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2022年9月8日木曜日

続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか

 先日「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」というノートを書き,MMT(現代貨幣理論)が貨幣流通の根拠は国定貨幣説(表券主義)で,現代の金融システムの説明は信用貨幣説で説明する二元論を取っていることを記した。その時は,どうしてそのような二元論を取るのかが理解できなかったのだが,ランダル・レイの論文「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」の邦訳を読んで,どうにか理解できそうに思えてきた。レイが「ミンスキーの『誰でも貨幣を創造できる。問題はそれを受け取ってもらうことだ』という見解に従うことになった」というところに関係しているようだ。

 ハイマン・ミンスキーは債務のピラミッド論の創始者である。「このピラミッドでは、最も受けとられやすい政府の負債が頂点にあり、次に商業銀行の負債、そして『ノンバンク金融機関』の負債、非金融法人企業の負債、最後に中小企業や家計の負債が最下層に位置している。このピラミッドは、負債の受容性と流動性を反映したものであり、ピラミッドの下位に位置する主体は、支払いにおいてピラミッドのより上位にある負債を用いる」。レイはこれを受け継いでおり,ここまでは信用貨幣説である。

 では,頂点にある政府の負債はなぜ受け取ってもらえるのか。レイやそのほかのMMT論者は,ここを国定通貨説で説明しているのである。「納税者が税金の支払いのために自国の通貨を政府に返還すると、納税者と政府の両方が償還される。納税者にはもはや税金という負債はなくなり、政府の自国の通貨を受け入れる義務は果たされる」というわけである。つまり,「納税に使える」ということが,政府の負債が貨幣として流通する根拠なのである。以上がMMTにおける信用貨幣説と国定貨幣説の結びつき方である。

 とすれば,私の理解する日本の伝統的なマルクス派信用貨幣論との違いは,以下のようになる。もっとも,日本のマルクス派信用貨幣論にもヴァラエティがあるので,これは私が,できる限り首尾一貫して理論を組み立てればこうなるだろうとした理解の仕方に過ぎないことをお断りしておく。なお,欧米ではこれに近い考え方はホリゾンタリストと呼ばれるようである。

 マルクス派の信用貨幣論は,伝統的に政府を捨象し,民間の商品経済と資本主義経済の発展の中に,信用貨幣が流通する根拠を求めてきた。中央銀行も,まず「銀行」として理解し,それが発展して国家から決済システムと最後の貸し手機能を付与されるという風に理解してきた。不換制の下で預金貨幣や中央銀行券が流通する根拠も,手形流通の原理を根拠に,手形の債権債務相殺機能によって理解してきた。商品経済が発達し,手形流通が発達しているからこそ,資本主義的な銀行業は銀行手形として預金貨幣や銀行券を発券できるのである。手形の債権債務相殺機能は金兌換と不換とにかかわらず機能する。そして,銀行間の決済システムと信用維持に必要だからこそ中央銀行が選定されるのである。民間経済の発展こそが根拠である。信用貨幣の流通性に相違を認めることは,MMTのピラミッド論と同じである。しかし,頂点に立つ信用貨幣である中央銀行の債務が流通する決定的根拠は,MMTのように「納税に使える」ことではない。「中央銀行への支払いに使える」ことである。

 もう少し対比を続けよう。

 MMTでは頂点に立つのは政府債務である。これはMMTが非常に強い意味で統合政府論を理解し,中央銀行を「政府」の一部と理解するからである。マルクス派信用貨幣論では頂点に立つのは中央銀行債務である。これは中央銀行をまずは「銀行」として理解したうえでその政府との結合を考えるからである。

 MMTは頂点に立つ政府債務が有効性を証明する場面として,納税に注目する。そこでは納税者の債務と政府の債務が相殺される。納税者は納税義務を果たすし,政府は自分の債務である貨幣を受け取るからである。マルクス派信用貨幣論は,頂点に立つ中央銀行債務が有効性を証明する場面として,中央銀行への返済に注目する。そこでは銀行の債務と中央銀行の債務が相殺される。銀行は中央銀行からの借り入れを返済するし,中央銀行は自分の債務である中央銀行当座預金を受け取るからである。

 MMTは国定通貨の根拠を貨幣史に求める。通時的理解である。前近代社会から国定貨幣が用いられてきたから資本主義社会でも国定貨幣が用いられるというのである。日本のマルクス経済学では(論者によって意見が異なるものの※1),私の理解では,資本主義経済そのものの構造に求める。共時的理解である。現時点で,資本主義経済が機能するためには,ほんらいは価値尺度として金を貨幣とすることが要請される一方で,そのようなプリミティブなしくみでは経済発展が制約されるために,貨幣代替物として預金貨幣や中央銀行券が用いられるとみるのである。

 おそらく以上のように対比してまちがいないものと思う。賛否はともあれ,こうした突き合わせをきちんとしておくことは,理論的対話のために必要であると思う。

※1 これは,かつてマルクス派の世界で「論理=歴史」説と「論理」説の論争と呼ばれていた話のことである。論理的前後関係と時間的前後関係は照応すべきであり,例えば『資本論』の商品論よりも剰余価値論の方が時間的に後の話だと考えると,「論理=歴史」説となる。論理的前後関係と時間的前後関係は別だと考え,商品論から剰余価値論への流れは,同時点で論理が抽象的なところから具体的なところに進んでいるのだと考えると「論理」説になる。ここで私は「論理」説に立って説明しており,MMTをいわば「論理=歴史」説とみなしているのである。

ランダル・レイ(WARE_BLUEFIELD,ゲーテちゃん,kenta460,sorata31,望月慎訳)「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」(2020年7月)経済学101。


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