フォロワー

ラベル 貨幣・信用論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 貨幣・信用論 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2023年5月20日土曜日

「統合政府だから政府債務はプラマイゼロ」論の誤り:加藤出「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」によせて

 東短リサーチ社長チーフエコノミスト・加藤出氏による「経済教室」欄への寄稿「「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」は,重要な論点を提起している。短資会社で実務に携わって来られたためであろう。多くの学者が見落としていることに気づいているのだ。具体的には,この「経済教室」は,

「日銀が国債で債権を,中央政府が債務を持てば,統合政府としてはプラマイゼロ」

という主張(以下「プラマイゼロ」論)の誤りをはっきり指摘しているのである。

 該当するのは以下の箇所である。「日銀が国債を大量に保有しても、政府と日銀のバランスシートを合わせた「統合政府」の債務は一円たりとも減少しない。民間が保有する国債が減っても、代わりに日銀当座預金(統合政府の超短期の債務)が増えている」。

 なぜそうなるのかを補足して説明しよう。以下は,財政法で禁止されている日銀による国債引き受けを実施した場合でも,現在行われているように銀行が国債を引き受けた後,「量的緩和」と称して日銀が買いオペをした場合でも同じである。

 債権増を(+),債務増を(-)で表すと,「プラマイゼロ」論は,日銀が国債を持てば,

日銀(+) 中央政府(-)

になり,統合政府としてはプラマイゼロだと考える。しかし,そうではない。なぜなら,このとき中央政府は財政支出を行っているので,民間の経済主体の所得が増加し,

民間企業・家計(+)

となっているからである。民間企業は,政府小切手を受け取って銀行に持ち込み,政府からの取り立てを依頼する。あるいは,政府が政府預金をおろし,自ら,あるいは民間銀行を通して民間企業・家計に現金を支給する。手続きはどうあれ,このお金の流れの結果は以下のようになる。

民間企業・家計(+)
銀行(+)(-)
日銀(-)

企業・家計の預金が増える。その分だけ銀行の日銀当座預金も増える。これで銀行はプラマイゼロであるが,日銀にとっては債務増になるのである。

 これを,国債自体に関する債権債務と合わせるとこうなる

中央政府(-)
日銀(+)(-)
民間企業・家計(+)
銀行(+)(-)

 だから統合政府としては,

日銀(+)(-) 中央政府(-)

であって,合算すれば(-)で,債務は増えているのである。具体的には,1)企業・家計が所得の増分を預金で持っていれば,同じ額だけ日銀の超過準備預金が増える。2)企業・家計が一部を預金でなく日銀券で持っていれば,その分だけは超過準備預金の代わりに日銀券発行残高が増える。

 「プラマイゼロ」論者のどこがおかしいかというと,国債の発行と引き受けのところしか見ないところである。政府が赤字支出した結果として民間から統合政府への債権が増えるというところを見落としているのである。

 もちろん「プラマイゼロ」論者が言うように,国債の元利償還については,中央政府が日銀に払い,日銀は黒字が出たら納付金で中央政府に戻される。そこだけ見れば,統合政府の負担はない。また,日銀当座預金が無利子であれば,日銀には利子の負担もない。

 しかし,現在のように,日銀が超過準備預金に付利せずにいられなくなると,話は違ってくる。日銀はゼロ近傍まで金融を緩和する際は,短期金融市場の安定のために超過準備預金の少なくとも一部はプラス金利にせざるを得ない。また金融引き締めの際は,超過準備預金金利を引き上げないと有効な引き締めができない。実際,植田総裁も引き締めは超過準備預金金利引き上げで行うことになるだろうと国会で述べている。

 しかし,このことは当然に日銀のコストになる。加藤氏が言う通り「統合政府の債務の平均残存期間は著しく短期化しており、金利上昇局面がやってきたら統合政府の利払い費は急増しやすい危険な構造だ」ということである。利払いがかさんで日銀の業績が悪化し,債務超過に至れば,政府や国会の側から日銀の経営への疑義が提起される。もともとの発端は財政赤字なのであるが,政府や国会はそれを認めないか,認めるとしても,財政赤字の帰結はすべて自分たちに管理させろ,日銀の独立性など制限せよと言い出すかもしれない。かくて,「中央銀行の独立性と財政民主主義」という組み合わせの制度が揺らいでいく可能性がここにある。その結果は,財政赤字のコントロールが一層難しくなるということだろう。

 種々の「プラマイゼロ」論がいうように,自国通貨建て国債はデフォルトはしない。借り換え続けることも可能である。しかし,何の問題も起こらないわけではない。まともな研究者や実務家ならば,MMT論者を含めて知っている通り,インフレ,バブル,課税能力への疑義による為替下落が起こるかもしれない。加藤氏の議論を借りて私が言いたいのは,それらに加えて,中央銀行制度の動揺に至る可能性があるということなのである。

加藤出「『2%目標』の妥当性検証せよ 日銀新体制の政策をよむ」日本経済新聞,2023年5月19日。

2023年4月30日日曜日

なぜFRBは,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っているのか

1 理解すべき現状

 本稿の目的は,2023年春において,FRBが,MMF相手のリバースレポ取引を通した金融引き締めを行っていることの理由と意義を論じることである。本稿が念頭に置いている事実関係は以下のものである。

・FRBはインフレ対策のため,短期金利(FFレート)の高め誘導を続け,またQT(FRBのバランスシート縮小)を行っている。3月半ばに一時的に拡大したが,その後再び縮小に入っている。
・経営が不安定な個々の銀行のみならず,銀行セクター全体の預金が減少している。
・公社債投資信託の一種であるMMFの残高が拡大している。
・銀行の準備預金が2021年末をピークに縮小している。
・FRBのリバースレポ取引が増加している。(したがい,FRBのバランスシート負債側で準備預金の割合が縮小し,リバースレポ取引残高の割合が拡大している)
・アメリカの通貨供給量は,M1, M2とも2022年半ばから減少している。
・現金流通量は緩やかな拡大傾向であり,3月はやや増加速度が速まった。
・銀行貸出額は2月以降減少している。

 以上の事実関係は,ほとんどはFRBサイトで,またTrading Economicsサイトなどを補完的に使うことで確認できる。

2 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するか

 預金残高が減って,MMFが増加していることは何を意味するのだろうか。まず,全体として景気がリセッションに向かう懸念が強まっている上に,速いペースでの金利高騰のために,銀行のポートフォリオ管理が難しくなっている。シリコンバレーバンクに続く銀行の経営破綻への不安も解消されていない。したがい,企業は銀行から借りず,銀行はリスクを取っての貸し出しに慎重である。まずもって,銀行貸出額が減少することにより預金残高も抑制されるのである。

 しかし,預金残高が減る理由はこれだけではない。銀行への経営不安と,預金金利の上昇が公社債金利上昇より遅れることから,預金者は銀行預金を引き出している。そのごく一部は現金で保有され,他の一部はMMFに向かっている。

 ほんらい,貯蓄性預金がおろされてMMFが購入されるだけでは,銀行セクターの預金残高は減少しない。預金者の貯蓄性預金が減り,MMFの運用会社や公社債の売り手の要求払い預金が増えるだけである(大畠,1987)。それでは,いま現実に預金残高が減っているのは,なぜか。理論的に考えられることの一つは,銀行不安の下で,流動性を現金で保有しておこうという指向が強まっているからである。つまり,預金がMMFに化けるのではなく,預金が現金に化けるルートである。しかし,これでは現金のわずかな伸びとMMFの急増を説明できない。

 より説得力がありそうなのは,銀行セクターから脱落した預金がいったん現金となり,MMFを介してFRBに貸し付けられていることである。MMFはFRBのリバースレポ取引の利用額を急増させている。これは,FRBに売り戻し条件付き国債購入,実質的には国債を担保にとっての短期貸し付けを行うことである。形式的にはおそらく銀行(クリアリング・バンク)を仲立ちにするが,実質的にはMMFとFRBの間の貸し借りである。したがい,通貨は預金貨幣→現金→MMFのリバース・レポ取引残高となって,市中から消え,FRBの負債残高になっているのだと思われる。

3 FRBは何を行っているのか

 いま起こっていることの本質は,FRBが銀行とMMF相手に金融を引き締めているということである。先ず注意すべきは,銀行相手の伝統的な金融調節とは異なるルートが生まれていることである。通常,中央銀行は通貨供給量を直接操作することはできず,短期金利を誘導することで銀行の信用創造を間接的にコントロールする。ところが現在FRBがMMF相手に行っているレポ取引は,銀行を実質的に介さずに,直接に金融調節を行うルートとなっている。新たな金融調節ルートが生まれているのである。

 まずFRBは引き締めのためにQTを行う。具体的には保有国債が満期を迎えた時に再度の購入を市中から行わないことで,バランスシートを縮小する。この時,FRBのバランスシート資産側では国債が減る。負債側では直接には政府預金が増減する。国債償還で減少し,FRBが利益を納付することで増加するからである。しかし,政府は再度国債を発行して銀行やMMFに購入してもらうであろうから,結果としては準備預金かリバース・レポ取引残高のどちらかが減ることになる。どちらが減るかは不確定であり,FRBは直接にコントロールできないが,必ず減る。

 またFRBのFFレートに対する金利調節は,超過準備預金金利を上限,リバースレポ金利を下限としている。前者はQTにより高め誘導されるが,後者は市中の翌日物国債レポレートにより定まる(服部,2022)。FRBはMMFとのリバースレポ取引を拡大することで,FFレートの高め誘導を行っていると言える。つまり,QTもリバースレポ取引も金融引き締めの手段なのである。

 FRBがQTを行えば必ずバランスシートが縮小するが,負債側で準備預金が減るかリバース・レポ取引残高が減るかは自動的には決まらない。しかし,MMFとのリバースレポ取引は,FRB自身の意思で量を調節できるはずであり(カネを借りるか借りないかを決める自由はFRBにもあるだろう),これを積極的に拡大することでリバース・レポ取引残高が減らず,銀行の準備預金残高が減る結果を招いている。これが現状だと思われる。ただし,準備預金残高が減りすぎると,FRBの意図を超えて短期金利が急騰する危険がある(Bartolini et al, 2023)。そのリスクはFRBも注視していると思われる。

4 残された問題

 現状は以上のように解釈すると整合的に説明できるが,残念ながら,私の知識では,まだわからないことが二つある。

 一つは,レポ取引やリバースレポ取引にクリアリング・バンクを介在させているのか,介在させているとすればどのようになのかがわからないことである。もともとFRBに口座を開設できるのは預金金融機関だけであり,MMFが開設することはできないはずである(中島・宿輪,2013)。クリアリング・バンクを介在させているならば,まずMMFが銀行に現金を預けて預金し,銀行が現金をFRBに貸し付け,FRBはバランスシート負債側から現金を消去してリバースレポ取引残高に変える,という風になるはずである。しかしこれは,銀行セクター全体として預金が減少していることの説明がつかない。それでは,現状をどう説明するのか。クリアリングバンクの介在が銀行にとってオフバランスになるような実務がなされているのではないかと想像するが,確証が持てない。

 二つ目は,M2の減少の度合いはこれで説明できるかどうかである。もちろん,金融が引き締められているので,預金貨幣が減ることでM1が減ることは説明できる。しかし,アメリカのM2はMMF残高を含んでいる(※)。アメリカのM2では,MMF残高が増えると預金減少がかなり相殺されるはずなのである。例えば,預金者が預金をおろしてMMFを購入しただけでは,預金残高は減らず,現金が増え,MMFも増えるという二重計算が起こる。また,リバースレポ取引でFRBが通貨を吸い上げると,現金流通残高は減るがMMF残高は減らない。このような欠陥があると私には思えるのだが,にもかかわらず,現在,M2が素直に減っていることが,むしろ不思議である。

 以上については,さらなる調査を進めるとともに,金融実務専門家のご教示を賜りたい。

※アメリカのM1(narrow money)は社会全体の通貨量を捉える概念であるが,M2は個人にとっての流動性を合算する概念である。日本の場合,M1,M2,M3は前者,広義流動性が後者である。


5 暫定的考察

 FRBは伝統的ルート,つまり公開市場で形成されるインターバンクレートへの波及をめざしたQTの他に,非伝統的ルートとしてのリバースレポ取引による金融引き締めを行っている。しかも,現時点では後者に熱心であるようにも見える。これはなぜなのだろうか。すでに金融危機であって金融を緩和しなければならない時であれば,まだわかりやすい。レポ取引を通してMMFに信用を供与し,MMFの破綻による信用崩壊を防ぐのである。しかし,引き締めていくときにまでリバースレポ取引を使い,市中のマネーストックを事実上直接吸い上げるのはどういうことなのか。

 現段階での私の理解は,そうしなければFFレートの下限を引き上げらないからだ,というものである。現在のアメリカでは,インターバンク市場からはコントロールできない金融,つまりは銀行貸付ではない証券金融の役割が大きくなってしまった。それは長期的傾向でもあるが,短期的には,コロナ下での金融緩和や財政拡張によって供給はされたものの,増殖機会を見つけられない貨幣,それも企業・金融機関に加えて家計の手元にあるそれが,市中をさまよっているからである。これらの貨幣の動きを政策目標に向かって誘導するために,FRBは,直接の操作に乗り出さざるを得なくなった。それも,金融危機に際して緩和する場合だけではなく,インフレに際して引き締める場合もそうせざるを得なくなった。このように理解すべきではないだろうか。

<参考文献>

大畠重衛(1987)「銀行対証券ー『資金シフト』論から『金融証券化』論への系譜ー」『金融経済』220。
中島真志・宿輪純一(2013)『決済システムのすべて第3版』東洋経済新報社。
服部孝洋(2022)「SOFR(担保付翌日物調達金利)入門 -米国のリスク・フリー・レートおよび米国レポ市場について-」『ファイナンス』2022年3月号。
Bartolini, Steven et al(2023)「量的引き締めの意味合い」ティ-・ロウ・プライスのインサイト米国債券。

※2024年1月26日追記。本稿でのMMFについての認識には誤りが含まれていました。以下で修正していますのでご覧ください。

「MMF再考」Ka-Bataブログ,2024年1月26日。

2023年1月17日火曜日

債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)

  前稿に続き,クナップ『貨幣の国家理論』を検討する。


<クナップは表券主義をもとに貨幣流通の根拠を論じているか>

 クナップは貨幣とは表券的支払手段であり,法秩序の創出物であるとする。しかし,前稿で見たように,クナップが本書を通して証明したことは,価格標準は国家が制定するものであるということに他ならない。このことがクナップの功績であり,逆に,このことから貨幣の本質まで論じることがクナップの限界であると思う。

 クナップが,国家権力の力によって貨幣が通用すると考えていることは間違いない。その最大の根拠は,価格標準は国家が制定するしかないものだからだというところにある。しかし,価格標準を国家が制定したからと言って,人々がそれを受け入れ,国家の貨幣を受け入れるとは限らない。では,なぜ貨幣は流通するのか。クナップは,そこを積極的に説明しているようでもあり,していないようでもある。

 ここで注目すべきは,クナップが,「素材的価値のない表券箇片に対する非難」に第1章で反論しようとしていることである(邦訳52-57ページ)。まずクナップは大胆にも,「たとえ箇片の文言が『債務証券』となっていても,その債務が償還されないものなら債務ではない」とし,紙券が国家の債務証書であることを否定する。しかし,「実際,債務から解放されるのなら,自分は何か材料を受け取ったかどうかなど考えなくてよい。とくにこの貨幣は国家に対する債務から解放してくれる。国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」として,国家が課す債務は,国家の発行する貨幣による支払いで解消されるという,相殺機能の有効性を主張するのである。

 しかし,クナップは,この機能を貨幣が人々に受け入れられる根拠とまで特定しているようには読めない。そこは「租税が貨幣を起動する」と断定する今日のMMT,例えばランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』とは異なるように私には思える。MMTがクナップを自らの祖先とするのは理由のあることであるが,「租税が貨幣を起動する」という自らの主張をクナップのものだと解釈するのは行き過ぎではないか。クナップは,国家が貨幣を創造したことを前提に,国家が貸す債務を解消する機能の有効性を指摘しているように,私には思える。


<債権債務の相殺は手形取引に由来する>

 ただ,ここでは敢えて一歩譲り,国家が課す債務を解消できることが,貨幣を人々が受容する最深の根拠になるのかどうかを検討しておきたい。結局,この機能の有効性を貨幣流通の根拠に高めることによってMMTの論理が構築されたことが,クナップ説復権の理由になっているからである。

 さて,クナップは「国家はこの貨幣の発行者だから,自らが受取人の時にこの支払手段で良しと認めるのは当たり前だ」とするが,「発行者だから受け取らざるを得ない」という言い方は,いま一つ説得力が弱い。これは債権と債務の相殺だから可能なのだとみなすべきである。国家の貨幣で租税等を支払うのは,国家が課した債務を,国家に対する債権で相殺しているのである。前述のように,クナップは「償還されないものなら債務ではない」として,貨幣が債務証券であることを否定する。国家に金や財貨での支払いを要求できなければ債務証券ではないと言う意味であろう。今日では,MMTや信用貨幣論を論難する側の人々が言いそうなことである。しかし,相殺による決済に用いることが可能であり,また発行者に対する債務を返済することに使えるのであれば,債務証券という性質は,少なくとも全否定されないと見るべきである。だから,クナップは当該箇所の言説と裏腹に,事実上,貨幣の債務証券的性質を認めていると言ってよい。

 次に問題なのは,債権債務の相殺とは,そもそも課税と納税に由来することなのかということである。ここで「由来」というのは,時間的に過去にさかのぼって見つけられるべき歴史的起源ではない。つまり,ここで前近代における貨幣史を根拠にしてあれこれ論じるのは適切ではない。問題は,現代の資本主義経済における「由来」である。つまり,資本主義経済の構造において,より根本的なものは何かというところでの「由来」である。債権債務の相殺は民間にもあるし,課税・租税の関係にもある。それでは,クナップが言うように,債権債務の相殺とは課税と納税に由来するのであろうか。課税と納税がひな型となって,民間がそれに倣うようなものなのであろうか。

 明らかに異なると私は思う。債権債務の相殺とは,商品流通の発達を前提に,商品の買い手によって手形が発行され,流通するようになったことで可能になったと見るべきである。手形は貨幣の支払手段機能が自立した債務証書であり,発行者の信用度に応じて満期日まで流通する。ここではもちろん商品の買い手=手形の発行者が債務者であるが,もし誰かが発行者に対して債務を負うことがあれば,その債務をこの手形で相殺して償還することが可能である。また,多数の手形について債権債務を相殺し,残った差額のみを貨幣で支払うという取引も可能になる。手形流通によって債権債務の相殺という取引が可能になり,それを基礎にして銀行券=銀行手形の流通,銀行預金を用いた振替決済も可能になる。発券集中がなされた暁には,中央銀行の預貸と決済のシステムが成立する。

 このように,商品流通と資本主義的生産が行われている今日の経済を論じる際には,債権債務の相殺は商品流通そのものの発達,ありていに言えば民間経済に根拠を持つと言わねばならない(※)。手形と銀行券の流通・決済の方がひな型であり,課税と納税の方を派生的なものとして理解すべきである。


<とりあえずの結論>

 前稿で述べたように,価格標準とは国家が定めるものだというのは,クナップの言うとおりである。このことを多面的に,詳細に,説得力を持って明らかにしたのがクナップの功績である。しかし,債権債務の相殺という取引は,商品流通と資本主義経済内部の取引から発生するものである。以上がクナップ説に対する私の見解である。

 そして,ここから派生して,今日の信用貨幣の流通根拠を論じる際に,課税と租税から論じるよりは,商品流通の発達を前提とした手形の発生と発展から論じる方が妥当である,と私は主張する。これが,MMTの「租税が貨幣を起動する」という説に対する,私の見解である。

※ なお,先行するクナップ批判として岡橋保によるものがあり,参考にしたことを記しておく。
「クナップの支払手段理論 (Lytrologie) にあっては,国家は自由に金の貨幣名を決定しうるという価値単位の名目性と,その規定するところの支払手段により貨幣債務はいつでも弁済されるという貨幣債務の名目性とから,貨幣をも 国家の規定する記号と形態とをそなえた個片,すなわち定形的公布的支払手段 (表券的支払手段)であるとされている。これは,クナップが,債権債務の錯綜による手形の流通,手形の貨幣化(商業貨幣流通から銀行券あるいは預金貨幣の流通)の経済的背景である価値関係を看過し,その法律的表現のみをとらえたことによるものである。手形の流通は商品流通の発展の結果であり,債権債務の錯綜が,ここに,手形をして満期日までのあいだ,ふたたび, 支払手段として流通することを可能にするものであって,これら手形の割引によって,これにかわって現われた銀行や預金貨幣が,代用貨幣として流通しうる根拠も,かかる債権債務にもとづく価値関係の存在にある。したがって 貨幣の支払手段機能は,商品流通,したがって貨幣の流通手段機能とともに,価値の尺度としての機能を前提する。」(岡橋保『貨幣論 増補新版』春秋社,1957年,37ページ)。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

前稿「価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)」Ka-Bataブログ,2023年1月16日



2023年1月16日月曜日

価格標準の国家理論としてのクナップ説:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(1)

  クナップ『貨幣の国家理論』を読み終わった。もっとも気になる点について,2回に分けて書き留めておきたい。


<クナップによる貨幣の規定>

 クナップ説を一言で言えば,貨幣は表券的支払手段だということである。もう少し言えば,「価値単位であらわされる債務は,メダルでも紙片でもいいが,標識のついた箇片で弁済され,その箇片は法秩序によって一定の価値単位の通用力を持つ。そのような箇片を表券的支払手段と言う。通用力は箇片の内容に依存しない。法秩序は国家から発せられ,それゆえ貨幣とは国家的仕組みと言うべきものである」(原著第2版第2節要旨。訳書300ページ)。

 金や銀の一定量からどれほどの貨幣が製造され,それを何百ドルとか何円とか呼ぶという形で成立している貨幣は,クナップの用語では貨幣素材発生的かつ正範的な貨幣であり,正貨である。また国が支払いに用いる貨幣が本位貨幣である。そして,法により他の貨幣に変えられず,最終的に受け取らざるを得ない貨幣を最終的貨幣と呼ぶ。

 クナップ説では,たとえば同書の発行当時である1905年には各国で広く見られた,正貨であって本位貨幣であって最終的貨幣であるような金貨は当然貨幣である。しかしまた,「国家が,これこれの外観の箇片は公布により通用する」としたもの,例えば不換の政府証券なども貨幣なのである。なので,クナップ説は,現代の貨幣,つまり兌換が停止され,それ自体は「標識のついた箇片」に過ぎないとも言える中央銀行券や,あげく特定単位の数値でしかない預金貨幣を包含する学説であり,それゆえに再評価されているわけである(※1)。とくに,その表券主義は現代貨幣理論(MMT)の,「貨幣は,国家への支払に用いられるが故に通用する」という主張に採用されている。


<価格標準の国家理論としてのクナップ説>

 さて,私が思うには,クナップ説の核心は「価値単位」の「評価」理論であり,日本のマルクス経済学が使い慣れた用語でいえば「価格の度量標準」または「価格標準」理論であるように思う。

 よく言われる貨幣の基本的機能に即して言うと,クナップは価値尺度論は論じておらず,価格標準論に力を集中している。支払手段論にも力を入れているが,流通手段論と支払手段論を含めて「支払い手段」と呼んでいるように見える。価値保蔵機能や世界貨幣機能には事実上触れているが,理論化はしていない。クナップは,価格標準を国家が制定することをもって価値尺度機能を否定している。例えば金は価値尺度ではないとはっきり言っている。貨幣素材自体の価値を認めない以上,価値保蔵機能や世界貨幣機能も理論的にはないということだろう。

 クナップが否定する価値尺度機能を強調するのは,彼の用語では金属主義学説,後に使われるようになった言葉では商品貨幣論である。クナップは具体的学派名を上げていないが,例えばマルクス派もここに含まれる。金属主義または商品貨幣説の意味は,それ自体が価値を持った貨幣商品(歴史的には銀や金などの金属)が貨幣だということである。商品貨幣論においては,金も一般商品と同じく価値を持っており,ある量の金は,それと同量の価値を持つ商品Aに等しい。ということは,その5倍の量の金は,商品A5個分や,商品Aの5倍の労働価値を持つ商品Bに等しいという風に価値が尺度される。これが価値尺度ということである。クナップは,理論的には価値尺度機能を否定したうえで,こうした論理は,金属重量測定制という原初的な制度でのみ用いられると局所化している。

 さて,価値尺度機能があろうとなかろうと,貨幣素材を用いる場合,測定するには必ず何らかの単位が必要であり,通常は重量単位が用いられる。そして重量単位,たとえばグラムを価格の単位,たとえば円によって評価し,Xグラムの金イコール1円などと定める。これが価格標準であり,こうして貨幣素材について価格標準が定められた貨幣が正貨である。クナップはこの価格標準を,金が価値を持つからではなく,国家が権力的に制定したから成立するのだとする。極論すれば,クナップが本書全体を通して述べていることは,一国内の貨幣の価値や国際的な交換比率というものは,そもそも国家が正貨について価格標準を定めたことによって成立するのだということである。

 価格標準を国家が定めるという命題は,実は商品貨幣論に立っても成立する。貨幣商品が価値尺度機能を果たすとしても,Xグラムの金を1円と呼ぶか1クレジットと呼ぶか,あるいは0.239Xグラムの金を1円と呼ぶかは,自然発生的な商品交換からは決まらない。この価格標準を誰かが人為的に与えなければ決まらないのである。商品貨幣論をとるとしても,価値尺度論は商品交換から自然に成立するものとして論理構成できるが,価格標準論では国家の機能を想定せざるを得ないのである。なので「価格標準は国家が定めるものである」という命題自体には非常な説得力がある。この命題を証明したことが,クナップの最大の功績であるように,私には思える。

 では,上記の考察から見れば,現代の管理通貨制度とはどのようなものか。クナップの規定を拡張して適用すればいい。現代の管理通貨制とは,「国家が正貨を定めず,したがって商品貨幣についての価格標準の単位は定めても水準をもはや定めない」制度だということになる。

 管理通貨制度のもとでも,国家は価値単位を定めて国内に強制してはいる。日本では「円」,アメリカでは「ドル」という単位が使われる。しかし,国家は,金属材料に対する評価は止めてしまっており,価値単位は名目的なものになっている。1円が金何グラムであるかは公定されず,固定もされていない。また金や銀も,もっぱら貨幣商品であることを止め,工業材料としての需要やポートフォリオの一つとしての需要から価格が変動している。

 したがって,価格標準は「円という価値単位を使うと国家が決めた」と言う意味では存在している。しかし,金1グラムイコールx円という形で貨幣商品と一般商品を特定の量的関係に置き,金を貨幣商品として機能させるという意味では,もはや存在しなくなっているのである。価格標準の「単位」はあるが「水準」が失われているのが管理通貨制である。管理通貨制というと,通念では「紙幣が金兌換されない不換制」が思い浮かべられるが,それよりも,この方が根本的な特質ではないか。このような含意を引き出せることが,クナップ説の現代的意義であると,私は思う(※2)。

 さて,次の問題は,価格標準が名目的であることをもって,貨幣は国家の権力的行為の創造物としてよいのかということである。この論点こそ,クナップ説が現代に復権している理由なので放置はできない。ここではクナップをより批判的にとらえることになり,間接的にMMTの主張を検討することにもなる(続く)。


※1 もしかすると,「○○は名目的存在であり,誰かがそう名付けたから○○なのであって,内在する本質から○○であるわけではない」という論法が,現代の哲学潮流にもなじむが故にクナップ説が復権しやすいのかもしれないが,そのこと自体にはあまりかまいたくない。

※2 ここでの本題ではないが,商品貨幣説に対しては,「正貨がなくなった管理通貨制度では,価値尺度機能は停止するのか」という疑問が投げられるだろう。これに対してできる限り簡素に答えるならばこうなる。商品流通には商品貨幣の価値尺度機能がもともとは必要である。しかし,資本主義経済は,その発達とともに商品貨幣の代理貨幣として,手形,銀行券,預金貨幣,補助貨幣,中央銀行券,中央銀行預金貨幣を発達させる。そのことによって,正貨を実際には用いなくても資本主義経済は機能するようになるのである。正貨の代理物によっても,価値尺度機能は,間接的に,相当なブレと不正確さを伴いながら作用しているのである。だからこそ,無数の商品の相互関係が成り立っており,ある商品の価値は別の商品のX倍だとか1/Xだと言いうるのである。異論はあるだろうが,少なくともこう見ることは不可能ではない。
 だからと言って私は,正貨の存在する制度と管理通貨制度に何の違いもないと言っているのではない。価値尺度機能と価格標準の「単位」設定機能は停止していないが,価格標準の「水準」設定機能は停止しているのが管理通貨制度だというのが,ここでの私の見解である。

ゲオルク・フリードリヒ・クナップ著(小林純・中山智香子訳)『貨幣の国家理論』日本経済新聞社,2022年。

続稿「債権債務の相殺は課税・納税に由来するか,手形取引に由来するか:クナップ『貨幣の国家理論』を読んで(2・完)」Ka-Bataブログ,2023年1月17日。





2022年12月29日木曜日

日経金融PLUSの「デジタル円」論と対話する:「預金先行説」でなく「貸付先行説」で考えよう

 日経金融PLUSの「デジタル円」論だが,多くの論者が陥るのと同じ誤解をしていると思う。一つ一つ対話してみたい。


記事:
「CBDCは銀行預金を駆逐してしまう可能性がある。マネーは大きく預金と現金にわけられる。CBDCは基本的に現金をデジタルに置き換えるものだ。預金は銀行が破綻してしまうと手元に戻ってこない可能性があるが、現金は基本的に手元に残る。CBDCはスマホの中にある現金のようなもので、預金と違って原則的に消失リスクはない。そうなると、生活者はマネーを銀行預金から安全性の高いCBDCに置き換えていくだろう。」

コメント:
 使い勝手の良いCBDC=デジタル円ができれば,銀行預金が減ってデジタル円をスマホ等の中で持つ人が増える。その見通しには私も賛成だが,理由が少しずれている。デジタル円ができたとしても,人はそうしょっちゅう銀行の破綻を心配するわけではない。しかし,銀行の破綻が心配ないとしてもデジタル円の方が便利になる理由がある。それは,口座振り込みよりも,デジタル現金取引の方が便利になった場合である。もし口座振り込みにイノベーションがなく,現金がデジタル円になれば,人はみなスマホ操作でデジタル円を送金して取引するだろう。当座性預金を保持し続ける理由がない。企業の当座預金は利子がつかないし,個人の普通預金の利子も雀の涙だからである。これが,預金が流出する主な理由である。
 銀行がこれを防止したければ,口座振り込みをデジタル円並みに便利にするしかない。つまり,いまのデビットカードとネットバンキングの使い勝手を良くし,銀行を超えて手数料なしで支払いできるようにすればよいのである。これが銀行の課題となる。


記事:
「みえてくるのは、デジタル円を使って決済・送金サービスに特化する「ナローバンク」の誕生だ。CBDCの最大の利点は、安全・安価にスピード決済できることにある。」

コメント:
 デジタル円=デジタル現金と預金通貨が混同されている。預金が流出した場合に起こることは,決済がデジタル円で,個人や企業によって,銀行を介在せずに,スマホとスマホの間で行われるようになるということである。札束の持ち運びが要らない,現金取引のデジタル版である。
 だから,銀行からは決済・送金サービスが真っ先に流出する。銀行が「デジタル円を使って決済・送金サービス」をする必要そのものが失われるのである。繰り返すが,銀行がこれを防ぎたければ,口座振替をデジタル円よりも便利にするしかない。


記事:
「一方で多くの商業銀行は預金を徐々に失い、経済成長を支えてきた預貸ビジネスも見直しが必要になる。商業銀行は預金を集めるのではなく、市場で資金を直接調達して、それを元手に融資するようなノンバンクに近い形態になっていく可能性もある。CBDCが銀行システムの劇薬になりうるのはそのためだ。」

コメント:

 預金を集めなければ貯貸ビジネスができないというところがおかしい。商業銀行が預金を集めるとか,市場で資金を直接調達するというが,それは現金が大量に流通しているか,あるいは自行以外が預金を持っているから可能なことである。では,そもそも流通している現金や預金通貨とはどこから来たものなのか。金本位制であれば結局金鉱から金貨が来るように,現金や預金もどこからか来たはずである。
 その答えは,預金はどこかの銀行がどこかの企業,まれには個人に貸し付けた時に生まれたのであり,現金は,誰かが預金をおろした時に発行されたのである。まず預金が預けられ,銀行がそれをもとに貸し付けるのではない。銀行が貸し付ける時に預金も生まれるのである。預金とは銀行の手形であり,銀行貸付とは,「うちの手形は通貨として使えるほど信用があるので,これで貸してあげる」という行為なのである。この時,預金は必要ないが,もちろん,預金の現金引き出しや,他行への送金による引き出しや,貸し倒れリスクに備えた準備金は必要である。それは,準備預金=中央銀行当座預金を持つことによって確保される。そして,中央銀行当座預金もどこで生まれるかと言えば,中央銀行が銀行に与信することによって生まれるのである。
 だから,社会全体としては預貸ビジネスは決してなくならない。なくなったら通貨が供給できず,経済は成り立たないし,おろすべき預金がなければデジタル円も存在できない。銀行が企業に貸し付けることによって預金通貨が供給されるのは,デジタル円ができても同じなのである。違うのは,デジタル円が便利であるために,いったん供給された預金が,早期に大量に引き出されてデジタル円に変わるということである。
 預金が引き出される時,銀行は中央銀行当座預金を引き出してデジタル円を確保しなければならない。だから,資産側で準備預金が減り,負債側で預金が減る。このことは,銀行の貸し出し能力を制約する。社会全体で多くの銀行にこれが生じるが,程度は銀行によってさまざまであろう。預金流出に耐えられるような規模の大きい銀行,あるいはデジタル円に対抗できる口座振替サービス,さらにそれ以外の金融サービスを提供できて預金を保持してもらえる銀行には競争力があるが,それ以外にはないというように銀行間格差が広がる。これが実際に起こり得ることである。
 このとき,市場性資金を集めざるを得ない銀行は確かに発生する。しかし,それは,集めた資金を元手に融資するためではない。貸付自体は信用創造でできるのであって,必要なのは準備金である。準備金について日銀からの与信が制約された場合に,市場からの資金取り込みに依存することになるのである。また預貸ビジネスで劣後した場合に,市場性資金を取り込んで自ら証券市場等で運用すると言ったハイリスク・ハイリターンの行為に走ることになるのである。


記事:
「商業銀行とナローバンクへの銀行ビジネスの二分化は、それでも検討に値する。利点は金融システムリスクを和らげる効果だろう。」「CBDCを本格導入すれば銀行機能の二分化は避けられない。」

コメント:
 結論として,起こるのは商業銀行とナローバンクへの二分化ではない。銀行間の収益力格差による淘汰である。


 以上のように,この記事は多くの点で誤っているのだが,それでも有意義なことがある。それは,理論的根拠があって誤っているために,理論的示唆が得られるということである。この記事は,「銀行は,預金を受け入れて,それを原資に貸し付ける」という,多くの経済学者が採用している「預金先行説」に基づいており,それ故に誤っている。そのため,「預金先行説」を逆転させ,「銀行は,貸し付ける際に預金という自己宛て手形を創造する」という「貸付先行説」にすれば,整合的な予想が成り立つのである。この記事は,誤っている記述を通して,「預金先行説」の問題と,「貸付先行説」による現実理解や将来予測の必要性を示してくれているのである。

「デジタル円」は良薬か劇薬か 銀行システム、二分化へ(金融PLUS 金融部長 河浪武史)日本経済新聞,2022年12月12日。


2022年12月5日月曜日

川端望「中央銀行デジタル通貨は何をもたらすか -野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021 年を読む-」DP版の公表にあたって

 川端望「中央銀行デジタル通貨は何をもたらすか -野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021 年を読む-」 をTERG Discussion Paper, No. 469として公開しました。野口先生の一般向け書籍をなぜ取り上げたかというと,以下の点で重要だと考えたからです。

1.CBDCはデジタル化された現金であり,現金通貨と同じ法則性を持つことを指摘したこと。これは本書の重要な貢献です。ただ,せっかくの一般向け書物なので,「CBDCはキャッシュレスでなくデジタルキャッシュである」と「CBDCは取引をキャッシュレスにするのではなく,口座振替をデジタルキャッシュ取引に変える」とはっきり断言して欲しかったです。

2.CBDCは銀行を貸し出し不能またはナローバンクにすると主張したこと。これは本書の問題点であり,批判したところです。そしてこの批判は,野口先生が依拠されている主流の銀行論,つまり預金先行説に対する批判でもあります。CBDCの姿は,貸付先行説で銀行を理解することによって把握可能となります。

 貨幣論の研究の発表の場を,ようやくブログからDPに広げられました。論文まで行けるように頑張ります。

 なお,本稿は2021年12月3日の記事を,原形をとどめないほど大幅に改定したものです。


川端望「中央銀行デジタル通貨は何をもたらすか -野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021 年を読む-」TERG Discussion Paper, No. 469,1-12。

2022年11月19日土曜日

超過準備維持・金融緩和・国債消化:準備預金への付利に関する考察(2)

1.問題の所在

 前稿では,金利を引き上げると,日銀から日銀当座預金への利払いが増え,場合によっては赤字や債務超過もありうること,日銀は債務超過になっても円建てである限りデフォルトを起こすことはなく営業を継続できるが,信用秩序維持能力の喪失を疑われることはありうること,債務超過を放置できずに政府が補填した場合に,政府・議会からの介入圧力が生じることを述べた。

 本稿は,一歩考察を勧めて,中央銀行当座預金への付利という手法の本質を考察したい。そもそもなぜ,日銀当座預金への利息が問題となりうるのだろうか。日銀当座預金への付利とは,金融システムの抱えるどのような特徴や問題点の表れであり,どのような機能を果たすものなのだろうか。

2.準備預金への利息付与の経過

 準備預金でもある中銀当座預金は,もともと利息が付されてないものであり,またそれが望ましいとされていた(小栗,2017,p. 104)。準備預金は,支払準備のために銀行が積むべきものだったからである。しかし,アメリカと日本では,超過準備への付利がリーマン・ショックの時に始まった(ただし欧州中央銀行❲ECB❳では1999年から準備預金全体に利息が付いていた)。その直接の動機は,金融危機の下で銀行の手元に十分な支払準備を確保すると同時に,中央銀行が短期金利に対するコントロールを失わないようにするためであった。

 リーマン・ショックに際して,各国中銀は緊急融資や債券買い上げによって銀行に豊富な準備を供給した。経済全体にも豊富な流動性が供給されるようにするためである。すると,銀行は超過準備を持つことになり,貸し出し余力をつける。資金ショートの心配はなくなる一方,超過準備に利子がつかないために,そのままでは収益性が低下する。この時,銀行行動は不確定になり,その影響でインターバンク市場が不安定になる。銀行からの資金放出がまったく不活発になって,いざ資金を必要とする銀行が調達不可能になるかもしれない。逆に,資金が大量に放出されて過剰な緩和が生じるかもしれない。各国中銀が超過準備または中銀当座預金に利息を付したのは,直接には,この状況をコントロールするためであった。これらは,ベン・バーナンキや白川方明によって証言されている(白川,2018;バーナンキ,2015,pp. 76-77)。

3.準備預金付利継続の論理(1)長期停滞の下での緩和基調の維持

 しかし,制度の導入時の動機と,その制度が存続して果たしている役割は異なるものである。その後,金融危機が去ってからも超過準備預金への付利は継続されてきた。危機から脱出した後は,中央銀行は超過準備を売りオペレーションによって吸収してもよかったはずである。しかし,結局これが徹底されることはなかった。アメリカで「QEの終了」が言われても,超過準備の徹底吸収がめざされた気配はないし,議論だけで「金融緩和の出口」が目指されてもいない日本ではなおさらである。それはなぜか。

 第一に,リーマン・ショック後も,金融緩和を継続せざるをえないほど,先進諸国において経済の長期停滞が明確だったからである。黒田総裁就任以後に意図的に緩和を行った日本だけでなく,アメリカもヨーロッパも,とても超過準備を吸収しきるほどの金融引き締めを行えなかった。先進資本主義諸国の経済停滞により,各国中銀が金融緩和基調を維持せざるを得なかったこと。これが超過準備の存続の根本理由と思われる。

 金融緩和,もっと言えばゼロ金利と超過準備の維持は両輪の関係にある。もし短期金融市場に十分なプラス金利があって,中銀当座預金に利息が付かないのであれば,銀行は超過準備を保有する動機を持たない(横山,2015,pp.126-131)。資金運用の機会を失うだけだからである。しかし,金利がゼロになれば別である。銀行にとって,超過準備を保有することと,インターバンク市場に放出することが無差別になるからである。しかし,それでは先に述べたように,インターバンク市場が不安定になる。そこで中央銀行は,超過準備,または中銀当座預金全体にかすかに付利することによって,超過準備保有のインセンティブを銀行に与え続けているのである。金融危機ではないときにも,程度はとにかく質的には危機と同様にゼロ近傍の金利を保ち,超過準備保有を銀行に促さざるを得ないほどの長期停滞が生じていたこと。これが,中銀当座預金への付利が継続した経済的背景である。

4.準備預金付利継続の論理(2)国債消化の円滑化

 第二に,国債消化を支え,財政の赤字運営を円滑化するためである。これは,政策当局が目的意識的に行っているかどうかは明確ではないが,事実上そのような経済的機能を果たしているということである。

 ヨーロッパでは国毎にある程度事情が異なるとはいえ,先進諸国政府は21世紀に入ってから財政を赤字基調として,国債による資金調達を行ってきた。これもつまるところは,経済の長期停滞に対処せざるを得なかったからである。

 国債発行による資金調達は,中銀に口座を持つ預金取扱金融機関によって購入される限り,マネーストックを吸収しない(最終的に個人や生命保険会社などが購入する場合は吸収する)。というのは,国債は超過準備によって購入されるからである。一方,政府が赤字支出を行うとマネーストックは増大し,それは銀行預金の純増と,それを反映した中銀当座預金の増加に反映される。なので,国債発行による財政支出では,マネーストックは増大し,銀行全体を通しては超過準備はプラスマイナスゼロとなる(※1)。

 ここで,超過準備はもともと中央銀行によって供給されるものである。そして,国債購入と政府支出の過程で一時的な短期金融市場の引き締まりが起これば,やはり中央銀行が買いオペを行って対抗するだろう。また,中央銀行がさらなる金融緩和を意図する場合や,銀行にとって国債購入が魅力的でない場合には,事後に中銀が買いオペレーションを行うことになるだろう。この場合は,金融緩和と事実上の財政ファイナンスが同時に行われる。超過準備はさらに積みあがるが,ここに利息が付されていれば,銀行はこれを保持し続ける。そして,超過準備の金利を上回る貸し出しを求めて行動することになる。

 このように,国債消化を円滑化すること,具体的には金融を引き締めず,場合によっては一層緩和し,事実上の財政ファイナンスを行いながら赤字財政を実行させることに,超過準備が大いに貢献している。超過準備は,いわば国債を引き受けるためのクッションである。その厚みは,国債を引き受けたことで減少するが,財政支出によって回復する。一層の金融緩和が意図される場合や,国債の魅力に疑念がある場合には,中央銀行が買いオペを行うことで,クッションには一層厚みが出るのである。

5.結論と残された課題

 以上,中銀当座預金への付利とは,直接にはゼロ近傍の金利の下で銀行に過剰準備の保有を促すためものであった。中央銀行がそのような政策に出ることを後押ししたのは,先進資本主義諸国の長期停滞という事態であった。長期停滞のもとで伝統的な金利操作は通用しなくなり,また財政は赤字基調とならざるを得なくなった。この二つの条件の下で,金融緩和を有効に行うための手段として,また国債の円滑な消化の手段として用いられたのが過剰準備だったのである。

 したがって,中銀当座預金への付利とは,中央銀行にとって,銀行に過剰準備保有を促すためのコストであり,それは結局は,ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコストだったのである。これが,付利された中銀当座預金の累積の背後にある経済の実態であり,またこの利払いというコストの本質である。

 次に検討すべきは,このコストが,中央銀行と金融・財政システムの運営にとって支払に値するものであったのか,すなわち中銀当座預金への付利は,金融政策と財政政策を有効に作動させたのか,金融・財政政策を作動させるという便益に見合うコストであったのか,ということである。稿を改めたい。


※1 この理解は通説と異なり,国債発行がカネのクラウディング・アウトを起こさないとするものである。川端(2019.9.5)を参照。

<前稿>

川端望(2022.11.16)「日銀の業績が悪化するとどのような問題が起こるか:準備預金への付利に関する考察(1)」Ka-Bataブログ(https://riversidehope.blogspot.com/2022/11/blog-post.html)。

<続稿>

川端望(2023.7.6)「超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)」Ka-Bataブログ(https://riversidehope.blogspot.com/2023/07/blog-post_6.html)。


<参照文献>

小栗誠治(2017)「中央銀行の債務構造と財務の健全性:銀行券,準備預金および自己資本」『彦根論叢』414,98-113(https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Ronso-414oguri.pdf)。
川端望(2019.9.5)「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ( https://riversidehope.blogspot.com/2019/09/lmmt_5.html )。
白川方明(2018)『中央銀行:セントラル・バンカーの経験した39年』東洋経済新報社。
横山昭雄(2015)『真説 経済・金融の仕組み』日本評論社。
バーナンキ,ベン(小此木潔訳)(2015)『危機と決断 前FRB議長ベン・バーナンキ回顧録(下)』角川書店。


2022年11月16日水曜日

日銀の業績が悪化するとどのような問題が起こるか:準備預金への付利に関する考察(1)

 1.「金融緩和の出口」における日銀の業績悪化とはどういうことか

 2022年現在,日本以外の先進諸国はインフレ抑制を掲げて金利を引き上げつつある。金融緩和を継続する日本銀行についても,出口戦略の在り方が問われている。かねてより日本銀行については,利上げを行うと日銀の業績が悪化し,債務超過もありうるのではないかという問いが提出され,そうした事態が生じる可能性や,それが金融秩序に深刻な脅威となるか否かについて,いわゆる「出口戦略」として議論が行われてきた。

 この問い自体については,すでにいくつかの意見が提出されている。野口(2022.6.23)中里(2022.10.11)木内(2022.11.2)などである。また学術的な検討しては,小栗(2017)等によってなされている。これらをまとめると,以下のような共通の理解が得られる。結局のところ日銀の業績悪化が債務超過に至るかどうかは,利上げの幅次第である。業績悪化をもたらす要因として国債等の資産価格の下落と,超過準備への利払いの拡大が挙げられる。どちらかというと,業績悪化の直接要因となりうるのは後者の方である。国債については,日銀が長期保有するために,直接の損失減となる可能性は低いが,超過準備への付利は,金利引き上げとともに確実に日銀の支払いを増やすからである。ただし,日銀は債務超過になっても円建てである限りデフォルトを起こすことはなくオペレーションを継続できることは,論者の間で見解が一致している。問題は,その時に信用秩序維持能力の喪失を疑われて,円や国債への売り攻撃を招くことがあるかどうかであろう。

2.信用秩序への疑念は,中央銀行の在り方への疑念をも呼び起こす

 ここからは私見であるが,私は日銀が信用秩序維持能力を疑われることはありうるし,それは単に市場心理の問題ではなく,根拠のあることだと考える。それは半官半民の存在であり,また通貨価値維持のために中央政府からの一定の独立性を持つべきとされているという,中央銀行の独特な性質に関係する。

 いま,日銀が債務超過になるほど準備預金へ利払いを迫られるとしよう。日銀は円については支払い不能にならないので,日銀当座預金口座にお金を振り込んで利子を支払うだろう。さらに,銀行が超過準備に対する利子を得たとして,それをさらに超過準備に積み増した場合,利子が利子を生む結果となり,さらに日銀は当座預金を積み増さねばならないかもしれない。債務超過になっても利払いを続ける日銀は,株式会社という観点から言えば不健全であり,経営規律を失っているとみなされる恐れがある。また公的機関としてみれば,日銀の財務的都合だけのためにマネタリーベースを追加供給して銀行の利益に奉仕する状態となっており,有効な金融引き締めを行っているのかどうかを疑われかねない。

 債務超過の日銀をそのまま放置してオペレーションを継続させることは,理論上は可能だし,おそらく日本では法律上も可能である。決算を財務省が承認することも妨げられていない(衆議院議員藤岡隆雄君提出日本銀行が債務超過になった場合の日本銀行法第八条の出資の扱い等に関する質問に対する答弁書,2022年6月24日)。その上,現行の日銀法は政府による日銀の損失補填を禁じてしまっている(旧法では逆で,補填義務があった)。しかし,放置すれば上記の要因により金融不安が高まるかもしれない。さりとて,例外的に交付国債などによる補填を行えば,財政負担が生じるとともに,国会が日銀の在り方について発言する資格があるとみなされるだろう。すると,日銀の独立性は縮減される恐れがあり,その是非が問われてくる。

 つまり,日銀の信用秩序能力が疑われるということは,金融不安を引き起こす可能性を持つとともに,半官半民の日銀の在り方,日銀の独立性の在り方について,疑問を惹起するきっかけとなってしまうのである。

 また,こうした疑念は,実態的な根拠以上に拡大することも十分考えられる。投機家は,自分自身が「日銀に不安がある」と思うからではなく,「多くの投機家が日銀に不安があると思っているだろう」という予想に基づいて行動するものだからである。したがい,円に対する売り浴びせによる為替レートの下落,あるいは日銀の保有資産の主力を占める国債に対する売り攻撃による国債価格の下落,その裏返しとしての長期金利の高騰が生じる危険性はあると言わねばならない。また,続稿で説明するが,こうした事態は,大量の国債発行による財政赤字の累積と同時並行で生じると考えられるので,実体経済におけるインフレーションの発生と同時に進行するかもしれない。その場合は,日銀への不安は引き締め能力への不安という方向で発生し,インフレを加速させるだろう。

 繰り返すが,信用貨幣論を持ち出すまでもなく(※),すべての論者が一致しているように,日銀は債務超過となっても円について支払い不能になることはあり得ない。しかし,日銀の信用秩序維持能力に疑念が持たれることはあり得る。その疑念は実態的根拠を持つし,また実態的根拠以上に拡大し得るものである。また,日銀の,半官半民という性格と政府からの独立という正確にたいする疑問を惹起しかねないものなのである。したがって,「出口」において,日銀の支払い不能を懸念する必要はないが,信用秩序維持能力に対する疑念が発生した場合について考えておくことは必要であろう。

3.そもそもなぜ付利を続けているのか

 以上が,日銀の業績悪化に伴って生じる事態への,いわば予想である。しかし,真に考えるべき問題は,この先にある。そもそもなぜこのような問題が生じるかである。2008年までは日銀当座預金には利息が付されていなかった。超過準備に付利し,その超過準備が膨れ上がっているからこそ,こうした問題が生じるのである。それでは,日銀を含む先進諸国の中央銀行は,なぜ超過準備(または中銀当座預金全体)に利息を付与するようになり,今も付与し続けているのであろうか。これを,より深く掘り下げて考えることが本題である。続稿にて論じる。


※信用貨幣論によって,日銀が円について支払い不能に陥らない理由を述べると,「管理通貨制度のもとでは,日銀当座預金と日銀券(ベースマネー)よりも高度なお金が,国内にはないから」となる。資本主義経済における貨幣の主力は,正貨と信用貨幣である。貸したお金の回収が危なくなるときの人の行動原理は,「もっと信用の高い債務証書(手形)をよこせ。それもないなら正貨をよこせ」である。会社の手形が不渡りになりそうだったら,いますぐ銀行預金に振り込んで返せとか日銀券で返せなどという。企業の手形より銀行預金(銀行の手形)や日銀券(日銀の手形)の方が信用があるからだ。銀行の経営が危なくなったら,預金をおろして日銀券に換えようとする。その銀行の預金(銀行の手形)が信用できなくなって,日銀券(日銀の手形)を求めるのである。もし金本位制であって金兌換が可能ならば,銀行券や日銀券が信用できないと思ったら金に換えろと要求するだろう。

 管理通貨制度では,このうち金兌換が停止される。日銀の信用に不安があっても,日銀当座預金と日銀券しかとりたてようがない。そして,日銀は日銀当座預金と日銀券はいくらでも作り出して支払うことができる。なので,たとえ債務超過になっても日銀は倒産せず,営業を継続できるのである。

<続稿>

川端望(2022.11.19)「超過準備維持・金融緩和・国債消化:準備預金への付利に関する考察(2)」Ka-Bataブログ(https://riversidehope.blogspot.com/2022/11/blog-post_19.html

<参照文献>

小栗誠治(2017)「中央銀行の債務構造と財務の健全性:銀行券,準備預金および自己資本」『彦根論叢』414,98-113( https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/Ronso-414oguri.pdf )。
木内登英(2022.11.2)「FRBの損失発生は利上げを制約するか:損失は日銀の正常化実施の障害となるか」NRIコラム( https://www.nri.com/jp/knowledge/blog/lst/2022/fis/kiuchi/1102_2
中里透(2022.10.11)「日銀はなぜ利上げをしないのか――マイナス金利について考える」SYNODOS( https://synodos.jp/opinion/economy/28365/ )。
野口悠紀雄(2022.6.23)「日本銀行が利上げで数十兆円の「債務超過」に陥ると何が起きるのか」DIAMOND online( https://diamond.jp/articles/-/305209 )。

2022年11月3日木曜日

手形交換所や紙の手形がなくなっても,現代の金融システムは手形原理に依拠している:MMTとの見解の相違にも触れて

1.手形交換所の交換業務終了と決済の今後

 11月2日,全国の手形交換所が交換業務を終了した。4日以降は電子交換所が稼働するとのことだが,これはいわば「つなぎ」的存在だ。というのは,紙の手形をスキャンして,スキャンデータで交換業務を行うだけのものだからだ。経産省は,約束手形を2026年までに廃止する方針とのことである。今後の企業間債権決済業務の本命は「電子記録債権」,略称「でんさい」とこれを決済する「でんさいネット」で,要は初めから紙をつかわない電子手形である。

 紙の手形は姿を消すし,「でんさい」もかつての紙の手形ほどはつかわれないだろう。いわゆる「現金決済」が増えたからであるが,これは正確ではない。札束としての現ナマで支払うことが増えたのではなく,ただちに預金口座振り込みで決済することが増えたのである。預金口座振り込みとは,つまり「預金=銀行の一覧払手形」を用いた決済である。手形の債権債務の差額が手形交換所で相殺されるように,銀行間の債権債務の差額は,日銀当座預金内で相殺される。もちろん銀行業務はオンライン化されていて,銀行手形もいわば電子化されている。

2.金融システムを成り立たせている手形原理

 紙の手形や電子手形だけでなく,銀行振り込みも手形原理によって成り立っている。それどころか,そもそも銀行による貸し付けも手形原理によって成り立っている。貸付とは銀行が預金という名の自らの手形を振り出して,その手形で貸し付けることである。そして銀行への利払いや返済には,預金という,その銀行自身の手形をもちいることができるのである。

 ここでいう手形原理とは,1)手形を切ることによって発生した債務証書が流通し得ることであり,2)債権債務は,多角的相殺により決済されること(その一環として,手形は,手形の振出人に対する支払いに用いることができること)であり,3)相殺し切れない差額は,通貨によって決済されることである。銀行はこの手形原理に,資本の貸し付けの原理,すなわち,利潤を生む商品としての資本を貸し付け,利子を得るという原理を上乗せして成り立つ。約束手形などの商業手形を振り出すのは商品を購入する際であるが,銀行手形=預金は貸し付ける際に振り出される。

 このうち3)の「通貨」は本位貨幣制度と管理通貨制度では性質がいくらか異なる。通貨には,金貨や銀貨などの正貨,銀行預金,銀行券,補助貨幣がある。銀行券は現代では中央銀行のみが発券する国が多い。また,民間企業では流通せずに金融機関内取引のみで流通する独自な預金として中央銀行当座預金がある。そして,このうち銀行預金,(中央)銀行券は,銀行手形がその信用度の高さと流通性の良さによって通貨となった信用貨幣である。

 正貨は,本位貨幣制が停止されて管理通貨制度に移行すると流通しなくなる。正貨流通が停止された通貨制度の下では,補助貨幣以外の通貨は信用貨幣になってしまう。そうすると,上記3)の規定はより具体的に,3)相殺し切れない差額は,より信用度の高い債務と交換されることで決済される,となる。中央銀行券の現ナマでの支払いであれ銀行振り込みであれ中央銀行による決済であれ,正貨流通が停止されても成り立っているのは,1)2)3)の手形原理は,金兌換があろうがあるまいが成り立つからである。

 このように,管理通貨制度の下での信用貨幣のシステムは,手形原理に立脚して,その上に資本の貸し付けの原理を重ねて成り立っている。紙の手形が消え,電子手形がそれほど使われなくても,手形原理は金融システム内部に綿々と生き続けているのである。

3.学説上の論点:マルクス派信用貨幣論とMMT

 私の依拠するマルクス派信用貨幣論は,以上のように手形原理から現代の通貨と金融システムを説明する。より大きく見れば,商品流通と資本主義経済の発展が信用貨幣システムの発展を支えているととらえる。

 近年,同じく現代の金融システムを信用貨幣論で説明する学説としてMMT(現代貨幣理論)がある。金融システムの説明としては,私もMMTと意見を共有するところが多くあるし,中央銀行当座預金の機能や,より信用度の高い債務との交換という理解の仕方など,MMTに学んだところもある。しかし,金融システムを成り立たせる根拠については,MMTと理解が異なるので,説明しておきたい。

 MMT(現代貨幣理論)は,現代の金融の運動様式を説明する際には信用貨幣論を取るものの,貨幣が流通する根拠は国家による課税に置く。納税に用いることができるから,人々は貨幣を受け取るというのである。それはそれで法定通貨論としてはわかる。しかし,国家のみから貨幣を説明するのは一面的であり,また信用貨幣という形態を説明するには不十分ではないか。MMTは,商品経済と資本主義経済の発展の中から信用貨幣システムが確立する論理を把握していない。商品経済自体から手形原理が生じることや,手形原理に資本貸し付けの原理を重ねて銀行が発達したことへの考慮がない。ここで,マルクス派信用貨幣論とMMTは意見が分かれるのである。

「「手形交換所」最後の業務 仙台も103年の歴史に幕 全国179カ所、電子化移行」河北新報ONLINE,2022年11月3日。

でんさいネット

「「取引適正化に向けた5つの取組」を公表しました。」経済産業省,2022年2月10日。

<関連投稿>

「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。

「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

「続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか」Ka-Bataブログ,2022年9月8日。


2022年10月28日金曜日

預金をすることは貨幣流通にどのような作用を及ぼすか:覚書

1.現金が預金されると,貨幣が流通から外に出たことになるだろうか。

 1.1 まず本位貨幣,例えば金貨が流通している場合。

  1.1.1 ならない。なぜならマネーストックは減少していないから。1万円の金貨が銀行に預金された場合,マネーストックから現金1万円が減り,預金通貨1万円が増えるだけである。逆に,預金1万円がおろされても,預金通貨1万円が減り,現金1万円が増えるだけなので,マネーストックは増減しない。

  1.1.2 いや,なるとも言える。なぜなら金貨は流通から消えるから。1万円の金貨が銀行に預金された場合,1万円の金貨という通貨は,銀行の手持ち現金となる。場合によっては日銀に預けられる。すると,金貨は日銀の資産となる。


 1.2 次に管理通貨制度下の中央銀行券,たとえば日銀券の場合。

  1.2.1 ならない。なぜならマネーストックは減少していないから。1万円の日銀券が銀行に預金された場合,マネーストックから日銀券1万円が減り,預金通貨1万円が増えるだけである。逆に,預金1万円がおろされても,預金通貨1万円が減り,日銀券1万円が増えるだけなので,マネーストックは増減しない。

  1.2.2 いや,なるとも言える。なぜなら日銀券は流通から消えるから。1万円の日銀券が銀行に預金された場合,1万円の日銀券という通貨は,銀行の手持ち現金となり,一時的に流通から消える。さらに多くの場合日銀に預けられる。すると,日銀券発行高が1万円減少し,日銀券は消滅するか,日銀が保管するただの紙切れになる。


2.なぜ,このように現金が預金されると,貨幣が流通から外に出たことに「ならない」とも「なる」とも言えるのか。

 2.1 預金者から見れば,手持ちの現金を銀行の債務証書=預金と交換するに過ぎない。そして,預金は支払い手段としての貨幣の機能を果たすので,流通内にある。流通する貨幣量が変動しない以上,貨幣は流通の外に出ていない。

 2.1 ところが,預金というのは預金者が銀行に貸し付ける行為である。貸し付けを行えば,貸し主は借主の債務証書を入手し,借り主は借りた現金を入手する。債務証書の信用度が,貨幣として用いることが出来るほど高いのであれば,この時貨幣は,現金だけ存在する状態から,現金と債務証書が存在する状態になり,量は2倍に増えているのである。そして,貸し主が入手した債務証書=預金通貨は流通内にとどまり,借り主すなわち銀行が借りた現金の方は流通の外に出る。


3.流通から出た現金は蓄蔵貨幣となるだろうか。

 3.1 金貨が流通している場合は,なる。金貨は銀行の手元か日本銀行の手元で,流通の外の価値を持った資産となる。ただし,このとき貨幣流通量は減っていない。

 3.2 管理通貨制度で日銀券が流通している場合は,ならない。銀行の手元に置かれた日銀券は,預金の引き出しに備えて一時的に保有されるに過ぎない。つまり,ごく一時的に流通の外に出て,また流通内に戻る準備をしているに過ぎない。また日銀に預けられれば,日銀券は貨幣の資格を失う(ただの物理的な紙になる)。流通の外には出るが,価値を維持して蓄蔵されることはなく消滅する。


4.以上のことと,貨幣・信用理論の命題との関係。

 4.1 預金することが「貨幣が流通から出ること」を意味すると理解するのは,「現金そのものが流通から出る」という意味で言っているならば正しいが,「貨幣流通量が減少する」という意味で言っているならば正しくない。両者が混同されている場合があるように見受けられる。

 4.2 預金することが「蓄蔵貨幣を形成する」と主張するのは,本位貨幣については正しいが,中央銀行券については正しくない。この点では,古典的貨幣観がそのまま正しい。預金された中央銀行券を蓄蔵貨幣と見なす説もあるが,無理がある。

 4.3 不換の中央銀行券が「預金によって流通から出ることができない」と主張するのは,「蓄蔵貨幣にはなれない」という意味では正しいが,「中央銀行券が流通から出られない」という意味では正しくない。出て,まもなく流通に戻る場合もあれば,出て,そのまま消滅する場合もある。

2022年9月8日木曜日

続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか

 先日「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」というノートを書き,MMT(現代貨幣理論)が貨幣流通の根拠は国定貨幣説(表券主義)で,現代の金融システムの説明は信用貨幣説で説明する二元論を取っていることを記した。その時は,どうしてそのような二元論を取るのかが理解できなかったのだが,ランダル・レイの論文「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」の邦訳を読んで,どうにか理解できそうに思えてきた。レイが「ミンスキーの『誰でも貨幣を創造できる。問題はそれを受け取ってもらうことだ』という見解に従うことになった」というところに関係しているようだ。

 ハイマン・ミンスキーは債務のピラミッド論の創始者である。「このピラミッドでは、最も受けとられやすい政府の負債が頂点にあり、次に商業銀行の負債、そして『ノンバンク金融機関』の負債、非金融法人企業の負債、最後に中小企業や家計の負債が最下層に位置している。このピラミッドは、負債の受容性と流動性を反映したものであり、ピラミッドの下位に位置する主体は、支払いにおいてピラミッドのより上位にある負債を用いる」。レイはこれを受け継いでおり,ここまでは信用貨幣説である。

 では,頂点にある政府の負債はなぜ受け取ってもらえるのか。レイやそのほかのMMT論者は,ここを国定通貨説で説明しているのである。「納税者が税金の支払いのために自国の通貨を政府に返還すると、納税者と政府の両方が償還される。納税者にはもはや税金という負債はなくなり、政府の自国の通貨を受け入れる義務は果たされる」というわけである。つまり,「納税に使える」ということが,政府の負債が貨幣として流通する根拠なのである。以上がMMTにおける信用貨幣説と国定貨幣説の結びつき方である。

 とすれば,私の理解する日本の伝統的なマルクス派信用貨幣論との違いは,以下のようになる。もっとも,日本のマルクス派信用貨幣論にもヴァラエティがあるので,これは私が,できる限り首尾一貫して理論を組み立てればこうなるだろうとした理解の仕方に過ぎないことをお断りしておく。なお,欧米ではこれに近い考え方はホリゾンタリストと呼ばれるようである。

 マルクス派の信用貨幣論は,伝統的に政府を捨象し,民間の商品経済と資本主義経済の発展の中に,信用貨幣が流通する根拠を求めてきた。中央銀行も,まず「銀行」として理解し,それが発展して国家から決済システムと最後の貸し手機能を付与されるという風に理解してきた。不換制の下で預金貨幣や中央銀行券が流通する根拠も,手形流通の原理を根拠に,手形の債権債務相殺機能によって理解してきた。商品経済が発達し,手形流通が発達しているからこそ,資本主義的な銀行業は銀行手形として預金貨幣や銀行券を発券できるのである。手形の債権債務相殺機能は金兌換と不換とにかかわらず機能する。そして,銀行間の決済システムと信用維持に必要だからこそ中央銀行が選定されるのである。民間経済の発展こそが根拠である。信用貨幣の流通性に相違を認めることは,MMTのピラミッド論と同じである。しかし,頂点に立つ信用貨幣である中央銀行の債務が流通する決定的根拠は,MMTのように「納税に使える」ことではない。「中央銀行への支払いに使える」ことである。

 もう少し対比を続けよう。

 MMTでは頂点に立つのは政府債務である。これはMMTが非常に強い意味で統合政府論を理解し,中央銀行を「政府」の一部と理解するからである。マルクス派信用貨幣論では頂点に立つのは中央銀行債務である。これは中央銀行をまずは「銀行」として理解したうえでその政府との結合を考えるからである。

 MMTは頂点に立つ政府債務が有効性を証明する場面として,納税に注目する。そこでは納税者の債務と政府の債務が相殺される。納税者は納税義務を果たすし,政府は自分の債務である貨幣を受け取るからである。マルクス派信用貨幣論は,頂点に立つ中央銀行債務が有効性を証明する場面として,中央銀行への返済に注目する。そこでは銀行の債務と中央銀行の債務が相殺される。銀行は中央銀行からの借り入れを返済するし,中央銀行は自分の債務である中央銀行当座預金を受け取るからである。

 MMTは国定通貨の根拠を貨幣史に求める。通時的理解である。前近代社会から国定貨幣が用いられてきたから資本主義社会でも国定貨幣が用いられるというのである。日本のマルクス経済学では(論者によって意見が異なるものの※1),私の理解では,資本主義経済そのものの構造に求める。共時的理解である。現時点で,資本主義経済が機能するためには,ほんらいは価値尺度として金を貨幣とすることが要請される一方で,そのようなプリミティブなしくみでは経済発展が制約されるために,貨幣代替物として預金貨幣や中央銀行券が用いられるとみるのである。

 おそらく以上のように対比してまちがいないものと思う。賛否はともあれ,こうした突き合わせをきちんとしておくことは,理論的対話のために必要であると思う。

※1 これは,かつてマルクス派の世界で「論理=歴史」説と「論理」説の論争と呼ばれていた話のことである。論理的前後関係と時間的前後関係は照応すべきであり,例えば『資本論』の商品論よりも剰余価値論の方が時間的に後の話だと考えると,「論理=歴史」説となる。論理的前後関係と時間的前後関係は別だと考え,商品論から剰余価値論への流れは,同時点で論理が抽象的なところから具体的なところに進んでいるのだと考えると「論理」説になる。ここで私は「論理」説に立って説明しており,MMTをいわば「論理=歴史」説とみなしているのである。

ランダル・レイ(WARE_BLUEFIELD,ゲーテちゃん,kenta460,sorata31,望月慎訳)「現代貨幣理論への“カンザス・シティ”アプローチ:成立史から辿るMMT入門」(2020年7月)経済学101。


2022年9月5日月曜日

「金融引き締めによるインフレ抑制」で何が起こっており,何が犠牲にされているのか

 1.はじめに

 2022年現在,アメリカのFRBを先頭に,欧米の中央銀行は「インフレを鎮静化させるために金融を引き締めて」いる。日本銀行がその例外とされる。本稿の目的は,この金融引き締めがもたらす効果について理論的可能性を考察し,そこからこの政策を論じる上で必要な観点を見出すことである。

 その際,注意しなければならないことが二つある。ひとつは,2022年現在,先進国で「インフレ」と言われていることの中には,性質の異なる複数種類の物価上昇が含まれているのではないかということである。そのいずれに対しても,金融引き締めは効果を持つのだろうか。もう一つは,金融引き締めは,本当に「インフレを鎮静化させる」効果を持ち,またそれ以外の効果は持たないのかということである。「インフレを鎮静化させるために金融を引き締め」ることは金融政策上の「常識」であるが故に,ほとんど疑われることはない。しかし,落ち着いて理論的に考えてみれば,そこには十分疑いの余地があるのではないかということである。


2.「インフレーション」の種別と2022年における物価上昇の複合性

 日常用語では,持続的な物価上昇はすべて「インフレーション」と呼ばれる。しかし,その中には,異なった作用が含まれている。

a.自律的好況による物価上昇

 端的に,民間経済内で好況期に需要が供給を上回ることによる物価上昇である。銀行による信用創造の拡大を伴う。銀行貸出が返済を上回る状態が一定期間持続することで通貨供給量が拡大する。加熱すれば投機的な見込み需要による物価上昇に至る。需要が強い分野で物価が上昇し,そうでない分野では上昇しないので,本質的に不均等であり,商品間の相対関係も変わる。

b.コストプッシュによる物価上昇

 財・サービスの生産費が上昇し,それが価格に転嫁されることによる物価上昇であり,供給制約による物価上昇である。景気循環の局面に関係なく生じうるので,銀行による信用創造への影響も場合による。やはり抽象モデルであり,現実には相当に異なる経済状況のいずれにも当てはまる。需要超過から始まって,それが原燃料・中間財の生産条件を悪化させるために生じることもあるが,海外から供給される原燃料や食料の生産費高騰が輸入価格上昇を通して国内に浸透することの方が目立つ。後者の場合は,国内の実質的購買力が低下する。商品間の相対関係はもちろん変わる。

c.通貨の過剰投入によるインフレ

 流通に必要な貨幣量に対して,通貨が過剰投入されることによる名目的価格上昇である。いわば貨幣的インフレと言える。金兌換がなされていて公定の価格標準が明確であった時代には,このような物価上昇だけがインフレと呼ばれていた。

 貨幣的インフレは,以前より述べている通り財政赤字によって通貨供給量が外生的に拡大することによって生じる(※1)。ただし,財政赤字なら必ず貨幣的インフレを生じるとは限らない。1)財政刺激によって財・サービスの流通量を拡大すれば生じない。2)財政刺激がさしあたり財・サービスの需要拡大に結び付かずに,貯蓄形成(金融資産形成を含む)に帰結してしまえば生じない。3)財政刺激によって財・サービスに買い向かう購買力が発生し,しかし財・サービスの流通量が拡大しない場合に生じるのである。

 3)は抽象モデルなので,現象的にはまったく両極の経済状況のいずれにもあてはまる。一つの極は好況が完全雇用にまで達してなお財政刺激が行われている場合であり,他方の極は,財政赤字による補助金で企業や家計をいくら支援しても,生産能力がまったく停滞しているような場合である。

 貨幣的インフレは名目的価格上昇なので,本来は商品間の相対関係は変化しない。しかし,政府需要や補助金や給付金などが特定の箇所を起点として社会に浸透していくものであり,また投入された通貨が貯蓄として遊休したり流通に復帰したりすることもあるので,実際には時間をかけて不均等に物価上昇が浸透していく。

 この区別と関連に注目しなければならないのは,2022年現在の先進諸国の物価上昇は,a,b,cのすべてが作用していると考えられるからである。aの好況による物価騰貴にあたるのは,2021年には経済の回復が始まり,先進諸国のGDPはIMFによれば5.2%成長したことである。bのコスト・プッシュにあたるのは,2021年から原燃料・食糧価格の上昇が始まり,ウクライナ戦争と,ロシアに対する経済制裁によって加速したことである。cの貨幣的インフレにあたるのは,コロナ禍に直面して諸国政府がそろって赤字財政を拡張し,多額の給付金や補助金を交付し,また経済回復のための公共投資を行ったことである。


3.3種の物価上昇に対する金融引き締めの作用

 では,この三つが混合した物価上昇に対して,中央銀行の金融引き締め,つまりインターバンク貸付の短期利子率を高め誘導することを通して銀行による信用創造を抑制することは,どのように作用するだろうか。

 a,すなわち好況による物価騰貴に対しては,政策が物価上昇の原因に対して素直に反作用しており,効果が期待できる。好況騰貴は需要超過を信用創造の拡大が後押しすることで生じる。金融引き締めは,この信用創造を抑制して需要を抑制することで物価上昇を抑えるのである。

 超過需要が仮需を作り出すに至り,放置すれば反動で激しい不況が起こりそうな場合には,引き締め政策は望ましい効果を持つ。多くの人々にとって望ましくない仮需による投機と,反動不況の激烈さを抑えるからである。ただし,引き締めが行き過ぎれば需要は冷え込み,失業率が上昇するおそれがある。物価上昇の抑制すなわち需要の抑制である。インフレ抑制の代償が失業であり就業の不安定化である。

 b,すなわちコストプッシュに対しても金融引き締めは効くには効くが,好況騰貴に対してよりもトリッキーな効き方をする。コスト・プッシュによる価格上昇が起こっている場合,元々需要超過が生じているわけではない。これに対する金融引き締めとは,つまり,景気が過熱もしていないのに引き締めるわけである。よって,好況騰貴に対してよりも,激しく景気を落ち込ませる。物価上昇の抑制を優先して,敢えて不況への突入もいとわないという政策になる。物価抑制の代償としての失業や就業不安定化は一層激しくなる。

 c,すなわち貨幣的インフレに対しては,物価上昇の途上では有効である。上昇の途上とは,財政赤字で撒布された通貨が瞬間的に物価を騰貴させるのではなく,いったんは貯蓄として遊休し,徐々に実物経済に回って物価が上昇しつつある過程のことである。この時に金融引き締めを行えば,物価を上昇させるだけの超過需要を抑え,通貨を貯蓄として眠り込んだままにさせることはできるかもしれない。ただし,貯蓄は課税によって回収されない限りなくなりはしない。財政赤字によって投入された通貨は,金融引き締めでは回収できないからである(※2)。貯蓄は,再び実物経済に買い向かう機をうかがいつつ,預金として滞留することもあれば,金融資産に買い向かってバブルを起こすこともあることに注意が必要である。

 そして問題は,貯蓄として眠りこませることが,程よく仮需の抑制につながるのか,ここでも失業をもたらすかということである。これは,元々の財政赤字が,物価上昇を起こすことなく完全雇用を達成できていたかどうかに依存する。完全雇用に近い状態を達成できていたのであれば,さらなる通貨投入によって引き起こされた貨幣的インフレの発生のみを抑制するファイン・チューニングが政策的課題となる。うまくいけば物価を程よく抑えながら完全雇用を維持できる。しかし,元の財政支出の仕方に問題があって,完全雇用達成以前に貨幣的インフレが起こってしまっているかもしれない。この場合,金融引き締めは,ここでもインフレ抑制の代償として失業や就業不安定化を生じさせることになる。

 以上が3種類の物価上昇に対する金融引き締めの効果であり,その代償である。


4.まとめ

 以上のように,物価の持続的上昇,日常用語でいう「インフレ」に金融引き締めで立ち向かうことの作用はさまざまである。まとめるならば,金融引き締めが,その公式の目標通りに物価上昇を抑制して経済の混乱を鎮め,景気循環の振幅を和らげることに寄与するのは,貨幣的インフレや好況騰貴で超過需要が,生産や販売の実質拡大に寄与しない仮需の発生に至っており,これを適度に抑制する場合である。

 ただし,金融引き締めは,多くの場合,物価上昇抑制の代償として失業増大や就業不安定化をもたらす。好況騰貴に対して引き締めが仮需の抑制を通り越して作用した場合,貨幣的インフレにおいて,もともとの財政支出に問題があって,完全雇用達成以前に貨幣的インフレを招いており,これを引き締めで抑制しようとした場合,コストプッシュの物価上昇に対して,景気が過熱してもいないのに引き締めを行った場合である。

 つまり,金融引き締めの犠牲は労働者や,中小零細企業に集中する。しかし,物価上昇の負担は場合による。物価上昇は確かに経済活動全般を混乱させるが,多くの場合,賃金上昇が遅れることにより労働者が損失を蒙る。ただし状況によっては,コスト・プッシュにより体力の弱い企業が損失を被ることもあり,労働市場のひっ迫が激しい場合は賃上げ率の高いセクターの企業が損失を蒙る。物価上昇と金融引き締めの得失は不均等に分布しているのであり,社会全体として望ましいかどうかと,そのために利益と損失が一部に集中していることには共に注意が払われねばならない。

 そもそも論で言えば,好況騰貴やコストプッシュの場合は金融引き締めで通貨供給量を制限することができるが,財政赤字による貨幣的インフレに対しては,通貨量を縮小させることはできない。できるのは,撒布された通貨を貯蓄として眠り込ませることだけである。この因果関係が誤認されていると,政策論議には歪みが生じるであろう。


5.実践的指針

 中央銀行を監視する実践的な指針としては,「インフレを鎮静化させるための金融引き締め」を行うことに対しては,以下の点のチェックが必要であろう。

*仮需の抑制を通り越して不況を誘導していないか。

*雇用を過剰に犠牲にし,労働者や社会的弱者に負担を偏らせていないか。

*そもそも財政拡張を行う際に,完全雇用達成以前にインフレをもたらすような無駄や偏りがないか。

*コストプッシュに対して,引き締めによる需要抑制よりも供給制約の緩和(食糧・エネルギー自給率の向上など)で対処する可能性を提起すべきではないか。

 そして,より根本的には,「インフレ抑制の代償は失業・就業不安定化である」ようなマクロ経済政策の在り方が,本当に唯一可能なものであるのかを問い,代替的政策の可能性を検討する必要があるだろう。


※1 国債が中央銀行引き受けで発行された場合のみならず,民間銀行によって購入された場合にも生じる。この点は以下を参照。「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」Ka-Bataブログ,2020年11月19日(2022年9月5日一部改訂)。

※2 派生的な論点として注意すべきことがある。好況騰貴やコストプッシュの場合は,極論すれば不況によって物価を下落させることも可能だが,貨幣的インフレに対しては,物価上昇を抑制することはできても,いったん上昇した物価を下落させることはできない。貨幣的インフレによって名目的に物価水準が上昇してしまうと,流通する財・サービスの総額自体が膨れ上がってしまう。ここで,仮に課税するなどして,いったん撒布した通貨を流通から引き上げたとしても,物価水準が下落するのではなく,財・サービスを流通させる通貨が不足し,その分だけ銀行からの借り入れ需要が増え,信用創造で通貨が供給されることで補われる。貨幣的インフレでいったん上昇した物価は元に戻らないのである。

2022年8月23日火曜日

預金貨幣の内生的供給と外生的供給:岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社,1948年の先駆的意義

  岡橋保『インフレーションの経済理論ーー預金貨幣インフレーションの研究』は,戦後直後の日本におけるインフレーションを,貨幣理論によって把握しようとした労作である。本書は1948年発行であり,紙質も印刷状態もよくないものであって,今日どれほど残存しているのかが懸念される。しかし,実は本書は,今日の貨幣をめぐる論議に見通しを与えてくれる先駆的なものだと,私は考えている。

 本書で重要なのは副題である。岡橋氏は,戦後直後のインフレーションを念頭に置いて,「こんにち,銀行券にかはって預金貨幣が支払流通手段の中心的形態」(序言3頁)であると述べている。インフレーションは,商品流通に必要な貨幣量を超えて,貨幣代替物が流通界に投じられた際に生じるものである。この貨幣代替物の主役が預金貨幣だと岡橋氏は主張しているのである。

 これは,金融実務に携わる人にとっては当たり前のことである。実務家は,戦後直後であれ21世紀であれ,預金が通貨として大きな役割を果たすことを知っている。マネーストック指標のM1,M2,M3は預金通貨を含んでいることは少し調べればわかることである。

 ところが,多くの一般市民,経済評論家,経済学者は,実はそのように考えていない。今日では多くの人が,しばしば銀行振り込みを利用し,公共料金やクレジットカードの利用高を口座引き落としで決済している。しかし,同時に国や中央銀行が定めたものだけが貨幣であり,現代の通貨制度とは「中央銀行がお札を刷って通貨にする」ものだと思いこんでいる。そして,財政赤字やインフレを論じる時も「日銀がお札を刷ってばらまく」云々という風に考えている。そして深刻なのは,一般市民だけでなく,経済評論家や経済学者も真顔でそのように論じることである。場合によって,経済学の教科書にその趣旨が記されていることすらある。この考えに立てば,通貨供給とは日銀券の発行であり,インフレーションとは日銀券の刷りすぎから起こるということになる。

 これは間違いであって,経済学の理論でも預金貨幣を正面からとらえねばならないと,岡橋氏は1948年に述べているのである。

 ここで説かねばならない問題がある。預金貨幣といっても,中央銀行当座預金は直接商品流通を媒介しない。民間の取引で用いられているのは市中銀行の預金である。では,銀行の企業に対する貸し付けによってインフレーションが起こるのだろうか(※1)。そうではないと岡橋氏は言う。「インフレーションとは国家の強権的な貨幣的手段の創造によるところの一般物価の騰貴である」(序言2-3頁)。つまりは政府が税収以上に支出する財政赤字,そのための国債の発行から生じるものである。では,どうして政府の財政赤字が,中央銀行券の過大な発行でなく市中銀行による預金貨幣の過大な発行となるのか。岡橋氏は,戦時統制期の軍需に即して以下のように言う。

 「赤字公債のうえに形成された日本銀行における政府当座預金は,政府支払小切手によっていろいろな軍需会社に撒布された。これらの政府小切手は,それぞれ軍需会社の取引銀行をつうじ,手形交換所をへて日本銀行に提示され,ここに政府当座当座預金は一般預金にふりかえられたのであって,前者の減少が後者の一般預金の増大となってあらはれたのである」(104-106頁)。

 これは,軍需会社を政府の支出先企業とし,手形交換所を電子交換所とすれば,21世紀の今日も同じである(※2)。

 つまり,財政赤字による通貨供給量の増大の多くは,預金貨幣の増大となって表れる。この増大分が,商品流通量の増大を超えている時にインフレーション作用が生じるわけである。念のためいえば,岡橋氏は財政赤字が直ちにインフレを起こすと述べているのではない。失業を減らし,遊休設備を稼働させ,滞貨を動かして,通貨供給に見合った商品流通量の増大を引き起こすのであれば,インフレーションは起こらないのである。

 さて,こうした財政赤字による預金貨幣の発行を,岡橋氏は「信用貨幣の変質」と呼んでいる。預金は銀行の債務であって,預金貨幣は信用貨幣である。しかし,同じ預金貨幣であっても,ほんらいの信用貨幣の場合と変質した場合があるというのである(※3)。

 銀行が企業に貸し出す際に生み出される預金貨幣は,商品流通に対応したものである。そして,貸付金が回収されれば消滅する。よって,商品流通の内在的な動きに応じて伸縮性を持っている。商品流通が拡大するから貨幣流通量も増えるし,逆なら逆である。現代の用語で言えば,貨幣は内生的に供給される。

 しかし,財政赤字を通して生み出される預金貨幣は,流通外から政府が権力的に投じたものである。そして,上記のような伸縮性を持たない。縮小させようとすれば,政府が課税を強化するなどして,やはり権力的に回収するしかない。つまり,ここでの貨幣供給は外生的である。

 銀行貸出を通した預金貨幣の供給は内生的であり,財政赤字を通した預金貨幣の供給は外生的である。同じ預金貨幣でも供給ルートによって性質が異なる。このことを,岡橋氏は1948年に見抜いていたのである。

 この見地からは,今日の貨幣をめぐる議論に二つの示唆が得られる。

 まず一つ目は多くの研究者や市民への警告である。多くの研究者が,金兌換が停止された預金通貨は信用貨幣ではなく不換国家紙幣だとみなしており,その日常感覚バージョンとして,多くの人が日銀が自らの意思でお札を刷って紙幣を供給できると考えている。これらは日銀・銀行ルートの貨幣供給を外生的とみているのである。しかし,これでは,預金通貨が市中銀行の貸し出しと回収を通して伸縮することを説明できない。この見地をとってはならないのである。

 もう一つは,内生的貨幣供給論者への注意である。内生的貨幣供給論者は,銀行の貸し出し・回収による貨幣供給量の伸縮を正しく説明する。その点で外生的貨幣供給論よりはるかに妥当である。しかし,そこから,信用貨幣であるから,いつでもどこでも内生的に供給されるのだと硬直した規定を与えてはならない。うかつにそうすると,財政赤字を通した預金貨幣供給が外生的であることを位置づけられなくなる。信用貨幣論は,信用貨幣が供給ルートによって性質を変えることまで射程を伸ばす必要がある。

 以上が,1948年発行の本書から得られる認識である。岡橋保氏の学説は,今日の貨幣をめぐる論議を深めるために,なお深く検討する価値を持つものだと,私は考える。


余談:本書は世界文化社から発行されている。この出版社は,戦前に存在した雑誌『世界文化』とは関係がない。しかし,現在存在している「世界文化社グループ」とも異なる。その実態は「電通」である。住所が「電通ビル」となっているが,これは現在の電通銀座ビルである。電通は1946年に総合雑誌『世界文化』を発行したが,GHQによって「活動制限会社」に指定されたために出版事業を縮小し『世界文化』の発行も,大地書房,そして世界文化社に移されたのである。
 また,同社の代表は廣西元信氏である。マルクス経済学の世界では著書『資本論の誤訳』で有名であり,また空手家として有名な人物である。廣西氏が『世界文化』の編集に携わっていたことは知られているが,同社の代表も務めていたのである。
 世界文化社の本は1953年くらいまで出ていたようであるが,それと入れ替わるように1954年には,子供マンガ新聞社と世界文化画報社が改組されて世界文化社となり,現在の世界文化社グループに至る。両社に何らかの関係があったのかはわからない。


※1 そうだという研究者もいる。この見解については以下で論評した。
「インフレもバブルも「過剰な貸出」によって生じるのか?:建部正義「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」との対話」Ka-Bataブログ,2022年1月25日。

※2 こうした預金をめぐるオペレーションを貨幣理論のモデルに組み込まねばならないことは,今日,MMT(現代貨幣理論)が主張しているところである。その点ではMMTが妥当である。岡橋氏を含むマルクス派信用貨幣論とMMTは信用貨幣論において共通するところが多いが,商品貨幣論から出発して信用貨幣論に至るか,表券主義と信用貨幣論を使い分けるかというところが異なる。この点は以下で対比した。
「マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について」Ka-Bataブログ,2022年8月17日。

※3 これを岡橋氏が「変質」と呼ぶ理由は,政府の財政赤字による通貨投入は,商品流通の必要性に応じたものではないからである。なお,ここでは,国債を民間に向けて売り出した場合と日銀引き受けとした場合とでどのような相違があるかについては触れなかった。この点では岡橋説と拙論は異なってくるが,それはまた別の論点となる。







2022年8月17日水曜日

マルクス派信用貨幣論とMMT:その一致点と相違点について

1 問題の所在:マルクス派信用貨幣論とMMTが対話する必要性

 私は,現代の貨幣のほとんどを信用貨幣,すなわち流通する債務証書として説明する立場である。この立場は,近年台頭している現代貨幣理論(MMT)も唱えるところである。ただし,私の立脚点は,貨幣と金融システムについては,日本のマルクス経済学で発達した信用貨幣論である(※)。マルクスは信用貨幣論とMMTには重なるところもあるが異なるところもある。以下のノートは,私が理解するマルクス派信用貨幣論の論理を説明し,それがMMTとどこが一致し,どこが異なるかを明らかにしようとする試みである。その目的はMMTを論破して否定することではない。私はMMTが,主流派経済学の問題点を衝き,ケインズ派の財政政策を創造的に発展させようとしていることに肯定的な立場である。そして,MMTの理論的な創造性は信用貨幣論にあると考えている。理論的対話を通して信用貨幣論という共通の財産を育てることが,このノートの目的である。
 あらかじめ要約しておくと,マルクス派信用貨幣論とMMTの,理論の深いところでの相違点は以下の2点である
 1)マルクス派信用貨幣論は,資本主義経済を説明する際に,価値を持った特殊な商品が貨幣になるという商品貨幣論から出発したうえで,貨幣の発達の結果として信用貨幣がもっぱら流通するようになると考える。対してMMTは,商品貨幣論を誤りとして否定したうえで,理論の出発点から信用貨幣論に依拠しようとする。
 2)マルクス派信用貨幣論は,通貨が流通する根拠をまずは民間経済に求め,これを補完するものとして政府を位置づける。対してMMTは,現代の金融の動きは信用貨幣論で説明するが,通貨が流通する根拠は「租税が通貨を起動する」という表券主義によって説明する。
 以下,詳しく見よう。

2 マルクス派信用貨幣論の論理構成

 まず,あまり一般には知られていない,マルクス派信用貨幣論の基本論理を,私の理解によって説明しよう。

(1)商品貨幣から出発し,信用貨幣を説明する
 マルクス派は,価値を持った特殊な商品=金などが貨幣として用いられることを基本モデルに置く。つまりマルクス派の基本モデルは商品貨幣論である。しかし,この商品貨幣が,発達した資本主義では流通せずともよくなり,通貨の大半が信用貨幣になるという重層的理論構成をとる。発達した資本主義を説明するには,まず商品貨幣からはじめ,手形を説明し,貸し付けを説明し,産業資本のみならず銀行資本の存在を踏まえた説明することが必要である。そうして,発達した信用機構が,プリミティブなモデルでは必要とされる商品貨幣の流通を,もはや必要としなくなる理由をも説明するのである。
 なお,ここでいう基本モデルとは,「かつてはそうだった」という時間的先行性を表すのではなく,あくまでも現在の資本主義経済を説明する際の,論理的に出発点となるモデルのことであることに注意して欲しい。これはMMTの説明との対比で重要な意味を持つ。
 さて,商品流通の発達とともに,貨幣の代用物が様々に用いられるようになるが,とくに注目すべきは,商業手形が貨幣の支払い手段機能を果たすようになることである。商業手形は商品の購入にあたって債務者が振り出すもので,債権者を起点として一定範囲で流通する。そして,通貨による返済や債権債務の相殺によって決済される。手形が普及した経済では,債務証書で支払うことや,財・サービス購入をしてから,事後に決済することが可能になる。さらに,信用機構が発達し,利子を取ることを追求する銀行資本が登場すると,銀行が手形を発行する。すなわち,当座性預金と銀行券である。当座性預金は,銀行が企業に対して貸し付けを行う際と,商業手形の割引を行う際に設定される。当座性預金を企業が引き出すと預金が減額され,その分だけ銀行券が発券される。貸し付けが返済されれば銀行券も当座性預金も消滅する。預金や銀行券も手形原理に依拠しているが,購買の際ではなく,信用供与の際に発行されるところ,一覧払であるところが独自の特徴である。当座性預金や銀行券は正貨を代用する購買手段や支払い手段となり,また,インフレーションというリスクを抱えるので不完全ではあるが,価値保蔵手段ともなる。
 さらに,一社会全体の支払い決済と信用供与システムを維持するために中央銀行が成立すると,中央銀行当座預金と中央銀行券が成立する。多くの場合,銀行券の発券は中央銀行に集中される。商業手形は流通範囲が狭く,信用供与期間が短く,企業間流通にしか用いられないため通常は通貨と認められないが,より信用度が高く一般的流通に投じられる当座性預金や中央銀行券は通貨と認められる。中央銀行当座預金は一般には流通しないが,銀行間の決済と銀行への信用供与を通して一社会の金融システムを統一し,支える。

(2)管理通貨制度においても,信用貨幣は決済可能である
 それでは,管理通貨制度の下で,金貨などの正貨流通が停止されると,信用貨幣は流通できなくなるのであろうか。マルクス派の中にも,そのように考える研究者はいる。金本位制の下では銀行券は信用貨幣だが,金兌換が停止されれば信用貨幣ではなくなるというのである。この見解では,現在流通している預金通貨や中央銀行券は国家が強制通用力を付与した価値シンボルだとされる。しかし,正貨流通が停止されても,信用貨幣は信用貨幣のままだというのがマルクス派の信用貨幣論である。
 正貨流通が停止されるというのは,具体的には預金や銀行券が金兌換されないということである。では,金兌換されない預金や中央銀行券が,どうして信用貨幣なのだろうか。それは,信用貨幣に表されている債務の決済方法が元々複数あり,正貨での決済はそのうちの一つに過ぎないからである。
 債務としての信用貨幣を決済する方法は,3通りある。第一に,正貨との交換(正貨による債務の返済)である。兌換紙幣の金兌換はこれに該当する。第二に,債権・債務の相殺である。中央銀行や民間銀行の口座内で債務と債権が相殺されれば一方的返済は必要なくなる。また,信用貨幣を用いた貸し付けを信用貨幣で返済することも一種の相殺である。例えば銀行から預金通貨で借り入れを行った企業は,借り入れを行ったという点で債務者である。と同時に,当該銀行の預金を所持しているという点で銀行に対する債権を保持している。この借入を預金通貨を用いて返済するのは,債権と債務を帳消しにする行為と理解できる。第三に,債務を,債務者の債務よりもより信用度の高い債務証書で返済することである。債務には,債務の流通する範囲による階層性が存在する。個人の債務よりは企業の債務(手形など),企業の債務よりは銀行の債務(当座性預金や銀行券),銀行の債務よりは中央銀行の債務(中央銀行当座預金や中央銀行券)の方が流通する範囲が広い。この関係を利用し,個人や企業の債務は,債権者に対してより上位の債務,例えば銀行預金や中央銀行券を引き渡すことで決済できるのであり,銀行が他行や中央銀行に負う債務は,中央銀行当座預金や中央銀行券で決済できるのである。
 管理通貨制度の下では正貨流通が停止しており,兌換は行われない。しかし,債権債務の相殺や,より信用度の高い債務証書への置き換えは可能である。なので,預金通貨や中央銀行券は,管理通貨制度でも依然として信用貨幣としての機能を果たすのである。この機能を安定させるために必要なことは,悪性インフレーションの防止であり,債務の階層構造の安定である。

3 マルクス信用貨幣論とMMTの違い

(1)MMTの特徴:表券主義
 さて,上記のマルクス派信用貨幣論とMMTは,現に流通している預金通貨や銀行券が信用貨幣だとするところ,債務の階層(ピラミッド)構造による決済を認めることでは一致している。大きく異なるのは,マルクス派は信用貨幣の流通根拠を債務の決済可能性に求めていることであり,それは民間経済内部で可能になっているとすることである。対して,MMTは通貨の流通根拠を表券主義で説明する。政府が国民なり住民なりの人々に対して租税債務を課し,その租税債務の支払いに使えるものとして通貨を発行し,流通させるのだというのである。租税債務の支払いに用いることができること,その可能性を政府が保証することが,通貨の流通根拠なのである。
 私は,租税債務の支払いに用いられることが,法定通貨の流通根拠の一つでありうることは否定しない。マルクス派の理論構造になかには,これを否定するものはない。しかしマルクス派の信用貨幣論では,信用貨幣生成の論理の中に流通根拠が含まれているので,表券主義を必要としないのである。
 この両説の違いには,どのような理論的背景があるのか。

(2)共時的・論理的説明と通時的・歴史的説明
 まず,マルクス派は,現代の通貨の流通根拠を,共時的に,現在のシステムが成り立っている論理的説明として行うのに対して,MMTは,過去から現在に向かっての通時的・歴史的説明として行うという違いがある。
 マルクス派の内部でもこの二つの説明方法については長年の論争があるが,信用貨幣論が依拠するのは共時的・論理的説明である。説明すべきは現代の通貨であり,現代とはつまり資本主義社会であり,管理通貨制度である。管理通貨制度を,より抽象的なモデルから具体的なモデルへという順序で,商品通貨から出発し,商品経済における手形の論理を加え,さらに資本主義経済における貸し付けの論理を加えて,実際の複雑な金融システムを説明しようとするのである。
 対してMMTは,前資本主義社会や資本主義社会の初期に商品通貨が用いられていたことを否定し,過去から現在まで政府が租税支払いに使えるものとして発行した政府通貨が用いられてきたことを,現代の資本主義経済における通貨の流通根拠の説明に用いようとする。歴史的に,政府通貨が租税支払いにもちいられてきたことが現在の通貨の表券主義的説明の根拠なのである。
 ここに両説の違いがある。私は,説明の仕方として,現在のシステムが成り立っている根拠は,あくまでも現在のシステムの論理的説明によるべきであり,システム成立の歴史的経過の説明によるべきではないと考える。

(3)信用貨幣論による説明と表券主義による説明
 次に,マルクス派は信用貨幣論から出発し,信用すなわち債権債務の決済の論理で通貨の流通根拠を論じる。対して,MMTは貨幣本質論措定は信用貨幣論なのだが,通貨流通根拠論になると表券主義を強調する。MMT派はそうは考えていないであろうが,私には信用貨幣論と表券主義は異なるものであり,MMTは二元論的説明を行っていると思える。
 信用貨幣とは,流通する債務証書が貨幣の役割を果たすものである。それが流通するのは,債務証書が債務証書として健全だからであり,端的にいって決済が可能だからである。したがって信用貨幣の流通根拠は,債務証書としての決済可能性に求めなければならない。私の意見では,それが上記の三つの方法であり,管理通貨制度の下ではそのうち二つが機能しているということである。
 MMTの表券主義は,租税債務の支払いに使えることを通貨流通の根拠としている。しかし,それならば,信用貨幣でなくとも,国家が強制通用力を付与した価値シンボルでよいはずである。政府の債務としてでなく資産として発行する通貨でもよい。中央銀行券でなく国家紙幣やコインでもよいはずである。いずれでも租税債務の支払い手段として認めることは可能である。
 つまり,MMTの主張する表券主義の政府通貨は,必ずしも信用貨幣でなくともよい。表券主義の基本論理は,信用貨幣論を必要としていないのである。MMTは,租税債務の論理を信用貨幣論と接続させているようであるが,私の見るところ,その接続は十分ではない。信用貨幣とは,債務を負う側が発行する債務証書である。しかし租税の場合,債務を負うのは人々であり,通貨を発行するのは国家の方である。これでは,政府の債務としての信用貨幣の成立を説明することにはならない。政府通貨は信用貨幣でなくても成り立つのである。
 マルクス派信用貨幣論は,現代の通貨の流通根拠自体を信用貨幣論によって説明する。信用貨幣が生成する論理の中で信用貨幣の流通根拠も説明するのである。対してMMTは,現代の金融システムの説明には信用貨幣論を駆使するが,通貨の流通根拠自体はそれとは別に表券主義で説明する。以上が両説の違いである。私は,表券主義による説明自体について否定するものではないが,信用貨幣論を駆使するのであれば,信用貨幣の流通根拠は,信用貨幣生成の論理の中で明らかにすべきだと考えている。

※マルクス派信用貨幣論の中にもまたヴァラエティがあるが,ここでとくに念頭に置いているのは,岡橋保,村岡俊三,吉田暁,松本朗の学説である。本ノートで記したことはこれらの先学に多くを負っている。ただし,いずれとも完全に一致するわけではない。

※このノートを書いた後,類似の問題意識による飯田和人「MMTおよび内生的貨幣供給論における貨幣把握について-現代貨幣の流通根拠を巡って-」『政経論叢』90(1/2),2022年(飯田和人『現代貨幣論と金融経済:現代資本主義における価値・価格および利潤』日本経済評論社,2022年に収録)が発表されていることを知った。拙論とは見解が異なるが,参考になる。

続編:「続・マルクス派信用貨幣論とMMTの対比:信用貨幣の流通根拠は手形が債権債務の相殺機能を持つことか,それとも納税に使える国定貨幣であることか」Ka-Bataブログ,2022年9月8日。

2022年5月22日日曜日

一致点と相違点が明らかになった,公共貨幣論との対話

 下田氏より再びリプライをいただいた。今回の,信用貨幣システムの理解については,ほぼ異論はない。拙論を理解いただいたところもあり,対話の甲斐があったと思う。

 景気循環におけるポジティブ・フィードバックについては,私自身の課題を痛感する。それがあることはまちがいないが,なぜ,どのようにおこるのかについて,つまり通常用語でいう景気循環論,マルクス派の言う恐慌論についての私の研究が不足しているからである。そのため,氏との対話も,この点では今すぐに深められない。最終消費需要,生産財需要,在庫投機,信用膨張による架空需要の創造,そして金融資産投機がどのようにからみあって景気循環の振幅を大きくするかについては,経済学に膨大な蓄積がある。その中で,いま下田氏と対話している貨幣・信用論との関係では,どのような論じ方が肝心なのか。たとえば設備投資の循環を重視すべきか,金融不安定化理論を重視すべきか,双方の関係はどうみるべきか。これについて,私にまだ断じる力がない。マルクス派の信用恐慌論やミンスキーの金融不安定化理論をもっと学ばねばならない。

 下田氏は,信用貨幣システムを自由放任にすれば景気循環の振幅は止められないことをたびたび強調されているが,まったくそのとおりで,何も異論はない。だから,信用貨幣システムを批判的に研究しなければならないと私も考えているのであって,擁護しているのでは全くない。現状の信用貨幣システムの理解については,氏と私のはだいぶ埋まったように思う。意見の違いは,その問題点を克服するための,有効かつ実行可能な新しいシステムとは何かというところにある。

 氏が今回,「公共貨幣システムも債務貨幣システム(信用貨幣システム)も,同様に貨幣的インフレの危険があるとすれば,そもそも景気の上下動を増長させる要因が存在しない公共貨幣システムを選択すべきである」というところは同意できないが,理由はすでに述べているので新しく付け加えることはない。前回書いた通り,公共貨幣システムには,金融システムにおいて通貨供給の構造的不足によるデフレ不況バイアスがあり,財政システムにおいて適正供給量の決定と供給の柔軟性における問題があると私は考えている。この点についての,公共貨幣論の新たな展開をお待ちしたい。

 現時点では,下田氏も私も,言うべきことは言い,一致点と相違点,また相違点で意見が違っている理由を明らかにできたとみてよいと思う。この対話の全体を公共貨幣フォーラムの皆様や公共貨幣論,MMTに関心を持つ皆様に見ていただき,研究の足しにしていただければと思う。私も,よりよい経済政策とは何か,信用貨幣システムをどう改革するかについて,もっと研鑽を積まねばならない。

<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論,再々批判,再々反論は以下の通りである。再々反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。

・川端望「公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待」2022年5月9日。

・下田直能「信用貨幣システムにおける内生的通貨供給と外生的通貨供給の関係」


2022年5月9日月曜日

公共貨幣論への再批判・再反論・要望と期待

 下田直能氏の著書に対する論評に対して反論を賜り,それに対して再度のコメントを行ったが,このたび「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」と題された再反論を賜った。引き続きの真摯なご対応に感謝したい。

 互いの主張が明確になったことや,これ以降は私自身がもっと掘り下げて研究してから主張しなければならない部分もあると思う。そうした点については,双方の見解を読者や公共貨幣フォーラムの皆様方にご覧いただき,判断して頂ければと思う。ここでは,それでもなお話を続けた方がよいと思うところを掘り下げる。まず,公共貨幣システムへの批判をめぐる対話を深め,続いて拙論が想定した現行の信用貨幣システムについての氏の批判的論評に答えたい。

Ⅰ 公共貨幣システムは通貨の適正量を柔軟に供給できるか

 今回下田氏が提示された「図2 人間の欲求水準と商品需要量・流通貨幣量の関係」は,貨幣流通を必須とする資本主義社会における景気循環をどう見るかという,経済学の核心的な問題に触れている。物事の根本を考えようとされる氏の姿勢には頭が下がるばかりである。ただそれだけに,私はこの領域へのアプローチをはもう少し慎重にしたい。

 人間の欲望に対して,商品・貨幣を用いた経済システムによってどのように応じるかとなると,流通面では市場経済,生産面ではおおむね資本主義的生産を通して応じることになるだろう。もちろん部分的には公営企業や協同組合や自営業やNPOも活用される。また,市場の失敗がある領域では,公的財政を通した供給も行われる。それでも市場と資本主義企業は中心に座らざるを得ない。

 このとき,生産や販売や購買を個人の私的意思決定に委ねると,個人にはそれらに関する自由が保障されるが,生産の過剰や不足,格差や貧困が生じる。これではよくないと言うので代替的な経済システムが構想され,20世紀の一時期は集権的計画経済が試みられたが挫折した。それでもなお,別の方法が種々模索されているのが現状であろう。公共貨幣もそのひとつだし,MMTが,自らの貨幣理論とケインズの再解釈を結び付けて,反貧困政策やグリーンニューデイールをめざすのもそうである。

 さて,公共貨幣システムが実現すると,通貨供給のうち,金融システム経由のものは100%準備制度により大きく絞ることになる。これによってバブルを抑制し,金融業者の利益追求を制限する。そのかわり,財政システムで公共貨幣を供給することになる。

 私が公共貨幣に対して抱く最大の疑問は,この財政システムによる供給によって,下田氏が図2に描くような人間の欲求水準の動きを正しく判断し,過不足ない通貨供給が実現できるのかというところにある。下田氏は「もちろん、それがきわめて容易だというつもりはないが、世の経済学者の知見を集めて、そのオープンな議論を通じて、適切なモデルを元にシミュレーションを行えば、適正な通貨量の推定はさほど難しいことではない。これを適切な物価目標(日銀によると2%)を基準にモデルを暦年修正していけば、適切な貨幣量を維持することは十分に可能であり、そのモデルは国民の財産となる」と言われるが,私にはこれで説得力があるとは思えない。集権的計画経済における財の生産量決定ほどではないにせよ,やはり相当な困難に突き当たると思う。

 すでに論評を一通り行い,下田氏からの反論も得られたので,今後,公共貨幣論の研究成果を待ってより具体的に考えることとしたいし,私自身も公共貨幣論より有効な経済政策を自ら提示できるように研究したい。ここでは,公共貨幣論に検討していただきたい論点を二つだけ挙げておく。繰り返すが,これは公共貨幣論を全否定する批判ではなく,これらの論点についてより説得力のある研究成果を期待するという意味にとって欲しい。

1.これまでも書いたが,企業からの貨幣の需要はさまざまである。設備投資資金,運転資金,決済資金などの需要が日々の事業の変動の中で発生する。その需要を見極め,適切な条件で柔軟に供給する機能を,銀行の信用創造から取り上げてしまった場合,これを財政による供給で代替できるのか。公共貨幣の供給システムは,一方で下田氏が強調されるように民主主義的であり得る。他方で,いかに分権化しても,銀行システムよりは集権的になるだろう。すると,まず適正量の決定という点では,財政による供給で金融市場での需要の見極めを代替することは難しくないか。次に,需要変動への柔軟な反応という点では,むしろ民主主義的に行うがゆえに,素早い対応が難しくないか。つまり,弊害はあるとしても効率的である市場メカニズムに対して,公共貨幣は民主主義的であるという点で政治的に魅力的であっても効率性を欠くのではないかという点である。

2.次に,本質的に上記と同じ論点だが,より具体的に公共貨幣システムの仕組みに即して述べよう。財政による公共貨幣の新規投入分は,直接には公的事業や公共性の高い民間事業に対してのみ行うとされている(下田著,pp. 131-133)。そして,間接的にこの公共貨幣がその他の民間部門に流れていくのである。これは財政のありかただけを考えるともっともだが,他方で政府が「その他の民間部門」の通貨ニーズに直接は反応できないということでもある。公的事業等に支出する必要性は,現行の財政システムと同様に判断できるだろう。しかし,「その他の民間部門」の通貨ニーズに間接的に応じるというのは,かなり難しくなる。また,公共事業は縮小しなければならない情勢だが「その他の民間部門」の通貨ニーズは高いとか,その逆であるというように,両者が競合する場合はどうするのかという問題もある。この仕組みを踏まえて考えると,通貨供給の適正量の判断と柔軟な調節は,いよいよ難しくならないか。

Ⅱ 現行の信用貨幣システムをめぐる論点

 以下の2点は私の貨幣論に対する下田氏からの批判に再度答えるものであり,むしろ私からの再反論と言うことになる。

1.貨幣的インフレーションとそれ以外の物価上昇の区別について

 下田氏は「流通貨幣量と商品需要量の自動的な調整・均衡が、貨幣的インフレ・デフレを防止するとは必ずしも言い切れない。というのは、実際の銀行貸付による信用創造は、実体経済への資金の投入だけを目的に行われるとは限らないからである」として,不動産投機を例に挙げ,不動産価格の急激な上昇を「一種の貨幣的インフレ」としている。この批判に答えたい。

 まず,商品流通に必要な貨幣量が,貨幣的インフレーションを起こすことなく金融システムによって調節されるのは,財・サービスの流通に必要な貨幣量に関する限りである。これを私は繰り返し記述しているので,確かめていただきたい。

 問題は,財・サービスの流通に必要な貨幣ではなく,金融的流通のために企業や証券会社が借り入れを行う(銀行から見れば信用創造で預金通貨を供給する)場合である。それが行き過ぎればバブルを引き起こす。このことも私は繰り返し指摘している。だから信用創造システムの問題点はバブルを起こしやすいことなのであり,これは下田氏と私が本来共有する視点である。

 しかし,これは貨幣的インフレーション,すなわち貨幣価値切り下げによる名目的物価上昇ではないのである。そうではなく,金融資産に限っての価格上昇である。この二つ,すなわち実体経済のインフレとバブルとは区別しなければならない。

 下田氏が例示するように,このバブルが不動産について起きると,確かに事態は複雑である。というのは土地は消費も生産もできないが価格がつくという独自な商品であるし,土地も建物もまったく実体経済とかけ離れた金融資産ではなく,それが実用に供される時には実体経済の価格に入り込むからである。なので,ここでいくつかの場合に分けて考えてみよう。

 まず,不動産が実用に供されず,投機のための売買が延々と,バブル崩壊まで続く場合である。これは,土地・建物価格だけの上昇であって,その影響は実体経済での物価に及ばない。これは貨幣的インフレではなく,金融資産化してしまった土地・建物,あるいはそこから派生した証券の値上がりである。つまりはバブルである。

 次に,土地・建物に対して住宅やオフィスと言った実体的な需要が生じた場合である。ここから道はさらに二つに分かれる。もしも実需に対して対応する通貨供給がなされなければ(例えば金融機関が,オフィス取得へのローンや住宅ローンに対して慎重であれば),値上がりした不動産価格は実現されず,土地や建物は売れ残る。価格が下がることだろう。あるいは実需には回らず,金融資産として投機だけが続くだろう。この時,実体経済での物価上昇は起こらない。

 もしも実需に対応する通貨供給がなされれば,高い不動産価格も実現する。これは実体経済における物価上昇である。ただし,需給バランスによる一時的上昇と,コストアップを反映した実質的価格上昇という二つの性格を持つ上昇である。貨幣的インフレーション=通貨価値が切り下がっての名目的物価上昇とは異なる。

 これらは,日常用語でいうインフレーションでは区別がつかない。日常用語では,インフレーションは単に持続的物価上昇と定義されるからである。しかし貨幣理論を論じる際には,貨幣的インフレーション,一時的需給関係による物価上昇,コストアップによる実質的物価上昇は区別されねばならない。それは単に言葉の問題ではなく,通貨当局が物価対策を正しく行うためにも必要なのである。

2.内生的通貨供給という用語の意義について

 内生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給するのではなく,直接には民間の経済主体による行動によって通貨が供給されるのだ」という意味である。だから現行の信用貨幣システムにおける金融システムでは,銀行から見れば貸付けと回収,企業から見れば借り入れと返済を通して内生的に通貨が供給される,金融システムを通した通貨供給は内生的である。中央銀行が行えるのは,金融政策でこれを間接的に調整することだけである。

 外生的通貨供給というのは,「政策当局が直接に,あるいは実質的に通貨を供給できるのだ」ということである。財政システムを通した通貨供給は,政府が財政支出によって通貨供給を増やし,課税によって減らすことができるのだから外生的である。国債発行ルールはこれを制約するが,その制約が中央銀行というもう一つの政策当局による買いオペレーションで緩められていることは,下田氏もご承知と思う。

 下田氏は,内生的,外生的と言う言葉があいまいで混乱の下だと指摘される。たしかに,経済学者でもこの用語のニュアンスの理解がズレて議論がすれ違うことはあるから,そのご不満はわからないでもない。しかし,この用語は,現行の信用貨幣システムを正確に理解する上で重要なのである。一般論としてだけでなく,私にとっても公共貨幣論にとっても必要であると思う。

 というのは,主流派経済学は現行の通貨システムが信用貨幣システムであることを理解せず,「政府当局が経済に対して通貨を供給する。その調整は政府当局によって可能である」という命題を出発点に金融政策を考えているからである。この主流派経済学の誤りは山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』でも前半部で説明されていたはずであり,私も同意するところである。例えば,アベノミクス(黒田日銀路線)では,日銀が大量に買いオペレーションをすれば通貨供給が増えるはずだという,主流派経済学の誤った想定に基づいてリフレーション政策が行われて来たのである。

 現行通貨システムが信用貨幣システムであることを認め,これを正確に認識した上で,その問題点を改革しようという姿勢は,公共貨幣論も私も同じである。そうであれば,現行システムの誤った理解をただすために,「金融システムを通した通貨供給は外生的なものではなく,通貨当局の意図で自由に変えられるものではないのだ」という指摘の仕方が必要なのである。よって私は,「外生的・内生的」と言う対概念の必要性を再度強調したい。

Ⅲ 公共貨幣論への要望・期待と私自身の課題

 現行の信用貨幣システムでは,金融システム経由の通貨供給は内生的に貸し付けと返済,すなわち預金通貨の創造と収縮を通して行われ,財政システム経由の通貨供給は外生的に支出と課税によって行われる。金融システムを通した通貨供給は,1)貨幣的インフレーションを起こすことなく,商品の流通に必要な貨幣供給量を調節する。しかし,2)商品流通から外れた金融的流通のための貨幣供給や,3)使われずに遊休してしまう貨幣供給も実現してしまう。前者はバブル,後者は不況を生む。

 私は,ここまでの認識では,ほんらい公共貨幣論も私も一致できると私も思っている。ただ下田氏は,私が2)3)の弊害だけでなく1)の利点を強調して,公共貨幣論が1)を停止させることを批判しているのがひっかかるらしく,1)はそんなに役に立たないものなのだと強調されたいのだと思う。しかし,それは貨幣理論として適切でないというのが,私の反論である。

 私は,公共貨幣論に対し,改めて信用貨幣システムの機能として1)を認識いただくことを要望する。また,公共貨幣論が説得力を上げるには,たとえ1)の機能を停止しても,財政システムを通した公共貨幣の供給でよりよく代替できること,通貨供給量を適正に,また柔軟に調節できることを示すことが必要だと思う。そのような研究成果をお待ちする。他方で,私自身は,信用貨幣システムを前提としながら2)や3)をどう制御していくのかについて,もっと考えてみたいと思う。


<注>

*下田氏との対話以前の私の公共貨幣論批判は以下の2点である。松尾氏らは公共貨幣フォーラムのメンバーではないと思うが,信用創造廃止論の理論構造はおおむね山口薫氏・山口陽恵氏や下田氏と同じと思う。

・川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」2021年12月18日。

・川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」2022年4月11日。

下田直能『お金は銀行が創っているの?』に対し,私が公共貨幣論批判まとめとして述べたのが以下の投稿である。

・川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」2022年4月28日(2022年4月20日Facebook投稿を再現したもの)。

 これに対する,下田氏の反論,私の再批判,下田氏の再反論は以下の通りである。再反論にさらに応じたのが本記事である。

・下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。

・川端望「内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して」2022年4月29日。

・下田直能「商品需要量・流通貨幣量の均衡自体の乱高下」2022年5月3日。




2022年4月29日金曜日

内生的通貨供給の機能と公共貨幣論批判:下田直能氏の反論に接して

  公共貨幣論に対する私の批判に対して,『お金は銀行が創っているの?』の著者である下田直能氏から反論を賜った(※1)。丁寧なご対応に感謝したい。下田氏の反論は,貨幣流通に関する核心に触れるものであり,拙論との違いを掘り下げていくことにより,重要な論点の解明につながることが期待できる。以下,下田氏との対話を試みる。

1.公共貨幣論批判に応じることを希望する

 まず,今回,下田氏が私の公共貨幣論批判に正面から答えていないことは残念である。信用創造はバブルを生み出す。しかし,だからといって信用創造を廃止すると,財・サービスの流通に必要な通貨が貸付けによって供給され,不要になれば返済によって流通から引き上げられるという,金融システムの機能が失われる。公共貨幣システムでは,その分を財政システムを通した公共貨幣の散布で代替しようとするが,それでは必要な通貨供給量を適正に定め,また柔軟に調節できないだろう。これが私の批判である。今回,下田氏がこの批判に対して,公共貨幣システムは機能し得るのだと正面から反論していないことは,何とも残念な限りである。次の機会を期待したい。

2.自動調節機能は景気循環を和らげるものではなく,商品流通量と貨幣流通量を対応させるもの

(1)自動調節機能はポジティブ・フィードバックと両立する

 今回,下田氏の拙論批判は二つの点にまたがっている。まず一つ目は,自動調節機能はポジティブ・フィードバックの一局面であり,川端は他の局面を見落としているというものである。

 川端は財・サービスの流通の必要に対して流通貨幣量が受動的に対応するというが,それは現実の経済の動きの半面に過ぎないと,下田氏は言う。逆の側面もあり,むしろ,ポジティブ・フィードバックによって「『商品需要量⇒流通貨幣量⇒商品需要量⇒流通貨幣量・・・』の無限ループを構成する」というのである。「好況時には『商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加⇒商品需要量の増加⇒流通貨幣量の増加・・・』となり,何かの要因でそれが逆回転を始めると『商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少⇒商品需要量の減少⇒流通貨幣量の減少・・・』へと転換する」。信用創造による貨幣供給は,このポジティブ・フィードバックを加速させるのであり,自動調節するばかりではないと,下田氏は言うのである。

 再反論の前に,ここでは,話が金融システムによる通貨供給に限られており,また財・サービスの流通に限られていることに注意しよう。下田氏は今回の拙論批判では,貨幣の増減と対応するのが商品需要量の増減だけになっており,金融資産バブルを想定していないからである。

 さて,下田氏は私が「自動調節」と言ったことを,商品需要量が先に増えて,流通貨幣量が後からそれに適応するものと理解されているようである。しかし,それは誤解である。そうではなく,商品流通量と貨幣流通量がバランスし(※2),通貨が価値の変動を蒙らずに商品流通を媒介することを「内生的供給」ないし「自動調節」と呼んでいるのである。

 下田氏は図1を提示し,私が「商品需要量→流通貨幣量」という因果関係だけを見て,「流通貨幣量→商品需要量」という関係を見ていないと批判される。しかし,下田氏自身がここで図示されているように,どちらの因果関係であっても,結局,商品需要量と流通貨幣量はバランスしようとする。商品需要がその分だけ信用創造による通貨供給をもたらし,信用創造による通貨供給が商品需要を裏付けるのだから当然である。そして商品の需要が,在庫からの調達や生産の拡大によって満たされれば,商品流通量と流通貨幣量もバランスする。

 静態的に,個々の局面から少し遠ざかった価格変動を長い目でみれば,結局商品流通量と流通貨幣量は対応するだろう。下田氏は,いや動態的に,ポジティブ・フィードバックを伴う景気循環を考えれば,商品需要の超過で価格が上がり続ける局面と,逆に供給超過で価格が下がり続ける局面とがあるではないかとおっしゃるかもしれない。しかし,そうした局面でも商品流通の増加が貨幣流通の増加を必要とし,貨幣流通の増加は商品流通の増加を伴うし,縮小には縮小を伴う,という法則性は働いているのであって,それは下田氏自身が主張されていることである。だから,結局,商品流通量と流通貨幣量は互いをバランスさせようとする作用を保っている。私はこのことを「自動調節」と呼んでいるのである。

 逆に言うと,私は,信用創造に景気循環を穏やかにするような「自動調節」機能があると考えているのではない。下田氏は,誤ってそのように読み込まれたようである。しかし,信用創造が景気循環の振幅を激しくし,バブルも生み出すことは私も認めているし,それはよく拙論をご覧いただければわかるはずである。

 商品流通量と通貨供給量を対応させる自動調節は,景気循環のポジティブ・フィードバックと両立する。下田氏の図1は,その意図に反して,ポジティブ・フィードバックの過程全体を通して自動調節が働いていることを示しているのである。

(2)自動調節が働かない公共貨幣システム

 私があえて自動調節という調和的な響きを持つ言葉を使った理由は,それが働かない場合の深刻さを明確にしておくためである。

 まず理論的に説明する。自動調節が働かないとは,貨幣流通量が商品流通量に対応しようとする力が働かなくなることである。その典型はインフレーションである。何らかの理由で,商品総量が増えることなく貨幣のみが追加供給されて商品流通に入り込むと,価格が名目的に切り上がる。言い換えると通貨価値が下落する。これが貨幣的インフレーションである(※3)。貨幣的インフレーションは,遊休設備や失業者がなくなってなお財政支出を続けた場合のように,景気の過熱とともに現れやすい。しかし,不況とともに出現することもあり得る。他方,商品流通量に対して通貨供給が一方的に不足することも考えられ,これは価格の名目的切り下げと言う貨幣的デフレーションを引き起こす力になる。もっとも,この場合は直ちに不況になり,商品流通量の方が縮小する。自動調節が効かないとは,貨幣的インフレや貨幣的デフレが起こることである。

 信用創造のある金融システムには自動調節作用があるため,景気循環のポジティブ・フィードバックは引き起こすが,貨幣的インフレや貨幣的デフレは起こさない。商品と無関係に通貨を供給したり引き上げたりすることはできないからである。たとえ好況期に銀行が貸し込みをするのであっても,借りた企業は設備投資であれ運転資金であれ決済資金であれ,借りたお金を財・サービスの購入に投じるか,すでに購入したものの決済に用いる。だから,通貨供給の増大は商品流通の増大を伴うのであり,一方的に通貨供給だけが増えることはない。同じく銀行融資が縮小すれば財・サービスの購入がそのぶんだけ不可能になって商品流通が縮小するのであり,一方的に通貨供給だけが減ることはないのである(※4)。ここに,金融システムによる通貨供給の内生性,もしくは通貨供給量の自動調節機能の持つ重要な意義がある。

 もしこれを公共貨幣システムに置き換えたならば,どうなるか。一方で100%準備預金制度の金融システムは十分な通貨を供給できない。したがって信用ひっ迫を起こし経済を停滞させるだろう。それを補うために,財政システムを通した公共貨幣の散布で置き換えようとすればどうなるか。適正な通貨量の決定は困難である。おそらく現実に実行すれば,金融ひっ迫を補うために財政は拡張気味に運営されるであろう。金融システムと異なり,財政システムでは通貨の一方的投入が可能である。給付金を考えればわかるだろう。だから,ここには貨幣的インフレのリスクが生じる。このリスクは現行システムにも存在するが,公共貨幣システムでは,信用創造を停止した分の通貨供給を財政で補うため,貨幣的インフレのリスクは,より高くなる(※5)。このように,自動調節機能を失った公共貨幣システムには,金融システムでは信用ひっ迫,財政システムでは高いインフレリスクと言う弱点があるのである。下田氏が,この批判に正面から答えてくださることを,改めて期待したい。

3.「内生的」とは「行政的な意図が介在しないこと」ではない

 さて,下田氏のもう一つの拙論批判に移ろう。それは,金融システムによる通貨供給は内生的とばかりは言えないということである。ここで下田氏は私の使う「内生的」という用語を,「行政的な意図が介在しないことが想定されている」と解釈しており,これに対して日銀は政策的意図をもって金融政策をしているではないかと指摘されている。しかし,ここにも誤解がある。政策的意図があれば外生的,なければ内生的というものではない。外生的とは,経済の外部から,政策当局が通貨供給を実質的に行うことができるという意味である。内生的とは,民間の主体が営む経済の内部に通貨供給量を増減させる要因があるということである。私が言いたいのは,政策当局の意図が介在しようとしまいと,結局,金融システムでは内生的にしか通貨が供給されないことである(※6)。

 下田氏が指摘されるように,今日,不況期の金融政策の実効性は著しく下がっている。少なくとも,金利を低下させて景気を反転させることには全く成功していない。なぜかというと,金利をいくら低めようと,買いオペレーションをいくら行おうと,期待利潤率が著しく低下している企業が,お金を借りようとしないからである。そして金融システムでは,企業が銀行からお金を借りない限り,通貨供給量は増えないからである。これこそが,金融システムによる通貨供給が内生的である証拠ではないか。先ほどと別表現で同じことを言えば,政策当局があれこれの意図をもって通貨を供給することはできないというのが,外生的でなく内生的だという意味なのである。

 もっとも,内生的というのは,政策当局が一切介入できないということではない。日銀が金利を引き上げたり売りオペレーションを盛んに行ったりすれば,銀行の信用創造は制約されるだろう。また,今日の日本と異なり高度成長期の経済であれば,金融緩和によって企業の借り入れ意欲を回復させ,景気のてこ入れをすることも可能であった。その程度の介入ならば可能なのである。しかし,これらは企業の銀行からの借り入れの条件,したがって信用創造による通貨供給の条件を変化させるものではあっても,通貨供給自体を日銀が直接操作するものではない。金融政策に影響を受けるとしても,経済の内部にある企業が銀行からお金を借りなければ通貨供給量は増えず,企業が銀行にお金を返済しなければ通貨供給量は減らないのである。

4.結論と今後の研究課題

 下田氏は,拙論の公共貨幣システム批判に答えていない。また,いただいた批判は,拙論の「自動調節」「内生的」の意味を取り違えたことから来た誤解である。これが今回の結論である。

 しかし,だからといって下田氏の批判は無用なものではない。下田氏との対話を通して,以下の論点が浮かび上がるからである。

 私の述べる通貨の内生的供給と自動調節の政策的含意は,「信用創造にはバブルを生み出すという弊害があるが,貨幣的インフレや貨幣的デフレを起こさないという利点がある」ということである。私は,ここから逆に,「財・サービスの流通に必要な通貨の供給を財政システムに頼る公共貨幣システムでは,適正な通貨供給量の決定とその調整ができない」と批判したのである。私はここまでの拙論は,下田氏の反論でも揺らがなかったと自負している。

 他方,下田氏との対話を通して,通貨の内生的供給は,景気循環におけるポジティブ・フィードバックと両立することを明らかにできた。しかし,両立するということは,これをチェックできるとは限らないということでもある。内生的通貨供給の仕組みは,インフレ防止には役立つが,景気循環のポジティブ・フィードバックによる暴走をチェックする問題は残っているのである。これこそ,下田氏が信用創造の弊害として念頭に置いていることであろう。今回,下田氏が拙論批判で想定されたのは金融資産バブル抜きのポジティブ・フィードバックであったが,今日の景気循環が,むしろ金融資産の膨張と収縮を主要因として激しいポジティブ・フィードバックを発現させ,バブルを金融危機を引き起こしていることは明らかである。

 バブルと金融危機への対処という課題がある限り,信用創造批判が絶えることはない。その意味では,下田氏がポジティブ・フィードバックをどうするのか,それを解決できなければならないのではないか,と問いかけることはもっともなのである。下田氏の答えは公共貨幣である。私はそれに対して「気持ちはわかるが,無理だ」と言わざるを得ない。しかし,「気持ちはわかる」ならばどうすればよいのかという問いは,私自身に突き付けられているのである。この課題の重要性を下田氏と私が共有していることは,最後に確認しておきたい。

※1 下田氏の著書を拝見して私が書いた批判は,当初Facebookにのみ掲載していたが,現在はこのブログにもある以下の文章である。
川端望「公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて」Ka-Bataブログ,2022年4月28日Facebook投稿,2022年4月20日)。
 下田氏の反論は以下の文章である。
下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」下田直能のブログ,2022年4月28日。

※2 正確に言えば,商品流通量を貨幣の平均流通回数で割ると流通貨幣量になるという関係にある。

※3 貨幣的インフレは,需要の一時的超過によって起こる価格上昇や,商品の生産コストの上昇によって起こる価格上昇とは理論的に区別されねばならない。

※4 なお,下田氏の今回の想定を離れれば,企業が借りたお金を金融的流通に投じることもあるし,状況に応じて預金のまま眠らせておくこともあるだろう。その場合,通貨供給が一方的に増えるが,創造された通貨が商品流通を媒介しないので,インフレを起こさない。

※5 「公共貨幣論に対する見解まとめ」では公共貨幣システムでは適正な通貨供給量の決定が困難なところまでは述べたが,インフレリスクには触れていない。公共貨幣論批判の別の投稿である以下の二つで述べている。
川端望「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで」Ka-Bataブログ,2022年12月18日。
川端望「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論」Ka-Bataブログ,2022年4月11日。

※6 なお,ここで日銀が「官」か「民」かという議論には立ち入れないが,私は現在の日銀は半官半民組織と理解しており,おそらく下田氏もそうではないかと思う。そう理解した上で,ここでは政策当局で「も」あるとして論じている。


2022年4月28日木曜日

公共貨幣論に対する見解まとめ:下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年を踏まえて

 下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年。信用創造廃止=公共貨幣論の3冊目だが,言うべきことは,これまで読んだ2冊に対してとほとんど変わらない(※1)。著者は山口薫氏の主宰する公共貨幣フォーラムの理事であり,その主張はおおむね『公共貨幣入門』と同じである。

 まず,私の理解するところでは,現代の管理通貨制度の下での通貨供給原理は,大要以下のようになっている。

*金融システム(中央銀行・銀行)による供給-貸し付け(信用創造)・返済による内生的供給

*財政システム(中央政府)による供給-支出・課税による外生的供給

 なお,銀行以外の金融機関を通して金融仲介は流通界で資金を融通し合うものであり,通貨供給量を変動させない。

 内生的供給というのは,通貨が財・サービスの流通の必要に従って供給され,必要がなくなれば流通から引き上げられるということである。つまり,通貨流通量の自動調整機能が働くことになる。

 ただし,供給された通貨は,財・サービスの流通を媒介せずに遊休したり,もっぱら金融資産の流通に投じられることがある。初めから金融資産への投下を目的として借り入れが行われることもある。これは現金にたいする流動性選好と,他の支出と比較した金融資産への選好によって生じるものだ。遊休(マクロ経済学で言う貯蓄)が強力になると不況となり,金融資産への投下が激しくなるとバブルになる。

 さて,公共貨幣論の主張である。公共貨幣論者は,この不況とバブルの振幅の激しさ,またいずれからも利益を上げる金融機関の利潤追求を問題視する。銀行の信用創造に通貨供給をゆだねると,肝心の市民生活の必要を満たし,これを改善することにお金が回らないというのである。そこで,100%準備預金制度によって信用創造を禁止し,通貨は政府が発行する公共貨幣に置き換えようというのである。

 信用創造を禁止した場合,財・サービスの流通に必要な通貨が金融システムから供給される保証がなくなる。その代わり,財政システムを通して,政府発行の公共貨幣として供給されることになる。そして,いったん財政を通して散布された公共貨幣が,投資信託や定期預金などをとおした金融仲介によって融通される。公共貨幣の供給量は議会制民主主義の下で,ただしある程度独立した委員会システムを通してなされる。これによってバブルを排除するとともに,通貨の追加供給はすべて財政支出から始まることにすることで,市民生活の校正を高め,公共財・サービスの供給に資する通貨供給を実現しようというのである。以上が公共貨幣論の主張である。

 公共貨幣論は,銀行の不労所得を排して,通貨供給量を民主的に決定するということから,リベラルの一部に支持されている。しかし,私はMMT派のランダル・レイとともに,「気持ちはわかるが,無理だ」と思う。財・サービスの流通に必要な通貨量の決定は,政治的・行政的に決定することはあまりに困難が大きい。設備投資資金,運転資金,決済資金などの多様な需要を,銀行業の貸し出し現場ではなく政府の委員会が推計することに無理があるし,予算システムによって通貨供給を決定するのでは柔軟性がない。率直に言って,計画経済と同様の困難に陥るだろう。

 この困難は,財・サービスの流通に必要な通貨量の自動調節機能を破棄することから来る。公共貨幣論は,市場経済を廃絶しようとするものではないはずだ。そうであるならば,市場経済の調整機能の優れた部分を排除してしまって,経済改革の困難のハードルを高めるのは得策ではないだろう。

 問題は信用創造がバブルを生むことにあり,バブルにお金が回って市民生活に回らないことにある。この問題の解決のためには,金融システムにおける通貨の内生的供給機能を維持しながら,バブルを起こさない規制を確立していくこと,金融政策では対応できない不況には財政政策で臨むことが,現実的な選択肢と思う。

 たいへんラディカルでない,漸進主義的なことを書いたが,この論点に関する私の考えは以上のとおりである。


下田直能『お金は銀行が創っているの?』同時代社,2022年。
版元 http://www.doujidaisya.co.jp/book/b602792.html

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4886839193


※1 以下二つの投稿を参照されたい。

「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」Ka-Bataブログ,2021年12月18日。

「松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う」Ka-Bataブログ,2022年4月11日。

※本稿は2022年4月20日にFacebookに投稿したものの再現です。投稿は下田氏にお知らせし,氏からは以下のようなリプライをいただきました。続いて私からも再論する予定ですが,拙論と下田氏の論を読者が比較対象しやすくするために,ブログですべてご覧いただけるようにいたしました。

下田直能「流通貨幣量「自動調節」機能の弊害」2022年4月28日。




2022年4月11日月曜日

松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』の信用創造廃止論:やはり「気持ちはわかるが,無理だ」と思う

 松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社,2021年。松尾氏と井上氏は信用創造廃止・政府通貨論者らしいと聞いて興味を持ち,読んでみたのだが,その主張が飲みこめなかった。本書には多様な主張が含まれているが,ここでは信用創造廃止論,信用貨幣の廃止と政府通貨の創設論,それとかかわった金融システム・財政システムの改革論の大枠についてのみ対話したい。

 本書の主張には,共感できるところもある。私なりにまとめると,著者たちは現行の金融システムは民間銀行による信用創造によって成り立っていると理解している。私もそう思う。また著者たちは「様々な反緊縮論の共通点は,金融政策でなく財政政策を活用して,人々のための経済政策をやって行こうということであり,そのために一定程度まで財政赤字を出すことはサステナブルだと考えている」から,そこを一致点として確認しようと考えている。この点もまったく賛成である。

 しかし,信用創造廃止の積極的主張をされる時に,どうしてそれがサステナブルだと考えるのかが,よくわからない。十分説明されているとは思えないのである。信用創造廃止論だとどういう価値観に立つことになり,MMT論者だとどういう価値観に,ということは書かれているが,肝心の信用創造廃止後の金融システムがどのように機能するのかが,本書ではわからない。他の本や論文で詳しく論じられているのかもしれないが,本書は一つの作品なのだから,本書だけで概要はつかめるようにしていただきたかった。

 民間銀行による信用創造がある限り,バブルの危険があり,通貨創造で民間銀行が設けてしまうという批判はわかる。批判としてはそのとおりである。しかし,信用創造を失くす,具体的には銀行の貸し出しに100%準備を強制し,信用貨幣は廃止して政府または中央銀行が政府通貨を発行する,というしくみにした場合に,金融システムがどのように貸し出しニーズにこたえるのかがわからない。バブルを引き起こす投機目的の信用創造をシャットアウトするのはいい。しかし,いったいどうやって,民間企業の,投機目的でないまともな借り入れのニーズに応えるのだろう。つまり,設備投資とか運転資金とか決済資金とかの借り入れニーズの変動に,どのように対応するのだろうか。企業が借りたいと言っても,「当行に中央銀行が与えてくれた準備預金の枠を超えたからダメ」と言われるとおしまいであり,あまりに柔軟性がない。中央銀行が銀行に供与する準備預金を調節するにしても,日々の変動に対応できるものではなかろう。信用創造廃止・100%準備預金制度は,信用ひっ迫を起こしやすくすると思う。

 推定になるが,おそらく著者は,そこは政府通貨による財政拡張で補うのだと考えているのだろう。政府通貨による財政拡張の結果,通貨はやがて十分に市中に出回るようになるということだろう(誤読であれば申し訳ないが,ここのところが説明されていないから,本書の主張が飲みこめないのである)。したがって,個人や企業が銀行なり投資銀行なりに,預金なり預け金なりとして持ち込むお金も増える。それを原資にして金融仲介をすれば,信用創造がなくても十分金融システムは機能するということだろう(※)。いわば「銀行から証券へ」「銀行から種々のファイナンス・カンパニーへ」の新しいバージョンともいえる。

 しかし,財政資金を十分散布することを前提に金融仲介をする,というこのしくみには問題がある。まず柔軟性の問題である。原資が財政資金だということは,国会での議決に基づいて,年度単位で編成される予算によって供給されることになる。このような資金は,総量を拡張することは可能であっても,日々のニーズに応じる柔軟性はない。先に述べた準備預金の調節も財政支出の調節も,日々,貸し出しの現場でなされる信用創造の調節に比べると柔軟性は格段に劣るのである。

 次に,自動調節の弱体化の問題である。現行システムにおいては,遊休して証券投資に充てられるお金も,もとをたどれば財政資金として支出されたものか,あるいはどこかの銀行から信用創造によってつくりだされ,誰かに貸し付けられたお金である。このうち後者は,企業や家計が必要であるから借り出したお金である。そして,必要なら何度も借り換えるであろうが,不要になれば最終的に銀行に返済され,消滅する。そういう意味では,財・サービス購入に向けた信用創造による通貨供給は内生的であり,必要なだけ供給され,不要になれば消えるのである。いわば金融システムから供給される通貨供給量は自動調節されるのだ。ただし,投機のための借り入れが行われることがあり,そうすると通貨は金融的流通に回ってしまってバブルが発生する。そこに問題がある。

 対して政府通貨システム・信用創造廃止の下での通貨供給では,どうなるだろうか。金融システムを通した内生的供給は制限されるので,当然,十分な通貨供給を財政システムに依存することになる。財政システムによる通貨供給は,政治的意思決定に基づく外生的なものである。そのため,通貨供給量の自動調整機能は,金融システムより劣っているとみなさざるを得ない。銀行融資の貸し付けと返済によって通貨が膨張・収縮するルートが制限されているからである。一方,財政赤字を許容する財政思想で,民主的意思決定に基づく財政政策を取れば,悪性インフレのリスクが発生する。これ自体は現行システムでも同じであるが,信用創造を廃止して信用貨幣を政府貨幣で置換えた場合,金融システムの縮小を財政システムの拡大で補うから,このリスクは現行システムよりもずっと高くなるだろう。

 また,信用創造を廃止しても,それだけではバブルは根絶できない。財政支出によって十分なお金が市中に出回っているとして,その結果,家計や企業によって金融機関に大量のお金が持ち込まれれば,金融機関は何とかそれを運用して利益を出さねばならない。そうすると,現在のノンバンクや投資銀行と同じく,ハイリスク・ハイリターンの証券での運用や貸し出しに運用が偏るという問題が生じる。サブプライム危機で問題になったような,一つの資産を基礎に資産担保証券を幾重にも発行する手法も,信用創造を禁止しただけではなくせない。政府通貨の供給量を多くすればするほど,こうしたバブルの危険も増す。信用創造廃止だけでバブルを根絶できると期待すべきではない。

 対比してまとめよう。民間銀行による信用創造が可能な現行システムは,通貨が財・サービスの購買に向けられる限り,通貨供給量の自動調整機能を持っている。ただし,金融資産の購買に大量に向かったときに歯止めを失い,バブルとなる。対して信用創造が廃止された政府通貨システムは,金融システムを通したバブルを抑制しやすい代わりに,財・サービスの購買に向かう通貨供給量の自動調整機能が制限される。そのため,信用ひっ迫を起こす危険がある。これを防ぐためには,現行システムよりも財政システムに依存した通貨供給を行わざるを得ない。そうすると,現行システムよりも悪性インフレの危険が高くなる。そして,バブルも根絶できるわけではなく,通貨を供給すればするほどそのリスクは高まる。

 どちらがましかと言えば,私は現行システムを出発点に改革を考える方が現実的に実行可能性が高いと思う。財・サービスの購買に向かう通貨供給量の自動調整機能を維持し,これに依拠し続けた方が,その先の改革の負荷が下がるからである。どの道,反緊縮という方向で改革を行うためには,財政を拡張しなければならず,その際に有効な悪性インフレ対策が不可欠となる。信用創造廃止・政府通貨では,MMTのような信用創造を許容した上での改革に比べて,インフレ抑制の難易度はさらに上がる。それよりは,自動調整機能に依拠しつつ,バブルのコントロール策を考案する方が現実的だろう。信用創造廃止論者に対しては,MMT論者のR. レイがかけた言葉を繰り返さざるを得ないと思う。「気持ちはわかるが,無理だ」。

付記:私は,以前に山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』に対して論評を行ったが,松尾氏や井上氏が本書で書かれていることにも,ほぼそのまま当てはまると思う。違いは,供給された政府通貨によって金融仲介の原資が生まれることを考慮した論評にしたことである。

「山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの」Ka-Bataブログ,2021年12月18日。

※ここで「信用創造」というのは,銀行が貸し出しを行う際に預金通貨が創造され,通貨供給量が増えることを指している。対して「金融仲介」というのは,すでに市中に存在する資金が,それを必要とする企業や家計に融通されることを指している。


松尾匡・井上智洋・高橋真矢『資本主義から脱却せよ 貨幣を人びとの手に取り戻す』光文社,2021年。


2022年3月28日月曜日

遊休貨幣論ノート:ポストコロナの物価を考えるために

 ポストコロナの物価を理論的に考える上での難問は,コロナ以前やコロナ禍で行なわれた財政支出が,今後の物価上昇の遠因となるかどうかである。またもう少し解像度を上げて言うならば,現時点や今後の財政支出の他に,企業や個人の手元に蓄積されている現預金や金融資産が,物価形成に参与していくかどうかである。

 これまで私は,リフレーション論批判,「量的・質的金融緩和」論批判,財政拡大の必要性とその方向性に関する議論を行ってきた。そのために必要な理屈として,マルクスの貨幣流通法則,紙幣流通法則,手形論,信用論,銀行論を学び直して動員し,そこにMMTの考え方も取り込んできた。しかし,インフレが再燃しつつあるポストコロナの物価を考える際には,これらだけでは十分ではない。不足している理論装置の一つが遊休貨幣論である。このノートでは,貨幣流通論における遊休貨幣論の必要性とその位置づけについて,基礎的な論点を提示したい。

 「講義ノート:管理通貨制度における信用貨幣の供給」「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」「講義ノート:管理通貨制度下の貨幣流通,蓄蔵貨幣機能,遊休と金融的流通」で論じたように,管理通貨制の下での貨幣流通の基本的な動きを理解する枠組みは,マルクス派の諸理論を適切に用いることによって構築可能である。「金兌換が停止された世界はマルクス経済学では理解できない」などというのは俗論に過ぎない。

 とりわけ重要なのは,貨幣流通法則,すなわち「価格で見た商品流通総額を貨幣の流通回数で割ることによって,流通に必要な貨幣量が得られる,商品流通総額と貨幣の流通回数が流通に必要な貨幣量を決めるのであって逆ではない」というものである。貨幣流通法則は,現代の信用貨幣である預金通貨と中央銀行券が,金融システムにより,貸付・返済を通して流通に出入りする時には全面的に適用される。他方,これらの通貨が財政システムにより,政府支出・課税を通して流通に出入りする際には,紙幣流通法則も働く。

 金融システムによる通貨供給は貨幣流通法則にのみしたがうものであり,商品の世界からの必要に応じた内生的通貨供給である。したがって名目的物価上昇という意味での貨幣的インフレーションを起こさない。他方,財政支出による供給は紙幣流通法則にもしたがうので,商品総量を所与とした,外生的で一方的通貨供給にもなり得る。実際にそれが起こるかどうかは,財政支出が,失業者の就業,遊休している設備の稼働,滞貨の流通,そして未利用資源の商品化を引き起こすか,それらを起こさずに通貨供給量だけを引き上げるかにかかっている。最後の場合には物価だけが名目的に上昇する貨幣的インフレとなる。なお,ここでマルクスの理論とケインズの理論は重なっている。もちろん,どのような通貨供給によっても,個別的需給不均衡による価格上昇や,生産費上昇による実質的物価上昇は起こり得る(※1)。

 しかし,このように整理した場合でも,なお理解が難しい領域がある。それは遊休貨幣の動きである。21世紀突入以来,日本の大企業が現預金や金融資産を積み上げてきたことはよく知られている。この傾向はコロナ禍でも続いた。そして家計もまた長らく貯蓄超過であり,コロナ禍でも日本全体で見れば現預金を積み上げた。賃金の低下幅を上回って消費が減退し,さらに給付金が支給されたからである。これを理論的に言うならば,一方では,産業企業による,利潤を産業資本に転化するという意味での資本蓄積が停滞しているのであり,他方では,労働者家計を含めて家計内部には相当な格差があり,一定の家計では相当な貯蓄を形成しているのである。これらの滞留する,あるいは金融的流通に向けられている現預金は,貨幣論的には,「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある。これをどのように理解すべきか。

 一方において,これらはマルクス派の言う蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣とは,流通から外部に出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される貨幣である。これを満たすのは,それ自体が価値を持つ,金貨や銀貨などの正貨だけである。預金通貨や中央銀行券は,貨幣流通法則の次元での蓄蔵貨幣にはなり得ない(※2)。

 他方において,滞留する現預金や金融資産は,少なくとも一定期間,財・サービスの物価形成に参与していない。財・サービスの流通を媒介せずにたんす預金や貯蓄性預金として停滞するか,あるいは金融的流通に回り,株式や社債や国債に投じられているからである(※3)。

 管理通貨制度の下で「流通内にあるが財・サービスの流通を媒介していない」状態にある通貨を整合的に取り扱う理論的方向自体は,古くから提起されている。これらを流通内で一時的に休息している休息貨幣と見なすのである(岡橋保『新版 貨幣論』春秋社,1956年)。この規定は,理論的には貨幣流通法則と整合するものであり,本稿の出発点となる規定である。しかし,問題はこの一時的休息,休息貨幣という規定によって通貨供給の動きと物価形成の関係をどこまで把握できるかである。また,一時的に休息し得るということは,管理通貨制の下での預金通貨や中央銀行券にも一時的な価値保蔵機能が認められるということである。蓄蔵貨幣にはなり得ないが一時的な価値保蔵機能を持つとはどういうことか。

 まずは休息について考えよう。「一時的休息」という規定は,結局は動き出して財・サービスの流通を媒介するというニュアンスを持つ。しかし,現代の資本主義では,この休息する貨幣の量が大きく,休息する期間が長くなり,経済全体への影響が無視できなくなる傾向にある。なぜなら資本主義の成熟とともに,産業資本は投資機会を見つけにくくなって法人貯蓄を積み上げ,家計の一部も貯蓄を形成するからである。これらの貯蓄は現時点では物価形成に参与していない。しかし,今後もしばらく参与しないのか,結局は参与するのか。また参与するにしても,いつどのようなタイミングと方法で参与するか,例えばリベンジ消費か設備投資か在庫積み上げか,何に対する消費や投資か。これらは重要な問題であるが,「一時的休息」という規定だけから直接に答えることはできない。

 とくに問題なのは,財政赤字によって外生的に投入された通貨の行方である。ある時点で財政の一方的拡大が行われても,支出のかなりの部分がいったん遊休貨幣ないし休息貨幣となったとする。その中には家計の所得としての遊休貨幣もあれば,企業の手元での遊休貨幣資本もある。しばらくしてからこれらが支出されると,それらが支出に対応しただけの生産拡大を誘発すれば,需要超過による物価上昇は起こったとしても貨幣的インフレは生じない。しかし,これらの支出が生産拡大を誘発しなければ,貨幣的インフレが発現するだろう。2020年の財政拡大は,2022年や2023年に貨幣的インフレを起こすこともあり得るし,2022年や2023年に雇用と景気を改善して貨幣的インフレは起こさないこともあり得るのである。どちらになるかは,財政を拡大した時点では決定されない。

 「一時的休息」という規定は,通貨供給量の増大からインフレーションの発言までタイムラグがある可能性を示唆している。ここにこの規定の積極的意義がある。しかし同時に,一時的に休息している遊休貨幣が,結局のところ物価を引き上げるのか,それとも引き上げないのかは,場合によるとしか言えないということにもなる。ここの問題は,貨幣流通法則が誤っているとか無効になっているとかいうことではない。しかし,貨幣流通法則が抽象的であるが故に,それだけでは具体的な局面の理解に十分ではないということである。遊休貨幣の運動についての,より具体的な運動法則を用いなければ,その物価への影響は解明できないのである。

 次に,一時的な価値保蔵についてである。それ自体価値を持たない,不換の預金通貨や中央銀行券での価値保蔵がなぜ可能となるのだろうか。これらの通貨は,すでに流通内にあるのでインフレーションによる減価のリスクにさらされている。なので,持ち手にとっては,流通手段として用いる以外に道がないように思える。しかし,そうではない。インフレによる減価リスクを相殺するような利得があれば,そこに流通手段以外の利用方法が生まれる。それは現金のまま保有することによる流動性の確保であり,またそれ自体は価値を持たない架空資本,つまりは金融資産への投下による資本蓄積である。もちろん後者は,それ自体リスクのある営みである。しかし,持ち手に取ってこの二つの意義が大きくなるような条件があれば,不換の預金通貨や中央銀行券のままの保有や,金融資産への投下による価値保蔵や価値増殖が試みられるのである。

 遊休貨幣の運動とは,これらが財・サービスの消費に向かうか,財・サービスの購入や雇用の拡大を通した投資に向かうか,それとも現預金のまま遊休し続けるのか,あるいは現預金以外の金融資産の購入に向かうのかという問題である。これを支配するのは,産業活動に投資した場合の利潤の見通しと,流動性選好による利得と,金融資産選好による利得の関係であり,それらを規定する諸条件に他ならない。ここで再び,マルクスの世界とケインズの世界は重なるべきである。マルクス派は,遊休貨幣の運動を論じるために,ケインズの流動性選好説を摂取しなければならないし,そうすることによって自らの体系を損なうことなく拡張することが可能になるだろう(※4)。

 マルクス派の貨幣理論では,管理通貨制の下での遊休貨幣を蓄蔵貨幣として取り扱うことはできない。遊休貨幣は流通内で一時的に休息している貨幣であって蓄蔵貨幣ではない。蓄蔵貨幣ではないにもかかわらず,一定の価値保蔵機能を持つために,現金のまま保有されたり,金融資産に投下されたりすることが可能なのであり,そうされている期間は物価形成に参与しないのである。この遊休貨幣の運動を取り扱おうとするときに,マルクス派はケインズの流動性選好論を摂取しなければならない。これが,このノートの差し当たりの主張である。


※1 このような理解は,マルクス派の中でも貨幣流通法則の現代における作用を最大限に認めるものであり,管理通貨制の下では紙幣流通法則しか働かないという議論の対極に位置するものである。同じマルクス派の中でも,預金や中央銀行券は金本位制であれ管理通貨制であれ信用貨幣だと認めれば前者の理解に近づき,両者は金債務だから金本位制では信用貨幣であっても管理通貨制では価値シンボルに過ぎないと考えると後者の理解になる傾向を持っている。私は前者に立っている。よく言われる話題で言えば,「金・ドル交換停止以後のドルは紙切れに過ぎず,国家権力の強制で流通している」という議論には立たない。ドルは連邦準備銀行の信用ある手形だから流通しているのである。

※2 貨幣蓄蔵をめぐる法則自体は,管理通貨制の下でも作用する。預金通貨は,貸付けや信用代位によって流通に入り,返済や信用代位によって流通から出る。そして流通から出れば消滅する。また中央銀行券は,預金が引き出されることによって発行され,預金として預け入れられると消滅する。両方とも,商品世界の動きに従属して流通に入り,また流通から出る。この意味では貨幣蓄蔵の法則に従っている。しかし,これらが流通から出るのは消滅する時である。流通から出て,なおかつ価値を維持して蓄蔵される正貨は,管理通貨制では存在しない。

※3 株式や社債への投下とは,企業の投資をファイナンスすることではないかという疑問があるかもしれない。株式・社債の発行市場での購入はその通りである。しかし,流通市場での購入はそうではない。既発行の株式・社債といった金融資産を購入すれば,購入に投じた貨幣は前の持ち主のもとに移るだけである。この場合の貨幣流通は金融的流通なのであり,金融的流通にまわっている貨幣は,財・サービスの購買に用いられないという意味では遊休貨幣のままなのである。

※4 ここでは流動性選好を広く定義すれば金融資産選好も含まれると考えたが,小野善康『資本主義の方程式』中公新書,2022年では流動性選好と資産選好は別物として定義されているように見える。今後検討したい。


論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...