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2025年7月9日水曜日

信用貨幣論から見た金融・財政の制度とオペレーション:ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年を読んで

  ポール・シェアード氏と言えば,日本では1990年代に『メインバンク資本主義の危機』で話題になったエコノミストであるが,今度の日本語訳本は貨幣論である。しかも,現代の貨幣は統合政府の債務であるとする信用貨幣論である。

 その主張を一言で言うと,「長期経済観や政治的インプリケーションを取り除いたMMT」といった趣である。ランダル・レイ『MMT 現代貨幣論入門』と類似のことを,ただしより金融制度論の教科書風に体系立てて漏れなく述べたという感じである。貨幣の起源論はごくさらりと流しており,中央銀行,中央政府,中央銀行,商業銀行のオペレーションに関する記述は信用貨幣論,とくに預金貨幣論に基づいている。長期経済観や政治的インプリケーションはないというというかやや保守的である。例えば再分配政策はほとんど無意味であり,富裕層が資産として保有している株式が企業価値を支えていることは尊重せざるを得ないとしている。この本の推薦者が,一方ではステファニー・ケルトン氏(『財政赤字の神話 MMT入門』著者)であり,他方では新浪剛史氏(サントリー・ホールディングス代表取締役会長)や宮内義彦氏(オリックス・シニアチェアマン)であることは,本書の性格を適切に表示している。

 実務的で淡々としている本書であるが,一つの積極的主張は統合政府論である。中央政府と中央銀行は本質論(著者の表現では「エデンの園」。邦訳41ページ)ではもともと一体なのあり,制御不能なインフレーションを抑止するための制度的工夫として両者が分離されているにすぎないというのである。中央銀行・銀行とともに,中央政府もまた貨幣供給主体である。中央政府の財政支出とは通貨供給であり,預金を増やし,準備預金も増やす。著者によれば,本質論としては,政府預金の残高をマイナスとしたまま,言い換えれば政府を債務超過にしたままでもよい。国債発行は必然ではないのである。しかし,制度的工夫として中央政府と中央銀行,財政機能と金融機能が分離していることにより,多くの場合,政府には国債発行による政府預金残高確保という制約が課されている。国債を発行した場合は準備預金が減るので,財政支出によって増加することと相殺される。ただし,この場合も預金貨幣は増えているので,政府は貨幣を供給しているのである。

 統合政府論の政策的インプリケーションは,金融政策と財政政策の境目があいまいになっていくということであり,それに応じて制度的枠組みも金融と財政を一体にすべきであろうということである。ただし,それは財政を徹底拡張するということでは必ずしもない。なぜならば財政は経済の尻尾であり,実体経済が犬であって,尻尾が犬を振り回してはならないからである。「物理的・人的・技術的・社会的資本の量と質を反映した経済の生産能力」(邦訳294ページ)を確保・拡大することが大事である。それなしに金利低下,さらに量的金融緩和をいくらやっても大した効果はなく,財政を拡張してもインフレになるだけだというのである。

 さて,私は,現状の制度的枠組みとそのオペレーションに関する理解については,シェアード氏にほぼ同意するし,理論的に冷静に論じられている限りMMTにもほぼ同意する(運動家が意見の異なるものを短文で罵倒する限り同意しない)。つまり,大きく見れば現状の説明について,1)信用貨幣論と2)銀行-中央銀行の二重システム論に立つ。低成長下においては銀行システムだけではなく財政システムも必要な通貨は供給して需要を刺激しなければならない。しかし,肝心なことは生産能力の量と質を充実したものにすることである。その「質」については人によって意見が違うので議論がひつようである。しかし,どの方向であろうと,一方では均衡財政は無意味である。他方で,内容抜きに,財政を拡張し,金融を緩和し続ければよいというものでもない。このような財政と金融のオペレーション原理については,シェアード氏にもMMTにも私は同意できる。

 問題は,こうした制度的枠組みとオペレーションのもとで,21世紀の先進諸国においては,金利調節がいっこうに効かずに量的金融緩和に追い込まれ,それでも流動性確保以外の効果がほとんどないのはなぜなのかである。財政赤字を継続的に出しても経済格差と貧困が緩和されず,コロナが収まった瞬間にインフレになってしまうのはなぜなのかである。シェアード氏には,歴史的局面として現在を把握する視点がない。むしろ,格差は単に実力と運の産物だったと言いたいかのようである。しかし,そうではなく,成熟した資本主義の歴史的傾向の到達点として現在をとらえるべきだと私は思う。これにはいくつかの側面がある。

 第一に経済発展により,工業社会は脱工業化社会に移行する。そうすると,投資は生産設備とインフラストラクチュアへの投資から,ハードだけでなくソフトウェアが大きな割合を占める情報システムへの投資,人的資源への投資に移行する。このことは投資需要の量的成長を減退させる。

 第二に,長期傾向としては,供給能力不足の経済から供給能力過剰の経済に移行する。格差と貧困を伴いつつ,平均的には生活水準が上がる。そうすると,相対的高所得層では所得が増えた場合に家計の消費に充てる部分,つまり限界消費性向が下がる。小野善康氏が述べるように,消費ではなく貯蓄,それも金融資産購入に充てる割合が高まっていく。その一方で,中低所得層は所得そのものが伸びない。そして,それ故に需要不足・供給過剰が慢性化する。

 第三に上記二つの傾向を目にした企業経営者は,たとえ利潤が計上できても設備投資をしなくなる。家計だけでなく法人企業が投資不足により資金余剰セクターになってしまう。余剰資金は国内では流動性としての現金や,金融資産に回ってしまう。設備投資がなされるとしても,新興国への直接投資に向かう部分が大きくなる。

 経済発展の結果として,生産能力に対する設備投資と消費が不足して不況への傾向が生まれる。実現できた所得が金融資産に投下されればバブルになる。好況があってもすぐバブル化してしまい,その反動で金融危機が生じやすくなるのである。

 第四に,移民によって補充されない限り,資本主義の成熟局面では人口が減少し,また人口構成が一時期は高齢化するということである。そのことにより,社会保障の需要が不可避的に増大する。これを営利ビジネスに委ね切ることはむずかしく,公的支出によって支えざるを得ない。したがい,人口減少期においては財政支出に占める社会保障支出の割合は拡大し,その支出は景気循環に関わらず必要となる。

 第一,第二,第三の要因によって,景気循環に対するバブルの影響が大きくなるとともに,不況の際の需要不足は深刻化する。金利調節では反転させることができず,財政支出によって対応するしかない。貯蓄(遊休貨幣)を課税によって吸収することもある程度は可能であるが,資本主義が民間主体の自由な支出決定に依拠したシステムである限り,これには限度がある。そのため,政府は財政赤字を一定程度出して貨幣を供給し,不足する需要を作り出すことになるのである。この際,第四の要因が,財政赤字の幅を拡大し,恒常化させる方向に作用する(※1)。

 だから,私の意見では,財政赤字の恒常化は,資本主義の成熟に伴う不可避の傾向である。財政赤字を出すか出さないかと言う二択については,よいか悪いかの問題ではなく,選ぶことができる問題でもない。ある程度の財政赤字は出ざるを得ないのである。それが嫌なら均衡財政で慢性大不況の社会を独裁権力を持って統治する,あるいは資本主義を直ちに廃止することになるが,まず現実的でない。問題は,悪性インフレを起こさないという制約条件の下で,財政赤字という名の通貨供給をどの程度,どのような内容で,どのような利害関係に沿って,どのような手続きで行うかなのである。その目的は生産能力の量と質の維持・充実であり,有効活用でなければならない。

 その「量と質」については人によって意見が違う。私は小野善康氏とともに失業こそが生産能力の最大のムダであり遊休であることについて注意すべきと思うが,そこまで思わない人もいるかもしれない。私は地球温暖化防止を前提にして豊かな暮らしを追求すべきであり,個人消費や教育・医療・福祉経済の充実や環境対策や老朽インフラストラクチュアの更新や再生可能エネルギーを重視すべきだと思うが,人によっては輸出中心の先端産業や金融センターや軍備拡大や原子力発電の育成が必要であり,個人の所得を豊かにすれば,医療・福祉費用の増大には自己責任で対応できるというかもしれない。シェアード氏にはまたそれなりの意見があるだろう。そこは議論すべきだ。1981年に刊行された『現代資本主義と国家』の中で,宮本憲一氏は現代資本主義国家の三類型として「軍事国家」,「企業国家」,「福祉国家」をあげた。その後の新自由主義的潮流の下でこの類型化はあまり普及しなかったように思うが,財政赤字=中央政府による通貨供給それ自体は結局不可避だということが明らかになりつつある今日,再評価されるべきだろう。大事なことは,財政赤字=中央政府による通貨供給の中身であり,それによって経済をどのような方向に動かすかなのだ。

 こうした歴史的文脈においてみた場合,シェアード氏が言う,財政政策と金融政策の境目のあいまい化は,確かに必然傾向であるようにも見える。ただし,ここで「エデンの園」への見方の違いが,原罪への見方の違いとなって生きてくる。シェアード氏は,またMMTなどの論者はよりいっそうそうだが,中央銀行はもともと統合政府の一部だと考えている。私は,それには反対である。

 中央銀行は,もともと「銀行の銀行」であって,銀行の原理によって動いているものである。中央銀行当座預金も中央銀行券も信用貨幣である。信用貨幣であるということは支払い約束だということであり,請求権だということである。現代の中央銀行は中央銀行券を突きつけられて「債務を返済せよ」と言われても金貨や金地金で払うことはない。ここまでは,私はシェアード氏やMMT論者とまったく同意見である。問題は次である。金兌換に応じない中央銀行は,そのかわり,支払い請求が押し寄せることがなく,また人々が中央銀行券を信用せず屑籠に放り込まないようにする必要がある。そのために通貨価値を維持しなければならない。通貨価値を維持するとは,財政支出の過剰によるインフレーションを防止し,景気過熱による物価高騰を抑止し,為替レート暴落によるコストプッシュ的物価高騰を防ぐことである(※1)。これらは,中央政府と区別された中央銀行の本来的使命である。これらの使命は,中央銀行が政府の附属物であることに由来するのではなく,「銀行の銀行」であることに由来する。私はこのように考える。私はこの主張によって信用貨幣論を修正しているのではない。逆である。シェアード氏よりもMMTよりも信用貨幣論を徹底するとこうなるというのが私の見解である。

 確かに現実において,財政政策と金融政策の相互浸透は不可避なように見える。シェアード氏が政治的立場を交えずに述べているだけに,そこは本書に説得力のあるところだ。しかし,通貨価値の維持という中央銀行の本来的使命はもっと重く見ておくべきだろう。

 シェアード氏は,長期的歴史観の提示や政治的価値判断を最小に抑えたうえで,制度とオペレーションを正確に理解する見地から現代の貨幣と金融機構を解説された。そのことにより,信用貨幣論の主張の一部が特定学派に由来するものでなく,むしろ実務の素直な理解によるものであることを明らかにしてくれた。これは本書の功績である。しかし,その同じく制度とオペレーションに徹する見地から来る物足りなさと,ごくわずかに本質論に立ち入ったところでの統合政府論に由来する問題は見過ごしてはならない。今日,財政拡張を主張する政治勢力は数多い。それに対してなすべきことは,財政均衡をあるべき姿として緊縮を主張することではなく,財政支出の在り方について選択し,よく考えることである。財政赤字=中央政府による通貨供給がどのような制約のもとにあるかを踏まえ,どのような水準と内容でこれを実施し,それによってどのように経済を動かすのかを論じるべきなのである。本書にはこの水準と内容への手掛かりはない。ただし,読者は本書を踏み台にすることで,手掛かりを見つけるために自分の頭を一つ高い視点に置くことができるだろう。

ポール・シェアード(藤井清美訳)『パワー・オブ・マネー 新・貨幣入門』早川書房,2025年。

https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0005210432/


2025年7月4日金曜日

河野龍太郎『日本経済の死角 収奪的システムを解き明かす』筑摩書房,2025年の核心的主張

 河野龍太郎氏の著作は,多方面に目配りが行き届いている。しかし,その分だけ叙述は錯綜し,言いたいことは必ずしもわかりやすくない。そのため,内容の核心的なすじみちを読者の側が読み取ることが必要である。

 前の前の著作『成長の臨界』は学部ゼミで読んだが,個々のパーツは大変勉強になる一方,全体のメッセージは,著者自身が要約に失敗しているのではないかと思うところがあった。著者自身は,腹を膨らませすぎて破裂したカエルのたとえで,物質的成長至上主義に向かっている政策とシステムが,現代のテクノロジーと合わないのではないかというメッセージを送っていたのだが,それが著作自体の叙述の中身とは合っていないように思われた。

 対して今回の『日本経済の死角』は,著者の自己認識が叙述とぴったり合っているように思う。そのテーマは,サブタイトルが示すとおり「収奪的システムを解き明かす」である。強引に言うならば,本作が言いたいことは,167-168ページの以下の記述に集約されると思う。

 「長期雇用制の枠外にいて,定期昇給の恩恵もほとんど受けることができなかった人々は,過去四半世紀の間,属人ベースでみても,実質賃金の増加が限定的だったことは,これまで詳しく見てきた通りです。それでも何とか暮らしてこられたのは,コミュニティの存在など,様々な要因があるとはいえ,消費者余剰の大きな日本では,あらゆる財サービスが割安に供給されていたことも大きく影響していたと思われます。

 しかし,その前提は2022年からの円安インフレを機に大きく崩れました。価格ばかりが上がって,消費者余剰が著しく低下し,賃金の引き上げが追いついていないから,人々の暮らしが脅かされています。それが,日本でもアンチ・エスタブリッシュメント層が形成されつつある原因ではないでしょうか」。

 収奪的なのは,富と所得が広く行き渡らずに大企業に集中するシステムであり,そうして停滞する市場を悲観した大企業が国内で設備投資をせずに守りの経営に走るシステムである。本書の核心はこのように読むべきだと私は思う。


河野龍太郎『日本経済の死角 収奪的システムを解き明かす』筑摩書房,2025年。
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480076717/




2025年3月7日金曜日

「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」完成版が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました

  論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」が研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。

 学説史的には二つのことを言っています。

*戦前から活躍していたマルクス経済学者である岡橋保の信用貨幣論は実は正しかった。近年唱えられている諸々の信用貨幣論よりも妥当なところが少なくない。

*日本銀行や全国銀行協会出身の研究者が,実務を論理化しようと出された著作群は,上記の岡橋説と類似しており,やはり基本的に正しかった。

 理論的には,以下のことを述べています。かなりの部分が,多数説に反しています。

*銀行の基本的機能は金融仲介ではなく,信用創造である。

*信用創造による貸し付けとは,商品流通に必要な貨幣の新規供給である。

*返済とは,商品流通に不要な貨幣の退出である。

*当座性預金は支払い手段として機能する限り貨幣の一種である。

*預金貨幣も中央銀行券も手形債務である。既に存在する現金を借りたことによる債務ではなく,支払い約束である。

*預金貨幣も中央銀行券も手形債務であり,信用貨幣である。金債務ではない。金債務ではないから,管理通貨制になっても信用貨幣のままである。

*預金は,誰かが現金を銀行に預けたときに生まれるのではない。銀行が貸付を行った際に生まれる。

*銀行券が発行されるのは,預金が引き出されることによってである。

*預金貨幣と銀行券は金貨でもないし兌換紙幣でもないが,商品流通の必要に応じて流通に入り,また出るという伸縮性を持つ。

*銀行部門全体にとっての準備金は,結局は中央銀行によって供給される。銀行が社会から集めた預金によって確保されるのではない。

*通貨価値が安定している限りにおいて,中央銀行は準備金を必要としない。

*民間金融システムによる信用の膨張だけでは,物価上昇は起きても厳密な意味でのインフレーションは起きない。

*マルクス経済学にも外生的貨幣供給説と内生的貨幣的供給説があり,金融システムについては内生的貨幣供給説が正しい。

researchmapからダウンロードいただけます
https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

3/19追記。DOIが付き,東北大学機関リポジトリTOURからもダウンロードいただけるようになりました
https://doi.org/10.50974/0002003359






2025年1月7日火曜日

「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」ディスカッション・ペーパー版公開にあたって

 「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」をTERG Discussion Paper 492として発表しました。このブログでも書き連ねてきた内容ですが,考察を重ねて修正し,先行研究との対話を加えて学説的位置を明確にしました。researchmapからダウンロードいただけます。

 本稿は,マルクス派貨幣論に基づいて,物価変動の種別を解説しています。教科書的解説ですが,念頭に置いているのは「物価は上がっているがデフレから脱却していない」「コストプッシュインフレが続いているが,物価上昇目標は大事」といった混乱した議論を解きほぐしていく基準を設定することです。

 私は,「いろいろなことが一回りして,昔の理論の良いところが再評価されるべき時に来ている」と思っています(もちろん,だめなものがだめなままなところもあります)。マルクス派貨幣論,とくに信用貨幣論はその一つです。それは政治的価値観の問題ではありません。インフレ,デフレを名目的な物価上昇と物価下落として厳密に定義することが,そうではない物価上昇,物価下落との区別を明確にして,それぞれの真のメカニズムを探る道を拓くと思うからです。

 しかし,マルクス派貨幣論による物価論を再評価するには,二つの議論を乗り越えねばなりません。それは信用インフレーション論と独占価格インフレーション論です。もともとマルクス派の物価論は,代用貨幣の外生的投入によってインフレーションが起こるという貨幣的インフレ論でした。持続的物価上昇ならすべてインフレと呼ぶ日常用語とは異なっていたのです。ところが年輩の方ならご記憶のように,高度成長期に,財政赤字の額は大きくないのに物価が持続的に上昇するという現象が起こりました。このとき,近代経済学だけでなくマルクス経済学でも,これらを新種のインフレーションとして定式化しようとする動きが起こったのです。その中でもっとも理論的に整っていた議論の一つが,川合一郎氏の信用インフレーション論でした。銀行信用の拡張からもインフレーションが起きるという説です。もう一つは,高須賀義博氏の独占価格インフレーション論でした(高須賀氏自身は,当初は「生産性格差インフレーション」,後には「相対的価格調整機構」と呼んでいました)。一般商品部門での価格引き上げによる事実上の価格標準切り下げと,金生産部門での公定価格水準の据え置きによる不等価交換が新たなインフレの本質だとする議論です。両者は鋭い現実感覚と理論的体系性によって一世を風靡しましたが,結果として,マルクス経済学のインフレーション概念を広げ過ぎて,日常用語の「持続的物価上昇はみなインフレ」論に近づけてしまったと思います。

 私は日本経済論の講義をしてアベノミクスを扱っているうちに,「金融緩和ではインフレは起きないのではないか」「そもそも日本はデフレだったのか」と疑い,古い貨幣的インフレーション論の方が正しく,政策的論争の混乱を解きほぐすのに役に立つのではないかと考えるようになりました。とはいえ,いまどき古いマルクス派の議論に注目して,わざわざ説明しなおす人はほとんどいませんし,信用インフレ論や独占価格インフレ論にわざわざ反論する人もいません。だから私がやろうということです。ご笑覧いただければ幸いです。


PDF直リンク(researchmapサイト)
https://researchmap.jp/read0020587/misc/48869037/attachment_file.pdf

関連論文

「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」TERG Discussion Paper, 489, April 2024.→2025/3/7追記。研究年報『経済学』第81巻に掲載れました。 https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

「貨幣分類論」TERG Discussion Paper, 490, September 2024.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170






2024年11月25日月曜日

財政赤字に伴う国債発行をどのように把握するか:「二層の銀行・政府」モデルの提示

 1.切り口としての「財政赤字と金利上昇圧力」

 先に「財政赤字に伴う国債発行はクラウディング・アウト効果を持つか」,より原理的には「財政赤字に伴う国債発行は金利上昇圧力を発生させるか」という問題についての拙論を修正することを表明し,ブログにも掲載した(※1)。これは実は,金融・財政システムの双方を「通貨供給システム」と把握しようとする研究構想の基本部分とかかわっている。この研究構想は,通説・通念とも現代貨幣理論(MMT)とも異なる通貨供給システム論を提示しようとするものである。

 問題を明瞭にする切り口として,財政赤字と国債発行のオペレーションが金融市場に与える影響を通説・通念,現代貨幣理論(MMT),拙論について対比すると以下のようになる。なお,ここでは追加の貨幣供給はともあれ有効需要を生み出すと仮定しており,その有効性を左右するより財市場や労働市場の具体的な条件は考察の外に置いている。

 まず経済学の「通説・通念」において,国債発行とは,国が民間からお金を借りることである。財政赤字とは,借りたお金での支出である。この点だけを見れば,政府は国債発行により民間から資金を吸い上げ,財政支出によりまた民間に戻しているに過ぎない。それでも有効需要を増やせることがあるのは,民間の遊休資金を借り入れ,支出によって需要に転じる場合である。この時,金融市場は需要超過となって金利に上昇圧力がかかる。

 続いてMMTにおいては,財政赤字とは統合政府による新規の預金貨幣発行である。赤字支出とは,貨幣の追加発行によって有効需要を生み出すものである。預金貨幣が増えれば準備預金も同額だけ増え,超過準備が生まれる。統合政府は通貨発行権を持つので,国債発行による資金調達は本質的には必要ではない。国債発行が果たしているのは,新規に生まれた超過準備に対して運用先を提供することである。金融市場の需給は変動せず,金利に上昇圧力はかからない。

 最後に私見によれば,財政赤字とは中央政府による新規の預金貨幣発行である。赤字支出とは,貨幣の追加発行によって有効需要を生み出すものである。しかし信用貨幣を発行するのは中央銀行でなく政府であるため,政府はこの支出のために,国債を発行して中央銀行預金貨幣を調達しなければならない。政府は国債発行により,市中からは資金を吸収しないが,銀行の準備預金から中央銀行預金貨幣を吸収する。一方,財政支出により預金貨幣が追加供給されるので,連動して準備預金も増え,準備預金残高はプラスマイナスゼロに回復する。しかし,全体として預金残高が増えているため,準備預金所要額が増え,金利に上昇圧力がかかる。


2.三つの金融・財政システム論

 この三つの考え方の背後には,国債発行をめぐる経済主体とその関係,より立ち入っていえば金融・財政システムを通貨供給の観点から理論化する方法に関する違いがある。ここではその違いを説明するとともに,なぜ,どのように私見が妥当であるかを説明する。

 私見によれば,用いるべきは,信用で結ばれた「民間ー銀行ー中央銀行」と課税・支出で結ばれた「民間ー政府」が並立し,また政府も中央銀行に口座を持つことで両者が統合されるモデルである。これを仮に「二層の銀行・政府」モデルと名付ける(図)。




 貨幣の流通は二つの領域で行われている。一つは市中であり,商品の流通界である。ここを流通するのがマネーストック(預金貨幣+銀行手持ち以外の中央銀行券+補助硬貨)である。マネーストックは本質的に銀行信用か財政支出によって生み出される。もう一つの領域は銀行間システムである。ここを流通するのはマネタリーベースから市中に出回っている中央銀行券を差し引いたものである(中央銀行当座預金+銀行手持ち中央銀行券)である。銀行間システムにおける貨幣は,本質的に中央銀行信用か,財政支出によって生み出される。

 この「二層の銀行・政府」モデルを用いることによって,商品流通界を流通する貨幣と銀行間システムを流通する貨幣を区別することができる。それによって,政府が「銀行間システムから中央銀行預金貨幣を調達し,市中に(民間銀行の)預金貨幣を投じる」という仕組みが理解できるのである。

 このモデルは,実務上の事実をほぼそのまま写し取ったものであり,何ら奇異ではない。経済理論の立場からすると,より抽象化して「民間ー政府」モデルや「民間―統合政府」モデルを設定したくなるであろうが,こと財政赤字と国債発行を論じる際には,それが間違いなのである。拙論が強調したいのは,「二層の銀行・政府」モデルからさらに抽象化をしてはならないということである。

 通説・通念は「民間ー政府」というモデル設定を行っている。このモデルは例示するまでもないほど当たり前のように普及しているが,これこそが誤りの元なのである。「民間ー政府」モデルを用いる限り,国債発行は政府が民間資金を吸収するとしか理解しようがない。ところが,実際には国債発行は市中の通貨流通には関与せず,銀行間システムから通貨を吸収する。銀行間システムから吸収するということは,市中への影響は準備預金を介したものとなるということであり,また銀行信用で創造された預金貨幣でなく,中央銀行信用で創造された中央銀行預金貨幣の需給に影響を及ぼすということである。したがい,その調節はもっぱら中央銀行のタスクとなる。こうした関係が「民間―政府」モデルでは全く把握できない。

 そもそも「民間―政府」モデルでは,誰が通貨供給を行っているのかが不明瞭であり,したがい通貨供給を論じるのにはなじまない。一方では漠然と,政府が何もしなくとも貨幣が流通しているかのように想定されている。国債発行が民間資金を吸収するというのはこの想定があるからである。他方では漠然と,管理通貨制だから政府が貨幣を供給すると想定しているかのようでもある。しかし,それでは国債発行などする必要がないだろう。政府と中央銀行の関係をモデル内に取り入れていないから,このような理路不明なことが起こるのである。

 他方,MMTは,一次的接近として「二層の銀行・政府」モデルを採用しているところは妥当である。MMTが銀行のオペレーションについて通説を批判するのも妥当である。また政策論議でMMT論者が強調するように,財政赤字を追加の貨幣発行と見ることも正しい。

 ところがMMTは,ここにとどまらず中央銀行と中央政府とを「統合政府」という単一主体とみなした「民間―統合政府」モデルを本質として強調する。ここから事実との不整合が生じる。MMTは「統合政府は通貨発行権を持っているので,財政赤字を出す際に資金調達は必要ではない」と本質論を主張して,国債発行を資金調達ではないとする。しかし,これは詭弁であり,MMTが重視するはずのオペレーション上の事実に反する。国債発行は超過準備に運用先を与えているだけではなく,これを資金調達のために吸収しており,だからこそ一般的には準備預金不足・金利上昇を誘発するのである。準備預金が不足せず金利が上昇しないようにするためには,統合政府のもう一方の主体である中央銀行が中央政府に協力して金融を緩和しなければならない。現に,21世紀の先進諸国では景気対策と金融危機対策により中央銀行が緩和基調で金融政策を運用しており,銀行は常に超過準備を保有している状態なので,国債発行による金利上昇は起こりにくい。つまり,現状分析としてはMMTの主張通りになっていることは確かであり,この点を指摘したのはMMTの功績である。しかし,MMTがこの状態を,超過準備がない状態でも通じる一般論として主張するのは誤りなのである。

 MMTの「民間―統合政府」論は,実際には「統合政府は通貨発行権を持つ以上,資金調達は必要ない」という抽象命題を現実の中央政府に不用意に適用している。中央銀行が政府に解消される存在であるかのようである。しかし,これはすでに説明したように,事実分析としてはオペレーション上の因果関係を無視した決めつけである。中央政府は,市中に対して預金貨幣を新規に投入できるが,預金貨幣は銀行債務であって政府債務ではない。だから,政府は債務を負わせた銀行に対して銀行間システムを用いて支払いをしなければならず,そのために中央銀行預金貨幣を必要とする。そして,これを自ら発行できない以上,国債発行によって調達せざるを得ないのである。このとき,中央銀行が中立的立場であれば金利に上昇圧力がかかる。それを防ぐためには,中央銀行による金融緩和という中央政府との協調政策が必要なのである。つまり,統合政府において中央政府と中央銀行は協調しなければならない。「民間ー統合政府」論の名のもとに,両者の関係をぞんざいに扱ってはならないのである(※2)。

3.まとめ

 財政赤字に伴う国債発行という事態を正確に把握するためには「二層の銀行・政府」モデルを用いなければならない。これを無理に抽象して「民間ー政府」モデルや「民間―統合政府」モデルとすることは,事実認識を誤らせる不合理な抽象である。そして,私見によれば「二層の銀行・政府」モデルを用いた分析によってこそ,財政赤字と国債発行を含む,通貨供給システムとしての金融・財政システムが記述できる。その詳細な展開は他日を期したい。

※1 「「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件」Ka-Bataブログ,2024年11月23日。

※2 経済思想としてみれば,MMTのこの中央銀行を政府に解消するかのような把握は,貨幣発行は銀行信用や中央銀行信用に由来するのではなく徴税権に由来するのだという国定貨幣説に由来するのだと思われる。これは中央銀行に対する過小評価である。資本主義経済における貨幣発行は商品流通における価値尺度・交換手段・支払手段の必要性に由来する。しかし,実物としての貨幣の使用は,資本主義の発展にとって制約となる。金融システムとは貨幣流通に伴う諸問題を商業信用,銀行信用,中央銀行信用が解決することによって発展したものである。政府は通貨名の設定によってそれに関与する。通貨名は国家が制定するという点では国定貨幣説は正しい。しかし,政府が貨幣を自ら生み出しているわけではなく,この点では国定貨幣説は誤りである。貨幣の発生は,主要には財政システムよりも金融システムに由来する。中央銀行は政府に解消される存在ではなく,貨幣システムを安定させる使命を負った銀行として,中央政府から相対的に独自な役割を持っている。「中央銀行の政府からの独立性」が問題になることは根拠のあることなのである。以上の点は,財政赤字に伴う国債発行の理解という本稿の直接の課題と離れるため,問題提起にとどめる。詳しくは,川端(2024a,2024b)をご覧いただきたい。

<参照文献>

川端望(2024a)「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」TERG Discussion Paper, 489, 1-39, April.→2025/3/6追記。研究年報『経済学』第81巻に掲載されました。 https://researchmap.jp/read0020587/published_papers/49303008

川端望(2024b)「貨幣分類論」TERG Discussion Paper, 490, 1-19, September.
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170




2024年11月23日土曜日

「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件

  従来,私は赤字財政に伴う国債発行は,カネのクラウディング・アウト(金融市場ひっ迫による金利高騰)は起こさず,モノとヒトのクラウディング・アウト(財・サービス・人材の供給ひっ迫とインフレ)は起こすという見地を採ってきた。これは現代貨幣理論(MMT)と同じ見解である。しかし,「一般論としては,カネのクラウディングアウトはある程度起こる。ただし,通説が言うほどではない。また,超過準備が一定以上あるという条件の下では起こらない」と修正しなければならないように思う。

 通説は,「財政赤字は民間貯蓄を吸収するので,金利を高騰させる。財政支出によって通貨供給量が増えるとしても,貯蓄が吸収されるためにプラマイゼロになってしまう。財政支出は需要を増やすが,貯蓄の吸収は民間の投資・消費をクラウド・アウトして,需要を減少させる」と考えるものである。対して,MMTは「財政赤字は民間貯蓄を吸収しない。国債は市中を流通する通貨ではなく準備預金(中央銀行当座預金)によって購入されるからだ。その際,準備預金は減るものの,国債発行額と同額の赤字支出が行われると預金貨幣が増え,同額の準備預金が増える。通貨流通量は一方的に増えるし,需要を拡大する。準備預金はプラスマイナスゼロなので金利は上昇しない。なので,クラウディング・アウトは起こらない」と主張している。

 中央銀行ー銀行の二重システムのオペレーションを踏まえている点では,MMTの方が現実に近い。しかし,このオペレーションによって金利が上昇しないということは,一般論としては問題をはらむ。

 なぜか。まず理論的考察のために,銀行が準備預金を,金融市場の状態に適応して過不足なく持っている状態を考えよう。成熟した資本主義国では預金準備率は規制されていないので,必要な預金準備率は銀行の経営判断として,預金の種類や金融市場の状態に応じ,幅を持って設定されている。しかし,一定の率で設定されると仮定することは許されるだろう。ここで,国債発行前の準備預金が,銀行セクター全体として,預金支払準備金として過不足ない水準で確保されるような準備率を必要準備率と想定する。また必要額を超えて保有される準備預金を超過準備と呼ぶ。

 さて,銀行が必要準備率だけ準備預金を持っている状態で政府が赤字支出のために国債を発行したとする。MMTが説明する上記のオペレーションにより,銀行預金は増加して,準備預金(中央銀行当座預金)はプラマイゼロとなる。しかし,この時,プラマイゼロの準備預金は,国債発行前よりも大きな額の預金と対応しているので,銀行セクター全体として「銀行預金増加額×必要準備率」だけ準備預金不足になる。この時,中央銀行が介入しなければ,インターバンク市場での金利上昇が起こり,and/or銀行セクター全体として貸出しの縮小が生じる。これを補うべく,インターバンク市場での中央銀行預金貨幣の流通速度上昇,市中の遊休貨幣を動員しての預金の増額が生じるかもしれない。

 このように,準備預金額がプラマイゼロでも,預金額そのものが増えているので,準備預金不足の分だけ金利が上昇するか,銀行貸し出しが減少するか,またはその両方が置き,民間の投資・消費を抑制するクラウディング・アウト効果が生じるのである。

 ただし,その程度には幅がある。もし,銀行が必要準備率の回復のためにもっぱら貸出しを減少させると,国債発行額=預金増加額と同額だけ貸出額が減らなければならない。通貨供給量は国債発行前と同じになってしまう。この場合は,クラウディング・アウトがもっとも激しく生じるだろう。しかし,短期金利の上昇によるインターバンク市場の効率化(中央銀行預金通貨流通速度の拡大),市中での遊休資金動員による預金増加が起こるならば,クラウディング・アウト効果は小さくて済むだろう。預金増加は国債発行額ほどでなくても済み,通貨供給量は国債発行前より増加するからである。つまり,通説が抽象的にイメージしているような,金融市場において国債発行額と同額の資金を市中から引き抜くようなことは,極端な場合,つまり超過準備がない状況下で,準備預金所要額の回復がもっぱら貸出し減によって実現する場合にのみ生じるのである。

 さて,超過準備が存在するという条件を加えると話は変わってくる。現実の先進諸国の銀行セクターは,基本的には金融市場の発展により,また特殊には経済の成熟に対応して中央銀行が金融緩和基調をとらざるを得ないことにより,さらに特殊には金融危機のリスクに備えて流動性の供給を多目にすることにより,超過準備を確保している。この場合,国債発行前後で準備預金所要額が「預金増加額×必要準備率」だけ増加しても,超過準備が多少減少するだけで,金利への影響はほとんどない。かてて加えて,これもまた現実の先進諸国で起こっているように,中央銀行が政府と協調し,国債発行時に金利を低め誘導したり,銀行が購入した国債を事後に買い上げて金融緩和を行えば,金利上昇が抑えられる。

 まとめるとこうなる。一般論としては,国債発行はカネのクラウディング・アウト効果を持つ。ただし,通説が想定するように国債発行額と同額の民間貯蓄を吸収する,ということによってではない。国債発行額と同額の銀行預金増分に必要とされる準備預金が追加で必要とされる,ということによってである。したがい,クラウディング・アウト効果も通説が想定するほど大きくはない。そして,超過準備の存在によってクラウディング・アウト効果は緩和され,超過準備の拡大とともにほとんどなくなる。また,中央銀行が国債発行時に金融緩和を行えば,やはりクラウディング・アウト効果はなくなる。


 MMTの主張については,次のように言える。1)財政赤字が通貨供給量を増やすことについては正しい。2)「クラウディング・アウト効果はない」という主張は,一般論として主張するのは誤っている。3)この主張は,超過準備が一定以上存在する下では妥当する。3)また,この主張は,中央銀行が政府と協調して金利を低め誘導するという条件下でも妥当する。


関連過去記事

「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。

「財政赤字は貨幣を追加で生み出すのか,それとも国債消化と相殺されるのか:米山隆一氏の山本太郎氏への批判によせて」Ka-Bataブログ,2024年2月15日。

2024年8月7日水曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その3・完)

  Ⅰ はじめに

Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上その1
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
(以上その2
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに
(以上今回)

V 遊休とバブル

貨幣の遊休

 さて,民間経済活動に対する信用供与によって投入された預金貨幣であれ,政府が発行して流通に投じられた不換国家貨幣であれ,財政赤字によって投入された預金貨幣であれ,はたまた預金貨幣が預金引き出しによって形態転換された中央銀行券であれ,商品貨幣そのものでなく代用貨幣であることは変わりない。代用貨幣はそれ自体価値を持たないため,退蔵されえない。つまりいったん発行されると,商品流通を媒介し続けるか,民間経済活動に貸し出された預金貨幣に限っては,銀行に返済されて消滅するかである。

 しかし,本質規定としてはそうであっても,代用貨幣の実際の運動を詳細に見れば,一時的に持ち手の手元で停滞し,一定期間は商品流通を媒介しないこともある。これは,本質的には貨幣の流通速度の低下と言える事態であり,事実上の価格標準を変更しているわけではない。しかし,ことは人々の目には本質と違って見える。本質的には商品生産の拡大による資本蓄積が困難であることが代用貨幣を遊休させるのであるが,個々の経済主体の意識からみれば,他の商品に対する価値保蔵の相対的便宜や,種々の商品への来るべき転換の便宜確保が代用貨幣保有の動機となり,もっぱらそのことによって需要が停滞しているように映る。いわゆる流動性選好である。こうして家計がもつたんす預金や定期性預金,企業が持つ手元現預金,金融機関保有現金などが積み上がる 。これらの遊休貨幣は,物価に影響する。遊休貨幣が遊休貨幣のままとどまるということは,すなわち有効需要の減退によって不況への突入ないしは継続が生じ,物価が下落するということだからである。

 この物価下落は本質的には不況によって商品流通が停滞することによる物価下落であるから,一時的であり,また継続すれば実質的である。別の角度から言えば,一時的に貨幣の購買力が上昇し,後に商品生産費が切り下がればもとにもどるような状態である。価格標準が切り上がって貨幣的デフレが起こったわけではない。個々の経済主体の動機に即して見れば流動性選好によるものであるから貨幣的と見えるが,それは社会的視点と個々の個別経済主体視点の混同である。物価下落そのものは,商品の需要が弱いことから生じ,またそれが継続して生産コストの切り下げが生じることから生じるのであり,個々の経済主体による流動性選好は,この価格下落を媒介し,加速するに過ぎない。なので,社会的規定としては一時的・実質的下落と見なければならない。

 とはいえ,流動性選好は代表貨幣遊休を極端にしたり長引かせたりすることで,物価下落をも極端にしたり長引かせたりすることは否定できない。代用貨幣の遊休,不況,一時的・実質的物価下落の関係は,今日の経済の個々の局面を理解するうえで極めて重要である。

バブル

 代用貨幣は遊休するが蓄蔵されえない。遊休は,本質的には商品生産・流通の停滞から生じるが,こうして遊休した貨幣に単なる継続保有以外に,もうひとつ,擬制的な価値増殖機会が現代経済には与えられている。それが金融資産への投下である。

 金融資産への投下は,新規発行株式や新規発行社債の購入であれば,生産的投資と言いうる。購入資金が生産的用途に充てられ,商品流通媒介に復帰するからである。しかし,流通市場での金融資産購入は,擬制資本に価格を付け,持ち手を転換しているだけである。金融資産からの収益は,株式の配当や社債の利子,不動産証券の賃料配当であれば,利潤からの分配と言えるが,多くは売買差益(キャピタル・ゲイン)である。今日,資本市場の一大部分がこのキャピタル・ゲイン追求行動によって成り立っており,そもそも銀行貸し付けによる信用創造が,事実上キャピタル・ゲインの追求を目的として行われる場合も少なくない。

 こうなると,貨幣流通量の一部は,商品流通を媒介せずに金融的流通にとどまり,擬制資本の価格形成だけを媒介し続けるようになる。その規模が拡大し,ほんらいの物価から見かけ上独立して金融資産価格のみが高騰し,商品流通の要求から離れて金融的流通に一層の貨幣が投じられることがありうる。この現象が,バブルと呼ばれるのである。

 バブルは,現代において貨幣の蓄蔵が起こりえず,代用貨幣の遊休だけが生じることから派生する現象である。と同時に,単なる遊休とは異なる現象でもある。

遊休,バブルの攪乱作用

 不況は一次的・実質的物価下落を引き起こし,貨幣流通量を停滞させるとともに,流通内の貨幣を遊休させる。遊休貨幣はまた商品側にある程度反作用し,不況を悪化させ長引かせる。バブルは実物経済の景気から相対的に独立して金融資産価格のみを騰貴させ,貨幣流通量の一部を金融的流通に滞留させる。

 政府が財政赤字をもって投入した預金貨幣が遊休貨幣やバブルに帰結した場合は,より複雑である。本来,これら外部からの代用貨幣投入は貨幣的インフレーションを引き起こす可能性を持っている。しかし,貯蓄となって遊休する貨幣が大きくなれば,名目的物価上昇としての貨幣的インフレの発現は,一時的物価下落によって遅延させられるし,実質的物価下落によって相殺されるかもしれない。このとき生産的に支出すれば可能だったはずの景気回復と一時的・実質的物価上昇もまた遅延させられる。またバブルが生じた場合は,貨幣的インフレ,景気回復と一時的・実質的物価上昇の代わりにバブルが生じるということになる。遊休とバブルが関与した場合の物価変動の複雑性には十分な注意が必要である。

 本節の解説をまとめると表4のようになる。遊休は物価変動要因であるが,バブルは物価変動要因とは異なるため独自の欄を設けていない。





VI 外国為替相場と物価

 外国為替相場の騰落と物価との関係は,本来は二通りに分けて考える必要がある。本来,経済法則として生じるのは各国の物価変動率の差異が外国為替相場の変動を引き起こすことである。例えば,各国における貨幣的インフレ率の相違によって事実上の価格標準の切り下げ率の違いが生じるために,外国為替相場は変化する。また,各国の景況と生産性向上に伴う一時的・実質的物価変動が原因となって,外国為替相場は一時的,さらに恒久的に変化する。これらの場合は,物価変動は結果でなく原因である。これらは理論的には重要であるが,物価変動の種別を扱う本稿の主題ではない。

 ここでの問題は,外国為替相場が上記以外の何らかの理由で先行して変動し,それが物価変動を引き起こす場合である。この理由として貿易と金融取引の不均衡があげられるが,今日には金融的要因による変動が大きいと考えられる。これにより自国通貨の上昇が続けば,自国通貨建てでみた輸入品価格は下落するし,自国通貨の下落が続けば自国通貨建てで見た輸入品の価格は高騰する。この変動は,為替相場の騰落自体が一時的であれば一時的物価変動であり,持続して自国産業の生産費や産業組織に影響を与えるならば実質的変動である。

 この変動は通貨の交換比率の変動が転じて通貨と商品の交換比率の変動となったものであるから,貨幣的物価変動と言ってよい。しかし,貨幣商品の生産費という意味での価値変動ではないし,価格標準の変動でもない。交換手段としての貨幣の購買力の変動であり,貨幣と商品の交換比率の変動である。通貨安による輸入物価の上昇は,日常用語では「コストプッシュ・インフレ」などと呼ばれるが,その実体は自国通貨購買力の低下による一時的・実質的物価変動であり,貨幣的インフレではないのである。

 本節の解説をまとめると表5のようになる。



VII おわりに

 ここまで論じてきた種々の物価変動の違いをまとめると表6のようになる。

 日常用語でいうインフレ,デフレは,それぞれ持続的な物価上昇と,持続的な物価下落のことである。しかし,これは物価の一時的変動,実質的変動,名目的変動という重要な区別,また実物的変動と貨幣的変動という重要な区別を覆い隠したものである。

 経済が好況や不況に向かう際の,商品の需給関係に起因する物価の一時的変動と実質的変動は実物的変動である。その根拠は商品の需給関係や生産諸条件や産業組織にあるのであって,貨幣的要因によって起こるものではない。自立的好況による物価上昇は「ディマンド・プル・インフレーション」と呼ばれるが,厳密な意味でのインフレーションではない。なお,課税等により,商品流通の外部から流通する貨幣を強行に引き抜いた場合は,貨幣的要因が実物的要因に作用し,実質的物価下落を伴う不況となるが,この場合も貨幣的要因の作用は間接的であり,直接の要因は実物的要因である。

 物価の名目的変動は貨幣的変動である。商品の需給関係や生産諸条件や産業組織によらず,貨幣の側の要因のみによって生じるからである。とりわけ,価格標準に起因する名目的変動こそ,厳密な意味でのインフレーション,デフレーションであり,また貨幣的インフレ,デフレである。管理通貨制が採用されている現代においては,それは不換代用貨幣の商品流通に外在的な投入による名目的物価上昇,すなわち貨幣的インフレという形でのみ起こりうる。

 代用貨幣の遊休は,本質論としては商品の需給関係の需要不足・供給過剰方向への変動や,商品生産条件の変動を反映したものである。しかし,流動性選好は商品の側に反作用し,物価の一時的・実質的下落の程度や継続期間に影響する。つまり遊休は,この表では最上位の2項目に属するが,その在り方を変動させ,攪乱させる作用を持つ。またバブルはほんらいの物価変動ではないため,この表では独立した項目にならない。

 代用貨幣の遊休とバブルは,貨幣流通を攪乱する。価値保蔵の動機で代用貨幣の遊休が持続すると不況を加速し,一時的・実質的物価下落を加速する。遊休貨幣が金融資産購入,とくにキャピタル・ゲイン狙いのそれに投じられると,商品流通を媒介するはずの貨幣流通量の一部が,相対的に独自な金融的流通を形成する。この商品流通と乖離した金融的流通の拡大が,資産価格の高騰とともに生じるのがバブルである。遊休と金融的流通は,商品流通を媒介する貨幣流通や,金融・財政政策の波及をかく乱する。

 注意すべきは,金融・財政とインフレ,デフレの関係である。銀行信用の伸縮は,好況または不況に伴って起こる物価の一時的変動や実質的変動を加速するし,バブルの発生や崩壊を促進する。しかし,厳密な意味での,言葉を換えていえば貨幣的なインフレ,デフレを引き起こすことはない。他方,不換国家紙幣の発行や,財政赤字による預金貨幣の散布は,貨幣的インフレの原因となる。ただし,財政支出がどれほど商品の生産と流通を誘発するかによって,貨幣的インフレが現実化するかどうか,貨幣的インフレが一時的・実質的物価上昇とともに現れるかどうかが左右される。財政拡張による好況期の物価上昇が「ディマンド・プル・インフレ」と呼ばれる時,そこには貨幣的インフレと一時的・実質的物価上昇が混在しているのである。生産や雇用の拡大を意図した財政拡張は,遊休とバブルによってその効果を減殺されたり,遅延させられたりすることもある。貨幣的デフレは,管理通貨制が採用されている現代では生じ得ない。財政黒字によって商品流通に外在的に預金貨幣・中央銀行券を引き上げると商品流通量も縮小して不況となり,物価は名目的にではなく一時的・実質的に下落してしまうからである。

 外国為替相場の変動に起因する物価変動は,通貨と輸入商品との交換比率の変動によるものであり,一時的または実質的物価変動である。ただし,通貨の交換比率の変動が転じて通貨と商品の交換比率の変動となったものであるから,貨幣的物価変動と言える。自国通貨安に起因する物価上昇は「コストプッシュ・インフレーション」と呼ばれるが,その実体は自国通貨購買力の低下による一時的・実質的物価上昇であって貨幣的インフレではない。

 インフレ,デフレと好況,不況,バブル,金融政策と財政政策の効果をめぐる諸問題は,以上の区別と関連を踏まえて論じられるべきである。


(完)



2024年8月6日火曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その2)

 Ⅰ はじめに

Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上その1
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
(以上今回)
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに


IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか

要因分類

 一時的,実質的物価変動が,景気の拡大や停滞による商品の需給変動によって引き起こされることは明らかでる。では,現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるかというと,すでに述べたように不換代用貨幣の商品流通外からの投入によってである。しかし,そうした代用貨幣の一方的投入はどのように引き起こされるか。

 不換代用貨幣が商品流通内に一方的に投入され,結果として純投入となる経路は,いくとおりか考えられる。
(1)銀行の信用創造による預金貨幣の創出,あるいは預金貨幣から転換された中央銀行券の流通
(2)政府による不換国家貨幣の発行
(3)財政赤字を通した,政府による預金貨幣での支出超過

 それぞれの場合について,貨幣的インフレが生じるかどうかを考えよう。

銀行の信用創造

 ここでは,民間の経済主体,主には企業,また時には家計の求めに応じて銀行が貸付や割引を行う際のことを指す。国債入札による政府への貸し付けによって政府の支出超過を支える場合は,次項で考察するので,除くものとする。

 さて,銀行が民間の経済主体に貸付や割引を行うのは,それらの主体が生産活動や消費活動のための貨幣を必要としているからである。企業は利潤追求を目的に機械設備や原材料を仕入れ,労働者に賃金を払い,必要と思われる製品を保管し,流通させるために貨幣を必要とし,銀行から借り入れる。家計は,のちの収入を引き当てにして,これを先取りする形で銀行から住宅ローン等を借り入れる。その際に,銀行は自らの手形である預金を発行して貸し付ける。別の言い方をすれば,借り手の預金口座に残高を設定する形で貸し付ける。銀行のバランスシート上では,資産側に貸付金,負債側に預金が増加する。これが預金貨幣の創造であり,新規発行である。借り手は必要な支払いを預金振替で行うこともできるし,預金を引き出して中央銀行券に形態転換し,これを現金として購買することも可能である。

 企業の利潤追求活動が成功するか,少なくとも企業が倒産しない程度に継続し,家計が事後の収入をそれなりに得られた場合は,金利とともに元本が返済される。返済に際しては,企業や家計は自己の口座に返済元本を預け入れる。銀行は,バランスシート上で,資産側から貸付金,負債側から預金を同時に除去することで,返済を完了する。これは預金貨幣の還流・消却でもある。

 この全過程を見ると,預金貨幣は,商品流通のために新規発行され,持ち手を変え,時に一時的に中央銀行券に姿を変えながら,実際に商品流通を媒介する。そして,返済の際に発行銀行に還流して消滅する。

 つまり,民間経済主体に貸し付けられる預金貨幣は,商品流通の側の要求に応じて流通に投じられる。そして,流通から出ることもできる。ただし,退蔵されることはなく,流通から出れば消滅するのである。不換代用貨幣である預金貨幣が,このように商品流通側の要求に応じて伸縮できるのは,預金貨幣が信用貨幣,具体的には銀行の債務だからであり,銀行が貸す時に生まれ,銀行に返済される時に消えるからである。

 さて,個々の貸付・返済の元本についてみれば,貨幣流通量の増大と縮小はゼロサムである。しかし,社会全体としてみれば,商品流通量が拡大する好況期には,銀行の新規貸付額が増加し,過去の貸付の返済額を上回るだろう。逆に商品流通量が縮小するほどの不況になれば,新規貸付が停滞して過去の貸付の返済額を下回るだろう。こうして,経済成長や経済収縮に対応した貨幣量が確保される。

 このように,銀行の民間経済活動への貸し付けや割引に起因する預金貨幣の流通量は,商品流通に対応して伸縮するものであり,この意味で預金貨幣の供給は内生的である。預金貨幣は不換代用貨幣であるにもかかわらず,民間経済活動への信用供与である限り,流通外から一方的に投入されることはないのである。したがって,銀行が企業の求めに応じて活発に信用供与を行っても,貨幣的インフレーションは生じない。起こるとすれば,好況を信用拡大が支えることによる一時的・実質的物価上昇である。

 銀行の過大融資が「信用インフレーション」を起こすという説があるが,これは厳密な意味でのインフレーションではなく,好況を信用拡大が支えることによる一時的・実質的物価上昇である。逆に,金融引き締めが「デフレ」を起こすという説があるが,これもまた厳密な意味でのデフレーションではなく,不況の際の信用収縮による一時的・実質的物価下落である。だから,中央銀行の金融政策によって銀行の信用供与を促進・抑制することを通してでは,景気を刺激することや過熱を抑制することはできても,貨幣的インフレも貨幣的デフレも起こすことはできないのである。1990年代以降の日本における「貨幣的現象としてのデフレが生じた」「日銀の金融緩和不足がデフレを起こした」「日銀は超金融緩和によってインフレを起こそうとした」という議論は,いずれも本来の貨幣的インフレ,デフレとは異なるものをそのように呼び,また実物的な不況を貨幣的現象と取り違え,日銀の権限と責任を過大視した議論である。

政府による不換国家貨幣の発行

 銀行による信用創造とある意味で対極にあるのが政府による不換国家貨幣の発行である。不換国家貨幣は紙幣のばあいと補助硬貨の場合がある。一般的に補助硬貨は小口流通円滑化のために発行されるので,通貨供給量の増加を引き起こすのは不換国家紙幣の場合であろう。政府は,自らの資産として不換国家貨幣を発行し,これを支出する。その支出は,民間経済活動の要求とは全く独立に行われるので,商品流通量とは独立に貨幣流通量だけが一方的に増える。

 ただし,この政府支出が製品在庫の直接買い取り,困窮する消費者の購買力増大による製品在庫の間接買い取り,遊休設備や失業者を稼働させ原材料在庫を流通させての生産活動の増大などにつながる限りは,商品流通量も増大するのであって,それが貨幣量通量の増大と釣り合っている限りでは,物価は名目的には上昇しない。むしろ,好況が惹起されることで一部商品の需要が超過となって一時的上昇が引き起こされるだろう。

 問題は,政府支出の増加が,すでに生産資源のフル稼働のもとで行われたり,戦争時の軍需のように生産した商品を流通外で消耗してしまったり,独占・寡占などの産業組織上の問題に突き当たったりすることにより,商品生産増加を十分に伴わず,製品価格の上昇を引き起こす場合である。この価格上昇は一部の製品価格の上昇に始まるが,産業連関を通して経済全体に浸透し,ついには全般的名目的物価上昇を引き起こすだろう。すなわち貨幣的インフレーションである。不換国家貨幣の発行は,商品流通量の増大に相殺されない限り,貨幣的インフレを引き起こすのである。

 では,銀行融資が回収されることで信用貨幣の流通量が収縮するように,課税によって不換国家貨幣が回収されるとどうなるのか。

 民間活動向け信用創造と異なるのは,不換国家貨幣は流通に投じられる時点で外部投入であり,投入されれば貨幣的インフレを誘発する効果を持っていることである。いったん貨幣的インフレが生じてしまうと,価格標準が事実上切り下がっているために,増加した代用貨幣量がそのまま流通に必要な貨幣量となってしまう。この後に,課税によって不換国家貨幣が回収されると,それは商品流通を媒介している貨幣量を外部から引き抜くことになり,商品流通量そのものを縮小させ,不況を誘発する。その際物価は下落するであろうが,それは一時的下落であり,持続すれば生産コストの高い生産者の退出による生産コストの低下をもたらし,実質的な物価下落となるだろう。不換国家貨幣の投入による貨幣的インフレがいったん起こると,不換国家貨幣の回収によっても貨幣的デフレを起こして相殺することはできないのである。これが「インフレ・デフレの非対称性」の具体的表現である。

財政赤字を通した,政府による預金貨幣での支出超過

 いささか複雑なのは,財政赤字が政府による預金貨幣創出によってなされる場合である。これは政府が国家貨幣を発行できない状況の下で,財政赤字を出す際に起こることであるが,今日のほとんどの諸国での財政赤字とはこのようなものである。あえて言うならば中央銀行券インフレーションではなく預金貨幣インフレーションである(岡橋,1948)。

 この支出は,政府が支出先の民間経済主体に対して,預金貨幣を振り込むことによって行われる。具体的には,政府は政府預金を中央銀行に振り込み,中央銀行が一般銀行に中央銀行当座預金を振り込み,一般銀行が民間経済主体,例えば公共事業を受注した企業に銀行預金を振り込むのである。もちろん,政府預金が不足すれば,国債を発行して借り入れを行わねばならない。

 この時,商品流通の外部から預金貨幣が流通に投じられる。預金が引き出されれば,預金貨幣に代わって中央銀行券が投じられる。ここでは,不換国家貨幣を投入した場合と同様の効果が生じる。商品生産を誘発できれば名目的物価上昇は起こらず,十分に誘発できなければ名目的物価上昇,すなわち貨幣的インフレが生じる。

 ただし,不換国家貨幣の発行と異なるのは,政府が国債を発行して借り入れを行っていることである。そこで,政府の借り入れによって流通している貨幣が吸収されてしまい,それが投入される貨幣量を相殺しないのかという問題を検討しておく必要がある。

 まず,中央銀行が国債を引き受ける場合を考えよう。この場合,国債による借り入れ分だけ,中央銀行預金貨幣が政府預金として新規発行される。この政府預金が支出されると商品流通に対して外的に一般銀行預金貨幣が投じられる。民間経済主体から貨幣が吸い上げられることはないので,貨幣流通量が純増していることは明らかである。

 では,民間銀行が国債を購入した場合はどうなるか。この場合,国債購入代金は民間銀行が持つ中央銀行当座預金から政府預金へと払い込まれる。つまり,この時も民間経済主体から貨幣が吸い上げられることはない。もっとも,銀行準備預金が社会全体として減少するため,これによって銀行の信用創造が制約されることはありうる。しかしながら,政府支出によって預金貨幣が増大すると,その分だけ中央銀行当座預金も増大するため,結局銀行準備預金はプラスマイナスゼロとなり,結果として信用創造は制約されない。つまり,民間銀行が国債を購入した場合も,やはり預金貨幣流通量は純増するのである。これは,国債の購入が,商品流通を媒介している預金貨幣によってではなく,商品流通を媒介していない中央銀行当座預金によってなされるためである。

 こうして,財政赤字を通した預金貨幣による支出も,国債を中央銀行が引き受けるか民間銀行が購入するかにかかわらず,貨幣的インフレを引き起こす要因となるのである。中央銀行が引き受けた場合にだけ貨幣的インフレ圧力が生じるという通念は誤りである。

 さて,不換国家貨幣による場合と同じく,いったん貨幣的インフレが生じてしまうと,価格標準が事実上切り下がっているために,増加した代用貨幣量,つまり預金貨幣と,預金が引き出された結果としての中央銀行券を合わせた総量が,そのまま流通に必要な貨幣量となってしまう。では,この後で政府が財政黒字を計上すれば貨幣的デフレが起こるだろうか。財政黒字というのは,単純化すれば支出を上回る課税を行った結果である。課税は,一部は中央銀行券で納付されるものもあるが,多くは納税者の預金口座から引き落とされ,銀行を通して政府預金へと振り込まれる。だから課税が政府支出を上回ると,預金貨幣の流通量が縮小する。すると,不換国家貨幣の回収と同じように,商品流通量そのものを縮小させ,不況を誘発する。その際の物価下落は一時的下落であり,持続すれば実質的下落となる。財政赤字は貨幣的インフレ圧力を生じさせるが,財政黒字は貨幣的デフレ圧力を生じさせない。生じるのは不況と一時的・実質的物価下落への圧力なのである。これもまた「インフレ・デフレの非対称性」の具体的表現である。
 本節の解説をまとめると表3のようになる。


その3に続く)

<参考文献>
岡橋保(1948)『インフレーションの経済理論:預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社。








2024年8月5日月曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その1)

Ⅰ はじめに
Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上今回)
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに

I はじめに

 今日の日常用語では,すべての持続的物価上昇はインフレーションと呼ばれ,すべての持続的物価下落はデフレーションと呼ばれている。しかし,これは一次的・実質的物価変動と名目的物価変動を混同し,実物的変動と貨幣的変動をも混同して無内容化した用語法に他ならない。それらの区分をつけないことは,現状分析を誤らせる一因になる。本稿では,これらの区分をつけて,現状分析の一助とすることを目的に,物価変動の分類について考察する。

 本稿で考察する物価変動の分類は,いずれも抽象度の高い分類であるが,現状分析を左右するようなものである。例えばアベノミクス期に日銀による超金融緩和にもかかわらず物価上昇が見られなかったこと,ポストコロナ期になって,国内的要因と対外関係の双方から物価上昇がみられるようになったことを理解するためにも重要である。また学説の問題として,「デフレは貨幣的現象であり,日銀の金融緩和で解決できる」としたリフレーション派の主張の問題点を明らかにし,実際に1990-2000年代の「デフレ」とは何であり,ひるがえって現在の「インフレ」とは何であるかを明らかにするためにも重要である。したがい,まったく今日的に意味のある分類なのである。


II 物価の一時的変動と実質的変動

 まず一社会内部での実物要因による物価変動を考える。

 特定商品に対する需給変動によって価格は上下しうる。特に景気の上昇局面では一定分野の商品需要が増大して価格は上昇し,下降局面では減退することによって価格は下落する。これが景気変動に対応した物価の一時的変動である。しかし,これは需給不均衡による変動であるから,不均衡が解消されれば物価も元に戻るという性質のものである。ゆえに一時的変動という。

 ところが需給変動がさらに産業の構造変動を引き起こし,産業間の構成が変わったり,新技術が導入されたり,製品構成がかわるなどして,一定分野での商品の生産費そのものが変化すると,これは元に戻ることがない。よって商品生産と価値生産そのものに根拠を持つ実質的変動である。もっとも単純には,物価の一時的上昇に対応してコストの高い低効率の生産者が参入すると,商品の生産費が上昇して物価上昇は実質化するし,逆に物価の一時的低下に対応してコストの高い低効率の生産者が退出すると,商品の生産費が低下して物価下落が実質化する。

 また,産業組織の構造により,独占・寡占構造やブランド信仰,ボトルネック,商品需要または供給の非弾力性などが一定期間持続し,市場の諸力と競争によっては短期間で解消しない場合がある。物価変動が産業組織に根拠を持って一定期間持続するような場合は,生産そのものではないが価値分配の在り方に根拠を持つ,実質的変動である。

 こうした一時的・実質的変動は,商品の需給関係か,商品の生産条件か,産業組織に由来する価値分配条件の変化によっておこるものである。つまり,実物経済に由来する物価変動であり,貨幣的変動ではない。

 本節の解説をまとめると表1のようになる。


III 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ

物価の名目的変動の定義

 以上の場合と全く異なるのが,物価の名目的変動である。それは一次的・実質的変動とともに現れるが,理論的には分離して把握しなければならない。名目的変動とは,それが貫徹した場合には全商品の物価の一律上昇や一律下落が見られるような変動である。商品の生産諸条件は変化せず,実質的生産費も変動しない。産業組織によって商品間の相対関係が変化することもない。ただ価格のみが切り上がるか,切り下がる。こうした変動が名目的変動である。そして,言葉の厳密な意味でのインフレーションとデフレーションは,このうちの全部ではないが,この中に含まれる。

 厳密な意味でのインフレ,デフレがどのようなメカニズムによって生じるか,また実物的現象か貨幣的現象かを点検しよう。


貨幣商品価値の変動と公定価格標準の変更

 まず商品貨幣が流通し,公定価格標準が存在している下での,いいかえると金属本位制のもとでの名目的物価変動を考えよう。

 これが生じるのは,貨幣商品の価値変動が起こる場合である。ここでいう価値とは労働価値,いわば実物的生産コストのことである。金を転形とする貨幣商品の生産コストは上がることも下がることもある。例えば,いま金1グラムの価値量をYとし,また金1グラムをX円と称するように価格標準(貨幣商品重量当たりの貨幣名)が公定されているとしよう。つまり,金1グラム=X円=価値量Yとなる。この時に金の生産費が半分となれば,金1グラム=X円=価値量Y/2となるため,X円があらわす価値量は半分となり,物価は2倍となる。この場合,商品の側では何ら生産にも分配にも変化は生じていないが,貨幣商品の価値は実質的に変動している。よってこの価格変動は実質的であり,また貨幣的要因によって生じたものである。

 次に,公定価格標準が存在している下で,その切り上げや切り下げが行われる場合である。例えば公定価格標準が金1グラム=X円であるとしよう。この公定価格標準が例えば金1グラム=2X円に変更されれば,物価は全般的に2倍となる。この場合も,商品の側の生産費や価値分配の諸条件は何ら変動していない。よって名目的変動であり,また貨幣的要因によって生じたものである。

 こうした変動は理論的には重要であるが,商品貨幣が流通せず,また公定価格標準が存在しない今日では生じ得ない物価変動でもある。


不換代用貨幣の商品流通外からの投入・引き上げ

 管理通貨制の下で物価の名目的変動が生じるのは,不換代用貨幣が商品流通の外部から一方的に投入される場合である。

 価値を持つ商品貨幣や,これと交換可能な兌換貨幣が投入されたときには,投入された貨幣は早晩,商品流通から排除される。貨幣価値の毀損をおそれた人々は商品貨幣を貴金属として退蔵し,あるいは兌換貨幣を商品貨幣に交換してやはり退蔵するからである。こうして,流通する貨幣量は商品流通に必要な貨幣量に調節され,物価は変動しない。

 しかし,兌換不可能な代用貨幣が商品流通外から一方的に投じられると,それらは流通内にとどまり,出ていくことができない。もともと,商品流通量はそれに対応する商品価値量をもっている。そして商品価値量は貨幣商品重量によって表現される。これが商品流通に必要な貨幣量(流通必要貨幣量)である。そして流通必要貨幣量は価格標準(例えば金1グラム=X円)によって価格総量に換算される。ところが代用貨幣が一方的に投入されると,必要貨幣量に対して現実の価格総量が増大してしまい,代用貨幣が代表する貨幣量が縮小し,価格標準が事実上切り下げる(例えば金1グラム=2X円)。すると,商品価格が全般的に上昇する。この場合も,商品の側の価値生産や価値分配の諸条件は何ら変動していない。よって名目的上昇である。また,その原因から言って貨幣的変動である。

 この法則が貫徹するのは,投入された貨幣が効果的に生産を拡大しない場合である。このとき,ただ全般的物価水準のみが名目的に引きあがる。とはいえ,その具体的な形態はいろいろであり,例えば景気対策として財政が拡大されているが遊休資源がなく生産を拡大できずに企業物価から先行して高騰する場合,あるいは産業組織上の問題により,遊休設備や失業者が残存しているのに効果的に稼働させられず,ボトルネック財の価格が跳ね上がってしまう場合などがある。こうして現象的には貨幣的要因と実物的要因が混合してくるし,局所的な一時的・実質的物価上昇と名目的物価上昇も混合してくる。しかし,一時的・実物的要因がどのようなものであれ,もともとの物価上昇圧力は代用貨幣の投入という貨幣的要因に由来するのであり,本質的には価格標準の事実上切り下げによる名目的なものである。

 流通外からの代用貨幣投入が,在庫の販売や遊休設備の稼働による生産増など,投入された貨幣量に見合った商品流通量の増大を引き起こせば物価は変動しない。流通必要貨幣量と実際に流通する代用貨幣の表す価格総額がともに増大しているからである。そして景気は回復し,失業者は減少する。いわゆるケインズ的財政政策が成功した場合がこれにあたる。

 反対に,代用貨幣が商品流通から強権的に引き上げられた場合についてみよう。この場合は商品流通が妨げられるので,代用貨幣流通量のみならず,商品流通量と必要流通貨幣量が同時に縮小する。そのため名目的物価下落は起こらない。むしろ不況となって一時的,さらには実質的下落が生じる。不換代用貨幣の一方投入は物価を名目的に上昇させ,また好況とも不況とも並立するが,その一方的引き上げは商品流通が縮小する実物要因を通して物価を実質的に下落させ,不況とともにあるという非対称性がある。これは「インフレ,デフレの非対称性」と呼ばれるものの本質である。


貨幣的現象としての厳密な意味でのインフレ,デフレ

 貨幣的要因による物価変動のうち,貨幣商品の価値変動は価値尺度の次元でのものであり,公定価格標準の切り下げと不換代用貨幣の流通外からの一方的投入は,貨幣商品重量当たりの貨幣名,すなわち価格標準の次元でのものである。このうち価格標準の変動による名目的変動が厳密な意味でのインフレーション,デフレーションである。厳密な意味でのインフレ,デフレは商品価値の生産や分配条件に由来せず,貨幣商品の生産条件にすら依存しない,よって名目的であるという意味でインフレ,デフレの名にふさわしく,また貨幣的現象である。以下,わずらわしさを避けるために「インフレ」,「デフレ」は日常用語としての意味で用い,厳密な意味でのインフレ,デフレを「貨幣的インフレ」,「貨幣的デフレ」と呼ぶ。

 管理通貨制度下の現代においては,公定価格標準の変更は起こらない。よって,現代における貨幣的インフレは,不換代用貨幣の流通外からの一方的投入によって生じる。また現代においては,貨幣的デフレは起き得ない。「デフレ」「貨幣的現象としてのデフレ」などと呼ばれているものは,実は不況に伴う一時的または実質的物価下落なのである。

 本節の解説をまとめると表2のようになる。


その2に続く)


2024年8月1日木曜日

追加利上げに見る日銀のジレンマ:解決策としての賃上げ・雇用改革

 日本銀行は7月30-31日に開いた金融政策決定会合で,政策金利を「0-0.1%」から「0.25%」程度に引き上げることを決定した。この引き上げには,日銀が抱えるジレンマが表現されている。このジレンマは,コロナ後に深刻になったものであり,日本経済の抱える問題を表現したものである。

 もともとアベノミクス期=黒田総裁期の量的・質的金融緩和は,「金利を上げれば景気をくじき,いつまでも上げなければ企業体質が弱っていく」というジレンマを抱えていた。コロナ後,各地の干ばつとウクライナ戦争による食料・燃料の輸入価格高騰,さらにアメリカのインフレとこれを鎮静化させようとする金利引き上げがドル高円安を招いたことにより,事態は悪化した。

 まず輸入価格の影響である。もともと日銀が描いていたのは,金融緩和が経済を活発化させ,ディマンド・プルによって物価が2%上がることであった。そこで緩和を解除すればいいのである。しかし,一方では賃金が上がらず,賃金が上がらない限りディマンド・プルは起こりそうにないことが明らかになった。他方で輸入価格高騰がコスト・プッシュで景気の足を引っ張り,物価が上がっても緩和を解除できなくなってしまった。

 次にアメリカのインフレとドル高。アメリカのインフレは財政赤字による貨幣的インフレと,景気回復によるボトルネック顕在化という実質的物価上昇の混合である。インフレ率は日本よりアメリカの方がはるかに高いので,貿易のベクトルではドル安になるはずであった。しかし,インフレ対策の高金利が,米日の間に金利差を作り出し,しかもアメリカの高金利も日本の低金利も,どちらも政策的にしばらく続くだろうという期待を持続させてしまった。そのためポートフォリオ,つまり金融資産のストックの組み替えがドル資産に向かい,激しいドル高円安が生じた。1980年代と異なるのは,アメリカの貿易赤字や財政赤字の持続性がさほど心配されておらず,高金利・ドル高でも,ドルが暴落するという不安が広がっていないことである。

 このように,過去数年のドル高円安は,もっぱら金利格差継続の期待という,金融的要因と政策的に要因によるものである。インフレ率格差によるものでもなければ(それなら全く方向が逆である),米日の生産性向上率格差に基づくものでもない。日本経済の停滞が円安を招いているという論評があるが,感情的悲観である。購買力平価は円安に振れておらず,また現実のレートは購買力平価よりはるかに円安に振れているからだ。

 インフレ率格差による相場調整ならば,二国間の財の交換比率は変わらない。ところが,金利格差によるドル高円安では,輸入価格は実質的に上昇し,輸出価格は実質的に下落するので,財の交換比率,つまり交易条件は日本にとって悪化する。円の購買力が落ち,輸入品の値上がりを通して物価は実質的に上昇する。したがい,内需向け中小企業の活動条件や市民生活を圧迫する。

 一方,輸出品は安売りとなる。日本企業は輸出に際してドル価格を引き下げて大量販売するのではなく,製品を高級化させてドル価格を維持し,円換算での収入を増やしているようだ。なんにせよ輸出企業は利益を上げている。

 つまり,企業利益は増えて景気はそこそこ回復しているが,賃金が上がらず物価が上昇したため市民生活は悪化し,リベンジ消費も盛り上がらない。これが2022年頃までに生じた状態であった。「賃金が上がらない限りディマンド・プルによる景気回復が起こらない」とようやく察した政府は,比較的あからさまに,また日銀は遠回しに賃上げを奨励するようになった。経団連も,過去30年間賃上げ抑制を訴えてきた路線を手のひら返しし,会員企業に賃上げを呼び掛けるようになった。その結果,2023年以後,名目賃金はついに上がり始めたが,物価上昇に追いつかず,実質賃金はいまなお低下し続けている。

 説明が長くなったが,これでコロナ後の日銀のジレンマの正体が明らかになる。「賃金が上がらなければディマンド・プルでの物価上昇はおぼつかないが,なかなか実質賃金が上がらない。これが実現するまでは金利を上げて景気をくじくことはしたくない」。一方,「円安によるコスト・プッシュの物価上昇は実質的物価上昇=円の購買力低下であって困る。これを止めるには金利を上げて,米日金利格差の継続期待を解消しなければならない」。それでは,いったいどうしたらよいのか。これが,ポストコロナ期に激しくなったジレンマなのである。

 今回,日銀は金利をわずかに引き上げた。これは,一方で景気をくじかない程度の引き上げにとどめ,他方で,日銀が緩和に固執するのではないという姿勢を金融市場に見せて,金利差継続期待を解消するためであろう。こうした熟慮は,植田総裁の会見詳細にもにじみ出ている。しかし,うまくいく保証はない。

 日銀のジレンマは,日本経済のジレンマでもある。金利が上がらなくても上がってもダメージを受けかねないのである。これは,日銀だけでは解決できるものではない。問題の根源は,賃金が極度に上がりにくいことである。賃金が上がれば,市民生活は改善され,労働分配率は上がって経済格差は緩和され,物価上昇はディマンド・プル型となって経済活性化に寄与するものに変わる。

 では,どうすれば賃金が上がるのか。政府が呼びかけるだけでどうにかなるものではない。賃上げを迫る社会的圧力を強めねばならないし,雇用慣行を変えねばならないだろう。専門職の給与はジョブ型にして引き上げるべきではないのか。非正規の差別的低賃金は,ジョブ型正社員にすることで引き上げるべきではないのか。多くの正社員がメンバーシップ型雇用のままであるとしても,労働組合は産業別または職業別に組み替えて,会社に忖度しない賃金交渉をすべきではないのか。そして政治・社会運動は「はたらく者の賃金が上がりやすい社会」という古典的テーマのためにもっと力を配分すべきではないのか。ジレンマ解決の道は,金融政策ではなく,雇用改革に求めねばならない。

「日銀 追加利上げ決定 政策金利0.25%程度に【総裁会見詳細も】」NHK,2024年7月31日。

過去記事

「賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済」2023年7月8日。

「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」2022年6月20日。


2024年2月15日木曜日

財政赤字は貨幣を追加で生み出すのか,それとも国債消化と相殺されるのか:米山隆一氏の山本太郎氏への批判によせて

  山本太郎氏の2年前のアベマプライムでの発言を支持者がシェアし,それを米山隆一氏が批判し,それを山本氏の支持者が批判し,米山氏が応答するという形で,Xで議論がなされている。しかし,米山氏への批判と米山氏の応答を読む限り,噛み合っているとは言えない。

 この話は,財政を通貨供給システムと見るときの大事な論点に関わっているのでコメントする。まず論争について要約すると,私はこう思う。


*山本氏が,アベマプライムや,類似のことを主張しているYouTube動画で主張していることは,結論としては,ある範囲では正しい。
*しかし,これらの動画では論証で一番必要なところをすっ飛ばしているので,根拠を示さない主張になっている。したがい,批判されるのはもっともである。山本氏の支持者たちも,肝心かなめの根拠を説明していないので,米山氏は,彼/彼女らの主張が根拠のないものと受け取っている。
*その一方,米山氏がマクロ経済学の常識として述べていることは,確かに常識なのだが,ある重要な点で正しくない。
*したがい,根拠なき主張になっている点では山本氏に問題がある。一方,結論は米山氏よりは山本氏の方が妥当である。
*もっとも,山本氏の主張もいつでもどこでも当てはまるわけではなく,一定の条件を必要とするものである。
*れいわ新撰組の文書を見ると,山本氏の主張の根拠は書かれているが,やはり説明は足りない。

 山本氏は,「誰かの赤字は誰かの黒字」「政府の赤字は民間の黒字」「政府の負債は民間の資産」と主張して,政府が財政赤字を出すことによって民間は黒字となり,所得と雇用が生み出されて経済が回ると主張している。そして,政府の赤いと民間の黒字が対応している証拠として資金循環表をアベマプライムでもYouTube動画でも提示している。

 これに対して米山氏は,「非常に不正確で正確には「政府の赤字は国債を買った人の黒字。但しそれは、例えば100万収入がある人が、自分では50万しか使わず50万国債を買ったので収入(100万)>支出(50万)になって黒字なだけで別に何か富が生み出されている訳ではない」です。」と述べている。また補足として別の投稿では,「「政府の赤字」=「国債発行額」である以上(赤字は国債で埋めなければ支出できない)、論理必然に「民間の黒字」=「国債購入額」になります。」とも述べている。

 さて,この論点について私がどう考えるかである。実は以前もランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』の読書ノートとして投稿したことがあるが(※1),わかりにくいところが残っていた。より分かりやすくすることを心掛けて説明する。

 まず資金循環表を使って「政府の赤字は民間の黒字」と言えるのは,いわゆるISバランスのことである。対外関係を捨象すると,

政府支出-税収=民間貯蓄-民間投資
G-T=S-I

は必ず成り立つ。

 しかし,このことから,財政赤字が貨幣所得を生み出すという議論は直ちには言えない。財政赤字が貨幣所得を生み出すと説明しただけではなく,政府が国債を発行したことの作用も言わなければ不十分である。政府が国債を発行した際に民間からお金を吸い上げれば,生み出した貨幣所得は相殺されてしまう。しかし,民間からお金を吸い上げずに国債を発行できれば,そうはならない。このどちらが生じるのかについて,資金循環表では何もわからないのである。

 では,国債発行は民間資金を吸い上げるか。常識的なマクロ経済学で思考すれば,答えはイエスである。しかし,実は重要な場合に答えはノーなのである。それは,銀行が新規発行国債を購入する場合であり,現実に大きな割合を占める場合である。

 ここで切り口を貨幣論的にする。

 いま,硬貨は無視し,預金はみな当座性預金だと単純化すると,

・マネーストック(民間の貨幣流通量)=銀行預金と日本銀行券
・マネタリーベース(日本銀行が直接供給する貨幣供給量)=日本銀行当座預金と日本銀行券

となる。財政赤字によって貨幣所得が増えて経済が回るのは,政府支出でマネーストックが増えた場合である(※2)。国債発行が民間資金を吸い上げるとマネーストックが減ってプラマイゼロになり,吸い上げなければプラスのままになる。

 さて,政府が赤字支出を例えば100億円すると以下のことが起こる。なお,支出は企業・家計への口座振込で行われるものとする。


*政府が100億円赤字支出をしたとする。政府は受取人ごとの明細を記した振込指図書と政府小切手を日銀に交付する。
*日銀は,政府預金から100億円を取り立て,受取人が口座を持つ銀行の日銀当座預金に入金する。銀行はこれを受けて受取人の預金口座に100億円入金する。
*したがい,社会全体として銀行預金が100億円増える(=マネーストックが増える)。そのため,民間所得100億増円となる。
*銀行の準備預金(日銀当座預金)も100億円増える(=マネタリーベースが増える)。銀行は支払い仲介しただけなので,負債(預金)が100億円増,資産(日銀当座預金)が100億円増で,収支はプラマイゼロである。
*政府預金が100億円減る(なお,政府預金はマネタリーベースにもマネーストックにも含まれないことに注意して欲しい)。
*政府は赤字分を国債100億円を発行して調達する。銀行がこれを買うと,準備預金が100億円減る(=マネタリーベースが減って元に戻る)

 この動きをマネーの増減としてだけ見ると,以下のようになる。

・民間所得が増えてマネーストックが増えた。
・マネタリーベースも増えた。
・国債は,増加したマネタリーベースからの融通で消化された。
・マネタリーベースはプラマイゼロに戻った。

 だから,財政赤字分だけマネーストックは増え,貨幣所得が形成されたのである。

 このとき,「民間の黒字」や民間貯蓄によって国債が購入されているのではない。赤字支出で増えたマネタリーベースで国債が購入されているのである。

 なぜこうなるかというと,「財政支出をするとマネーストックもマネタリーベースも増える」,つまり「貨幣発行量が増える」からである。どうして増えるかというと,「中央政府は銀行にお金を支払って,預金債務を増やしてもらった」からであり,「日銀は準備預金という債務の増加を受け入れた」からである(※3)。銀行預金というマネーストック,日銀当座預金というマネタリーベースが増えたのである。

 常識的なマクロ経済学で考えると,こうはならない。それは,銀行が中銀当座預金によって国債を購入するというしくみが,常識的マクロ経済学では把握できないからである。しかし,これは現実である。敢えて言うならば,私の言っていることは個人的思想ではなく,銀行実務を叙述しているだけである。

 多くの人は,なお騙されたような気持になるかもしれない。「国が借金したならば,どこからかお金を持ってきたはずだ。借金しただけでお金が増えるというのはおかしいではないか」と思うだろう。山本氏や,またMMT(現代貨幣理論)の主張をトンデモだという人も,大体このように考えてのことだろう。

 しかし,そうではないのである。まず債務とは,「誰かが持っているお金を融通してもらう」こととは限らない。「支払約束の証書を新たに発行する」ことも債務である。そして,預金貨幣や日本銀行券は,こうした証書なのである。銀行の債務証書や日銀の債務証書が,銀行や日銀の信用度の高さゆえに貨幣として流通しているのである。こうした貨幣を信用貨幣という。だから,「債務証書を新たに発行する」ことこそ貨幣の発行なのである。「借金するから,新たな債務証書が流通してお金が増える」のである(※4)。

 財政赤字の効果を理解するには,この信用貨幣のしくみと,中央政府ー中央銀行ー銀行間の取引関係の二つを把握しておくことが必要である。

 最期に,もういちど山本氏と米山氏の主張に戻る。山本氏の主張が理解されないのは,動画では資金循環表を持ち出すだけで上記二つのしくみの説明をすっ飛ばしているからであり,それ故,「国債発行は民間資金を吸い上げない」ことが説明できていないからである(※5)。他方,米山氏が依拠する常識的マクロ経済学では,もともと「国債発行は民間資金を吸い上げる」と誤認しているので,財政赤字が民間所得に対してプラマイゼロだと見誤ってしまうのである。山本氏は結論は妥当だが根拠の説明がなく,米山氏は結論が妥当でない。米山氏の結論が妥当ではないのは,米山氏個人の問題ではなく,常識的マクロ経済学の問題である。

 なお公平のために言うと,れいわ新撰組の文書では,信用貨幣のしくみと,中央政府ー中央銀行ー銀行間の取引関係が把握されているように見える(※6)。しかし,「統合政府が貨幣を発行している」ことの説明はされているのだが,「国債を発行しても民間資金は吸収されない」という側面の説明が弱い。その点の説明にもっと注意を払い,演説などでも不可欠の要因として加えていくことが必要だろう。


<補足説明:財政支出の有効性について>

 貨幣表現の需要が増えて貨幣所得が増えるとしても,それで「ものとしての富」が増えるかどうかは,また別問題である。政府が行った事業が,社会にとって適切かどうかは,増えたカネの金額だけでは決まらない。

 たとえば,完全雇用状態で財政赤字を出してもインフレになるだけであって実質所得は増えない。つまり,出発点において需要不足であるかどうかが政府支出の有効性を左右する。

 また,失業者を吸収する際に「テキトーに穴を掘って,また埋め戻して下さい。給料は払います」としても,「地震で壊れた道路を復旧する仕事をしてください。給料は払います」としても,カネの動きは変わらないが,社会的には後者の方が明らかに望ましい。この社会的望ましさは,生まれた所得の金額だけでは判定できない。別の基準によって,「富が生まれた」かどうかを判断しなければならないのである。つまり,財政支出の成否は,金額の大きさだけでなく,それによってどんなモノ・サービスがどう生まれたかに依存する。だから財政支出は,タイミングと中身がたいへん重要である。赤字財政は一定の場合に積極的効果を持つが,どんな場合でも財政赤字を一方的に拡大させればよいということにはならないのである。


※1 「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。https://riversidehope.blogspot.com/2019/09/lmmt_5.html,「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日。https://riversidehope.blogspot.com/2019/09/lmmt_22.html

※2 貨幣所得が増えて実質所得も増えるのは,購入すべき在庫や雇うべき人がいる不完全雇用状態の時である。完全雇用状態の時は,インフレになるだけで実質所得は増えない。後に補足する。

※3 この設例では,日銀は国債を引き受けたわけでもないし,買いオペレーションさえしていないことに注意して欲しい。政府支出の際に,ただ黙って銀行の準備預金(日銀当座預金)100億円が増えて政府預金が100億円減るのを受け入れただけである。それでどうして貨幣を発行したことになるかというと,準備預金はマネタリーベースだが,政府預金はマネタリーベースに含まれないからである。
 ほんらい,準備預金は日銀が銀行に信用供与する際に発行するものである。しかし,この場合,準備預金が一方的に増えることで,マネタリーベースは増えたのである。これは財政赤字が中央銀行に与える独特の作用である。

※4 誤解を避けるために言うが,ここで言う「債務証書」とは発行された国債ではない。増加した銀行預金と中銀当座預金のことである。国債が貨幣なのではない。国債は,中銀当座預金によって買われる金融商品である。国債を貨幣等価物とみなす議論がよくあるが,マクロ的な貨幣流通の議論においては話を混乱させるだけなので止めるべきである。

※5 「れいわ財政政策」れいわ新撰組サイト。
https://reiwa-shinsengumi.com/reiwa_newdeal/newdeal2021_01/

<参照>
米山氏の最初の山本批判のポスト。2024年2月10日。
https://twitter.com/RyuichiYoneyama/status/1756230337162846325

米山氏の批判に関する報道。「米山隆一氏 れいわ山本太郎代表の言説を全否定「非常に不正確」「ミスリーディングな幻想を語るのも大概に」デイリー,2024年2月11日。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8f83b1c3976e147d60d4e5f64bb1feb36517c047

補足として引用した米山氏のポスト。2024年2月12日。
https://twitter.com/RyuichiYoneyama/status/1756987125265014867

山本氏のアベマプライムのフル動画。「【国債発行】「テレビでは聞かない話、半信半疑だと思う」独自色が強い経済政策をどう実現?れいわ新選組 山本太郎代表に聞く【ノーカット】」ABEMA Primetチェンネル, YouTube, 2022年2月1日。
https://www.youtube.com/watch?v=iW5gkmMKAN0

同様の主張をしている山本氏の演説動画。「【国の借金=私たちの借金は嘘!?】テレビ新聞で報じない 25年のデフレを脱却する方法【山本太郎】」れいわ新撰組チャンネル,2021年10月19日。
https://www.youtube.com/watch?v=t76Ep77Mo0Q

※2024年11月23日追記
 本稿の見地は修正を要する。国債発行は民間資金を吸い上げない。しかし「国債発行による預金貨幣の追加供給量×準備率」だけ,中央銀行が供給した当座預金を吸収するのである。ここで述べた「カネのクラウディング・アウト効果はない」という主張は,1)あらゆる場合に打倒する一般論ではない。一般論として述べたのは本稿の誤りであった2)しかし,超過準備が一定以上存在する下では妥当する。3)また,中央銀行が政府と協調して金利を低め誘導するという条件下でも妥当する。したがい,現在の日本ではやはり妥当するのである。

詳しくは以下を参照。
「『カネのクラウディング・アウト』再考:超過準備の存在という条件」Ka-Bataブログ,2024年11月23日。

2024年2月4日日曜日

アメリカ経済の運命を左右するのはFRBのQTか,それとも国債の償還・借り換えか

 FRBの金融引き締めがいつ,どのように転換を迎えるかが話題となっている。しかし,その議論はかなり入り組んでいる。たとえば,「リバースレポ残高が枯渇すると市場の流動性がひっ迫するおそれがあるので,QTのペースを落とした方がいい」などと主張されているが,多くの人には何が何やらだろう。

 しかし,そもそもQTの理解に問題があるのではないかというのが,本稿のテーマである。FRBはコロナ後のインフレに直面して金融引き締めを行っているが,伝統的な手段,つまり手持ち国債を売却して金利を引き上げるという方法が,市場にショックを与えやすくとりにくいという問題に直面している(これは金融緩和の出口を模索する日銀も同じである)。そのため,引き締めは,準備預金金利引き上げ,リバースレポ金利引き上げ,そしてQTによって行われている。QTとは,売りオペレーションをするのではなく,保有している国債が満期償還されたら,再び国債を購入しないことによって,バランスシートを縮小することである。本稿は,この三つの引き締め手段のうち,QTに対象を絞って論じる。

 さて,QTに関する市場関係者の議論を聞いていると,そのほぼすべてが「QTをすれば準備預金が減って金融が引き締まる」,もう少し正確に言うと「QTをすれば準備預金またはリバースレポ残高が減る」と理解している。だから,最近のリバースレポ残高の減少について,「リバースレポがなくなってしまった後もQTを続けると,準備預金が大きく減って金融が引き締まる」と理解して,その行き過ぎで金利が急騰することを心配しているのである(※1)。

 しかし,「QTをすれば準備預金が減って金融が引き締まる」というのは果たして正しいのだろうか。QTのオペレーションをよく見てみよう。注意すべきポイントは,QTに国債が関わることである。国債購入に投じられたマネーは政府の下で眠り込むのではなく,財政支出される。このことを含めてQTと国債償還,または借り換えの効果を見る必要がある。

1)QTが行われる。まず,政府は国債償還のために課税等を強化してマネーをかき集め,政府預金を増やす。そして国債を償還する。FRBのバランスシートでは,まず負債側で政府預金が増えて連邦準備銀行券(つまりドル札の現金)発行高が減る。その後,資産側で国債が減り,負債側で政府預金が減る。結果として,負債側で減ったのは銀行券発行高である。通貨供給量(マネーストック)は減少する。準備預金は減少しない。ただし政府が課税した際に銀行預金を引き出して応じた人が多ければ,その分は銀行券でなく準備預金が減少する。

 このように,QTが行われ,政府債務が減少した場合は,マネーストックは確かに減るので,おおむね金融は引き締まる。ただし,銀行券と準備預金がどういう割合で減るかは,場合による。

2)話がここで終わらず,政府は国債を借り換えて政府債務総額を維持した場合を考えよう。借り換え国債は銀行が購入するとしよう(MMFが購入することもあるのだが,それについては別途考察する)。今度は銀行の準備預金が減り,政府預金が増える。しかし,これで終わりではない。政府は財政支出をする。仮に小切手支払だとすると,受け取り手はこれを取引銀行に持ち込んで預金か現金にかえる。銀行は政府に支払いを要求し,FRBの決済システム上で,政府預金から準備預金へと振り込んでもらうことで支払いを受ける。これで銀行の準備預金は回復する。したがいFRBのバランスシートは変化しない。ただし,政府支出の受け取り手が現金を選ぶと,その分だけ銀行は準備預金を引き出すので,準備預金は完全には回復せず減少し,その分だけ現金発行高が増える。政府債務は借り換え債発行前よりは増え,以前の国債償還前とは同額になる。そして,マネーストックは,借り換え債発行前と比べると,財政支出の受け取り手が得た預金または現金の分だけ増える。そして国債償還前と同額まで回復する。

(2025/6/30追記:後日の見直しにより,ここから先の議論には誤りが発見されました。お詫びして訂正します。訂正趣旨は末尾をご覧ください)

 このように,QTが行われて政府債務総額は維持された場合は,マネーストックは変動しない。したがい金融もおおむね引き締まらない。準備預金は,政府支出が預金で受け取られた分は変動せず,現金で受け取られた分だけ減る。現金で受け取られる割合は,これも全く場合による。

 以上の理解が正しいとすると,「QTで準備預金は減って金融が引き締まる」と思い込むところが,そもそもおかしいのである。単純化のために,仮にこれらの取引に現金が用いられることはないとすると,1)では準備預金は減るし金融は引き締まるが,2)では全く減らないし,金融も引き締まらない。この大きな違いを左右するのは,国債が借り換えられるか否かであることがわかる。

 「QE(量的緩和)では準備預金が増えるんだから,QTでは減るだろう」と思う人がいるかもしれない。しかし,そうではない。QEとQTではちょうど正反対のことをしているわけではないからである。QEでは,FRBは買いオペレーションを行う。つまり銀行が購入した国債を買い上げているので,準備預金が増えるのである。対してQTは,QEの正反対である売りオペレーションをするのではない。売りオペレーションによるバランスシート縮小は,市場へのショックが大きいため行われていない。QTとは満期国債の償還を受けることなのである。

 だから,QTそれ自体では,金融が引き締まるかどうかは決まらない。それを決めるのは,償還された分の国債が借り換えられるか否かなのである。

 だから,金融政策であるQTの効果とみられるものは,実際には財政政策の効果である,それも,QTによって一義的な結果が出るものではない。国債発行の縮小か継続かによって効果は全く異なる。FRBによるQTの選択ではなく,財政民主主義による財政支出の選択こそが本当の問題だ。

 QTそれ自体に効果があるとすれば,「もうこれ以上,国債を買いオペしませんよ」というシグナル,もっと言えば「国債をFRBで買い支える事実上の財政ファイナンスははやりませんよ」というシグナルを政府に対して送ることだろう。それも,金融システムそれ自体を操作するのではなく,結局は国債借り換えに対する警告である。

 国債発行を選択の問題とした場合,国債消化がそれを制約しないかという問題はある。QTの下で国債発行を続けた場合,FRBのによる買い上げを当てにせず,市中で消化しなければならないからだ。しかし,現状のアメリカで国債の引き受け手がなくなるとは考えにくい。むしろ,世界金融危機後の金融商品取引への規制は,銀行やMMFを国債に買い向かわせる効果を持っている。

 国債の消化自体は問題がないとすると,問題は,国債償還による財政支出の縮小か,借り換えによる財政支出の継続かである。QTと国債発行高縮小の組み合わせが取られた場合は,需要にはマイナスの圧力がかかる。逆にQTと国債借り換えの組み合わせが取られた場合は,その圧力はかからず,従来規模の財政赤字の下での政府支出規模が維持される。どちらが望ましいかの問題だ。まったくマクロ的に見れば,現状では,支出を絞れば超過需要によるインフレを冷ますにちょうどよいだろう。しかし,財政の問題は,支出規模だけでなく,内容も問題となる。物価を上昇させるだけで実質的に需要を拡大できない支出は無駄である。しかし,政府機関を止めずにその機能を維持するための支出は必要だろう。また,インフレ下での生活苦から消費者を救済する支出や,技術開発や人材育成や脱炭素社会のインフラ整備など経済の供給能力を改善して,長期的インフレ圧力を軽減することも有益だ。ポストコロナのインフレ下では,財政の総支出規模を絞り気味にすることと,必要な支出を確保することは区別する必要がある。

 財政の問題を抜きに,また財政支出の内容の吟味を抜きに,「QTが金融をどれほど引き締めるか」という次元だけで議論しても,空転気味の車輪で前進を図るようなものだと,私には思えるのである。

※1 話が横道にそれて複雑になるので,注で説明する。市場関係者は以下のように考えているのだと思われる。
<FRBがQT(量的引き締め)をする,つまり「保有している国債が満期償還されたら,再び国債を購入することはせずに,バランスシートを縮小する」と,FRBバランスシートの資産側で国債が減少する。では,負債側では何が減少するか。それは政府が借り換えのために発行した国債を,誰が購入するかによる。国債を銀行が超過準備で購入したならば,銀行の資産側,FRBの負債側で準備預金が減る。一方,MMFが購入したならば,MMFの信託勘定の資産側,FRBの負債側でリバースレポが減る。2023年半ばからリバースレポ残高が急速に減っているのは,FRBがQTを続ける一方,MMFが運用先をリバースレポから短期国債に切り替えているからである。FRBがQTを続け,政府が国債を借り換え続けると,FRBの負債側では準備預金かリバースレポが減る。リバースレポがなくなってしまうと,減るのは準備預金になる。準備預金が減ると銀行の融資や金融商品購入が制約され,金利が急騰するかもしれない。だから,リバースレポがなくなる前にQTのペースを落とした方がいい。>
 この議論の問題は,政府が国債を発行して集めたお金を支出した際の効果を見落としていることである。実際に銀行が借り換え国債を購入した場合には,FRBの準備預金は減少しないことは,本文を参照して欲しい。

<2025/06/30追記>

 本稿の議論には,準備預金の動きについての誤りがあった。個々の記述は誤っていないのだがまとめがおかしい。

 FRBがQTを行った際に、国債償還に当たって納税者が預金口座から納税すると銀行預金も準備預金も減少する。

 その後,政府が同額の国債を発行して銀行が準備預金でこれを購入すると準備預金は減少する。一方,政府が財政支出を行うと銀行預金が増え,準備預金は増加する。準備預金はこの動きを通してプラスマイナスゼロである。

 この二つの動きを合算すれば,銀行預金はプラスマイナスゼロ、準備預金は減少である。マネーストックはプラスマイナスゼロ,マネタリーベースはマイナスである。

 だから,QTで確かにFF金利には上昇圧力はかかるのであって,この点の理解が誤っていた。※1で紹介した市場関係者の懸念も妥当と認めるべきだった。拙論が,アメリカ経済の運命を左右するのは国債を償還して財政赤字を縮小するか,借り換えて需要を刺激し続けるかである,と述べたことは間違っていない。しかし,QTが準備預金を縮小しすぎれば金利の急騰は起こり得るので,QTが独自の意義を持つことを否定する結論にしたのは誤りであった。










2023年7月8日土曜日

賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済

 日銀によれば,2023年1-3月期の需給ギャップはマイナス0.34%。つまり,まだ多少の需要不足である(※1)。

 昨年の6月20日に私は,日銀は国債の「日銀が買い支えに失敗すれば不況であり,成功しても,せいぜい高中所得層だけの好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ち」に直面していると指摘した(※2)。2022年の後半はコロナの再発によってリベンジ消費が不発に終わり,日本だけが超金融緩和を続けている状況が継続しているため,「ばくち打ち」は今年に持ち越された。現在,国債に対する投機攻撃は落ち着いており,日銀はさしたる抵抗もなく金融緩和を続けているので,「ジレンマ」は収まった。しかし,「ばくち打ち」は続いている。2023年の後半はどうなるだろうか。

 設備投資と消費は回復しており,需給ギャップは縮まりつつある。21世紀突入以来設備投資をためらい続けて日本企業も,DX投資とグリーン投資をしないわけにもいかず,設備投資は拡大している(※3)。また,この夏こそリベンジ消費は盛り上がるかもしれない。この春に名目賃金が20年ぶりくらいに上昇したことも財布のひもを緩める作用を持つ。しかし,コスト・プッシュインフレは電力料金の引き上げなど目に見える形で顕在化している。日銀が超金融緩和を堅持しているために内外金利格差は今後も続くと期待されており,それ故に円安も続いている。それ故に輸入品経由のコストプッシュ・インフレ,購買力流出による需要抑圧効果は続く。現時点でもまだ実質賃金は低下し続けている(※4)。これは当然,財布のひもを締める方向に働く。一方,欧米のインフレ・金利引き上げがなお続いているのに,日本は超金融緩和と円安になっていることで,日本株買いが起こっており,日経平均はうなぎのぼりである。このことは,富裕層には資産効果による消費増をもたらす。

 植田総裁率いる日銀は,おそらく超金融緩和の継続が景気に与えるプラス(株高・資産効果,企業の資金繰り改善,輸出促進)とマイナス(コストプッシュ・インフレによる景気抑圧)を踏まえた上で,プラスの方が大きくなり,今年後半に需給ギャップが解消,ディマンド・プルインフレが起こることを期待している。それをきっかけにイールド・カーブ・コントロール(長期金利抑圧)解消など金融政策の正常化にもっていこうとしているのだろう。そうすれば過度の円安圧力も解消される。

 問題は,賃上げが定着するかどうかである。賃金が上がり続ければ日銀の思惑通りになり,また何よりも日本に住む多くの人が景気回復の利益を享受できるかもしれない。しかし,もし賃上げがしりすぼみに終わって実質賃金が低下し続けるならば,リベンジ消費は高中所得層だけのものに終わるかもしれず,最悪,景気は腰折れして物価高のみが残るかもしれない。あるいは,株高だけが突っ走るバブルとなるおそれもある。

 繰り返すが,必要なのは賃上げ圧力の継続である。それが,当面の間,日本経済にいちばんベターな状態をもたらす。労働組合運動には奮起が求められるし,政府は最低賃金引き上げ,労働基準の厳格適用によるブラック企業根絶が求められる。また,賃上げが日本経済全体のためになるという世論づくりも各方面から必要である。賃上げ圧力がなければ,高中所得層のみが享受できる好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ちであることは,昨年と変わらないのである。

※1 「需給ギャップ、近づくプラス圏 日銀の1〜3月期推計」日本経済新聞,2023年7月5日。

※2 「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」Ka-Bataブログ,2023年6月20日。

※3 「設備投資計画、23年度11.8%増 日銀6月短観」日本経済新聞,2023年7月3日。

※4 「5月の実質賃金1.2%減、14カ月連続 基本給28年ぶり伸び」日本経済新聞,2023年7月7日。



2023年5月20日土曜日

「統合政府だから政府債務はプラマイゼロ」論の誤り:加藤出「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」によせて

 東短リサーチ社長チーフエコノミスト・加藤出氏による「経済教室」欄への寄稿「「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」は,重要な論点を提起している。短資会社で実務に携わって来られたためであろう。多くの学者が見落としていることに気づいているのだ。具体的には,この「経済教室」は,

「日銀が国債で債権を,中央政府が債務を持てば,統合政府としてはプラマイゼロ」

という主張(以下「プラマイゼロ」論)の誤りをはっきり指摘しているのである。

 該当するのは以下の箇所である。「日銀が国債を大量に保有しても、政府と日銀のバランスシートを合わせた「統合政府」の債務は一円たりとも減少しない。民間が保有する国債が減っても、代わりに日銀当座預金(統合政府の超短期の債務)が増えている」。

 なぜそうなるのかを補足して説明しよう。以下は,財政法で禁止されている日銀による国債引き受けを実施した場合でも,現在行われているように銀行が国債を引き受けた後,「量的緩和」と称して日銀が買いオペをした場合でも同じである。

 債権増を(+),債務増を(-)で表すと,「プラマイゼロ」論は,日銀が国債を持てば,

日銀(+) 中央政府(-)

になり,統合政府としてはプラマイゼロだと考える。しかし,そうではない。なぜなら,このとき中央政府は財政支出を行っているので,民間の経済主体の所得が増加し,

民間企業・家計(+)

となっているからである。民間企業は,政府小切手を受け取って銀行に持ち込み,政府からの取り立てを依頼する。あるいは,政府が政府預金をおろし,自ら,あるいは民間銀行を通して民間企業・家計に現金を支給する。手続きはどうあれ,このお金の流れの結果は以下のようになる。

民間企業・家計(+)
銀行(+)(-)
日銀(-)

企業・家計の預金が増える。その分だけ銀行の日銀当座預金も増える。これで銀行はプラマイゼロであるが,日銀にとっては債務増になるのである。

 これを,国債自体に関する債権債務と合わせるとこうなる

中央政府(-)
日銀(+)(-)
民間企業・家計(+)
銀行(+)(-)

 だから統合政府としては,

日銀(+)(-) 中央政府(-)

であって,合算すれば(-)で,債務は増えているのである。具体的には,1)企業・家計が所得の増分を預金で持っていれば,同じ額だけ日銀の超過準備預金が増える。2)企業・家計が一部を預金でなく日銀券で持っていれば,その分だけは超過準備預金の代わりに日銀券発行残高が増える。

 「プラマイゼロ」論者のどこがおかしいかというと,国債の発行と引き受けのところしか見ないところである。政府が赤字支出した結果として民間から統合政府への債権が増えるというところを見落としているのである。

 もちろん「プラマイゼロ」論者が言うように,国債の元利償還については,中央政府が日銀に払い,日銀は黒字が出たら納付金で中央政府に戻される。そこだけ見れば,統合政府の負担はない。また,日銀当座預金が無利子であれば,日銀には利子の負担もない。

 しかし,現在のように,日銀が超過準備預金に付利せずにいられなくなると,話は違ってくる。日銀はゼロ近傍まで金融を緩和する際は,短期金融市場の安定のために超過準備預金の少なくとも一部はプラス金利にせざるを得ない。また金融引き締めの際は,超過準備預金金利を引き上げないと有効な引き締めができない。実際,植田総裁も引き締めは超過準備預金金利引き上げで行うことになるだろうと国会で述べている。

 しかし,このことは当然に日銀のコストになる。加藤氏が言う通り「統合政府の債務の平均残存期間は著しく短期化しており、金利上昇局面がやってきたら統合政府の利払い費は急増しやすい危険な構造だ」ということである。利払いがかさんで日銀の業績が悪化し,債務超過に至れば,政府や国会の側から日銀の経営への疑義が提起される。もともとの発端は財政赤字なのであるが,政府や国会はそれを認めないか,認めるとしても,財政赤字の帰結はすべて自分たちに管理させろ,日銀の独立性など制限せよと言い出すかもしれない。かくて,「中央銀行の独立性と財政民主主義」という組み合わせの制度が揺らいでいく可能性がここにある。その結果は,財政赤字のコントロールが一層難しくなるということだろう。

 種々の「プラマイゼロ」論がいうように,自国通貨建て国債はデフォルトはしない。借り換え続けることも可能である。しかし,何の問題も起こらないわけではない。まともな研究者や実務家ならば,MMT論者を含めて知っている通り,インフレ,バブル,課税能力への疑義による為替下落が起こるかもしれない。加藤氏の議論を借りて私が言いたいのは,それらに加えて,中央銀行制度の動揺に至る可能性があるということなのである。

加藤出「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」日本経済新聞,2023年5月19日。

2023年4月30日日曜日

なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか

1 理解すべき現状

 本稿の目的は,2023年春において,FRBが,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っていることの理由と意義を論じることである。本稿が念頭に置いている事実関係は以下のものである。

・FRBはインフレ対策のため,短期金利(FFレート)の高め誘導を続け,またQT(FRBのバランスシート縮小)を行っている。3月半ばに一時的に拡大したが,その後再び縮小に入っている。
・経営が不安定な個々の銀行のみならず,銀行セクター全体の預金が減少している。
・公社債投資信託の一種であるMMFの残高が拡大している。
・銀行の準備預金が2021年末をピークに縮小している。
・FRBのリバースレポ取引が増加している。(したがい,FRBのバランスシート負債側で準備預金の割合が縮小し,リバースレポ取引残高の割合が拡大している)
・アメリカの通貨供給量は,M1, M2とも2022年半ばから減少している。
・現金流通量は緩やかな拡大傾向であり,3月はやや増加速度が速まった。
・銀行貸出額は2月以降減少している。

 以上の事実関係は,ほとんどはFRBサイトで,またTrading Economicsサイトなどを補完的に使うことで確認できる。

2 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するか

 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するのだろうか。まず,全体として景気がリセッションに向かう懸念が強まっている上に,速いペースでの金利高騰のために,銀行のポートフォリオ管理が難しくなっている。シリコンバレーバンクに続く銀行の経営破綻への不安も解消されていない。したがい,企業は銀行から借りず,銀行はリスクを取っての貸し出しに慎重である。まずもって,銀行貸出額が減少することにより預金残高も抑制されるのである。

 しかし,預金残高が減る理由はこれだけではない。銀行への経営不安と,預金金利の上昇が公社債金利上昇より遅れることから,預金者は銀行預金を引き出している。そのごく一部は現金で保有され,他の一部はMMFに向かっている。

 ほんらい,貯蓄性預金がおろされてMMFが購入されるだけでは,銀行セクターの預金残高は減少しない。預金者の貯蓄性預金が減り,MMFの運用会社や公社債の売り手の要求払い預金が増えるだけである(大畠,1987)。それでは,いま現実に預金残高が減っているのは,なぜか。理論的に考えられることの一つは,銀行不安の下で,流動性を現金で保有しておこうという指向が強まっているからである。つまり,預金がMMFに化けるのではなく,預金が現金に化けるルートである。しかし,これでは現金のわずかな伸びとMMFの急増を説明できない。

 より説得力がありそうなのは,銀行セクターから脱落した預金がいったん現金となり,MMFを介してFRBに貸し付けられていることである。MMFはFRBのリバースレポ取引の利用額を急増させている。これは,FRBに売り戻し条件付き国債購入,実質的には国債を担保にとっての短期貸し付けを行うことである。形式的にはおそらく銀行(クリアリング・バンク)を仲立ちにするが,実質的にはMMFとFRBの間の貸し借りである。したがい,通貨は預金貨幣→現金→MMFのリバース・レポ取引残高となって,市中から消え,FRBの負債残高になっているのだと思われる。

3 FRBは何を行っているのか

 いま起こっていることの本質は,FRBが銀行とMMF相手に金融を引き締めているということである。先ず注意すべきは,銀行相手の伝統的な金融調節とは異なるルートが生まれていることである。通常,中央銀行は通貨供給量を直接操作することはできず,短期金利を誘導することで銀行の信用創造を間接的にコントロールする。ところが現在FRBがMMF相手に行っているレポ取引は,銀行を実質的に介さずに,直接に金融調節を行うルートとなっている。新たな金融調節ルートが生まれているのである。

 まずFRBは引き締めのためにQTを行う。具体的には保有国債が満期を迎えた時に再度の購入を市中から行わないことで,バランスシートを縮小する。この時,FRBのバランスシート資産側では国債が減る。負債側では直接には政府預金が増減する。国債償還で減少し,FRBが利益を納付することで増加するからである。しかし,政府は再度国債を発行して銀行やMMFに購入してもらうであろうから,結果としては準備預金かリバース・レポ取引残高のどちらかが減ることになる。どちらが減るかは不確定であり,FRBは直接にコントロールできないが,必ず減る。

 またFRBのFFレートに対する金利調節は,超過準備預金金利を上限,リバースレポ金利を下限としている。前者はQTにより高め誘導されるが,後者は市中の翌日物国債レポレートにより定まる(服部,2022)。FRBはMMFとのリバースレポ取引を拡大することで,FFレートの高め誘導を行っていると言える。つまり,QTもリバースレポ取引も金融引き締めの手段なのである。

 FRBがQTを行えば必ずバランスシートが縮小するが,負債側で準備預金が減るかリバース・レポ取引残高が減るかは自動的には決まらない。しかし,MMFとのリバースレポ取引は,FRB自身の意思で量を調節できるはずであり(カネを借りるか借りないかを決める自由はFRBにもあるだろう),これを積極的に拡大することでリバース・レポ取引残高が減らず,銀行の準備預金残高が減る結果を招いている。これが現状だと思われる。ただし,準備預金残高が減りすぎると,FRBの意図を超えて短期金利が急騰する危険がある(Bartolini et al, 2023)。そのリスクはFRBも注視していると思われる。

4 残された問題

 現状は以上のように解釈すると整合的に説明できるが,残念ながら,私の知識では,まだわからないことが二つある。

 一つは,レポ取引やリバースレポ取引にクリアリング・バンクを介在させているのか,介在させているとすればどのようになのかがわからないことである。もともとFRBに口座を開設できるのは預金金融機関だけであり,MMFが開設することはできないはずである(中島・宿輪,2013)。クリアリング・バンクを介在させているならば,まずMMFが銀行に現金を預けて預金し,銀行が現金をFRBに貸し付け,FRBはバランスシート負債側から現金を消去してリバースレポ取引残高に変える,という風になるはずである。しかしこれは,銀行セクター全体として預金が減少していることの説明がつかない。それでは,現状をどう説明するのか。クリアリングバンクの介在が銀行にとってオフバランスになるような実務がなされているのではないかと想像するが,確証が持てない。

 二つ目は,M2の減少の度合いはこれで説明できるかどうかである。もちろん,金融が引き締められているので,預金貨幣が減ることでM1が減ることは説明できる。しかし,アメリカのM2はMMF残高を含んでいる(※)。アメリカのM2では,MMF残高が増えると預金減少がかなり相殺されるはずなのである。例えば,預金者が預金をおろしてMMFを購入しただけでは,預金残高は減らず,現金が増え,MMFも増えるという二重計算が起こる。また,リバースレポ取引でFRBが通貨を吸い上げると,現金流通残高は減るがMMF残高は減らない。このような欠陥があると私には思えるのだが,にもかかわらず,現在,M2が素直に減っていることが,むしろ不思議である。

 以上については,さらなる調査を進めるとともに,金融実務専門家のご教示を賜りたい。

※アメリカのM1(narrow money)は社会全体の通貨量を捉える概念であるが,M2は個人にとっての流動性を合算する概念である。日本の場合,M1,M2,M3は前者,広義流動性が後者である。


5 暫定的考察

 FRBは伝統的ルート,つまり公開市場で形成されるインターバンクレートへの波及をめざしたQTの他に,非伝統的ルートとしてのリバースレポ取引による金融引き締めを行っている。しかも,現時点では後者に熱心であるようにも見える。これはなぜなのだろうか。すでに金融危機であって金融を緩和しなければならない時であれば,まだわかりやすい。レポ取引を通してMMFに信用を供与し,MMFの破綻による信用崩壊を防ぐのである。しかし,引き締めていくときにまでリバースレポ取引を使い,市中のマネーストックを事実上直接吸い上げるのはどういうことなのか。

 現段階での私の理解は,そうしなければFFレートの下限を引き上げらないからだ,というものである。現在のアメリカでは,インターバンク市場からはコントロールできない金融,つまりは銀行貸付ではない証券金融の役割が大きくなってしまった。それは長期的傾向でもあるが,短期的には,コロナ下での金融緩和や財政拡張によって供給はされたものの,増殖機会を見つけられない貨幣,それも企業・金融機関に加えて家計の手元にあるそれが,市中をさまよっているからである。これらの貨幣の動きを政策目標に向かって誘導するために,FRBは,直接の操作に乗り出さざるを得なくなった。それも,金融危機に際して緩和する場合だけではなく,インフレに際して引き締める場合もそうせざるを得なくなった。このように理解すべきではないだろうか。

<参考文献>

大畠重衛(1987)「銀行対証券ー『資金シフト』論から『金融証券化』論への系譜ー」『金融経済』220。
中島真志・宿輪純一(2013)『決済システムのすべて第3版』東洋経済新報社。
服部孝洋(2022)「SOFR(担保付翌日物調達金利)入門 -米国のリスク・フリー・レートおよび米国レポ市場について-」『ファイナンス』2022年3月号。
Bartolini, Steven et al(2023)「量的引き締めの意味合い」ティ-・ロウ・プライスのインサイト米国債券。

※2024年1月26日追記。本稿でのMMFについての認識には誤りが含まれていました。以下で修正していますのでご覧ください。

「MMF再考」Ka-Bataブログ,2024年1月26日。

2023年4月3日月曜日

浜田宏一氏の証言を手掛かりに,もう一度アベノミクスと賃金について考える

  浜田宏一教授インタビュー。いろいろ考えるべきことはあるが,いまさら浜田教授ご自身を批判してもあまり生産的ではない。ここでは,アベノミクスはトリクルダウン狙いではなかったという主張に批判的にコメントするとともに,その一方,賃金を抑圧したのはアベノミクスではなかったことにも注意を促し,アベノミクス批判派に対しても問題提起したい。

 アベノミクスがトリクルダウン政策であったかどうかを考える時に,二つの次元から評価すべきことに注意が必要である。

1.アベノミクスとは株高・円安誘導策であった

 一つは,安倍首相・黒田日銀の合作としての量的・質的金融緩和策は,国内需要より先に輸出と株価を回復させることを狙ったものだったということである。

 量的・質的金融緩和の効果として,日銀が公に想定していたのは,物価上昇の予想が高まることによって実質利子率が低下し,投資が活発になることであった。しかし,それはゆっくりと,わずかに,2014年の消費税増税でくじかれるまで起こったに過ぎなかった。それは当時の岩田規久男副総裁も認めていることである(岩田, 2018)。その代わりに,2012年末からの半年で直ちに大規模に起こったことは,円安と株高であった。円安と株高によって,輸出企業と,株式投資に手を出せる機関投資家,大企業,富裕な個人投資家は利益を得たのである。政治家や官僚は「近隣窮乏化政策」の批判を恐れて円安狙いを公言しなかったが,そう期待していたことは明らかである。またアベノミクスのブレーンの中でも高橋洋一氏は金融緩和が円安・株高を呼ぶのだと論文で説明していた(高橋,2014)。

 まず輸出企業と株式投資家が儲かる。そこから先はその後だ。アベノミクスがこのようなものであったことはまちがいない。

2.内需拡大策は,うまくいったとしても企業利益優先策であった

 次に,日銀が説明したような内需の拡大に関する問題である。物価上昇予想によって実質利子率が低下し,投資が活発になるというのも,ある意味ではトリクルダウンである。というのは,まず物価が上がるならば,名目賃金は一緒でも実質賃金率は低下するのであり,だからこそ企業利潤率は上昇して投資が盛んになるからである。いわゆる「賃金遅れ」が景気回復に寄与するという理屈である。これはアベノミクスで考え出された巧妙な陰謀ではなく,むしろマクロ経済学が教える通りなのである。政権が「トリクルダウン狙いです」とわざわざいうわけにもいかなかったであろうことはわかるが,「トリクルダウンではない」というのは正直ではなかったというべきだろう。

 だからアベノミクスが,輸出と金融的利益を景気回復の先導者としようとしたことや,賃金より先に企業利益の回復を目指していたことは間違いないのである。

3.賃金を抑圧したのはアベノミクスではなく日本的雇用慣行と企業内労使関係であった

 ただし,アベノミクス批判者も,安倍氏憎しの余り行き過てはならないことがある。それは,アベノミクスが積極的に賃金を抑圧したわけではなかったということである。むしろ安倍元首相個人は,あまりに賃金が上がらないことに不安を抱き,経済界に賃上げを促した。その流れはいまの岸田首相にまで継承されている。それでも賃金が上がらなかったのは,アベノミクスではなく,日本的労働慣行と企業内労使関係に問題がある。アベノミクスは,賃金を下げたのではなく,賃金が上がらない日本の労働慣行と労使関係を放置した,というのが正確である。

 まず,アベノミクス期においては雇用は増加し続けた。しかし,労働者に占める非正規雇用の割合は,それまでと同様に拡大し続けた。また業種別・職種別に見れば医療・介護職をはじめとするサービス業の,相対的に低賃金の職が増えたのである。こうして,日本的雇用慣行に組織され,ジェンダーバイアス付き生活給を曲がりなりにも支給される労働者の割合が減っていった。

 また,民間大企業の正規労働者や公務セクターの賃上げも微々たるものであった。それは,バブル崩壊以来,「とにかくコスト切りつめのため賃金を上げない」ことに大企業経営者が血道を上げており,また大企業の企業内労働組合が,企業グループ内の継続雇用(つまり中高年になったら関連会社に出向することを含めた継続雇用)さえ守られればよいとばかり,賃金については経営側の言うことに唯々諾々と従う姿勢を取ってきたからである。

 これらのことは安倍元首相やアベノミクス故に起こったのではなく,戦後築かれて来た日本的雇用慣行と日本的企業内労使関係の逆機能が発現した結果なのである。

4.まとめ

 アベノミクスを「トリクルダウンでない」と擁護することは,金融機関と大企業の利益を優先したその性格を糊塗するものであり,強い言葉で言えば反労働者的である。その一方,賃金低迷をアベノミクスのせいにすることもまた,日本的労働慣行と企業内労使関係を改革する必要性を見落とすものである。アベノミクス批判者は,安倍氏憎しの余り大企業経営者を免罪し,政治変革を求めるあまり労働運動を再生する必要性を看過するという,本末転倒の見地に陥らないように注意する必要がある。

<参考文献>

岩田規久男(2018)『日銀日記:五年間のデフレとの闘い』筑摩書房。
高橋洋一(2014)「現在の金融緩和に危険はない」(原田泰・斎藤誠編著『徹底分析アベノミクス』中央経済社)。
「賃金上がらず予想外」アベノミクス指南役・浜田宏一氏証言 トリクルダウン起こせず…「望ましくない方向」『東京新聞』2023年3月14日。


2023年3月31日金曜日

「投資が同額の貯蓄を生む」ことの例解について:「貯蓄が投資の源泉」であるかどうかにも触れて

  講義でマクロ経済におけるY=C+I(所得=消費+投資),Y=C+S(所得=消費+貯蓄),よってI=S(投資=貯蓄)の恒等式を説明する。私のマクロ経済学理解では,これは「投資が同額の貯蓄を生み出す」と理解すべきであり,そのように話すのだが,学生が感覚レベルで納得しない。日常感覚では「貯蓄を原資として投資が行われる」と考えるから当然であろう。そこで,以下のような単純な例解を説明に使おうと思っている。ある社会で設備投資が行われる際に,どのように所得が発生し,消費と貯蓄に分解するかを確認するのである。

*前提

・設備投資に対応した生産財の生産は行われ,その際には原材料が用いられるものとする。
・個人企業を想定し,企業所得は労働者の賃金と資本家の利潤に分解するものとする。
・労働者や資本家が消費すれば消費財が在庫から販売され,消費財の在庫が減少するものとする。
・生産財や消費財の在庫減を補充する生産は行われないものとする。つまり,波及効果は考慮しない。

 設例として,乗数の即時的理解を説明する際に伊東光晴氏が用いて来たものを援用する(宮崎・伊東,1974;伊東,1993)。ただし,典型的な投資を考えるために事例は宮崎・伊東が用いているダム建設ではなく設備投資とする。

 いま機械設備への投資額を1兆円としよう。そのために機械工業によって生産される機械生産額も1兆円である。こうして追加的生産能力を形成した新生産手段ストックの貨幣価値が「投資」であるが,社会的には「投資」は1兆円ではない。

 まず,機械が生産された際に,5000億円の部品や原材料の在庫が消費されるとしよう。このとき,部品や原材料の在庫5000億円分が用いられる。機械の付加価値は5000億円である。うち,機械工業に雇われた労働者たちが賃金として総額4000億円を得るものとする。そして労働者の消費性向を0.8とすると,3200億円が消費に充てられる。このとき,消費財の在庫3200億円が取り崩される。800億円が労働者家計の貯蓄として残る。一方,資本家は利潤1000億円を得る。資本家の消費性向は0.1とすると,100億円が消費に充てられる。この時,消費財の在庫100億円が取り崩される。900億円が資本家家計の貯蓄として残る。

 さて,社会的な純投資額は,機械への設備投資から生産財・消費財の在庫減(マイナスの在庫投資)を引いたものであり,

I=1兆-5000億-3200億-100億=1700億円

である。他方,社会的な貯蓄額は労働者家計と資本家家計の貯蓄を合計したものであって

S=800億+900億=1700億

ともいえるが,所得から消費を差し引いたものであるから,

S=5000億-3200億-100億=1700億円

ともいえる。いずれにせよ,投資と貯蓄は等しい。そして,明らかにこの期の投資の結果としてこの期の貯蓄が生まれたのである(※1)。

 定性的に言うと,投資額をモノに即して見れば,生産された機械の付加価値から,減少した消費財在庫の価値を差し引いたものである。他方,貯蓄を貨幣に即して見れば,貨幣所得から消費支出を差し引いたものである。しかし,生産された機械の付加価値とそれによって生まれた貨幣所得は当然等しく,また減少した消費財在庫価値と消費支出は等しい。よって,生産手段ストックの新規増加額としての投資と,貨幣所得の支出されなかった残余としての貯蓄は等しいのである(※2)。

 これで,「Iが同額のSを生み出す」という因果関係は,感覚的に受け入れやすいように説明できた。では,日常感覚の「SがIの原資になる」という考えは間違いなのだろうか。

 実は「SがIの原資になる」というのは,ここで説明した投資から出発する例解とは別の因果関係を見ているのである。この例解を一社会のモデルだとすると(=他の社会は存在しないとすると),投資が行われるためには,前の期の生産の結果として部品・原材料と消費財の在庫が物として存在していなければならない。また正貨しか流通していないのであれば,前の期の活動の結果として,投資するための貨幣を設備投資しようとする資本家が持っていなければならない。在庫が足りないか,貨幣が足りなければ,投資規模が制約されるのは当然である。「SがIの原資になり得る」というのは,この意味で正しいのである。

 ただし,そこで「I=S」は保証されていない。貯蓄から出発した場合は,それが全額投資に支出されるとは限らない(※3)。他方,投資から出発した説明では「I=S」が100%保証されているのである。

 このように考えると,「Iが同額のSを生み出す」は資本主義社会で常に妥当するのに対して,「SがIの原資になる」というのは,貨幣と財がともに不足している発展途上の経済に当てはまると言えそうである。まず貨幣形態の貯蓄と現物形態の富のストックを準備しないと生産が拡大できないという問題が深刻な経済である。もちろん現実の経済は多数の社会が貿易・投資で結びついているので,発展途上国が対外借り入れや直接投資受け入れによってこの不足を補うことも行なわれている。

 しかし,経済が発達すると,貨幣形態での貯蓄不足は投資の障壁にならなくなる。金融システムが安定すれば,銀行による信用創造で貨幣が前貸しされるからである。また財の不足も問題にならなくなり,むしろ発達した生産能力がフル稼働せずに遊休したり,生産したものが売れ残る方が問題になってくる。こうして「Iが同額のSを生み出す」関係のみが残るのである。

※1 ちなみに所得の総額(Y)は5000億円,社会的には限界消費性向は0.66,限界貯蓄性向は0.34である。さらに念のため言うと,乗数は限界貯蓄性向の逆数であるから,1/0.34=2.941176である。投資に乗数をかけると1700億×1/0.34=5000億で所得総額となる。つまり乗数理論も即時的に成り立っている。

※2 マルクス派の枠組みで考えるとわかりやすくなるところもある。この設例の前提を,労働者は賃金を全額消費し,資本家は利潤を一切消費しないという風に調整すればよい。そうすると,貯蓄が利潤に等しいことがわかる。Iとは生産手段ストックの増加額であるから,生産された機械の価値から原材料と賃金の価値を差し引いたものであり,つまり機械に体化された価値のうちの利潤相当部分である。Sとは機械工業部門の資本家が得た利潤である。したがって,両者は等しいことがすぐにわかるだろう。資本主義とは,「サープラスが利潤という形態をとる社会である」(都留重人)。社会的余剰はこの場合,ストックの純増分にあらわれており,その大きさは利潤に等しい。このことの応用として,資本家と労働者がともに消費し,貯蓄もする世界を理解すればよい。現代の資本主義は,サープラスが貯蓄という形態を取るのである。

※3 それが利子率によってどの程度調整されるかは,新古典派とケインズ派で意見が分かれる。ケインズ派に立てば,投資の期待利潤率と利子率の関係によって投資が決まる。しかし,期待利潤率は不確実なものであり,利子率も貨幣に対する資産選好と流動性選好という不確実性を伴う需要によって左右される。利子率の上下が投資の増減に単純には直結しないのである。

参考

宮崎義一・伊東光晴(1974)『コメンタール ケインズ一般理論』第3版,日本評論社。

伊東光晴(1993)『ケインズ』講談社学術文庫。






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