まず早川氏は,信用貨幣論による信用創造論は,「金融実務家の常識」から言って正しいことを認めている。これは非常に重大なことであり,マクロ経済学の常識が全く間違っていることを示している。早川氏は「MMTでは貸出が出発点だから、『中央銀行がマネタリーベースを増やしても、資金需要がなければ貸出は増えないので、マネーストックも増えない』」としていることに賛同し,「『金融実務家の常識』を理論の1つの柱として打ち出したのはMMTの功績であり、MMTの信用創造の理解は主流派経済学の弱点を突くものとなっていると思う」としている。早川氏は,この点で主流派,リフレ派,「期待に働きかける」派は誤りであったとしているのである。私も全くそう思う。
その上で,早川氏は,国債発行によって吸収されるのは民間銀行の中央銀行当座預金であって,民間貯蓄は逆に増える,だからクラウディング・アウトはありえないとするMMTを以下のように批判する。「銀行により多くの国債を買ってもらうためには金利が上がる必要があるから、国債発行額が増えれば国債の金利は上がる。国債発行に限界がないのではなく、金利という価格の制約が厳に存在するのである」。
次に,機能的財政論についても,早川氏は財政健全化より財政が果たす機能で財政を評価しろというのは常識的であるとする。その上で,「国債発行額が大きくなれば金利上昇を招くから、民間需要のcrowding-outにつながる。国債金利(r)と名目成長率(g)の関係がr>gとなった場合、十分なプライマリーバランスの黒字が無ければ、債務が雪ダルマ式に膨らみ、国債残高/名目GDP比率が発散してしまう。」という。
信用創造論と機能的財政論について早川氏が論評していることは本質的に同一であり,金利制約である。これに対するMMTの回答は,おそらくこうなるだろう。「銀行からみれば,利子がゼロまたは低い中銀当座預金などもっていても仕方がないのであり,これを国債に喜んで置き換えるはずだ。また,国債を購入すれば中銀当座預金が減って政府預金が増えるが,政府が国債発行で調達したお金を支出すれば,民間企業が銀行に政府からの代金取立てを要求するので,今度は政府預金が減って中銀当座預金が増える。プラマイゼロであって,銀行が民間企業に貸し出す信用創造には何ら悪影響を及ぼさず,利子率は騰貴しない。
政府からみれば,利子が高くなるような局面はそもそも景気が回復してインフレになりそうな場合だから,そのような時には国債の追加発行の必要はない。国債の追加発行が必要なのは,低金利でも景気が回復せず,デフレになっている時だ」。そしてこうも言うだろう。「それでも国債発行により金利が高騰しそうな状況があるとすれば,デフォルトリスクがあるときだろう。それならば,現に日銀が行っているように中央銀行が国債を買い支える保証を与えればよい」。
早川氏はこの論点は無視しているが,MMTは極めて強い意味の統合政府論であり,中央銀行と政府は協調すると想定しているのである。なので統合政府論によって上記のように反論されてしまう。逆に言えば,早川氏の批判をより突き詰めるためには,統合政府論に対してもっと突き詰めて追求する必要があるだろう。1)中央銀行は常に政府と協調して国債を買い支えるだろうか。2)逆に中央銀行が常にそのように協調した場合,財政赤字は発散して歯止めがなくならないか。私は,ここまで言うことで,MMTに対する正面からの疑問になると思う。
早川氏はMMTの表券主義に対しても一定の理解を示しつつ,「納税に使えたとしても、政府財政に対する信用がなければ、現金通貨の価値は保証されないのである」という疑問を呈している。これはより具体的には,「日本政府が消費増税にどれだけ苦労しているかを考えれば明らかだと思うが、政府に増税の必要を国民に納得させる力、または国民に増税を強要する力がない限り、増税でインフレを止められる保証はない」という疑問である。これは極めてもっともなMMT批判であり,金利制約論への私の再解釈による2)と同じであると思う。つまり,早川氏のMMT批判は突き詰めるように再解釈すれば,1)と2)に帰着する。
MMTは,インフレ対策としての課税強化,または支出削減が合理的であると経済分析するが,それを実行可能にする政策論を持たねばならない。しかし,これは非常に難しいことだ。
一方で,MMTが述べるように,財政均衡論は合理的ではない。しかし,財政均衡の義務付けや,中央銀行による国債引き受けの禁止は,単なる錯誤ではなく,いわば悪徳を避けるための過度な禁欲である。例えば,これにより軍事費が不合理かつ無限に膨張しうることを防止できるが,合理的な社会保障や教育や生活インフラに対する支出まで禁じてしまう。インフレは防げるが,減らせるはずの非自発的失業者を減らすことができず,路頭に迷わせてしまう。
逆に,この歯止めを解除した場合に,今度は,過度な禁欲もなくなるが,悪徳への歯止めもなくなる。社会保障や教育や生活インフラに対する支出に対する歯止めもなくなるし,失業者がいなくなるまで雇用を増やすことができるが,軍事費の膨張に対する歯止めもなくなってしまう。そして,民主主義国家においては,軍部であれ経済界であれ貧困層であれ,いずれの集団の代表も支出の拡大を常に求めるだろう。インフレ圧力に対して,どこからどのように歯止めをかけられるのか。中央銀行の独立性が認められない以上,支出膨張を求める諸勢力が,自ら国会で定める法とルールによってかけねばならない。ここには政治構造上,かなりの困難が立ちはだかっているように思う。私はこれが,MMTを政策として実行しようとした場合の最大の困難であると思う。
財政均衡論を旨とする議論は,財政支出に不合理な歯止めをかけるものであり,その弊害は明らかに大きい。MMTはこれは不合理だよと証明する経済分析を提示する。しかし,不合理な歯止めが亡くなった後に,どのような合理的歯止めを,民主主義国家は設定し,運用することができるのか。それが問題であろう。
このように,私は早川氏とともに,まずMMTが金融・財政機構の描写としては主流派経済学より妥当なところがあり,「金融実務家の常識」にもかなっていることを確認したい。その上で,金利制約論を重視する早川氏の見解に一定の再解釈を加えることで,MMTを政策化しようとする場合の本質的問題は,1)強い意味での統合政府論の現実性と,2)統合政府の下での,財政赤字の歯止めの問題であることが理解できるように思うのである。
早川英男「MMT(現代貨幣理論):その読解と批判」富士通総研,2019年7月1日。
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誰もコメントくれないのですね。可哀想ですからコメントします。
返信削除まずあなたは、自分が間違っていることをわかっているのですよね。なんとか自分の
間違いを指摘しづらい様に、訳の分からないことを書いたのですよね。少し可哀想で
す。
新古典派経済学者は、表面では「市中銀行による信用創造は実務家の間ではあたりま
え」と言いますが、これが残念ながら主張に反映されていません。所詮貴方たちは、
「お金のプール論」なのです。お金は有限で、お金を誰かが使うと、誰かのお金が
減るという主張をするのです。少し可哀想です。
もう一点。日本は四権分立ではなく、三権分立です。日銀は行政の一機関です。
日銀は政府の意向に沿う義務があるのです。
こんな次元の低い主張を未だにするのでしたら、経済界で生きていくのは止めた
方が良いですよ。
早川君には間違いを指摘しておきましたよ。
何を「可哀想」とおっしゃっているのかはよくわかりませんので,理論的な話だけ申します。
削除私は,MMTの信用貨幣論による表券主義は正しいと考えています。拙ブログの他の記事もご覧ください。私はMMT以前から金融論における信用貨幣論の見地に立っておりましたが,昨年より1年間かけてMMTの財政論を学び,少なくとも管理通貨制の元ではそれが正しいと考えるに至りました。
信用貨幣論の見地から早川氏の考えを論評する時,新古典派だ,間違いだと打撃的なことだけ述べるのは批判として浅いものです。むしろ,早川氏が信用貨幣論と表券主義を正しいと認めざるを得ないところに注目すべきだと思ったのです。論敵も認めざるを得ない正しさこそが説得力のある正しさではないですか。
拙ブログを論評いただくにも早川氏の議論を論評するにも,頭から敵だと決めつけて馬鹿にするのではなく,まずよく読んで論旨をくみ取っていただくことが大事だと思います。もちろん,論評を受ける側が,くみ取りやすいように書くことも大事です。
理解する気あるのか?
返信削除誰が,何を「理解する気あるのか」とおっしゃっているのかわかりません。
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