「日本経済」講義準備。業務の波に飲まれかかり,読むのに2週間以上かかってしまった。
本書で小川一夫教授は,日本経済の長期停滞のメカニズムを,主に投資停滞の原因を探るという角度から,計量的実証によって明らかにしている。不確実性を伴う期待収益率の動きが投資停滞の原因と考える私にとっては,非常に重要なテーマを扱っている。
本書の特徴は,1990年代以降の日本経済の長期停滞を,人々の長期的な期待形成と関連付け,どのような長期期待が設備投資の停滞につながったかを明らかにしていることである。
その主張は明快である。日本の設備投資の低迷は,収益性に設備投資が反応しないことによるものであり,その理由は企業による長期経済見通しの悪化である。この悪化を規定する最大の要因は過去から現在にかけての消費成長率の低迷である。そして,消費の低迷を規定するのは,家計,とくに貯蓄の取り崩しに慎重な家計が持つ,公的年金制度の脆弱性への不安による予備的貯蓄の増大であり,その慎重さは夫婦の雇用形態に影響されているのである。
もう少し詳しく見よう。まず著者は,日本企業の設備投資が長期にわたって停滞し,とくに世界金融危機以降は利潤率が回復しているにもかかわらず,停滞が続いていることを確認する(第1章)。この停滞をもたらした要因分析が次章以後の課題となる。
その前に著者は,2000年代初頭にGDPが年1.5%程度の成長を回復したことについて,輸出の貢献が大きく,とくに世界所得という需要要因よりも企業による生産性向上という供給要因の貢献が大きかったことを示している。ここで次章以降に,設備投資が停滞し続けているのに生産性が向上したとすれば,その要因はコスト削減のためのリストラ活動ではないかという課題が持ち越される。
続いて著者は,設備投資が収益性に反応しない理由の検討にかかる。収益性に対する設備投資の反応は第1次石油危機以降,継続的に低下してきた。その背景には,趨勢的な「成長企業群」の割合低下と,「リストラ企業群」の割合増加があった。成長企業群とは売上高成長率,生産費用上昇率がともに正,リストラ企業群とは両比率がともに負の企業群である。リストラ企業群は自社に対する需要減に対して,生産コスト削減で収益性を高めてきた。このような企業は収益性が向上しても設備投資には慎重なのである(第3章)。
期待成長率が高まらなければ企業は設備投資を増加させない。では,期待成長率は何によって左右されるか。著者は設備投資率の長期均衡値系列を求め,これが企業による日本経済に対する長期の経済見通しと連動していることを明らかにした。長期の経済見通しは,正規雇用の規模や負債増分・資産比率にも影響を与えていた。企業が日本経済の長期見通しに悲観的であり続けたために設備投資は伸びず,正規雇用は増えず,負債も増加しなかったというのである。かわって取った行動がコスト削減,非正規雇用の増大というリストラ活動であり,現預金の蓄積による流動性確保である(第4章)。
それでは,企業の長期経済見通し自体は何によって左右されるか。著者はこれを需要要因と供給要因に分け,2001年度から2018年度のデータによって定量的に検討する。その結果,企業がGDP成長率を予測する上で,需要側では各業界の需要見通し,マクロレベルでの過去から現在の消費成長率,供給側では現在の資本ストック成長率,労働成長率,全要素生産性(TFP)を同時に考慮した場合の説明力が高いこと,しかし需要要因の方が供給要因の方よりも重要であることが判明する。つまり,過去から現在の消費の低迷が企業にとっての日本経済の長期見通しを悪化させ,それが設備投資を停滞させるのである(第5章)。
それでは,消費の停滞は何によって規定されているのか。これを明らかにするために,著者は家計の消費行動の分析に移る。まず家計の意識調査データを分析し,家計が公的年金制度を脆弱であると捉え,老後の成果に不安を抱えていることを明らかにする(第6章)。
次に著者は,1970年代以降現在までの家計行動を分析する。その結果,年間収入が停滞する一方,家計の非消費支出,とりわけ社会保険料の割合が高まってきたこと,世帯主の収入減少をカバーすべく妻の就業率が上昇したこと,持ち家率の上層が負債残高を押し上げてきたことを指摘する(第7章)。
この結果に対して,著者は勤労所得に占める社会保険料の割合の増大が,社会保障制度に対する脆弱性の認識につながるのではないかと考え,この認識の分析をさらに進める。老後を心配している家計の割合は1990年代に急上昇した。そして家計を年金と老後の暮らしに関する主観的評価によってグルーピングすると,「年金や保険が十分でないから,老後の暮らしを心配している」家計の比率が一貫して増加している。年金制度の改正は家計から全体としてはポジティブな評価を得ているが,家計属性によって評価は異なっていた。公的年金制度の脆弱性の認識の強まりという問題は解決されていない(第8章)。
そこで問題となるのが,公的年金制度が家計の貯蓄と消費に及ぼす影響である。著者はマクロデータとマイクロデータを用いて,家計の貯蓄行動と公的年金の関係を分析する。その結果明らかになったのは,家計は納付した公的年金保険料を資産としてでなく,負担としてとらえていること,したがって家計収入に対する公的年金保険料の割合が上昇すると,家計の負担感が高まり,公的年金制度への信頼感が揺らぐこと,それ故に家計は消費を抑制し,老後の生活のために貯蓄率を高めてきたことである。しかも,公的年金の納付額が貯蓄を増大させる傾向は,貯蓄の取り崩しに慎重な家計ほど顕著であった。そして,貯蓄の取り崩しに慎重な家計の態度は,夫婦の雇用関係に影響されていた。夫婦ともに正規雇用であれば,貯蓄の取り崩しに慎重である確率が著しく低下する。つまり将来の不確実性に対して予備的な貯蓄を行う誘因が低くなるのである(第9章)。
著者が引き出した政策的インプリケーションは名白である。男女とも希望すれば正規雇用で働ける環境を整備すること,公的年金制度への信頼を回復することである。これらにより,予備的貯蓄の縮小を消費の拡大が期待でき,企業の長期的な経済見通しの回復,設備投資の回復が期待できるというのである(終章)。
本書のインプリケーションを裏返せば,ただひたすらに企業の収益性を重視し,家計の所得と消費を置き去りにして企業の投資だけを回復させようとする経済政策は誤りだと言うことである。正規雇用の充実と公的年金制度への不安の解消こそが,消費と投資双方の回復につながることを示した,本書の意義は大きい。
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