この小論は,リフレーション派が目指したのは「名目的物価上昇が引き起こす需要増加」のはずだったが,実行された「異次元緩和」が刺激しようとしたのは「需要増加に伴う実質的物価上昇」であるという矛盾を示して,リフレーション論の果たした役割を指摘する。
ここでは,1990年代以後の日本経済を「不況だからデフレになったのではない。デフレだから不況だったのだ」と診断してきた人々,その裏返しとして「デフレを脱却すれば景気が良くなる」とも主張し,そのために通貨供給量を膨張させるリフレーション,それを達成するためのインフレ・ターゲティングを主張した人々をリフレーション派と呼ぶ。この人々の一部は政財界に影響力を行使することができ,ついに安倍首相・黒田総裁のもと「異次元緩和」で実行させた。
「好況だからインフレになる」「不況だからデフレになる」は,常識的にわかりやすい。好況期の財・サービスの需要超過,不況期の供給超過で物価がそれぞれ上がり,また下がるからだ。この好不況が民間セクターによって自律的に起こったものとすれば,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に応じて,流通に必要な貨幣が増減する。それに応じて,銀行からの貸し付けが増えたり減ったりして,通貨量は調節されるのだ。その際に生じる「インフレ」「デフレ」は,実質的な物価上昇,実質的な物価下落である。
リフレーション派が想定しているのは,このような事態ではない。不況になっていなくてもそれより先にデフレが,好況になる前でもまずインフレが起こるような事態を想定しているのだ。
古典的な本位貨幣制度ならば,こうしたインフレ・デフレもありうることはすぐにわかる。価格の度量標準(1円=金750ミリグラムなど)が切り下げられれば物価が騰貴し,切り上げられれば下落する。財・サービスを流通させるために必要な金属自体の量は変わらないのだが,それに対応する価格標準が変わってしまったために,物価が騰貴したり,下落したりする。これは名目的な物価の上昇・下落である。
管理通貨制のもとでは,価格の度量標準は公定されない。そのため,物価の変動が実質的なものか,名目的なものかの区別はわかりにくい。事実,日常用語ではインフレーションとは持続的な全般的物価上昇であり,デフレーションとは持続的な全般的物価下落だとしか理解されていない。しかし,財・サービスの流通する市中の需要・供給超過に対応して通貨量が増減し物価が上下するのか,通貨が投入されたり,必要なだけ投入されないために物価が上下するのかという区別は存在する。前者を実質的な物価の上昇・下落,後者を名目的な物価の上昇・下落と呼ぶこともできる。
管理通貨制のもとで後者が生じるのは,例えば不換紙幣を政府が発行したり,政府が中央銀行に国債を直接引き受けさせたりして,財政支出を拡大した場合である。この時,財・サービスの流通量は変わらないのに通貨供給だけが増加するので,物価は上昇する。
リフレーション派は,このように物価上昇・下落に実質的なものと名目的なものの区別が存在することを認識している。そこまではもっともである。
その上で,リフレーション派は,1990年代以後の日本経済について,まず日銀が十分な金融緩和をせずに通貨供給を制限していたから,名目的物価下落としてのデフレになり,デフレだから不況になったと主張した。そして,その裏返しとして,通貨供給量を十分に増やせば,名目的物価下落としてのデフレがなくなり,不況もなくなると主張した。そして,この主張は安倍政権,黒田総裁のもとでの日本銀行に採用されるに至り,「異次元の金融緩和」が実行されたのである。
「異次元緩和」で行われたことは,日銀による国債の無制限購入,ETF(上場投資信託)やJ-RIET(不動産投資信託)など金融資産の大量購入である。この代金が金融機関が持つ日銀当座預金に振り込まれる。しかし,これではまだ通貨供給をしたことにならない。日銀当座預金の増加が短期金融市場での供給を増やし,利子率を低下させて,それが銀行からの企業の借り入れ増につながった場合,あるいは日銀当座預金の低い収益性(今は部分的にマイナス金利やゼロ金利もある)に飽き足らない金融機関がより収益性の高い貸し出しや投資を行った場合,はじめて通貨供給量(日銀券や預金通貨)が増加する。
リフレーション派はこの流れが円滑に進むだろうと考えていたが,実際にはマネタリーベース(日本銀行券発行高+貨幣流通高+日銀当座預金残高)は激増したもののマネーストック(M2ならば日本銀行券発行高+貨幣流通高+預金通貨+準通貨+CD)は過去のトレンドを超えては伸びなかったというのが,統計の示すところである。
なぜ,こんな結果になったのか。ここで問いたいのは,リフレーション派は名目的物価下落に名目的物価上昇で対抗しようとしていたはずなのに,「異次元緩和」の具体的な政策で想定されているのが,実質的物価上昇だということである。
「異次元緩和」は,銀行が企業からの借り入れ需要に応えやすくし,あるいは新規社債発行の希望を適えやすくしようとしているのだ。実現すれば,企業は投資を行う。市中では預金通貨が増える。あるいは日銀当座預金が減って市中に日銀券が出回る。これは,財・サービスを流通させるための必要通貨量の増大に,金融機関・日銀が応じていることに他ならない。ここで目指されているのは,リフレーション派が想定したよな,まず通貨供給量を伸ばしてインフレにし,それを刺激に需要を伸ばすということではない。需要を伸ばせばインフレになり通貨供給量も伸びる,ということに過ぎないのだ。
リフレーション派は,ときに一般向け解説では,日銀券=不換銀行券を不換紙幣と同一視する。日銀が国債を買い入れれば通貨供給量が自動的に増えるかのように話をもっていくのである。しかし,これはおかしい。日銀券は政府発行の不換紙幣ではない。いくら日銀が国債を買っても,また銀行にお金を貸し付けても同じだが,銀行が日銀当座預金をそのままにしておくだけならば,通貨量は増えない。日銀の金融調節では,需要と関係なく通過を流通に投入することはできない。
あるいはまたリフレーション派は,ここを「期待」の理論でお化粧する。名目金利が下がることに加えて人々の予想物価上昇率が上がれば,その合力として実質金利が下がるのだから,インフレ期待を高めて好況にするという因果関係だという。それがうまくいかなかったのは黒田総裁や岩田前副総裁が嘆いている通りである。しかし,期待は期待であって,実態が動かないと完結できない。期待の論理という皮を一枚はげば,より実態的な過程にあるのは,需要を刺激できれば好況になってインフレになるという単純な因果関係なのである。
だからリフレ派は,理論と政策が矛盾している。リフレ派は,名目的物価上昇を起こして不況を好況に転換させるのだと主張した。しかし,実際に行なわれた「異次元の金融緩和」は,需要を刺激して,実質的物価上昇を伴う好況を呼び起こそうとするものだったのである。
これは,理屈だけの問題ではなく,リフレーション理論が果たした役割に関わる。「異次元緩和」は確かに非伝統的な政策を繰り出しているものの,中央銀行による金融調節の本質を変えたわけではなかった。日銀当座預金を積み上げても通貨供給量が増えなかったという事実からくみ取るべきは,財・サービスの流通する市中からの需要がなければ通貨供給は増えないのであり,財・サービスの流通から全く独立に通貨供給を増やすことはできないということである。この金融調節の性質を歪めて伝え,日銀が自由に通貨供給量を調節できるかのように宣伝し,「異次元緩和」に過度な幻想を持たせたことがリフレーション理論の役割だったと,私は考える。
残された論点であるが,リフレーション派が,自らの理論に整合した政策を行う可能性が二つだけある。ひとつは政府が発行する国債を,日銀が直接に引き受けることである。この場合,日銀が支払う代金は政府預金に振り込まれ,政府は必ずやそれを財政支出に用いるだろう。よって通貨供給量は増大する。もうひとつは,政府が不換紙幣を発行して財政支出に用いることである。これらの手段を使ったときのみ,日銀を従えた政府は,望むだけ通貨供給量を増やすことができる。ただし,減らすことは困難であろうことは,歴史が示している。
小論は,「異次元緩和」をめぐるリフレーション派の矛盾とその実際的役割を論じた。日銀による国債引き受けや政府紙幣発行の是非,さらに金融緩和・財政拡張に過度に依存すること自体の問題については,残された課題である。
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川端望のブログです。経済,経営,社会全般についてのノートを発信します。専攻は産業発展論。研究対象はアジアの鉄鋼業を中心としています。学部向け講義は日本経済を担当。唐突に,特撮映画・ドラマやアニメについて書くこともあります。
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古い本と現在の私
仙台駅前のE BeanS(=エンドーチェーン)で古本市があり,栃木県から「かぴぱら書房」という古書店が出店していた。ついうっかり,もうやるまいと思っていた「大学図書館にあるのだが手元に置きたいから買う」を3冊もやってしまった。
1冊目はひとつは私の師匠村岡俊三教授のそのまた師匠である岡橋保教授が1972年に出された本で,序文にはスミソニアン合意のことが書かれている。師匠の言うことも半分くらいしか理解できていない私には,岡橋教授の論文もかなり難しい。しかし,この方の「不換銀行券は信用貨幣であり,政府が中央銀行に国債を引き受けさせる時以外は貨幣流通の法則に従う」という理論を,師匠を通して知らなければ,私はリフレーション論・インフレターゲティング論を批判できなかった。
2冊目は,ついにお手紙を交わすだけでお会いすることのなかった技術論の心の師匠,中村静治教授の第1作。横浜高商を出て東京瓦斯電気工業に入社し,働きながら書いたものだそうだ。一方で,日本工業の立ち遅れを実証的に書きながら,1943年という戦時中のことで,時局迎合的な表現もある。大日本出版会から賞をもらえることになったと思ったら難波田春夫氏が「これはどうもアカの残党ではないか」と言ったとのことで取り消しになり,逆に特高に踏み込まれるかもしれないと蔵書を隠す騒ぎになったと,中村氏は述べられたことがある(「中村静治氏に聞くー工場・技術・経済学ー」『経済科学通信』第11号,1975年2月。なお,インタビュアーは森岡孝二氏である)。中村教授が後に著した『技術論論争史 上・下』(青木書店,1975年)に出会わなければ,私は産業論研究者として立ち上がれなかった。
3冊目は,これまでタイ鉄鋼業の史実の確認と,雁行形態論と鉄鋼業の関係に関わる論点の確認のために2回引用した,戸田弘元氏の1970年の著作。氏は日本鉄鋼連盟調査部のエコノミストで,後に常務理事にもなられた。アジア経済研究所のアジア鉄鋼業プロジェクトにもアドバイスをくださった。実は,氏はかなり気難しい方でもあるのだが,私は,氏が小学生の頃,仙台で父と間接的な知り合いだったこともあってか,おおむね勘弁してもらい,励ましてもらうことが多かった。一度だけ,ホテルニューオータニかどこかのバーで,2人でお話しさせていただいたことが,記憶に残っている。鉄鋼業に特化しつつ世界各国を見るという,私の無茶な研究スタイルの大先輩である。
どの本も,いまから見れば過去の存在なのだろうが,私にとっては現在の力だ。こうした先達のおかげで,私はかろうじて経済学者という商売をしていられる。
岡橋保(1972)『増訂 金投機の経済学』時潮社。
中村静治(1943)『日本工業論』ダイヤモンド社。
戸田弘元(1970)『アジアの鉄鋼業』アジア経済研究所。
1冊目はひとつは私の師匠村岡俊三教授のそのまた師匠である岡橋保教授が1972年に出された本で,序文にはスミソニアン合意のことが書かれている。師匠の言うことも半分くらいしか理解できていない私には,岡橋教授の論文もかなり難しい。しかし,この方の「不換銀行券は信用貨幣であり,政府が中央銀行に国債を引き受けさせる時以外は貨幣流通の法則に従う」という理論を,師匠を通して知らなければ,私はリフレーション論・インフレターゲティング論を批判できなかった。
2冊目は,ついにお手紙を交わすだけでお会いすることのなかった技術論の心の師匠,中村静治教授の第1作。横浜高商を出て東京瓦斯電気工業に入社し,働きながら書いたものだそうだ。一方で,日本工業の立ち遅れを実証的に書きながら,1943年という戦時中のことで,時局迎合的な表現もある。大日本出版会から賞をもらえることになったと思ったら難波田春夫氏が「これはどうもアカの残党ではないか」と言ったとのことで取り消しになり,逆に特高に踏み込まれるかもしれないと蔵書を隠す騒ぎになったと,中村氏は述べられたことがある(「中村静治氏に聞くー工場・技術・経済学ー」『経済科学通信』第11号,1975年2月。なお,インタビュアーは森岡孝二氏である)。中村教授が後に著した『技術論論争史 上・下』(青木書店,1975年)に出会わなければ,私は産業論研究者として立ち上がれなかった。
3冊目は,これまでタイ鉄鋼業の史実の確認と,雁行形態論と鉄鋼業の関係に関わる論点の確認のために2回引用した,戸田弘元氏の1970年の著作。氏は日本鉄鋼連盟調査部のエコノミストで,後に常務理事にもなられた。アジア経済研究所のアジア鉄鋼業プロジェクトにもアドバイスをくださった。実は,氏はかなり気難しい方でもあるのだが,私は,氏が小学生の頃,仙台で父と間接的な知り合いだったこともあってか,おおむね勘弁してもらい,励ましてもらうことが多かった。一度だけ,ホテルニューオータニかどこかのバーで,2人でお話しさせていただいたことが,記憶に残っている。鉄鋼業に特化しつつ世界各国を見るという,私の無茶な研究スタイルの大先輩である。
どの本も,いまから見れば過去の存在なのだろうが,私にとっては現在の力だ。こうした先達のおかげで,私はかろうじて経済学者という商売をしていられる。
岡橋保(1972)『増訂 金投機の経済学』時潮社。
中村静治(1943)『日本工業論』ダイヤモンド社。
戸田弘元(1970)『アジアの鉄鋼業』アジア経済研究所。
2019年2月22日金曜日
経団連の「就活ルール」廃止と「提案」をどう受け止めるか
以下は,『全大教新聞』第356号,全国大学高専教職員組合,2019年2月10日に寄稿したものです。
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2018年10月9日,日本経済団体連合会(経団連)は2021年度以降入社対象の「採用選考に関する指針」(いわゆる「就活ルール」)を廃止することを決定し,さらに12月4日に「今後の採用と大学教育に関する提案」(以下「提案」)を発表した。この経団連の動きに対して,ここでは2点述べたい。
「青田買い」激化のおそれとその弊害
第一に,「就活ルール」廃止は,大学教育と学生生活を今以上に攪乱するおそれがある。これまでも経団連の「就活ルール」が形骸化し,そこで定められた期日以前から採用活動が行われて来たことは公然の事実である。その廃止は現状を追認しつつ公認する作用があり,企業による学生の早期囲い込みはさらに激しくなる可能性がある。
より広く見ると,このような青田買いは,個別企業の短期的利益にはなっても,日本社会の人的資源涵養,有効活用にはならないという問題がある。日本の新規学卒採用は,在学中の卒業予定者だけを対象にして,職務と勤務地を明示せずに「入社」させるものであり,濱口桂一郎氏が定式化したメンバーシップ型雇用の入り口である(濱口『若者と労働』中公新書ラクレ,2013年他を参照)。選考時に学生に求められるのは,各社が各様に定める「潜在能力」であり,実際には「協調性」を含む「人格」が重視される。選考活動で学生は人格を問われ,落とされるたびに人格を否定されて衝撃を受ける。これまで,このような活動が企業にとって有効だったのは,「入社」させた従業員の多くを定年まで長期雇用し,忠誠心と技能の混合物を企業内訓練で育成することで,企業成長に貢献させることができたからである。ところが1990年代末から,経済停滞による雇用コストの相対的上昇,専門人材獲得の困難,女性の活躍の困難など様々な問題が噴出し,このような雇用管理の有効性が低下しているのである。
大学の立場からの改革提言を
第二に,「提案」は,企業の立場から日本の労働市場を改革しようとするものであることに注意しなければならない。「提案」は,「新卒⼀括採⽤のほか、卒業時期の異なる学⽣や未就職卒業者、留学経験者、外国⼈留学⽣などを対象に、夏季・秋季の採⽤・⼊社なども柔軟に⾏うべき」であり,「新卒・既卒や⽂系・理系の垣根を設けない、通年採⽤・通年⼊社等の多様な選択肢を設けていく必要がある」と述べている。そして,この構想の実現のために「⼤学と経済界が直接、継続的に対話する枠組み」の設定も提案している。新規学卒採用をやめはしないものの,その比重を減らしていこうという提案である。その分だけ,何らかの形で職務や勤務地を特定したジョブ型雇用と,新規卒業予定者に対象を限定しない採用を増やしていこうというのである。
経団連の目的は企業利益のための多様な人材,専門的人材の獲得であるが,その提案は低成長・人口減少・超高齢化という社会の変化に対応している面がある。この社会に残された労働力の給源は,再就職を目指す女性や高齢者である。現在の雇用慣行では,これらの人々は非正規としてしか採用されない傾向が強い。日本社会の持続可能性のためには,性別はもちろん,年齢や,初職,転職,再就職の区別のない雇用管理を拡大することが必要である。このことは社会的にも明らかであるが,企業の立場からも人的資源の幅の制約を突破する方策として唱えられているのである。
ジョブ型採用が拡大した場合の大学への影響は複雑である。新規学卒採用に特有の青田買いや,「就職浪人」が受ける極度に不利な扱い,就活での人格否定がなくなることは望ましい。他方,ジョブ型の採用においては,学生は全年齢層を含む競争に加わらねばならず,「潜在能力」でなく明確な職業的能力を問われることになるので,不利な立場に立たされるおそれがある。そのことは,大学に対する職業教育の要請に結びつく。
「提案」の実行に日本企業がどこまで踏み出すかは容易に予期しがたく,「就活ルール」廃止が企業の身勝手な青田買いの激化に終わる危険もある。大学はこのことに十分な警戒を払わねばならない。と同時に,大学と労働市場の結びつき方について,大学自身の立場から提言することが求められているのである。
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2018年10月9日,日本経済団体連合会(経団連)は2021年度以降入社対象の「採用選考に関する指針」(いわゆる「就活ルール」)を廃止することを決定し,さらに12月4日に「今後の採用と大学教育に関する提案」(以下「提案」)を発表した。この経団連の動きに対して,ここでは2点述べたい。
「青田買い」激化のおそれとその弊害
第一に,「就活ルール」廃止は,大学教育と学生生活を今以上に攪乱するおそれがある。これまでも経団連の「就活ルール」が形骸化し,そこで定められた期日以前から採用活動が行われて来たことは公然の事実である。その廃止は現状を追認しつつ公認する作用があり,企業による学生の早期囲い込みはさらに激しくなる可能性がある。
より広く見ると,このような青田買いは,個別企業の短期的利益にはなっても,日本社会の人的資源涵養,有効活用にはならないという問題がある。日本の新規学卒採用は,在学中の卒業予定者だけを対象にして,職務と勤務地を明示せずに「入社」させるものであり,濱口桂一郎氏が定式化したメンバーシップ型雇用の入り口である(濱口『若者と労働』中公新書ラクレ,2013年他を参照)。選考時に学生に求められるのは,各社が各様に定める「潜在能力」であり,実際には「協調性」を含む「人格」が重視される。選考活動で学生は人格を問われ,落とされるたびに人格を否定されて衝撃を受ける。これまで,このような活動が企業にとって有効だったのは,「入社」させた従業員の多くを定年まで長期雇用し,忠誠心と技能の混合物を企業内訓練で育成することで,企業成長に貢献させることができたからである。ところが1990年代末から,経済停滞による雇用コストの相対的上昇,専門人材獲得の困難,女性の活躍の困難など様々な問題が噴出し,このような雇用管理の有効性が低下しているのである。
大学の立場からの改革提言を
第二に,「提案」は,企業の立場から日本の労働市場を改革しようとするものであることに注意しなければならない。「提案」は,「新卒⼀括採⽤のほか、卒業時期の異なる学⽣や未就職卒業者、留学経験者、外国⼈留学⽣などを対象に、夏季・秋季の採⽤・⼊社なども柔軟に⾏うべき」であり,「新卒・既卒や⽂系・理系の垣根を設けない、通年採⽤・通年⼊社等の多様な選択肢を設けていく必要がある」と述べている。そして,この構想の実現のために「⼤学と経済界が直接、継続的に対話する枠組み」の設定も提案している。新規学卒採用をやめはしないものの,その比重を減らしていこうという提案である。その分だけ,何らかの形で職務や勤務地を特定したジョブ型雇用と,新規卒業予定者に対象を限定しない採用を増やしていこうというのである。
経団連の目的は企業利益のための多様な人材,専門的人材の獲得であるが,その提案は低成長・人口減少・超高齢化という社会の変化に対応している面がある。この社会に残された労働力の給源は,再就職を目指す女性や高齢者である。現在の雇用慣行では,これらの人々は非正規としてしか採用されない傾向が強い。日本社会の持続可能性のためには,性別はもちろん,年齢や,初職,転職,再就職の区別のない雇用管理を拡大することが必要である。このことは社会的にも明らかであるが,企業の立場からも人的資源の幅の制約を突破する方策として唱えられているのである。
ジョブ型採用が拡大した場合の大学への影響は複雑である。新規学卒採用に特有の青田買いや,「就職浪人」が受ける極度に不利な扱い,就活での人格否定がなくなることは望ましい。他方,ジョブ型の採用においては,学生は全年齢層を含む競争に加わらねばならず,「潜在能力」でなく明確な職業的能力を問われることになるので,不利な立場に立たされるおそれがある。そのことは,大学に対する職業教育の要請に結びつく。
「提案」の実行に日本企業がどこまで踏み出すかは容易に予期しがたく,「就活ルール」廃止が企業の身勝手な青田買いの激化に終わる危険もある。大学はこのことに十分な警戒を払わねばならない。と同時に,大学と労働市場の結びつき方について,大学自身の立場から提言することが求められているのである。
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「大学の学力問題と労働市場 (2017/7/4)」Ka-Bataアーカイブ。2019年2月21日木曜日
なぜ韓国の文国会議長は日本政府による「法的な謝罪」とは別の謝罪を求めるのか
慰安婦問題についての韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長発言が物議をかもしている。文議長の発言の最大の特徴は,日本政府が謝罪したことを認めたうえで,なお首相又は天皇が謝るのが望ましいとしていることだ。私は,この思考に,慰安婦問題をめぐる日韓のすれ違いを理解する,思想上の鍵の一つがあるように思う。
まず文議長の主張を確認しよう。文議長は,首相や天皇に謝罪を求める発言をした際,日韓合意について尋ねられ,「それは法的な謝罪だ。国家間で謝罪したりされたりすることはあるが、問題は被害者がいるということだ」と発言している。つまり,法的な謝罪は行われたと認めたうえで,なおかつ国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。
実は,この文議長の発言は,慰安婦問題をめぐる混乱の中では,事実を踏まえた方だともいえる。韓国内では日本の政府代表やそれに類する立場の人が何度も謝罪していること自体が,よく認識されていないからだ。世宗大学の朴裕河(パク・ユハ)教授は2月10日に自身のFacebookに韓国語で投稿し,日本政府やアジア女性基金による従軍慰安婦問題や植民地支配に対する11回の謝罪を紹介した。うち従軍慰安婦に関する謝罪は,1992年の加藤官房長官,1993年河野官房長官,1995年五十嵐官房長官,1995年村山首相,1996年原アジア女性基金理事長,1997年橋本首相,1998年原アジア女性基金理事長,2015年岸田外相の日韓合意発表,同じくその際の安倍首相発言の9回だ。いちばん最近の安倍首相の発言(岸田外相が紹介)は,「日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ。
朴教授は,投稿の意図を「これだけしたのでもう謝罪が必要ないという話ではない。日本が長い時間をかけてきた心と"正しく"向き合うことが必要だということだ」と書かれている(Google翻訳と報道に頼っているのでニュアンスが違っていたらご指摘を)。しかし,朴教授がわざわざこの投稿をしたというのは,謝罪の事実そのものが韓国内でよく認識されていないからだ。これと比べると,文議長は何はともあれ「法的な謝罪」をしたことは認めている。その上で,なお謝るべきだというのだ。もう少し具体的に言うと,国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。
もちろん,ここで天皇を持ち出したのは明らかにお門違いだ。天皇は政治的行為を禁止されているから適切ではない。その上,親に戦争責任があることと関連付けて息子が謝るのがよいという古臭い血統主義は論外だ。しかし,いま問題にしたいのはそこではない。法的な謝罪をしてもなお,国家の代表が被害者に謝罪せよという文議長の考えに絞りたい。
想像してみよう。天皇が慰安婦に謝罪すれば,文議長が言うところの解決は訪れるだろうか。私はそうは思わない。それは,謝罪を受けた元慰安婦の方々が,許す気持ちになるかどうか,それをどう表現するかにかかっているだろう。被害者の許しが解決の条件になることは,明らかだ。文議長の「被害者がいる」というのは,「被害者が許すまで謝罪するべきだ」という意味なのだ。
私は,被害者と加害者の許しをこのようにとらえることは,個人と個人の関係ではあり得ると思う。しかし,これを政治として,個人と政府を当事者とする問題において行おうとするのが,文議長の論理だ。そして,このような論理は,彼一人のものではなく,慰安婦問題をめぐる韓国内の一定の立場が,一定の経過に反応して生じたもののように思う。
さかのぼってみよう。1990年代に慰安婦問題をめぐって日韓で論争が行われていた際の争点は,日本政府が公式に責任を認めて罪を償うことだった。日本政府は,謝罪の意を表明したうえで,請求権協定の主旨から言って国家による賠償ができないとした。しかし,村山内閣とその周囲の人々は,それでも補償に類したことをすべきとして,アジア女性基金による事業を実行した。それでも韓国の慰安婦支援者たちからの批判は止まなかった。その時の主旨は,「国家による正式な賠償ではない。これでは謝罪したことにならない」だった。
2015年の日韓合意においては,日本政府が改めて謝罪し,改めて元慰安婦への償いのための基金・財団を設立した。それが日韓の政府間合意であったことは明らかであり,否定のしようがない。そして,元慰安婦47人中,34人は支援金を受け取ったと,『朝日新聞』デジタル1月28日付けは報道している。元慰安婦の方々から,この事業が総否定されているわけではないのだ。
しかし,文在寅(ムン・ジェイン)政権は日韓合意では解決しないとし,「和解・癒し財団」を解散すると決めてしまった。そして,日本にさらなる行動を求めるのだが,いったいなにを求めているのかは明確にしない。何かは求めているのだが,何なのかははっきりと言わない。そうした中で,何を求めるかを粗雑な形で表現してしまったのが,今回の文国会議長発言だと思う。
文在寅大統領が,日本に何を求めるかをはっきりさせないのは,もちろん,政治力学上の選択でもあるだろう。しかし,そうならざるを得ない論理的理由もあるのだと私は思う。それは簡単で,日本政府が謝罪し,しかもアジア女性基金の時とは異なり,政府の正式な予算,日本国民の税金から基金を拠出したからだ。国と国との関係において,片方が正式に謝罪し,補償も支払った。そうすることに,前政権は合意した。これに対して以前の支援団体のように「正式な賠償ではないから,謝罪したことにならない」というのは,さすがに無理があるからだ。
だが,それでも文在寅政権もその支持者も,文国会議長も納得せず,日韓合意の意義を否定する。支援金を受け取って日本政府の誠意を認めている元慰安婦もいるという事実を無視していることは問題だ。しかし,元慰安婦の少なくとも一部に,いまなお日本政府の謝罪の仕方を受け入れられない人がいることも事実だろう。文議長の発言や文在寅政権の態度が本心からだとすれば,つまりは,被害者の苦しみが十分癒されたとは考えていないということだろう。
繰り返すが,このような納得できなさ,加害者の謝罪の仕方が被害者にとって納得できないことは,個人と個人の関係においては,あり得る。被害者が納得するまで加害者にもっともっと謝罪しなおさせねばならない,という倫理・道徳も,個人間ではあり得る。それほどまで苦しみ,傷つくことは,ありうるからだ。
しかし,文議長は,この倫理を外交に適用し,個人と国家の関係に適用し,国家の行動原理にしようとしている。そして,文議長だけではない。文大統領の,日本に具体的要求はしないが善処は求めるという姿勢の背後には,少なくともこのような倫理・道徳による動機づけもあるのだと,私は思う(何度も言うが,政治の世界のことであり,これ「だけ」だとは全く思わない)。
「政府としての謝罪や補償にかかわらず,慰安婦という被害者個人が許しを表現するまで,日本国家の代表が謝罪し続けるべき」という原理で,現代の,韓国と日本の国家を動かすことは可能であるのか。そして,妥当であるのか。その原理を作動させた場合に,日韓関係の将来はどうなるのか。その原理が政治の様々な場面で用いられるたら,何が起きるのか。
私は,日韓合意後の慰安婦問題をめぐる,韓国からの日本批判を考える上で,一つの論点はここにあると思う。
なお,一点だけ,ありうる批判にあらかじめ回答しておく。「慰安婦問題は人権問題だ」というものだ。私も人権問題だと思う。しかし,人権問題であることと,「被害者個人が許すまで,加害国家は謝罪し続けるべき」という原理を適用することは,必然的には結び付かない。それは,個人,倫理・道徳,国家の関係についての特定の見地によるものなのだ。どこでも当たり前のように妥当するものではない。この,特定の見地について,よく考えてみなければならない,というのが私の意見だ。
朴裕河(パク・ユハ)氏Facebook投稿。
「(世界発2019)慰安婦財団、残したものは 支援金、元慰安婦34人受け取り」『朝日新聞デジタル』2019年1月28日。
「盗人たけだけしい」韓国議長のヒートアップ 時系列でたどると見えるのは...J-CASTニュース,2019年2月18日。
まず文議長の主張を確認しよう。文議長は,首相や天皇に謝罪を求める発言をした際,日韓合意について尋ねられ,「それは法的な謝罪だ。国家間で謝罪したりされたりすることはあるが、問題は被害者がいるということだ」と発言している。つまり,法的な謝罪は行われたと認めたうえで,なおかつ国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。
実は,この文議長の発言は,慰安婦問題をめぐる混乱の中では,事実を踏まえた方だともいえる。韓国内では日本の政府代表やそれに類する立場の人が何度も謝罪していること自体が,よく認識されていないからだ。世宗大学の朴裕河(パク・ユハ)教授は2月10日に自身のFacebookに韓国語で投稿し,日本政府やアジア女性基金による従軍慰安婦問題や植民地支配に対する11回の謝罪を紹介した。うち従軍慰安婦に関する謝罪は,1992年の加藤官房長官,1993年河野官房長官,1995年五十嵐官房長官,1995年村山首相,1996年原アジア女性基金理事長,1997年橋本首相,1998年原アジア女性基金理事長,2015年岸田外相の日韓合意発表,同じくその際の安倍首相発言の9回だ。いちばん最近の安倍首相の発言(岸田外相が紹介)は,「日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ。
朴教授は,投稿の意図を「これだけしたのでもう謝罪が必要ないという話ではない。日本が長い時間をかけてきた心と"正しく"向き合うことが必要だということだ」と書かれている(Google翻訳と報道に頼っているのでニュアンスが違っていたらご指摘を)。しかし,朴教授がわざわざこの投稿をしたというのは,謝罪の事実そのものが韓国内でよく認識されていないからだ。これと比べると,文議長は何はともあれ「法的な謝罪」をしたことは認めている。その上で,なお謝るべきだというのだ。もう少し具体的に言うと,国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。
もちろん,ここで天皇を持ち出したのは明らかにお門違いだ。天皇は政治的行為を禁止されているから適切ではない。その上,親に戦争責任があることと関連付けて息子が謝るのがよいという古臭い血統主義は論外だ。しかし,いま問題にしたいのはそこではない。法的な謝罪をしてもなお,国家の代表が被害者に謝罪せよという文議長の考えに絞りたい。
想像してみよう。天皇が慰安婦に謝罪すれば,文議長が言うところの解決は訪れるだろうか。私はそうは思わない。それは,謝罪を受けた元慰安婦の方々が,許す気持ちになるかどうか,それをどう表現するかにかかっているだろう。被害者の許しが解決の条件になることは,明らかだ。文議長の「被害者がいる」というのは,「被害者が許すまで謝罪するべきだ」という意味なのだ。
私は,被害者と加害者の許しをこのようにとらえることは,個人と個人の関係ではあり得ると思う。しかし,これを政治として,個人と政府を当事者とする問題において行おうとするのが,文議長の論理だ。そして,このような論理は,彼一人のものではなく,慰安婦問題をめぐる韓国内の一定の立場が,一定の経過に反応して生じたもののように思う。
さかのぼってみよう。1990年代に慰安婦問題をめぐって日韓で論争が行われていた際の争点は,日本政府が公式に責任を認めて罪を償うことだった。日本政府は,謝罪の意を表明したうえで,請求権協定の主旨から言って国家による賠償ができないとした。しかし,村山内閣とその周囲の人々は,それでも補償に類したことをすべきとして,アジア女性基金による事業を実行した。それでも韓国の慰安婦支援者たちからの批判は止まなかった。その時の主旨は,「国家による正式な賠償ではない。これでは謝罪したことにならない」だった。
2015年の日韓合意においては,日本政府が改めて謝罪し,改めて元慰安婦への償いのための基金・財団を設立した。それが日韓の政府間合意であったことは明らかであり,否定のしようがない。そして,元慰安婦47人中,34人は支援金を受け取ったと,『朝日新聞』デジタル1月28日付けは報道している。元慰安婦の方々から,この事業が総否定されているわけではないのだ。
しかし,文在寅(ムン・ジェイン)政権は日韓合意では解決しないとし,「和解・癒し財団」を解散すると決めてしまった。そして,日本にさらなる行動を求めるのだが,いったいなにを求めているのかは明確にしない。何かは求めているのだが,何なのかははっきりと言わない。そうした中で,何を求めるかを粗雑な形で表現してしまったのが,今回の文国会議長発言だと思う。
文在寅大統領が,日本に何を求めるかをはっきりさせないのは,もちろん,政治力学上の選択でもあるだろう。しかし,そうならざるを得ない論理的理由もあるのだと私は思う。それは簡単で,日本政府が謝罪し,しかもアジア女性基金の時とは異なり,政府の正式な予算,日本国民の税金から基金を拠出したからだ。国と国との関係において,片方が正式に謝罪し,補償も支払った。そうすることに,前政権は合意した。これに対して以前の支援団体のように「正式な賠償ではないから,謝罪したことにならない」というのは,さすがに無理があるからだ。
だが,それでも文在寅政権もその支持者も,文国会議長も納得せず,日韓合意の意義を否定する。支援金を受け取って日本政府の誠意を認めている元慰安婦もいるという事実を無視していることは問題だ。しかし,元慰安婦の少なくとも一部に,いまなお日本政府の謝罪の仕方を受け入れられない人がいることも事実だろう。文議長の発言や文在寅政権の態度が本心からだとすれば,つまりは,被害者の苦しみが十分癒されたとは考えていないということだろう。
繰り返すが,このような納得できなさ,加害者の謝罪の仕方が被害者にとって納得できないことは,個人と個人の関係においては,あり得る。被害者が納得するまで加害者にもっともっと謝罪しなおさせねばならない,という倫理・道徳も,個人間ではあり得る。それほどまで苦しみ,傷つくことは,ありうるからだ。
しかし,文議長は,この倫理を外交に適用し,個人と国家の関係に適用し,国家の行動原理にしようとしている。そして,文議長だけではない。文大統領の,日本に具体的要求はしないが善処は求めるという姿勢の背後には,少なくともこのような倫理・道徳による動機づけもあるのだと,私は思う(何度も言うが,政治の世界のことであり,これ「だけ」だとは全く思わない)。
「政府としての謝罪や補償にかかわらず,慰安婦という被害者個人が許しを表現するまで,日本国家の代表が謝罪し続けるべき」という原理で,現代の,韓国と日本の国家を動かすことは可能であるのか。そして,妥当であるのか。その原理を作動させた場合に,日韓関係の将来はどうなるのか。その原理が政治の様々な場面で用いられるたら,何が起きるのか。
私は,日韓合意後の慰安婦問題をめぐる,韓国からの日本批判を考える上で,一つの論点はここにあると思う。
なお,一点だけ,ありうる批判にあらかじめ回答しておく。「慰安婦問題は人権問題だ」というものだ。私も人権問題だと思う。しかし,人権問題であることと,「被害者個人が許すまで,加害国家は謝罪し続けるべき」という原理を適用することは,必然的には結び付かない。それは,個人,倫理・道徳,国家の関係についての特定の見地によるものなのだ。どこでも当たり前のように妥当するものではない。この,特定の見地について,よく考えてみなければならない,というのが私の意見だ。
朴裕河(パク・ユハ)氏Facebook投稿。
「(世界発2019)慰安婦財団、残したものは 支援金、元慰安婦34人受け取り」『朝日新聞デジタル』2019年1月28日。
「盗人たけだけしい」韓国議長のヒートアップ 時系列でたどると見えるのは...J-CASTニュース,2019年2月18日。
2019年2月17日日曜日
森永卓郎さんの記事と対話して,新しい構造改革の必要性を考える
森永卓郎さんは,「憲法改正も,原発政策も,働き方改革も,すべて反対だ。ただ一点,マクロ経済政策,すなわち財政政策と金融政策に関しては,安倍政権のやり方は,正しいと考えている」方だ。2000年代前半には「いまデフレなんだからインフレにすればいいんです」とリフレーション政策の正当性を強調しておられた。
しかし,いま森永さんは,平成時代における日本の「転落」と「格差」のとてつもなさを,危機感をもって訴えている。それならば,「転落」と「格差」が,「異次元緩和」を政治的に導入した安倍内閣時代にも止まっていないのはどうしてなのかを考えてみる必要があるのではないか。
安倍内閣は,確かに日銀と協定を結んで金融は緩和したし,財政も引き締めてはいない。私は,森永さんほど安倍政権の政策を支持できないが,これらは引き締め政策よりはましだった,とは考えている。
しかし,だから,それで十分というものではない。それどころではない。
安倍・黒田路線では,株高と円安にのみ偏った反応が現れた。その恩恵にあずかったのは,まず外国投資家(日本人が預けた資産を運用している場合もある)であり,続いて輸出企業であった。企業は賃上げをせず,正規雇用ではなく非正規雇用を拡大し,蓄積した純資本を設備ではなく現金積み上げや証券に投資した。雇用は拡大したが消費の拡大は弱弱しかった。6年続けてもこうなのだから,何かがおかしいと考えるべきだ。
このようにしか金融・財政拡張の効果が出てこないのは,日本経済の構造に問題があると考えるべきだ。ただしそれは,小泉内閣が主張したような,企業が利益を上げることを妨げる構造ではない。供給サイドにおいては,新市場拡大に挑むようなベンチャー,中堅企業が生まれにくい構造だ。需要サイドにおいては,賃上げが鈍いために多数の個人のふところが温まらず,社会保障と雇用システムが不安定なために,消費を増やす気持ちになれない構造だ。
どんな構造もそうだが,この構造も様々な既得権益を守っているが故に,変わりにくい。庶民の中にも既得権益がないとは言わない。しかし,最も深刻なのは,既存大企業の利益,富裕層の資産蓄積という既得権益だと思う。そこにメスを入れようとしないバイアスを,自公政権が持っている問題だと,私は思う。
現在もなお,金融,財政を引き締めるべきではない。まして,消費税増税で景気を冷え込ませるべきでもない。私は,そこまでは森永さんやリフレ派の人と同意見だ。しかし,引き締めなければそれでよいというものでもないし,さらに金融,財政を拡張すればよいというものでも,まったくない。そこが,リフレ派の人とは全く異なる。日本経済は,小泉内閣とは異なる意味での構造改革を必要としている。新市場向け投資がやりやすくなり,多数の個人のふところが温まりやすくなり,しかも消費しやすくなるような構造への改革だ。
森永さんも,格差を意識しているならば,いまでは,財政・金融の拡張だけでよいとは思っていないのではないか。
森永卓郎さん「とてつもない大転落」『平成 時代への道標インタビュー』NHK NEWS WEB。日付不詳。
森永卓郎「財務省にだまされてはいけない」『森永卓郎の戦争と平和講座』マガジン9,2018年5月16日。
<関連投稿>
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日。
ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)
「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
賃上げの根拠は「内部留保」か「付加価値の分配率」と「手元現預金」か (2018/7/1),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。
内部留保研究者の主張を正確に理解すべきことについて:内部留保増分の問題ある使途が賃上げを主張する根拠 (2018/7/1),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。
内部留保への課税論には根拠があることについて (2018/7/8),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。
しかし,いま森永さんは,平成時代における日本の「転落」と「格差」のとてつもなさを,危機感をもって訴えている。それならば,「転落」と「格差」が,「異次元緩和」を政治的に導入した安倍内閣時代にも止まっていないのはどうしてなのかを考えてみる必要があるのではないか。
安倍内閣は,確かに日銀と協定を結んで金融は緩和したし,財政も引き締めてはいない。私は,森永さんほど安倍政権の政策を支持できないが,これらは引き締め政策よりはましだった,とは考えている。
しかし,だから,それで十分というものではない。それどころではない。
安倍・黒田路線では,株高と円安にのみ偏った反応が現れた。その恩恵にあずかったのは,まず外国投資家(日本人が預けた資産を運用している場合もある)であり,続いて輸出企業であった。企業は賃上げをせず,正規雇用ではなく非正規雇用を拡大し,蓄積した純資本を設備ではなく現金積み上げや証券に投資した。雇用は拡大したが消費の拡大は弱弱しかった。6年続けてもこうなのだから,何かがおかしいと考えるべきだ。
このようにしか金融・財政拡張の効果が出てこないのは,日本経済の構造に問題があると考えるべきだ。ただしそれは,小泉内閣が主張したような,企業が利益を上げることを妨げる構造ではない。供給サイドにおいては,新市場拡大に挑むようなベンチャー,中堅企業が生まれにくい構造だ。需要サイドにおいては,賃上げが鈍いために多数の個人のふところが温まらず,社会保障と雇用システムが不安定なために,消費を増やす気持ちになれない構造だ。
どんな構造もそうだが,この構造も様々な既得権益を守っているが故に,変わりにくい。庶民の中にも既得権益がないとは言わない。しかし,最も深刻なのは,既存大企業の利益,富裕層の資産蓄積という既得権益だと思う。そこにメスを入れようとしないバイアスを,自公政権が持っている問題だと,私は思う。
現在もなお,金融,財政を引き締めるべきではない。まして,消費税増税で景気を冷え込ませるべきでもない。私は,そこまでは森永さんやリフレ派の人と同意見だ。しかし,引き締めなければそれでよいというものでもないし,さらに金融,財政を拡張すればよいというものでも,まったくない。そこが,リフレ派の人とは全く異なる。日本経済は,小泉内閣とは異なる意味での構造改革を必要としている。新市場向け投資がやりやすくなり,多数の個人のふところが温まりやすくなり,しかも消費しやすくなるような構造への改革だ。
森永さんも,格差を意識しているならば,いまでは,財政・金融の拡張だけでよいとは思っていないのではないか。
森永卓郎さん「とてつもない大転落」『平成 時代への道標インタビュー』NHK NEWS WEB。日付不詳。
森永卓郎「財務省にだまされてはいけない」『森永卓郎の戦争と平和講座』マガジン9,2018年5月16日。
<関連投稿>
「アベノミクスのどこを変えるべきか? 野口旭『アベノミクスが変えた日本経済』(ちくま新書,2018年)に寄せて (2018/5/13)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日。
ブレイディみかこ・松尾匡・北田暁大『そろそろ左派は<経済>を語ろう』亜紀書房,2018年によせて (2018/6/21)
「日銀による金融政策だけで物価を上げようとすることの限界について(2018/6/16)」Ka-Bataアーカイブ。
賃上げの根拠は「内部留保」か「付加価値の分配率」と「手元現預金」か (2018/7/1),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。
内部留保研究者の主張を正確に理解すべきことについて:内部留保増分の問題ある使途が賃上げを主張する根拠 (2018/7/1),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。
内部留保への課税論には根拠があることについて (2018/7/8),Ka-Bataアーカイブ,2018年10月26日。
2019年2月14日木曜日
合理的で厳しいCO2規制がグリーン製鉄法の開発を促進する
スウェーデンで開発中のグリーン製鉄法HYBRITに関する世界鉄鋼協会の記事。HYBRITは鉄鋼メーカーSSAB,鉄鉱石採掘企業LKAB,電力会社Vattenfallの合弁企業だ。この製鉄法の目的はCO2排出削減であり,その手段は鉄鉱石をコークスや石炭ではなく水素で還元すること。
日本で開発中のCOURSE50も水素還元を用いるところは同じだが,この記事から読み取れる限り,HYBRITにはCOURSE50と異なる点が二つある。1)直接還元法であること,2)水力で生まれた電気による電解法での水素生産を含んでいることだ。どちらも2030年代の実用化が期待されている。
ここで経済学者として注目したいのは,次の一節だ。
「当初の研究では,HYBRITの生産コストは伝統的鉄鋼生産プロセスより20-30%高いと見ているが,このギャップは,EUの排出量取引制度によるCO2排出コストの上昇の余地や,期待される再生可能エネルギーのコスト低減によって,時とともに小さくなると期待される」。
伝統的製鉄法は,現在十分に考慮されていないCO2排出コストをコストに参入せざるを得なくなれば,決して安くない。CO2排出上限規制をクリアーできなければ排出権を購入せざるを得なくなり,コストが上昇するだろうと見ているわけだ(購入できなければ操業を続けられない)。
合理的に計算され,かつ厳格な上限規制を伴うCO2排出規制があってこそ,グリーン製鉄法は有利になる。そういうCO2排出規制がなければ確かに伝統的製鉄法が有利だろうが,地球はさらなる気候変動に見舞われる。
なすべきことは,CO2排出規制を回避することか,それとも合理的なCO2排出規制を設計して実行することか。コストが高いと言って新製鉄法の開発を後回しにすることか,それともCO2排出コストを含めれば低コストとなる製鉄法を開発し,選択することか。パリ協定が突き当たっている困難にかかわらず,これは,現代世界鉄鋼業の基本問題の一つであり続けている。
Rachel Mostyn, Revolution at the heart of green steelmaking, World Steel Association, January 2019.
日本で開発中のCOURSE50も水素還元を用いるところは同じだが,この記事から読み取れる限り,HYBRITにはCOURSE50と異なる点が二つある。1)直接還元法であること,2)水力で生まれた電気による電解法での水素生産を含んでいることだ。どちらも2030年代の実用化が期待されている。
ここで経済学者として注目したいのは,次の一節だ。
「当初の研究では,HYBRITの生産コストは伝統的鉄鋼生産プロセスより20-30%高いと見ているが,このギャップは,EUの排出量取引制度によるCO2排出コストの上昇の余地や,期待される再生可能エネルギーのコスト低減によって,時とともに小さくなると期待される」。
伝統的製鉄法は,現在十分に考慮されていないCO2排出コストをコストに参入せざるを得なくなれば,決して安くない。CO2排出上限規制をクリアーできなければ排出権を購入せざるを得なくなり,コストが上昇するだろうと見ているわけだ(購入できなければ操業を続けられない)。
合理的に計算され,かつ厳格な上限規制を伴うCO2排出規制があってこそ,グリーン製鉄法は有利になる。そういうCO2排出規制がなければ確かに伝統的製鉄法が有利だろうが,地球はさらなる気候変動に見舞われる。
なすべきことは,CO2排出規制を回避することか,それとも合理的なCO2排出規制を設計して実行することか。コストが高いと言って新製鉄法の開発を後回しにすることか,それともCO2排出コストを含めれば低コストとなる製鉄法を開発し,選択することか。パリ協定が突き当たっている困難にかかわらず,これは,現代世界鉄鋼業の基本問題の一つであり続けている。
Rachel Mostyn, Revolution at the heart of green steelmaking, World Steel Association, January 2019.
2019年2月13日水曜日
細野祐二「日産ゴーン事件の研究」『世界』2019年3月号を読む
ゴーン事件について,『法廷会計学vs粉飾決算』や『粉飾決算vs会計基準』の著者,細野祐二氏の意見を聞きたかったので,ちょうどよかった。ゴーン元会長の容疑についての,細野氏の意見は以下の通り。詳細な根拠や,今後の見通しについては,論文実物にあたられたい。
*先送り報酬50億円は,発生主義の原則に基づく客観評価を行うと,有価証券報告書において開示すべき役員報酬には該当しない。
*40億円のSAR報酬は支払いの蓋然性がなく,有価証券報告書において開示すべき役員報酬には該当しない。
*オランダの子会社ジーア社から得た役員報酬は,連結役員報酬に該当しない。
*ゴーン元会長が日産自動車から得ていた高級住宅,家族旅行の費用等は巨額だが,有価証券報告書虚偽記載罪と何の関係もない。うち,姉や知人に対する数千万円の報酬は,日産自動車に対して役務提供がないまま受領している場合には問題になるが,報酬受領者の弁明を聞くことなく,一方的に報道しているのは適切でない。
*12月10日にゴーン元会長を2016年3月期から2018年3月期までの有価証券報告書虚偽記載の容疑で再逮捕したが,この3事業年度の取締役社長は西川廣人社長である。西川社長を逮捕せずゴーン元会長だけ逮捕するのはおかしい。
*個人資産管理会社が新生銀行と契約していた通貨スワップ契約を日産自動車に付け替えたことが特別背任とされる件は,日産自動車の決算で評価損は認識されてもおらず,成り立たない。
*「信用状」を新生銀行に差し入れたサウジアラビアの実業家が経営する会社の口座に販売促進費を振り込んだことが特別背任にあたるとされる件は,この実業家が,実際に日産のために働く会社の会長であるために特別背任は成り立たない。
私は,ゴーン氏に特定したことではないが,高額報酬を批判する投稿を何度かしてきた。しかし,ゴーン氏の行為が犯罪に当たるのかどうかは別問題だ。本件は引き続き注視したい。
細野祐二(2019)「日産ゴーン事件の研究」『世界』2019年3月号,岩波書店,58-72。
*先送り報酬50億円は,発生主義の原則に基づく客観評価を行うと,有価証券報告書において開示すべき役員報酬には該当しない。
*40億円のSAR報酬は支払いの蓋然性がなく,有価証券報告書において開示すべき役員報酬には該当しない。
*オランダの子会社ジーア社から得た役員報酬は,連結役員報酬に該当しない。
*ゴーン元会長が日産自動車から得ていた高級住宅,家族旅行の費用等は巨額だが,有価証券報告書虚偽記載罪と何の関係もない。うち,姉や知人に対する数千万円の報酬は,日産自動車に対して役務提供がないまま受領している場合には問題になるが,報酬受領者の弁明を聞くことなく,一方的に報道しているのは適切でない。
*12月10日にゴーン元会長を2016年3月期から2018年3月期までの有価証券報告書虚偽記載の容疑で再逮捕したが,この3事業年度の取締役社長は西川廣人社長である。西川社長を逮捕せずゴーン元会長だけ逮捕するのはおかしい。
*個人資産管理会社が新生銀行と契約していた通貨スワップ契約を日産自動車に付け替えたことが特別背任とされる件は,日産自動車の決算で評価損は認識されてもおらず,成り立たない。
*「信用状」を新生銀行に差し入れたサウジアラビアの実業家が経営する会社の口座に販売促進費を振り込んだことが特別背任にあたるとされる件は,この実業家が,実際に日産のために働く会社の会長であるために特別背任は成り立たない。
私は,ゴーン氏に特定したことではないが,高額報酬を批判する投稿を何度かしてきた。しかし,ゴーン氏の行為が犯罪に当たるのかどうかは別問題だ。本件は引き続き注視したい。
細野祐二(2019)「日産ゴーン事件の研究」『世界』2019年3月号,岩波書店,58-72。
2019年2月11日月曜日
天牛堺書店のこと
ちょっと前のニュースだが,堺を中心に出店していた新歓・古書兼用の天牛堺書店が1月28日に倒産した。1992年から97年まで,天牛堺書店三国ヶ丘店には頻繁に,とくに河内長野市に住んでいた2年間は毎日のように通った。大阪市立大学のある杉本町から阪和線で3駅南下して三国ヶ丘駅で降り,そこから南海高野線で千代田駅まで乗って帰宅していたのだが,乗り換えの際に駅改札側の古本ワゴンを眺めるのが日課だった。そしてついつい買ってしまい,そばにあったミスタードーナツか,電車の中で読みふけるのだった(そう言えば,あの頃の方が酒量は少なかった)。その頃,ホームではルーズソックス女子高生が,ポケベルに文字を送信するために公衆電話のボタンを乱打していた。
おりしも日本経済が低成長期に突入した頃であり,どこの図書室から放出されたのかという古書が山のように,廉価でたたき売られていたのをよく覚えている。例えば,社史である。新日鐵・八幡製鐵・富士製鐵の社史『炎とともに』は三国ヶ丘店で全3冊を3000円未満で買ったはずだ。『八幡製鉄所八十年史』全4冊はイトーヨーカドー堺店で,これも3000円未満で買った。他にもたくさん,たいていは1冊1000円未満で買ったはずだが,いまとなってはどれだったか思い出せない。また,産業論・企業論・経営学の本や調査報告書,社史,伝記,ビジネス書は全般的にたいへん多かった。
実は,私の故郷,仙台の古書店は,土地柄なのか店主の方針なのか,人文科学の本は多いのに経済・経営学の,とくに実証系の本は少なく,あったとしても農業が多くて鉱工業と商業が少ないという,妙な偏りを持っていたので,大阪に就職して天牛堺書店の品ぞろえに狂喜乱舞していたのを覚えている。
「大阪)天牛堺書店が破産 府内に12店舗展開」朝日新聞DEGITAL,2019年1月30日。
おりしも日本経済が低成長期に突入した頃であり,どこの図書室から放出されたのかという古書が山のように,廉価でたたき売られていたのをよく覚えている。例えば,社史である。新日鐵・八幡製鐵・富士製鐵の社史『炎とともに』は三国ヶ丘店で全3冊を3000円未満で買ったはずだ。『八幡製鉄所八十年史』全4冊はイトーヨーカドー堺店で,これも3000円未満で買った。他にもたくさん,たいていは1冊1000円未満で買ったはずだが,いまとなってはどれだったか思い出せない。また,産業論・企業論・経営学の本や調査報告書,社史,伝記,ビジネス書は全般的にたいへん多かった。
実は,私の故郷,仙台の古書店は,土地柄なのか店主の方針なのか,人文科学の本は多いのに経済・経営学の,とくに実証系の本は少なく,あったとしても農業が多くて鉱工業と商業が少ないという,妙な偏りを持っていたので,大阪に就職して天牛堺書店の品ぞろえに狂喜乱舞していたのを覚えている。
「大阪)天牛堺書店が破産 府内に12店舗展開」朝日新聞DEGITAL,2019年1月30日。
2019年2月8日金曜日
特別監察委員会報告書は破棄ではなく上書きすべきだ
毎月勤労統計不正問題。私の意見では,野党が特別監察委員会の報告書の廃棄をこの時点で要求するのは不適切である。ブログで縷々述べたように,この報告書は調査体制に中立性の問題があり,内容も甚だ不徹底であるが,それでも,批判的によく読めば,厚労省による隠ぺいも証明できるし,不作為により問題を隠す体質もわかるし,2004年より前から不正が行われていたこともわかる。
現時点で廃棄させると,監察委員会報告書が認定した事実まで,まだまったくわかっていないことになり,政府もその立場で答弁できてしまうから,かえって真相解明の妨げになる。
大事なのは再調査させることであり,再調査の上で元の特別監察委員会報告書に誤りが証明されたら,再調査結果で上書きすればよいのである。
「野党、統計調査報告書の撤回要求」Reuters,2019年2月6日。
https://jp.reuters.com/article/idJP2019020601002053
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(1)不作為の問題」Ka-Bataブログ,2019年1月26日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(2)中立性の問題」Ka-Bataブログ,2019年1月27日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(3)誰が不正を指示したのか」Ka-Bataブログ,2019年1月28日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(4)未復元の事実,復元を開始した事実を隠蔽したのではないか」Ka-Bataブログ,2019年1月29日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(5)2004年調査よりも前から不正が始まっていた」Ka-Bataブログ,2019年1月30日。
現時点で廃棄させると,監察委員会報告書が認定した事実まで,まだまったくわかっていないことになり,政府もその立場で答弁できてしまうから,かえって真相解明の妨げになる。
大事なのは再調査させることであり,再調査の上で元の特別監察委員会報告書に誤りが証明されたら,再調査結果で上書きすればよいのである。
「野党、統計調査報告書の撤回要求」Reuters,2019年2月6日。
https://jp.reuters.com/article/idJP2019020601002053
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(1)不作為の問題」Ka-Bataブログ,2019年1月26日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(2)中立性の問題」Ka-Bataブログ,2019年1月27日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(3)誰が不正を指示したのか」Ka-Bataブログ,2019年1月28日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(4)未復元の事実,復元を開始した事実を隠蔽したのではないか」Ka-Bataブログ,2019年1月29日。
「毎月勤労統計調査の不正に関する監察委員会報告書を読む(5)2004年調査よりも前から不正が始まっていた」Ka-Bataブログ,2019年1月30日。
2019年2月5日火曜日
公的資金による2頭のクジラが株価を支えきれなくなる時
GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の2018年度10-12月期の運用実勢が14兆8039億円の赤字で,四半期では過去最大出会ったことが話題になっている。ここで考えねばならないのは,2014年にポートフォリオを見直して,内外株式の比率を高めたことだ。
一方で超低金利のもと(それ自体,政府・日銀が誘導しているのではあるが),年金資産の運用を債券だけで行っていては運用益が稼げないことは確かである。だから,株式の資産組み入れ比率をある程度まで高めること自体は,やむを得ない。この点,株式投資イコール投機だから年金積立金をつぎ込むな的なGPIF批判をするつもりはない。
しかし,現在GPIFが行っている株式投資が,どれほど健全なのかという問題は確かにあり,検討しなければならない。
一つは,安倍政権下で定められた,国内株式25%という基本ポートフォリオ構成が,本当に適切なのかどうかだ。25%と定めてしまえば,乖離率は認められているとは言え,国内株式にどれほどの資金をつぎ込むかはある程度決まってしまう。つまり,年金積立金が増える限り,GPIFは国内株式市場の確実な買い手になる。
もう一つ,GPIFの行動を株式市場全体の中で評価し,また安倍政権下の金融政策・資本市場政策の中でGPIFを評価する必要がある。具体的には,GPIFに加えて,日銀が超金融緩和を続けるためにETF(指数連動型上場投資信託受益権)を大量購入するという,事実上の株式投資を行っていることを評価する必要がある。日本の株式市場には,公的資金で確実に買ってくれるGPIFと日銀という2頭のクジラがいるのである。
では,GPIFと日銀は株式市場でどのような役割をはたしているのか。他の投資家との関係はどうなっているのか。それを明らかにするために,金額で見た投資部門別株式売買状況の推移に,日銀の年次ETF購入額を重ねた図を示す。本来の売買状況データでは,日銀ETFは「自己取引」に入っている。GPIFの購入・売却額は残念ながらわからない。分類の中では「信託銀行」に含まれている。
ここから,以下のことが言えるのではないか。
(買)日銀ETF購入が株式市場に与える影響は大きいし,次第に強まっている。
(買)GPIFの影響の度合いは証明できないが,「信託銀行」は2014年以後買い越している。
(買)事業法人が買い越している。自社株買いの反映と思われる。
(売)海外投資家が日本株を大量に買ったのは2013年だけである。あとは年によって違うが,売り越しの方が激しい。
(売)個人は一貫して売り越している。
GPIFの影響力はフローの売買ではわからないので,数字がわかるストックの方を見てみる。GPIFは,2018年12月末で国内株式を時価評価で35兆9101円保有してる。おおざっぱな比較方法だとわかっていて言うが,これは国内上場株式時価総額の582兆6705億円に対して,6.16%保有していることになる。1投資家で6%であり,その存在感は大きい。
アベノミクスの成果が喧伝されているが,外国人も個人も日本の株式を評価せずに売っている。その時に,GPIFと日銀という公的資金のクジラで買い支えてきたのではないか。これは,クジラの意図がどうあれ(日銀は,そもそも株式運用益を目的としてETFを買っているのではあるまい),市場実勢とかけ離れた投機ではないのか。それも,公的資金を用いた投機ではないのか。
それでも,株価が支えられている間は,さしあたり誰も損をしないかもしれない。しかし,無理な買い支えが限度に来て株価が下落するとき,損失は2頭のクジラにかかり,公的資金にかかる。つまりは年金資産に損失が出るのであり,日銀のバランスシートを毀損する。これは,株式市場としても,公的資金のあり方としても不健全ではないのか。
<データ注>
・表は,日本取引所グループ「投資部門別株式売買状況」および日本銀行「指数連動型上場投資信託受益権(ETF)および不動産投資法人投資口(J-REIT)の買入結果」より作成。
・GPIF株式保有額はGPIF「平成30年度第3四半期運用状況(速報)」より。
・国内上場株式時価総額は,日本取引所グループ「市場別時価総額」より。
一方で超低金利のもと(それ自体,政府・日銀が誘導しているのではあるが),年金資産の運用を債券だけで行っていては運用益が稼げないことは確かである。だから,株式の資産組み入れ比率をある程度まで高めること自体は,やむを得ない。この点,株式投資イコール投機だから年金積立金をつぎ込むな的なGPIF批判をするつもりはない。
しかし,現在GPIFが行っている株式投資が,どれほど健全なのかという問題は確かにあり,検討しなければならない。
一つは,安倍政権下で定められた,国内株式25%という基本ポートフォリオ構成が,本当に適切なのかどうかだ。25%と定めてしまえば,乖離率は認められているとは言え,国内株式にどれほどの資金をつぎ込むかはある程度決まってしまう。つまり,年金積立金が増える限り,GPIFは国内株式市場の確実な買い手になる。
もう一つ,GPIFの行動を株式市場全体の中で評価し,また安倍政権下の金融政策・資本市場政策の中でGPIFを評価する必要がある。具体的には,GPIFに加えて,日銀が超金融緩和を続けるためにETF(指数連動型上場投資信託受益権)を大量購入するという,事実上の株式投資を行っていることを評価する必要がある。日本の株式市場には,公的資金で確実に買ってくれるGPIFと日銀という2頭のクジラがいるのである。
では,GPIFと日銀は株式市場でどのような役割をはたしているのか。他の投資家との関係はどうなっているのか。それを明らかにするために,金額で見た投資部門別株式売買状況の推移に,日銀の年次ETF購入額を重ねた図を示す。本来の売買状況データでは,日銀ETFは「自己取引」に入っている。GPIFの購入・売却額は残念ながらわからない。分類の中では「信託銀行」に含まれている。
ここから,以下のことが言えるのではないか。
(買)日銀ETF購入が株式市場に与える影響は大きいし,次第に強まっている。
(買)GPIFの影響の度合いは証明できないが,「信託銀行」は2014年以後買い越している。
(買)事業法人が買い越している。自社株買いの反映と思われる。
(売)海外投資家が日本株を大量に買ったのは2013年だけである。あとは年によって違うが,売り越しの方が激しい。
(売)個人は一貫して売り越している。
GPIFの影響力はフローの売買ではわからないので,数字がわかるストックの方を見てみる。GPIFは,2018年12月末で国内株式を時価評価で35兆9101円保有してる。おおざっぱな比較方法だとわかっていて言うが,これは国内上場株式時価総額の582兆6705億円に対して,6.16%保有していることになる。1投資家で6%であり,その存在感は大きい。
アベノミクスの成果が喧伝されているが,外国人も個人も日本の株式を評価せずに売っている。その時に,GPIFと日銀という公的資金のクジラで買い支えてきたのではないか。これは,クジラの意図がどうあれ(日銀は,そもそも株式運用益を目的としてETFを買っているのではあるまい),市場実勢とかけ離れた投機ではないのか。それも,公的資金を用いた投機ではないのか。
それでも,株価が支えられている間は,さしあたり誰も損をしないかもしれない。しかし,無理な買い支えが限度に来て株価が下落するとき,損失は2頭のクジラにかかり,公的資金にかかる。つまりは年金資産に損失が出るのであり,日銀のバランスシートを毀損する。これは,株式市場としても,公的資金のあり方としても不健全ではないのか。
<データ注>
・表は,日本取引所グループ「投資部門別株式売買状況」および日本銀行「指数連動型上場投資信託受益権(ETF)および不動産投資法人投資口(J-REIT)の買入結果」より作成。
・GPIF株式保有額はGPIF「平成30年度第3四半期運用状況(速報)」より。
・国内上場株式時価総額は,日本取引所グループ「市場別時価総額」より。
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