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2021年12月3日金曜日

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む:CBDCは銀行による貸し出しを困難にするのか

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む:CBDCは銀行による貸し出しを困難にするのか

※2022年12月5日追記。本稿は原形をとどめないほど大幅に改定し,ディスカッション・ペーパーとして発表しました。こちらです


1.問題の所在

 野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読んだ。本書の論旨は多岐にわたり,また中央銀行デジタル通貨(CBDC)の話だけでなく,デジタル人民元の話,リブラ=ディエムの話,ビットコインの話,キャッシュレス決済の話が盛りだくさんに語られている。しかし,論じるべきことがらを対象でなく分野によって分けるならば,マネーやその流通に用いる情報技術の話,それに関連した匿名性の話,デジタル人民元への対抗という政治問題,そしてデジタル技術によって貨幣・信用・金融業がどう変わるのかという経済問題に分かれると思う。情報技術と匿名性,政治問題は他の専門家にお譲りし,またリブラ=ディエム等もいったん対象から外して,ここではCBDCによる,貨幣・信用・金融業の変貌について,本書の気になった点を指摘したい。

 本書は随所に個性的な主張を含みながらも,この変貌を,基本的には経済学における主流派の銀行論によって理解しようとしている。しかし,それ故にこそ,CBDCによる貨幣・信用・金融業の変貌をとらえ損なっている部分があると,私には思える。主流の経済理論ではCBDCの行方を正しく把握できないという,深刻な問題が,本書には表れているのだ。それでは主流派理論でなければ何を使えばよいのかというと,信用貨幣論による銀行論が必要だと私は考える(※1)。

 よって本稿は野口教授個人を批判するというものではなく,野口教授が体現しておられる主流派理論によるCBDCの説明を批判し,その説明ではCBDCによる金融業の変貌をとらえそこなうことに注意を促そうというものである。なお,ここでいう主流派理論とは,銀行を「受け入れた預金を用いて貸し出しを行う」ものと理解していることである。これは,近代経済学においてもマルクス経済学においても多数の見解と思われるので主流派と呼んでいる。これに対して信用貨幣論は,銀行は「貸し付けることによって預金を作り出す」と考えるのである。両者の具体的な違いは行論のうちに明らかとなるだろう。


2.トークン型CBDCとは何か

 野口教授は,CBDCの構想に口座型とトークン型があることを指摘されつつ,トークン型が主流であり,すでに中国,スウェーデンをはじめ導入に向けた動きが進んでいることを指摘される。私もその認識を共有する。

 トークン型CBDCとは,財布の中に日銀券や硬貨を入れる代わりにスマートフォン内のウォレット(電子財布)にCBDC入れ,手渡しで支払う代わりにスマホのウォレットからウォレットへとCBDCを送金する仕組みである。入手するには,預金を下ろしてウォレットに入金すればよい。逆にウォレットから出して預金することもできる。CBDCは日銀券(以下,事例を日本のものとして日銀券とする)と同じく日銀が発行する。そして日銀券と同じく,銀行は日銀当座預金を下ろすことによってCBDCを入手し,預金者の預金引き出しに対応する。CBDCは原理的には個人間でも法人間でも用いることができるし,個人や法人が持つウォレット間を転々と流通する。要は,現金のデジタル化である。

 野口教授は,CBDCに限度額が附されなければ,世の中に流通するマネーはほとんどCBDCになると予想している(Kindle版92, 93ページ他。以下ページはみなKindleによる)。というのは,CBDCは現金取引のコストを大きく下げるからである。個人の買い物や送金だけでなく,企業間の取引もそうなるという。これをイメージするに,買い物も送金もスマホ内のウォレットでCBDCを操作すればよいことになる。企業間の取引も,現金を山のように積み上げたり輸送したり保管したりという手間がなくなるため,CBDCというデジタル現金で取引することが便利となり,口座振替は用いられなくなるということだろう。私も,もし口座振替サービスの革新がなければそうなると思う(※2)。ハイスペックのCBDCは,現金取引を復権させ,口座振替を後退させるだろう。


3.中央銀行は万能になるか

 問題はこの先である。多くの預金が引き出されてCBDCとして流通するようになると,銀行はどうなるのだろうか。野口氏は,まずこう言われる。「CBDCの世界においても,銀行が貸し出しを行うことはもちろん可能である。それによって預金が増大する。それがCBDCの形で引き出されるにせよ預金の形で残っているにせよ,マネーストックは増大する。したがって,信用創造は現在と同じようにできる」(69ページ)。私もそう思う。

 ところが野口教授はこうも言われる。CBDCについてわかりやすく考えるために,中央銀行券の利便性が飛躍的に向上したと仮定してみる。すると「決済手段としての銀行預金はいらなくなり,中央銀行券だけが流通する社会になる。つまり,中央銀行はマネーの総量の決定に対して決定的な力を持ち,銀行はそれに対して関与しない。金利や準備率の操作は必要なくなる。中央銀行の力が最大限に発揮できる。CBDCは,これと同じことを,現実に実現する手段なのである。」(92-93ページ)ここがわからない。いったいどうやってCBDC発行量を中央銀行が直接コントロールするのか。情報技術によってCBDCを生み出したり消滅させたりするという意味では可能である。しかし,制度的には異なる。CBDCの発行と流通が日銀券と同じルールに従うならば,預金者が預金を下ろした際に銀行は無条件でCBDCに交換しなければならない。とすると,CBDCの発行量は,銀行が企業に貸し付けるためにどれほど預金を設定したか,借り手の企業がどれほどその預金をおろしてCBDCに転換したか,流通するCBDCがどれほど預金として還流して来るかにかかっている。それを日銀が直接コントロールすることはできない。できるのは,金融政策によって短期金利と日銀当座預金残高を操作して,銀行の信用創造を間接的にコントロールすることである。つまり,今と変わらないはずである。仮に中央銀行の力を強化できるとしたら,CBDCの発行量を直接操作して預金のCBDCへの交換に規制を加えたり,CBDCのウォレット当たり保有高や1日当たり利用高を規制した場合であろう。それはそうした強い権限を中央銀行に与えた場合に起こることであって,CBDCが増えて預金が減ること自体から生じることではない。現金やデジタル現金の取引が増えただけで中央銀行が万能になるわけではない。

 野口教授がこのように思われる理由ははっきりしないが,中央銀行が発行する以上,中央銀行が発行量を自由に操作できるだろうと仮定しているのかもしれない。野口教授は日本銀行券についてはそうは考えていないはずなのであるが,CBDCの場合は違うというのであろうか(※3)。

 なお,野口教授は,預金が減ることとはまた別に,CBDCでは通貨に直接利子やマイナスの利子をつけることが可能であり,それがまた中央銀行の金融政策を強化する(69ページ)ことを見通しておられる。私は,付利は教授の指摘以上に重大な制度変化を誘発すると思うので,この点は本稿の最後に改めて述べたい。


4.銀行は貸し出しができなくなるか

 野口教授は,送金・決済が銀行預金の振り替えからCBDCに代替されると,預金が必要なくなり,「すると,銀行は貸し出しができなくなる。つまり,銀行の存在意義がなくなってしまうのだ」と言われる(93ページ)。銀行は自己資本の範囲だけしか貸し出すことができなくなり,ナローバンク構想での銀行と似た状態になるという(95,189ページ)。ここでのナローバンクとは預金準備率が100%の銀行のことだ。しかし,69ページでは「信用創造は現在と同じようにできる」と言われていたのに,どうしたことか。

 もし93・189ページの指摘通りだとすると,銀行貸出は著しく縮小する。しかし,そうすればCBDCの流通も成り立たないはずである。なぜならば,これも教授が説明される通り,CBDCとはそもそも銀行預金がおろされることで発行されるものだからである。そして,預金とはそもそも銀行が貸付を行うから設定されるのである。社会に出回る通貨とは,銀行が貸し付けた預金通貨が,その後転々と流通して借りて以外の手元にわたったものであるか,そうした預金が降ろされて現金になったものである(※4)。

 だから,CBDCが豊富に出回るということは,貸し付けの際に預金が豊富に設定されて,それが引き出された結果である。もし銀行が貸付不可能になったり,そこまでいかなくても自己資本の範囲でしか貸し出せないナローバンクになれば,その分だけCBDCに転換できる預金も減り,CBDCも減り,流通に必要な通貨は十分に供給されないだろう。CBDCは豊富に出回るが銀行は貸し出せないという世界は,論理的に存在し得ないので,野口教授の想定は成り立たないのである。

 この「貸し出しができなくなる」という考えは,野口教授が「銀行は,増加した預金の一部を用いて貸し出しを行う。その大部分は預金となって戻ってくる。そこで,さらにその一部を貸し出す」(88ページ),「預金を用いて貸し出しを行う」(189ページ)という風に信用創造を理解されていることに由来している。最初の預金がなくなれば貸し出しもできなくなるというわけだ。これは経済学の主流理論というか,ほとんど常識視されている見方である。

 しかし,私はここに問題があると思う。教授自身が69ページで言われたように,「CBDCの世界においても,銀行が貸し出しを行うことはもちろん可能である。それによって預金が増大する」のである。銀行は,受け入れた預金を取り崩して貸すのではない。自己宛て債務である預金を使って,企業に貸し付けるのである(※5)。やはり教授が言われるように,「それがCBDCの形で引き出されるにせよ預金の形で残っているにせよ,マネーストックは増大する」。そして企業は,返済の際はCBDCを預金に変えて貸し手の銀行に返済する。返済=回収により,預金は消滅し,マネーストックは減少するのである(※6)。あらかじめ預金がなくとも,貸し付けはできるのである。

 野口教授は,なぜか69ページと93・189ページでまったく逆のことを言われているように私には思える。そして,私は69ページの教授が正しいと思う。CBDCが普及し,預金を引き出す人が増えた場合でも,銀行は預金を設定して貸し出すことができるだろう。


5.日銀による準備金供与は不健全か

 では,銀行は貸し出せるとして,何も問題が起こらないのかというと,そうではない。野口教授の思考内部では銀行は機能停止かナローバンク化に追い込まれているが,そこまで行かなくても問題は起こる。それは準備金の不足である。準備金は貸し出しの原資としては不要だが,他のことに必要だからである。

 個人も企業もデジタル現金であるCBDCで支払いを行い,預金を利用しなくなると,預金が増えるのは銀行が企業に貸し出した瞬間と返済の瞬間だけになってしまい,事実上ほとんど滞留しなくなる。すると,銀行にとってバランスシートの負債側では預金が減少し,資産側では日銀当座預金,すなわち準備金が減少する。くどいようだが,準備金は貸し出し原資としては必要ない。しかし,貸し倒れへの備えが必要であるし,銀行間決済で送金側になった際に,日銀当座預金が不足しては困る。そして,預金者が預金を下ろす際にはCBDCが要求されるので,銀行はCBDCに替えられる日銀当座預金を十分に持っておかねばならない。

 つまり,ここで真の問題は,CBDCが使われて口座振替が使われなくなると,銀行にとって日銀当座預金という名の準備金が減少してしまうということなのである。当然,放置すれば短期金融市場はひっ迫し,銀行が資金ショートを起こすかもしれない。つまり,CBDCというデジタル現金が用いられる世界は,預金通貨が用いられる世界よりも金融が引き締まるのである(※7)。

 しかし,これは解決可能であろう。日銀が銀行に貸し付けて日銀当座預金を供給すればよいからである。現代では国債が大量に流通しているので,現に日銀が行っているように買いオペレーションをしてもよいであろう。実は野口教授も,中央銀行が銀行に貸し出してその機能を支える可能性を検討しておられる。ところが教授は,銀行の預金不足を日銀からの信用で補うのは,高度成長期のオーバーローンと同じく不健全ではないかと言われるのである。

 しかし,そうではない。いま,通貨流通はCBDCによって担われ,預金通貨が皆無であったと想定しよう。このCBDCがどうやって発行されたかというと,野口教授が46-47ページで解説されている日銀券の場合と同じようにである。つまり,銀行が日銀に保有している当座預金を取り崩してCBDCを引き出し,預金者が銀行の預金を下ろしてCBDCを受け取ったのである。CBDCは銀行がもつ日銀当座預金を下ろすことでしか発行されないのだから,それが豊富に出回るためには,まずそれと同額の日銀当座預金が設定されねばならない。この預金設定は,当然に必要なことであって,別に不健全ではないのである。


6.銀行が直面する真の問題:競争激化による淘汰

 では,日銀が準備金さえ供給すれば何の問題も起こらないかというと,そうでもない。そして,ここで起こる問題は,野口教授もある程度把握されている。教授はCBDC発行に当たって「中央銀行が直接に利用者と接することが現実的には不可能である以上,中間段階に金融機関が介在せざるを得ない」(99ページ),「仲介機関に選定されなかった金融機関の預金は不利な立場に置かれることになるので,預金が流出する危険がある」(同上)と指摘されている。これは全くその通りだと私にも思われる。ただし,教授が「金融機関が貸し出しできるのは預金があるからだ。だから,預金がなくなれば貸し出しができなくなってしまう」(98-99ページ)と言われるのは,違う。前節で述べた通り,貸し出し自体は預金がなくてもできるし,準備金は日銀が供給すれば確保されるからである。

 弱小な金融機関の困難は貸し出せないことではなく,CBDCへの交換窓口になれないがために,顧客企業が離れてしまうことである。貸し出すことは制度的に可能だが,CBDCに転換できない銀行には,企業が借りに来ないのである。預金とCBDCの交換を行うハード・ソフトのシステムを整備できる大銀行と,それが困難な銀行の経営格差が大きくなり,淘汰が生じることこそが,銀行に降りかかる真の困難なのである。


7.さらに大きな問題:中央銀行制度を一変させるCBDCへの付利

 以上,現金をデジタル化するトークン型CBDCが普及した場合に予想される事態について,野口教授の見解を追いながら,私見を対置してきた。しかし,もう一つ残る問題がある。それはCBDCに金利やマイナス金利が付される場合である。野口教授は,これを中央銀行の権限を強化するものととらえており,私もそれは賛成である。しかし,私見では,付利はCBDCに,現金を置き換えることを超えたまったく新しい性質を持たせる。それは,中央銀行制度をも揺るがすほどの変革である。よって,ここでは野口教授の記述を超えて試論を述べておきたい。

 CBDC自体に金利やマイナス金利をつけることは,情報技術的には可能である。また制度上も,それ自体はできないことはない。現金に利子を課すというのは,現金保有を債権債務関係とみなすことである。これは金貨や国家紙幣については不合理であろう。誰とも貸し借りをしていないのに利子がついてはおかしいからである。CBDCは日銀の債務なので,日銀に対する利子付き債権とみなすことは不可能ではない。そして,金利やマイナス金利を各ウォレットと日銀の間で直接にCBDCによって支払うように設計することも不可能ではないだろう。

 しかし,これはCBDCのウォレット当たり保有高制限などよりはるかに重大な制度変革である。なぜならば,日銀が「銀行の銀行」であるのみならず,企業・個人と直接に金融取引を行うようになるからである。そしてまた,日銀が通貨価値を安定させて民間の取引を間接的に支える立場から,通貨価値を直接操作して金融政策の目的を達成する立場に移行するからである。野口教授は,付利可能なデジタル人民元が中国政府の力を強くする可能性に触れているが(69ページ),中国に限らず,より一般的にCBDCのしくみが持つ可能性/危険性として強調すべきであったと思う。この極度に大きい権限と責任は,多くの国でとられている中央銀行制度,すなわち財政政策は民主主義的に統制され,金融政策は一定の独立性のある中央銀行に委ねられるという制度となじまない。日銀のCBDC金融政策に対して,生活がそれに直接左右される国民の意思を反映しろという要求は不可避であろう。逆に言えば,国民の意思を反映させずとも存続する政治制度下の中央銀行でないと,CBDCへの付利は実現できないかもしれない。CBDCに直接利子をつけることは,民主的なものであれ権威的なものであれ,中央銀行制度の根底的変革を前提としなければならないように思われる。その可否や可能性は,慎重な検討が必要であろう。


8.終わりに:銀行論の転換を

 以上が,野口教授の著書に対する私の論評である。結論を要約すれば,野口教授も私も,CBDCの典型をトークン型とみなす点で一致している。また,ハイスペックでよく機能するCBDCがデジタル化された現金取引を復権させ,口座振替を後退させるという見通しでは一致している。見解が異なるのは,CBDCが普及した時に銀行に生じる問題の所在である。野口教授の見地から見れば,CBDCは直接に金利が付されなくても,普及すると銀行の貸出機能を縮小させ,中央銀行の力を巨大にするものである。一方,私の見地から見れば,CBDCは銀行全体の貸出機能には影響を与えない。そうではなく,銀行間競争を激化させ,銀行間格差を大きくするのである。野口教授と私が見解としては一致しているが,問題の深さについての認識が違うかもしれないのが,CBDCへの付利についてである。もしCBDCに直接金利が付与されると中央銀行が金融政策上の強大な権限を持つことになるという点では一致している。ただ,私はそれだけでなく,この付利は中央銀行制度を根底から変革させずにはおかないものと考えているのである。

 本稿ではいくつかの批判を行ったが,これは野口教授個人への批判ではない。野口教授は主流派理論に依拠してCBDCを理解されているのであり,私の野口教授への批判のほとんどは,主流派理論そのものへの批判なのである。主流派理論における銀行論の根本的な問題は,「銀行は,増加した預金の一部を用いて貸し出しを行う」という命題から出発するところである。銀行は,既に存在しているお金を貸し出しに回すというのである。この命題から出発すれば,銀行は預金が減少すると貸し出せなくなる,日銀からの貸し付けが増えるのは不健全だ,ということになる。しかし,この理解こそが問題である。主流派理論に従って銀行とCBDCを理解しようとすれば,その未来像や,問題の所在を見誤ることになる(※8)。通貨のデジタル化という一大変革を理解するためには,銀行は預金という手形を切り,手形を渡して貸し付けているという理解を経済理論に浸透させねばならない(※9)。信用貨幣論がどうしても必要だと私は考える。


※1 近年,一般に知られている信用貨幣論といえばMMT(現代貨幣理論)であるが,私自身はマルクス派の信用貨幣論に依拠している。ただし,本稿で取り上げている論点については,マルクス派信用貨幣論であってMMTであっても同じ見解になると予想する。

※2 銀行がこの事態に手をこまねいておらず,口座振替サービスをデジタル化によって革新すれば,CBDCによるデジタル現金取引に対抗できるかもしれない。DCJPYはその試みであろう。DCJPYについては「DCJPYはデジタル技術によるデビットカードサービスの付いた預金であり,新たなデジタル通貨ではない -誇大広告をやめ真の可能性を論じよう-」Ka-Bataブログ,2021年11月27日を参照して欲しい。

※3 野口教授のアベノミクス批判を拝見すると(例えば野口悠紀雄「異次元緩和は空回り、日銀は政策変更を」東洋経済ONLINE,2013年7月29日や野口悠紀雄「間違った報道はしないでほしい」note, 2019年3月5日),中央銀行が発行する通貨であっても,その発行量を自由に操作できるわけでないとはっきりと認識しておられる。にもかかわらず,どうして現金がCBDCに置き換わり,預金がCBDCとして引きだされただけで中央銀行の金融政策が強大になるのか,理解に苦しむ。

※4 このことは,日銀券や預金がすでにある状態からCBDCへの交換をイメージされるとわかりにくいかもしれない。こうした交換は過渡期なのである。CBDCの使い勝手を皆が認めて交換が一通り終わり,預金は非常に少なくなったとする。そして,その後,経済成長に伴い新たにCBDCが必要な場面を考えて欲しい。この時,それはどこから供給されるかと言うと,新たに預金が設定され,その預金を誰かがおろしてCBDCに替えることを通してである。それでは,新たに設定される預金はどこで生まれるかと言うと,銀行が貸し付けを行うことによってである。例えば銀行が会社に貸し付け,会社が借入金を預金から引き出してCBDCに替え,仕入れ代金や賃金を払うのである。

※5 わかりやすく言うと,銀行はすでにある預金を貸し付けに用いるのではなく,自分あての手形を切り,その手形を渡すことによって貸し付けているのである。

※6 これもわかりやすく言うと,銀行は金貨や銀貨で返してもらったならば自分の手元にそれを資産として確保するであろうが,この場合は,自分の手形を取り戻したので,それを廃棄するわけである。自分の借用証書を取り戻した人は,当然それを廃棄する。

※7 これは別にデジタル化された世界に限った話ではない。同一の通貨流通量では,預金通貨に対して現金通貨の割合が高くなると金融は引き締まる作用が働くのである。

※8 学問的論争の際に,学会で主流と長年認められている理論には敬意を払わねばならないことは,作法として私も認める。しかし,この論点に関する限り,主流派理論と信用貨幣論に基づく銀行論は根本的に異なっており,争わざるを得ないのである。

※9 主流派の考えは預金先行説・現金の貸し付け説ともいえる。この説の方が自然にイメージできるという方もいらっしゃると思うので,最後にこのモデルの問題点を指摘しておく。預金先行説は,最初の預金に使われる日銀券はどこから来たのかを説明することができない。これでは,個々の銀行の取引はモデル化できても,一社会全体の通貨流通のモデルにはなりえない。日銀券は預金がおろされたから存在しているのであり,その預金はなぜ新規に発生したのかというと銀行が企業に貸し付けたからである。そこをモデル化しなければならない。
 管理通貨制度であって仮に財政赤字はない条件を想定しよう。預金通貨は銀行が貸し付けることで創造され,貸し倒れにならない限り,返済によって消滅する(兌換はされない)。日銀券やCBDCは日銀当座預金が下ろされることによって銀行の手持ちとなり,銀行預金が下されることによって流通に入る。逆に,預金として預けられることによって銀行の手持ちとなり,日銀当座預金として預けられることによって消滅する(兌換はされない)。このように信用貨幣論の貸し付け先行説・手形の貸し付け説で考えることによって,個々の銀行の取引と一社会全体の通貨流通を整合的にモデル化することができるのである。

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年。

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