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2019年7月13日土曜日

深く好意的に,深く批判的に:平川均「赤松要と名古屋高等商業学校 : 雁行形態論の誕生とその展開に関する一試論」

 私は,理論的な方面については,講義で紹介とコメントはできるが自分で論文を書くほどではないという水準をうろうろしている。しかし,一度は論じてみたいと思っているテーマもいくつかあり,そのひとつが雁行形態論だ。雁行形態論は,そのまま現実の描写とするには単純すぎるが,産業発展の基本モデルとしては,考察の出発点の一つに置くべきものと私は思っており,大学院前期課程の講義でも,比較優位論における労働価値説と主流派理論の対比,そして雁行形態論とプロダクト・サイクル論の対比を必ず教えている。
 だが,雁行形態論を講義するにあたっては,解決しておかねばならない謎があると,私はずっと思っていた。一つは,経済発展論としての謎だが,これはいまは脇に置く。もうひとつは,経済思想史としての謎だ。すなわち,提唱者の赤松要において,経済発展論という経済理論と総合弁証法という認識論が結びついていたかどうかであり,そのことはまた大東亜共栄圏の構築に対する賛美や関与と結びついていたかということだ。比較的近年出版された赤松の評伝である池尾愛子『赤松要 わが体系を乗りこえてゆけ』日本経済評論社,2008年では,この点は驚くべきことに全く無視されている。しかし,この論点を捨象しては,雁行形態論を政策として論じた場合に,無意識のうちに特定の認識論を選び,特定利害に引きずられた歴史解釈や政策を生まないかというのが私の長年の疑問と不安であった。
 ところが,最近,金澤孝彰先生のFacebook投稿により,平川均「赤松要と名古屋高等商業学校 : 雁行形態論の誕生とその展開に関する一試論」『経済科学』60(4),名古屋大学大学院経済学研究科,13-64という論文と講義資料があることを知った。平川教授の名古屋大学における最終講義だ。この論文を拝読し,私が雁行形態論に対して経済思想史として抱いてきた謎は,ほとんど解明されていることを知った。赤松における産業の実証的解明を重視する姿勢と,過度な単純化を好む性向,客観的な経済発展モデルを追求する傾向と大日本帝国の経済政策への傾斜が,どのように彼の中で「総合」されていたのかが,赤松の歩みに即して丁寧に,しかも理論的に明確に論じられている。このように赤松に対して,深く好意的で,かつ深く批判的な論文を今まで見落としていたのは,実に不覚だった。
 赤松においては,総合弁証法の「総合」する立場とは「日本精神」であった。赤松が時代の情勢に応じて選び取った価値観に過ぎない「日本精神」,ありていに言えば大日本帝国国家の政策への傾斜を,普遍的によって立つべき規範としたところに,「総合弁証法」の恣意性があった。そして,これは赤松要一個人のことでもなければ,過去のことでもない。日本国家の政策に過ぎないものを普遍的に意味があるものとし,「国民」にとって当然のこととして規範化する問題,日本国家が「日本」であり,自分が「日本」であるかのように見せかけて規範化し,他者に強要することの問題は,この国のあちこちでいまも続いている。

平川均(2013)「赤松要と名古屋高等商業学校 : 雁行形態論の誕生とその展開に関する一試論」『経済科学』60(4),名古屋大学大学院経済学研究科,13-64。



2019年7月9日火曜日

最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて

 元日本銀行理事,現在は富士通総研経済研究所エグゼクティブ・フェローである早川英男氏のMMT評価。MMTの3つの柱を①信用貨幣論(credit theory of money)に基づく信用創造の理解、②ラーナー流の機能的財政論(functional finance)による財政の理解、③表券主義(chartalism)に基づく現金通貨の理解とし,いずれについても,主流派より正しい面があること,また現実の描写として実は常識的であることを述べつつ,財政政策論がおかしいと批判している。私はあるところまで早川氏とともにMMTを理解したい。その上で,氏の批判にある程度の再解釈を加えた方が,より論点が明確になると思う。

 まず早川氏は,信用貨幣論による信用創造論は,「金融実務家の常識」から言って正しいことを認めている。これは非常に重大なことであり,マクロ経済学の常識が全く間違っていることを示している。早川氏は「MMTでは貸出が出発点だから、『中央銀行がマネタリーベースを増やしても、資金需要がなければ貸出は増えないので、マネーストックも増えない』」としていることに賛同し,「『金融実務家の常識』を理論の1つの柱として打ち出したのはMMTの功績であり、MMTの信用創造の理解は主流派経済学の弱点を突くものとなっていると思う」としている。早川氏は,この点で主流派,リフレ派,「期待に働きかける」派は誤りであったとしているのである。私も全くそう思う。

 その上で,早川氏は,国債発行によって吸収されるのは民間銀行の中央銀行当座預金であって,民間貯蓄は逆に増える,だからクラウディング・アウトはありえないとするMMTを以下のように批判する。「銀行により多くの国債を買ってもらうためには金利が上がる必要があるから、国債発行額が増えれば国債の金利は上がる。国債発行に限界がないのではなく、金利という価格の制約が厳に存在するのである」。 

 次に,機能的財政論についても,早川氏は財政健全化より財政が果たす機能で財政を評価しろというのは常識的であるとする。その上で,「国債発行額が大きくなれば金利上昇を招くから、民間需要のcrowding-outにつながる。国債金利(r)と名目成長率(g)の関係がr>gとなった場合、十分なプライマリーバランスの黒字が無ければ、債務が雪ダルマ式に膨らみ、国債残高/名目GDP比率が発散してしまう。」という。

 信用創造論と機能的財政論について早川氏が論評していることは本質的に同一であり,金利制約である。これに対するMMTの回答は,おそらくこうなるだろう。「銀行からみれば,利子がゼロまたは低い中銀当座預金などもっていても仕方がないのであり,これを国債に喜んで置き換えるはずだ。また,国債を購入すれば中銀当座預金が減って政府預金が増えるが,政府が国債発行で調達したお金を支出すれば,民間企業が銀行に政府からの代金取立てを要求するので,今度は政府預金が減って中銀当座預金が増える。プラマイゼロであって,銀行が民間企業に貸し出す信用創造には何ら悪影響を及ぼさず,利子率は騰貴しない。
 政府からみれば,利子が高くなるような局面はそもそも景気が回復してインフレになりそうな場合だから,そのような時には国債の追加発行の必要はない。国債の追加発行が必要なのは,低金利でも景気が回復せず,デフレになっている時だ」。そしてこうも言うだろう。「それでも国債発行により金利が高騰しそうな状況があるとすれば,デフォルトリスクがあるときだろう。それならば,現に日銀が行っているように中央銀行が国債を買い支える保証を与えればよい」。

 早川氏はこの論点は無視しているが,MMTは極めて強い意味の統合政府論であり,中央銀行と政府は協調すると想定しているのである。なので統合政府論によって上記のように反論されてしまう。逆に言えば,早川氏の批判をより突き詰めるためには,統合政府論に対してもっと突き詰めて追求する必要があるだろう。1)中央銀行は常に政府と協調して国債を買い支えるだろうか。2)逆に中央銀行が常にそのように協調した場合,財政赤字は発散して歯止めがなくならないか。私は,ここまで言うことで,MMTに対する正面からの疑問になると思う。

 早川氏はMMTの表券主義に対しても一定の理解を示しつつ,「納税に使えたとしても、政府財政に対する信用がなければ、現金通貨の価値は保証されないのである」という疑問を呈している。これはより具体的には,「日本政府が消費増税にどれだけ苦労しているかを考えれば明らかだと思うが、政府に増税の必要を国民に納得させる力、または国民に増税を強要する力がない限り、増税でインフレを止められる保証はない」という疑問である。これは極めてもっともなMMT批判であり,金利制約論への私の再解釈による2)と同じであると思う。つまり,早川氏のMMT批判は突き詰めるように再解釈すれば,1)と2)に帰着する。

 MMTは,インフレ対策としての課税強化,または支出削減が合理的であると経済分析するが,それを実行可能にする政策論を持たねばならない。しかし,これは非常に難しいことだ。

 一方で,MMTが述べるように,財政均衡論は合理的ではない。しかし,財政均衡の義務付けや,中央銀行による国債引き受けの禁止は,単なる錯誤ではなく,いわば悪徳を避けるための過度な禁欲である。例えば,これにより軍事費が不合理かつ無限に膨張しうることを防止できるが,合理的な社会保障や教育や生活インフラに対する支出まで禁じてしまう。インフレは防げるが,減らせるはずの非自発的失業者を減らすことができず,路頭に迷わせてしまう。
 逆に,この歯止めを解除した場合に,今度は,過度な禁欲もなくなるが,悪徳への歯止めもなくなる。社会保障や教育や生活インフラに対する支出に対する歯止めもなくなるし,失業者がいなくなるまで雇用を増やすことができるが,軍事費の膨張に対する歯止めもなくなってしまう。そして,民主主義国家においては,軍部であれ経済界であれ貧困層であれ,いずれの集団の代表も支出の拡大を常に求めるだろう。インフレ圧力に対して,どこからどのように歯止めをかけられるのか。中央銀行の独立性が認められない以上,支出膨張を求める諸勢力が,自ら国会で定める法とルールによってかけねばならない。ここには政治構造上,かなりの困難が立ちはだかっているように思う。私はこれが,MMTを政策として実行しようとした場合の最大の困難であると思う。

 財政均衡論を旨とする議論は,財政支出に不合理な歯止めをかけるものであり,その弊害は明らかに大きい。MMTはこれは不合理だよと証明する経済分析を提示する。しかし,不合理な歯止めが亡くなった後に,どのような合理的歯止めを,民主主義国家は設定し,運用することができるのか。それが問題であろう。

 このように,私は早川氏とともに,まずMMTが金融・財政機構の描写としては主流派経済学より妥当なところがあり,「金融実務家の常識」にもかなっていることを確認したい。その上で,金利制約論を重視する早川氏の見解に一定の再解釈を加えることで,MMTを政策化しようとする場合の本質的問題は,1)強い意味での統合政府論の現実性と,2)統合政府の下での,財政赤字の歯止めの問題であることが理解できるように思うのである。

早川英男「MMT(現代貨幣理論):その読解と批判」富士通総研,2019年7月1日。

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MMTではゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる


2019年7月7日日曜日

MMTと常識的な経済学とでは,ゼロ金利下において金融政策と財政政策の役割が入れ替わる

 MMT(現代貨幣理論)は,どうも常識的なマクロ経済学とただ「違う」だけでなく,特定の条件の下で,「金融政策と財政政策の役割をそっくり入れ替えて理解している」ように見える。なぜ,こうなるのだろうか。最終的なMMTの正否や,当面の政治的立場とは別に,理論の問題として考えておかねばならないように思う。

 ここで特定の条件とは,「ゼロ金利にしても需要不足が解消できないような状況」のことだ。つまりは,今世紀になってから先進諸国がしばしば陥っている状態のことだ。

 この条件が満たされない限りは,常識的なマクロ経済学とMMTの政策的対立はそれほど激しくない。中央銀行の金融政策で金利を操作すれば,銀行の企業に対する貸出金利に影響を及ぼし,それによって投資にも影響を及ぼし,したがって需要に影響する。失業率が高いときに政府の財政政策を発動することで需要が喚起されて雇用が拡大する。これによって財政赤字も増大するが,景気が回復すればインフレになり,かつ税収が拡大するので,財政は引き締め気味に運営することが適切となる。これらは,少なくとも実践のレベルでは常識的な理論だろうがMMTだろうが同じことだ。

 しかし,上記の条件が満たされてしまうと,話が大きく異なってくる。以下,浅学を省みずに対比してみる。

 常識的な経済学は,管理通貨制の下での通貨を政府の強制通用力か人々の信認による価値シンボルとみなす。そして,貨幣は政府または中央銀行により金融システムを通して外生的に供給可能であるとする。政府または中央銀行は金融システムを用いて通貨を創造する。悪性インフレを防ぎ通貨価値を安定させることも金融システムの役割である。この考えを延長すれば,ゼロ金利下であっても,通貨が外生的に供給可能である以上,政府は非伝統的金融政策により通貨供給量を増やして有効需要を喚起するという,リフレーション政策を取ることが有効である。

 また,常識的な経済学は,財政システムにおいては政府はハードな予算制約の下に置かれており,税収の範囲で支出すると考える。正常な財政システムでは通貨は創造されない。課税の本質的役割は公共目的に支出財源を確保することである。課税しなければ支出できない。政府は,一時的に財政赤字を出すことはあるとしても,財政均衡を保つのが正常な状態である。通貨が統合政府の負債と記帳されることは単なる会計の形式論で実質的意味がないものである(※)。したがって,財政赤字の一定以上の拡大や恒久化は避けるべきであり,ゼロ金利下であっても財政拡張に頼るべきではない。財政赤字を拡張したところで,政府債務が積みあがり,結局将来の税収によって補わねばならないだけであるから,裁量的財政政策での有効需要創出効果はそもそも限られていると見るべきだ。すでに政府債務累積している状況下では財政再建を優先すべきだ。

 対して,MMTではどうなるか。

 MMTは,貨幣(現金通貨と預金通貨)は統合政府(政府+中央銀行)の手形=債務証書であるとする。そして,このことの系として,金融システムにおいて「貨幣は貸付需要に応じて銀行・中央銀行が信用を供与する金融取引によって創造される」という内生的貨幣供給論を採ることになる。政府は金融政策では通貨を創造しない。企業の借り入れ需要に応じて通貨が創造される。したがって,ゼロ金利下であれば,金融政策では企業の借り入れ需要を刺激することはできない。中央銀行が一方的に通貨供給量を増やすことはできない。ゼロ金利下でのリフレーション政策は,金融政策のみで行う限りまったく無効である。なお,人為的にマイナス金利政策を取れば,金融機関の経営を破綻に追い込むだけである。

 一方,MMTは,財政システムにおいて,統合政府が貨幣=政府手形を発行して贈与したり財・労働力・サービスを購入したりする実物取引によって,需要が創造されると主張する。つまり財政システムで通貨が創造される。公共目的に必要な財源は,政府債務の創造によって調達される。課税の本質的役割は支出財源を確保することではなく,悪性インフレを防ぎ通貨価値を安定させることである。課税しなければ通貨価値を調整できない。統合政府は赤字なのが正常な状態であり,統合政府が債務を負って信用貨幣を発行することで,流通に必要な現金通貨が供給できているのである(※※)。したがって,財政赤字と政府債務はそれ自体は問題ではない。統合政府債務は恒久的に存在するのであって,将来の税収によって埋め合わせねばならないものではない。ゼロ金利下にあっては,財政政策だけが有効需要を拡張できるマクロ経済政策である。

 常識的な経済学から見れば,MMTが「統合政府が財政政策を調節して外生的に貨幣を供給できる」というのは馬鹿げている。租税を徴収しなければ財政支出で貨幣を供給することもできない。いくら統合政府が財政赤字を拡張したところで,政府債務が積みあがり,結局将来の税収によって補わねばならないだけであり,通貨供給量も需要も通時的にはさほど増やすことはできない。マクロ経済政策の範囲で需要を増やしたければ,政府または中央銀行が金融システムによって貨幣を供給しなければならない。

 MMTからみれば,常識的な理論が「政府または中央銀行が金融政策を調節して外生的に貨幣を供給できる」というのは馬鹿げている。借り入れ需要のないところに貸し出しは起こらない。いくら中央銀行が金利を引き下げ,買いオペレーションをしても,それだけでは,中央銀行当座預金が積みあがるだけであって,通貨供給量は増えない。マクロ経済政策によって需要を増やしたければ,政府が財政支出するしかない。

 このように,ゼロ金利下,そして財政赤字の累積下では,常識的なマクロ経済学とMMTとでは,金融政策と財政政策の役割がそっくり入れ替わるのである。そうなる理論的根拠は,おそらくMMTが信用貨幣論的な政府貨幣論(※※※)と,強い意味の統合政府論(※※※※)をとっていることにある。ということは,常識的なマクロ経済学とMMTのどちらかが正しいとするならば,MMTの正否は,信用貨幣論的政府貨幣論と,強い意味の統合政府論にかかっているということになるだろう。

※こう考えないと,中央銀行が中央銀行券を発行している以上,統合政府は常に債務を背負っていることになってしまう。だから常識的なマクロ経済学では,中央銀行券の債務性は実質的にはないものと考える。

※※だから,統合政府が貨幣=政府手形を発行し,中央銀行が中央銀行券を発行している以上,統合政府は常に債務を背負っていることになる。MMTでは,貨幣=政府手形の債務性が実質的にあると考える。

※※※MMTは,政府貨幣=統合政府の手形とする点で信用貨幣論を取っている。ここで,政府手形がどうして現金通貨として人々によって信認され,支払手段としても流通手段としても用いられるのかという問題がある。MMTは,政府が人々に対して,政府貨幣を納税手段として認めることによってである,とする(中央銀行券も,政府への納税及び中央銀行に対する支払いの手段と認められる)。納税手段と認められることにより,政府貨幣=政府手形は税債務との相殺を可能とする支払い手段となる。そして,納税手段であることによって,人々が政府貨幣を求めるようになり,民間でも支払い手段及び流通手段になるというのである。

※※※※MMTの統合政府論では,政府が国債を発行することによって生じる債務のみならず,中央銀行が中央銀行券を発行し,また市中銀行からの預金を受け入れることによって負う債務も実質的な債務だとされている。これが「強い意味」での統合政府である。だから政府債務があって当たり前であって,債務のない統合政府など存在しない。一方,常識的なマクロ経済学では,たとえ統合政府論を取る場合でも,中央銀行券や中央銀行預け金の債務性は実質的にないものとみなす。そして,財政だけを対象として,政府債務がないことを正常な状態とみなす。

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2019年7月3日水曜日

MMTの評価には,規範論でなく経済分析からの批判が必要

 小黒一正氏のMMT批判。これは,昔のケインズ政策に対する「ハーヴェイロードの前提」批判であり,公共選択論による批判である。私は,規範論としてこの指摘は一理あると予感する。MMTは統合政府の財政が赤字で政府債務があることは当然とした上で(赤字にしないと日銀券=統合政府の手形も発行できない),財政は悪性インフレを防ぐように運営されるべきとする。それを民主主義の下でどうやって防ぐのだという公共選択論の問いかけは,おそらくMMTにも妥当する。
 しかし逆に言うと,これはMMTが抱える問題が,昔のケインズ政策と同様の「財政赤字のサステナビリティ」問題であることを意味する。つまり,多くの人が昔の財政赤字論争を忘れてしまったからMMTの主張が突飛に見えてくるだけであって,実は昔のケインズ政策より突飛ということはないのである。何しろMMTは一種のケインズ理解なのだから。
 そしてまた,公共選択論が,資本主義国家の財政に与える様々な利害関係の強弱を無視し,軍事国家や企業国家と呼ばれるように(宮本憲一『現代資本主義と国家』岩波書店,1981年の類型論による),政府に影響力を行使できる資本グループに奉仕する財政構造が作られていることを無視していること,ともすれば教育や社会保障支出の切りつめを正当化する理屈になりやすいことも,昔と同じである。古くからある左からの批判も,小黒氏に向けられるだろう。MMTの支持者のうち左派は,そういう財政構造が問題であって,人民のために支出しろと言っているのだ。
 ここまでのところ,話は新しいようで古いのだ。だから,実はMMTにせよそれに対する反対にせよ,さほど突飛ではない。少なくとも,MMTだけが突飛で小黒氏が常識的だとはとても思えない。どちらも,大いにあり得る話として温故知新で議論すればよい。

 もっとも,それだけではすまない,新しいこともある。1)規範論としての意味と,2)規範以前の客観的な現実分析としての意味は違っているということだ。当然,現実分析(「財政とは+++である」)を踏まえて規範(「財政は××であるべきだ」)を述べねばならない。
 MMTも(私の理解ではケインズも),規範論という側面と,経済システムの客観的分析の側面を持っている。もちろん,後者が基礎になって前者がある。そして,MMTによる後者,つまり経済分析は,おそらく主流のマクロ経済学と異なっている。MMTを評価するには,規範論に規範論をぶつけるのではなく,その経済分析を理解した上で,正しいかどうかを判断すべきだろう。
 具体的に言うと,小黒氏は,明らかに財政均衡がノーマルな状態であって,財政赤字は,出すこともできるし,出さないこともできるととらえている。それはそれで,主流派の経済分析による根拠があるからだ。だから,「憲法で財政均衡を義務付けるしかない」というブキャナンの主張まで肯定的に紹介する。これは自らの経済分析による規範論だ。
 しかし,MMTはもともと統合政府論であり,統合政府の財政は赤字なのがノーマルな状態であり,通貨はもともと,納税に使えると政府に認定されたから通用しているのだと主張している。赤字を出さないことは,やりたくてもできないのである。だから,MMT自らの経済分析による規範論は「憲法で財政均衡を義務付けるなど意味がない」となるのである。
 だから,MMTに向かって,「赤字を出してもよいなんてトンデモない主張だ」では表面的な批判にしかならず,理論的にはほとんど意味がない。規範論の背後にある経済,財政,貨幣に対する分析を把握したうえで,そこから評価しなければならないだろう。これは小黒氏に特定して言っているのではなく,多くのMMT批判についてこのように指摘したいのだ。もちろん,MMTが主流派の理論を評価する場合も同じ基準が妥当する。

 私は,時間はかかっても,MMTの経済分析を理解して評価したいと思っている。

小黒一正「MMT(現代金融理論)が見落としているもの…財政の民主的統制の難しさ」Business Journal,2019年6月4日。



2019年6月25日火曜日

細野祐二『会計と犯罪 郵便不正から日産ゴーン事件まで』の特捜検察批判

 就寝前と仕事の合間を使っただけなのだが,2日間で読み終えた。こう言っては何だが,岩波書店には珍しい,ミステリーのように引き込まれて,すらすらと読める本だ。

 著者のこれまでの本と異なり,粉飾決算事件の分析ではない。中心となるのは郵便不正事件とそれに続く,村木厚子氏が起訴されて無罪となった虚偽公文書事件,そして大坂地検特捜部による証拠改ざん事件だ。おそらく,もともとこれらを主要な対象と予定していたのだろう。ところが日産自動車カルロス・ゴーン事件が発生し,それが最後部に置かれることになった。

 本書は,経済事件における特捜検察による冤罪の構造を暴いた本なのである。細野氏によれば,ゴーン会長は役員報酬の件にせよオマーン・ルートにせよ,法的には無罪とされるべきなのである。なぜそう言えるのかは,どうか本書にあたられたい。




細野祐二『会計と犯罪 郵便不正から日産ゴーン事件まで』岩波書店,2019年。


2019/6/6 Facebook投稿の再録。



2019年6月21日金曜日

『キングコング:髑髏島の巨神』:ベトナムから遠く離れられない兵士たち

 アマゾンビデオで『キングコング 髑髏島の巨神』をアマゾンで視ました。ただいま公開中の『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』と同一世界という設定です。時は1973年。諜報組織モナークは,ベトナムから這う這うの体で撤退中のアメリカ軍に護衛してもらいつつ,地球観測衛星ランドサット(1972年に1号機打ち上げ)が発見した未知の島に向かいます。

(以下,前半30分についてのみネタバレあり)

 ヘリでナパーム弾みたいな爆発を伴う調査機器を投下していると、いきなりコングが現れて,引っこ抜いた木を投げつけ,1機墜落。逆上した隊長は発砲を命じるが,反撃食らって全機墜落。ジャングルと泥の河をさまよう羽目に。「部下の仇を取る」とコング抹殺に燃え狂う隊長に,同行する民間人は大迷惑。

 その後,色々あったのですが,言うべきことはただ一つではないかと思うのです。

「撃つな,馬鹿」。

Amazon Video 『キングコング:髑髏島の巨神』



『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』Godzilla: King of the Monsters

『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』Godzilla: King of the Monsters視ました。ネタバレにならない範囲での感想。

*映像はすごかった。さすがはハリウッドだ。
*ゴジラシリーズの怪獣たちへの「愛」は感じられた。「わかってるな」と思わせるショットも多い。
*ゴジラは人智を超えた自然の守り神みたいなもんになっている。この点は前作(「東宝チャンピオンまつり ゴジラ対ムートー サンフランシスコ大決戦」だったっけ)よりはるかに明確に打ち出されていて,ストーリーの骨格をなしていた。なので,そういうものなんだと自己暗示して受け入れれば面白く見られる。
*前作で何しに出て来たのか全く分からなかった芹沢博士が,ちゃんと活躍したのには安心した。
*核兵器の取扱いについては,例によって,ざけんな馬鹿野郎と思いつつ視るしかない。


2019年6月16日日曜日

フォルモサ・ハティン・スチール:単年度赤字が続くも,国内での同社材への需要は強い。トランプ政権の通商政策は思わぬ後押しに

 ベトナムに立地する台湾系高炉メーカー,フォルモサ・ハティン・スチール(FHS)は,2017年に5.2兆ドン(2億ドル),2018年に2.7兆ドン(1.1億ドル)の赤字を計上した。これは,おおむね予想通りだ。海洋汚染事件で第1高炉稼働が1年遅れて2017年になり,第2高炉も2018年に稼働したばかりだから,年あたりの償却負担や金融費用がかさんで当然だ。
 第2高炉稼働後,半年で200万トン以上の粗鋼を生産したとあるから,年間400万トンペースの稼働状況とみられる。フル稼働で年産700万トンのはずだから,まだ慣らし運転から脱却しきってはいないが,生産増大のペースはそう遅くない。
 国内市場への売れ行きは好調なはずだ。ベトナムはすでに建設用表面処理鋼板の輸出国になっているが,対米輸出に際しては,母材のホットコイルによってアンチダンピング税がかかってしまう。どういうことかというと,中国製,韓国製,台湾製のホットコイルはアメリカからダンピング輸出を認定されている。それらをベトナムの冷延・表面処理鋼板メーカーが母材に用いると,最終製品はベトナムから輸出するのであっても迂回輸出とみなされて課税されてしまう。そのため,ホア・セン・グループなどベトナムの鋼板メーカーは,フォルモサ製ホットコイルを使いたがっている。トランプ政権は,事実上,フォルモサの営業をしてあげているようなものなのだ。

FHSに対するまとまった評価は以下の拙論で行っています。
「国際経済統合下におけるベトナム鉄鋼業の発展」TERG Discussion Paper, No. 395, 2018年11月。

Steel maker Formosa incurs huge losses despite incentives, Hanoitimes, June 15, 2019.

Vietnam's steelmaker Hoa Sen to purchase hot-rolled coil from Formosa Ha Tinh, Hanoitimes, October 12, 2018.

2019年6月13日木曜日

外国人留学生が卒業後に起業することは促進すべきだが,在学中の起業は認めるべきではない理由

 外国人留学生による起業を促すため,大学に在学しながらの在留資格切り替えを認めることが検討されているという時事通信の報道があった。

<卒業後の起業促進は賛成>

 私は,外国人留学生が卒業後に起業することを促すのは賛成だ。日本経済の活性化に大いにプラスになるからだ。そして,起業する(「経営・管理」ビザを取得する)のに,卒業・退学後,いったん帰国しなければならないというのは,確かに理不尽だ。しかし,この問題については,すでに今年初めから,起業を準備する卒業生には「特定活動」の在留資格を与えて滞在延長を認め,その間に起業準備をするという規制緩和が実施されていると報道されている。これで十分だと思う。不十分なら,滞在延長期間を延長すればいい。


<在学中の在留資格切り替えは反対>

 時事通信の報道が正確だと仮定してのことだが,在学中に在留資格切り替えを認めるという今回の案は,賛成できない。在学中に資格を切り替えて起業することを初めから念頭に置いて留学して来る留学生と,そうした留学生を数多く受け入れて定員を満たし授業料収入を上げようとする日本の一部の大学の双方にモラル・ハザードを起こすと思う。片や真剣に授業を受けず,片や教育の中身を充実させようとしない結果,大学教育が劣化するおそれがある。政府は,東京福祉大学事件をもう忘れたのか。

 ちなみに,いったん日本の学部を卒業した前期課程学生,日本の前期課程を修了した後期課程学生であれば,いまでも在学中の資格切り替えは可能だと思う。すでに一度,日本で大学を卒業しているからである。少なくとも私の周囲を見ると,「経営・管理」の例には接したことがないが,「技術・人文知識・国際業務」や「高度専門家」への切り替えはできているように見える。それはそれでもっともなことだろう。

「外国人留学生の起業促進=在留資格切り替え可能に-特区諮問会議」時事ドットコムニュース,2019年6月11日。


「留学経験生かし起業の外国人支援…滞在1年延長」読売新聞オンライン,2019年1月19日。

2019年6月11日火曜日

『産業学会研究年報』第35号投稿募集中

 私が編集委員長を務める『産業学会研究年報』第35号の投稿規程・執筆要項が公表されました。投稿の締め切りは2019年8月30日(金)です。会員の投稿をお待ちしております。写真は第34号です。



『産業学会研究年報』投稿規程・執筆要項(2019年度)

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...