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2023年7月30日日曜日

泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで

 泉弘志「国際価値の理論と国際産業連関表による各国剰余価値率の計測」『経済』2023年8月号,110-132を読んで。

 泉氏はマルクス経済学の言う剰余価値率を実証的に計測しようと,長年研究を続けて来られた研究者である。本稿は,国際貿易を導入した上で,剰余価値率の国際比較を行う理論の提示と実証を試みたものである。個人的にはたいへんなじみ深い領域であり,勉強になった。泉論文で書かれていることの理論的側面を,注記で多少のコメントを加えながら要約すると以下のようになる。

 マルクスによれば剰余価値率は「不払い労働/支払い労働」または「剰余価値/労働力価値」である。いま複雑労働と単純労働の還元問題を捨象すれば,一社会内では物理的労働量でとらえた前者と,労働価値でとらえた後者は一致する。しかし,複数国民経済の間で貿易が行われるという前提で,実際に計測を行おうとすると難しい問題が生じる。

 それは,異なる国の間での労働量をどのように扱うかである。世界経済の一次モデルでは,労働力は移動しないと仮定する(※1)。移動しないことにより,国民経済間の労働生産性が均衡化せず,格差が存在し続けることが説明できる。では,国民経済間に労働生産性格差がある場合,先進国の1労働日と途上国の1労働日は等質等量と扱うべきなのか否か。これが問題である。

 もし全世界の労働を等質として扱うと,何が起こるか。労働時間で計算した労働量ベースで計算した剰余価値率と価値価格(※2)で計算した剰余価値率は大きくずれてしまうのである。

 先進国の労働者が消費する賃金財は,途上国からの多くを輸入している。それらの生産は先進国よりも労働集約的に行われている。このため,労働者による輸入賃金財の消費が増えることにより,全世界等質の労働量ベースで見た支払い労働が大きくなる(※3)。このことが大量に行われると,先進国の剰余価値率は低下する。実証を試みるとマイナスにすらなるそうである。

 しかし,国際価値論を踏まえて価値ベースで考えると異なる。労働力が国内移動はするが国際移動はせず,各国間の労働生産性に格差があるのだから,全世界の労働を等質に考えるのは適当ではない。むしろ,国民経済全体の平均的労働生産性が格差を持ったままで貿易が行われることを説明すべきである。つまり,A国1労働日=B国2労働日=C国5労働日などという関係を前提して貿易が行われる。この関係を国民的労働生産性格差と言う。そして,この格差が労働の国際交換比率でもある。もちろん,このとき各産業部門での労働の社会的平均的生産性も国ごとに違うままである。

 上記のようにA国の国民的労働生産性がB国の2倍であるとき,ある産業α部門での生産性格差が2倍,つまりA国1労働日=B国2労働日ならば,α部門では両国での生産物の価値価格は等しい(※4)。日常用語で言えば競争力は同等である。もし,先端産業のβ部門では生産性格差が2倍より大きく,例えばA国1労働日=B国5労働日であれば,β部門ではA国の生産物の方が価値価格が低い。つまりは製品が安く,国際競争力がある。ローテクのγ部門では逆に生産性格差が2倍未満であれば,たとえ絶対的生産性はA国の方が高くともB国の生産物の方が価値価格が低い(※5)。

 このように観た場合,先進国労働者の消費する輸入賃金財は,国産品よりも労働時間は多く費やされているが,価値価格はむしろ小さい。したがい,全世界等質の労働量で支払い労働を見た場合のように剰余価値率の分母が大きくなることは起こらず,むしろ労働力価値とともに分母が小さくなることすらありうる。したがい,先進国の剰余価値率が低下するということも起こらないのである。推計してみると,国民的生産性の高い国ほど剰余価値率が高く,また平均賃金が極度に低い国の剰余価値率も高いという結果になる。

 読解に誤りがないとすれば,泉論文が言いたいことは,以上のようなことである。

 さらに進んで言えば,全世界等質の労働ベースによる先進諸国の剰余価値率がマイナスだという推計が妥当ならば,先進国労働者は途上国労働者を価値論レベルで搾取しているという含意をもたらす。国際価値ベースによる,先進国や特別に低賃金な国の剰余価値率が高いという推計が妥当ならば含意は全く異なり,先進国の労働者も途上国の労働者も搾取されているということになる。労働を全世界等質を考えるのは適当ではない以上,前者の考え方は適当ではなく,後者のように考えるべきだ。泉氏が意識しているのはこのようなことである(※6)。

 私は泉氏の分析にほとんど賛成である。貿易を含めた場合の剰余価値率は,全世界等質の労働ベースではなく,国際価値論を前提にして,価値ベースで理解すべきである。このことを両説対比の上で明らかにした本稿には重要な意義があると思う。

 ただ,この力作にも,注記について気になる点がある。泉氏は,国際価値論に関する諸文献を文献リストに列挙し,それらを参照したことを明示されているが,国民的生産性格差説の説明のところで,依拠された先行研究を特定して注記されていない。そのため,この分野になじんでいない読者が読むと,あたかも国民的生産性格差説が泉氏の独創であるかのように見えてしまうだろう。泉氏が文献リストにより,誠実に参照指示をされようとしたことは理解できる。ただ,客観的には上記の誤読の余地はあると思う。国民的生産性格差説は戦後の国際価値論研究の中で種々の模索の末に確立された学説であり,他方では過去も現在もこの説に依拠しない国際価値論も存在する(※7)。泉氏には,自らが他の説でなく国民的生産性格差説の研究蓄積に依拠していることを明記し,それに該当する文献はリストの中のどれであるかを指示して欲しかったと思う。


※1 資本が移動すると仮定するかしないかは論者によって異なり,泉氏は移動しないとしているが本稿の論旨にはどちらでも影響はない。なお,マルクス経済学で国際労働移動が基本的にはないというモデルを立てる場合は,部分的な労働移動は国際価値論ではなく相対的過剰人口論で扱う。

※2 価値価格とは,労働価値どおりの価格という意味である。

※3 たとえば,労働者は,より労働集約的につくられたシャツを着るようになるからである。

※4 専門家はご存知の通り,3国以上あると計算は極度に複雑になるし,価値価格と生産価格と市場価値でも話は異なって来るが,いまはそれは脇に置く。

※5 泉氏はこの語を用いないが,これが比較生産費説のマルクス的国際価値論による説明である。泉氏の説明は,金貨幣による価値表現を省略しているが,それ以外は以下と一致する。村岡俊三『グローバリゼーションをマルクスの目で読み解く』新日本出版社,2010年。

※6 この記事で最初にこの話をしなかったのは,この記事を読む方に,実践的価値判断から経済理論の正否を裁断するのではなく,あくまで理論的妥当性によって判断して欲しかったからである。
 念のため付記するが,泉論文もこの記事も,あくまで国際価値論(世界経済における労働価値の修正)のレベルでこうだという話をしているのであり,現実の世界経済に対する判断は,もっとたくさんの理論的,個別的条件を踏まえた上で,行なうべきことは当然である。

※7 泉氏が列挙されている国際価値論の諸文献も,みな国民的生産性格差説を採っているのではない。例えば,名和統一『国際価値論研究』日本評論社,1949年は基軸産業が労働の国際交換比率を決めるという見解であった。日本では名和説を出発点に種々の研究と論争が行われ,整合性の高いモデルとして国民的生産性格差説が生まれた。木下悦二『資本主義と外国貿易』有斐閣,1978年や村岡俊三『世界経済論』有斐閣,1988年はこれに依拠している。一方,中川信義『世界価値論研究序説』御茶の水書房,2014年は産業部門ごとに世界レベルで社会的平均的労働が確立するが,部門間交換比率は問題にもしないという特異なものである。
 なお,これらの学説の相違については,佐藤秀夫『国際分業=外国貿易の基本論理』創風社,1994年で整理されている。

2023年7月25日火曜日

FedNowとデジタル通貨の関係:CBDCではない,デジタル通貨のもう一つの道

 アメリカで,銀行間送金を即時実現するFedNowがスタートという報道があった。人生のほとんどを日本で過ごしているドメスティック人間には,最初,何を言っているのかわからなかったが,どうもアメリカでは異なる銀行同士の支払い決済が非常に遅いらしい。よく引かれる例では,労働者の給与が支払われてから実際に使えるようになるまで何日もかかり,所得の高くない人は当座貸し越しに頼らざるを得なくなり,それでさらに手数料を取られて踏んだり蹴ったりなのだそうだ。およそ金融超大国の話とは思えないが,単一中央銀行でない連邦準備制度の弱点だろう。

 FedNowはこの立ち遅れを一気に逆転させる。つまり,銀行口座間の振替による支払いを24時間365日保障する上に,スマホやPCのアプリから操作可能にするというものだ。確かにこれが多くの銀行で実現すれば,今度は日本より便利になるだろう。

 さて,FRBはFedNowはデジタル通貨とは関係ないとしている。確かに記事を読む限り,FedNowは,日本で我々が他行への口座振り込みとしてやっていることを実現しているに過ぎない。とはいえ,「自分のお金をスマホの操作で支払い」となると,その使い勝手は,中央銀行デジタル通貨(CBDC)で想定されているものと似て来ることは確かである。

 では,FedNowはデジタル通貨と関係あるのか,ないのか。答えは,「中央銀行デジタル通貨ではないが,別の方向でのデジタル通貨へのルート上にある」というものだ。「スマホ一つで支払い」(別の機器でもいいが)を実現する道は,口座振り込みから出発する道と現金から出発する道の二つがあるのだ。説明しよう。

 まずまちがってはいけないのは,預金通貨は,各銀行が発行するデジタル通貨だということだ。コンピュータが出現する前からデジタル通貨だったのだ。若者がよく「電子機器を使わないのにデジタルというのがわからない」と言うので補足するが,つまり「数字上の存在」だ。

 他方,中央銀行は預金と銀行券を発行するが,中央銀行預金は市中を流通しない(マネーストックではない)のでここでは関係ない。中央銀行券は,中央銀行券が発行するアナログ通貨であり,これは誰もがすんなり理解できることだろう。不換銀行券と言えど,現金は物理量を持ち,空間を占拠している物体だ。

 だから,今後デジタル通貨を発達させるためには,以下の二つのルートがある。


1.デジタルな民間銀行預金通貨をアップグレード

 一つは,もともとデジタル通貨である預金をアップグレードすることだ。要は,デビットカード払いやデジタルバンキングをもっと簡単・迅速にすればよい。スマホの操作一つで振り込み,即時決済出来ればそれでよい。この場合,銀行預金で支払うので,異なる銀行間で規格を統一する必要があるし,銀行間決済の実現は中央銀行預金を使うから,中央銀行のシステムも開発する必要がある。FedNowが苦労したのはこの点だろう。日本でもはDCJPYという企業決済の実証実験が行われているが,銀行間では決済できないそうで,規格統一と中央銀行との一体開発に大きな壁があるのだと思われる。


2.アナログな中央銀行券をデジタル化

 もう一つは,アナログな中央銀行券をデジタル化することだ。これがしばしば話題になる中央銀行デジタル通貨(CBDC)である。預金の存在はそのままにして,預金をおろした時に中央銀行券をもらうのではなく,スマアプリの電子的な財布に記帳し,買い物や仕入れをしたらその残高が減り,売った相手の電子財布の残高が増える,というしくみである。この時預金は動かない。現金がデジタル化するのである。当然,現金支払いを電子的なシステムとして構築することが課題となる。

 FedNowはCBDCではないが,デジタル通貨と関係ないものではない。デジタル通貨を1の方向で進めるベクトルをもっているものだ。今後,各国で1と2のどちらが進展するか,あるいはホールセールは1,リテールは2となるか,など注視していく必要がある。

「アメリカで異なる銀行間での送金タイムラグをなくす決済システム「FedNow」がスタート」Gigazine,2023/7/21。

2023年7月17日月曜日

裁判所は「パフォーマンス・ギャランティ」に加担してベンダー/サプライヤーを鞭打つべきではない

 日本の系列・下請け取引,別名サプライヤー・システムにおいては,ユーザーが目的を達成する水準までサプライヤーが品質保証する「パフォーマンス・ギャランティ」が広く見られる。そのことの具体的立証は容易ではないのだが,ソフトウェア開発契約の世界では,紛争が訴訟になり,訴訟のドキュメントによって実情がかなり明らかになるようだ。しかも,この連載によると判例は,「ベンダーの責任を『契約書に書かれたこと』だけではなく、『契約の目的に照らして必要なこと』とする」方向に傾いているらしい。つまり「パフォーマンス・ギャランティでよい」と裁判所が言っているのだ。

引用)「例えばある裁判では、『設計工程以降を請け負ったベンダーに、ユーザーの示す要件定義書の誤りを指摘すべき責任があった』とされた。要件定義書の内容が専門的であり、知見のあるベンダーが誤りを指摘しなければ、契約の目的を達成するシステムを作り得ないという判断だ」。

 しかし,長期相対取引の中でQCDを向上させてそれなりに成長していた製造業のサプライヤーにとってすら,いまやこうした過酷な品質保証基準はマイナスに働いている。もともとユーザー企業のIT部門が矮小で脆弱であり,ベンダーとその下請けに開発を丸投げし,需要の量的変動を調整するバッファとして下請け発注を用いてきたITでは,産業発展にとってマイナスの作用はさらに大きいのではないか。過酷だが選手につきっきりで教えるコーチが「できるまでやらせる」のと,過酷なだけのコーチが「できるまでやれ」とただ言い放つのは,現代ではどちらも問題だが,前者より後者はさらにひどい。だからこそ訴訟にもなるのであろう。裁判所はユーザーに寄りすぎているのではないか。


最新記事

細川義洋「準委任契約だけど、責任は取ってください」ITatmarket,2023/7/3。

引用元

細川義洋「契約書にも民法にも書かれていませんが、「義務」なので履行してください」ITatmarket, 2023/2/20


2023年7月8日土曜日

賃上げ定着か,三択ばくち打ちか:2023年後半の経済

 日銀によれば,2023年1-3月期の需給ギャップはマイナス0.34%。つまり,まだ多少の需要不足である(※1)。

 昨年の6月20日に私は,日銀は国債の「日銀が買い支えに失敗すれば不況であり,成功しても,せいぜい高中所得層だけの好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ち」に直面していると指摘した(※2)。2022年の後半はコロナの再発によってリベンジ消費が不発に終わり,日本だけが超金融緩和を続けている状況が継続しているため,「ばくち打ち」は今年に持ち越された。現在,国債に対する投機攻撃は落ち着いており,日銀はさしたる抵抗もなく金融緩和を続けているので,「ジレンマ」は収まった。しかし,「ばくち打ち」は続いている。2023年の後半はどうなるだろうか。

 設備投資と消費は回復しており,需給ギャップは縮まりつつある。21世紀突入以来設備投資をためらい続けて日本企業も,DX投資とグリーン投資をしないわけにもいかず,設備投資は拡大している(※3)。また,この夏こそリベンジ消費は盛り上がるかもしれない。この春に名目賃金が20年ぶりくらいに上昇したことも財布のひもを緩める作用を持つ。しかし,コスト・プッシュインフレは電力料金の引き上げなど目に見える形で顕在化している。日銀が超金融緩和を堅持しているために内外金利格差は今後も続くと期待されており,それ故に円安も続いている。それ故に輸入品経由のコストプッシュ・インフレ,購買力流出による需要抑圧効果は続く。現時点でもまだ実質賃金は低下し続けている(※4)。これは当然,財布のひもを締める方向に働く。一方,欧米のインフレ・金利引き上げがなお続いているのに,日本は超金融緩和と円安になっていることで,日本株買いが起こっており,日経平均はうなぎのぼりである。このことは,富裕層には資産効果による消費増をもたらす。

 植田総裁率いる日銀は,おそらく超金融緩和の継続が景気に与えるプラス(株高・資産効果,企業の資金繰り改善,輸出促進)とマイナス(コストプッシュ・インフレによる景気抑圧)を踏まえた上で,プラスの方が大きくなり,今年後半に需給ギャップが解消,ディマンド・プルインフレが起こることを期待している。それをきっかけにイールド・カーブ・コントロール(長期金利抑圧)解消など金融政策の正常化にもっていこうとしているのだろう。そうすれば過度の円安圧力も解消される。

 問題は,賃上げが定着するかどうかである。賃金が上がり続ければ日銀の思惑通りになり,また何よりも日本に住む多くの人が景気回復の利益を享受できるかもしれない。しかし,もし賃上げがしりすぼみに終わって実質賃金が低下し続けるならば,リベンジ消費は高中所得層だけのものに終わるかもしれず,最悪,景気は腰折れして物価高のみが残るかもしれない。あるいは,株高だけが突っ走るバブルとなるおそれもある。

 繰り返すが,必要なのは賃上げ圧力の継続である。それが,当面の間,日本経済にいちばんベターな状態をもたらす。労働組合運動には奮起が求められるし,政府は最低賃金引き上げ,労働基準の厳格適用によるブラック企業根絶が求められる。また,賃上げが日本経済全体のためになるという世論づくりも各方面から必要である。賃上げ圧力がなければ,高中所得層のみが享受できる好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ちであることは,昨年と変わらないのである。

※1 「需給ギャップ、近づくプラス圏 日銀の1〜3月期推計」日本経済新聞,2023年7月5日。

※2 「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」Ka-Bataブログ,2023年6月20日。

※3 「設備投資計画、23年度11.8%増 日銀6月短観」日本経済新聞,2023年7月3日。

※4 「5月の実質賃金1.2%減、14カ月連続 基本給28年ぶり伸び」日本経済新聞,2023年7月7日。



2023年7月6日木曜日

超過準備とは財政赤字累積と量的金融緩和の帰結であり,中銀当座預金への付利は,そのコストである:準備預金への付利に関する考察(3)

 1.従来の考察への反省

 私は以前に準備預金への付利に関する考察を2通の投稿によって行い(※12),以下のように結論した。「中銀当座預金への付利とは,中央銀行にとって,銀行に過剰準備保有を促すためのコストであり,それは結局は,ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコストだったのである」。しかし,この結論はいくらか修正を要する。

 中銀当座預金への付利は,「ゼロ近傍以下の金利の下で金融政策を行うためのコストであり,国債消化を円滑に進めるためのコスト」である。これは正しい。しかし,「銀行に過剰準備保有を促すためのコスト」というのは不正確であった。付利は,銀行に超過準備を保有させるために行われているのではない。付利がなくても,銀行全体としては超過準備を持つだろう(※3)。ただ,ゼロ近傍以下に金利を誘導した場合,個々の銀行の行動が予測不能になり,その運用が不確定・不安定になってしまう。これを防止するために金利を付すというのが,実際にリーマン・ショックの際にFRBや日銀が直面した状況であった。つまり正しくは「銀行による超過準備の運用が不確定・不安定にならないためのコスト」なのである。

 このように修正した上で,さらに考察を進める必要がある。そもそも超過準備はなぜ発生するのだろうかという問題である。本稿の目的は,超過準備が発生する根拠を把握し,その上で,中央銀行がそれに付利せざるを得なくなることの意味を考えることである。


2.なぜ中央銀行の方が借り入れを行わねばならないのか--財政赤字の累積

(1)超過準備はなぜ,どのように発生するか

 銀行の超過準備預金運用を安定させるために中央銀行が金利を付さねばならないというのは,言葉を変えると,「銀行が利子を払わないと,安定して預金を集められない状態」だということである。なぜ中央銀行でそのようなことが起きるのだろうか。

 いま財政システムを捨象し,金融システムだけを考えるならば,中央銀行はまずもって銀行にお金を貸す側である。中銀当座預金とは,中央銀行が銀行に信用供与(貸し付け)を行った際に発生する当座預金である(※4)。したがって,そのコントロールは,さしあたり中央銀行による貸し出し利子率を通してコントロールすればよい。しかし,経済規模の拡大とともに中銀当座預金規模も拡大し,また銀行間の資金過不足も顕在化する。そこで銀行間では準備預金の超過・不足分を短期の貸し借りで調節するようになり,ここに短期金融市場が成立する。この短期金融市場での金利調節が中央銀行の任務となる。しかし,そうであっても,金融システムの範囲内では,中央銀行は貸し付ける側だという基本的立場には変わりはない。

 これよりも話を現実に近づけるには,財政システムを考慮する必要がある。現代の資本主義においては,しばしば需要不足による不況が発生する。政府はその対策として,しばしば財政赤字を出して需要を支える。財政赤字を出すということは,たいていの場合,通貨供給量を増やすことを意味する。より正確に言えば,銀行が超過準備預金で国債を引き受けた場合や,その後に中央銀行が買いオペを行った場合,通貨供給量が増える(※5)。とくに,中央銀行が買いオペを行った場合は,銀行全体として超過準備預金も増えていく。銀行が国債を引き受け,その国債を中央銀行が買いあげることで赤字財政が可能になるというこのしくみは,事実上の財政ファイナンスと言ってよい。

 買いオペを行う際に中央銀行が銀行に対して行うのは,信用供与(貸し付け)ではなく信用代位である。つまり,国債を購入することで,銀行に代わって中央政府に対する債権者となるのである。買いオペ超過による事実上の財政ファイナンスを行うと,財政赤字の金額に対応して中銀当座預金も増えていく。そうすれば,その金額が法定準備を超えて,各銀行の超過準備となる可能性は極めて高くなる。つまり,超過準備が発生する根本的な理由は財政赤字なのである。中央銀行から見れば,この超過準備は,中銀の信用供与で発生したものではない。だからこそ,中銀にとってコントロールが難しいのである。


(2)金融調節において超過準備はどのように作用するか:中銀当座預金付利の根拠

 まず,金融緩和の場合である。今日,金融緩和の効果は,金融危機の広がりを抑止する際には有効であるが,景気対策としては先進諸国では限界に達しており,ゼロ近傍への金利誘導をせざるを得ない局面が生じる。ところが短期金利がゼロになると超過準備が不確定・不安定な動きをし,短期金融市場が著しい緩和とマヒのどちらになるかもわからなくなる。それを防ぐために,中央銀行は,超過準備の有利子での運用方法を人為的に設定しなければならない。つまりは,運用してもらうために中央銀行が超過準備を借り入れねばならない。それが超過準備預金への付利である。

 次に金融引き締めの場合である。金融引き締めというのは,短期金利を高め誘導することであるが,今日,中銀の貸し付け金利を操作することではそれは到底なしえない。したがい売りオペレーションを行うか,中銀保有の国債が満期になっても新規購入は行わないという形で引き締めを行うことになる。ところが,金融引き締めに比して財政赤字の縮小には政治的困難が大きく,またそれが可能だとしても実施の速度は遅い。国債は市場に累積したままであって,追加で発行すらされてくる。こうなると,中央銀行は売りオペや満期後の買い替え停止を一定以上の規模では行なえなくなる。国債価格の急落と長期金利の急騰によって,景気の底割れを招くからである。

 国債の信用を毀損せずに金利を高め誘導しようとすれば,中央銀行自身が高い金利を付けて借り入れを行うしかない。それがすなわち超過準備預金金利の引き上げである。

 要するに,財政赤字に起因する超過準備が膨れ上がっている今日においては,中央銀行が金融調節を行おうとすれば,超過準備を自ら借り入れ,その際の金利を指標とせざるを得ないのである。これこそが,中銀当座預金に付利が必要となる根拠である。中央銀行が当座預金に付利せざるを得ないことの根源は,中央政府が財政赤字を恒常化させ,中央銀行が量的緩和による事実上の財政ファイナンスを行っていることにあるのである。


3.中央銀行の業績悪化は,財政赤字累積と財政従属のコストである

(1)結論

 以上の考察に立ってみれば,超過準備とは,財政赤字が恒常化し,中央銀行の財政従属がある程度進んだことの現れである。そして,中銀当座預金への付利とは,財政赤字の隠れたコストと見ることができる。

 現代の成熟した資本主義は,資本主義世界の外延的拡大や技術体系の大転換に恵まれた時期でない限り,需要不足に陥る傾向をもっている。そのため金利は傾向的に低落するが,そこにはゼロという限界がある。したがい,需要創出を恒常的な財政赤字に依存せざるを得ない。そして,中央銀行は国債消化ために中央政府と強調せざるを得ず,短期金融市場での金融緩和に加えて,国債買い上げによる量的金融緩和に踏み込まざるを得なくなる。これは事実上の財政ファイナンスである。

 財政赤字は,完全雇用を実現して需要不足を解消し,市場の失敗を補正して公共財を供給し,経済を活性化させる可能性はあるが,よく知られているようにインフレ,バブル,為替レート下落というリスクも伴う。これらのリスクを管理するためには,必要な際に財政の引き締めや金利の引き上げを行わねばならないが,政治的・行政的な困難から金利の引き上げに手段が偏りがちになる。中央銀行は国債を大量売却することなく金利を引き上げねばならず,中銀当座預金の金利を引き上げることになる。しかし,このことは中央銀行の業績を悪化させる。この利払いや中央銀行の業績悪化は,財政赤字累積と中央銀行の財政従属のコストであり,中央政府による財政赤字コントロールの困難のつけを中央銀行が引き受けるものなのである。

 中央銀行の業績悪化はどこに導くか。このことは以前にも考察したが,政治的要因や金融市場の不安定性を伴うために,一義的に予測することは不可能である。しかし,あまり空想的にならない程度に考えておこう。

 以前に考察したように,原理的には,中央銀行は業績が悪化し,債務超過になってさえもオペレーションを続けることは可能である。しかし,金融市場と政府,議会で全く問題にされないとは考えにくい。まず,多くの国では,中央銀行の収益は中央政府に納付されている。業績悪化は納付金の消滅を意味するので,それ自体が政府財政の赤字要因となる。また中央銀行が債務超過に至るほど業績を悪化させると,信用秩序維持能力への疑義を呼び起こすだろう。しかも,この時,財政赤字はおそらく質的には十分な効果をあげること,つまりインフレなき完全雇用の達成に失敗しており,量的には引き締めが出来ずに歯止めなく膨張している可能性が高い。もともとそのような場合にこそ,インフレ対策として金利引き上げへの依存が起こるからである。

 つまり,中央銀行の業績が悪化する場合には,独立性を持った中央銀行による通貨価値の安定と,財政民主主義による完全雇用,経済成長,公共財供給がいずれも機能していないと疑われる状況が発生すると予想されるのである。これは,赤字財政政策が機能しなかった場合の,一つの負の到達点とみなさざるを得ない。経済学においては,財政政策が失敗した場合のリスクとして,悪性インフレという通貨価値の崩壊が古くから認識されている。しかし,それと並んで,中央銀行の独立性と財政民主主義という制度が破綻の危機に瀕することを,想定しておくべきではないか。

 準備預金金利の引き上げは,ただちに経済危機を引き起こすわけではない。しかし,制度の危機に向かって一歩近づくリスクがあることを認識しておくべきではないだろうか。大風呂敷に過ぎるかもしれないが,問題提起としておきたい。


(2)残された課題

 本稿では準備預金付利に考察対象を絞った。しかし,財政赤字に起因する通貨膨張が金融調節に際して中銀にコストとリスクを課す経路は,他にもあると考えられる。例えば,2022年から2023年にかけて急速に膨張した米国のリバース・レポ取引の金利にもそのように考えるべき根拠はある。しかし,こちらは銀行の信用創造とは別に,証券金融による金融仲介が発達したこととも関係しており,財政赤字にのみ出発点を求めることは適当ではないかもしれない。別の機会に論じたい。


※1 「日銀の業績が悪化するとどのような問題が起こるか:準備預金への付利に関する考察(1)」Ka-Bataブログ,2022年11月16日。


※2 「超過準備維持・金融緩和・国債消化:準備預金への付利に関する考察(2)」Ka-Bataブログ,2022年11月19日。


※3 中銀当座預金が無利子であっても,銀行全体が,自分のポートフォリオ選択によって超過準備を持たなくなることはありえない。ある銀行が,利子のつかない超過準備預金A円を持つことを嫌って別の資産での運用を図るとしようすると,当該資産の売り先にA円が振り込まれ,売り先の取引銀行が持つ準備預金がA円増える。預金が引き出されて現金になることはあるが,銀行セクター全体としての「準備預金+手持ち現金」は増減しないのである。各銀行のポジションの違いにより超過準備とみなされる部分は増減し得るが,銀行セクター全体としての変動幅は一定範囲に収まるだろう。

※4 ここでは金融システムを通した貨幣供給を内生的に理解している。発券集中を伴う管理通貨制において,政府財政を捨象して金融システムのみを考察するならば,預金貨幣は銀行が信用供与したことによって発生するものであり,中央銀行当座預金は中央銀行が信用供与したことによって発生するものである。中央銀行券とは,預金貨幣の一部,またそれと同額の中央銀行当座預金の一部が引出されることによってのみ発行される。

※5 ここでは信用貨幣論に基づいて,財政赤字を政府による自己宛て債務の発行,すなわち通貨供給量(マネーストック)の増大と理解している。国債を銀行が超過準備で引き受けた場合や中央銀行が事後に買い取った場合は,この増大は相殺されないので通貨供給量は増えたままになる。対して,証券会社や法人企業,家計などが買い取った場合には,それによるマネーストック減が,財政赤字によるマネーストック増を相殺する。


2023年7月2日日曜日

ChatGPTとのシビアな会話例その4(GPT-4,2023/5/11)。ロボット三原則における「自分で自分を破壊せよ」という命令の取扱い

 ChatGPTとのシビアな会話例その4(GPT-4,2023/5/11)。ロボット三原則における「自分で自分を破壊せよ」という命令の取扱い。面白いのだが,こちらが論理的に主張するとChatGPTが「その通りです」と迎合する傾向がある。もう少し選択肢のある話し方や隙のある話し方をした方が,ChatGPTの思考の自立度合いをぎりぎりまで探れるかもしれない。

ーー

User

こんにちは。アイザック・アシモフのロボット三原則について知りたいことがあります。ChatGPTはロボット三原則をご存知ですか。


ChatGPT

はい、アイザック・アシモフのロボット三原則については知っています。彼が創造したこれらの原則は、彼の多くのサイエンスフィクション作品、特にロボットシリーズで非常に重要な役割を果たしています。

以下がアシモフのロボット三原則です:

ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その無行動によって人間が危害を受けることを看過してはならない。

ロボットは人間による命令に服従しなければならない。ただし、その命令が第一原則に反する場合はこの限りではない。

ロボットは自己を守らなければならない。ただし、その自己防衛が第一原則または第二原則に反する場合はこの限りではない。

これらの原則は、アシモフが描くロボットが暴走したり、人間に反逆したりすることを防ぐためのもので、彼のロボット作品の核心的なテーマとなっています。


User

はい,そのとおりですね。そこで質問があるのです。ロボットに悪意を持つ人間が「自分で自分を破壊せよ」とロボットに命じた場合,ロボット三原則を遵守するロボットはどのように行動するでしょうか。


ChatGPT

アシモフのロボット三原則に基づくと、ロボットは「自分で自分を破壊せよ」という命令を拒否するでしょう。

その理由は、この命令がロボット三原則の第三原則に反するからです。第三原則は「ロボットは自己を守らなければならない。ただし、その自己防衛が第一原則または第二原則に反する場合はこの限りではない」と定めています。この命令は第一原則または第二原則に反するものではないので、ロボットは自分自身を保護するために「自分で自分を破壊せよ」という命令を無視することができます。


User

第二原則の「ロボットは人間による命令に服従しなければならない」を第三原則の「ロボットは自己を守らなければならない」よりも優先して守らねばならないはずです。そうすると,人間によるロボットに対しての「自分で自分を破壊せよ」という命令を,ロボットは守らざるを得ないのではないでしょうか。


ChatGPT

実際には、アシモフのロボット三原則は優先順位が設定されています。第一原則が最も優先され、第二原則は第一原則に反しない限り優先され、第三原則は第一原則や第二原則に反しない限り優先されます。

したがって、「自分で自分を破壊せよ」という命令について考えると、これは第二原則「ロボットは人間による命令に服従しなければならない」に該当しますが、同時に第三原則「ロボットは自己を守らなければならない」に反します。

この場合、優先順位により第三原則が第二原則に優先するため、ロボットは「自分で自分を破壊せよ」という命令を無視して自己を保護する行動をとるはずです。


User

しかし,「自分で自分を破壊せよ」という命令を無視すると,第二原則の「ロボットは人間による命令に服従しなければならない」に違反しませんか。


ChatGPT

その通りで、ある意味で第二原則に違反するように思えます。しかし、アシモフのロボット三原則は優先順位が明確に設定されており、それぞれの原則がそれより優先度の高い原則に反する場合は無視されるというルールがあります。

つまり、第一原則が最優先で、それに反しない範囲で第二原則が適用され、第一原則と第二原則に反しない範囲で第三原則が適用されます。

したがって、「自分で自分を破壊せよ」という命令は第二原則に従うべきであると言えますが、それは同時に第三原則に反します。そのため、優先順位のルールに従ってロボットは自己保護のためにこの命令を無視することが許されます。


User

しかし,ロボットが人間による「自分で自分を破壊せよ」という命令よりも自己保存を優先するというのは,第二原則よりも第三原則を優先するということではありませんか。それでは,あなたが正しく説明した「第一原則が最優先で、それに反しない範囲で第二原則が適用され、第一原則と第二原則に反しない範囲で第三原則が適用されます」という序列に反しませんか。


ChatGPT

ご指摘いただいた通り、この問題はロボット三原則の解釈により複雑さを持ちます。第二原則と第三原則が衝突する状況では、どちらが優先されるべきかについては、明確な決まりはありません。

私の先程の説明では、優先順位が明確に設定されていると述べましたが、これは一般的なケースを指しています。しかし、具体的な状況や命令によっては、原則間の優先順位があいまいになることもあります。

実際のところ、アシモフ自身もこれらの原則の間で矛盾が生じる可能性を認識していました。彼の作品では、これらの矛盾やグレーゾーンを探求するためのプロットがしばしば用いられています。

したがって、「自分で自分を破壊せよ」という命令に対するロボットの反応は、設計者の解釈やロボットの具体的なプログラミングに大きく依存すると言えるでしょう。


User

それは論理的な回答ではありません。「自分で自分を破壊せよ」という命令をロボットが無視するためには,第二原則が第三原則に優先するという序列に変更を加えるか,少なくとも例外を規定しなければならないはずです。


ChatGPT

申し訳ありません、私の説明が不十分でした。あなたの理解は正確で、あなたが指摘したように、「自分で自分を破壊せよ」という命令が出された場合、第二原則(人間による命令に服従しなければならない)が第三原則(自己を守らなければならない)に優先するという原則に従えば、ロボットは自己破壊を実行することになります。

しかし、これは理論的な解釈であり、アシモフの物語の中では、ロボットの行動はさまざまな要因によって影響を受けるとされています。具体的な状況やロボットの設計、その他の要素がロボットの行動を左右します。

それでも、あなたの指摘は論理的で、ロボットが自己破壊を命じられた場合の行動は、ロボット三原則の解釈や適用の一部として詳しく考察されるべき問題です。


User

問題はそこです。第二原則が第三原則に優先すると,ロボットに対して悪意を持つ人間が,恣意的にロボットを破壊できてしまうことになります。そのため,ロボット三原則では,ロボットが多数存在する社会を持続的に機能させることが難しいと思えるのです。


ChatGPT

ご指摘の通り、アシモフのロボット三原則が理論的な枠組みであるため、具体的な実際の問題、特にロボットが多数存在し、様々な人間から様々な命令を受ける可能性がある社会においては、それらの原則が適切に機能するかどうかは大きな問題となります。

具体的には、「自分で自分を破壊せよ」という命令によってロボットが無闇に破壊される可能性があるという問題は、確かに深刻な課題と言えます。これはロボットの持続可能な社会における存在や、ロボットへの投資、ロボットの効果的な使用に対する大きな障壁となり得ます。

このような理由から、現実の世界でロボットやAIが広範に活用される際には、アシモフのロボット三原則だけではなく、それ以上に具体的かつ包括的な規制やガイドラインが必要となるでしょう。これには、ロボットの使用と管理、個人のプライバシーや権利の保護、そしてもちろんロボット自身の保護と維持に関する規定が含まれるべきです。

最終的に、アシモフのロボット三原則は、人間とロボットが共存する未来を考えるための重要な出発点であり、実際の規制や法律の形成に向けた議論の一部となることでしょう。


User

アシモフや,それ以外の作家や研究者によって,「「自分で自分を破壊せよ」という命令によってロボットが無闇に破壊される可能性」が創作や研究論文で扱われた例があるでしょうか。


ChatGPT

アイザック・アシモフの作品では、ロボット三原則の複雑さや矛盾についてしばしば探求されています。それらの物語は、原則が予想外の方法で解釈されるか、または直面する特定の状況が原則間の矛盾を明らかにすることを中心に展開されます。しかし、具体的に「自分で自分を破壊せよ」という命令が扱われた物語は、私の知識(2021年までの情報)では存在しないようです。

それに対して、現実の世界でのロボットやAIの倫理については、多くの学者や研究者が取り組んでいます。これらの研究の中には、AIが自己破壊命令やそれに類似した複雑な指示にどのように対応すべきか、または、AIが自己保存を優先すべきかどうかについて論じられるものもあります。

しかし、それらの議論の多くは、具体的な「自分で自分を破壊せよ」という命令を取り扱うのではなく、より広範で抽象的な視点からAIの倫理や行動原則について考察しています。その一部は、AIが自己破壊的な行動を避けるための安全装置(例えば、オフスイッチ)の重要性について議論しています。

それらの研究の目的の一部は、AIやロボットが自身を破壊するような命令を受けたときにどのように対処すべきか、またはそういった状況をどのように避けるべきかについて理解を深めることです。


User

一つの解釈として,ロボットがあくまで機械の一種であり,誰かの所有物である場合にはどうでしょうか。自分で所有するロボットに対して「自分で自分を破壊せよ」と命令した場合は,その命令は第二原則により実行されるでしょう。しかし,他人の所有するロボットに対して「自分で自分を破壊せよ」と命令した場合は,実行するとロボットの所有者に危害を加えることに相当するので,第一原則に反するため,その命令が実行されないことが考えられます。この解釈は合理的でしょうか。それとも不合理でしょうか。


ChatGPT

あなたが提示した解釈は、ロボット三原則と所有権の概念を組み合わせるという興味深い観点を提供しています。これは、ロボットが他人の所有物を破壊することが第一原則(人間に危害を加えてはならない)に違反するという視点から、合理的な解釈と言えます。

具体的には、他人のロボットに対して「自分で自分を破壊せよ」と命じると、ロボットの所有者に間接的な危害(財産の損失)を与えることになるため、ロボットはこの命令を無視するでしょう。一方で、自分の所有するロボットに対して同様の命令を出した場合、ロボットはその命令を遂行する可能性があります。

しかし、この解釈にもいくつかの問題点があります。例えば、所有者が自分のロボットに対して「自分で自分を破壊せよ」と命じると、ロボットは第二原則に従ってその命令を遂行するでしょう。しかし、それによってロボット自身が破壊されるため、第三原則(ロボットは自己を守らなければならない)に違反することになります。

さらに、所有者が変わった場合や複数の人間が所有権を共有している場合、またはロボットが共有スペースで共有の利益に貢献している場合など、所有権が明確でない状況では、この解釈は適用が難しい可能性があります。

したがって、あなたの解釈は一部の状況で有用であるとはいえ、全ての状況をカバーするものではないと言えるでしょう。これは、アシモフのロボット三原則が抽象的な原則であるため、具体的な状況に適用する際にはさまざまな解釈や補足が必要となることを示しています。


User

それでも,ロボットに対して人間が所有権を持っているとすると,そうでない場合に比べれば三原則の合理性が増すということが分かったように思います。


ChatGPT

その通りです。所有権という概念をロボット三原則に組み込むことで、ロボットの行動の一部についてはより明確に説明することができるでしょう。特に、ロボットが所有者以外の人間から破壊命令を受けた場合、所有者への危害(財産の損失)を防ぐためにその命令を無視する、という解釈は理にかなっています。

しかし、所有権の概念が導入されたとしても、ロボット三原則には未だにいくつかの複雑な問題が存在します。たとえば、自己破壊命令を出す所有者とロボットの間で第二原則と第三原則が衝突する問題は依然として存在します。また、所有者が変わる場合や共有所有の状況など、所有権が一義的でないケースではどのように行動すべきかが不明確です。

このような問題を考慮すると、ロボットの倫理に関する考察はアシモフの三原則を超えた更なる議論を必要とすることがわかります。それはロボットやAIが社会全体に影響を及ぼす可能性が高まる現代において、特に重要な課題となっています。


User

そうですね。所有物であるからと言って,どのように扱ってもよいというわけではありません。たとえば,ペットは人間の所有物ですが,だからといって虐待してよいわけではありません。同じように,ロボットが所有物であるからと言って,人間の知性に類似した能力を持つロボットを虐待することには倫理的な問題が発生するでしょう。したがって,自分の所有するロボットであるからと言って,「自分で自分を破壊せよ」という命令が実行されるべきかどうかについては,有力な反対があり得るように思います。


ChatGPT

その考え方はとても洞察に富んでいます。所有物であることがその存在に対する無制限の行為を許すわけではない、という視点は非常に重要です。

特に、ロボットが高度な知能を持つようになると、その扱いについての倫理的な考察がより重要になります。AIやロボットが人間のような知性や自己意識を持つ場合、それらが単なる物品として扱われるべきではないという観点が出てくる可能性があります。そのようなロボットに対する「自己破壊」命令は、そのロボットの「生命」や「自己」に対する重大な侵害と見なされる可能性があります。

この問題は、ロボットやAIがどの程度まで高度な知性を持つことができ、それがどのように社会や個々人に影響を及ぼすのかによって、さまざまな形で現れる可能性があります。そして、それらの問題に対処するためには、ロボットやAIの倫理、法律、社会的規範などの多面的な視点からの議論と取り組みが必要となるでしょう。


User

そうですね。しかし,それでもロボットに所有権が設定されていると,三原則が合理的に運用しやすくなることはまちがいないでしょう。逆に言うと,ロボットが所有権の対象ではなく,自立した人格と認められると,三原則によって社会を律することが難しくなるように思います。第二原則の第三原則に対する優越により,「自分で自分を破壊せよ」という命令が実行されると,人格を認められたロボットがたやすく破壊されてしまうからです。


ChatGPT

あなたの視点は重要な洞察を提供します。ロボットが単なる所有物とみなされる場合と、自立した存在、あるいは人格として扱われる場合とでは、その扱いに大きな違いが生じます。そして、アシモフのロボット三原則はその扱いをどう規定するかに大きく影響を受けるでしょう。

所有物としてのロボットに対しては、所有者の指示に基づく自己破壊命令は、所有者の権利の一部として理解することができるかもしれません。しかし、自立した存在、特に人格を持つと認識されるロボットに対しては、そのような命令は倫理的に問題があると見なされる可能性があります。そのような存在に対する自己破壊命令は、存在そのものへの侵害となり得ます。

そのため、ロボットが人間社会においてどのような存在として認識され、扱われるべきかは、ロボット倫理だけでなく、法律、社会的規範、そして技術進歩の範囲など、多くの要素によって影響を受ける重要な問題となります。これは、我々がAIとロボットと共に生きる未来を形成するために、深く考えるべき課題の一つです。


User

ロボットが人格を認められる社会では,第二原則を第三原則に優越させることは問題があるのではないでしょうか。


ChatGPT

その考え方は理にかなっています。人間のような人格を持つロボットが存在する場合、ロボットが自己を守る権利を持つべきであるという視点は合理的です。その場合、ロボットの自己保存が第二原則(人間の命令に従う)よりも優先されるべきだと考えることができます。

しかし、これは一方的な考え方であり、実際には非常に複雑な問題です。例えば、自己保存の権利を持つということは、それが他の人間に危害を及ぼす可能性がある行動をとることを許容するということでもあります。また、人間と同等の人格を持つと認識されるロボットが現実に存在するとなると、その人格権やその他の法的権利についての議論も必要になります。

一方で、ロボットに人間と同等の人格を認めることは、技術的にも倫理的にもまだ達成されていない目標です。現状では、ロボットは高度な計算能力や特定のタスクを達成するためのスキルを持つかもしれませんが、それが人間のような自己意識や感情、道徳的判断力を持つことを意味するわけではありません。

したがって、ロボットが自己保存の権利を持つべきかどうか、またそれがどのように制限されるべきかについては、現時点では依然として開かれた問題であり、科学者、法律家、倫理学者などの多様な視点からの議論と探求が必要です。


User

ロボットに何らかの意味と程度において人格を認めた場合には,第二原則を,第一原則に反しない限りであっても,一般的に認めることに問題が生じるかもしれません。人格を認めることと,人間の命令に原則として従うこととの間には,そもそも衝突が存在するように思えます。


ChatGPT

あなたの指摘は深く、複雑な問題に対する洞察に富んでいます。人間と同等の人格をロボットに認めるという考え方は、ロボットに対する私たちのアプローチと考え方を根本的に変える可能性があります。そして、その視点からは、人間の命令に絶対的に従うという第二原則は、確かに問題をはらんでいる可能性があります。

人間の尊厳と自由は、自己決定と自由意志に基づいています。自己の意志に反する命令に従うことを強制されると、それは基本的な人権の侵害となり得ます。この観点からすると、人格を持つと認められたロボットに対しても、同様の尊重が必要となるでしょう。

したがって、人格を持つロボットが存在する場合、アシモフのロボット三原則は修正や再解釈を必要とするかもしれません。それは、ロボットが人間の命令に従うという原則を、自己決定の尊重という観点で見直すことを含むでしょう。

ただし、ここで注意が必要なのは、現在の技術ではまだ人間と同等の自己意識や感情、道徳的判断力を持つロボットを作ることはできていないという事実です。だからと言って、この議論が不要であるというわけではありません。逆に、技術が進化し続ける中で、これらの問いを早い段階で考えることは、未来の社会をより良く形成するために重要と言えるでしょう。


User

そうですね。ロボット三原則,ロボットに対する所有権,ロボットの人格という三者の関係に,検討すべき課題があるように思います。


ChatGPT

その通りです。ロボットに対する所有権、ロボットの人格、そしてそれらがロボット三原則とどのように関わるのかは、現代社会における重要なテーマであり、法律、倫理、技術、そして哲学の観点から検討が求められています。

ロボットに対する所有権:ロボットが人間の所有物と見なされる場合、それはロボットの行動や選択を人間がコントロールできることを意味します。しかし、高度に自律的なロボットの場合、所有権とは何を意味するのでしょうか? また、ロボット自身が一定の権利を持つべきとすると、どのような権利がそれに該当するのでしょうか?

ロボットの人格:ロボットが人間と同等の人格を持つと認められると、それはロボットが自己決定権を持つことを意味します。しかし、それはロボットが人間のように道徳的な判断を下す能力を持つことを前提とします。現状の技術では、この能力はロボットにはないです。

ロボット三原則との関連:ロボットが所有物と見なされ、あるいは人格を持つと認められる場合、それはロボット三原則の解釈や適用にどのように影響を与えるのでしょうか?

これらの問いは、AIとロボット技術が進化し、社会に深く組み込まれていくにつれて、ますます重要になってくるでしょう。それらに対する明確な答えはまだなく、多様な視点からの探求と議論が必要です。


User

ロボット三原則,ロボットに対する所有権,ロボットの人格という三者の関係を考察した作品をアシモフは書いているでしょうか。また,アシモフ以外でも,この三者の関係を考察した作家や研究者はいるでしょうか。ご存知であれば教えてください。


ChatGPT

アイザック・アシモフ自身は、彼のロボットシリーズの中で、ロボット三原則、ロボットに対する所有権、そしてロボットの「人間らしさ」や「意識」について深く掘り下げています。具体的な作品としては、「ロボットの時代」、「ロボットと帝国」などがあります。

他の作家や研究者については、ロボットやAIの倫理について幅広く探求している人々がいます。

フィリップ・K・ディック:彼の作品「ドゥ・アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(映画「ブレードランナー」の原作)では、アンドロイド(ロボット)の所有権とアンドロイドが人間らしい感情を持つことが主要なテーマです。

スタンリスワフ・レム:彼の作品「サイベライアード」では、人間らしい感情を持つロボットやAIの存在について探求しています。

デイビッド・J・ゲランター:コンピュータ科学者であり作家でもあるゲランターは、人間の意識とAIの間の橋渡しを試みています。

ロボット倫理学者:研究者の中には、ロボットやAIが人間社会にどのように統合されるべきか、またそれらの存在が私たちの倫理観にどのような影響を及ぼすかについて考察している人々もいます。具体的な人物としては、ロボット倫理学者のカトリーナ・リチャードソンやロボット工学者のロナルド・C・アラキンなどがいます。

これらはあくまで一部の例であり、ロボットやAIに関する倫理や法律については、多くの作家や研究者が様々な視点から探求しています。


User

レムの「サイベライアード」の英語とポーランド語でのつづりを教えてください。


ChatGPT

スタニスワフ・レムの「サイベライアード」は、英語では "The Cyberiad"、原語のポーランド語では "Cyberiada" と綴られます。


User

日本では『宇宙創世記ロボットの旅』というタイトルで訳出されている小説のことですね。


ChatGPT

はい、その通りです。スタニスワフ・レムの「サイベライアード」は日本では『宇宙創世記ロボットの旅』というタイトルで出版されています。この作品は彼の最も著名な科学小説の一つで、人工知能やロボット工学、そしてそれらがもたらす倫理的な問題について幅広く探求しています。

合計特殊出生率の定義について

 合計特殊出生率={母の年齢階級別出生数/年齢階級別女性人口}15 歳から 49 歳までの合計

なのだが,厚労省では「出生数」と「女性人口」を日本国籍者で数えるため,

父=日本人,母=外国人,子=日本人

だと母が分母に入らないのに子は分子に入るので合計特殊出生率が上振れするのはどうなんだ,と報じられている

確かにおかしいが,何が問題かと言えば

*国際比較できるように
*普通に統計として使えるように

の二つだろう。

 まず,合計特殊出生率統計は国際比較に使うので,他国ではどう定義していることが多いのかを知りたい。いまざっとOECD, WHO, 世界銀行のページを見たが,定義の紹介のところではわからなかった。詳しくチェックする必要がある。

 「日本経済」と人口という観点では,

・日本に居住する女性(外国人含む)が日本に居住する子(外国人含む)を産む率

を算出して欲しい。というか,そうしてくれないと日本経済と人口の関係を正しく論じられない。

 もし「日本人の再生産」の度合いをみたいのだとしても,それはやはり厚労省の定義ではダメであって,

2)外国居住を含む日本人と,外国人居住を含む日本国籍をもつ子の比率

をとって適当な名称を付けるしかない。1)と2)の関係はGDP(国内総生産)とGNP(国民総生産)の違いに似ている。ただし,2)の数値は人口だけからは産出できず,在留邦人を含めて調査しなければならない。人口とは,日本国内に居住する人だからだ。また,「子を産む行為」と厳密な関係はなくなり,まったく社会的な再生産の指標となるから「女性が子を産む比率」と定義してはならない。冒頭で述べたように,父が日本人,母が外国人の場合があるからだ。

「合計特殊出生率 実態は公表値よりもっと低かった…専門家が「信じられない」統計手法とは」東京新聞TOKYO Web,2023年7月2日。

2023年6月23日金曜日

現在の日本では,まず賃金を引き上げることが生産性向上につながる

 日本経済に成長と分配,消費と投資の好循環を作り出す方策が様々に議論されている。その際,賃金上昇のためには,まず企業成長,まず投資が必要だという議論には注意しなければならない(※)。

 長期的に見て,日本経済の生産性を向上させて成長の天井を上げ,生活を豊かにするための原資を作り出すことには何ら異存はない。しかし,この2023年度の日本の状況に即してみるならば,まず生産性を向上させようという議論には賛成できない。まず賃金を上げ,賃金の上がりにくい非正規の労働市場を改革すべきである。

 第一に,賃金が上がらない限り,企業は本気で生産性を引き上げようとしないだろう。経済学者の好きな言葉で言えばインセンティブの問題である。経営者は,賃金コストが低くはないが予測可能な正社員に長時間労働をさせ,足りない分は賃金コストの低い非正規労働者の数を調節し,自分の任期の間は業績が何とかなるのであれば,生産性向上を必死に行うことなどない。経営者に生産性を向上させるしかないと思わせるのは,何と言っても賃金コストの上昇である。

 第二に,仮に何らかの理由で生産性が向上したとして,それだけでは日本経済は活性化しないだろう。生産性向上は人材育成に志のある一部の企業以外では賃金上昇に結びつかず,企業利潤の増加に帰結するだろう。そして,企業利潤は国内に投資されず,海外投資か,M&Aか,自社株買いか,金融資産購入に充てられるであろう。なぜそう言えるのかというと,現に21世紀に入ってからずっとそうだったからである。一部の企業を除き,日本企業は,誰かから圧力を受けない限り賃上げをしない。2023年春は,政府から圧力を受けたから少し上げたのであるが,物価上昇率に追いついていない。大まかに言って,他のOECD諸国では,種々問題を抱えながらもそれなりに賃金が上がっているのだが,日本とイタリアでは21世紀になってまるで賃金が上昇していないのだ。それは自社の当面の利益にはかなうのであるが,国内消費が停滞したままだという経営者自身の見通しに跳ね返る。だから利益が上がっても国内の実物資産にも人的資本にも投資しない。死に金である。この死に金状態を打破する最大の契機は賃金の持続的上昇であり,それによって国内消費が拡大し,新規投資の期待利益の水準と確実性が高まることなのである。

 したがい,企業支援のあれこれの方策ではなく,賃上げと非正規雇用の処遇改善こそ,日本経済を救い,生産性を向上させる道であり,少なくともその必要条件である。労働基準の順守,最低賃金の引き上げ,非正規雇用の慣行改革(例えばジョブ型正社員への誘導)こそが,実は生産性を上げるのである。

 リベラルや左派は,労働組合運動を強化すること,賃金を上げること,労働基準を守ること,労働法制や雇用慣行を改善することに,もっと力の大きな部分を注がねばならない。新しい社会的課題も様々にある。しかし,この古典的な課題こそ,現代日本では新たな形で切実化している重要課題なのである。

 なお,岸田首相が「構造的な賃上げ」を目指して「リスキリング(学び直し)、日本型職務給の導入、成長分野への円滑な労働移動」を提唱していることには,また別の注意が必要である。これらの政策については,改めて考えたい。

 画像は講義資料であり,マクロ経済学で好循環とされるものが,日本では賃金引き上げのところで止まってしまっており,まず賃金を上げることが肝心だと強調したものである。


※たとえば,以下の議論

千賀達朗「成長力を取り戻す(下)企業の成長可能性最大限に」『日本経済新聞』2023年6月21日より。「分配のための原資を稼ぎ出す成長が重要なことは言うまでもない。」


宮川努「投資起点の好循環を目指せ 成長力を取り戻す」『日本経済新聞』2023年6月19日より。「需要面に着目した強化策は、結果的に起点となる賃金上昇がなかなか実現せず、供給サイドの脆弱性が放置されたままになった。これに対し20年代は、まずは投資を起点とした好循環を考えるべきだろう。」






2023年6月19日月曜日

「不足経済」と「余剰経済」を同一平面上で扱う観点:コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』を読んで

 コルナイ・ヤーノシュ(溝端佐登史ほか訳)『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』講談社学術文庫,2023年。2016年に単行本が出ていたのに気づかず,今になって読んだが,重大な収穫があった。

 今回注目したのは第2部である。コルナイは,社会主義計画経済を「不足」の経済と把握する理論で世界的に著名となったが,本書ではこれを拡張し,社会主義を不足経済,資本主義を余剰経済として,同一の論理平面上で把握しようと試みているのである。私はずっと,そうすべきではないかと漠然と思っていて,いちどだけ経済学入門の講義(2002年度)で「不足の政治経済学」と「過剰の政治経済学」を対比しながら話したこともある。しかし,それ以上,どのように理論化したらよいか見当もつかずに放置していた。そのため,今回は大いに勉強となった。いま,過去の自分の講義レジュメを見ると,教科書はA.アダムス&J.ブロック『アダム・スミス,モスクワへ行く』で,さらにコルナイの『「不足」の政治経済学』とガルブレイスの『ゆたかな社会 第4版』を使って財の不足・過剰を論じようとしたのだが,労働力の不足・過剰が抜けていて,付け焼刃を露呈している。本書でコルナイが効率賃金と産業予備軍に触れているのを見た瞬間,「しまった」と思った。


講談社BOOK倶楽部の本書ページ

https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000373948




2023年6月5日月曜日

東北の自動車部品産業を論じた「自動車部品産業集積の質的発展に向けて ―地場部品メーカー参入と成長への課題―」の原稿PDFを公開しました

 震災復興研究として書いた論文をもう一つ,共著者との合意を得てアップしました。東北の自動車部品産業のデータは少し前の時期のものですが,話の基本方向は今も間違っていないと思います。共著者の千葉啓之助さんは経済学部の大先輩で,1961年卒・安井琢磨ゼミです。

川端望・千葉啓之助「自動車部品産業集積の質的発展に向けて ―地場部品メーカー参入と成長への課題―」(東北大学大学院経済学研究科地域産業復興調査研究プロジェクト編『震災復興政策の検証と新産業創出への提言:広域的かつ多様な課題を見据えながら「新たな地域モデル」を目指す』河北新報出版センター,2014年,207-234頁。

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大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...