いま世間で話題のマルクス経済学者と言えば,斎藤幸平氏であろう。実は,私は『人新世の資本論』(集英社新書,2020年)については,共産主義をめざせ的なアジテーションにいま一つついていけなかった。私が政策論としてはグリーン・ニューディール論者だからであろう。しかし,今回,同書より前に出版されている斎藤氏の研究成果である『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』をようやく一読し,新鮮な驚きを覚えた。テレビや一般向けの文章で氏が語ることとはずいぶん異なる印象を受けた。やはり主著を読むべきである。
斎藤氏が本書を通して言わんとすることは,大きく二つと思える。
一つ目の主張は,学説史的に言えば,マルクスは『資本論』第1巻を出版した後,自然科学の研究を深め,それまでよりもエコロジカルな視点を強めたということである。なので,マルクスのエコロジーは出版された『資本論』よりも深まっていたということになる。これはマルクスの著作だけからでは読み取ることができないため,斎藤氏は新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)に収録されたマルクスの読書の記録である「抜粋ノート」や,蔵書への書き込みを検討し,解釈することで自説を主張した。マルクスがリービッヒの農芸化学を熱心に研究し,そこからリカードの収穫逓減法則批判の根拠を獲得したことや,土地疲弊の例を中心に物質代謝の攪乱の視点を得たことはよく知られている。しかし,斎藤氏によると,マルクスはその後,フラースの沖積理論と,過剰な森林伐採から地域全体の気候変動を論じる観点を学び,気候や植物が時間とともに変化すること,その変化の過程に与える資本主義的生産の破壊的影響はリービッヒが示唆するよりも広範であり,容易に修復できないことを認識したのである。
二つ目の主張は,理論的には,マルクスは,『ドイツ・イデオロギー』以後,一貫して「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被るか」(MEGA II/3:57より。『大洪水の前に』110頁)という問いを持ち,そこから人間と自然の物質代謝の亀裂を分析しようとしていたということである。ここで生じるのは「素材」(ものとしての在り方)と「形態」(資本主義の下での経済的規定)の絡み合いである。経済学が対象とするのは「形態」の方(価値や価格や蓄積)だけだと思われがちであるが,そうではない。「マルクスの経済学批判の方法は,このような社会的生産から生じる素材的世界の攪乱を,資本の論理が引き起こした矛盾として,その歴史的特殊性を把握することにある。ここで重要なのは,単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であったということである」(『大洪水の前に』254頁)。だから環境破壊は「資本主義のせいだ」というだけでは十分ではないし,環境破壊について経済学の課題でないとすることも適当ではない。「資本主義の運動が,具体的に環境のどこをどれほどどのように破壊しているか」を分析するのがマルクスの視点であった。
なので斎藤氏によれば,ある時期以降のマルクスは,自然を人間が思うがままに支配するプロメテウス主義でアンチ・エコロジーだったわけではない。倫理的に「資本主義が環境を破壊する」と告発するだけでもない。また,斎藤氏によればエンゲルスにやや顕著な,自然法則を正しく理解して「自然の復讐」を防ぐという超歴史的視点でのエコロジーをとっていたわけでもない。「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被る」かを分析し,どのように「物質代謝の亀裂」が入り,資本の「有機的」構成に影響し,素材の弾力性の損傷によって資本の弾力性も損なわれるかを論じようとしたのである。
私には正確な学説史上の評価を行う素養が不足しているものの,文献学の迷宮のような新MEGA研究の理論的意義がこれまで呑み込めなかっただけに,「抜粋ノート」を読み込んで晩期マルクスの思想を探るという切り口は,たいへん面白かった。現在の温室効果ガスによる地球温暖化とは異なるものであるが,森林伐採による気候変動論をマルクスが自説に取り込もうとしていたということには,率直な驚きを覚えた。
また「単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であった」ことは,もとより産業論の研究者として大いに支持するところであるが,マルクス自身がこの視角をエコロジーまで伸ばそうとしていたことにも新鮮な驚きを覚えた。この視角ならば,単に資本主義の自然破壊を抽象的に告発するのではなく,どのように破壊するのか,元々変動するものである自然に資本主義がどのように影響を与えるのか,文明を崩壊させる限度はどこにあるのかという,具体的で,いまでいう持続可能性を視野に入れた分析が可能になるだろう。
このように,私は『大洪水の前に』を,マルクス研究としては久しぶりに興奮をもって読むことができた。
最期に,本書から逆に,マルクスには時間がなくてできなかったことを考えたい。つまり,エコロジーの社会変革論であり階級論である。マルクスは,資本主義は労働者階級を生み出し,彼/彼女らに厳しい労働条件と生活状態を強いることを明らかにする一方で,資本主義的生産は労働者を社会変革の担い手として,また将来社会の生産の担い手として鍛え上げることを論じた。その論じ方が正しかったかどうかは別にして,少なくとも理論的,歴史的に論じたことは事実である。対してエコロジーについては,マルクスは,斎藤氏の言うとおりだとすれば,資本主義による環境破壊を分析する視点を確立する途上で世を去った。とすれば,その先の問題,つまり資本主義による環境破壊が,社会のどのような階級をどのような状態に置き,したがって,どの階級が環境を保全し,そのために必要な社会改革に立ち上がるのかという必然性や蓋然性を検討する時間的余裕を持てなかったのであろう。
それは,後の世代に残された課題である。斎藤氏がその課題に取り組むためのマニフェストが『人新世の資本論』だとすれば,私は斎藤氏のマルクス研究の成果を学びつつ,現代の課題については,私なりに何かを言えるようになりたいと思うのである。
斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年。
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