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2019年8月27日火曜日

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討」(5)を読んで

 野口教授によるMMT検討と批判第5回。政府に予算制約があるかないかという論点についての考察。

 まず野口教授は「MMT派は、自らの立場を単に赤字タカ派のみではなくハト派からも区別し、それを赤字フクロウ派と名付けた。彼らは要するに、赤字ハト派とは異なり、「政府財政は景気循環を通じて均衡する必要すらない」と理解する。次に,野口教授はこの分類から,MMTが「リカード・バローの中立定理」を否定していること,「物価水準の財政理論」(FTPL)による物価水準論も否定していることを正しく読み取られる。

 ここまでは読解として問題はない。そしてこの確認は大変重要だ。1970年代以後,ケインズ的財政政策に加えられた批判の重要な柱は<課税と公債発行には本質的な差はない><赤字財政の効果は将来の増税によって相殺される>という「リカード・バローの中立定理」だった。MMTはこの定理を否定する。それは,価値観として否定するのではなく,原理的にこの定理が成りたたないような貨幣・財政理論を持っているということだ。MMTでは統合政府にハードな予算制約がない。だから赤字財政が将来増税を招くということが原理的にないのだ。ちょうど中央銀行が流通に必要な準備や銀行券を自己宛債務として供給するように,MMTの政府は経済を機能させるために必要な通貨を政府債務として供給する。MMTでは,政府は集めた税金の範囲で支出するのではない。経済を機能させるのに必要なだけを支出し,必要なだけを課税し,結果としていくら黒字だろうと赤字だろうとそれ自体は気にしなくてよいとするのだ(※1)。気にすべきは,経済が機能したかどうか,典型的には失業者がいなくなり,悪性インフレが起きないようにできているかどうかだ(※2)。

 次に,野口教授が次のように言うのは適切でない。「赤字ハト派の多くは、完全雇用で財政赤字が残るのであれば、その構造的赤字については増税や歳出削減などによって縮小させる必要があると考える。というのは、そうでないと、望ましからぬインフレなくしては政府の通時的予算制約が満たされない可能性が生じるからである。それに対して、政府債務は無限に拡大できると考える赤字フクロウ派にとっては、完全雇用であれ何であれ、政府の予算制約への配慮それ自体が無意味なのである」。なるほど,MMTにとっては,<政府の予算制約><それ自体>に対する<配慮>は<無意味>である。MMTは,<望ましからぬインフレ>とその背後にある供給制約には厳重に警戒している。すなわち,一国経済の物的生産能力の天井が低く,あるいは/かつ物的生産性が低ければ,いくら財政拡張を行っても生み出せる実質所得は限られており,完全雇用か設備フル稼働の後はインフレになるだけなのである。野口教授がMMTのこの部分を無視されるのは公平ではない。

 また,野口教授の次の指摘もおかしい。「正統派の一部には、FTPLやヘリコプター・マネー論のように、『財政赤字を許容し、非増税にコミットすることによって、それに伴う財政悪化と民間資産の増加を逆に不況やデフレの克服策として利用する』という戦略が存在する。それは、政府の通時的予算制約は概念として存在せず、政府債務は単に過去の財政赤字の帳簿上の記録でしかないと考えるMMTの立場とは、まったく相容れない」。これは全く言いがかりであって,財政赤字の拡大と民間資産の増加による不況やデフレの克服はMMTでも,赤字ハト派の正統派と変わらず有効に機能する。例えばWrayが主張する,政府が財政を拡張して,失業者すべてを最低賃金で雇い,その賃金水準を調整するという政策が不況の克服策となる(※3)。なぜ,野口教授がMMTが大声で主張していることを正反対に解釈するのか,理解できない。

第6回の検討に続く) 

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(5)─政府予算制約の無用論と有用論」Newsweek,2019年8月13日。


※1。MMTで直観的に一番わかりにくいところがここだろう。これまでMMTについて対話したすべての人が,ここで一端はつっかかる。私もそうだった。以下の拙文は,こう解釈すれば飲み込めるのではないかという試み。
「MMTが「財政赤字は心配ない」という理由:政府財政を中央銀行会計とみなすこと」


※2。私見では,MMTの最大の問題は財政赤字が拡大すること自体ではなく,失業を失くしインフレを起こさないように赤字の程度や増減の速度をコントロールできるのかというところにある。以下の拙文で述べた。
「最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて」

2019年8月26日月曜日

野口旭「MMT(現代貨幣理論」の批判的検討」(4)を読んで

 野口旭教授によるMMTの検討と批判第4回。クラウド・アウトは原理的に起こらないというMMTの主張を取り上げて批判している。

 この回は奇妙である。野口教授は話の途中までは,MMTが<政府が財政赤字を出して支出を増やしても民間貯蓄を吸収することはない。むしろ民間貯蓄は増える。だからクラウド・アウトは起こらない>としている理由を,第1回で紹介されたMMTによる金融実務的解説に即して,おそらく正確に紹介している。ところが後半になると,「完全雇用下における政府の赤字財政支出は、一般に金利上昇と民間投資のクラウド・アウトをもたらす」ことは正統派はきちんと明らかにしているが,MMTはこれができていない,と言い出す。

 そんなことはない。MMTは,財政赤字で所得を増加させられる限度は,物的・人的生産能力の実物的限界だとはっきり述べている。設備がフル稼働し,完全雇用が達成されたら,あとは財政赤字をいくら出しても民間投資をクラウドアウトし,インフレになるだけだ。これはMMTだけでなくすべてのケインズ派が同意するところだろう。このことは,MMTのどんな通俗的解説でも述べていることなのに,なぜ野口氏はネグレクトするのだろうか。

 おそらくその理由は,私がまだ不勉強なMMTの所得決定メカニズムに野口教授が疑問を持たれたからだと思われる。野口教授の理解では,「MMTには、国民所得会計の恒等式は存在しても、IS曲線に相当する分析用具が存在していない」。そして,野口教授はここで一刀両断して終わらずに,MMTは民間投資の利子非弾力性を仮定しているのだろうと推定した上で,それでもMMTはおかしいという。「少なくともIS-LM分析では、政府の赤字財政支出によってIS曲線が右にシフトすれば、仮にそれが垂直であったとしても、必ず金利を上昇させる方向に作用する。MMTではそのようなステージがまったく想定されていないということは、そこにはIS曲線あるいは財市場そのものが存在していないと考えるほかない」というのだ。

 MMTにIS曲線がないというのはおそらく正しい。MMTは,<利子率によって所得が決まるという単純なメカニズムがそもそもない>としていて,IS-LM分析を肯定しないのだろう。しかし,MMTに財市場が存在しないというのは無茶な批判で,前述の通り,生産能力の実物的限界は当然に想定されている。

 逆のベクトルで言うと,MMTでは財政赤字の拡大は民間貯蓄を全く減少させない。だから,財政赤字分だけ所得が拡大しても金利に上昇圧力はかからないのだ。野口教授はMMTのこの説明を正確になぞったはずで,しかもその説明自体はとくに否定していない。ならば,<財政赤字が拡大しただけでは利子率は上がらない>と認めるのか。そうではなく,正統派の理論通りに,<財政赤字が拡大すれば利子率は上がる>というのであれば,金融実務に沿ったMMTの説明のどこがおかしいかを指摘すべきではないか。

 こうして考えてみると,ここでもMMTと,野口氏が妥当だと考える正統派(ニューケインジアン)との違いは,あれこれの部分的理屈だけでなく,利子,投資,貯蓄の関係,それに関するケインズ理解なのだと思う。MMTは,<利子率を下げれば投資が増えるというものではない>と考えているのだ。おそらくケインズその人が述べたように,資本の限界効率に不確実性が大きいと見るからだろう。またMMTは<投資は事前に貯蓄が形成されていることを必要としない>,むしろ<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えているのだ。1-3回を読んだ時と同じ結論だが,ここに根本的な理論的相違があるのではないか。

 引き続き第5回以後も読んで考えたい。
第5回の検討に続く)

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(4)─クラウド・アウトが起きない世界の秘密」Newsweek, 2019年8月8日。

野口旭「MMT(現代貨幣理論」の批判的検討」(1)(2)(3)を読んで

野口旭教授によるMMTの検討と批判。「MMTとは財政赤字を出しても問題ないという理論である」などという政治宣伝による賛否の争いでなく,経済学的な検討であって,誠にありがたい。野口教授はすでにWrayたちの教科書Macroeconomicsも読破されているようだ。現在,連載4回目であって,今後も続くようだが,ここまでの論点について考えたい。私はマクロ経済学の歴史的な系譜について素人なので,学びながらのノートのつもりだ。

 まず1-3回について。

 野口教授はMMTとマクロ経済学の正統派(ニューケインジアン)の違いは中央銀行の役割だとする。野口教授の理解では,MMTは中央銀行無能論に立っている。つまり金利が所与とされている時に中央銀行は受動的に中銀当座預金を調整するだけだとしている。これに対して正統派はマクロ経済の安定のためには金利調整が必要不可欠であり,だから「中央銀行がインフレ率と産出ギャップを両睨みしながら政策金利を調整する」というテーラー・ルールを採用しているのだという(シェア先はこのことが書いてあるページ)。

 野口教授によるこの対比は,中央銀行の役割論としては妥当だと思う。だが,理論的には両者の背後に利子率に対する捉え方の決定的な違いがあるのではないか。

 MMTは一定のケインズ理解により<利子率が貯蓄と投資を均衡させるのではない>と考えているし,<投資が所得の調整を通じて,投資と等しい額の貯蓄をもたらす>と考えている。これは野口教授が参照されているビル・ミッチェルのブログ記事「自然利子率は『ゼロ』だ!」からはっきりとわかる。だから,物価に対して中立な利子率水準が存在し,それより利上げすればデフレを,利下げすればインフレを促すという発想をとらないのだ。MMTと正統派(ニューケインジアン)の根源的な違いは,大元をたどればケインズの理解の違いであり,利子,貯蓄,投資の関係の捉え方の違いなのではないか。

第4回の検討に続く)

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(1)─政府と中央銀行の役割」Newsweek,2019年7月23日。

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(2)─貨幣供給の内生性と外生性」Newsweek,2019年7月30日。

野口旭「MMT(現代貨幣理論)の批判的検討(3)─中央銀行無能論とその批判の系譜」Newsweek,2019年8月1日。

ビル・ミッチェル(望月慎訳)「自然利子率は「ゼロ」だ!」(2009年8月30日)「経済学101」2018年2月28日。


2019年8月2日金曜日

大学院に行くのは個人の私的選択であるから支援する必要はないという文科省Q&A

「高等教育段階の教育費負担新制度に係る質問と回答(Q&A)(2019年7月3日版)」より。
ーー
Q67 大学院生は新制度の支援対象になりますか。
A67 大学院生は対象になりません。(大学院への進学は 18 歳人口の 5.5%に留まっており、短期大学や2年制の専門学校を卒業した者では 20 歳以上で就労し、一定の稼得能力がある者がいることを踏まえれば、こうした者とのバランスを考える必要があること等の理由から、このような取扱いをしているものです。)
ーー

 政府の文書に頭を抱えるのは日常茶飯事だが,これほどはらわたが煮えくり返ったのは久しぶりだ。

 このQ&Aが言わんとすることは,「同年代の者には平均的に言って稼得能力があるのだから,大学院生を支援する必要性は低い」ということだ。通常,授業料等の免除は当人やその属する世帯の収入が高いか低いかを問題にする。いま教育無償化論は敢えて脇に置いて唱えないことにするが,ともあれ普通は当人や世帯が低所得だから支援するのだ。ところが,ここでは当人でなく,同年代の者に稼得能力があるかどうかを問題にしている。

 なぜ,そんな回りくどいことを言うのか。考えられるロジックはただ一つ。「稼ごうと思えば稼げる年になってるのに,大学院にわざわざ行くのは個人の私的選択であって,とりたてて国が支援すべきものではない」というものだ。大学院生を育てて,研究者や技術者やマネージャーや起業家や公務員にすることの社会的意義などないというのだ。

 10兆歩譲って,財務省が言うならば,嗚呼また始まったよといなしてもいい。だが,文部科学省が言っているのだ。

 学部と大学院で全く扱いを同じにする必要があるかどうかは議論があるだろう。しかし,ことは根本的な考え方の問題だ。何歳の人間が大学院に入学するかは関係ない。また,その院生の高校や学部の同級生が大企業の社長か政治家や高級官僚(の給料は大したことがないか)か何かで大儲けしていようが,それは関係ない。一定の優秀な院生を育成して社会に送り出すことが重要なのではないか?そのために,一定人数は,当人の経済状態にかかわらず研究できるように支援すべきではないのか。文科省は,そういう見地から大学院大学化を推進し,大学院出身者の多様な進路の開拓を活躍を目指してきたのではないのか?

 ところが今回のQ&Aは,いや,そんなことは重要ではない,大学院に行くのと趣味の有料サークルに入るのは同じ私的選択だと言っているのだ。くりかえすが,財務省の自己責任主義,財政赤字削減至上主義のプロパガンダでなく,修学支援制度に関する文部科学省の解説文書が!

注:この投稿はQ&Aの考え方を批判したものだが,大学院生に対する授業料免除が一切なくなると絶望的な解釈をしているわけではない。新修学支援制度の実施によって,大学院生を含んでいる従来の授業料免除制度が完全に上書きされてなくなってしまうのかどうか,まだ未解明かつ未決定な部分がある。はたの君枝議員(共産)は文科省の担当者に「文科省としては各大学の大学院生対象の授業料減免への国からの支援は続ける方向で検討していることを確認しました」とツイートしている。来年度予算で必要な措置がとられるように運動と働きかけを強める必要があるだろう。


2019年7月26日金曜日

採用改革は人事改革,雇用政策改革,大学改革へと連動する

 採用改革について。企業が特定の能力をもった人材を必要とするならば,採用する職種や職務を特定し,その上で,必要な能力について専門試験を行って「就職」させるしかない。その場合,能力さえあれば新卒かどうかは関係ない。この当たり前と思われることが,日本の慣行とは大きく異なる。現状の新規学卒採用では,新卒予定者だけを対象として,入社後にどこでどの仕事に就くのかも指定せず,一律にぼんやりとした「潜在能力」や「コミュニケーション能力」を諮って「入社」させているからだ。

 実際,経団連と大学が作る委員会でも,職務や必要能力を特定した「ジョブ型」の「通年」での採用活動について議論していて中間報告書も出している。この,採用の枠組みをどうするのかという議論からブレて妙な精神論になると,まったく改革されないだろう。

 ただ改革をして「ジョブ型通年採用」を本格化すると,企業も大学も政府もただではすまない。

 一方において企業は入社年次が「同期」のものを一律に管理し,初めは年功的に処遇して徐々に差をつけていくという慣行を止めねばならない。今度こそ年功序列を変えるしかなくなる。

 他方,「ジョブ型通年採用」では雇用安定法の年齢制限禁止規定が適用される可能性がある。つまり,新規学卒者に限った採用枠ではなくなる。ほとんどの人が意識していないが,学卒に限った採用は本来年齢差別であり,日本の慣行に配慮して年齢制限禁止規定の例外にしてあるのだ。しかし,ジョブ型採用ならば年齢制限は合理的ではないだろう。そうすると,学生は経験豊かな転職希望者と同じ枠で争わねばならなくなる。

 この枠組みでは,ヨーロッパ諸国と同じく不況期に若年失業者が出るおそれがある。それを防止するための雇用対策がまた必要になる(幸か不幸か,若年人口の減少で構造的に人手不足傾向になりつつあるが)。

 大学は大学で,従来のカリキュラムの延長線上で専門能力を育成できる場合はよいとして,それが無理な大学は,キャリア教育,職業教育を強化しなければ学生を社会に送り出せなくなる。医療,福祉,ビジネス,地域マネジメントなどでの実践的な科目編成を持つ大学が増えていることや,新制度としての専門職大学の設置は,この流れを察知したものだろう。

 専門能力にたけた人材の採用を促進するためには,企業の人事管理全体が,また企業と大学のつなぎ目となる採用活動が,雇用政策が,そして大学が大きく変わることが要求される。この動きは大波となるのか。なるとしたら,企業と大学と政府は飲み込まれずに変わっていけるのか。そこで学問の府としての大学の役割は守られるのか。これは就活だけの問題ではなく,企業と大学の根幹にかかわる問題だと私は思う。

「経団連トップに聞く教育・人材育成とは」日テレNEWS24,2019年7月25日。

<関連投稿>
「『ジョブ型』通年採用は『仕事に即した処遇』と『年齢不問』を意味することは認識されているか:『採用と大学教育の未来に関する産学協議会の中間とりまとめと提言』を検討するにあたって」Ka-Bataブログ,2019年4月23日。
「経団連の『就活ルール』廃止と『提案』をどう受け止めるか」Ka-Bataブログ,2019年2月22日。




2019年7月20日土曜日

MMTを主張するS.ケルトン氏と,小林慶一郎氏,早川英男氏,小黒一正氏の懐疑的コメント

 MMTを主張するS.ケルトン氏と,小林慶一郎氏,早川英男氏,小黒一正氏の懐疑的コメント。ちょうど先日,小黒氏と早川氏の見解にコメントしたばかりだが,この記事を読んでも修正の必要はない。小黒氏について今回注目されるのは,MMTがケインズ派だとすなおに解釈していることだ。私もそう思う。その上で,彼の公共選択論的警告はもっともだ。早川氏はMMTの信用貨幣論には共感を示している。私も賛成だ。その上で,国債の大量発行が金利高騰を招くと警告してしているが,MMTは中央銀行が国債を買い支えればいいと答えるだろうから,これではすれちがってしまう。より本質的な警告を加えるとすれば,「中央銀行はどこまでも政府と協調しうるのか。政府の財政ファイナンス要求が限りなく拡大することに歯止めはかけられるか」というべきだったし,金利にこだわるなら「大規模財政ファイナンスを前にして市場が国債への信認を維持できるか」という方が良かったろう。
 つまり,小黒氏の意見と早川氏の意見は,一方で1)MMTはトンデモ理論でなくケインズ派だ,2)MMTの信用貨幣論はトンデモ理論でなく金融実務と一致していると認めている点が面白い。他方で,早川氏の見解をより徹底させれば,1)民主主義の下での財政赤字抑制の困難と,2)中央銀行が政府とどこまでも協調すべきか否か,というところにMMTの問題があることを示している。

 もっとも,MMTの理論的な正否とは別にして,私の意見では日本の経済政策上の争点は金融・財政をより拡張させるかどうかではない。アベノミクスで金融を限度いっぱいに緩和し,財政をさほど引き締めていないのに投資もさほど伸びず,まして消費が全然伸びないことが問題なのだ。この状態では,財政引き締めは確かに適当でなく,消費税は上げるべきではない。しかし,金融を緩め,財政の総額を拡大するだけではこの問題は解決しない。新規市場を拡大する産業戦略,安心感を与えつつ持続性のある社会保障,安定した雇用に向けての労働改革など,投資意欲を喚起し,消費性向を上げるような政策・制度改革が必要だろう。そのためには,現時点では再分配は強化されるべきだろう。(それ自体が目的でなく)結果として,財政への負荷は一時的に高まる。最終的な理論的正否はともかく,MMTを誰もが信じるような状況ではない以上,国債への信認を低下させないようにすることは必要だ。だから,再分配政策は富裕層増税などの財源調達とセットにすべきだろう。

 私は,この間,マクロ経済理論の勉強のためにずっとMMTへのコメントを書いてきた。長い目で見てそれが必要だと思うからだ。しかし,日本の現状への政策的判断としては,金融緩和と財政総額の膨張だけでは投資と消費が増えず,制度・慣行,政策枠組みを変えることであり方によって投資と消費の意欲を刺激する制度・政策が必要というのが本意だ。

小黒氏へのコメント(2019/7/3)

早川氏へのコメント(2019/7/9)

「MMTは現実的か 財政万能論の危うさ(複眼) S・ケルトン氏/早川英男氏/小林慶一郎氏/小黒一正氏」『日本経済新聞』2019年7月18日。

2019年7月16日火曜日

きっとやってくる未来:河合雅司『未来の地図帳 人口減少日本で各地に起きること』

 河合雅司さんの本は,人口が減っていまよりずっと高齢化した日本に暮らす,老いた自分というものを想像させてくれるという点では,とても実感の湧く本だ。20XX年に,まだ自分は生きているだろうか。心と体はちゃんと動くだろうか。仕事はまだやっているだろうか。年金は,買い物は,葬式は。そういうことを思わせてくれるのだ。専門的な人口論の見地からは言うべきことが色々あると思うが,読者の想像力を喚起するという点ではとても優れた本だと思う。あまり明るいものにはならないかもしれないが,きっとやってくる未来に向き合う以外に道はない。

 なお,河合さんは『産経』の元記者で,ついつい職場で身についたクセなのか「これは占領軍の深遠な企みではあるまいか」的な話も本によっては入っている。だが,『未来の年表』と『未来の地図帳』にはそういうことはないのでお勧めできる。

河合雅司(2019)『未来の地図帳 人口減少日本で各地に起きること』講談社。

昨年書いた『未来の年表 人口減少日本でこれから起きること』のレビュー


ファーウェイP30 Proの部品コスト内訳に思う,日本電子部品産業の立ち位置

6月27日の『日経』紙版に掲載されていたファーウェイP30 Proの部品コスト内訳がネット公開されていた。現代の機械・電機産業はきめの細かい工程間の国際的分業・協業を前提に成り立っている。これを破壊すれば,その影響が極めて広い範囲に及ぶ。
 ところで,日本の電機産業の比較優位が最終製品から部品にシフトして久しいが,この部品表はいろいろと考えさせられる。表からは各国企業による供給の部品点数,合計コストがわかるので,1部品当たり平均単価は算出できる。ランキング表からは最高金額の部品もわかる。

供給部品数
中国(国産):80
日本:869
アメリカ:15
韓国:562
台湾:83

部品当たり平均単価
中国:1.733ドル
日本:0.096ドル
アメリカ:59.36ドル
韓国:0.05ドル
台湾:0.348ドル

最高金額の部品
中国:京東方科技集団製有機ELディスプレイ84ドル
日本:ソニー製カメラ15.5ドル。
アメリカ:マイクロン製DRAM40.96ドル
韓国:サムスン電子製NAND型フラッシュメモリー28.16ドル
台湾:企業名不明ボディーパネル25ドル

 総じて日本企業は単価の安い部品を極めて多数供給している。製品の技術的な支えとして採用されているという意味で競争力があるが,高い付加価値を獲得してはいない。韓国企業も同様の性格を持つ。対してアメリカ企業は単価が極めて高い部品を少数供給しており,コア部品を供給する少数企業が高い付加価値を享受している。中国企業は,国産品ということもあって他国と単純比較できないが,有機ELディスプレーとアプリケーションプロセッサというコア部品の国産化に成功していることは,やはり注目しなければならない(製造を海外のODMに委託しているかもしれないが)。こうした例がファーウェイP30だけとは思えない。

 工程間国際分業を,企業が組織する付加価値創出と取得の連鎖としてみた概念としてグローバル・バリュー・チェーン(GVC)がある。技術水準は付加価値創出につながるが,自動的に付加価値取得につながるわけではない。日本の電機企業は,世界から多くの部品を採用されてはいるが,コア部品において既に必ずしも技術的にトップではない,また売れている部品にも高い金額を払ってもらえない,GVCにおけるこの立ち位置は,持続可能性のあるものなのだろうか。

 なお,部品表を使った分析でGVC分析では,iPodとhpのノートPCを事例とした以下の論文が有名。

Jason Dedrick, Kenneth L. Kraemer and Greg Linden, Who profits from innovation in global value chains?: a study of the iPod and notebook PCs, Industrial and Corporate Change, Volume 19, Issue 1, February 2010, Pages 81–116.
https://doi.org/10.1093/icc/dtp032
https://www.researchgate.net/publication/46513172_Who_Profits_from_Innovation_in_Global_Value_Chains_A_Study_of_the_iPod_and_Notebook_PCs

「スマホ分解 見えた相互依存」『日本経済新聞』2019年6月27日。


2019年7月13日土曜日

深く好意的に,深く批判的に:平川均「赤松要と名古屋高等商業学校 : 雁行形態論の誕生とその展開に関する一試論」

 私は,理論的な方面については,講義で紹介とコメントはできるが自分で論文を書くほどではないという水準をうろうろしている。しかし,一度は論じてみたいと思っているテーマもいくつかあり,そのひとつが雁行形態論だ。雁行形態論は,そのまま現実の描写とするには単純すぎるが,産業発展の基本モデルとしては,考察の出発点の一つに置くべきものと私は思っており,大学院前期課程の講義でも,比較優位論における労働価値説と主流派理論の対比,そして雁行形態論とプロダクト・サイクル論の対比を必ず教えている。
 だが,雁行形態論を講義するにあたっては,解決しておかねばならない謎があると,私はずっと思っていた。一つは,経済発展論としての謎だが,これはいまは脇に置く。もうひとつは,経済思想史としての謎だ。すなわち,提唱者の赤松要において,経済発展論という経済理論と総合弁証法という認識論が結びついていたかどうかであり,そのことはまた大東亜共栄圏の構築に対する賛美や関与と結びついていたかということだ。比較的近年出版された赤松の評伝である池尾愛子『赤松要 わが体系を乗りこえてゆけ』日本経済評論社,2008年では,この点は驚くべきことに全く無視されている。しかし,この論点を捨象しては,雁行形態論を政策として論じた場合に,無意識のうちに特定の認識論を選び,特定利害に引きずられた歴史解釈や政策を生まないかというのが私の長年の疑問と不安であった。
 ところが,最近,金澤孝彰先生のFacebook投稿により,平川均「赤松要と名古屋高等商業学校 : 雁行形態論の誕生とその展開に関する一試論」『経済科学』60(4),名古屋大学大学院経済学研究科,13-64という論文と講義資料があることを知った。平川教授の名古屋大学における最終講義だ。この論文を拝読し,私が雁行形態論に対して経済思想史として抱いてきた謎は,ほとんど解明されていることを知った。赤松における産業の実証的解明を重視する姿勢と,過度な単純化を好む性向,客観的な経済発展モデルを追求する傾向と大日本帝国の経済政策への傾斜が,どのように彼の中で「総合」されていたのかが,赤松の歩みに即して丁寧に,しかも理論的に明確に論じられている。このように赤松に対して,深く好意的で,かつ深く批判的な論文を今まで見落としていたのは,実に不覚だった。
 赤松においては,総合弁証法の「総合」する立場とは「日本精神」であった。赤松が時代の情勢に応じて選び取った価値観に過ぎない「日本精神」,ありていに言えば大日本帝国国家の政策への傾斜を,普遍的によって立つべき規範としたところに,「総合弁証法」の恣意性があった。そして,これは赤松要一個人のことでもなければ,過去のことでもない。日本国家の政策に過ぎないものを普遍的に意味があるものとし,「国民」にとって当然のこととして規範化する問題,日本国家が「日本」であり,自分が「日本」であるかのように見せかけて規範化し,他者に強要することの問題は,この国のあちこちでいまも続いている。

平川均(2013)「赤松要と名古屋高等商業学校 : 雁行形態論の誕生とその展開に関する一試論」『経済科学』60(4),名古屋大学大学院経済学研究科,13-64。



2019年7月9日火曜日

最大の課題は財政膨張のコントロール:早川英男氏のMMT批判に寄せて

 元日本銀行理事,現在は富士通総研経済研究所エグゼクティブ・フェローである早川英男氏のMMT評価。MMTの3つの柱を①信用貨幣論(credit theory of money)に基づく信用創造の理解、②ラーナー流の機能的財政論(functional finance)による財政の理解、③表券主義(chartalism)に基づく現金通貨の理解とし,いずれについても,主流派より正しい面があること,また現実の描写として実は常識的であることを述べつつ,財政政策論がおかしいと批判している。私はあるところまで早川氏とともにMMTを理解したい。その上で,氏の批判にある程度の再解釈を加えた方が,より論点が明確になると思う。

 まず早川氏は,信用貨幣論による信用創造論は,「金融実務家の常識」から言って正しいことを認めている。これは非常に重大なことであり,マクロ経済学の常識が全く間違っていることを示している。早川氏は「MMTでは貸出が出発点だから、『中央銀行がマネタリーベースを増やしても、資金需要がなければ貸出は増えないので、マネーストックも増えない』」としていることに賛同し,「『金融実務家の常識』を理論の1つの柱として打ち出したのはMMTの功績であり、MMTの信用創造の理解は主流派経済学の弱点を突くものとなっていると思う」としている。早川氏は,この点で主流派,リフレ派,「期待に働きかける」派は誤りであったとしているのである。私も全くそう思う。

 その上で,早川氏は,国債発行によって吸収されるのは民間銀行の中央銀行当座預金であって,民間貯蓄は逆に増える,だからクラウディング・アウトはありえないとするMMTを以下のように批判する。「銀行により多くの国債を買ってもらうためには金利が上がる必要があるから、国債発行額が増えれば国債の金利は上がる。国債発行に限界がないのではなく、金利という価格の制約が厳に存在するのである」。 

 次に,機能的財政論についても,早川氏は財政健全化より財政が果たす機能で財政を評価しろというのは常識的であるとする。その上で,「国債発行額が大きくなれば金利上昇を招くから、民間需要のcrowding-outにつながる。国債金利(r)と名目成長率(g)の関係がr>gとなった場合、十分なプライマリーバランスの黒字が無ければ、債務が雪ダルマ式に膨らみ、国債残高/名目GDP比率が発散してしまう。」という。

 信用創造論と機能的財政論について早川氏が論評していることは本質的に同一であり,金利制約である。これに対するMMTの回答は,おそらくこうなるだろう。「銀行からみれば,利子がゼロまたは低い中銀当座預金などもっていても仕方がないのであり,これを国債に喜んで置き換えるはずだ。また,国債を購入すれば中銀当座預金が減って政府預金が増えるが,政府が国債発行で調達したお金を支出すれば,民間企業が銀行に政府からの代金取立てを要求するので,今度は政府預金が減って中銀当座預金が増える。プラマイゼロであって,銀行が民間企業に貸し出す信用創造には何ら悪影響を及ぼさず,利子率は騰貴しない。
 政府からみれば,利子が高くなるような局面はそもそも景気が回復してインフレになりそうな場合だから,そのような時には国債の追加発行の必要はない。国債の追加発行が必要なのは,低金利でも景気が回復せず,デフレになっている時だ」。そしてこうも言うだろう。「それでも国債発行により金利が高騰しそうな状況があるとすれば,デフォルトリスクがあるときだろう。それならば,現に日銀が行っているように中央銀行が国債を買い支える保証を与えればよい」。

 早川氏はこの論点は無視しているが,MMTは極めて強い意味の統合政府論であり,中央銀行と政府は協調すると想定しているのである。なので統合政府論によって上記のように反論されてしまう。逆に言えば,早川氏の批判をより突き詰めるためには,統合政府論に対してもっと突き詰めて追求する必要があるだろう。1)中央銀行は常に政府と協調して国債を買い支えるだろうか。2)逆に中央銀行が常にそのように協調した場合,財政赤字は発散して歯止めがなくならないか。私は,ここまで言うことで,MMTに対する正面からの疑問になると思う。

 早川氏はMMTの表券主義に対しても一定の理解を示しつつ,「納税に使えたとしても、政府財政に対する信用がなければ、現金通貨の価値は保証されないのである」という疑問を呈している。これはより具体的には,「日本政府が消費増税にどれだけ苦労しているかを考えれば明らかだと思うが、政府に増税の必要を国民に納得させる力、または国民に増税を強要する力がない限り、増税でインフレを止められる保証はない」という疑問である。これは極めてもっともなMMT批判であり,金利制約論への私の再解釈による2)と同じであると思う。つまり,早川氏のMMT批判は突き詰めるように再解釈すれば,1)と2)に帰着する。

 MMTは,インフレ対策としての課税強化,または支出削減が合理的であると経済分析するが,それを実行可能にする政策論を持たねばならない。しかし,これは非常に難しいことだ。

 一方で,MMTが述べるように,財政均衡論は合理的ではない。しかし,財政均衡の義務付けや,中央銀行による国債引き受けの禁止は,単なる錯誤ではなく,いわば悪徳を避けるための過度な禁欲である。例えば,これにより軍事費が不合理かつ無限に膨張しうることを防止できるが,合理的な社会保障や教育や生活インフラに対する支出まで禁じてしまう。インフレは防げるが,減らせるはずの非自発的失業者を減らすことができず,路頭に迷わせてしまう。
 逆に,この歯止めを解除した場合に,今度は,過度な禁欲もなくなるが,悪徳への歯止めもなくなる。社会保障や教育や生活インフラに対する支出に対する歯止めもなくなるし,失業者がいなくなるまで雇用を増やすことができるが,軍事費の膨張に対する歯止めもなくなってしまう。そして,民主主義国家においては,軍部であれ経済界であれ貧困層であれ,いずれの集団の代表も支出の拡大を常に求めるだろう。インフレ圧力に対して,どこからどのように歯止めをかけられるのか。中央銀行の独立性が認められない以上,支出膨張を求める諸勢力が,自ら国会で定める法とルールによってかけねばならない。ここには政治構造上,かなりの困難が立ちはだかっているように思う。私はこれが,MMTを政策として実行しようとした場合の最大の困難であると思う。

 財政均衡論を旨とする議論は,財政支出に不合理な歯止めをかけるものであり,その弊害は明らかに大きい。MMTはこれは不合理だよと証明する経済分析を提示する。しかし,不合理な歯止めが亡くなった後に,どのような合理的歯止めを,民主主義国家は設定し,運用することができるのか。それが問題であろう。

 このように,私は早川氏とともに,まずMMTが金融・財政機構の描写としては主流派経済学より妥当なところがあり,「金融実務家の常識」にもかなっていることを確認したい。その上で,金利制約論を重視する早川氏の見解に一定の再解釈を加えることで,MMTを政策化しようとする場合の本質的問題は,1)強い意味での統合政府論の現実性と,2)統合政府の下での,財政赤字の歯止めの問題であることが理解できるように思うのである。

早川英男「MMT(現代貨幣理論):その読解と批判」富士通総研,2019年7月1日。

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