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2019年2月21日木曜日

なぜ韓国の文国会議長は日本政府による「法的な謝罪」とは別の謝罪を求めるのか

 慰安婦問題についての韓国の文喜相(ムン・ヒサン)国会議長発言が物議をかもしている。文議長の発言の最大の特徴は,日本政府が謝罪したことを認めたうえで,なお首相又は天皇が謝るのが望ましいとしていることだ。私は,この思考に,慰安婦問題をめぐる日韓のすれ違いを理解する,思想上の鍵の一つがあるように思う。

 まず文議長の主張を確認しよう。文議長は,首相や天皇に謝罪を求める発言をした際,日韓合意について尋ねられ,「それは法的な謝罪だ。国家間で謝罪したりされたりすることはあるが、問題は被害者がいるということだ」と発言している。つまり,法的な謝罪は行われたと認めたうえで,なおかつ国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。

 実は,この文議長の発言は,慰安婦問題をめぐる混乱の中では,事実を踏まえた方だともいえる。韓国内では日本の政府代表やそれに類する立場の人が何度も謝罪していること自体が,よく認識されていないからだ。世宗大学の朴裕河(パク・ユハ)教授は2月10日に自身のFacebookに韓国語で投稿し,日本政府やアジア女性基金による従軍慰安婦問題や植民地支配に対する11回の謝罪を紹介した。うち従軍慰安婦に関する謝罪は,1992年の加藤官房長官,1993年河野官房長官,1995年五十嵐官房長官,1995年村山首相,1996年原アジア女性基金理事長,1997年橋本首相,1998年原アジア女性基金理事長,2015年岸田外相の日韓合意発表,同じくその際の安倍首相発言の9回だ。いちばん最近の安倍首相の発言(岸田外相が紹介)は,「日本国の内閣総理大臣として改めて,慰安婦として数多の苦痛を経験され,心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し,心からおわびと反省の気持ちを表明する」というものだ。

 朴教授は,投稿の意図を「これだけしたのでもう謝罪が必要ないという話ではない。日本が長い時間をかけてきた心と"正しく"向き合うことが必要だということだ」と書かれている(Google翻訳と報道に頼っているのでニュアンスが違っていたらご指摘を)。しかし,朴教授がわざわざこの投稿をしたというのは,謝罪の事実そのものが韓国内でよく認識されていないからだ。これと比べると,文議長は何はともあれ「法的な謝罪」をしたことは認めている。その上で,なお謝るべきだというのだ。もう少し具体的に言うと,国家の代表たる人間が慰安婦という個人に謝罪すべきだと考えているのだ。

 もちろん,ここで天皇を持ち出したのは明らかにお門違いだ。天皇は政治的行為を禁止されているから適切ではない。その上,親に戦争責任があることと関連付けて息子が謝るのがよいという古臭い血統主義は論外だ。しかし,いま問題にしたいのはそこではない。法的な謝罪をしてもなお,国家の代表が被害者に謝罪せよという文議長の考えに絞りたい。

 想像してみよう。天皇が慰安婦に謝罪すれば,文議長が言うところの解決は訪れるだろうか。私はそうは思わない。それは,謝罪を受けた元慰安婦の方々が,許す気持ちになるかどうか,それをどう表現するかにかかっているだろう。被害者の許しが解決の条件になることは,明らかだ。文議長の「被害者がいる」というのは,「被害者が許すまで謝罪するべきだ」という意味なのだ。

 私は,被害者と加害者の許しをこのようにとらえることは,個人と個人の関係ではあり得ると思う。しかし,これを政治として,個人と政府を当事者とする問題において行おうとするのが,文議長の論理だ。そして,このような論理は,彼一人のものではなく,慰安婦問題をめぐる韓国内の一定の立場が,一定の経過に反応して生じたもののように思う。

 さかのぼってみよう。1990年代に慰安婦問題をめぐって日韓で論争が行われていた際の争点は,日本政府が公式に責任を認めて罪を償うことだった。日本政府は,謝罪の意を表明したうえで,請求権協定の主旨から言って国家による賠償ができないとした。しかし,村山内閣とその周囲の人々は,それでも補償に類したことをすべきとして,アジア女性基金による事業を実行した。それでも韓国の慰安婦支援者たちからの批判は止まなかった。その時の主旨は,「国家による正式な賠償ではない。これでは謝罪したことにならない」だった。

 2015年の日韓合意においては,日本政府が改めて謝罪し,改めて元慰安婦への償いのための基金・財団を設立した。それが日韓の政府間合意であったことは明らかであり,否定のしようがない。そして,元慰安婦47人中,34人は支援金を受け取ったと,『朝日新聞』デジタル1月28日付けは報道している。元慰安婦の方々から,この事業が総否定されているわけではないのだ。

 しかし,文在寅(ムン・ジェイン)政権は日韓合意では解決しないとし,「和解・癒し財団」を解散すると決めてしまった。そして,日本にさらなる行動を求めるのだが,いったいなにを求めているのかは明確にしない。何かは求めているのだが,何なのかははっきりと言わない。そうした中で,何を求めるかを粗雑な形で表現してしまったのが,今回の文国会議長発言だと思う。

 文在寅大統領が,日本に何を求めるかをはっきりさせないのは,もちろん,政治力学上の選択でもあるだろう。しかし,そうならざるを得ない論理的理由もあるのだと私は思う。それは簡単で,日本政府が謝罪し,しかもアジア女性基金の時とは異なり,政府の正式な予算,日本国民の税金から基金を拠出したからだ。国と国との関係において,片方が正式に謝罪し,補償も支払った。そうすることに,前政権は合意した。これに対して以前の支援団体のように「正式な賠償ではないから,謝罪したことにならない」というのは,さすがに無理があるからだ。

 だが,それでも文在寅政権もその支持者も,文国会議長も納得せず,日韓合意の意義を否定する。支援金を受け取って日本政府の誠意を認めている元慰安婦もいるという事実を無視していることは問題だ。しかし,元慰安婦の少なくとも一部に,いまなお日本政府の謝罪の仕方を受け入れられない人がいることも事実だろう。文議長の発言や文在寅政権の態度が本心からだとすれば,つまりは,被害者の苦しみが十分癒されたとは考えていないということだろう。

 繰り返すが,このような納得できなさ,加害者の謝罪の仕方が被害者にとって納得できないことは,個人と個人の関係においては,あり得る。被害者が納得するまで加害者にもっともっと謝罪しなおさせねばならない,という倫理・道徳も,個人間ではあり得る。それほどまで苦しみ,傷つくことは,ありうるからだ。

 しかし,文議長は,この倫理を外交に適用し,個人と国家の関係に適用し,国家の行動原理にしようとしている。そして,文議長だけではない。文大統領の,日本に具体的要求はしないが善処は求めるという姿勢の背後には,少なくともこのような倫理・道徳による動機づけもあるのだと,私は思う(何度も言うが,政治の世界のことであり,これ「だけ」だとは全く思わない)。

 「政府としての謝罪や補償にかかわらず,慰安婦という被害者個人が許しを表現するまで,日本国家の代表が謝罪し続けるべき」という原理で,現代の,韓国と日本の国家を動かすことは可能であるのか。そして,妥当であるのか。その原理を作動させた場合に,日韓関係の将来はどうなるのか。その原理が政治の様々な場面で用いられるたら,何が起きるのか。

 私は,日韓合意後の慰安婦問題をめぐる,韓国からの日本批判を考える上で,一つの論点はここにあると思う。

 なお,一点だけ,ありうる批判にあらかじめ回答しておく。「慰安婦問題は人権問題だ」というものだ。私も人権問題だと思う。しかし,人権問題であることと,「被害者個人が許すまで,加害国家は謝罪し続けるべき」という原理を適用することは,必然的には結び付かない。それは,個人,倫理・道徳,国家の関係についての特定の見地によるものなのだ。どこでも当たり前のように妥当するものではない。この,特定の見地について,よく考えてみなければならない,というのが私の意見だ。

朴裕河(パク・ユハ)氏Facebook投稿。


「(世界発2019)慰安婦財団、残したものは 支援金、元慰安婦34人受け取り」『朝日新聞デジタル』2019年1月28日。


「盗人たけだけしい」韓国議長のヒートアップ 時系列でたどると見えるのは...J-CASTニュース,2019年2月18日。

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