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2023年1月17日火曜日

債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)

  前稿に続き,クナップ『貨幣の国家理論』を検討する。


<クナップは表券主義をもとに貨幣流通の根拠を論じているか>

 クナップは貨幣とは表券的支払手段であり,法秩序の創出物であるとする。しかし,前稿で見たように,クナップが本書を通して証明したことは,価格標準は国家が制定するものであるということに他ならない。このことがクナップの功績であり,逆に,このことから貨幣の本質まで論じることがクナップの限界であると思う。

 クナップが,国家権力の力によって貨幣が通用すると考えていることは間違いない。その最大の根拠は,価格標準は国家が制定するしかないものだからだというところにある。しかし,価格標準を国家が制定したからと言って,人々がそれを受け入れ,国家の貨幣を受け入れるとは限らない。では,なぜ貨幣は流通するのか。クナップは,そこを積極的に説明しているようでもあり,していないようでもある。

 ここで注目すべきは,クナップが,「素材的価値のない表券箇片に対する非難」に第1章で反論しようとしていることである(邦訳52-57ページ)。まずクナップは大胆にも,「たとえ箇片の文言が『債務証券』となっていても,その債務が償還されないものなら債務ではない」とし,紙券が国家の債務証書であることを否定する。しかし,「実際,債務から解放されるのなら,自分は何か材料を受け取ったかどうかなど考えなくてよい。とくにこの貨幣は国家に対する債務から解放してくれる。国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」として,国家が課す債務は,国家の発行する貨幣による支払いで解消されるという,相殺機能の有効性を主張するのである。

 しかし,クナップは,この機能を貨幣が人々に受け入れられる根拠とまで特定しているようには読めない。そこは「租税が貨幣を起動する」と断定する今日のMMT,例えばランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』とは異なるように私には思える。MMTがクナップを自らの祖先とするのは理由のあることであるが,「租税が貨幣を起動する」という自らの主張をクナップのものだと解釈するのは行き過ぎではないか。クナップは,国家が貨幣を創造したことを前提に,国家が貸す債務を解消する機能の有効性を指摘しているように,私には思える。


<債権債務の相殺は手形取引に由来する>

 ただ,ここでは敢えて一歩譲り,国家が課す債務を解消できることが,貨幣を人々が受容する最深の根拠になるのかどうかを検討しておきたい。結局,この機能の有効性を貨幣流通の根拠に高めることによってMMTの論理が構築されたことが,クナップ説復権の理由になっているからである。

 さて,クナップは「国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」とするが,「発行者だから受け取らざるを得ない」という言い方は,いま一つ説得力が弱い。これは債権と債務の相殺だから可能なのだとみなすべきである。国家の貨幣で租税等を支払うのは,国家が課した債務を,国家に対する債権で相殺しているのである。前述のように,クナップは「償還されないものなら債務ではない」として,貨幣が債務証券であることを否定する。国家に金や財貨での支払いを要求できなければ債務証券ではないと言う意味であろう。今日では,MMTや信用貨幣論を論難する側の人々が言いそうなことである。しかし,相殺による決済に用いることが可能であり,また発行者に対する債務を返済することに使えるのであれば,債務証券という性質は,少なくとも全否定されないと見るべきである。だから,クナップは当該箇所の言説と裏腹に,事実上,貨幣の債務証券的性質を認めていると言ってよい。

 次に問題なのは,債権債務の相殺とは,そもそも課税と納税に由来することなのかということである。ここで「由来」というのは,時間的に過去にさかのぼって見つけられるべき歴史的起源ではない。つまり,ここで前近代における貨幣史を根拠にしてあれこれ論じるのは適切ではない。問題は,現代の資本主義経済における「由来」である。つまり,資本主義経済の構造において,より根本的なものは何かというところでの「由来」である。債権債務の相殺は民間にもあるし,課税・租税の関係にもある。それでは,クナップが言うように,債権債務の相殺とは課税と納税に由来するのであろうか。課税と納税がひな型となって,民間がそれに倣うようなものなのであろうか。

 明らかに異なると私は思う。債権債務の相殺とは,商品流通の発達を前提に,商品の買い手によって手形が発行され,流通するようになったことで可能になったと見るべきである。手形は貨幣の支払手段機能が自立した債務証書であり,発行者の信用度に応じて満期日まで流通する。ここではもちろん商品の買い手=手形の発行者が債務者であるが,もし誰かが発行者に対して債務を負うことがあれば,その債務をこの手形で相殺して償還することが可能である。また,多数の手形について債権債務を相殺し,残った差額のみを貨幣で支払うという取引も可能になる。手形流通によって債権債務の相殺という取引が可能になり,それを基礎にして銀行券=銀行手形の流通,銀行預金を用いた振替決済も可能になる。発券集中がなされた暁には,中央銀行の預貸と決済のシステムが成立する。

 このように,商品流通と資本主義的生産が行われている今日の経済を論じる際には,債権債務の相殺は商品流通そのものの発達,ありていに言えば民間経済に根拠を持つと言わねばならない(※)。手形と銀行券の流通・決済の方がひな型であり,課税と納税の方を派生的なものとして理解すべきである。


<とりあえずの結論>

 前稿で述べたように,価格標準とは国家が定めるものだというのは,クナップの言うとおりである。このことを多面的に,詳細に,説得力を持って明らかにしたのがクナップの功績である。しかし,債権債務の相殺という取引は,商品流通と資本主義経済内部の取引から発生するものである。以上がクナップ説に対する私の見解である。

 そして,ここから派生して,今日の信用貨幣の流通根拠を論じる際に,課税と租税から論じるよりは,商品流通の発達を前提とした手形の発生と発展から論じる方が妥当である,と私は主張する。これが,MMTの「租税が貨幣を起動する」という説に対する,私の見解である。

※ なお,先行するクナップ批判として岡橋保によるものがあり,参考にしたことを記しておく。
「クナップの支払手段理論 (Lytrologie) にあっては,国家は自由に金の貨幣名を決定しうるという価値単位の名目性と,その規定するところの支払手段により貨幣債務はいつでも弁済されるという貨幣債務の名目性とから,貨幣をも 国家の規定する記号と形態とをそなえた個片,すなわち定形的公布的支払手段 (表券的支払手段)であるとされている。これは,クナップが,債権債務の錯綜による手形の流通,手形の貨幣化(商業貨幣流通から銀行券あるいは預金貨幣の流通)の経済的背景である価値関係を看過し,その法律的表現のみをとらえたことによるものである。手形の流通は商品流通の発展の結果であり,債権債務の錯綜が,ここに,手形をして満期日までのあいだ,ふたたび, 支払手段として流通することを可能にするものであって,これら手形の割引によって,これにかわって現われた銀行や預金貨幣が,代用貨幣として流通しうる根拠も,かかる債権債務にもとづく価値関係の存在にある。したがって 貨幣の支払手段機能は,商品流通,したがって貨幣の流通手段機能とともに,価値の尺度としての機能を前提する。」(岡橋保『貨幣論 増補新版』春秋社,1957年,37ページ)。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

前稿「価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)」Ka-Bataブログ,2023年1月16日



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