私はよく,院生に対してよく言えば丁寧,悪く言えばかまい過ぎと言われますが,そこには色々な背景があります。大きいのは,「抽象的なやる気や学問へのあこがれや漠然とした関心はあっても,何をどう問題にしたいのかはわからない院生」という存在です。自分自身がそうであって苦しんだことや,当ゼミにやってくる院生もたいていはそうであるという認識がまずあります。私の意見では,1980年代には日本はすでに「なにをやりたいかわからない若者」の時代になっていたし,そして21世紀の今,新興国もそうなっているのです。よって,ただ放置しているだけ,あるいはよく使われる言葉で言うと「放牧型」の支援では,過半数の院生は論文を完成させられません。経験則的に言うならば,修士論文は辛うじて完成するかもしれませんが,学術誌に投稿したり博士論文を完成させることはできません。
しかし,これは院生がダメだという意味ではありません。最初は何が何だかわからなくても,やがて問題を発見し,解決法を発見するかもしれないからです。そういう可能性を引き出せるかどうかは,大学と指導教員側の問題でもあります。
だからといって「農業型」の指示・命令式指導やゼミ(研究室)運営をすると,研究主体は私になってしまい,院生が自立した研究者になれません。それは適切ではありません。
この認識の上に立って,私がどういう指導教員になっているかと言うのをわかりやすく表現するとすると,以前は「パワハラを排したネオ徒弟制」と言っていたのですが,いまは「作家に対する編集者」だと思います。
つまり,ネタ出しや作品構想の打ち合わせからいっしょに行い,研究対象,問題意識,課題設定,分析視角,調査方法などについて話し合う。たとえて言えば,よい研究になりそうな原石を院生の中から見つけてきて,いっしょにがっつんがっつんノミを入れあう(この表現はマンガ家マンガ『新吼えろ!ペン』第17話「おれの中の定義」サンデーGXコミックス第5巻71-73ページよりいただきました。画像参照)。
院生が持っている問題意識を引き出し,学問的枠組みや着眼点を探すことや,調査・分析の仕方も,自分で学ばせつつも頻繁にコメントし,必要なサジェスチョンやダメ出しをする。途中原稿についても完成原稿についても最初の読者となり,これが学界に出たらどういう風に視られるかを考えてまた話し合う。学会や研究会では他の研究者から学ぶ機会を作るとともに,当人を売り込む。学会報告の反応を見て,どのようにアピールすべきかもいっしょに考える。雑誌査読を突破する方策を検討し,コメント,添削,日本語校正をする。修了の見込みやキャリアについても相談する。相手が若者の場合,必要に応じて各種の生活相談に乗る。ただしパワハラ,セクハラ,えこひいき,人格的上下関係,強度の依存関係にならないように厳重に注意する(しかし,理系と異なり単独指導制なので,フェール・セーフが必要。複数の教員が出るゼミを作るとか,支援方針を文書にする,個別指導もすべて記録する,意見交換内容は互いにメールで文書化するなど<これで十分とは思っていません>)。
このスタイルの社会的メリットは,冒頭に書いたように,「はじめから何をどうやりたいかわかって入学するわけではない」院生を育てて,よい研究を生み出すことができることです。初めから問題意識と学問的素養と自己の思想にあふれている院生だけを相手にするよりも,育成対象のすそ野は何倍にも広がります。
また,私自身にもメリットがあります。研究過程で自分の問題意識や関心も正当に加えられるために,自分自身の研究の幅が広がり,物理的・精神的限界から自分自身ではできなかったような研究も院生がやってくれるといううれしさもあります。例えば,現在のゼミ生が手掛けている研究も,自分でやりたいけれど手が回らないテーマであったり,昔,自分でとりくんで謎のまま終わった研究の続きをやってもらっているようなものであったりします。正直,これが研究者としての最大のメリットです。
もちろん問題もあります。私にとっての問題は,言うまでもなく,途方もない労力と時間がかかることです。何しろ,自分も論文を書かねばならないわけで,いわば作家をやりながら編集者をやっているわけですから。それと,文科系に特有の事情としては,単独著作が尊重される世界なので,かなり丁寧に支援した論文でも,雑誌には,共著でなく単著として発表させるようにしなければなりません。そうすると,自らの教育成果にはなっても研究成果として業績リストには表現されないことになります。もっとも,当人が修了してからも支援を続けて新たに雑誌に発表するときは,一人前の研究者同士の共同研究になるので,共著にします。そういう例も3回ほどありました。
院生当人にとってもよいことばかりではありません。小説家やマンガ家は,編集者と共同作業をしていてもすでにプロの作家です。しかし,大学院生はちがいます。編集者のような指導教員のもとから,修了とともに旅立たねばなりません。そのとき,編集者を失った作家のようになって挫けてしまってはどうにもなりません。つまり,指導教員がいなくなっても大丈夫なように自立する独自の努力が求められるということです。結局は,自立するしかないのです。
課程博士論文の作成と審査は,自立の重要なきっかけであり,試練です。以前は初めて学術誌に投稿するときと思っていたのですが,どうも博士論文のようです。
博士論文より前に学術誌に論文を出すときは,私と院生の関係も違います。学術誌への投稿では,「院生+指導教員」vs査読者という構図です。査読を突破して論文を交換するために私は院生を支援します。コメントもすれば添削も日本語校正もします(そもそも,雑誌の編集委員会が留学生の投稿者に対して,日本語ネイティブや指導教員による日本語校正を求めてきたりします)。正直,こちらがそこまでやらないと,院生が,研究職にエントリーするのに最小限必要と言われる3本の論文を出すことは難しいです。
しかし,博士論文は院生vs「指導教員を含む審査委員」という構図です。私はもちろん論文支援はしますが,支援の方法は違います。院生に援護射撃をするのではなく,合格水準を示して,そこに向かって到達する道筋を示すような支援になるので,院生当人にとっては厳しくなります。また留学生の書いた日本語も修正はせず,問題点だけ示して必要な水準まで直させます。つまり,ここでは指導教員は支援者というより壁になります。博士論文を提出して合格することで,編集者のついていない作家として自立することになるでしょう。
このような編集者型指導教員の姿が適切なものか,また持続可能性のあるものなのかどうかは,いまでもわかりません。しかし,今のところ私自身にとっては,これ以外の方法が思いつかないのです。
<参考>
島本和彦『新吼えろペン』第5巻,Kindle版。
川端望のブログです。経済,経営,社会全般についてのノートを発信します。専攻は産業発展論。研究対象はアジアの鉄鋼業を中心としています。学部向け講義は日本経済を担当。唐突に,特撮映画・ドラマやアニメについて書くこともあります。
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2019年6月8日土曜日
2019年6月6日木曜日
島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に思う研究者≒マンガ家論
私が島本和彦『吼えろ!ペン』『新吼えろ!ペン』に魅かれるのは,マンガ家と研究者がどこか似ているからかもしれない。
自然科学であれ人文・社会科学であれ,研究においては価値判断によって事実を曲げてはならない。しかし,テーマ選択や問題設定,研究方法の選択,分析視角のとり方には価値判断や嗜好が大いに働く。そのため,論文は研究対象を何らかの形で反映しているが,それは研究対象を解釈するという実践を通して反映しているのであり,その解釈においては自分自身を表現してもいるのだ。だから論文は「作品」で「も」ある。解釈や自己表現の度合いは,おそらくは自然科学より社会科学の方がはるかに強く,人文科学においてさらに強い。
論文に「作品」の性格が強ければ強いほど,小説家や漫画家と同じく,自分を見失った状態では書けなくなる。ところが,鏡なしに自分自身を観ることは,元来大変困難であるし,論文も一種の鏡になってくれるが,あまりに形が複雑すぎて,論文に映った自分が何だよくわからないこともある。
(引用1)アシスタント・前杉英雄「人も信用できない……。自分のマンガが面白いのかどうかもわからない……。混沌としたこの世界の中で,それでも毎月作品を上げている先生はたいしたものだったのだ!!」(『吼えろ!ペン』第12巻,小学館,2004年,121ページ)
この困難を乗り越える秘策はないのだが,十分条件ではないものの必要条件だけはあると思う。それは,書き続けることだ。
(引用2)マンガ家・炎尾燃「そこが勝負どころだ!それでも作らなければ次につながっていかないだろう!」(『新吼えろ!ペン』第5巻,小学館,2006年,41ページ)
ごくまれに,ものすごい寡作でも名声をなす研究者もいる(当研究科なら故・原田三郎教授などがそうだ)。しかし,それは超例外的な存在だ。たいていの研究者は,傑作だろうが駄作だろうが,書き続けないと,書けなくなる。それは,研究ノウハウを失うからというだけの理由ではない。研究者としての自分自身がわからなくなり,いっそう書けなくなるのだ。だから,出来がよかろうが悪かろうが,書くしかない。そう思わない人もいるだろうが,私は,こう思う(じゃあ,書けよさっさと)。
自然科学であれ人文・社会科学であれ,研究においては価値判断によって事実を曲げてはならない。しかし,テーマ選択や問題設定,研究方法の選択,分析視角のとり方には価値判断や嗜好が大いに働く。そのため,論文は研究対象を何らかの形で反映しているが,それは研究対象を解釈するという実践を通して反映しているのであり,その解釈においては自分自身を表現してもいるのだ。だから論文は「作品」で「も」ある。解釈や自己表現の度合いは,おそらくは自然科学より社会科学の方がはるかに強く,人文科学においてさらに強い。
論文に「作品」の性格が強ければ強いほど,小説家や漫画家と同じく,自分を見失った状態では書けなくなる。ところが,鏡なしに自分自身を観ることは,元来大変困難であるし,論文も一種の鏡になってくれるが,あまりに形が複雑すぎて,論文に映った自分が何だよくわからないこともある。
(引用1)アシスタント・前杉英雄「人も信用できない……。自分のマンガが面白いのかどうかもわからない……。混沌としたこの世界の中で,それでも毎月作品を上げている先生はたいしたものだったのだ!!」(『吼えろ!ペン』第12巻,小学館,2004年,121ページ)
この困難を乗り越える秘策はないのだが,十分条件ではないものの必要条件だけはあると思う。それは,書き続けることだ。
(引用2)マンガ家・炎尾燃「そこが勝負どころだ!それでも作らなければ次につながっていかないだろう!」(『新吼えろ!ペン』第5巻,小学館,2006年,41ページ)
ごくまれに,ものすごい寡作でも名声をなす研究者もいる(当研究科なら故・原田三郎教授などがそうだ)。しかし,それは超例外的な存在だ。たいていの研究者は,傑作だろうが駄作だろうが,書き続けないと,書けなくなる。それは,研究ノウハウを失うからというだけの理由ではない。研究者としての自分自身がわからなくなり,いっそう書けなくなるのだ。だから,出来がよかろうが悪かろうが,書くしかない。そう思わない人もいるだろうが,私は,こう思う(じゃあ,書けよさっさと)。
2019年6月1日土曜日
消えざるを得ないとすれば,どのような大学から順に消えるべきか
消えていく大学がちらほらとある一方で,国立大学の定員を見直すという話題もちらちら見え始めています。お前は国立大学の教員だから言えるんだと言われればその通りですが,それでも申します。1)学生が集まらず,定員割れを起こしている大学から順に退出するのが妥当です。これに反することをやってはいけません。2)大学という名にふさわしい授業を行っていない大学から順に退出するのが妥当です。財務省をニュースソースに,高校・中学並みの英語の授業をしている国立大学あることを,ことさらに取り上げる報道がありましたが,それどころの騒ぎではない私立大学は存在しないのか,よく調査してはどうかと申し上げたい。
「広島国際学院大 募集停止へ」NHK NEWS WEB,2019年5月31日。
「広島国際学院大 募集停止へ」NHK NEWS WEB,2019年5月31日。
2019年5月29日水曜日
続々:留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について
法務省が,日本の大学を卒業した留学生が就職できる範囲を広げ,日本語能力がN1に達しているのであれば,接客業や小売業でも認めるという報道がありました。
以前に書きましたように(1,2),私はホワイトカラー業務や専門職への就職制限を緩和することには賛成ですが,ブルーカラー業務への就職制限を緩和することには反対です。今回も,接客業や小売業のホワイトカラー職(例:コンビニの購買担当業務やシステム開発業務)への就職ならばいいですが,コンビニの店員,居酒屋の店員への就職を含むならば反対です(私の言うブルーカラー職は現場での肉体労働による販売労働を含みます)。
留学生が卒業してブルーカラー業務に就く可能性を閉ざせと言っているのではありません。そのような場合は,「特定技能」の資格に応募しなおす仕組みとすべきです。そして,「特定技能」の対象に接客業や小売業を含めた上で,それらの語学能力要件をN1にすればよいのです(「特定技能」全般についてはN4でなくN3にすべきです)。そうして,「特定技能」の受け入れ総数を管理します。それだけのことです。今回の政策には,そういう適切な制度設計をせずに,手っ取り早く人手不足を解消したいという安直な姿勢が見えます。このようなことを,法改正なしに法務省の告示だけで行うなどとんでもないことです。
この政策ではなぜまずいかを説明します。何よりも,留学生に日本語能力だけを身に付けさせてブルーカラー業務に就職させるというルートを念頭に置いて,教育体制も整っていないのに留学生の大量獲得を目指すというモラル・ハザードが,一部の大学に発生するおそれがあるからです。東京福祉大学事件を念頭に置くならば,これは決して杞憂ではないでしょう。留学生を対象とする高等教育を形骸化させる危険があります。
もうひとつは,人数に制限がないからです。「特定技能」の人数管理もあまり適切に行われているとは言えませんが,一応,ぼんやりとした総枠はあります。しかし,「特定活動」には全く総枠はありません。日本の労働市場の状態と関係なく外国人労働者の参入を認めるのは,適切ではありません。景気の状態によって,日本の高卒の若者との競合を招きかねません。
外国人労働者を適切に受け入れることは必要です。同時に,留学生に対する高等教育の質を向上させるために,必要な工夫をすべきです。安易な政策は,日本の高等教育の効果をそぎ,質の低い職を外国人大卒者におしつけることになりかねません。
「専門外の接客業OKに 法務省、留学生の就職先を拡大」朝日新聞デジタル,2019年5月28日。
https://www.asahi.com/articles/ASM5X3TKYM5XUTIL026.html
出入国在留管理庁「留学生の就職支援のための法務省告示の改正について」2019年5月28日。
http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri07_00210.htm
前稿
「留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年10月22日。
「続・留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年11月3日。
参考
「東京福祉大学問題から見える,歯止めなきトップダウンのダメさ加減」Ka-Bataブログ,2019年4月13日。
濱口桂一郎「留学生の就職も「入社型」に?」hamachanブログ(EU労働政策雑記帳),2018年10月25日。
濱口桂一郎「ジョブ型入管政策の敗北」hamachanブログ(EU労働政策雑記帳),2019年5月29日。
以前に書きましたように(1,2),私はホワイトカラー業務や専門職への就職制限を緩和することには賛成ですが,ブルーカラー業務への就職制限を緩和することには反対です。今回も,接客業や小売業のホワイトカラー職(例:コンビニの購買担当業務やシステム開発業務)への就職ならばいいですが,コンビニの店員,居酒屋の店員への就職を含むならば反対です(私の言うブルーカラー職は現場での肉体労働による販売労働を含みます)。
留学生が卒業してブルーカラー業務に就く可能性を閉ざせと言っているのではありません。そのような場合は,「特定技能」の資格に応募しなおす仕組みとすべきです。そして,「特定技能」の対象に接客業や小売業を含めた上で,それらの語学能力要件をN1にすればよいのです(「特定技能」全般についてはN4でなくN3にすべきです)。そうして,「特定技能」の受け入れ総数を管理します。それだけのことです。今回の政策には,そういう適切な制度設計をせずに,手っ取り早く人手不足を解消したいという安直な姿勢が見えます。このようなことを,法改正なしに法務省の告示だけで行うなどとんでもないことです。
この政策ではなぜまずいかを説明します。何よりも,留学生に日本語能力だけを身に付けさせてブルーカラー業務に就職させるというルートを念頭に置いて,教育体制も整っていないのに留学生の大量獲得を目指すというモラル・ハザードが,一部の大学に発生するおそれがあるからです。東京福祉大学事件を念頭に置くならば,これは決して杞憂ではないでしょう。留学生を対象とする高等教育を形骸化させる危険があります。
もうひとつは,人数に制限がないからです。「特定技能」の人数管理もあまり適切に行われているとは言えませんが,一応,ぼんやりとした総枠はあります。しかし,「特定活動」には全く総枠はありません。日本の労働市場の状態と関係なく外国人労働者の参入を認めるのは,適切ではありません。景気の状態によって,日本の高卒の若者との競合を招きかねません。
外国人労働者を適切に受け入れることは必要です。同時に,留学生に対する高等教育の質を向上させるために,必要な工夫をすべきです。安易な政策は,日本の高等教育の効果をそぎ,質の低い職を外国人大卒者におしつけることになりかねません。
「専門外の接客業OKに 法務省、留学生の就職先を拡大」朝日新聞デジタル,2019年5月28日。
https://www.asahi.com/articles/ASM5X3TKYM5XUTIL026.html
出入国在留管理庁「留学生の就職支援のための法務省告示の改正について」2019年5月28日。
http://www.moj.go.jp/nyuukokukanri/kouhou/nyuukokukanri07_00210.htm
前稿
「留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年10月22日。
「続・留学生が日本の大学を卒業して就職する際の条件緩和について」Ka-Bataブログ,2018年11月3日。
参考
「東京福祉大学問題から見える,歯止めなきトップダウンのダメさ加減」Ka-Bataブログ,2019年4月13日。
濱口桂一郎「留学生の就職も「入社型」に?」hamachanブログ(EU労働政策雑記帳),2018年10月25日。
濱口桂一郎「ジョブ型入管政策の敗北」hamachanブログ(EU労働政策雑記帳),2019年5月29日。
2019年5月25日土曜日
リンク集:年俸制適用拡大をはじめとする国立大学法人等人事給与マネジメント改革について
久しぶりに組合サイドのセミナーをしなければならず,国立大学教員への年俸制適用拡大について調べる。意外と,金額的に直ちに響くのは最後の社会保険料のところだったりするので注意。
「統合イノベーション戦略」閣議決定,2018年6月15日。
https://www8.cao.go.jp/cstp/tougosenryaku/tougo_honbun.pdf
「人事給与マネジメント改革の動向及び今後の方向性」文部科学省 高等教育局 国立大学法人支援課,中央教育審議会大学分科会制度・教育改革ワーキンググループ(第17回) 配付資料,2018年7月31日。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/043/siryo/__icsFiles/afieldfile/2018/08/03/1407795_5.pdf
「人事給与マネジメント改革に関する Q&A(ver.2.1)」2018年9月12日。
https://ha4.seikyou.ne.jp/home/kumiai/18/QandA2-1.pdf
「国立大学の教育研究活性化を促進する人事給与マネジメント改革に関する基本的な考え方について―特に業績評価と新しい給与システムの在り方について―」一般社団法人国立大学協会,2018年11月2日。
https://www.janu.jp/news/files/20181102-wnew-HR-Payroll.pdf
「厳格な業績評価に基づく新たな年俸制」エルムの森だより:北海道大学教職員組合執行委員会ブログ,2018年11月8日。
http://elm-mori.hatenablog.com/entry/2018/11/08/143653
「国立大学法人等人事給与マネジメント改革に関するガイドライン~教育研究力の向上に資する魅力ある人事給与マネジメントの構築に向けて~」文部科学省大臣官房人事課・高等教育局国立大学法人支援課・研究振興局学術機関課,2019年2月25日。 http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/11/1289344_001.pdf シニアガイド編集部「『年俸制は毎月均等の金額で受け取った方が得』は本当か!?」シニアガイド,株式会社インプレス,2016年2月23日。 https://seniorguide.jp/article/1001686.html 深田俊彦「相談室Q&A 年俸制を適用することによって,社会保険料の支払いに何か違いが生じるのか」『労政時報』第3912号,2016年7月8日。 https://www.ohno-jimusho.co.jp/news/pdf/news20160729_2.pdf
「国立大学法人等人事給与マネジメント改革に関するガイドライン~教育研究力の向上に資する魅力ある人事給与マネジメントの構築に向けて~」文部科学省大臣官房人事課・高等教育局国立大学法人支援課・研究振興局学術機関課,2019年2月25日。 http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/11/1289344_001.pdf シニアガイド編集部「『年俸制は毎月均等の金額で受け取った方が得』は本当か!?」シニアガイド,株式会社インプレス,2016年2月23日。 https://seniorguide.jp/article/1001686.html 深田俊彦「相談室Q&A 年俸制を適用することによって,社会保険料の支払いに何か違いが生じるのか」『労政時報』第3912号,2016年7月8日。 https://www.ohno-jimusho.co.jp/news/pdf/news20160729_2.pdf
対中関税引き上げとは,アメリカ政府がアメリカ国内の企業と労働者と消費者を苦めることだ
米中の関税引き上げ合戦でどっちが勝つかなどと考えるのは非常識で,問題の立て方がおかしい。アメリカが関税を引き上げれば中国からの輸入品が高くなり,代わりに別の国から輸入することにしても,以前よりは輸入価格は上がってしまう。丸損するのはアメリカの消費者である。消費が落ち込めば,輸入品を使って製造や販売をする企業も困る。利益が増大するのは,関税引き上げのおかげで国内生産を増大させられる分野の企業だけである。また,そうした産業では雇用も維持される。しかし,その分だけ,本来アメリカに優位のある産業の拡大は妨げられ,雇用は増えなくなる。所得と雇用に与えるトータルの効果は,特別な条件がなければマイナスである。
つまり,自国政府が自国内の企業と労働者と消費者を苦めるだけのことだ。
私は,具体的な条件の下で様々な修正が必要であるとしても,自由貿易の効用と保護主義の弊害に関する,この基本ロジックは支持する。
「アングル:米国の対中追加関税、自国企業に与える影響」ロイター,2019年5月25日。
つまり,自国政府が自国内の企業と労働者と消費者を苦めるだけのことだ。
私は,具体的な条件の下で様々な修正が必要であるとしても,自由貿易の効用と保護主義の弊害に関する,この基本ロジックは支持する。
「アングル:米国の対中追加関税、自国企業に与える影響」ロイター,2019年5月25日。
2019年5月15日水曜日
「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案に対する意見
2019年5月10日,以下の意見を仙台市議会事務局長に提出しました。
ーーー
市政の充実のために奮闘する市議会の皆様に敬意を表します。「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案について,大変興味深く拝見いたしました。以下のように意見を提出いたします。
<二つの考え方>
1.政府・自治体の財政は家計や企業ではありません。財政は,その政府単位の住民の生活のために,営利事業での供給に向かない財・サービスを供給するために存在します。その費用は住民が一定の基準のもとに分かち合います。財政は営利事業ではありませんから,黒字を大きくすることが目的ではなく,住民の福祉向上が目的です。そこに必要な経済原理は「収入マイナス支出の黒字が大きくなるようにすること」ではなく,「住民のためにやるべき仕事を,なるべく少ないお金で効率的に行うこと」です。ここで大事なのは,「やるべき仕事」の方に重点があって,そのためにお金を集めて効率的に働くべきなのであって,「やるべき仕事」を放棄することでコスト削減と効率化を進めても意味がないということです。
2.地方財政は,国の財政に影響される存在です。国の制度・政策によって,地方に十分な財源が与えられていなければ,地方自治を発展させられません。例えば,地方交付税の制度と規模について,地方自治体は政府に対して適切な意見を述べ,要望をする必要があります。
以上の二つの観点から見て,この条例案の以下の点に改善の余地があると思い,各項目について修正案を提案するものです。
<提案>
*前文の最初の2段落が,今後の財政を引き締め方向で運用することを前提にしています。これは適切ではありません。人口減少・高齢社会に向かって市が提供すべき財・サービスのイメージを明らかにし,「社会の変化に対応した公共サービスを提供し,市民の生活に資すること,そのために必要な財政資金を確保するとともに,これを効率的に用いることこそ市財政の本旨である」であるとまず述べるべきです。
*前文の「時代の要請を踏まえた事業の選択と集中」のところ,何が「時代の要請」なのか明らかではありません。また「事業の選択と集中」はこれまで行政や企業経営においては,事業を縮小する際にのみ用いられている用語であり,また新規事業の開発を排除した意味になっていて,適当ではありません。「新たな時代の市民生活の必要に応じた事業の開発や組み換え,選択と集中」などとするのが均衡の取れた表現だと考えます。
*「公共サービスによる利益を享受している市民の理解が不可欠であり」では,市民が市という会社の顧客のようであり,またサービスを一方的に受けているかのように見えます。市民が市政の主体であること,また現にその費用を負担していることが踏まえられていません。「地方自治の主体であるとともに公共サービスの受益者であり,その費用の負担者でもある市民の理解が不可欠であり」などとするのが,地方自治,住民自治の本旨にふさわしいと思います。
*「財政運営の基本原則」の2「将来の世代に負担を過度に残すことがないよう、安定的で持続可能な財政運営を行うこと」は,まちがってはいませんが,市債の考え方を一面的にとらえています。会社がお金を借り入れて将来のために工場を建てることが必要な時があるように,市にもお金を借り入れて将来のために施設・設備をつくることが必要な時があります。そのために市債を発行し,その返済費用は,施設・設備を利用する将来世代にも負担してもらうというのが,市債の考え方であり,公式ページにもその趣旨が記されているところです。負担を残さないことだけを考えて,必要なことをしないというのでは本末転倒です。「将来の世代の受益を図りつつ,その負担を過度に残すことがないよう」が均衡の取れた表現と思われます。
*「財政運営の基本原則」の4「公共サービスに係る市民の受益と負担の均衡を図ること」が,市民全体と負担全体についてのことであればよいのですが,個々のサービスについての個々人の受益と均衡を図るという意味ならば,適当ではありません。それは公共サービスの原理ではなく,民間サービス業の原理です。公共サービスを受けるのは住民の権利であり,一定部分のサービスは負担能力に関係なく人権として保障されねばなりません。もちろん,そこにも費用が掛かりますが,その負担は負担能力などを勘案して配分すべきです。それが薄く広く,負担を分かち合う税制の考えです。4「公共サービスに係る市民の受益全体と負担全体の均衡を図るとともに,負担配分が適切・公正であるように努めること」とするのがよいと思います。
*「市民の参画」について。市民が主権者であること,住民自治の考えが全く踏まえられていません。「市民は市政の担い手であり,市の公共サービスのあり方について自ら発言し,市政を監視するとともに,その財政運営について理解することが求められる」などという項目を冒頭に加えるべきべき(ブログ収録時の注:もちろんタイプミス)。
*政府に対して働きかけるのも,財政の健全性を守るための市の責務です。「政府へのはたらきかけ」などと言う項目を立て,「市と市議会は,財政自主権の確立のため,政府と地方自治体の役割分担,地方財源のあり方について常に改善に努め,他の地方自治体と連携して,政府に適切な提案とはたらきかけを行う」などという文章を加えるべきです。
以上の主要な個所に加え,いくつかの付随的な修正点を追加し,文章の整合性を加味した修正案を添付いたします。ご検討賜れれば幸いに存じます。
(ブログでは修正案は略)
仙台市議会では「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案に関する市民意見聴取を実施します
ーーー
市政の充実のために奮闘する市議会の皆様に敬意を表します。「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案について,大変興味深く拝見いたしました。以下のように意見を提出いたします。
<二つの考え方>
1.政府・自治体の財政は家計や企業ではありません。財政は,その政府単位の住民の生活のために,営利事業での供給に向かない財・サービスを供給するために存在します。その費用は住民が一定の基準のもとに分かち合います。財政は営利事業ではありませんから,黒字を大きくすることが目的ではなく,住民の福祉向上が目的です。そこに必要な経済原理は「収入マイナス支出の黒字が大きくなるようにすること」ではなく,「住民のためにやるべき仕事を,なるべく少ないお金で効率的に行うこと」です。ここで大事なのは,「やるべき仕事」の方に重点があって,そのためにお金を集めて効率的に働くべきなのであって,「やるべき仕事」を放棄することでコスト削減と効率化を進めても意味がないということです。
2.地方財政は,国の財政に影響される存在です。国の制度・政策によって,地方に十分な財源が与えられていなければ,地方自治を発展させられません。例えば,地方交付税の制度と規模について,地方自治体は政府に対して適切な意見を述べ,要望をする必要があります。
以上の二つの観点から見て,この条例案の以下の点に改善の余地があると思い,各項目について修正案を提案するものです。
<提案>
*前文の最初の2段落が,今後の財政を引き締め方向で運用することを前提にしています。これは適切ではありません。人口減少・高齢社会に向かって市が提供すべき財・サービスのイメージを明らかにし,「社会の変化に対応した公共サービスを提供し,市民の生活に資すること,そのために必要な財政資金を確保するとともに,これを効率的に用いることこそ市財政の本旨である」であるとまず述べるべきです。
*前文の「時代の要請を踏まえた事業の選択と集中」のところ,何が「時代の要請」なのか明らかではありません。また「事業の選択と集中」はこれまで行政や企業経営においては,事業を縮小する際にのみ用いられている用語であり,また新規事業の開発を排除した意味になっていて,適当ではありません。「新たな時代の市民生活の必要に応じた事業の開発や組み換え,選択と集中」などとするのが均衡の取れた表現だと考えます。
*「公共サービスによる利益を享受している市民の理解が不可欠であり」では,市民が市という会社の顧客のようであり,またサービスを一方的に受けているかのように見えます。市民が市政の主体であること,また現にその費用を負担していることが踏まえられていません。「地方自治の主体であるとともに公共サービスの受益者であり,その費用の負担者でもある市民の理解が不可欠であり」などとするのが,地方自治,住民自治の本旨にふさわしいと思います。
*「財政運営の基本原則」の2「将来の世代に負担を過度に残すことがないよう、安定的で持続可能な財政運営を行うこと」は,まちがってはいませんが,市債の考え方を一面的にとらえています。会社がお金を借り入れて将来のために工場を建てることが必要な時があるように,市にもお金を借り入れて将来のために施設・設備をつくることが必要な時があります。そのために市債を発行し,その返済費用は,施設・設備を利用する将来世代にも負担してもらうというのが,市債の考え方であり,公式ページにもその趣旨が記されているところです。負担を残さないことだけを考えて,必要なことをしないというのでは本末転倒です。「将来の世代の受益を図りつつ,その負担を過度に残すことがないよう」が均衡の取れた表現と思われます。
*「財政運営の基本原則」の4「公共サービスに係る市民の受益と負担の均衡を図ること」が,市民全体と負担全体についてのことであればよいのですが,個々のサービスについての個々人の受益と均衡を図るという意味ならば,適当ではありません。それは公共サービスの原理ではなく,民間サービス業の原理です。公共サービスを受けるのは住民の権利であり,一定部分のサービスは負担能力に関係なく人権として保障されねばなりません。もちろん,そこにも費用が掛かりますが,その負担は負担能力などを勘案して配分すべきです。それが薄く広く,負担を分かち合う税制の考えです。4「公共サービスに係る市民の受益全体と負担全体の均衡を図るとともに,負担配分が適切・公正であるように努めること」とするのがよいと思います。
*「市民の参画」について。市民が主権者であること,住民自治の考えが全く踏まえられていません。「市民は市政の担い手であり,市の公共サービスのあり方について自ら発言し,市政を監視するとともに,その財政運営について理解することが求められる」などという項目を冒頭に加えるべきべき(ブログ収録時の注:もちろんタイプミス)。
*政府に対して働きかけるのも,財政の健全性を守るための市の責務です。「政府へのはたらきかけ」などと言う項目を立て,「市と市議会は,財政自主権の確立のため,政府と地方自治体の役割分担,地方財源のあり方について常に改善に努め,他の地方自治体と連携して,政府に適切な提案とはたらきかけを行う」などという文章を加えるべきです。
以上の主要な個所に加え,いくつかの付随的な修正点を追加し,文章の整合性を加味した修正案を添付いたします。ご検討賜れれば幸いに存じます。
(ブログでは修正案は略)
仙台市議会では「(仮称)仙台市将来にわたる責任ある財政運営の推進に関する条例」案に関する市民意見聴取を実施します
2019年5月11日土曜日
MMT(現代貨幣理論)の経済学的主張と政治的含意
朴勝俊教授によるL. Randall Wray の Modern Money Theory の要点解説が公表されたおかげで,MMTへの理解をいくらか進められた。趣旨は読んでいただくとして,以下,私が留意点と思ったことをノートする。
*レイのMMTは信用貨幣論である。これは貨幣とは負債であるという意味である。使用者の信認で成り立つ貨幣という意味ではない。
*レイは,中央銀行による量的金融緩和によってはインフレーションは起こりえないと考えている。これは,私が理解するマルクス経済学ベースの信用貨幣論と一致し,リフレーション論と対立する。
*レイは,統合政府または政府と中央銀行の協調の下では,金融緩和よりもむしろ財政支出が通貨供給量を増やし,課税が通貨供給量を減らすと考えている。通貨供給量は財政政策によって調整されるという理論だと思われる(原典で要確認)。
*レイは,政府と中央銀行が統合されていてもいなくても,結果としてバランスシートは同じになると考えている。
・なぜそうなるかというと,たとえ政府が直接に政府貨幣を発行する場合でも,信用貨幣として,つまり政府が負債として発行するとしているからだ。いわば政府手形だ。ここが,政府の資産と想定される不換紙幣,政府紙幣とは異なる。というより,レイは貨幣はもともとすべて信用貨幣で負債であって,負債でない貨幣はあり得ないと言いたいように見える。金貨も銀貨もそうなのかと疑問に思ってしまうが(原典で要確認)。
*ただし,レイの信用貨幣論が一か所だけ独特な動きをするのは財政支出だ。私の学んだ限り,銀行券は金融取引においてのみ発行される。しかしレイの統合政府は,政府貨幣創出によって民間非銀行から直接に財を購入できるとされていることだ。ここがいちばんわかりにくく,朴教授の解説の文言でもすっきりと飲み込めない。
・そこでもう少し分かりやすように解釈すると,要は財を政府に売った企業に政府宛債権が発生する。企業は銀行に取り立てを依頼し,銀行は企業の預金口座に代金を振り込むとともに政府から無償で準備金を供与される,という論理になっているのだと思う。
・ここでは統合政府は自己宛債務証書で直接財を買っていることには間違いなく,政府貨幣は銀行券というより小切手のように機能していると思える(要検討)。
・レイの政府貨幣が流通する根拠は何か。手形一般がそうであるように債権債務相殺機能を持っている他に,法定納税手段であって,税債権と税債務を相殺する機能をもっているからのようである。これは私の解釈(要検討)。
*レイの政府貨幣は政府手形=政府債務証書なので,政府資産にはならない。政府に還流したら消滅すると解釈できる(原典で要確認)。だから政府は徴税した貨幣を使っているのではない。むしろ,財政支出によって貨幣を供給し,課税によってこれを回収している。
*レイは政府が,自ら定めた最低賃金率で,働きたいひとをすべて雇用することにより,失業をゼロにするとともに,失業ゼロによるインフレ圧力が生じないようにしようとしている。
*レイの理論では,政府が通貨発行権を持つ場合,財源問題には直面しない。ただし,通貨を発行して支出するとそれは財政赤字を増大させ,政府債務は増加する。
・なぜなら,政府貨幣は信用貨幣であって,バランスシートの負債側に記帳されるからだ。
・その場合,債権が増えるのは銀行である。というのは,政府に何かを売った非金融企業が銀行に持つ預金が増えるので,銀行が統合政府に持つ準備預金が増えるから。
*もちろん,政府が政府貨幣を発行できない場合は,政府支出を増やすことは財政赤字の増大を意味し,政府債務は増加する。
*レイの理論では,政府支出が膨張しても,統合政府であるか,中央銀行が政府と協調している限りはデフォルトには陥らない。ただし,不健全なインフレーションになる危険はある。
*レイによれば,歴史的に不健全なインフレーションになったのは,1)供給制約が厳しい場合と,2)政治的事情により課税が十分にできない場合だ。だから,その二つに陥らないようにしなければならないということになる。
*ということは,レイの政策論は,以下のようになると思われる。
A)大前提として,中央銀行は政府と協調しなければならない(とこの解説では書かれていないが,論理的にそうなると思う。原典で要確認)。
B)財政破綻の恐れがあるから財政支出を拡大できない,という考えは採るべきではない。
C)通貨供給量は主に財政政策で調整する。
D)失業問題の解決については,政府が最低賃金率を適切に定めた上で限度なく雇用する必要がある。
E)供給制約を超えて需要を刺激しようとするような財政赤字を出さないようにする必要がある。
F)(財政破綻の防止でなく)不健全なインフレ圧力をつくらないために課税が十分に行われるようにする必要がある。
*以上の理解が間違っていないとすれば,私の解釈では,レイの政策論を実現するためには,通貨価値安定と金融システム安定は中央銀行が,政府から相対的に独立して担う,というシステムを放棄し,これらの機能も政府が担わねばならない。
*レイの考えるシステムの下では,財政赤字が理由で非自発的失業をなくすのに十分な予算が組めなくなるという制約が外れる。そして,左派から見れば社会保障充実の予算が組めないという制約が外れ,経済的保守派から見れば企業支援策の予算が組めないという制約が外れ,タカ派から見れば軍事支出を拡大できないという制約が外れる。
*とすると,行政府と立法府の責任は極めて重くなる。
・D)E)F)について,立法府や行政府が近視眼的な政策をとると不況やインフレーションの危険がある。そのかわりデフレーションの危険はほぼなくなるが。
・また,時々の政治勢力のあり方によって,右であれ左であれ,優位な政治勢力が推進する財政支出の規模は,いままでよりもはるかに大規模になるだろう。
*政治的含意。朴教授が紹介するように,レイは「MMT自体は右でも左でもない」と述べている。もっとも,MMTは保守派が財政均衡派である社会では保守派ではありえず,リベラル寄りとなるだろう。しかし,財政拡張派の保守派が存在する日本のような社会では異なる。現に,リベラル派の中の反緊縮派とともに,自民党内の財政拡張派もMMTに注目している。MMTが政治的文脈の中でどのように主張されるかは,日本では単純でなくなるだろう。
朴勝俊「MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点」People's Economic Policy,2019年5月4日。
<関連投稿>
「MMTが『財政赤字は心配ない』という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」2019年5月7日。
「信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)」2019年5月2日。
「MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書」2019年3月21日。
*レイのMMTは信用貨幣論である。これは貨幣とは負債であるという意味である。使用者の信認で成り立つ貨幣という意味ではない。
*レイは,中央銀行による量的金融緩和によってはインフレーションは起こりえないと考えている。これは,私が理解するマルクス経済学ベースの信用貨幣論と一致し,リフレーション論と対立する。
*レイは,統合政府または政府と中央銀行の協調の下では,金融緩和よりもむしろ財政支出が通貨供給量を増やし,課税が通貨供給量を減らすと考えている。通貨供給量は財政政策によって調整されるという理論だと思われる(原典で要確認)。
*レイは,政府と中央銀行が統合されていてもいなくても,結果としてバランスシートは同じになると考えている。
・なぜそうなるかというと,たとえ政府が直接に政府貨幣を発行する場合でも,信用貨幣として,つまり政府が負債として発行するとしているからだ。いわば政府手形だ。ここが,政府の資産と想定される不換紙幣,政府紙幣とは異なる。というより,レイは貨幣はもともとすべて信用貨幣で負債であって,負債でない貨幣はあり得ないと言いたいように見える。金貨も銀貨もそうなのかと疑問に思ってしまうが(原典で要確認)。
*ただし,レイの信用貨幣論が一か所だけ独特な動きをするのは財政支出だ。私の学んだ限り,銀行券は金融取引においてのみ発行される。しかしレイの統合政府は,政府貨幣創出によって民間非銀行から直接に財を購入できるとされていることだ。ここがいちばんわかりにくく,朴教授の解説の文言でもすっきりと飲み込めない。
・そこでもう少し分かりやすように解釈すると,要は財を政府に売った企業に政府宛債権が発生する。企業は銀行に取り立てを依頼し,銀行は企業の預金口座に代金を振り込むとともに政府から無償で準備金を供与される,という論理になっているのだと思う。
・ここでは統合政府は自己宛債務証書で直接財を買っていることには間違いなく,政府貨幣は銀行券というより小切手のように機能していると思える(要検討)。
・レイの政府貨幣が流通する根拠は何か。手形一般がそうであるように債権債務相殺機能を持っている他に,法定納税手段であって,税債権と税債務を相殺する機能をもっているからのようである。これは私の解釈(要検討)。
*レイの政府貨幣は政府手形=政府債務証書なので,政府資産にはならない。政府に還流したら消滅すると解釈できる(原典で要確認)。だから政府は徴税した貨幣を使っているのではない。むしろ,財政支出によって貨幣を供給し,課税によってこれを回収している。
*レイは政府が,自ら定めた最低賃金率で,働きたいひとをすべて雇用することにより,失業をゼロにするとともに,失業ゼロによるインフレ圧力が生じないようにしようとしている。
*レイの理論では,政府が通貨発行権を持つ場合,財源問題には直面しない。ただし,通貨を発行して支出するとそれは財政赤字を増大させ,政府債務は増加する。
・なぜなら,政府貨幣は信用貨幣であって,バランスシートの負債側に記帳されるからだ。
・その場合,債権が増えるのは銀行である。というのは,政府に何かを売った非金融企業が銀行に持つ預金が増えるので,銀行が統合政府に持つ準備預金が増えるから。
*もちろん,政府が政府貨幣を発行できない場合は,政府支出を増やすことは財政赤字の増大を意味し,政府債務は増加する。
*レイの理論では,政府支出が膨張しても,統合政府であるか,中央銀行が政府と協調している限りはデフォルトには陥らない。ただし,不健全なインフレーションになる危険はある。
*レイによれば,歴史的に不健全なインフレーションになったのは,1)供給制約が厳しい場合と,2)政治的事情により課税が十分にできない場合だ。だから,その二つに陥らないようにしなければならないということになる。
*ということは,レイの政策論は,以下のようになると思われる。
A)大前提として,中央銀行は政府と協調しなければならない(とこの解説では書かれていないが,論理的にそうなると思う。原典で要確認)。
B)財政破綻の恐れがあるから財政支出を拡大できない,という考えは採るべきではない。
C)通貨供給量は主に財政政策で調整する。
D)失業問題の解決については,政府が最低賃金率を適切に定めた上で限度なく雇用する必要がある。
E)供給制約を超えて需要を刺激しようとするような財政赤字を出さないようにする必要がある。
F)(財政破綻の防止でなく)不健全なインフレ圧力をつくらないために課税が十分に行われるようにする必要がある。
*以上の理解が間違っていないとすれば,私の解釈では,レイの政策論を実現するためには,通貨価値安定と金融システム安定は中央銀行が,政府から相対的に独立して担う,というシステムを放棄し,これらの機能も政府が担わねばならない。
*レイの考えるシステムの下では,財政赤字が理由で非自発的失業をなくすのに十分な予算が組めなくなるという制約が外れる。そして,左派から見れば社会保障充実の予算が組めないという制約が外れ,経済的保守派から見れば企業支援策の予算が組めないという制約が外れ,タカ派から見れば軍事支出を拡大できないという制約が外れる。
*とすると,行政府と立法府の責任は極めて重くなる。
・D)E)F)について,立法府や行政府が近視眼的な政策をとると不況やインフレーションの危険がある。そのかわりデフレーションの危険はほぼなくなるが。
・また,時々の政治勢力のあり方によって,右であれ左であれ,優位な政治勢力が推進する財政支出の規模は,いままでよりもはるかに大規模になるだろう。
*政治的含意。朴教授が紹介するように,レイは「MMT自体は右でも左でもない」と述べている。もっとも,MMTは保守派が財政均衡派である社会では保守派ではありえず,リベラル寄りとなるだろう。しかし,財政拡張派の保守派が存在する日本のような社会では異なる。現に,リベラル派の中の反緊縮派とともに,自民党内の財政拡張派もMMTに注目している。MMTが政治的文脈の中でどのように主張されるかは,日本では単純でなくなるだろう。
朴勝俊「MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点」People's Economic Policy,2019年5月4日。
<関連投稿>
「MMTが『財政赤字は心配ない』という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」2019年5月7日。
「信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)」2019年5月2日。
「MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書」2019年3月21日。
2019年5月7日火曜日
MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと
ネット記事では「MMT(現代貨幣理論)は財政赤字を心配する必要がないと主張している」と報道されていて,これに多くの人が困惑している。あるいは,そんなことあるわけないだろうと一蹴している。私もずっと困惑していたが,これはMMTによる「財政」というもののとらえ方が,従来の常識と全く異なるからだと思う。朴勝俊教授によるランダル・レイの本の解説のおかげで,MMTが言いたいことがようやくわかってきた。正しいと言っているのではない。どういう話の組み立てなのかがわかってきたということだ。
まず,私はMMTの主張は,政府と中央銀行が一体の統合政府であるか,あるいは少なくとも中央銀行が政府と協調する場合にのみ,実施可能と思う。うまくいくかどうかは別として,実施可能という意味である。中央銀行が政府と対立すると実施できない。
そこで,ここでは通貨発行権を持つ統合政府を考える。理解のポイントは,統合政府を,通常理解される政府財政としてでなく,可能な限り中央銀行=発券銀行のイメージでとらえることにあると思う。だから統合政府を必要に応じて政府銀行と呼ぼう。統合政府の発行する政府貨幣は信用貨幣=発行元宛ての債務証書なので,これも必要に応じて政府銀行券と呼ぼう。
その運動を理解する入り口として,銀行券が発券銀行に戻ってきたらどうなるかを考えよう。銀行券は銀行の自己宛て債務証書である。自分宛ての債務証書をとりもどしたら,人はこれを廃棄する。中央銀行も還流してきた中央銀行券を資産とするのではなく帳簿から外す(正確には,ただのモノとして扱う)(※)。一般に十分知られていることとは言えないが,金融実務家ならご存じだろう。発券はそれと全く別の話である。中央銀行が貸し付けや買いオペなどの金融取引を銀行と行うと,銀行の準備預金が拡大する。銀行が現金を必要とするときにこの準備預金をおろすと,中央銀行券が発券される。
※例えば日本銀行に1万円札が還流して来ると,モノとしては汚損がなければ発券に再利用されるため保管される。ただし,資産としては1万円の現金にはならず,ただの紙でできたものになる。
次に,統合政府の徴税を考える。統合政府が政府銀行券で徴税する。すると,政府は政府宛ての債務証書を取り戻したのだから,これを現金資産とするのではなく帳簿から外す(ただの紙として扱う)。……ここがほとんどの人の直観に反するだろう。この統合政府は徴税したお金を現金として使えないのだ!しかし,それでは,いったいどうやって財政支出をするのだろうか?それは,まったく別の話として,通貨を発行して支出するのである。ここの説明は少しややこしく,銀行券というより小切手の原理が用いられる。つまり,民間銀行に,支出先が持つ預金に代金を振り込んでもらい,かわりに政府預金から銀行に支払う……といいたいところだが,政府自身が中央銀行なので政府預金はない。そのかわり,政府銀行が銀行に準備金を無償供与する。
MMTが言う統合政府は,中央銀行が発券し,回収するように,支出し,徴税していると理解すべきだ。そして,ここに,MMTが理解されにくい理由がある。ほとんどの人の政府財政の概念に反するからである。しかし,おそらくMMTはこのように構成されている。もちろん,発券と回収は信用の供与と回収という金融取引であるが,支出と徴税は異なる。異なるのだけれどバランスシートの動きから見ると同じだとMMTは述べているのだ。
中央銀行券の発券と回収(還流)を,「中央銀行は市中の銀行券を回収してきて,その金額の範囲内で金融取引をする」という人は誰もいないだろう。この回収と発券の差から「赤字だ,黒字だ」ということもない。中央銀行は民間経済の必要に答えて発券し,不必要な銀行券を回収するのであって,「回収の範囲で発券すべきだ」ということもない。それよりも,金融調節を行って悪性インフレを防ぐ方が大事だ。
同じように,MMTが想定する統合政府は,「政府が税金を集めて,その金額の範囲内で支出する」というものではなく,徴税と支出の差から「赤字だ,黒字だ」ということもない。統合政府は民間経済の必要に答えて支出し,不必要な政府貨幣を回収するのであって,「課税の範囲で支出すべきだ」ということもない。それよりも,財政調節を行って失業をなくしつつ悪性インフレを防ぐ方が大事だ。
中央銀行のバランスシートにおける負債は大きい。中央銀行券発行高と銀行の持つ準備預金が巨額だからであり,発券したり買いオペを行ったりするたびにこれらが増えるからだ。しかし,これは発券銀行だから当たり前であって,債務が大きいから破たんするということはない。
同じように,統合政府のバランスシートにおける負債は大きい。政府銀行券発行高と準備預金が巨額だからであり,支出するたびにこれらが増えるからだ。しかし,これも政府=発券銀行だから当たり前であって,債務が大きいから破たんするということはない。
MMTが正しいかどうかは別にして,MMTの論理はおそらくこうなっている。このように理解した上で議論するのがよいと,私は思う。
朴勝俊「<レポート 012> MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点」People's Economic Policy,2019年5月4日。
<関連投稿>
まず,私はMMTの主張は,政府と中央銀行が一体の統合政府であるか,あるいは少なくとも中央銀行が政府と協調する場合にのみ,実施可能と思う。うまくいくかどうかは別として,実施可能という意味である。中央銀行が政府と対立すると実施できない。
そこで,ここでは通貨発行権を持つ統合政府を考える。理解のポイントは,統合政府を,通常理解される政府財政としてでなく,可能な限り中央銀行=発券銀行のイメージでとらえることにあると思う。だから統合政府を必要に応じて政府銀行と呼ぼう。統合政府の発行する政府貨幣は信用貨幣=発行元宛ての債務証書なので,これも必要に応じて政府銀行券と呼ぼう。
その運動を理解する入り口として,銀行券が発券銀行に戻ってきたらどうなるかを考えよう。銀行券は銀行の自己宛て債務証書である。自分宛ての債務証書をとりもどしたら,人はこれを廃棄する。中央銀行も還流してきた中央銀行券を資産とするのではなく帳簿から外す(正確には,ただのモノとして扱う)(※)。一般に十分知られていることとは言えないが,金融実務家ならご存じだろう。発券はそれと全く別の話である。中央銀行が貸し付けや買いオペなどの金融取引を銀行と行うと,銀行の準備預金が拡大する。銀行が現金を必要とするときにこの準備預金をおろすと,中央銀行券が発券される。
※例えば日本銀行に1万円札が還流して来ると,モノとしては汚損がなければ発券に再利用されるため保管される。ただし,資産としては1万円の現金にはならず,ただの紙でできたものになる。
次に,統合政府の徴税を考える。統合政府が政府銀行券で徴税する。すると,政府は政府宛ての債務証書を取り戻したのだから,これを現金資産とするのではなく帳簿から外す(ただの紙として扱う)。……ここがほとんどの人の直観に反するだろう。この統合政府は徴税したお金を現金として使えないのだ!しかし,それでは,いったいどうやって財政支出をするのだろうか?それは,まったく別の話として,通貨を発行して支出するのである。ここの説明は少しややこしく,銀行券というより小切手の原理が用いられる。つまり,民間銀行に,支出先が持つ預金に代金を振り込んでもらい,かわりに政府預金から銀行に支払う……といいたいところだが,政府自身が中央銀行なので政府預金はない。そのかわり,政府銀行が銀行に準備金を無償供与する。
MMTが言う統合政府は,中央銀行が発券し,回収するように,支出し,徴税していると理解すべきだ。そして,ここに,MMTが理解されにくい理由がある。ほとんどの人の政府財政の概念に反するからである。しかし,おそらくMMTはこのように構成されている。もちろん,発券と回収は信用の供与と回収という金融取引であるが,支出と徴税は異なる。異なるのだけれどバランスシートの動きから見ると同じだとMMTは述べているのだ。
中央銀行券の発券と回収(還流)を,「中央銀行は市中の銀行券を回収してきて,その金額の範囲内で金融取引をする」という人は誰もいないだろう。この回収と発券の差から「赤字だ,黒字だ」ということもない。中央銀行は民間経済の必要に答えて発券し,不必要な銀行券を回収するのであって,「回収の範囲で発券すべきだ」ということもない。それよりも,金融調節を行って悪性インフレを防ぐ方が大事だ。
同じように,MMTが想定する統合政府は,「政府が税金を集めて,その金額の範囲内で支出する」というものではなく,徴税と支出の差から「赤字だ,黒字だ」ということもない。統合政府は民間経済の必要に答えて支出し,不必要な政府貨幣を回収するのであって,「課税の範囲で支出すべきだ」ということもない。それよりも,財政調節を行って失業をなくしつつ悪性インフレを防ぐ方が大事だ。
中央銀行のバランスシートにおける負債は大きい。中央銀行券発行高と銀行の持つ準備預金が巨額だからであり,発券したり買いオペを行ったりするたびにこれらが増えるからだ。しかし,これは発券銀行だから当たり前であって,債務が大きいから破たんするということはない。
同じように,統合政府のバランスシートにおける負債は大きい。政府銀行券発行高と準備預金が巨額だからであり,支出するたびにこれらが増えるからだ。しかし,これも政府=発券銀行だから当たり前であって,債務が大きいから破たんするということはない。
MMTが正しいかどうかは別にして,MMTの論理はおそらくこうなっている。このように理解した上で議論するのがよいと,私は思う。
朴勝俊「<レポート 012> MMTとは何か —— L. Randall WrayのModern Money Theoryの要点」People's Economic Policy,2019年5月4日。
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2019年5月4日土曜日
信用貨幣論ノートを書き終えての感慨
信用貨幣論のノートを書き終えてつくづく思ったことがある。私は,いくら考えても,信用貨幣論・貸付先行説のモデルの方が,不換紙幣論・預金先行説のそれより実務に即して,現実を無理なく解釈できると思う。イデオロギーの問題ではなく,現実に対する説明力の問題としてそう思う。ところが,これは主流派経済学の「常識」と大きくかけ離れていることだ。ということは,経済学者の多数は,自らのパラダイムの根幹に触れかねないので,信用貨幣論を受け入れてはくれないだろうと予想される。これはかなり深刻だ。
「デフレ」と「インフレターゲティング」をめぐる論争において,リフレーション派が,自分たちこそ科学的だ,反対する者は経済学を知らないのだと言い放ち,やたらに尊大な態度で日銀を非難した理由がわかった。パラダイムへの固着,別の言い方をすれば宗教的信心である。
以下,信用貨幣論と経済学の「常識」が大きく異なる点を述べる。
1.信用貨幣論によれば,管理通貨制下の貨幣(中央銀行券+預金通貨)は,あらかじめ存在する預金を貸し出しているのではなく,銀行が貸し付けることによって創造される。
→実務では意見が分かれるが,ある程度の賛同が得られる解釈だ。しかし,「あらかじめ貯蓄が存在していないのに貨幣が供給され,利子率は決定される」ということになるので,主流派経済学では認められないおそれが強い。
(銀行について,そんな基本的なことまで共通理解がないのかと絶句される方が多数いらっしゃると思うが,本当にそうなのだ)
2.信用貨幣論によれば,中央銀行は銀行である。中央銀行は基本的に貸し付けること(手形・債券購入という信用代位を含む)によって中央銀行券を発行するのであり,無償で交付したり,財・サービスを直接購入するために発行することはない。中央銀行券は中央銀行に戻ってきたら資産とならずに破棄される(自分宛ての借用証書が自分に戻ってきたのだから)。
→実務では疑う余地のない当たり前。しかし,主流派モデルは,中央銀行が発券する中央銀行券(タダでは配れない)と政府が発行する不換紙幣(タダで配ることもできる)とを混同して,ヘリコプターマネーとか,ありえないことをありうるかのように平然と議論する。
3.信用貨幣論によれば,銀行が中央銀行に持つ預金は,中央銀行がすでに供給済みであって民間の手にあるが,民間経済内部で流通しているわけではない。
→実務では疑う余地のない当たり前だが,主流派のモデルでは,このことを内部化されていない。だから,ひとたび中央銀行が供給した通貨は,もう民間で流通しているという勘違い,たとえば「日銀がお札をばんばん刷ればインフレになる」などと言う認識が横行する。
この先,財政政策論も考えねばならないが,そこではますます実務に即した現実的理解と主流派の「常識」が乖離し,議論がいっそうかみあわなくなることが心配だ。それでも自分なりに考えるしかなかろう。
※注:主流派経済学に比べると,マルクス経済学ではまだ信用貨幣論が受容されやすい。しかし,機会があれば論じるが,それでも少数派である。
信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)
「デフレ」と「インフレターゲティング」をめぐる論争において,リフレーション派が,自分たちこそ科学的だ,反対する者は経済学を知らないのだと言い放ち,やたらに尊大な態度で日銀を非難した理由がわかった。パラダイムへの固着,別の言い方をすれば宗教的信心である。
以下,信用貨幣論と経済学の「常識」が大きく異なる点を述べる。
1.信用貨幣論によれば,管理通貨制下の貨幣(中央銀行券+預金通貨)は,あらかじめ存在する預金を貸し出しているのではなく,銀行が貸し付けることによって創造される。
→実務では意見が分かれるが,ある程度の賛同が得られる解釈だ。しかし,「あらかじめ貯蓄が存在していないのに貨幣が供給され,利子率は決定される」ということになるので,主流派経済学では認められないおそれが強い。
(銀行について,そんな基本的なことまで共通理解がないのかと絶句される方が多数いらっしゃると思うが,本当にそうなのだ)
2.信用貨幣論によれば,中央銀行は銀行である。中央銀行は基本的に貸し付けること(手形・債券購入という信用代位を含む)によって中央銀行券を発行するのであり,無償で交付したり,財・サービスを直接購入するために発行することはない。中央銀行券は中央銀行に戻ってきたら資産とならずに破棄される(自分宛ての借用証書が自分に戻ってきたのだから)。
→実務では疑う余地のない当たり前。しかし,主流派モデルは,中央銀行が発券する中央銀行券(タダでは配れない)と政府が発行する不換紙幣(タダで配ることもできる)とを混同して,ヘリコプターマネーとか,ありえないことをありうるかのように平然と議論する。
3.信用貨幣論によれば,銀行が中央銀行に持つ預金は,中央銀行がすでに供給済みであって民間の手にあるが,民間経済内部で流通しているわけではない。
→実務では疑う余地のない当たり前だが,主流派のモデルでは,このことを内部化されていない。だから,ひとたび中央銀行が供給した通貨は,もう民間で流通しているという勘違い,たとえば「日銀がお札をばんばん刷ればインフレになる」などと言う認識が横行する。
この先,財政政策論も考えねばならないが,そこではますます実務に即した現実的理解と主流派の「常識」が乖離し,議論がいっそうかみあわなくなることが心配だ。それでも自分なりに考えるしかなかろう。
※注:主流派経済学に比べると,マルクス経済学ではまだ信用貨幣論が受容されやすい。しかし,機会があれば論じるが,それでも少数派である。
信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)
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