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2026年1月4日日曜日

原真『音と光の世紀:ラジオ・テレビの100年史』集英社,2025年を読んで

 本書は副題が示すように,日本のラジオ・テレビの100年史を概説したものである。まず一言で言えば,その使命を果たしている本であり,日本のラジオ史・テレビ史をまずざっと理解したい人にとってたいへん便利な本である。とくに今日では,若年層の動画視聴はテレビ放送からインターネットを基礎とした各種プラットフォームにシフトしており,高齢層は感覚的に知っているテレビ業界の構造や習慣が,若年層にとって常識ではなくなりつつある。例えば,広告モデルのビジネスゆえの番組枠の希少価値をめぐってのテレビ局,広告代理店,広告主,芸能プロダクション,制作陣の緊張関係である。これがすでに当世の常識ではなく,歴史的知識となっているのであり,改めて要領よく整理してくれている本書は貴重な存在と言っていい。新書,とくに昨今のそれという性質から個々の箇所での注記はあまりされていないが,参考文献の長大なリストは巻末に記されていて,さらなる読書や研究の手引きとなる。個人的にはラジオ産業と言えば平本厚『戦前日本のエレクトロニクス』,テレビ産業と言えば同『日本のテレビ産業』が欠かせない業績であると考えているので,前者が文献リスト,後者が本文内に注記されていたことに安堵した。

 さて,本書の書き口として明快なのは,放送メディアは権力と対峙しているし,対峙すべきという古典的視野である。このことの確認は重要である。昨今の風潮として,SNS上ではラジオやテレビが「オールドメディア」として嘲笑されることが多い。それにはそれなりの理由があるが,注意すべきは,この嘲笑においては,「オールドメディアの嘘と既得権益」が,その対極にある何らかの「真実と無私・独立性」と対置されているということである。この二分法は二つの意味で不適切である。一つは,「オールドメディア」の対局でネットメディアを「真実」,テレビで批判される人や団体を「無私」と決めつける根拠がなく,実際に事実から逸脱する主張も少なくないということである。「どうせオールドメディアは嘘ばかりの既得権益」と賢しらにいいたてられる際に,何を真実・無私とするかについてのすり替えが行われている。もう一つが本書との関連で重要であるが,この二分法の社会観には国家権力についての視点が全くないことである。国家権力と社会という観点は,いかに古い観点・理論に基づくものであろうと,ゆるがせにできないものである。国家権力の恣意的行使は他の主体の恣意とは別個に監視されねばならないし,首相やその他の国務大臣はその言動について,一国民とはまるで異なる重さの責任を負っているのである。

 誤った二分法が流される情勢下において,放送メディアを担う人々が権力による恣意的な放送介入に対峙してきた歴史,国家からの独立性を確保することの重要性を強調する本書の意義は大きい。繰り返し言うと,いかにこれが「古い」観点であり,ポストモダンではなくて「モダン」であろうとも,いまなお重要なことである。

 しかし,「権力との対峙」以外の点については,本書の切れ味はいささか鈍く,問題は描かれてはいるが投げ出されたままになっている。例えば,視聴者が直接に求めるものと,メディアの担い手が留意する放送内容の公共性や「よいもの」は相違する。本書は,この相克が戦前のラジオから続くことをよく描いているが,この相克をどう考えたらよいのかについては,さほど突っ込んでいるようには見えない。

 また,テレビという放送メディア自体が権力となり,個人に対して暴力的に対峙してきたことをどうとらえるかという問題もある。「おわりに」に語られる来歴からすると,著者はこの問題に強い関心を持っているはずである。しかし,メディアが持つ権利と個人の権利の衝突に関する考察は,本書では弱い。

 テレビ局に関する「組織」としての考察も物足りない。正確に言うと,権力に対して独立しているか否かという側面についてはよく描かれているが,フジテレビ問題にみられるような,会社組織として労働者を尊重しているか,ステークホルダーを含めたガバナンスはいかにあるべきか,という点についての視点が十分定まっているとは言えない。むろん事実関係についての記述はされているが,考察が弱いのである。

 いささかないものねだりをしているのかもしれないが,視聴者ニーズとの専門家によるコンテンツ供給の緊張関係,マスメディアの暴力性,組織としてのテレビ局の在り方は,今日の「オールドメディア嘲笑」の風潮の背景の一つであり,放送の将来を考えるうえで,考察をより深めねばならないはずである。なので,もう少し突っ込んで欲しかったという気持ちが残るのである。

 まとめると,本書は,事実関係のコンパクトな整理と,政治権力から独立することの重要性という観点において際立っている。しかし,それ以外の新たな論点については物足りなさが残る。むろん完璧な本などないし,書いてあることすべてをうのみにする読書もありえない。本書はラジオとテレビについて学ぶ際に,まず手元に置くとたいへん便利であり,考えながら読むことで,得られるものは多いだろう。

 原真『音と光の世紀:ラジオ・テレビの100年史』集英社,2025年
https://www.shueisha.co.jp/books/items/contents.html?isbn=978-4-08-721392-8





2025年10月14日火曜日

言語論的転回すらしなかったオールド・マルクス学徒が東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書,2025年)を読んで

 私には,カウンセリングのやや本格的な本を,哲学的認識論・実践論として読むという妙な癖がある。あまり人に言ったことはないが,学生時代からマルクス派であった私にとって,非マルクス学派で哲学的に最も印象に残り,自分の世界観を変えた本は河合隼雄『カウンセリングの実際問題』(誠信書房,1970年)であった。私は哲学の言語論的転回に出会う機会を持たなかったが,心理学的には転回していたのかもしれない。読んだのは心の問題が日本社会で課題化された1990年代であり,河合氏の軽めの本は大いに出回っていた。しかし,どれもこれも大変失礼ながらお説教としか思えなかった。お若いころにはもっと力の入ったものを書かれたはずではないかとこの本を手に取って,なるほど,これがご本尊か,さすがだと衝撃を受けた記憶がある。どんな軽めの本よりも頭にすんなり染み渡った。

 しかし,いま考えれば,河合(1970)は心の理論を論じたものであり,またそれだけに集中していたとも言える。私自身のせまい唯物論的思考方法に対する解毒剤ないし補完であったことは間違いないが,それで認識論の全体的な構図を得られたかというと,そうではなかったろう。

 さて,先月の終わりに,東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』(講談社現代新書,2025年)という本があると知り,直感で「これはいいかも」と思って購入したところ,大当たりであった。本来はカウンセリング原論であるが,やはり認識論・実践論として読めるもので,大変面白い。それは,著者の「自己―心―世界モデル」が,物質的所与と精神,さらに両者の境界,物質的身体と,精神が受け止めるものとしての「からだ」,社会に働きかける実践と心に働きかける実践を包括しているからである。それに対応して,著者のカウンセリングも「生存」を獲得するものと「実存」を獲得するものに二層化される。まずは生存を確保しなければどうにもならないが,実存も大事である。たいへん納得のいく話である。

 読み進むうちに,著者が日本の臨床心理学史における屈折を踏まえて自らの「自己―心―世界モデル」を構築していることに気が付いた。日本の臨床心理学は1970年前後に,カウンセリングは「個人を変化させることで,社会の悪しきところを温存することになる」という批判を受け,「学問全体が壊滅状態になったこともあります」(203ページ)というのである。

 そこでつい野次馬根性を出して,東畑開人「反臨床心理学はどこへ消えた?--社会論的転回序説2」『臨床心理学増刊』第14号,2022年8月のKindle版も購入して読んだところ,当時の事情と現在に至る経過が論じられていて,著者の「自己―心―世界モデル」の背景が納得できるような気がした。日本臨床心理学会は反臨床心理学からの批判によって1971年に分裂し,脱退した人々が形成した日本心理臨床学会が臨床心理学の再建を図り,「河合隼雄の時代」を作ったというのである。ちなみにその先は著者の時代区分では「多元性の時代」と「公認心理師の時代」である。

 以下,東畑(2022)の長めの引用だが,宣伝を兼ねることでお許しいただきたい。

ーー
Young (1976)(補注1)では,説明モデルには個人の外部に問題の原因を探し求める「外在化」型と,個人の内部に原因を見出す「内在化」型があると指摘されている。前者はたとえば,先祖の霊や社会構造に原因を見出す説明モデルを考えたらいいし,後者は身体医学を思い浮かべるといい。両者は背反しやすい。盆のせいにすると,身体の不調を見過ごしやすいし,体のケアだけしていると,労働環境の問題を看過することになりやすい。

 「河合隼雄の時代」の「心理学すること」が極端に内在化型であったのが重要である。「ロジャースの時代」の終わりに生じた専門性の危機を,心理臨床学は個人心理療法を範型とすることで乗り越えようとした。面接室の内側で,個人の内面を見る。心に問題を見出し,心の変化を狙う。徹底して内在化型の誂明モデルを彫琢することで, 専門家としてのアイデンティティを確立しようとしたのである。

 そのことによって排除されたのは反臨床心理学にあった外在化型の説明モデルである。問題を社会構造に見出すこと,環境に暴力を見ること,そして変わるべきは個人の内側ではなく,社会や環境といった外部であること。つまり「社会すること」。
ーー

 たいへん納得がいく。「心理学すること」と「社会すること」を包摂した東畑(2025)は,私にとって河合(1970)の後継書となってくれるように思った。

※補注1。Young A (1976). Some implications of medical beliefs and practices for social anthropology. American Anthropologist, 78(1), 5-24,  https://doi.org/10.1525/aa.1976.78.1.02a00020  のことである.

※補注2。臨床心理学はおそらく障害学に近い位置にあると思われる。そのため,障がいをめぐる種々の議論を知らないおまえが何を言うかとおっしゃる向きもあるかもしれない(学生時代もよく新左翼の諸君にそう詰め寄られたものである)。確かに,コンテキストを知らない無知な発言も問題である(なので,私は例えば沖縄とガザについては発言は控えている)。しかし,自分の方が事情に通じているからと言って,生半可な発言をする人を「そんなことも知らない奴が何を言う」と恫喝するのも問題であると思う。よって,ここではとにもかくにも考えたことを投稿した。また,私とて何のコンテキストも背負わない能天気と思ってもらいたくないとは言っておく。

東畑開人『カウンセリングとは何か 変化するということ』講談社現代新書,2025年。



2025年8月19日火曜日

波多野澄雄『日本終戦史1944-1945:和平工作から昭和天皇の「聖断」まで』中央公論新社,2025年を読んで

 本書は日本が「大東亜戦争」と呼んだ戦争が「日米戦争」「日英戦争」「日中戦争」『日ソ戦争』の複合戦争であったとしたうえで,その終戦史を論じるものである。問いは二つであり,一つは「ポツダム宣言の発表から二度目の『聖断』まで,きわめて重大な二週間余りのあいだに,なぜ最高指導者たちは戦争終結の決断ができなかったか」(ⅳ頁),もう一つは「『徹底抗戦論』が国内に横溢するなか,なぜ二度の『聖断』で終戦が可能であったか」(同上)である。その回答は「『複合戦争』の収集が対米戦争の終結に絞られたことで早期の終戦が可能になり,戦後の日米同盟を導く伏線ともなる」(同上)というものである。著者の紹介による本書の構成は,1941年12月8日の対米英戦の開始から始まっての太平洋戦線と大陸戦線の展開を叙述する第1部,小磯国昭内閣と鈴木貫太郎内閣における様々な和平論の行き詰まりを描く第2部,ポツダム宣言発出から終戦までのか知恵を論じる第3部に分かれる。しかし,読者としての受け止めでは,第2部と第3部はほとんど連続していると感じられるだろう。背景として戦局の展開,序論として小磯内閣期が論じられた後,本書の約半分が本論としての鈴木内閣の終戦指導に費やされ,その後に8月15日以降に関する記述が補足されて,結論に入ると読むほうが素直である。少なくとも政治史の専門家以外の読者が読めば,鈴木内閣が主人公だと思える。このことは本書全体の評価に関わるが,それは最後に述べる。

 以下,本書で関心をひかれた論点を列挙していこう。

 第一に,本書が正面から取り上げた鈴木の終戦指導への評価である。著者はその特徴を「早期終戦を念頭に置きつつも,『軍の士気,国民の士気』を温存しながら,徹底抗戦論を排除しない閣議や戦争指導会議の運営に腐心したこと」(269頁)とする。そして「こうした迂遠な終戦指導は,降伏決定を遅らせたことは確かである」(同上)としつつ,「国体護持という究極的な目的を貫徹するために,もっとも有効な選択肢を探り続けたことも事実である(269-270頁)」とする。「その鈴木に聖断の発動を決意させたのは,8月6日の原爆以降であったと思われる」(270頁)。「さらにソ連参戦が追い打ちをかける」(同上)。

 本書は,鈴木の行動原理について,納得のいく見通しを与えている。「国体護持」を前提にしつつ「終戦」を実現する。しかし,そのためには,内閣の瓦解や軍のクーデターを防止しなければならない。したがい,徹底抗戦論を取る阿南惟幾陸相を閣議をもって説得しつつ,閣議の結果をもって陸相に陸軍をまとめてもらわねばならない。

 この行動原理が「聖断」という手段に結び付く具体的契機は,結局のところ「本土決戦を推進してきた陸軍に,この機に及んで『国策転換』は期待できず,米内ら海軍首脳部にも『転換』の意欲は薄れていた」(170頁)ことが1945年6月8日の「戦争指導の基本大綱」をめぐる動きで明らかになったことである。そこで木戸幸一内大臣が「時局収集対策試案」で天皇の「御勇断」による終結という路線を打ち出し,「軍部より和平提案がなされない限り,『聖断』によって終戦に運ぶほかはないという『試案』の考え方を,6月22日の御前会議にいたる過程において,構成員会議(六巨頭会談)のメンバーや高木,松平,富田らの『サブリーダー』が共有した」(178頁)という。この時点の『御勇断』とは天皇の親書を携えた使者がソ連に飛んで和平仲介を求めることであったが,その希望がソ連参戦でついえたのちはポツダム宣言の受け入れに関する「聖断」へと変わっていく。本書からはこのように読み取れる。

 陸軍の本土決戦論が内閣での合意形成によって克服できないとみなされたときに「聖断」要請へと転換するというすじみちはたいへん明快であり,納得できる。ただ気になるのは,それならば「聖断」方式への舵切りにおいて重要な役割を果たしたのは木戸であって,鈴木は「聖断」要請という選択肢を得たうえで合意形成方式の内閣運営を続けただけではないかと思えることである。確かに,それでも鈴木の終戦指導なくしては,ポツダム宣言受諾をめぐる最後の局面で内閣が瓦解し,宮城事件よりはるかに深刻なクーデターが「成功」してしまったかもしれない。とはいえ,木戸の工作なくして,鈴木の内閣運営だけでは「聖断」にたどり着かなかったかもしれないとも言えるのではなかろうか。

 第二に,本書の後半では鈴木内閣の動向が精緻に分析されているが,その分だけ昭和天皇の動きがよく見えないことである。「聖断」に頼る方式は昭和天皇が即時終戦の意志を持っていることを前提としているのであって,その意思を天皇がどの時点で,何を根拠に持ったかという疑問である。この点についても本書は「昭和天皇に限ってみれば,内外を通した本土決戦体制の不備,それを糊塗する統帥部に対する不信感などが終戦を決意させる要因であったことが判明している」(276頁)とだけ述べており,掘り下げはない。それまで御前会議は意思決定の場ではないという建前を守っていた天皇が「それでは国体も国民も救えないと考え,肝胆あい許した鈴木と運命をともにすることを決断する」(170頁)というのであるが,この過程を実証していない。木戸による工作と昭和天皇自身の姿勢については既に多くの研究があるのだろうが,たとえ先行研究に依拠するのであっても,実証的な叙述に加えておくべきだったのではないか。

 第三に,古くからの問題であるが,降伏・終戦は遅かったか,早かったかの問題をどう扱うかである。著者はこの問題を明瞭に立てたうえで,アメリカの戦争指導者と他の連合国にとっては,想定よりも『早かった』とする。一方,敗戦国日本では「早かった,遅かったを明確に発言していた戦時指導者は少ないが,前線の将兵には『遅かった』と見なす発言が多い」(274頁)とする。第33軍参謀野口省己が言うように「終戦がもう1か月早かったら,2万人近い将兵の命は助かったであろう」(同上)からである。一方,ソ連の介入が避けられたことをよしとする阪急電鉄創業者小林一三と昭和天皇の発言も紹介されている。そして著者自身は「終戦の決断のタイミングという問題は,それを議論する人々の戦後の立場によって,また戦争のゆくえと,戦後をどのように見通していたかによっても異なっていた」(275-276頁)という記述にとどめ,必ずしも切り込んでいない。

 これは,歴史の記述で「if」を論じることがどのくらい可能かという,これまた古くからの問題にかかわる。論じるとしても,当時,政治指導を行っていた人々にとっての選択肢の範囲で論じるべきか,それを越えてより超越的に論じるかという問題があるかもしれない。しかし,このように慎重に扱うのであれば,そもそも「遅かったか,早かったか」という風にではなく,「何が終戦工作を妨げていたか」と問題を立てるべきであったように思える。本書冒頭では,その問いをポツダム宣言発表以後に限って発しているが,「遅かったか,早かったか」の問いと同じく,より長いスパンで発するべきだったろう。しかも,本書は叙述内ではその回答を事実上出しているように思える。鈴木内閣成立時に「陸軍中堅層の強硬な抗戦論の封殺や排除は,ただちに政変やクーデターにつながる一触即発の政治情勢にあったこと」(112頁)である。これは常識と化している回答であるのかもしれないが,結論部で改めて確認すべきことであったのではないか。

 第四に,ポツダム宣言受諾とは結局,日米戦争を終結させるものであり,そういう限定されたものとして戦後政治を規定していくという著者の観点である。ポツダム宣言受諾の論理とは,武装解除や戦争犯罪処罰には条件を付けず(つけるべくもなく)降伏するが,「国体」は護持されるものと(一方的に)解釈するというものであった。「国体」とは,世界に通じる政治の言葉で言えば天皇制である。そう翻訳した上で,受諾の論理は,連合国の中核として日本を占領したアメリカによって採用されることになった。「アメリカが『妥協的和平』に応じず天皇制の将来をあいまいにしたまま,『紛争原因の根本的解決』に固執したがために,他の選択肢の余地を閉ざしたのである」(278頁)と指摘している。著者が千々和泰明氏の表現を借りているためにわかりにくいが,アメリカに反抗する武装や戦争の正当化は許さないが,天皇制は残したということであろう。そして,昭和天皇のみならず戦前・戦時に日本の中枢にいた人々が,一部は歴史の表舞台から消えながらも一部は残存して戦後も日本の政治を動かしていったために,受諾の論理は,国体と民主主義は両立するという「一君万民論」に展開して戦後日本政治を規定していく。こうして,ポツダム宣言受諾の論理が戦後の日本政治と対米関係の論理の起源となっていくという著者の分析は精緻である。もっとも,「二度の聖断によって日本が必死に護ろうとした国体は,占領軍とのせめぎ合いの中で,その『尊厳的機能』に導くことで戦後も生き延びたのである」(273頁)というのは,いささか「国体」という言葉に引きずられているように思われる。

 最後に,本書が大日本帝国が遂行した戦争を「日米戦争」「日英戦争」「日中戦争」「日ソ戦争」の「複合戦争」としていながら,ポツダム宣言発表から8月15日までに限った問題設定を行い,叙述の約半分は鈴木内閣の動きに置いたことをどう見るかである。鈴木内閣が,軍事力の激突で圧倒的に負けている対米戦争に対象を集中したがゆえに降伏できたというのは,わかりやすい話である。しかし実際には複合戦争なのであるから,ポツダム宣言を受諾し,終戦の詔勅を発しただけでは戦争は終わらなかった。著者も,終戦の詔勅をもって戦争終結とするような記述を取らず,「百万の大軍を擁する支那派遣軍を降伏させ,始まったばかりの日ソ戦争を停戦に導くのは容易ではなかった。南方軍もまた,三外征軍(関東軍,支那派遣軍,南方軍)が一致して徹底抗戦を大本営に訴えるよう提案していた」(254頁)と指摘して,実際に停戦するまでの困難と,その在り方が戦後政治に残した影響を記述している。中国については「大戦末期には,国連創設に力を尽くすなど戦勝国としての立場の確立に努めたが,内戦の中で著しくその国際的地位を低下させ,戦犯や賠償問題で責任追及の先鋒に立ちえなかった。一歩,日本にとっては,そのことは日中戦争の責任という問題を正面から受け止める機会が失われ,中国との戦争の記憶が遠ざかることを意味したのである」(263頁)と指摘する。またソ連については,「日本の降伏プロセスにおいてソ連の参戦はもっとも重要な要因の一つであったが,戦後の日ソ関係の展開という観点からすれば,むしろ8月15日以降も続いた『日ソ戦争』が大きな意味を持った」(267頁)という。いずれももっともな指摘である。

 しかし,著者の言うとおりであるならば,日中戦争や日ソ戦争については,ポツダム宣言受諾の仕方ではなく,それとは独自に進行した戦闘終結のあり方の方が,戦後を規定したということになる。となると,鈴木内閣に焦点を当て,とくにポツダム宣言発表以降の動きに最大の紙幅を割くという方法では,「日本終戦史」を描ける範囲が限られてしまうのではないか,という疑問が湧いてくる。これが本書の全体構想に対して残った疑問である。

 私は波多野澄雄氏の研究に通じておらず,本書のみを孤立的に取り上げた。それ故に読み方が浅い点や,他の著作で書かれていることを知らないだけの点もあるかもしれない。本書は,全体として手堅い政治史的な記述がたいへん勉強になり,また検討すべき論点を深める手掛かりとなる書物であった。


版元ページ
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2025/07/102867.html



2025年7月20日日曜日

斉藤美彦『ホモ・クアンティフィカンスと貨幣:「価値形態論」から「負債論」へ』丸善プラネット,2024年8月を読んで

 斉藤氏はイギリス金融論の実証的研究者である。東京大学で山口重克氏に師事され,研究職に就かれる前は全国銀行協会連合会(全銀協)に勤務された。本書は,斉藤氏自身の理論形成につながった人々の内生的貨幣供給論への歩みをたどること,複数の諸国の中央銀行が内生的貨幣供給説の見地から量的金融緩和に関する続説を否定していることを紹介し,その意義を確認すること,ミッチェル・イネス,デヴィット・グレーバー,金井雄一などの説に依拠して,信用貨幣を貨幣の起源でもあり本来の姿であるという観点からマルクス経済学の貨幣論を再構築することを呼びかけることという,三つの内容を持っている。私は本書より後の2025年3月に「通貨供給システムとしての金融システム:信用貨幣論の徹底による考察」を発表したが,原稿を提出したのは2024年4月であり,本書を参照できなかった。

 斉藤氏が,マルクス経済学宇野派に立脚しながら,現代の預金貨幣と中央銀行券は信用貨幣であって,銀行・中央銀行から内生的に供給されるという立場をとっていることには,私は心より賛同する。また,山口重克氏によって宇野弘蔵氏の商業信用論,すなわち手元遊休貨幣の融通として商業信用を規定する見地が克服されたことを有意義とすることも納得できる。いわゆる日銀理論が横山昭雄『現代の金融構造』(東洋経済新報社,1977年)によってもっとも体系化されていること,全銀協に勤務されていた吉田暁氏と斉藤氏自身の内生的貨幣供給論も日銀理論と同一の潮流にあるという認識・自己規定にも異存はない。

 もっとも,マルクス経済学における信用貨幣の起源は山口氏ではなく岡橋保氏に置くべきである。本書では,わずかに不換銀行券論争における岡橋の立論が紹介されているだけであるが,1940年代から50年代にかけて,信用貨幣論の礎を築いたのは岡橋氏である。それだけではない。結局,今日に至るまで,マルクス体系に立脚した信用貨幣論を,もっとも徹底した姿で示しているのは岡橋説だというのが私の理解である。この点は上記拙稿をご覧いただきたい。

 続いて斉藤氏は,イングランド銀行,ドイツ連邦銀行,スウェーデンのリクスバンクといったヨーロッパ諸国の中央銀行が,量的緩和を自ら行いながら内生的貨幣供給説のペーパーを発行していたことに注目する。三行はそろって,預金貨幣は貸し付けを通して生まれるのであり,中央銀行による準備預金供給によって増えるものではないと主張しているのである。各行とも行っていた量的金融緩和の効果を自己否定するかのような主張である。斉藤氏は,おそらくいずれの中央銀行も,周囲の圧力に押されて量的緩和を行ったものの,それは実は景気刺激策としては無意味であると認識していたのだろうと推定している。各行の内部事情はうかがいしれないものがあるが,少なくとも黒田総裁時代の日銀と異なり,三行は量的金融緩和でリフレーションが起こせるとは考えていなかったことは確認できる。

 本書は,ここまではうなずけるところが多い。しかし,最後になって斉藤氏は,イネス,グレーバー,金井雄一氏らの主張にほぼそのまま追随し,貨幣はその起源から信用貨幣であり計算貨幣であったのだから,本来の貨幣は金属貨幣・商品貨幣だとするのは誤りであり,スミスもマルクスも誤っていたとあっさり認める。そして,マルクス経済学の貨幣論も全面的に見直すべきだと述べて稿を閉じられるのである。これには同意できない。斉藤氏は,マルクス経済学の宇野派であることに相当な自意識を持たれているのだから,もう少しマルクス体系を駆使して粘ってみてはいかがだろうか。

 私が近年の信用貨幣論の諸潮流にもっとも納得できないのがこの点である。マルクス体系によって貨幣の発展を論理的に跡付けるならば,商品流通はほんらいの貨幣として商品貨幣・金属貨幣を必要とする。しかし,資本主義の発展は商品貨幣・金属貨幣が現に流通することを桎梏とする。そのため代行貨幣が発展し,商品貨幣・金属貨幣を流通から排除して預金貨幣や中央銀行券に置き換えていくしくみが作り出される。このような整合的説明は十分可能だというのが私の意見である。斉藤氏や彼が依拠した論者は,口をそろえて「物々交換は昔からなく,金属貨幣はさほど用いられていなかった」という経済史上の事実をもとに,貨幣論が商品貨幣・金属貨幣から出発することを論難する。しかし,これは認識論としておかしい。経済理論は経済史ではない。資本主義における様々な事柄を論理的に説明するのに適切な順序は,前資本主義から資本主義に向かっての出来事の時間的順序とは異なるはずである。

 マルクス派が貨幣論が商品貨幣・金属貨幣をほんらいの貨幣とするのは,昔々に金属貨幣が主要な貨幣として使われていたからではない。当たり前だが,21世紀の今日に商品貨幣・金属貨幣が流通しているからでもない。商品貨幣・金属貨幣に即してみることで,貨幣の価値尺度・流通手段・支払い手段・蓄蔵貨幣・世界貨幣という主要側面を余すところなく説明できるからである。そうすることで,資本主義発展とともに商品貨幣・金属貨幣を用いることが桎梏となり,代行貨幣が発展していく道のりをも明らかにできるし,その発展が種々の矛盾を伴うことをも主張できるのである。批判や嘲笑を招くであろうことを承知の上であえて言うが,2025年の今この瞬間も,商品流通は商品貨幣を必要としている。と同時に,資本主義は商品貨幣の不便さを代行貨幣で克服している。と同時に,そこには飛躍的な機能拡張とともにインフレやバブルを引き起こす矛盾が潜んでいるのである。このように端緒的規定と発展的規定の関係を前資本主義の過去から資本主義の現在への移行とみるのではなく,資本主義という同時代を説明する論理的説明の進行とみることがマルクス派貨幣論の思考であり,またそれは妥当だろうと私は考えるのである。

斉藤美彦『ホモ・クアンティフィカンスと貨幣:「価値形態論」から「負債論」へ』丸善プラネット,2024年8月
https://www.maruzen-publishing.co.jp/book/b10123118.html


2025年6月6日金曜日

市川浩『“技術論”の源流を訪ねて―1930年代ソ連における“マルクス主義的技術史”の探求―』広島大学出版会,2024年を読んで

  市川浩教授とは若いころに研究会でお会いしただけであり,その時もふたこと,みこと以上の会話はなかったように思う。しかし,本書のあとがきを読んでみると,私はこの方の数年遅れで同じ道を,もっとぼんやりしながら歩いていたような気がする。

 私は市川教授に7,8年遅れて技術論論争史に出会って夢中になり,彼が単位取得退学(のちに学位取得)した3年後に大阪市立大学に職を得て,彼が学んだ加藤邦興ゼミに1年ほど出席させていただいた。同大学に在職中には,市川教授の同僚である中峯照悦『労働の機械化史論』の学位論文審査委員に選出されたのでこれを精読して「マシーネ」と「マシネリ」の違いを初めて認識した。博士でない駆け出し教員に審査をさせるのも無茶であったとは思うが,おかげで勉強になり,中村静治『技術論論争史』に次いで私の技術論に影響を与えた本となった。その後,私は技術論を軸にしながら産業論を研究したが,技術ー生産管理ー技能の関連をどう整理すべきなのかがわからずに苦労した。その観点から注目したのが,転向後の相川春喜の技術論であった。唯物論研究会時代から転向後の戦時期,そしてシベリア抑留から帰国した後までの相川技術論について論じたいと思いながら果たせないうちに,市川教授は本書で技術論の源流にたどり着かれていた。

 さて本書は,技術を「労働手段の体系」と規定する説が,1930年代のソビエト連邦において,他の見解を政治的に圧殺しながら定式化されたものであることを明らかにしている。これは薄々予想できたことではあったが,実際に起こっていたこと,その具体的な過程を解明したことが本書の大きな功績である。技術論には,その源流において見落とされ,断絶された分岐があり,また「大テロル」を正当化したマルクス・レーニン主義,ありていに言えばスターリン主義の呪縛を受けていたのである。

 ところで,圧殺されたのが,労働手段体系説による技術史に物質文化史を対置する見解であったことは,私にとっては示唆的である。物質文化史研究は,いわば人間の実践を対象とするものだからだ。

 マルクス体系に沿って技術を考える際に,「手段」概念は,技術が社会において果たす役割を,技術進歩がかえって労働者を抑圧する問題を含めて,科学的に研究する道を開いたことは間違いない。また「実践」概念が,客観的条件に規定されながら主体的である人間の営みを解明する手掛かりになったことも間違いないだろう。そのように考えるならば,両者にはそれぞれ意義があるはずだ。

 私自身は,マルクスの理論構造に沿って理解し,産業論を研究し,まとまった理屈に沿ってものごとを論じるためには,手段概念の方が優れていると考えてきた。そうして鉄鋼業などを研究してきた。実践概念は技術でなく労働そのもの,例えば研究開発労働の規定にふさわしいし,理論としてまとまりがなく話が拡散しすぎると考えてきた。例えば星野芳郎氏の鉄鋼技術論をそのように批判的に評価してきた。だからといって意識的適用説を階級的敵であって反革命でブルジョア的だとも思わないし,スターリン主義の所産だとも思わない。繰り返すが実践概念は研究開発労働の規定としては意味があると思う。

 しかし,マルクス主義の歴史において,技術の手段概念と実践概念は,学問的に競い合う関係に入らなかった。相川春喜が定式化した「労働手段体系説」と武谷三男が提唱した「客観的法則性の意識的適用説」の相克において,技術を「手段」概念でとらえる見地と「実践」概念でとらえる見地は,通常の意味での学説の違いを超えて,互いを敵視し,根絶しようとする勢いで非難し合った。それはなぜなのか。

 私の限られた学びの範囲で,大まかに言うならば,「手段」概念がマルクス・レーニン主義,ありていに言えばスターリン主義的に理解されたときに極度に硬直的で異端審問的な命題と化すのに対して,「実践」概念はそれに対する解毒剤ないしアンチ・テーゼとしての役割を果たしたのだと思う。本書で論じられたソ連におけるズヴォルィキンの体系説による技術史と,ガルベルの実践概念に立つ物質文化史の関係にも,そのようなところがあったのではないか。戦後日本における技術の労働手段体系説と適用的適用説の関係,さらに言えば民科『理論』派に対する『季刊理論』派,戦後直後の松村一人らに対する主体的唯物論,反映論的芸術論に対する表現論的芸術論,反映論的唯物論に対する実践的唯物論は,みなそのような対立を含んでいたのではないか。やや戯画化して言えば,タダ,モノから出発し,モノを正しく認識しろ,正しい在り方はひとつであって間違うことは許されないという類いの硬直した唯物論理解に対する,実践行為から出発してその契機として認識を位置づけようとすることで,個性や多様な行動の価値を認めさせようとする理解の対抗である。そのような政治的文脈に「手段」概念と「実践」概念が置かれたのである。

 ただ,私はこの対立があったから,反スターリン主義の「実践」概念の方が正しかったと言いたいのではない。問題は,スターリン主義的硬直とそれに対するアンチテーゼという文脈の方だ。この文脈を取り去ってみれば,根本的には技術には「手段」概念の方が妥当すると考えているのである。それだけに,この,政治的文脈ゆえに起こった相克に納得がいかないのである。

 この相克は,具体的にはどのような理論的契機により,またどのような歴史的経緯により生じたのか。マルクス的技術論に潜む理論的可能性と危険とは何なのか。これらは,本書の到達点に立った上で,さらに追求されるべき課題のように思う。


出版社のページ
https://www.hiroshima-u.ac.jp/press/59

何と,本書は丸ごとオープンアクセスになっている。
https://doi.org/10.15027/55809

2025年5月13日火曜日

劉慈欣(大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳)『時間移民 劉慈欣短編集Ⅱ』早川書房,2024年を読んで

 劉慈欣(大森望,光吉さくら,ワン・チャイ訳)『時間移民 劉慈欣短編集Ⅱ』早川書房,2024年。Ⅰの『円』を文庫で読んだので,何となくⅡも文庫かと思い込んで冊子体を注文したら四六判だった。

 劉慈欣の作品はどれもこれもスケール観が圧倒的だ。しかし,舞台装置だけで話を運んでいるわけではない。例えば,本書のいくつかの作品では,作者が比較的はっきりと人間を信頼しようとしている気配が感じ取れる。ある作品の中で語られている「ひょっとしたら,完全に希望を失ったとまでは言えないかもしれない。自分たちができることをしなければ」という台詞は作者の声でもあろう。しかし,科学・技術がどこまでも発展することについては,作者はそれほど楽観的でもない。いくつかの作品では,純粋に行き着くところまで行こうとする科学・技術にとらわれるならば,人間は生きられないであろうことも示唆されている。両義的でもあり,SFの古典的問題に正面から挑んでもいて,それでいて新鮮である。

出版社サイト
https://www.hayakawa-online.co.jp/shop/g/g0000614709/



2025年4月11日金曜日

安孫子麟著作集全2巻『日本地主制の構造と展開』『日本地主制と近代村落』(八朔社,2024年)を読んで

 全然本が読めない状況であるが,何とか安孫子麟著作集全2巻(八朔社,2024年)を読了した。安孫子説をどう受け止めるかは,いずれ落ち着いて考えてみたい。ここでは第1巻と第2巻の違いについて覚書を記しておくにとどめる。

 第1巻『日本地主制の構造と展開』に収録されている論文が示すように,安孫子説は,実態分析により地主制を人格的支配関係を含むとする点で講座派の流れを汲む。山田盛太郎『日本資本主義分析』に対しても肯定的言及の方が多い。しかし,安孫子説は固定的な半封建制論や絶対主義論を採らず,地主制を日本資本主義のウクラードとして位置付ける。資本主義発展に規定され,また農民運動との対抗の中で地主制が成立・展開・解体の変遷を遂げるという点では,栗原百寿の流れを汲む修正講座派である。ここでは講座派の硬直的な在り方に対して,資本主義のダイナミックな展開が強調されている。

 同時に,第2巻『日本地主制と近代村落』に収録されている論文が示すように,安孫子説は小経営的生産様式論と中村吉治の共同体論に依拠した村落社会論という側面を持つ。小経営はそれだけで完結することができす,何らかの共同組織,共同関係を必要とする。その最たるものは土地管理機能の必要性である。しかし,この共同組織は,よく言われるような,人類史の起源から続く共同体と等しいのではない。共同体は血縁規範に支えられた人格的結合であって,生産力の発展とどもに次第に機能別に広域に拡散していき,近代社会では基本的に解体される。近代の村落は共同体的関係を部分的に残しているが共同体そのものではなく,血縁規範以外のまとまりによっても支えられる独自の秩序である。安孫子氏はそれは明治期にあっては「部落」であったとする。ところが部落の土地管理機能は次第に地主による土地管理にとってかわられ,さらにファシズム的な国家管理によって再編される。そして戦後の農地改革を経て新たな村落にとってかわられるのである。ここでは資本主義や商品経済や私的所有権に解消されない,村落における独自の社会関係が強調されているのである。

 安孫子説は,経済史研究や農業・農村の研究にとってのみ有意義なのではない。この説によって,戦前日本が敗戦まで半封建制や絶対主義のままであったかのような講座派の硬直的なバージョンが退けられると同時に,日本は資本主義であることを強調するあまり独自の社会関係を見落とす労農派的見地の硬直的バージョンも退けられる。それだけではない。読者の側が安孫子説を敷衍するならば,小経営の独自の運動を見落とす近代経済学の単純化されたバージョンや,小経営に個人の完全な自立を見出す空想的市民社会論も退けられる。と同時に,村落の共同関係に共同体を見出し,近代的個人を否定した人格的結合への回帰を夢見る時代錯誤も退けられるのである。安孫子説はこのような広大な射程を持つというのが,私の解釈である。




2024年12月14日土曜日

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。

 本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱字が目立つし,引用されている山川均や向坂逸郎の著書・論文の書誌情報が落ちていたりする。著者の主張も,若き日の新左翼活動家としての経験の反省に立っているとはいえ,固まった見地から山川や向坂を裁断するようなところがある。ただし,その分だけ読み進めやすく,わかりやすいので,非専門家でも苦労なく読める。

 山川と向坂についてまとまった評伝を読んだことがなく,また向坂の著書は読んだことはあっても山川のそれにまったく不案内である私にとっては,本書は有意義であった。

 山川論と向坂論を一書に収録した本書の中心的メッセージは,「向坂は山川イズムの継承者ではない。山川と向坂の思想と運動は大きく異なる」ということであるように思う。評者なりに強引に要約すると,思想においては,山川はそれぞれの社会において異なる社会主義の運動や体制の在り方を創造的に模索した。一方,向坂はマルクス・レーニンの教えを金科玉条とし,さらにソ連の体制を賛美し,硬直したマルクス・レーニン主義を臆面もなく唱道し続けた。実践運動においては,山川は共同戦線党など創造的な提唱を行ったが,実践における指導力・推進力は強力ではなく,現実の政治過程では挫折の連続であった。一方,向坂はエネルギッシュであり組織化に優れており,限られた時期とはいえ社会党の運動を左右する社会主義協会をけん引した。

 著者はこのように山川と向坂を鮮やかに対比しているが,両者に対して中立なわけではない。著者は「向坂・社会主義協会を含めて,虚妄のソ連『社会主義』像を鼓吹して民衆を誤導したマルクス主義的社会主義諸勢力の罪過は測り知れない」(220頁)とする一方で,「山川のマルクス主義的社会主義の思想・運動は,様々の方面において未来形である」(121頁)とする。未来は向坂の道ではなく,山川の道にあるという主張である。

 著者の評価する山川イズムの内容は,社会民主主義でなくマルクス主義を堅持する一方で,コミンテルンや共産党の「上意下達関係の思想・運動スタイル」(112頁)とは一線を画し,旧ソ連の体制を「国家資本主義」と批判的にとらえるとともにその外交政策にも侵略性を認めるなど冷静な評価をし,「社会主義への道は一つではない」として平和的民主主義革命を主張したことである。山川のソ連批判を知らず,山川と向坂をなんとなく連続において捉えていた私には,これらの指摘は実に新鮮であった。

 他方,著者の山川イズム評価には,未解決の困難が残されているように思われる。それは社会主義政党の組織の在り方である。著者によれば,山川は前衛政党の必要性を否定しなかった。山川なりに日本の現実に即した党の在り方として戦前は共同戦線党を主張したが,戦後はむしろ社会党から独立してでも社会主義新党を創設しようとした。だが,共産党の組織的あり方を否定した上でマルクス主義政党を作るのであれば,その組織原理はどうなるのだろうか。おそらくレーニン的民主集中制ではないだろう。しかし,それならばどうなるのかが,本書によっても明らかではない。山川ら同人たちによる属人的指導ではないのか,という疑問がぬぐえなくなる。社会主義協会への個人的指導という側面においては,向坂は山川イズムを継承したのではないのかと思えてくる。これはかつて,日本共産党の立場から山川と福本和夫の著作を詳細に検討した関幸夫が指摘したことである(関幸夫『山川イズムと福本イズム』新日本出版社,1992年)。とはいえ,それでは日本共産党の民主集中制によって問題が解決し,党組織が拡大しているのかと言えば,今日の現実は厳しい答えを突き付けている。

 少しばかり敷衍する。2024年の日本において社会主義政党を自覚するのは共産党と,社会主義協会の一部を継承した新社会党だけであり,その勢力は強いとは言えない。いささか枠を拡大し,資本主義への批判度が高い政党をあげるならば社会民主党とれいわ新撰組であろう。それらの組織はどのようになっているのか。新社会党については情報が少なすぎて観察しにくいが,社会民主党とれいわ新撰組については,日本共産党よりも構成員の活動や発言の自由度が高いことはわかる。しかし,その分だけ,組織としての活動が属人的リーダーシップに依存していることも見て取れる。とくにれいわ新撰組はそうであろう。共産党の民主集中制では解決できない問題があるとすれば,それは属人的リーダーシップで解決するのだろうか。共産党に変化の余地はあるのだろうか。ラディカルな資本主義批判政党に,民主集中制以外のどのような組織がありうるのだろうか。あるいは政党に関心を集中する発想を変える必要があるのか。この問題に対して山川イズムは未来形なのか過去形なのか。ないものねだりであるかもしれないが,山川イズムの未解決問題の一つは,本書によってもまだ投げ出されたままであると,私には思える。しかし,そのように思わせてくれることもまた,本書の意義の一つである。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。
https://www.shahyo.com/?p=13978




2024年8月25日日曜日

上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年を読んで

 上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年。政治学の観点から気候変動対策をめぐる国際関係を論じた著作である。以下で述べるように,内容には勉強になった点も疑問点もあるが,何よりも地球温暖化問題が国際政治の容赦ない利害関係と駆け引きの中にあることを知るという点で,有益な一冊であった。

 一応経済学者である私にとっては,「政治」という視点からはこう見えるのかというところが勉強になった。とくに印象的だったのは2点だ。ひとつは,アメリカの気候変動対策がオバマ政権の「クリーン電力計画」からトランプ政権を経てバイデン政権の「インフレ抑制法(IRA)」に着地するまでの政治力学の作用である。なぜ気候変動対策が「インフレ抑制」という看板に含まれているのかが理解できた。もうひとつは,温室効果ガス(GHG)排出削減政策が,対策がほどこされていないがゆえに価格が安い輸入品の増加を招いてしまう,いわゆる「カーボンリーケージ」についてである。具体的にはカーボンリーケージ対策としての国境炭素調整(BCA)と自由貿易との関係がまだついていないこと,さらにBCAの方式が国によって異なることから対立が生じやすいことが理解できた。

 惜しいのは,温暖化対策がもっぱら「コスト」として把握されていることだ。たとえば住宅断熱や再エネの拡大,次世代製鉄や次世代モビリティへの置き換えは「投資」でもあって需要を作り出すのだが,本書にはその観点がない。政治に即して言えば,温暖化をめぐる政治主体の行動が,主張の説得力で正当性を得て支持者を増やしつつ,コストは最小化したい,というものとしてとらえられている。しかし,各国の政治家は,温暖化防止スキームのもとでGHG排出削減のために生活切りつめを国民に求めるのではなく,グリーンな経済・社会開発を実現し,雇用と所得を確保することで支持を得ようとする。この動きを把握しなければならないのではないか。温暖化対策をコスト負担をめぐる政治とみてしまっているところが,本書の叙述をせまっ苦しいものにしていると,私には思われた。


出版社ページ

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/06/102807.html



2024年7月22日月曜日

麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書,2024年を読んで

 麻田雅文『日ソ戦争 帝国日本最後の戦い』中公新書,2024年を読んで。

 本書を読んで認識を新たにしたのは,何よりも「日ソ戦争」という名称でくくられる一つの戦争があったということである。この戦争は,対中国の戦争とも対米英の戦争とも異なる性格のものであり,1945年8月15日を過ぎても戦闘が終わらなかった戦争であり,戦後の日ソ関係,今日の日露関係にも重大な影響を及ぼしている,独自なものだった。本書の最大の意義は,この戦争の独自性をはっきり示したことにあるように思うし,また著者の狙いもここにあったのだろうと思う。

 一方において,日ソ戦争は第二次世界大戦の一部であり,その意味で相対化される。大日本帝国の軍事支配体制が背景となり,アメリカの戦略によっても規定されたものである。しかし,繰り返しになるが,それでもやはり日ソ戦争は日ソ戦争という独自の戦争なのであって,それ自体としても評価されねばならない。本書で,著者は日ソ戦争の特徴として3点を挙げている。第1に,民間人の虐殺や性暴力など,現代であれば戦争犯罪である行為が停戦後にも頻発したことである。第2に,住民の選別とソ連への強制連行である。第3に,領土の奪取である。もっともな指摘である。

 こうして改めて見直してみれば,戦後の日本における世論がソ連に対して否定的になったことはもっともであった。それはアメリカと同盟を結んだが故の反共イデオロギー宣伝の結果だけではなく,根拠のある話であった。また,この話を敢えて裏返すならば,日本の社会主義者たちがある時期までソ連に批判的に接することができなかったことの問題も,やはり深刻であった。戦後の日ソ関係や日露関係とは,そういうトラウマや呪縛との格闘であったのかもしれない。


出版社ページ
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/04/102798.html




2024年2月6日火曜日

立原透耶編『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』新紀元社,2023年を読んで

 立原透耶編『宇宙の果ての本屋 現代中華SF傑作選』新紀元社,2023年。帯にも抜粋されている解説で林譲治氏は「『世界の中で中国とは何か?』という問いかけが無意識のうちになされているように思う」と書かれているが,私はむしろ,本書に収録された作品はどれも中国という場所にこだわらず,人間とは,人類とは何であり,何でありうるか,という問いに向かっているように思う。舞台が中国であれ,主人公が中国人であれ,ガジェットが中国で知られたものであっても,そこで問われているのは個々の人間の生が,また人類という種が,どこまでのことを経験し,どこまでのことをなしうるかなのだと思う。

 中国SFをそれほど多くを読んでいるわけではないが,その方向性は多様である。SF的想像力に基づきながら現代中国の内面を掘り下げた小説もある。その一方,本書のように中国という限られた場から解き放たれていくようなSFもある。ともに世界で読まれるべき中国発のSFと思う。

出版社ページ

http://www.shinkigensha.co.jp/book/978-4-7753-2023-5/



2023年10月25日水曜日

ウォルター・アイザックソン著(井口耕二訳)『イーロン・マスク(上)(下)』文藝春秋,2023年を読んで

 スティーブ・ジョブズの伝記と言い,今回のイーロン・マスクの伝記と言い,著者のウォルター・アイザックソンが考えていることは,次の箇所に集約されていると思う。

「自信満々,大胆不敵に歴史的な偉業に向けて突きすすむなら,ひどい言動や冷酷な処遇,傍若無人なふるまいも許されるのだろうか。くそ野郎であってもいいのだろうか。答えはノーだ。もちろんノーだ。同じ人でもそのいい面は尊敬し,悪い面はけなす。それはそんなものだろう。ただ,ひとりの人を形作る糸はより合わさっている。それこそ,きっちりとより合わさっている場合もある。布全体を全部ほどくことなく闇の糸を抜くことは難しかったりするのだ。」(邦訳,下,p. 435)

 ジョブズとマスクには具体的なところでは共通点も違いもある。マスクはエンド・ツー・エンドに仕上げようとするところはジョブズと同じだが,工学系の人間であり,エンジニアリングでも製造でも自ら現場指揮を執るところは違う。物理的なところも自ら見られるので,現場に行かないエンジニア,製造を知らない設計者を許さないという特徴もある。限界まで激しく,現場に詰めて寝ずに働くシュラバそれ自体を価値あるものとする点はジョブズより極端である。製品に対する美意識の強さは同じだが,マスクはコスト意識が極めて強く,無茶なほど設計簡素化と省略を強要するところが違う。家族に対する態度は,形は違うようでところどころ無茶苦茶なのは同じとも言えて,これは何とも言い難い。

 経営学の研究者からすると,マスクがエンジニアリングと製造のシームレス化や改善や激しい働き方についてやっていることは,ある意味ではかつての日本の企業人と似ていると考えることもできる。ただ,自分と優れたエンジニア数名が主役となり,現場を駆け回って命令しながら成し遂げようとするところは違う。上から下まで誰にでも合理的説明と工夫をさせようとする点はかつての日本企業と似ているが,それを自らの一方的命令で行い,うまくいかなければ速攻で解雇して人を入れ替えるところは違う。

 実は私は,何だかんだ言っても少量生産であるスペースXはとにかく,一般顧客向け大量生産のテスラをどうやって成り立たせたのかが不思議でならず,本書を買った。答えは,「自分と何人かの専門家が総出で現場で徹夜で監督する+説明と改善をすみずみまで強要する+能力不十分なら速攻で解雇して速攻で補充採用する」のように見える。それで何とかなるはずはないだろうと思う一方で,本書を読むと何とかなりそうにも思えてくるから不思議である。まだ半信半疑だが,確かにすごいと思う。

 スペースXやテスラに関する章に比べると,ツイッターに関する章は読んでいて気持ちが悪い。著者が看破したように,マスクはスペースXやテスラと同じようにツイッターもテック企業だと思い込んでいたが,実はコミュニケーション企業だったのだ。スペースXやテスラでは,マスクがダメだと思い込んだ人間をクビにして設計や製造の仕方を変えれば済むが(それでもどうかとは思うが),ツイッターの場合,マスクの不用意な言動で,轟轟たる中傷を浴びねばならなくなる人が発生するところは,本書で最も嫌な気持ちになった部分である。

 結局は冒頭に引用したアイザックソンの言葉に尽きるのだが,私の関心は上記のようなところにあった。それぞれの関心から読めば,きっと面白く,また考えさせられる本だと思う。


ウォルター・アイザックソン著(井口耕二訳)『イーロン・マスク(上)(下)』文藝春秋,2023年。

https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163917306




2023年8月27日日曜日

E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年がずいぶん売れたらしいことについて

 E・H・カー(近藤和彦訳)『歴史とは何か 新版』岩波書店,2022年。『思想』7月号の特集を見て,清水幾太郎訳で読んだ内容をすっかり忘れていることを思い出し,なんぼ何でもまずいかと思い,買って読んだ。久しぶりに自覚したが「これを読んでおかないとまずい」という強要,いや教養マインドの残り火くらいは私の心にもあったようだ(※1)。

 新訳は昨年8月の時点で4刷り2万5千部出たそうで,この種の本では大変な売れぶりである。「なぜ,いま,カーなのか」というのが『思想』の特集号のテーマと思うが,一番分かりやすいことを,わが同僚の小田中直樹教授が書いている。いわく,「危機の時代には変化の歴史学が求められる」のだそうだ。

 私は彼の言うことに賛成である。ただし,それは「本日,みな腹が減っているから食事が必要だ」というのに賛成だというのと同じ意味においてである。文化や歴史に関心を持つものにとって,たいていの場合,「現代は危機の時代」である。したがい,我々はどこから来て,どこに行くのかということ関心をもつので,優れた歴史論に関心が集まる。これは,過去100年くらいはいつでもどこでもあてはまることなので,わざわざ言う必要はないのではないか。ちょうど,あらゆる政党が,選挙に当たっては必ず(無投票の場合を除き)「今度の選挙は歴史的なたたかい」であり「かつてない激戦」であるというのと似ている。

 では,なぜ,いま,この時に限ってカーなのか。およそ私などに深い理由はわからないが,カーが好意的に評した社会学の発想を借りて考察すると,こうなるのではないか。

 いまや,あまりにもろくでもない本ばかりが出回っているために,「『現代』の範囲でちょっと昔の名著の方がはるかにちゃんとしたことが書いてある!」と再発見され,世代を超え,新鮮さをもって広く読まれており,4万5千部に達している(※2)。

 ただし,これは楽観的に過ぎるかもしれない。以下のような可能性もある。

 いまや,活字の本それ自体が電子版を含めて読まれなくなったことに怒り心頭に達した中高年の研究者や本好きが,「本当に素晴らしい名著を読め,コラア」という共通の心情に駆られ,意地になって名著の新版を買い,再読しているが,中高年の研究者と本好きの域にとどまるので4万5千部である(※3)。

 さすがに悲観的過ぎるだろうか。

 私個人は,読むと改めていろいろな新しい発見があり,そうすると逆に「多少古い理論でも,十分これで行ける。これでいいじゃないか」と退行してしまいがちである。緩やかな実在論で,進歩の概念は一応想定するカーの議論で十分研究の導きの糸になるし,21世紀に研究する上でもとくに支障はないんじゃないか,当時の社会主義国を過大評価しているかもしれないけれど,という風に割り切りたくなるのである。これで本当にいいのか,よくわからないが。


<異次元の注>

※1 特撮・アニメオタクの世界でも,かつては自分の趣味の中核ではなくても,「この領域は一応全部抑えておかないと」と読んだり見たり買いそろえたりして,時間もカネも居住スペースも失っていったものである。

※2 さんざ特撮SF・ヒーロー番組を見たあげく,「やっぱり初代のウルトラマンがいちばんよかった」という人が後を絶たないようなものである。

※3 おたくがこぞって初代ウルトラマンのすばらしさを再発見して関連商品を買いあさり,評論を発表したところで,社会的影響力は極めて限られているというようなものである。



2023年8月14日月曜日

石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年を読んで

 石田光男・上田眞士編著『パナソニックのグローバル経営 仕事と報酬のガバナンス』ミネルヴァ書房,2022年。幸いにも8月9日石田教授・植田教授が臨席される書評会にオンライン参加させていただいた。著者らは,おそるべき詳細な実態調査と600ページにわたる記述を通して,以下のことを論じている。雇用関係の全体像は,仕事のガバナンスと報酬のガバナンス,両者の整合性を論じないと把握できないこと。仕事のガバナンスの描き方が先行研究では弱かったこと。経営過程とはPDCAサイクルに沿った計画の体系として叙述すべきこと。PDCAに基づく運営を,従業員のできる限り下位の層まで関与させながら進めるのが日本の経営の特質であること。

出版社ページ
https://www.minervashobo.co.jp/book/b589600.html



2023年6月19日月曜日

「不足経済」と「余剰経済」を同一平面上で扱う観点:コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』を読んで

 コルナイ・ヤーノシュ(溝端佐登史ほか訳)『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』講談社学術文庫,2023年。2016年に単行本が出ていたのに気づかず,今になって読んだが,重大な収穫があった。

 今回注目したのは第2部である。コルナイは,社会主義計画経済を「不足」の経済と把握する理論で世界的に著名となったが,本書ではこれを拡張し,社会主義を不足経済,資本主義を余剰経済として,同一の論理平面上で把握しようと試みているのである。私はずっと,そうすべきではないかと漠然と思っていて,いちどだけ経済学入門の講義(2002年度)で「不足の政治経済学」と「過剰の政治経済学」を対比しながら話したこともある。しかし,それ以上,どのように理論化したらよいか見当もつかずに放置していた。そのため,今回は大いに勉強となった。いま,過去の自分の講義レジュメを見ると,教科書はA.アダムス&J.ブロック『アダム・スミス,モスクワへ行く』で,さらにコルナイの『「不足」の政治経済学』とガルブレイスの『ゆたかな社会 第4版』を使って財の不足・過剰を論じようとしたのだが,労働力の不足・過剰が抜けていて,付け焼刃を露呈している。本書でコルナイが効率賃金と産業予備軍に触れているのを見た瞬間,「しまった」と思った。


講談社BOOK倶楽部の本書ページ

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000373948




2023年5月15日月曜日

中山俊宏『アメリカ知識人の共産党 理念の国の自画像』勁草書房,2023年を読んで

  本書は2022年に55歳で逝去された中山氏の博士論文(2001年学位取得)を出版したものである。

 予約して5月1日に入手した。連休中は,5日までは論文作成に集中し,6-7日と温泉に行って,寝転びながら本書を読む予定であった。だが,実際には論文を書いてはへばり,へばったら本書を読み,叙述に引き込まれてつい読みふけり,温泉に行く前に読み終えてしまった。まっとうな市民や研究者の方には理解しがたいことであろうが,左翼崩れでアメリカ研究者のなりそこないである私には,本書はマンガや小説を読むようにすらすら面白く読めたのである。

 短評を可能にするために単純化を許していただくとすれば,本書は「米国共産党史」を研究したものではなく,「アメリカの知識人による米国共産党研究史」を論じた書物である。言説分析の手法によって米国共産党研究史を解釈することによって,米国の政治史の重要な断面を観ようとするものである。米国共産党はソ連とコミンテルンの方針に忠実な党であり,またスターリン時代に定式化されたボリシェヴィズム,マルクス・レーニン主義に忠実な党であった。その姿勢を,1956年のフルシチョフによるスターリン批判以後も変えようとしなかったことが致命傷となり,現実のアメリカ政治にほとんど影響を与えない存在になってしまった。しかし,にもかかわらず,著者によれば,米国共産党をどう評価するかは,アメリカ知識人にとって重要な問題であり続けたというのである。なぜなら,米国共産党を評価することが,「アメリカの理念」の把握とそれに対する自らの態度表明に深くかかわっていたからである。

 著者は,米国共産党史を三つに時期区分する。第一期は,1950-70年代後半の,ダニエル・ベル,セオドア・ドレーパーらによるものであり,いわば「反共リベラル」を中心にした研究である。多くの研究者が左翼からの転向を経験している。研究対象は共産党の幹部を中心にしたものであり,共産党がソ連のコントロール下にあったことを中心的に解明する。そして米国共産党は非アメリカ的なもの,アメリカにあってアメリカに属さないものとされる。

 第二期は,1970年代後半以後の,モーリス・アイサーマンなど,ニューレフト世代の研究者によるものである。第一期の研究を批判し,共産主義よりも反共主義の排他性がアメリカにとって問題であるとする「反・反共主義」の立場をとる。著者はこの世代の研究者を「見直し論者」と呼んでいる。この期の研究は社会史の隆盛などを歩調を合わせ,党幹部や党の公式方針ではなく,一般党員による草の根の運動にフォーカスする。党とソ連との関係がどうあれ,草の根では社会の問題を解決するための活動が行われていたことを解明し,米国共産党は,実はアメリカ的であり,アメリカ・ラディカリズムの伝統の中にあったのだとされる。そのあらわれとしてブラウダー主義が再評価される。

 第三期は,1980年代後半以後に目立ち始める,新保守主義を背景としたものであり,ハーヴェイ・クレア,ジョン・E・ヘインズらによるものである。反共主義の正統性を第一期以上に主張し,それをソ連の崩壊によって入手できるようになった旧ソ連側一次資料,さらにNSA(国家安全保障局)が保管していたヴェノーナ文書によって実証しようとする。端的に米国共産党をソ連に操作された陰謀組織とするものである。

 これ以上本書の内容に立ち入ることは控えるが,上記の三つの時期区分を見ることで,米国共産党を論じることが,アメリカ社会の自己認識に関わる問題であるという,著者の見地が了解できるだろう。

 私は本書によって説得される部分が大きかったし,本書によって扱われている問題を,たいへん親しみのあることとして読んだ。というのは,私は,キリスト教徒にして日本共産党支持者という両親の下で育った経験から,普遍性を求めることによって日本社会に独特な問題を超克することと,日本の歴史・習俗を尊重することによってその社会の一員となることの,二つの方向の間を振動しながら暮らして来たからである。日本にあって,日本のしがらみに属さないことを良しとするのか,それとも日本に属することで多くの人とつながろうとするのか,そして左翼であることとはそのどちらなのかは,ものごころついて以来,私が考えねばならないことであったし,いまもそうである。

 また本書によって,ある研究者との邂逅において不可解であったことがようやく理解できた。1998-99年,ヘンダーソン大学のMartin Halpern氏がフルブライト基金を受けて来日され,東北大学経済学研究科の客員研究員として滞在された。その専門がアメリカ労働史,とくにUAW(全米自動車労働組合)の歴史ということで,私も大学院の授業に参加し,また何度か食事を共にして交流させていただいた。その際に驚いたのは,氏がアメリカにおける労働運動でコミュニストが積極的役割を果たした,コミュニズムはアメリカの精神に即していたと繰り返し強調したことであった。あまりのことに私は(私ですら),アメリカ共産党がソ連の方針に常に従っていたが故に大衆的支持を失ったのではないかと質問したが,氏はソ連は関係ない,アメリカの現場に根差していたことが肝心だと言われた。私は,当時腑に落ちないところを残した記憶があるが,本書を読んで,Halpern氏の研究も,この第二期の流れの中にあったのであろうと了解できた。

 私は中山氏の政治学者としての活躍にまったく無知で,その訃報によって彼の存在を知ったほどであった。彼の生きた声に接する機会を持てなかったことや,もはや持つことができないことが残念でならない。

 なお些細なことであるが,137ページでStudent Nonviolent Coordinating Committee. SNCCの訳が「学生暴力調整委員会」になっている。「学生非暴力調整委員会」であろう。解説者の押村高氏によれば出版に際して最低限の形式的な修正はしたとのことで,逆に言うと形式的な修正はするという編集方針なのであろうから,2刷りの際に訂正されることを希望する。もちろん,2刷りが発行されること自体も。



2023年4月21日金曜日

Vaclav Smil, Still the Iron Age: Iron and Steel in the Modern World, Butterworth-Heinemann, 2016.を読んで--「今もなお鉄の時代」

 Vaclav Smil, Still the Iron Age: Iron and Steel in the Modern World, Butterworth-Heinemann, 2016.

 流し読みながら、ようやく通読できた。スミル氏は,食料,エネルギー,環境問題の専門家として知られており,その著作はいくつか日本語にも訳されている。しかし,氏の知識は恐ろしいほど範囲が広い。鉄鋼にも及んでいるというだけでなく、鉄鋼の歴史,技術,経済,社会のいずれの側面にも及んでいる。昔読んだもので言うと中澤護人『鋼の時代』(岩波新書,1964年)を思い出させる。本書は,残念ながら私にはとても書けそうにない,鉄鋼についての総合的な理解を得るために不可欠の著作である。

 代替素材が出現し,また先進諸国では経済・社会の非物質化(Dematerialization)が進行しているとはいえ,著者はタイトルにある通り『今もなお鉄の時代』であり,それは容易には終わりそうにないと考えている。

「今後半世紀を見通しても,我々の最良の工学的,科学的,経済的理解にもとづく結論は以下のようになるに違いない。我々の文明が鉄鋼(steel)なしにたちゆくという現実的可能性はない。この金属に対するグローバルな依存の規模はあまりにも大きく,急速に極小化することができない。われわれはアルミニウムの33倍,あらゆるプラスチックの合計の約6倍の鉄鋼を使っているのである」(終章より)。

 そして著者は、新製鉄技術が高炉に取って代わることのハードルも高いと考えている。それは、技術とは、開発されるだけでは完成したことにはならず、経済的な大規模生産を実現しなければならないものだからである。

「いずれにせよ,たとえ成功裏に実証されたとしても,すべての新製鉄技術は,手ごわい目標に立ち向かい,実証実験からパイロットプラントへ,そして大規模生産へという決定的な移行を遂げねばならないだろう。現代的な高炉における熱的・化学的効率と,その大規模な作業量,高い生産性,すぐれた寿命の長さは,同様のパフォーマンスを示す大規模な還元技術を考案することを極めて困難にしているのである。」(同上)

 著者は、鉄鋼技術の科学的研究や研究室での開発の歴史だけではなく、実際に社会で生産に用いられてきた歴史を踏まえてこのように述べている。これが本書を重要な社会的意義を持つものにしている。

 技術が市場とコストという経済的テストに合格しなければならないという命題は深刻である。経済的合理性を考慮しながら、地球温暖化防止のポイント・オブ・ノーリターンに間に合うように、鉄鋼技術を脱炭素化することは可能だろうか。これが読後に残される問題である。


出版社直販
https://www.sciencedirect.com/.../9780.../still-the-iron-age

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https://www.amazon.co.jp/Still-Iron-Age.../dp/B01B4KO21C

2023年3月23日木曜日

岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年を読んで:マルクス学の商売,その歴史と現在

 岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年 自嘲生涯記 増補改訂新版』航思社,2023年。一体,何が起こったのかと思った,まさかの復刊。旧青土社版(1983年)を買ってはいないが,渡辺寛氏との問答の記述が記憶に残っているから,たぶんちらちら見たことはあるのだろう。岡崎次郎と言えば,私の世代(1964年生まれ)にとっては国民文庫や『マルクス・エンゲルス全集』の『資本論』,岩波文庫版『金融資本論』など,マルクスやマルクス主義文献の翻訳者である。本書はその生涯を振り返って自ら書き記したものである。

 その生涯は,私には,ああ,こういう人もきっと昔のマルクス主義者にはいたよなあ,そんな名残は私の先生たちにもあったよなあ,と読めるものであるが,今の若者が読むとぎょっとするのかもしれない。極端に言えば遊民,やや穏やかに言って浮世離れしたところがあり,もっと穏やかに言って超マイペースな人生だからである。マルクスの翻訳だけでこんなにお金が入ったことも(大月書店からの『マルエン全集』と『資本論』各版の印税1億5000万円!=今の貨幣価値で2億6650万円),また当人が暴力革命以外ありえないだろうという思想を持っているのに,本書では社会に対する理想や思いよりお金や大学の人間模様や翻訳業務をめぐるドタバタに頁を費やしているのも,私の世代では,まだ「あるある」と思うが,今の若者には理解しがたく,もしかすると不快に思うかもしれない。とくに,著者は本書刊行後間もなく,奥方とともに旅立ち,消息を絶ったことで知られているだけに,初見の読者が本書をマルクスに殉じた歩みを記したもの,と考えて手に取ると,「何だこりゃ」となるおそれがある。

 しかし,本書はそういうものではないのである。では,どういうものか。資本主義社会で生きる以上,マルクスに携わる研究者も大学教員も翻訳家も,運動家さえも,原稿料や印税や給与や講演料を得てくらしていかねばならず,それなりに「商売」感覚を持たざるを得ない(持たない場合,すぐに野垂れ死ぬか,あるいは家族に多大な負担をかける)。これは,岡崎氏が,自らの生涯のうち,当時のマルクス業界の「商売」に関する部分を中心に記述した本だと思えばよいのである(そういう記述をした本として,他に野々村一雄『学者商売』がある)。そして,その「商売」感覚が,昔と今とでは相当に異なっているのだ。マイペースにお金を稼げるマルクス業界は,もうどこにもないからである。

 そんなわけで,本書はもはや一つの歴史であるが,どうしても,時代を超えて,いまこうす「べきだ」と言いたくところがひとつだけある。それは,岩波版『資本論』の翻訳について,向坂逸郎と岩波書店が岡崎氏にとった態度についてである。文庫版第2分冊以降をほとんど岡崎氏に訳させ,共訳とするはずの約束を「下訳」扱いして自分の単独訳とし,印税だけ折半するなどという行為が,なぜまかり通ったのか。マルクス業界にも,なぜこのような親分・子分関係が存在したのか。もちろん,このことも本書の他の内容とともに歴史として扱うべきかもしれない。しかし,岩波書店は,この出来事をなかったかのように扱い,『資本論』を向坂の単独訳として,今なお販売し続けているのである。それは,現在の問題として改めるべきであろうと,私は思う。



2023年1月17日火曜日

債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)

  前稿に続き,クナップ『貨幣の国家理論』を検討する。


<クナップは表券主義をもとに貨幣流通の根拠を論じているか>

 クナップは貨幣とは表券的支払手段であり,法秩序の創出物であるとする。しかし,前稿で見たように,クナップが本書を通して証明したことは,価格標準は国家が制定するものであるということに他ならない。このことがクナップの功績であり,逆に,このことから貨幣の本質まで論じることがクナップの限界であると思う。

 クナップが,国家権力の力によって貨幣が通用すると考えていることは間違いない。その最大の根拠は,価格標準は国家が制定するしかないものだからだというところにある。しかし,価格標準を国家が制定したからと言って,人々がそれを受け入れ,国家の貨幣を受け入れるとは限らない。では,なぜ貨幣は流通するのか。クナップは,そこを積極的に説明しているようでもあり,していないようでもある。

 ここで注目すべきは,クナップが,「素材的価値のない表券箇片に対する非難」に第1章で反論しようとしていることである(邦訳52-57ページ)。まずクナップは大胆にも,「たとえ箇片の文言が『債務証券』となっていても,その債務が償還されないものなら債務ではない」とし,紙券が国家の債務証書であることを否定する。しかし,「実際,債務から解放されるのなら,自分は何か材料を受け取ったかどうかなど考えなくてよい。とくにこの貨幣は国家に対する債務から解放してくれる。国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」として,国家が課す債務は,国家の発行する貨幣による支払いで解消されるという,相殺機能の有効性を主張するのである。

 しかし,クナップは,この機能を貨幣が人々に受け入れられる根拠とまで特定しているようには読めない。そこは「租税が貨幣を起動する」と断定する今日のMMT,例えばランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』とは異なるように私には思える。MMTがクナップを自らの祖先とするのは理由のあることであるが,「租税が貨幣を起動する」という自らの主張をクナップのものだと解釈するのは行き過ぎではないか。クナップは,国家が貨幣を創造したことを前提に,国家が課す債務を解消する機能の有効性を指摘しているように,私には思える。


<債権債務の相殺は手形取引に由来する>

 ただ,ここでは敢えて一歩譲り,国家が課す債務を解消できることが,貨幣を人々が受容する最深の根拠になるのかどうかを検討しておきたい。結局,この機能の有効性を貨幣流通の根拠に高めることによってMMTの論理が構築されたことが,クナップ説復権の理由になっているからである。

 さて,クナップは「国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」とするが,「発行者だから受け取らざるを得ない」という言い方は,いま一つ説得力が弱い。これは債権と債務の相殺だから可能なのだとみなすべきである。国家の貨幣で租税等を支払うのは,国家が課した債務を,国家に対する債権で相殺しているのである。前述のように,クナップは「償還されないものなら債務ではない」として,貨幣が債務証券であることを否定する。国家に金や財貨での支払いを要求できなければ債務証券ではないと言う意味であろう。今日では,MMTや信用貨幣論を論難する側の人々が言いそうなことである。しかし,相殺による決済に用いることが可能であり,また発行者に対する債務を返済することに使えるのであれば,債務証券という性質は,少なくとも全否定されないと見るべきである。だから,クナップは当該箇所の言説と裏腹に,事実上,貨幣の債務証券的性質を認めていると言ってよい。

 次に問題なのは,債権債務の相殺とは,そもそも課税と納税に由来することなのかということである。ここで「由来」というのは,時間的に過去にさかのぼって見つけられるべき歴史的起源ではない。つまり,ここで前近代における貨幣史を根拠にしてあれこれ論じるのは適切ではない。問題は,現代の資本主義経済における「由来」である。つまり,資本主義経済の構造において,より根本的なものは何かというところでの「由来」である。債権債務の相殺は民間にもあるし,課税・租税の関係にもある。それでは,クナップが言うように,債権債務の相殺とは課税と納税に由来するのであろうか。課税と納税がひな型となって,民間がそれに倣うようなものなのであろうか。

 明らかに異なると私は思う。債権債務の相殺とは,商品流通の発達を前提に,商品の買い手によって手形が発行され,流通するようになったことで可能になったと見るべきである。手形は貨幣の支払手段機能が自立した債務証書であり,発行者の信用度に応じて満期日まで流通する。ここではもちろん商品の買い手=手形の発行者が債務者であるが,もし誰かが発行者に対して債務を負うことがあれば,その債務をこの手形で相殺して償還することが可能である。また,多数の手形について債権債務を相殺し,残った差額のみを貨幣で支払うという取引も可能になる。手形流通によって債権債務の相殺という取引が可能になり,それを基礎にして銀行券=銀行手形の流通,銀行預金を用いた振替決済も可能になる。発券集中がなされた暁には,中央銀行の預貸と決済のシステムが成立する。

 このように,商品流通と資本主義的生産が行われている今日の経済を論じる際には,債権債務の相殺は商品流通そのものの発達,ありていに言えば民間経済に根拠を持つと言わねばならない(※)。手形と銀行券の流通・決済の方がひな型であり,課税と納税の方を派生的なものとして理解すべきである。


<とりあえずの結論>

 前稿で述べたように,価格標準とは国家が定めるものだというのは,クナップの言うとおりである。このことを多面的に,詳細に,説得力を持って明らかにしたのがクナップの功績である。しかし,債権債務の相殺という取引は,商品流通と資本主義経済内部の取引から発生するものである。以上がクナップ説に対する私の見解である。

 そして,ここから派生して,今日の信用貨幣の流通根拠を論じる際に,課税と租税から論じるよりは,商品流通の発達を前提とした手形の発生と発展から論じる方が妥当である,と私は主張する。これが,MMTの「租税が貨幣を起動する」という説に対する,私の見解である。

※ なお,先行するクナップ批判として岡橋保によるものがあり,参考にしたことを記しておく。
「クナップの支払手段理論 (Lytrologie) にあっては,国家は自由に金の貨幣名を決定しうるという価値単位の名目性と,その規定するところの支払手段により貨幣債務はいつでも弁済されるという貨幣債務の名目性とから,貨幣をも 国家の規定する記号と形態とをそなえた個片,すなわち定形的公布的支払手段 (表券的支払手段)であるとされている。これは,クナップが,債権債務の錯綜による手形の流通,手形の貨幣化(商業貨幣流通から銀行券あるいは預金貨幣の流通)の経済的背景である価値関係を看過し,その法律的表現のみをとらえたことによるものである。手形の流通は商品流通の発展の結果であり,債権債務の錯綜が,ここに,手形をして満期日までのあいだ,ふたたび, 支払手段として流通することを可能にするものであって,これら手形の割引によって,これにかわって現われた銀行や預金貨幣が,代用貨幣として流通しうる根拠も,かかる債権債務にもとづく価値関係の存在にある。したがって 貨幣の支払手段機能は,商品流通,したがって貨幣の流通手段機能とともに,価値の尺度としての機能を前提する。」(岡橋保『貨幣論 増補新版』春秋社,1957年,37ページ)。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

前稿「価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)」Ka-Bataブログ,2023年1月16日



2023年1月16日月曜日

価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)

  クナップ『貨幣の国家理論』を読み終わった。もっとも気になる点について,2回に分けて書き留めておきたい。


<クナップによる貨幣の規定>

 クナップ説を一言で言えば,貨幣は表券的支払手段だということである。もう少し言えば,「価値単位であらわされる債務は,メダルでも紙片でもいいが,標識のついた箇片で弁済され,その箇片は法秩序によって一定の価値単位の通用力を持つ。そのような箇片を表券的支払手段と言う。通用力は箇片の内容に依存しない。法秩序は国家から発せられ,それゆえ貨幣とは国家的仕組みと言うべきものである」(原著第2版第2節要旨。訳書300ページ)。

 金や銀の一定量からどれほどの貨幣が製造され,それを何百ドルとか何円とか呼ぶという形で成立している貨幣は,クナップの用語では貨幣素材発生的かつ正範的な貨幣であり,正貨である。また国が支払いに用いる貨幣が本位貨幣である。そして,法により他の貨幣に変えられず,最終的に受け取らざるを得ない貨幣を最終的貨幣と呼ぶ。

 クナップ説では,たとえば同書の発行当時である1905年には各国で広く見られた,正貨であって本位貨幣であって最終的貨幣であるような金貨は当然貨幣である。しかしまた,「国家が,これこれの外観の箇片は公布により通用する」としたもの,例えば不換の政府証券なども貨幣なのである。なので,クナップ説は,現代の貨幣,つまり兌換が停止され,それ自体は「標識のついた箇片」に過ぎないとも言える中央銀行券や,あげく特定単位の数値でしかない預金貨幣を包含する学説であり,それゆえに再評価されているわけである(※1)。とくに,その表券主義は現代貨幣理論(MMT)の,「貨幣は,国家への支払に用いられるが故に通用する」という主張に採用されている。


<価格標準の国家理論としてのクナップ説>

 さて,私が思うには,クナップ説の核心は「価値単位」の「評価」理論であり,日本のマルクス経済学が使い慣れた用語でいえば「価格の度量標準」または「価格標準」理論であるように思う。

 よく言われる貨幣の基本的機能に即して言うと,クナップは価値尺度論は論じておらず,価格標準論に力を集中している。支払手段論にも力を入れているが,流通手段論と支払手段論を含めて「支払い手段」と呼んでいるように見える。価値保蔵機能や世界貨幣機能には事実上触れているが,理論化はしていない。クナップは,価格標準を国家が制定することをもって価値尺度機能を否定している。例えば金は価値尺度ではないとはっきり言っている。貨幣素材自体の価値を認めない以上,価値保蔵機能や世界貨幣機能も理論的にはないということだろう。

 クナップが否定する価値尺度機能を強調するのは,彼の用語では金属主義学説,後に使われるようになった言葉では商品貨幣論である。クナップは具体的学派名を上げていないが,例えばマルクス派もここに含まれる。金属主義または商品貨幣説の意味は,それ自体が価値を持った貨幣商品(歴史的には銀や金などの金属)が貨幣だということである。商品貨幣論においては,金も一般商品と同じく価値を持っており,ある量の金は,それと同量の価値を持つ商品Aに等しい。ということは,その5倍の量の金は,商品A5個分や,商品Aの5倍の労働価値を持つ商品Bに等しいという風に価値が尺度される。これが価値尺度ということである。クナップは,理論的には価値尺度機能を否定したうえで,こうした論理は,金属重量測定制という原初的な制度でのみ用いられると局所化している。

 さて,価値尺度機能があろうとなかろうと,貨幣素材を用いる場合,測定するには必ず何らかの単位が必要であり,通常は重量単位が用いられる。そして重量単位,たとえばグラムを価格の単位,たとえば円によって評価し,Xグラムの金イコール1円などと定める。これが価格標準であり,こうして貨幣素材について価格標準が定められた貨幣が正貨である。クナップはこの価格標準を,金が価値を持つからではなく,国家が権力的に制定したから成立するのだとする。極論すれば,クナップが本書全体を通して述べていることは,一国内の貨幣の価値や国際的な交換比率というものは,そもそも国家が正貨について価格標準を定めたことによって成立するのだということである。

 価格標準を国家が定めるという命題は,実は商品貨幣論に立っても成立する。貨幣商品が価値尺度機能を果たすとしても,Xグラムの金を1円と呼ぶか1クレジットと呼ぶか,あるいは0.239Xグラムの金を1円と呼ぶかは,自然発生的な商品交換からは決まらない。この価格標準を誰かが人為的に与えなければ決まらないのである。商品貨幣論をとるとしても,価値尺度論は商品交換から自然に成立するものとして論理構成できるが,価格標準論では国家の機能を想定せざるを得ないのである。なので「価格標準は国家が定めるものである」という命題自体には非常な説得力がある。この命題を証明したことが,クナップの最大の功績であるように,私には思える。

 では,上記の考察から見れば,現代の管理通貨制度とはどのようなものか。クナップの規定を拡張して適用すればいい。現代の管理通貨制とは,「国家が正貨を定めず,したがって商品貨幣についての価格標準の単位は定めても水準をもはや定めない」制度だということになる。

 管理通貨制度のもとでも,国家は価値単位を定めて国内に強制してはいる。日本では「円」,アメリカでは「ドル」という単位が使われる。しかし,国家は,金属材料に対する評価は止めてしまっており,価値単位は名目的なものになっている。1円が金何グラムであるかは公定されず,固定もされていない。また金や銀も,もっぱら貨幣商品であることを止め,工業材料としての需要やポートフォリオの一つとしての需要から価格が変動している。

 したがって,価格標準は「円という価値単位を使うと国家が決めた」と言う意味では存在している。しかし,金1グラムイコールx円という形で貨幣商品と一般商品を特定の量的関係に置き,金を貨幣商品として機能させるという意味では,もはや存在しなくなっているのである。価格標準の「単位」はあるが「水準」が失われているのが管理通貨制である。管理通貨制というと,通念では「紙幣が金兌換されない不換制」が思い浮かべられるが,それよりも,この方が根本的な特質ではないか。このような含意を引き出せることが,クナップ説の現代的意義であると,私は思う(※2)。

 さて,次の問題は,価格標準が名目的であることをもって,貨幣は国家の権力的行為の創造物としてよいのかということである。この論点こそ,クナップ説が現代に復権している理由なので放置はできない。ここではクナップをより批判的にとらえることになり,間接的にMMTの主張を検討することにもなる(続く)。


※1 もしかすると,「○○は名目的存在であり,誰かがそう名付けたから○○なのであって,内在する本質から○○であるわけではない」という論法が,現代の哲学潮流にもなじむが故にクナップ説が復権しやすいのかもしれないが,そのこと自体にはあまりかまいたくない。

※2 ここでの本題ではないが,商品貨幣説に対しては,「正貨がなくなった管理通貨制度では,価値尺度機能は停止するのか」という疑問が投げられるだろう。これに対してできる限り簡素に答えるならばこうなる。商品流通には商品貨幣の価値尺度機能がもともとは必要である。しかし,資本主義経済は,その発達とともに商品貨幣の代理貨幣として,手形,銀行券,預金貨幣,補助貨幣,中央銀行券,中央銀行預金貨幣を発達させる。そのことによって,正貨を実際には用いなくても資本主義経済は機能するようになるのである。正貨の代理物によっても,価値尺度機能は,間接的に,相当なブレと不正確さを伴いながら作用しているのである。だからこそ,無数の商品の相互関係が成り立っており,ある商品の価値は別の商品のX倍だとか1/Xだと言いうるのである。異論はあるだろうが,少なくともこう見ることは不可能ではない。
 だからと言って私は,正貨の存在する制度と管理通貨制度に何の違いもないと言っているのではない。価値尺度機能と価格標準の「単位」設定機能は停止していないが,価格標準の「水準」設定機能は停止しているのが管理通貨制度だというのが,ここでの私の見解である。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

続稿「債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)」Ka-Bataブログ,2023年1月17日。





クリーブランド・クリフス社の一部の製鉄所は,「邪悪な日本」の投資がなければ存在または存続できなかった

 クリーブランド・クリフスのローレンコ・ゴンカルベスCEOの発言が報じられている。 「中国は悪だ。中国は恐ろしい。しかし、日本はもっと悪い。日本は中国に対してダンピング(不当廉売)や過剰生産の方法を教えた」 「日本よ、気をつけろ。あなたたちは自分が何者か理解していない。1945年...