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2026年2月7日土曜日

政府債務のGDP比率は何を語っているのか:Allison Shrager氏の記事から考える

 ブルームバーグのコラムニストAllison Shrager氏による記事「日本の国債市場変調から学ぶ3つの教訓、米財政政策への警鐘鳴り響く」2026年2月6日。私は,長期的にはかなり共感できるところがあるが少し違う視点を取りたい。また,短期的には別な評価も必要だと思う。論点整理の作業として投稿するために,話が行きつ戻りつすることをご勘弁いただきたい。

 短期の方から行こう。そのポイントは,政府債務/GDP比率を示したグラフにある。コロナ禍以後,日本の政府債務/GDP比は,依然として他国より高いが,他国より急速に低下していることに注意する必要がある。これはコロナ対策終了でいったん財政支出が縮小したことにもよるが,同時にインフレ・輸入物価高騰のためである。ストックで言うと,物価上昇によって日本に住む人が持つ貯蓄は実質的に目減りする。一方,政府の累積債務は実質的に軽減される。この現象は「インフレ税」と呼ばれる。また,物価上昇に対して,名目所得や名目消費額は追い付いていないが,見かけ上は所得や消費の額もそれなりに大きくなるので,税の支払額は増える。とくに所得税など累進性のあるものは,課税区分が上昇して税率が上がることがあり,実質的負担増となる。これらが,長年上昇傾向にあった日本の政府債務/GDP比が下がりだした理由である。

 だから短期でいうと,政府債務/GDP比率が下がれば良くて,上昇すると悪いというわけではない。いま述べたように,日本の比率が下がっているのは,住民から政府に所得移転を行っているようなものだからである。住民搾取の結果として政府債務が減るのは,よいこととは言えない。

 しかし,では積極財政が正しいかというと,いまは異なる。もし仮にに今が不況であり,失業率が世界金融危機の時のように5%に達し,遊休設備が存在するのであれば,しばらく積極財政,減税でもよい。雇用が生まれ所得が生まれるからである。しかし,2026年の現実はインフレ・輸入物価高と同時に景気は過熱気味で,失業率は昨年末2.5%であり,遊休設備はほとんど存在しない。だから,財政赤字を拡大してはだめなのである。なぜなら,実質所得が増えずにインフレが加速し,また円安が進んで輸入物価がさらに上昇するリスクを高めるからだ。これが目の前の問題である。債務が大きすぎるからではなく,すでに生産能力を使い切った状態だから,財政赤字が益少なく害多いことになるのである。

 次に長期である。コラムの言うことは間違っていないとは思うが,少し視点を変えた方がよい。政府債務/GDP比が長期にわたって上昇していることを,分子の政府債務の大きさだけに即して評価するのでなく,分子と分母の関係に即してみるべきである。つまり,「財政赤字が所得に寄与していないのに拡大し続けていること」が問題なのである。これは明らかな事実である。またもうひとつは,マーケットに対し,政府が課税能力を徐々に失っているという疑念を発生させることである。これは期待の問題である。この二つは,通貨価値の毀損=インフレのリスクを高め,日本国債に対する評価を下げ,主に円安と長期国債価格の下落,長期金利の上昇を引き起こす。また,短期金利を調節する日銀も板挟みに陥る。このコラムの以下の指摘は正しい。「インフレと闘うために金利を引き上げれば、債務コストが急増する。一方,金利を低く据え置いてインフレを高止まりさせれば,円は下落する」。

 日本政府にもジレンマが生じる。一つの道は,緊縮財政をとって国民をさらに苦しめつつも長期金利の上昇を防ぎ,国債市場と外為市場での信認をつなぎとめることである。もう一つは,国債をさらに増発して日銀に買い上げを求めることである。日銀は,たとえ独立性を持っていようとも,国債暴落を放置することはできない。黒田時代のように買い上げざるを得ないだろう。すると,しばらく国際市場での信認は維持されるだろうが,インフレ圧力がさらに強まる。

 最後に,このコラムが引き出した教訓と対話しよう。一番目の教訓は,「長期金利はマーケットが決める価格であり,下手にいじれば危ないということ」である。これは正しい。ただ,その意味はもっと深い。長期金利が上がるのは,財政支出に効果がなく,また課税能力が疑われているということである。借金の金利が高くなってたいへんだというイメージで考えるべきでなく,円という通貨の価値が疑われているというレベルでとらえるべきである。

 このコラムによる二番目の教訓は,「インフレはいずれ戻り,財政計画を揺るがすということ」である。これもほぼ正しい。「インフレリスクは決して消えない」というのはさらに正しい。たとえ財政赤字を容認する学派であろうとも,その限界を悪性インフレ=通貨価値の毀損を引き起こさない範囲に置く。例えば機能的財政論の元祖であるラーナー『雇用の経済学』を見よ。これを踏み外すべき根拠はどこにもない。

 ただし,インフレリスクを政府が逆用する可能性を見落としてはならない。仮にマーケットをパニックに陥れず,国民が反攻に転じないという前提が成り立つならば,インフレによって政府が債務者利得を得られるのである。現に,いまそうなっている。だから日本政府は,インフレを放置するという積極的な賭けに出るかもしれないし,あるいは無策のまま何とかなることを期待する結果として消極的な賭けに出ることもありうる。

 最後の教訓は,「第三に、政府が巨額の債務を抱えても何も起きないことは時にあるだろうが、それは長期戦略にはなり得ないということだ。卑近な例を用いれば、断層の上に家を建て、何十年も地震で倒壊せずに住めるかもしれないが、それが賢明だったことにはならない」というものだ。これは正しくない。脆弱地盤しかないとことろでは,地盤を徹底的に改良して家を建てることは賢明な選択である。資本主義社会に生きるとは,地盤の脆弱な土地に住むようなものである。自由放任では成し遂げられないことは多い。しかし,公的機関の努力によって失業を減らし,外部効果の高い科学研究や技術開発を支援し,環境破壊を食い止め,市場では供給されない公衆衛生のようなサービスを提供するならば,インフレなき完全雇用と,環境保全と社会の安定を確保できる可能性が高まる。それに寄与するならば,債務は創造しがいがあるし,長期金利は上昇しない。理論的にも,いまの日本の現実に沿っても,問題は債務の金額が大きいことそれ自体ではない。財政支出が有効に使われずに,供給能力を伸ばさず,インフレを起こし,格差を放置する結果をもたらすことなのである。

Allison Shrager「日本の国債市場変調から学ぶ3つの教訓、米財政政策への警鐘鳴り響く」Bloomberg, 2026年2月6日。
https://www.bloomberg.com/jp/news/articles/2026-02-05/T9U3UHKGIFPZ00


2026年2月6日金曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(3)

 金価格は1月末から2月初めにかけ,暴騰したかと思えば暴落している。このことは,前回までに論じたことの傍証となっている。つまり,金価格上昇がもっぱらインフレーションの表現だという見解は誤りなのである。数日以内でインフレとデフレが逆転するはずもないし,そもそも管理通貨制のもとでは不況による価格下落はあっても厳密な意味でのデフレは起きないのであり,したがい,金が暴落してもデフレのせいではないのである。

 さて,それでは,資産としての金需要をどう考えればよいか。ここからはある程度実証的に論じる必要がある。公開情報しか取れない立場では限界があるが,できるだけやってみよう。

 金について比較的信頼できる統計は,World Gold Council(WGC)のものである(※1)。1月30日に発表されたばかりのGold Demand Trends Full year and Q4 2025によると,2025年の金需要は5002トンに達し,前年比1%増加した。1年前の2024年の金需要は4962トンであった。

 需要の内訳は以下のようになる。1トン未満は四捨五入している。

2025年
・宝飾品製作需要1638トン,総需要に対するシェア32%,前年需要量比16%減
・技術需要323トン,シェア7%,前年比1%減
・投資需要2175トン,シェア44%,前年比73%増
・中央銀行その他の機関の需要863トン,シェア17%,前年比37%減
・店頭取引その他3トン,シェアほぼ0%,前年比で1%未満に
・合計5002トン

2024年
・宝飾品製作需要2026トン,シェア41%
・技術需要326トン,シェア7%
・投資需要1185トン,シェア24%
・中央銀行その他の機関の需要1092トン,シェア22%
・店頭取引その他331トン,シェア7%
・合計4961トン

 WGCのいう宝飾品製作と技術の需要が,前回まで述べた商品としての需要,投資需要と中央銀行の需要が資産としての需要に相当する。

 投資需要の内訳は,以下のようになる。

2025年
・地金(延べ棒と鋳貨)1374トン,シェア28%,前年比30%増
・上場投資信託(ETF)および類似商品801トン,シェア16% ,前年は3トン売り越し

2024年
・地金(延べ棒と鋳貨)1188トン,シェア24%
・上場投資信託(ETF)および類似商品マイナス2.9トン

 さて,ここで注目すべき点は二つである。

 第一に,中央銀行が買い手となっていることである。WGCによれば,2010年以来連続して買い手となっている(※2)。中央銀行は通常はETFを購入しないので,地金の購入である。

 第二に,投資需要が極めて大きく,まだ拡大していることである。そしてまだ地金の水準には及ばないものの,2025年にETFを通した金保有が急拡大していることである。

 以下,この2種類の需要について検討していこう。

※1 World Gold Council, Gold Demand Trends: Q4 and Full Year 2025, January 29, 2026.
https://www.gold.org/goldhub/research/gold-demand-trends/gold-demand-trends-full-year-2025

※2 Gold Demand Trends Full year and Q4 2019, January 30, 2020.
https://www.gold.org/goldhub/research/gold-demand-trends/gold-demand-trends-full-year-2019


2026年2月4日水曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(2)

  さて,まず問題とすべきは,最近になってアナリストの一部が主張するように,金価格の高騰をもっぱらインフレーションによって説明できるかである。今回は,この点を主に理論的に考察する。

 前回述べた基本的観点をもう少しかみくだくと,金価格を規定する要因は四つあると思われる。

 第一に,管理通貨制と変動相場制の下では,金の生産費(金の投下労働価値)が変化すると,それによって産金業者の金売却価格も変動するといこうとである。これは金1グラム=Xドルと価格標準が固定されている金本位制とは異なる現象である。

 第二に,一般商品としての金に対する需要によって価格が変動する。主に工業用および宝飾用としての需要によるものである。

 第三に,財政赤字を通した外生的な代用貨幣(預金貨幣または中央銀行券)の供給によって事実上の価格標準が切り下がり,厳密な意味でのインフレーションとなることで金価格が上昇する(※1)。これについては上昇だけがあり得て,下落は起こりえない。なぜなら代用貨幣が不足すれば,単に物価が実質的に下落して不況となるのであり,価格標準切り上げとしてのデフレーションは起こらないからである(※2)。

 第四に,資産としての金の需要により,金の投下労働価値から乖離して金価格が上下する。

 コロナ禍での巨額の財政赤字を背景にして,ポストコロナ期には先進諸国でインフレーションが生じたことは確かである。上記の第3要因,つまり厳密な意味でのインフレーションによる金価格上昇も起こっているとみてよいだろう。しかし,それだけでは十分な説明要因とはなりえない。というのは,最近の金価格高騰はポストコロナのインフレーションがいくらかおさまってきた2024年以後に起こっているからである。また,それ以前の高騰も,リーマンショック後,物価が下落気味になっていた2009-11年頃に起こっている。加えて,傾向的には上昇している金価格であるが,この2月初めに見られたように,時に下落することもある。前述のように管理通貨制のもとでは厳密な意味でのデフレーションは起こりえないので,金価格がこれを反映することはない。

 金価格が上がったからインフレなのだと,逆の説明をするのも間違いである。これは金本位制と管理通貨制を混同するあやまりである。

 金本位制のもとでは,公定価格標準としての金価格を切り上げれば,物価全体も上昇する。例えば以下のようになる。=は投下労働価値に沿って等価交換されることを意味する。

1)出発点
投下労働価値量X=金1g=100ドル=商品100個
商品1個=1ドル

2)金本位制のもとでの公定価格標準の切り下げ
投下労働価値量X=金1g=200ドル=商品100個
商品1個=2ドル

 しかし金貨流通や兌換が停止され,公定価格標準が廃止された管理通貨制のもとでは,金価格は他の商品と同じように独立して上昇しうるし,下落しうる。金価格が上がれば,金で測った物価はむしろ下落する。しかし,金に対して通貨が下落しているから,通貨で測った物価は一定なのである(※3)。なお,ここで金価格の上昇が金生産費の高騰(金の労働価値の増加)によるのか,単に需要超過によるのかで本質的な意味は異なるが,現象としては同じである。例えば以下のようになる。×は,不等価交換が行われることを表す。

1)出発点
投下労働価値量X=金1g=100ドル=商品100個
商品1個=1ドル

3)管理通貨制のもとでの金生産費の2倍化
投下労働価値量2X=金1g=200ドル=商品200個
商品1個=1ドル

4)管理通貨制のもとでの需給関係による金価格2倍化
投下労働価値量X=金1g × 200ドル=商品200個=投下労働価値量2X
商品1個=1ドル

 3)でも4)でも,金価格のみが上昇するのであり,通貨ドルで測った物価が上がるわけではない。たしかに通貨の金に対する購買力は下がっているが,だからといって物価全般が上昇するわけではなく,インフレーションになるわけではない。金価格が上がっていることを,それに相応するインフレーションが起こっている証拠と見なすのは,まちがいなのである。

 確かにポストコロナでインフレーションは起こっている。しかし,金価格の2000年以来の傾向的上昇や2024年以来の急騰をすべてインフレで説明することは,情勢論としては行き過ぎであり,理論的にはむしろ間違いと言わねばならないのである。

 とすると,金価格の高騰の相当部分は第1,第2,第4要因に求めねばならない。第1要因の金生産費の上昇は,2000年代半ば以後,確かに生じている(※4)。しかし,短期間に急激に起こるものではない。第2要因の商品としての需要も,急騰しているとは考えにくい。銀の場合は工業需要が急増しているが,金についてはその証拠はない。すると,第4の,資産としての需要の増加が最も説明力のある要因であろう。

 この資産需要は何によるものか,それは商品に対する純然たる投機なのか,それとも貨幣に関わることがらなのか。これが,次の問題である。

※1 ここで厳密な意味でのインフレーションとは,価格標準の切り下げによる全般的・名目的物価上昇のことである。厳密な意味でのデフレーションは,その逆である。特定商品の需要超過により物価が上昇することは,日常用語ではインフレーションであるが厳密な意味では一時的または実質的物価上昇である。

※2 岡橋保『金の価格理論:価格標準の研究』日本評論新社,1956年,216-221頁。同『増訂 金投機の経済学』時潮社,1973年,88-89頁。川端望「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492,6-7頁(

https://doi.org/10.50974/0002002920)。 当たり前であるが,「不況だから物価が下がる」ことはある。物価の持続的下落をみな「デフレ」と呼ぶ日常用語にしたがうとしても「不況だからデフレになる」のである。逆に,不況と無関係に,通貨不足から物価下落期待が生じ,そして実際に物価下落が起こり,それゆえに不況になる「デフレだから不況になる」ということはあり得ない。あるとすれば,単に「不況で物価が下がっていて,いよいよそれがひどくなりそうだから不況になる」だけである。通貨と商品の量的関係を抜きに,「期待で物価は決まる」とする理論は誤りである。

※3 金本位制の場合と管理通貨制の場合の相違については,村岡俊三『資本輸出入と国際金融』白桃書房,1998年,121-127頁を参照。金本位制の場合から出発して,管理通貨制度になるとそれがどう変わるのかを説明することが大事なのであって,金を理論から追放して事足れりとするのは誤りなのである。

※4 松本朗「金価値と金価格の動向とその理論についての考察―最近のドイツにおける研究動向を参考にして―」『立命館経済学』61(6),2013年,350-351頁(http://ritsumeikeizai.koj.jp/koj_pdfs/61617.pdf)。



2026年2月3日火曜日

純然たる金投機なのか,それとも,結局金が貨幣なのか?(1)

 2024年以降,金価格の高騰が著しい。また,2026年1月末から2月初めにかけては暴騰と暴落を示すなど,値動きも激しい。この理由は,直接的なマーケット心理としては,安全資産を求めてのリスクヘッジまたは逃避行動とされている。それにしても,主要国の物価上昇率をはるかに超える値上がり率である。また株式についても,先進国の市場はコロナ突入直後のショックから立ち直った後は,おおむね好調に推移しており,むしろ株価と金価格の同時上昇が不思議がられるという状況である。ちなみに銀とプラチナも似たような傾向を示している。

 過去1年間の金価格高騰は何を意味するのか。リスクヘッジまたは安全資産への逃避とは何なのか。このことに対する見方は,大きく見て二つに分かれるようである。

 ひとつは,単に商品としての金が極度に選好されて投機が激しくなっているという見方である。この背後には,金は単なる商品の一つであり,その希少性,耐久性,分割・結合の容易性,あるいは過去に貨幣商品であったことの記憶から,極端に関心を集めているに過ぎないのであって,そこに貨幣論上の意味は何もないという見方がある。1970年代以来,常識として定着してきた金廃貨説の立場と言ってもよい。

 しかし,あまりに金が選好されることについて,別の見方も浮上している。それは,金価格の高騰は各国通貨の信用失墜の裏返しであり,結局のところ金が貨幣である,あるいは貨幣として復権しつつある。という見方である。このような見方は,1971年8月の金ドル交換停止,そして1973年の変動相場制移行後,衰退する一方であったが,ここにきて復活している。それも研究者の間にではなく,アナリストの間で広がっているのである。金価格高騰とは,ドルの金に対する購買力暴落の裏返し,通貨に対する信認の崩壊,インフレーションの表現またはその予兆だというのである。

 しかし,私は,いずれに対しても与することはできない。金の位置はアンビバレントだからである。金のような価値を持つ商品が貨幣であることは,資本主義にとって必要であるとともに制約である。だから資本主義は,ひとたびは金を貨幣としながら,金の実際の流通を回避できる代用貨幣のシステムを構築してきた(川端望「通貨供給システムとしての金融システム」研究年報『経済学』第81巻,東北大学大学院経済学研究科,2025年3月)。そのことによって資本主義は発展し,しかし,その代償としてインフレやバブルという,自己の基盤を掘り崩す問題をも発生させてきたのである。

 今この瞬間,金は貨幣として流通していない。しかし,あらゆる商品の中で相対的に貨幣に最も近いものとみなされている。この両面をともに重視する見地から,金価格高騰について考えていきたい。しかし,途中で行き詰まって止めるかもしれないことをご容赦いただきたい。何しろ,明日にはどんなショックがマーケットを襲うともしれず,言うべきこともどんどん変わっていくのかもしれないのである。

 ともあれ,金価格に対する基本的観点は,以下のようなものである。古いと馬鹿にするなかれ。時代が一回りしてみると,古い理論が実は正しかったということもあるのだ。

「金の市場価格には価格標準の逆数と,一定金量を代表する代用貨幣の支配金量の逆数を示す二つがある。前者の価格標準の切下げを反映する金の市場価格の騰貴は,兌換の停止された銀行券が流通必要金量をこえて濫発されて価格標準が事実上切り下げられても,あるいは平価の法律上の切下げや,金の買い上げ価格の引上げ,為替相場の引上げなど,価格標準を直接切り下げる方法によってもおこる。これにたいして,後者の金の市場価格の騰貴は,価格標準の切下げとはなんの関係もなしにおこる。金との自由な兌換が禁止されているときには,いろいろな事情から金選好がおこり,銀行券の代表金量にすこしの変更もないにもかかわらず,一定量の金がそれ以上の金量を代表する銀行券と交換されるという不等金量の交換があらわれる」(岡橋保『増訂 金投機の経済学』時潮社,1973年,47頁)。



2026年1月11日日曜日

賃上げ,賃上げ,賃上げと労働運動は主張すべき:高市政権がインフレを止められない状況下で,日本経済を望ましい方向に向ける短期的方策

 高市首相が何と言おうと,いま政権がやっているのは拡張的財政政策であり,需要刺激政策である。したがって,供給能力がすぐに拡大しない現状ではインフレを加速するし,行き過ぎた円安を是正もできない。日銀がそろそろと金利を引き上げて,これまで長く続いた借り手企業優遇,預金者搾取を改めているのは合理的だが,それ以上のことができるわけではない。

 すぐに政権が変わらないという条件下で,ただちに望ましい方向に日本経済を持っていく方策はあるだろうか。このままでは,物価が下がらず,物価高対策の効果が相殺されてしまうことは避けようがない。それにしても,物価だけが上がるのは最悪である。また,円安の下で,輸入物価は上がり,輸出企業だけがもうけるのも二番目くらいに悪い。輸出企業がもうかっただけでは,そこで働く人の利益にはならないことは,過去20年の実績から明らかである。

 しかし,よりましな状況を作る短期的方策はある。春闘での大幅賃上げが実現することである。賃上げをすることによって日本の多数の人の生活が救われるし,企業に対してイノベーションを促すことができる。賃金コストが上昇することこそが,企業にとって待ったなしの生産性向上,製品革新を促す力である。これによって供給能力が向上すれば,物価高も緩和される。幸いにして,今は政府も,企業経営者も「賃上げは必要」と認めているので文句がつくこともない。いまこそ,イデオロギーに関係なく,労働運動が,ただ基本的な使命のために奮起し,ひたすらに賃上げ,賃上げ,賃上げと主張するときだ。

2026年1月4日日曜日

原真『音と光の世紀:ラジオ・テレビの100年史』集英社,2025年を読んで

 本書は副題が示すように,日本のラジオ・テレビの100年史を概説したものである。まず一言で言えば,その使命を果たしている本であり,日本のラジオ史・テレビ史をまずざっと理解したい人にとってたいへん便利な本である。とくに今日では,若年層の動画視聴はテレビ放送からインターネットを基礎とした各種プラットフォームにシフトしており,高齢層は感覚的に知っているテレビ業界の構造や習慣が,若年層にとって常識ではなくなりつつある。例えば,広告モデルのビジネスゆえの番組枠の希少価値をめぐってのテレビ局,広告代理店,広告主,芸能プロダクション,制作陣の緊張関係である。これがすでに当世の常識ではなく,歴史的知識となっているのであり,改めて要領よく整理してくれている本書は貴重な存在と言っていい。新書,とくに昨今のそれという性質から個々の箇所での注記はあまりされていないが,参考文献の長大なリストは巻末に記されていて,さらなる読書や研究の手引きとなる。個人的にはラジオ産業と言えば平本厚『戦前日本のエレクトロニクス』,テレビ産業と言えば同『日本のテレビ産業』が欠かせない業績であると考えているので,前者が文献リスト,後者が本文内に注記されていたことに安堵した。

 さて,本書の書き口として明快なのは,放送メディアは権力と対峙しているし,対峙すべきという古典的視野である。このことの確認は重要である。昨今の風潮として,SNS上ではラジオやテレビが「オールドメディア」として嘲笑されることが多い。それにはそれなりの理由があるが,注意すべきは,この嘲笑においては,「オールドメディアの嘘と既得権益」が,その対極にある何らかの「真実と無私・独立性」と対置されているということである。この二分法は二つの意味で不適切である。一つは,「オールドメディア」の対局でネットメディアを「真実」,テレビで批判される人や団体を「無私」と決めつける根拠がなく,実際に事実から逸脱する主張も少なくないということである。「どうせオールドメディアは嘘ばかりの既得権益」と賢しらにいいたてられる際に,何を真実・無私とするかについてのすり替えが行われている。もう一つが本書との関連で重要であるが,この二分法の社会観には国家権力についての視点が全くないことである。国家権力と社会という観点は,いかに古い観点・理論に基づくものであろうと,ゆるがせにできないものである。国家権力の恣意的行使は他の主体の恣意とは別個に監視されねばならないし,首相やその他の国務大臣はその言動について,一国民とはまるで異なる重さの責任を負っているのである。

 誤った二分法が流される情勢下において,放送メディアを担う人々が権力による恣意的な放送介入に対峙してきた歴史,国家からの独立性を確保することの重要性を強調する本書の意義は大きい。繰り返し言うと,いかにこれが「古い」観点であり,ポストモダンではなくて「モダン」であろうとも,いまなお重要なことである。

 しかし,「権力との対峙」以外の点については,本書の切れ味はいささか鈍く,問題は描かれてはいるが投げ出されたままになっている。例えば,視聴者が直接に求めるものと,メディアの担い手が留意する放送内容の公共性や「よいもの」は相違する。本書は,この相克が戦前のラジオから続くことをよく描いているが,この相克をどう考えたらよいのかについては,さほど突っ込んでいるようには見えない。

 また,テレビという放送メディア自体が権力となり,個人に対して暴力的に対峙してきたことをどうとらえるかという問題もある。「おわりに」に語られる来歴からすると,著者はこの問題に強い関心を持っているはずである。しかし,メディアが持つ権利と個人の権利の衝突に関する考察は,本書では弱い。

 テレビ局に関する「組織」としての考察も物足りない。正確に言うと,権力に対して独立しているか否かという側面についてはよく描かれているが,フジテレビ問題にみられるような,会社組織として労働者を尊重しているか,ステークホルダーを含めたガバナンスはいかにあるべきか,という点についての視点が十分定まっているとは言えない。むろん事実関係についての記述はされているが,考察が弱いのである。

 いささかないものねだりをしているのかもしれないが,視聴者ニーズとの専門家によるコンテンツ供給の緊張関係,マスメディアの暴力性,組織としてのテレビ局の在り方は,今日の「オールドメディア嘲笑」の風潮の背景の一つであり,放送の将来を考えるうえで,考察をより深めねばならないはずである。なので,もう少し突っ込んで欲しかったという気持ちが残るのである。

 まとめると,本書は,事実関係のコンパクトな整理と,政治権力から独立することの重要性という観点において際立っている。しかし,それ以外の新たな論点については物足りなさが残る。むろん完璧な本などないし,書いてあることすべてをうのみにする読書もありえない。本書はラジオとテレビについて学ぶ際に,まず手元に置くとたいへん便利であり,考えながら読むことで,得られるものは多いだろう。

 原真『音と光の世紀:ラジオ・テレビの100年史』集英社,2025年
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721392-8





2025年12月23日火曜日

人文社会系の学会において修士課程院生が報告することをめぐって

  少し前に,修士課程院生が人文系の国内学会で報告することについて否定的な投稿がXにんされ,それをめぐっていろいろな議論がありました。修士課程院生と連名で社会科学(経営学)系の国内学会で報告したことのある教員なので,限られた知識に基づいてではありますがコメントします。長文でないと説明できないのでXに投稿せずブログとします。私の所属する部局では「前期課程」と言いますが,「修士課程」の方が一般的でしょうからそう呼びます。

1)前提として,日本の人社系学会報告は,1セッション25-45分程度あることが多く,裏返すと一回の大会での報告数が限られます。理工系の学会はもっと短いことが多いはずです(私も一つだけ加入しているので少しは分かります)。

2)そして人社系はポスターセッションが理工系ほど普及していませんから,参加者は会場に来たら最後,よい報告でもそうでなくても25-45分間拘束されることになります。

3)上記1)2)の事情により,「一つ一つの枠が貴重なので,よく練られた報告をしてほしい」という規範が働きます。

4)他方で,日本の人社系では、理工系ほど報告の事前審査制,プロシーディングスの査読制が厳しくないことが多く,エントリーすれば報告できることもあります。最近は海外に倣って厳しくする学会もあります。

5)上記の2)と3)から,混雑して会場も日にちも足りなくなるのではないかと思われるかもしれません。しかし、(遺憾ながら)一学会当たり会員数が少ないことが多いので,そうはなりにくいのです。私にとっての主要2学会は、いずれも300人くらいしか会員がいません。加入している社会科学系学会で一番会員数が多いもので2000人弱です。一つだけ入っている理工系の学会は約8000人です。

6)上記2)3)4)の事情により,大学院生の報告がよく練られたものになるための主要な方法は,「指導教員が事前に丁寧に指導する」と言うものになります。そして,そのことを教員の会員は知っています。

7)上記1)2)3)により「よく練られていない院生の報告」がなされた場合,会員が感情的に面白くない気持ちを抱くことがあります。それ自体は理解可能です。

8)しかし,ここまでの論理から言って,「よく練られていない院生の報告」がなされてしまう理由は,直接には修士課程院生の自己責任にあるものの,間接的には指導教員の指導にありますし,また一部は学会の制度・慣行にある空隙に由来します。すべて修士課程院生当人の問題とすることはできません。

9)また,よい報告がなされる可能性もある以上(私と院生はよい報告をしたと自負しているし,その後査読を通って学会誌に論文を載せました),修士課程院生の報告全般を否定することは適切ではありません。

10)なお,上記4)により,大学院生がある意味では積極性を発揮し,別な意味では自己認識が甘くて,自己判断でエントリーすることもあります。それが自己認識の甘さに由来する場合には,指導教員が止めるのが妥当です。しかし,ことの性質上,強制力はない抑止になりますから,指導教員の指導を院生が受け入れやすい関係になっていないと,そのままエントリーしてしまうことはあります。

11)以上のことから,人社系学会の現在のルールと慣行のもとでは,「前期課程院生が報告することは,明文化されたルールには違反していない」,「その内容が未熟すぎるということも後期課程院生や教員よりは高い確率で起こる」,「未熟すぎる報告が行われた場合,学会にとって貴重な報告枠が失われたという機会費用的受け止めがなされやすい」,「未熟すぎる報告が行われた場合,明文化されたルールの上では院生の自己責任である」,「しかし事実上,指導教員の指導の在り方にも,そもそも学会のルール・慣行にも問題があると考えられる」,「ルール・慣行に問題があるからと言ってその隙を突く行為に対して周囲はよい感情を持てない」といった問題が絡み合うのだと思います。

2025年12月5日金曜日

藤本隆宏編『工場史ー「ポスト冷戦期」の日本製造業ー』(有斐閣,2024年7月)の書評論文が『社会経済史学』91巻3号に掲載されました

  このたび『社会経済史学』編集委員会からの依頼にもとづき,藤本隆宏編『工場史ー「ポスト冷戦期」の日本製造業ー』(有斐閣,2024年7月,444頁,5000円+税)の書評論文を執筆いたしました。何とか意を尽くそうと約8000字書きました。

 私は,藤本先生らが工場(または事業所)を経済学・経営学の重要なカテゴリーとし,分析単位とすることに心より賛同します。本書にも工場経営と企業経営を区別して観察すべき根拠を多数見出しました。しかし,工場が一般的に,存続と雇用維持という目的を持つという見解には強いためらいを覚えざるを得ません。そう信じるべき根拠が本書には見出せませんでした。ポスト冷戦期における日本の工場という分析単位の,存続努力というアクティビティは貴重でした。しかし,それは一般理論の証明としてではなく,この時期の日本の歴史的文脈において貴重であったのだと理解いたします。


『工場史』出版社ページ
https://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641166288








2025年11月22日土曜日

高市政権下での経済政策についての覚書:対案の方向性

 高市政権下での経済政策についての覚書。評価と対案の方向性


*総需要刺激はインフレ・円安を加速するので生活を救えない

 高市政権が,補正予算と減税で生活を支援しようということ自体は結構である。しかし,それだけやればインフレと円安を加速し,効果は台無しになってしまう。供給能力が限られている局面で需要だけ刺激してはだめなのである。


*生活救済と社会改革を再分配で

 いまは,生活救済は,総需要を過熱させないように再分配で行わねばならない。高収益の大企業や富裕層に課税する。また社会的な環境・安全コストを賄うための課税,たとえば地球温暖化対策,タバコの健康被害対策,インフラ劣化対策,山林保全,オーバーツーリズム対策などのための課税などを強めねばならない(だから出国税引き上げはよい)。所得税は単純減税でなく,累進性を強めて富裕層には増税しなければならない。中間層以下は減税し,課税最低限以下の個人には逆に給付すべきだ。消費税減税でもよいが,必ず富裕層増税とセットにするべきだ。同じようにNISAは拡大しても良いが大口のキャピタルゲイン課税は強める。
 こうして総需要はプラマイゼロに近づけてインフレと円安を抑えると同時に,再分配で物価高対策をするのである。


*賃上げを政策支援する

 人手不足なのにGDPは上がらず実質賃金が上がらず,物価だけが上がるのは異常である。労働組合が頼りにならないので対策が難しい。政策でできることとしては,賃金が物価高に追いつくように,最低賃金引上げ速度を上げるべきだろう。非正規へのボーナス支給や退職金支給を促す働き方改革法制の充実も必要だ(緊急には行政解釈の強化でもよい)。賃上げはもちろん「賃金・物価スパイラル」につながるが,賃上げ分の価格転嫁は,他の理由で起こっているインフレよりはましである。


*人の面から供給能力を高める

 供給能力の方も高めねばならない。画期的イノベーションも必要ではあるが,まずは足りないのが人であることに注意すべきだ。だからといって労働時間規制を緩和しては過労死社会への逆戻りである。そうではなく,女性全般と高齢者全般が自らの意志で正規雇用につけるように環境整備すべきだろう。非正規労働者はジョブ型正社員や短時間勤務正社員に転換して職務に見合ったボーナスや退職金を支給する(上記)。退職後再雇用で賃金が激減することを防ぐために,賃金の職務対応部分を明示する法制化をめざし,さしあたり現行法制内で行政解釈を強める。外国人労働者は,日本語能力要件の引き上げや労働市場テストによる総枠制限で数を調整する。そうして,一方では日本人と競合しないようにしながら,他方で外国人労働者自身が買いたたかれたり搾取されないようにし,全体としてスキルを高める。
 これらは,供給能力を高めると同時に,労働の時間単価は上げることになる。こうして企業経営者には,低賃金利用の誘惑をなくして生産性向上を促す。


*中小企業の活性化

 労働者を支援する政策により,コストアップで苦しくなる中小企業も確かにあるだろう(※)。そこですべきは救済のための融資や給付ではない。技術支援や経営活性化支援,事業継承支援を強化する。また下請け法を厳格に適用して,大企業による交渉力格差を乱用した搾取を止める。商業分野ではまちづくり提案に支援する。こうして,競争を公平化して真面目な中小企業に有利としつつ,全体の生産性を高めていく。


※ちなみに国立大学の管理職としても個人的には困るのだが,日本全体を考えた政策論としてはやむを得ない。この対策としては,運営費交付金を,せめて人事院勧告対応賃上げ分と水光熱費値上がり分だけ補填すべきである。これは,公的セクターの賃上げ実現という需要面と,科学・技術の水準の支えという供給面の双方にとって必要なことである。


 以上。しばらくはこの線で考えたい。なお,この議論に不足しているのは社会保障とその財政の在り方であって,これはもっと勉強しないと何とも言えない。

2025年10月30日木曜日

アベノミクスの金融・財政政策を継承すると,物価高対策にならない:高市政権下でのマクロ経済政策の方向性について

 高市政権は,金融緩和,財政出動という意味でアベノミクスを継承する気配を見せている。むしろ財政支出に関してはアベノミクスより積極的になるかもしれない。アベノミクスは,金融緩和は政府の日銀への圧力のもとで「超」がつくほど徹底して行ったが,財政赤字はそれまでの水準を維持したというレベルであり,さらに拡大したわけではなかった。むしろコロナ後の岸田政権以後の方が,財源の手当てなく大型支出を次々提案している。防衛費のGNP比2倍化,子育て支援,グリーントランスフォーメーション等々である。高市政権では,物価高対策を理由に何らかの形での家計向け減税が加わるであろう。これは歳出増というより,むしろ歳入減となる面が強いが,赤字財政による需要刺激という点では同じである。

 高市政権の政策の詳細がどうなるかが判明するのはこれからである。しかし現時点で重要なことは,金融緩和,財政出動をいま行うとどうなるかを考えておくことである。それが,今後の政策評価の出発点になるだろう。

 ここで大事なことは,2010年代に行われたアベノミクスと,2025年以後に行われそうな高市政権の金融緩和・財政出動では,経済環境も違うし,予想される結果も違うということである。

 まずアベノミクスは,物価がほとんど上がっていない状態と,円ドル相場が購買力平価より高い状態(世銀国際比較プログラム2011推計)から出発した。また,失業率も4%を超えている下で出発した。そこで,金融を引き締めるよりは緩和する方向に,財政を引き締めるよりは拡大する方向に舵を切るのはもっともなことであった。その限りでは普通であった。

 問題は,アベノミクスは,物価上昇率を年率2%にすることをめざし,とくに財政よりも金融政策に力を入れてこれを実行しようとしたことである。そして,結局,達成できなかった。いくら量的・質的金融緩和(日銀による国債買い上げとETF/J-REIT購入)を激しくおこなっても,またそれなりに財政赤字を出し続けても,通貨供給量(マネーストック)が増えなかったからである。そして,それはなぜかというと,金融緩和だけでは,企業においては日本市場で長期をにらんで設備投資しようという意欲を喚起できなかったからであり,家計においては消費意欲を喚起できなかったからである。企業は日本市場が活性化する見通しを持てず,個人は,すぐあとで述べる賃金抑圧と雇用の非正規化により,家計が好転するだろうという見通しを持てなかったからである(※1)。一方,株式市場と外国為替市場は,財政赤字は従来ベースだが金融は超緩和という組み合わせに対して敏感に反応した。株高・円安の実現である。これにより一部輸出向けの設備投資は喚起できたが弱弱しかった。大々的に喚起されたのは対外直接投資と金融資産購入,とくに外国投資家の株式市場への呼び込みであった。

 だから,アベノミクスは,高く評価できるようなものではない。できるだけよく言うならば,金融・財政引き締め策を取らず,日本経済を政策不況のどん底に陥れなかったという点だけは評価できる。しかし,しかし,自ら掲げた日本経済再興を達成したわけではまったくなかったのである。それは,金融緩和という一面的なツールでは,日本経済がよくなると経営者にも個人にも信じてもらえなかったからである。これは経済政策の責任者としても政治家としても失敗だろう。アベノミクスを継承するのをポジティブなことと見なす言説が,私には理解できない。

 さて,高市政権である。政権が2025年に直面している情勢は,安倍政権発足時とは大きく異なっている。まず,物価上昇率はG7諸国で最高になっている(熊野,2025)。そして,円ドル相場は購買力平価を超える極端な円安になっている。一方,失業率は2.5%にとどまっており,人手不足が起こっている。

 国民生活にとって最大の直接的問題が物価高であることは,高市総理も強く意識している。裏返して言うと,物価の停滞が企業行動を停滞させるという問題や,働こうとする人が仕事を見つけられずに困っているという,安倍政権発足時のような問題があるわけではない。アベノミクス開始時とまったく異なる条件に置かれ,国民生活の問題も異なっているのである。これで,どうしてアベノミクスと同じ金融緩和・財政拡大で対処できるのであろうか。いったい,どういう理屈になっているのか,私には理解できない。

 もう少し丁寧に言う。マクロ的に金融緩和・財政拡大をするというのは,国内総需要を刺激するということである。総需要刺激は,未稼働の労働力と設備,滞貨,その他未利用の物的資源が存在し,それらを使えば生産が拡大して所得が生み出せるような場合には有効である。しかし,現在の日本経済はこうなってはいない。未稼働の設備や失業している人は決めて少ないので,総需要を刺激しても生産と所得が伸びにくいのである。

 さらに詳しく言う。内閣府推計のGDPギャップでみるとプラス,つまり需要超過に転じている状態である(※2)。日銀推計のGDPギャップはまだマイナスであるが,それも資本には遊休があるものの労働は既に需要超過となっている(※3)。そして,いずれの潜在成長率推計をみても,労働者数はまだ伸びる余地があるものの,労働時間はマイナスであり伸びる余地がない。確かに完全雇用状態ではなく,いま雇われていない女性全般と男女高齢者が勤めに出る余地はあるが,労働時間は短縮傾向にある。そして前者の作用より後者の作用方が大きいから,労働投入を増やすのは困難なのである。つまり,総需要を刺激して実質総生産(GDP)を伸ばすことは難しい状態なのである。GDPが成長できるとすれば,イノベーションが盛んになって供給能力が伸びた場合,労働時間を延長した場合,労働力供給を過程からもっと引き出した場合であるが,いずれも容易ではない(※4)。しかも,イノベーション政策にせよ労働市場政策にせよ,金融・財政の拡張か引き締めかという次元では不可能である。よって,マクロ経済政策とは別の話が必要となる。

 こうした状況で高市政権が日銀の金利引き上げを牽制し,財政を拡大すれば,何が起こるだろうか。生産が拡大せず,名目所得の増加を物価上昇が打ち消すだろう。つまり,さらなるインフレである。これでは物価高対策という目的は達成できない。さらに日本の低金利が国際的に突出すれば,益々の円安が加速する。それは輸出産業には刺激となるが,エネルギー,食料,さらに各種製造品,海外から提供されるITサービスを含めて,輸入物価の高騰を一層加速する。これもまた物価高対策という目的に逆行する(※5)。ついでに言うと,工場を建設するような対内直接投資の刺激には役立つが,外資による不動産購入も加速する。またインバウンドも過度に促進することになり,オーバーツーリズム問題は悪化するだろう。さらに付け加えるならば,実物経済から実質的な利益が見込めないとなれば,金融資産購入を意図した資金調達が強まり,株式や不動産や商品市場でのバブルが強まることも十分あり得る。

 なお,財政赤字の拡大が国債引き受けの困難を増し,長期金利を高騰させるという問題も指摘されるかもしれない。しかし,ここは複雑であり,数年単位では何とも言い難い。長期金利に逆方向から影響を与える複数のベクトルが作用するからである。長期金利が急騰するのは,きっかけは金融的要因で起こるとしても,結局のところ景気の先行きと政府財政の持続性が危ぶまれるからである。高市政権が景気過熱状態でのインフレを起こした場合,悪性インフレが経済を混乱させていると見られるか,何はともあれ過熱状態程度の好景気が保たれていると見られるかは決め難い。長期的には前者だろうが短期的には全く状況依存的であって後者になるかもしれない。また,財政赤字を拡大した場合,一方では円の価値が毀損されるが,他方でインフレはあらゆる債務を目減りさせるので,政府の実質利払い負担や実質債務残高も軽減される。したがい,円の信認は長期的には低下するだろうが,短期的には維持される可能性もあり,やはり状況に依存する。二つの軸のいずれで見ても,金融・財政拡張策は長期的には長期金利を高騰させるリスクを高めながら,数年のスパンでは,どうなるともいえないのである。いわゆるマーケットとの対話や偶発的ショックに左右されながら状況依存的に推移するだろう。

 まとめよう。設備も人も余っていない状態,とくに労働面のGDPギャップが極小化されている現状では,金融緩和・財政拡張はインフレを起こすだけで実質的所得を生まない。したがい,物価高対策として有効ではない。高市政権の経済政策について現時点で言うべきは,まずもってこのことである。

 それでは,物価高による市民生活圧迫にどのような対策をとればよいのか。これが次の問題となる。マクロ的な緩和・拡張か引き締めかというだけでなく,労働市場政策,労使間の分配や社会的格差是正,イノベーション刺激など,よりブレークダウンされた次元で考えねばならない。

※1 公平のために言うと,当時の企業行動は,安倍政権や日銀の予想を超えていた。アベノミクス期のみならず,「失われた30年」と呼ばれる時期にも企業セクターは,実はそこそこの生産性向上は実現し,過去の実績に劣らぬ利益率を計上していた(河野,2025)。しかし,国内での正社員を拡大せず,増やすとすれば非正規労働者に限り,あわせて労働組合が極度に弱体であるのをいいことに賃金を決定的に抑圧し続けたのである。これはコロナ前に物価が頑として上昇しない要因であった。賃金が上がらないので消費が喚起されなかった。賃金を上げない経営者は,富裕層以外には消費を伸ばしそうにないと理解していたので,国内市場拡大に展望を持てず,設備投資に意欲的になれなかった(海外直接投資には意欲的だった)。したがい,企業は価格を引き上げる気になれなかった。むしろ人件費節約を選び続けた。これにはむしろ安倍政権の方が慌て,次第に賃上げを自ら奨励するようになったほどである。

※2 月例経済報告のGDPギャップデータ(2025年10月30日),内閣府ウェブサイト。( https://www5.cao.go.jp/keizai3/getsurei/getsurei-index.html#sonota )。

※3 需給ギャップと潜在成長率(2025年10月3日),日本銀行ウェブサイト( https://www.boj.or.jp/research/research_data/gap/index.htm )。

※4 もし日銀推計のように設備側にまだ遊休があるならば,生産を拡大する方法も三つくらいあるように思われる。第一に,残された非労働力である女性と男女の高齢者が,ワークライフバランスを尊重してなお,もっと働きたいと思えるように,労働条件を改善することである。これにより,従来の推計以上に労働力が生み出せるかもしれない。そのような政策が期待されるが,現時点ではその気配がない。第二に,この真逆であり,ワークライフバランスの放棄という首相の姿勢を国民に強制し,労働時間規制を全面緩和することである。高市政権は,労働時間規制緩和を提唱しているが,これは抵抗もあるし,実施できるとしても大規模なものになるかは疑問である。第三に,外国人労働力の急拡大である。一部の業界がこれを望んでいることは明らかだが,高市政権の政治的傾向から言ってこの選択は取らないであろう。

※5 正確に言うと,引き起こされる物価上昇は三種類ある。第一に,金融緩和が景気過熱を招き,需要超過で一時的に物価を上昇させる。これが定着してコスト構造が変わってしまうと,実質的物価上昇になる。第二に,財政赤字拡大により厳密な意味のインフレ,つまり通貨の外生的投入による名目的物価上昇が生じる。第三に,金利差が引き起こす過度な円安によって,輸入品の価格が高騰する。これは円の購買力が低下することであり,一時的な物価上昇,定着すれば実質的な物価上昇である(川端,2025)。

参考文献

熊野英生(2025)「気がつけば、日本の物価上昇率はG7最高~消費者物価は日本が3.6%上昇、各国2%台~」経済レポート,第一生命経済研究所,6月5日( https://www.dlri.co.jp/report/macro/465617.html )。

川端望(2025)「物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策」TERG Discussion Paper, 492, 1-20.
https://doi.org/10.50974/0002002920

河野龍太郎(2025)『日本経済の死角:収奪的システムを解き明かす』筑摩書房。

※2025年11月22日:言葉を補った。「企業においては日本市場で長期をにらんで設備投資しようという意欲を喚起できなかったからであり,」の前に「金融緩和だけでは,」を追加。「日本経済がよくなると経営者にも個人にも信じてもらえなかったからである。」の前に「金融緩和という一面的なツールでは,」を追加。河野(2025)を参考文献に追加。



クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...