「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。
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島倉原氏によるここの記事は,MMT(現代貨幣理論)の理論の根源を,新古典派やマルクス派とわかりやすく対比して主張しているので面白い。しかし,賛成はできない。私の立場からコメントする。
島倉氏が,「主流派にせよマルクス派にせよ、『政府がなくても商品経済やその交換手段たる貨幣は成立する』という世界観を有している点では同根であり」というのは,乱暴ではあるがおおむね妥当であろう。ただし,一点留保しなければならないところがあり,これは後で述べる。
主流派もマルクス派も,商品交換の必要性から貨幣が生まれると考えることは,同じである。だから商品貨幣を本来の貨幣とする。そこまでは確かにそうである。
*主流派における手形の貨幣化論の欠如
しかし主流派は,貨幣が成り立つ必然性といった論点にはあまり関心がないので,管理通貨制になれば,貨幣流通の根拠は「国家の強制通用力」または「人々の信認」だろうと,あっさりと乗り換えてすませるところがある。しかし,このプラグマティズムには,落とし穴がある。商品貨幣(金貨など)→紙幣での代用,という構図を当然だと思い込んで採用するところである。しかし,現在流通している預金貨幣や中央銀行券は,商品貨幣→商業手形での部分的代用→銀行手形(預金貨幣と銀行券)での代用という風に,手形が貨幣化する過程を必須条件として成立しているのである。手形が抜けると,現代の貨幣の運動がつかめなくなる。手形というのは,債務発生のたびに新規発行され,債務が決済されると消失するものである。現代の預金貨幣は,銀行が貸すたびに新規発行され,返済されるたびに消えるのである。国家紙幣にはそのようなことは起こらない。だから主流派が銀行実務をまったく考慮せずに貨幣を論じると,現実とずれてしまうのである。実は,現代経済においては,毎日毎日,銀行から通貨が新規発行されたり,逆に還流・消滅したりしているのである。この独特な運動を捉え損ねると,銀行とはお金を持っている人から持っていない人に仲介するものだという,当たり前のようでまったく間違いな見解が生じるのである。
*マルクス派の商品貨幣節約論
マルクス派も,商品貨幣を本来の貨幣とする。しかしマルクス派は,発達する資本主義にとって,商品貨幣の現物を用いることが制約となり,それを乗り越えるために様々な代用貨幣が出現し,商品貨幣に代わって流通するようになることを重視する。商品経済から貨幣が生まれ,貨幣を用いた取引から手形が生まれ,販売と購買の分離,流通する手形を用いた債権債務相殺という手形原理が成立し,銀行手形による貸し付けが出現する,という順序で信用貨幣としての代用貨幣の論理を構築するのである。これにより預金貨幣や中央銀行券の運動が説明可能になる。
しばしば誤解されているが,マルクス派とは「金が貨幣だから,いまそれが流通していないのは異常事態だ」というものではない。乱暴な単純化を覚悟で言えば「ほんらい金が貨幣なのだが,そんなものを使っていては不便で仕方がないので,代用貨幣,とくに信用貨幣が発達し,金の現物は流通しなくなる」ことを明らかにする見地である。もちろん,マルクスは資本主義に批判的だから,この発達には矛盾も伴うとしている。例えば金兌換が停止されると,財政赤字によるインフレの悪性化のリスクは大いに高まる。信用貨幣が膨張すると,経済は拡大する半面,バブルや金融危機も起こりやすくなる。しかし,そうした矛盾を含めて,代用貨幣が発達し,商品貨幣が流通から姿を消す必然性を述べるのがマルクス派である。
*商品貨幣は歴史的主流でなく論理的基本形
島倉氏は,経済史の研究成果をもとに,「貨幣が導入される前は物々交換経済があり、貨幣も元々は市場で交換される商品の1つであった」ということを否定し,「商品貨幣論が想定するような物々交換経済はそもそも存在していなかった」とする。しかし,経済史と経済理論は異なる。例えばマルクスの『資本論』は商品論から始まって貨幣論に進み,貨幣が資本に転化する剰余価値論へと進む。しかし,商品論がt時点,貨幣論がt+1時点,剰余価値論がt+2時点での話だと歴史的順序を述べているのではない。商品論が資本主義以前,剰余価値論が資本主義というのでもない。あくまで資本主義社会を念頭に置いて論理的な抽象を行い,説明のために適した順序でものごとを論じているのだ。だから,金が貨幣として必要だというのも現代社会のことであり,しかしそんなものを使っていては不便で仕方がないから金の現物は用いずに,預金貨幣や中央銀行券で代替するというのも現代社会のことであり,同時に起こっていることなのである。
*歴史的経過で経済理論を否定することはできない
商品貨幣は資本主義以前に主流の貨幣ではなかったと言われれば,そうかもしれない。しかし,それは歴史の問題である。他方,現代社会での信用貨幣の説明は,現在の論理の問題である。マルクス経済学が言っているのは,むかしむかし物々交換と金貨が主流でしたという歴史物語ではない。貨幣としての性質や機能を理解する際に,特定の商品にすべての性質・機能が体現されている状態から出発するのがよいということである。いわば金属貨幣は論理的な万能貨幣である。ところが,現実に貨幣を使う際には,そもそも貴金属の量が限られていること,重さがある物体であること,販売と購買が結合していることなどの制約もあって,不便極まりない。だから代用貨幣が発達するという説明になる。「過去に主要なものとして用いられていた」ことが問題ではなく,「今を説明する際の基本形と設定できる出発点」であることが問題なのである。
これをやや哲学的に言えば,歴史的経過によって,論理的説明力を否定することはできないのである。
*国家の重要性はどこにあるか
島倉氏は「歴史学・人類学・宗教学などの知見を総合すれば、近代的な主権国家の登場前も含め、古代以降の様々な貨幣は「神」を含む主権者との関係に基づいて成立していると考えられる」と主張する。経済学が他の諸科学の補完によって経済を説明しなければならないのは確かだろう。例えば,クナップの表券主義による貨幣論にも重要な貢献はある。それは冒頭で私が保留した一点であり,「価格標準は国家が定める」としたことである。価格標準には二つの面があり,ひとつはドルとか円などの貨幣名を定めること,もう一つは貨幣金属の一定量を貨幣名での一単位と対応させ,昔のIMF体制で言えば「金1オンス=35ドル」などと水準を定めることである。このうち前者は今でも機能しているが,後者は機能していない。このことは,現代を説明する上でも確かに有効であり,それはマルクス派も認めるべきことである。だから,国家の貨幣へのかかわりは確かに重要である。
*経済はできるだけ経済で説明すべき
しかし,だからと言って経済学の論理自体を軽視してよいはずがない。商品交換にとって貨幣が必要とされる論理,購買と販売が後払いによって分離し,後払いの証書として手形が生まれ,手形が流通することによって債権債務の相殺が可能となり,商品貨幣を節約する可能性が生まれることを無視して良いとは思えない。経済のことは,なるべく経済によって説明すべきであり,それが限界に達したところで他の論理による補完を考えるべきだろう。MMTの国定貨幣説は,「それは国家の力による」という説明に安易に頼りすぎている。それゆえ私は,手形債務説によって現代の預金貨幣や中央銀行券を説明する道を選びたい。
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