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2019年9月22日日曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準

 前回のノート(2)では,財政赤字によるカネのクラウディング・アウト,すなわち金利高騰は生じないことを論じた。だからといって,金利が政策変数として役に立たないわけではない。レイ教授も,債務の爆発的上昇を避けるために,政府は自ら支払う金利を経済成長率より低く保たねばならないことは認めている(『MMT』149ページ。以下ページ番号は本書のもの)。ただ,政府債務を増やすたびに金利上昇が生じることを心配しなく良いので,金利を低く保つことは,常識的なマクロ経済学が想定するよりもずっと容易だ。
 では,カネのクラウディング・アウトは心配なく,また自国の主権通貨建て債務のデフォルトはあり得ないとして,それ以外に財政赤字を制約する条件はないだろうか。もちろん,ある。インフレ率と為替レートだ(『MMT』219ページ)。インフレーションは財・サービスや労働力に対する自国通貨の価値,為替レートは他国通貨に対する自国通貨の価値を変化させるからだ。レイ教授はこれらのことをはっきり認識している。MMTは財政赤字を無限に増やしてよいとする奇説だという非難は,いいがかりである。
 ここでは二つの要因のうちインフレを取り上げ,MMTにおけるその位置づけを考える。二つのことを一度に取り扱うのは困難だからでもあるが,インフレの方が財政赤字の根本的な限界に関わっているからだ。それは,利用可能な資源の有限性ということだ。
 日本ではデフレが長く続いてきたため,悪性インフレの心配が当面の問題にならない。そのためMMTをめぐっても,ハイパーインフレの恐れのあるなしという極端な場合についての議論だけが飛び交い,MMTにおけるインフレの理論的位置づけという課題は後景に退いてしまっている。私は,これは望ましくないと思う。本来,インフレはMMTにおいて非常に重要な理論的位置を与えられていると思うからである。

 さてレイ教授は冥王星探査ロケットの例を挙げて,政府が支出する際に考慮しなければならない要因を列挙している(『MMT』356-360ページ)。少し抽象化して整理しよう。
 第一に,そもそも政府が購入できる財・サービスや,雇うことができる適切なスキルを持った人が必要なだけ存在するかどうかだ。当たり前のことだが,重要だ。
 第二に,そうした財・サービスや人がの別の用途との競合による機会費用の発生だ。他の用途との競合は資源の争奪戦,つまり賃金や購入価格の引き上げ合戦を引き起こして,望ましくないインフレを生じさせるかもしれない(それに,輸入増を引き起こして為替レートにも影響するかもしれない)。
 第三に,民間経済主体に与えるインセンティブや公平性の問題や価値判断として望ましくない支出拡大があるかもしれない。
 この1番目と2番目の要因については,「財政赤字によるモノとヒトのクラウディング・アウトは起こり得る」と表現することはできる。政府支出を強行すれば,民間の支出が実行困難になるからだ。前回述べたように,政府が負債を増やすことを金融市場から制止される危険はない。けれど,政府支出を増やすことを財市場と労働市場から制止されることはあり得るのだ。 
 MMT批判を意識した,別の言い方をしよう。財政赤字について,しばしば,というか千年一日のごとく飽きもせずに「ない袖はふれない」,「フリーランチはない」という主張がなされる。前回論じたように,MMTの独自の貢献は,カネの面ではそういう制限は実はないと明らかにしたことだ。しかし,財・サービスや労働力については,確かにない袖は振れず,フリーランチはない。主権通貨(政府の債務証書)はすぐにでも大量に発行できるが,ないモノは買えないし,別のところで働いている人を引き抜くのは困難で,望ましくないかもしれない。その問題性はインフレ率として表現される。これは,本来すべてのケインズ派が認めるところだろうが,MMTもまた認めているのだ。
 レイ教授の表現ではこうなる。「問題は,支出能力に関するものではないし,そんなものはそもそもあり得ない。問題は資源に関するものである」(『MMT』439ページ)。

 以上のことから,常識的なマクロ経済学とMMTにおける,財政政策の原則に関する類似点と相違点が確認できる。
 いずれも,完全雇用の達成を政策目標とすることは同じである。しかし,常識的なマクロ経済学では,ここで二つの制約がかかる。一つは,1)「金利」を指標にしてカネの面から財政赤字の限度を考えねばならないことだ。この制約がかかることにより,しばしば完全雇用達成以前に財政が緊縮に転じてしまう。あげく,EMUのように雇用情勢に関係なく財政赤字のGDP比率に枠をはめたりする。もう一つは,2)「インフレ率」を指標にしてモノとヒトの面から財政赤字の限度を考えねばならないことだ。インフレ率が高かった1970年代には先進国でもこちらが問題になったし,現在でも途上国ではこの論点が問題になる国もある。そして,物価安定が完全雇用より優先されてしまう場合もある(『MMT』478ページ)。
 MMTは,前回ノート(2)で述べたように,1)の制約条件は虚偽であって,気にする必要ないと主張する。しかし,2)の条件についてはその必要性を認める。むしろ,1)の制約は無視してよいとされる分だけ,2)の制約が非常に重要になるのがMMTの財政政策だと理解すべきだろう。そして,MMTは2)に対して,あくまでも完全雇用を追求し,その実現前に悪性インフレを起こさないようにという観点からアプローチするのだ。

 MMTはインフレなき完全雇用という目標を降ろさない。その際,カネのクラウディング・アウトや金利高騰は心配しないが,モノとヒトのクラウディング・アウトとインフレは厳重に警戒する。これが,財政政策の根本基準となる。では,MMTの観点からは,より具体的にどのような政策を実施すべきだと言うことになるだろうか。すでにレイ教授によって提案されている雇用保障プログラムや「悪」に課税せよという税制論は,この目標や基準と関連して主張されているのだろうか。これらが次の検討課題となる。

<連載>
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日。
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。

<出版社ページ>
L・ランダル・レイ(島倉原監訳・鈴木正徳訳)『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社,2019年。


個別企業がM&Aに「投資」しても社会的には「縮み志向による投資の停滞」が終わるわけではない

 『日経』本紙13版,2019年9月21日1面記事「日立,成長へ1兆円調達」。「これまで日本企業は借金返済を優先し,投資などは抑制してきた。そうした『縮み志向』を抜け出す企業が増えていく可能性がある」との指摘。だが,その紙面に掲載されていた以下のグラフを見て欲しい。




 日立は確かに設備投資は1.6兆円から1.8兆円規模に増やそうとしているが,同時にM&Aなどを0.5兆円から2.5兆円に増やそうとしているのだ。日立が株式市場からROE(自己資本収益率)の観点で評価されるためには,設備投資よりM&Aの方が効果的だという判断からこのような比率になるのだろう。
 確かに日立という個別企業にとってはどちらも「投資」だ。しかし,社会的に見れば(海外投資は国内に投下されないという点はさておくとしても),M&Aは純投資ではなく,資産の持ち手変更のために株式と現金を交換するに過ぎない。こうした動きが広まっても,日本経済への効果としては「縮み志向による投資の停滞」が直接に変わるわけではないのだ。
 もちろん,M&Aによって資産が有効に活用されて利益を生むようになり,その資産をもとにした設備投資も間接的に拡大することはありうる。しかし,それは時間のかかる話だ。また,たとえ個別企業にとってM&Aが成功した場合でも,収益性の高い他社事業をただ傘下に取り込むだけだと,やはり社会的には投資は増えない。M&Aが見込み違いで失敗した場合は言うまでもない。
 M&Aは個別企業にとっては「投資」でも,社会的には(マクロ経済的には)そうではないことに注意しなければならない。

「日立,成長へ1兆円調達 守りから攻めの財務に 22年3月期まで M&A・設備投資向け」『日本経済新聞』2019年9月21日。



2019年9月9日月曜日

第2学期学部ゼミテキストはダニ・ロドリック『貿易戦争の政治経済学:資本主義を再構築する』

 学部ゼミテキスト選定。今年度の第1学期はリチャード・ボールドウィン『世界経済 大いなる収斂』を読んだ。ボールドウィン教授は技術革命を中心にグローバリゼーションを段階的に論じ,基本的にはその必然性と積極的意義を強調した。すなわち,ICTがもたらす第2のアンバンドリング,グローバル・バリュー・チェーン革命により,新興国が経済発展の機会を得て,一部がそれを実現し,かつての「大分岐」に対比される「大いなる収斂」をもたらすとした。このすじみち,いわばグローバリゼーション下の産業論のロジックを学ぶことは,産業発展論という看板を掲げる当ゼミの学部生にとっても有益だった。
 しかし,ボールドウィン教授自身が率直に認めるように,グローバリゼーションは先進国の産業構造調整問題,経済格差問題を生んだし,発展途上国のごく一部を成長させたに過ぎないために成長した国とそれ以外の国の格差も広がった。初発的な工業化で先進国初の多国籍企業に依存したことが,その先の経済発展に問題を起こさないのかどうかということも残された問題だった。これらの問題を考察するには,グローバリゼーションの限度をも理論的に論じた研究を活用しなければならない。
 というわけでジュンク堂書店であれこれブラウジングした結果,第2学期はダニ・ロドリック(岩本正明訳)『貿易戦争の政治経済学 資本主義を再構築する』白水社,2019年(原書:Dani Rodrik, Straight Talk on Trade: Ideas for a sane world economy, Princeton University Press, 2017)を読むこととした。ロドリック教授は,ハイパーグローバリゼーション,すなわち経済のグローバル化をどこまでも進め,ガバナンスもグローバル化するという道は非現実的であるとし,国民国家をはじめとする多様な制度による分割された統治と限られたグローバリゼーションのありかたを探求している。その理論的探究は,今日の米中貿易戦争やEUの政治・経済的動揺,TPPやアジアの経済統合という諸問題と直接格闘しながらの営みだ。
 第1学期に読んだ本のロジックを全面的には否定しないが限定条件が多数加わり,ロジックも純経済的なものから政治経済的なものへと複雑化する。読解の難易度もやや上がる。というわけでゼミ生の学びにも適していると期待する。


ダニ・ロドリック(岩本正明訳)『貿易戦争の政治経済学 資本主義を再構築する』白水社,2019年。

リチャード・ボールドウィン(遠藤真美訳)[2018]『世界経済 大いなる収斂:ITがもたらす新次元のグローバリゼーション』日本経済新聞出版社,3500円+税。





2019年9月7日土曜日

マイナス金利は失敗であり,深堀りは傷口を広げる

 2019年9月7日『日本経済新聞』1面トップ(注:仙台宅配の13版)の日銀黒田総裁インタビュー。マイナス金利深堀りを選択肢の一つとして挙げているが,その理由として黒田総裁は,長短金利差が縮小してイールドカーブが寝ていることに集中していることばかりあげている。つまり,生命保険や年金のリターンが下がることを警戒しているのだ。それはそれでわかるが,これはマイナス金利がそもそもの目的をまったく達成せず,さりとてやめることもできずに副作用への対処に熱中せざるを得ない事態になっていることを意味する。
 もともとマイナス金利は,ゼロ金利でも何とか金融緩和を進める方法の一つとして開発された。さらに遡って言えば,日銀があれこれ方針を宣言して予想インフレ率を高めるという従来の「期待に働きかける」「リフレ」策が効き目がないことで考案されたものだ。その狙いは,銀行が持つ日銀準備預金の収益性を低下させれば,民間銀行はより高い収益性を追求するためにポートフォリオを組み替え,ハイリスク,ハイリターンの運用先を探さざるを得ないだろうというポートフォリオ・リバランシング論であった。しかし,もともとゼロ金利下でも借り入れ需要が停滞しているという,企業の事業見通しの暗さが問題なのであって,無理くり金利を引き下げたところで効果などなかった。それどころか,銀行の利鞘を圧縮して,地方銀行の経営困難を招いただけであった。マイナス金利は,そのそもそもの目的において失敗しているのだ(※1)。そしてもう一つの副作用として。長短金利をつないだイールドカーブが寝てしまい,長期国債での運用難を引き起こすという問題が出たのだ。
 イールドカーブを保持しながらマイナス金利を深堀りすれば,確かに一つの副作用には対処できる。しかし,本来の失敗と副作用には全く対処できず,むしろ傷口を広げるのではないか。銀行がIT化の推進など,前向きな経営効率化を図るならまだいい。しかし,有望な貸付先が少ない中でさらに利幅を圧縮されて,二つの危険な行動に出るおそれがある。一つは融資をかえって縮小させることで,これは中小企業と地方経済に打撃を与える。もう一つは,リターンとのバランスが取れないほどにハイリスクな貸し出し,投資に走ることで,これは不良債権を累積させるおそれがある。いずれも,いまのような好景気の末期に促してはならない行動だ。
 いま,金融を引き締めるべきではない。しかし,これ以上緩和したところで効果はない。日銀がやたらと動いても仕方がない。すぐにでも行うべきは,家計を温めて確実に需要を支えるような財政政策だ。だから消費税増税は不適切だ。より長いスパンで行うべきは,企業の投資マインドを高める産業政策,家計の不安感を除去する社会政策だ。




2019年9月5日木曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない

 MMTは「主権を有し,不換通貨を発行する政府は,その通貨において支払い不能になることはない」と主張する。これに対して,まともな形で「いや,デフォルトする」と批判する議論は,さすがに少ない。もう少し現実的にありそうな事態として,財政赤字が累積すると支払い続けることは可能でも,1)クラウディング・アウトを起こして民間の需要を奪うので,赤字財政の需要刺激効果がなくなるだろう,2)望ましくないインフレーションを引き起こすだろう,3)国債と通貨が信用を失って暴落するだろうという批判が多い。ここでは1)について考えたい。これは,先だってのポール・クルーグマン教授(※1)とステファニー・ケルトン教授(※2)の応酬でも一つの争点だったし,R・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』の巻末解説で松尾匡氏も触れている点だ。日本のメディアでも,早川英男氏(※3),野口旭氏(※4)など多数のMMT批判者がこの論点に触れている。
 
 私はこの問題を考えるにあたり,レイ教授が,しばしば金融資産と実物資産の世界,貨幣の世界と実物の世界の関係に触れていることを手掛かりとしたい。クラウディング・アウトの問題を考える際にも,貨幣(カネ)の世界と実物の世界を分けた上で,その関連を見ることが必要だと思う。つまり,カネのクラウディング・アウト=<財政赤字が利子率を高騰させ,民間の投資を押しのけること>と実物のクラウディング・アウト=<政府が雇用や財購入を増やしたために賃金や物価が騰貴し,労働力や財が他の有効な用途に回らなくなって民間の経済活動を押しのけること>を概念として分けるのである。実物のクラウディング・アウトは端的にインフレーションと呼んでもよいのだが,インフレには様々な原因のものがありうるから,特定の原因によるインフレーションであることをはっきりさせるために,あえて実物のクラウディング・アウトと呼んだ。私の理解では,ニュー・ケインジアンを含む主流派の経済学では,前者は,経済が流動性の罠に陥っていない限りは起こる。しかし,MMTでは前者は決して起こらない。後者については,ニューケインジアンでもMMTでも,労働力や財が財政支出以前に有効に用いられているかどうかに依存して起こったり起こらなかったりする。大きな違いは前者にある。以下,説明しよう。

 MMTが説明するように,政府の赤字支出の仕方は1)シンプルなものと2)事前に国債を発行して資金調達した上で行うものの二通りがあるので,レイ教授に従って説明しよう(※5)。話を単純にするため政府は雇用はせず財を買うことにする。まず1)は国庫と中央政府が統合された政府が直接支出する場合だ。政府は単に小切手を切って財を購入する。すると民間企業は購入代金を受け取り,その取り立てを取引銀行に依頼する。銀行は小切手を現金化するので企業の預金は増える。銀行は中央銀行兼国庫にこの小切手を持ち込む。中央銀行兼国庫は銀行の持つ準備預金口座に小切手相当額を振り込む。この場合,民間貯蓄は増えている。銀行の準備金も増えている。したがって,利子率は下落する。「財政赤字の最初の効果は,金利を(上げることではなく)下げることである」(233ページ)。

 そんな単純な仮定は信じられないという人のために,実際にアメリカや日本の政府が行っている2)の場合を考えよう。狭義の政府と中央銀行は別の勘定になっており,政府は中央銀行に政府預金を持っている。まず,政府は国債を発行して民間銀行に引き受けてもらう。つまり,銀行は国債を得て,その額面相当額が準備預金から引き落とされて政府預金に払い込まれる。次は1)と同じであって,政府は民間企業から財を買うので,民間企業が取引銀行に持つ預金が増える。取引銀行はその相当額を準備預金として得るが,1)と異なり,政府預金から準備預金への移動によって得る。この場合も,民間貯蓄は増えている。銀行の準備金は,いったん減った後もとの水準にもどっている。したがって,利子率は支出までのタイムラグにおいて上がるかもしれないが,結局は元に戻るだろう。

 ここには何の特別な理論も思想もない。MMTはこの点でまったく説明的であり,ただバランスシートを使って金融実務を説明しただけだ。財政赤字はカネのクラウディング・アウト=金利高騰をもたらさないのだ(※6)。

 にもかかわらず,クルーグマン氏も,早川氏も,野口氏も,松尾氏も利子率は騰貴すると言う。それはニューケインジアンや,もっと昔からあるアメリカン・ケインジアン(つまりはIS-LM分析)や,たいていの経済学の理論に依拠すれば当然そうなるからだ。財政赤字拡大によって需要は増えるが利子率は騰貴するというのだ。しかし,<標準的なマクロ経済学がそう言っているから正しい>というわけにはいかない。大事なのは,それを覆す事実があるということである。<MMTが金融実務を素直に描写しているのに対して,たいていの経済学はそうではない>ということではないのか。

 しかし,もう一度,別の角度から考えよう。ある意味,MMTの方が人々の直観に反するから,受け入れられにくいからだ。つまり,マクロ経済学者でなくても<お金に対する需要が増大したのに,金利が上昇しないのはおかしくないか>という疑問を多くの人が抱くだろう。この疑問に答える必要がある。

 ここで大事なのは,金利は準備預金をもとにした短期金融市場(コール市場)の需給によっても動くし,民間経済内部のカネの需給によっても動くということだ。このことを念頭に置きながら考えよう。

 1)の場合も2)の場合も,民間経済内部では政府は支出してモノを買っただけなので,利子率には影響がない。一方,1)では準備預金は増加している。だからコール市場では,<お金の供給が増大したので金利は低下する>。2)の場合,準備預金はいったん減って,元に戻る。よってコール市場でも金利は変化しない(短期的に上昇して元に戻るかもしれない)。以上のように説明すれば,貨幣の需給がひっ迫しなかったことがわかるだろう。

 それでもなお,直観的に受け入れがたい人もいるかもしれない。だから念のため,<お金に対する需要は増えなかったのか>という角度からもう一度点検しよう。1)について言えば,そもそも政府は,あらかじめ存在するお金を借りていない。手形で物を買うように,自分で発行した債務証書=信用貨幣で物を買っているのだ。しかも,それで民間では預金というお金がかえって増えている。預金が増加したぶんだけ準備預金も増加して利子率は下がる。2)について言えば,確かに政府は現存するお金を借りたのだが,それは準備預金から借りたので,民間預金増に連動して準備預金が増えることとちょうど相殺されるのだ。

 どの角度から見ても,財政赤字によってカネのクラウディング・アウトは全く起こらない。この論点については,私はMMTは正しいと思う。

 では,たいていの経済学や常識的な直観はどこが誤っているのか。それは,<政府は既に存在するお金を借りて,それを使う>とイメージしているからである。しかし正しくは,<政府は支出することによって新たに通貨を創造する>のである。1)の場合はもちろんそうだ。2)の場合ですら,一見すると銀行の準備預金を引き出して使ったように見えるが,結果としてはずの準備預金は減らず,支出を受けた民間企業の手元では通貨が増えているのだ。支出して通貨を創造したのは1)と同じなのだ。

 これはなにもおかしくない。通常のものの売買において,会社は手形を振り出してものを買うことができる。政府は,それをより洗練された形態でやっているに過ぎない。信用貨幣である通貨を発行して,物を買うことができるのだ。確かに債務は増える。しかし,既に存在する貨幣を求めたわけではないので資本市場は需要超過にならず,利子率は騰貴しないのだ。

 この点に関しては,MMTと主流派経済学は全く異なっている。もちろん,MMTとニューケインジアンが,当面の財政拡大が望ましいか,望ましくないかで,意見が一致することはあるだろう。それはそれで当然だ。しかし,財政赤字が金利を高騰させるか,させないかという点では根本的に対立することは確認しておかねばならない。そして,私はこの点はMMTの方が正しいと考える。これがこのノートの結論だ。

 さて,次の問題はモノのクラウディングアウトだ。カネのクラウディング・アウトが起こらないからと言って,モノのクラウディング・アウトが起こらないとは限らない。政府は通貨=カネを作って支出できるが,同時にモノを作り出すわけではないからだ。この点に考察を進めねばならない。

 また,このノートからは別の論点も派生する。<政府は通貨を創造して,それで支出する>のであれば,そもそも赤字であろうと黒字であろうと<政府は,既に存在するお金を使って支出するのではない>ことになる。それは,租税とは支出の財源ではないということを意味する。これは大多数の人の直観に反することだが,まさにMMTはそう主張しているのだ。こちらについては,また別途考察する必要がある。

※1 Paul Krugman, What’s Wrong With Functional Finance? (Wonkish): The doctrine behind MMT was smart but not completely right, The New York Time, Feb. 12, 2019.
Brad Delongによる要約の抄訳あり。optical_frog抄訳「ブラッド・デロング「クルーグマン:機能的ファイナンスのどこが問題か」(2019年2月14日)」経済学101,2019年2月17日。


※2  Stephanie Kelton, Modern Monetary Theory Is Not a Recipe for Doom: There are no inherent tradeoffs between fiscal and monetary policy, Bloomberg Opinion, Feb. 21, 2019.

邦訳あり。erickqchan訳「クルーグマンさん、MMTは破滅のレシピではないって」道草,2019年3月20日。

※3 早川英男「MMT(現代貨幣理論):その読解と批判」富士通総研,2019年7月1日。

※4 野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密」Newsweek, 2019年8月8日。

※5 レイ『MMT』の叙述では,ここでの1)のケースはケース1b①として描写されている。図解は200ページ参照。2)のケースはケース3②③④として描写されている。図解は202-203ページ参照。ここでは議論が入り組むことを避けるために,1)のケースで事後に統合政府が国債を売却するプロセスを省いた。

※6 松尾教授は『MMT』の巻末解説で2)の場合について「クルーグマンの言うとおり,金利が元の水準よりも上がって当然だろう」(531ページ)と指摘されるが,どういう因果関係でそうなるのか,私には理解できない。なお,この解説は独立した記事としてネット公開された。
松尾匡「MMTの命題が「異端」でなく「常識」である理由:「まともな」経済学者は誰でも認める知的常識」東洋経済ONLINE,2019年9月6日。

<前稿>
「L.ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠」Ka-Bataブログ,2019年9月3日。
<続稿>
「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日。


2019年9月3日火曜日

L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(1):信用貨幣,そして主権通貨の流通根拠

 L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』。一応読み通した。これまでMMTについて,目についた限りの論説から理解に努めて投稿して来たが,どうやら理解は誤ってはいなかったようでほっとした。なので,MMTの主張を改めて紹介することはしない。むしろ,本書を読んで,理論的により深めるべきと思った論点や,疑問が生じた点を中心に,何度かに分けてノートしていきたい。

 まず,MMTのMMTたるゆえんである貨幣論から。今回は,財政赤字の話にはまったくたどり着かないから,どうかそのつもりでお読みいただきたい。

 MMTは,歴史的にも,現在の経済システムの理論的本質としても,貨幣は信用貨幣=債務証書であるとする。いま歴史的な検証は脇に置くとして,すくなくとも管理通貨制の下での主権通貨の主要な形態である,不換の中央銀行債務(準備預金+中央銀行券)や市中銀行債務(銀行預金)が信用貨幣であることについては,私はMMTに賛同する。

 このことは,一方では当然にも見える。日本銀行の準備預金も日銀券発行残高も日銀のバランスシートの負債側に記帳されているし,日銀に還流した日銀券はバランスシート上では紙切れに戻る(1万円札は1万円の資産にならずに,ただの紙製品としての資産になる)からだ。債務者が取り戻した自分の債務証書に過ぎないからだ。

 しかし,このことは一見して奇異にも見える。日銀の債務証書である1万円札を日銀に持ち込んでも,何かで償還してくれるわけではないからだ。何かで返してもらえない債務証書に何の意味があるのか。兌換銀行券が金債務証書だというなら分かるが,不換の中央銀行券は,ただ人々の習慣や国家の強制通用力によって(この二つは意味が逆なのだが)通用している価値シンボルではないのかという疑問も湧く。主流派経済学も,日本のマルクス経済学のおおむね半数以上もこう考えている。

 返済されない債務証書が,それでも信用貨幣だということの意味を,MMTはこう説明する。「発行者は,支払いを受ける際にそれを受け取らねばならない」(訳本48ページ)。<債務者に対する支払い手段として機能することによって流通する>から信用貨幣だというのだ。そして,この論理の延長線上で,国家の発行した主権通貨が不換通貨であっても通用する理由を求める。「それは,政府の通貨が,政府に対して負っている租税などの金銭債務の履行において,政府によって受け取られる主要な(たいていは唯一の)ものだからである」(120ページ)。つまり,<租税の支払い手段として機能するから,人々は主権通貨を受け取る>というのだ。

 私は,MMTのここまでの論理自体は受け入れられる。しかし,法定不換通貨の流通根拠として十分とは思えない。レイ教授は,中央銀行の準備金や中央銀行券の運動を丁寧に説明しているのだが,なぜか主権貨幣の流通根拠は租税だけで説明し,中央銀行との関係を論じない。それでよいのかどうかを考えてみたい。

 信用貨幣の端緒的形態は商業手形であろう。手形は,確かに振り出した当人への支払いに使えるが,それだけではない。手形を持っている者同士は,手形同士を相殺して決済することができる。債権債務の方向がちょうど逆で金額が同一ならば,現金を用いずに完全相殺だけで決済することすらできる。さらに,銀行の債務である預金になると,銀行に対する支払(たとえば銀行からの借り入れの返済)に使えるだけではない。同一の銀行に口座を持つ者同士であれば,現金を用いずに預金口座を使って債権債務の決済が行える。発券集中が行われて中央銀行が主権通貨建ての準備預金と中央銀行券を発行しているならば,銀行はそれらを用いて中央銀行に対して支払うことができる(例えば中央銀行からの借り入れを返済できる)。しかし,それだけではない。中央銀行に準備預金口座を持つ銀行同士であれば,口座を用いて債権債務の決済が行える。

 つまり,まず抽象的に言えば,信用貨幣とは<債務者に対する支払い手段として機能する>というだけでなく,<債権債務を相殺することによって決済する手段として機能する>から流通すると考えるべきではないか。

 次に,やや具体的な次元に移り,主権通貨建ての法定不換通貨が通用する理由を考えよう。法定不換通貨が準備金や中央銀行券という形態をとる場合については,それが流通する根拠は<税の支払い手段として機能するから>ということに加えて,<中央銀行に対する支払い手段として機能するから>,さらに<準備金を通した決済手段として機能するから>ではないのだろうか。

 実はレイ教授もいわゆる「債務のピラミッド」の説明において,「銀行以外の民間企業はほとんどの場合,自身の勘定を決済するために銀行の負債を利用する」(175-176ページ)こと,「銀行は政府の負債(川端注:準備)を使って勘定を決済する」(174ページ)ことを指摘している。そして,こうも言う。「ピラミッドの下の方で,何か問題が起きたらどうなるだろうか?」(178ページ)。レイ教授はこの問いに,「下層にいるものは銀行の負債を決済に使い,次に銀行は政府の負債(中央銀行の準備預金)を銀行自身の負債の決済に使う」(179ページ)と答える。だから中央銀行の「最後の貸し手」機能は重要であり,それを十分に果たせない欧州中央銀行(ECB)と欧州通貨統合には欠陥があるというのだ。私はこのピラミッド論に何の異議もない。しかしレイ教授は,これを主権通貨が通用する根拠とまでは位置づけない。私はこのことが不思議であり,不満である。(9/4以下2文追記)もっとも,レイ教授は「債務証書の受領性は,『要求があれば,その債務証書を,より広く受領される他の債務証書に交換する』という約束によって高めることができる」(499ページ)として,この契機を副次的要因としては認めているようである。だが,私はもっと高い位置づけが必要ではないかと思う。

 通貨に対する信認は,一方では政府の徴税能力に支えられている。それはそれでわかる。しかし他方で,企業間決済を銀行が守り,銀行間決済を中央銀行が守ることによっても支えられているはずである。前者だけでは,通貨に対する信認が政府の強権によってのみ支えられているという話になりかねない。私は,そうではないと思う。通貨の信用は,個人ー企業ー銀行ー中央銀行という連鎖の中にある決済システムの健全性によっても支えられていると考えるべきではないだろうか。つまり民間経済のあり方にも支えられているのだ。

 MMTは,よく知られているように「主権を有し,不換通貨を発行する政府は,その通貨において支払い不能になることはない」と主張するが,同時に,徴税能力が怪しい国の不換通貨は信認を失いインフレになりやすいことも認めている。しかし,もうひとつ,決済システムが揺らいでいるような国の不換通貨もまた信認を失いやすいというべきではないか。つまり,税制がどうであれ,持続不可能なバブルが生じているとみられたり,それが崩壊して混乱している国の不換通貨は信用されないというべきではないだろうか。

 以上がMMTの貨幣論に対する私の疑問である。この疑問は,MMTが間違っているのではないかというものではなく,そのよって立つ場所を一つでなく二つにすべきではないかというものである。しかし,もしかするとこの疑問は,MMTが統合政府を「政府」に引きつけて理解し過ぎていて,「中央銀行」の存在意義についての考察を手薄にしているのではないかという疑問につながるかもしれない。もっとよく考えてみる必要がある。

L・ランダル・レイ(島倉原監訳・鈴木正徳訳)『MMT 現代貨幣理論入門』東洋経済新報社,2019年。

続稿
L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない
L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準



2019年8月29日木曜日

「平和の少女像」:どの国が正しいかを決めることではなく,戦争を告発すること

 「平和の少女像」について,展示の自由と別に,以前より思っていることを書く。

 まず,背景への認識。そもそも,わが日本国政府の見解は「安倍内閣総理大臣は,日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ(2015年12月28日。日韓両外相共同記者会見)。私はこの点について安倍首相を支持する。慰安婦について日本国は何も反省しなくていいという人は,実は安倍首相に反対なのだ。

 次。平和の少女像の表面的な使われ方。慰安婦支援団体による使い方には確かに問題がある。政府公館の正面に設置するのは適切でないし,これを撤去しない韓国政府の姿勢は外交儀礼として適切でないと思う。また,慰安婦問題についての事実関係や補償と謝罪に関する考え方についても,私は最大の慰安婦支援団体である挺対協と見解を同じくしない。慰安婦問題について日本国政府を直接・間接に代表する謝罪はすでに9回行われており,「日本は謝罪していない」という前提での政治行動には私は反対だ。

 その上で,平和の少女像の根本的メッセージ。私は,この像には読み取るべきものがあると思う。この像の作者キム・ソギョン,キム・ウンソンの夫妻は確かに慰安婦問題で日本を批判しているが,それは韓国国家を支持しているからではない。この夫妻は,ベトナム戦争時に韓国軍がベトナムで行った虐殺行為を批判し,謝罪と反省の意味を込めて「ベトナム・ピエタ」を製作しているのだ。韓国軍の虐殺行為を認めるのは,韓国の世論でも多数ではなく,むしろ「軍を辱めるな」と非難されがちな立場だ。夫妻はそれでも製作している。つまり,平和の少女像は,ある国家の見地から別の国家を非難するものではない。戦争によって犠牲とされた民衆の見地から加害者を告発するものなのだ。

 社会運動の文脈では,平和の少女像は「日本は謝罪していない」という誤った事実認識の上に立つ運動に使われており,不適切にも政府公館の前に置かれている。作者はこの運動を肯定している。私はこれらの点で作者に賛同しない。だが,不本意に慰安婦にされて苦しんだ女性がいたことは事実である。そちらが根本だ。この作品はその事実に対する作者の思いを表現している。なので,この作品には考えさせられるものがあると私は思う。

 根本の問題は,韓国対日本のどちらが正しいかではない(ベトナムと韓国のどちらが正しいかでもない)。国家対国家の二者択一にとらわれるならば,どちらを支持するのであれ本質を見失う。慰霊されるべきは,また二度と再び現出させるべきでないのは,どこの国に属しているかにかかわらず戦争の犠牲者だ。告発されるべきは,どこの国という名前がついているかにかかわらず,戦争を起こし,他人の生活を踏みにじり,命を奪う者たちなのだ。

「韓国軍のベトナム戦争虐殺、被害者を慰霊する銅像を建立へ 作ったのは「慰安婦像」の夫妻」The Huffington Post,2016年1月25日。

熊倉正修『日本のマクロ経済政策』岩波書店,2019年を読んで:財政赤字に関心を集中し過ぎていないか

 熊倉正修『日本のマクロ経済政策』岩波書店,2019年。熊倉教授の論文は,通貨政策,金融政策を制度に即して語っているため,「日本経済」の講義を作成する際にいくつか読ませていただいた。今回の岩波新書では,学術論文では抑えられていた日本のマクロ経済政策に対する批判的見地がはっきりと打ち出されている。本書では通貨政策,金融政策,財政政策が論じられていて,その論点は多岐にわたる。だが,やや強引に熊倉氏の議論の本流を要約すると以下のようになると思う。

 <日本のマクロ経済政策は,産業構造上不可能な高成長を無理に目指すものであり,人為的円高誘導と事実上の財政ファイナンスを行ってこれを加速するものである。すでに政府債務が深刻な状況にある財政はいっそう破綻の危険を強めている。これを防止するための日本銀行の独立性は損なわれている。そして,不合理で持続性のない政策を,政策目標や会計規則の操作によって継続させている。これをコントロールするのは日本の民主政治の課題であり,それができていないところに問題がある>。

 私は,政策目標や制度が政府によって恣意的に操作されており,そこに透明性と民主的コントロールが不足していることについては熊倉教授に賛成であり,教授が制度に即してこれを具体的に示しているところは大いに説得力があると思う。

 しかし,アベノミクス批判を,財政危機に対して財政ファイナンスで事態を悪化させていることを最大の軸にして批判することには賛成できない。軸の一つとしては良い。国債と円の信用が市場において失われた場合には,通常の需給とは無関係に国債と円が暴落する。そのリスクは徐々に高まっているからだ。

 だが,それは確実に起こるというようなものではなく,将来における多くの可能性の一つに過ぎない。とくに,国債が国内で消化されていて中央銀行が政府と協調している現代の日本において,財政破綻それ自体は起こらない可能性もあるからだ。いつかは起こるかもしれないということ自体はまちがいではないが,その論点を押し出し過ぎることによって,もうすでに起こっているアベノミクスの他の問題を脇に追いやることは適当ではない。

 すでに起こっている問題は,ハイパーインフレの可能性とは逆のことである。つまりマクロ的には,いくら量的緩和を行って日銀が国債を買い上げ,その代金が銀行が日銀に持つ日銀当座預金(超過準備)として膨れ上がっても,いっこうに需要が伸びず,したがって流通内での通貨量(マネーストック)が増えず,物価もわずかにしか上がらないことである。そして,経済の内部構造を踏まえて言えば,円安と株高誘導によって投資家と輸出企業は利潤を蓄積できたが,賃金の伸びが遅すぎること,とくに非正規労働者の低賃金が抑制されていること,また不十分な水準の年金で暮らす人が増えていることによって,生活水準が低下する人が増えていることである。

 通貨供給量が伸びない以上,通常の意味でのインフレ,つまり流通する財・サービスに対して通貨が増え過ぎることによるインフレも起きない。だから,それが加速することによる悪性インフレも起きようがない。著者もそれはわかっているので,国債と円が一気に信用を失うようなハイパーインフレだけを想定している。しかし,それは確実に起こる唯一最大の危機であるという証拠は,本書では示されていない。

 著者の関心は,あまりにも財政破綻に集中しすぎている。例えば,著者は円安誘導の無理と,質的金融緩和による株価・地価操作を批判しており,そのことには私も賛成する。ところがよく読むと,著者は結局この二つへの批判を,政府財政が外国為替資金特別会計の剰余金や日銀の納付金に依存することへの批判に帰結させてしまっている。<歳入を本来頼るべきでない財布に頼るのは不健全だ>という観点からの批判なのだ。私は最大の問題はそこではないと思う。無理な円安誘導は輸出企業の利益はもたらしたが,輸出に依存する既存大企業が再投資も賃上げもせずに内部留保を積み上げたことが問題なのだ。質的金融緩和は人為的な株価・地価のつり上げを招き,株式市場と不動産市場に参加できるような投資家だけを潤したことが問題なのだ。それでは新産業は生まれず肝心の潜在成長率は引きあがらないし,多くの労働者,とくに非正規の労働者,すでに賃金を得ていない高齢者は置き去りである。

 著者が指摘するように,日本経済の持続的発展にとって,国債・通貨の信用喪失は,確かに将来ありうる一つの危険だ。だが,産業構造改革の停滞と格差の拡大は,すでにおこっている目の前の危険である。本書は前者は指摘するが,後者は指摘しないという偏りを持っている(※1)。

 著者の認識からすると,現状で必要なのは,起こるかもしれない財政破綻に備えて財政を縮小するか増税することにならざるを得ない。つまり財政再建優先政策を成熟した民主主義の下で選択すべきだということになる。私も,景気に関わらず歳出が自動的に膨張する事態(1960-70年代によく使われた言葉で言う財政硬直化)を避けるために税収を拡大する必要があるとは思う。しかし,財政再建を最優先の目標におくことは賛成できないし,それを実現できないことを日本の民主主義の問題の中心とすることもバランスが取れているとは思えないのである。

 あえて政治的コンテキストに触れるならば,著者の見解だと,アベノミクスの不均等な作用の下で苦しむ人々が財政措置を求めることを,民主主義の成熟性という見地から否定することにならないだろうか。また財政再建策をここまで最優先すると,誰がどのように税を負担すべきかという分配問題を抜きにして,とにかく税収を拡大して赤字を減らす方策であれば高く評価されるということにならないだろうか。私はそのような懸念を持った。

※1 なお公平を期すために言うと,著者は医療・福祉分野については不合理な規制を緩和することで賃金と物価が上昇すると主張している。しかし,それだけで非正規労働者の不合理な待遇が改善されるものではない。私は,メンバーシップ型の労働慣行を,法的規制になじむ部分から始めて着実かつ時間をかけて改革していくことが必要だと思う。

熊倉正修『日本のマクロ経済政策:未熟な民主政治の帰結』岩波書店,2019年。

2019年8月27日火曜日

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(6完)を読んで。全体のまとめ

 野口教授によるMMT検討と批判第6回(最終回)。MMTと正統派の共存可能性がテーマ。

 野口教授の基本的結論は,<一部分は共存可能だが,多くの部分において共存不可能>というものだ。共存可能な部分も取りだそうとしているのは,野口教授の公平さを示している。ただ,共存している部分とできない部分の境界線の取り方,そして共存不可能であることの意味の理解においては,ところによって的からずれており,また命中している場合も深く射ていないように思える。以下,コメントする。

 まず,野口教授が「MMTはこのように、通常の意味での金融政策の役割を否定あるいは無視しているが、より正確に言えば、MMTは市場経済における金利の調整機能そのものを全般的に否定している」と,批判を込めて述べていることについて。これはこれまでもあったが不当な単純化を含む。
 MMTは,<金利が市場経済において調整機能を全く果たさない>とまでは言っていないだろう。例えて言えば,MMTの理論構造からは,金融政策について<ひもは引っ張ることはできるし,引っ張られるのに対して緩めることはできるが,押すことはできない>となるはずだ。中央銀行は,1)信用がインフレやバブルにつながり望ましくない形や速度で膨張する際には金利を引き上げて引き締めることはできるだろうし,2)逆に信用がインフレにつながらずに望ましい形や速度で膨張する際に,高すぎる金利を下げることもできるだろう。ただし,3)直接に通貨を供給することや,金利を下げることによって必ず一定の通貨供給増が生じると期待することはできない(※1)。

 しかし,行き過ぎているとはいえ,野口教授が,MMTが金利の調整機能を低く見ていると感じ取っていることは,おそらく正しい。教授はニュー・ケインジアンを擁護する者として,ここが自分たちとの本質的な違いだと気づいているのだろう。MMTは金利が投資と貯蓄を均衡させるとは考えていない。金利が下がれば必ず一定程度は企業による投資が増えるとも考えない。したがって,金利が下がれば必ず一定程度は銀行貸し出しが増え,通貨供給量が増えるとも考えない。投資は増えるかもしれないし増えないかもしれない。金利調節をその程度のものとしか考えていないのだ(※2)。

 そうしたMMTは,学説上どのような系譜にあるのか。野口教授は「レイが初期ケインジアンたちの立場を継承していることは明らかである」とし,また「ポスト・ケインジアンたちは、マネタリズム批判を契機として、初期ケインジアン由来の金融政策無効論を内生的貨幣供給という把握によって再構築する方向に舵を切り、ニュー・ケインジアンも含むマクロ経済学の主流から離れていったのである。その切り離された流れが、1990年代に例のモズラーの発見と出会って生み出されたのが、現在のMMTである」という。私は研究史を教科書レベルでしか知らないが,これには説得力を感じる。野口教授はMMTを,少なくとも財政赤字に関する奇説ではなく,初期ケインジアン再興の試みだと認めているのだ(※3)。

 野口教授は,このように系譜上の位置づけを行う。その上で,自らはニュー・ケインジアンの立場に立って,オールド・ケインジアンとしてのMMTの金利軽視論を批判する。しかし,肝心のここのところで,根拠が弱々しい。ただ学説の展開によって「かつての金融政策無効論はまったく過去のものとなった」と言い,MMTは「マクロ経済学における一つのガラパゴス的展開に他ならない」というだけである。つまりは<金利に調整機能がないなんてそんな馬鹿なことがあるか>と<古い説だ>という非難にとどまっている。理論的とは思えない。

 最後に野口教授は,「MMTが正統派と共存可能であるためには、このモズラー経済学の時代にもう一度戻ることが必要であろう」という言われる。しかし,問題はそこにはないのではないか。野口教授は,MMTと正統派が,いま何において対決しているかという,肝心なところを無視しているように思う。

 いま,MMTと正統派が対決しているのは,現在のような状況,すなわち<先進国において,ゼロ金利まで金融を緩和しても経済が停滞から抜け出せない状況>において採るべきマクロ経済政策をめぐってだ。ニュー・ケインジアンを含む正統派は,ゼロ金利下において採るべきマクロ経済政策について,当初は<財政拡張ではなく金融緩和だ>と述べていた。それがリフレーション論であり,そのためのインフレ・ターゲティング論であった。ところが「量的・質的金融緩和」の成果が芳しいものではなく,一向に成長率が上がらずインフレも起きない事態を前にして,<金融緩和も財政拡大も>と言い出すようになった。対してMMTが主張するのは一貫して<金融緩和でなく財政拡大>だ(※4)。ここには,財政拡大をめぐる部分的な一致と,金融緩和をめぐる根本的な対立がある。野口教授によるMMTと正統派の対比は,肝心かなめのここの対立を説明し,その根拠を解き明かし,どちらがなぜ妥当なのかを論じるつくりになっていない。それで,MMTに正統派と共存できる道を説教してもさほど意味がないだろう。

(1)から(6)までを読んでのまとめ
 野口教授の論説を(1)から(6)まで読み解いてみた。この論説から一番学ぶべきは,MMTと正統派の対比により,MMTがつまるところ単なる奇説ではなくオールド・ケインジアン再興の試みだと確認できたことだろう。この対比を誠実・公平に行おうとされたことがこの論説の意義だと思う。。
 ただ,その対比は一部は不当な単純化や行き過ぎを含み,そして何よりも,両者の違いを深いところでは対比していないと,私には思えた。だから切れ味がよくない。どうしてそうなるかというと,<ゼロ金利下において金融緩和には需要拡大効果はなく,財政政策にはある>というMMTの政策的主張を,<ゼロ金利下においても金融政策は有効だ>とする正統派の主張と正面から対比していないからだ。さらに,政策的対立の背後にあるMMTの<金利に投資と貯蓄を均衡させる機能などない>という理論的主張を正統派の<金利には投資と貯蓄を均衡させる調節機能がある>という主張と突き合わせず,最終的には,MMTを<正統派の達成を無視するなんておかしい><古い>で片付けてしまっているからだ。真の対立点を対立させず,また対立の根拠をどこまでも遡って対比しないからだ。これを逆に言うならば,おそらくMMTの妥当性を真に検証するためには,これらの対立をどこまでも掘り下げて考察することが必要なのだろう。以上が,浅学を省みずに野口教授の論説を批判的に読み解いて学んだことである。

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(6完)─正統派との共存可能性」Newsweek,2019年8月20日。


※1.しかし,野口教授は私と異なってWrayらのMacroeconomicsをすでに読破されているので,Wrayらが私が予想するよりもはっきりと金利の機能を否定している記述を確認しているのかもしれない。これは,私が自ら確認すべきことだ。

※2.利子率と投資の直接的な関係をMMTが否定していることは,WrayのUnderstanding Modern Moneyで確認した。ただ私は,その根拠について,WrayやMitchellの文献でまだ確認していない。しかし,ケインズ『一般理論』をMMTが文字通りに受容しているのだとすれば,<投資が利子率と資本の限界効率の関係で決まるからであり,資本の限界効率は不確実性を含むから>なのだろうと予想する。そして,この背後には,おそらくMMTというかケインズに対するオールド・ケインジアン的理解がある。MMTはマクロ的に言えば<投資は事前の貯蓄を必要とせず,投資がそれに等しい貯蓄を生み出す>と考えているのでああろう。さらに予想を含めて言うと,ミクロレベルでのMMTの貨幣論がこれに関係する。MMTの信用貨幣論では,<投資に必要な貸し出しは事前に預金がなくとも信用創造によって可能になる>のだが,これがマクロの投資・貯蓄論と連動しているのだと思われる。しかし,ここのつながりについては私の理解は十分でなく,今後確認しなければならない。

※3.とはいえ,ケインズ『一般理論』の理解から,財政赤字に関するMMTのような理解が本当に唯一妥当なものとして引き出されるのかどうかは,もっと学んでみないと私にはわからない。また,MMTは貨幣と財政に関する見地をむしろケインズ『貨幣論』から引き出している可能性もあり,そうすると『貨幣論』と『一般理論』の関係をどう理解するかも問題になる。両者の間の連続性と非連続性は元来重要なテーマだと聞いているからだ。なので,『貨幣論』を学んでいない私には,貨幣理論から来る財政観について,MMTがケインズ理解のどのような系譜にあると見るべきかについて,まだ断定する力がない。

※4.以下のノートで,金融政策重視の正統派と財政政策重視のMMTをくっきりと対比させてみた。
「MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる」

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(5)を読んで

 野口教授によるMMT検討と批判第5回。政府に予算制約があるかないかという論点についての考察。

 まず野口教授は「MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と理解する。次に,野口教授はこの分類から,MMTが「リカード・バローの中立定理」を否定していること,「物価水準の財政理論」(FTPL)による物価水準論も否定していることを正しく読み取られる。

 ここまでは読解として問題はない。そしてこの確認は大変重要だ。1970年代以後,ケインズ的財政政策に加えられた批判の重要な柱は<課税と公債発行には本質的な差はない><赤字財政の効果は将来の増税によって相殺される>という「リカード・バローの中立定理」だった。MMTはこの定理を否定する。それは,価値観として否定するのではなく,原理的にこの定理が成りたたないような貨幣・財政理論を持っているということだ。MMTでは統合政府にハードな予算制約がない。だから赤字財政が将来増税を招くということが原理的にないのだ。ちょうど中央銀行が流通に必要な準備や銀行券を自己宛債務として供給するように,MMTの政府は経済を機能させるために必要な通貨を政府債務として供給する。MMTでは,政府は集めた税金の範囲で支出するのではない。経済を機能させるのに必要なだけを支出し,必要なだけを課税し,結果としていくら黒字だろうと赤字だろうとそれ自体は気にしなくてよいとするのだ(※1)。気にすべきは,経済が機能したかどうか,典型的には失業者がいなくなり,悪性インフレが起きないようにできているかどうかだ(※2)。

 次に,野口教授が次のように言うのは適切でない。「赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである」。なるほど,MMTにとっては,<政府の予算制約><それ自体>に対する<配慮>は<無意味>である。MMTは,<望ましからぬインフレ>とその背後にある供給制約には厳重に警戒している。すなわち,一国経済の物的生産能力の天井が低く,あるいは/かつ物的生産性が低ければ,いくら財政拡張を行っても生み出せる実質所得は限られており,完全雇用か設備フル稼働の後はインフレになるだけなのである。野口教授がMMTのこの部分を無視されるのは公平ではない。

 また,野口教授の次の指摘もおかしい。「正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、『財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する』という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない」。これは全く言いがかりであって,財政赤字の拡大と民間資産の増加による不況やデフレの克服はMMTでも,赤字ハト派の正統派と変わらず有効に機能する。例えばWrayが主張する,政府が財政を拡張して,失業者すべてを最低賃金で雇い,その賃金水準を調整するという政策が不況の克服策となる(※3)。なぜ,野口教授がMMTが大声で主張していることを正反対に解釈するのか,理解できない。

第6回の検討に続く) 

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論」Newsweek,2019年8月13日。


※1。MMTで直観的に一番わかりにくいところがここだろう。これまでMMTについて対話したすべての人が,ここで一端はつっかかる。私もそうだった。以下の拙文は,こう解釈すれば飲み込めるのではないかという試み。
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」


※2。私見では,MMTの最大の問題は財政赤字が拡大すること自体ではなく,失業を失くしインフレを起こさないように赤字の程度や増減の速度をコントロールできるのかというところにある。以下の拙文で述べた。
「最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて」

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