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2019年5月2日木曜日

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第2節)


2.二つの通貨・銀行モデル

(1)信用貨幣論と不換紙幣論

 信用貨幣論とは,預金通貨を銀行の債務であり,銀行券を銀行が発行した債務証書であるとした上で,それらが通貨として流通しているのだという見解である[5]。その上で,本稿が取るもう少し限定された見地は,「銀行が企業に貸し付けることによって預金貨幣や銀行券という通貨が創造される」と認識する議論である。
 貨幣と信用の成り立ちについて,信用貨幣論は経済学の常識的な議論と鋭く対立している。以下,常識的な議論としての不換紙幣論との対比でこれを見ていこう。見るべきは,通貨の本質と,中央銀行及び民間銀行の信用システムがどのように構築されており,通貨がどのように発行され,その供給量がどのように調節されるかである。これを通貨・銀行モデルと呼ぼう。想定されるのは,現代社会の典型的な通貨体制である。つまり,中央銀行だけが銀行券を発行する発券集中が実施されていて,中央銀行券が通貨として流通しており,かつ金兌換が停止された管理通貨制である。単純化のために,硬貨の流通は捨象する。また,日本の通貨法のように硬貨のみを貨幣と呼ぶ限定的な呼称はしないこととする。つまり,紙幣も貨幣の一種とみなす。

(2)信用貨幣・貸付先行モデルにおける通貨と銀行

 信用貨幣論は,銀行券も預金通貨も流通する銀行債務であり,信用貨幣だと考える。銀行券は銀行の手形である。商業手形が財とサービスの取引を基礎として発生するものであり,貨幣の支払手段機能を果たすものであるように,銀行券の流通と預金の振替操作によってより支払手段機能が果たされ,債権債務の相殺による決済が可能とされる。期日が指定されない一覧払で,債権債務の広範な決済を可能にするのが銀行券と預金通貨の特徴である。このことは中央銀行による発券集中が行われ,中央銀行券が法定支払手段となっても変わらない。中央銀行券は中央銀行への支払手段として用いることもできるし,納税にも用いることができるので,むしろ支払手段としての性格は強まる。そしていったん支払い手段として確立し,信用が強力な中央銀行券は,民間経済での流通手段としても用いられるようになる。その点では不換紙幣に類似して来るが,元来信用貨幣であることは変わらない。
 そして,金兌換が停止されて管理通貨制となっても,信用貨幣としての性質は一切変わらない。金兌換の停止によって失われるのは,銀行手形が金と交換されて銀行に還流するルートだけである。金で支払われずとも手形は手形として流通し,債権債務の相殺に用いられ,中央銀行と政府は法定支払手段としてこれを受け取るからである。
 信用貨幣論は銀行論においては貸付先行説であり,したがってこのモデルは「信用貨幣・貸付先行モデル」と呼ぶことができる。このモデルによれば,預金通貨は,銀行が企業の必要に応じて貸し付けを行うことにより創造される。ここで,信用創造の一般的理解とは異なり,本源的預金は必要ない。あらかじめ預金として存在する不換紙幣を貸すことによって預金通貨が生まれるのではない。そもそも,貸し付けることによって預金が生まれ,流通に必要な通貨が供給されるのである。
 経済活動が順調に拡大すれば,貸し付けたことによって生まれる預金に加えて,別の理由でも預金が生じる。企業活動や個人の経済活動の結果として生まれた所得のうち,当面は必要のない現金が銀行に預けられるのである。これらは具体的には当座預金の他に種々の貯蓄性預金の形も取る。これにより,民間銀行の準備金は充実し,一部は中央銀行に預金される。
 中央銀行と銀行の関係も,基本的に銀行と銀行の関係であり,信用供与によって成り立っている。中央銀行は民間銀行に対して貸し付けることによって,あるいは民間銀行の持つ国債などの金融資産を購入することによって中央銀行預金を創造し,増加させることができる。民間銀行が中央銀行預金を引き出せば,中央銀行券が発券される。
 民間銀行の貸し付けは預金の創造によって行われるが,預金は随時引き出されることがある。だから,民間銀行は準備金を中央銀行券という現金の形で持たねばならない。その現金は,いったん中央銀行券が十分な流通を始めてしまえば,貸し付けられた中央銀行券が預金として還流して来ることによって確保できるし,また個々の銀行にとっては短期金融市場での準備金の貸し借りによって相互に融通しあえるものである。しかし,銀行システム全体として,本源的には,中央銀行から供給されねばならない。民間銀行は,前段の方法で中央銀行預金をおろすことによって中央銀行券を確保する。
 ただし,民間銀行は,中央銀行預金を,現金流動性としての中央銀行券が必要だから引き出すのであって,信用拡大のためには引き出す必要はない。前述のように,自ら預金通貨を創造して貸し付けを拡大すればよいのであって,中央銀行預金は現金流動性確保のためのバッファーに過ぎないのである。言い換えると,中央銀行預金を含むマネタリーベースが拡大することは,民間銀行にとって,企業の借り入れ需要が大きいときの現金流動性確保を確実にするものである。だから,借り入れ需要が強いときは,マネタリーベースの拡大が銀行による貸し付けの拡大をやりやすくし,マネーストックの拡大につながる。しかし,貸し付け需要が強くない時には,マネタリーベースが何らかの理由で拡大しても,貸し付けが拡大せず,したがってマネーストックが拡大しないこともありうる。
 このように,信用貨幣・貸付先行モデルは,中央銀行券が銀行券であることを本質的条件として含んでいる。そのため,政府と中央銀行には本質的な違いがあり,通貨供給が銀行信用の仕組みを通して行われることを捨象しない。中央銀行預金はモデル内に含まれているので,マネタリーベースとマネーストックの相違もまたモデル内に含まれている。
 通貨供給ルートを要約していえば,このモデルでは,企業の借り入れ需要にこたえて民間銀行が貸し付けることによって預金通貨を創造するところから通貨が発生する。そして,必要な現金は,本源的には中央銀行から民間銀行に供給されるのである。中央銀行は,必要に応じ,民間銀行への貸し付けや買いオペレーションを通して,民間銀行に通貨を供給する。ただし,中央銀行が直接にできるのは,中央銀行預金を増加させるところまでである。そこまでは,基本的に限度なく供給することができる。しかし,中央銀行から民間の流通に直接中央銀行券を投じることはできない[7]
 以上が信用貨幣・貸付先行モデルにおける通貨と銀行のあり方である。このモデルのポイントは,通貨は銀行によって創造されるという点であり,そこが経済学の「常識」と大きく異なる。次に,経済学の「常識」に沿った不換紙幣論のモデルを見よう。

(3)不換紙幣・預金先行モデルにおける通貨と銀行

 ここで説明するのは,管理通貨制の下での中央銀行券を不換紙幣とみなすモデルである。このモデルの銀行論においては不換紙幣でなされる預金が先に存在して,それが貸し付けられる。そこでこのモデルは「不換紙幣・預金先行モデル」と呼ぶことができる。
 主流派経済学であれマルクス経済学であれ,経済学の常識的な抽象モデルは,管理通貨制のもとでの通貨を不換紙幣とみなす。つまり,それ自体は価値を持たないが,使用者に共通する信認や国家による強制通用力の付与によって一般的流通手段となる貨幣だということである。強制通用力を強調する場合は国家紙幣と呼ばれる。このモデルでは,中央銀行券は形式的には中央銀行の債務証書であり手形であるが,金兌換が不可能なもとでは,実質的に不換紙幣とみなされる。
 不換紙幣モデルにあっても預金通貨は想定されており,これが信用貨幣であることは否定されていない。つまり不換紙幣・預金先行モデルでは,中央銀行券=不換紙幣,預金貨幣=信用貨幣である。
 不換紙幣・預金先行モデルにおいては,銀行は,民間に流通している中央銀行券=不換紙幣で預金を集め,一定の準備金を確保した上で,残りを貸し出す。貸し出した不換紙幣の一部はまた預金されるので,再び一定の準備金を確保した上で,さらに貸し出しを行う。こうして,本源的預金をはるかに超える貸し付けが可能になるという意味での信用創造が行われる。ただし,本質的には,本源的預金を出発点に,銀行の手元にある不換紙幣が貸し付けられては銀行に戻り,貸し付けられては戻っているのである。これは,一般的に理解されている信用創造の論理である。
 経済活動が拡大すれば,本源的預金や貸付金の一部の再預金に加えて,別の理由でも預金が生じる。企業活動や個人の経済活動の結果として生まれた所得のうち,当面は必要のない現金が銀行に預けられるのである。これにより,民間銀行の準備金は充実し,一部は中央銀行に預けられる。
 このモデルでは本源的預金が存在するために,銀行は常に準備金を保持している。しかし,そもそも本源的預金が不換紙幣でなされるためには,不換紙幣が政府または中央銀行から民間に供給されねばならない。不換紙幣・預金先行モデルでは,発行主体としての政府と中央銀行に本質的な区別はない。中央銀行券は不換紙幣と抽象されて把握されているので,政府または中央銀行は不換紙幣を発行し,直接に流通に投じることができると仮定され,投じる方法は理論的に限定されない。もちろん,このモデルを取る経済学者でも,現実には政府ならば財政支出,中央銀行から民間銀行への貸し付けや買いオペレーションや準備率規制を行うことを知っていて,マクロ経済学の教科書ではそのように解説される。しかし,中央銀行を不換紙幣として抽象化しているため,その供給ルートは本質的でなくなる。マクロ経済学の教科書では,中央銀行が直接供給できるマネタリーベースと,そうでないマネーストックの違いは書かれているが,その区別は理論的に本質的なものとみなされていない。中央銀行預金が前者にだけ含まれ,預金通貨が後者にだけ含まれることにも,何の理論的意味も見出されていない。だから,マネタリーベース増加率に貨幣乗数をかけるとマネーストック増加率になるというように,前者が増えれば後者も増えるので,結局は中央銀行が通貨供給量をコントロールできるという風に叙述される[3]
 通貨供給ルートを要約していえば,このモデルでは,民間銀行は流通している不換紙幣を預金として受け入れ,それを貸し出す。貸し出すことでまた預金が生まれるので更なる貸し出しが可能になり,こうして預金通貨が膨張するのである。そして,現金通貨については,政府または中央銀行が直接に不換紙幣を民間に供給する。政府または中央銀行は,通常,民間の必要に応じて不換紙幣を供給するものの,それ以上に供給することもできる。何らかの形で不換紙幣を一方的に供給することは,理論的に可能とされている。
 以上が不換紙幣・預金先行モデルにおける通貨と銀行のあり方である。

(4)二つのモデルの相違点

 このように,不換紙幣論の通貨・銀行モデルと信用貨幣論のそれとでは構造が大きく異なっている。中央銀行と政府の本質的区別はないのか,あるのかという点,現金として用いられる中央銀行券は本質的に不換紙幣か,形式的にも本質的にも中央銀行の債務証書かという点,まず政府・中央銀行によって通貨が供給された上で銀行が活動するのか,まず銀行が通貨を供給したうえで,必要な現金が中央銀行から供給されるのかという点,本源的預金が存在したうえで信用創造が行われるのか,信用によって通貨と預金が同時に創出されるのかという点,中央銀行が直接民間に通貨を供給することはできないのかできるのかという点など,多岐にわたって相違がみられる。
 これらの相違が,現実の通貨と銀行,銀行と中央銀行のあり方の理解にどのような影響を及ぼすかを,次節で考えていく。




[5] この時点で日常用語との関係で一つ,注意が必要である。単に,人々が信認することによって通用している貨幣を信用貨幣と呼んでいるのではない。ここではそのような用語法を取らない。信用貨幣はあくまでも債務証書が貨幣化したものであり,債権・債務関係を前提としたものである。したがって,本稿では不換紙幣は信用貨幣ではない。
[6] したがって,しばしば思考実験として語られる「ヘリコプターマネー」は,このモデルにおいてはあり得ない。銀行は金融取引によって銀行券を発行するのであるから,中央銀行が企業や個人に無償で銀行券を給付することなどありえない。
[7] このモデルにおいては,「ヘリコプターマネー」は理論的にあり得ることとなる。モデルの本質において,政府や中央銀行が不換紙幣を発行して,民間人に無償供与することが排除されていないからである。

(続く)
第1節はこちら
第3節はこちら

信用貨幣論と貸付先行説によって「非伝統的金融政策」とリフレーション論を批判する:MMT論議の準備を兼ねて(第1節)

<目次>
1.はじめに
2.二つの通貨・銀行モデル
3.管理通貨制の下での通貨供給量の伸縮の説明
4.「非伝統的金融政策」はなぜ効かないか
5.「リフレーション」派と「期待に働きかける」派の誤り
6.結論と残された課題としての財政政策論 (5と同一ページ)

書き終えての感慨

1.はじめに

(1)問題意識と課題

 21世紀に入ってからの中央銀行の金融政策を論じる場合,「非伝統的金融政策」の成否についての評価は回避できない論点である。日本では日本銀行が2001年に「量的金融緩和」を開始して以降,「包括的金融緩和」,さらに2013年以後は「異次元緩和」とも呼ばれた「量的・質的金融緩和」,「マイナス金利付き量的・質的金融緩和」「長短金利操作付き量的・質的金融緩和」が実施されてきた。これらは,伝統的な金融政策が政策的な金利操作を中心としていたのに対して,短期金利をゼロとすること,政策目標を中央銀行預金の量的拡大に置くこと,オペレーションの対象を拡張し,国債のみならずコマーシャル・ペーパー(CP),上場投資信託(ETF),不動産投資信託(REIT)などお金融資産を購入すること,中央銀行預金についてマイナス金利とすることなどの点で「非伝統的」とされている。「非伝統的金融政策」は,方向としては金融緩和の方向を向いており,とくに金利がほぼゼロとなってそれ以上の金利操作が困難となったもとで,どのように金融緩和をし,穏やかなインフレを起こし,需要を刺激して経済を上向かせるかという問題意識から開発されたものである[1]
 「非伝統的金融政策」は,その直接の目的として,金利が一定の下で,具体的にはゼロ金利であっても,通貨供給量を増やすことが設定されている[2]。しかし,日本の場合,とくに安倍政権・黒田総裁のもとで採られた「異次元緩和」の下では,その効果は芳しくない。日銀当座預金を積み上げてマネタリーベースを増加させても,マネーストック,すなわち民間に出回る通貨供給量が増えないという現象が顕著になっているからである[3]。このことが,政府・日銀が目標としてきた物価上昇率の達成を阻む一つの重要な要因であることは間違いない。
 本稿はここに注目して,「非伝統的金融政策」が,なぜ通貨供給量を増加させることに失敗しているのかを,通貨と銀行の原理的モデルによって理論的に明らかにしようとするものである。結論から言えば,「非伝統的金融政策」やこれを支持・唱道する「リフレーション」派,「期待に働きかける」派の政策論は,管理通貨制の下での通貨および銀行を不適当なモデルでとらえており,原理的に不可能なことを実行しようとしていること,その不適当なモデルとは中央銀行券を不換紙幣ととらえ,銀行の機能を預金された現金を貸し出すものとみなし,中央銀行による外生的貨幣供給を可能とするモデルであること,現実を適切に理解するためには中央銀行券を信用貨幣ととらえ,銀行の機能を貸し付けによって通貨を創造するものとみなし,中央銀行による貨幣供給は内生的であるとするモデルが妥当であることを示す。

(2)分析視角と研究方法

 本稿が用いるのは,日本のマルクス経済学の潮流において論じられてきた信用貨幣論の枠組みである。この理由は,著者の身に着けた理論の範囲が限られていることによるという個人的事情にもよるが,本質的にはマルクス経済学の枠組みの拡張による通貨・銀行モデルが,この課題を果たすのに適切と思われるからである。そして,研究状況とのかかわりでは,そのことが学界にも一般にもよく知られておらず,確認しておく意義があるからである。
 本稿の研究方法は,発券集中と管理通貨制の下での信用貨幣論・貸付先行説の通貨・銀行モデルを設定して通貨供給と通貨供給量伸縮のメカニズムを明らかにするとともに,これを不換紙幣論・預金先行説のモデルおよびメカニズムと対比するものである。演繹的分析と比較分析により,整合性,モデルの精度,現実に対する説明力において信用貨幣論・貸付先行説のモデルが優位にあることを示す。その上で,信用貨幣・貸付先行モデルによって「非伝統的金融政策」が有効でない理由を説明し,この政策を唱道する諸説の問題点が,不換紙幣論・預金先行モデルに依拠しているがためであることを示す。

(3)先行研究との関係

 本稿にとっての先行研究は,日本のマルクス経済学において行われた,不換銀行券の性質をめぐる研究,および発券集中をめぐる研究である。しかし,残念ながら,本研究についての著者の知識は限られており,日本のマルクス経済学における研究史に限っても,一定の理解を持っているのは岡橋保氏と村岡俊三氏の見解に限られる。著者は,学生・院生時代に村岡俊三教授のゼミナールで両氏の見解を学んだが,貨幣・信用論を専門としておらず,現時点では関連文献をすべてサーベイすることができない。そのため,本稿は著者の見解の説明を行うことを中心とせざるを得ず,個々の論点についての先達の見解を一つ一つ確認する文献注記を行うことはできない。本稿の叙述が,岡橋,村岡の両氏を含めて先達の著作に似通っている場合,プライオリティは当然にそれらの方々にある。
 本稿にとって最も直接的な先行研究である岡橋氏と村岡氏の見解についてのみ述べておくと,本稿に関わる論点についての見解,共通点と相違点は,さしあたり,岡橋保『信用貨幣の研究』春秋社,1969年,同『貨幣数量説の新系譜』九州大学出版会,1993年,村岡俊三『マルクス世界市場論』新評論,1976年,同『世界経済論』有斐閣,1988年で確認できる。両氏は,1)管理通貨制の下での中央銀行券が信用貨幣であるとする点は一致している。また,2)中央銀行券の流通根拠を手形であることに見る点も一致している。ただし,3)手形であることの内容として,岡橋氏は銀行手形の債権債務相殺機能を重視し,村岡氏は銀行手形による貸し付けが預金を先取りし,蓄蔵貨幣の活用を促進する機能を重視している。また,4)銀行券の本来的な発行ルートを,岡橋氏が手形割引に置くことに対して,村岡氏は企業に対する預金先取的な貸し付けに置いている。5)預金によって民間銀行に預けられた中央銀行券は,岡橋教授によれば一時休息しているだけで流通内にあるが,村岡教授によれば流通から引き揚げられた蓄蔵貨幣である。各論点についての本稿の見地をあらかじめ述べておくと,1)2)については両氏と同一であり,3)については岡橋氏,4)5)については村岡氏と同一である。
 岡橋氏と村岡氏は発券集中や管理通貨制度についても考察を行ったが,両者の下で,民間銀行が発券を行えず,したがって預金通貨は創造できるが銀行券は創造できないという現代的制度の下で,民間銀行による信用,中央銀行と民間銀行の関係がどのようなものになるか,預金通貨と中央銀行券がどのように発行され,その供給量がどのように伸縮するかをモデル化して考察することは行わなかった。この問題についての分析,その結果としての貸し付けによる預金通貨の創造の重視,中央銀行預金の理解の重視は,両氏に対する本稿の独自性である。
 なお,マルクス経済の外に出た場合,残念ながら著者の知識はさらに限られる。おそらくこの問題に関連しているであろう,ケインズ理論のミンスキー的解釈や,近年(20195月上旬現在),金融・財政政策論に関して話題となっているMMT(Modern Monetary Theory)について通じていない。MMTについては,ビル・ミッチェルのブログと関連研究者の解説記事に基づく覚書は記したものの[4],まだまだ理解がおぼつかない。研究論文をこれから確認しなければならない。しかし,私は,日本のマルクス経済学の成果を用いても,この課題には十分に迫れると考えている。かつ,学派が異なっても共有できるような用語とロジックで論じることも可能だと考えているのである。本稿はそのような試みである。
 日本でのMMTの紹介の仕方は,財政政策をめぐる論点に集中している。しかし,私の限られた知識から見てもまちがいないのは,MMTとはその名の通り,根本において貨幣論であり,信用貨幣論だということである。そこからの具体化として金融政策論があり,また信用貨幣論と統合政府論が合わさって財政政策論ができているのだと思われる。したがって,MMTについての論議は,まず信用貨幣理論から始めるのが妥当な手順だと思われる。より伝統的な理論による信用貨幣論の構造と,それによる政策論を論じておくことは,今後盛んになるであろうMMTと,その政策論をめぐる論議にも役立つはずである。

(4)以下の構成

 以下,2において信用貨幣論を定義的に説明し,不換紙幣論と対比し,さらに通貨と銀行の基本モデルについての,信用貨幣・貸付先行モデルと不換紙幣・預金先行モデルを祖述して対比する。次に3において,管理通貨制と発券集中の下での通貨供給量の伸縮を,信用貨幣・貸付先行モデルでは十分に理解できるが,不換紙幣・預金先行モデルでは理論的空白が残ることを示す。以上から,信用貨幣・貸付先行モデルの優位性が主張される。4においては「非伝統的金融政策」が通貨供給量を増やすことに失敗する理由を論じ,5においては「非伝統的金融政策」を支えるリフレーション派と期待派の理論が,不換紙幣・預金先行モデルを前提としたものであり,そのモデルとともに誤っていることを示す。6では結論を述べる。




[1] 伝統的には需要を刺激し,その結果として穏やかなインフレを起こすという因果関係が想定されていると見るべきだが,「非伝統的金融政策」の支持者たちの場合は,必ずしもそうではない。むしろ,デフレであることから不況がひどくなるのであって,予想インフレ率を高めることによってその弊害を除去し,需要も拡大させるという因果関係が想定されている。この想定の立脚するモデルと問題点については,後段で述べる。
[2] それ以外の目的がないわけではない。例えば,ETFREITCPの購入の目的は,通貨供給量を増大させるとともに,リスク・プレミアムを引き下げることとされている。
[3] 日本において,マネタリーベースとは日本銀行券発行高,貨幣流通高,日銀当座預金残高の合計である。マネーストックにはM1, M2, M3,広義の流動性があるが,M1について言うと,日本銀行券発行高,貨幣流通高の合計から金融機関保有現金を差し引いたものに,預金通貨を加えたものである。
[4] MMT(Modern Monetary Theory)についての覚書」Ka-Bataブログ,2019321日(https://riversidehope.blogspot.com/2019/03/mmtmodern-monetary-theory.html)。


(続く)
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2019年5月1日水曜日

明仁氏と日本国憲法と私たち

 1989年1月9日。明仁氏は天皇として即位された際に,「皆さんとともに日本国憲法を守り,これに従って責務を果たすことを誓い,国運の一層の進展と世界の平和,人類福祉の増進を切に希望してやみません」と言われた。

 2019年4月30日。明仁氏は天皇の位から退位するにあたり,「象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に心から感謝します」と言われた。

 ここからわかるのは,明仁氏が,自らの地位を日本国憲法にしたがって理解し,日本国憲法に定められた象徴としての任務を果たそうと考えてきたということだ。彼は,憲法以外の,たとえば「日本の伝統」のようなもののために自らが天皇なのではなく,日本国憲法があるから天皇なのだと考え,そのことを肯定して来た。

 もっとも,気をつけなければならないのは,彼が,憲法で定められた国事行為を拡大解釈し,憲法が命じたよりも広い範囲の行動をとったことだ。ただし,その行動において,憲法の理念に沿うような行動をとろうとしたこともまた認められる。明仁氏の歩みや,その後世への影響については様々な議論が可能であるし,議論しなければならない。

 そしてまた,日本国憲法が認めたからと言って,天皇制という制度が現代社会にふさわしいものであるかどうか,天皇という存在と国民主権は矛盾しないのかという,根本的な問いは残っている。

 しかし,もうひとつ考えねばならないのは,本来,日本国憲法の理念に沿うように行動しなければならないのは日本国政府であり,政府がそのように行動するよう不断の努力でもって促し,監視するのは日本国民の役割であり,憲法の理念を生活に生かすべきなのもまた日本国民だということだ。日本国憲法をどちらかと言えば肯定する人々にとっては,そういうことになる。

 とすれば,私を含むそうした人々は,「平成」として区切られたこの30年間に,結果として,多くのことを明仁氏に頼ってしまわなかったかと,自問してみるべきかもしれない。憲法の理念を能動的に実現することは国民の責務であって,天皇はそうした国民を象徴するものだ。象徴たる個人が国民に範を垂れるべきものではないのであって,そうなってはかえって憲法の理念を否定することになる。

 私たちは,この30年間,自分たち自身の力で日本国憲法を実現してきたのだろうか。明仁氏が退位される今日,このことを考えねばならないと思った。

(4月30日23時57分記す)

2019年4月29日月曜日

思想犯って……いま本当に平成?まもなく令和?それとも昭和前半にもどった?

 おいおい,日本国憲法下でも,思想が犯罪とされるようになったのか。いまは昭和の前半なのか。治安維持法とか、思想犯保護観察法とかが今でもあると思っているのか、警視庁捜査関係者とやら。何も突っ込まないのか、朝日新聞社の記者。

週刊朝日「悠仁さまの机に刃物、思想犯を重点捜査  内部事情に詳しい者の犯行か?」AERA.dot,2019年4月27日。



2019年4月23日火曜日

「ジョブ型」通年採用は「仕事に即した処遇」と「年齢不問」を意味することは認識されているか:「採用と大学教育の未来に関する産学協議会の中間とりまとめと提言」を検討するにあたって

 経団連と,就職問題懇談会座長,国大協会長や私大連会長などがつくる「採用と大学教育の未来に関する産学協議会」が中間とりまとめと共同提言を発表した。全体として,前向きに検討すべき点を多く含んでいるが,現時点でどのメディアも報道していない,「もしかして忘れてない?大丈夫?」という点が二つあるので,まずそれだけ大急ぎで述べておきたい。

1.「ジョブ型採用」の意味
 「今後の採用とインターシップあり方に関する分科会」の中間とりまとめは,「ジョブ型採用」を「新卒,既卒を問わず専門スキルを重視した通年での採用,また留学生や海外留学経験者の採用」としている。

 やや,ずれている。

 「ジョブ」型採用とは,技能=skillでなく,job=職務を指定した採用だ。つまりは,範囲はいろいろあるとしても,やるべき仕事を指定した採用だ。やるべき仕事を指定しているから,それに必要な専門スキルによって選考するのだ。それがわかっているならいいのだが,どこにもそう書かれていないので,不安を覚える。
 スキルを指定して採用したあげく,どの仕事に就けるかは白紙で会社が決めて,協調性と努力主義を評価しながら年功的に処遇するという,今までと同じ方式ではどうしようもない。
 普通に考えれば,ジョブ型で採用すれば,ジョブ型で処遇するのが整合的だ。すなわち,1)ジョブ=職務のグレードと職務の成果に対応した給与とし,2)ジョブが変わらない限り昇進や配置転換や転勤はなく,3)ジョブが存在してそれを当該労働者が正常に遂行できる限り雇用され続けるが,4)ジョブが消滅する場合は解雇される。現在,日本企業の大半では,そのような人事管理を正社員に対して行っていない(非正規には,差別的低賃金で,かつ3)を除いて適用している)。ジョブ型の処遇に踏み込むつもりはあるのだろうか,ないのだろうか。

2.「ジョブ型採用」は年齢差別禁止
 中間とりまとめも共同提言も,「新卒,既卒を問わず」とは書いているものの,基本的に大学生や,大学を卒業してまもない者しか念頭に置いていない文章になっている。

 大丈夫か。

 多くの人が普段忘れているが,わが日本には雇用対策法により採用の年齢制限禁止が規定されている。「ハードな重労働!高齢者には到底無理! 40歳以下で募集します」も「若者向けの洋服の販売スタッフなので30歳以下で募集しても問題ないよね?」も「社長が40歳、その他のスタッフも皆30代以下。業務上指導しづらいし、中高年齢者は浮いてしまうので、30代以下しかとれない!」も「PC操作や夜間業務もたくさんスキルや体力面で、高齢者は不安なので若い人を募集」も,採用条件に年齢を入れたら最後,すべて違法なのである(「その募集・採用。年齢にこだわっていませんか?」厚生労働省リーフレット)。

 ただ,「長期勤続によるキャリア形成を図る観点から、若年者等を期間の定めのない労働契約の対象として募集・採用する場合」は,1)対象者の職業経験について不問とすること,2)新卒者以外の者について、新卒者と同等の処遇にすることを条件として例外的に許されているのだ。だから,「20○○年3月大学卒業見込みの者」に限った新規学卒採用が行えるのだ。

 「ジョブ型採用」を行った場合,この例外規定は適用されるだろうか。まともに考えれば,されないと思う。職務に対応した「専門スキル」を基準に採用し,通年で採用し,新卒,既卒は関係ないとする以上,年齢を制限できないと見るのが理屈だろう。「ジョブ型採用だけど若年層に限ってくれ」というのでは,理屈が立たず,中高年男女から差別だという訴訟が頻発するだろう。

 とすると,「ジョブ型採用」の場合,新卒者は,少し年齢が上の既卒者のみならず,数多くの,あらゆる年齢の,転職・中途採用希望者と,専門スキルで競争しなければならないのだ。

 それが良いとか悪いとか言っているのではない。制度の整合性を保とうとすれば,そうならざるを得ないのだ。

 経団連側は,またもっと心配なのは大学側は,さらにそれ以上に心配なのは報道しているマスメディアは,上記2点を分かったうえで「ジョブ型採用」の拡大について論じているのだろうか。心配である。

 皮肉でなく,この一文が杞憂であって,まともに議論が深まることを希望する。

採用と大学教育の未来に関する産学協議会「採用と大学教育の未来に関する産学協議会 中間とりまとめと共同提言」(2019年4月22日))経団連ウェブサイト。

<関連投稿>
「経団連の「就活ルール」廃止と「提案」をどう受け止めるか」Ka-Bataブログ,2019年2月22日。
「「事務職になりたい」は過去へのあこがれだが「転勤がないように働きたい」は未来への要求だ」Ka-Bataブログ,2018年11月6日。
「就活ルール廃止後に求められる改革の基本方向」Ka-Bataブログ,2018年10月11日。

2019年4月20日土曜日

株主にふさわしくないのにETFを買い続ける日本銀行

 2019年4月16日,黒田日銀総裁は国会で共産党の宮本議員に対して,「ETF(Ka注:指数連動型上場投資信託)買い入れは株価安定の目標を実現するために必要な措置の一つとして自らの判断で実施している」と発言。直後に「ETFの買い入れは物価安定の目標を実現するための措置として行っているものであり、株価の安定の目標ということではない。先ほどちょっと発言の誤りがあったので訂正する」と述べた。

 いや,まちがいではなく本音がポロリであろう。一応点検しておくと,日銀がETFを購入する公式の理由は,リスクプレミアム,以前の黒田総裁の説明によると「株のように変動するものと確定利付き債券のように変動しないものとのリターンの差」を低下させるためのものだ。公平のために言っておけば始まったのは2010年であり,白川総裁の頃だ。これで株式市場を活性化させ,景気を良くして物価を上げようというのだ。何のことはない。やっぱり株価を上げたいのではないか。

 現実にも,いまや日銀はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)に次ぐ日本第2位の株主である。これほど大量に買い続ければ株価の安定・下支え・押し上げ作用があるのは自明であり,他の投資家が作用を期待するのも自明である。

 そして,そこまでやっているにもかかわらず,成果は芳しくない。以前の投稿「公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時」で示したグラフが示すように,アベノミクス開始時点では外国人投資家が期待をもって日本株を購入したが,いまでは売り越しに転じている。そして,個人株主は安倍内閣発足後,一貫して売り越しである。外国人も個人も日本株を評価せずに売り越していて,それを日銀とGPIFが買い支えているという構図ではないか。そこに無理はないのか。

 GPIFは受託者責任を持っているからまだいい。利益を上げるべき存在であり,損失が出たら追求されるべきだからだ。しかし,日銀は,運用益を目的にしてETFを買っているのでもないし,議決権を行使するわけでもない(議決権は信託銀行など,ETF組成会社が行使する)。つまり利益を出す気はない。しかし,株価が下がっても困る。誰かに受託者責任を負っているわけでもない。わけのわからない,どうふるまうべきかも決まっておらず,誰に責任を取るのかわからない株主である。株主としては不適切と言わねばならない。それが,株価を支える,日の丸の旗がついた二頭のクジラのうちの一頭なのである。

日高正裕「日銀総裁、ETF購入「株価安定のため」と言い間違え-直ちに訂正」Bloomberg, 2019年4月16日。

「公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時」Ka-Bataブログ,2019年2月5日。

2019年4月19日金曜日

日本語能力試験N4を基準に「特定技能」外国人労働者を受け入れるのは無茶だ

 外国人労働者受け入れ政策について,入管法改正成立以後,他の仕事に追われて詳しく調べられなくなった。なので,一つだけ,あまり言われていないことを言いたい。

 「特定技能」の在留資格を取り,日本で技能労働(ブルーカラー労働)をしようとする外国人労働者に対して,日本語能力を,「日本語能力判定テスト(仮称)」又は「日本語能力試験(N4以上)」しか求めないのは適切だろうか。

 この問題は,様々な立場のいずれからも提起されていないように見える(あるいは介護の現場からは提起されているかもしれない)。

 大学で学生を教えている私の経験から言えば,N4では,様々な場面で,たとえ双方に悪意がなくてもミスコミュニケーションは避けがたい。そして,相手に悪意があれば,抵抗することは難しい。当人がわかる言語での説明が付されていない限り,行政的な手続きも自分だけではできない。そして,雇い主や行政窓口や顧客とのトラブルに見舞われた時に,日本語で交渉することも困難だと思う。

 外国人を適切に受け入れ,かつその生活と権利を守りやすくするために,要件はN4ではなく,N3 にすべきではないだろうか。

 外国人とのトラブルを恐れて受け入れに消極的な立場からの論評は,「外国人全般」に否定的であるためにこの問題を具体的にみていない。逆に,外国人の人権を尊重する立場からは,受け入れを制限する方向の発言をしたくないという心性が働くのか,やはりこの問題に触れることが少ない。

 しかし,いったん受け入れた外国人の人権を守るためには支援制度を構築して運用すべきだが,そもそも,対処しきれないような規模と語学能力水準の人を受け入れてしまっては,現実的困難が大きくなりすぎる。受け入れる要件や速度,規模について考えることは,排外主義でもなんでもない。現に大学では留学生相手に行っていることだ。

 このままでは,多数の労使トラブルが発生する。その中には,本当に労使どちらかが法や就業規則に違反している場合もあれば,双方の誤解やすれ違いからくるものもあるだろう。大学でもそれに類似したことが多数生じている。N1を持つ大学院生との関係においてすら,生じる。

 経験的な感触からの設定で申し訳ないが,N4は無茶だと思う。N3にすべきではないか。あまり引き上げると,応募できる外国人が少なくなってしまい,漢字圏以外の人が応募できなくなるが,N3ならばその弊害は少ないと思う。そもそもこれまでのところ,N5やN4よりN3の方が受験者が多いのだ(日本語能力試験公式サイトのデータより)。

 皆さんは,いかがお考えでしょうか。

2019年4月17日水曜日

研究活動の停滞は大学院教育の停滞も招く

文部科学省科学技術・学術政策研究所の調査に対する国立大学関係者の回答。

1.「(研究活動の停滞が)教員が持つ最先端の知識の陳腐化を招き、教育・指導の質の低下につながっている」85%(「どちらかというとそうである」を含む)
2.「(授業料や国からの運営費交付金でまかなう)基盤的経費のみでは学生が卒業・修士・博士論文を執筆するための研究を実施することが困難」78%(同上)

 まったくそのとおりと私も感じる。学部生と院生では多少異なるが,院生の場合は特にはっきりしている。これを理解するポイントは,院生の教育の根幹は,院生の研究を支援するところにあるということだ。
 1はシンプルな話で,教員の研究水準が低くなれば,その教員に論文を読んでもらってコメントをもらう院生の水準もおおむね低下する。2も深刻であって,院生に独自の研究費というのはない大学がほとんどだ。教員が使う講座費や,部局・大学の共通ユーティリティ(図書館とかネット環境とか)だけでは院生の研究を支援することはできず,院生がよほどの大金持ちでない限り身動きならなくなる。
 具体的に言おう。私のゼミでは,院生の研究支援に資金が必要なのは以下のような場合だが,いずれも私の手元の講座費では全くまかなえない。文系と言えどカネはかかるのだ。

*院生の実態調査の旅費(国内も国外もあり)。実態調査に基づく事例研究を主とするゼミであるため,これが一番大きい。
*院生が学会発表する際の参加旅費
*院生が研究に使用するデータ資料の購入(シンクタンク,調査会社発行の高価なもの)や高額書籍の購入費
*院生に刺激を与える著名・関連分野研究者をセミナーに招聘する旅費・謝金
*院生が投稿する際の英文校閲費や投稿料

 これらの費用は,以下の諸手段でまかなうことになる。言うまでもないがコンプライアンス前提であって,国や大学の規則に反する裏金などつくることはできない。

a)教員と重なるテーマであれば,院生を科研費の研究協力者にする。あるいは院生も構成員に出来る外部資金での研究プロジェクトに参加する。そうすると科研費から調査旅費や成果発表旅費や英文校閲費を支出できる。
b)教員と重なるテーマであれば,教員が学内や学外の競争的資金を獲得して研究プロジェクトに参加し,国内外から研究者を招聘するセミナーを開催し,院生もそれに参加する。
c)教員が科研費やその他の外部資金を多く獲得して研究し,その分だけ浮いた講座費で院生の研究を支援する。
d)院生が学術振興会特別研究員(DC1,DC2)に応募する。
e)留学生の院生が,日本政府国費研究生の国内募集枠に応募する。
f)院生が代表者になって応募できる民間の研究助成金に応募する。
g)院生・若手研究者を海外に派遣する諸制度に応募する。
h)院生の学会参加を支援する諸制度に応募する。

 このうちa)b)c)は教員の研究が停滞するとお金が獲得できなくなるので,院生の教育も連動して停滞する。また教員の研究が停滞すると,おそらくはd)の採択可能性も低まる。そして,大学の研究全体が停滞すると,おそらくはf)g)h)も獲得しにくくなるのだ。

「研究活動の停滞、教育への影響8割が危機感 国立大  文科省研究所が意識調査」2019年4月12日。

2019年4月13日土曜日

東京福祉大学問題から見える,歯止めなきトップダウンのダメさ加減

 東京福祉大学による研究生としての留学生大量受け入れは,元総長の中島恒雄氏の指示によるものであったという告発があった。

 中島氏は2008年1月に強制わいせつ罪で逮捕され,実刑判決も受けた。以後,東京福祉大学は中島氏が「本学の経営や教育に関与することはない」とホームページで約束した。しかし,実際には大いにかかわっていたことになる。

 実はこのことは以前より,誰あろう,文部科学省大学設置・学校法人審議会によって公式に指摘されていた。東京福祉大学は2012年度より経営学部,大学院経営学研究科を開設すべく文科省に設置申請を提出したが,「元理事長を法人運営に関与させてきていることや、本設置認可申請後に及んで学校法人として不適切な管理運営が行われていたことが確認された」として,設置「不可」の認定を受けたのだ(「」内は判定不可の理由を記した文書より)。

 田嶋元教授は,中島氏が指示を出していた証拠として20011年9月の会議音声を公開したそうだが,これは文科省に設置申請をしていた時期と一致する。

 田嶋元教授もかなり過酷な目に遭われたようだ。東京福祉大学は,まず2012年3月末で教授を雇い止めると通知して,裁判で無効とされた。3年前に卒業した院生へのセクハラ・パワハラを理由に懲戒解雇し,それも1審,2審で敗訴して和解し,謝罪して原職復帰を認めることになった。しかし,さらなる嫌がらせ,雇用契約の不利益変更を迫り,労働審判でそれが否定されると今度は訴訟に移行したようだ。田嶋教授は2018年3月31日に定年退職された。

 田嶋氏に対して,自分が嫌がらせに遭ったから意趣返して告発しているのだろう云々というコメントがネットを飛び交うかもしれないので言っておく。文科省も裁判所も異常な経営を認定しており,どうみても東京福祉大学の方がおかしい。

 いま,大学のガバナンスが取りざたされているが,たいていの場合,「教授会が頑迷で何も決められないからトップダウンにしろ」という方向で議論がなされるのはどうしたことか。むちゃくちゃな行為が行われるのは,たいてい,トップダウンが行き過ぎた場合であり,それに歯止めをかけるしくみが欠如している場合であることは言っておきたい。

「留学生大量失踪の東京福祉大、元教授が緊急会見。元総長が「120億のカネが入るわけだよ」と会議で発言。金儲けのために留学生受け入れか」ハーバー・ビジネス・オンライン,2019年4月10日。

平成24年度開設予定大学院等一覧(判定を「不可」とするもの)

平成24年度開設予定学部等一覧(判定を「不可」とするもの)

「東京福祉大学事件」田嶋心理教育相談室。

「東京福祉大学事件」交通ユニオン。

2019年4月10日水曜日

ベトナムは業績不良の国有企業に対処できるか?:TISCOの経営危機

 ベトナムの国有鉄鋼企業TISCO(タイグェン・アイアン・アンド・スチール)が株主に送った手紙によれば,同社は「もし政府,銀行その他の機関によって救済されなければ倒産に至り得る財務危機に直面している」。VnExpress Internationalの記事によると自己資本比率は18%,債務1.94兆ドン(8360万ドル)のうち不良債務が8520億ドン(3670万ドル)。同社はうち46%は正常化可能というが,たとえ本当でも自己資本不足と54%は残る。記事にもある通り,TISCOの財務危機の原因は2007年に開始された2期工事の延滞・未完成と費用膨張である。建設中だった高炉などの設備は雨ざらしになっている。

 これは,私が1年半前にRIETIのペーパーで論じたTISCOの問題が,まったく解決に向かっていないことを意味する。

 TISCOは,もともと国有の公社であったVNスチールが65%を保有していた連結子会社であった。その経営危機は2014年には表面化しており,いったんは国家資本投資会社が1兆ドン(4310満ドル)の資本を注入して救済したものの,その後,財務省の指示によってこの株式をVNスチールに買い戻させてしまった。2017年第2四半期にはすでに自己資本比率が19%に落ちていた。

 ペーパーを書いた後にわかったことは,VNスチールはTISCOの債務保証者であるということ,商工省が国有企業の不良債務について公的資金を投じないという方針をとっていたことだ。VNスチールにも債務を肩代わりする力はない。しかし,政府も公的資金は注入しない。買収する気のあった民間企業にしても,そのような負担はご免であろう。そして,銀行が債権棒引きに応じる気配もない。それでは,誰がどのようにTISCOを破たん処理and/or再建し,その過程で誰がどのように損失を被るのか。誰も火中の栗を拾わないままにずるずると状態が悪化している。

 ことはTISCOだけにとどまらないのではないか。記事はTISCOをベトナム最大の鉄鋼企業の一つと書いているが,その生産規模はせいぜい鋼材100万トンであり,すでに外資企業のフォルモサ・ハティン・スチール(FHS)や民営企業のホア・ファット・グループ(HPG)に追い抜かれている。もしベトナム政府が,100万トンクラスの国有鉄鋼企業の破たん処理をうまくできないのであれば,他にも数ある国有企業の改革・再編・民営化・破たん処理・再建・清算の成否についても,大きな疑問符が付くだろう。

Anh Minh, Vietnam state steel company faces bankruptcy, VnExpress International, April 8, 2019.

川端望(2017)「ベトナム国有鉄鋼企業の衰退とリストラクチャリング」RIETI Discussion Paper Series, 17-J-066, pp.1-41.



論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあ...