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2023年12月25日月曜日

玉川寛治氏博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」審査結果の要旨について

  さきに,玉川寛治氏の博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」が東北大学機関リポジトリTOURに掲載されました。しかし,審査結果の要旨は掲載されておりません。各方面に問い合わせたところ,審査報告書は1年に1度,まとめての掲載であることが判明しました。そのため,こちらで「論文審査の結果の要旨」をご紹介します。既に正式決定され公表が予定されているものであり,秘密ではございません。


論文審査担当者

主 査 准教授 結城 武延
第一副査 教授 川端 望
第二副査 大阪大学名誉教授 阿部 武司

 本論文は、技術史および産業考古学の視点から産業革命期日本における綿糸紡績技術の推移を実証的に解明し、またこの技術的諸条件とその変化が綿紡績業の移植・定着の過程に与えた影響を論じることを目的としている。論文は全9章で構成される。 

 第1章「序論」では、産業革命期における紡績技術と機械、生産工程と製品について当時の図や現物のレプリカ写真を用いて説明する。第2章から第8章にかけて綿紡績業の移植・定着過程の実態が解明され、9章で本論文の研究史上の意義が述べられている。 

 第2章「日本における紡績業発達史の概要」では、1867-1900 年における紡績機械・織機の新規設置の状況を紡績所別に明らかにし、草創期の鹿児島紡をのぞいて、1890 年に大阪紡が織布工場を入手するまで紡績・製織一貫工場は存在しないことを示している。さらに同時代の各国(イギリス、欧州、アメリカ、インド)との比較から、産業革命期日本の紡績工場の規模は過少であったことを指摘している。 

 第3章「始祖三紡績」は、日本最初の紡績工場として薩摩藩によって設立された鹿児島紡、同じく薩摩藩により設立された堺紡、鹿島万平によって設立された鹿島紡について、紡績機械の由来と特徴、機械や原料の選択過程と製品、生産成績を次のように明らかにしている。鹿児島紡の紡績機械はインド向けとまったく同じ仕様であり、日本綿の紡績には不適であったため、織物の製造が断念されるに至った。堺紡はイギリス人から技術指導を受けた石河正龍が責任者となり設立・運営され、工程間均衡を欠く欠陥を持っていたものの、後の官営紡績所や二千錘紡のモデルになった。鹿島紡ではイギリスの紡機メーカーであるヒギンス社が日本綿で紡績可能となるように、インド向けより太番手の糸を製造する紡績機械を送り、機械の据付と運転のために技術者を派遣していた。こうした生産体制を構築したことにより、のちに国産化を目的として設立された官営紡績所よりも良好な生産成績を収めていた。

 第4章「官営愛知紡績所から大阪紡績会社へ」では、まず『米欧回覧実記』の記録から、岩倉遣欧使節団(1871-73 年)が欧米の紡績業の事情を技術的内容等も含めてかなり正確に把握していたことを示している。続いて、使節団の視察をふまえて1880年代前半に設立された官営紡績所・二千錘紡績所の紡績機械の仕様を解明している。いずれも手織りで織る白木綿の原糸となる極太糸を生産していたことを示している。さらに渋沢栄一主導のもとで設立された大阪紡の機械設備と技術者の活動を明らかにする。そして、技術者山辺文夫が短繊維に適したプラット社製機械を採用したことが大阪紡の好成績の要因であるとしている。 

 第5章「繭糸織物陶漆器共進会(第二区二類綿糸)で明らかにされた紡績技術」は、政府が殖産興業の事業を促進する目的で開催した共進会が紡績業者に与えた影響を検討している。共進会には各工場の綿糸が出品・展示され、審査された。審査結果により各工場の綿糸の問題点が明確になり、日本綿を原料とした綿糸生産は13番手程度の極太糸に限るべきだということが業者間で合意された。さらに共進会における技術者の講演により紡績業者は初めて紡績技術の全体像を知ることになり、技術情報の共有の重要性を認識することになった。共進会において、紡績業が直面している最大の問題は、日本綿の品質が紡績機械による紡績に不適であることが確認されたというのである。 

 第6章「日本綿・中国綿からインド綿・米綿・エジプト綿へ」では、共進会以後広まった日本綿の不良な品質について、その根本問題は、日本綿の繊維が短すぎて、精紡機でローラードラフトするには不適であったことにあると、著者自ら繊維工学の手法により解明している。続いて著者は、問題の所在を認識した日本の紡績業者が、原料の輸入に転じ、インド綿を主体として、中国綿および米国綿を混綿して極太糸・太糸を製造する日本独自の生産構造を作り上げ、輸入防遏に成功したことを示している。 

 第7章「インド綿・米綿・エジプト綿用の紡績機械」は、原料輸入に転じて以降、大阪紡第 3 工場から日本紡に至る紡績機械について明らかにしている。ここでリング精紡機がほぼ全面的に採用された事実が確認され、次章への伏線となっている。 

 第8章「ミュール精紡機とリング精紡機の選択をめぐる諸問題」は、論争的なものである。日本の綿紡績業の発展の契機となった一つがミュール精紡機からリング精紡機の全面的採用への転換であり、それは日本の紡績技術者による主体的な選択によってもたらされたというのが通説である。著者は、これまで看過されてきた技術史的視点による検証と新資料の発掘により、この通説を批判し、自説を対置する。著者は各国におけるリング精紡機採用の理由を比較検討する。そして、日本では国内と中国市場に向けて厚地手織木綿用原糸を供給しており、それには繊維の短い綿を強撚して一定の強度を確保する必要があったが、その必要を満たすのがリング精紡機であったこと、そして、日本綿や中国綿よりは繊維が長いインド綿や米国綿を輸入することによって、リング精紡機の効率的使用の展望が開けたことを、リング精紡機全面採用の理由としている。さらに、リング精紡機の採用を推進したのが、世界最大の紡機メーカーであったプラット社とその輸入代理店の三井物産であったことを示している。 

 第9章「結論」は全体を要約し、本論文が鹿児島紡から1900年に至る綿糸紡績技術を、初めて、通史的に解明することができたとしている。 

 本論文は、著者の長年にわたる研究の集大成として執筆されたもので、極めて独創性が高く、実証的にも確度の高い研究成果である。すなわち、技術史及び産業考古学の観点から当時の紡績技術と生産工程を復元・再構成した上で、日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であったことを明らかにし、さらに紡績業者がその事実を認識して原料転換と新たな技術選択を行っていく過程を説明したことである。産業革命期日本の紡績業に関する先行研究はその重要性から膨大にあるが、意外にも始祖三紡績の実態や官営紡績所から大阪紡績会社をはじめとした民間会社への移行過程における技術・機械・原料選択に関する要因は不明な点が多く、それらを明らかにした本論文の学術的貢献は非常に大きいといえる。この研究が可能になったのは、元紡績技術者でもあった著者が独自に収集した広範な資料群を駆使したからにほかならない。 

 今後の課題として、独立系の鹿島紡績所の実態や遣欧使節団及び共進会が後の紡績業や紡績連合会に与えた影響の含意のいっそうの考察が必要であろうが、それらはいずれも資料発掘が行われたのちに検討する課題であり、学界全体で取り組むべき残された宿題ともいえる。本論文は既発表25本の論文・報告書を再構成して作成されており、それら個別論文は当該分野の多くの先行研究ですでに何度も引用されていることから、学界においても高い評価を得ている。以上のことから、本論文は博士(経済学)の学位論文を授与するに相応しい業績であると判断する。 

 なお、主査の所属は経営学領域であるが、技術、機械、原料の選択が産業発展に与えた影響を解明している本論文の内容に即して、学位は博士(経済学)が妥当であると判断した。 

学位授与日:2023年8月24日。

本文ダウンロードページ

玉川寛治『日本における初期綿糸紡績技術の研究』


2023年12月22日金曜日

現代の金融の基本形は「現金の金融仲介」でなく「信用創造による預金貨幣創出」である

 1.問題の所在

 この小論の目的は,「現金の金融仲介が金融の基本形である」という常識に疑問を呈し,金融仲介と信用創造という二つの信用形態を正しく位置付けることである。結論を先取りすると,正貨流通の下では現金の金融仲介は,信用創造と並んで独自の役割を果たす。しかし,正貨流通の停止=管理通貨制度の下では,信用創造がすべての金融仲介の前提となる。すなわち,金融の基本形は信用創造である。

 現金の金融仲介とは,貸し手と借り手の間の仲介を行うことである。ある経済主体の手元で現金が差し当たり使い道がなく遊休しており,別の経済主体が経済活動のための現金を欲している時に,前者から後者への貸付を仲介することが金融仲介である。

 このような金融仲介は,ほとんどの金融論の教科書で金融の基本形として扱われている。研究者を含めて多くの人は,金融仲介を実現しているのが銀行であると考える。

 しかし,このような想念は正しくない。以下,そのことを説明する。なお,前提として,正貨流通の下でも銀行は存在し,発券を行っているものとする。また政府紙幣は存在せず,財政システムは捨象する。つまり財政赤字を通した貨幣発行はないものとする。これらはいずれも純粋な考察のための合理的単純化である。


2.銀行が行っているのは信用創造を通した新規の通貨発行である

 まず,経済活動のための貨幣を欲している主体に対して金融を行う方法は,金融仲介だけではない。新たに通貨を発行し,これを貸し付けることによっても可能である。この,追加貨幣の発行というルートを考慮して金融の基本形を考える必要がある。

 銀行がおこなっていることは,預金貨幣または銀行券という自己宛て債務を創造し,これを貸し付けることである。貸付を行った際には預金貨幣が増大する。借入者が預金を引き出せば預金貨幣の代わりに銀行券が発行される。つまり,企業が銀行から借り入れを行ったとき,新規に預金貨幣が発行されているのである。逆に,企業が銀行に返済を行う際には,預金貨幣が減少するのである。

 この時,別の経済主体の手元で遊休し,預けられていた預金は,銀行にとって支払準備金として機能する。しかし,この預金がそのまま企業に貸し付けられたわけではない。貸付けられる預金貨幣は,その都度創造されているのである。

 このように,銀行による融資は金融仲介ではなく,信用創造であり,信用創造を通した新規貨幣発行なのである。


3.現金の金融仲介は正貨流通の下で二通りに実現する

 それでは,多くの人がイメージする現金の金融仲介とは何なのだろうか。それは二通りある。そして,ほとんど意識されていないが,実は,いずれも正貨流通の下で行われるものである。

 ひとつは証券会社を通した金融仲介である。つまり,正貨を蓄積した主体が,社債発行などに応募することである。正貨は,これを必要とする社債発行企業等に融通される。銀行ではなく,証券会社を経由した融資こそが金融仲介である。

 しかしもう一つ,特殊な場合がある。まず,正貨を蓄積した主体がこれを銀行に預金する。銀行は信用創造によって企業に貸し付ける。そして,借り入れを行った企業が,必要に迫られて預金を引き出して正貨に換え,正貨で自らの経済活動のための支払いを行う場合である。この時,銀行は預金引き出し要求に応じるために,蓄積しておいた準備金を取り崩して正貨を渡さねばならない。かくして正貨は,これを蓄積した主体から,これを必要とする主体に融通されるのである。

 しかしこのようなケースがあるからと言って,銀行の貸付が信用創造でなく金融仲介だということにはならない。銀行はあくまで預金貨幣を発行して貸し付けを行った。このとき,貨幣流通量は増加したのであり,すでに信用創造が行われている。企業がこの預金を引き出したのは,流通する貨幣の一部を預金貨幣から正貨に置き換えることにすぎない。この時,貨幣流通量は変化しない。しかし,正貨は銀行内で遊休した状態から流通する貨幣へと転換するのである。

 以上の二つが,正貨流通の下で行われる現金の金融仲介である。この二つのうち,前者すなわち証券会社を媒介にした金融は,信用創造とは全く独立に生じることができる。後者すなわち銀行融資の正貨による引き出しは,信用創造を前提とし,これに従属して生じるものである。だから,「現金の金融仲介が金融の基本形」として独立に成り立つのは,正貨流通の下での証券会社を通した金融だけなのである。


4.正貨流通停止の下での金融仲介

 次に強調したいのは,このような,いわば純粋モデルとしての現金の金融仲介は,正貨流通の下でしか機能しないということである。正貨流通が停止された,管理通貨制度の下での金融仲介を見てみよう。

 正貨停止の下では,経済主体が貨幣を蓄積するのは預金通貨か中央銀行券によってである。これが証券会社を通して,社債発行企業等に融通されることが金融仲介である。

 また,管理通貨制度下では中央銀行券が現金化していることを想定すれば,もう一つの金融仲介ルートもあり得る。まず,中央銀行券を蓄積した主体がこれを銀行に預金する。銀行は信用創造によって企業に貸し付ける。そして,借り入れを行った企業が,必要に迫られて預金を引き出して中央銀行券に換え,中央銀行券で自らの経済活動のための支払いを行う場合である。この時,銀行は預金引き出し要求に応じるために,手元に保有していた(あるいは中央銀行に預け入れていた)中央銀行券を取り崩して渡さねばならない。かくして現金としての中央銀行券は,これを蓄積した主体から,これを必要とする主体に融通されるのである。

 以上の二つが,正貨流通停止の下で行われる現金の金融仲介である。しかし,この金融仲介は信用創造から独立して行われることはない。


5.管理通貨制度下の金融仲介は信用創造を前提とする

 どちらの金融仲介であれ,その前提は,ある経済主体が預金通貨または中央銀行券の形で貨幣を蓄積していることである。しかし,これらの預金通貨や中央銀行券は,どこで発生したのであろうか。正貨が産金業者の下で発生して流通に投じられたように,預金通貨や中央銀行券にも発生源がある。それは,この経済主体が蓄積する以前に,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けを行ったことである。それにより発生した預金通貨が点々とあるいは預金通貨のまま流通し,あるいは引き出されて中央銀行券に換えられてからさらに流通し,ついにある経済主体に対する支払いに用いられ,この主体の手元で蓄積されるに至ったのである。

 つまり,ある経済主体の手元で預金通貨や中央銀行券が蓄積されるためには,それに先立ってどこかで銀行による企業への貸付が,したがって信用創造による預金貨幣の発行が行われていなければならない。どこかで発行された貨幣でなければ蓄積することはできないのである。

 これは要するに,正貨流通停止=管理通貨制度の下では,すべての金融仲介は,それに先立つ信用創造を前提するということである。

 既に存在する貨幣をもとに金融仲介を行うためには,その貨幣があらかじめ発行されていなければならない。管理通貨制度の下では貨幣とは預金貨幣か中央銀行券なのであり,貨幣の発行とは銀行による信用創造である。信用創造がなければ金融仲介はない。金融仲介は信用創造から独立に存在できないのである。


6.結論

 研究者を含めて多くの人は,「現金が貸し手から借り手に融通されるしくみ」を金融の基本形と考えやすい。しかし,これが当てはまるのは正貨流通の下での証券金融だけである。もし,正貨が流通しない現代の銀行をイメージするときには,金融の基本形は「銀行融資によって預金貨幣が創造されること」なのである。金融の基本形は信用創造であり,金融仲介は派生形なのである。

 以上のことは,企業の資金調達が証券発行を中心とするようになって,いわゆる「企業の銀行離れ」がいくら起ころうとも,揺らぐものではない。企業が証券発行をする際もお金のやり取りは銀行の要求払い預金の口座間で行われるし,企業が債券を発行して資金を調達しても,そのお金は投資かも証券会社も企業もどこかの銀行の要求払い預金に置くからである。そして,それらの要求払い預金は,どこかの銀行がどこかの企業に対して信用創造で供与したものが流通した結果だからである。財政の作用を捨象する限り,すべての預金貨幣や中央銀行券は,銀行による信用創造に由来する。逆に言えば,銀行セクターは,証券会社との競争においていかに不利になろうとも,貸し出し業務の利鞘がいかに薄くなり,手数料ビジネスに経営をシフトさせざるを得なくなっても,信用創造による通貨の供給者という役割を放棄することはできないのである。

注:2024年1月25日,1月29日。MMFに関する誤った記述を削除して書き換え。






2023年12月20日水曜日

Nippon Steel's Acquisition of U.S. Steel: Voices from Past, Voices for Future

Aims and Challenges of Nippon Steel's Acquisition of US Steel Voices from the Past, Voices for the Future

Nozomu Kawabata (Professor, Graduate School of Economics and Management, Tohoku University)

Nippon Steel Corporation announced the acquisition of U.S. Steel Corporation (USS). The acquisition is subject to approval by USS shareholders in April of next year. The total purchase price is $14.126 billion (2.01 trillion yen), a 40% premium over U.S. Steel's 12/15 share price. Japanese financial institutions will provide the debt financing for this acquisition. The acquisition will raise Nippon Steel's debt-to-equity ratio from 0.5 to 0.9. Nippon Steel's global crude steel production capacity will increase from 66 million tons to 86 million tons, approaching the target of 100 million tons, of which 47 million tons (55%) will come from Japan and 39 million tons (45%) from overseas.

 A closer look at USS Steel's crude steel production capacity shows that it is 15.8 million tons in the United States and 4.5 million tons in the Czech Republic, for a total of 20.3 million tons. Of this total, the electric furnaces (EAF) of U.S. subsidiary Big River Steel is 3.3 million tons, and the rest is thought to be blast furnaces (BF) and basic oxygen furnaces (BOF). An additional 3.0 million tons of EAF capacity will be added in 2024. In other words, one year later, the crude steel production capacity of the USS will be 23.3 million tons, of which 6.3 million tons (27%) will be electric furnaces. In the U.S. steel industry, more than 60% of crude steel production is already by EAF method.

 Here is my comment. Nippon Steel aims to expand its global crude steel production capacity and global market share. Until the mid-2010s, Nippon Steel had been locating only the downstream processes of rolling, and fabrication overseas. However, since its joint acquisition with ArcelorMittal of Essar in India in 2019, the company has adopted a strategy of acquiring integrated companies involved in the entire iron and steelmaking process. When the deal is completed, 45% of the " Nippon" Steel Corporation's production capacity will be overseas.

 With the acquisition of USS, Nippon Steel now has a global reach that encompasses developed and emerging markets in terms of location, high-end and general-purpose product markets in terms of product grade, and blast furnace, basic oxygen furnace, and electric furnace methods in terms of technology. However, it is not as if the company is unnecessarily expanding its reach in all directions. The company appears to be pursuing two distinct goals: one addressing present needs and the other focused on future objectives. At present, they are securing the market by acquiring integrated blast furnace-based steel mills that are competitive in the mass production of high-end products. In the future, they are expanding the electric furnace method, which emits less CO2, to meet the environmental regulations of achieving carbon neutrality by 2050 in developed countries and Southeast Asia and by 2070 in India. 

 In particular, in the case of USS, it is clear that blast furnaces represent the past to the present, and electric furnaces represent the present to the future.

  USS has only two integrated blast furnace steel mills in the U.S. anymore, Gary Works and Mon Valley Works. Of these, Gary Works is the only one in full-scale integrated production. Mon Valley Works is merely the name given to the three integrated steel mills and one rolling mill that once existed. Many of the facilities there closed because they could not withstand competition from imports and electric furnace-based mini-mills. The remaining facilities are connected by river transport to create the appearance of integrated production. Mon Valley represents the glory of the past.

 On the other hand, Big River Steel, which USS acquired in 2019, has a state-of-the-art EAF, compact hot strip mill, cold rolled mill, and galvanizing facilities. Big River Steel manufactures automotive steel for General Motors and even the electromagnetic steel needed for electric vehicles. The raw materials charged to EAF appear to be a mixture of scrap, pig iron, and direct-reduced hot briquet iron (HBI). The production of high-grade steel by electric furnaces is already expanding. The future is here.

 While Nippon Steel Corporation manufactures electromagnetic steel sheets from electric furnace steel at its Hirohata Works in Setouchi, this technology is less established than the traditional BF-BOF methods, which have been the company's forte. Although the company is probably a provider of B.F. and BOF technology to USS, it is more likely to absorb know-how from USS in large EAF operations and the production of high-grade steel using EAF steel.

 However, if the current strategy is to use BF-BOF and the future is to use EAF, a transition strategy is needed between the two. How long will BF-BOF be used, and can the switch from those to EAF be made smoothly from a managerial standpoint and considering the interests of the local economy and workers? How practical is partial hydrogen reduction in a B.F.? When will the decision to invest in 100% direct hydrogen reduction be made, and where will it be located? As the Japanese government subsidizes both new technologies, there should be a political constraint that the first unit should be built in Japan. But what will Nippon Steel do when it becomes more profitable to build overseas (About the transition strategy of the Japanese integrated steelmakers, see Kawabata 2023) ?

 As with other steel mills, Nippon Steel will have a group of steel mills that represent the past and a group of steel mills that represent the future simultaneously in U.S. Steel. Will it be the voice from the past or the voice of the future that decides the fate of Nippon Steel? In the new era of the steel industry, which is to achieve carbon neutrality, the company still faces many challenges. We can look forward to the social effects of its actions, but we will also have to monitor them closely.

Nippon Steel Corporation + U. S. Steel. Moving Forward Together as the ‘Best Steelmaker with World-Leading Capabilities’

*Aerial photography by Google Maps

U.S. Steel Gary Works 

U.S. Steel Mon Valley Works

 Clairton Works (Coke oven)

 Edgar Thomson Works (Ironmaking and steel making)

 Irvin Works (Hot rolling, cold rolling and galvanizing)

 Fairless Plat (Galvanizing)

U.S. Steel Big River Steel (Factory can be seen in the lower right)

Nozomu Kawabata (2023). Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition, The Japanese Political Economy, 49(2/3), 231-252 




2023年12月19日火曜日

日本製鉄によるUSスチール買収の狙いと課題:過去からの声,未来への声

 日本製鉄はUSスチール(USS)買収を発表した。来年4月にUSSの株主総会が承認することが前提だ。買収総額は141億2600万ドル(2兆100億円)。USスチールの12/15株価に対して40%のプレミアムを支払う。借入金は日本の金融機関より。買収により日鉄のD/Eレシオは0.5から0.9となる。日鉄のグローバル粗鋼生産能力は6600万トンから8600万トンとなり,目標の1億トンに接近する。このうち日本国内が4700万トン(55%),海外が3900万トン(45%)となる。

 USSスチールの粗鋼生産能力はアメリカ1580万トン,チェコ450万トンで計2030万トン。うちアメリカの子会社Big River Steelの電炉は,資料によって違いがあるが日鉄の計算だと330万トンで,他は高炉・転炉法と思われる。電炉は2024年にはさらに300万トン追加予定。つまり,1年後にはUSSの粗鋼生産能力は2330万トンとなり,うち630万トン(27%)が電炉となる。なお,アメリカ全体では,粗鋼生産のうち60%以上は既に電炉になっている。

 ここから私のコメントだが,日本製鉄の狙いは,グローバル粗鋼生産能力とグローバルシェアの拡大である。日本製鉄は,2010年代半ばまでは,製鉄ー製鋼ー圧延ー加工のうち川下の圧延ー加工工程のみを海外に配置してきたが,2019年にインドのエッサールを,アルセロール・ミッタルと共同で買収して以来,製鉄や製鋼工程からの一貫企業を買収する方式に打って出た。今回の買収もその延長線上である。今回の買収が完了すれば,「日本」製鉄という名の企業の生産能力のうち45%は海外にあることになる。

 USS買収により,日本製鉄は立地としては先進国と新興国,製品グレードとしては高級品市場と汎用品市場,技術としては高炉・転炉法と電炉法の全方位にわたるグローバル買収を敢行することになった。しかし,むやみに全方位に手を広げているわけではないだろう。現時点と将来とで,異なる目標を二重に持っていると思われる。現時点では高級品大量生産に競争力を持つ高炉一貫製鉄所を手中に収めて市場を確保するとともに,将来に向かっては電炉法を拡大して,先進国・東南アジアでは2050年,インドでは2070年のカーボンニュートラル達成という環境規制に対応していこうという戦略なのだと思われる。

 とくに,USSの場合,高炉は過去から現在,電炉は現在から未来を代表していることは明らかである。USSがアメリカ国内に持つ高炉一貫製鉄所はもはやGaryとMon Valleyの2か所に過ぎないし,まともに一貫生産を行っているのはGaryだけである。Mon Valleyは以前に紹介したように,かつては3つの一貫製鉄所と1つの圧延所であった。輸入品や電炉との競争に耐えられず,設備の多くが閉鎖されてしまい,残った設備を河川輸送でつないで,一貫生産の形を整えているに過ぎないのだ。Mon Valleyは過去を代表している。

 一方,USSは2019年に買収したBig River Steelに電炉ーコンパクト・ストリップ・ミルー冷延ミルー電磁鋼板設備,亜鉛めっき設備を持ち,電磁鋼板や,GMに納入する自動車用鋼板まで製造している。原料はスクラップ,銑鉄,直接還元のホット・ブリケット・アイアン(HBI)の3種混合のようだ。既に電炉による高級鋼生産は拡大しつつあるのだ。未来はこちらにある。

 日本製鉄も瀬戸内製鉄所広畑地区で電炉鋼から電磁鋼板を製造しているが,高炉・転炉法に比べると技術の確立度は弱い。高炉・転炉技術はもはやUSSに対して供与する側であろうが,大型電炉操業と電炉鋼からの高級鋼製造については,むしろUSSからノウハウを吸収しようという構えであろう。

 ただし,現在は高炉・転炉,将来は電炉というのであれば,両者の間に移行戦略が必要となる。いつまで高炉・転炉を用いるのか,高炉・転炉から電炉への切り替えを経営的に,また地域経済や労働者の利害を踏まえて円滑に行えるのか。高炉での部分的水素還元はどの程度実用に耐えるのか。高級スクラップが不足したら,直接還元鉄はどこから手に入れるのか。100%水素直接還元に投資する決断はいつになったら行うのか。その立地はどうするのか。どちらの新技術も,日本政府から開発補助金を得ている以上,1号機は国内に建てるべきという道義的制約はかかるはずだが,海外の方が採算がよさそうになった時に,どうするのか(川端,2023を参照)。

 日本製鉄は,他の拠点でもそうであるように,USスチールにおいても,過去から現在を代表する製鉄所と,現在から未来を代表する製鉄所を同時に抱えることになる。日本製鉄の運命を決めるのは,過去からの声か,未来への声か。カーボンニュートラルを目指す鉄鋼業の新時代において,同社はまだ数々の課題に立ち向かわなければならない。その行動の社会的効果に,私たちは期待することもできるが,同時に注意深く監視もしていかねばならないだろう。

日本製鉄株式会社「U.S.Steelの買収について」2023年12月18日。

Gary製鉄所空撮(Googleマップ)

Mon Valley製鉄所を構成する4工場空撮

クレアトン工場空撮(Googleマップ)
エドガー・トムソン工場空撮(Googleマップ)
アーヴィン工場空撮(Googleマップ)
フェアレス工場空撮(Googleマップ)

Big River Steel空撮(Googleマップ1)位置がズレて駐車場になっているが,写真掲載多数。工場は右下。

Big River Steel空撮(Googleマップ2)製鉄所の位置。

参考:製鉄所に刻まれたアメリカ鉄鋼業衰退の歩み(2018/10/6)

川端(2023)「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」(日本語原稿)

元論文 Nozomu Kawabata(2023). Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition, The Japanese Political Economy, 49(2/3), 231-252 

 

2023年12月17日日曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その9)おわりに

 12 おわりに

 まとめに入ります。この講演は,「お金はどこから来て,どこへ消えるのか」についてお話ししました。それを通して知って欲しかったことは二つです。

 一つは,普段の生活では気がつきにくい,お金の本当の姿です。お話ししたことの中から列挙してみましょう。まず,現代社会では,ほとんどのお金は信用貨幣です。信用貨幣というのは,債務証書が貨幣として通用しているものです。ここですでにショックを受けた方もいるかもしれません。また,中央銀行券だけでなく預金もお金です。しかも,コンピュータが出現する以前からあるデジタル通貨です。また中央銀行券と預金とでは,実は預金の方が基礎になる存在で,預金の一部が引き出されるとその分だけが中央銀行券になります。紙切れやデジタル信号に過ぎないお金がお金と認められて流通するのは,国家権力が強制しているからでも,何となくみんなが信じているからでもなく,銀行または中央銀行の信用ある債務証書だからです。ただ債務証書と言っても,現代では,「債務を本当のお金で返す」ことはできません。それ自体が価値をもっている商品貨幣,つまりは本当の貨幣が流通していないからです。なので,債務はより高度な債務証書で支払うか,債権・債務を相殺するしかありません。でも,裏返して言えば,その二つは可能だから現代の貨幣は信用貨幣として通用するのです。

 意外なことはまだ続いたかもしれません。銀行は,預金を集めて又貸しするのではありません。自分の債務証書である預金を発行して貸し付けているのです。預金は貸し出しのときに生まれるのです。私たちの持つ預金や現金は,もともと,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたお金が流通した結果であり,いわば貸し付けから派生した存在です。企業活動が拡大すると銀行の貸し出しが増えて返済を上回り,お金の流通量が増えます。企業活動が縮小すると銀行への返済が増えて貸し出しを上回り,お金の流通量が減ります。

 そうして,以上の金融システムのほかに,もう一つ財政システムによるお金の供給があるが,またの機会にということになります。皆さんにとって,どのくらいが意外で,どのくらいはご存知のことだったでしょうか。

 もう一つは,もっと根源的なことで,私たちは,発達した資本主義社会という,豊かさのために貸し借りが必要となる世界に生きているということです。私たち個人は,「お金をためてから活動すべきで,借金すべきではない」という規範を持っていることが多いです。社会によって事情は異なるでしょうが,日本では特にこの考えが強いかもしれません。これは個人としてはもっともなのです。しかし,この講演が示しているのは,社会の全員が「お金をためてから活動して使う」ことはできないということです。また,社会の活動とはまず富を生産する活動であって企業が担うものであることにも注意が必要です。 

 企業や起業家がお金をためようとします。しかし,「ためる」べきお金は,もともとどこかの企業が銀行から借りたから存在しているのです。全員が最初に「ためる」ことはできません。先ず誰かが銀行から借りて事業をしなければならないのです。もしこの事態を避けるとしたら,銀行をなくして信用創造を止めるか,そうでなければ社会全体を金貨や銀貨だけで動かし,信用貨幣を失くすしかありません。あとの場合,銀行は金貨や銀貨を預かって又貸しするものになるでしょう。しかし,そんなことをすれば,たちまち社会が必要とする貨幣量を満たせなくなって,お金が足りなくなります。経済が拡大するとすぐ金利が引き上がってしまうでしょう。不況の時に資金を得るのがたいへんむずかしくなり,激しい恐慌になるでしょう。

 このことを裏返して言うならば,資本主義のしくみの下では,経済の拡大と安定のために,「財・サービスを生産するために,企業が銀行からお金を借りる」ことと「債務証書をお金にすること」がどうしても必要だということです。企業がお金を前借りし,不確実な未来に向かって生産を拡大し続けなければ,豊かさは生まれません。当然,成功することも失敗することもあります。

 また,この金融システムは,信用貨幣という,本来価値のない代用品を大量に発生させるのですが,ふだんは実物の商品経済の動きに従っています。ですから,金融システムを通しては,貨幣が商品に対して過剰に発行されることはありません。ただし例外がバブルです。商品の生産と離れて金融取引だけが拡大し,金融取引のためだけにお金が駆り出されて通貨供給量が拡大するのです。これは本質的に騰貴ですから,資産価格が高騰して,いつかは崩壊します。リーマン・ショックなどの金融危機はこうして起こるのです。

 資本主義の金融システムは,このように大量の商品を生み出して豊かさを作り出しますが,そこにはリスクがあり,またバブルの可能性もあるということが,最後に考えておいてほしいことです。

 最後に参考書ですが,この講演とまったく同じ考えをわかりやすく書いた本はありません。しかし,以下の2冊が参考になると思います。ひとつは,お金の経済と商品の経済の関係についてです。これは,田内学さんの『お金のむこうに人がいる――元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門』が的確な解説をしています。トレーダーが書いた金儲けの本かというと,そうではありません。むしろ田内さんは私よりも根本的に,お金と人の関係を論じています。経済に対する見方が,予備知識がなくてもわかる本です。もうひとつは,大学の教科書で私の考えと最も近いものです。松本朗さんの『改訂版 入門金融経済』です。

 以上で私の講演を終わります。長時間お付き合いいただき,ありがとうございました 。

■補足

*講演の最後には,信用貨幣が流通する発達した資本主義経済とは,つまり何なのかということを言わねばならない。しかし,これではまだまだ表面的である。

*ただ,一つ言いたいことは,「現代は価値のない信用貨幣が肥大化している。これが膨張してバブルになるから悪い」といった雑な金融化批判はとらないということである。

*管理通貨制の下で信用貨幣が流通し,またここでは言ってないが金融・財政政策が発動することで,資本主義経済の物質的に豊かな側面も成り立っているからである。しかも,金融システムに関する限り,商品経済の運動が独立変数であって貨幣供給は従属変数なのである。

*ただし,信用貨幣供給の主要ルートは手形割引ではなく貸し付けであるから,商品経済の運動というもの自体に元々リスクがあるととらえている。そして,金融資産購入のために借り入れるという行為によるバブルもまた起こり得るのである。正常な経済拡張とバブルの分岐について論じる道具立てを持っていないところは私の限界である。


貨幣発行と流通のしくみ(その8)金融システム以外にも通貨供給ルートはあるか

 11 金融システム以外にも通貨供給ルートはあるか

 ここまで私は,金融システムを通した通貨供給のことだけをお話ししてきました。預金貨幣は銀行が発行するものであり,中央銀行券は中央銀行が発行するものですから,もちろん,金融システムが本来の通貨供給ルートなのです。しかし,現代社会にはそれ以外にも通貨供給ルートがあります。それは財政システムです。これはまた別のテーマになるため,今回はお話しすることができませんが,その特徴についてごく簡単にご紹介しておきます。

 財政システムによる通貨供給とは政府の収入と支出のバランスによるものです。政府の収入は主に課税によってまかなわれます。これは経済から貨幣を引き上げます。政府の支出は社会保障,教育,インフラストラクチュアの整備,軍事,公務員給与など様々なことについて行われます。これは経済に貨幣を投じることになります。ですから,全体として支出が収入より大きく,財政が赤字の場合,通貨供給量が増大します。逆に全体として収入が支出より大きく,財政が黒字の場合,通貨供給量が縮小します。財政システムによる通貨供給の原理を,もっとも単純化して申し上げればこうなります。

 金融システムと異なり,財政システムは,つまり課税や支出は,政府の目的意識的な政策によって左右されます。なので,財政赤字になるほど支出を増やして経済を刺激するとか,財政黒字になるほど課税を増やし支出を減らして景気の過熱やインフレを抑制する,といったことが行われています。このように,政策の見地から目的意識的な操作がある程度可能になることが,民間経済の運動に従属している金融システムとの違いです。

 ここに金融システムとはまた別の体系だった仕組みがあり,財政赤字や財政黒字をめぐる大事な問題がありますが,それをお話しするのはまた別の機会にせざるを得ません。

図 10 通貨供給の概念図(財政システム)

 財政システムを通した通貨供給を概念図として示したのが図 10です。そして,金融・財政両システムを総合して通貨供給を表したのが図 11です 。

図 11 通貨供給の総合的概念図


■補足
*通貨供給システムとして金融システムと財政システムがある,逆に言えば財政システムを通貨供給システムという側面から論じることができる,というのが私の見地である。さらに別な言い方をすれば,通貨供給の見地から貨幣・金融システム,財政システムを論じ,次いでマクロ経済政策を論じることで,一つの話が完結するというのが私の構想である。現在行っている日本経済の講演の一部分は,そのように構成している。
*財政赤字は通貨供給量を増加させ,財政黒字は通貨供給量を減少させる。これは,政府が国債を発行して資金調達をする方法が,中央銀行引き受けであっても民間銀行購入であってもともに妥当すると私は考えているが,ここでは説明していない。
*国債を直接民間人が購入した場合のように,政府支出が民間貯蓄の引き上げ,政府による貨幣再投入となり,いわばプラスマイナスゼロである場合もある。
*ただし,私の理解が主流の考えと異なるのは,民間銀行による国債購入を背景とした政府支出の場合は,上記のようなプラスマイナスゼロにならず通貨供給量プラスになると考えていることである。民間銀行は,流通の外にある中央銀行当座預金で国債を購入するし,それによる減額は,政府支出の決済によって銀行預金が,したがって中央銀行預金が増額されることによって相殺されるからである。

貨幣発行と流通のしくみ(その7)結局,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減るのか

 10 結局,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減るのか

 さて,これで一通り貨幣が発行されて流通に入り,やがて流通から出ていくしくみについてお話ししました。それでは,結局のところ,どんな時に貨幣流通量が増え,どんな時に減ると言えばいいのでしょうか。ごく簡単に言えば,銀行貸出残高が増えれば貨幣流通量が増え,銀行貸出残高が減れば貨幣流通量も減る,ということになります。

 大きく言えば,金融システムを通した貨幣供給においては,商品を生産し,流通させる活動が拡大すると,それに応じて通貨流通量が増加し,逆に商品の生産・流通活動が縮小すると,通貨流通量が減少します。このように,商品経済の動きに従って貨幣供給が調整されるしくみを,内生的貨幣供給と言います。

 もう少し具体的に見ましょう。企業が銀行からお金を借り入れると,預金通貨が発行され,社会の通貨流通量が増えます。企業が銀行に返済すると,預金通貨が消滅し,社会の通貨流通量が減ります。中央銀行券は,誰かが預金を下ろしたときにだけ必要になります。中央銀行が銀行に貸し付けている準備預金の一部を銀行が引き出し,さらに銀行が預金引き出しに応じる形で中央銀行券が発券されます。まず預金通貨が生まれ,中央銀行券が発券されると,その分だけ預金通貨が減るのです。

 このような内生的貨幣供給の動きを,大谷禎之介先生のデザインを借りて図解すると図 8のようになります。

図 8 金融システムにおける通貨流通量増減の原理

 経済発展とともに貨幣の必要量が大きくなるとどうなるでしょうか。社会全体として,銀行が企業に貸し出す額が,銀行に対して企業が返済する額を上回るようになります。そうすると,貨幣流通量が拡大するのです。

 ここでみなさんは,少し不安に思って尋ねたくなるかもしれません。では,経済が成長すると社会全体として銀行からの借金が増えるのかと。その答えはイエスです。しかし,さらに尋ねたくなるかもしれません。借金はいつかは返さねばならないから,増え続けられないのではないかと。その答えはノーです。借り入れているのは企業です。企業が借りたお金で利潤を生みだすことができれば,その一部として銀行に利子を支払い,また元本を返済することができるでしょう。その上で,その企業や,あるいは別な企業が,さらなる事業拡大を目指して,また借り入れを行います。そういう風に資本主義企業は活動しているのです。

 さて,これまで説明した,金融システムを通した通貨供給の有様を図にまとめると図 9のようになります。銀行は貸付を通して預金通貨を供給し,返済によってこれを回収します。銀行の背後では中央銀行が支払い決済システムを支え,また準備金となる中央銀行当座預金を,貸し付けを通して銀行に供給しています。その総量は中央銀行による貸しだしと銀行からの返済を通して調整されるのです。このように,銀行が,預金という自分の債務証書を用いて貸し付けを行うこと,貸し付けと返済を通して量が調整されることが,金融システムを通した貨幣供給の根幹なのです。

図 9 通貨供給の概念図(金融システム)

 このようなしくみを,実物経済と貨幣の関係という観点から評価すると,どうなるでしょう。私は商品の集積からできている実物経済の成長が原因で通貨供給量が結果だと言っていることになります。貨幣の供給が経済を成長させるわけではなく,経済の成長に応じて貨幣が供給されるのです。もちろん,事業を拡大しようとする企業が貨幣を必要とするときに銀行は信用を与えてこれを実現するわけですから,貨幣の役割は決定的です。しかし,あくまで事業を拡大しようとする企業の活動が原因であって,銀行信用はこれを後押ししているにすぎません。銀行が通貨を供給したから企業活動が始まるというわけではないのです。

 ただし,財・サービスなどの実物経済の拡大と離れて,銀行からの貸し出しが増えていくこともあります。それは,もっぱら金融資産の売買によるキャピタル・ゲインの獲得をめざして銀行からの借り入れが行われる場合です。この場合,通貨供給は拡大しますが,供給された通貨は財・サービスに買い向かわないので,その価格は変化させません。ただ株式をはじめとする金融資産の価格だけを騰貴させます。これがバブルです 。

■補足
*金融システムを通した貨幣供給は内生的である。これを別の用語で言えば,貨幣流通法則にしたがうのであって,紙幣流通の独自法則にしたがうのでも,貨幣数量説にしたがうのでもない。貨幣の流通速度を捨象するとすれば,商品の総量が増減するのに応じて貨幣流通量も増減するのであって,逆ではない。
*この講演では扱い切れないが,ここまでの論旨からは,次のように言える。政府財政の影響がない限り,中央銀行の金融政策が緩和的であったり引き締め的であったりし,それに対応して銀行の貸し出しが増えたり減ったりするとしても,それで物価水準の名目的騰貴という意味でのインフレーションや,物価水準の名目的下落という意味でのデフレーションは起こらない。インフレ,デフレが今日広い意味で用いられることを考慮して,この二つを貨幣的インフレ,貨幣的デフレと呼ぶならば,これらは金融システムからは決して生じないのである。金融の緩和や引き締めから起こるのは好況や不況であり,好況時の需要超過による物価上昇(ディマンド・プル・インフレ)や不況時の需要減退による物価下落(不況によるデフレ)だけである。これらは名目的な物価変動ではなく,まずは元に戻るかもしれない一時的変動であり,継続すれば実質的変動となる。需要超過の場合は生産コストの高い供給者がの割合が増えるし,需要減退の場合は生産コストの安い供給者だけが生き残るからである。
*だから,この講演の論理を延長すれば,金融政策を論じる時に「貨幣的現象としてのデフレ」を日銀の金融政策が起こしたとか,「貨幣的現象としてのインフレ」を日銀が起こすことができるとかいう主張は,誤っていると言えるのである。

貨幣発行と流通のしくみ(その6)銀行は,まず個人や企業から預金を集めて,それを又貸ししているのではないのか/銀行は自分で預金を生み出せるのに,なぜ預金を集めようとするのか

 8 銀行は,まず個人や企業から預金を集めて,それを又貸ししているのではないのか

 しかし,なお疑問が残るかもしれません。そもそも預金とは,個人や企業が銀行にお金を預けたときに発生するのではないのか。銀行の融資とは,預けられた預金を原資に,それを企業に又貸ししているのではないか,と思われる方もいるでしょう。実際,日常生活の常識もそのようなものですし,経済学者の多くもそのようなモデルで思考しています。しかし,そうではない,預金は,銀行がお金を貸すときに生まれるというのがこの講演の見地です。これまでもそうお話ししてきましたが,ここでもう一度,なぜ又貸しと考えてはいけないのかという角度から考えてみましょう。

 背理法を使いましょう。銀行がまず預金を集めて,それを又貸ししていると考えたならば,おかしなことはおこらないのかを点検するのです。

 銀行が,預けられた預金を貸し出していると考えると,預けられた預金,つまりは預けられた中央銀行券は,そもそもどこから来たのかという問題が生じます。中央銀行券は銀行などとだけ取引するものであり,一般市民とは取引しません。ですから,中央銀行券が市中で流通しているということは,どこかで誰かが預金をおろして中央銀行券に換えた,ということを意味します。ということは,どこかに誰かの預金がもともとあったから,中央銀行券が流通しているということになります。それでは,そのどこかの誰かの預金はどこからきたのでしょう。又貸し説に従えば,当然,誰かが預けたということになります。では,預ける前の中央銀行券はどこから来たのでしょうか………。こういう風に,又貸し説の論法は無限後退し,どこにもたどりつきません。ですから,この説明はおかしいのです。

 理屈に合ったように現実を説明するには,どこかの誰かの預金とは,どこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたときに生まれた,と考えるよりありません。そう考えるべきなのです。

 図 7をご覧ください。この講演の立場から言うと,市中に出回っている中央銀行券や,口座振り込みに使われて流通している預金通貨は,そもそもはどこかの銀行がどこかの企業に貸し付けたときに生まれたということになります。貸し付けを受けた企業は,原材料を購入したり人を雇ったりしてお金を払います。払われた企業はまた原材料を買うかもしれないし,給料を支払われた個人は預金を引き出して現金に換え,食べ物を買ったりネット通信料を払ったりするかもしれません。いずれにせよ,預金通貨は時に中央銀行券という現金に姿を変えながら転々と流通します。そして,あるときに,企業や個人の手元に中央銀行券の姿でたどり着き,その企業や個人が,当面現金とした使わないから,あるいは預金通貨として使いたいから,預金として銀行に預け入れるのです。通貨が生まれて流通する始まりは,銀行から企業への貸付なのです。ちなみに,その終わりは企業から銀行への返済です。

図 7 預金は貸し付けの際に生まれる

 ですから,銀行の活動とは,誰かが銀行にお金を預けて預金が生まれるところから始まるのではなく,銀行が企業の預金を設定してお金を貸すところから始まるのです。

銀行は自分で預金を生み出せるのに,なぜ預金を集めようとするのか

 しかし,ここからはまた新たな疑問が生まれるでしょう。銀行が自分で預金を生み出せるならば,なぜ預金を集めようとするのかということです。その答えは,準備金の確保のためです。

 これまでお話ししたように,銀行が企業に貸し付ける行為自体は,手元に現金がなくてもできます。銀行は預金を創造できるからです。しかし,貸し付けを受けた企業は,預金を引き出して現金にするかもしれませんし,取引先への支払いのために預金口座から他の銀行の口座に送金するかもしれません。前者であれば,銀行は中央銀行券を渡さねばなりませんし,後者であれば自分の持つ中央銀行当座預金を取り崩して他行に送金しなければなりません。

 ですから,銀行はつねに一定額の中央銀行券と中央銀行当座預金を資産として持っておかねばならないのです。これが準備金です。正確には,預金が引き出される場合,銀行間取引で自行が支払い超過になる場合,貸付金が貸し倒れになるなど損失が発生した場合に備えて必要になります。

 ただ,ちょっと回り道をしますが,銀行の持つ準備金は,社会全体としてみれば中央銀行が供与するものであって,預金者から集めるものではありません。中央銀行当座預金は中央銀行が銀行に貸し出したときに発生します。また中央銀行券は,銀行が中央銀行当座預金を引き出したときに発行されます。いずれにせよ,もとは中央銀行が銀行に信用を与えたから発生しているのです。

 ところが,銀行全体としてはこうであっても,個々の銀行にとっては話が違います。中央銀行が供与した中銀当座預金や中銀券は,銀行の間では取引状況に応じて不均等に分布しています。個々の銀行の立場としては,資金繰りを安定させ,さらに貸し付けを拡大するために,自分のところに準備金を集めたいかもしれません。そういう銀行は,企業や個人から広く預金を集めようとするでしょう。預金を集めれば,手元に現金として持っておいて金庫やATMに入れておき,引き出しに備えることもできますし,中央銀行に当座預金として預けて,銀行間決済に備えることもできます。個々の銀行は,いわば市中に流れた中央銀行券を奪い合って,自行の準備金をとりわけ厚くしようとするわけです 。

■補足
*「銀行は預金をまた貸ししているのではない」という説明は,日常感覚に反するために聞く人が驚くところだが,実務的な説明はそれほど難しくない。
*理論的にややこしいのは,準備金について社会全体の視点と個々の銀行の視点が異なることである。個々の銀行にとっては,自行の準備金を増やすために,預金獲得に励む余地がある。しかし,銀行セクター全体としては,中銀当座預金+中央銀行券発行残高は,中央銀行でなければ供給できないのであり,全銀行が一斉に預金獲得に励んでも,社会全体としては増加しないのである。

2023年12月13日水曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その5)預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?

 7 預金や中央銀行券は,今では金貨で返済してもらえないが,それでも債務として有効なのか?

 しかし,現代の銀行預金や中央銀行券が信用貨幣であるというと,疑問を持たれる方も少なくないと思います。金本位制の場合と異なり,預金や中央銀行券が兌換されない,つまり債務を金貨で返してもらうことができないからです。返してもらえない債務証書は債務証書として有効なのでしょうか。私の答えは,金貨で返してもらえないことは弱点ではあるけれど,債務証書としてはなお有効だというものです。その理由は,債務の返済には本位貨幣での返済の他に,あと二つ方法があって,それは管理通貨制でも有効だからです。

 債務の支払いは,実は三つの方法で行われます。一つは,金貨などの本位貨幣で支払うことです。二番目は,債務を負っている当人が,自分の債務よりも信用度の高い債務証書で支払うことです。三番目は,債権と債務を相殺することです。

 1番目を銀行や中央銀行がやっていたのが「兌換」です。例えば,日本銀行に日銀券を持ち込んで同額の金貨に変えてもらうわけです。これは,日銀の債務を金かで返済してもらったことに相当します。しかし,これは管理通貨制の下ではできません。これを極端に言えば,私たちは「本当のお金では債務を返済できない世界」に住んでいるのです。

 しかし,2番目の信用度の高い債務証書による返済と,3の債権債務の相殺は,いまでも日常的に行われています。

 では,例えばCさんがDさんから5000円借りて,5000円札で返したというのはどういうことでしょう。これは日常生活では普通に返済したとみなされます。では通販で先にゲーム機を受け取り,指定されたX銀行口座に,自分のY銀行口座からの振り込みで代金を払ったというのはどうでしょう。これも,日常生活では普通に後払いを遂行したとみなされます。しかし,実は最初の例では日本銀行の債務証書で返済したのですし,後の例ではY銀行の債務で返済したのです。なお,先ほど紹介した仕組みで日銀が両替してくれるので,ゲーム会社にはX銀行の債務で支払われています。

 日々行われている企業間の決済や,それを反映した銀行間の決済も,2番目と3番目の方法に拠っています。たとえば,A社,B社,C社の間の債権債務を銀行と中央銀行の口座振替で相殺し,差額は預金通貨で支払うとします。相殺の部分が3番目の方法であり,差額決済が2の方法です。

 借りたお金の返済は,前に述べたように債権債務の相殺ですから3番目の方法です。例えば,企業がX銀行から借りたお金を返済するというのは,X銀行の債権を,その銀行の預金,つまりX銀行の債務通貨で相殺しているのです。

 このように,本位貨幣での返済ができなくとも,上位の債務証書での返済,および債権債務の相殺ができるために,預金や中央銀行券は立派に信用貨幣として機能しているのです。

 しかし,そうはいっても,中央銀行に銀行が兌換を求めて押し寄せるということは起こらないのでしょうか。通常は起こりません。理由は二つあります。

 まず,中央銀行当座預金は,中央銀行が一般の銀行にお金を貸すことによって設定されるし,中央銀行券はそれが引き出されるときに発行されます。だから,一般の銀行は中央銀行から借りている立場です。中央銀行に求めるのは「お宅から借りたお金は,おたくの債務証書で返済するからな。受け取れよ」というものになります。中央銀行は当然,それを認めるでしょう。

 次に,中央銀行券は通貨になっています。なので,銀行は中央銀行に「金貨で支払え」と要求しなくても,市場で物を買って実物資産に換えることができます。もちろん金も買うことができます。兌換ができなくても実物資産には換えられるので,とくに支障がないわけです。

 もし,中央銀行券の価値が暴落するような事態になれば別ですが,その場合には,中央銀行に兌換請求が殺到して取り付け騒ぎになるのではなく,市場で物を買って実物資産に換えるさいに購買力が暴落してしまう,要するにインフレーションになるという形で現れるのです。ただし,これは経済危機に関する独自の分析を必要とする話で,機会を改めねばなりません 。


■補足

*「預金貨幣や中央銀行券は金兌換の下では信用貨幣だが,兌換停止下ではそうではない。国家の強制通用力で流通していると見るしかない」という説は,長い間多数説であった。最近の信用貨幣論の流行で少しは変わりつつあるが,いまなお通説であろう。そうではなく,兌換停止下でも信用貨幣として機能しているのだというのが拙論である。拙論は,古くからあるマルクス派の信用貨幣説の流れを応用したものである。「マルクス経済学はみな労働価値を持つ金だけを貨幣としている」などというのは誤解である。むしろマルクス派の貨幣・信用論とは,金属貨幣の代理物が発展する論理を明らかにしたものである。
*「兌換停止で信用貨幣は機能しなくなる」という人は,信用貨幣の機能のうち「金で返済してもらう」というところだけしか見ていない。そうではなくう,預金貨幣や中央銀行券が,1)どのように生まれて流通に入るのか,2)どのように流通するのか,3)どのように決済されて流通に出るのかを全面的に見なければならない。そうすれば,1)信用供与の際に生まれて流通に入り,2)個人や企業の債務より高度な債務証書として流通し,3)相殺による信用の解消によって流通から消えること,それらは基本的に,商品を流通させ,生産を維持・拡大する必要に応じてなされることがわかるだろう。これは流通外から一方的に投じられ,課税によらねば流通から出られない不換国家紙幣とは異なる運動なのである。
*債務の階層性論は現代貨幣理論(MMT)に倣ったものであり,相殺論はマルクス派信用貨幣説から継承したものである。
*しかし兌換されないことは,それはそれで重大な意味を持つ。ひとつは,準備金という制約なしに信用供与が拡大することであり,とりわけ商品流通や生産の維持・拡大と離れた借り入れ需要にも応じてしまうということである。つまりバブルの発生である。もう一つは,信用供与以外のルートで,商品生産を拡大できずに一方的に通貨だけが投入され,それが兌換で回収されなければどうなるかということである。つまり貨幣的な悪性インフレの発生である。この二つこそ,兌換停止の副作用なのである。

2023年12月12日火曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その4)手形が貨幣になると言ったが,預金や中央銀行券も手形の一種だということか

 6 手形が貨幣になると言ったが,預金や中央銀行券も手形の一種だということか

 私はまず,預金や中央銀行券が貨幣だと言いました。それから,手形が貨幣になるけれども,商業手形だと完全な貨幣とは行かないと言いました。この二つを合わせて次に言いたいのは,預金や中央銀行券は信用度の高い手形であって,だから貨幣として認められているということです。それでは,どうしてそれほど信用されるのでしょうか。

 まず一般銀行を登場させましょう。正確に言うと,民間銀行は存在するが,中央銀行は存在しない状態を考えてください。現代ではなじみのない状態ですが,かつては実在した状態です。なので,銀行券は民間銀行が発行します。

 さて,企業Aがビジネスのために銀行からお金を借りるとします。図 4をご覧ください。設備投資資金でも運転資金でもいいです。仮に1億円としましょう。この時,X銀行は,1億円の預金を企業Aの口座に設定してあげて貸し付けます。これは,日々,銀行が行っていることで,何の不思議もありません。そうでなければ,X銀行の銀行券を発行して窓口で企業Aの担当者に渡して貸すことも可能です。

 問題は,ここで銀行が無から預金や銀行券を作り出したということです。金貨や銀貨ならば,無から有にすることはできません。また銀行には国家権力はありませんから,強制的に預金や銀行券を使わせているのでもありません。では何をやっているのかというと,預金や銀行券は,いずれも銀行の手形,債務証書なのです。債務証書ならば,自分が発行することができますね。銀行は,預金または銀行券という名の,自分宛ての手形を発行しています。そして,商業手形の時のように,それで商品を買うのではなく,それを企業に渡して貸し付けているのです。企業と比べると銀行の取引範囲は広く,資金量も大きいです。預金は要求払いで銀行券に換えることもできます。なので,商業手形と比べると銀行手形,つまり預金や銀行券は,全社会に流通しやすいのです。銀行は,「私の手形はすごく信用があって,これでものは買えるよ。これで貸してあげる」ということをしているのです。

図 4 銀行の信用創造

 さて,A社はこれで設備投資なり原料の仕入れなりが可能になって企業活動を行います。うまくいけば利潤が獲得できて,銀行に利子を支払うことができます。そして返済期日になったら,A社は借りた1億円を銀行の預金口座に入金するか,そうでなければX銀行券を窓口にもっていって返済します。入金された1億円や手渡されたA銀行券は,銀行の資産にはなりません。破棄されます。正確に言うと,銀行券ならば価値のない紙切れに戻ります。なぜかというと,預金や銀行券は,A銀行の債務証書だからです。

 くりかえしますが,預金と銀行券は,いずれも銀行の債務証書であり,銀行はこれをゼロから発行できます。そして,銀行の手元に戻ってくれば消滅するのです。少し不思議かもしれませんが,手形発行の続きだと思えば理解できるでしょう。また,預金や銀行券での返済という行為は,実は手形を使った債権債務の相殺でもあります。企業AはX銀行から借り入れて1億円の債務を負っています。企業Aはこれを返済する際に,自らが預金または銀行券というX銀行に対する1億円の債権を持ち,両者を相殺しているのです。

 このように,預金と銀行券の運動は,手形の発行・流通,債権債務の相殺という手形原理を基礎にして,これに貸付・返済の原理を加えることで成り立っているのです。

 しかし,預金や銀行券で企業間の決済を行おうとすると,銀行だけではできる場合とできない場合とが出てきます。もう一度,中央銀行がなくて一般銀行だけある世界を考えてみましょう。図 5をご覧ください。今度は二つの銀行,三つの企業に登場してもらいます。A社とB社はX銀行に口座を持っていて,C社はY銀行に口座を持っています。A社がB社から商品を買って代金を払う場合は,X銀行の預金で払えるから簡単です。X銀行はA社からの指示を受けて,A社の預金を減らし,同額だけB社の預金を増やしてやればよいからです。しかしA社がC社から物を買ったときは厄介です。X銀行の預金はX銀行の債務,Y銀行の預金はY銀行の債務で,互換性がありません。C社にX銀行の口座を開いてもらえばいいのですが,C社がX銀行のサービスや経営の安定性に不安を抱いて拒否するかもしれません。かわりにY銀行にX銀行の口座を開いてもらい,X銀行がA社の預金を減らして同額だけY銀行がもつ預金を増やし,Y銀行にまた同額だけC社が持つ預金を増やしてもらえば何とかなりますが,やはりY銀行がX銀行に預金など持ちたくないと言い出したら終わりです。もうひとつ,A社が預金を下ろしてX銀行券を受け取り,これをC社に持参して支払うという手もありますが,C社がX銀行券など受け取れないと言ったら,やはりだめです。

図 5 銀行間決済の困難



 このように,銀行預金と銀行券のシステムは,異なる銀行間の決済に問題を抱えています。民間企業としての銀行の信用に限界がある限り,預金や銀行券は通貨になり切れません。

 これを解決するのが中央銀行の役割です。図 6をご覧ください。中央銀行とは,国内すべての銀行が当座預金の口座を持つような銀行です。これが中央銀行のいわゆる「銀行の銀行」という役割です。こうすれば,A社が商品の代金をC社に支払うのも簡単です。また,金額を1億円と定めましょう。まずA社の指示により,X銀行はA社の持つ預金を1億円減額します。そしてX銀行の依頼により中央銀行はX銀行が持つ預金を1億円減額し,Y銀行が持つ預金を1億円増額させます。そして,Y銀行はC社がもつ預金を1億円増額させます。これで,A社はX銀行の預金1億円を失い,C社はY銀行の預金1億円を受け取りました。そして,X銀行の預金とY銀行の預金は,中央銀行当座預金との交換性によって互換性が保たれているのです。また,X銀行,Y銀行,中央銀行は決済を仲介しただけで,資産債務は変動していません。

 このしくみがあれば,企業間の債権債務の決済は,銀行間の債権債務の決済として置き換えられ,それは中央銀行当座預金内での相殺と差額の振り替えで可能となるのです。

 さらに,各銀行が銀行券を発行する代わりに,中央銀行だけが銀行券を発行するようにします。これを発券集中と言います。A社がX銀行から預金を引き出すと,X銀行券でなく中央銀行券を受け取るようにするのです。中央銀行に一定の信用があれば,一般の銀行の間に信用度の差があっても,この中央銀行券は流通します。これで,多数の銀行券の間に互換性がない問題も解決します。 

図 6 中央銀行による支払い決済システム


 このように,一定の信用がある中央銀行が成立してすべての銀行に貸し付け,すべての銀行が中央銀行当座預金を持ち,また発券集中が行われると,銀行預金と中央銀行券が通貨として通用することができるのです。これが,紙切れとデジタル信号に過ぎないものが通貨となり,また民間の銀行が創造したに過ぎないデジタル信号が通貨となることができる根拠です 。

■補足

*銀行の貸付・返済・決済を,手形原理を基礎に,貸付け原理を加えて説明するのが最大の特徴である。手形による貸し付け説は,岡橋保に由来する。
*ただし,貨幣論の伝統では貨幣史の経過に引きずられて,預金・銀行券は商業手形割引によって発行されるという議論が強力であった。私はこれを採用せず,手形割引より貸し付けの方が本質的だとしている。ここは岡橋説を採用しておらず,村岡俊三説に近い。手形割引という取引形態は重視しないが,手形原理は重視するところがポイントである。ただし,貸し付けと蓄蔵貨幣の関連のさせ方が村岡説と異なる。
*また理論的説明に当たって,担保は本質的契機でないと考えてもいる。本質的なことは,通常,企業活動の拡大の維持・拡大のために貸し付けが行われるのであって,それと無関係に預金通貨や銀行券が発行されるのではないということである。
*中央銀行のもっとも本質的な役割を中央銀行当座預金による預金の通貨化,発券集中による中央銀行券の通貨化においている。この点は岡橋節,村岡説いずれとも異なる。



2023年12月11日月曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その3)紙切れや数字上の存在がどうして貨幣になるのか

 5 紙切れや数字上の存在がどうして貨幣になるのか

 ここまでの話から,また疑問がわくと思います。まず,金塊ならとにかく,紙切れや,数字上の存在に過ぎない預金が,どうして貨幣として認められ通用するのかということです。それも,民間銀行が発行した数字までもです。これの答えを一言で言うと,「手形だから」となります。別の言い方をすれば「信用できる支払約束だから」となります。もっと日常用語で言えば,支払われそうな債務証書,または借用証書だからと言ってもいいです。

 そう言ってもわかりにくいですから,まずは,何かが貨幣として認められる理由としてありそうなものをあげていきましょう。1番目は,それ自体価値がある商品であるから,です。これは金や銀などの貴金属に当てはまりますね。2番目は,それ自体は紙切れとかデジタル信号であっても,貴金属と交換できる場合です。これがいわゆる兌換紙幣です。銀行の窓口に持っていけば金貨などの本位貨幣と変えてくれるようなものです。3番目は,国家によって受け取りを強制されている場合。それによってみんながお金と認めることにした場合です。江戸時代の藩が発行していた藩札や,軍隊が発行する軍票にはこのような性格があると言われます。現在も,このような側面もあります。たとえば日本銀行法第46条第2項は,「日本銀行が発行する銀行券は,法貨として無制限に通用する」と定めています。また別の法律では,効果は額面価格の20倍までに限って法貨として通用すると書かれています。硬貨を21枚以上出して払おうとすると拒否されてもしかたがない,という話を聞いたことがあるでしょう。

 さて,これらのほかにもう一つ,根拠があります。それは,発行者に信用がある手形だからというものです。ここでおおざっぱには手形を債務証書と広く言い換えてもかまいません。実はこれが現代の貨幣には当てはまります。預金とは,実は銀行の債務証書なのです。また,中央銀行券とは,中央銀行の債務証書なのです。

 さて,現代の通貨制度は管理通貨制度であり,金本位制は停止されています。金本位制の場合は,いまあげた根拠の1番目と2番目が機能しますが,管理通貨制度では機能しません。中央銀行も銀行も,中央銀行券や預金を金と交換してくれないからです。

 なので,現代で現金や預金通貨が流通する理由としては,3番目と4番目が候補として残ります。実は,ここで経済学者の見解は大きく分かれていますので,両方を紹介します。3番目の,国家の強制通用力と,それを受けて人々が承認することが根拠になるという考えは,経済学では多数説を占めています。これを強制通用力説と言います。4番目の,信用ある手形だからというのを主要な理由,強制通用力を副次的な理由とする説は,経済学では少数派です。ただし,銀行業界ではおそらく多数説で,ねじれた状態にあります。こちらは信用貨幣説と呼ばれます。私はこちらの見地に立って,本日お話ししています。

 以下,少し長くなりますが,「信用のある手形,債務証書は貨幣になる」というすじみちを,説明していきます。

 図 1をご覧ください。いまAさんとBさんの二人がいて,それぞれ事業を営んでいるとしましょう。Aさんが,原料の仕入れなどビジネスのためにBさんから商品を買うとします。そして,現金ですぐ支払うのではなく,手形を発行してBさんにわたし,支払いを約束します。「Aは,何月何日まで1万円支払います」と言った約束をするのです。Bさんは期日になったらAさんにこの手形を提示します。Aさんは現金で支払い,BさんはAさんに手形を渡します。Aさんは自分のところに戻ってきた手形を破棄します。自分のところに自分の債務証書が戻ってきたのですから,もう支払う必要がなくて,無効にできるわけです。これが,手形取引のもっとも単純な原理の説明です。現在では紙の手形は電子手形に変わっていますが,このような取引は頻繁に行われています。



図 1 商業手形のしくみ

出所:川端作成の講演スライド。以下全て同じ。


 さて,手形取引がもう少し発展すると,信用のある手形は流通するようになります。図 2をご覧ください。今度は,やはり事業を営むCさんとDさんにも登場してもらいましょう。AさんがBさんから商品を買って,自分あての手形を渡すところは先ほどと同じです。今度は,BさんがCさんから物を買う必要があると想定します。この時,Bさんは,Aさんの手形をCさんに渡すことで商品を買います。Cさんが,「Aさんの手形ならば信用できるから,それでいいよ」と言ってくれれば取引は成立します。Cさんは,同じことを,Dさんから商品を買う際におこない,Aさんの手形で買います。Dさんがやはり「Aさんの手形なら信用できるからいいよ」と言ってくれれば取引成立です。そしてDさんは期日になったらAさんから代金を回収し,手形をAさんに戻します。Aさんは手形を破棄します。これが手形の第1の原理です。

 ここで大事なことは,BさんがCさんから,CさんがDさんから物を買う際には,貨幣なしで買った,正確に言うと手形が貨幣の代わりになったということです。なぜそんなことができるかというと,貨幣には支払い手段機能があるので,買う瞬間と支払う瞬間は分離できるからです。この分離を現実にする役割を手形が果たすのです。ここで見た,商品を流通させる手形の場合,手形は支払い手段機能を根拠にしつつ,ものを流通させる機能を代行しています。



図 2 商業手形の流通



 さて,もう一段階話を進めます。今度はAさんとBさんにだけ登場してもらいます。図 3をご覧ください。Aさんは手形でBさんから商品1万円を買います。しかしBさんも商売の都合上,Aさんから別な商品をやはり1万円分,Bさんが発行した手形によって買うとします。支払期日は同じです。この場合,AさんとBさんは,互いに自分の持っている手形と相手の持っている手形を交換すれば,支払いは済んだことになります。それぞれ自分の発行した手形を取り戻して破棄して,支払いは完了です。当たり前だと思われるでしょうが,ここで肝心なことは,結局,ほんらいの貨幣は全く登場せずに取引が完結したということです。裏返して言うと,手形は貨幣として機能しました。なぜそれができたかというと,債権と債務が相殺されたからです。債権・債務の相殺によって支払いを完結させるのが,第2の手形原理なのです。

 ここまでをまとめると,信用ある手形,支払い約束,債務証書が貨幣になるのは,購買と支払いを分離し,債権と債務を相殺するという手形原理のおかげです。

 まず,商品を買いたいという必要に応じて手形が発行されるます。信用がある主体ならば,自分あての債務証書を発行して受け取らせることができる。信用がある手形は商品を流通させ,債権債務が相殺される限りでは支払を完結させ,貨幣の代わりをするのです。

 ただ,一般の企業が発行する商業手形では,流通する範囲に限界があります。なので,商業手形は,今日,通貨としては認められません。しかし,もっと信用のある手形ならば,流通範囲が




図 3 手形を用いた債権債務の相殺


広がって,貨幣の代わりをより高いレベルでつとめ,貨幣そのものと認められるようになります。それはどんな手形なのかというのが,次の話です。(続く)

■補足

*私の信用貨幣論は,商品経済における手形から出発するものである。ここは,マルクス経済学の伝統的な信用理論と同じである。「いろいろ言われているが,結局,古い理論の方が正しい」最たる例だと考えている。

*信用貨幣の国定貨幣説はいきなり国家の課税からはじめて,人々が,納税に使えるものを貨幣と認めるところから貨幣一般と信用貨幣の成立を説明する。しかし,前資本主義社会からの歴史的経過ではなく,資本主義社会における信用貨幣の成立を説明するならば,「貨幣とは商品経済を成り立たせるもの」というところから始めなければならない。商品経済,あえて今風の用語でいうならば市場経済の発展とともに貨幣も発展するのであり,それと全く別に国家から貨幣を説明すれば,商品/市場/資本主義経済の発展と貨幣の発展は,まったく連関のないものになってしまうだろう。

*ただし国定貨幣説にも正しいところはある。それは,「わが国の通貨名は×××である」という価格標準の質的設定(そういってわかりにくければ「通貨単位の命名機能」)は国家によるものだ,というところである。ついでにいうと価格標準の水準設定(金○ミリ=1円だぞ)も国家によるものである。後者は現代社会で停止しているが,それで商品経済が成り立たないことはない。しかし,前者は現代も必須のものであり,それなしに商品経済は成り立つことができない。この点で国家は重要なのである。クナップ『貨幣の国家理論』は,「国家が単位名をつけるから貨幣が成り立つのだ」と言ったところが正しいが,「だから貴金属の価値と貨幣価値は関係ない」と言ったのは勇み足であった。



2023年12月9日土曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その2) 実際にどんなものが現代の貨幣なのか/お金は誰が発行しているか

 3 実際にどんなものが現代の貨幣なのか

 次の問題は,実際にどんなものが現代の貨幣なのかということです。これを一言で言えば,現金と預金ということになります。

 ここで大事なことは,貨幣とは,中央銀行券,日本で言えば日本銀行券と,硬貨だけではないということです。日本における通貨流通量の定義を見てみましょう。M1とかM2,M3とかいくつかの指標があります。


M1=現金通貨+預金通貨

現金通貨=日本銀行券発行高+硬貨流通高-金融機関保有現金

預金通貨=要求払預金(当座,普通,貯蓄預金など)-金融機関保有小切手・手形 

要求払い預金:預金者の要求によりいつでも払い戻される預金

M2またはM3=現金通貨+預金通貨+準通貨+CD

準通貨=定期預金,据置貯金,定期積金,外貨預金

預金通貨,準通貨,CDの発行者は,M2では国内銀行等,M3では全預金取扱金融機関

CD:譲与性預金(無記名で譲与可能な定期預金)


 まずいちばん簡単なM1を見ましょう。通貨とは現金通貨と預金通貨だと書いてあります。現金通貨とは,日本銀行券と硬貨です。預金通貨とは要求払い預金です。要求払い預とは,預金者の要求によりいつでも払い戻される預金のことです。次にM2とM3はだいたい同じで,M1に準通貨とCDが加わったものです。準通貨というのは,主に定期預金と外貨預金を含みます。いつでもすぐ引き出せる預金とは違いますが,預金の一種です。CDというのはコンパクトディスクではなく,無記名で譲与可能な定期預金で,やはり預金の一種です。M2やM3も,つまりは現金と預金が通貨だと言っているのです。

 では実際の通貨流通量を見てみましょう。2023年5月現在,現金通貨は115.5兆円,預金通貨は958.1兆円,準通貨は486.2兆円,CDが31.0兆円です。現金よりも預金の方がはるかに大きいのです。

 ここで知っておいてほしいのは,現代では預金も貨幣であるということです。預金は貨幣の機能のうち,支払手段機能を中心に果たします。銀行振り込みで代金を払うことや,クレジットカードで買い物をすると,月ごとに預金から代金が引き落とされることをイメージしてください。

 そしてもう一つ付け加えると,預金はデジタル通貨だということです。預金は現金とは別に存在する,数字の上だけでの存在です。だから,コンピュータ出現以前から存在したデジタル通貨なのです。最近になって初めてデジタル通貨が出現したかのようにマスメディアが報道しているのは間違いなのです。

お金は誰が発行しているか

 今度は,お金は誰が発行しているのかを考えてみましょう。一言で言うと,中央銀行と政府と一般の銀行となります。つまり,一般の民間の銀行もお金を発行しているのです。

 一つずつ確かめましょう。中央銀行券は中央銀行が発行していますね。日本ならば日本銀行が発行する日本銀行券,1万円札や千円札です。次に硬貨は,国により制度が違い,一律には言えません。しかし,政府が発行することが多いです。日本でも政府が発行します。ただし,日本銀行に交付して,日本銀行から流通させる仕組みになっています。そして預金通貨は,一般の銀行が発行します。準通貨も同様で,銀行などの預金金融機関が発行します。このように,民間の銀行もお金を発行しているのです 。

■補足
*ここは学問的には何も変わったことは行っていない。ただ,一般向け講演では,預金も通貨だということはよく説明しておく必要がある。実は,「デジタル通貨は,電子マネーや中央銀行デジタル通貨で初めて出現した」という誤った通念も,預金が通貨だということを忘れたところから来る。

2023年12月8日金曜日

貨幣発行と流通のしくみ(その1) 貨幣とはどういうものか

一般向け講演原稿 

貨幣発行と流通のしくみ:お金はどこからきてどこへ消えるのか

1 はじめに

 この講義では,「貨幣発行と流通のしくみ」についてお話しします。それを通して,皆さんに考えていただきたいことは二つです。一つは,普段の生活の中で漠然とイメージしがちなことと,実際のお金の発行・流通のしくみにはかなりの違いがあることです。もう一つは,モノやサービスといった実物の世界が貨幣を動かす力と,貨幣が実物の世界を動かす力について知っていただくことです。そして,これらを通して,社会に向き合う力を少しだけ鍛えていただければと思います。

 なお,「貨幣」「通貨」「お金」という三つの言葉がしばしば出てきますが,ここでは大まかには同じ意味と考えていただいて構いません。

 さて,貨幣の話をすると言っておいて何ですが,経済の本体はモノやサービスです。モノを少し専門的に財とも言います。経済とは金儲けの話ではなく,むしろ人が働いて財やサービスを作り出し,それを享受するというしくみが経済の本体です。財やサービスを作り出す苦労と,それを享受して得られるうれしさや幸福感,専門的に言うと効用というものがバランスして,各人の生活が豊かになることが経済のテーマです。

 しかし社会は多数の人間からできていますから,そのためには社会の仕組みが必要です。それは時代によって異なり,奴隷制や封建制であったりもするわけですが,近代的な仕組みの代表は市場と交換です。そしてそれを円滑に回すためのツールが貨幣です。だから貨幣はツールに過ぎない。

 ところがツールは暴走します。「近代科学文明の暴走」というのは映画や,また現実でもよくある話ですが,貨幣も暴走します。貨幣は財やサービスを動かすツールに過ぎないのに,貨幣を獲得することやためること自体が目的になってしまうことがあります。それが資本主義社会です。こうなってしまう秘密について,ここではすべてお話しすることはできませんが,その一端として,貨幣の発行と流通の仕組みをお話ししようというわけです。

2 貨幣とはどういうものか

 さて,最初の問題は,貨幣とはそもそも何なのかという話です。一言で無理くり答えるならば,すべての商品と等価,つまりイコールなものだということです。しかし,具体的にはいろいろな機能があります。

 最も大事な機能は価値尺度機能です。これはモノやサービスが商品となっている世界で,商品の価値の大きさを図る機能です。たとえば商品1が貨幣1単位に等しく,商品2が貨幣10単位に等しいならば,商品2は商品1の10倍の価値があることになります。このように商品間の相対関係を図るのが価値尺度機能です。

 次に価格標準です。これはさらに二つに分かれます。一つは,貨幣に単位名をつけることです。「日本の通貨は円である」とか「アメリカの通貨はドルである」とかいう風に名前を付けることです。もう一つは,皆さんにはなじみがないと思いますが,貨幣と単位の数量関係をつけることです。たとえば,1933年に制定された日本の貨幣法は,もう無効になっていますが,「金750ミリグラムをもって1円とする」と決めていました。この二つは,いずれも国家が決めることです。

 三つめは流通手段機能です。これは簡単で,現金で物を買うことを想像してください。商品と交換されることで,商品を流通させる機能です。

 まだあります。四つ目は支払い手段機能です。これは,貨幣を使えば,商品を現に流通させることと分離して,支払いだけを行うこともできるという機能です。イメージしていただきたいのは,代金後払いや,借金の返済です。お金で支払うことだけを独立して行えますね。

 五つ目は蓄蔵手段です。お金で富を蓄えることができるという機能です。預金とか,タンス預金とかをイメージしてください。なお,モノやサービスでなく,金融資産,つまり株式とか社債とかポイントとかで富をためるのもこの機能の延長線上にあります。

 最後は世界貨幣です。さきほど,通貨単位は国家が定めると言いました。国家が違うと貨幣単位も違って互換性がありません。でも貿易をしますから,何とか貨幣を通用させねばなりません。その機能が世界貨幣です。これを完全に果たせるのは金などの貴金属だけでしょう。金が流通していない現在では,ドルやユーロなどがこの機能を一部代行しています。

 さて,これらの機能を全部一種類の貨幣が果たせれば,貨幣として万能だということになります。そのような貨幣であるためには,それ自体が価値を持った商品である貨幣ならばいいわけです。これを商品貨幣と言います。具体的には金や銀など,本位貨幣になれる貴金属がこれに該当します。金本位制というのが歴史的に存在したことはみなさんもご存じでしょう。

 しかし,万能な商品貨幣だからと言って,それだけを使っているわけにはいきません。貨幣流通量が貴金属の産出量に制限されるとお金が足りなくなります。また,現物のお金が常に手元にないといけないというのでは不便です。会社は黒字でも,今この瞬間に現金が手元にないから,払うべき代金を払えず倒産する,といったことになりかねません。

 本位貨幣が存在する世界では,一方で経済が順調な時に経済発展が制約され,他方で不況の時には経済の落ち込み方がひどくなります。非常に大雑把に言えば,これが歴史の一時期は実施された本位貨幣制が停止されていて,政府が通貨システムを管理する管理通貨制が実施されている根本的な理由です。

(続く)

■補足

*貨幣についての古典的な説明を踏襲しており,慣れている人には退屈だろう。しかし,漫然と踏襲しているのではなく,「いろいろ迷ったが,結局これでよい」と考えている。

*本当は深く論じなければいけない価値尺度機能をさらりと流している。もちろん,現在は代理貨幣しか使われていないので,価値尺度機能は間接的に,大きく誤差のある形でしか果たされていない。

*私は,古典的な「金などの商品貨幣=万能な典型的貨幣」説に立つ。この見解は,近年の貨幣史研究の進展により,旗色が悪くなっている。しかし,「前資本主義時代から現在に至る歴史的順序」と,「資本主義社会を説明するための論理的順序」は異なるというのが私の見解である。商品貨幣は「貨幣の歴史的起源」ではなく,資本主義社会における「論理的説明の起源」である。「昔は金貨が使われていて,いまはそうでなくなった」と貨幣史(歴史学)として説明するのでなく,「金貨ならば貨幣のすべての機能を果たせるのだが,それでは不都合が多すぎるので,実際には使われていない」というのが貨幣論(経済学)の説明である。

*なので,私はMMTやクナップのように,貨幣の生成そのものについての国定貨幣説をとらない。貨幣は商品経済から説明できると考えている。ただし,価格標準(貨幣の単位名付与,貨幣重量と単位名の関連付け)は国定であり,国家抜きに説明できない。この点を明確にしたことはクナップの功績だと認める。

2023年11月25日土曜日

UAEにおける水素直接還元法のパイロット・プロジェクト:日本への示唆

 UAEのエミレーツ・スチールは,アブダビ・フューチャー・エナジー・カンパニーPJSC(マスダール社)とともに,水素直接還元鉄のパイロット・プロジェクトを推進している。

 エミレーツ・スチールは中東最大規模の鉄鋼メーカーであり,製鉄は直接還元法,製鋼は電炉法で行い,多様な建設用条鋼・鋼管類を製造している。生産能力は直接還元鉄が420万トン,鋼材が350万トンである。

 今回のプロジェクトは,水素直接還元の実証を行うもので,水素製造のための電解層はすでに設置中とのこと。

 エミレーツ・スチールのプロジェクトは,2031年までに世界最大の水素製造国になろうとするUAEの方針と軌を一にするものだ。

 またエミレーツ・スチールは,年間80万トンのCO2を回収し,油田に圧入するCCSプロジェクトも推進している。

 ちなみに,JFEスチールはエミレーツ・スチール,伊藤忠商事,アブダビ・ポーツ・グループとともに,直接還元鉄サプライチェーンの構築を進めている。つまりは,エミレーツ・スチールが生産した還元鉄を日本に輸入し,低炭素鉄源として利用しようというものである。おそらく電気炉に投入するのであろう。

 これは確かにwin-winの関係をもたらす取引である。そして,日本でも脱炭素に向けて高級鋼製造の電炉化が推進されていることも示されている。だが,次世代製鉄技術,とくに水素直接還元法の開発と実用化において,日本が後れを取っていることもまた明らかである。

Theodore Reed Martin, Masdar and Emirates Steel Arkan to develop green hydrogen project, Energy Global, 23 November, 2023.

Emirates Steel to use green hydrogen in steelmaking, South East Asia Iron and Steel Institute News Room, 23 November, 2023.

「低炭素還元鉄のサプライチェーン確立に向けた協業体制の構築について」JFEスチール株式会社,2023年7月18日。


2023年11月11日土曜日

ライドシェアリングは地域の交通手段確保の観点からこそ検討されるべき

 共同通信の報道によれば,「一般ドライバーが自家用車を使い乗客を有償で運ぶ「ライドシェア」を巡り,都道府県で独自に導入を検討しているのは神奈川、大阪の2府県にとどまる」そうだ。これでよいのだろうか。ライドシェアリングは,地域と地方という観点からこそ検討されるべきだと思うのだが。

 この3月に経済学部産業発展論ゼミを卒業した庄司健人氏の卒業論文「ライドシェアリングの実態と日本への導入の検討」は,ライドシェアリングの新規性を二つに分けて整理した。①タクシー事業に必要な特別な資格を持たないドライバーが自家用車で乗客を輸送することと,②アプリ内ですべてのサービスを完結し,さらに乗客とドライバーの情報の非対称性を解消したこと,である。この二つを区別しなければならない。

 ②は,まだスマホを使えない人がいるという点を除けばよいことずくめであり,①の副作用(公正な取引,安全,言語障壁等)を緩和する作用も持つ。そして,②はタクシー事業でも導入できることであり,現にアプリによる配車サービスとして実現しつつある。

 しかし①は,公共交通機関が豊富な大都市圏とそうでない地方部では異なる作用を引き起こすことに注意しなければならない。日本において,ライドシェアリングの大都市圏への導入は移動需要に対する供給過剰を引き起こす一方,「人口の減少などの影響で既に公共交通機関が廃止され,さらにタクシー事業者も撤退したような地域では,自家用車を用いたライドシェアリングが住民の新しい移動手段として受け入れられる可能性が高い」。これが著者の結論であった。

 私も同意する。ワイドショーやニュースインタビューに都会の人間ばかりを登場させて「安くなったらいいなーなんて思いますけど」「交通混雑がひどくなるんじゃないかなー」とかのんきな寝言をしゃべらせ,議論を見当違いの方向にそらすのをやめるべきだ。導入を検討すべきは大都市ではない。バスもタクシーも鉄道も失われつつある地域の交通手段としての有効さを,真剣に検討すべきだろう。

「ライドシェア9割が未検討 都道府県、安全確保に懸念」『共同通信』2023年11月4日。

2023年11月3日金曜日

岡橋保の信用貨幣発生論を継承し,批判的に徹底する

  これまで,信用貨幣論を論じるに当たり,先駆者として岡橋保にたびたび言及してきた。岡橋は私にとっては,師匠の師匠にあたる。その岡橋学説に対して,ようやく一定の位置と距離を持って向かい合えるようになってきた。それは,自分のゼミ生にこの学説を伝えるにあたり,無理解なままや,ただ追随するままではいられないからである。以下は,大学院ゼミでの解説用に作成したノートである。

ーー

1.徹底した信用貨幣論としての岡橋説

 岡橋保の学説は,信用貨幣理論において一つの極をなす。それは,現代の貨幣が信用貨幣であるという見地を徹底したからである。

 すなわち,岡橋は,預金貨幣と銀行券を信用貨幣であるとし,また金兌換が停止されて以降も信用貨幣であるとした。また,貸付・返済によって発行・回収される預金貨幣・銀行券は伸縮性を持っており貨幣流通法則にしたがうとした。これらは,預金貨幣や銀行券が,国家の強制通用力や漠然とした人々の信認によって流通する価値シンボルであるという,マルクス経済学,近代経済学を問わず多数の研究者に保持されている常識と決定的に対立するものであった。また岡橋は,同じ預金貨幣・銀行券であっても,発行ルートの違いによって性質が異なることを指摘し,貸付によって発行された預金貨幣・銀行券発行は貨幣流通法則にしたがうが,中央銀行引き受けによる国債発行を通して発行された預金貨幣・銀行券は紙幣流通法則にしたがうことを明示した。

 そのことにより,岡橋は,厳密な意味での貨幣的インフレーション=物価の全般的名目的上昇と,日常用語でいうところのディマンドプルインフレーション=需給ひっ迫から来る物価の実質的上昇をはっきり区別した。そして,貨幣的インフレーションは,いかに中央銀行が金融を緩和しようとも,手形割引や貸付による預金貨幣・銀行券の発行を通しては決して起こらず,政府の赤字財政こそ貨幣的インフレーションの発生源であることを,理論的根拠を持って明らかにした。

 岡橋説は,それに賛同する者から見ても反対する者から見ても,徹頭徹尾の信用貨幣論なのである。また,それは期せずして,今日再興隆しつつある国定貨幣説的な信用貨幣論と,一部親和し,一部対立していて,興味深い対比をなしている。岡橋説を出発点とする徹底した信用貨幣論を用いると,今日の金融問題の見え方,例えば「日銀の超金融緩和はインフレーションを引き起こしうるか」といった問題への回答が,常識的な貨幣論とは異なってくる。そうしたアクチュアリティを持った学説なのである。

2.信用貨幣発生論の検討

(1)課題設定

 とはいえ,当たり前のことであるが,岡橋説が何から何まで正しいというわけではない。ここでは『貨幣論 増補新版』(春秋社,1957年)に見られる,その信用貨幣発生論を検討する。ここまで岡橋の信用貨幣発生論の徹底性,独自性を強調したが,信用貨幣の発生については,意外なほどに,マルクス派の多数説と共通のところがある。それは,「銀行券は手形割引から生まれる」というテーゼを持っているところである。したがい,その批判も岡橋説の検討を超えた射程を有するだろう。以下,解説する。目指すべき方向は,岡橋説を部分修正することで,むしろその信用貨幣論をさらに徹底することである。

(2)「ほんらいの信用貨幣=手形割引によって発行された銀行券」説の批判

 信用貨幣の発生を,国定貨幣説でなく手形流通説から理解するところと,貸付によって流通に入った銀行券が貨幣流通法則にしたがうとするところは,岡橋説の核心である。しかし,岡橋が,手形割引によって発行される銀行券だけが「ほんらいの信用貨幣」であり,貸付によって発行される場合は「ほんらい的でない」というのは,おかしい,というより不徹底に思える。岡橋がこのように言う理由は,貸付による銀行券発行は貨幣流通法則には基づいていても,手形流通法則に基づいていないというものである。貸付けられた銀行券は,一般的流通にも入るものであって,手形とは異なるというのである。

 岡橋説がこのような主張を取るのは,信用貨幣の基本形態を銀行券に置くことと結びついている。しかし,それは逆ではないか。信用貨幣の基本形態は預金貨幣であり,預金を引き出した場合に生じる二次的形態が銀行券だと考えるべきではないか。銀行と企業が取引をするとは,企業が銀行に口座を持つということである。銀行が企業に貸付を行うというのは,銀行が信用創造によって,自己の負債として企業の持つ預金口座の残高を増額させるとともに,自らの資産として貸付金を計上することである。借り手企業が銀行券を手にするのは,預金口座からお金を引き出すときである。だから,銀行券が預けられて預金になるのではない。まず預金があって,それが引き出されるときに銀行券が発券されるのである。岡橋は,預金貨幣を重視する研究者であるが,それでも,最初からいきなり銀行券で貸し付けが行われると想定することによって,預金の意義を軽んじてしまっている。

 企業が預金貨幣によって銀行から借り入れるというモデルで考えてみよう。企業は借り入れたお金を預金口座に持っている,この時,1)同一銀行に口座を持つ他社から原材料や設備を購入することは,銀行手形の流通として理解できる。預金貨幣とは,銀行の自己宛て一覧払債務だからである。2)また,同一銀行内に口座を持つ他社との預金振替によって,債権債務の相殺による決済が可能となる。3)もちろん,返済も一種の相殺として理解できる(これは岡橋も銀行券について指摘している)。返済直前の状態を見ると,銀行は企業に貸付けているが,企業は銀行債務である預金を同額だけ持っている。ここで互いの債権=債務を相殺することが返済なのである。利子生み資本を貸付けているのは銀行の側なのであるが,それが現金による貸付でなく銀行手形による貸付であるために,このようなことが起こるのである。

 以上の1),2),3)から見て,貸付による預金貨幣発行も手形原理,すなわち手形による商品の流通,二者または多者の相殺による決済という原理に立脚しているのであり,ほんらいの信用貨幣の在り方を代表しているというべきなのである。岡橋説は,このように部分修正され,かつ信用貨幣論として徹底される必要がある。

(3)手形割引と貸付の違い:購買力は創造するが貨幣流通法則にしたがう

 では,手形割引と貸付の違いはどこにあるのか。前者ではすでに流通した商品価値に対応した信用貨幣が事後的に発行されるのに対して,後者では産業資本や商業資本の運動の起点となる貨幣が事前に供給され,その後で生産手段や労働力が購入されることにある。貸付では,貨幣がまず前貸しされ,それから商品を流通させるのである。その意味では購買力は創造される。

 ただし,貸付が購買力を創造すると言っても,流通貨幣量が一方的に膨張してインフレが生じるわけではない。そもそも,貸付金は満期になったときに返済されて流通から消えることが,はじめから予定されているのである。その意味では,購買力の創造は一時的である。また,産業資本・商業資本の運動が正常に行われれば,前貸しされた信用貨幣の価値は,購入される生産手段や,雇われた労働者が消費する消費手段の価値に対応する。つまり,貸しつけられた信用貨幣は,それに見合う商品を流通させることに用いられる。

 岡橋は商品価値との対応を強調するのだが,そのことをもって貸付が購買力を創造すること自体を否定している。それは行き過ぎであろう。信用貨幣の前貸しによって創造された購買力は,事後的に商品流通と対応すると見るべきであり,むしろそのことが貸し付けの特徴なのである。

 個々の企業経営は成功することもあれば失敗することもある。成功すれば,資本の価値増殖により,流通する商品価値は拡大し,いっそうの貨幣が必要になるかもしれない。また失敗すれば,銀行には貸し倒れが生じ,流通に投じられた貨幣がそのままとなるかもしれない。しかし,社会全体としては,貨幣流通速度を所与とすれば,経済が拡大して商品流通が拡大すれば貨幣の前貸しが返済を上回り続け,縮小すれば返済が前貸しを上回り続ける。こうして,流通貨幣量は,商品流通を媒介するために必要な水準に収まるのである。だから,信用の拡大による購買力の一時的拡大は,貨幣的インフレーションを起こさない。景気が良くなって貸付が増え,企業が投資を拡大した場合には,生産手段に対する需要が拡大して物価が上昇することはもちろんある。しかし,これは生産が拡大している産業部門での実質的物価上昇であって,貨幣的インフレ=全般的名目的物価上昇ではないのである。

 預金貨幣や銀行券の前貸しは一次的な購買力増大を引き起こすが,社会全体としては商品流通の必要によって貨幣流通量が規制される。つまり,貸付によって発行される信用貨幣は,根本的には貨幣流通法則にしたがうのである。これは岡橋説の核心のひとつであり,継承すべき点である(ただし,前節で述べたように手形流通法則にも従うというのが私の主張である)。信用貨幣である預金貨幣や銀行券のこの性質こそ,いったん流通に入ると国家の課税強化によらなければ出られなくなる,価値シンボルである国家紙幣との違いなのである。

ーー

 今回,岡橋説をようやくある程度整理できたが,この後には,師匠の一人村岡俊三の学説が控えている。村岡俊三の専門は世界経済の理論であったが,その一環として世界的スケールにおける貨幣・信用関係にも重大な関心を寄せ,岡橋説をモディフィケーションした主張を持っていた。例えば,村岡説は,銀行が自己の手形によって貸し付けるとする点では岡橋説を継承しており,銀行信用の本来の在り方を貸付に置くという点では,岡橋説を修正している。この二つの論点は,私にとって受け入れやすい。しかし,その貸付を「後日の預金を引き当てにして目下の貸付を行う」とするところに検討すべき点がある。他日を期したい。



2023年10月27日金曜日

「同一価値労働同一賃金」を実現するための法改正について:共産党と立憲民主党の提案を手掛かりに

  2023年10月,共産党が「非正規ワーカー待遇改善法案」(骨子)を発表した。論点ごとにどの法律を改正しなければならないかを列挙しているので具体的である。また,立憲民主党は2020年11月に「同一価値労働同一賃金」法案を衆議院に提出している。野党から均等待遇に向けた具体案が出ていることは望ましい。

 ここでは,処遇の根幹である賃金において,正規・非正規の格差をどう是正するか,とくに法的措置としては何ができるかについて,両党の提案を手掛かりに検討したい。

 共産党の法案骨子は「『同一価値労働同一賃金』『均等待遇』の具体化を法律に明記します」「企業の恣意的な判断ではなく,客観的基準に基づいて評価し,非正規雇用を理由とする賃金・労働条件の差別を禁止します」と宣言している。もっともなことであるが,問題は,どのような「客観的基準」を設定するかである。他の論点に比べると,共産党の提案はここのところで具体性を欠いている。

 他方,2020年の立憲民主党法案は正規と非正規の待遇格差の合理性に関する挙証責任を使用者側に求めること,すでに起こった訴訟を踏まえて賞与・退職金の格差是正の規定を盛り込むこと,また複数個所(正規・非正規の待遇差の説明義務と,派遣労働者と通常労働者の処遇に不合理な差を付けないために考慮すべき要因)で「職務の価値の評価等を踏まえた」場合に言及していること,基本給・賞与・退職金が賃金の後払いまたは継続的な勤務に対する功労報償の性質を持つ場合については,他の性質を持つ部分とわけて扱うことを求めている。これは具体的な格差是正基準に迫ったものである。

 立憲民主党法案が,この間に起こった様々な正規・非正規格差に関する訴訟を踏まえ,「継続的な勤務に対する功労報償」を他の部分と区分せよという着眼点を入れたことは,理論的には鋭い。しかし,この区分を実務的に行うこと,つまり基本給や賞与や退職金について年功的部分と他の部分を分離することはかなり難しいだろう。実施するなら手法開発が必要である。また,職務の価値の評価という,格差を是正するためのまぎれのない視点に注目しながら,それを考慮すべき要因にとどめてしまっており,これも実務的に具体化することは難しい。既に法にある「職務の内容」規定に溶け込んで独自の意味を持たなくなってしまう恐れがある。

 日本において,正規雇用労働者の賃金は,何に基づくか不明だが勤続とともに昇給する漠然とした「基本給」と,職務遂行能力に基づく「職能給」を中心に置いていることが多い。これは,年功的基本給と職能給は,人の特性を基礎にしたメンバーシップ型雇用の賃金である。ところが非正規雇用労働者はおおざっぱな職務給であり,適切に職務を評価されていない。差別的に切り下げられたジョブ型雇用の賃金である。このままでは両者のものさしがまったく異なっていて,客観的基準に基づいた格差是正ができようもない。「働き方改革」の目玉であった正規・非正規の不合理な格差是正がなかなか進まないのも,ここに原因がある。

 是正のために,理論的妥当性を実務的実行可能性を両立させる措置を考えた。

*案1)企業には就業規則の一部として賃金表作成を義務付けるとともに(ない会社もあるのだ。驚くべきことだが),正規・非正規間で賃金の主要部分について賃金形態と賃金表を統一する。つまり,非正規労働者も正規労働者の給与表を用いて,そのどのランクに該当するかに基づいて賃金を支給する。これで少しは客観的な基準が生まれる。ただし,これは公務員や独立行政法人の少なくとも一部ではすでに実施されていて,それで問題が解決した様子もないので,部分的な効果しかない。

*案2)案1に加えて,賃金のうちとくに「職務の価値と職務の成果に基づく部分」については,職務評価を義務付ける。職務評価に関する規程を就業規則の一部分として作成必須とすればよいので,法的にはそれほど複雑ではない。

 職務評価とは,簡単に言えば,職務を分析し,諸要因(技術難易度,資格必要度,肉体負荷度,精神負荷度,責任度,安全衛生リスク,業績への貢献度等々)に基づいてランク付けし,ランクごとの賃率を決める,というものである。職務の価値をもとに,それについて成果を達成した場合の賃率も決められる。まちがってはならないのは,人ではなく,職務(job)の方をランク付けするのである。本来,産業別の統一基準が欲しいところだが,すぐにはできないし,法的義務になじまない。よって法的には各社ごとの職務評価でよいこととし,その適切性について要件を定める。

 やや専門的な論点が二つある。一つは,職務給は成果を評価できないのではないかという疑問がみられることである。これは単なる誤解である。職務価値に基づいて職務の成果についても賃率が付けられる。成果給とは職務の成果給なのであり,むしろそうしてこそ成果の評価にそれなりのものさしがうまれる。

 もう一つの論点は,厳密な意味での職務評価,すなわち個々の職務の価値・その成果を評価するものでなければならないか,すでに大企業が正社員にある程度取り入れている「役割」評価でもよいかということである。「役割」「行動特性」評価は職務の評価と人の能力評価の中間になるので,客観性担保のためには職務評価としたいところだが,実行可能性を踏まえ,また職務内容が流動的な場合も踏まえると,「役割」評価的なものは許容せざるを得ないだろう。ただし,ぼんやりとした行動特性ではなく,職務に即し,職務を果たすために必要な役割に限定する必要がある。

 なお,職務評価の導入は企業にはそれなりの負担となるので,中小企業に何らかの公的支援をつけるのがよいだろう。

 これにより,賃金体系の一部または全部について,端的に職務ランクと賃率が「A:時給○○円」「B:時給△△円」などと,同一基準で正規についても非正規についても定まっている状態を生み出すことができる。就いている職務がAランクならば,正規だろうと非正規だろうと,まだ性別が何であろうと,年齢が何才だろうと,職務給は○○円×労働時間だけ支給されるのであり,この部分については差別はなくなる。「同じ仕事をしているのに非正規の方が給料が安い」という問題を大幅に改善できる。

 もちろん,これでも問題は残る。そもそも就いている仕事そのものの格差による賃金格差はなくせず,これは職務給が一般的なアメリカの現実である。ただし,その差の根拠は客観化されるので,身分的な説明のない差別的格差は緩和できる。また,会社は正規労働者だけに勤続に基づく給与部分を残すであろうから,その部分では非正規との格差が生じる。これは,立憲民主党法案の考え方を,より具体化する手法を開発して変えていく必要がある。

 これによって,正規・非正規ともに「職務の価値と職務の成果に基づく部分」についてはまったく同一の基準によって賃金が支給されることになり,差別は法的に禁止される。この方策が「同一価値労働同一賃金」原則の直接的な具体化策であることは言うまでもない。

 いったんこの制度ができれば,職務評価を公正にするために,労働団体,コンサル,使用者団体がそれぞれに工夫し,ナショナルな,まだ産業別の基準が形成されていくことが期待できる。それによって,会社の枠を超えて,賃金の在り方を社会的なこととして議論し,改善していく動きが強まるだろう。

 以上が,「同一価値労働同一賃金」を,実行可能な形態で具体化するための私の提案である。

「『非正規ワーカー待遇改善法』の提案」『しんぶん赤旗』2023年10月21日。

「賞与・退職金等に係る正規・非正規労働者の待遇格差を是正、 同一価値労働同一賃金法案を衆院に提出」立憲民主党,2020年11月13日。


2023年10月25日水曜日

ウォルター・アイザックソン著(井口耕二訳)『イーロン・マスク(上)(下)』文藝春秋,2023年を読んで

 スティーブ・ジョブズの伝記と言い,今回のイーロン・マスクの伝記と言い,著者のウォルター・アイザックソンが考えていることは,次の箇所に集約されていると思う。

「自信満々,大胆不敵に歴史的な偉業に向けて突きすすむなら,ひどい言動や冷酷な処遇,傍若無人なふるまいも許されるのだろうか。くそ野郎であってもいいのだろうか。答えはノーだ。もちろんノーだ。同じ人でもそのいい面は尊敬し,悪い面はけなす。それはそんなものだろう。ただ,ひとりの人を形作る糸はより合わさっている。それこそ,きっちりとより合わさっている場合もある。布全体を全部ほどくことなく闇の糸を抜くことは難しかったりするのだ。」(邦訳,下,p. 435)

 ジョブズとマスクには具体的なところでは共通点も違いもある。マスクはエンド・ツー・エンドに仕上げようとするところはジョブズと同じだが,工学系の人間であり,エンジニアリングでも製造でも自ら現場指揮を執るところは違う。物理的なところも自ら見られるので,現場に行かないエンジニア,製造を知らない設計者を許さないという特徴もある。限界まで激しく,現場に詰めて寝ずに働くシュラバそれ自体を価値あるものとする点はジョブズより極端である。製品に対する美意識の強さは同じだが,マスクはコスト意識が極めて強く,無茶なほど設計簡素化と省略を強要するところが違う。家族に対する態度は,形は違うようでところどころ無茶苦茶なのは同じとも言えて,これは何とも言い難い。

 経営学の研究者からすると,マスクがエンジニアリングと製造のシームレス化や改善や激しい働き方についてやっていることは,ある意味ではかつての日本の企業人と似ていると考えることもできる。ただ,自分と優れたエンジニア数名が主役となり,現場を駆け回って命令しながら成し遂げようとするところは違う。上から下まで誰にでも合理的説明と工夫をさせようとする点はかつての日本企業と似ているが,それを自らの一方的命令で行い,うまくいかなければ速攻で解雇して人を入れ替えるところは違う。

 実は私は,何だかんだ言っても少量生産であるスペースXはとにかく,一般顧客向け大量生産のテスラをどうやって成り立たせたのかが不思議でならず,本書を買った。答えは,「自分と何人かの専門家が総出で現場で徹夜で監督する+説明と改善をすみずみまで強要する+能力不十分なら速攻で解雇して速攻で補充採用する」のように見える。それで何とかなるはずはないだろうと思う一方で,本書を読むと何とかなりそうにも思えてくるから不思議である。まだ半信半疑だが,確かにすごいと思う。

 スペースXやテスラに関する章に比べると,ツイッターに関する章は読んでいて気持ちが悪い。著者がカンパしたように,マスクはスペースXやテスラと同じようにツイッターもテック企業だと思い込んでいたが,実はコミュニケーション企業だったのだ。スペースXやテスラでは,マスクがダメだと思い込んだ人間をクビにして設計や製造の仕方を変えれば済むが(それでもどうかとは思うが),ツイッターの場合,マスクの不用意な言動で,轟轟たる中傷を浴びねばならなくなる人が発生するところは,本書で最も嫌な気持ちになった部分である。

 結局は冒頭に引用したアイザックソンの言葉に尽きるのだが,私の関心は上記のようなところにあった。それぞれの関心から読めば,きっと面白く,また考えさせられる本だと思う。


ウォルター・アイザックソン著(井口耕二訳)『イーロン・マスク(上)(下)』文藝春秋,2023年。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163917306




2023年10月20日金曜日

Devlin, A., & Yang, A. (2022). Regional supply chains for decarbonising steel: Energy efficiency and green premium mitigationを読む:日本鉄鋼業に難問を突き付けるシミュレーション

 Devlin, A., & Yang, A. (2022). Regional supply chains for decarbonising steel: Energy efficiency and green premium mitigation. Energy Conversion and Management, 254, 115268.
https://doi.org/10.1016/j.enconman.2022.115268


 これは日本鉄鋼業に難問を突き付ける論文である。オープンアクセスなので,誰でも読める。

 本研究は,西オーストラリアのピルバラ地域において製造されるグリーン水素を,日本とオーストラリアのパートナーシップの下,両国のどちらかで水素直接還元製鉄・電炉製鋼(H2DRI-EAF法)に利用するとして,どの工程をどちらに立地した場合に,エネルギー消費と鉄鋼製造コストがどうなるかをシミュレーションしたものである。輸送やエネルギー転換の際に,水素を液化水素にするか,アンモニアにするかについても比較している。時点は2030年と2050年である。使用する鉄鉱石についてはどれも同じ条件である。

 研究結果を立地についてだけ紹介する。パターンは以下の3つである。

SC1:太陽光発電,水の電気分解による水素製造をピルバラで行ない,液化水素またはアンモニアとして日本に輸出。日本で水素製鉄と電炉製鋼を行う。

SC2:太陽光発電,水の電気分解による水素製造,水素製鉄までピルバラで行い,海綿鉄(HBI),液化水素またはアンモニアを日本に輸出。日本で電炉製鋼を行う。

SC3:太陽光発電,水の電気分解による水素製造,水素製鉄,電炉製鋼をピルバラで行い,鉄鋼半製品を日本に輸出する。

図解はFig.1にある

https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0196890422000644-gr1_lrg.jpg

注1:日本で製鉄・製鋼を行う場合も,ピルバラで製造された水素や,そこから燃料電池で製造された電力を用いると想定。

注2:海上輸送においても,燃料電池を船用動力とし,動力源としてピルバラで製造された水素をもちいる。

 その結果は以下のFig. 3のとおりである。

https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0196890422000644-gr3_lrg.jpg

 2030年でも2050年でも,また液化水素を用いてもアンモニアを用いてもSC1よりSC2,SC2よりSC3の方がエネルギー消費が小さく,鉄鋼製造コストも低い。つまり,ピルバラにグリーン水素製造から製鉄,製鋼まで集中立地した方が効果的だというのである。ただし,従来の化石燃料ベース,つまり石炭・コークスで鉄鉱石を還元する高炉・転炉法と比較すると,省エネにはなっているが,コストは高い。ピルバラでのグリーン水素製造を起点としたグリーンスチール生産のためには,一定のカーボンプライシングが必要である。ただし,2050年のSC3では,カーボンプライシングがなくとも高炉・転炉法と競争できるようになると予測されている。

 ここから私見である。本論文の通りであれば,このシミュレーションの前提に立つ限りにおいて,適度にカーボンプライシングがかけられた場合,オーストラリアから鉄鉱石と原料炭を輸入し,日本の製鉄所で製鉄,製鋼を行うという従来の日本鉄鋼業の方式は成り立ちがたいということになってくる。これは日本に立地するという意味での日本鉄鋼業にとっては,深刻な将来像と言わねばならない。もちろん,日本でピルバラよりも安価にグリーン水素が製造されれば,このシミュレーションと異なる将来像も描けるが,これまでのところ,その見通しはたっていない。

 このシミュレーションが妥当であるとした場合に,日本の鉄鋼企業や,水素製鉄のサプライチェーンに関わる諸企業(エネルギー企業,商社,海運業,そして,鉄鋼業の新規参入候補)の選択肢はどのようになるかを考える必要がある。

https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0196890422000644?via%3Dihub

グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路(英語論文の日本語原稿を公開)

 論文「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」をThe Japanese Political Economy誌に発表いたしました。日本語原稿を以下で公開していますので、ご利用ください。

https://www2.econ.tohoku.ac.jp/~kawabata/paper/GreensteelAMJapanese.pdf


要旨

本稿は,日本の鉄鋼メーカーが環境に配慮した鉄鋼生産,すなわちグリーンスチールを追求するために選択した技術経路を検証した。この経路は、国際エネルギー機関(IEA),日本政府,公的機関,経済団体,鉄鋼メーカーの文書を分析することによって特定される。分析結果は,高炉・塩基性酸素転炉(BF-BOF)技術を利用する日本の銑鋼一貫メーカーは,グリーンスチールのための技術開発と設備投資で遅れをとっていることを示している。これらの企業は,自社の固定資本の価値や,高級鉄鋼メーカーとしての評判を維持するために,CO2排出量の多い高炉技術に固執してきた。その結果,CO2排出量の少ない電気炉(EAF)方式への移行が遅れ,またゼロエミッションが期待できる水素直接還元法の開発で遅れを取っている。しかし,パリ協定や日本政府によるカーボンニュートラル宣言によって,こうした姿勢の見直しが迫られている。このケースは,環境の政治経済学の理論や,大企業の新技術に対する保守的なアプローチに関する理論が,グリーンテクノロジーの出現の時代にも通用することを物語っている。

 正式の英語版は以下でダウンロードできます(オープンアクセス)

Nozomu Kawabata, Evaluating the Technology path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition, The Japanese Political Economy.
https://doi.org/10.1080/2329194X.2023.2258162



2023年10月11日水曜日

労働調査という先達:産業調査論の開講にあたって

 「産業発展論特論」という大学院講義科目で,産業調査論の授業を始めた。それにあたって,参考に「戦後日本の労働調査〔分析篇覚書〕」『東京大学社会科学研究所調査報告』第24集,1991年1月を通読した。1945-68年まで,東大社研を中心に行われた労働調査を,60年代末から70年代前半にかけて労働調査論研究会の研究者が振り返って考察したものである。

 残念ながら,私の不勉強により,この時期の調査の成果自体はほとんど未読である。そのため,この分析篇覚書に収録された報告も,理解できているとは言い難い。

 ただ,何となくわかることもある。山本潔氏が掲げた図(2枚目画像。本書220ページ)と,社研労働調査について,世代の異なる二人の研究者が私に話してくれたことのおかげである。一人は大阪市大で同僚であった何歳か年上の植田浩史氏である。私は1990年代に産業調査の方法を植田氏から教わったが,植田氏は山本氏から教えを受けたはずである。もう一人は東北大で同僚であった,さらに一世代上の野村正實氏であり,彼から聞いたことはいわば私にとって神々の領域である。

 東大社研の調査が労働調査であったのは,そこにいた研究者が社会政策・労働問題をたまたま専門としていたという事情によるのではない。戦後の状況の下で,社会生活を編成し,組織していくのが労働者であり,労働運動であり,労働組合であろうという問題意識を,研究者の多くが持ち得たからである。それは,程度の差や理解の仕方のバラエティがあったにせよ,マルクス派社会科学の枠組みに沿って当時の現実が理解されていたからである。

 しかし,戦後日本社会の現実の展開は,労働運動と労働組合の役割を限定的なものとした。本書の元になった報告が行われた1970年前後でさえそうであり,その後についてはなおさらであった。労働問題・労使関係は,日本社会の全体を規定するものとしてでなく,一つの専門領域として研究されるようになっていった。そして,社会生活を大きく規定する主体として立ち現れたのは,企業であり経営だったのである。経営が独立変数であり,労働は従属変数となっていた。社研調査のテーマの変遷は,そのことを承認して視点を企業へとシフトさせていったことを示しているように思う。

 このような変遷の中で,山本潔氏が行っていた労資関係研究と中小企業研究のうち,植田氏は後者を受け継いだ。それでも植田氏は『大阪社会労働運動史』の執筆や光洋精工社史の執筆において労働組合にも調査に行っていたはずである。しかし,彼にくっついて実態調査に入った私の場合,最初から調査に行くべき相手は企業であり,経営であった。「企業経営が,労働と生活をどのように規定しているか」という因果関係の調査を通してしか,現実に対する肯定も批判もしようがないと,当時の私には思われたのである。こうして,私のささやかな産業調査は始まった。






2023年10月4日水曜日

東北大学は,論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」の提出により,玉川寛治氏に博士(経済学)の学位を授与しました

  東北大学大学院経済学研究科は,2023年8月24日の教授会において,博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」の提出により,玉川寛治氏に博士(経済学)の学位を授与することを決定しました。審査は,結城武延(主査),川端望,阿部武司の3名が行いました。この学位論文は,10月2日に東北大学機関リポジトリTOURにて公開されました。シェア先で全文PDFをダウンロードいただけます。

 本論文は,歴史ミステリーもかくやと思わせるような謎解きとなっています。著者は「日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であった」というシンプルな命題の真実性を明らかにし,これを軸に,技術史,経済史上の謎を次々と解き明かしていきます。関心のある方はぜひご覧ください。審査の詳細は日本経済史専門の結城,阿部先生にリードしていただきましたが,本論文の審査に携われたことは,私にも大変な幸いであり,学びとなりました。

 「本論文は、著者の長年にわたる研究の集大成として執筆されたもので、極めて独創性が高く、実証的にも確度の高い研究成果である。すなわち、技術史及び産業考古学の観点から当時の紡績技術と生産工程を復元・再構成した上で、日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であったことを明らかにし、さらに紡績業者がその事実を認識して原料転換と新たな技術選択を行っていく過程を説明したことである。産業革命期日本の紡績業に関する先行研究はその重要性から膨大にあるが、意外にも始祖三紡績の実態や官営紡績所から大阪紡績会社をはじめとした民間会社への移行過程における技術・機械・原料選択に関する要因は不明な点が多く、それらを明らかにした本論文の学術的貢献は非常に大きいといえる。この研究が可能になったのは、元紡績技術者でもあった著者が独自に収集した広範な資料群を駆使したからにほかならない。」(審査報告より抜粋。この報告書も間もなくTOURに掲載されます)。


<目次紹介>

第1章 序論
第2章 日本における紡績業発達史の概要
第3章 始祖三紡績
第4章 官営愛知紡績所から大阪紡績会社へ
第5章 繭糸織物陶漆器共進会(第二区二類綿糸)で明らかにされた紡績技術
第6章 日本綿・中国綿からインド綿・米綿・エジプト綿へ
第7章 インド綿・米国綿・エジプト綿用の紡績機械
第8章 ミュール精紡機とリング精紡機の選択をめぐる諸問題
第9章 結論

 なお,玉川氏には以下の著書がありますので,併せてご紹介します。

玉川寛治『「資本論」と産業革命の時代―マルクスの見たイギリス資本主義』新日本出版社,1999年。
前田清志・玉川寛治編集『日本の産業遺産〈2〉―産業考古学研究』玉川大学出版部,2000年。
玉川寛治『製糸工女と富国強兵の時代―生糸がささえた日本資本主義』新日本出版社,2002年。
玉川寛治『飯島喜美の不屈の青春―女工哀史を超えた紡績女工』学習の友社,2019年。

本文ダウンロードページ
玉川寛治『日本における初期綿糸紡績技術の研究』


2023年9月28日木曜日

Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition (Open access)

 My new paper "Evaluating the Technology Path of Japanese Steelmakers in Green Steel Competition" was published on "The Japanese Political Economy" website.
https://doi.org/10.1080/2329194X.2023.2258162

 On October 19, Japan time, the paper became open access.

 新論文「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」オンライン版がJapanese Political Economy誌のサイトで発行されました。

 日本時間10月19日より,この論文はオープンアクセスになりました。

 日本語原稿は以下からダウンロードできます。

川端望「グリーンスチール競争における日本鉄鋼メーカーの技術経路」

28/09/2023投稿
20/10/2023修正



2023年9月8日金曜日

ディスカッションペーパー「1990年代ベトナムにおける日越合弁鉄鋼事業の成立過程-ビナ・キョウエイ・スチール社の事例研究-」を公表

 ディスカッションペーパー「1990年代ベトナムにおける日越合弁鉄鋼事業の成立過程-ビナ・キョウエイ・スチール社の事例研究-」を公表しました。

 本稿は,1990年代において,日越合弁鉄鋼企業ビナ・キョウエイ・スチール(VKS)社がどのように設立され,操業を開始し,急速に市場での地位を築いたかを明らかにしたものです。

・ベトナムの外資受け入れ環境がまだ整っていなかった1990年代前半に,VKS社はどのようにして設立されたのか。この事実関係を明らかにしました。
・VKS社はベトナム鉄鋼業の初期の発展にどのような役割を果たしのか。その意義を述べました。
・進出したのが大手高炉メーカーでなく中規模な普通鋼電炉メーカーの共英製鋼であったことは,どのような意味を持っていたのか。この点をとくに重点的に考察しました。
・理論的には,「後発性利益」論と「誘発機構」論,「確立技術と適正技術」論,「中堅企業」論との接点を重視しました。実証の先行研究はないのですが理論的には先行研究が重く,言わねばならないことが多くて,うまく書けたかどうかが問題です。

 共英製鋼には公刊された社史がありますが,今回は社内誌,記念誌(画像)の提供を受け,またVKS初代社長にインタビューを,さらに共英製鋼のベトナムにおける出資先をひととおりの訪問・見学をさせていただきました。心から感謝しています。20年間蓄積したベトナム鉄鋼業の調査記録も活用しました。むろん,すべての文責は私にあります。

 改訂してから雑誌に投稿します。ご意見をいただければ幸いです。

 PDFこちら。リポジトリがシステム更新中で新規登録できないため,個人サイトからお送りします。
http://www2.econ.tohoku.ac.jp/~kawabata/paper/terg479.pdf




2023年8月27日日曜日

E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年がずいぶん売れたらしいことについて

 E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年。『思想』7月号の特集を見て,清水幾太郎訳で読んだ内容をすっかり忘れていることを思い出し,なんぼ何でもまずいかと思い,買って読んだ。久しぶりに自覚したが「これを読んでおかないとまずい」という強要,いや教養マインドの残り火くらいは私の心にもあったようだ(※1)。

 新訳は昨年8月の時点で4刷り2万5千部出たそうで,この種の本では大変な売れぶりである。「なぜ,いま,カーなのか」というのが『思想』の特集号のテーマと思うが,一番分かりやすいことを,わが同僚の小田中直樹教授が書いている。いわく,「危機の時代には変化の歴史学が求められる」のだそうだ。

 私は彼の言うことに賛成である。ただし,それは「本日,みな腹が減っているから食事が必要だ」というのに賛成だというのと同じ意味においてである。文化や歴史に関心を持つものにとって,たいていの場合,「現代は危機の時代」である。したがい,我々はどこから来て,どこに行くのかということ関心をもつので,優れた歴史論に関心が集まる。これは,過去100年くらいはいつでもどこでもあてはまることなので,わざわざ言う必要はないのではないか。ちょうど,あらゆる政党が,選挙に当たっては必ず(無投票の場合を除き)「今度の選挙は歴史的なたたかい」であり「かつてない激戦」であるというのと似ている。

 では,なぜ,いま,この時に限ってカーなのか。およそ私などに深い理由はわからないが,カーが好意的に評した社会学の発想を借りて考察すると,こうなるのではないか。

 いまや,あまりにもろくでもない本ばかりが出回っているために,「『現代』の範囲でちょっと昔の名著の方がはるかにちゃんとしたことが書いてある!」と再発見され,世代を超え,新鮮さをもって広く読まれており,4万5千部に達している(※2)。

 ただし,これは楽観的に過ぎるかもしれない。以下のような可能性もある。

 いまや,活字の本それ自体が電子版を含めて読まれなくなったことに怒り心頭に達した中高年の研究者や本好きが,「本当に素晴らしい名著を読め,コラア」という共通の心情に駆られ,意地になって名著の新版を買い,再読しているが,中高年の研究者と本好きの域にとどまるので4万5千部である(※3)。

 さすがに悲観的過ぎるだろうか。

 私個人は,読むと改めていろいろな新しい発見があり,そうすると逆に「多少古い理論でも,十分これで行ける。これでいいじゃないか」と退行してしまいがちである。緩やかな実在論で,進歩の概念は一応想定するカーの議論で十分研究の導きの糸になるし,21世紀に研究する上でもとくに支障はないんじゃないか,当時の社会主義国を過大評価しているかもしれないけれど,という風に割り切りたくなるのである。これで本当にいいのか,よくわからないが。


<異次元の注>

※1 特撮・アニメオタクの世界でも,かつては自分の趣味の中核ではなくても,「この領域は一応全部抑えておかないと」と読んだり見たり買いそろえたりして,時間もカネも居住スペースも失っていったものである。

※2 さんざ特撮SF・ヒーロー番組を見たあげく,「やっぱり初代のウルトラマンがいちばんよかった」という人が後を絶たないようなものである。

※3 おたくがこぞって初代ウルトラマンのすばらしさを再発見して関連商品を買いあさり,評論を発表したところで,社会的影響力は極めて限られているというようなものである。



2023年8月24日木曜日

研究活動と就職活動が競合する前期課程院生の現実:当人の苦悩と教員の苦悩

 以前に大学教員を目指す博士課程院生の苦悩について書いたが,今回は田中圭太郎「「文系学生は門前払い」就活に苦しむ院生の嘆き:研究時間減少、企業の理解の少なさ等の問題も」東洋経済ONLINE,2023年8月17日を手掛かりに,就職活動をする修士課程院生の苦悩について書く。なお,当研究科では後期課程,前期課程という。

 当研究科の大学院前期課程修了生は,日本国内でさほど不利にはならずに就職できている。ただし高学歴で修士を持っていても有利にもならない。年功基準で,学部卒より2歳年上と扱われるのがせいぜいである。

 前期課程在学中の最大の問題は,院生が就職活動に時間を取られるために研究がさほどできず,逆に言えば研究に時間を取られるために就職活動に力を入れられないことである。

 2013年頃まで,私は「就活のためにゼミを休んでもよい。TAなどはしなくてもよい。ただし研究は計画通りするように」と指導していた。理工系,生命系の研究室とは違い「研究室の仕事」というものはほとんどなく,私がすべての雑用を自分でやる麗しき民主主義社会なので,これで大丈夫と思ったが,それでも院生にとっては苦しかったようで,勝手に東京に住んで帰って来ない学生,連絡を切り,研究が完全にストップする院生が出現した。「ふだんから関連する論文を読み,きちんと調べておくのは当然である」という指導に納得しない院生も現れた(それはできない時期もある,の意であろう)。

 そこでやむを得ず,後期課程進学に関するガイドラインを設定して共有し,後期課程に進む,進まないを,院生に自分から表明させ,「進まないで就職する」という学生には,研究スケジュールの中に就職活動期間を織り込むことにした。まず原則として,1)研究科が必要とする修士論文の基準は絶対に曲げないが,2)修士論文として合格するためには,何をどこまでやらねばならないかは節目節目で通知して理解できるようにする,3)「就活は自分の核心的利益だからなにをやってもよい」論と「その時になって見ないとわからないから計画しない」論を絶対に認めないので,就活で苦しくても連絡を切ったり,無断で授業を欠席したり,東京に引っ越したりしてはならないが,4)スケジュールは就活に配慮するから相談せよ,の四点を明確にした。そして,前期課程の2年間の間に,就職活動のために研究がまったくできない期間,あまり進まない期間を認める。そして,ーー本当は死んでもやりたくないがーー修士論文で到達すべき地点を最初から研究科の許容範囲内で低める,あるいは,研究時間が量的に少なくても到達しやすい性質のものに調整することとした。なお,これらの手法は普遍性を持つとは思うが,ゼミの過半数を占める中国人院生に対する解りやすさをとくに考慮したものである。

 これで,就活をめぐるゼミ内のトラブルはほぼ解消した。ただ,せっかく修士の学位を取っても優遇されない問題や,修士論文に自分の限界に挑戦するほどの労力は投入できないという問題は,解決していない。

(参考)「大学教員を目指す後期課程院生の苦悩」Ka-Bataブログ,2023年9月3日。

田中圭太郎「「文系学生は門前払い」就活に苦しむ院生の嘆き:研究時間減少、企業の理解の少なさ等の問題も」東洋経済ONLINE,2023年8月17日。


2023年8月21日月曜日

宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)読後感

 宝樹(中原尚哉訳)「金色昔日」(ケン・リュウ編,中原尚哉ほか訳『金色昔日 現代中国SFアンソロジー』ハヤカワ文庫,2022年)。

 この本はケン・リュウが編集した中国SF集の2冊目である。私は書店で1冊目の『折りたたみ北京』とどちらを買おうか迷っていたが,本書を開いてぎくりとし,こちらを買うことにした。


「紫令は強硬すぎる」


という文字が目に映ったからである。もちろん,よく知られた実在の人物は紫玲であるが。

 表題作「金色昔日」の著者は,宝樹の作品で日本で知られているのは,『三体X 観想之宙』(原書2011年,日本語訳2022年)であろう。劉慈欣『三体』シリーズを著者公認の上で受け継いだスピンオフだ。彼は中国で活躍する作家だが,「金色昔日」は,2015年に英文誌に発表されたものであり,中国では出版されていない。中国の検索エンジン「百度」で「宝树 "金色昔日"」と入力しても,この日本語出版を紹介する記事しかヒットしない。

(以下,10 行空白の後,本作品のSF設定を明かします。知らずに読みたい方はここでおやめになることを勧めます。)

ーーーー

 「金色昔日」は時間小説である。登場人物たちは別の世界の中国を生きている。主人公は幼児期に北京オリンピックを見に行く。その後に経済停滞の時代が訪れ,高校時代には上海に住む幼馴染に紙の手紙を書くようになる。大学生になって天安門広場に立つ。やがて鄧小平は失脚し,毛沢東という人物が台頭する。そして文革が始まる。そう書いてもわけがわからないかもしれないから,イメージを喚起するために少しだけ主人公の言葉を引用しよう。

(引用)「ベルボトムのジーンズと鄧麗君の歌が大通りにあふれていた青年時代。香港四天王や台湾のテレビドラマが全国的に人気だった少年時代。ネットゲームやオリンピックや3D映画があった幼年時代。あれらは本当に存在したのだろうか。どこから来てどこへ消えたのか。すべては一場の夢だったのか。」(引用終わり)

 歴史は逆に流れているはずなのに,主人公が直面する状況はみなリアルである。また,個人の時間は読者と同じように流れ,主人公は出会いと別れに翻弄されながら生き,年老いていくのだ。

 SFにはなじみがなくとも,現代中国になじみがある人には一読をお勧めしたい。


出版社ページ
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015280/




2023年8月14日月曜日

石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年を読んで

 石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年。幸いにも8月9日石田教授・植田教授が臨席される書評会にオンライン参加させていただいた。著者らは,おそるべき詳細な実態調査と600ページにわたる記述を通して,以下のことを論じている。雇用関係の全体像は,仕事のガバナンスと報酬のガバナンス,両者の整合性を論じないと把握できないこと。仕事のガバナンスの描き方が先行研究では弱かったこと。経営過程とはPDCAサイクルに沿った計画の体系として叙述すべきこと。PDCAに基づく運営を,従業員のできる限り下位の層まで関与させながら進めるのが日本の経営の特質であること。

出版社ページ
https://www.minervashobo.co.jp/book/b589600.html



2023年8月7日月曜日

「何でもいいお金」はなぜ受け取ってもらえるか?ーーNHK「チコちゃんに叱られる」の貨幣論

 NHK「チコちゃんに叱られる」ICカードの謎(2023年8月4日)。「ICカードをピッとするだけでお金を払えるのはなぜ?」という問いに対して,「お金なんてなんでもいいものだから」と答えている。面白いが,説明で引っ掛かったところがあるので,考えてみよう。

 しかし,当然これだけでは足りないので,もう少し丁寧な答えは高木久史先生の助けを借りて説明する。「なんでもいい」というのは,金貨や銀貨のように,素材がそれ自体価値を持つものでできていなくてもいい,ということである。しかし,そうした価値を持たないはずのものが「なぜお金として受け取ってもらえるか」については,もう一つ理由が必要だ。

 そこで高木先生は,「タカギ券1000円」と示した紙を使い,「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という例で日銀券を説明しようとしている。相手が高木先生の約束を信用する限りは,高木先生との間では「タカギ券は1000円分のものと交換できる」とお互いに認めたことになる。同じように,国が日銀券について「この紙は1000分の価値がある」と宣言して,それをみんなが認めればお金として通用する。番組ではこのような説明になっている。

 私は,ここには問題があると思う。「タカギ券1000円分と,私が持っている1000円分のお菓子を交換します」という話から始まるのはいい。もっと言えば,すごくいい。ここで肝心なのは,タカギ券を受け取るものは「発行者である高木先生の約束を信じます」と言うところである。発行者である高木先生は「発行した私は,1000円分の価値を認めて,1000円分の何かと交換しますよ」と言っている。まずこれが信用されれば,高木先生を信用する人がタカギ券を受け取り,タカギ券で高木先生に支払うだろう。そうすると今度は,高木先生を信用する人同士であれば,タカギ券で支払うことが可能になる。

 このタカギ券から1000円札を同じ原理で説明できる。「日銀は,1000円と書いた日銀券を,1000円分の何かと交換すると保証します」ということである。金本位制の時代は,これは1)「金と交換します」,2)「日銀の預金とも交換しますので銀行間決済に使えます」,3)「日銀から借りたお金はこれで返せます」の三つだった。いまは1)はできないが2)3)はできる。そして,2)3)から派生して4)「日銀を信用する人への支払いができます」ということになるのである。こうして紙切れに過ぎない日銀券はお金になる。これが基本的なすじである。番組中で短時間で説明するのは難しいが,私は講義ならばこのように話す。

 大事なことは,タカギ券か「発行者の支払い約束を信じるから受け取る」という論理を取り出すことである。こうした,支払い約束=債務証書がお金になったものを信用貨幣という。

 しかし番組は,これを「みんながお金としてみとめているから」「国が1000円の価値があると約束したものをみんなが信用しているから」とまとめてしまっている。これは「発行者の支払い約束を信じるから」と同じようでいて違う。「みんながお金としてみとめているから」では,政府が自分の資産として国家紙幣を発行し,それをばらまくことも含まれてしまう。それなら高木先生が「1000円のお菓子と換えてあげますよ」と言うタカギ券を発行する話から始める意味がない。タカギ先生が「ここは私の研究室だから,タカギ券はこの中では1000円として使えることにします」と研究室の会議で合意して決めるか,催眠術をかけるなり先生のカリスマ性で認めさせて信用を得ればよいのである。それが「みんながお金として認めているから」という説明にはふさわしい。

 しかし,世界の中央銀行がおこなっているのは,そのようなことではない。あくまで「中央銀行の支払い約束を信じてもらう」ことを出発点にして,中央銀行券は中央銀行の債務として発行されているのだ。

 番組がタカギ券から出発して「お金なんてなんでもいい」と言う話をするのはいいのだが,それが受け取ってもらえる理由を「みんながお金としてみとめているから」でまとめるのがおかしい。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」とすべきなのだ(※1)。

 以下,やや専門的な議論である。「みんなが発行者の支払い約束を信じるから」の原理で成り立つのが信用貨幣である。信用貨幣は,貨幣を使えば物々交換と異なり後払いも可能になるという,支払い手段機能が発展したものである。世界の預金通貨や中央銀行券は,こちらの性格が基本である。「みんながお金としてみとめているから」の原理で成り立つのは価値章票(価値シンボル)である。国家紙幣や補助通貨としての硬貨,軍票などは,こちらの性格が強い。価値シンボルは,貨幣を使えば色んな商品を買って入手できるねと言う流通(購買)手段機能が発展したものである。

 この番組は,「価値のない素材でできたお金が,なぜ受け取ってもらえるか」について,信用貨幣の原理の説明から入ったのに,結局価値シンボルの原理で説明を結んでしまっている。これでは,商品経済が発展するとともに,銀行と中央銀行を結節点として資本主義金融システムが発展するという,ダイナミズムが見落とされかねない。資本主義社会では,企業が経済活動のために銀行からお金を借り入れると預金通貨が増え,返済すれば減る。人々が流動性を求めて預金を下ろせば日銀券が日銀から銀行へ,銀行から人々へと渡って現金流通高が増え,人々が銀行に預金すれば現金流通高が減る。預金は銀行が企業の求めに応じて創造し,銀行に戻れば消滅する。日銀券は日銀が人々の求めに応じて発行し,日銀に戻れば消滅する(誰しも自分の借用証書を取り戻したら捨てるだろう)。このお金の生成と消滅のダイナミックなお金の運動は,信用貨幣論によってはじめて説明できるのだ。

 なお,私のこの見解は,「商品貨幣vs代行貨幣」の大区分がまずあって(※2),代行貨幣という区分の中に価値シンボルと信用貨幣があるという考えである。そして,価値シンボルと信用貨幣の区別は,資本主義金融システムのダイナミックな運動を理解する上で重要だという考えでもある。私の重点は,すでに商品貨幣が用いられていない現在の資本主義における「価値シンボルvs信用貨幣」にある。なので,商品貨幣の重要性は,従来言われていたほどではないことを強調する「商品貨幣vsそれ以外」を重視した研究とは,関心の置き所異なることを,念のため付記する。

※1 番組の説明が,高木先生の説明を忠実に再現したものなのか,番組の都合で改変したものであるかはわからない。高木先生のご研究は未読であるが,貨幣史の研究者とうかがっており,もちろん信用貨幣の原理について見識をお持ちのはずである。本稿は高木先生への批判ではなく,あくまで番組内容について,私としてはこう思ったということである。

※2 専門家向けの注。最近の信用貨幣論者は,貨幣は歴史的に初めから信用貨幣だと主張することが多い。なので,私が信用貨幣や価値シンボルを「代行貨幣」とすることには賛成されないであろう。これはまた別の話題となるが,誤解を避けるために簡単に説明しておく。まずここで私が「代行」と言っているのは,「歴史的にもともと金貨など商品貨幣が流通していたが,その後に代行貨幣になった」と言いたいのではないということである。今この瞬間の資本主義経済において,「商品流通のためには商品貨幣が必要なんだけど,それでは不便で仕方がないので代行貨幣が使われている」ということを論理的に説明しているのである。歴史的順序と論理的説明の順序は同じではない。だから,「昔だって金貨より帳簿振替が使われていたんですよ」と言われても,私は論破されたと思わない。
 商品貨幣はいろいろな機能を持っている。価値尺度,価格標準,流通(購買)手段,支払い手段,価値保蔵手段,世界貨幣などである。この種々の機能のどれかを代行するというのが代行貨幣の意味である。そして,流通手段の代行の場合も支払い手段の代行の場合も,素材としては,価値をほとんど持たない紙切れや卑金属や電子データが使用可能なのである。しかし,流通手段機能の代行と支払い手段機能の代行の説明の仕方は違う。預金通貨や日銀券は,債務証書による支払い手段代行として,「発行者の支払い約束を信じる」ことから流通するものとして説明しなければならない。私はこのように考えている。

「チコちゃんに叱られる! ▽都会と田舎▽田んぼの不思議▽ICカードの謎」初回放送日: 2023年8月4日。

2023年7月30日日曜日

泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで

 泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで。

 泉氏はマルクス経済学の言う剰余価値率を実証的に計測しようと,長年研究を続けて来られた研究者である。本稿は,国際貿易を導入した上で,剰余価値率の国際比較を行う理論の提示と実証を試みたものである。個人的にはたいへんなじみ深い領域であり,勉強になった。泉論文で書かれていることの理論的側面を,注記で多少のコメントを加えながら要約すると以下のようになる。

 マルクスによれば剰余価値率は「不払い労働/支払い労働」または「剰余価値/労働力価値」である。いま複雑労働と単純労働の還元問題を捨象すれば,一社会内では物理的労働量でとらえた前者と,労働価値でとらえた後者は一致する。しかし,複数国民経済の間で貿易が行われるという前提で,実際に計測を行おうとすると難しい問題が生じる。

 それは,異なる国の間での労働量をどのように扱うかである。世界経済の一次モデルでは,労働力は移動しないと仮定する(※1)。移動しないことにより,国民経済間の労働生産性が均衡化せず,格差が存在し続けることが説明できる。では,国民経済間に労働生産性格差がある場合,先進国の1労働日と途上国の1労働日は等質等量と扱うべきなのか否か。これが問題である。

 もし全世界の労働を等質として扱うと,何が起こるか。労働時間で計算した労働量ベースで計算した剰余価値率と価値価格(※2)で計算した剰余価値率は大きくずれてしまうのである。

 先進国の労働者が消費する賃金財は,途上国からの多くを輸入している。それらの生産は先進国よりも労働集約的に行われている。このため,労働者による輸入賃金財の消費が増えることにより,全世界等質の労働量ベースで見た支払い労働が大きくなる(※3)。このことが大量に行われると,先進国の剰余価値率は低下する。実証を試みるとマイナスにすらなるそうである。

 しかし,国際価値論を踏まえて価値ベースで考えると異なる。労働力が国内移動はするが国際移動はせず,各国間の労働生産性に格差があるのだから,全世界の労働を等質に考えるのは適当ではない。むしろ,国民経済全体の平均的労働生産性が格差を持ったままで貿易が行われることを説明すべきである。つまり,A国1労働日=B国2労働日=C国5労働日などという関係を前提して貿易が行われる。この関係を国民的労働生産性格差と言う。そして,この格差が労働の国際交換比率でもある。もちろん,このとき各産業部門での労働の社会的平均的生産性も国ごとに違うままである。

 上記のようにA国の国民的労働生産性がB国の2倍であるとき,ある産業α部門での生産性格差が2倍,つまりA国1労働日=B国2労働日ならば,α部門では両国での生産物の価値価格は等しい(※4)。日常用語で言えば競争力は同等である。もし,先端産業のβ部門では生産性格差が2倍より大きく,例えばA国1労働日=B国5労働日であれば,β部門ではA国の生産物の方が価値価格が低い。つまりは製品が安く,国際競争力がある。ローテクのγ部門では逆に生産性格差が2倍未満であれば,たとえ絶対的生産性はA国の方が高くともB国の生産物の方が価値価格が低い(※5)。

 このように観た場合,先進国労働者の消費する輸入賃金財は,国産品よりも労働時間は多く費やされているが,価値価格はむしろ小さい。したがい,全世界等質の労働量で支払い労働を見た場合のように剰余価値率の分母が大きくなることは起こらず,むしろ労働力価値とともに分母が小さくなることすらありうる。したがい,先進国の剰余価値率が低下するということも起こらないのである。推計してみると,国民的生産性の高い国ほど剰余価値率が高く,また平均賃金が極度に低い国の剰余価値率も高いという結果になる。

 読解に誤りがないとすれば,泉論文が言いたいことは,以上のようなことである。

 さらに進んで言えば,全世界等質の労働ベースによる先進諸国の剰余価値率がマイナスだという推計が妥当ならば,先進国労働者は途上国労働者を価値論レベルで搾取しているという含意をもたらす。国際価値ベースによる,先進国や特別に低賃金な国の剰余価値率が高いという推計が妥当ならば含意は全く異なり,先進国の労働者も途上国の労働者も搾取されているということになる。労働を全世界等質を考えるのは適当ではない以上,前者の考え方は適当ではなく,後者のように考えるべきだ。泉氏が意識しているのはこのようなことである(※6)。

 私は泉氏の分析にほとんど賛成である。貿易を含めた場合の剰余価値率は,全世界等質の労働ベースではなく,国際価値論を前提にして,価値ベースで理解すべきである。このことを両説対比の上で明らかにした本稿には重要な意義があると思う。

 ただ,この力作にも,注記について気になる点がある。泉氏は,国際価値論に関する諸文献を文献リストに列挙し,それらを参照したことを明示されているが,国民的生産性格差説の説明のところで,依拠された先行研究を特定して注記されていない。そのため,この分野になじんでいない読者が読むと,あたかも国民的生産性格差説が泉氏の独創であるかのように見えてしまうだろう。泉氏が文献リストにより,誠実に参照指示をされようとしたことは理解できる。ただ,客観的には上記の誤読の余地はあると思う。国民的生産性格差説は戦後の国際価値論研究の中で種々の模索の末に確立された学説であり,他方では過去も現在もこの説に依拠しない国際価値論も存在する(※7)。泉氏には,自らが他の説でなく国民的生産性格差説の研究蓄積に依拠していることを明記し,それに該当する文献はリストの中のどれであるかを指示して欲しかったと思う。


※1 資本が移動すると仮定するかしないかは論者によって異なり,泉氏は移動しないとしているが本稿の論旨にはどちらでも影響はない。なお,マルクス経済学で国際労働移動が基本的にはないというモデルを立てる場合は,部分的な労働移動は国際価値論ではなく相対的過剰人口論で扱う。

※2 価値価格とは,労働価値どおりの価格という意味である。

※3 たとえば,労働者は,より労働集約的につくられたシャツを着るようになるからである。

※4 専門家はご存知の通り,3国以上あると計算は極度に複雑になるし,価値価格と生産価格と市場価値でも話は異なって来るが,いまはそれは脇に置く。

※5 泉氏はこの語を用いないが,これが比較生産費説のマルクス的国際価値論による説明である。泉氏の説明は,金貨幣による価値表現を省略しているが,それ以外は以下と一致する。村岡俊三『グローバリゼーションをマルクスの目で読み解く』新日本出版社,2010年。

※6 この記事で最初にこの話をしなかったのは,この記事を読む方に,実践的価値判断から経済理論の正否を裁断するのではなく,あくまで理論的妥当性によって判断して欲しかったからである。
 念のため付記するが,泉論文もこの記事も,あくまで国際価値論(世界経済における労働価値の修正)のレベルでこうだという話をしているのであり,現実の世界経済に対する判断は,もっとたくさんの理論的,個別的条件を踏まえた上で,行なうべきことは当然である。

※7 泉氏が列挙されている国際価値論の諸文献も,みな国民的生産性格差説を採っているのではない。例えば,名和統一『国際価値論研究』日本評論社,1949年は基軸産業が労働の国際交換比率を決めるという見解であった。日本では名和説を出発点に種々の研究と論争が行われ,整合性の高いモデルとして国民的生産性格差説が生まれた。木下悦二『資本主義と外国貿易』有斐閣,1978年や村岡俊三『世界経済論』有斐閣,1988年はこれに依拠している。一方,中川信義『世界価値論研究序説』御茶の水書房,2014年は産業部門ごとに世界レベルで社会的平均的労働が確立するが,部門間交換比率は問題にもしないという特異なものである。
 なお,これらの学説の相違については,佐藤秀夫『国際分業=外国貿易の基本論理』創風社,1994年で整理されている。

2023年7月25日火曜日

FedNowとデジタル通貨の関係:CBDCではない,デジタル通貨のもう一つの道

 アメリカで,銀行間送金を即時実現するFedNowがスタートという報道があった。人生のほとんどを日本で過ごしているドメスティック人間には,最初,何を言っているのかわからなかったが,どうもアメリカでは異なる銀行同士の支払い決済が非常に遅いらしい。よく引かれる例では,労働者の給与が支払われてから実際に使えるようになるまで何日もかかり,所得の高くない人は当座貸し越しに頼らざるを得なくなり,それでさらに手数料を取られて踏んだり蹴ったりなのだそうだ。およそ金融超大国の話とは思えないが,単一中央銀行でない連邦準備制度の弱点だろう。

 FedNowはこの立ち遅れを一気に逆転させる。つまり,銀行口座間の振替による支払いを24時間365日保障する上に,スマホやPCのアプリから操作可能にするというものだ。確かにこれが多くの銀行で実現すれば,今度は日本より便利になるだろう。

 さて,FRBはFedNowはデジタル通貨とは関係ないとしている。確かに記事を読む限り,FedNowは,日本で我々が他行への口座振り込みとしてやっていることを実現しているに過ぎない。とはいえ,「自分のお金をスマホの操作で支払い」となると,その使い勝手は,中央銀行デジタル通貨(CBDC)で想定されているものと似て来ることは確かである。

 では,FedNowはデジタル通貨と関係あるのか,ないのか。答えは,「中央銀行デジタル通貨ではないが,別の方向でのデジタル通貨へのルート上にある」というものだ。「スマホ一つで支払い」(別の機器でもいいが)を実現する道は,口座振り込みから出発する道と現金から出発する道の二つがあるのだ。説明しよう。

 まずまちがってはいけないのは,預金通貨は,各銀行が発行するデジタル通貨だということだ。コンピュータが出現する前からデジタル通貨だったのだ。若者がよく「電子機器を使わないのにデジタルというのがわからない」と言うので補足するが,つまり「数字上の存在」だ。

 他方,中央銀行は預金と銀行券を発行するが,中央銀行預金は市中を流通しない(マネーストックではない)のでここでは関係ない。中央銀行券は,中央銀行券が発行するアナログ通貨であり,これは誰もがすんなり理解できることだろう。不換銀行券と言えど,現金は物理量を持ち,空間を占拠している物体だ。

 だから,今後デジタル通貨を発達させるためには,以下の二つのルートがある。


1.デジタルな民間銀行預金通貨をアップグレード

 一つは,もともとデジタル通貨である預金をアップグレードすることだ。要は,デビットカード払いやデジタルバンキングをもっと簡単・迅速にすればよい。スマホの操作一つで振り込み,即時決済出来ればそれでよい。この場合,銀行預金で支払うので,異なる銀行間で規格を統一する必要があるし,銀行間決済の実現は中央銀行預金を使うから,中央銀行のシステムも開発する必要がある。FedNowが苦労したのはこの点だろう。日本でもはDCJPYという企業決済の実証実験が行われているが,銀行間では決済できないそうで,規格統一と中央銀行との一体開発に大きな壁があるのだと思われる。


2.アナログな中央銀行券をデジタル化

 もう一つは,アナログな中央銀行券をデジタル化することだ。これがしばしば話題になる中央銀行デジタル通貨(CBDC)である。預金の存在はそのままにして,預金をおろした時に中央銀行券をもらうのではなく,スマアプリの電子的な財布に記帳し,買い物や仕入れをしたらその残高が減り,売った相手の電子財布の残高が増える,というしくみである。この時預金は動かない。現金がデジタル化するのである。当然,現金支払いを電子的なシステムとして構築することが課題となる。

 FedNowはCBDCではないが,デジタル通貨と関係ないものではない。デジタル通貨を1の方向で進めるベクトルをもっているものだ。今後,各国で1と2のどちらが進展するか,あるいはホールセールは1,リテールは2となるか,など注視していく必要がある。

「アメリカで異なる銀行間での送金タイムラグをなくす決済システム「FedNow」がスタート」Gigazine,2023/7/21。

2023年7月17日月曜日

裁判所は「パフォーマンス・ギャランティ」に加担してベンダー/サプライヤーを鞭打つべきではない

 日本の系列・下請け取引,別名サプライヤー・システムにおいては,ユーザーが目的を達成する水準までサプライヤーが品質保証する「パフォーマンス・ギャランティ」が広く見られる。そのことの具体的立証は容易ではないのだが,ソフトウェア開発契約の世界では,紛争が訴訟になり,訴訟のドキュメントによって実情がかなり明らかになるようだ。しかも,この連載によると判例は,「ベンダーの責任を『契約書に書かれたこと』だけではなく、『契約の目的に照らして必要なこと』とする」方向に傾いているらしい。つまり「パフォーマンス・ギャランティでよい」と裁判所が言っているのだ。

引用)「例えばある裁判では、『設計工程以降を請け負ったベンダーに、ユーザーの示す要件定義書の誤りを指摘すべき責任があった』とされた。要件定義書の内容が専門的であり、知見のあるベンダーが誤りを指摘しなければ、契約の目的を達成するシステムを作り得ないという判断だ」。

 しかし,長期相対取引の中でQCDを向上させてそれなりに成長していた製造業のサプライヤーにとってすら,いまやこうした過酷な品質保証基準はマイナスに働いている。もともとユーザー企業のIT部門が矮小で脆弱であり,ベンダーとその下請けに開発を丸投げし,需要の量的変動を調整するバッファとして下請け発注を用いてきたITでは,産業発展にとってマイナスの作用はさらに大きいのではないか。過酷だが選手につきっきりで教えるコーチが「できるまでやらせる」のと,過酷なだけのコーチが「できるまでやれ」とただ言い放つのは,現代ではどちらも問題だが,前者より後者はさらにひどい。だからこそ訴訟にもなるのであろう。裁判所はユーザーに寄りすぎているのではないか。


最新記事

細川義洋「準委任契約だけど、責任は取ってください」ITatmarket,2023/7/3。

引用元

細川義洋「契約書にも民法にも書かれていませんが、「義務」なので履行してください」ITatmarket, 2023/2/20


2023年7月8日土曜日

賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済

 日銀によれば,2023年1-3月期の需給ギャップはマイナス0.34%。つまり,まだ多少の需要不足である(※1)。

 昨年の6月20日に私は,日銀は国債の「日銀が買い支えに失敗すれば不況であり,成功しても,せいぜい高中所得層だけの好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ち」に直面していると指摘した(※2)。2022年の後半はコロナの再発によってリベンジ消費が不発に終わり,日本だけが超金融緩和を続けている状況が継続しているため,「ばくち打ち」は今年に持ち越された。現在,国債に対する投機攻撃は落ち着いており,日銀はさしたる抵抗もなく金融緩和を続けているので,「ジレンマ」は収まった。しかし,「ばくち打ち」は続いている。2023年の後半はどうなるだろうか。

 設備投資と消費は回復しており,需給ギャップは縮まりつつある。21世紀突入以来設備投資をためらい続けて日本企業も,DX投資とグリーン投資をしないわけにもいかず,設備投資は拡大している(※3)。また,この夏こそリベンジ消費は盛り上がるかもしれない。この春に名目賃金が20年ぶりくらいに上昇したことも財布のひもを緩める作用を持つ。しかし,コスト・プッシュインフレは電力料金の引き上げなど目に見える形で顕在化している。日銀が超金融緩和を堅持しているために内外金利格差は今後も続くと期待されており,それ故に円安も続いている。それ故に輸入品経由のコストプッシュ・インフレ,購買力流出による需要抑圧効果は続く。現時点でもまだ実質賃金は低下し続けている(※4)。これは当然,財布のひもを締める方向に働く。一方,欧米のインフレ・金利引き上げがなお続いているのに,日本は超金融緩和と円安になっていることで,日本株買いが起こっており,日経平均はうなぎのぼりである。このことは,富裕層には資産効果による消費増をもたらす。

 植田総裁率いる日銀は,おそらく超金融緩和の継続が景気に与えるプラス(株高・資産効果,企業の資金繰り改善,輸出促進)とマイナス(コストプッシュ・インフレによる景気抑圧)を踏まえた上で,プラスの方が大きくなり,今年後半に需給ギャップが解消,ディマンド・プルインフレが起こることを期待している。それをきっかけにイールド・カーブ・コントロール(長期金利抑圧)解消など金融政策の正常化にもっていこうとしているのだろう。そうすれば過度の円安圧力も解消される。

 問題は,賃上げが定着するかどうかである。賃金が上がり続ければ日銀の思惑通りになり,また何よりも日本に住む多くの人が景気回復の利益を享受できるかもしれない。しかし,もし賃上げがしりすぼみに終わって実質賃金が低下し続けるならば,リベンジ消費は高中所得層だけのものに終わるかもしれず,最悪,景気は腰折れして物価高のみが残るかもしれない。あるいは,株高だけが突っ走るバブルとなるおそれもある。

 繰り返すが,必要なのは賃上げ圧力の継続である。それが,当面の間,日本経済にいちばんベターな状態をもたらす。労働組合運動には奮起が求められるし,政府は最低賃金引き上げ,労働基準の厳格適用によるブラック企業根絶が求められる。また,賃上げが日本経済全体のためになるという世論づくりも各方面から必要である。賃上げ圧力がなければ,高中所得層のみが享受できる好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ちであることは,昨年と変わらないのである。

※1 「需給ギャップ、近づくプラス圏 日銀の1〜3月期推計」日本経済新聞,2023年7月5日。

※2 「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」Ka-Bataブログ,2023年6月20日。

※3 「設備投資計画、23年度11.8%増 日銀6月短観」日本経済新聞,2023年7月3日。

※4 「5月の実質賃金1.2%減、14カ月連続 基本給28年ぶり伸び」日本経済新聞,2023年7月7日。



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