フォロワー

2024年11月8日金曜日

ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。

 会田弘継氏が『破綻するアメリカ』岩波書店,2017年から『それでもなぜ,トランプは支持されるのか』東洋経済新報社,2024年まで訴えてこられたことを私なりにまとめるならば,トランプ台頭の客観的背景はアメリカにおける資産・所得の絶望的な格差拡大であり,格差の下方に追いやられた人々が民主党に絶望したことであった。そこに対して,長年,財政均衡,金融引き締め派であった共和党を,財政拡張・金融緩和論に逆転させ,またMake America Great Againで豊かな白人中間層再建を最優先とする政策を,種々の差別,マッチョイズム,反エリート主義のイデオロギーに乗せたトランプとその取り巻きが,主体的に働きかけたのである。

 経済政策と党派という角度から単純化して言えば,経済的地位が転落した人々,とくに白人男性が民主党でなく共和党につき,共和党が財政・金融緊縮派から拡張派に転換したことが,トランプ台頭時代の特徴である。

 そこまでは分かる。謎なのはバーナムである。会田氏の上記二著や論文「ジェームズ・バーナム思想とトランプ現象」『アメリカ研究』52,アメリカ学会,2018年5月によれば,バーナム『経営者革命』(原書1941年,武山泰雄訳,東洋経済新報社,1965年)の予言が,エリート支配の文脈で保守的政治思想の世界で復権させられたのだとという。一体,どういうことか。

 身もふたもない言い方ができる可能性はある。エリート支配,階級分裂,貧富の格差を右から批判する潮流が,自分たちには使いようがないマルクス主義や左派思想の代わりに,バーナムを利用したのかもしれない。

 しかし,結論を急がないようにしよう。経済・経営学者としては,バーナムのそのような活用が妥当なのか,そこに落とし穴や見落としはないのかということを理論的に考えていきたい。

 第一に,バーナムの経営者革命論は経営者というよりテクノクラートによるエリート支配をペシミスティックに予言したが,その後発展した経営学の経営者革命論はどちらかと言えばホワイトカラー主導の安定した社会をオプティミスティックに描いたということである。バーナムは,資本主義でも社会主義でもなく,管理能力を基礎にしたエリート支配が到来すると予言した。元トロツキストらしい着眼点とも言える。しかし,経営学の世界では,経営者革命論は,高生産性と高所得,ホワイトカラー職務の拡大・多様化と,それによる安定的雇用とキャリア形成を保証するものと受け取られた。それが経営史の強力なパラダイムとなったアルフレッド・D・チャンドラー Jr.『経営者の時代』(原書1977年,鳥羽欽一郎・小林袈裟治訳,東洋経済新報社,1979年)の「見える手」の理論である。チャンドラーはバーナムを自身の理論形成のヒントとしたことを明言している。またジョン・ケネス・ガルブレイス『新しい産業国家』(原著1967年,都留重人監訳,河出書房,1968年)は,社会に対しては批評的姿勢を崩さなかったものの,大企業については技術発展を体現するものとしたし,その具体的担い手としてテクノクラートとそれが形成する構造としてのテクノストラクチュアの生産性を高く評価した。ホワイトカラーの世界の経営者革命論は,ブルーカラーの世界のフォーディズムとともに,20世紀アメリカ資本主義の繁栄を描写する思想・理論となったのである。現代の保守派は,バーナム理論の構造に即した活用よりも,価値判断だけの引用に走っていないだろうか。

 第二に,バーナムにせよチャンドラーにせよガルブレイスにせよ,経営者革命論であって産業資本家論や株主支配論や金融資本主義論ではなかった。しかしアメリカの現実は経営者革命,つまりテクノクラート支配という一面だけを持っているのではない。それはむしろ1970年代の話であり,以後は株主反革命,株式ファイナンスによるハイテク産業創出,金融市場の肥大化の時代とされている。一方においてITプラットフォームを利用した大企業支配があり,株式保有を通した少数のハイテク資本家支配が復権している。他方において,金融資産を保有すればするほどさらに蓄積できる,金融機関と金融資産家の世界が存在する。トマ・ピケティ『21世紀の資本』(原著2013年,山形浩生ほか訳,みすず書房,2014年)が明らかにしたように,アメリカの資産保有者は,確かに専門家として高額の労働所得も得ているが,異常に高額の経営者報酬をも得ており,これは偽装された資本所得と言ってよい。そして労働所得を上回る資本所得を得ており,その多くはキャピタル・ゲインなのである。現代のエリート支配はテクノクラート支配であると同時に株主産業資本家支配であり,また金融資産家支配でもある。保守派はバーナムを利用することで,株主資本主義と金融資本主義による格差から人々の目をそらしてはいないだろうか。エリートを批判するのに不動産資本家トランプがボスであって,ハイテク資本家イーロン・マスクが味方でよいのだろうか。

 これらは漠然とした問題提起に過ぎない。30年以上前に読んだきりのバーナム『経営者革命』を書棚から出した。今後,テキストに即して確かめていく必要がある。トランプの背後でバーナムが政治思想として復権した今,その理論を経済・経営学の見地から再検討することも意味があるだろう。




2024年11月3日日曜日

『少年忍者部隊月光』における戦争

  私はまもなく60歳で,特撮ドラマと言えば『ウルトラマン』『ウルトラセブン』を再放送で,『帰ってきたウルトラマン』や『仮面ライダー』をオリジナル放映で見た世代です。現代ではほぼ老人会に属しますが,それでも,『忍者部隊月光』(1964-66年放映)は伝説的存在でした。いまでこそ『月光』をYouTubeで見かけることもありますが,私の若い頃にはインターネットがないだけでなく,ビデオデッキも選ばれたエリートしか持っておらず,昔のモノクロ特撮テレビドラマを見る機会はほとんどなかったからです。

 『忍者部隊月光』を初めて見たのは,80年代にテレビ埼玉で再放送していたのを録画されたビデオを,SF研の部長が取り寄せて見せてくれた時でした。ただ,CMで「君は埼玉のどんなところが好き?」とインタビュアーが聞くと子どもが「クルマが少ないところー!」と『翔んで埼玉』みたいな応答をしていたので,本当に80年代の再放送だったのかと不思議に思っています。

 ある時,『忍者部隊月光』の原作は,かのタツノコプロダクションの創設者である吉田竜夫先生の漫画『少年忍者部隊月光』であり,そこでは設定が違うと聞いて驚きました。テレビの『忍者部隊月光』の舞台は現代で,伊賀流・甲賀流忍者の末裔によって編成された忍者部隊が,「あけぼの機関」のもと,世界の平和のために戦うという設定です。しかし,原作の『少年忍者部隊月光』の時代は太平洋戦争中であり,少年忍者部隊は山本五十六連合艦隊司令長官直属の秘密部隊だったというではありませんか。

 以後,原作を読む機会がないままに,私はずっと気になっていたことがありました。

「このマンガの結末はどうなるのか?」

ということです。太平洋戦争を日本側で戦っているという設定である以上,戦いに勝ってハッピーエンドとなりようがないからです。

 数年前に『少年忍者部隊月光』復刻版全4巻のうち,1巻と4巻を比較的安価に入手することができて,ようやく謎が解けました。これからご覧になるかもいらっしゃるかもしれないので詳細は明かしませんが,最初は威勢よく珊瑚海海戦に参戦して空母レキシントン撃沈に貢献などしていた少年忍者部隊は,やがて,たたかってもたたかっても,戦争を終わらせることも,犠牲をなくすこともできない現実に直面していくのです。空想とはいえ,山本五十六連合艦隊司令長官との会話には重いものがあります(画像2)。敵のウラン研究所を爆破しても問題は解決しないことを知り(画像3),敵の新兵器の威力を理解せず,若い命を戦場に平然と投入する軍の司令たちに絶望する(画像4)。そしてついに巨大なキノコ雲が……(この絵は,ぜひ実物でご覧ください)。

 私の偏った読みでない証拠として,画像も少しだけ貼りました(論評のために許される範囲の引用と判断します)。ここで私は特定の思想を主張したいのではなく,活劇の中に戦争の過酷さを描き,少年忍者部隊の苦闘を描き切った吉田竜夫先生に心より敬意を表したいのです。

画像1 吉田竜夫『少年忍者部隊月光〔完全版〕』第4巻,マンガショップ,2006年。

画像2 同上書,105頁。

画像3。同上書,235頁。

画像4。同上書,250頁。














2024年10月12日土曜日

幸福への道か,底なし沼か:中国製の日常系アニメ『呼喚少女Call Up ・Girls』のPVが超絶ハイクオリティという話

 中国の日常系アニメ『呼喚少女Call Up ・Girls』のPVがすごいという話。2019年からマンガとしてネット配信されていた作品がアニメ化されたという局面らしい。一瞬,日本のアニメかと思うがセリフも背景の文字も簡体字であるし,制服がジャージっぽいので間違いなく中国である。デザインと言い動きと言い,中国のオタク界隈が,ここまで萌えに習熟したとは恐るべき進化である。ただし,それが幸せへの道であるか,底のない沼であるかは,わからない。


YouTube。もとはBiliBili動画。
https://www.youtube.com/watch?v=O9ABD1oKlsQ&t=1s


おそらくこれが原作。テンセント漫画。原作/凳小氷 円小劉。作画/羅克ROKとある。 

https://ac.qq.com/ComicView/index/id/642826/cid/1657




2024年10月3日木曜日

BISによる「プロジェクト・アゴラ」とは何なのか:どうやってホールセール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)で国際決済を行うのか

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)にはリテール型とホールセール型がある。リテール型中央銀行デジタル通貨(CBDC)とは,要するに中央銀行券をデジタル化し,専門的な用語で言えばトークン化したものである。他方,ホールセール型CBDCとは,中央銀行への預金をより高度なIT技術を使って効率化し,さらに金融機関のみならず民間の経済主体も使えるようにしたものである。

 リテール型は,いま紙であるものいがデジタル信号のまとまりになるわけで,その変化は分かりやすい。個人が支払うときの感覚だと,現金で払っていたものがバーコード決済での支払いや知人への送金になる感覚で理解して,そう間違いない。一方,ホールセール型とは,割り切っていえば単に中央銀行預金が便利になり,民間人も使えるようになるものであるから,どういう意味があるのかわかりにくい。

 現在,ホールセール型CBDCを使って国際決済を便利にしようという「プロジェクト・アゴラ」が国際決済銀行(BIS)によって推進されている。現在の国際決済にはコルレス・バンキングが用いられており,その手続きをSWIFTというしくみで簡素化して迅速化を図っている。しかし,それでも煩雑だということで,新プラットフォーム上で素早く決済するのだという。強引に簡略化していえばそうなる。民間企業も中央銀行に口座を持って,中央銀行間が連携し,情報技術の活用で素早く決済しようということではないかと推測できる。

 一見,わかりやすそうな話であるが,私にはまだ理解できない大きな謎がある。「どの時点でどのように両替するのか」である。現代世界経済には統一通貨はない。払うとすればドルとかユーロとか円とか元とかで払うしかない。例えば日本企業が日銀に口座を持つとして,円建ての日銀預金でどうやってアメリカのFRBやアメリカ企業に払うのか。

 考えられることは三つくらいある。

1.どこかの時点で外貨に両替し,CBDC化したドル現金を入手してバーチャル送金する。イメージとしては,デジタルドルを入手し,支払元が日本で持っている端末から,支払先がアメリカで持っている端末に送るようなものである。CBDC化したドル現金に両替することは確かに考えられる。しかし,それならばリテール型CBDCを使うことになり,ホールセール型の出番はない。

2.ドル預金をアメリカの銀行に持つことで払う。支払元はドル預金口座をアメリカの銀行(US-A行とする)に持ち,そこから支払先の取引銀行(US-B行とする)の口座に振り込んでもらう。A行とB行の銀行間決済はFRBの当座預金にバックアップしてもらう。しかし,これならば従来のコルレス・バンキングそのものであり,情報技術でスピードアップする以外は何も新しいことはない。

3.ホールセール型CBDCに積極的役割を持たせるとすれば,次のようになるのかもしれない。支払元の日本企業が日銀とFRBの両方に中央銀行預金(ホールセール型CBDC)を持ち,支払先のアメリカ企業はFRBに中央銀行預金を持っている。そして,日本企業は中央銀行預金を引き出してドルに両替し,ただちにFRBに預け,FRB内の預金振替でアメリカ企業に払う。これならば,ホールセール型CBDCが生きるし,確かにコルレスバンキングよりは手順は簡素になるかもしれない。ただし,各国中央銀行には非常に大きな負荷がかかる。日本からアメリカへのあらゆる大口送金について,FRBが自ら振替処理をしなければならないからだ。そんなことが可能なのだろうか。これを可能にする新しいプラットフォームを作るということだろうか。

 これまでのところ一番詳しいBISの報告は,2023の国際決済銀行(BIS)年次経済報告第3章「Blueprint for the future monetary system: improving the old, enabling the new」だと思うのだが,これを読んでも,決裁を迅速にするトークン技術の新しさが解説されているだけで,ここでの疑問である「どの時点で外貨両替するのか」が一言も書かれていないように見える。だから上記の3であるのかどうか,確証が持てない。

 このように,「アゴラ・プロジェクト」とは,国際決済としてどこをどう新しい仕組みにするのか,まだ私には謎である。BISのページを見ただけではよくわからない。現在,この領域を対象としているゼミの院生が文献を調査しているところだ。

BISの実験プロジェクト『アゴラ』への日本銀行の参加について,日本銀行,2024年4月4日

Project Agorá: central banks and banking sector embark on major project to explore tokenisation of cross-border payments, April 3, 2024, BIS.

2024年10月1日火曜日

岡橋保の貨幣・信用論はなぜ少数派だったのか?この説を継承・発展させるためには何が必要か?

 ここ数年,再評価作業を行っている岡橋保氏の貨幣・信用論であるが,学界では当人の生前から少数派にとどまっていたようである。その原因を考えてみると,四点ほど思い当たることがある。

 第1に,その叙述スタイルである。まず前提として,岡橋氏が活躍した時代は,雑誌論文よりも著書が主要な研究成果発表形態であったことを踏まえておく必要がある。岡橋氏の著書は,1957年の『新版 貨幣論』までは,自己の理論を体系的に叙述するスタイルであった。しかし,その後の著作では,歴史書である『銀行券発生史論』を除いて,冒頭では自己の見解を要約し,その後は論敵に対して批判を行う形で記述されるようになった。取り上げられた論客は,当初は不換銀行券を信用貨幣でなく国家紙幣とみなす飯田繁,麓健一,三宅義夫の各氏であり,信用インフレーションを説く川合一郎氏であり,新しいインフレーションを説く高須賀義博氏であり,ドルを国際通貨とみなす岩野茂道,木下悦二,深町郁彌の各氏であり,信用を現金の貸し付けとみなす宇野弘蔵氏であり,最後は預金貨幣を貨幣と認めず,また経済法則の適用対象を国民経済でなく経済一般とみなす村岡俊三氏であった。批判を中心とした岡橋氏の叙述スタイルは,当時としては論点をビビッドに取り出すものであったのだろうが,後年の読者からすると,その積極的見解をわかりにくくし,また過去の議論とみなされやすくしたことは否めない。また批判の方法が,一方では相手の論旨を「というのである」「ということになる」とその帰結までたどる丁寧なものであったのだが,後年の読者が読むと,どこまでが相手の議論の紹介でどこからが岡橋氏の見解がわかりづらくなったことは否めない。他方で,批判の表現は,今日ではもちろん,おそらく当時の基準でもあまりにも苛烈であったために,その理論的内容が素直に受け取られにくかったことも想像に難くない。

 第2に,金でなければ本来の貨幣にならず,価値尺度にならないという主張を貫いたことである。これは,マルクスその人の貨幣論を素直に継承したものなのであるが,多くのマルクス経済学者はこの規定がリジッドに過ぎて管理通貨制下の資本主義を分析する際の障壁になるとみなし,多かれ少なかれ修正しようとした。しかし,岡橋氏はまったく譲ることがなく,ほんらいの貨幣は金でなければならないとし,その一方で,金が流通しなくなり,公定価格標準が廃止された現実を現実としてそのままみとめたのである。岡橋氏は,特定の商品貨幣が流通して直接の価値尺度機能を果たすことはもはやなく,代用貨幣のみが流通し,中央銀行券と中央銀行当座預金が最終決済手段になっていると,事実上主張していた。ここにはマルクス経済学の中核的命題を維持しながら現実の説明を可能とする理論的発展の手掛かりがあったはずである。しかし,岡橋氏はこのことについてまとまった説明を与えなかったために,読者にはその主張が十分に伝わらなかった。

 第3に,不換の預金貨幣や銀行券を信用貨幣とみなし,マルクス経済学を含む通念に真っ向から反対したことである。岡橋氏は,不換制の下での預金貨幣や銀行券・中央銀行券を,兌換制のもとと変わらず信用貨幣であるとした。しかし,当時,マルクス経済学を含めて信用貨幣とは金債務であるとするのが常識であった。つまり<銀行券などは金で支払われるから信用貨幣なのであり,不換制の下では国家紙幣になる>というのである。岡橋説は論敵の三宅義夫氏をして「岡橋教授の所説はおそらく教授以外の何人も納得しえないものと思われるが」と言わしめたほど少数派であった。しかし,その三宅氏もすぐ続けて「こんにちの不換制下においても,日銀のバランス・シートでは発行銀行券は『負債の部』に計上されている。これをどう説明するかはエレガントなパズルと言えよう」(三宅「兌換銀行券と不換銀行券:岡橋・飯田両教授の所説に寄せて」『経済評論』1957年3月号)と認めざるを得なかった。岡橋氏は,不換制のもとでも商業信用が執り行われ手形が存在する以上,銀行券・中央銀行券を手形と認めないのは不整合であることや,不換銀行券の流通量は伸縮しうること,返済を含む債権債務相殺の機能は生きていることを述べて,自説を主張した。しかし,金債務説がもっとも問いたいであろう,<中央銀行券が金債務でないというのならば,何によってどのように支払われるのか>については,岡橋氏は中央銀行券が最終支払い手段になったのだという以外のことは述べなかった。このため,岡橋説にあっては,中央銀行券・中央銀行当座預金の信用貨幣としての流通根拠が,今一つ積極的に説明されないままにとどまった。

 第4に,マルクスの「貨幣流通法則」と「紙幣流通の独自法則」を厳密に解釈した結果,現状分析の上で,1960年代から1975年にいたるまで,日本には厳密な意味でのインフレーションは起こっていなかったと主張したことである。岡橋説によれば,価格標準の切り下げによる名目的物価上昇としてのインフレーションは,公定価格標準(金平価)の切り下げか,財政赤字による投げ込み的(今日的に言えば外生的)貨幣投入によって生じる。一方,銀行貸付の肥大化による通貨供給は,商品流通量の増大に伴う,貨幣流通法則に沿った(今日的に言えば内生的な)供給であり,貸付・返済によって伸縮するものであるから,景気を過熱させることはあってもインフレーションを起こすものではない。したがい,岡橋氏から見れば,戦時中の物価上昇は厳密な意味でのインフレであったが,高度成長期から1975年までは日本の財政は赤字ではなかったので,インフレも生じなかった。岡橋氏は,高度成長期や過剰流動性期の物価上昇を,景気の過熱による一時的及び実質的物価上昇だったとみなしたのである。岡橋説では,また,1970年代には,アメリカの物価高騰や,オイルショックによる原燃料価格の高騰を反映して「輸入インフレ」と呼ばれる事態が生じたが,岡橋はこれも円の相対的価値の低下による不等価交換とみなし,やはりインフレーションとはみなさなかった。この,日常用語としては誰もが「インフレ」と呼んでいたものを,厳密にはインフレではないと言い切った岡橋説は,マルクス経済学者を含めて極論とみなされたのである。

 以上を踏まえると,岡橋説の現代的意義を主張する際には,これらの論点に対応した解明が必要である。第一に,岡橋貨幣・信用論の体系をわかりやすく再現する説明を行うことである。第二に,資本主義における貨幣システムの発展を,本来の貨幣としての金属貨幣=商品貨幣の流通を排し,代用貨幣によって代える傾向を持つものとして叙述することである。そしてその発展が,資本主義発展をどのように媒介し,どのように矛盾を蓄積させているかを明らかにすることである。第三に,不換の預金貨幣や中央銀行券が信用貨幣であることについて,その支払い能力がどう担保されているかの適切な説明を行うことである。第四に,日常用語として「インフレ」とされている現象について,厳密な意味でのインフレーションであるか,そうでない物価上昇であるかについて納得のいく説明を行うことである。これらは実は,1990年代以後の「デフレ」やポスト・コロナの「インフレ」,「異次元の金融緩和」とその解除の意味を問ううえでも必要な論点であり,その解明は歴史的にも現代的にも意義を持つと,私は考える。

(写真は,ようやくそろった岡橋の全著書・編著と追悼文集)




2024年9月25日水曜日

論文「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」を公開しました

 拙稿「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割:ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究」が『アジア経営研究』30-1号に掲載されました。J-Stageにアップされましたので,ダウンロードいただけます。

 2020年4月に科研費をとってベトナム鉄鋼業における外資企業成功の条件に関する研究を始めました。しかし,コロナ禍で海外調査ができなくなり,研究対象を共英製鋼に絞って国内取材から始め,2023年にようやく現地調査を再開して,本稿を完成させるに至りました。

 本稿は技術移転論と中堅企業論で,ビナ・キョウエイ・スチール(VKS)社の事例を解釈しています。共英製鋼が1990年代にベトナムに移転したのは,当時の現地で必要とされていた鉄筋用棒鋼の生産技術でした。当時のベトナム進出はハイリスクでしたが,共英製鋼は創業家高島一族の果敢な行動と組織の力を結合させて実行しました。それゆえにビナ・キョウエイ・スチールは成功し,経営を軌道に乗せることができました。しかし,まもなく鉄筋用棒鋼の生産は他の企業もできるようになりました。また共英製鋼の弱い財務基盤は,バブル崩壊後の建設不況の下で経営危機を引き起こしました。それゆえにビナ・キョウエイ・スチールは21世紀突入とともに激しい競争にさらされることになりました。保有していた技術の意義と限界,中堅企業としての強さと弱さがこの事例を特徴づけていたのです。

 21世紀になってからの共英製鋼のベトナム事業については,別の雑誌に投稿中です。

川端望(2024)「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割 -ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究-」『アジア経営研究』30-1,77-92。

2024年9月18日水曜日

『アジア経営研究』第30-1号発行

 『アジア経営研究』第30-1号が発行されました。拙稿「ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割―ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究―」も掲載されています。11月くらいにはJ-Stageで無償公開されるはずです。

 『アジア経営研究』はアジア経営学会が発行する査読付き学術誌です。アジア経営学会入会のご案内はこちら↓
https://www.asiakeieigakkai.org/nyukai.html


『アジア経営研究』第30-1号目次

第1部 統一論題論文

分断化する世界経済の中でのサプライチェーンの変容 ―半導体産業を事例に―(中原裕美子)

第2部 論文 

ローソンの国際化戦略の特徴と影響要素―歴史的な側面からの考察―(鍾淑玲)
ジョブ型雇用社会におけるインターンシップの役割についての考察―台湾の企業と大学のヒアリング調査分析から―(國府俊一郎)
三菱重工の航空機事業の撤退にみる組織能力と構造的慣性に関する一考察 (安田賢憲,江崎康弘)
インド鉄鋼企業の再編とArcelorMittal/日本製鉄連合の進出についてー企業経営分析からの検証― (井上修,石上悦朗)
ベトナム鉄鋼業の発展初期における日系中堅電炉企業の役割―ビナ・キョウエイ・スチール社成立過程の研究―(川端望)
アジアを起点とした米麺文化の移植可能性―アフリカ・ガーナにおける米麺の潜在需要― (黒川基裕,グエン・ティ・ホアン・ハー,グエン・ティ・ハイ,タ・ティ・ホアイ)
新興国市場のボリュームゾーンと競争行動―インドオートバイ市場の事例―(三嶋恒平)
日本企業のアジア展開の変容―経済安保を踏まえたサプライチェーンへの影響低減の観点から―(酒向浩二)
新興国自動車産業のキャッチアップ戦略―制約と機会(李澤健)
ネパールにおけるカースト階級に基づく社会的排除と貧困問題 (シャム クマル カルキ)
中国電気自動車・車載電池企業の成長と競争力―エコシステムの視角から観察・分析―(陳晋)
在日韓国人企業家の事業動機と行動様式―重光武雄を中心に―(柳町聡)
Empirical insights into foreign-led tech startups in Japan (Idrissova Ainash)
経済自由化後のインド機械系ものづくり企業の成長 ―急成長する部品製造企業の過程追跡型事例研究―(清水雅巳)

第3部 研究ノート 

自動車メーカーのバリューチェーン拡大戦略とその課題―中国とインドネシアのトヨタグループ事例を中心に―(垣谷幸介)

第30回全国大会報告(三嶋恒平)
編集後記(井口知栄,金綱基志)




2024年9月16日月曜日

「メンバーシップ型雇用」正社員の世界で「解雇規制緩和」をすると何が起こるか

  自民党総裁選で解雇規制見直しが争点となっている。解雇規制というのは判例で確立している整理解雇の4要件であり,この4要件が労働契約法第16条「解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする」の内容とされていることだろう。規制の具体的内容が判例で確立しているので,首相が「解雇規制を緩和したい」と言ったとして,具体的に何をするのかが,そもそも定かではない。労働契約法を改正するのか,法の行政解釈を変えるのか。そこは注視する必要があるだろう。

 しかし,それよりも深刻なのは,岸田内閣の下では一応「ジョブ型雇用」の推進がうたわれていたはずなのに,そのことは無視されて「解雇規制」だけが取り上げられていることである。この二つは別なことのようでいて,実は強い関係を持っている。ここでは,「ジョブ型雇用」の拡大抜きに「解雇」を促進するとどうなるかを論じる。

 雇用類型が日本の正社員のように「メンバーシップ型雇用」,すなわち「組織の一員として雇用する」場合と,世界の多くの労働者や日本の非正規労働者のように「ジョブ型雇用」,すなわち「一定の仕事をしてもらうために雇用する」場合とでは,解雇の意味は全く異なる。もはや言うまでもないかもしれないが,この二つの雇用類型の区分は濱口桂一郎氏の定式化によって普及したものである。

 「人が余剰だから解雇するか,仕事ができないから解雇するのだから,どこでも同じではないか」と人は言うかもしれない。とくに経済学者がそういうかもしれない。しかし,そうではないのである。「メンバーシップ型雇用」では,人が先にいて後から仕事を割り当てる。「大切なメンバー」がもういるのだから,メンバーが遂行できる適切な仕事を持ってくるのは経営者の方の責任になる。だから,多少会社の業績が悪化しているとしても,解雇を避けることが経営者の義務となる。

 それでも解雇を強行しようとすれば,解雇しないと会社が倒産するという事態であるところまで論証するか,そうでなければ当該正社員が「組織の大切な一員」であることを否定しなければならない。そのため会社は正社員を解雇する場合は,当該正社員が「会社の一員」にふさわしくない人間であることを証明しようとする。当該正社員がいかに無能で何の仕事もできないか,会社の秩序に反抗的か,あるいは素行が悪く無規律で堕落しているか,ということを主張する。つまり,「メンバーシップ型雇用」における解雇とは,「組織の一員としてふさわしくない,なにもできない,人格的に問題ある人物」という烙印を押すことに近いのである。ここで問題なのは,実際にはそのようなことを言われる筋合いのない高潔な人物であっても,そう扱われることである。本当は会社にとっても仕事上の余剰人員が存在するから解雇するのであっても,何しろ雇用の論理が「組織の大切な一員だから雇う」になっているので,会社としては「組織の一員としてふさわしくないから解雇する」と言わねば解雇できないのである。だから無理くりに言う。

 「実際にいまの仕事ができていない人をどうして解雇できないのか」と思う人がいるかもしれない。それは,特定の仕事を遂行するために雇っているのではないからである。「組織の大切な一員」とみなして採用した以上,特定の仕事ができないからと言って解雇するのはすじに合わない。なぜなら別の仕事ならできるかもしれないからである。配置転換を含めて別な仕事を社内で割り振るのが経営者の責任である。解雇したければ,当人が「社内のどの仕事もできないので解雇するよりない」と証明しなければならないのである。

 「メンバーシップ型雇用」の正社員を解雇するのはたいへんな摩擦を伴う。だから通常,日本の企業は退職金上乗せや再就職支援付きの希望退職募集や退職勧奨,あるいはインフォーマルな「肩たたき」によって,少なくとも表面上は円滑に,正社員の能力全般や人格を否定することなく辞めてもらおうとするのである。「もう社内にはあなたにやってもらう仕事がない」「次を考えませんか」という風にである。

 裏返すと,「メンバーシップ型雇用」における人事管理とは「あなたは会社の大切な一員ですから,よほどのことでもなければ雇い続けますよ」というメッセージを中心に組み立てられており,それが正社員の組織へのコミットメント,もっとはっきり言えば忠誠心の土台となっているわけである。

 さて,このような雇用方式をそのままにして解雇規制を緩和するとどのような事態が生じるだろうか。これまでの説明からおわかりだろう。多くの会社が大勢の正社員に「何もできない,会社にふさわしくない,人格的に問題ある人物」という烙印を押す。解雇された側の心は深く傷つけられることになる。また,「メンバーシップ型雇用」では,キャリア採用の際も,正社員として解雇されたことのある人物を「何か人として問題があるのではないか」と疑う。繰り返すが,実際にそうではない人も,「メンバーシップ型雇用」が中心の社会ではそのように疑われやすいのである。再就職も至難の業になり,ますます心が折れそうになる。

 一方,企業内の労働関係は「いつ能力全般と人格を否定されるかわからない」ものになる。むしろ経営側は,これまでにもある程度あったことだが,「お前の能力と人格などいつでも否定できるのだからな」という脅しで人事管理する度合いを強めるだろう。日本企業のメインストリームがブラック企業化する。

 確かに解雇規制を緩和すれば労働市場が流動化し,解雇も増え,採用も増えるかもしれない。しかし,それでめでたしめでたし,とはなりそうにない。解雇のたびに人の心を折るからである。それはカウンセリングや自己啓発や「物事を悲観的にとらえない」「前向き」な「気持ちの切り替え」で何とかなるものではない。また「とにかく市場の力を強めたから,これまでより良くなるに決まっている」と言ってよいものでもない。市場取引は効率性と動機付けを促進しているかどうかが大事である。また,市場経済で取引する際には,権利義務を設定し,その境目を明らかにすることが必要である。日本の雇用の「組織の一員として雇用する」「組織の一員としてふさわしくないから解雇する」という線引きの仕方が,解雇のたびに労働者のモチベーションにいちいち打撃を与えるようになっているのである。

 このように「メンバーシップ型雇用」と「解雇規制緩和」は相性が悪く,社会的に破滅的な結果を招きかねないのである。

 それでは,労働市場を,もっと望ましい形で作動させる道はないのか。「メンバーシップ型」がだめなら「ジョブ型雇用」であれば「解雇規制緩和」をしてもよいのだろうか。これが次の問題である。

2024年9月13日金曜日

「貨幣分類論」を東北大学経済学研究科のディスカッション・ペーパーとして公開しました

 先にこのブログに分割投稿した「貨幣分類論」を修正し,東北大学経済学研究科のTERG Discussion Paper, 490として公開しました。思考の整理のためにDPにしましたが,先行研究をサーベイせずに教科書風の解説だけ述べているので,雑誌論文として投稿するには苦しいかもしれません。しかし,それだけに読みやすいはずです。貨幣論にありがちな衒学的表現を全く使わずに,用語を定義し,対象を分類して,何を言いたいのか明確にすることに努めました。先に公開した「通貨供給システムとしての金融システム」ともども,ご批判をお待ちしています。

目次
Ⅰ はじめに
Ⅱ 外形的分類
Ⅲ 本質分類
Ⅳ 形態分類と物的定在分類
Ⅴ 通用根拠分類
Ⅵ 機能分類
Ⅶ 支払い方法分類
Ⅷ 供給領域による分類
Ⅸ 供給の内生性,外生性による分類,そして兌換と不換
Ⅹ 中央銀行デジタル通貨(CBDC)の場合
Ⅺ おわりに

以下の2か所からダウンロードいただけます。
researchmap
https://researchmap.jp/read0020587/misc/47763170/attachment_file.pdf

東北大学機関リポジトリTOUR
https://doi.org/10.50974/0002002578






2024年9月8日日曜日

カネゴンがお金を食べるのと人間がお金を貯めるのはどう違うのか:代用貨幣の蓄蔵可能性をめぐって

 『ウルトラマンアーク』第8話「インターネット・カネゴン」。AIのバーチャル配信者カネゴンが人気がありすぎて,地域電子マネーのほとんどがカネゴンへの投げ銭に費やされてしまう。カネゴンはお金を貯めることだけが目的なので,地域電子マネーが流通しなくなり,地域経済が不況に陥るという話である。

 今度のカネゴンは,『ウルトラQ』で初登場した時とはいろいろ違いがある。リアルではなくバーチャルな存在であるし,食べるものは硬貨でなく地域電子マネーである。しかし,もう一つ重要な違いは,食べたお金を消化するのではなく,貯めこんでいることである。ここから,今度のカネゴンは経済学上の理論問題にかかわって来る。

 地域通貨は,国家貨幣や補助硬貨と同じく,それ自体は価値を持たない代用貨幣であり価値章標(シンボル)である。地域経済が必要とする最小限,つまりはどのみち受け取ったらすぐ使わざるを得ない量の範囲では,住民の信認があれば流通する。しかし,商品流通界では役に立っても,その外に出れば無価値である。したがい,金貨のように蓄蔵されることはない。これが貨幣論の古典的命題である。

 しかし,人々がカネゴンのように行動すればどうだろう。今回のカネゴンは「星元ペイ」という地域電子マネーをため込み,決して使おうとしない。これは代用貨幣を蓄蔵していることにならないのだろうか。代用貨幣も,お金を貯めたいという気持ちが人々に強ければ蓄蔵されるのではないだろうか。これが問題である。

 さて,カネゴンの行動原理は独特である。価値のない代用貨幣に絶対的価値を見出しているか,あるいは代用貨幣に「美味しい」という独特の使用価値を見出しているために,お金をひたすらため込むのである。カネゴンはため込んだお金を使わない。だから,もしインフレが起こってもカネゴンにとっては1万円は1万円であり,価値が目減りしたとは感じないだろう。商品と交換することがないからである。

 これに対して人間が代用貨幣をため込むのは,ため込むこと自体に意義を見出しているのでもないし,美味しいからでもない。まず背景として,お金が流通しにくくなり,個々人や企業の手元で遊休するのは不況だからであり,企業が生産的に資本を投下しても利潤を得られないからである。実物資産に投資して事業を行っても利潤を得られそうに社会状況であるからこそ,個人や企業は,他の形態でなく,いざとなればなんにでも転換できる貨幣のままで財産を保持しておこうとする。これを経済学では「流動性選好」と呼ぶ。しかし,これは結局何かに転換しようとしているから持っているのであって,経済が本格的に回復しなくてもわずかなきっかけがあれば,個人は貨幣を他の形態の財産に移し替えたり消費したりしてしまうだろう。その際に,インフレで目減りするリスクにもおびえざるを得ない。流動性選好とは結局は使うために貨幣を持つことであり,このとき代用貨幣は商品流通界内で一時的に休息しているだけと言ってよい。

 ただ,事態はもう少し複雑だ。流動性選好によって代用貨幣を保有するとしても,代用貨幣はそれ自体価値を持たないため,その通貨価値は常に変動リスクにさらされている。一方,資本主義経済では,実体経済に投資しなくとも金融資産で稼ぐことが可能である。そのため個人や企業は,金融資産の保有と売買による価値増殖を図る。これが「金融資産選好」である。金融資産価格が上昇し続けている間は,代用貨幣は金融資産の買い手と売り手の間だけを行き来し,いわゆる金融的流通に閉じ込められる。しかし,金融資産価値の価値は擬制的なものである。正確に言えば,もともと実体的な価値の裏付けを持つが,膨張するにつれてその基礎から離れていくものである。実体経済の収入が資本還元されて擬制的価値を持つ証券となり,さらに証券市場での売買によって擬制的価値は増殖する。証券が担保となってされに別種の証券が発行されるといった具合である。擬制資本価値は投機によって増殖するが,行き過ぎればどこかで崩壊せざるを得ない。崩壊とともに代用貨幣は金融的流通からはじき出され,やはり商品流通界に戻らざるを得ない。

 だから,人間は金貨は蓄蔵できても,カネゴンのように代用貨幣を蓄蔵することはできない。その理由は,カネゴンは代用貨幣にも絶対的な価値を見出せるが,人間は代用貨幣それ自体には価値がないという事実に振り回されるからである。流動性選好によってお金をため込むことはできても,それはやがて使うためであるし,インフレにも警戒しなければならない。金融資産選好によってお金をため込むことはできても,擬制資本価値はいつ崩壊するかわからない。代用貨幣は蓄蔵されるのではなく,商品経済界に戻る機会をうかがいながら,一時的に遊休するか,金融的に流通しているのである。





2024年9月6日金曜日

日本製鉄のUSスチール買収によってアメリカの安全保障が脅かされるのか?:ミッタル・スチールという前例から

 アメリカ政府の対米外国投資委員会は,日本製鉄のUSスチール買収が,国家安全保障上のリスクを生じさせるとする書簡を両社に送っていたという。日米同盟の絆と言われるものは,経済ナショナリズムとそれを利用した大統領選挙の都合によって簡単に覆されてしまうのだと,言わざるを得ない。

 いや,鉄鋼供給を外国企業に握られることに脅威を感じるのはもっともだという人がいるかもしれない。しかし,21世紀初頭にミッタル・スチール(現アルセロール・ミッタル)がアメリカで大規模買収を行った際,インド人オーナー一族がルクセンブルクに本社を置く企業であることによって,アメリカの安全保障は脅かされただろうか。当時買収されたのは,インランド・スチールとインターナショナル・スチール・グループ(ISG)であった。ISGの傘下にはベスレヘム・スチール,LTVスチール,ウェアトン・スチール,アクメ・スチールがあった。ちなみに売り払ったISGのオーナーはウィルバー・ロス氏であり,彼は後にトランプ政権の商務長官となって海外鉄鋼メーカーを非難する側に回った。

 大規模な前例から明らかだ。21世紀の今日,自動車用鋼板やブリキ鋼板や建設用鉄骨を製造する鉄鋼メーカーが友好国企業に買収されたところで,アメリカの安全保障に問題が生じるわけではない。あくまで問題だと言い張るならば,それは政治的都合にすぎない。

 日米同盟が,アメリカから見てどの程度のものであるのかを,私たちは冷静に見極める必要がある。

2024年9月5日木曜日

日本製鉄がUSスチール買収完了後のガバナンス方針を発表:買収が成立しても種々の問題は続く

 日本製鉄が,USスチール買収完了後のガバナンス方針を発表した。USスチールを買収しようとする場合,雇用維持,米国内での設備投資,地域社会との共存等々を求められることは最初から見えていたが,トランプ,ハリス両大統領候補やバイデン政権の反対方針が伝えられるに及び,一層強いコミットメントを発せざるを得なくなったようだ。以下,発表とは順序を変えながらコメントする。

 「日本製鉄はUSスチールに高度な生産および技術能力を供与します。これには、高炉におけるCO₂排出削減技術も含まれます」。これは約束するまでもなく当然そうするつもりであったろう。とくにハリスが大統領になった場合,アメリカはパリ協定にとどまり続け,高炉のCO2排出削減は強く求められるであろうからだ。

 「日本製鉄は、米国の鉄鋼市場において、USスチールの米国国内生産を優先します」というのは,日本から輸出ドライブはかけないという意味であろう。そのためにはUSスチールの生産拠点を強化しなければならない。

 「USスチールの既存の生産拠点への大規模な投資の実行」のうち,老朽化したモンバレー製鉄所への投資は負担になる。ただ,圧延・加工工程への投資に見えるので,とくに老朽化の激しいコークス工場や高炉・転炉のリフレッシュを約束させられるよりは経営合理性があるだろう。ゲイリー製鉄所の第14高炉改修は,もっとも健全な高炉一貫製鉄所をリフレッシュするわけだから,まず問題ない。なお,ここに書いていない大規模製鉄所だが,ビッグ・リバー・スチールはもとより最新鋭の高級鋼材も作れる大型電炉ミルであるから言及するまでもないのであろう。あと二つ,ナショナル・スチールから買収したグレートレークス製鉄所とグラニットシティ製鉄所があるのだが,前者はコロナ禍以来,高炉・転炉が休止されている。後者は高炉・転炉も動いているが年産200万トン以下である。言及してないということは,これらの扱いは争点になっていないのだろう。

 「USスチールの生産や雇用の海外移転は行いません」「本買収に伴うレイオフ、工場休止・閉鎖は行いません」というのは,日本製鉄にとって負担となる。モンバレーの老朽製鉄所を閉鎖することが困難になるからだ。逆に言えば,中西部の鉄鋼関係者や製鉄所地域の人々にとっての勝利である。

 このことは,むしろ日本の関係者に問題を突き付けているだろう。日本製鉄は日本でレイオフこそ行わないものの,「生産や雇用の海外移転」「工場休止・閉鎖」を進めているからだ。現に瀬戸内製鐵所呉地区では,高炉一貫生産システムを丸ごと閉鎖した。日本製鉄は日本でよりも,アメリカでの方が,強く生産維持のコミットメントを発している。また,「工場を閉鎖せずリフレッシュし続けよ」という社会的圧力は,本国である日本よりアメリカで強くかかっている。むしろ,日本の鉄鋼関係者や製鉄所地域はそれでいいのかということが問われている。

 しかし,モンバレーを維持し,圧延・加工工程だけリフレッシュして,それでどうなるかという問題がある。コークス工場や高炉・転炉に競争力がないまま動かし続ければ,輸入品やミニミル品との競争に敗れることは必至である。そうすると次のコミットが意味を持ってくるかもしれない。

 「USスチールの取締役の過半数は、米国籍とします」と「USスチールの通商措置に関する意思決定に対して、日本製鉄およびNSNAによる干渉がなされないことを確実にするため、通商措置に関する決定は独立取締役の過半数の承認を必要とすることとします」の組み合わせは,日本製鉄の足かせとなる可能性がある。端的に,USスチールが日本製鉄に対してアンチ・ダンピング訴訟を起こすかもしれないからだ。そんな馬鹿なと思う人がいるかもしれないが,前例がある。かつてNKKはナショナル・スチール(現在はUSスチールの一部)を子会社としていたが,ナショナル・スチールは通商訴訟においてNKKを訴えていた。子会社は親会社を訴え,親会社は子会社の主張が間違っていると抗弁していたのだ。NKKは結局,ナショナル・スチールをコントロールしきれずに手放した。

 日本製鉄は当然このことを知っているので,同様の事態を避けたいはずである。しかし,仮に反対の政治的圧力を乗り越えて買収を実現したとしても,このコミットメントが摩擦の発火点になる恐れがある。

「日本製鉄によるUSスチール買収完了後のガバナンス方針について」日本製鉄株式会社,2024年9月4日。
https://www.nipponsteel.com/news/20240904_050.html



2024年8月25日日曜日

上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年を読んで

 上野貴弘『グリーン戦争ーー気候変動の国際政治』中公新書,2024年。政治学の観点から気候変動対策をめぐる国際関係を論じた著作である。以下で述べるように,内容には勉強になった点も疑問点もあるが,何よりも地球温暖化問題が国際政治の容赦ない利害関係と駆け引きの中にあることを知るという点で,有益な一冊であった。

 一応経済学者である私にとっては,「政治」という視点からはこう見えるのかというところが勉強になった。とくに印象的だったのは2点だ。ひとつは,アメリカの気候変動対策がオバマ政権の「クリーン電力計画」からトランプ政権を経てバイデン政権の「インフレ抑制法(IRA)」に着地するまでの政治力学の作用である。なぜ気候変動対策が「インフレ抑制」という看板に含まれているのかが理解できた。もうひとつは,温室効果ガス(GHG)排出削減政策が,対策がほどこされていないがゆえに価格が安い輸入品の増加を招いてしまう,いわゆる「カーボンリーケージ」についてである。具体的にはカーボンリーケージ対策としての国境炭素調整(BCA)と自由貿易との関係がまだついていないこと,さらにBCAの方式が国によって異なることから対立が生じやすいことが理解できた。

 惜しいのは,温暖化対策がもっぱら「コスト」として把握されていることだ。たとえば住宅断熱や再エネの拡大,次世代製鉄や次世代モビリティへの置き換えは「投資」でもあって需要を作り出すのだが,本書にはその観点がない。政治に即して言えば,温暖化をめぐる政治主体の行動が,主張の説得力で正当性を得て支持者を増やしつつ,コストは最小化したい,というものとしてとらえられている。しかし,各国の政治家は,温暖化防止スキームのもとでGHG排出削減のために生活切りつめを国民に求めるのではなく,グリーンな経済・社会開発を実現し,雇用と所得を確保することで支持を得ようとする。この動きを把握しなければならないのではないか。温暖化対策をコスト負担をめぐる政治とみてしまっているところが,本書の叙述をせまっ苦しいものにしていると,私には思われた。


出版社ページ

https://www.chuko.co.jp/shinsho/2024/06/102807.html



2024年8月23日金曜日

「中国がくしゃみをすると,世界に嵐が起こる」,それが鉄鋼業

 「中国の鉄鋼過剰、世界揺るがす-業界全体が窮地に陥る恐れ」という記事がブルームバーグから配信されている。なぜ中国という一国の過剰生産が世界を揺るがすからというと,規模がバカでかいからである。

 中国は世界の鉄鋼生産の半分を占める超製鉄大国だ。2024年の生産量は不況が続くとしても10-11億トンになると予想できる。

 そして,2024年の中国からの鉄鋼輸出は1億トンを超える可能性がある。これは,前回,貿易摩擦を激しくした2015年の1億1200万トンと同水準だ。

 ただ,10億トン生産して1億トン輸出するというのは,10%の輸出比率にすぎない。過剰能力を抱えて輸出ドライブをかけると言っても,内需9億トンの方が需要の中心だ。日本鉄鋼業の輸出比率が40.6%に達することを考えれば,その低さは明らかである。おそらく中国の鉄鋼企業からしてみれば,輸出が主力市場にしているという感覚はないだろう。

 しかし,絶対量で1億トンの輸出というのは,大きい。日本の昨年の鉄鋼輸出3242万トンと比べても3倍以上である。輸出品が向かってくる輸入国の鉄鋼業からすれば脅威だ。もっとも,鉄鋼を消費する建設産業や機械工業からすれば大助かりであろう。

 このように,中国鉄鋼業は全体が途方もなく巨大であるために,さほど輸出ドライブをかけず,低い輸出比率であっても,巨大な輸出量となって世界に影響を与える。昔,「アメリカがくしゃみをすれば日本が風邪をひく」という言葉があったが,鉄鋼業においては「中国がくしゃみをすると,世界に嵐が起こる」のだ。

2024年8月19日月曜日

何年かに一度読みたくなる長谷正人『悪循環の現象学:「行為の意図せざる結果」をめぐって』

 長谷正人『悪循環の現象学:「行為の意図せざる結果」をめぐって』ハーベスト社,1991年。本書は妙に私の心に刺さり,何年かに1度読み返したくなる。今日,たぶん4度目くらいの読了をした。社会科学に対する割り切れなさと,結局は「透明人間」の視点での研究者になってしまったことへの後ろめたさ,そして「うまくやらねばならないと考えるほどおかしくなる」日々からの憂鬱に押されてのことなのかもしれない。 

 「行為の意図せざる結果」に関する理論は,経済学と経営学にもないわけではない。経済政策論では中西洋『日本における社会政策・労働問題研究:資本主義国家と労資関係 増補版』東京大学出版会,1982年であり,経営学では沼上幹『行為の経営学:経営学における意図せざる結果の探究』白桃書房,2000年である。これらも読んではいるのだが,その理解度には全く自信がない。長谷著は読者にやさしい本で,一応何が書いてあるかはわかるので,何度もそればかり読んでいるともいえる。

 「行為の意図せざる結果」を,長谷著のように問題行為→偽解決→問題行為という自己言及性のパラドックスとして強く把握するか,そこまで強い意味を込めずに集合行為の結果として生まれる行為者の目的とは異なる有意な結果とみるかで,事態の重みはだいぶ変わってくる。私は見様見真似で,鎌倉のオーバーツーリズム解決法を扱った学生の卒論指導で前者の観点を(精緻な混雑予報によって観光客が出向くのを控えると混雑しなくなる「自己破壊的予言」),中国の鉄鋼産業政策を扱った院生の投稿論文指導で後者の観点を(設備投資規制を民営企業がかいくぐって新規参入した結果,需要が満たされたという「結果オーライ(だが政策が優れていたわけではない)」)用いたことがある。いや本来,「行為の意図せざる結果」とはその程度の話ではなく,近代社会において社会科学者は何をどう語り得るかに関わる問題なのだが,なかなか歯の立たないことでもある。

Amazonの本書ページ
https://www.amazon.co.jp/dp/4938551144/



2024年8月7日水曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その3・完)

  Ⅰ はじめに

Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上その1
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
(以上その2
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに
(以上今回)

V 遊休とバブル

貨幣の遊休

 さて,民間経済活動に対する信用供与によって投入された預金貨幣であれ,政府が発行して流通に投じられた不換国家貨幣であれ,財政赤字によって投入された預金貨幣であれ,はたまた預金貨幣が預金引き出しによって形態転換された中央銀行券であれ,商品貨幣そのものでなく代用貨幣であることは変わりない。代用貨幣はそれ自体価値を持たないため,退蔵されえない。つまりいったん発行されると,商品流通を媒介し続けるか,民間経済活動に貸し出された預金貨幣に限っては,銀行に返済されて消滅するかである。

 しかし,本質規定としてはそうであっても,代用貨幣の実際の運動を詳細に見れば,一時的に持ち手の手元で停滞し,一定期間は商品流通を媒介しないこともある。これは,本質的には貨幣の流通速度の低下と言える事態であり,事実上の価格標準を変更しているわけではない。しかし,ことは人々の目には本質と違って見える。本質的には商品生産の拡大による資本蓄積が困難であることが代用貨幣を遊休させるのであるが,個々の経済主体の意識からみれば,他の商品に対する価値保蔵の相対的便宜や,種々の商品への来るべき転換の便宜確保が代用貨幣保有の動機となり,もっぱらそのことによって需要が停滞しているように映る。いわゆる流動性選好である。こうして家計がもつたんす預金や定期性預金,企業が持つ手元現預金,金融機関保有現金などが積み上がる 。これらの遊休貨幣は,物価に影響する。遊休貨幣が遊休貨幣のままとどまるということは,すなわち有効需要の減退によって不況への突入ないしは継続が生じ,物価が下落するということだからである。

 この物価下落は本質的には不況によって商品流通が停滞することによる物価下落であるから,一時的であり,また継続すれば実質的である。別の角度から言えば,一時的に貨幣の購買力が上昇し,後に商品生産費が切り下がればもとにもどるような状態である。価格標準が切り上がって貨幣的デフレが起こったわけではない。個々の経済主体の動機に即して見れば流動性選好によるものであるから貨幣的と見えるが,それは社会的視点と個々の個別経済主体視点の混同である。物価下落そのものは,商品の需要が弱いことから生じ,またそれが継続して生産コストの切り下げが生じることから生じるのであり,個々の経済主体による流動性選好は,この価格下落を媒介し,加速するに過ぎない。なので,社会的規定としては一時的・実質的下落と見なければならない。

 とはいえ,流動性選好は代表貨幣遊休を極端にしたり長引かせたりすることで,物価下落をも極端にしたり長引かせたりすることは否定できない。代用貨幣の遊休,不況,一時的・実質的物価下落の関係は,今日の経済の個々の局面を理解するうえで極めて重要である。

バブル

 代用貨幣は遊休するが蓄蔵されえない。遊休は,本質的には商品生産・流通の停滞から生じるが,こうして遊休した貨幣に単なる継続保有以外に,もうひとつ,擬制的な価値増殖機会が現代経済には与えられている。それが金融資産への投下である。

 金融資産への投下は,新規発行株式や新規発行社債の購入であれば,生産的投資と言いうる。購入資金が生産的用途に充てられ,商品流通媒介に復帰するからである。しかし,流通市場での金融資産購入は,擬制資本に価格を付け,持ち手を転換しているだけである。金融資産からの収益は,株式の配当や社債の利子,不動産証券の賃料配当であれば,利潤からの分配と言えるが,多くは売買差益(キャピタル・ゲイン)である。今日,資本市場の一大部分がこのキャピタル・ゲイン追求行動によって成り立っており,そもそも銀行貸し付けによる信用創造が,事実上キャピタル・ゲインの追求を目的として行われる場合も少なくない。

 こうなると,貨幣流通量の一部は,商品流通を媒介せずに金融的流通にとどまり,擬制資本の価格形成だけを媒介し続けるようになる。その規模が拡大し,ほんらいの物価から見かけ上独立して金融資産価格のみが高騰し,商品流通の要求から離れて金融的流通に一層の貨幣が投じられることがありうる。この現象が,バブルと呼ばれるのである。

 バブルは,現代において貨幣の蓄蔵が起こりえず,代用貨幣の遊休だけが生じることから派生する現象である。と同時に,単なる遊休とは異なる現象でもある。

遊休,バブルの攪乱作用

 不況は一次的・実質的物価下落を引き起こし,貨幣流通量を停滞させるとともに,流通内の貨幣を遊休させる。遊休貨幣はまた商品側にある程度反作用し,不況を悪化させ長引かせる。バブルは実物経済の景気から相対的に独立して金融資産価格のみを騰貴させ,貨幣流通量の一部を金融的流通に滞留させる。

 政府が財政赤字をもって投入した預金貨幣が遊休貨幣やバブルに帰結した場合は,より複雑である。本来,これら外部からの代用貨幣投入は貨幣的インフレーションを引き起こす可能性を持っている。しかし,貯蓄となって遊休する貨幣が大きくなれば,名目的物価上昇としての貨幣的インフレの発現は,一時的物価下落によって遅延させられるし,実質的物価下落によって相殺されるかもしれない。このとき生産的に支出すれば可能だったはずの景気回復と一時的・実質的物価上昇もまた遅延させられる。またバブルが生じた場合は,貨幣的インフレ,景気回復と一時的・実質的物価上昇の代わりにバブルが生じるということになる。遊休とバブルが関与した場合の物価変動の複雑性には十分な注意が必要である。

 本節の解説をまとめると表4のようになる。遊休は物価変動要因であるが,バブルは物価変動要因とは異なるため独自の欄を設けていない。





VI 外国為替相場と物価

 外国為替相場の騰落と物価との関係は,本来は二通りに分けて考える必要がある。本来,経済法則として生じるのは各国の物価変動率の差異が外国為替相場の変動を引き起こすことである。例えば,各国における貨幣的インフレ率の相違によって事実上の価格標準の切り下げ率の違いが生じるために,外国為替相場は変化する。また,各国の景況と生産性向上に伴う一時的・実質的物価変動が原因となって,外国為替相場は一時的,さらに恒久的に変化する。これらの場合は,物価変動は結果でなく原因である。これらは理論的には重要であるが,物価変動の種別を扱う本稿の主題ではない。

 ここでの問題は,外国為替相場が上記以外の何らかの理由で先行して変動し,それが物価変動を引き起こす場合である。この理由として貿易と金融取引の不均衡があげられるが,今日には金融的要因による変動が大きいと考えられる。これにより自国通貨の上昇が続けば,自国通貨建てでみた輸入品価格は下落するし,自国通貨の下落が続けば自国通貨建てで見た輸入品の価格は高騰する。この変動は,為替相場の騰落自体が一時的であれば一時的物価変動であり,持続して自国産業の生産費や産業組織に影響を与えるならば実質的変動である。

 この変動は通貨の交換比率の変動が転じて通貨と商品の交換比率の変動となったものであるから,貨幣的物価変動と言ってよい。しかし,貨幣商品の生産費という意味での価値変動ではないし,価格標準の変動でもない。交換手段としての貨幣の購買力の変動であり,貨幣と商品の交換比率の変動である。通貨安による輸入物価の上昇は,日常用語では「コストプッシュ・インフレ」などと呼ばれるが,その実体は自国通貨購買力の低下による一時的・実質的物価変動であり,貨幣的インフレではないのである。

 本節の解説をまとめると表5のようになる。



VII おわりに

 ここまで論じてきた種々の物価変動の違いをまとめると表6のようになる。

 日常用語でいうインフレ,デフレは,それぞれ持続的な物価上昇と,持続的な物価下落のことである。しかし,これは物価の一時的変動,実質的変動,名目的変動という重要な区別,また実物的変動と貨幣的変動という重要な区別を覆い隠したものである。

 経済が好況や不況に向かう際の,商品の需給関係に起因する物価の一時的変動と実質的変動は実物的変動である。その根拠は商品の需給関係や生産諸条件や産業組織にあるのであって,貨幣的要因によって起こるものではない。自立的好況による物価上昇は「ディマンド・プル・インフレーション」と呼ばれるが,厳密な意味でのインフレーションではない。なお,課税等により,商品流通の外部から流通する貨幣を強行に引き抜いた場合は,貨幣的要因が実物的要因に作用し,実質的物価下落を伴う不況となるが,この場合も貨幣的要因の作用は間接的であり,直接の要因は実物的要因である。

 物価の名目的変動は貨幣的変動である。商品の需給関係や生産諸条件や産業組織によらず,貨幣の側の要因のみによって生じるからである。とりわけ,価格標準に起因する名目的変動こそ,厳密な意味でのインフレーション,デフレーションであり,また貨幣的インフレ,デフレである。管理通貨制が採用されている現代においては,それは不換代用貨幣の商品流通に外在的な投入による名目的物価上昇,すなわち貨幣的インフレという形でのみ起こりうる。

 代用貨幣の遊休は,本質論としては商品の需給関係の需要不足・供給過剰方向への変動や,商品生産条件の変動を反映したものである。しかし,流動性選好は商品の側に反作用し,物価の一時的・実質的下落の程度や継続期間に影響する。つまり遊休は,この表では最上位の2項目に属するが,その在り方を変動させ,攪乱させる作用を持つ。またバブルはほんらいの物価変動ではないため,この表では独立した項目にならない。

 代用貨幣の遊休とバブルは,貨幣流通を攪乱する。価値保蔵の動機で代用貨幣の遊休が持続すると不況を加速し,一時的・実質的物価下落を加速する。遊休貨幣が金融資産購入,とくにキャピタル・ゲイン狙いのそれに投じられると,商品流通を媒介するはずの貨幣流通量の一部が,相対的に独自な金融的流通を形成する。この商品流通と乖離した金融的流通の拡大が,資産価格の高騰とともに生じるのがバブルである。遊休と金融的流通は,商品流通を媒介する貨幣流通や,金融・財政政策の波及をかく乱する。

 注意すべきは,金融・財政とインフレ,デフレの関係である。銀行信用の伸縮は,好況または不況に伴って起こる物価の一時的変動や実質的変動を加速するし,バブルの発生や崩壊を促進する。しかし,厳密な意味での,言葉を換えていえば貨幣的なインフレ,デフレを引き起こすことはない。他方,不換国家紙幣の発行や,財政赤字による預金貨幣の散布は,貨幣的インフレの原因となる。ただし,財政支出がどれほど商品の生産と流通を誘発するかによって,貨幣的インフレが現実化するかどうか,貨幣的インフレが一時的・実質的物価上昇とともに現れるかどうかが左右される。財政拡張による好況期の物価上昇が「ディマンド・プル・インフレ」と呼ばれる時,そこには貨幣的インフレと一時的・実質的物価上昇が混在しているのである。生産や雇用の拡大を意図した財政拡張は,遊休とバブルによってその効果を減殺されたり,遅延させられたりすることもある。貨幣的デフレは,管理通貨制が採用されている現代では生じ得ない。財政黒字によって商品流通に外在的に預金貨幣・中央銀行券を引き上げると商品流通量も縮小して不況となり,物価は名目的にではなく一時的・実質的に下落してしまうからである。

 外国為替相場の変動に起因する物価変動は,通貨と輸入商品との交換比率の変動によるものであり,一時的または実質的物価変動である。ただし,通貨の交換比率の変動が転じて通貨と商品の交換比率の変動となったものであるから,貨幣的物価変動と言える。自国通貨安に起因する物価上昇は「コストプッシュ・インフレーション」と呼ばれるが,その実体は自国通貨購買力の低下による一時的・実質的物価上昇であって貨幣的インフレではない。

 インフレ,デフレと好況,不況,バブル,金融政策と財政政策の効果をめぐる諸問題は,以上の区別と関連を踏まえて論じられるべきである。


(完)



2024年8月6日火曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その2)

 Ⅰ はじめに

Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上その1
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
(以上今回)
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに


IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか

要因分類

 一時的,実質的物価変動が,景気の拡大や停滞による商品の需給変動によって引き起こされることは明らかでる。では,現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるかというと,すでに述べたように不換代用貨幣の商品流通外からの投入によってである。しかし,そうした代用貨幣の一方的投入はどのように引き起こされるか。

 不換代用貨幣が商品流通内に一方的に投入され,結果として純投入となる経路は,いくとおりか考えられる。
(1)銀行の信用創造による預金貨幣の創出,あるいは預金貨幣から転換された中央銀行券の流通
(2)政府による不換国家貨幣の発行
(3)財政赤字を通した,政府による預金貨幣での支出超過

 それぞれの場合について,貨幣的インフレが生じるかどうかを考えよう。

銀行の信用創造

 ここでは,民間の経済主体,主には企業,また時には家計の求めに応じて銀行が貸付や割引を行う際のことを指す。国債入札による政府への貸し付けによって政府の支出超過を支える場合は,次項で考察するので,除くものとする。

 さて,銀行が民間の経済主体に貸付や割引を行うのは,それらの主体が生産活動や消費活動のための貨幣を必要としているからである。企業は利潤追求を目的に機械設備や原材料を仕入れ,労働者に賃金を払い,必要と思われる製品を保管し,流通させるために貨幣を必要とし,銀行から借り入れる。家計は,のちの収入を引き当てにして,これを先取りする形で銀行から住宅ローン等を借り入れる。その際に,銀行は自らの手形である預金を発行して貸し付ける。別の言い方をすれば,借り手の預金口座に残高を設定する形で貸し付ける。銀行のバランスシート上では,資産側に貸付金,負債側に預金が増加する。これが預金貨幣の創造であり,新規発行である。借り手は必要な支払いを預金振替で行うこともできるし,預金を引き出して中央銀行券に形態転換し,これを現金として購買することも可能である。

 企業の利潤追求活動が成功するか,少なくとも企業が倒産しない程度に継続し,家計が事後の収入をそれなりに得られた場合は,金利とともに元本が返済される。返済に際しては,企業や家計は自己の口座に返済元本を預け入れる。銀行は,バランスシート上で,資産側から貸付金,負債側から預金を同時に除去することで,返済を完了する。これは預金貨幣の還流・消却でもある。

 この全過程を見ると,預金貨幣は,商品流通のために新規発行され,持ち手を変え,時に一時的に中央銀行券に姿を変えながら,実際に商品流通を媒介する。そして,返済の際に発行銀行に還流して消滅する。

 つまり,民間経済主体に貸し付けられる預金貨幣は,商品流通の側の要求に応じて流通に投じられる。そして,流通から出ることもできる。ただし,退蔵されることはなく,流通から出れば消滅するのである。不換代用貨幣である預金貨幣が,このように商品流通側の要求に応じて伸縮できるのは,預金貨幣が信用貨幣,具体的には銀行の債務だからであり,銀行が貸す時に生まれ,銀行に返済される時に消えるからである。

 さて,個々の貸付・返済の元本についてみれば,貨幣流通量の増大と縮小はゼロサムである。しかし,社会全体としてみれば,商品流通量が拡大する好況期には,銀行の新規貸付額が増加し,過去の貸付の返済額を上回るだろう。逆に商品流通量が縮小するほどの不況になれば,新規貸付が停滞して過去の貸付の返済額を下回るだろう。こうして,経済成長や経済収縮に対応した貨幣量が確保される。

 このように,銀行の民間経済活動への貸し付けや割引に起因する預金貨幣の流通量は,商品流通に対応して伸縮するものであり,この意味で預金貨幣の供給は内生的である。預金貨幣は不換代用貨幣であるにもかかわらず,民間経済活動への信用供与である限り,流通外から一方的に投入されることはないのである。したがって,銀行が企業の求めに応じて活発に信用供与を行っても,貨幣的インフレーションは生じない。起こるとすれば,好況を信用拡大が支えることによる一時的・実質的物価上昇である。

 銀行の過大融資が「信用インフレーション」を起こすという説があるが,これは厳密な意味でのインフレーションではなく,好況を信用拡大が支えることによる一時的・実質的物価上昇である。逆に,金融引き締めが「デフレ」を起こすという説があるが,これもまた厳密な意味でのデフレーションではなく,不況の際の信用収縮による一時的・実質的物価下落である。だから,中央銀行の金融政策によって銀行の信用供与を促進・抑制することを通してでは,景気を刺激することや過熱を抑制することはできても,貨幣的インフレも貨幣的デフレも起こすことはできないのである。1990年代以降の日本における「貨幣的現象としてのデフレが生じた」「日銀の金融緩和不足がデフレを起こした」「日銀は超金融緩和によってインフレを起こそうとした」という議論は,いずれも本来の貨幣的インフレ,デフレとは異なるものをそのように呼び,また実物的な不況を貨幣的現象と取り違え,日銀の権限と責任を過大視した議論である。

政府による不換国家貨幣の発行

 銀行による信用創造とある意味で対極にあるのが政府による不換国家貨幣の発行である。不換国家貨幣は紙幣のばあいと補助硬貨の場合がある。一般的に補助硬貨は小口流通円滑化のために発行されるので,通貨供給量の増加を引き起こすのは不換国家紙幣の場合であろう。政府は,自らの資産として不換国家貨幣を発行し,これを支出する。その支出は,民間経済活動の要求とは全く独立に行われるので,商品流通量とは独立に貨幣流通量だけが一方的に増える。

 ただし,この政府支出が製品在庫の直接買い取り,困窮する消費者の購買力増大による製品在庫の間接買い取り,遊休設備や失業者を稼働させ原材料在庫を流通させての生産活動の増大などにつながる限りは,商品流通量も増大するのであって,それが貨幣量通量の増大と釣り合っている限りでは,物価は名目的には上昇しない。むしろ,好況が惹起されることで一部商品の需要が超過となって一時的上昇が引き起こされるだろう。

 問題は,政府支出の増加が,すでに生産資源のフル稼働のもとで行われたり,戦争時の軍需のように生産した商品を流通外で消耗してしまったり,独占・寡占などの産業組織上の問題に突き当たったりすることにより,商品生産増加を十分に伴わず,製品価格の上昇を引き起こす場合である。この価格上昇は一部の製品価格の上昇に始まるが,産業連関を通して経済全体に浸透し,ついには全般的名目的物価上昇を引き起こすだろう。すなわち貨幣的インフレーションである。不換国家貨幣の発行は,商品流通量の増大に相殺されない限り,貨幣的インフレを引き起こすのである。

 では,銀行融資が回収されることで信用貨幣の流通量が収縮するように,課税によって不換国家貨幣が回収されるとどうなるのか。

 民間活動向け信用創造と異なるのは,不換国家貨幣は流通に投じられる時点で外部投入であり,投入されれば貨幣的インフレを誘発する効果を持っていることである。いったん貨幣的インフレが生じてしまうと,価格標準が事実上切り下がっているために,増加した代用貨幣量がそのまま流通に必要な貨幣量となってしまう。この後に,課税によって不換国家貨幣が回収されると,それは商品流通を媒介している貨幣量を外部から引き抜くことになり,商品流通量そのものを縮小させ,不況を誘発する。その際物価は下落するであろうが,それは一時的下落であり,持続すれば生産コストの高い生産者の退出による生産コストの低下をもたらし,実質的な物価下落となるだろう。不換国家貨幣の投入による貨幣的インフレがいったん起こると,不換国家貨幣の回収によっても貨幣的デフレを起こして相殺することはできないのである。これが「インフレ・デフレの非対称性」の具体的表現である。

財政赤字を通した,政府による預金貨幣での支出超過

 いささか複雑なのは,財政赤字が政府による預金貨幣創出によってなされる場合である。これは政府が国家貨幣を発行できない状況の下で,財政赤字を出す際に起こることであるが,今日のほとんどの諸国での財政赤字とはこのようなものである。あえて言うならば中央銀行券インフレーションではなく預金貨幣インフレーションである(岡橋,1948)。

 この支出は,政府が支出先の民間経済主体に対して,預金貨幣を振り込むことによって行われる。具体的には,政府は政府預金を中央銀行に振り込み,中央銀行が一般銀行に中央銀行当座預金を振り込み,一般銀行が民間経済主体,例えば公共事業を受注した企業に銀行預金を振り込むのである。もちろん,政府預金が不足すれば,国債を発行して借り入れを行わねばならない。

 この時,商品流通の外部から預金貨幣が流通に投じられる。預金が引き出されれば,預金貨幣に代わって中央銀行券が投じられる。ここでは,不換国家貨幣を投入した場合と同様の効果が生じる。商品生産を誘発できれば名目的物価上昇は起こらず,十分に誘発できなければ名目的物価上昇,すなわち貨幣的インフレが生じる。

 ただし,不換国家貨幣の発行と異なるのは,政府が国債を発行して借り入れを行っていることである。そこで,政府の借り入れによって流通している貨幣が吸収されてしまい,それが投入される貨幣量を相殺しないのかという問題を検討しておく必要がある。

 まず,中央銀行が国債を引き受ける場合を考えよう。この場合,国債による借り入れ分だけ,中央銀行預金貨幣が政府預金として新規発行される。この政府預金が支出されると商品流通に対して外的に一般銀行預金貨幣が投じられる。民間経済主体から貨幣が吸い上げられることはないので,貨幣流通量が純増していることは明らかである。

 では,民間銀行が国債を購入した場合はどうなるか。この場合,国債購入代金は民間銀行が持つ中央銀行当座預金から政府預金へと払い込まれる。つまり,この時も民間経済主体から貨幣が吸い上げられることはない。もっとも,銀行準備預金が社会全体として減少するため,これによって銀行の信用創造が制約されることはありうる。しかしながら,政府支出によって預金貨幣が増大すると,その分だけ中央銀行当座預金も増大するため,結局銀行準備預金はプラスマイナスゼロとなり,結果として信用創造は制約されない。つまり,民間銀行が国債を購入した場合も,やはり預金貨幣流通量は純増するのである。これは,国債の購入が,商品流通を媒介している預金貨幣によってではなく,商品流通を媒介していない中央銀行当座預金によってなされるためである。

 こうして,財政赤字を通した預金貨幣による支出も,国債を中央銀行が引き受けるか民間銀行が購入するかにかかわらず,貨幣的インフレを引き起こす要因となるのである。中央銀行が引き受けた場合にだけ貨幣的インフレ圧力が生じるという通念は誤りである。

 さて,不換国家貨幣による場合と同じく,いったん貨幣的インフレが生じてしまうと,価格標準が事実上切り下がっているために,増加した代用貨幣量,つまり預金貨幣と,預金が引き出された結果としての中央銀行券を合わせた総量が,そのまま流通に必要な貨幣量となってしまう。では,この後で政府が財政黒字を計上すれば貨幣的デフレが起こるだろうか。財政黒字というのは,単純化すれば支出を上回る課税を行った結果である。課税は,一部は中央銀行券で納付されるものもあるが,多くは納税者の預金口座から引き落とされ,銀行を通して政府預金へと振り込まれる。だから課税が政府支出を上回ると,預金貨幣の流通量が縮小する。すると,不換国家貨幣の回収と同じように,商品流通量そのものを縮小させ,不況を誘発する。その際の物価下落は一時的下落であり,持続すれば実質的下落となる。財政赤字は貨幣的インフレ圧力を生じさせるが,財政黒字は貨幣的デフレ圧力を生じさせない。生じるのは不況と一時的・実質的物価下落への圧力なのである。これもまた「インフレ・デフレの非対称性」の具体的表現である。
 本節の解説をまとめると表3のようになる。


その3に続く)

<参考文献>
岡橋保(1948)『インフレーションの経済理論:預金貨幣インフレーションの研究』世界文化社。








2024年8月5日月曜日

物価変動分類論:インフレ,デフレ,遊休,バブルと金融・財政政策(その1)

Ⅰ はじめに
Ⅱ 物価の一時的変動と実質的変動
Ⅲ 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ
(以上今回)
IV 現代の貨幣的インフレは何によって引き起こされるか
V 遊休とバブル
VI 外国為替相場と物価
VII おわりに

I はじめに

 今日の日常用語では,すべての持続的物価上昇はインフレーションと呼ばれ,すべての持続的物価下落はデフレーションと呼ばれている。しかし,これは一次的・実質的物価変動と名目的物価変動を混同し,実物的変動と貨幣的変動をも混同して無内容化した用語法に他ならない。それらの区分をつけないことは,現状分析を誤らせる一因になる。本稿では,これらの区分をつけて,現状分析の一助とすることを目的に,物価変動の分類について考察する。

 本稿で考察する物価変動の分類は,いずれも抽象度の高い分類であるが,現状分析を左右するようなものである。例えばアベノミクス期に日銀による超金融緩和にもかかわらず物価上昇が見られなかったこと,ポストコロナ期になって,国内的要因と対外関係の双方から物価上昇がみられるようになったことを理解するためにも重要である。また学説の問題として,「デフレは貨幣的現象であり,日銀の金融緩和で解決できる」としたリフレーション派の主張の問題点を明らかにし,実際に1990-2000年代の「デフレ」とは何であり,ひるがえって現在の「インフレ」とは何であるかを明らかにするためにも重要である。したがい,まったく今日的に意味のある分類なのである。


II 物価の一時的変動と実質的変動

 まず一社会内部での実物要因による物価変動を考える。

 特定商品に対する需給変動によって価格は上下しうる。特に景気の上昇局面では一定分野の商品需要が増大して価格は上昇し,下降局面では減退することによって価格は下落する。これが景気変動に対応した物価の一時的変動である。しかし,これは需給不均衡による変動であるから,不均衡が解消されれば物価も元に戻るという性質のものである。ゆえに一時的変動という。

 ところが需給変動がさらに産業の構造変動を引き起こし,産業間の構成が変わったり,新技術が導入されたり,製品構成がかわるなどして,一定分野での商品の生産費そのものが変化すると,これは元に戻ることがない。よって商品生産と価値生産そのものに根拠を持つ実質的変動である。もっとも単純には,物価の一時的上昇に対応してコストの高い低効率の生産者が参入すると,商品の生産費が上昇して物価上昇は実質化するし,逆に物価の一時的低下に対応してコストの高い低効率の生産者が退出すると,商品の生産費が低下して物価下落が実質化する。

 また,産業組織の構造により,独占・寡占構造やブランド信仰,ボトルネック,商品需要または供給の非弾力性などが一定期間持続し,市場の諸力と競争によっては短期間で解消しない場合がある。物価変動が産業組織に根拠を持って一定期間持続するような場合は,生産そのものではないが価値分配の在り方に根拠を持つ,実質的変動である。

 こうした一時的・実質的変動は,商品の需給関係か,商品の生産条件か,産業組織に由来する価値分配条件の変化によっておこるものである。つまり,実物経済に由来する物価変動であり,貨幣的変動ではない。

 本節の解説をまとめると表1のようになる。


III 物価の名目的変動,そして厳密な意味でのインフレ,デフレ

物価の名目的変動の定義

 以上の場合と全く異なるのが,物価の名目的変動である。それは一次的・実質的変動とともに現れるが,理論的には分離して把握しなければならない。名目的変動とは,それが貫徹した場合には全商品の物価の一律上昇や一律下落が見られるような変動である。商品の生産諸条件は変化せず,実質的生産費も変動しない。産業組織によって商品間の相対関係が変化することもない。ただ価格のみが切り上がるか,切り下がる。こうした変動が名目的変動である。そして,言葉の厳密な意味でのインフレーションとデフレーションは,このうちの全部ではないが,この中に含まれる。

 厳密な意味でのインフレ,デフレがどのようなメカニズムによって生じるか,また実物的現象か貨幣的現象かを点検しよう。


貨幣商品価値の変動と公定価格標準の変更

 まず商品貨幣が流通し,公定価格標準が存在している下での,いいかえると金属本位制のもとでの名目的物価変動を考えよう。

 これが生じるのは,貨幣商品の価値変動が起こる場合である。ここでいう価値とは労働価値,いわば実物的生産コストのことである。金を転形とする貨幣商品の生産コストは上がることも下がることもある。例えば,いま金1グラムの価値量をYとし,また金1グラムをX円と称するように価格標準(貨幣商品重量当たりの貨幣名)が公定されているとしよう。つまり,金1グラム=X円=価値量Yとなる。この時に金の生産費が半分となれば,金1グラム=X円=価値量Y/2となるため,X円があらわす価値量は半分となり,物価は2倍となる。この場合,商品の側では何ら生産にも分配にも変化は生じていないが,貨幣商品の価値は実質的に変動している。よってこの価格変動は実質的であり,また貨幣的要因によって生じたものである。

 次に,公定価格標準が存在している下で,その切り上げや切り下げが行われる場合である。例えば公定価格標準が金1グラム=X円であるとしよう。この公定価格標準が例えば金1グラム=2X円に変更されれば,物価は全般的に2倍となる。この場合も,商品の側の生産費や価値分配の諸条件は何ら変動していない。よって名目的変動であり,また貨幣的要因によって生じたものである。

 こうした変動は理論的には重要であるが,商品貨幣が流通せず,また公定価格標準が存在しない今日では生じ得ない物価変動でもある。


不換代用貨幣の商品流通外からの投入・引き上げ

 管理通貨制の下で物価の名目的変動が生じるのは,不換代用貨幣が商品流通の外部から一方的に投入される場合である。

 価値を持つ商品貨幣や,これと交換可能な兌換貨幣が投入されたときには,投入された貨幣は早晩,商品流通から排除される。貨幣価値の毀損をおそれた人々は商品貨幣を貴金属として退蔵し,あるいは兌換貨幣を商品貨幣に交換してやはり退蔵するからである。こうして,流通する貨幣量は商品流通に必要な貨幣量に調節され,物価は変動しない。

 しかし,兌換不可能な代用貨幣が商品流通外から一方的に投じられると,それらは流通内にとどまり,出ていくことができない。もともと,商品流通量はそれに対応する商品価値量をもっている。そして商品価値量は貨幣商品重量によって表現される。これが商品流通に必要な貨幣量(流通必要貨幣量)である。そして流通必要貨幣量は価格標準(例えば金1グラム=X円)によって価格総量に換算される。ところが代用貨幣が一方的に投入されると,必要貨幣量に対して現実の価格総量が増大してしまい,代用貨幣が代表する貨幣量が縮小し,価格標準が事実上切り下げる(例えば金1グラム=2X円)。すると,商品価格が全般的に上昇する。この場合も,商品の側の価値生産や価値分配の諸条件は何ら変動していない。よって名目的上昇である。また,その原因から言って貨幣的変動である。

 この法則が貫徹するのは,投入された貨幣が効果的に生産を拡大しない場合である。このとき,ただ全般的物価水準のみが名目的に引きあがる。とはいえ,その具体的な形態はいろいろであり,例えば景気対策として財政が拡大されているが遊休資源がなく生産を拡大できずに企業物価から先行して高騰する場合,あるいは産業組織上の問題により,遊休設備や失業者が残存しているのに効果的に稼働させられず,ボトルネック財の価格が跳ね上がってしまう場合などがある。こうして現象的には貨幣的要因と実物的要因が混合してくるし,局所的な一時的・実質的物価上昇と名目的物価上昇も混合してくる。しかし,一時的・実物的要因がどのようなものであれ,もともとの物価上昇圧力は代用貨幣の投入という貨幣的要因に由来するのであり,本質的には価格標準の事実上切り下げによる名目的なものである。

 流通外からの代用貨幣投入が,在庫の販売や遊休設備の稼働による生産増など,投入された貨幣量に見合った商品流通量の増大を引き起こせば物価は変動しない。流通必要貨幣量と実際に流通する代用貨幣の表す価格総額がともに増大しているからである。そして景気は回復し,失業者は減少する。いわゆるケインズ的財政政策が成功した場合がこれにあたる。

 反対に,代用貨幣が商品流通から強権的に引き上げられた場合についてみよう。この場合は商品流通が妨げられるので,代用貨幣流通量のみならず,商品流通量と必要流通貨幣量が同時に縮小する。そのため名目的物価下落は起こらない。むしろ不況となって一時的,さらには実質的下落が生じる。不換代用貨幣の一方投入は物価を名目的に上昇させ,また好況とも不況とも並立するが,その一方的引き上げは商品流通が縮小する実物要因を通して物価を実質的に下落させ,不況とともにあるという非対称性がある。これは「インフレ,デフレの非対称性」と呼ばれるものの本質である。


貨幣的現象としての厳密な意味でのインフレ,デフレ

 貨幣的要因による物価変動のうち,貨幣商品の価値変動は価値尺度の次元でのものであり,公定価格標準の切り下げと不換代用貨幣の流通外からの一方的投入は,貨幣商品重量当たりの貨幣名,すなわち価格標準の次元でのものである。このうち価格標準の変動による名目的変動が厳密な意味でのインフレーション,デフレーションである。厳密な意味でのインフレ,デフレは商品価値の生産や分配条件に由来せず,貨幣商品の生産条件にすら依存しない,よって名目的であるという意味でインフレ,デフレの名にふさわしく,また貨幣的現象である。以下,わずらわしさを避けるために「インフレ」,「デフレ」は日常用語としての意味で用い,厳密な意味でのインフレ,デフレを「貨幣的インフレ」,「貨幣的デフレ」と呼ぶ。

 管理通貨制度下の現代においては,公定価格標準の変更は起こらない。よって,現代における貨幣的インフレは,不換代用貨幣の流通外からの一方的投入によって生じる。また現代においては,貨幣的デフレは起き得ない。「デフレ」「貨幣的現象としてのデフレ」などと呼ばれているものは,実は不況に伴う一時的または実質的物価下落なのである。

 本節の解説をまとめると表2のようになる。


その2に続く)


「キャッシュレス決済」の元祖としての預金振替:オープンキャンパス企画「金融・経済博物館」あいさつ

 東北大学オープンキャンパス(7/30-7/31実施)経済学部企画「金融・経済博物館」リーフレット掲載あいさつ。もう何度も書いたが,当座性預金は今日の貨幣の主要部分であり,「デジタル通貨」であり「キャッシュレス決済」である。「21世紀,デジタル技術の発達により,デジタル通貨とキャッシュレス決済が出現した」というのは間違いなのでご注意を。

--

 東北大学経済学部特設「金融・経済博物館」へようこそ!経済学部が収集しためずらしい貨幣や有価証券を展示しています。

 市場経済において,貨幣はものの価値を測り,交換を円滑に行い,後払いを可能にし,富を蓄積するツールとなるといった,大切な機能を担っています。すべての機能を一身に集めた万能貨幣は金や銀などの貴金属です。しかし,貴金属という「もの」を調達し,とりあつかう不便さから,様々な形の代用貨幣が生み出され,そちらの方が流通してきました。それが銀行券や政府紙幣です。代用貨幣は便利ですが,価値が目減りするインフレーションというリスクもあります。経済発展のための努力と,それに伴う矛盾との格闘の歴史が,過去の貨幣には表現されているのです。

 形がないためにここに展示できない代用貨幣もあります。それは,当座預金や普通預金といった預金貨幣です。実は,「預金で支払う」ことこそ「キャッシュレス決済」の元祖であり中核です。コンピュータがなかった頃から行われている預金決済が発達して,今日の様々な「キャッシュレス決済」につながっています。数字だけの存在もまた,貨幣の歴史をつくってきたのです。

 貨幣の不思議さと重要な役割について,この博物館の展示をご覧になりながら考えていただけると幸いです。

2024年8月4日日曜日

貨幣分類論(その5・完。支払方法分類。流通領域。兌換と不換。中央銀行デジタル通貨)

Ⅰ はじめに

Ⅱ 外形的分類
(以上,その1) 

Ⅲ 本質分類
Ⅳ 形態分類と物的定在分類
(以上,その2

V 通用根拠分類
(以上,その3

VI 機能分類
(以上,その4

VII 支払方法分類
VIII 流通領域
IX 兌換代用貨幣と不換代用貨幣
X 中央銀行デジタル通貨(CBDC)の場合
XI おわりに
(以上,今回)


VII 支払方法分類

 支払い方法による分類は,特に現物受け渡しか振替か,二者間取引か三者間取引かが重要である。

 この違いを規定するのは,経済的形態と物的素材である。総じて現金は二者間の現物受け渡しによって支払われる。支払い記録は原則として当事者にしか知り得ないものであり,いわゆる匿名性を保つ可能性を持っている。

 対して預金貨幣=デジタル貨幣の支払いは,第三者介在のもとでの債権債務の振替によってなされる。すなわち,銀行による振り替え操作があって,初めて支払いが完了する。預金は銀行にとって債務であるから,振替は自分にとっての債権者とその金額の変化を表すものであり,記録せざるを得ない。このことにより,取引は第三者が記録するという意味で匿名性のないものとなる。

 中央銀行デジタル通貨(CBDC)を設計するに際して匿名性が課題となっているが,ここでの分類を踏まえる必要がある。CBDCを中央銀行預金として設計するならば,そこでの取引に匿名性を持たせることは原理的に困難である。中央銀行が取引を記録せざるを得ないからである。これに対して,現金を電子的にトークン化したものとして設計するならば,取引に匿名性を持たせることも原理的には可能であり,ブロックチェーン技術と法規制がこれを現実化できるかどうかが注目されている。


VIII 流通領域

 最後に,流通領域による分類がある。ほんらい,貨幣とは商品の価値を測定し,商品流通の購買を即時払いや,さもなくば後払いによって媒介したりするものである。実際に,金属貨幣,政府発行不換紙幣,補助硬貨,一般銀行当座性預金,一般銀行券,中央銀行券は,広義の商品流通(交換手段を用いた流通と支払い手段を用いた流通)を直接に媒介する。この分類を比較的正確に表現する日常用語が日本ではマネーストック,つまり「金融部門から経済全体に供給されている通貨の総量」(日本銀行ウェブサイト)である。

 ところが,銀行・中央銀行の二層システムが成立すると,直接には商品流通を媒介しない貨幣が出現する。もっぱら銀行間決済を担う中央銀行当座預金がこれにあたる。この意味で,中央銀行当座預金は特殊な存在である。中央銀行当座預金は,もっぱら銀行間決済を担うことによって,銀行を超えた預金貨幣の流通を支え,さらに中央銀行券という現金の基礎を形成している。

 また中央銀行券も,発行された時点で商品流通界に投入されているわけではない。中央銀行当座預金が引き出されると中央銀行券が発券されて一般銀行の手元にわたるが,この時点ではまた商品劉を媒介していない。さらに一般銀行預金が引き出されることによって,初めて商品流通界に入るのである。

 中央銀行当座預金と中央銀行券の独自性を表現する日常用語は,日本ではマネタリーベースである。これは「日本銀行が世の中に直接的に供給するお金」(日本銀行ウェブサイト)である。ただし,この定義のうち「直接的に供給する」という部分は「日本銀行自ら供給する」という意味にとるべきであって,「世の中に直接供給される」と理解してはならない。中央銀行券は,日本銀行が発券するだけでは「世の中」すなわち商品流通界には供給されず,一般銀行預金が引き出される時に供給されるからである。

 むしろ肝心なことは,中央銀行は商品流通に対して直接に貨幣を供給せず,間接的にのみ供給するということである。商品流通界に貨幣を直接供給するのは,貨幣商品(貴金属)生産者,退蔵貴金属の保有者,一般銀行,政府であり,現代では後の二者だけである。預金貨幣という代用貨幣を直接に発行しているのは一般銀行であって中央銀行ではない。中央銀行券をイメージして「管理通貨制のもとではお金は政府や中央銀行が供給する」と述べることは,一般銀行の預金貨幣供給を見落とした不正確なものである。


IX 兌換代用貨幣と不換代用貨幣

 なお,ここまで兌換と不換と言う項目を立てずに,これらの用語を用いて説明を行ってきた。これは,代用貨幣が兌換であるか不換であるかが,本質的な区分ではないからである。

 兌換とは,一般に正貨・本位貨幣と交換できることであり,不換とはそれができないことである。兌換は歴史的に紙幣についてのみ認められてきたが,理論上はどの代用貨幣についても問題となる事柄である。

 正貨流通・金属本位制であるか管理通貨制であるかは貨幣制度上の重要な違いであるが,兌換であるか不換であるかは,種々の代用貨幣の性質を変えるものではない。変化するのは,商品流通界への出入りの仕方である。兌換代用貨幣は,どのような投入経路であれ,商品交換の手段として必要な量を上回って投入された場合に,兌換請求によって流通外に出ることができる。一方,不換代用貨幣は,投入が商品を流通させる必要に基づかない外在的な投入である場合には,商品流通界から出ることができず,厳密な意味でのインフレ圧力を発生させる。しかしこれは,貨幣自体の性質と言うより,貨幣の流通法則と物価とのかかわりに置いて論じるべきことである。

 兌換か不換かによって代用貨幣の性質が変わるとする主な主張として,「兌換銀行券は信用貨幣であるが,不換銀行券は中央銀行券を含めて国家貨幣である」という主張がある(※6) 。しかし,ⅣとⅤで述べたように,兌換であろうが不換であろうが,銀行券は債務として発行され,流通し,債権債務相殺や上位の債務との交換によって決済されるのであり,したがって信用貨幣として理解すべきなのである。


X 中央銀行デジタル通貨(CBDC)の場合

 最後に,今日,構想と社会実証が進められているCBDCが,貨幣分類上どのような位置にあるかを補足しておきたい。

 CBDCは,中央銀行に個人・企業が直接口座を持つホールセール型と,現金に仮想されたトークンを電子機器内に保持し,相互にやり取りするリテール型に大別される。

 ホールセール型CBDCの本質は中央銀行当座預金と同じであり,違いはそこに駆使される技術がブロックチェーン技術になること,金融機関に限らず個人・企業によって保有されることである。したがいその分類規定は中央銀行当座預金とほぼ同じであり,唯一異なるのが,銀行間決済を担うことも,商品流通を直接媒介することもできるようになることである。ホールセール型CBDCの導入とは,誰もが中央銀行に直接当座性預金を持つという,中央銀行の一大変革を意味するのである。この場合,中央銀行当座預金と同じ匿名性の確保は原理的に難しい。

 リテール型CBDCの本質は中央銀行券と同じであり,違いはデジタル貨幣だということだけである。したがいその分類規定は中央銀行券とほぼ同じである(川端,2022)。ただし,ここでは紙幣からデジタル貨幣へという物的定在の大転換がある。物的定在は現金(紙幣)からデジタル貨幣となり,支払い方法は物的な二者間受け渡しからバーチャルな二者間受け渡しに変わるのである。リテール型CBDCとは,中央銀行券と並び立ち,またそれに取って代わるものなのである。したがい,匿名性の確保は原理的には可能である。


XI おわりに

 以上の考察をまとめると以下の総括表のようになる。貨幣をめぐる議論は多元的であり,切り口が多くあるだけに混乱しやすい。本稿の分類が,交通整理に寄与すれば幸いである。

(完)

※6 「現代の中央銀行券は法的強制によって流通可能になっている」というのは広くみられる社会通念である。学術的見解としては,麓(1967),飯田(1983),最近では建部(2022)がある。麓説や飯田説と同時代に対立し,不換銀行券を信用貨幣論と主張したのは岡橋(1968,1969,1987)である。

<参考文献>

飯田繁(1983)『不換銀行券・物価の論争問題』千倉書房。
岡橋保(1968)『貨幣流通法則の研究』日本評論社。
岡橋保(1969)『信用貨幣の研究』春秋社。
岡橋保(1987)『新版 現代信用理論批判』九州大学出版会。
川端望(2022)「中央銀行デジタル通貨は何をもたらすか:野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む」TERG Discussion Paper, 469,1-12。
建部正義(2022)「世界的な物価高とマルクス貨幣・信用理論」『前衛』1009,70-86。
麓健一(1967)『不換銀行券論』青木書店。







2024年8月3日土曜日

貨幣分類論(その4。機能分類)

  Ⅰ はじめに

Ⅱ 外形的分類
(以上,その1) 

Ⅲ 本質分類
Ⅳ 形態分類と物的定在分類
(以上,その2

V 通用根拠分類
(以上,その3


VI 機能分類

 貨幣が持つべき様々な機能のうち,主にどれを担うことから貨幣として成立しているかという角度からの分類である。

a.商品貨幣

 本来の貨幣である商品貨幣には,貨幣のすべての機能が含まれている。

 第一に価値尺度機能である。商品貨幣は,自らの重量によって,他の商品の価値の絶対的大きさと相対関係を測定する機能がある。価値尺度機能の現実の表現が公定価格標準である。商品貨幣,たとえば金の重量が,国家単位で,円やドルと言った通貨の額面単位に対応させられる。価値尺度機能は価格標準を通して発現する。

 しかし,現在では,諸国家は通貨単位は設定しているものの,公定価格標準の水準は設定していない。したがい,特定の金属から成る商品貨幣が,公定価格標準を通して価値尺度機能を発揮することがない。ただ,過去の公定価格標準からの乖離としてのみ事実上の価格標準が存在し,諸商品が価値関係で結びつけられているだけとなっている。しかし,だからといって価値尺度機能という概念そのものをなくすることが正しいわけではない。公定価格標準が消滅したために,貨幣の価値と交換価値の乖離は修正されにくくなっているが,貨幣の購買力の過大評価や過小評価という問題がなくなったわけではない。また,価格標準の切り下がりによる物価上昇と,商品需給変動による物価上昇の区別がつきにくくなっているが,前者ではいったん上昇すれば物価は元に戻らず,後者では元に戻ろうとする反作用が生じるという違いもなくなったわけではない。これらの現象は,価値尺度機能は必要であるが尺度となる商品貨幣が流通していないという,まさにそのことによって理解されるのであり,価値尺度という概念を追放してしまうのは適切ではないのである。

 第二に交換手段(流通手段)機能である。商品経済が機能するためには,商品が,一定の不均衡や攪乱を伴いながらも,等価で交換されることによって流通しなければならない。商品貨幣が商品と引き換えに買い手から売り手に受け渡されることで,商品は売り手から買い手に引き渡され,商品流通が成立する。売りと買いによって,商品は等価値の貨幣に姿を変え,また貨幣から等価値の商品に姿を変える。売りと買いは自発的な行為である以上,この過程が中断する可能性がここに秘められている。また需給不均衡をはじめとする種々の要因によって,不等価交換が行われる可能性もある。

 第三に支払い手段機能である。いったん貨幣流通が社会に定着すると,購買と支払いは時間的に分離することが可能となり,後払いが可能となる。後払いにおいては,商品は既に流通してしまっており,貨幣が果たすのは純粋に支払い手段としての機能だけになる。

 一社会で流通する商品総量によって貨幣が実現すべき価値総額が決まる。この価値総額は貨幣量と貨幣流通速度の積である。つまり,商品総量と貨幣流通速度によって,商品流通に必要な商品貨幣量が決まる。このとき,貨幣は購買と同時に支払らわれて交換手段機能を果たすこともあれば,後払いされて支払い手段機能を果たすこともある。商品流通はどちらによってもなされるので,交換手段機能は狭義の商品流通を媒介し,交換手段機能と支払い手段機能を併せて広義の商品流通を媒介するともいえる。裏返していえば,広義の商品流通に必要な貨幣量は,交換手段として必要な量と支払い手段として必要な量から成る。これは,マルクス派において「貨幣流通法則」として知られている事柄である(岡橋,1968)。

 第四に蓄蔵機能である。商品貨幣として選択されるのは価値変動が比較的緩やかで,かさばらず,摩耗しづらく,運搬や保管に便利な金属商品である。この金属商品は商品流通の外部に出て,価値を保蔵することに用いることができる。

 最後に世界貨幣である。商品貨幣は国家による価格標準を得て流通しているが,それ自体が価値を持っているために,地金として国家を超えて貨幣諸機能を果たすことも可能である。

 これらすべての機能を果たすことができるのは商品貨幣のみである。とくに価値尺度機能,蓄蔵貨幣機能,世界貨幣機能は,それ自体価値を持つ商品貨幣以外には果たすことができない。商品貨幣の流通を排除することによって資本主義は発展した。その代償として,価値と価格の乖離は激しくなり,蓄蔵されえないが一時的に遊休する貨幣がバブルを生みだし,最終決済されることのない対外債権や対外債務が,リスクを伴って膨張するのである。

 対して,代用貨幣は,これらの貨幣の諸機能のうちのいずれかを代行して果たすことによって成立する。以下,一つずつ見よう。

b. 政府発行不換紙幣と補助硬貨

 政府発行不換紙幣と補助硬貨は,交換手段機能を担うことから発生する。一社会において,交換手段として必要な貨幣量には,それ未満には決してならないような一定量の範囲が存在する。この範囲では,価値を持たない章標(シンボル)でも交換手段として社会の成員から信認されうる。政府発行不換紙幣と補助硬貨は,本来そのような機能を持つ。ただし,政府が財政資金調達を目的に不換紙幣や補助硬貨を流通必要貨幣量を超えて発行すれば,厳密な意味でのインフレーションが生じる(※4)。その危険が社会に周知されると,政府発行不換紙幣や補助硬貨は当然の信認を得られなくなり,その流通を法定貨幣としての強制通用力に依拠するようになる。

c. 一般銀行と中央銀行の当座性預金,一般銀行と中央銀行の銀行券

 一般銀行と中央銀行の当座性預金,一般銀行と中央銀行の銀行券は,支払い手段機能から発生する。貨幣が流通する社会では後払いが可能であることから,支払い手段が一つの独特な機能になる。商品の代金の後払いに際しては商業手形が発行される。商業手形は期日指定の債務証書であるが,貨幣の借り入れ証書ではなく,後払い約束の証書である。債務というものの基本規定は,既存の貨幣の借り入れではなく,むしろ後払い約束であることに注意しなければならない。信用のある手形は貨幣に代わって期日まで流通することができ,また複数の手形によって債権と債務を相殺することが可能になる。手形は貨幣そのものに代わって支払い手段となり,相殺可能な分については最終的支払い手段となって商品貨幣を代行する。

 債務の流通と債権債務の相殺が手形の原理であり,銀行預金はこの原理にのっとって発展する。その本質は,銀行の自己あて一覧払手形の残高振替により,債権者と債務者に対し第三者として支払い決済サービスを提供することである。また資本主義経済が確立すると,銀行は利子生み資本の担い手となって信用を供与する。その本質は資本の貸し付けである。というのは,マルクスが強調したように,資本主義においては資本自体が,利潤を生むという使用価値を持った商品になるからである(Marx, 1894, 資本論翻訳委員会訳,1987, p. 572)。銀行の信用供与は,主として手形割引と貸付によってなされる。その際,銀行は,自己宛ての手形である預金を新規に創造し,借り手に引き渡すことで貸し付けるのである。このように預金は支払い手段機能を起点として生まれた手形原理に立脚している。

 銀行券は,やはり銀行の手形であり紙券であって,預金を引き出した際に流通に入るものである(※5)。銀行券も,支払い手段機能を体現し,銀行が支払いを約束した手形として流通する。しかし,それは信用がある限り商業的流通のみならず一般的流通にも入り込み可能性を持つ。つまり,銀行券は,支払い手段機能に由来して成立するが,いったん成立すると派生的に交換手段機能を持つようになる。

 とはいえ,一般銀行預金の振替による決済は,同一銀行内にしか及ばない。また一般銀行の銀行券の流通範囲も限られたものである。それは銀行が異なれば,その銀行手形にも互換性がないからである。中央銀行当座預金は,預金振替による銀行間決済を可能にすることで,一般銀行の発行する預金貨幣を,一社会全体に事実上通用する通貨とする役割を果たす。また中央銀行当座預金は,中央銀行券発券の基礎となる。一般銀行の銀行券に取って代わることにより,中央銀行券は,社会の全域で一般的流通に入り込むようになり,現金として交換手段機能を存分に発揮するようになる。

その5に続く)

Ⅶ 支払い方法分類
Ⅷ 流通領域分類
Ⅸ 兌換代用貨幣と不換代用貨幣
Ⅹ 中央銀行デジタル通貨(CBDC)の場合
Ⅺ おわりに

※4 厳密な意味でのインフレーションとは,価格標準の切り下げによる物価の全般的・名目的変動であり,持続的な物価上昇すべてを指す日常用語としてのインフレーションよりも狭義である。

※5 銀行券の手渡しによって割引や貸し付けを行うことも,もちろんある。しかし,これは本質的には1)企業・個人の銀行における取引口座開設,2)預金設定での割引や貸し付け,3)口座からの引き出しであり,それが中間の2)を省略して行われたとみるべきである。取引口座と預金があってこそ銀行券が手渡されるのである。

<参考文献>

岡橋保(1968)『貨幣流通法則の研究』日本評論社。
Marx, K (1894). Das Kapital. Kritik der Politischen Oekonomie, Bd. 3. カール・マルクス著,社会科学研究所監修・資本論翻訳委員会訳(1987)『資本論 第10分冊』新日本出版社。


ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。  会田...