなわち,商品流通が必要とする際に貨幣がそこから流通に入り,不要な際にそこを通って流通から出ていく導管はある。しかし,プールはない。信用貨幣は,発行の際に創造され,発行元に還流した時には消滅するからである。導管機能のみ残り,実在する蓄蔵貨幣のプールはなくなるというのが,銀行券と預金貨幣のもとでの貨幣流通の在り方なのである(※4)。

 実は,ここでも村岡の主張は,正貨での預金については部分的に妥当する。預金者が正貨で預金をするとき,銀行は預金という自己宛て債務,自己宛て預かり証を発行する。そうすると,正貨そのものは預金者の手から銀行に移動してその資産となる。と同時に,銀行の負債として預金が新たに発生する。預金は通貨として流通する一方,正貨は流通から出て蓄蔵貨幣となる(※5)。銀行はこれを自ら保有し続けるかもしれないし,中央銀行に預けるかもしれないが,それはここでは問題ではない。要は,正貨での預金がなされたときには,確かに蓄蔵貨幣が発生し,銀行・中央銀行が「プール機能」を果たすのである。しかし,同時に発生する預金は流通する。だから,やはり銀行預金そのものは蓄蔵貨幣ではないのである。

 銀行システムが成立している下での「プール機能」を解明しようとした村岡の問題意識は正当である。しかし,預金貨幣の性質を見誤り,また正貨と預金を混同したために,村岡説は的を射抜くことができなかったのである。


※3 本稿著者は,金属貨幣・正貨以外のものは,流通から外に出て価値を保蔵することはできない,つまり蓄蔵貨幣にはなり得ないと考える。ただし,流通内にあって,一時的に商品流通を媒介することなく遊休することはあるし,減価するリスクを伴いながら価値保蔵が図られることはあるとも考える。川端「遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために」Ka-Bataブログ,2022年3月28日,https://riversidehope.blogspot.com/2022/03/blog-post_28.html

※4 貨幣が現れたり消えたりするのはどういうことかと,直観的な違和感を持たれる読者がおいでかもしれない。その答えは,「手形を発行して貸し付け,回収したら破棄するから」である。債務証書である預金や銀行券が通貨となっているから,このようなことが起こるのである。

※5 自行銀行券で預金がなされた場合にこのようなことが起こらないのは,自行銀行券は銀行にとって債務であるため,預金されると資産として保蔵されることがなく,還流・消滅するからである。銀行にとって新たな預金債務が発生することは正貨で預金された場合と同じである。


4.準備金の確保を見込んだ貸し付け

 ここまで見たように,銀行は「既存の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の媒介ではなくて,銀行手形の発行による,いわば将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣の先取的媒介」を行うとし,この「将来の遊休貨幣資本ないし蓄蔵貨幣」を「銀行券の預金還流」に見出した村岡説には,種々の問題点が指摘できる。しかし,村岡が「先取」という言葉を使って表現したことには,重要な合理的契機が含まれているように思う。それは,銀行における貸付が,貸付とは別に何かを確保できることを当てにし,その確保を条件として行なわれなければならない,ということである。本稿の見地からすれば,これは準備金の重要性を示している。

 「信用貨幣=貸付先行」説においては,銀行は事前に確保した預金を又貸しするのではない。ということは,貸し付ける際に,支払準備の確保は保証されていない。一体,どのような形の貨幣で,どのように確保されるのか。これが,村岡や本稿著者を含め,「信用貨幣=貸付先行」説に要請される課題である。また,もちろんここには,貸付だけでなく預金も含めて銀行をトータルに把握すべきだという,預金論の課題も含まれている。

 「信用貨幣=貸付先行」説において,準備金は次のような理論的位置を持っている。準備金は,銀行自身が創造する信用貨幣を決済できるもので確保しなければならない。それには,正貨,相殺可能な債権,より信用度の高い債務の三種類が考えられる。このうち,銀行に何の困難ももたらさないのが債権債務の相殺であり,典型的には貸付金の返済である。銀行は信用創造によって貸付金債権を保持すると同時に預金債務を負う。そして返済=回収の際には,銀行の貸付金債権も預金債務も消滅する。多くの銀行債務=預金貨幣が,この返済=債権債務相殺によって決済されるために,銀行は準備金を貸付金の全額にわたって準備する必要がないのである。しかし,預金の引き出しや他行からの支払い請求など,債務返済を一方的に迫られる事態もありうる。そのために,債務と相殺できる債権(すなわち貸付金)以外に,一定額の正貨か,自ら創造した信用貨幣よりも信用度の高い信用貨幣(すなわち自行預金貨幣より信用度の高い中央銀行当座預金)を保持しておかねばならない。これが準備金である。定義上,それらは銀行自身が作り出せるものではない。そして,確保できるという絶対の保証はない。こうした事情から,貸し付けのための信用貨幣の発行は,別途,準備金を確保できることを当てにした,リスクを伴うものにならざるを得ないのである。これは貸付金の貸し倒れリスクとはまた別の,準備金ショートリスクであることに注意していただきたい。準備金ショートリスクは,銀行システムの成り立ちに必然的に伴うものなのである。村岡説は,この準備金ショートリスクを,「先取」の必要性という,いささか核心からそれた形で表現したのである。

 「銀行は別途,必要な準備金を確保出来るという見込みの下に,預金貨幣の創造による貸し付けを行う」。これが村岡説に対置する本稿の見地である。この確保がどのような形と経路で行われるかは,前稿で示した通りである。銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならないのである。

 準備金論に残された課題は,中央銀行に本稿の規定は当てはまるのかということである。まず正貨流通下では,中央銀行は正貨や貨幣金属地金で準備金を保有しなければならない。よって同じ規定が当てはまる。しかし正貨流通停止下では異なる。前稿で述べたように,対外支払い・決済を捨象した次元で考える限り,中央銀行には通常の意味での支払準備金は必要とされない。正貨や貨幣金属は準備金の対象外になっており,中央銀行当座預金や中央銀行券より信用度の高い信用貨幣は国内にはないからである。準備金に代わって必要とされるのは,通貨価値が毀損されないであろうという社会の信任であろう。準備金は,本質的に必要とされるのではなく,中央銀行の政策として保有するものになるだろう。ここでは準備金の性質が変わっており,貸付を行うに際して確保が必要という規定は当てはまらなくなるようにも見える。この中央銀行の独自の性質については,なお検討が必要であろう。今後の課題としたい。


参照文献

岡橋保(1993)『貨幣数量説の新系譜:マルクス貨幣信用論の俗流化批判』九州大学出版会。
村岡俊三(1976)『マルクス世界市場論:マルクス「後半の体系」の研究』新評論。
村岡俊三(1988)『世界経済論』有斐閣。

2024年1月4日木曜日

銀行システムにおける準備金の必要性と役割:「信用貨幣=貸付先行」説からの考察

 1.問題の所在

 本稿は,銀行システム成立に当たっての準備金の必要性と役割について考察する。

 銀行を経済学的に理解する上での立場は,大きく「現金の又貸しによる金融仲介」説と「信用貨幣の貸付による信用創造」説に分かれる。前者の方がイメージはしやすいものであり,一般社会でも研究者の多数においてもこちらによって銀行が理解されることが多い。流通している現金が銀行に預け入れられ,預金となって集積され,集積された貨幣が借り手に又貸しされるというものである。後者は,銀行は自分の手形(債務証書)を発行して,それを手渡すことで貸しつけるというものである。具体的には預金貨幣が創造されて貸付けられる。借り手が預金を引き出した場合に,当該銀行が発券銀行であれば当該銀行券が発券され,発券集中が行われていれば中央銀行券が発券される。預金貨幣も銀行券も貸付けられた債務が貨幣化したものであり,信用貨幣である。

 銀行の貸付と預金という二つの業務に即していえば,前者は「預金先行」説とも言えるし,後者は「貸付先行説」とも言える。なぜなら前者では預金が先に形成されて現金が集積され,しかる後それが貸し付けられるからである。対して後者は,預金が集積されるよりも前に貸付が行なわれるからである。

 私はこれまでも述べてきたように「信用貨幣の貸付による信用創造」「貸付先行」説(以下「信用創造=貸付先行」説)に立っているが(※1),この立場に立った場合,銀行を説明する上で二つの点が「現金の又貸しによる金融仲介」「預金先行」説(以下「金融仲介=預金先行」説)よりも複雑になる。一つは,正貨流通・金兌換停止下において,預金貨幣や銀行券が信用貨幣であることの説明である。しかし,この点はこれまでも説明済みであり,ここではとりあげない(※2)。もう一つは,準備金の説明である。あらかじめ預金を集めないままに信用創造で貸し付けを行うこと自体は可能であるとしても,準備金を確保しなければ預金引き出し請求や他行からの支払い請求に応じられない。「信用創造=貸付先行」説では,準備金の確保のしくみ,準備金の役割をどう説明するのか。これが本稿の解明すべき課題である。

※1 「貨幣発行と流通のしくみ」(その1)から(その9),Ka-Bataブログ,2023/12/8-2023/12/17,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post.html

※2 「貨幣発行と流通のしくみ(その5)預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?」Ka-Bataブログ,2023/12/13,https://riversidehope.blogspot.com/2023/12/blog-post_13.html 。金兌換がなされずとも,より上位の債務による返済,債権債務の相殺という二つの方法での決済が可能であるから,信用貨幣と言えるということである。


2.考察の前提

 本稿では,ある一つの資本主義経済を,別の言い方をすれば国境に区切られていない単一の資本主義経済を想定した考察を行う。これにより,国境に区切られた世界経済において生じる対外支払い・決済の問題を捨象する。その理由は,プラグマティックには,対外支払い・決済については独自の問題が多く,それだけで紙数を必要とするからである。この措置は,理論的にも正当化できる。というのは,まず国境のない単一資本主義経済の下で考察することは,国境で区切られた世界経済を考察する上での基礎となるからである。

 本稿では,正貨(金貨など)が流通している場合と流通していない場合,全国的決済システムと発券集中を実現して中央銀行が存在する場合としない場合を分けて考察する。ただし,正貨流通が停止していて中央銀行券が成立していない状態,つまり正貨も法定通貨も存在しない状態,さらに言い換えるといわゆる「現金」のない状態,は考えにくい。よって正貨流通・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を考えればよい。より一般的な表現では,前二者は金本位制をはじめとする金属本位制の場合,後者は管理通貨制の場合だと考えればよい。

 正貨流通の下では,銀行は発券機能を持ち,正貨流通停止の下では発券集中により持たないものとする。よって,正貨流通の下では正貨,預金貨幣と,銀行券または中央銀行券が流通しており,正貨流通停止の下では預金貨幣と中央銀行券が流通している。

 銀行は預金の払い出しに応じなければならない。加えて,正貨流通の下では兌換請求にも応じなければならず,正貨流通停止の下では兌換も停止するものとする。正貨流通の下では,銀行・中央銀行は預金の正貨での払い出し,自行銀行券の金との交換に応じなければならない。一方,正貨流通停止・中央銀行成立の下では,兌換は行われない。ただし,銀行・中央銀行は預金の中央銀行券での払い出しを行わねばならない。

 また口座開設者の取引の結果を決済するために,銀行内の口座間と,銀行間での送金義務が発生する。銀行内であれば口座間の預金振替でことは足りる。しかし銀行間ではそうはいかない。支払いと受け取りの差額が支払超過である場合,銀行は送金を行わねばならない。正貨流通・中央銀行未成立下では,他行に対して正貨または相手行銀行券での支払いが必要である。正貨流通・中央銀行成立下ではこれらに加えて,中央銀行当座預金での支払いが可能である。正貨流通停止・中央銀行成立換えは中央銀行当座預金での支払いが可能である。なお中央銀行当座預金に換えて中央銀行券で支払うことも可能であるが,緊急時以外には行われないであろう。

 本稿では,中央政府財政の赤字・黒字はないものとする。したがって,財政収支による通貨供給への影響はないし,国債発行による影響もないものとする。

 本稿が根本的に問題とするのは一社会において銀行というものが成り立つ条件である。既に他の銀行が成立している下で個別銀行が追加で成立する条件ではない。このことを明確にするために,個々の「銀行」と区別される社会全体としての銀行のしくみを「銀行システム」と呼ぶこともある。ただし,個別銀行について述べることと社会全体の銀行システムについて述べることが矛盾しない場合には単に「銀行」という用語を使う。


3.「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明批判

 まず,「金融仲介=預金先行」説での準備金の説明について一瞥しておこう。この説だと,一見,準備金の説明は簡単に見える。先に預金が銀行に集められるからである。しかし,場合分けしてみていくとそうでもない。正貨流通・中央銀行不成立の下では預金は正貨と自行・他行銀行券,正貨流通・中央銀行成立下では正貨と中央銀行券で集められる。正貨流通停止下では,中央銀行券で集められる。

 このうち,又貸しが簡単に説明できるのは貸付が正貨または中央銀行券で行われる場合である。まずもって預金は銀行に集積されているのであるから,借り手が預金の引き出し要求,兌換請求,他行からの支払い請求に応じることは当然に可能である。また正貨流通・中央銀行不成立下の他行銀行券についても,当該銀行に兌換請求すれば正貨が入手できるので正貨で預金された場合に準じて考えることができる。準備金残高が不足することもありうるが,それは貸し出しが過大であったり,不良な借り手ばかり集まっているからという量的問題であり,本来的に準備金になるものを持っておらず支払い不可能だという質的問題ではない。

 正貨流通の下では預金として集めた正貨の一部,正貨流通停止の下では集めた中央銀行券の一部が準備金となっているので,そこから払い戻しを行う。ここに何の不思議もないように見える。

 しかし,正貨の場合は良いとして,銀行券の場合は子細に観察すると問題がある。「金融仲介=預金先行」説は,社会全体として銀行システムを考察した時,預金となって集積すべき通貨のうち,他行銀行券や中央銀行券が,そもそもどうして流通しているかを説明できないのである。預金するためにはあらかじめ流通していなければならない。しかし,銀行券というものは,そもそもどのようにして発行され,流通に入るのか。銀行券は,まず発券銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合に発券される。また,最初から銀行券で貸し付けを受けた場合にも発券される。中央銀行券もこの論理の延長上で説明できる。銀行が預金貨幣発行を通して貸付を行い,次いで借り手,または借り手から預金振替で支払いを受けた取引相手が,その預金を引き出した場合,あるいは最初から中央銀行券で貸し付けを受けた場合に,銀行は中央銀行券を必要とする。その中央銀行券は,銀行が中央銀行に持つ中央銀行当座預金設定を引き出すことで発券される。中央銀行当座預金は,正貨流通下では,流通している正貨が銀行に預けられ,さらに中央銀行に預けられることと,中央銀行が銀行に貸し付けを行うことの二つによって形成される。また正貨流通停止下では,後者の方法によってのみ形成される。

 だとすると,正貨が関与する場合を除いて,他行銀行券や中央銀行券による預金は,貸付に先行するものではありえない。もともと,どこかで銀行が企業や個人に,あるいは中央銀行が銀行に信用を与えたからこそ存在しているものである。ということは,銀行システム全体としては「預金先行」がありうるのは正貨についてだけである。銀行券,中央銀行券は,個々の銀行から見れば「預金先行」に見えても,銀行システム全体を見れば必ず「貸付先行」なのである。

 だから,「金融仲介=預金先行」説は正貨流通下で,正貨については整合的に説明できるとしても,銀行券が関与した瞬間に論理的に成り立たなくなる。よって,銀行システム成立の論理としては否定されるべきである。


4.「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明

 では「信用創造=貸付先行」説ではどうか。これが,本稿の積極的に解くべき問題である。以下,場合分けをしながら考えよう。


(1)正貨流通下の場合

 まず正貨流通の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造するか,自行銀行券を借り手に渡して貸し付けを行ったとしよう。ここで,借り手が正貨での払い出しまたは兌換を要求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 正貨流通・中央銀行未成立下では,銀行は一定額の正貨を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。つまり銀行は,信用創造を行うこと自体は準備金がなくともできるが,正貨での準備金を,借り手が払い出し請求,兌換請求を行い,他行からの支払い請求が来る以前に準備することが必要になる。抽象化すれば,正貨が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。これらを満たすのは正貨での預金である。いったん銀行システムが成り立てば,個々の銀行にとっては他行銀行券でもよい。他行銀行券を当該銀行に提示すれば当該銀行に対する支払いができるし,正貨も入手できる。しかし,他行の存在を前提せず,銀行システム自体が成り立つ条件としては,正貨が必要である。正貨流通・中央銀行未成立下の下では,銀行システムが成立するためには,預金された正貨での準備金が必要なのである。

 念のため付記すれば,正貨準備その量は,払い出し,兌換,支払支給に応じるに十分なだけあればよいのであって,銀行は準備金ショートのリスクに注意しながら,準備金の額以上に貸し出すことができる(※3)。

 正貨流通・中央銀行成立下では,事情は多少修正される。預金者の正貨払い出し・兌換請求には正貨でなければ応じることができないが,他行に対する支払いは正貨を持ち出さなくとも,中央銀行当座預金を通して支払うことが可能である。また正貨を入手することは,中央銀行当座預金を正貨で引き出すことや,手持ちの中央銀行券を中央銀行に提示して兌換請求を行うことで可能である。つまり,正貨流通・中央銀行成立下では,銀行が準備金として確保すべきは,預金された正貨または中央銀行当座預金なのである。

 ここでまず注目すべきは,預金された正貨である。この正貨は「金融仲介=預金先行」説の言う本源的預金ではない。受け入れた正貨をまた貸しするのではないからである。しかし,銀行の成立に当たって必要な預金であるという意味では,本源的預金に類似したものである。正貨流通の下では,銀行はこうした,いわば準本源的な預金を必要とするのである。同じことを別の角度から言えば,貸付という行為自体は,預金がなくとも可能である。しかし,預金の払い出しや銀行間支払の必要に備えた,正貨による預金は必要なのである。

 ところで正貨での預金というのは,貨幣流通の見地から言えば,金などの貨幣商品が商品流通外に出ることを意味するものであり,蓄蔵貨幣の形成を意味する。正貨による蓄蔵貨幣の形成は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,銀行システムの成立とそれによる信用創造の拡大は,当該社会での正貨による蓄蔵貨幣の形成に外的に制約されるのである。

 中央銀行の成立はこの制約条件を緩和する。中央銀行が当座預金を創造して銀行に供給することによって,銀行の準備金に伸縮性が与えられるからである。ただし,中央銀行自身が銀行からの兌換請求に応じなければならないので,中央銀行自体に正貨や貨幣金属(典型的には金地金)の準備が一定程度必要とされる。この正貨や地金は,流通にいったん入りながら,商品流通に一時的に不要とされて形成された蓄蔵貨幣から成る。具体的には,正貨での銀行預金が,再度中央銀行当座預金として預けられたものである。しかし,それだけではない。新産の貨幣商品金属を通貨当局である中央銀行が,直接に,あるいは政府を通して平価で無制限に買い入れることによっても形成される。これにより準備は補填される。ここでも,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の産出は,銀行による信用創造とはまったく別個の運動の結果である。正貨流通下では,中央銀行がもたらす準備金の伸縮性も,蓄蔵貨幣の形成と新産貨幣金属の買い上げという別個の運動によって外的に制約されるのである。


※3 銀行は準備金の額以上に信用創造ができる。これは,「信用創造・貸付先行」説に立つならば,正貨流通下か否か,中央銀行成立下か否かにかかわらず妥当する。よって,以後,いちいち記述しない。


(2)正貨流通停止・中央銀行成立下の場合

 次に正貨流通停止,かつ中央銀行成立の場合である。銀行が借り手の口座に預金を創造して貸し付けを行った後に,借り手が中央銀行券での払い出しを請求するとどうなるか。また,銀行間決済において自行が支払い超過の立場に立った場合どうなるか。

 銀行は,中央銀行券を保持していなければ払い出し請求に応じることができない。また中央銀行当座預金を保持していなければ,他行に対する支払いを行うことができない。中央銀行券は,中央銀行当座預金を引き出すことによって入手できる。つまり銀行は,信用創造を行う際に,中央銀行当座預金または中央銀行券での準備金を事前に,あるいは事後であっても少なくとも借り手が払い出し請求や兌換を行いそうになる前に準備することが必要になる。抽象化して言えば,事後に中央銀行当座預金・中央銀行券が入手できることを合理的にあてにできるような条件下で信用創造を行うことが必要になる。 

 では,このような条件を満たす中央銀行当座預金・中央銀行券の入手方法とは何か。一見すると,正貨流通下では正貨の預金であったように,正貨流通停止の下では中央銀行券での預金であるように思える。しかし,そうではない。預金者が中央銀行券で預金を行うためには,あらかじめ中央銀行券が発券されていなければならない。ところが,財政支出が捨象されている限り,中央銀行券が発券されるのは,預金者が預金を引き出した場合だけである。そして,預金が生まれるのは銀行が企業・個人に貸し付けを行った場合である。個人や企業が銀行に中央銀行券を預け入れる場合にも預金は生まれるように見えるが,その中央銀行券はどこかで預金を引き出したから発券されているのであり,やはりそれ以前の,貸付によって生まれた預金に由来する。いずれにせよ,預金や中央銀行券が生まれる大本は銀行による企業・個人への貸付なのである。ということは,銀行システムが成立するにあたって中央銀行券での預金が必要となるというのは循環論法である。中央銀行券での預金は,どこかで銀行が企業・個人に貸し付けた結果としてでなければ存在できないのであり,銀行システムがすでに成立していることを前提するからである。

 だから,銀行システム成立に当たって銀行が必要とする中央銀行券での準備金は,銀行への預金によって形成されるものではない。中央銀行が創造した中央銀行当座預金を引き出したものなのである。正貨流通停止の下での銀行の準備金とは,本質的に中央銀行が供与するものなのである。この点が,正貨流通の場合とは決定的に異なる。

 再び貨幣流通の見地から見ると,中央銀行当座預金や,銀行によって引き出されて銀行が手持ちしている中央銀行券は,一時的に遊休し,商品流通を媒介していないという意味で遊休貨幣である。しかし,蓄蔵貨幣ではない。預金や銀行券は価値を持たないデジタル信号や紙券に過ぎないので,流通から出て価値を保蔵するという意味での蓄蔵貨幣にはなり得ない。正貨流通停止下では,遊休貨幣は存在しても蓄蔵貨幣は存在しないのである。

 しかし,中央銀行当座預金や銀行手持ち中央銀行券が蓄蔵貨幣でないことは,むしろ積極的な意味を持つ。蓄蔵貨幣ではないがために,信用創造の運動に従属し,信用創造の運動に反応して形成される伸縮性を持つからである。正貨流通停止下では,銀行の信用創造は,正貨による蓄蔵貨幣形成の制約を離れて拡大できる。中央銀行は,信用創造を促進するとともに,それが過大とならないように,自らの信用創造による準備金供給を,金利調節を通してコントロールする。そして中央銀行もまた,蓄蔵貨幣の多寡や新産貨幣金属を買い上げる必要によって外的に制約されなくなるのである。

 正貨流通停止下では中央銀行は兌換請求を受けることはない。そのため中央銀行自身の準備金としても正貨や地金は必要とされなくなる。本稿が想定する条件の下では,原理的には他の形態での準備資産さえ必要とされない(※4)。政府財政の影響を捨象する限り,正貨流通停止下では,中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に対して信用を供与した結果であり,預金貨幣は銀行が企業・個人に対して信用を供与した結果であり,中央銀行券の発券は預金の引き出しによって預金貨幣が置き換えられた結果である。このような銀行システムの下では,銀行が中央銀行に求めることは,中央銀行当座預金での支払い決済の遂行であり,中央銀行からの借り入れの返済に際して当座預金または中央銀行券の利用を認めよということである。それは,金兌換が停止されていても何ら問題なく中央銀行が遂行できることである。つまり,本稿の前提の下では,中央銀行に対して銀行から兌換請求に変わる準備資産請求が殺到することは通常はない。あるとすれば,それは恐慌の勃発などによって通貨価値の激しい毀損が生じた場合であろう。その時には,本稿の想定の外にある財政赤字累積の結果として,中央銀行が供与してもいない中央銀行当座預金が積み上がっているであろう(※5)。中央銀行が銀行システムの健全さを維持できている限りは,そうした事態は生じない。本稿が想定する条件下では,中央銀行が準備資産を持つのは当然に必要なことではない。預金払い出しや決済に必要だからではなく,こうした通貨価値の毀損が激しくなることや,そのおそれによって通貨の信認が低下する事態を抑止する効果を持つために,政策的に選択されることである。


※4 対外取引を含めて考えるとここに修正が必要であるが,本稿は単一経済を前提しているので,こう言ってもよいのである。対外取引がある場合については,6節で最小限補足する。

※5 このことについては,ここで詳しく触れる余裕はない。さしあたり以下の拙稿を参照されたい。「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ,2023/7/6。https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html


5.中央銀行当座預金の独自の役割

 ここで,中央銀行当座預金の独自の性質を論じておく必要がある。ここまでは正貨流通下・中央銀行未成立,正貨流通・中央銀行成立,正貨流通停止・中央銀行成立の三つの場合を機械的に区分して論じてきたが,ほんらいこれらは資本主義の発展とともに歴史的に変化する通貨体制の変遷を表している。資本主義の発展とともに中央銀行設立という形で通貨体制が整備され,正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積されるとともに,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられる。そうすると,自らは必ずしも準備を必要としない中央銀行の信用供与が,銀行の準備金の主力供給源になるということである。

 では,この中央銀行の信用供与は貨幣論としてどう位置づけられるか。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金が引き出されると中央銀行券が発券される。この関係は,銀行預金と銀行券の関係と全く同じであり,ここから中央銀行当座預金も信用貨幣であり,中央銀行券に対してより本源的なものだということができる。

 しかし,中央銀行当座預金は商品流通を直接に媒介しない。その意味では通常の通貨とは異なる。しかし,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な信用貨幣であり,独自な預金貨幣だといわねばならない。今日の用語で,マネタリーベースに含まれるが,マネーストックには含まれないということが,この独自の位置を表している。このような独自な預金貨幣が生まれるのは,銀行システムが銀行と中央銀行という二層によって成立しているからである。

 貨幣流通の見地から言うと,中央銀行当座預金の発生は,前述の通り蓄蔵貨幣の形成ではない。正貨や貨幣金属ではないからである。また,少なくとも発生する時点においては,すでに流通している貨幣が遊休するのでもない。それでは何なのかと言えば,独自な貨幣の新規供給なのである。そして,その役割は,銀行の信用創造による預金貨幣供給を準備金として支えることである。こうしてみると,中央銀行当座預金が,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによる新規正貨の供給が担っていた役割を,正貨流通停止のもとで代行する信用貨幣であることがわかる。新規正貨供給に取って代わることこそ,新規に設定される中央銀行当座預金の本質的役割である。


6.対外支払い・決済論についての補足

 最初に断った通り,本稿は対外支払い・決済を捨象するという前提下で考察を行っている。ただ,ここまでの考察を踏まえて対外支払い・決済論への展望をわずかに述べておく。対外支払い・決済においては貿易や金融取引がその通貨建てで行われる中心国通貨と,それ以外の非中心国通貨が存在する。ここでは非中心国を想定する。ここでも各国財政の通貨供給への影響は捨象する。

 本稿で言う正貨流通下とは,対外的には国際的な金本位制,正貨流通停止下というのは金兌換停止に対応すると考えてよい。正貨が国内で流通し,対外的には金兌換と金現送が行われるという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた貨幣商品金属または中心国正貨,あるいは中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。正貨が国内で流通せず,対外的に金兌換も金現送も行なわれないという条件の下では,銀行や中央銀行は国内取引に備えた準備に加えて,対外支払いに備えた中心国銀行の中心国通貨建て預金を保有しなければならないだろう。

 このように対外支払・決済論では商品貨幣金属,中心国正貨,中心国銀行に持つ中心国通貨建て預金が重要な役割を果たすと予想されるのである。しかし,この先は別の機会に委ね,今は本稿の課題についての結論を述べよう。


7.結論

 ここまで,「信用創造=貸付先行」説による準備金の説明を試みて来た。銀行は,信用創造,つまり預金という自己宛て債務による貸し付けを行うものであり,この行為自体は又貸しではないので,事前の預金を必要としない。しかし,銀行は,預金払い出しの請求や他行からの支払い請求が発生に備えて準備金を確保しなければならない。

 具体的には,銀行システムは,正貨流通・中央銀行未成立下では預金された正貨を,正貨流通・中央銀行成立下では預金された正貨または中央銀行からの信用供与で得た中央銀行当座預金を,正貨流通停止・中央銀行成立下では同じく中央銀行当座預金を,準備金として確保しなければならない。

 正貨流通下では,正貨による預金形成とは蓄蔵貨幣形成である。信用創造は,蓄蔵貨幣形成という,自らとはまったく別個の運動によって制約される。中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属し,伸縮性を持つ。ただし,正貨流通下での中央銀行は,正貨による蓄蔵貨幣形成と新産貨幣金属買い上げの運動によって,外的に制約される。正貨流通停止・中央銀行成立下では,中央銀行による信用供与は,信用創造に従属して伸縮性を持つし,蓄蔵貨幣形成にも新産貨幣金属の無制限買い上げにも制約されない。そして,自ら準備資産を持たずとも可能である。ただし,中央銀行は通貨価値と,通貨に対する信認を維持しなければならないので,準備資産はその助けになる。中央銀行は,金利調節を通して準備金供給をコントロールすることで,銀行による信用創造の拡張を促したり,抑制したりするのである。

 ただし,この結論は,本稿が冒頭に設定した,国境によって区切られていない単一資本主義経済の下で妥当するものである。国境の存在を踏まえて国際金融を考察した場合には,一定の拡張や修正が必要である。


8.理論的示唆

 本稿は三つの場合を区別して考察を行ったが,ここから,一定の理論的示唆を引き出すことができる。正貨流通とその停止,中央銀行の未成立と成立の区別と関連を説明できる,包括的な理論の形成に向かっての示唆である。

 銀行システムが必要とする準備金とは,当該社会において現金とされるもの(正貨,中央銀行券),あるいはただちにそれに転換できるもの(中央銀行当座預金,正貨流通下での他行銀行券)でなければならない。これはいかなる学説においても共通である。

 しかし,本稿の分析結果からすれば,この準備金の出所を,蓄蔵貨幣や遊休貨幣に,言い換えると既に存在している貨幣の融通に不当に一元化,もっと強く言えば矮小化してはならない。この矮小化を典型的に行っているのは種々の学派に共通した「金融仲介=預金先行」説である。また,マルクス経済学の場合は「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点が存在するが,この観点もまた不当な一元化,矮小化である(※6)。これらの説は部分的に,具体的には正貨流通下の正貨については妥当する。それ故,現実に根拠を持つ説ではある。しかし,一般理論としては間違いなのである。

 本稿の分析結果が示すのは,準備金の出所は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣だけでなく,新産貨幣金属の買い上げや中央銀行の信用供与でもありうるということである。そして,資本主義の発展とともに正貨の上に信用貨幣が膨大に蓄積され,正貨流通が信用貨幣流通に取って代わられると,中央銀行の信用供与が準備金の主力供給源になる。中央銀行の信用供与とは,中央銀行当座預金という自己宛て債務によって銀行に貸し付けることである。中央銀行当座預金は商品流通外にあって,信用貨幣の発行と流通を支え,支払い決済を支えることに特化した独自な預金貨幣である。中央銀行当座預金の役割は,正貨流通の下では新産貨幣金属の買い上げによって生まれる新規正貨に取って代わり,準備金形成を担うことである。

 資本主義発展と信用貨幣の蓄積とともに,銀行システムの準備金の発生源は,既に存在している正貨の融通や新産貨幣金属による正貨の生成から,中央銀行による,中央銀行当座預金という独自な信用貨幣の新規発行に移っていくのである。


※6 マルクス経済学における「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,ここまで利用してきた二分法で言えば,「金融仲介=預金先行」説と親和性が非常に強い。それ故,後者の説に対する批判によって前者の観点に対する批判をかなりの程度カバーできる。しかし,「銀行の出発点は蓄蔵貨幣または遊休貨幣である」という観点は,信用貨幣論や貸付先行説をとる論者でも採用することがある。例えば村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,第10章「マルクス信用論の骨格」である。この説については独自の検討が必要であるが,これは別稿に委ねなければならない。

続稿
「村岡俊三氏の銀行信用論の検討:「信用創造=貸付先行」説と準備金論の見地から」Ka-Bataブログ,2024年1月7日。




2023年12月22日金曜日

現代の金融の基本形は「現金の金融仲介」でなく「信用創造による預金貨幣創出」である

 1.問題の所在

 この小論の目的は,「現金の金融仲介が金融の基本形である」という常識に疑問を呈し,金融仲介と信用創造という二つの信用形態を正しく位置付けることである。結論を先取りすると,正貨流通の下では現金の金融仲介は,信用創造と並んで独自の役割を果たす。しかし,正貨流通の停止=管理通貨制度の下では,信用創造がすべての金融仲介の前提となる。すなわち,金融の基本形は信用創造である。

 現金の金融仲介とは,貸し手と借り手の間の仲介を行うことである。ある経済主体の手元で現金が差し当たり使い道がなく遊休しており,別の経済主体が経済活動のための現金を欲している時に,前者から後者への貸付を仲介することが金融仲介である。

 このような金融仲介は,ほとんどの金融論の教科書で金融の基本形として扱われている。研究者を含めて多くの人は,金融仲介を実現しているのが銀行であると考える。

 しかし,このような想念は正しくない。以下,そのことを説明する。なお,前提として,正貨流通の下でも銀行は存在し,発券を行っているものとする。また政府紙幣は存在せず,財政システムは捨象する。つまり財政赤字を通した貨幣発行はないものとする。これらはいずれも純粋な考察のための合理的単純化である。


2.銀行が行っているのは信用創造を通した新規の通貨発行である

 まず,経済活動のための貨幣を欲している主体に対して金融を行う方法は,金融仲介だけではない。新たに通貨を発行し,これを貸し付けることによっても可能である。この,追加貨幣の発行というルートを考慮して金融の基本形を考える必要がある。

 銀行がおこなっていることは,預金貨幣または銀行券という自己宛て債務を創造し,これを貸し付けることである。貸付を行った際には預金貨幣が増大する。借入者が預金を引き出せば預金貨幣の代わりに銀行券が発行される。つまり,企業が銀行から借り入れを行ったとき,新規に預金貨幣が発行されているのである。逆に,企業が銀行に返済を行う際には,預金貨幣が減少するのである。

 この時,別の経済主体の手元で遊休し,預けられていた預金は,銀行にとって支払準備金として機能する。しかし,この預金がそのまま企業に貸し付けられたわけではない。貸付けられる預金貨幣は,その都度創造されているのである。

 このように,銀行による融資は金融仲介ではなく,信用創造であり,信用創造を通した新規貨幣発行なのである。


3.現金の金融仲介は正貨流通の下で二通りに実現する

 それでは,多くの人がイメージする現金の金融仲介とは何なのだろうか。それは二通りある。そして,ほとんど意識されていないが,実は,いずれも正貨流通の下で行われるものである。

 ひとつは証券会社を通した金融仲介である。つまり,正貨を蓄積した主体が,社債発行などに応募することである。正貨は,これを必要とする社債発行企業等に融通される。銀行ではなく,証券会社を経由した融資こそが金融仲介である。

 しかしもう一つ,特殊な場合がある。まず,正貨を蓄積した主体がこれを銀行に預金する。銀行は信用創造によって企業に貸し付ける。そして,借り入れを行った企業が,必要に迫られて預金を引き出して正貨に換え,正貨で自らの経済活動のための支払いを行う場合である。この時,銀行は預金引き出し要求に応じるために,蓄積しておいた準備金を取り崩して正貨を渡さねばならない。かくして正貨は,これを蓄積した主体から,これを必要とする主体に融通されるのである。

 しかしこのようなケースがあるからと言って,銀行の貸付が信用創造でなく金融仲介だということにはならない。銀行はあくまで預金貨幣を発行して貸し付けを行った。このとき,貨幣流通量は増加したのであり,すでに信用創造が行われている。企業がこの預金を引き出したのは,流通する貨幣の一部を預金貨幣から正貨に置き換えることにすぎない。この時,貨幣流通量は変化しない。しかし,正貨は銀行内で遊休した状態から流通する貨幣へと転換するのである。

 以上の二つが,正貨流通の下で行われる現金の金融仲介である。この二つのうち,前者すなわち証券会社を媒介にした金融は,信用創造とは全く独立に生じることができる。後者すなわち銀行融資の正貨による引き出しは,信用創造を前提とし,これに従属して生じるものである。だから,「現金の金融仲介が金融の基本形」として独立に成り立つのは,正貨流通の下での証券会社を通した金融だけなのである。


4.正貨流通停止の下での金融仲介

 次に強調したいのは,このような,いわば純粋モデルとしての現金の金融仲介は,正貨流通の下でしか機能しないということである。正貨流通が停止された,管理通貨制度の下での金融仲介を見てみよう。

 正貨停止の下では,経済主体が貨幣を蓄積するのは預金通貨か中央銀行券によってである。これが証券会社を通して,社債発行企業等に融通されることが金融仲介である。

 また,管理通貨制度下では中央銀行券が現金化していることを想定すれば,もう一つの金融仲介ルートもあり得る。まず,中央銀行券を蓄積した主体がこれを銀行に預金する。銀行は信用創造によって企業に貸し付ける。そして,借り入れを行った企業が,必要に迫られて預金を引き出して中央銀行券に換え,中央銀行券で自らの経済活動のための支払いを行う場合である。この時,銀行は預金引き出し要求に応じるために,手元に保有していた(あるいは中央銀行に預け入れていた)中央銀行券を取り崩して渡さねばならない。かくして現金としての中央銀行券は,これを蓄積した主体から,これを必要とする主体に融通されるのである。

 以上の二つが,正貨流通停止の下で行われる現金の金融仲介である。しかし,この金融仲介は信用創造から独立して行われることはない。


5.管理通貨制度下の金融仲介は信用創造を前提とする

 どちらの金融仲介であれ,その前提は,ある経済主体が預金通貨または中央銀行券の形で貨幣を蓄積していることである。しかし,これらの預金通貨や中央銀行券は,どこで発生したのであろうか。正貨が産金業者の下で発生して流通に投じられたように,預金通貨や中央銀行券にも発生源がある。それは,この経済主体が蓄積する以前に,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けを行ったことである。それにより発生した預金通貨が点々とあるいは預金通貨のまま流通し,あるいは引き出されて中央銀行券に換えられてからさらに流通し,ついにある経済主体に対する支払いに用いられ,この主体の手元で蓄積されるに至ったのである。

 つまり,ある経済主体の手元で預金通貨や中央銀行券が蓄積されるためには,それに先立ってどこかで銀行による企業への貸付が,したがって信用創造による預金貨幣の発行が行われていなければならない。どこかで発行された貨幣でなければ蓄積することはできないのである。

 これは要するに,正貨流通停止=管理通貨制度の下では,すべての金融仲介は,それに先立つ信用創造を前提するということである。

 既に存在する貨幣をもとに金融仲介を行うためには,その貨幣があらかじめ発行されていなければならない。管理通貨制度の下では貨幣とは預金貨幣か中央銀行券なのであり,貨幣の発行とは銀行による信用創造である。信用創造がなければ金融仲介はない。金融仲介は信用創造から独立に存在できないのである。


6.結論

 研究者を含めて多くの人は,「現金が貸し手から借り手に融通されるしくみ」を金融の基本形と考えやすい。しかし,これが当てはまるのは正貨流通の下での証券金融だけである。もし,正貨が流通しない現代の銀行をイメージするときには,金融の基本形は「銀行融資によって預金貨幣が創造されること」なのである。金融の基本形は信用創造であり,金融仲介は派生形なのである。

 以上のことは,企業の資金調達が証券発行を中心とするようになって,いわゆる「企業の銀行離れ」がいくら起ころうとも,揺らぐものではない。企業が証券発行をする際もお金のやり取りは銀行の要求払い預金の口座間で行われるし,企業が債券を発行して資金を調達しても,そのお金は投資かも証券会社も企業もどこかの銀行の要求払い預金に置くからである。そして,それらの要求払い預金は,どこかの銀行がどこかの企業に対して信用創造で供与したものが流通した結果だからである。財政の作用を捨象する限り,すべての預金貨幣や中央銀行券は,銀行による信用創造に由来する。逆に言えば,銀行セクターは,証券会社との競争においていかに不利になろうとも,貸し出し業務の利鞘がいかに薄くなり,手数料ビジネスに経営をシフトさせざるを得なくなっても,信用創造による通貨の供給者という役割を放棄することはできないのである。

注:2024年1月25日,1月29日。MMFに関する誤った記述を削除して書き換え。






2023年12月17日日曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その9)おわりに

 12 おわりに

 まとめに入ります。この講演は,「お金はどこから来て,どこへ消えるのか」についてお話ししました。それを通して知って欲しかったことは二つです。

 一つは,普段の生活では気がつきにくい,お金の本当の姿です。お話ししたことの中から列挙してみましょう。まず,現代社会では,ほとんどのお金は信用貨幣です。信用貨幣というのは,債務証書が貨幣として通用しているものです。ここですでにショックを受けた方もいるかもしれません。また,中央銀行券だけでなく預金もお金です。しかも,コンピュータが出現する以前からあるデジタル通貨です。また中央銀行券と預金とでは,実は預金の方が基礎になる存在で,預金の一部が引き出されるとその分だけが中央銀行券になります。紙切れやデジタル信号に過ぎないお金がお金と認められて流通するのは,国家権力が強制しているからでも,何となくみんなが信じているからでもなく,銀行または中央銀行の信用ある債務証書だからです。ただ債務証書と言っても,現代では,「債務を本当のお金で返す」ことはできません。それ自体が価値をもっている商品貨幣,つまりは本当の貨幣が流通していないからです。なので,債務はより高度な債務証書で支払うか,債権・債務を相殺するしかありません。でも,裏返して言えば,その二つは可能だから現代の貨幣は信用貨幣として通用するのです。

 意外なことはまだ続いたかもしれません。銀行は,預金を集めて又貸しするのではありません。自分の債務証書である預金を発行して貸し付けているのです。預金は貸し出しのときに生まれるのです。私たちの持つ預金や現金は,もともと,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたお金が流通した結果であり,いわば貸し付けから派生した存在です。企業活動が拡大すると銀行の貸し出しが増えて返済を上回り,お金の流通量が増えます。企業活動が縮小すると銀行への返済が増えて貸し出しを上回り,お金の流通量が減ります。

 そうして,以上の金融システムのほかに,もう一つ財政システムによるお金の供給があるが,またの機会にということになります。皆さんにとって,どのくらいが意外で,どのくらいはご存知のことだったでしょうか。

 もう一つは,もっと根源的なことで,私たちは,発達した資本主義社会という,豊かさのために貸し借りが必要となる世界に生きているということです。私たち個人は,「お金をためてから活動すべきで,借金すべきではない」という規範を持っていることが多いです。社会によって事情は異なるでしょうが,日本では特にこの考えが強いかもしれません。これは個人としてはもっともなのです。しかし,この講演が示しているのは,社会の全員が「お金をためてから活動して使う」ことはできないということです。また,社会の活動とはまず富を生産する活動であって企業が担うものであることにも注意が必要です。 

 企業や起業家がお金をためようとします。しかし,「ためる」べきお金は,もともとどこかの企業が銀行から借りたから存在しているのです。全員が最初に「ためる」ことはできません。先ず誰かが銀行から借りて事業をしなければならないのです。もしこの事態を避けるとしたら,銀行をなくして信用創造を止めるか,そうでなければ社会全体を金貨や銀貨だけで動かし,信用貨幣を失くすしかありません。あとの場合,銀行は金貨や銀貨を預かって又貸しするものになるでしょう。しかし,そんなことをすれば,たちまち社会が必要とする貨幣量を満たせなくなって,お金が足りなくなります。経済が拡大するとすぐ金利が引き上がってしまうでしょう。不況の時に資金を得るのがたいへんむずかしくなり,激しい恐慌になるでしょう。

 このことを裏返して言うならば,資本主義のしくみの下では,経済の拡大と安定のために,「財・サービスを生産するために,企業が銀行からお金を借りる」ことと「債務証書をお金にすること」がどうしても必要だということです。企業がお金を前借りし,不確実な未来に向かって生産を拡大し続けなければ,豊かさは生まれません。当然,成功することも失敗することもあります。

 また,この金融システムは,信用貨幣という,本来価値のない代用品を大量に発生させるのですが,ふだんは実物の商品経済の動きに従っています。ですから,金融システムを通しては,貨幣が商品に対して過剰に発行されることはありません。ただし例外がバブルです。商品の生産と離れて金融取引だけが拡大し,金融取引のためだけにお金が駆り出されて通貨供給量が拡大するのです。これは本質的に騰貴ですから,資産価格が高騰して,いつかは崩壊します。リーマン・ショックなどの金融危機はこうして起こるのです。

 資本主義の金融システムは,このように大量の商品を生み出して豊かさを作り出しますが,そこにはリスクがあり,またバブルの可能性もあるということが,最後に考えておいてほしいことです。

 最後に参考書ですが,この講演とまったく同じ考えをわかりやすく書いた本はありません。しかし,以下の2冊が参考になると思います。ひとつは,お金の経済と商品の経済の関係についてです。これは,田内学さんの『お金のむこうに人がいる――元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門』が的確な解説をしています。トレーダーが書いた金儲けの本かというと,そうではありません。むしろ田内さんは私よりも根本的に,お金と人の関係を論じています。経済に対する見方が,予備知識がなくてもわかる本です。もうひとつは,大学の教科書で私の考えと最も近いものです。松本朗さんの『改訂版 入門金融経済』です。

 以上で私の講演を終わります。長時間お付き合いいただき,ありがとうございました 。

■補足

*講演の最後には,信用貨幣が流通する発達した資本主義経済とは,つまり何なのかということを言わねばならない。しかし,これではまだまだ表面的である。

*ただ,一つ言いたいことは,「現代は価値のない信用貨幣が肥大化している。これが膨張してバブルになるから悪い」といった雑な金融化批判はとらないということである。

*管理通貨制の下で信用貨幣が流通し,またここでは言ってないが金融・財政政策が発動することで,資本主義経済の物質的に豊かな側面も成り立っているからである。しかも,金融システムに関する限り,商品経済の運動が独立変数であって貨幣供給は従属変数なのである。

*ただし,信用貨幣供給の主要ルートは手形割引ではなく貸し付けであるから,商品経済の運動というもの自体に元々リスクがあるととらえている。そして,金融資産購入のために借り入れるという行為によるバブルもまた起こり得るのである。正常な経済拡張とバブルの分岐について論じる道具立てを持っていないところは私の限界である。


貨幣発行と流通のしくみ(その8)金融システム以外にも通貨供給ルートはあるか

 11 金融システム以外にも通貨供給ルートはあるか

 ここまで私は,金融システムを通した通貨供給のことだけをお話ししてきました。預金貨幣は銀行が発行するものであり,中央銀行券は中央銀行が発行するものですから,もちろん,金融システムが本来の通貨供給ルートなのです。しかし,現代社会にはそれ以外にも通貨供給ルートがあります。それは財政システムです。これはまた別のテーマになるため,今回はお話しすることができませんが,その特徴についてごく簡単にご紹介しておきます。

 財政システムによる通貨供給とは政府の収入と支出のバランスによるものです。政府の収入は主に課税によってまかなわれます。これは経済から貨幣を引き上げます。政府の支出は社会保障,教育,インフラストラクチュアの整備,軍事,公務員給与など様々なことについて行われます。これは経済に貨幣を投じることになります。ですから,全体として支出が収入より大きく,財政が赤字の場合,通貨供給量が増大します。逆に全体として収入が支出より大きく,財政が黒字の場合,通貨供給量が縮小します。財政システムによる通貨供給の原理を,もっとも単純化して申し上げればこうなります。

 金融システムと異なり,財政システムは,つまり課税や支出は,政府の目的意識的な政策によって左右されます。なので,財政赤字になるほど支出を増やして経済を刺激するとか,財政黒字になるほど課税を増やし支出を減らして景気の過熱やインフレを抑制する,といったことが行われています。このように,政策の見地から目的意識的な操作がある程度可能になることが,民間経済の運動に従属している金融システムとの違いです。

 ここに金融システムとはまた別の体系だった仕組みがあり,財政赤字や財政黒字をめぐる大事な問題がありますが,それをお話しするのはまた別の機会にせざるを得ません。

図 10 通貨供給の概念図(財政システム)

 財政システムを通した通貨供給を概念図として示したのが図 10です。そして,金融・財政両システムを総合して通貨供給を表したのが図 11です 。

図 11 通貨供給の総合的概念図


■補足
*通貨供給システムとして金融システムと財政システムがある,逆に言えば財政システムを通貨供給システムという側面から論じることができる,というのが私の見地である。さらに別な言い方をすれば,通貨供給の見地から貨幣・金融システム,財政システムを論じ,次いでマクロ経済政策を論じることで,一つの話が完結するというのが私の構想である。現在行っている日本経済の講演の一部分は,そのように構成している。
*財政赤字は通貨供給量を増加させ,財政黒字は通貨供給量を減少させる。これは,政府が国債を発行して資金調達をする方法が,中央銀行引き受けであっても民間銀行購入であってもともに妥当すると私は考えているが,ここでは説明していない。
*国債を直接民間人が購入した場合のように,政府支出が民間貯蓄の引き上げ,政府による貨幣再投入となり,いわばプラスマイナスゼロである場合もある。
*ただし,私の理解が主流の考えと異なるのは,民間銀行による国債購入を背景とした政府支出の場合は,上記のようなプラスマイナスゼロにならず通貨供給量プラスになると考えていることである。民間銀行は,流通の外にある中央銀行当座預金で国債を購入するし,それによる減額は,政府支出の決済によって銀行預金が,したがって中央銀行預金が増額されることによって相殺されるからである。

貨幣発行と流通のしくみ(その7)結局,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減るのか

 10 結局,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減るのか

 さて,これで一通り貨幣が発行されて流通に入り,やがて流通から出ていくしくみについてお話ししました。それでは,結局のところ,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減ると言えばいいのでしょうか。ごく簡単に言えば,銀行貸出残高が増えれば貨幣流通量が増え,銀行貸出残高が減れば貨幣流通量も減る,ということになります。

 大きく言えば,金融システムを通した貨幣供給においては,商品を生産し,流通させる活動が拡大すると,それに応じて通貨流通量が増加し,逆に商品の生産・流通活動が縮小すると,通貨流通量が減少します。このように,商品経済の動きに従って貨幣供給が調整されるしくみを,内生的貨幣供給と言います。

 もう少し具体的に見ましょう。企業が銀行からお金を借り入れると,預金通貨が発行され,社会の通貨流通量が増えます。企業が銀行に返済すると,預金通貨が消滅し,社会の通貨流通量が減ります。中央銀行券は,誰かが預金を下ろしたときにだけ必要になります。中央銀行が銀行に貸し付けている準備預金の一部を銀行が引き出し,さらに銀行が預金引き出しに応じる形で中央銀行券が発券されます。まず預金通貨が生まれ,中央銀行券が発券されると,その分だけ預金通貨が減るのです。

 このような内生的貨幣供給の動きを,大谷禎之介先生のデザインを借りて図解すると図 8のようになります。

図 8 金融システムにおける通貨流通量増減の原理

 経済発展とともに貨幣の必要量が大きくなるとどうなるでしょうか。社会全体として,銀行が企業に貸し出す額が,銀行に対して企業が返済する額を上回るようになります。そうすると,貨幣流通量が拡大するのです。

 ここでみなさんは,少し不安に思って尋ねたくなるかもしれません。では,経済が成長すると社会全体として銀行からの借金が増えるのかと。その答えはイエスです。しかし,さらに尋ねたくなるかもしれません。借金はいつかは返さねばならないから,増え続けられないのではないかと。その答えはノーです。借り入れているのは企業です。企業が借りたお金で利潤を生みだすことができれば,その一部として銀行に利子を支払い,また元本を返済することができるでしょう。その上で,その企業や,あるいは別な企業が,さらなる事業拡大を目指して,また借り入れを行います。そういう風に資本主義企業は活動しているのです。

 さて,これまで説明した,金融システムを通した通貨供給の有様を図にまとめると図 9のようになります。銀行は貸付を通して預金通貨を供給し,返済によってこれを回収します。銀行の背後では中央銀行が支払い決済システムを支え,また準備金となる中央銀行当座預金を,貸し付けを通して銀行に供給しています。その総量は中央銀行による貸しだしと銀行からの返済を通して調整されるのです。このように,銀行が,預金という自分の債務証書を用いて貸し付けを行うこと,貸し付けと返済を通して量が調整されることが,金融システムを通した貨幣供給の根幹なのです。

図 9 通貨供給の概念図(金融システム)

 このようなしくみを,実物経済と貨幣の関係という観点から評価すると,どうなるでしょう。私は商品の集積からできている実物経済の成長が原因で通貨供給量が結果だと言っていることになります。貨幣の供給が経済を成長させるわけではなく,経済の成長に応じて貨幣が供給されるのです。もちろん,事業を拡大しようとする企業が貨幣を必要とするときに銀行は信用を与えてこれを実現するわけですから,貨幣の役割は決定的です。しかし,あくまで事業を拡大しようとする企業の活動が原因であって,銀行信用はこれを後押ししているにすぎません。銀行が通貨を供給したから企業活動が始まるというわけではないのです。

 ただし,財・サービスなどの実物経済の拡大と離れて,銀行からの貸し出しが増えていくこともあります。それは,もっぱら金融資産の売買によるキャピタル・ゲインの獲得をめざして銀行からの借り入れが行われる場合です。この場合,通貨供給は拡大しますが,供給された通貨は財・サービスに買い向かわないので,その価格は変化させません。ただ株式をはじめとする金融資産の価格だけを騰貴させます。これがバブルです 。

■補足
*金融システムを通した貨幣供給は内生的である。これを別の用語で言えば,貨幣流通法則にしたがうのであって,紙幣流通の独自法則にしたがうのでも,貨幣数量説にしたがうのでもない。貨幣の流通速度を捨象するとすれば,商品の総量が増減するのに応じて貨幣流通量も増減するのであって,逆ではない。
*この講演では扱い切れないが,ここまでの論旨からは,次のように言える。政府財政の影響がない限り,中央銀行の金融政策が緩和的であったり引き締め的であったりし,それに対応して銀行の貸し出しが増えたり減ったりするとしても,それで物価水準の名目的騰貴という意味でのインフレーションや,物価水準の名目的下落という意味でのデフレーションは起こらない。インフレ,デフレが今日広い意味で用いられることを考慮して,この二つを貨幣的インフレ,貨幣的デフレと呼ぶならば,これらは金融システムからは決して生じないのである。金融の緩和や引き締めから起こるのは好況や不況であり,好況時の需要超過による物価上昇(ディマンド・プル・インフレ)や不況時の需要減退による物価下落(不況によるデフレ)だけである。これらは名目的な物価変動ではなく,まずは元に戻るかもしれない一時的変動であり,継続すれば実質的変動となる。需要超過の場合は生産コストの高い供給者がの割合が増えるし,需要減退の場合は生産コストの安い供給者だけが生き残るからである。
*だから,この講演の論理を延長すれば,金融政策を論じる時に「貨幣的現象としてのデフレ」を日銀の金融政策が起こしたとか,「貨幣的現象としてのインフレ」を日銀が起こすことができるとかいう主張は,誤っていると言えるのである。

貨幣発行と流通のしくみ(その6)銀行は,まず個人や企業から預金を集めて,それを又貸ししているのではないのか/銀行は自分で預金を生み出せるのに,なぜ預金を集めようとするのか

 8 銀行は,まず個人や企業から預金を集めて,それを又貸ししているのではないのか

 しかし,なお疑問が残るかもしれません。そもそも預金とは,個人や企業が銀行にお金を預けたときに発生するのではないのか。銀行の融資とは,預けられた預金を原資に,それを企業に又貸ししているのではないか,と思われる方もいるでしょう。実際,日常生活の常識もそのようなものですし,経済学者の多くもそのようなモデルで思考しています。しかし,そうではない,預金は,銀行がお金を貸すときに生まれるというのがこの講演の見地です。これまでもそうお話ししてきましたが,ここでもう一度,なぜ又貸しと考えてはいけないのかという角度から考えてみましょう。

 背理法を使いましょう。銀行がまず預金を集めて,それを又貸ししていると考えたならば,おかしなことはおこらないのかを点検するのです。

 銀行が,預けられた預金を貸し出していると考えると,預けられた預金,つまりは預けられた中央銀行券は,そもそもどこから来たのかという問題が生じます。中央銀行券は銀行などとだけ取引するものであり,一般市民とは取引しません。ですから,中央銀行券が市中で流通しているということは,どこかで誰かが預金をおろして中央銀行券に換えた,ということを意味します。ということは,どこかに誰かの預金がもともとあったから,中央銀行券が流通しているということになります。それでは,そのどこかの誰かの預金はどこからきたのでしょう。又貸し説に従えば,当然,誰かが預けたということになります。では,預ける前の中央銀行券はどこから来たのでしょうか………。こういう風に,又貸し説の論法は無限後退し,どこにもたどりつきません。ですから,この説明はおかしいのです。

 理屈に合ったように現実を説明するには,どこかの誰かの預金とは,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたときに生まれた,と考えるよりありません。そう考えるべきなのです。

 図 7をご覧ください。この講演の立場から言うと,市中に出回っている中央銀行券や,口座振り込みに使われて流通している預金通貨は,そもそもはどこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたときに生まれたということになります。貸し付けを受けた企業は,原材料を購入したり人を雇ったりしてお金を払います。払われた企業はまた原材料を買うかもしれないし,給料を支払われた個人は預金を引き出して現金に換え,食べ物を買ったりネット通信料を払ったりするかもしれません。いずれにせよ,預金通貨は時に中央銀行券という現金に姿を変えながら転々と流通します。そして,あるときに,企業や個人の手元に中央銀行券の姿でたどり着き,その企業や個人が,当面現金とした使わないから,あるいは預金通貨として使いたいから,預金として銀行に預け入れるのです。通貨が生まれて流通する始まりは,銀行から企業への貸付なのです。ちなみに,その終わりは企業から銀行への返済です。

図 7 預金は貸し付けの際に生まれる

 ですから,銀行の活動とは,誰かが銀行にお金を預けて預金が生まれるところから始まるのではなく,銀行が企業の預金を設定してお金を貸すところから始まるのです。

銀行は自分で預金を生み出せるのに,なぜ預金を集めようとするのか

 しかし,ここからはまた新たな疑問が生まれるでしょう。銀行が自分で預金を生み出せるならば,なぜ預金を集めようとするのかということです。その答えは,準備金の確保のためです。

 これまでお話ししたように,銀行が企業に貸し付ける行為自体は,手元に現金がなくてもできます。銀行は預金を創造できるからです。しかし,貸し付けを受けた企業は,預金を引き出して現金にするかもしれませんし,取引先への支払いのために預金口座から他の銀行の口座に送金するかもしれません。前者であれば,銀行は中央銀行券を渡さねばなりませんし,後者であれば自分の持つ中央銀行当座預金を取り崩して他行に送金しなければなりません。

 ですから,銀行はつねに一定額の中央銀行券と中央銀行当座預金を資産として持っておかねばならないのです。これが準備金です。正確には,預金が引き出される場合,銀行間取引で自行が支払い超過になる場合,貸付金が貸し倒れになるなど損失が発生した場合に備えて必要になります。

 ただ,ちょっと回り道をしますが,銀行の持つ準備金は,社会全体としてみれば中央銀行が供与するものであって,預金者から集めるものではありません。中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に貸し出したときに発生します。また中央銀行券は,銀行が中央銀行当座預金を引き出したときに発行されます。いずれにせよ,もとは中央銀行が銀行に信用を与えたから発生しているのです。

 ところが,銀行全体としてはこうであっても,個々の銀行にとっては話が違います。中央銀行が供与した中銀当座預金や中銀券は,銀行の間では取引状況に応じて不均等に分布しています。個々の銀行の立場としては,資金繰りを安定させ,さらに貸し付けを拡大するために,自分のところに準備金を集めたいかもしれません。そういう銀行は,企業や個人から広く預金を集めようとするでしょう。預金を集めれば,手元に現金として持っておいて金庫やATMに入れておき,引き出しに備えることもできますし,中央銀行に当座預金として預けて,銀行間決済に備えることもできます。個々の銀行は,いわば市中に流れた中央銀行券を奪い合って,自行の準備金をとりわけ厚くしようとするわけです 。

■補足
*「銀行は預金をまた貸ししているのではない」という説明は,日常感覚に反するために聞く人が驚くところだが,実務的な説明はそれほど難しくない。
*理論的にややこしいのは,準備金について社会全体の視点と個々の銀行の視点が異なることである。個々の銀行にとっては,自行の準備金を増やすために,預金獲得に励む余地がある。しかし,銀行セクター全体としては,中銀当座預金+中央銀行券発行残高は,中央銀行でなければ供給できないのであり,全銀行が一斉に預金獲得に励んでも,社会全体としては増加しないのである。

2023年12月13日水曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その5)預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?

 7 預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?

 しかし,現代の銀行預金や中央銀行券が信用貨幣であるというと,疑問を持たれる方も少なくないと思います。金本位制の場合と異なり,預金や中央銀行券が兌換されない,つまり債務を金貨で返してもらうことができないからです。返してもらえない債務証書は債務証書として有効なのでしょうか。私の答えは,金貨で返してもらえないことは弱点ではあるけれど,債務証書としてはなお有効だというものです。その理由は,債務の返済には本位貨幣での返済の他に,あと二つ方法があって,それは管理通貨制でも有効だからです。

 債務の支払いは,実は三つの方法で行われます。一つは,金貨などの本位貨幣で支払うことです。二番目は,債務を負っている当人が,自分の債務よりも信用度の高い債務証書で支払うことです。三番目は,債権と債務を相殺することです。

 1番目を銀行や中央銀行がやっていたのが「兌換」です。例えば,日本銀行に日銀券を持ち込んで同額の金貨に変えてもらうわけです。これは,日銀の債務を金かで返済してもらったことに相当します。しかし,これは管理通貨制の下ではできません。これを極端に言えば,私たちは「本当のお金では債務を返済できない世界」に住んでいるのです。

 しかし,2番目の信用度の高い債務証書による返済と,3の債権債務の相殺は,いまでも日常的に行われています。

 では,例えばCさんがDさんから5000円借りて,5000円札で返したというのはどういうことでしょう。これは日常生活では普通に返済したとみなされます。では通販で先にゲーム機を受け取り,指定されたX銀行口座に,自分のY銀行口座からの振り込みで代金を払ったというのはどうでしょう。これも,日常生活では普通に後払いを遂行したとみなされます。しかし,実は最初の例では日本銀行の債務証書で返済したのですし,後の例ではY銀行の債務で返済したのです。なお,先ほど紹介した仕組みで日銀が両替してくれるので,ゲーム会社にはX銀行の債務で支払われています。

 日々行われている企業間の決済や,それを反映した銀行間の決済も,2番目と3番目の方法に拠っています。たとえば,A社,B社,C社の間の債権債務を銀行と中央銀行の口座振替で相殺し,差額は預金通貨で支払うとします。相殺の部分が3番目の方法であり,差額決済が2の方法です。

 借りたお金の返済は,前に述べたように債権債務の相殺ですから3番目の方法です。例えば,企業がX銀行から借りたお金を返済するというのは,X銀行の債権を,その銀行の預金,つまりX銀行の債務通貨で相殺しているのです。

 このように,本位貨幣での返済ができなくとも,上位の債務証書での返済,および債権債務の相殺ができるために,預金や中央銀行券は立派に信用貨幣として機能しているのです。

 しかし,そうはいっても,中央銀行に銀行が兌換を求めて押し寄せるということは起こらないのでしょうか。通常は起こりません。理由は二つあります。

 まず,中央銀行当座預金は,中央銀行が一般の銀行にお金を貸すことによって設定されるし,中央銀行券はそれが引き出されるときに発行されます。だから,一般の銀行は中央銀行から借りている立場です。中央銀行に求めるのは「お宅から借りたお金は,おたくの債務証書で返済するからな。受け取れよ」というものになります。中央銀行は当然,それを認めるでしょう。

 次に,中央銀行券は通貨になっています。なので,銀行は中央銀行に「金貨で支払え」と要求しなくても,市場で物を買って実物資産に換えることができます。もちろん金も買うことができます。兌換ができなくても実物資産には換えられるので,とくに支障がないわけです。

 もし,中央銀行券の価値が暴落するような事態になれば別ですが,その場合には,中央銀行に兌換請求が殺到して取り付け騒ぎになるのではなく,市場で物を買って実物資産に換えるさいに購買力が暴落してしまう,要するにインフレーションになるという形で現れるのです。ただし,これは経済危機に関する独自の分析を必要とする話で,機会を改めねばなりません 。


■補足

*「預金貨幣や中央銀行券は金兌換の下では信用貨幣だが,兌換停止下ではそうではない。国家の強制通用力で流通していると見るしかない」という説は,長い間多数説であった。最近の信用貨幣論の流行で少しは変わりつつあるが,いまなお通説であろう。そうではなく,兌換停止下でも信用貨幣として機能しているのだというのが拙論である。拙論は,古くからあるマルクス派の信用貨幣説の流れを応用したものである。「マルクス経済学はみな労働価値を持つ金だけを貨幣としている」などというのは誤解である。むしろマルクス派の貨幣・信用論とは,金属貨幣の代理物が発展する論理を明らかにしたものである。
*「兌換停止で信用貨幣は機能しなくなる」という人は,信用貨幣の機能のうち「金で返済してもらう」というところだけしか見ていない。そうではなくう,預金貨幣や中央銀行券が,1)どのように生まれて流通に入るのか,2)どのように流通するのか,3)どのように決済されて流通に出るのかを全面的に見なければならない。そうすれば,1)信用供与の際に生まれて流通に入り,2)個人や企業の債務より高度な債務証書として流通し,3)相殺による信用の解消によって流通から消えること,それらは基本的に,商品を流通させ,生産を維持・拡大する必要に応じてなされることがわかるだろう。これは流通外から一方的に投じられ,課税によらねば流通から出られない不換国家紙幣とは異なる運動なのである。
*債務の階層性論は現代貨幣理論(MMT)に倣ったものであり,相殺論はマルクス派信用貨幣説から継承したものである。
*しかし兌換されないことは,それはそれで重大な意味を持つ。ひとつは,準備金という制約なしに信用供与が拡大することであり,とりわけ商品流通や生産の維持・拡大と離れた借り入れ需要にも応じてしまうということである。つまりバブルの発生である。もう一つは,信用供与以外のルートで,商品生産を拡大できずに一方的に通貨だけが投入され,それが兌換で回収されなければどうなるかということである。つまり貨幣的な悪性インフレの発生である。この二つこそ,兌換停止の副作用なのである。

2023年12月12日火曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その4)手形が貨幣になると言ったが,預金や中央銀行券も手形の一種だということか

 6 手形が貨幣になると言ったが,預金や中央銀行券も手形の一種だということか

 私はまず,預金や中央銀行券が貨幣だと言いました。それから,手形が貨幣になるけれども,商業手形だと完全な貨幣とは行かないと言いました。この二つを合わせて次に言いたいのは,預金や中央銀行券は信用度の高い手形であって,だから貨幣として認められているということです。それでは,どうしてそれほど信用されるのでしょうか。

 まず一般銀行を登場させましょう。正確に言うと,民間銀行は存在するが,中央銀行は存在しない状態を考えてください。現代ではなじみのない状態ですが,かつては実在した状態です。なので,銀行券は民間銀行が発行します。

 さて,企業Aがビジネスのために銀行からお金を借りるとします。図 4をご覧ください。設備投資資金でも運転資金でもいいです。仮に1億円としましょう。この時,X銀行は,1億円の預金を企業Aの口座に設定してあげて貸し付けます。これは,日々,銀行が行っていることで,何の不思議もありません。そうでなければ,X銀行の銀行券を発行して窓口で企業Aの担当者に渡して貸すことも可能です。

 問題は,ここで銀行が無から預金や銀行券を作り出したということです。金貨や銀貨ならば,無から有にすることはできません。また銀行には国家権力はありませんから,強制的に預金や銀行券を使わせているのでもありません。では何をやっているのかというと,預金や銀行券は,いずれも銀行の手形,債務証書なのです。債務証書ならば,自分が発行することができますね。銀行は,預金または銀行券という名の,自分宛ての手形を発行しています。そして,商業手形の時のように,それで商品を買うのではなく,それを企業に渡して貸し付けているのです。企業と比べると銀行の取引範囲は広く,資金量も大きいです。預金は要求払いで銀行券に換えることもできます。なので,商業手形と比べると銀行手形,つまり預金や銀行券は,全社会に流通しやすいのです。銀行は,「私の手形はすごく信用があって,これでものは買えるよ。これで貸してあげる」ということをしているのです。

図 4 銀行の信用創造

 さて,A社はこれで設備投資なり原料の仕入れなりが可能になって企業活動を行います。うまくいけば利潤が獲得できて,銀行に利子を支払うことができます。そして返済期日になったら,A社は借りた1億円を銀行の預金口座に入金するか,そうでなければX銀行券を窓口にもっていって返済します。入金された1億円や手渡されたA銀行券は,銀行の資産にはなりません。破棄されます。正確に言うと,銀行券ならば価値のない紙切れに戻ります。なぜかというと,預金や銀行券は,A銀行の債務証書だからです。

 くりかえしますが,預金と銀行券は,いずれも銀行の債務証書であり,銀行はこれをゼロから発行できます。そして,銀行の手元に戻ってくれば消滅するのです。少し不思議かもしれませんが,手形発行の続きだと思えば理解できるでしょう。また,預金や銀行券での返済という行為は,実は手形を使った債権債務の相殺でもあります。企業AはX銀行から借り入れて1億円の債務を負っています。企業Aはこれを返済する際に,自らが預金または銀行券というX銀行に対する1億円の債権を持ち,両者を相殺しているのです。

 このように,預金と銀行券の運動は,手形の発行・流通,債権債務の相殺という手形原理を基礎にして,これに貸付・返済の原理を加えることで成り立っているのです。

 しかし,預金や銀行券で企業間の決済を行おうとすると,銀行だけではできる場合とできない場合とが出てきます。もう一度,中央銀行がなくて一般銀行だけある世界を考えてみましょう。図 5をご覧ください。今度は二つの銀行,三つの企業に登場してもらいます。A社とB社はX銀行に口座を持っていて,C社はY銀行に口座を持っています。A社がB社から商品を買って代金を払う場合は,X銀行の預金で払えるから簡単です。X銀行はA社からの指示を受けて,A社の預金を減らし,同額だけB社の預金を増やしてやればよいからです。しかしA社がC社から物を買ったときは厄介です。X銀行の預金はX銀行の債務,Y銀行の預金はY銀行の債務で,互換性がありません。C社にX銀行の口座を開いてもらえばいいのですが,C社がX銀行のサービスや経営の安定性に不安を抱いて拒否するかもしれません。かわりにY銀行にX銀行の口座を開いてもらい,X銀行がA社の預金を減らして同額だけY銀行がもつ預金を増やし,Y銀行にまた同額だけC社が持つ預金を増やしてもらえば何とかなりますが,やはりY銀行がX銀行に預金など持ちたくないと言い出したら終わりです。もうひとつ,A社が預金を下ろしてX銀行券を受け取り,これをC社に持参して支払うという手もありますが,C社がX銀行券など受け取れないと言ったら,やはりだめです。

図 5 銀行間決済の困難



 このように,銀行預金と銀行券のシステムは,異なる銀行間の決済に問題を抱えています。民間企業としての銀行の信用に限界がある限り,預金や銀行券は通貨になり切れません。

 これを解決するのが中央銀行の役割です。図 6をご覧ください。中央銀行とは,国内すべての銀行が当座預金の口座を持つような銀行です。これが中央銀行のいわゆる「銀行の銀行」という役割です。こうすれば,A社が商品の代金をC社に支払うのも簡単です。また,金額を1億円と定めましょう。まずA社の指示により,X銀行はA社の持つ預金を1億円減額します。そしてX銀行の依頼により中央銀行はX銀行が持つ預金を1億円減額し,Y銀行が持つ預金を1億円増額させます。そして,Y銀行はC社がもつ預金を1億円増額させます。これで,A社はX銀行の預金1億円を失い,C社はY銀行の預金1億円を受け取りました。そして,X銀行の預金とY銀行の預金は,中央銀行当座預金との交換性によって互換性が保たれているのです。また,X銀行,Y銀行,中央銀行は決済を仲介しただけで,資産債務は変動していません。

 このしくみがあれば,企業間の債権債務の決済は,銀行間の債権債務の決済として置き換えられ,それは中央銀行当座預金内での相殺と差額の振り替えで可能となるのです。

 さらに,各銀行が銀行券を発行する代わりに,中央銀行だけが銀行券を発行するようにします。これを発券集中と言います。A社がX銀行から預金を引き出すと,X銀行券でなく中央銀行券を受け取るようにするのです。中央銀行に一定の信用があれば,一般の銀行の間に信用度の差があっても,この中央銀行券は流通します。これで,多数の銀行券の間に互換性がない問題も解決します。 

図 6 中央銀行による支払い決済システム


 このように,一定の信用がある中央銀行が成立してすべての銀行に貸し付け,すべての銀行が中央銀行当座預金を持ち,また発券集中が行われると,銀行預金と中央銀行券が通貨として通用することができるのです。これが,紙切れとデジタル信号に過ぎないものが通貨となり,また民間の銀行が創造したに過ぎないデジタル信号が通貨となることができる根拠です 。

■補足

*銀行の貸付・返済・決済を,手形原理を基礎に,貸付け原理を加えて説明するのが最大の特徴である。手形による貸し付け説は,岡橋保に由来する。
*ただし,貨幣論の伝統では貨幣史の経過に引きずられて,預金・銀行券は商業手形割引によって発行されるという議論が強力であった。私はこれを採用せず,手形割引より貸し付けの方が本質的だとしている。ここは岡橋説を採用しておらず,村岡俊三説に近い。手形割引という取引形態は重視しないが,手形原理は重視するところがポイントである。ただし,貸し付けと蓄蔵貨幣の関連のさせ方が村岡説と異なる。
*また理論的説明に当たって,担保は本質的契機でないと考えてもいる。本質的なことは,通常,企業活動の拡大の維持・拡大のために貸し付けが行われるのであって,それと無関係に預金通貨や銀行券が発行されるのではないということである。
*中央銀行のもっとも本質的な役割を中央銀行当座預金による預金の通貨化,発券集中による中央銀行券の通貨化においている。この点は岡橋節,村岡説いずれとも異なる。



2023年12月11日月曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その3)紙切れや数字上の存在がどうして貨幣になるのか

 5 紙切れや数字上の存在がどうして貨幣になるのか

 ここまでの話から,また疑問がわくと思います。まず,金塊ならとにかく,紙切れや,数字上の存在に過ぎない預金が,どうして貨幣として認められ通用するのかということです。それも,民間銀行が発行した数字までもです。これの答えを一言で言うと,「手形だから」となります。別の言い方をすれば「信用できる支払約束だから」となります。もっと日常用語で言えば,支払われそうな債務証書,または借用証書だからと言ってもいいです。

 そう言ってもわかりにくいですから,まずは,何かが貨幣として認められる理由としてありそうなものをあげていきましょう。1番目は,それ自体価値がある商品であるから,です。これは金や銀などの貴金属に当てはまりますね。2番目は,それ自体は紙切れとかデジタル信号であっても,貴金属と交換できる場合です。これがいわゆる兌換紙幣です。銀行の窓口に持っていけば金貨などの本位貨幣と変えてくれるようなものです。3番目は,国家によって受け取りを強制されている場合。それによってみんながお金と認めることにした場合です。江戸時代の藩が発行していた藩札や,軍隊が発行する軍票にはこのような性格があると言われます。現在も,このような側面もあります。たとえば日本銀行法第46条第2項は,「日本銀行が発行する銀行券は,法貨として無制限に通用する」と定めています。また別の法律では,効果は額面価格の20倍までに限って法貨として通用すると書かれています。硬貨を21枚以上出して払おうとすると拒否されてもしかたがない,という話を聞いたことがあるでしょう。

 さて,これらのほかにもう一つ,根拠があります。それは,発行者に信用がある手形だからというものです。ここでおおざっぱには手形を債務証書と広く言い換えてもかまいません。実はこれが現代の貨幣には当てはまります。預金とは,実は銀行の債務証書なのです。また,中央銀行券とは,中央銀行の債務証書なのです。

 さて,現代の通貨制度は管理通貨制度であり,金本位制は停止されています。金本位制の場合は,いまあげた根拠の1番目と2番目が機能しますが,管理通貨制度では機能しません。中央銀行も銀行も,中央銀行券や預金を金と交換してくれないからです。

 なので,現代で現金や預金通貨が流通する理由としては,3番目と4番目が候補として残ります。実は,ここで経済学者の見解は大きく分かれていますので,両方を紹介します。3番目の,国家の強制通用力と,それを受けて人々が承認することが根拠になるという考えは,経済学では多数説を占めています。これを強制通用力説と言います。4番目の,信用ある手形だからというのを主要な理由,強制通用力を副次的な理由とする説は,経済学では少数派です。ただし,銀行業界ではおそらく多数説で,ねじれた状態にあります。こちらは信用貨幣説と呼ばれます。私はこちらの見地に立って,本日お話ししています。

 以下,少し長くなりますが,「信用のある手形,債務証書は貨幣になる」というすじみちを,説明していきます。

 図 1をご覧ください。いまAさんとBさんの二人がいて,それぞれ事業を営んでいるとしましょう。Aさんが,原料の仕入れなどビジネスのためにBさんから商品を買うとします。そして,現金ですぐ支払うのではなく,手形を発行してBさんにわたし,支払いを約束します。「Aは,何月何日まで1万円支払います」と言った約束をするのです。Bさんは期日になったらAさんにこの手形を提示します。Aさんは現金で支払い,BさんはAさんに手形を渡します。Aさんは自分のところに戻ってきた手形を破棄します。自分のところに自分の債務証書が戻ってきたのですから,もう支払う必要がなくて,無効にできるわけです。これが,手形取引のもっとも単純な原理の説明です。現在では紙の手形は電子手形に変わっていますが,このような取引は頻繁に行われています。



図 1 商業手形のしくみ

出所:川端作成の講演スライド。以下全て同じ。


 さて,手形取引がもう少し発展すると,信用のある手形は流通するようになります。図 2をご覧ください。今度は,やはり事業を営むCさんとDさんにも登場してもらいましょう。AさんがBさんから商品を買って,自分あての手形を渡すところは先ほどと同じです。今度は,BさんがCさんから物を買う必要があると想定します。この時,Bさんは,Aさんの手形をCさんに渡すことで商品を買います。Cさんが,「Aさんの手形ならば信用できるから,それでいいよ」と言ってくれれば取引は成立します。Cさんは,同じことを,Dさんから商品を買う際におこない,Aさんの手形で買います。Dさんがやはり「Aさんの手形なら信用できるからいいよ」と言ってくれれば取引成立です。そしてDさんは期日になったらAさんから代金を回収し,手形をAさんに戻します。Aさんは手形を破棄します。これが手形の第1の原理です。

 ここで大事なことは,BさんがCさんから,CさんがDさんから物を買う際には,貨幣なしで買った,正確に言うと手形が貨幣の代わりになったということです。なぜそんなことができるかというと,貨幣には支払い手段機能があるので,買う瞬間と支払う瞬間は分離できるからです。この分離を現実にする役割を手形が果たすのです。ここで見た,商品を流通させる手形の場合,手形は支払い手段機能を根拠にしつつ,ものを流通させる機能を代行しています。



図 2 商業手形の流通



 さて,もう一段階話を進めます。今度はAさんとBさんにだけ登場してもらいます。図 3をご覧ください。Aさんは手形でBさんから商品1万円を買います。しかしBさんも商売の都合上,Aさんから別な商品をやはり1万円分,Bさんが発行した手形によって買うとします。支払期日は同じです。この場合,AさんとBさんは,互いに自分の持っている手形と相手の持っている手形を交換すれば,支払いは済んだことになります。それぞれ自分の発行した手形を取り戻して破棄して,支払いは完了です。当たり前だと思われるでしょうが,ここで肝心なことは,結局,ほんらいの貨幣は全く登場せずに取引が完結したということです。裏返して言うと,手形は貨幣として機能しました。なぜそれができたかというと,債権と債務が相殺されたからです。債権・債務の相殺によって支払いを完結させるのが,第2の手形原理なのです。

 ここまでをまとめると,信用ある手形,支払い約束,債務証書が貨幣になるのは,購買と支払いを分離し,債権と債務を相殺するという手形原理のおかげです。

 まず,商品を買いたいという必要に応じて手形が発行されるます。信用がある主体ならば,自分あての債務証書を発行して受け取らせることができる。信用がある手形は商品を流通させ,債権債務が相殺される限りでは支払を完結させ,貨幣の代わりをするのです。

 ただ,一般の企業が発行する商業手形では,流通する範囲に限界があります。なので,商業手形は,今日,通貨としては認められません。しかし,もっと信用のある手形ならば,流通範囲が




図 3 手形を用いた債権債務の相殺


広がって,貨幣の代わりをより高いレベルでつとめ,貨幣そのものと認められるようになります。それはどんな手形なのかというのが,次の話です。(続く)

■補足

*私の信用貨幣論は,商品経済における手形から出発するものである。ここは,マルクス経済学の伝統的な信用理論と同じである。「いろいろ言われているが,結局,古い理論の方が正しい」最たる例だと考えている。

*信用貨幣の国定貨幣説はいきなり国家の課税からはじめて,人々が,納税に使えるものを貨幣と認めるところから貨幣一般と信用貨幣の成立を説明する。しかし,前資本主義社会からの歴史的経過ではなく,資本主義社会における信用貨幣の成立を説明するならば,「貨幣とは商品経済を成り立たせるもの」というところから始めなければならない。商品経済,あえて今風の用語でいうならば市場経済の発展とともに貨幣も発展するのであり,それと全く別に国家から貨幣を説明すれば,商品/市場/資本主義経済の発展と貨幣の発展は,まったく連関のないものになってしまうだろう。

*ただし国定貨幣説にも正しいところはある。それは,「わが国の通貨名は×××である」という価格標準の質的設定(そういってわかりにくければ「通貨単位の命名機能」)は国家によるものだ,というところである。ついでにいうと価格標準の水準設定(金○ミリ=1円だぞ)も国家によるものである。後者は現代社会で停止しているが,それで商品経済が成り立たないことはない。しかし,前者は現代も必須のものであり,それなしに商品経済は成り立つことができない。この点で国家は重要なのである。クナップ『貨幣の国家理論』は,「国家が単位名をつけるから貨幣が成り立つのだ」と言ったところが正しいが,「だから貴金属の価値と貨幣価値は関係ない」と言ったのは勇み足であった。



2023年12月9日土曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その2) 実際にどんなものが現代の貨幣なのか/お金は誰が発行しているか

 3 実際にどんなものが現代の貨幣なのか

 次の問題は,実際にどんなものが現代の貨幣なのかということです。これを一言で言えば,現金と預金ということになります。

 ここで大事なことは,貨幣とは,中央銀行券,日本で言えば日本銀行券と,硬貨だけではないということです。日本における通貨流通量の定義を見てみましょう。M1とかM2,M3とかいくつかの指標があります。


M1=現金通貨+預金通貨

現金通貨=日本銀行券発行高+硬貨流通高-金融機関保有現金

預金通貨=要求払預金(当座,普通,貯蓄預金など)-金融機関保有小切手・手形 

要求払い預金:預金者の要求によりいつでも払い戻される預金

M2またはM3=現金通貨+預金通貨+準通貨+CD

準通貨=定期預金,据置貯金,定期積金,外貨預金

預金通貨,準通貨,CDの発行者は,M2では国内銀行等,M3では全預金取扱金融機関

CD:譲与性預金(無記名で譲与可能な定期預金)


 まずいちばん簡単なM1を見ましょう。通貨とは現金通貨と預金通貨だと書いてあります。現金通貨とは,日本銀行券と硬貨です。預金通貨とは要求払い預金です。要求払い預とは,預金者の要求によりいつでも払い戻される預金のことです。次にM2とM3はだいたい同じで,M1に準通貨とCDが加わったものです。準通貨というのは,主に定期預金と外貨預金を含みます。いつでもすぐ引き出せる預金とは違いますが,預金の一種です。CDというのはコンパクトディスクではなく,無記名で譲与可能な定期預金で,やはり預金の一種です。M2やM3も,つまりは現金と預金が通貨だと言っているのです。

 では実際の通貨流通量を見てみましょう。2023年5月現在,現金通貨は115.5兆円,預金通貨は958.1兆円,準通貨は486.2兆円,CDが31.0兆円です。現金よりも預金の方がはるかに大きいのです。

 ここで知っておいてほしいのは,現代では預金も貨幣であるということです。預金は貨幣の機能のうち,支払手段機能を中心に果たします。銀行振り込みで代金を払うことや,クレジットカードで買い物をすると,月ごとに預金から代金が引き落とされることをイメージしてください。

 そしてもう一つ付け加えると,預金はデジタル通貨だということです。預金は現金とは別に存在する,数字の上だけでの存在です。だから,コンピュータ出現以前から存在したデジタル通貨なのです。最近になって初めてデジタル通貨が出現したかのようにマスメディアが報道しているのは間違いなのです。

お金は誰が発行しているか

 今度は,お金は誰が発行しているのかを考えてみましょう。一言で言うと,中央銀行と政府と一般の銀行となります。つまり,一般の民間の銀行もお金を発行しているのです。

 一つずつ確かめましょう。中央銀行券は中央銀行が発行していますね。日本ならば日本銀行が発行する日本銀行券,1万円札や千円札です。次に硬貨は,国により制度が違い,一律には言えません。しかし,政府が発行することが多いです。日本でも政府が発行します。ただし,日本銀行に交付して,日本銀行から流通させる仕組みになっています。そして預金通貨は,一般の銀行が発行します。準通貨も同様で,銀行などの預金金融機関が発行します。このように,民間の銀行もお金を発行しているのです 。

■補足
*ここは学問的には何も変わったことは行っていない。ただ,一般向け講演では,預金も通貨だということはよく説明しておく必要がある。実は,「デジタル通貨は,電子マネーや中央銀行デジタル通貨で初めて出現した」という誤った通念も,預金が通貨だということを忘れたところから来る。

2023年12月8日金曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その1) 貨幣とはどういうものか

一般向け講演原稿 

貨幣発行と流通のしくみ:お金はどこからきてどこへ消えるのか

1 はじめに

 この講義では,「貨幣発行と流通のしくみ」についてお話しします。それを通して,皆さんに考えていただきたいことは二つです。一つは,普段の生活の中で漠然とイメージしがちなことと,実際のお金の発行・流通のしくみにはかなりの違いがあることです。もう一つは,モノやサービスといった実物の世界が貨幣を動かす力と,貨幣が実物の世界を動かす力について知っていただくことです。そして,これらを通して,社会に向き合う力を少しだけ鍛えていただければと思います。

 なお,「貨幣」「通貨」「お金」という三つの言葉がしばしば出てきますが,ここでは大まかには同じ意味と考えていただいて構いません。

 さて,貨幣の話をすると言っておいて何ですが,経済の本体はモノやサービスです。モノを少し専門的に財とも言います。経済とは金儲けの話ではなく,むしろ人が働いて財やサービスを作り出し,それを享受するというしくみが経済の本体です。財やサービスを作り出す苦労と,それを享受して得られるうれしさや幸福感,専門的に言うと効用というものがバランスして,各人の生活が豊かになることが経済のテーマです。

 しかし社会は多数の人間からできていますから,そのためには社会の仕組みが必要です。それは時代によって異なり,奴隷制や封建制であったりもするわけですが,近代的な仕組みの代表は市場と交換です。そしてそれを円滑に回すためのツールが貨幣です。だから貨幣はツールに過ぎない。

 ところがツールは暴走します。「近代科学文明の暴走」というのは映画や,また現実でもよくある話ですが,貨幣も暴走します。貨幣は財やサービスを動かすツールに過ぎないのに,貨幣を獲得することやためること自体が目的になってしまうことがあります。それが資本主義社会です。こうなってしまう秘密について,ここではすべてお話しすることはできませんが,その一端として,貨幣の発行と流通の仕組みをお話ししようというわけです。

2 貨幣とはどういうものか

 さて,最初の問題は,貨幣とはそもそも何なのかという話です。一言で無理くり答えるならば,すべての商品と等価,つまりイコールなものだということです。しかし,具体的にはいろいろな機能があります。

 最も大事な機能は価値尺度機能です。これはモノやサービスが商品となっている世界で,商品の価値の大きさを図る機能です。たとえば商品1が貨幣1単位に等しく,商品2が貨幣10単位に等しいならば,商品2は商品1の10倍の価値があることになります。このように商品間の相対関係を図るのが価値尺度機能です。

 次に価格標準です。これはさらに二つに分かれます。一つは,貨幣に単位名をつけることです。「日本の通貨は円である」とか「アメリカの通貨はドルである」とかいう風に名前を付けることです。もう一つは,皆さんにはなじみがないと思いますが,貨幣と単位の数量関係をつけることです。たとえば,1933年に制定された日本の貨幣法は,もう無効になっていますが,「金750ミリグラムをもって1円とする」と決めていました。この二つは,いずれも国家が決めることです。

 三つめは流通手段機能です。これは簡単で,現金で物を買うことを想像してください。商品と交換されることで,商品を流通させる機能です。

 まだあります。四つ目は支払い手段機能です。これは,貨幣を使えば,商品を現に流通させることと分離して,支払いだけを行うこともできるという機能です。イメージしていただきたいのは,代金後払いや,借金の返済です。お金で支払うことだけを独立して行えますね。

 五つ目は蓄蔵手段です。お金で富を蓄えることができるという機能です。預金とか,タンス預金とかをイメージしてください。なお,モノやサービスでなく,金融資産,つまり株式とか社債とかポイントとかで富をためるのもこの機能の延長線上にあります。

 最後は世界貨幣です。さきほど,通貨単位は国家が定めると言いました。国家が違うと貨幣単位も違って互換性がありません。でも貿易をしますから,何とか貨幣を通用させねばなりません。その機能が世界貨幣です。これを完全に果たせるのは金などの貴金属だけでしょう。金が流通していない現在では,ドルやユーロなどがこの機能を一部代行しています。

 さて,これらの機能を全部一種類の貨幣が果たせれば,貨幣として万能だということになります。そのような貨幣であるためには,それ自体が価値を持った商品である貨幣ならばいいわけです。これを商品貨幣と言います。具体的には金や銀など,本位貨幣になれる貴金属がこれに該当します。金本位制というのが歴史的に存在したことはみなさんもご存じでしょう。

 しかし,万能な商品貨幣だからと言って,それだけを使っているわけにはいきません。貨幣流通量が貴金属の産出量に制限されるとお金が足りなくなります。また,現物のお金が常に手元にないといけないというのでは不便です。会社は黒字でも,今この瞬間に現金が手元にないから,払うべき代金を払えず倒産する,といったことになりかねません。

 本位貨幣が存在する世界では,一方で経済が順調な時に経済発展が制約され,他方で不況の時には経済の落ち込み方がひどくなります。非常に大雑把に言えば,これが歴史の一時期は実施された本位貨幣制が停止されていて,政府が通貨システムを管理する管理通貨制が実施されている根本的な理由です。

(続く)

■補足

*貨幣についての古典的な説明を踏襲しており,慣れている人には退屈だろう。しかし,漫然と踏襲しているのではなく,「いろいろ迷ったが,結局これでよい」と考えている。

*本当は深く論じなければいけない価値尺度機能をさらりと流している。もちろん,現在は代理貨幣しか使われていないので,価値尺度機能は間接的に,大きく誤差のある形でしか果たされていない。

*私は,古典的な「金などの商品貨幣=万能な典型的貨幣」説に立つ。この見解は,近年の貨幣史研究の進展により,旗色が悪くなっている。しかし,「前資本主義時代から現在に至る歴史的順序」と,「資本主義社会を説明するための論理的順序」は異なるというのが私の見解である。商品貨幣は「貨幣の歴史的起源」ではなく,資本主義社会における「論理的説明の起源」である。「昔は金貨が使われていて,いまはそうでなくなった」と貨幣史(歴史学)として説明するのでなく,「金貨ならば貨幣のすべての機能を果たせるのだが,それでは不都合が多すぎるので,実際には使われていない」というのが貨幣論(経済学)の説明である。

*なので,私はMMTやクナップのように,貨幣の生成そのものについての国定貨幣説をとらない。貨幣は商品経済から説明できると考えている。ただし,価格標準(貨幣の単位名付与,貨幣重量と単位名の関連付け)は国定であり,国家抜きに説明できない。この点を明確にしたことはクナップの功績だと認める。

2023年11月3日金曜日

岡橋保の信用貨幣発生論を継承し,批判的に徹底する

  これまで,信用貨幣論を論じるに当たり,先駆者として岡橋保にたびたび言及してきた。岡橋は私にとっては,師匠の師匠にあたる。その岡橋学説に対して,ようやく一定の位置と距離を持って向かい合えるようになってきた。それは,自分のゼミ生にこの学説を伝えるにあたり,無理解なままや,ただ追随するままではいられないからである。以下は,大学院ゼミでの解説用に作成したノートである。

ーー

1.徹底した信用貨幣論としての岡橋説

 岡橋保の学説は,信用貨幣理論において一つの極をなす。それは,現代の貨幣が信用貨幣であるという見地を徹底したからである。

 すなわち,岡橋は,預金貨幣と銀行券を信用貨幣であるとし,また金兌換が停止されて以降も信用貨幣であるとした。また,貸付・返済によって発行・回収される預金貨幣・銀行券は伸縮性を持っており貨幣流通法則にしたがうとした。これらは,預金貨幣や銀行券が,国家の強制通用力や漠然とした人々の信認によって流通する価値シンボルであるという,マルクス経済学,近代経済学を問わず多数の研究者に保持されている常識と決定的に対立するものであった。また岡橋は,同じ預金貨幣・銀行券であっても,発行ルートの違いによって性質が異なることを指摘し,貸付によって発行された預金貨幣・銀行券発行は貨幣流通法則にしたがうが,中央銀行引き受けによる国債発行を通して発行された預金貨幣・銀行券は紙幣流通法則にしたがうことを明示した。

 そのことにより,岡橋は,厳密な意味での貨幣的インフレーション=物価の全般的名目的上昇と,日常用語でいうところのディマンドプルインフレーション=需給ひっ迫から来る物価の実質的上昇をはっきり区別した。そして,貨幣的インフレーションは,いかに中央銀行が金融を緩和しようとも,手形割引や貸付による預金貨幣・銀行券の発行を通しては決して起こらず,政府の赤字財政こそ貨幣的インフレーションの発生源であることを,理論的根拠を持って明らかにした。

 岡橋説は,それに賛同する者から見ても反対する者から見ても,徹頭徹尾の信用貨幣論なのである。また,それは期せずして,今日再興隆しつつある国定貨幣説的な信用貨幣論と,一部親和し,一部対立していて,興味深い対比をなしている。岡橋説を出発点とする徹底した信用貨幣論を用いると,今日の金融問題の見え方,例えば「日銀の超金融緩和はインフレーションを引き起こしうるか」といった問題への回答が,常識的な貨幣論とは異なってくる。そうしたアクチュアリティを持った学説なのである。

2.信用貨幣発生論の検討

(1)課題設定

 とはいえ,当たり前のことであるが,岡橋説が何から何まで正しいというわけではない。ここでは『貨幣論 増補新版』(春秋社,1957年)に見られる,その信用貨幣発生論を検討する。ここまで岡橋の信用貨幣発生論の徹底性,独自性を強調したが,信用貨幣の発生については,意外なほどに,マルクス派の多数説と共通のところがある。それは,「銀行券は手形割引から生まれる」というテーゼを持っているところである。したがい,その批判も岡橋説の検討を超えた射程を有するだろう。以下,解説する。目指すべき方向は,岡橋説を部分修正することで,むしろその信用貨幣論をさらに徹底することである。

(2)「ほんらいの信用貨幣=手形割引によって発行された銀行券」説の批判

 信用貨幣の発生を,国定貨幣説でなく手形流通説から理解するところと,貸付によって流通に入った銀行券が貨幣流通法則にしたがうとするところは,岡橋説の核心である。しかし,岡橋が,手形割引によって発行される銀行券だけが「ほんらいの信用貨幣」であり,貸付によって発行される場合は「ほんらい的でない」というのは,おかしい,というより不徹底に思える。岡橋がこのように言う理由は,貸付による銀行券発行は貨幣流通法則には基づいていても,手形流通法則に基づいていないというものである。貸付けられた銀行券は,一般的流通にも入るものであって,手形とは異なるというのである。

 岡橋説がこのような主張を取るのは,信用貨幣の基本形態を銀行券に置くことと結びついている。しかし,それは逆ではないか。信用貨幣の基本形態は預金貨幣であり,預金を引き出した場合に生じる二次的形態が銀行券だと考えるべきではないか。銀行と企業が取引をするとは,企業が銀行に口座を持つということである。銀行が企業に貸付を行うというのは,銀行が信用創造によって,自己の負債として企業の持つ預金口座の残高を増額させるとともに,自らの資産として貸付金を計上することである。借り手企業が銀行券を手にするのは,預金口座からお金を引き出すときである。だから,銀行券が預けられて預金になるのではない。まず預金があって,それが引き出されるときに銀行券が発券されるのである。岡橋は,預金貨幣を重視する研究者であるが,それでも,最初からいきなり銀行券で貸し付けが行われると想定することによって,預金の意義を軽んじてしまっている。

 企業が預金貨幣によって銀行から借り入れるというモデルで考えてみよう。企業は借り入れたお金を預金口座に持っている,この時,1)同一銀行に口座を持つ他社から原材料や設備を購入することは,銀行手形の流通として理解できる。預金貨幣とは,銀行の自己宛て一覧払債務だからである。2)また,同一銀行内に口座を持つ他社との預金振替によって,債権債務の相殺による決済が可能となる。3)もちろん,返済も一種の相殺として理解できる(これは岡橋も銀行券について指摘している)。返済直前の状態を見ると,銀行は企業に貸付けているが,企業は銀行債務である預金を同額だけ持っている。ここで互いの債権=債務を相殺することが返済なのである。利子生み資本を貸付けているのは銀行の側なのであるが,それが現金による貸付でなく銀行手形による貸付であるために,このようなことが起こるのである。

 以上の1),2),3)から見て,貸付による預金貨幣発行も手形原理,すなわち手形による商品の流通,二者または多者の相殺による決済という原理に立脚しているのであり,ほんらいの信用貨幣の在り方を代表しているというべきなのである。岡橋説は,このように部分修正され,かつ信用貨幣論として徹底される必要がある。

(3)手形割引と貸付の違い:購買力は創造するが貨幣流通法則にしたがう

 では,手形割引と貸付の違いはどこにあるのか。前者ではすでに流通した商品価値に対応した信用貨幣が事後的に発行されるのに対して,後者では産業資本や商業資本の運動の起点となる貨幣が事前に供給され,その後で生産手段や労働力が購入されることにある。貸付では,貨幣がまず前貸しされ,それから商品を流通させるのである。その意味では購買力は創造される。

 ただし,貸付が購買力を創造すると言っても,流通貨幣量が一方的に膨張してインフレが生じるわけではない。そもそも,貸付金は満期になったときに返済されて流通から消えることが,はじめから予定されているのである。その意味では,購買力の創造は一時的である。また,産業資本・商業資本の運動が正常に行われれば,前貸しされた信用貨幣の価値は,購入される生産手段や,雇われた労働者が消費する消費手段の価値に対応する。つまり,貸しつけられた信用貨幣は,それに見合う商品を流通させることに用いられる。

 岡橋は商品価値との対応を強調するのだが,そのことをもって貸付が購買力を創造すること自体を否定している。それは行き過ぎであろう。信用貨幣の前貸しによって創造された購買力は,事後的に商品流通と対応すると見るべきであり,むしろそのことが貸し付けの特徴なのである。

 個々の企業経営は成功することもあれば失敗することもある。成功すれば,資本の価値増殖により,流通する商品価値は拡大し,いっそうの貨幣が必要になるかもしれない。また失敗すれば,銀行には貸し倒れが生じ,流通に投じられた貨幣がそのままとなるかもしれない。しかし,社会全体としては,貨幣流通速度を所与とすれば,経済が拡大して商品流通が拡大すれば貨幣の前貸しが返済を上回り続け,縮小すれば返済が前貸しを上回り続ける。こうして,流通貨幣量は,商品流通を媒介するために必要な水準に収まるのである。だから,信用の拡大による購買力の一時的拡大は,貨幣的インフレーションを起こさない。景気が良くなって貸付が増え,企業が投資を拡大した場合には,生産手段に対する需要が拡大して物価が上昇することはもちろんある。しかし,これは生産が拡大している産業部門での実質的物価上昇であって,貨幣的インフレ=全般的名目的物価上昇ではないのである。

 預金貨幣や銀行券の前貸しは一次的な購買力増大を引き起こすが,社会全体としては商品流通の必要によって貨幣流通量が規制される。つまり,貸付によって発行される信用貨幣は,根本的には貨幣流通法則にしたがうのである。これは岡橋説の核心のひとつであり,継承すべき点である(ただし,前節で述べたように手形流通法則にも従うというのが私の主張である)。信用貨幣である預金貨幣や銀行券のこの性質こそ,いったん流通に入ると国家の課税強化によらなければ出られなくなる,価値シンボルである国家紙幣との違いなのである。

ーー

 今回,岡橋説をようやくある程度整理できたが,この後には,師匠の一人村岡俊三の学説が控えている。村岡俊三の専門は世界経済の理論であったが,その一環として世界的スケールにおける貨幣・信用関係にも重大な関心を寄せ,岡橋説をモディフィケーションした主張を持っていた。例えば,村岡説は,銀行が自己の手形によって貸し付けるとする点では岡橋説を継承しており,銀行信用の本来の在り方を貸付に置くという点では,岡橋説を修正している。この二つの論点は,私にとって受け入れやすい。しかし,その貸付を「後日の預金を引き当てにして目下の貸付を行う」とするところに検討すべき点がある。他日を期したい。



2023年8月7日月曜日

「何でもいいお金」はなぜ受け取ってもらえるか?ーーNHK「チコちゃんに叱られる」の貨幣論

 NHK「チコちゃんに叱られる」ICカードの謎(2023年8月4日)。「ICカードをピッとするだけでお金を払えるのはなぜ?」という問いに対して,「お金なんてなんでもいいものだから」と答えている。面白いが,説明で引っ掛かったところがあるので,考えてみよう。

 しかし,当然これだけでは足りないので,もう少し丁寧な答えは高木久史先生の助けを借りて説明する。「なんでもいい」というのは,金貨や銀貨のように,素材がそれ自体価値を持つものでできていなくてもいい,ということである。しかし,そうした価値を持たないはずのものが「なぜお金として受け取ってもらえるか」については,もう一つ理由が必要だ。

 そこで高木先生は,「タカギ券1000円」と示した紙を使い,「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という例で日銀券を説明しようとしている。相手が高木先生の約束を信用する限りは,高木先生との間では「タカギ券は1000円分のものと交換できる」とお互いに認めたことになる。同じように,国が日銀券について「この紙は1000分の価値がある」と宣言して,それをみんなが認めればお金として通用する。番組ではこのような説明になっている。

 私は,ここには問題があると思う。「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という話から始まるのはいい。もっと言えば,すごくいい。ここで肝心なのは,タカギ券を受け取るものは「発行者である高木先生の約束を信じます」と言うところである。発行者である高木先生は「発行した私は,1000円分の価値を認めて,1000円分の何かと交換しますよ」と言っている。まずこれが信用されれば,高木先生を信用する人がタカギ券を受け取り,タカギ券で高木先生に支払うだろう。そうすると今度は,高木先生を信用する人同士であれば,タカギ券で支払うことが可能になる。

 このタカギ券から1000円札を同じ原理で説明できる。「日銀は,1000円と書いた日銀券を,1000円分の何かと交換すると保証します」ということである。金本位制の時代は,これは1)「金と交換します」,2)「日銀の預金とも交換しますので銀行間決済に使えます」,3)「日銀から借りたお金はこれで返せます」の三つだった。いまは1)はできないが2)3)はできる。そして,2)3)から派生して4)「日銀を信用する人への支払いができます」ということになるのである。こうして紙切れに過ぎない日銀券はお金になる。これが基本的なすじである。番組中で短時間で説明するのは難しいが,私は講義ならばこのように話す。

 大事なことは,タカギ券か「発行者の支払い約束を信じるから受け取る」という論理を取り出すことである。こうした,支払い約束=債務証書がお金になったものを信用貨幣という。

 しかし番組は,これを「みんながお金としてみとめているから」「国が1000円の価値があると約束したものをみんなが信用しているから」とまとめてしまっている。これは「発行者の支払い約束を信じるから」と同じようでいて違う。「みんながお金としてみとめているから」では,政府が自分の資産として国家紙幣を発行し,それをばらまくことも含まれてしまう。それなら高木先生が「1000円のお菓子と換えてあげますよ」と言うタカギ券を発行する話から始める意味がない。タカギ先生が「ここは私の研究室だから,タカギ券はこの中では1000円として使えることにします」と研究室の会議で合意して決めるか,催眠術をかけるなり先生のカリスマ性で認めさせて信用を得ればよいのである。それが「みんながお金として認めているから」という説明にはふさわしい。

 しかし,世界の中央銀行がおこなっているのは,そのようなことではない。あくまで「中央銀行の支払い約束を信じてもらう」ことを出発点にして,中央銀行券は中央銀行の債務として発行されているのだ。

 番組がタカギ券から出発して「お金なんてなんでもいい」と言う話をするのはいいのだが,それが受け取ってもらえる理由を「みんながお金としてみとめているから」でまとめるのがおかしい。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」とすべきなのだ(※1)。

 以下,やや専門的な議論である。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」の原理で成り立つのが信用貨幣である。信用貨幣は,貨幣を使えば物々交換と異なり後払いも可能になるという,支払い手段機能が発展したものである。世界の預金通貨や中央銀行券は,こちらの性格が基本である。「みんながお金としてみとめているから」の原理で成り立つのは価値章票(価値シンボル)である。国家紙幣や補助通貨としての硬貨,軍票などは,こちらの性格が強い。価値シンボルは,貨幣を使えば色んな商品を買って入手できるねと言う流通(購買)手段機能が発展したものである。

 この番組は,「価値のない素材でできたお金が,なぜ受け取ってもらえるか」について,信用貨幣の原理の説明から入ったのに,結局価値シンボルの原理で説明を結んでしまっている。これでは,商品経済が発展するとともに,銀行と中央銀行を結節点として資本主義金融システムが発展するという,ダイナミズムが見落とされかねない。資本主義社会では,企業が経済活動のために銀行からお金を借り入れると預金通貨が増え,返済すれば減る。人々が流動性を求めて預金を下ろせば日銀券が日銀から銀行へ,銀行から人々へと渡って現金流通高が増え,人々が銀行に預金すれば現金流通高が減る。預金は銀行が企業の求めに応じて創造し,銀行に戻れば消滅する。日銀券は日銀が人々の求めに応じて発行し,日銀に戻れば消滅する(誰しも自分の借用証書を取り戻したら捨てるだろう)。このお金の生成と消滅のダイナミックなお金の運動は,信用貨幣論によってはじめて説明できるのだ。

 なお,私のこの見解は,「商品貨幣vs代行貨幣」の大区分がまずあって(※2),代行貨幣という区分の中に価値シンボルと信用貨幣があるという考えである。そして,価値シンボルと信用貨幣の区別は,資本主義金融システムのダイナミックな運動を理解する上で重要だという考えでもある。私の重点は,すでに商品貨幣が用いられていない現在の資本主義における「価値シンボルvs信用貨幣」にある。なので,商品貨幣の重要性は,従来言われていたほどではないことを強調する「商品貨幣vsそれ以外」を重視した研究とは,関心の置き所異なることを,念のため付記する。

※1 番組の説明が,高木先生の説明を忠実に再現したものなのか,番組の都合で改変したものであるかはわからない。高木先生のご研究は未読であるが,貨幣史の研究者とうかがっており,もちろん信用貨幣の原理について見識をお持ちのはずである。本稿は高木先生への批判ではなく,あくまで番組内容について,私としてはこう思ったということである。

※2 専門家向けの注。最近の信用貨幣論者は,貨幣は歴史的に初めから信用貨幣だと主張することが多い。なので,私が信用貨幣や価値シンボルを「代行貨幣」とすることには賛成されないであろう。これはまた別の話題となるが,誤解を避けるために簡単に説明しておく。まずここで私が「代行」と言っているのは,「歴史的にもともと金貨など商品貨幣が流通していたが,その後に代行貨幣になった」と言いたいのではないということである。今この瞬間の資本主義経済において,「商品流通のためには商品貨幣が必要なんだけど,それでは不便で仕方がないので代行貨幣が使われている」ということを論理的に説明しているのである。歴史的順序と論理的説明の順序は同じではない。だから,「昔だって金貨より帳簿振替が使われていたんですよ」と言われても,私は論破されたと思わない。
 商品貨幣はいろいろな機能を持っている。価値尺度,価格標準,流通(購買)手段,支払い手段,価値保蔵手段,世界貨幣などである。この種々の機能のどれかを代行するというのが代行貨幣の意味である。そして,流通手段の代行の場合も支払い手段の代行の場合も,素材としては,価値をほとんど持たない紙切れや卑金属や電子データが使用可能なのである。しかし,流通手段機能の代行と支払い手段機能の代行の説明の仕方は違う。預金通貨や日銀券は,債務証書による支払い手段代行として,「発行者の支払い約束を信じる」ことから流通するものとして説明しなければならない。私はこのように考えている。

「チコちゃんに叱られる! ▽都会と田舎▽田んぼの不思議▽ICカードの謎」初回放送日: 2023年8月4日。

2023年7月25日火曜日

FedNowとデジタル通貨の関係:CBDCではない,デジタル通貨のもう一つの道

 アメリカで,銀行間送金を即時実現するFedNowがスタートという報道があった。人生のほとんどを日本で過ごしているドメスティック人間には,最初,何を言っているのかわからなかったが,どうもアメリカでは異なる銀行同士の支払い決済が非常に遅いらしい。よく引かれる例では,労働者の給与が支払われてから実際に使えるようになるまで何日もかかり,所得の高くない人は当座貸し越しに頼らざるを得なくなり,それでさらに手数料を取られて踏んだり蹴ったりなのだそうだ。およそ金融超大国の話とは思えないが,単一中央銀行でない連邦準備制度の弱点だろう。

 FedNowはこの立ち遅れを一気に逆転させる。つまり,銀行口座間の振替による支払いを24時間365日保障する上に,スマホやPCのアプリから操作可能にするというものだ。確かにこれが多くの銀行で実現すれば,今度は日本より便利になるだろう。

 さて,FRBはFedNowはデジタル通貨とは関係ないとしている。確かに記事を読む限り,FedNowは,日本で我々が他行への口座振り込みとしてやっていることを実現しているに過ぎない。とはいえ,「自分のお金をスマホの操作で支払い」となると,その使い勝手は,中央銀行デジタル通貨(CBDC)で想定されているものと似て来ることは確かである。

 では,FedNowはデジタル通貨と関係あるのか,ないのか。答えは,「中央銀行デジタル通貨ではないが,別の方向でのデジタル通貨へのルート上にある」というものだ。「スマホ一つで支払い」(別の機器でもいいが)を実現する道は,口座振り込みから出発する道と現金から出発する道の二つがあるのだ。説明しよう。

 まずまちがってはいけないのは,預金通貨は,各銀行が発行するデジタル通貨だということだ。コンピュータが出現する前からデジタル通貨だったのだ。若者がよく「電子機器を使わないのにデジタルというのがわからない」と言うので補足するが,つまり「数字上の存在」だ。

 他方,中央銀行は預金と銀行券を発行するが,中央銀行預金は市中を流通しない(マネーストックではない)のでここでは関係ない。中央銀行券は,中央銀行券が発行するアナログ通貨であり,これは誰もがすんなり理解できることだろう。不換銀行券と言えど,現金は物理量を持ち,空間を占拠している物体だ。

 だから,今後デジタル通貨を発達させるためには,以下の二つのルートがある。


1.デジタルな民間銀行預金通貨をアップグレード

 一つは,もともとデジタル通貨である預金をアップグレードすることだ。要は,デビットカード払いやデジタルバンキングをもっと簡単・迅速にすればよい。スマホの操作一つで振り込み,即時決済出来ればそれでよい。この場合,銀行預金で支払うので,異なる銀行間で規格を統一する必要があるし,銀行間決済の実現は中央銀行預金を使うから,中央銀行のシステムも開発する必要がある。FedNowが苦労したのはこの点だろう。日本でもはDCJPYという企業決済の実証実験が行われているが,銀行間では決済できないそうで,規格統一と中央銀行との一体開発に大きな壁があるのだと思われる。


2.アナログな中央銀行券をデジタル化

 もう一つは,アナログな中央銀行券をデジタル化することだ。これがしばしば話題になる中央銀行デジタル通貨(CBDC)である。預金の存在はそのままにして,預金をおろした時に中央銀行券をもらうのではなく,スマアプリの電子的な財布に記帳し,買い物や仕入れをしたらその残高が減り,売った相手の電子財布の残高が増える,というしくみである。この時預金は動かない。現金がデジタル化するのである。当然,現金支払いを電子的なシステムとして構築することが課題となる。

 FedNowはCBDCではないが,デジタル通貨と関係ないものではない。デジタル通貨を1の方向で進めるベクトルをもっているものだ。今後,各国で1と2のどちらが進展するか,あるいはホールセールは1,リテールは2となるか,など注視していく必要がある。

「アメリカで異なる銀行間での送金タイムラグをなくす決済システム「FedNow」がスタート」Gigazine,2023/7/21。

2023年7月6日木曜日

超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)

 1.従来の考察への反省

 私は以前に準備預金への付利に関する考察を2通の投稿によって行い(※12),以下のように結論した。「中銀当座預金への付利とは,中央銀行にとって,銀行に過剰準備保有を促すためのコストであり,それは結局は,ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコストだったのである」。しかし,この結論はいくらか修正を要する。

 中銀当座預金への付利は,「ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコスト」である。これは正しい。しかし,「銀行に過剰準備保有を促すためのコスト」というのは不正確であった。付利は,銀行に超過準備を保有させるために行われているのではない。付利がなくても,銀行全体としては超過準備を持つだろう(※3)。ただ,ゼロ近傍以下に金利を誘導した場合,個々の銀行の行動が予測不能になり,その運用が不確定・不安定になってしまう。これを防止するために金利を付すというのが,実際にリーマン・ショックの際にFRBや日銀が直面した状況であった。つまり正しくは「銀行による超過準備の運用が不確定・不安定にならないためのコスト」なのである。

 このように修正した上で,さらに考察を進める必要がある。そもそも超過準備はなぜ発生するのだろうかという問題である。本稿の目的は,超過準備が発生する根拠を把握し,その上で,中央銀行がそれに付利せざるを得なくなることの意味を考えることである。


2.なぜ中央銀行の方が借り入れを行わねばならないのか--財政赤字の累積

(1)超過準備はなぜ,どのように発生するか

 銀行の超過準備預金運用を安定させるために中央銀行が金利を付さねばならないというのは,言葉を変えると,「銀行が利子を払わないと,安定して預金を集められない状態」だということである。なぜ中央銀行でそのようなことが起きるのだろうか。

 いま財政システムを捨象し,金融システムだけを考えるならば,中央銀行はまずもって銀行にお金を貸す側である。中銀当座預金とは,中央銀行が銀行に信用供与(貸し付け)を行った際に発生する当座預金である(※4)。したがって,そのコントロールは,さしあたり中央銀行による貸し出し利子率を通してコントロールすればよい。しかし,経済規模の拡大とともに中銀当座預金規模も拡大し,また銀行間の資金過不足も顕在化する。そこで銀行間では準備預金の超過・不足分を短期の貸し借りで調節するようになり,ここに短期金融市場が成立する。この短期金融市場での金利調節が中央銀行の任務となる。しかし,そうであっても,金融システムの範囲内では,中央銀行は貸し付ける側だという基本的立場には変わりはない。

 これよりも話を現実に近づけるには,財政システムを考慮する必要がある。現代の資本主義においては,しばしば需要不足による不況が発生する。政府はその対策として,しばしば財政赤字を出して需要を支える。財政赤字を出すということは,たいていの場合,通貨供給量を増やすことを意味する。より正確に言えば,銀行が超過準備預金で国債を引き受けた場合や,その後に中央銀行が買いオペを行った場合,通貨供給量が増える(※5)。とくに,中央銀行が買いオペを行った場合は,銀行全体として超過準備預金も増えていく。銀行が国債を引き受け,その国債を中央銀行が買いあげることで赤字財政が可能になるというこのしくみは,事実上の財政ファイナンスと言ってよい。

 買いオペを行う際に中央銀行が銀行に対して行うのは,信用供与(貸し付け)ではなく信用代位である。つまり,国債を購入することで,銀行に代わって中央政府に対する債権者となるのである。買いオペ超過による事実上の財政ファイナンスを行うと,財政赤字の金額に対応して中銀当座預金も増えていく。そうすれば,その金額が法定準備を超えて,各銀行の超過準備となる可能性は極めて高くなる。つまり,超過準備が発生する根本的な理由は財政赤字なのである。中央銀行から見れば,この超過準備は,中銀の信用供与で発生したものではない。だからこそ,中銀にとってコントロールが難しいのである。


(2)金融調節において超過準備はどのように作用するか:中銀当座預金付利の根拠

 まず,金融緩和の場合である。今日,金融緩和の効果は,金融危機の広がりを抑止する際には有効であるが,景気対策としては先進諸国では限界に達しており,ゼロ近傍への金利誘導をせざるを得ない局面が生じる。ところが短期金利がゼロになると超過準備が不確定・不安定な動きをし,短期金融市場が著しい緩和とマヒのどちらになるかもわからなくなる。それを防ぐために,中央銀行は,超過準備の有利子での運用方法を人為的に設定しなければならない。つまりは,運用してもらうために中央銀行が超過準備を借り入れねばならない。それが超過準備預金への付利である。

 次に金融引き締めの場合である。金融引き締めというのは,短期金利を高め誘導することであるが,今日,中銀の貸し付け金利を操作することではそれは到底なしえない。したがい売りオペレーションを行うか,中銀保有の国債が満期になっても新規購入は行わないという形で引き締めを行うことになる。ところが,金融引き締めに比して財政赤字の縮小には政治的困難が大きく,またそれが可能だとしても実施の速度は遅い。国債は市場に累積したままであって,追加で発行すらされてくる。こうなると,中央銀行は売りオペや満期後の買い替え停止を一定以上の規模では行なえなくなる。国債価格の急落と長期金利の急騰によって,景気の底割れを招くからである。

 国債の信用を毀損せずに金利を高め誘導しようとすれば,中央銀行自身が高い金利を付けて借り入れを行うしかない。それがすなわち超過準備預金金利の引き上げである。

 要するに,財政赤字に起因する超過準備が膨れ上がっている今日においては,中央銀行が金融調節を行おうとすれば,超過準備を自ら借り入れ,その際の金利を指標とせざるを得ないのである。これこそが,中銀当座預金に付利が必要となる根拠である。中央銀行が当座預金に付利せざるを得ないことの根源は,中央政府が財政赤字を恒常化させ,中央銀行が量的緩和による事実上の財政ファイナンスを行っていることにあるのである。


3.中央銀行の業績悪化は,財政赤字累積と財政従属のコストである

(1)結論

 以上の考察に立ってみれば,超過準備とは,財政赤字が恒常化し,中央銀行の財政従属がある程度進んだことの現れである。そして,中銀当座預金への付利とは,財政赤字の隠れたコストと見ることができる。

 現代の成熟した資本主義は,資本主義世界の外延的拡大や技術体系の大転換に恵まれた時期でない限り,需要不足に陥る傾向をもっている。そのため金利は傾向的に低落するが,そこにはゼロという限界がある。したがい,需要創出を恒常的な財政赤字に依存せざるを得ない。そして,中央銀行は国債消化ために中央政府と強調せざるを得ず,短期金融市場での金融緩和に加えて,国債買い上げによる量的金融緩和に踏み込まざるを得なくなる。これは事実上の財政ファイナンスである。

 財政赤字は,完全雇用を実現して需要不足を解消し,市場の失敗を補正して公共財を供給し,経済を活性化させる可能性はあるが,よく知られているようにインフレ,バブル,為替レート下落というリスクも伴う。これらのリスクを管理するためには,必要な際に財政の引き締めや金利の引き上げを行わねばならないが,政治的・行政的な困難から金利の引き上げに手段が偏りがちになる。中央銀行は国債を大量売却することなく金利を引き上げねばならず,中銀当座預金の金利を引き上げることになる。しかし,このことは中央銀行の業績を悪化させる。この利払いや中央銀行の業績悪化は,財政赤字累積と中央銀行の財政従属のコストであり,中央政府による財政赤字コントロールの困難のつけを中央銀行が引き受けるものなのである。

 中央銀行の業績悪化はどこに導くか。このことは以前にも考察したが,政治的要因や金融市場の不安定性を伴うために,一義的に予測することは不可能である。しかし,あまり空想的にならない程度に考えておこう。

 以前に考察したように,原理的には,中央銀行は業績が悪化し,債務超過になってさえもオペレーションを続けることは可能である。しかし,金融市場と政府,議会で全く問題にされないとは考えにくい。まず,多くの国では,中央銀行の収益は中央政府に納付されている。業績悪化は納付金の消滅を意味するので,それ自体が政府財政の赤字要因となる。また中央銀行が債務超過に至るほど業績を悪化させると,信用秩序維持能力への疑義を呼び起こすだろう。しかも,この時,財政赤字はおそらく質的には十分な効果をあげること,つまりインフレなき完全雇用の達成に失敗しており,量的には引き締めが出来ずに歯止めなく膨張している可能性が高い。もともとそのような場合にこそ,インフレ対策として金利引き上げへの依存が起こるからである。

 つまり,中央銀行の業績が悪化する場合には,独立性を持った中央銀行による通貨価値の安定と,財政民主主義による完全雇用,経済成長,公共財供給がいずれも機能していないと疑われる状況が発生すると予想されるのである。これは,赤字財政政策が機能しなかった場合の,一つの負の到達点とみなさざるを得ない。経済学においては,財政政策が失敗した場合のリスクとして,悪性インフレという通貨価値の崩壊が古くから認識されている。しかし,それと並んで,中央銀行の独立性と財政民主主義という制度が破綻の危機に瀕することを,想定しておくべきではないか。

 準備預金金利の引き上げは,ただちに経済危機を引き起こすわけではない。しかし,制度の危機に向かって一歩近づくリスクがあることを認識しておくべきではないだろうか。大風呂敷に過ぎるかもしれないが,問題提起としておきたい。


(2)残された課題

 本稿では準備預金付利に考察対象を絞った。しかし,財政赤字に起因する通貨膨張が金融調節に際して中銀にコストとリスクを課す経路は,他にもあると考えられる。例えば,2022年から2023年にかけて急速に膨張した米国のリバース・レポ取引の金利にもそのように考えるべき根拠はある。しかし,こちらは銀行の信用創造とは別に,証券金融による金融仲介が発達したこととも関係しており,財政赤字にのみ出発点を求めることは適当ではないかもしれない。別の機会に論じたい。


※1 「日銀の業績が悪化するとどのような問題が起こるか:準備預金への付利に関する考察(1)」Ka-Bataブログ,2022年11月16日。


※2 「超過準備維持・金融緩和・国債消化:準備預金への付利に関する考察(2)」Ka-Bataブログ,2022年11月19日。


※3 中銀当座預金が無利子であっても,銀行全体が,自分のポートフォリオ選択によって超過準備を持たなくなることはありえない。ある銀行が,利子のつかない超過準備預金A円を持つことを嫌って別の資産での運用を図るとしようすると,当該資産の売り先にA円が振り込まれ,売り先の取引銀行が持つ準備預金がA円増える。預金が引き出されて現金になることはあるが,銀行セクター全体としての「準備預金+手持ち現金」は増減しないのである。各銀行のポジションの違いにより超過準備とみなされる部分は増減し得るが,銀行セクター全体としての変動幅は一定範囲に収まるだろう。

※4 ここでは金融システムを通した貨幣供給を内生的に理解している。発券集中を伴う管理通貨制において,政府財政を捨象して金融システムのみを考察するならば,預金貨幣は銀行が信用供与したことによって発生するものであり,中央銀行当座預金は中央銀行が信用供与したことによって発生するものである。中央銀行券とは,預金貨幣の一部,またそれと同額の中央銀行当座預金の一部が引出されることによってのみ発行される。

※5 ここでは信用貨幣論に基づいて,財政赤字を政府による自己宛て債務の発行,すなわち通貨供給量(マネーストック)の増大と理解している。国債を銀行が超過準備で引き受けた場合や中央銀行が事後に買い取った場合は,この増大は相殺されないので通貨供給量は増えたままになる。対して,証券会社や法人企業,家計などが買い取った場合には,それによるマネーストック減が,財政赤字によるマネーストック増を相殺する。


信用貨幣は商品経済から説明されるべきか,国家から説明されるべきか:マルクス派とMMT

 「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。 https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/daa72c2f544a4ff93a2bf502fcd87...