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2023年4月30日日曜日

なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか

1 理解すべき現状

 本稿の目的は,2023年春において,FRBが,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っていることの理由と意義を論じることである。本稿が念頭に置いている事実関係は以下のものである。

・FRBはインフレ対策のため,短期金利(FFレート)の高め誘導を続け,またQT(FRBのバランスシート縮小)を行っている。3月半ばに一時的に拡大したが,その後再び縮小に入っている。
・経営が不安定な個々の銀行のみならず,銀行セクター全体の預金が減少している。
・公社債投資信託の一種であるMMFの残高が拡大している。
・銀行の準備預金が2021年末をピークに縮小している。
・FRBのリバースレポ取引が増加している。(したがい,FRBのバランスシート負債側で準備預金の割合が縮小し,リバースレポ取引残高の割合が拡大している)
・アメリカの通貨供給量は,M1, M2とも2022年半ばから減少している。
・現金流通量は緩やかな拡大傾向であり,3月はやや増加速度が速まった。
・銀行貸出額は2月以降減少している。

 以上の事実関係は,ほとんどはFRBサイトで,またTrading Economicsサイトなどを補完的に使うことで確認できる。

2 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するか

 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するのだろうか。まず,全体として景気がリセッションに向かう懸念が強まっている上に,速いペースでの金利高騰のために,銀行のポートフォリオ管理が難しくなっている。シリコンバレーバンクに続く銀行の経営破綻への不安も解消されていない。したがい,企業は銀行から借りず,銀行はリスクを取っての貸し出しに慎重である。まずもって,銀行貸出額が減少することにより預金残高も抑制されるのである。

 しかし,預金残高が減る理由はこれだけではない。銀行への経営不安と,預金金利の上昇が公社債金利上昇より遅れることから,預金者は銀行預金を引き出している。そのごく一部は現金で保有され,他の一部はMMFに向かっている。

 ほんらい,貯蓄性預金がおろされてMMFが購入されるだけでは,銀行セクターの預金残高は減少しない。預金者の貯蓄性預金が減り,MMFの運用会社や公社債の売り手の要求払い預金が増えるだけである(大畠,1987)。それでは,いま現実に預金残高が減っているのは,なぜか。理論的に考えられることの一つは,銀行不安の下で,流動性を現金で保有しておこうという指向が強まっているからである。つまり,預金がMMFに化けるのではなく,預金が現金に化けるルートである。しかし,これでは現金のわずかな伸びとMMFの急増を説明できない。

 より説得力がありそうなのは,銀行セクターから脱落した預金がいったん現金となり,MMFを介してFRBに貸し付けられていることである。MMFはFRBのリバースレポ取引の利用額を急増させている。これは,FRBに売り戻し条件付き国債購入,実質的には国債を担保にとっての短期貸し付けを行うことである。形式的にはおそらく銀行(クリアリング・バンク)を仲立ちにするが,実質的にはMMFとFRBの間の貸し借りである。したがい,通貨は預金貨幣→現金→MMFのリバース・レポ取引残高となって,市中から消え,FRBの負債残高になっているのだと思われる。

3 FRBは何を行っているのか

 いま起こっていることの本質は,FRBが銀行とMMF相手に金融を引き締めているということである。先ず注意すべきは,銀行相手の伝統的な金融調節とは異なるルートが生まれていることである。通常,中央銀行は通貨供給量を直接操作することはできず,短期金利を誘導することで銀行の信用創造を間接的にコントロールする。ところが現在FRBがMMF相手に行っているレポ取引は,銀行を実質的に介さずに,直接に金融調節を行うルートとなっている。新たな金融調節ルートが生まれているのである。

 まずFRBは引き締めのためにQTを行う。具体的には保有国債が満期を迎えた時に再度の購入を市中から行わないことで,バランスシートを縮小する。この時,FRBのバランスシート資産側では国債が減る。負債側では直接には政府預金が増減する。国債償還で減少し,FRBが利益を納付することで増加するからである。しかし,政府は再度国債を発行して銀行やMMFに購入してもらうであろうから,結果としては準備預金かリバース・レポ取引残高のどちらかが減ることになる。どちらが減るかは不確定であり,FRBは直接にコントロールできないが,必ず減る。

 またFRBのFFレートに対する金利調節は,超過準備預金金利を上限,リバースレポ金利を下限としている。前者はQTにより高め誘導されるが,後者は市中の翌日物国債レポレートにより定まる(服部,2022)。FRBはMMFとのリバースレポ取引を拡大することで,FFレートの高め誘導を行っていると言える。つまり,QTもリバースレポ取引も金融引き締めの手段なのである。

 FRBがQTを行えば必ずバランスシートが縮小するが,負債側で準備預金が減るかリバース・レポ取引残高が減るかは自動的には決まらない。しかし,MMFとのリバースレポ取引は,FRB自身の意思で量を調節できるはずであり(カネを借りるか借りないかを決める自由はFRBにもあるだろう),これを積極的に拡大することでリバース・レポ取引残高が減らず,銀行の準備預金残高が減る結果を招いている。これが現状だと思われる。ただし,準備預金残高が減りすぎると,FRBの意図を超えて短期金利が急騰する危険がある(Bartolini et al, 2023)。そのリスクはFRBも注視していると思われる。

4 残された問題

 現状は以上のように解釈すると整合的に説明できるが,残念ながら,私の知識では,まだわからないことが二つある。

 一つは,レポ取引やリバースレポ取引にクリアリング・バンクを介在させているのか,介在させているとすればどのようになのかがわからないことである。もともとFRBに口座を開設できるのは預金金融機関だけであり,MMFが開設することはできないはずである(中島・宿輪,2013)。クリアリング・バンクを介在させているならば,まずMMFが銀行に現金を預けて預金し,銀行が現金をFRBに貸し付け,FRBはバランスシート負債側から現金を消去してリバースレポ取引残高に変える,という風になるはずである。しかしこれは,銀行セクター全体として預金が減少していることの説明がつかない。それでは,現状をどう説明するのか。クリアリングバンクの介在が銀行にとってオフバランスになるような実務がなされているのではないかと想像するが,確証が持てない。

 二つ目は,M2の減少の度合いはこれで説明できるかどうかである。もちろん,金融が引き締められているので,預金貨幣が減ることでM1が減ることは説明できる。しかし,アメリカのM2はMMF残高を含んでいる(※)。アメリカのM2では,MMF残高が増えると預金減少がかなり相殺されるはずなのである。例えば,預金者が預金をおろしてMMFを購入しただけでは,預金残高は減らず,現金が増え,MMFも増えるという二重計算が起こる。また,リバースレポ取引でFRBが通貨を吸い上げると,現金流通残高は減るがMMF残高は減らない。このような欠陥があると私には思えるのだが,にもかかわらず,現在,M2が素直に減っていることが,むしろ不思議である。

 以上については,さらなる調査を進めるとともに,金融実務専門家のご教示を賜りたい。

※アメリカのM1(narrow money)は社会全体の通貨量を捉える概念であるが,M2は個人にとっての流動性を合算する概念である。日本の場合,M1,M2,M3は前者,広義流動性が後者である。


5 暫定的考察

 FRBは伝統的ルート,つまり公開市場で形成されるインターバンクレートへの波及をめざしたQTの他に,非伝統的ルートとしてのリバースレポ取引による金融引き締めを行っている。しかも,現時点では後者に熱心であるようにも見える。これはなぜなのだろうか。すでに金融危機であって金融を緩和しなければならない時であれば,まだわかりやすい。レポ取引を通してMMFに信用を供与し,MMFの破綻による信用崩壊を防ぐのである。しかし,引き締めていくときにまでリバースレポ取引を使い,市中のマネーストックを事実上直接吸い上げるのはどういうことなのか。

 現段階での私の理解は,そうしなければFFレートの下限を引き上げらないからだ,というものである。現在のアメリカでは,インターバンク市場からはコントロールできない金融,つまりは銀行貸付ではない証券金融の役割が大きくなってしまった。それは長期的傾向でもあるが,短期的には,コロナ下での金融緩和や財政拡張によって供給はされたものの,増殖機会を見つけられない貨幣,それも企業・金融機関に加えて家計の手元にあるそれが,市中をさまよっているからである。これらの貨幣の動きを政策目標に向かって誘導するために,FRBは,直接の操作に乗り出さざるを得なくなった。それも,金融危機に際して緩和する場合だけではなく,インフレに際して引き締める場合もそうせざるを得なくなった。このように理解すべきではないだろうか。

<参考文献>

大畠重衛(1987)「銀行対証券ー『資金シフト』論から『金融証券化』論への系譜ー」『金融経済』220。
中島真志・宿輪純一(2013)『決済システムのすべて第3版』東洋経済新報社。
服部孝洋(2022)「SOFR(担保付翌日物調達金利)入門 -米国のリスク・フリー・レートおよび米国レポ市場について-」『ファイナンス』2022年3月号。
Bartolini, Steven et al(2023)「量的引き締めの意味合い」ティ-・ロウ・プライスのインサイト米国債券。

※2024年1月26日追記。本稿でのMMFについての認識には誤りが含まれていました。以下で修正していますのでご覧ください。

「MMF再考」Ka-Bataブログ,2024年1月26日。

2023年4月23日日曜日

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」の最終版(査読済雑誌掲載版)がWeb公開されました

 唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」研究年報『経済学』79巻1号掲載の完成版PDFが,東北大学機関リポジトリTOURで公開されました。無料ダウンロードいただけます。草稿DP版の公開は停止しました。

こちらです。東北大学機関リポジトリTOUR
http://doi.org/10.50974/00137113

2023年4月21日金曜日

Vaclav Smil, Still the Iron Age: Iron and Steel in the Modern World, Butterworth-Heinemann, 2016.を読んで--「今もなお鉄の時代」

 Vaclav Smil, Still the Iron Age: Iron and Steel in the Modern World, Butterworth-Heinemann, 2016.

 流し読みながら、ようやく通読できた。スミル氏は,食料,エネルギー,環境問題の専門家として知られており,その著作はいくつか日本語にも訳されている。しかし,氏の知識は恐ろしいほど範囲が広い。鉄鋼にも及んでいるというだけでなく、鉄鋼の歴史,技術,経済,社会のいずれの側面にも及んでいる。昔読んだもので言うと中澤護人『鋼の時代』(岩波新書,1964年)を思い出させる。本書は,残念ながら私にはとても書けそうにない,鉄鋼についての総合的な理解を得るために不可欠の著作である。

 代替素材が出現し,また先進諸国では経済・社会の非物質化(Dematerialization)が進行しているとはいえ,著者はタイトルにある通り『今もなお鉄の時代』であり,それは容易には終わりそうにないと考えている。

「今後半世紀を見通しても,我々の最良の工学的,科学的,経済的理解にもとづく結論は以下のようになるに違いない。我々の文明が鉄鋼(steel)なしにたちゆくという現実的可能性はない。この金属に対するグローバルな依存の規模はあまりにも大きく,急速に極小化することができない。われわれはアルミニウムの33倍,あらゆるプラスチックの合計の約6倍の鉄鋼を使っているのである」(終章より)。

 そして著者は、新製鉄技術が高炉に取って代わることのハードルも高いと考えている。それは、技術とは、開発されるだけでは完成したことにはならず、経済的な大規模生産を実現しなければならないものだからである。

「いずれにせよ,たとえ成功裏に実証されたとしても,すべての新製鉄技術は,手ごわい目標に立ち向かい,実証実験からパイロットプラントへ,そして大規模生産へという決定的な移行を遂げねばならないだろう。現代的な高炉における熱的・化学的効率と,その大規模な作業量,高い生産性,すぐれた寿命の長さは,同様のパフォーマンスを示す大規模な還元技術を考案することを極めて困難にしているのである。」(同上)

 著者は、鉄鋼技術の科学的研究や研究室での開発の歴史だけではなく、実際に社会で生産に用いられてきた歴史を踏まえてこのように述べている。これが本書を重要な社会的意義を持つものにしている。

 技術が市場とコストという経済的テストに合格しなければならないという命題は深刻である。経済的合理性を考慮しながら、地球温暖化防止のポイント・オブ・ノーリターンに間に合うように、鉄鋼技術を脱炭素化することは可能だろうか。これが読後に残される問題である。


出版社直販
https://www.sciencedirect.com/.../9780.../still-the-iron-age

Amazon
https://www.amazon.co.jp/Still-Iron-Age.../dp/B01B4KO21C

2023年4月14日金曜日

神戸製鋼所がオマーンでの直接還元鉄製造事業を本格的に検討

  神戸製鋼所と三井物産は,オマーン国ドゥクム特別経済地区において直接還元鉄製造事業の本格的検討を加速すると発表した。生産能力は年間500万トン。神戸製鋼所の子会社であるMIDREX社の技術を用いる。このニュースは,日本鉄鋼業の将来を照らすものかもしれない。

 日本の鉄鋼メーカーでは,企業再編の結果,かつての高炉6社は3社に統合されているが,日本製鉄とJFEスチールの規模が圧倒的に大きく,神戸製鋼所は生産量で両社に大きく引き離されている。

2022年暦年粗鋼生産量

日本製鉄 4946万トン(世界第4位)
JFEスチール 2685万トン(世界第13位)
神戸製鋼所 628万トン (世界上位50位ランク外)

※日本製鉄には山陽特殊鋼,オバコ,AM/NSインディアの40%,ウジミナスの31.4%を含む。
※日本製鉄,JFEスチールはWorld steel in figures, 2022より。神戸製鋼所は財務諸表より推定。

 ところが,ここに来て,高炉技術を主要テクノロジーとする日本製鉄とJFEスチールに対して,子会社にMIDREXを持つ神戸製鋼所が,直接還元法による巻き返しを強めている。それは,CO2排出ゼロにまで到達し得るテクノロジー・パスに載っているからだ。

 神戸製鋼所は日本国内では高炉一貫企業であるが,子会社として直接還元法のエンジニアリング企業であるMIDERX社を保有している。MIDREXプロセスによる直接還元鉄の製造は,鉄鉱石の還元に天然ガスを用いているため,高炉による銑鉄の製造よりもCO2排出を20-40%抑制できる。しかも,還元反応の一部は水素還元であり,この水素還元の割合を高めることで,設備の根幹部分を維持したままでCO2排出ゼロに向かっていくことが可能である。つまり直接還元法のテクノロジー・パスは,低炭素製鉄からニア・ゼロエミッション・スチールへと連続している。神戸製鋼所は,すでにスウェーデンの製鉄ベンチャーH2グリーンスチールから,水素100%をめざす直接還元設備を受注しており,さらにMIDREX社の水素100%を目指す直接還元設備もティッセンクルップ社に採用された。これらが計画通りに稼働すれば,ニア・ゼロエミッションスチールへの前進が加速する。

 対して従来の主流技術である高炉技術は,鉄鉱石の還元に固体コークスを必要とするため,100%水素還元にすることはできない。つまり,ニア・ゼロエミッションに向けたテクノロジー・パスが直接還元法より低い水準で行きどまりになってしまう。そのため,日本製鉄やJFEスチールは,水素還元の適用拡大に加えてCCUS(CO2回収・貯留・活用)の開発を進めているが,いずれもまだ実用段階ではない。とりあえず,すでに利用可能な電炉法の適用を拡大しているところである。長らく技術的に最先端にいた日本の高炉企業は,次世代技術の必要性が明らかになるとともに,すでにその地位から滑り落ちつつあるのである。

 このように先端的地位に躍り出た神戸製鋼所/MIDREXであるが,従来は,エンジニアリング企業としての取り組みのみを進めてきた。今回,神戸製鋼所が海外での直接還元鉄事業に乗り出すことは,鉄鋼メーカーとしてのニア・ゼロエミッションへの新たな一歩なのである。

 ただし,新事業の立地がオマーンであって日本ではないことにも留意しなければならない。MIDERXプロセスは立地を選ぶ。さしあたり天然ガスが豊富な場所が有利であり,やがては再生可能エネルギー発電によってグリーン水素(製造過程で)を製造できる場所が有利になる。天然ガスにせよグリーン水素にせよ輸送費が高くつくからだ。そうすると,いまのところ天然ガスもなければ大規模再エネ発電所も少ない日本では不利である。だからオマーンなのである。

 神戸製鋼所/MIDREXの挑戦が平たんな道を進むとは限らない。直接還元法は高炉法ほど成熟した技術ではなく,原燃料の性質による安定操業への制約が高炉法より強いと見られているからである。しかし,それでもこのニュースは未来を示唆している可能性がある。最大2社が従来技術に依拠したままであり,3位企業の方が次世代技術を実用化しつつあるという企業間競争の要因と,安価な水素供給のめどが立たねば次世代製鉄所の立地に不利であるという立地要因により,日本鉄鋼業は変貌を迫られつつあるのだ。

神戸製鋼所プレスリリース,2023年4月10日。

「神戸製鋼と三井物産、鉄鋼原料製造を検討 世界最大規模」『日本経済新聞』2023年4月10日。


2023年4月4日火曜日

ウルトラマンと人間・郷秀樹:上原正三は何に挑戦し,どのような矛盾に直面したか

 『帰ってきたウルトラマン』における一つの謎は,郷秀樹とウルトラマン(いまではウルトラマンジャックと呼ばれる)の人格はどのような関係にあったのかということである。本稿は,この作品のメインライターであった上原正三が,この関係をどのように設定しようとしたのか,結果としてどのようにこの関係が変容したのかを検討する。これを通して,上原がどのような作品世界を構築しようとし,どのような矛盾に直面したか,そのことの意義は何なのかを考える。

 まず先行する二つのウルトラマンシリーズから見てみよう。『ウルトラマン』の初代ウルトラマンとハヤタは人格的に融合していたと考えられる。ハヤタは普段は人間であるが,ときにウルトラマンとしてメフィラス星人と会話したり(第33話「禁じられた言葉」),「許してくれ,地球の平和のためにやむなくおまえたちと戦ったのだ」と亡き怪獣たちに語りかけることがあった(第34話「空の贈り物」)。また『ウルトラセブン』のモロボシ・ダンはセブンが薩摩次郎という地球人の姿と人格をコピーして変身した結果生まれた人物であった。なのでダンの姿かたちや性格は次郎のものなのだが,ダンは同時に,M78星雲から来たウルトラセブンとしてのアイデンティティを持ちながら地球で暮らしていた。ふだんからM87星雲人である度合いは,ハヤタよりずっと強かったと言える。では,ウルトラマン(ジャック)と郷秀樹の関係はどうだったのだろうか。

 第1話「怪獣総進撃」(脚本:上原正三。以下,とくに記さない場合は上原脚本である)では,ウルトラマンが死んだ郷秀樹に語りかけ,彼に乗り移って命を与え,一体となる。この時点で郷は死亡しているので,ウルトラマンが「君に命を預ける」と郷に一方的に告げるだけだ。しかし第1話のラストシーンでは,ウルトラマンは郷と会話する。

「郷秀樹。私はウルトラマンだ。君は一度死んだ。そこで私の命を君に預けたのだ。」
「そうだったのか。一度死んだ人間が生き返るなんて,俺も不思議に思っていた。」

(中略)

「人類の自由と幸福を守るためにともに戦おう。」
「俺はウルトラマン。俺の使命は人類の自由と幸福を脅かす,あらゆる敵と戦う……。」

 二人が直接会話するのは,私の知る限りこの一度きりである。

 それでは,この後の郷秀樹は,ハヤタのようにウルトラマンと同一人格なのかというと,そうではない。郷秀樹は,以前と同じ,坂田健を恩人とし,坂田アキの恋人とする一人の青年である。彼は自分がウルトラマンに変身することを自覚しているが,ウルトラマン自身ではない。だからこそ,第2話「タッコング大逆襲」では,自分の意志で自由にウルトラマンになれるものと思い込み,それができずにMATの作戦を失敗させてしまう。そしてひとたびはMATを解雇されて,「俺は確かに思い上がっていた。ウルトラマンであることを誇らしく振り回そうとした。その前に,郷秀樹として全力を尽くし,努力しなければならなかったんだ」と反省するのである。ここで彼の人格はウルトラマンでもないし,ウルトラマンと一体の郷秀樹でもない。人間・郷秀樹なのである。

 命は預けられているが,まったく別人格。これは,ウルトラマンとハヤタ,ウルトラセブンとダンとは全く違う関係である。これは,プロデューサーの橋本洋二との打ち合わせを経たメインライターの上原正三によって,意識的に設定された構図だろう。私は,上原がこの設定により,人間は人間として限界まで努力しなければならない,ウルトラマンは,人間が力尽きた時にだけ助けに来てくれるという思想を表現しようとしたのだと思う。それは,『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」の脚本において,金城哲夫が示したものでもあった。

 もっとも,この思想は,演出上は第1,2話では徹底していない。両作では,郷がピンチに陥ると光が差し込むが,郷はその光に向き直って両手を上げることで変身する。つまり,郷はハヤタやダンのような変身アイテムは持っていないものの,自分の意志で変身できたのである。しかし,第3話以降,しばらくの間は,郷が生命の危機に陥った時に光が差し,無意識のうちにウルトラマンになるのである。設定がより徹底され,ウルトラマンは,人間としての郷の意志によらず,彼が力尽きた時にだけ光とともに現れるものになったのである。

 ところが,シリーズが進行するにつれて,この設定は動揺する。郷秀樹が,自分の意志でウルトラマンに変身できるようになっていくのである。当初は敵に向かって全力疾走することが多く,結果としてこのパターンがシリーズを通して最多になった(※1)。これは危険に陥っているのと似たようなものだと解釈できないでもなかったが,第20話「怪獣は宇宙の流れ星」(脚本:石堂淑朗)では,郷は初めて,危険に瀕してもいないのに片手を上げて変身する。そして,その後もこのような自分の意志による変身が増えていくのである。ただ,それでも上原正三脚本の回では片手を上げて変身ということは一度もなく,しばらくはせいぜい敵に向かって全力疾走であった。ここからは,上原が極限状態で変身するという設定を守りたかったのだと理解してよいように思う。

 その上原も,第37話「ウルトラマン夕日に死す」では,郷が自らビルから飛び降りて変身するシーンを書く。極限状態ではあるが,郷が怪獣・宇宙人と相対してもいないのに,自分の意志で変身するのである。それだけではない。そして,この第37話では,恩人の坂田健と恋人のアキを殺された郷の復讐心と動揺が,そのままウルトラマンの弱さと敗北につながっていく。人間としての郷が,そのままウルトラマンとなっているふしがある。

 これと並行して,第31話「悪魔と天使の間に……」(脚本:市川森一)や第49話「宇宙戦士その名はMAT」(脚本:伊上勝)のように,郷が同時にウルトラマンとして振る舞い,ウルトラマンを名乗って宇宙人と相対することも多くなっていく。上原はこの構図も避けていたように見えるのだが,とうとう最終回(第51話)「ウルトラ5つの誓い」では,上原も郷とウルトラマンをほぼ一体とものとして描くのである。

 最終回の郷は,ウルトラマンのようでもあり,郷秀樹のようでもある。東亜スタジアムに呼び出された郷秀樹に,バット星人は「良く来たなウルトラマン!」と呼びかけ,郷はそれを否定することもなく「バット星人」と答える。そして,上原脚本ではただ一度,片手を上げて変身しようとするが,ウルトラマン(ジャック)ではなく,初代ウルトラマンの「焦ってはいけない,郷秀樹」という声に止められるのである。この郷は半ばウルトラマンである。

 それでも郷は,不時着したマットアロー1号を駆り,燃料不足で10分しか飛べないにもかかわらずゼットンと戦う。そして,ついに撃墜されてウルトラマンになる。そこでは,確かに人間としてぎりぎりまで戦う郷である。

 しかし,バット星人とゼットンを倒した後のラストシーンではまた異なる。郷は死んだものとしてMAT隊員によって弔われるが,墓標の前にたたずむ次郎とルミ子の前に郷が現れる。彼は「旅に出るんです」「平和なふるさとを戦争に巻き込もうとしている奴がいる。だから手助けに行くんだ」と,ウルトラマンの立場から二人に別れを告げる。人間・郷秀樹には故郷があって母親も健在だと第1話で語られているので,これは明らかに郷の姿をしたウルトラマンの言葉なのだ。そして,郷は,浜辺で第1・2話のように両手を上げて自ら変身し,ウルトラマンとして飛び去っていくのである。こうして郷という存在は地上からいなくなる。ウルトラマンと郷は一体のものとして,次郎とルミ子の目の前から去ったのである。

 このように,シリーズの進行ともに,ウルトラマンと郷秀樹の関係は,別人格から,郷秀樹であって同時にウルトラマンでもあるという,ハヤタと初代ウルトラマンのような関係に変貌していき,そのことは変身の仕方の変化に集中的に表現されていたのである。

 なぜ,このような変化が起きたのか。もちろん,当時はシリーズ構成を詰めずに製作しているので,矛盾が起こることはしばしばであったろう。しかし,それだけのことではないと,私は思う。当初の設定に潜んでいた問題が次第に現れて行ったものと理解できるのである。

 郷秀樹が,人間として最後まで力を尽くすのであれば,彼は自分がウルトラマンであることを忘れて人間として行動せねばならない。しかし,いざというときにウルトラマンになれるということを意識せず,計算せずに戦うことは,不可能で不合理である。逆に,郷が自らの意志でウルトラマンになれるのだとすれば,死ぬ寸前まで郷のまま戦うことの方が不合理であり,そんなことをしていれば怪獣や宇宙人による被害を広げることになってしまう。上原はこのジレンマに直面したのだと思われる。

 他の脚本家は割り切って,郷に平然と片手を上げさせた。しかし,限界まで人間として力を尽くさねばならないことを郷に課した上原には,それはできないこと,したくないことであった。だから郷に片手を上げさせなかった。しかし,死ぬ寸前まで絶対変身しないというのでは話が不自然になる。仕方がないので,上原は郷を敵に向かって全力疾走差せたのだと思われる。そうすることで,その変身が自由意思によるものなのか極限状態でもたらされるものなのかをあいまいにせざるを得なかったのだ。

 それでも,他の脚本家が郷の自由意思による変身を描いている以上,上原もそちらに合わせていかざるを得ない。そのために必要とされたのが,郷とウルトラマンを人格的に融合させることであった。人として成長し,おごり高ぶることがなくなった郷が,まず人間として戦い,必要な時にウルトラマンに変身する。郷がすなわちウルトラマンであれば,それは人間としての努力を怠ることではなくなる。こうして,郷とウルトラマン(ジャック)は,ハヤタと初代ウルトラマンのような関係になったのである。しかし,そうすることによって,ウルトラマンが地球を去る時には,本来は別人格であったはずの郷秀樹も,ウルトラマンと一体になったが故にいなくなることとなった(※2)。

 ここでは,シリーズ冒頭で郷に課された「郷秀樹として全力を尽くし,努力しなければならなかったんだ」という問題には答えは出ていない。むしろ,ウルトラマンと郷の一体化によって,有限な人間・郷秀樹がいなくなり,課題自体が消去されてしまったのである。

 これは,ある意味では上原の挫折と言えるが,それは『帰ってきたウルトラマン』が凡作だということを意味しない。上原は,人間・郷秀樹を誠実に描こうとしたが故に,ウルトラマンシリーズにおいて,変身する人間とウルトラマンの関係がもつ根本的な問題を探り当ててしまったのである。それは,人間として全力を尽くすことと,自分の意志で人間の限界を超えた力を得られることは両立しないという矛盾である。人間が人間の限界を背負ったままで,同時に超越者になることはできない。逆に,人間の力を超えた存在は,自分自身でありながら,同時に限界を負った人間にはなれないのである。上原は,作品世界を誠実に構築しようとしたが故に,作品世界そのものの矛盾に突き当たり,そうすることで,現実の人間が抱える矛盾を明らかにしたのである。そして,ウルトラマンシリーズとは,これらの矛盾をめぐる,様々な角度からの,様々な物語なのだと,私には思えるのである。そこに完璧な解決はあり得ない。どの物語も途上に終わらざるを得ないのであって,その途上の在り方から傑作が生まれるのである。

※1 このことの確認には,以下の動画が参考になった。
「人間として全力を尽くす郷秀樹まとめ」REXISMRレクシズマー(2023年4月8日最終確認)
https://www.youtube.com/watch?v=wB4xsT8JAu4

※2 同様に,初代ウルトラマンは,ゾフィーに頼んでハヤタの命を救ったものの,ハヤタは,竜が森湖での赤い玉との衝突より後の記憶は持っていなかった。ハヤタはウルトラマンではなくなったのである。ウルトラセブンが地球を去る時には,その変身体であるモロボシ・ダンももちろんいなくなった。北斗星司は人間の罪という,人間のままでは解決不能な問題に突き当たり,自分を消し去ることによってウルトラマンAにならざるを得なかった。逆にウルトラマンタロウはウルトラのバッジを捨て,ウルトラマンレオは獅子の瞳を指から外し,いずれも限界を持つ一人の人間として地球で生きることにしたのである。

※2023年4月8日。注の不整合を訂正し,注1を追加。

2023年4月3日月曜日

浜田宏一氏の証言を手掛かりに,もう一度アベノミクスと賃金について考える

  浜田宏一教授インタビュー。いろいろ考えるべきことはあるが,いまさら浜田教授ご自身を批判してもあまり生産的ではない。ここでは,アベノミクスはトリクルダウン狙いではなかったという主張に批判的にコメントするとともに,その一方,賃金を抑圧したのはアベノミクスではなかったことにも注意を促し,アベノミクス批判派に対しても問題提起したい。

 アベノミクスがトリクルダウン政策であったかどうかを考える時に,二つの次元から評価すべきことに注意が必要である。

1.アベノミクスとは株高・円安誘導策であった

 一つは,安倍首相・黒田日銀の合作としての量的・質的金融緩和策は,国内需要より先に輸出と株価を回復させることを狙ったものだったということである。

 量的・質的金融緩和の効果として,日銀が公に想定していたのは,物価上昇の予想が高まることによって実質利子率が低下し,投資が活発になることであった。しかし,それはゆっくりと,わずかに,2014年の消費税増税でくじかれるまで起こったに過ぎなかった。それは当時の岩田規久男副総裁も認めていることである(岩田, 2018)。その代わりに,2012年末からの半年で直ちに大規模に起こったことは,円安と株高であった。円安と株高によって,輸出企業と,株式投資に手を出せる機関投資家,大企業,富裕な個人投資家は利益を得たのである。政治家や官僚は「近隣窮乏化政策」の批判を恐れて円安狙いを公言しなかったが,そう期待していたことは明らかである。またアベノミクスのブレーンの中でも高橋洋一氏は金融緩和が円安・株高を呼ぶのだと論文で説明していた(高橋,2014)。

 まず輸出企業と株式投資家が儲かる。そこから先はその後だ。アベノミクスがこのようなものであったことはまちがいない。

2.内需拡大策は,うまくいったとしても企業利益優先策であった

 次に,日銀が説明したような内需の拡大に関する問題である。物価上昇予想によって実質利子率が低下し,投資が活発になるというのも,ある意味ではトリクルダウンである。というのは,まず物価が上がるならば,名目賃金は一緒でも実質賃金率は低下するのであり,だからこそ企業利潤率は上昇して投資が盛んになるからである。いわゆる「賃金遅れ」が景気回復に寄与するという理屈である。これはアベノミクスで考え出された巧妙な陰謀ではなく,むしろマクロ経済学が教える通りなのである。政権が「トリクルダウン狙いです」とわざわざいうわけにもいかなかったであろうことはわかるが,「トリクルダウンではない」というのは正直ではなかったというべきだろう。

 だからアベノミクスが,輸出と金融的利益を景気回復の先導者としようとしたことや,賃金より先に企業利益の回復を目指していたことは間違いないのである。

3.賃金を抑圧したのはアベノミクスではなく日本的雇用慣行と企業内労使関係であった

 ただし,アベノミクス批判者も,安倍氏憎しの余り行き過てはならないことがある。それは,アベノミクスが積極的に賃金を抑圧したわけではなかったということである。むしろ安倍元首相個人は,あまりに賃金が上がらないことに不安を抱き,経済界に賃上げを促した。その流れはいまの岸田首相にまで継承されている。それでも賃金が上がらなかったのは,アベノミクスではなく,日本的労働慣行と企業内労使関係に問題がある。アベノミクスは,賃金を下げたのではなく,賃金が上がらない日本の労働慣行と労使関係を放置した,というのが正確である。

 まず,アベノミクス期においては雇用は増加し続けた。しかし,労働者に占める非正規雇用の割合は,それまでと同様に拡大し続けた。また業種別・職種別に見れば医療・介護職をはじめとするサービス業の,相対的に低賃金の職が増えたのである。こうして,日本的雇用慣行に組織され,ジェンダーバイアス付き生活給を曲がりなりにも支給される労働者の割合が減っていった。

 また,民間大企業の正規労働者や公務セクターの賃上げも微々たるものであった。それは,バブル崩壊以来,「とにかくコスト切りつめのため賃金を上げない」ことに大企業経営者が血道を上げており,また大企業の企業内労働組合が,企業グループ内の継続雇用(つまり中高年になったら関連会社に出向することを含めた継続雇用)さえ守られればよいとばかり,賃金については経営側の言うことに唯々諾々と従う姿勢を取ってきたからである。

 これらのことは安倍元首相やアベノミクス故に起こったのではなく,戦後築かれて来た日本的雇用慣行と日本的企業内労使関係の逆機能が発現した結果なのである。

4.まとめ

 アベノミクスを「トリクルダウンでない」と擁護することは,金融機関と大企業の利益を優先したその性格を糊塗するものであり,強い言葉で言えば反労働者的である。その一方,賃金低迷をアベノミクスのせいにすることもまた,日本的労働慣行と企業内労使関係を改革する必要性を見落とすものである。アベノミクス批判者は,安倍氏憎しの余り大企業経営者を免罪し,政治変革を求めるあまり労働運動を再生する必要性を看過するという,本末転倒の見地に陥らないように注意する必要がある。

<参考文献>

岩田規久男(2018)『日銀日記:五年間のデフレとの闘い』筑摩書房。
高橋洋一(2014)「現在の金融緩和に危険はない」(原田泰・斎藤誠編著『徹底分析アベノミクス』中央経済社)。
「賃金上がらず予想外」アベノミクス指南役・浜田宏一氏証言 トリクルダウン起こせず…「望ましくない方向」『東京新聞』2023年3月14日。


2023年4月1日土曜日

『産業学会研究年報』第37号がJ-Stageで公開されました

 昨年,編集に携わった『産業学会研究年報』第37号がJ-Stageで公開されました。紙媒体発行から1年後に無償公開されることになっています。以下でご覧になれます。ただいま第38号を初校ゲラ校正中です。

第37号トップhttps://www.jstage.jst.go.jp/browse/sisj/2022/0/_contents/-char/ja


奥山 雅之, 日本繊維産地の構造変化と主体的行為, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 1-19,

https://doi.org/10.11444/sisj.2022.1

岩佐 和幸, グローバル化/ファスト化に翻弄される繊維産地と域内縫製業の苦闘, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 21-39, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.21

細矢 浩志, CASE時代の欧州自動車産業の「脱炭素」戦略, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 41-59, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.41

外川 健一, 2020年コロナ禍での日欧自動車リサイクル制度改革の論点, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 61-77,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.61

佐伯 靖雄, 地理的分断克服に向けたトヨタ・グループでの委託開発の取り組み, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 79-91, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.79

垣谷 幸介, オーラル・ヒストリー手法によるトヨタ自動車と天津汽車の国産乗用車合弁事業の経緯, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 93-115,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.93

山崎 文徳, ボーイングの技術競争力と連邦政府の認証制度, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 117-132, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.117

銀 迪, 中国の鉄鋼産業政策, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 133-153,
https://doi.org/10.11444/sisj.2022.133

竹下 伸一, 日系塗料2社の住宅・建築用海外事業の比較研究, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 155-171, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.155

原田 優花子, 小竹 暢隆, 金属3Dプリンタビジネスの現状と課題, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 173-181, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.173

三好 純矢, 近藤 信一, デザイン経営に向けた感性を起点としたマッチング, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 183-195, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.183

大平 哲男, 市場構造の変化を踏まえた事業展開のあり方について, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 197-209, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.197

書評, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 211-222, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.211

英文要約, 産業学会研究年報, 2022, 2022 巻, 37 号, p. 223-234, https://doi.org/10.11444/sisj.2022.223

岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。  なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏...