さきに,玉川寛治氏の博士論文「日本における初期綿糸紡績技術の研究」が東北大学機関リポジトリTOURに掲載されました。しかし,審査結果の要旨は掲載されておりません。各方面に問い合わせたところ,審査報告書は1年に1度,まとめての掲載であることが判明しました。そのため,こちらで「論文審査の結果の要旨」をご紹介します。既に正式決定され公表が予定されているものであり,秘密ではございません。
論文審査担当者
主 査 准教授 結城 武延
第一副査 教授 川端 望
第二副査 大阪大学名誉教授 阿部 武司
本論文は、技術史および産業考古学の視点から産業革命期日本における綿糸紡績技術の推移を実証的に解明し、またこの技術的諸条件とその変化が綿紡績業の移植・定着の過程に与えた影響を論じることを目的としている。論文は全9章で構成される。
第1章「序論」では、産業革命期における紡績技術と機械、生産工程と製品について当時の図や現物のレプリカ写真を用いて説明する。第2章から第8章にかけて綿紡績業の移植・定着過程の実態が解明され、9章で本論文の研究史上の意義が述べられている。
第2章「日本における紡績業発達史の概要」では、1867-1900 年における紡績機械・織機の新規設置の状況を紡績所別に明らかにし、草創期の鹿児島紡をのぞいて、1890 年に大阪紡が織布工場を入手するまで紡績・製織一貫工場は存在しないことを示している。さらに同時代の各国(イギリス、欧州、アメリカ、インド)との比較から、産業革命期日本の紡績工場の規模は過少であったことを指摘している。
第3章「始祖三紡績」は、日本最初の紡績工場として薩摩藩によって設立された鹿児島紡、同じく薩摩藩により設立された堺紡、鹿島万平によって設立された鹿島紡について、紡績機械の由来と特徴、機械や原料の選択過程と製品、生産成績を次のように明らかにしている。鹿児島紡の紡績機械はインド向けとまったく同じ仕様であり、日本綿の紡績には不適であったため、織物の製造が断念されるに至った。堺紡はイギリス人から技術指導を受けた石河正龍が責任者となり設立・運営され、工程間均衡を欠く欠陥を持っていたものの、後の官営紡績所や二千錘紡のモデルになった。鹿島紡ではイギリスの紡機メーカーであるヒギンス社が日本綿で紡績可能となるように、インド向けより太番手の糸を製造する紡績機械を送り、機械の据付と運転のために技術者を派遣していた。こうした生産体制を構築したことにより、のちに国産化を目的として設立された官営紡績所よりも良好な生産成績を収めていた。
第4章「官営愛知紡績所から大阪紡績会社へ」では、まず『米欧回覧実記』の記録から、岩倉遣欧使節団(1871-73 年)が欧米の紡績業の事情を技術的内容等も含めてかなり正確に把握していたことを示している。続いて、使節団の視察をふまえて1880年代前半に設立された官営紡績所・二千錘紡績所の紡績機械の仕様を解明している。いずれも手織りで織る白木綿の原糸となる極太糸を生産していたことを示している。さらに渋沢栄一主導のもとで設立された大阪紡の機械設備と技術者の活動を明らかにする。そして、技術者山辺文夫が短繊維に適したプラット社製機械を採用したことが大阪紡の好成績の要因であるとしている。
第5章「繭糸織物陶漆器共進会(第二区二類綿糸)で明らかにされた紡績技術」は、政府が殖産興業の事業を促進する目的で開催した共進会が紡績業者に与えた影響を検討している。共進会には各工場の綿糸が出品・展示され、審査された。審査結果により各工場の綿糸の問題点が明確になり、日本綿を原料とした綿糸生産は13番手程度の極太糸に限るべきだということが業者間で合意された。さらに共進会における技術者の講演により紡績業者は初めて紡績技術の全体像を知ることになり、技術情報の共有の重要性を認識することになった。共進会において、紡績業が直面している最大の問題は、日本綿の品質が紡績機械による紡績に不適であることが確認されたというのである。
第6章「日本綿・中国綿からインド綿・米綿・エジプト綿へ」では、共進会以後広まった日本綿の不良な品質について、その根本問題は、日本綿の繊維が短すぎて、精紡機でローラードラフトするには不適であったことにあると、著者自ら繊維工学の手法により解明している。続いて著者は、問題の所在を認識した日本の紡績業者が、原料の輸入に転じ、インド綿を主体として、中国綿および米国綿を混綿して極太糸・太糸を製造する日本独自の生産構造を作り上げ、輸入防遏に成功したことを示している。
第7章「インド綿・米綿・エジプト綿用の紡績機械」は、原料輸入に転じて以降、大阪紡第 3 工場から日本紡に至る紡績機械について明らかにしている。ここでリング精紡機がほぼ全面的に採用された事実が確認され、次章への伏線となっている。
第8章「ミュール精紡機とリング精紡機の選択をめぐる諸問題」は、論争的なものである。日本の綿紡績業の発展の契機となった一つがミュール精紡機からリング精紡機の全面的採用への転換であり、それは日本の紡績技術者による主体的な選択によってもたらされたというのが通説である。著者は、これまで看過されてきた技術史的視点による検証と新資料の発掘により、この通説を批判し、自説を対置する。著者は各国におけるリング精紡機採用の理由を比較検討する。そして、日本では国内と中国市場に向けて厚地手織木綿用原糸を供給しており、それには繊維の短い綿を強撚して一定の強度を確保する必要があったが、その必要を満たすのがリング精紡機であったこと、そして、日本綿や中国綿よりは繊維が長いインド綿や米国綿を輸入することによって、リング精紡機の効率的使用の展望が開けたことを、リング精紡機全面採用の理由としている。さらに、リング精紡機の採用を推進したのが、世界最大の紡機メーカーであったプラット社とその輸入代理店の三井物産であったことを示している。
第9章「結論」は全体を要約し、本論文が鹿児島紡から1900年に至る綿糸紡績技術を、初めて、通史的に解明することができたとしている。
本論文は、著者の長年にわたる研究の集大成として執筆されたもので、極めて独創性が高く、実証的にも確度の高い研究成果である。すなわち、技術史及び産業考古学の観点から当時の紡績技術と生産工程を復元・再構成した上で、日本綿の繊維の短さが初期日本紡績業の困難の最大要因であったことを明らかにし、さらに紡績業者がその事実を認識して原料転換と新たな技術選択を行っていく過程を説明したことである。産業革命期日本の紡績業に関する先行研究はその重要性から膨大にあるが、意外にも始祖三紡績の実態や官営紡績所から大阪紡績会社をはじめとした民間会社への移行過程における技術・機械・原料選択に関する要因は不明な点が多く、それらを明らかにした本論文の学術的貢献は非常に大きいといえる。この研究が可能になったのは、元紡績技術者でもあった著者が独自に収集した広範な資料群を駆使したからにほかならない。
今後の課題として、独立系の鹿島紡績所の実態や遣欧使節団及び共進会が後の紡績業や紡績連合会に与えた影響の含意のいっそうの考察が必要であろうが、それらはいずれも資料発掘が行われたのちに検討する課題であり、学界全体で取り組むべき残された宿題ともいえる。本論文は既発表25本の論文・報告書を再構成して作成されており、それら個別論文は当該分野の多くの先行研究ですでに何度も引用されていることから、学界においても高い評価を得ている。以上のことから、本論文は博士(経済学)の学位論文を授与するに相応しい業績であると判断する。
なお、主査の所属は経営学領域であるが、技術、機械、原料の選択が産業発展に与えた影響を解明している本論文の内容に即して、学位は博士(経済学)が妥当であると判断した。
学位授与日:2023年8月24日。
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