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2022年3月28日月曜日

遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために

 ポストコロナの物価を理論的に考える上での難問は,コロナ以前やコロナ禍で行なわれた財政支出が,今後の物価上昇の遠因となるかどうかである。またもう少し解像度を上げて言うならば,現時点や今後の財政支出の他に,企業や個人の手元に蓄積されている現預金や金融資産が,物価形成に参与していくかどうかである。

 これまで私は,リフレーション論批判,「量的・質的金融緩和」論批判,財政拡大の必要性とその方向性に関する議論を行ってきた。そのために必要な理屈として,マルクスの貨幣流通法則,紙幣流通法則,手形論,信用論,銀行論を学び直して動員し,そこにMMTの考え方も取り込んできた。しかし,インフレが再燃しつつあるポストコロナの物価を考える際には,これらだけでは十分ではない。不足している理論装置の一つが遊休貨幣論である。このノートでは,貨幣流通論における遊休貨幣論の必要性とその位置づけについて,基礎的な論点を提示したい。

 「講義ノート:管理通貨制度における信用貨幣の供給」「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」「講義ノート:管理通貨制度下の貨幣流通,蓄蔵貨幣機能,遊休と金融的流通」で論じたように,管理通貨制の下での貨幣流通の基本的な動きを理解する枠組みは,マルクス派の諸理論を適切に用いることによって構築可能である。「金兌換が停止された世界はマルクス経済学では理解できない」などというのは俗論に過ぎない。

 とりわけ重要なのは,貨幣流通法則,すなわち「価格で見た商品流通総額を貨幣の流通回数で割ることによって,流通に必要な貨幣量が得られる,商品流通総額と貨幣の流通回数が流通に必要な貨幣量を決めるのであって逆ではない」というものである。貨幣流通法則は,現代の信用貨幣である預金通貨と中央銀行券が,金融システムにより,貸付・返済を通して流通に出入りする時には全面的に適用される。他方,これらの通貨が財政システムにより,政府支出・課税を通して流通に出入りする際には,紙幣流通法則も働く。

 金融システムによる通貨供給は貨幣流通法則にのみしたがうものであり,商品の世界からの必要に応じた内生的通貨供給である。したがって名目的物価上昇という意味での貨幣的インフレーションを起こさない。他方,財政支出による供給は紙幣流通法則にもしたがうので,商品総量を所与とした,外生的で一方的通貨供給にもなり得る。実際にそれが起こるかどうかは,財政支出が,失業者の就業,遊休している設備の稼働,滞貨の流通,そして未利用資源の商品化を引き起こすか,それらを起こさずに通貨供給量だけを引き上げるかにかかっている。最後の場合には物価だけが名目的に上昇する貨幣的インフレとなる。なお,ここでマルクスの理論とケインズの理論は重なっている。もちろん,どのような通貨供給によっても,個別的需給不均衡による価格上昇や,生産費上昇による実質的物価上昇は起こり得る(※1)。

 しかし,このように整理した場合でも,なお理解が難しい領域がある。それは遊休貨幣の動きである。21世紀突入以来,日本の大企業が現預金や金融資産を積み上げてきたことはよく知られている。この傾向はコロナ禍でも続いた。そして家計もまた長らく貯蓄超過であり,コロナ禍でも日本全体で見れば現預金を積み上げた。賃金の低下幅を上回って消費が減退し,さらに給付金が支給されたからである。これを理論的に言うならば,一方では,産業企業による,利潤を産業資本に転化するという意味での資本蓄積が停滞しているのであり,他方では,労働者家計を含めて家計内部には相当な格差があり,一定の家計では相当な貯蓄を形成しているのである。これらの滞留する,あるいは金融的流通に向けられている現預金は,貨幣論的には,「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある。これをどのように理解すべきか。

 一方において,これらはマルクス派の言う蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣とは,流通から外部に出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される貨幣である。これを満たすのは,それ自体が価値を持つ,金貨や銀貨などの正貨だけである。預金通貨や中央銀行券は,貨幣流通法則の次元での蓄蔵貨幣にはなり得ない(※2)。

 他方において,滞留する現預金や金融資産は,少なくとも一定期間,財・サービスの物価形成に参与していない。財・サービスの流通を媒介せずにたんす預金や貯蓄性預金として停滞するか,あるいは金融的流通に回り,株式や社債や国債に投じられているからである(※3)。

 管理通貨制度の下で「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある通貨を整合的に取り扱う理論的方向自体は,古くから提起されている。これらを流通内で一時的に休息している休息貨幣と見なすのである(岡橋保『新版 貨幣論』春秋社,1956年)。この規定は,理論的には貨幣流通法則と整合するものであり,本稿の出発点となる規定である。しかし,問題はこの一時的休息,休息貨幣という規定によって通貨供給の動きと物価形成の関係をどこまで把握できるかである。また,一時的に休息し得るということは,管理通貨制の下での預金通貨や中央銀行券にも一時的な価値保蔵機能が認められるということである。蓄蔵貨幣にはなり得ないが一時的な価値保蔵機能を持つとはどういうことか。

 まずは休息について考えよう。「一時的休息」という規定は,結局は動き出して財・サービスの流通を媒介するというニュアンスを持つ。しかし,現代の資本主義では,この休息する貨幣の量が大きく,休息する期間が長くなり,経済全体への影響が無視できなくなる傾向にある。なぜなら資本主義の成熟とともに,産業資本は投資機会を見つけにくくなって法人貯蓄を積み上げ,家計の一部も貯蓄を形成するからである。これらの貯蓄は現時点では物価形成に参与していない。しかし,今後もしばらく参与しないのか,結局は参与するのか。また参与するにしても,いつどのようなタイミングと方法で参与するか,例えばリベンジ消費か設備投資か在庫積み上げか,何に対する消費や投資か。これらは重要な問題であるが,「一時的休息」という規定だけから直接に答えることはできない。

 とくに問題なのは,財政赤字によって外生的に投入された通貨の行方である。ある時点で財政の一方的拡大が行われても,支出のかなりの部分がいったん遊休貨幣ないし休息貨幣となったとする。その中には家計の所得としての遊休貨幣もあれば,企業の手元での遊休貨幣資本もある。しばらくしてからこれらが支出されると,それらが支出に対応しただけの生産拡大を誘発すれば,需要超過による物価上昇は起こったとしても貨幣的インフレは生じない。しかし,これらの支出が生産拡大を誘発しなければ,貨幣的インフレが発現するだろう。2020年の財政拡大は,2022年や2023年に貨幣的インフレを起こすこともあり得るし,2022年や2023年に雇用と景気を改善して貨幣的インフレは起こさないこともあり得るのである。どちらになるかは,財政を拡大した時点では決定されない。

 「一時的休息」という規定は,通貨供給量の増大からインフレーションの発言までタイムラグがある可能性を示唆している。ここにこの規定の積極的意義がある。しかし同時に,一時的に休息している遊休貨幣が,結局のところ物価を引き上げるのか,それとも引き上げないのかは,場合によるとしか言えないということにもなる。ここの問題は,貨幣流通法則が誤っているとか無効になっているとかいうことではない。しかし,貨幣流通法則が抽象的であるが故に,それだけでは具体的な局面の理解に十分ではないということである。遊休貨幣の運動についての,より具体的な運動法則を用いなければ,その物価への影響は解明できないのである。

 次に,一時的な価値保蔵についてである。それ自体価値を持たない,不換の預金通貨や中央銀行券での価値保蔵がなぜ可能となるのだろうか。これらの通貨は,すでに流通内にあるのでインフレーションによる減価のリスクにさらされている。なので,持ち手にとっては,流通手段として用いる以外に道がないように思える。しかし,そうではない。インフレによる減価リスクを相殺するような利得があれば,そこに流通手段以外の利用方法が生まれる。それは現金のまま保有することによる流動性の確保であり,またそれ自体は価値を持たない架空資本,つまりは金融資産への投下による資本蓄積である。もちろん後者は,それ自体リスクのある営みである。しかし,持ち手に取ってこの二つの意義が大きくなるような条件があれば,不換の預金通貨や中央銀行券のままの保有や,金融資産への投下による価値保蔵や価値増殖が試みられるのである。

 遊休貨幣の運動とは,これらが財・サービスの消費に向かうか,財・サービスの購入や雇用の拡大を通した投資に向かうか,それとも現預金のまま遊休し続けるのか,あるいは現預金以外の金融資産の購入に向かうのかという問題である。これを支配するのは,産業活動に投資した場合の利潤の見通しと,流動性選好による利得と,金融資産選好による利得の関係であり,それらを規定する諸条件に他ならない。ここで再び,マルクスの世界とケインズの世界は重なるべきである。マルクス派は,遊休貨幣の運動を論じるために,ケインズの流動性選好説を摂取しなければならないし,そうすることによって自らの体系を損なうことなく拡張することが可能になるだろう(※4)。

 マルクス派の貨幣理論では,管理通貨制の下での遊休貨幣を蓄蔵貨幣として取り扱うことはできない。遊休貨幣は流通内で一時的に休息している貨幣であって蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣ではないにもかかわらず,一定の価値保蔵機能を持つために,現金のまま保有されたり,金融資産に投下されたりすることが可能なのであり,そうされている期間は物価形成に参与しないのである。この遊休貨幣の運動を取り扱おうとするときに,マルクス派はケインズの流動性選好論を摂取しなければならない。これが,このノートの差し当たりの主張である。


※1 このような理解は,マルクス派の中でも貨幣流通法則の現代における作用を最大限に認めるものであり,管理通貨制の下では紙幣流通法則しか働かないという議論の対極に位置するものである。同じマルクス派の中でも,預金や中央銀行券は金本位制であれ管理通貨制であれ信用貨幣だと認めれば前者の理解に近づき,両者は金債務だから金本位制では信用貨幣であっても管理通貨制では価値シンボルに過ぎないと考えると後者の理解になる傾向を持っている。私は前者に立っている。よく言われる話題で言えば,「金・ドル交換停止以後のドルは紙切れに過ぎず,国家権力の強制で流通している」という議論には立たない。ドルは連邦準備銀行の信用ある手形だから流通しているのである。

※2 貨幣蓄蔵をめぐる法則自体は,管理通貨制の下でも作用する。預金通貨は,貸付けや信用代位によって流通に入り,返済や信用代位によって流通から出る。そして流通から出れば消滅する。また中央銀行券は,預金が引き出されることによって発行され,預金として預け入れられると消滅する。両方とも,商品世界の動きに従属して流通に入り,また流通から出る。この意味では貨幣蓄蔵の法則に従っている。しかし,これらが流通から出るのは消滅する時である。流通から出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される正貨は,管理通貨制では存在しない。

※3 株式や社債への投下とは,企業の投資をファイナンスすることではないかという疑問があるかもしれない。株式・社債の発行市場での購入はその通りである。しかし,流通市場での購入はそうではない。既発行の株式・社債といった金融資産を購入すれば,購入に投じた貨幣は前の持ち主のもとに移るだけである。この場合の貨幣流通は金融的流通なのであり,金融的流通にまわっている貨幣は,財・サービスの購買に用いられないという意味では遊休貨幣のままなのである。

※4 ここでは流動性選好を広く定義すれば金融資産選好も含まれると考えたが,小野善康『資本主義の方程式』中公新書,2022年では流動性選好と資産選好は別物として定義されているように見える。今後検討したい。


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