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2022年2月14日月曜日

アソシエーションの下での個人的所有の再建(2):資本主義への道,アソシエーションへの道 第5回

 「アソシエーションの下での個人的所有の再建」の内容。ここでのマルクス理論史上の問題は,『資本論』においてアソシエーション,端的には共産主義社会への変革が「私的所有を再建しない」が「個人的所有を再建する」と断定していることをどう理解するかである。これに対する理解でもっともありふれたものは,共産主義社会では「生産手段は社会的に所有され,生活手段は個人的に所有される」というものである。しかし,これでは字面の上でも,『資本論』が「私的」と「個人的」を対比していることの意味を理解できない。また個人の生産へのかかわり方についてのマルクスの思想がまったく読み取れない。この二点について,もっと深く読み取るべきではないかという問題意識から,様々な研究が行われた。これはもちろん,個人が尊重されていない旧社会主義国の現実を念頭に置きながらの議論であった。

 私が大野節夫氏や有井行夫氏の研究から自分なりに理解したところでは,こうである。

 まず前提として,個人的所有が「否定の否定」によって「再建」されるという時に,「否定」される前とはどの時点なのかを確定しておかねばならない。これは,自由な小生産の時点である。自由な小生産は,生産関係としては単純商品流通に対応している。「第一の否定」によって自由な小生産が否定され,資本主義的生産の確立する。

自由な小生産→第一の否定→資本主義的生産→第二の否定→アソシエーション

というシェーマである。だから第一の否定は,生産者と生産手段を切り離す本源的蓄積過程とイコールではなく,もっと短いスパンの過程である。

 さて,所有は本来社会的関係の中に存在している。しかし,そこから孤立した,社会とのつながりを極小化された,とにかく排他的権利が法認されているというだけの所有も考えられる。この次元での所有とは,小生産においては生産手段の私的所有である。それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者が生産手段を所有しないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては再建されない。

 それでは,再建される「個人的所有」とは何かというと,二つの側面がある。ひとつは,「意思決定過程に関与することとしての所有」である。諸個人が生産物や生産方法の決定に参画できることである。これは,自由な小生産においては,個人個人がまったくばらばらに行う形で確立される。資本主義的生産においては,それは資本主義的生産に形だけ受け継がれるが,直接的生産者は生産物も生産方法も決定できないという意味で否定される。そして,アソシエーションにおいては,連合した諸個人が社会的組織を通して意思決定を通して行うという形で再建される。つまりは,民主的に運営されていてメンバーの意志が尊重されている協同組合のような状態である(この授業で私が何度も言ったのは,アソシエーションの理想とは,うまく運営されている生協のようなものであるということだった)。

 もうひとつは,「生産物の取得様式としての所有」である。自由な小生産においては,自己労働に基づく取得が実現する。それは資本主義的生産においては建前だけのものになり,搾取すればするほど多く搾取できるという資本主義的取得法則に歴史的に転化する。そして,アソシエーションにおいては自己労働に基づく取得が再建され,低い段階では「労働に応じた取得」,高い段階では「必要に応じた取得」が実施される。

 マルクス解釈としては,これでよいと思う。問題は,社会的組織を通して行う意思決定が「自分で生産物や生産方法を決めている」という実質を持ちうるにはどういう運営がされねばならないか,また社会的組織の中で働いて「自己労働に基づく取得」という内実を持つしくみとはどのようなものであるか,そして,それらはどうすれば実現できるかというところにある。それらは,どのような労働手段を基礎にしてどのような経営様式によって成り立つのかということである。これらは難問であるが,マルクス解釈から答えが出る問題ではない。より具体的な次元での難問である。

<参考>

大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年
有井行夫『新版 株式会社の正当性と所有理論』桜井書店,2011年。

資本主義への道,アソシエーションへの道⑤アソシエーションの下での個人的所有の再建(2)





2022年2月12日土曜日

資本主義の発展と消滅。アソシエーションの下での個人的所有の再建(1):資本主義への道,アソシエーションへの道 第3回、第4回

 「個人的所有の再建」。さすがにこれを避けると授業が終わらないので,歯が立とうが立つまいが,やる。まずはとりあえず,それは「いろいろな事情で:今までの社会主義国では成り立たなかった」と言っておく。「それだけかい!」と突っ込みが入って当然だが,ここで「まずその前に,これまでの社会主義と称するものが××だった理由について○○し,マルクスの問題点を■■しなければならないのではないか。そうすることなしに++を語ることはできないのではないか」とか言っていると授業が終わる前に一生が終わるので,まずは原典解釈を淡々と進めることとする。マルクスの問題点は第7回以降にまとめて論じる。「個人的所有の再建」の内容は次回。

資本主義への道,アソシエーションへの道③資本主義の発展と消滅



資本主義への道,アソシエーションへの道④アソシエーションの下での個人的所有の再建(1)



2022年2月11日金曜日

石原慎太郎氏は自分を省みなかった

 私は,ものごころついて以来,石原慎太郎氏が保守だ右翼だというのはわかりきったことなので,いちいち気にしたことはない。しかし,この人が,一切自分を省みないところは,受け入れられなかった。石原慎太郎氏こそ「ブーメラン」の人だと思う。

「ああいう人ってのは人格あるのかね」→自分の人格は問題ないのか。

「IQが低い」→自分は高いのか。

「“文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものは「ババア」”なんだそうだ」→自分は有害じゃないのか。

「美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」→自分は78歳で都知事に当選しても何も問題はないのか。

「日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」→自分の我欲を天罰で洗い落とす必要は感じないのか。

……という風に,まったく納得できなかった。一切自分を疑わない人は,どういう思想の持ち主であれ,「どこかやっぱり足りない感じがする」と思う。それは「遺伝とかのせい」ではなく自らのありかたの問題だ。


2022年2月8日火曜日

個人的所有の生成と否定:資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 

 「経済学入門A」のオンライン講義最終回の抜粋,第2回。この講義は小経営的生産様式と自由な小商品生産を区別し,前者が基礎になって後者が成立するのは長い歴史的過程を経てのことであるという風に『資本論』を読んでいます。

 生産様式とは,一定の生産関係の中での生産諸力の運動形態であり,具体的には労働手段と労働の結合の具体的なあり方です。つまり,直接には生産力のありかたであって生産関係のあり方ではありません。しかし,どのような生産関係にフィットするかという適合・不適合があります。そして,もっともフィットする生産関係が名称について「封建的生産様式」「資本主義的生産様式」などと呼ばれるのです。

 小経営的生産様式は,小経営という生産関係にフィットしたものです。小経営は社会全体を長い時期にわたって支配する生産関係ではありません。むしろいろいろな前資本主義的生産関係の中にある経営様式であり,解体する共同体にかわり,また変容する共同体とともに,ゆっくりとはったつしてくる経営様式です。そして,発達し切ると,自由な小商品生産の下での小経営的生産様式になります。商品経済の中で独立した自営農民や独立した手工業者です。そのとき,生産手段の法的所有という意味でも,生産物の経済的取得様式という意味でも,個人的所有が発達します。

 しかし,自由な小商品生産は,社会全体を支配することなく,発達すればするほど資本主義的生産に転化してしまいます。そうすると,個人による生産手段の法的所有は法的建前に過ぎなくなり,大多数の直接生産者は生産手段を持たない賃労働者になります。また,経済的取得様式としての個人的所有は,他人を搾取すればするほどより多く搾取できるという資本主義的取得法則に転化してしまいます。これが個人的所有の第一の否定です。

 この見解は,大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店,1979年と栗原百寿『農業問題入門』青木書店(初版,1955年,有斐閣)に強く影響を受けてまとめたものです。いずれも今後アップする動画の第9回で文献リストに掲げています。

資本主義への道,アソシエーションへの道 第2回 個人的所有の生成と否定








2022年2月2日水曜日

小経営的生産様式の歴史的意義:資本主義への道,アソシエーションへの道 第1回 

 東北大学経済学部で2020年度第2学期に1年生向けに行った「経済学入門A」のオンライン講義から,2021年1月18日に行った最終回の後半部分を,9本に分割して配信します。講義内容はマルクス経済学の入門で,教科書に使用したのは大谷禎之介『図解 社会経済学 資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年です。動画の内容は,教科書第1篇第10章「資本の本源的蓄積」第2節「資本主義的生産の歴史的位置」に相当する部分です。これは,カール・マルクス『資本論』で言えば,第1部「資本の生産過程」第7篇「資本の蓄積過程」第24章「いわゆる本源的蓄積」第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」に相当する部分です。

 第1回は小経営的生産様式の歴史的位置づけを行ったものです。小経営的生産様式を重視するのは,ある意味では東北大学における経済学研究の伝統であり,これを定式化した業績は栗原百寿『農業問題入門』有斐閣,1955年に帰せられます。栗原理論の問題意識は安孫子麟氏に受け継がれ,その新たな定式化は,安孫子麟「近代村落と共同体的構成」(安孫子編著『日本地主制と近代村落』創風社,1994年などに示されています。また,これとは別に,平田清明氏の個体的所有論をめぐる討論から大野節夫『生産様式と所有の理論 「資本論」における「一般的結論」』青木書店が書かれました。私はこれらの業績から多くを学びました。

第1回 小経営的生産様式の歴史的意義





2022年1月25日火曜日

インフレもバブルも「過剰な貸出」によって生じるのか?:建部正義「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」との対話

1.はじめに:マルクス経済学でインフレーションとバブルを理解する枠組みを求めて

 『前衛』2022年2月号に建部正義氏の論稿「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」が載っている。日本共産党は,貨幣・信用論をリジッドに統一しているわけではない。『前衛』や『経済』に寄稿されるマルクス経済学者も一枚岩でなく,管理通貨制度下の貨幣についての捉え方では,二大理論,つまり国家紙幣=価値章標(価値のシンボル)説と信用貨幣(手形)説の両方が存在している。建部氏の見解も,氏の独立した学問的見地に立ってのものであることは言うまでもない。ここで私が書くことも日本共産党への論評ではなく,あくまでも建部氏との学問的対話である。

 ここでは,建部氏の見解と対話することで,「マルクス経済学の概念と理論を前提した場合に,現代のインフレーションとバブルをどのように規定すべきか」を考えてみたい。建部論文は,この大きな課題に挑まれたのであり,胸を借りるに適した研究だからである。私自身は,マルクスの理論がすべて正しいと考えるものではないが,マルクスの理論の延長線上で現代資本主義をどこまで捉えられるかは,やはり限界まで突き詰めねばならないと考えている。そのためにも,まずは建部氏とともにマルクス経済学の基礎に立って討論したい。

2.不換制下の預金貨幣と銀行券は信用貨幣でないとする建部説

 前述のように,マルクス経済学において,管理通貨制度,言い換えると不換制のもとでの貨幣の捉え方は,価値章標=不換国家紙幣説と信用貨幣=手形説に大別される。まず,この点での建部氏の見地を確認しよう。建部氏は,マルクス『資本論』の記述を解釈して,大要以下のように言われる。

 まず,兌換銀行券は金支払約束という意味で信用貨幣である。兌換制下での帳簿信用による預金貨幣も,兌換銀行券支払約束という意味で信用貨幣である。これらは貨幣流通法則にしたがう。

 対して,不換銀行券は信用貨幣ではなく,不換国家紙幣の流通法則にしたがう。不換制下の帳簿信用による預金貨幣は,不換銀行券に対する支払約束に過ぎないから,信用貨幣ではなく不換国家紙幣の流通法則にしたがう。

 つまり,建部氏は現代の預金貨幣や日本銀行券は信用貨幣でなく不換国家紙幣だという見地に立っている。ここからいろいろな問題が起こってくるのであるが,まずは氏の言うことを聞き続けよう。

3.インフレーションのマルクス的定義と建部説との関係

 マルクスの貨幣流通法則とはいろいろな内容を持っているが,ここで重要なのは,商品流通に必要になれば流通に入り,不要になれば商品交換の作用により流通から出るという法則性である。つまり貨幣流通量に伸縮性があるということである。金貨をイメージすればお分かりだろう。他方,国家紙幣流通法則とは,商品流通に一度入ったら,商品交換の作用によっては流通から出られないということである。つまり国家紙幣の流通量には伸縮性がなく,国家権力が回収しない限り増える一方なのである。建部氏は詳細を説明してないが,明らかに上記の法則を念頭に置いている。そして,私も異論はない。

 ここでインフレーションをマルクス的に定義するとどうなるか。建部氏によれば,「インフレーションとは『商品流通に必要な金の総額』,すなわち,流通必要金量を超える不換通貨(金と交換されることのない政府紙幣,不換銀行券や不換制下の預金貨幣のこと)の過剰発行によって生じる名目的な物価騰貴のこと」(p. 75)である。私は後述するようにカッコ内に同意できないが,それを除けば異論はない(※1)。

 建部氏はこの定義を念頭に置き,兌換制下の信用貨幣ではインフレーションは起きようがなく,不換制下ではインフレーションが起き得るというのである。

4.不換制下の信用貨幣を本質規定では否定し,「現在の通貨供給の基本メカニズム」では事実上肯定する建部説

 このようにマルクス解釈をした上で,建部氏は「現在の通貨供給の基本メカニズム」を論じる。

 それは,企業や家計からの銀行に対する借り入れ需要に対して,銀行が帳簿信用(預金創造=信用創造)で預金貨幣を供給し,返済によって預金が消滅するというものである。銀行は創造した預金貨幣額に応じて日本銀行に準備預金を積まねばならない。この準備預金をネットで増加させることができるのは日本銀行だけである。日銀は,預金創造=信用創造活動に基づく銀行の追加準備預金需要に対しては,基本的に受動的に対応する。しかし,ある程度は金利政策を中心とした金融政策で銀行貸出に影響を与えることはできる。

 日銀券は,企業や銀行が預金を銀行から引き出す場合に発行される。まず銀行が日銀から日銀券を引き出し,この日銀券が企業や家計の手に渡される。

 建部氏の「現在の通貨供給の基本メカニズム」は,みなもっともである。建部氏はマルクス経済学内において内生的貨幣供給論者として知られており,ここで書かれていることも金融システムにおける内生的貨幣供給論そのものである。

 しかし,私は目を点にせざるを得ない。建部氏は,不換制の下でも預金貨幣は伸縮性を持つと言い,商品流通を予定した預金貨幣が貸し出しによって流通に入り,返済によって流通から出ると言っている。そして,日銀券は,預金をおろすと預金が減った分だけ日銀券が発行されるのであり,日銀券の運動は預金貨幣の運動に従属しているとみなしている。ならば,預金貨幣も日銀券も国家紙幣流通法則ではなく,貨幣流通法則に従っているとみるのが普通だろう。金と交換されなくても信用貨幣だと見るのが普通だろう。貸し出し・返済をとおした通貨供給からはインフレーションは起きないと見るのが普通だろう。ところが,建部氏は,マルクス解釈のところでは,不換制下の銀行券と預金貨幣は不換国家紙幣であって国家紙幣流通法則にしたがいインフレーションを招きやすいと言われるのである。これは水と油のごとき,矛盾と言わざるを得ない。

5.過剰な貸付けによるインフレーションを認める建部説

 それでは,建部氏は「現代インフレーションの発展プロセス」をどう説明されるのか。「インフレーションとは,銀行による流通必要金量を超える不換の預金貨幣の過剰な貸出という要因と中央銀行によるその見落としないし追認という要因とが重なることによって生じる」(p. 80)とすることによってである。ここで財政赤字や,まして日銀の国債引き受けなどもまったく登場していないことに注意していただきたい。建部氏は,財政的要因がまったくなくとも,銀行による過剰な貸し出しによってインフレーションが起きるといわれるのである。これは「信用インフレーション説」と呼ばれるものの極端な形態に他ならない。

 しかし,企業や家計が必要とする場合に貸し出しが行われ,貸し出しは貸し倒れなければ返済されるとすれば,それは,商品流通が拡大しようとする時,すなわち流通必要金量や通貨量が増える時に通貨が増え,商品流通が収縮して,流通必要金量や通貨量が減る時に通貨が減るだけのことである。いったい,どうしてこれで貸出が過剰になるのだろうか。どうすれば,名目的物価騰貴としてのインフレーションが起こるのであろうか。建部氏はこのことを全く説明されない。

6.土地にも流通必要金量を認める建部説

 建部氏は,次いでバブルに話を移し,「バブルとは,銀行による流通必要金量を超える不換の預金貨幣の過剰な貸出によって生じる地価などの資産価格の高騰」(p. 82)だと規定される。

 建部氏は,地代の資本還元によって計算された土地の購買価格をもとにして,「土地の売買に必要な貨幣量を流通必要金量に含めることはできない相談であろうか。できるはずだというのが筆者の考え方である」(p. 82)という。この論法で行けば,配当の資本還元によって株式価格も,利子の資本還元によって債券価格も,証券の売買に必要な流通金量があるということになるだろう。私は,マルクス理論に立つ限り,労働価値を持たない土地や株式や債券について流通必要金量を認めることはできないと考えるが,今の主要問題はそこではないので,いったん脇に置く。要は建部氏の言うバブルとは,インカムゲインの資本還元を超えるような土地・金融資産価格の高騰のことであろう。これはこれで,一つの根拠を持つ見解であるとは思う。

7.インフレもバブルも過剰な貸付けで起こるとする建部説の問題点

 しかし,建部氏がインフレとバブルを総合して次のように言う時,再び問題が生じる。「インフレーションもバブルもじつは同じ根っこから発生する現象に他ならないというわけである。過剰な貨幣が商品の購買にまんべんなく振り向けられるならば,インフレーションが発生し,それが資産の購買に特化して振り向けられるならば,バブルが発生することになる」(p. 82)。果たしてそうか。インフレとバブルは理論的に同根か。私はそうではないと思う。

 繰り返し述べるが,企業が銀行から借り入れを行い,その預金やそれをおろして得た日銀券で設備投資や在庫投資を行ったり,運転資金を借り入れて仕入れ代金や賃金を支払ったりする分には,貸し出しは過剰になる余地はなく,インフレーションは起こらない。もし景気が過熱して借り入れが盛んになり,財・サービスが需要超過となったとしても,また日銀が銀行の盛んな貸し出しを「見落としないし追認」していたとしても,それは日常用語ではインフレーションだが,建部氏も私も共有するマルクス的定義ではインフレーションではないはずである。短期的には,価格の価値からの上方への乖離に過ぎない。そして資材や人材のひっ迫によってついに生産費が高騰すれば,それは商品の労働価値が増大するという実質的物価上昇である。国家紙幣の過剰投入による名目的物価上昇=インフレーションではないはずである(※2)。

 こうして,建部氏はインフレでないものを無理くりインフレ扱いしてしまっている。そうしなければならなかったのは,不換制下の預金貨幣や日銀券を不換国家紙幣扱いしてしまったからであろう。預金も日銀券も伸縮性を持ち,内生的に供給されると認めているのだから,これを素直に信用貨幣であるとみなすべきだったのである(※3)。

 他方,バブルについては,建部氏の見解にも一理ある。企業や家計が,キャピタルゲインの獲得を目的として銀行から借り入れを行った場合,この通貨は商品流通を媒介しない。マルクス的な表現では遊休貨幣になり(※4),とりあえずは預金やたんす預金の形態をとる。しかし,預金や日銀券のままで遊休するとは限らず,価格が高騰した土地や株式という,労働価値の裏付けがない架空資本の購入に向かうことがある。手放された通貨は土地や株式の売り手に移り,買い手は架空資本価値を手に入れる。マルクス経済学の架空資本規定からは,こう理解できる。この場合,売りより買いが強ければ架空資本価値は高騰する。その価格形成にも,もちろん一定の法則は働くが,労働価値の裏付けがないために,何らかのきっかけで需給バランスが崩れ,暴落することもあり得る。その際,インカムゲインの資本還元価格は,おおむね底値となるだろう。この架空資本価値の高騰は,たしかに不換制のもとで,銀行の過剰な貸し出しによって起こり得るのである。

8.おわりに:銀行貸出によるインフレは起こらないがバブルは起こる

 以上,建部氏の見解について,批判を述べるとともに,共有できる部分を明らかにした。最後に拙論を対置しよう。

 マルクス経済学的に思考するならば,同じく持続的な物価上昇であっても,1)インフレーションという名目的物価上昇,2)価格の価値からの一時的乖離,3)実質的物価上昇は区別しなければならない。またA)労働価値を持つ商品の世界に生じるインフレーションと,B)架空資本価値の世界に生じるバブルは区別しなければならない。

 不換制下であっても預金貨幣や日銀券は信用貨幣である。銀行システムを通した通貨供給は商品流通の拡大にしたがう内生的なものであり,伸縮性を持つ。しかし,内生的に供給された通貨は,遊休貨幣となり得る。遊休貨幣が金融資産購入に買い向かうと架空資本価値の肥大化が起こり,バブルが生じる。

 不換制下であっても,民間の信用制度はインフレーションを起こさない。景気過熱時に生じる物価上昇は,価格の価値からの上方乖離や実質的物価上昇である。しかし信用制度は,バブルは起こし得るのである。

 それでは,マルクス的意味のインフレーションは,何によって起こり得るのか。それは,信用制度,日常用語では金融システムによる内生的通貨供給によっては起こりえない。財政システムによる外在的通貨供給によって起こるのである。その説明は,また別のまとまった話となる(※5)。


※1 流通必要金量は重量でしか表現できないので,厳密には,金の重量と価格の度量標準が関係づけられ(金1g=X円などというように),それによって流通必要貨幣量が価格タームで決まり,それを超える分が「過剰」とされる,というべきだろう。

※2 あるいは,建部氏は貸し倒れが頻発して商品流通が停滞し,不良債権だけが残る場合を想定しているのかもしれないが,まったく説明されていないので何とも言えない。

※3 より立ち入って言うと,「金支払約束だから信用貨幣」「金と交換されないから国家紙幣」という建部氏の定義の仕方に問題があると思う。別に金と交換されなくても,手形は信用貨幣という性質を失わない。手形決済は,金での支払いだけによってなされるのではないからである。手形は,手形を振り出した者への債務返済に用いることができる。また手形は多角的な相殺によっても決済できる。手形を,より信用度の高い債務によって決済することも可能である。不換制で否定されるのは正貨での決済だけであり,種々の相殺と信用代位の機能は何ら否定されない。よって,手形が手形でなくなるわけではないのである。この点は岡橋保,村岡俊三両氏の見解による。

※4 銀行に眠っている預金やたんす預金は,商品流通界からは出ていない。しかし,商品流通を媒介せずに一時遊休しているのである。よって,流通外の蓄蔵貨幣ではないが,遊休貨幣である。この点は,岡橋保氏の見解をヒントに拡張した。

※5 説明が十分とは言えないが,さしあたり以下をごらんいただきたい。

「管理通貨制下の中央銀行券はどのような場合に貨幣流通法則にしたがい,どのような場合に紙幣流通法則にしたがうか」Ka-Bataブログ,2020年11月19日。

『前衛』2022年2月号。



2022年1月24日月曜日

「円の購買力が低い」ことと「日本の物価が安い」ことを取り違えている『日経』1面記事

  『日経』は大丈夫か。この記事は電子版では会員限定だが,紙版では1面だ。1面から思い切り間違ったことを書いている。念のため言うが,思想が偏っているから悪いとかいう話ではなく,まるきりテクニカルな問題である。

 見出しは良い。「円の実力低下」「弱る購買力」である。過度な円安により,円の購買力が下がっていることのマイナス面を論じたいのであろう。それはわかる。

 ところが,「日本の物価が安いのがまずい」という,全然別の観点が紛れ込んでいるために,わけのわからない記事になっている。それは,ビッグマック指数の見方に現れている。

 ビッグマックが,いま現に日本では390円で,アメリカでは5.65ドルで売られているのであれば,ビッグマック為替レートは390/5.65=69.03により,1ドル=69.03円である。このレートならば,ドルと円の購買力は同じとなる。ところが実際には1ドル=115円なので,69.03/115=0.6で,ほんらいの60%の購買力しかなくなるほどに円は過小評価されていることになる。これが,ビッグマック指数のほんらいの考え方である。

 ところがこの記事は,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと価格差を埋められない」などと,あたかも,価格が安いことがまずいかのように書いてしまっている。それでは,読者は「え,安くて何が悪いの?」と思って混乱するだろう。ここは,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと,購買力の格差を埋められない」と書くべきだった。円の購買力が低いことと,日本の物価が安いことを混同しているからこんな書き方になったのである。


「円の実力低下、50年前並みに 購買力弱まり輸入に逆風」『日本経済新聞』2022年1月21日。


2022年1月12日水曜日

小売業史から見た日本資本主義論:満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年を読んで

 満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年。非常な興奮を持って読んだ。教科書として書かれたものなので,歴史的叙述のところどころに該当する理論解説が入るという形になっているが,非常に書き込まれた近現代史であると思う。私は流通史研究の素人なので,先行研究との関係はわからないのだが。

 何よりも,楽しい。学術的に産業を描写する際の難しいことの一つは,論理的・実証的に厳密に書くことと,学生や一般の読者が,書かれていることを具体的な光景としてイメージしやすく書くことが矛盾することだ。ところが,本書はこの矛盾がほとんどなく,小売店舗が営まれ,人々が買い物をする光景を生き生きと思い浮かべながら,丁寧で,学術的裏付けのある記述を読むことができるのである。どうすればこのように書けるのだろうか。

 一方,古くさく大上段な言い方をすれば,「本書は日本資本主義論である」と思う。どこがそうかというと,著者が日本型流通の成立・展開・変質を歴史的に把握しているところであり,また流通における資本主義原理の貫徹と日本的独自性の統一として把握しているところである。そして,小売業という,圧倒的多数が自営から出発した世界から見ることによって,日本資本主義を深くとらえることができるのである。

 著者によれば,日本型流通を特徴づけるのは卸売業の多段階性と,小売業の小規模稠密性である。この二つの特徴は,明治時代から1940年代までに成立し,1950年代から80年代初頭までに展開し,それ以降,変容を遂げつつある。

 著者によれば,日本型流通が根強く維持されてきた原因は,単に大規模店舗が規制されていたからではない。一方では地域性豊かな消費市場の構造が,画一的な大量流通になじまない状況が長く続いたからであり,他方では家族経営の自営業が頑強に再生産され続けたからである。再びあえて大上段な用語法で読み解くと,ある時期,資本主義的大量流通と自営業の原理は抱合さえしていたことが,スーパーやコンビニエンス・ストアの発展過程から読み取れる。例えば,コンビニエンス・ストアの本部は大量仕入れと小口配送,情報化による単品管理を行い,FCオーナーは家族総出で24時間営業を支え,丁寧なサービスを支え,両者が補完し合ってコンビニは発展したのである。

 しかし,やがてモータリゼーションと情報化によって小売店舗の立地が大きく変わり,また調整機能における多段階・小規模稠密性の優位が失われていくことで,今日私たちが目の当たりにしているような専門量販店とショッピングセンターの優位,Eコマースの成長,そして商店街の苦境が訪れる。そして,気が付けば商店街の苦境を取り仕切るのは中高年の男性たちであり,女性は背後に置かれており,後継者は見つかりにくいのである。

 著者は,日本流通史から「望ましい流通のあり方はただ一つに決まるものではない」という命題を引き出して強調する。そのとおりだろう。しかし,私は著者はそのことに加えて,「流通は,その社会の歴史から逃れられない」ことと,とくに「資本主義は自営業のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということを明らかにしたように思う(おそらく著者も自覚されているが,そんな暗くて重い言い方をすると学生が「引く」と思って書かないのだろうと,私は邪推する)。後者をもっと敷衍すれば,「資本主義はその社会の家族のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということでもあると思う。このことは,かつて農業を念頭に置いて行なわれた日本資本主義史研究では常識であった。しかし,農業だけでなく,自営業と家族のあり方を念頭に置くべきなのだろう。

 著者も触れているが,私達は上述した流通業態の変化とともに,自営業主が減少し,その分だけ非正規雇用者が増える変化の中にある。このことは何を意味するだろうか。多くの人は,肯定的にであれ否定的にであれ,大資本の力と市場原理の強化として把握するだろう。もちろんその通りなのだが,それはことの半面に過ぎないのではないか。日本の資本主義に対する自営業からの作用が弱体化し,ついに社会編成に質的変化をもたらしたととらえるべきではないか。この変化をとらえるために必要な一つの切り口はもちろん労働であるが,実は小売りも重要な切り口だったのである。本書からはそのような示唆を得ることができると,私は思う。


満薗氏の前著『商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史』講談社現代新書,2015年に関するノートはこちら



ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。  会田...