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2021年2月24日水曜日

吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社,2002年を読んで。

 吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社,2002年。吉川方人様のご厚意により入手して読むことができた。私が内生的貨幣供給論をあれこれ模索してたどり着いた見地は,貨幣・信用・銀行の一般理論の次元では,故・吉田暁教授の見解とほぼ同じであったことが確認できた。もっと早く気づくべきであった。もっとも,本書は一般理論の書として書かれているわけではない。原論文が書かれた時点でのトピック(CMAなど銀行以外の決済業務への参入と呼ばれた事態やナロウバンク論)に即した論じ方になっているため,その理論的立場は,読者が一定程度努力して読み込む必要がある。

 「はしがき」によれば,吉田教授は1955年に東京大学経済学部を卒業された。ゼミナールでは横山正彦氏,研究会では日高晋氏の指導を受け,マルクスのオーソドックス解釈と宇野理論の双方を学ばれた。志村嘉一,林健久,山口重克といった方々が学友とのこと。卒業して全国銀行協会連合会(全銀協)に1985年まで勤務されてから武蔵大学に転身された。私は本書で,吉田教授の内生的貨幣供給論が,経済原論の学びと銀行系エコノミストとしての研鑽の成果であったことを知った。

 なお,吉田教授の内生的貨幣供給論と,マルクス経済学内部の外生的貨幣供給論の違いは,以下でよくわかる。

吉田暁(2008)「内生的貨幣供給論と信用創造」『経済理論』45(2), 15-25。






2021年2月21日日曜日

「中央銀行デジタル通貨(CBDC)に関する日本銀行の取り組み方針」を読んで:預金減少が起こす問題は信用創造の制限でなく銀行間競争の激化

 日銀は,2021年春に中央銀行デジタル通貨(CBDC)の実証実験を行うとのこと。中国やスウェーデンはすでに実証実験に入っており,カンボジアとバハマではすでに運用が始まっている。今後の動向が注目されるので,日銀が2020年10月に発表した「中央銀行デジタル通貨に関する日本銀行の取り組み方針」を読んでみた。以下,コメントする。

・ホールセール型CBDCと一般利用型CBDCの区分について。ホールセール型CBDCというのは,単に中央銀行当座預金をデジタル技術革新したものである。これは「利用者を一部の先に限定した電子的な中央銀行マネーという点で、民間銀行が中央銀行に保有する当座預金と共通している」(引用。以下,カギカッコ内は同じ)。実際,図表2のベン図でも同じところに入っている。いまでも中央銀行当座預金はデジタル化されているのだら,これを何か別の存在に置換える必要はない。中央銀行当座預金が,何か別の存在に置き換わるかのように言うのは混乱の下であり,やめた方がいいと思う。

・一般利用型CBDCについて。これを間接型で供給し,「現金と同様の中央銀行マネーとして,決済のファイナリティ(支払完了性)および即時決済性」を持たせ「誰でも使える」ようにするという点は注目される。これは要するに,一般利用型CBDCとは中央銀行債務であり,現金=中央銀行券のデジタルトークン化だということである。私の意見では,CBDCを間接供給の,現金のデジタル化として設計することは,そうでない方式に比べて合理的であり,支持できる(※1)。

・「CBDCの発行により、銀行預金からCBDCへの大幅な資金シフトが生じれば、民間銀行の金融仲介機能に影響を及ぼすことになる。例えば、銀行預金よりもCBDCの利便性が高くなると、銀行預金は大きく減少してしまい、そのことを通じて銀行の信用創造が抑制されるとの指摘がある」。これは,非常に不安にさせられる文章である。預金が現金やCBDCで引き出されるとどうなるのかを考えてみよう。

 銀行は,借り手の預金を設定することによって貸し付ける。このとき,中銀に持っておく準備は必要であっても,事前に預金は必要ない。銀行は信用仲介機関ではなく信用創造機関であり,貸し付けることによって預金通貨を創造する(内生的貨幣供給論)。そして,現金やCBDCは貸し付けによって生まれた預金を,借り手aや,その支払先の企業bや個人cが引き出すことによって必要となるのである。この時,aまたはbまたはcの取引銀行は中央銀行券やCBDCを預金者に渡さねならず,それは中銀当座預金をおろして調達するしかない。貸し付けによって預金が生まれ,その預金が引き出されることによって現金やCBDCが流通する。つまり他の条件(過去からの履歴や政府の財政や対外取引)を抜きにすれば,現在の制度では「銀行貸出総額=預金総額+現金総額」である。CBDCが実用化されれば,「銀行貸出総額=預金総額+現金総額+CBDC総額」である。

 先ず信用創造で貸出=預金が生まれ,後からその預金がどこかで引き出される。だから,預金の引き出し額が大きくなっても,それは事前になされた信用創造額を所与として,預金・現金・CBDCの比率が変わるだけである。

 ただし,銀行が預金を失うということは,その分だけ準備=中銀当座預金(と手持ち現金・CBDC)を失うということでもある。預金はいつ現金やCBDCで引き出されるかわからないのであるから,銀行は準備を持っておかねばならない。だから,準備を失うということは,その後の貸し付け能力に制約が加わるということである。この点では,預金がCBDCで引き出されると金融引き締め効果があり,信用創造が制約されると言える。

 もっとも,国債が大量に発行され,かつ低成長のこの時代,銀行は全体として大量の国債を保有してる。そのため,準備は買いオペレーションによって中銀から容易に供給される。現に21世紀になってから日銀当座預金は積み上がるが,マネーストックはなかなか増えないというのが日本の現実である。現代の中央銀行は,現金比率の上昇による引き締め効果には,十分対応できるとみてよい。銀行全体については,預金縮小による信用創造への制約を心配する必要はないだろう。

 しかし,個々の銀行にとっては異なる。預金の降ろされ具合は銀行によって異なり,また全体として預金が減少した場合の影響も銀行によって異なってくる。規模の小さな銀行は苦しくなるだろう。つまり,CBDCで預金が大量に降ろされると資金調達競争が激化し,そこで敗れる銀行が出てくるだろう。これが,本当の問題なのである。

 日銀が,このような問題の構造をつかんでいるのかどうか,上記の引用文の表現ではよくわからない。むしろ,日銀が銀行=信用仲介機関説(外生的貨幣供給論)という,学会で多数ではあるが誤っており,銀行実務にも反する見解に立っているのではないかという疑いを抱く。つまり,信用創造とは本源的預金に基づく現金の貸付,その一部の預金還流,そのまた貸付というたらいまわしであり,預金が流出すれば信用創造の原資が縮小すると考えているのではないかと疑われるのである。

 日銀はかつて「日銀理論」と呼ばれる,銀行=信用創造機関説に近い見地を取っていたのだが,黒田総裁になってから,量的金融緩和を正当化する銀行=信用仲介機関説に完全に転向したと見られる。この転向がCBDCへの見方にも影響を与えているのではないかと懸念する(※2)。

・「CBDCが決済手段として広く用いられるためには、プライバシー保護の面で利用者が安心できる設計・運営が求められる」。もっともである。現金は取引履歴の情報をほとんど記録しない(指紋がついたりすることはあるとしても)。しかし,CBDCについては設計次第である。中央銀行が個人の取引情報を握ってよいという理由はない。この点では,中央銀行や政府の方針に今後とも十分注意する必要がある。


※1「中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき」Ka-Bataブログ,2019年12月4日。


※2 黒田総裁のリブラについての発言からは,日銀,銀行を信用仲介機関とみなしていることがうかがえるという。建部正義「中央銀行デジタル通貨(CBDC)と民間デジタル通貨(libra)をめぐって」『ジャーナル・オブ・クレジット・セオリー』創刊号,信用理論研究会,2020年11月。



「『中央銀行デジタル通貨に関する日本銀行の取り組み方針』の公表について」日本銀行,2020年10月9日。


2021年2月19日金曜日

経済が成長するときに,流通に必要な通貨はどのように供給されるのか

 現代の管理通貨制のもとで経済が成長するときに,流通に必要な通貨はどのように供給されるのだろうか。ここには,一見矛盾する二つのもっともらしいストーリーが存在する。この二つは実は両立するのだが,両立の論理は我々の直感と必ずしも一致しないし,経済学の様々な学派の常識とも必ずしも一致しない。

1.経済が成長すれば必要な通貨量は増大する

 貨幣・通貨の種類は問わずに,資本主義経済が成長し続けていると考えよう。企業は生産活動を行い,利潤をあげ,これを一部は資本所有者の所得として配当し,それ以外は再投資する。労働者は労働力の再生産費を基準とした賃金を得る。経済が成長し続ければ,企業利潤は増大し,雇用は拡大するので賃金総額も増大する。流通する財・サービスの付加価値総額は拡大する。

 したがって,いま貨幣の流通速度を一定とすれば,流通のためにより多くの通貨が必要となる。一方,資本の回転の中で一時的に遊休する貨幣,設備投資のために積み立てねばならないために一時的に遊休する貨幣,資本家個人や労働者個人が一定期間支出せずに貯蓄する貨幣も増大する。

 以上のことは常識であり,何もまちがっていない。

2.預金通貨は貸し付けによって供給され,返済によって消滅する

 現代の通貨の基軸は預金通貨=要求払い預金と現金=中央銀行券である。預金通貨は,銀行が主として企業,場合によって個人に貸し付けることによって創造される。振り込みや小切手などをとおして預金通貨によって支払いがなされると預金は移動するので,個別銀行の預金は増減するが,預金量の総量は変わらない。また預金が降ろされるときは,銀行から企業(や個人)に中央銀行券で支払われる。銀行は中央銀行券を,貸し付けや信用代位によって供給される中央銀行当座預金を降ろすことによって入手する。このときに中央銀行券は発行される。中央銀行券は企業による支払いにも使われるが,主に個人による小口の支払いに使われる。そして預金として預けられることがあると銀行に戻る。銀行はこれを手持ち現金としてもよいし,日銀当座預金に預けても,日銀への返済に使ってもよい。中央銀行に戻った中央銀行券は破棄される。

 いま仮に政府が均衡財政を実施しているとすると,上記の民間経済の仕組みの中では,流通に必要な預金通貨は銀行からの貸し付けによって供給され,返済によって消滅することになる。中央銀行券は,現金流動性の必要に応じて預金通貨が置き替えられたものである。

 以上のことも,少なくとも銀行実務に通じた人にとっては常識である。

3.1と2はどのように両立しているのか。

 では,1と2はどのように両立するのか。1によれば経済成長とともに流通する通貨は増えて行かねばならない。しかし2によれば,通貨は貸し付けられ,回収されるだけであり,その動きは基本的にゼロサムである。ここから理論的な混乱が起こりやすい。

4.典型的な混乱

 混乱a。 1だけを見ると,貨幣は社会の拡大再生産によって増加していくように見えて,2が間違いだと思えてくる。だが,付加価値は増えても,魔法のように中央銀行券が増えるわけではないことはすぐわかる。預金通貨も同じである。企業が利潤を上げる時は,投下した資本よりも高い付加価値を体現した財・サービスを販売して通貨を手に入れるわけだが,そのためには財・サービスの買い手があらかじめ通貨を持っていなければならない。企業と個人の所得がいくら増えても,銀行以外の企業や個人は通貨をつくれない。

 混乱b。そこで,1の常識を延長し,遊休する貨幣が預金となって金融機関に集積され,原資(本源的預金)となって,その何倍かの貸し付けが行われるという,教科書的信用創造論で考える論もある。こうすれば中央銀行券は増えずとも,預金通貨は最初に預けられた現金の何倍かに増えると考えるのである。しかし,これでも解決はしない。最初に遊休する預金通貨や,最初に預金として預けられる中央銀行券はどこからきたのかという問題に答えられないからである。預金は,まず貸し付けによって生まれて,それが点々と流通するのであり,中央銀行券は預金が引き出されたからこそ流通に入るのである。そうした預金が遊休したり,中央銀行券が預金として預けられたからと言って(※1),何も増えることはない。銀行に(ただしおそらくは最初に貸付を行ったのとは別の銀行に)還流しただけであり,元の金額が維持されるだけである。信用創造が行われるとか,信用創造で預金が増えるとかいうのは,貸し付けられた時にだけ起こるのであり,預金が預けられて増えるのではない。

5.両立の論理:返済を上回る貸付と,その範囲での遊休貨幣の動員

 1と2が両立する唯一の論理は,流通に必要な通貨の増大は,返済を上回る貸し付け,すなわち信用創造の拡大によってまかなわれているということである。社会全体として見た場合に,債務が返済される以上に貸し付けが行われるという運動が連続的に生じ続けることが,通貨供給量を増大させる。通貨の増大イコール債務の増大なのである。

 もちろん,いったん貸し付けられた預金通貨や,それが降ろされた現金は,様々な場面で購買手段や支払い手段として流通に入り,財・サービスの価値を実現する。そして様々な形で遊休する。タンス預金もあれば,貯蓄性預金もあるだろうし,流通市場での金融資産購入にまわされる場合もある(なお,発行市場での証券投資は実物経済の投資に結びつく)。だから,ある時点で見れば,必要な通貨の増大は,遊休していた貨幣が流通に引き戻されることによっても実現する(ここで遊休と金融的流通の区別・関連をどう見るか問題があるが,今は脇に置く)。

 しかし,遊休している預金や中央銀行券と言えど,そもそもはどこかで銀行から貸し付けられた預金に由来するものである。その貸し付けは踏み倒すのでない限り,いつかは返済されなければならない。だから遊休貨幣も,結局,返済を上回る貸付という大きな運動によって供給されるものであり,それがなければ存在し得ないのである。

6.マルクスを拡張し,シュムペーターに注目する

 以上の通貨供給論は,マルクスの貨幣流通法則論(商品流通の必要によって貨幣流通量が決まる)を預金通貨と中央銀行券に適用すれば導出可能である。ただし,マルクス当人は預金について多くを書き残さなかったので,この論理展開を導くには,マルクスの個々の記述ではなく体系に依拠し,後続者が独自に理論構築することが必要であった。しかし,その過程でマルクス派も他の学派とともにaやbの迷路にはまりやすかった。また中央銀行券と国家紙幣を混同し,中央銀行券に紙幣流通法則論(投入された紙幣総額によって紙幣流通量が決まる)を適用して万年インフレ論を説くきらいもあった。

 この通貨供給論と親和性の高いことを直接に述べていたのは,実はシュムペーター『経済発展の理論』である。シュムペーターの経済発展論は,まずワルラス的静態均衡を仮定し,しかるのちにこれを経済発展の動態モデルに移行させようとする。すべての資源が有効利用されている均衡状態から出発して,それでも経済発展をさせようと思えば,企業者行動によって生産関数をシフトさせる革新を行うしかない。その際に必要な資源は他部門から引き抜かねばならない。だから創造でなく創造的破壊という。しかし,資本主義経済において資源を略奪するわけにはいかない。ではどういう方法をとるかというと,銀行が信用創造によって企業者に貸し付け,企業者はこれによって資源を調達するのである。ここで重要なことは,シュムペーターは,資源は無から作り出すことはできないが,貨幣だけは銀行によって無から創造され得ると考えていたことである。この理論の重要性は,今日もっと強調されるべきだと思う。

7.財政赤字と通貨供給

 なお,以上の通貨供給論は全くの内生的貨幣供給論である。しかし,これと異なる通貨供給がなされるルートも存在する。それは,財政赤字による通貨供給の増大である。よく知られているのは中央銀行が国債を引き受ける場合であるが,実はそれだけではない。民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する(※2)。このような外生的貨幣供給の作用は独自に検討しなければならない。

※1 この遊休のあり方については別途考察が必要だが,さしあたり単純な形態として,支払を受けた企業が差し当たり事業に投資しないお金を定期性預金にしていると考えておけばよい。

※2 なぜそうなるのかの説明は,以下をご覧いただきたい。「民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する」Ka-Bataブログ,2020年12月5日。

後記:上記1-7は,岡橋保,村岡俊三,松井和夫,楊枝嗣朗,大畠重衛,ランダル・レイ,吉田暁ら先学の見解を学びながら考えたものである。特に,最近になって気づいたが,1-6までは吉田暁氏の見解と一致する。吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社,2002年,吉田暁「実践感覚から理論への期待」『信用理論研究』20,2002年,「内生的貨幣供給論と信用創造」『経済理論』45(2),2008年などを参照。ただし7はおそらく吉田氏と異なる。他方,2,7は,またおそらく5も現代貨幣理論(MMT)と一致する。

2021/2/23 「混乱b」の項を改訂。サブタイトルを削除。


2021年2月16日火曜日

日経平均株価終値3万円越えの報道に接して:金融緩和の深掘りは止め,財政支出で生活支援を

  2月15日の東京株式市場で,日経平均株価は終値で3万円を超え,30年6か月ぶりの高値になったとのこと。

 株価がつり上がっているのは,金融緩和の副作用である。しかし,庶民にはほとんど良いことはなく,景気全体は停滞している。内閣府の『月例経済報告』によっても「景気は、新型コロナウイルス感染症の影響により、依然として厳しい状況にある」のであって,せいぜい「持ち直しの動きがみられる」程度だ。2020年度実質GDP見通しはマイナス5.2%,うち民間最終消費支出はマイナス6.0%だ。

 もともと不況対策としての金融緩和は,流動性枯渇と信用機構の連鎖的崩壊を防ぐために行うものである。そこまでは意味があるが,現在の低成長経済で成長回復をもくろんでひたすら金融緩和を深堀りしても,実体経済にはほとんど効果はない。金利が下がったから設備投資をし,在庫を増やそうという状態ではないからだ。まして日銀がETFが続けているのは,露骨な上場企業優遇策を国会の議決なしでやっているに過ぎない。

 現下の不況対策は財政政策を中心に,それも,金融資産投資に回らず,確実に実体経済に回るような,生活と営業を支える支出に回るように行わねばならない。低所得者への現金給付,住宅確保給付,営業支援給付,休業者への給付金,失業給付金を地味に続けることが,庶民の生活を救い,バブルという副作用を最小化する道だ。

「株価 終値でも3万円超え 30年6か月ぶりの高値」2021年2月15日,NHK。

2021年2月14日日曜日

地震後も無事でおります

  2月13日に仙台市青葉区の自宅及び大学は震度5強の地震に見舞われました。自宅はほぼ無事で,現在本や書類が散乱して棚が歪んだ研究室の修復中です。ご心配くださった皆様に御礼を申し上げます。


2021年2月10日水曜日

「休業手当」とそれが受け取れない労働者への「休業支援金・給付金」という方式について

 現在国会では,これまで中小企業の労働者のみを対象としていた休業支援金・給付金を大企業の非正規労働者に拡大する件が議論されている。緊急措置としてこの拡大を行い,支給時期もできる限りさかのぼる方がよいと思う。しかし,この問題の背後には,かなり根の深い問題があることも考えておかねばならない。つまり,どうして「休業手当」と「休業支援金・給付金」という二重の手立てが必要になるかということだ。

 新型コロナに対応する政府の雇用政策の基本ツールは雇用調整助成金である。これは,企業が労働者を休業させ,休業手当を支給した場合,事後にその負担の一定割合(最大100%)を政府が補填する制度である。これにより休業した労働者と休業させた企業を支援するとともに,解雇を防止するものだ。

 しかし,休業手当は,ほんらい「使用者の責に帰すべき事由」による休業についてのみ支給される。不可抗力による休業の場合,企業には支給する義務はない。では,新型コロナウイルス対策で政府・自治体の要請を受けて営業を縮小し,それに伴って労働者を休業させた場合はどうかというと,支給義務があるかないかは明確ではなく,ケースバイケースなのでである。しかし,これで休業手当を支払わない企業ばかりになっては,到底対策の実効性がない。そのため現在は「労働基準法上の休業手当の要否にかかわらず、経済上の理由により事業活動の縮小を余儀なくされた事業主に対しては、雇用調整助成金が、事業主が支払った休業手当の額に応じて支払われます」(厚労省Q&A)という措置が取られている。しかし,これは経済的に苦しくなった企業が休業手当を支給すれば補填しますよ,ということであり,やはり休業手当支給を義務づけるものではない。

 このように企業に対する休業手当支給への動機付けが弱く,かつ雇用調整助成金の手続きが複雑であること,さらに事後的補填であるため一時的には現金流出が生じることから中小企業には負担が重く,結果として休業手当を支給しない企業も相当あると報じられている。これが労働者の減収を招いている。

 これをカバーするために,中小企業労働者を対象として政府から直接支給されるのが,昨年整備された休業支援金・給付金である。中小企業の中には,休業手当を支給しないケースが多いこと,それは自体はやむを得ないことと認めて,この補完措置を取ったのである。

 今回の支給対象拡大問題は,休業手当不支給が,非正規に対する差別や経営者の認識不足によって先鋭化したために生じたものと言える。経営者がシフト勤務のパートタイマー/アルバイトのシフトを減らした場合について,休業に当たることを認識せず,休業手当を支給していない場合が多々あることが判明したのである。休業手当を正規のみ,あるいは労働日が明確な労働者のみに支給し,シフトが減少したシフト勤務労働者に支給しないことは差別的取り扱いであり,違法の疑いが濃い。しかし,この違法をすべて取り締まることの困難から,今回,大企業のシフト制非正規労働者(シフト制,日々雇用,登録型派遣)に対しても休業支援金・給付金を支給する政府方針が出されたのである。これはこれで改善であるが,野党が要求するようにできるだけさかのぼって支給対象とすべきであろう。また,差別的不支給は労働監督行政の強化によってなくしていくべきだろう。

 しかし,そもそもの制度としての問題は残るように思う。休業による減収に対する支援措置は,1)まず企業による休業手当と政府によるその補填,2)それでカバーできない部分は政府からの直接支給という二段構えになっている。しかし,休業手当は上述したように,そもそも企業の責による休業について支払うものであるから,コロナウイルス感染症流行という,企業の責任と言えない事態に直面しての休業・減収を補償する措置としてなじむものではない。この観点からすれば,初めから政府による直接支給で労働者を支援すべきとした方が,考え方は整合するようにも見える。具体的には,激甚災害の際に用いられている雇用保険の「みなし失業」という考え方を用い,休業状態でも失業給付を受け取れるようにすべきであったのかもしれない。この方式は昨年4月に「生存のためのコロナ対策ネットワーク」という団体が提案していたが,実現していない。コロナ禍が激甚災害とは異なるということだろう。しかし,労働者の生活支援としては,この方が整合性があり,手続きも簡素であったかもしれない。

 今後の政策改善に向けては,企業による休業手当支給とその政府による補填という方式の限界について注意しながら,進めるべきだろう。


2021年2月2日火曜日

現代の通貨システムとは「返済されない債務」が流通する世界のこと

  現代の通貨システムには,多くの人の直感に反するものがある。そう言って悪ければ,普段イメージしているものが適切でなく,別のイメージに取り替えねばならないところがある。その最たるものが,通貨システムを,金貨や銀貨のような価値ある本位貨幣か,あるいは国家が強制通用力を付与したものが流通しているとみてしまうことである。そのようにイメージすると,認識を誤る。

 では,どうイメージすべきなのか。それは「債務が流通している」というものである。イメージしにくければ「債務証書が流通している」,「われわれは,債務証書で売り買いし,貸し借りしている」でもいい。債務証書で売り買いするというのは,企業が手形によって掛け売り,掛買いしているのをイメージすれば,おかしくもなんともないことがわかるだろう。現在の通貨システムとは,手形流通が銀行と中央銀行によって高度化した世界なのである。中央銀行券も中央銀行預金も民間銀行預金も信用貨幣=債務証書である。コインだけは政府が強制通用力を付与した国家貨幣であるが,主要な通貨ではない。

 では,なぜ債務証書が流通するのか。それは,中央銀行や銀行は,自分あての債務証書を発行して取引を行うからである。企業が手形を振り出して物を買うことを考えれば,何もおかしくない。信用のある債務証書ならば流通するのも手形と同じである。

 では,債務証書はどのように流通に出入りするのか。中央銀行や銀行は,手形で物を買うのではない。自己宛て債務証書で貸し付けや信用代位(既発行債券の売買)を行うのである。だから銀行券も預金通貨も,主要には民間経済がそれを必要とするときに,貸し出しによって流通に入る。そして返済によって流通から出る(※1)。マルクス風に言えば貨幣流通法則に従う。ただし金貨のような本位貨幣と異なり,蓄蔵されることはない。回収された債務証書は消滅するのである(例:日銀に戻った1万円札は1万円の資産になるのではなく,ただの紙になる)(※2)。ただし,政府が国債を発行した場合は別で,民間経済の必要とは独立に政府によって流通に投げ込まれる。この分は,課税や特別の回収措置を取らない限り,出てくることはない。マルクス風に言えば紙幣流通法則にしたがう。これは,強制通用力を持った国家紙幣や政府発行コインの場合と同じである(※3)。

 多くの人がこのイメージを抱きにくいのは,直感的に「債務証書ならば結局返済しなければならず,いつまでも流通しないはずだ」と思われるからである。もちろん,企業活動がうまくいっていれば,銀行貸し付けは返済される。債券による借り入れも,満期になれば返済される。対して中央銀行券や中央銀行預金や,民間銀行預金はどうかが問題である。

 民間銀行預金はもちろん返済される。預金者が民間銀行の預金を下ろせば,中央銀行券に交換される。これはつまり,債務を,より信用度と流通性の高い債務で返済するという行為である。この理屈はあらゆるところに適用される。企業は手形の期日に,取引先銀行の預金通貨や,現金=中央銀行券で支払う。また,別銀行への銀行振り込みはすべて民間銀行間の債権債務となり,これは,日々,中央銀行当座預金口座を通して決裁されている(※4)。

 それでは,中央銀行券と中央銀行預金という,中央銀行の債務はどのように返済されるか。債券と債務の相殺ならは可能である。中央銀行に債務を負うものは,中央銀行券や中央銀行預金で返済することができる。しかし,中央銀行に対して純債権を持つものはどうなるのか。金兌換が行われていれば,中央銀行に中央銀行券を持ち込めば金に替えてくれるかもしれない。しかし管理通貨制のもとではそれは行われない。中央銀行預金は,おろせば中央銀行券に変わるし,中央銀行券を預ければ中央銀行預金にはなる。しかし,それ以上のことはない。中央銀行券と中央銀行預金は「返済されない債務」である。それ以上,上位の債務が一社会内部にはないからである。

 そうすると,債権者が中央銀行に大挙して押しかけ中央銀行券や中央銀行預金証書を突き付け,「とにかく何かで返済せよ」と迫ることはあり得ないのかという心配が起こるかもしれない。しかし,もともと中央銀行券や中央銀行預金は,中央銀行の信用供与によって発行・設定されていることを忘れてはならない。個別には,中央銀行に対する純債権をもつ銀行も存在し得る。しかし,社会全体としては,何らかの理由で中央銀行の資産価値が毀損されて債務超過に陥るのでない限り,中央銀行券発券高や中央銀行預金残高という中央銀行の債務と,中央銀行が貸し出しや債券保有によって持つ債権はつりあっているのである。だから,経済の運行が正常であれば,社会全体として見れば,中央銀行に対する純債権者が返済を迫るようなことは起こらない。起こるのは,せいぜい中央銀行に対して持つ債務を返済するにあたり,中央銀行券を使わせろという要求であり,それは債権債務の相殺として当然に認められるのである。

 つまり,管理通貨制とは,中央銀行券と中央銀行預金という,返済されることのない債務証書が延々と流通するしくみなのである(※5)。この「返済されない債務が流通する」ことがイメージできないと,管理通貨制を正しくモデル化することはできない。

 返済されない債務証書なら紙切れと同じで,強制通用力によって流通する国家紙幣と同じだと考える人がいるかもしれない。しかし,そうではない。不換の中央銀行券も,貸し付けによって流通に入り,返済によって流通から出る。民間経済の必要に応じて流通に入り,返済によって退出することができる。債権と債務の相殺を担うことができる。ここが国家紙幣とは全く異なるのである。また中央銀行券が紙きれならば企業の手形も紙切れになり,一切が紙切れで国家権力による虚構だということになるが,それでは経済的分析の放棄だろう。

 この「返済されない中央銀行の債務」が信用を保てるかどうかが,管理通貨制における通貨の安定を左右する。中央銀行の債務は返済を迫られることはないが,信用を喪失することはあり得る。信用を喪失した時に起こるのが悪性のインフレーションであり,為替レートの急落である。

 なお,以上の認識は,マルクス信用論において不換銀行券を信用貨幣と理解する学説の延長線上にあるものである。貸し付けることによって預金が創造されるとする点,中央銀行券,中央銀行預金通貨,民間銀行預金通貨が信用貨幣であるという点はMMT(現代貨幣理論)とも一致する。中央銀行のオペレーションの捉え方,債務の階層性の把握はむしろMMT(現代貨幣理論)から学んだものである。ただし,国家紙幣は信用貨幣ではないとする点はMMTの少なくとも一部とは異なり,また商品貨幣論の想定から出発し,その発展形として発券集中と管理通貨制を捉える点もMMTと異なる。

※1 ただしこれは当座預金についての話である。これとは別に,企業や個人は,一時的に必要としないお金を貯蓄性預金として銀行に預ける。当座預金は貸し付けによって出現するが,貯蓄性預金は,貸し付けられて流通している信用貨幣の一部が銀行に預けられるものである。

※2 中央銀行券を,強制通用力のある国家紙幣と考えようと信用貨幣と考えようと大した違いはない,と考える経済学者がいるが,誤りである。政府が国債を発行しない状態においては,信用貨幣は民間経済の必要に応じて流通量が決まり,国家紙幣は政府の行為によって流通量が決まるのであって,運動の原理が全く異なるのである。中央銀行券を信用貨幣とみるか国家紙幣とみるかは,そこから先の議論を大きく分岐させる。

※3 実際の動きは各国の制度による。日本のコインは,政府が財政支出によって流通に投げ込むことはできない仕組みになっている。

※4 日常的なイメージでは「A銀行からB銀行に送金する」というが,直接送金されているのではない。A銀行の預金通貨はB銀行の口座には入らない。A銀行に債務,B銀行に債権が計上され,これが両銀行が持つ日銀当座預金でA銀行からB銀行に送金されることで決済されるのである。

※5 単純化のため「流通」と一括したが,民間経済内では中央銀行券のみが流通し,中央銀行当座預金は民間経済の流通外にあって運動する。実務用語で言えば,前者はマネーストックの世界,後者はマネタリーベースと政府預金の世界である。

2021年2月19日加筆。

2021年2月1日月曜日

銀行はキーストロークで通貨を創造できるが,政府はそうではない:過度な「統合政府」論に反対する

 私は管理通貨制下の通貨を信用貨幣と理解する点でMMTに賛同するし,この「政府は好きなだけお金を刷っていいの? だとしたら、なぜ税金は必要なの?」という記事でケルトン教授が13歳のエイミーさんに解答していることのうち2番目と3番目に特に異論はない。つまり,課税の本質のひとつはインフレ対策であり,政府債務はインフレが起きそうになるまでは拡大して良く,インフレを起こさないためには人や設備,生産力を確保しなければならない(※1)。しかし,以下の1番目の回答はおかしいと思う。

(引用)--

Q:政府は好きなだけお金を作る(刷る)ことができるのか?

A:政府が扱うお金とは、概ねキーボードでコンピューター上に打ち込むものに他ならない。例えば、空母が必要だとすれば、空母を作る人たちにお金を打ち込むだけで、その金額分のお金をいちいち刷っているわけではない。

 なので、この質問は「政府は欲しいものを買う余裕があるのか」と言い換えることができ、それに対する答えは「イエス」。

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 ケルトン教授は,政府がキーストロークで通貨を創造して,それで支出を行うことができるという。これは政府と中央銀行を合体して統合政府とみなせるならば正しい。MMTに限らず,一定の事項について,一定の条件下で統合政府を語ることは理論的にもっともだ。しかし,現実のほとんどの国において,政府と中央銀行は別組織である。両者が別建てであることは,財政支出を考えるときどうでもよいことではない。

 中央銀行は,確かにキーストロークで通貨を創造できる。そして,それは自己の資産を創造するのではなく,自己宛ての債務,具体的には中央銀行預金を創造するのであって,その支出は金融取引,つまりは貸し出しや債券の購入に限られている。例えば民間銀行に貸し出しをし,民間銀行から国債を買う。中央銀行は,銀行であるがゆえにこうした「自己宛て債務による信用供与や信用代位」が当然に可能なのである。

 対して,中央銀行ではない狭義の政府は,多くの場合,通貨創造の主要な担い手ではない。もちろん硬貨や政府紙幣を発行することはできるが,その形式は多様である。理論的には,政府は硬貨・政府紙幣に強制通用力を付与し,架空の資産価値を付与して発行することもできるし,政府債務として発行することもできる。日本政府のように,硬貨は政府にとって資産価値を持つものの,生み出した硬貨で財政支出することはできない仕組みになっている場合もある(※2)。このように,狭義の政府による通貨発行権は多様であるが,しばしば制限されている。なぜ制限されていてかつ多様なのかというと,たいていの場合,通貨発行の主要な担い手は中央銀行と想定されているからであり,また狭義の政府は銀行の原理で動いていないからである。

 ケルトン教授は,この違いを本質的でない,どうでもよいものとみなしている。だが,私にはそうは思えない。政府と中央銀行は,一定の条件下では統合政府とみなしてよいものの,別の役割を持つ,別の性質を持つ組織とみなすべきだ。中央銀行は,キーストロークで当然に通貨を創造できる。それはよい。しかし,狭義の政府は当然にはそれはできないとみなすべきだろう。

 だから,狭義の政府が大砲に対してであれバターに対し手であれ支出しようとすれば,その支出は,硬貨や政府紙幣ではなく,中央銀行券か中央銀行預金で支払わねばならない。現実を説明するモデルでは,まずもってそう想定すべきだ。この場合,たとえば政府は小切手で業者に1億円を払うことはできる。しかし,その小切手は大砲メーカーまたばバターメーカーが民間銀行に持ち込み,民間銀行は政府に支払いを要求し,中央銀行が,1億円を中央銀行に政府が持つ預金から民間銀行が持つ預金へと移動させるだろう。だから,政府預金が無尽蔵にあるのではない限り,狭義の政府は,歳入を超える支出のためには,国債を発行して資金調達しなければならないのである。

 国債発行によって政府債務が増大する。民間銀行は低成長時代には過剰準備となっている中央銀行当座預金を取り崩して国債を引き受ける。それが難しそうならば,中央銀行が事前に既発債を購入するか事後に引き受け銀行から購入して,キーストロークで必要な当座預金を供給するだろう。この政府債務が国内通貨建てである限りデフォルトしないことは,MMT派とケルトン教授の言う通りである。

 しかし,債務がデフォルトしないからと言って,「政府はキーストロークで通貨を創造して財政支出ができる」のではない。「中央銀行が過去または現在にキーストロークで創造した通貨が裏付けとなれば,政府が赤字支出し続けられる」というべきであり,これ以上省略して中央銀行と政府を一体とみなすことは適切ではない。中央銀行と狭義の政府は別の原理で動く別組織である。確かに両者は,多くの場合は協調する。しかし,それぞれの制度的制約の中でそうするのであり,またいつでもどこでも100%協調する保証はないのである。

 MMTが,理論的にそうみなすべき時に統合政府を持ち出すのは良いとしても,「政府はキーストロークで通貨を創造して財政支出ができる」というのは過度な単純化であり,現実の財政を論じる際には不適切だろう。

※1 ただし,インフレまたはバブルになるまでは,というべきだろう。バブルも警戒しなければならない。

※2 日本政府は発行した硬貨を日銀に交付する。このとき,政府の日銀に対する預金は増えるが,これは政府当座預金とは別口の預金になり,政府が財政支出に用いることはできない。以下を参照。
渡部晶(2012)「わが国の通貨制度(幣制)の運用状況について」『ファイナンス』8, 18-31。


「13歳の疑問に対する,経済学者のまさかの回答 政府は好きなだけお金を刷っていいの? だとしたら、なぜ税金は必要なの?」COURRIER Japon, 2020年1月30日。



給与デジタル払いの意味するものは,銀行業界内部における集中と,電子マネー業者への情報の移動である

 「 給与デジタル払い21年春解禁、銀行口座介さず 政府方針【イブニングスクープ】」『日本経済新聞』2021年1月27日。給与をスマホの支払アプリに振り込めるという話。労働法上の問題など(特定のアプリの仕様を会社から強制されないかなど)もあるが,とりあえずこの『日経』記事の論評には何かずれたものを感じる。

(引用)「給与の支払いが資金移動業者にうつれば、銀行のビジネスモデルが揺らぐとの見方がある。たとえば新卒社員は入社時に銀行口座を作り、そのまま利用し続ける人も少なくない。銀行口座を作らず、デジタルマネー支払いを選ぶ人が増えれば、銀行の顧客基盤が縮小する」。

 これは,「ある特定の銀行にとって」「顧客基盤が縮小する」という意味では正しい。たとえばある地方の企業が,給与振り込みをメイン取引銀行の地方銀行である七夕銀行を通していたのをやめ,大手資金移動業者(電子マネー業者)のX Payを使うようになったとする。これにより,七夕銀行(仮名)が給与振込口座を獲得できなくなるということはありうる。

 しかし,「銀行全体にとって」「顧客基盤が縮小する」かどうかは要検討である。実は,預金が縮小することはない。企業Aが給与をメイン取引銀行だった七夕銀行の口座振り込みからX Pay支払いに変えるということは,企業AがX Payに法人アカウントを持ち,X Payに給与を振り込むということだ。このとき,給与のお金は見かけ上,企業Aの七夕銀行口座→企業AのX Pay口座→従業員のX Pay口座と動き,銀行預金が流出したように見えるが,その背後では企業Aの七夕銀行口座→X Pay社の取引銀行(ビッグ銀行とする)口座と移動している。なので,銀行預金の総量は何ら減少していない。ただし,七夕銀行の預金は縮小し,X Pay社の取引銀行,おそらくは大手都市銀行であるビッグ銀行の預金は拡大している。そして,こうした取引を繰り返すならば,やがて企業Aは給与支払い分のお金は普段からX Payに置いておこうという考えるようになり,メインの取引銀行をビッグ銀行に変えた方がいいと思うかもしれない。

 そしてもうひとつ,従業員たちの取引情報は誰が把握するかという問題がある。従来は,銀行口座を通して七夕銀行が把握してきた。これが,七夕銀行であれビッグ銀行であれ銀行には把握できなくなり,かわって資金移動業者であるX Pay社に把握されるようになるのである。

 つまりここで起こるのは,まず,地方の中小規模銀行が預金を失い,大手資金移動業者が口座を置いている大手銀行が預金を獲得するということであり,やがて金融取引全般が大手銀行に集中するということである。そして,銀行預金の総量は減っていないにもかかわらず,小口客の取引情報を握るのが銀行から大手の資金移動業者に変化するのである。

 預金は銀行から流出しないが銀行業界内部で集中する。情報は銀行業界から資金移動業界に移動する。このように見通すべきではないか。


2021年1月25日月曜日

次年度の学部ゼミテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年

 次年度の学部ゼミ最初のテキストは遠藤環・伊藤亜聖・大泉啓一郎・後藤健太編『現代アジア経済論:「アジアの世紀」を学ぶ』有斐閣ブックス,2018年とした。今年度は後藤先生の『アジア経済とは何か』と塩地洋・田中彰両先生編著の『東アジア優位産業』を読んだので,その流れに沿っての選書である。前年度にちゃんと勉強したはずの新4年生は新3年生をきちんとサポートせよ,という建前も成り立つ。

 今年度の反省点としては,「アジア」を論じるはずが,学生の思考が「日本とそれ以外」という風に向かってしまいがちだということだ。そして,「日本は高付加価値で高品質の分野に集中し……」という永遠の回転木馬に流れてしまう。いや,実際にそういうことが起こっている産業ではいいのだが,よくわからない,調べてないけど,こう言っておけばいいんだろ的になると問題である。

 その点,本書は「アジア化するアジア」「生産するアジア」「移動するアジア」「都市化するアジア」「老いていくアジア」といったように,「アジア」そのものが切り口になっていることを特徴としている。次年度は「他のアジア諸国に対する日本」でなく「アジア」を考えるために,本書の構成と切り口を活用させていただきたい。もちろんそれは,「アジア」の経済・社会がどこでも同じだという意味ではないし,本書もそんなことは書いていない。「アジア」は現実においてダイナミックな経済・社会変容の場であり,その変容を捉えるための思考の単位であろう。



大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...