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2023年1月3日火曜日

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年を読む

 萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。新装版だの豪華特典付き××版だのは基本的に買わないのだが,これは例外中の例外で購入した。エッセイやインタビューが付け加えられているからだ。

 私は,この作品について以前から知りたいことがあった。それは,原作になくマンガにのみある部分は,どういうルールの下で誰が創作したのかということだ。今回,「萩尾望都に聞く「SF100の質問」」で,エルカシアの巫女ユメは萩尾先生の創作であったことはわかった。また,これまで読んだものの中に,光瀬先生がマンガのストーリーに介入された形跡がないので,おそらくマンガにのみある部分は,萩尾先生の創作によるものなのだろう。

 大きな展開での違いを見ると,原作では都市ZEN-ZENはアスタータ50にあって,そこの首席はユダではないが,マンガではゼン・ゼン市は別の場所にあり,そこの首席は惑星開発委員会のマインド・コントロールを受けたユダだ。原作ではアスタータ50から最後の目的地に一気にジャンプするが,漫画ではゼン・ゼン市から一度トバツ・シティーへ移動し,弥勒像の口からアスタータ50へとジャンプ,それから最後の場所に向かう。

 私にとって気になるのは登場人物の方で,当然かもしれないが漫画の方が阿修羅王もオリオナエもシッタータも表情が多面的で豊かであり,また重要なセリフも付け加えられている。

 阿修羅王の「私は相手が何者であろうと戦ってやる。この 私の住む世界を滅ぼそうとするものがあるなら,それが神であろうと戦ってやる」というセリフ,オリオナエの「わしはアトランティスの生き残りだ」「神と信じあがめていたものが我々に与えた裁きを忘れないぞ」というセリフは,原作にないものだ。また,原作では阿修羅王の幻覚の中でしか活躍しない帝釈天が,漫画では阿修羅王に対峙するトバツ・シティの軍事指導者として現れる。破滅を運命として受け入れる者の代表として。しかし,戦い続ける阿修羅王に関心を寄せるものとして。「あの極光の下に阿修羅王がいる。阿修羅王……が……。美しいものであろう,太子。あれの心のように微妙に移り変わる……」。しかし,阿修羅王は決して戦いをあきらめない。首を振って言う。「あなたは老いた,帝釈天」。帝釈天は言う。「勝てるのか!神と戦って!シと戦って!あなたはおのれの死と戦って勝てるか!」。その表情は悲しげに変わる。「…もう戦うことをやめぬか,阿修羅。おまえは勝てない…勝つことはできないのだ。」。阿修羅王の右目を涙がつたう。これらも,みな原作にないものだ。

 しかし,こうした原作にない部分が私にとっては印象深く,原作よりも漫画の方を繰り返し読む理由になった。10-20代の頃には阿修羅王がこの上なく美しく見えたし,いまでは帝釈天の阿修羅へのまなざしも,わかりたくはないがわかるような気がする。

 今回も直接には謎は明かされなかったが,おそらくこれらの部分も萩尾先生が創作されたのだと思われる。複数のインタビューや今回のQ&Aからは,萩尾先生の興福寺阿修羅王像に対する思いがとても深いものであることがわかる。「あの像の中にすべてが収まっていますね。運命も。宇宙も。永遠も」。「あのお顔と身体がなかったら,あの阿修羅は生まれませんでした」。数々の追加シーンも,先生の阿修羅王への思いの産物であり,それが他の登場人物にも反射したものだったのであろう。

萩尾望都(原作:光瀬龍)『百億の昼と千億の夜』完全版,河出書房新社,2022年。




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