『帰ってきたウルトラマン』における一つの謎は,郷秀樹とウルトラマン(いまではウルトラマンジャックと呼ばれる)の人格はどのような関係にあったのかということである。本稿は,この作品のメインライターであった上原正三が,この関係をどのように設定しようとしたのか,結果としてどのようにこの関係が変容したのかを検討する。これを通して,上原がどのような作品世界を構築しようとし,どのような矛盾に直面したか,そのことの意義は何なのかを考える。
まず先行する二つのウルトラマンシリーズから見てみよう。『ウルトラマン』の初代ウルトラマンとハヤタは人格的に融合していたと考えられる。ハヤタは普段は人間であるが,ときにウルトラマンとしてメフィラス星人と会話したり(第33話「禁じられた言葉」),「許してくれ,地球の平和のためにやむなくおまえたちと戦ったのだ」と亡き怪獣たちに語りかけることがあった(第34話「空の贈り物」)。また『ウルトラセブン』のモロボシ・ダンはセブンが薩摩次郎という地球人の姿と人格をコピーして変身した結果生まれた人物であった。なのでダンの姿かたちや性格は次郎のものなのだが,ダンは同時に,M78星雲から来たウルトラセブンとしてのアイデンティティを持ちながら地球で暮らしていた。ふだんからM87星雲人である度合いは,ハヤタよりずっと強かったと言える。では,ウルトラマン(ジャック)と郷秀樹の関係はどうだったのだろうか。
第1話「怪獣総進撃」(脚本:上原正三。以下,とくに記さない場合は上原脚本である)では,ウルトラマンが死んだ郷秀樹に語りかけ,彼に乗り移って命を与え,一体となる。この時点で郷は死亡しているので,ウルトラマンが「君に命を預ける」と郷に一方的に告げるだけだ。しかし第1話のラストシーンでは,ウルトラマンは郷と会話する。
「郷秀樹。私はウルトラマンだ。君は一度死んだ。そこで私の命を君に預けたのだ。」
「そうだったのか。一度死んだ人間が生き返るなんて,俺も不思議に思っていた。」
(中略)
「人類の自由と幸福を守るためにともに戦おう。」
「俺はウルトラマン。俺の使命は人類の自由と幸福を脅かす,あらゆる敵と戦う……。」
二人が直接会話するのは,私の知る限りこの一度きりである。
それでは,この後の郷秀樹は,ハヤタのようにウルトラマンと同一人格なのかというと,そうではない。郷秀樹は,以前と同じ,坂田健を恩人とし,坂田アキの恋人とする一人の青年である。彼は自分がウルトラマンに変身することを自覚しているが,ウルトラマン自身ではない。だからこそ,第2話「タッコング大逆襲」では,自分の意志で自由にウルトラマンになれるものと思い込み,それができずにMATの作戦を失敗させてしまう。そしてひとたびはMATを解雇されて,「俺は確かに思い上がっていた。ウルトラマンであることを誇らしく振り回そうとした。その前に,郷秀樹として全力を尽くし,努力しなければならなかったんだ」と反省するのである。ここで彼の人格はウルトラマンでもないし,ウルトラマンと一体の郷秀樹でもない。人間・郷秀樹なのである。
命は預けられているが,まったく別人格。これは,ウルトラマンとハヤタ,ウルトラセブンとダンとは全く違う関係である。これは,プロデューサーの橋本洋二との打ち合わせを経たメインライターの上原正三によって,意識的に設定された構図だろう。私は,上原がこの設定により,人間は人間として限界まで努力しなければならない,ウルトラマンは,人間が力尽きた時にだけ助けに来てくれるという思想を表現しようとしたのだと思う。それは,『ウルトラマン』第37話「小さな英雄」の脚本において,金城哲夫が示したものでもあった。
もっとも,この思想は,演出上は第1,2話では徹底していない。両作では,郷がピンチに陥ると光が差し込むが,郷はその光に向き直って両手を上げることで変身する。つまり,郷はハヤタやダンのような変身アイテムは持っていないものの,自分の意志で変身できたのである。しかし,第3話以降,しばらくの間は,郷が生命の危機に陥った時に光が差し,無意識のうちにウルトラマンになるのである。設定がより徹底され,ウルトラマンは,人間としての郷の意志によらず,彼が力尽きた時にだけ光とともに現れるものになったのである。
ところが,シリーズが進行するにつれて,この設定は動揺する。郷秀樹が,自分の意志でウルトラマンに変身できるようになっていくのである。当初は敵に向かって全力疾走することが多く,結果としてこのパターンがシリーズを通して最多になった(※1)。これは危険に陥っているのと似たようなものだと解釈できないでもなかったが,第20話「怪獣は宇宙の流れ星」(脚本:石堂淑朗)では,郷は初めて,危険に瀕してもいないのに片手を上げて変身する。そして,その後もこのような自分の意志による変身が増えていくのである。ただ,それでも上原正三脚本の回では片手を上げて変身ということは一度もなく,しばらくはせいぜい敵に向かって全力疾走であった。ここからは,上原が極限状態で変身するという設定を守りたかったのだと理解してよいように思う。
その上原も,第37話「ウルトラマン夕日に死す」では,郷が自らビルから飛び降りて変身するシーンを書く。極限状態ではあるが,郷が怪獣・宇宙人と相対してもいないのに,自分の意志で変身するのである。それだけではない。そして,この第37話では,恩人の坂田健と恋人のアキを殺された郷の復讐心と動揺が,そのままウルトラマンの弱さと敗北につながっていく。人間としての郷が,そのままウルトラマンとなっているふしがある。
これと並行して,第31話「悪魔と天使の間に……」(脚本:市川森一)や第49話「宇宙戦士その名はMAT」(脚本:伊上勝)のように,郷が同時にウルトラマンとして振る舞い,ウルトラマンを名乗って宇宙人と相対することも多くなっていく。上原はこの構図も避けていたように見えるのだが,とうとう最終回(第51話)「ウルトラ5つの誓い」では,上原も郷とウルトラマンをほぼ一体とものとして描くのである。
最終回の郷は,ウルトラマンのようでもあり,郷秀樹のようでもある。東亜スタジアムに呼び出された郷秀樹に,バット星人は「良く来たなウルトラマン!」と呼びかけ,郷はそれを否定することもなく「バット星人」と答える。そして,上原脚本ではただ一度,片手を上げて変身しようとするが,ウルトラマン(ジャック)ではなく,初代ウルトラマンの「焦ってはいけない,郷秀樹」という声に止められるのである。この郷は半ばウルトラマンである。
それでも郷は,不時着したマットアロー1号を駆り,燃料不足で10分しか飛べないにもかかわらずゼットンと戦う。そして,ついに撃墜されてウルトラマンになる。そこでは,確かに人間としてぎりぎりまで戦う郷である。
しかし,バット星人とゼットンを倒した後のラストシーンではまた異なる。郷は死んだものとしてMAT隊員によって弔われるが,墓標の前にたたずむ次郎とルミ子の前に郷が現れる。彼は「旅に出るんです」「平和なふるさとを戦争に巻き込もうとしている奴がいる。だから手助けに行くんだ」と,ウルトラマンの立場から二人に別れを告げる。人間・郷秀樹には故郷があって母親も健在だと第1話で語られているので,これは明らかに郷の姿をしたウルトラマンの言葉なのだ。そして,郷は,浜辺で第1・2話のように両手を上げて自ら変身し,ウルトラマンとして飛び去っていくのである。こうして郷という存在は地上からいなくなる。ウルトラマンと郷は一体のものとして,次郎とルミ子の目の前から去ったのである。
このように,シリーズの進行ともに,ウルトラマンと郷秀樹の関係は,別人格から,郷秀樹であって同時にウルトラマンでもあるという,ハヤタと初代ウルトラマンのような関係に変貌していき,そのことは変身の仕方の変化に集中的に表現されていたのである。
なぜ,このような変化が起きたのか。もちろん,当時はシリーズ構成を詰めずに製作しているので,矛盾が起こることはしばしばであったろう。しかし,それだけのことではないと,私は思う。当初の設定に潜んでいた問題が次第に現れて行ったものと理解できるのである。
郷秀樹が,人間として最後まで力を尽くすのであれば,彼は自分がウルトラマンであることを忘れて人間として行動せねばならない。しかし,いざというときにウルトラマンになれるということを意識せず,計算せずに戦うことは,不可能で不合理である。逆に,郷が自らの意志でウルトラマンになれるのだとすれば,死ぬ寸前まで郷のまま戦うことの方が不合理であり,そんなことをしていれば怪獣や宇宙人による被害を広げることになってしまう。上原はこのジレンマに直面したのだと思われる。
他の脚本家は割り切って,郷に平然と片手を上げさせた。しかし,限界まで人間として力を尽くさねばならないことを郷に課した上原には,それはできないこと,したくないことであった。だから郷に片手を上げさせなかった。しかし,死ぬ寸前まで絶対変身しないというのでは話が不自然になる。仕方がないので,上原は郷を敵に向かって全力疾走差せたのだと思われる。そうすることで,その変身が自由意思によるものなのか極限状態でもたらされるものなのかをあいまいにせざるを得なかったのだ。
それでも,他の脚本家が郷の自由意思による変身を描いている以上,上原もそちらに合わせていかざるを得ない。そのために必要とされたのが,郷とウルトラマンを人格的に融合させることであった。人として成長し,おごり高ぶることがなくなった郷が,まず人間として戦い,必要な時にウルトラマンに変身する。郷がすなわちウルトラマンであれば,それは人間としての努力を怠ることではなくなる。こうして,郷とウルトラマン(ジャック)は,ハヤタと初代ウルトラマンのような関係になったのである。しかし,そうすることによって,ウルトラマンが地球を去る時には,本来は別人格であったはずの郷秀樹も,ウルトラマンと一体になったが故にいなくなることとなった(※2)。
ここでは,シリーズ冒頭で郷に課された「郷秀樹として全力を尽くし,努力しなければならなかったんだ」という問題には答えは出ていない。むしろ,ウルトラマンと郷の一体化によって,有限な人間・郷秀樹がいなくなり,課題自体が消去されてしまったのである。
これは,ある意味では上原の挫折と言えるが,それは『帰ってきたウルトラマン』が凡作だということを意味しない。上原は,人間・郷秀樹を誠実に描こうとしたが故に,ウルトラマンシリーズにおいて,変身する人間とウルトラマンの関係がもつ根本的な問題を探り当ててしまったのである。それは,人間として全力を尽くすことと,自分の意志で人間の限界を超えた力を得られることは両立しないという矛盾である。人間が人間の限界を背負ったままで,同時に超越者になることはできない。逆に,人間の力を超えた存在は,自分自身でありながら,同時に限界を負った人間にはなれないのである。上原は,作品世界を誠実に構築しようとしたが故に,作品世界そのものの矛盾に突き当たり,そうすることで,現実の人間が抱える矛盾を明らかにしたのである。そして,ウルトラマンシリーズとは,これらの矛盾をめぐる,様々な角度からの,様々な物語なのだと,私には思えるのである。そこに完璧な解決はあり得ない。どの物語も途上に終わらざるを得ないのであって,その途上の在り方から傑作が生まれるのである。
※1 このことの確認には,以下の動画が参考になった。
「人間として全力を尽くす郷秀樹まとめ」REXISMRレクシズマー(2023年4月8日最終確認)
https://www.youtube.com/watch?v=wB4xsT8JAu4
※2 同様に,初代ウルトラマンは,ゾフィーに頼んでハヤタの命を救ったものの,ハヤタは,竜が森湖での赤い玉との衝突より後の記憶は持っていなかった。ハヤタはウルトラマンではなくなったのである。ウルトラセブンが地球を去る時には,その変身体であるモロボシ・ダンももちろんいなくなった。北斗星司は人間の罪という,人間のままでは解決不能な問題に突き当たり,自分を消し去ることによってウルトラマンAにならざるを得なかった。逆にウルトラマンタロウはウルトラのバッジを捨て,ウルトラマンレオは獅子の瞳を指から外し,いずれも限界を持つ一人の人間として地球で生きることにしたのである。
※2023年4月8日。注の不整合を訂正し,注1を追加。
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