長谷正人『悪循環の現象学:「行為の意図せざる結果」をめぐって』ハーベスト社,1991年。本書は妙に私の心に刺さり,何年かに1度読み返したくなる。今日,たぶん4度目くらいの読了をした。社会科学に対する割り切れなさと,結局は「透明人間」の視点での研究者になってしまったことへの後ろめたさ,そして「うまくやらねばならないと考えるほどおかしくなる」日々からの憂鬱に押されてのことなのかもしれない。
「行為の意図せざる結果」に関する理論は,経済学と経営学にもないわけではない。経済政策論では中西洋『日本における社会政策・労働問題研究:資本主義国家と労資関係 増補版』東京大学出版会,1982年であり,経営学では沼上幹『行為の経営学:経営学における意図せざる結果の探究』白桃書房,2000年である。これらも読んではいるのだが,その理解度には全く自信がない。長谷著は読者にやさしい本で,一応何が書いてあるかはわかるので,何度もそればかり読んでいるともいえる。
「行為の意図せざる結果」を,長谷著のように問題行為→偽解決→問題行為という自己言及性のパラドックスとして強く把握するか,そこまで強い意味を込めずに集合行為の結果として生まれる行為者の目的とは異なる有意な結果とみるかで,事態の重みはだいぶ変わってくる。私は見様見真似で,鎌倉のオーバーツーリズム解決法を扱った学生の卒論指導で前者の観点を(精緻な混雑予報によって観光客が出向くのを控えると混雑しなくなる「自己破壊的予言」),中国の鉄鋼産業政策を扱った院生の投稿論文指導で後者の観点を(設備投資規制を民営企業がかいくぐって新規参入した結果,需要が満たされたという「結果オーライ(だが政策が優れていたわけではない)」)用いたことがある。いや本来,「行為の意図せざる結果」とはその程度の話ではなく,近代社会において社会科学者は何をどう語り得るかに関わる問題なのだが,なかなか歯の立たないことでもある。
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