5.「リフレーション」派と「期待に働きかける」派の誤り
以上の検討結果は,「非伝統的金融政策」が効かない理由を説明するとともに,この政策の正当性を主張したリフレーション派の主張が現実を説明できず,適切な金融政策を提言できていないことを示している。「マネタリーベースを増やせばマネーストックが増えてインフレ率が上がる」,「マネタリーベースを増やせば,貨幣乗数がプラスである以上,マネーストックが増えてインフレ率が上がる」,さらに「ゼロ金利の下であっても,マネタリーベースを増やせばマネーストックが増えてインフレ率が上がる」,といった主張は,いずれも誤っている。「中央銀行は,その行動一つで民間に対する通貨供給量を増やすことができる」というリフレーション派のモデルは,不換紙幣・預金先行モデルに依拠しており,それ故に,発券集中と管理通貨制の下での,中央銀行券の通貨としての流通を説明することができないのである。
また,期待の理論を加味して,「人々の期待に働きかけることで,まず予想インフレ率を上げ,それによって現実のインフレ率を上げることができる」という議論(白川前掲書に倣って「期待に働きかける」派,略して「期待派」と呼ぶ),そこから導き出された「中央銀行がインフレ目標を設定してコミットすることでインフレ期待を発生させ,実質利子率を下げて投資を盛んにし,デフレを克服する」という意味でのインフレ・ターゲティング論も,リフレーション論の応用であって,同一の問題がある。
もしこれが,「金融緩和によって現実の借り入れ需要を刺激し,インフレ率を上げる」という議論であれば,どちらのモデルに立っても合理的である。そこまでは何も問題はない。「期待派」の理論はそういうものではなく,現実の需要とは独立に,まず期待インフレ率を向上させ,それによって実質利子率を下げようというものであった。
しかし,現実のインフレと独立に将来のインフレ予想が発生するという主張は,中央銀行のコミットメント一つで通貨供給量を増やすことができる,という前提に立っているのであり,繰り返し指摘するようにそこが間違いなのである。ありもしない前提を市場関係者に信じ込ませることによってインフレ期待を発生させようというのは不可能である。このような主観的に過ぎる議論が,経済学の「常識」に立って生み出され,一時は日本銀行の正式方針に採用されたことは深刻と言わねばならない。経済学の「常識」である「中央銀行は,その意志によって民間に対する通貨供給量を増やすことができる」という不換紙幣論こそが,現実と極度に乖離しているのであり,効きもしない政策を正当化するために用いられてきたのである。
金融緩和によって通貨供給量が増えるのは,現実の需要が増えて通貨が必要になるときだけである。だから,輸入品価格の変動などの外生的要因を捨象し,他の条件を等しいものとみなすならば,予想インフレ率が上昇するためには,前提として,現実の需要が増え,現実のインフレ率が上昇しなければならないのである[15]。
もしどうしても期待の作用に注目すべきというのであれば,政府が適切な財政政策,産業政策,社会政策によって,企業利潤や,個人の所得や支出に関する期待を変え,企業の期待利潤率を高め個人の消費性向を高めるという方が,はるかに根拠がある。リフレーション派や期待派は,財政政策で行うべきことを,金融政策でできるのだと誤って強弁してきたのである。
6.結論と残された課題としての財政政策論
管理通貨制の下での通貨と銀行の仕組み,企業と民間銀行と中央銀行の関係を無理なく理解しようとすれば,信用貨幣・貸付先行モデルによる内生的貨幣供給論が妥当である。不換紙幣・預金先行モデルによる外生的貨幣供給論は,経済学的な「常識」であるにもかかわらず,不適当である。そのポイントは,中央銀行と民間銀行の関係を銀行と銀行の関係として把握できるかどうか,マネタリーベースとマネーストックの関係を説明できるかどうかである。
「非伝統的金融政策」が通貨供給量を増やすことに失敗する理由は,不換紙幣・預金先行モデルに依拠して,「中央銀行はその行動によって通貨供給量を増やすことができる」と想定しているからである。それが不可能であることは,信用貨幣・貸付先行モデルによって実務と整合的に説明できる。日本の金融政策論における「リフレーション派」と「期待派」は,いずれも不換紙幣・預金先行モデルの上に立っており,それ故に現実理解を誤り,実行不可能な政策を提言したのである。以上が,本稿の結論である。
本稿では金融政策のみを論じ,また,もっぱら金融緩和によって通貨供給量を増やし,インフレを発生させ,景気を浮揚させようとした政策論についてのみ論じた。しかし,金融緩和が,国債発行による赤字財政の拡大とともに用いられ,中央銀行による買いオペレーションが国債の発行を事実上支えている場合の通貨や信用の動きについては,独自の考察が必要である。この点は,今後の課題としたい。
また,ケインズ派やMMTによる信用貨幣論の内容を確認し,検討することも今後の課題である。さらにその先においては,MMTによる財政政策論を検討しなければならないだろう。
[15] 興味深いことに,リフレーション派であり期待派であった岩田規久男前日銀副総裁は,副総裁就任当初は予想インフレ率を高める「リフレレジーム」の構築を目指したが,それが困難に陥ると「まず現実のインフレ率を高めねばならない」と考えるようになったと回顧されている。岩田規久男『日銀日記』(筑摩書房,2018年)を参照。
(完)
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書き終えての感慨
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