文部科学省が公表した2022年度学校基本調査(速報値)によれば,2022年度に大学院博士課程に在籍する学生数は7万5267人で,2年連続で減少したとのこと。減少数は28人に過ぎないのだが,学部は6722人,修士課程は3696人増えたのと対比すると,やはり博士課程の不人気は目立つ。その理由は,キャリア形成の展望が見えにくいからである。
問題は理工系と文系,また企業就職希望と研究者志望で異なってくる。ここでは文系の大学教員志願者を念頭において,博士課程の院生がキャリア形成上直面する困難をとりあげたい。文系の場合,企業への就職も徐々に増えてきているとはいえ,依然として大学教員になることが博士課程院生の主要なキャリア・パスだからである。
1.訓練は3年で足りないが,資金援助は3年しかない
文系の博士課程修了者が大学教員になろうとする場合に直面する問題を端的に言うと,「教員として採用される水準に達するまでの訓練は3年では足りない」が,「資金援助は3年分しかない」という矛盾に突き当たることである。この矛盾を解決するには,留年者にでもポスドクにでもいいから,あと2年分の資金援助が必要だというのが私の意見である。
以下,説明が長いので関心ある方のみご覧いただけると幸いだ。なお,文系でも分野により,大学により事情はいくらか異なるかもしれないので,「経済・経営系ではかなり見られる話」というくらいに受け取っていただきたい。
2.文系の博士課程院生は何を求めらるか:「3本」から「博士論文+査読付き3本」へ
現在,文系で,任期付きであれ何であれ,授業を行う大学教員として採用されるには,1)博士の学位を取得していることと,2)査読付き雑誌に一定数の論文を単著で3本程度書いていることが必要である。ちなみに,2)の理系との違いは,日本語で書かれた国内誌でも認められる一方で,単著でないと実力を認められないことである。文系では,理系に近いとみなされる分野以外では「最終著者」,すなわち指導教員が連名の最後に名を連ねる習慣がなく,指導教員は,相当手をかけて院生を指導した結果の論文にも,名前を連ねない。
資金の話はいったん脇に置くとして,文系の場合,業績としてはこの1)と2)を博士課程の所定年限である3年で満たすことを要求される。博士論文を書くのは博士課程なので今では当然として(かつては違ったことをすぐ後で書く),同時に3年の間に査読付き雑誌に単著で,かつ数理化されていない分野では10-30ページに及ぶ論文を3本程度出さねばならないのである。正直,これはあまりに過酷であり,相当の割合で達成することはできず,4年か5年かけることになる。
当ゼミの例でも,博士課程修了者(見込み含む)11名が要した在学期間の平均は4.2年である(このほかに休学期間がある)。そして在学中に3本の論文を掲載可までもっていった院生は,記憶の限り1人だけ,2本掲載可に至ったのも5人である。3本書けない院生は,せめて博士論文と査読付き1本と国際会議1本などという風に妥協することになるのである。
もちろん,建前としては博士課程は3年で修了すべきであるし,大学はそのように指導すべきだということになっている。だが,無理なのである。その理由を,過去との対比で説明しよう。
かつて日本の文系では,博士とはライフワークとなる分厚い書物により,論文博士として取得するものであった。課程博士はめったにとれなかったのである。逆に言えば,博士でなくても大学教員になれた。ただ,もちろん研究能力を証明しないとなれないのであり,博士課程では博士論文は書かずに,学術論文を3本程度書くことに集中したのである。私の恩師である金田重喜教授は,院生の顔を見るたびに「30歳まで3本書かんといかん」というのが常であった。1人当たり年に30回ほど言われるのでげんなりしたものだが,結局のところ3本書いた院生の就職率はそうでない院生より圧倒的に高かったので,「金田の法則」と名がついたほどであった。私も博士論文など夢にも思わず,「30歳まで3本」の強迫観念にとりつかれ,内容はとにかく無理くり執筆した。
1990年代に大学院重点大学が登場し,予算が増える代わりに,それまでごく少数しか入学させていなかった院生を定員通りにとることとなった。また,制度に即して3年できちんと修了させねばならないということにもなった。そのため,博士論文の基準は,さすがにライフワークではまずかろうと,論文3本分くらいの,公表に耐えるものくらいに調整された(大学により異なる)。わかりやすく長さで言うと,A4×100ページ前後の博士論文も増えた。
しかし,問題は,「30歳まで」かどうかは別として(いろいろな年齢の院生が増えたので),院生が博士課程在学時に査読付き論文を書かねばならないという制約はまったく変わらなかったことだった。むしろ,大学紀要でなく査読付き雑誌に載せるべきだとされた点ではハードルは上がった。
なぜ変わらなかったかと言うと,論文がないと就職活動に参戦もできないからである。私の感触では,教員に公募して門前払いされないためには,最小限3本の書き物(すべて論文でなくても,せめて国際会議ペーパーや査読付きプロシーディングなどあわせて3本)が必要だった。院生は,3年間の間に,多少は簡単になった博士論文を書くと同時に,学会や国際会議で報告をし,ディスカッションペーパーを書き,改訂して査読付き論文を雑誌に,できる限り3本掲載しなければならなくなった。
ハードルは上がったが,挑戦する院生の側の条件も変わった。以前に比べ「3度の飯より研究優先」のような人々ばかりではなくなったのである。パートナーや子どものいる者,親を介護する者,社会人からの鞍替え組,ビジネスパースンの道も残しておきたい留学生など,研究以外のことも考えて,よりまっとうに毎日を送らねばならない人が増えた。
新世代の院生に「3本」の代わりに「博士論文プラス査読付き3本」を3年間で要求することは,到底無理であった。したがって現実的には妥協するしかなく,5年かけてこれを達成するか,あるいは博士論文と査読付き1本程度を3年で書き,あとはポスドクになってから論文執筆をするとか,そういうやり方になることが多かった。
3.資金問題:支援年限の3年期限と有給ポスドク職の少なさ
さてここで資金問題が入る。院生に対する政府・留学生の母国政府・大学・民間の各種奨学金は,ここ数年で急速に充実してきてありがたい限りである。しかし,これらはほとんど所定年限,つまり3年しか支給されない。院生は留年するとたちまち経済的に困窮するのである。
そして理工系に比べて致命的なのは,文系では有給ポスドク職が極端に少なく,大学院を修了しても,やはり困窮するということである。有給ポスドク職にはいろいろあるが,多くの場合,組織やプロジェクトの「研究員」となって研究に専念するものである。もっとも待遇がよいのは給料と研究費が両方もらえる学術振興会の特別研究員PDであろう。しかし,これらのポストは数が少ない。1996-2000年に「ポストドクター等1万人支援計画」なるものが実施されたはずであるが,その効果は文系に限ってはほとんどなかったと言ってよい。いや,もちろん少しはポストが増えただろうが,大学院重点化により,博士の方がそれより増えたのである。当研究科では,やむを得ず無給の「博士研究員」という資格をつくって,仕事のない博士が大学に籍を置けるようにしている(博士を取得した留学生の場合,このような何らかのポスドク資格がないと,日本にいることもできなくなる)。
こうなると,いよいよもって教員は「3年の間に博士論文と査読付き雑誌3本掲載を目指せ。そうしないと経済的にたいへんなことになるぞ」という過酷な要求を院生につきつけねばならない。しかし,「3度の飯より研究優先」の院生でもそれは難しいし,そうでなく子育てや介護をしている院生にはいよいよ無理である。やらねばたいへんだが,できるはずがないという悪循環である。
4.「任期付き大学教員」以前の問題
これが,「期限付き助教」になる以前の話であることに注意してほしい。大学教員職が期限付きの職に偏り,雇用が安定しないという話は既に広く知られている。それはそのとおりであり,いまさら私が言うまでもない。ここで言いたかったのは,期限付き助教になる以前に,これほどの困難が,研究者志望の博士課程院生の前に立ちふさがっているということなのである。
確かに,ポスドクを乗り切れば,期限付き助教の職や,テニュア・トラック助教の教員職はそれなりにある。しかし,大学全体が人手不足になっているため,助教にも授業をしてもらうことが多い。そして授業をしてもらうとなると,1)博士の学位と2)査読付き雑誌3本程度は必須なのである。このハードルを,資金援助を得られる期間内にクリアすることが難儀なのである。ハードルを回避する方法もないではないが,3)非常勤講師歴が豊富であることや,4)一度,民間のリサーチ職に就いていること,などになるので,大学でずっと研究に専念してきた若者にはなかなか満たせない。
5.まとめ
長々書いてきたが,要するに教員になるために必要な訓練期間は3年を超えるのに,資金援助が得られるのは3年だという矛盾が,文系の博士課程院生を苦しめているのである。正直に言って,あと2年分,つまり1人につき3年でなく5年の研究生活について資金援助がなければ,文系の研究者を育て続けることは難しいだろう。留年者への支援でも有給ポスドク職でもどちらでもよいからこれが必要だというのが私の意見である。
「『博士離れ』浮き彫り、学生2年連続減 就職状況厳しく」日本経済新聞電子版,2022年8月24日。
「学校基本調査-令和4年度(速報) 結果の概要-」文部科学省ウェブサイト,2022年8月24日。
<続編>
「研究活動と就職活動が競合する前期課程院生の現実:当人の苦悩と教員の苦悩」Ka-Bataブログ,2023年8月24日。
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