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2025年3月22日土曜日

Jordan, K. H., Jaramillo, P., Karplus, V. J., Adams, P. J., & Muller, N. Z. (2025). The Role of Hydrogen in Decarbonizing US Iron and Steel Production. Environmental Science & Technologyを読んで

 Jordan, K. H., Jaramillo, P., Karplus, V. J., Adams, P. J., & Muller, N. Z. (2025). The Role of Hydrogen in Decarbonizing US Iron and Steel Production. Environmental Science & Technology.
https://doi.org/10.1021/acs.est.4c05756

 アメリカ化学会のジャーナルに載った論文「アメリカ鉄鋼業の脱炭素化における水素の役割」。この論文は,アメリカ経済全体でのCO2排出量ネットゼロ目標を念頭に置き,種々の条件下で鉄鋼業が2050年にネットゼロを達成しようとする場合の技術構成を検討する。その結果として,多くの研究や業界のテクノロジーマップで脱炭素の切り札と考えられている水素直接還元法(H2DRI)が,比較的限られた条件の下でしか大きな役割を果たさないことを示している。

 全文を読んでみたが,数々のシナリオでの技術構成の違いから見て,次のような選択が作用しているようだ。

 まず,全体としてスクラップ・電炉法(Scrap-EAF)が最大シェアを占めることは変わりない。さすがはすでに電炉比率7割のアメリカである。スクラップ供給制約がない場合はScrap-EAF法が2050年には100%になるとまでされている。他国では量的にも質的にも困難であるが,アメリカではこれに近いことも考えられるかもしれない。

 次に,高炉・転炉法(BF-BOF)法を脱炭素化する手立てとして最も低コストなのは炭素回収(CC)だと分析している。コスト最適なシナリオでは,2050年の製鋼はScrap-EAFとBF+CC-BOFがほとんどを占める。CCとその発展形である, バイオマス発電と結合した二酸化炭素回収(BECCS),大気からの二酸化炭素直接回収(DAC)が実用化すれば低コストになるというのがこの論文のポイントである。そしてこの条件はアメリカ以外では異なっているかもしれないとも指摘している。なお,日本等で開発中の高炉への水素吹込は考慮されていない。

 第三に,本稿では中央計画の観点から,水素をコスト効率の良い他のセクターに割り当てる結果になっている。限られた水素を,鉄鋼業だけでなく,他の産業でも活用することを視野に入れると,鉄鋼業での水素利用は不利という結果になるのである。「他の用途を考えると鉄鋼業で水素を使うのは適切とは言えないのでは」という疑問は,本学の冶金研究者からも発せられたことがあるが,本稿はアメリカについてそれを裏付ける結果となっている。

 第四に,本稿ではアメリカで開発中の溶融酸化物電解法(MOE。鉄鉱石を直接電気分解して製鋼する)が2040年ころには実用化されると想定している。そしてH2DRI法の強力なライバルと扱われている。

 CCの使用が制限された場合には,BF-BOF法は使えなくなる。そうするとH2DRIが拡大しそうなものだが,本稿では上記第3と第4の条件が入っているので,そうもいかない。H2DRIが大きな役割を果たすのは,CCが使えず,MOEが実用化されない場合に限られてしまうのである。

 この結論では,MOEの実用化想定が楽観的過ぎるように思える。しかし,それ以外はアメリカの条件を的確に反映している可能性がある。つまり,1)スクラップの入手可能性が高い,2)電力料金が安い,3)CCSの実行可能性,端的にCO2を安く埋め立てられるということである。他国の場合はどうなるかが気になるところである。

 なお,トランプ政権のように地球温暖化対策には極度に否定的な政権が続けば,そもそも2050年までのカーボンニュートラル規制が課せられなくなる可能性がある。これが本稿のすべてのシナリオにとって最大のかく乱要因だろう。


2024年8月25日日曜日

上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年を読んで

 上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年。政治学の観点から気候変動対策をめぐる国際関係を論じた著作である。以下で述べるように,内容には勉強になった点も疑問点もあるが,何よりも地球温暖化問題が国際政治の容赦ない利害関係と駆け引きの中にあることを知るという点で,有益な一冊であった。

 一応経済学者である私にとっては,「政治」という視点からはこう見えるのかというところが勉強になった。とくに印象的だったのは2点だ。ひとつは,アメリカの気候変動対策がオバマ政権の「クリーン電力計画」からトランプ政権を経てバイデン政権の「インフレ抑制法(IRA)」に着地するまでの政治力学の作用である。なぜ気候変動対策が「インフレ抑制」という看板に含まれているのかが理解できた。もうひとつは,温室効果ガス(GHG)排出削減政策が,対策がほどこされていないがゆえに価格が安い輸入品の増加を招いてしまう,いわゆる「カーボンリーケージ」についてである。具体的にはカーボンリーケージ対策としての国境炭素調整(BCA)と自由貿易との関係がまだついていないこと,さらにBCAの方式が国によって異なることから対立が生じやすいことが理解できた。

 惜しいのは,温暖化対策がもっぱら「コスト」として把握されていることだ。たとえば住宅断熱や再エネの拡大,次世代製鉄や次世代モビリティへの置き換えは「投資」でもあって需要を作り出すのだが,本書にはその観点がない。政治に即して言えば,温暖化をめぐる政治主体の行動が,主張の説得力で正当性を得て支持者を増やしつつ,コストは最小化したい,というものとしてとらえられている。しかし,各国の政治家は,温暖化防止スキームのもとでGHG排出削減のために生活切りつめを国民に求めるのではなく,グリーンな経済・社会開発を実現し,雇用と所得を確保することで支持を得ようとする。この動きを把握しなければならないのではないか。温暖化対策をコスト負担をめぐる政治とみてしまっているところが,本書の叙述をせまっ苦しいものにしていると,私には思われた。


出版社ページ

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/06/102807.html



2022年7月27日水曜日

斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで

  いま世間で話題のマルクス経済学者と言えば,斎藤幸平氏であろう。実は,私は『人新世の資本論』(集英社新書,2020年)については,共産主義をめざせ的なアジテーションにいま一つついていけなかった。私が政策論としてはグリーン・ニューディール論者だからであろう。しかし,今回,同書より前に出版されている斎藤氏の研究成果である『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』をようやく一読し,新鮮な驚きを覚えた。テレビや一般向けの文章で氏が語ることとはずいぶん異なる印象を受けた。やはり主著を読むべきである。

 斎藤氏が本書を通して言わんとすることは,大きく二つと思える。

 一つ目の主張は,学説史的に言えば,マルクスは『資本論』第1巻を出版した後,自然科学の研究を深め,それまでよりもエコロジカルな視点を強めたということである。なので,マルクスのエコロジーは出版された『資本論』よりも深まっていたということになる。これはマルクスの著作だけからでは読み取ることができないため,斎藤氏は新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)に収録されたマルクスの読書の記録である「抜粋ノート」や,蔵書への書き込みを検討し,解釈することで自説を主張した。マルクスがリービッヒの農芸化学を熱心に研究し,そこからリカードの収穫逓減法則批判の根拠を獲得したことや,土地疲弊の例を中心に物質代謝の攪乱の視点を得たことはよく知られている。しかし,斎藤氏によると,マルクスはその後,フラースの沖積理論と,過剰な森林伐採から地域全体の気候変動を論じる観点を学び,気候や植物が時間とともに変化すること,その変化の過程に与える資本主義的生産の破壊的影響はリービッヒが示唆するよりも広範であり,容易に修復できないことを認識したのである。

 二つ目の主張は,理論的には,マルクスは,『ドイツ・イデオロギー』以後,一貫して「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被るか」(MEGA II/3:57より。『大洪水の前に』110頁)という問いを持ち,そこから人間と自然の物質代謝の亀裂を分析しようとしていたということである。ここで生じるのは「素材」(ものとしての在り方)と「形態」(資本主義の下での経済的規定)の絡み合いである。経済学が対象とするのは「形態」の方(価値や価格や蓄積)だけだと思われがちであるが,そうではない。「マルクスの経済学批判の方法は,このような社会的生産から生じる素材的世界の攪乱を,資本の論理が引き起こした矛盾として,その歴史的特殊性を把握することにある。ここで重要なのは,単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であったということである」(『大洪水の前に』254頁)。だから環境破壊は「資本主義のせいだ」というだけでは十分ではないし,環境破壊について経済学の課題でないとすることも適当ではない。「資本主義の運動が,具体的に環境のどこをどれほどどのように破壊しているか」を分析するのがマルクスの視点であった。

 なので斎藤氏によれば,ある時期以降のマルクスは,自然を人間が思うがままに支配するプロメテウス主義でアンチ・エコロジーだったわけではない。倫理的に「資本主義が環境を破壊する」と告発するだけでもない。また,斎藤氏によればエンゲルスにやや顕著な,自然法則を正しく理解して「自然の復讐」を防ぐという超歴史的視点でのエコロジーをとっていたわけでもない。「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被る」かを分析し,どのように「物質代謝の亀裂」が入り,資本の「有機的」構成に影響し,素材の弾力性の損傷によって資本の弾力性も損なわれるかを論じようとしたのである。

 私には正確な学説史上の評価を行う素養が不足しているものの,文献学の迷宮のような新MEGA研究の理論的意義がこれまで呑み込めなかっただけに,「抜粋ノート」を読み込んで晩期マルクスの思想を探るという切り口は,たいへん面白かった。現在の温室効果ガスによる地球温暖化とは異なるものであるが,森林伐採による気候変動論をマルクスが自説に取り込もうとしていたということには,率直な驚きを覚えた。

 また「単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であった」ことは,もとより産業論の研究者として大いに支持するところであるが,マルクス自身がこの視角をエコロジーまで伸ばそうとしていたことにも新鮮な驚きを覚えた。この視角ならば,単に資本主義の自然破壊を抽象的に告発するのではなく,どのように破壊するのか,元々変動するものである自然に資本主義がどのように影響を与えるのか,文明を崩壊させる限度はどこにあるのかという,具体的で,いまでいう持続可能性を視野に入れた分析が可能になるだろう。

 このように,私は『大洪水の前に』を,マルクス研究としては久しぶりに興奮をもって読むことができた。

 最期に,本書から逆に,マルクスには時間がなくてできなかったことを考えたい。つまり,エコロジーの社会変革論であり階級論である。マルクスは,資本主義は労働者階級を生み出し,彼/彼女らに厳しい労働条件と生活状態を強いることを明らかにする一方で,資本主義的生産は労働者を社会変革の担い手として,また将来社会の生産の担い手として鍛え上げることを論じた。その論じ方が正しかったかどうかは別にして,少なくとも理論的,歴史的に論じたことは事実である。対してエコロジーについては,マルクスは,斎藤氏の言うとおりだとすれば,資本主義による環境破壊を分析する視点を確立する途上で世を去った。とすれば,その先の問題,つまり資本主義による環境破壊が,社会のどのような階級をどのような状態に置き,したがって,どの階級が環境を保全し,そのために必要な社会改革に立ち上がるのかという必然性や蓋然性を検討する時間的余裕を持てなかったのであろう。

 それは,後の世代に残された課題である。斎藤氏がその課題に取り組むためのマニフェストが『人新世の資本論』だとすれば,私は斎藤氏のマルクス研究の成果を学びつつ,現代の課題については,私なりに何かを言えるようになりたいと思うのである。


斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年。




クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...