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2024年5月31日金曜日

日銀エコノミストの祖,深井英五の『通貨調節論』

 4月から研究科長・学部長となり,産業資料を積み上げて事実関係をじっくり解読し,解釈していく作業ができなくなってしまった。しかたがないので,貨幣・信用論の読書だけ続ける。この深井英五『通貨調節論』日本評論社,1932年は,白川方明総裁時代までの日銀エコノミストによる内生的貨幣供給論の淵源と言われている(小栗誠治『中央銀行論』知泉書館,2022年,323-325ページ)。この考え方を,1970-80年代には小宮隆太郎氏,1990-2010年代には岩田規久男氏やリフレーション派エコノミストが「日銀(流)理論」と名付けて攻撃した。

 日銀の金融調節論は,過去から受け継がれてきたというだけではない。実は「日本銀行が行っていた金融調節も他の多くの先進国とまったく同じであったにもかかわらず,不幸なことに,日本銀行の金融調節は『日銀理論』と揶揄されることが多かった」(白川方明『中央銀行』東洋経済新報社,2018年,35ページ)。

 いくら金融緩和をしても通貨供給量も増えず,物価も上昇しなかったというアベノミクス期の実績から言って,リフレーション政策の破綻は明らかである。彼らの日銀攻撃とは何であったのか。その誤りは,貨幣理論の理論的に深いところで,また歴史的な経済学の流れの重要な分岐点で発生しているのではないか。このあたりを,文献をさかのぼりながら考えていきたい。とにかく毎日,少しずつ読む。



2024年5月25日土曜日

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」:異端の信用貨幣論に反応はあるのか

  古い話題で恐縮ですが,いしいひさいちのマンガに,作家・広岡達三ものというのがあります。元プロ野球選手・広岡達朗がモデルですが,とにかく偏屈で頑固で,それ故に墓穴を掘るところがあります。彼のセリフで私が一番好きなのは,危うい表現続出の小説を書いたあげく激怒して断筆を宣言するときに言い放ったものです。

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」

 もしかすると,先月公表した拙稿「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」もこうなるかもしれません。

 この論文は教科書風の説明に徹しているのですが、実は1)常識的な考えとも、2)マルクス経済学の多数とも、3)宇野理論とも異なることを言っています。ついでに言うと4)MMT(現代貨幣理論)とも違います。例えば、

1)銀行業務の本質とは、既に存在している貨幣の融通をすること(金融仲介)ではなく、支払い決済サービスと、新規の代用貨幣発行によって貸しだすこと(信用創造)だとしています。

2)遊休貨幣を集めるところから銀行信用(金融仲介)を説明するのではなく、銀行信用(信用創造)の結果として遊休貨幣が生じるのだとしています。

3)商業信用は既に存在している資金の相互融通だという宇野弘蔵説を採用せず、単に後払いの約束だとしています。手形が成立すると後払い約束証書の方が流通するようになり、それで債権債務の相殺もできるようになります。手形とは貨幣を貸すものではなく、貨幣の現物の代わりに手形で済ます仕組みを作るものなのです。手形が発達したのが預金貨幣であり中央銀行券です。

4)兌換されない信用貨幣が流通する根拠を,MMTのように納税に使えるからだとするのではなく,手形債務だからだとしています。3)で述べたように,手形という後払い約束証書は金などの商品貨幣に代わって流通し,債権債務を相殺できるようになります。貨幣流通の根拠は国家権力を持ち出さずとも,経済そのものによって可能なのです。

 これらは師匠の師匠である岡橋保教授が1930-50年代に確立していた見地なのです。私はそれを再発見し、一部修正し、弱点と思われるところ(準備金論)を補強して、現代の金融システムの説明に使ったに過ぎません。なのでオリジナリティをそれほど主張するわけにはいきません。私の論文は,岡橋説を再発見し,現代の問題を説明できるように一部修正して徹底したことに意味があります。

 ただ,最大の問題は、この主張の特異さを気づいてもらえるかどうかです。昔は、岡橋教授の論文には直ちに反論が寄せられ,それにまた岡橋教授が反論して激論になったことが,文献からうかがえます。だから,拙論に対していろいろなところから矢が飛んできてもいいはずで,私としても批判を受けて討論できることを期待しています。しかし,マルクス経済学や宇野理論で信用理論をやっている先生も昔に比べるとずいぶんと減り,主流派経済学の方は拙論を読んでくださらないでしょう。残るはMMTerの方の批判を待つくらいかもしれません。

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」だと寂しいです。批判を歓迎します。


「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」ダウンロードページ

いしいひさいち『わたしはネコである殺人事件』講談社文庫,1996年(Amazonのページ)。引用したセリフは8ページより。
https://www.amazon.co.jp/dp/4063300242



2024年4月30日火曜日

論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあります。そこで,著者最終版原稿(Accepted Manuscript)としてDPで公開します。

 学部講義「日本経済」担当になってから6年。マクロ経済政策論と格闘し,自身の師匠である村岡俊三の信用論を30年ぶりに学び,さらにさかのぼって師匠の師匠である岡橋保の理論の先駆性を確認しました。これまであれこれとブログに書き散らしてきましたが,ようやく一部が論文になりました。

 この論文は学説史的に誰が正しい,誰が間違いだということを主眼とするのではなく,通貨供給システムの半分を占める金融システムを,わかりやすく,あえて言えば学部学生にもわかるように教科書的に書くことに努めました。なお,通貨供給システムのあと半分は財政システムであり,こちらの研究もいつかは書き遂げたいと思います。

ダウンロードいただけます。
https://researchmap.jp/read0020587/misc/46337895/attachment_file.pdf

<目次>

通貨供給システムとしての金融システム
―信用貨幣論の徹底による考察―

Ⅰ はじめに

Ⅱ 金融仲介か信用創造か
 1 問題の所在
 2 信用創造を通した新規の通貨発行
 3 正貨流通下での金融仲介
 4 正貨流通停止下での金融仲介
 5 管理通貨制度下での金融仲介は信用創造を前提とする
 6 小括

Ⅲ 銀行システムの成立
 1 問題の所在
 2 信用貨幣の基礎としての手形流通
 3 銀行による自己あて債務による信用供与
 4 中央銀行による社会的支払い決済システムの成立
 5 信用貨幣としての預金・中央銀行券
 6 小括

Ⅳ 銀行システムにおける準備金の必要性と役割
 1 問題の所在
 2 正貨流通・兌換下での準備金
 3 正貨流通停止・兌換停止・中央銀行成立下での準備金
 4 個別銀行にとっての準備金と社会全体の準備金
 5 中央銀行当座預金を頂点とする代用貨幣のシステム
 6 通貨価値の保全という難題
 7 小括

Ⅴ 管理通貨制度下の金融システムにおける貨幣流通と物価
 1 問題の所在
 2 貨幣流通の基本モデル
 3 預金貨幣の発行と還流:信用創造
 4 中央銀行券の発行と還流:預金からの形態転換
 5 管理通貨制度下における貯水池なき蓄蔵貨幣機能
 6 貨幣流通法則の作用=内生的貨幣供給
 7 遊休と金融的流通
 8 小括

Ⅵ おわりに

2024年4月27日土曜日

岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。

 なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏が最も徹底的に,おそらくはもっとも古く戦前から,首尾一貫性を持って信用貨幣説を論じ,それによって,現在,広く使われている言葉でいう内生的貨幣供給を主張したからである。そして私には,手形流通から信用貨幣の生成をマルクス的に論じる岡橋説の方が,近年興隆しているMMTの租税駆動説や国定貨幣説よりも妥当だと思えるからである。

 なぜ批判的徹底か。それは,私の理解では岡橋説にも不徹底な部分があり,これを信用貨幣論としてさらに徹底する方向で修正・発展させる余地があるからである。

 そして何よりも,岡橋説の批判的徹底により,それによって,現代の通貨供給システムをわかりやすく,敢えて言うなら教科書的に俯瞰できると考えられるからである。

 ところが,岡橋説は,氏が九州大学で教鞭をとられ,学界でも経済論壇でも活躍されていたにもかかわらず,今日の貨幣・信用をめぐる論争でもほとんど顧みられていない。せいぜい昔の学説の例として,一応注記されるだけだというのが現状である(※1)。

 なぜ岡橋説は黙殺されているのか。論文にはなじまないことなので,ここで考えてみたい。

 第1点。岡橋説は,相当に文献をさかのぼらないと理解しにくい。岡橋氏が自説を積極的に,体系的に展開されたのは,1936年発行の『貨幣本質の諸問題』から1957年の『貨幣論 増補新版』までである。あえて加えるならば,1969 年発行の『銀行券発生史論』も金融史についての自説の記述である。ところが,その後の著作は,冒頭何分の一かは自説の説明なのであるが,ページの過半は他者の見解への批判である。それもかなり激烈である上に,「論者は○○だという。××というわけである。……なのだ。かくて貨幣数量説に陥るのである」などと,岡橋氏が批判対象に成り代わって,その論理の帰結を探る文体であるため,時々,どこまでが批判対象の見解で,どこからが岡橋氏の批判なのかがわからなくなる。正直,極めて読みづらい。私は貨幣論を研究する留学生に岡橋説を伝授したが,あえて60年以上前の『貨幣論 増補新版』を使用した。それ以降の文献を留学生が読むのはあまりに難儀と思われたからである。

 第2点。岡橋氏の影響下で多くの研究者が生まれたが,なぜか,楊枝嗣朗氏などごく一部を除いて岡橋氏の信用貨幣論をより徹底させる方向に進まれず,別の方向に進まれた。例えば岡橋氏は預金貨幣と銀行券をともに重視されたが,後続の研究者は,なぜかもっぱら銀行券に注目した。また,岡橋氏は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣を集積して貸し付ける「貨幣の貸付」を銀行の基本規定とすることに反対して「自己宛て債務の貸付」を対置されたが,後続の研究者はなぜか氏の批判対象だった見解に組みすることが多かった(※2)。実は私の貨幣・信用論研究は,師匠である村岡俊三氏の著作を読み直すことから始まったのだが,結局,師匠よりもそのまた師匠である岡橋氏の方が正しいという結論に至らざるを得なかった。

 第3点。最近のマルクス派による信用貨幣論研究が,もっぱら宇野派による商品論次元でのものだということである。宇野弘藏氏自身は商業信用も資金の相互融通と捉えるほどであり,手形から出発する信用貨幣論とは縁遠かった。しかし,ある時期以降,宇野派の中に信用貨幣論に転じる研究者が現れた。それは現在では,小幡道昭氏の提起を江原慶氏らが継承した試みとなっている。その内容を一言で表現するのは難しいが,強引に要約すると,商品論の次元で,物品貨幣と信用貨幣を同等の位置づけで導出する試みとなっている。それはそれで注目すべき試みなのであるが,商品論のところでマルクスを再構築するものなので,たいへん抽象度が高い。また,これらの研究はみな,金を本来の貨幣とする従来の観点では,不換制となっている現代の通貨制度を説明できないと想定して議論されている。そのため,岡橋氏の見解は単に過去のものとされ,注1に記した岩田氏の論稿を除いて深く検討されていない。

 第4点。見当違いな(と私には思われる)神話崩しである。これは少し詳しく論じたい。

 上記の宇野派の議論もそうであるが,貨幣史において金属貨幣の使用範囲が従来考えられていたよりも狭かったことや,現代においてもっぱら信用貨幣が用いられていることを根拠に「金などの金属製商品貨幣が本来の貨幣というのはおかしい」とする議論が盛んになっている。だから,マルクスのオーソドックスな理解も,退けられる傾向にある。しかし,これは行き過ぎであろう。

 まず,歴史の時系列順序と経済理論の編成における順序は同じではない。マルクスが金属製商品貨幣を本来の貨幣としているのは,金属貨幣が純粋な価値表現(使用価値で価値を表す)を可能とし,また貨幣の諸機能(価値尺度,流通手段,支払手段,蓄蔵貨幣,世界貨幣など)を統合しているからである。だから,商品流通の世界には,金であるか,金属性であるかどうかはとにかく,何らかの特殊な商品が貨幣になる必然性がある。しかし,発達した商品流通と資本主義生産を機能させるには,商品貨幣の現物利用は不便で仕方がないし,現物利用をしなくても資本主義は発達できる。だから,代用貨幣が発達するのである。金などの金属製商品貨幣から出発するのは,昔,金が貨幣として使われていたからではない。貨幣に必要な機能を金属製商品貨幣が一身に体現しており,理論的に典型だからである。いま,この瞬間の資本主義経済でも,金属製商品貨幣は必要とされている。しかし同時に,その現物利用は不便で仕方がないから,発達した代用貨幣が使われているのである。マルクス派は,「昔々,金が貨幣として使われていました」という歴史を主張しているのではなく,現在の資本主義社会で,「日々,金では不便だから代用貨幣が使用されているのだ」と理論的に説明しているのである。

 そもそもマルクス派の貨幣・信用論とは,「金が貨幣であって,金が使われるべきだ」と言い張るものではなく,「金が貨幣だが,その利用はどんどん節約される」という貨幣節約論なのである。金属製商品貨幣の現物使用が,商品流通と資本主義生産の発展とともに節約され,代わってデジタル信号である預金や紙切れの銀行券が貨幣の役割を果たすようになる理論的根拠を明らかにしているのである。だから現在,金が貨幣として流通していないのは,マルクスの間違いを証明するのではなく,むしろマルクスのパースペクティブの延長上で資本主義と代用貨幣が発展したことを示しているのである。

 安直な神話崩しへのこうした反論は,岡橋氏の理論的遺産を継承すればすんなり言えるはずなのであって,それが忘れられたことによって誰も言わなくなったのだと,私は理解している。

 私は現在,岡橋氏の理論的遺産と,日銀や全銀協の実務家の議論をもとに,通貨供給システムとしての金融システムを描こうとする論稿を準備しているが,上記のような事情ゆえに,ほんのわずかな存在価値はあるように思えるのである。

6/3 追記。論文は研究年報『経済学』(東北大学大学院経済学研究科)に受理されました。現在はディスカッション・ペーパーで原稿を公開しています。「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」ダウンロード

※1 例外的に紙数を割いて検討されたのは,Yoshihisa Iwata (2021). "Even inconvertible money is credit money : Theories of credit money in Japanese Marxian economics from the banknote controversy to modern Uno theories"『東京経大学会誌(経済学)』311,99-120.である。この論文について教えてくださった上垣彰氏に感謝申し上げる。

※2 信用貨幣論を徹底した教科書としては松本朗(2013)『改訂版 入門金融経済:通貨と金融の基礎理論と制度』駿河台出版社がある。

2024年4月24日水曜日

『ウルトラマンタロウ』第1話と最終回の謎

  『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないことである。

 最近出版された白石雅彦『「ウルトラマンタロウ」の青春』双葉社,2023年には,この番組のメインライターであった田口成光さんの証言が収録されている。「最終回は第一話の裏返しです。東光太郎が,最後は人間に戻るというのは,最初から決めていました。光太郎は旅から帰って来て,また旅立つ。ウルトラマンタロウの時は,本当の自分じゃないんですよ。ですから最終回,またペギーさんが出て来る。タロウは,人間が好きになったんですね」(244ページ)。

 この証言は,「ああ,やっぱり」と思わせるものでもあるが,それでもすんなり受け止められないところはある。例えば,初代ウルトラマンがハヤタという地球人を好きになり,彼を生かし続けようとしたことは,その最終回のゾフィーとの会話で知られている。しかし,タロウのそうした意思を表現するシーンは,『ウルトラマンタロウ』の最終回にはない。またさかのぼってみれば初代ウルトラマンは第1話で,自分と衝突して命を失いかけているハヤタに「申し訳ないことをした」といい,自分が彼と一体化することでその生命を救う。一方,『ウルトラマンタロウ』第1話でも東光太郎は命を失いかけるが,タロウが自らの意思で光太郎と救おうとするシーンはないのである。タロウと光太郎の関係は,「タロウは,人間が好きになった」という風には見えないのだ。

 『タロウ』に即してみてみよう。第1話「ウルトラの母は太陽のように」で東光太郎は,アストロモンスと戦って負傷したところを,実はウルトラの母である緑のおばさんに手当てをしてもらう。そして二度目の戦いでは命を失いかけ,再びウルトラの母に助けられて,ウルトラの命を与えられてタロウとなる。タロウは,赤子の鳴き声とともに出現する。その時にウルトラの母はウルトラ5兄弟に対して「おまえたち兄弟はみな,このようにして生まれたのです」と言っている。タロウは,この時に誕生したものとして描かれているのだ。

 また最終回「さらばタロウよ!ウルトラの母よ!」では,光太郎は「僕も一人の人間として生きてみせる。僕はウルトラのバッジを,もう頼りにはしない」と言って,バッジをウルトラの母に返し,一人の人間に戻って旅に出る。ウルトラの母はそんな光太郎に「光太郎さん,とうとうあなたも見つけましたね。ウルトラのバッジの代わりに,あなたは生きる喜びを知ったのよ。さよなら,タロウ。さよなら」と言って去っていく。ウルトラの母はバッジを自分の胸元に戻したが,タロウを光太郎と分離してウルトラの国に呼び戻したのではない。タロウに別れを告げたのである。

 どちらにも,光太郎と別人格のウルトラマンタロウは登場しない。主人公とウルトラマンが第1話で融合し,最終回で分離するという点では初代ウルトラマンと同じに見えるが,内実は大きく異なる。光太郎とは別人格としての人間とは別のタロウは出てこないのである。唯一の人格は光太郎であって,光太郎の持つウルトラの命,ウルトラの力がタロウなのだ。光太郎がバッジを手放せば,ウルトラの母は光太郎だけでなくタロウとも別れることになる。だからさよなら,光太郎さんではなく,「さよなら,タロウ」と言っているのだ。

 もちろん,『ウルトラマンタロウ』の全編を通してみれば,明らかに光太郎と別にウルトラマンタロウという存在がいて,子どものころからウルトラの国に住んでいる。田口さん自身が第24話「これがウルトラの国だ!」第25話「燃えろ! ウルトラ6兄弟」に見られるように,そうしたタロウを書いている。そしてウルトラマンシリーズを通してみても,タロウは後にウルトラマンメビウスの教官になって,再び地球を訪れたりもする。公式設定では,光太郎とタロウは別人格なのだ。

 しかし,『タロウ』の第1話と最終回だけを見ると,様子は違っている。タロウとは,東光太郎にウルトラの母から与えられた不思議な力であって,もともと存在した別人格ではないのだ。光太郎がウルトラのバッジを捨てたときに,タロウというウルトラの力はなくなって,光太郎という人間だけが残る。そういう風に描かれているとしか思えない。私は昔から,光太郎が一人の人間に戻った後,ウルトラマンタロウはどこに行ってしまったのだろうと気になって仕方がなかった。その答えは,東光太郎がウルトラのバッジを捨てたときに,ウルトラマンタロウはいなくなったということなのだと思う。

 以上の解釈は,それほど無理とは思えない。偶然このように見えるだけにしては,あまりに作りこまれている。私は,田口さんが,基本設定やシリーズ構成からはみ出しながら,しかしぎりぎり破綻して見えないように,第1話と最終回を意図的にこのように書かれたのではないかと思う。その理由は,東光太郎の青春の物語として,『ウルトラマンタロウ』を完結させたかったからではないか。

 この離れ業によって,『ウルトラマンタロウ』の世界は,多少の矛盾をもちつつも,その不都合を相殺して余りあるほどの重層的な奥深さを持つようになった。雑踏に紛れ,去っていった人間としての東光太郎は,長く,強く,私を含む視聴者の心に印象付けられるようになったのである。

参考文献

白石雅彦『ウルトラマンタロウの青春』双葉社,2023年。




2024年4月6日土曜日

信用貨幣は商品経済から説明されるべきか,国家から説明されるべきか:マルクス派とMMT

 「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。

https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/daa72c2f544a4ff93a2bf502fcd8786b9f93ecab


 島倉原氏によるここの記事は,MMT(現代貨幣理論)の理論の根源を,新古典派やマルクス派とわかりやすく対比して主張しているので面白い。しかし,賛成はできない。私の立場からコメントする。

 島倉氏が,「主流派にせよマルクス派にせよ、『政府がなくても商品経済やその交換手段たる貨幣は成立する』という世界観を有している点では同根であり」というのは,乱暴ではあるがおおむね妥当であろう。ただし,一点留保しなければならないところがあり,これは後で述べる。

 主流派もマルクス派も,商品交換の必要性から貨幣が生まれると考えることは,同じである。だから商品貨幣を本来の貨幣とする。そこまでは確かにそうである。


*主流派における手形の貨幣化論の欠如

 しかし主流派は,貨幣が成り立つ必然性といった論点にはあまり関心がないので,管理通貨制になれば,貨幣流通の根拠は「国家の強制通用力」または「人々の信認」だろうと,あっさりと乗り換えてすませるところがある。しかし,このプラグマティズムには,落とし穴がある。商品貨幣(金貨など)→紙幣での代用,という構図を当然だと思い込んで採用するところである。しかし,現在流通している預金貨幣や中央銀行券は,商品貨幣→商業手形での部分的代用→銀行手形(預金貨幣と銀行券)での代用という風に,手形が貨幣化する過程を必須条件として成立しているのである。手形が抜けると,現代の貨幣の運動がつかめなくなる。手形というのは,債務発生のたびに新規発行され,債務が決済されると消失するものである。現代の預金貨幣は,銀行が貸すたびに新規発行され,返済されるたびに消えるのである。国家紙幣にはそのようなことは起こらない。だから主流派が銀行実務をまったく考慮せずに貨幣を論じると,現実とずれてしまうのである。実は,現代経済においては,毎日毎日,銀行から通貨が新規発行されたり,逆に還流・消滅したりしているのである。この独特な運動を捉え損ねると,銀行とはお金を持っている人から持っていない人に仲介するものだという,当たり前のようでまったく間違いな見解が生じるのである。


*マルクス派の商品貨幣節約論

 マルクス派も,商品貨幣を本来の貨幣とする。しかしマルクス派は,発達する資本主義にとって,商品貨幣の現物を用いることが制約となり,それを乗り越えるために様々な代用貨幣が出現し,商品貨幣に代わって流通するようになることを重視する。商品経済から貨幣が生まれ,貨幣を用いた取引から手形が生まれ,販売と購買の分離,流通する手形を用いた債権債務相殺という手形原理が成立し,銀行手形による貸し付けが出現する,という順序で信用貨幣としての代用貨幣の論理を構築するのである。これにより預金貨幣や中央銀行券の運動が説明可能になる。

 しばしば誤解されているが,マルクス派とは「金が貨幣だから,いまそれが流通していないのは異常事態だ」というものではない。乱暴な単純化を覚悟で言えば「ほんらい金が貨幣なのだが,そんなものを使っていては不便で仕方がないので,代用貨幣,とくに信用貨幣が発達し,金の現物は流通しなくなる」ことを明らかにする見地である。もちろん,マルクスは資本主義に批判的だから,この発達には矛盾も伴うとしている。例えば金兌換が停止されると,財政赤字によるインフレの悪性化のリスクは大いに高まる。信用貨幣が膨張すると,経済は拡大する半面,バブルや金融危機も起こりやすくなる。しかし,そうした矛盾を含めて,代用貨幣が発達し,商品貨幣が流通から姿を消す必然性を述べるのがマルクス派である。


*商品貨幣は歴史的主流でなく論理的基本形

 島倉氏は,経済史の研究成果をもとに,「貨幣が導入される前は物々交換経済があり、貨幣も元々は市場で交換される商品の1つであった」ということを否定し,「商品貨幣論が想定するような物々交換経済はそもそも存在していなかった」とする。しかし,経済史と経済理論は異なる。例えばマルクスの『資本論』は商品論から始まって貨幣論に進み,貨幣が資本に転化する剰余価値論へと進む。しかし,商品論がt時点,貨幣論がt+1時点,剰余価値論がt+2時点での話だと歴史的順序を述べているのではない。商品論が資本主義以前,剰余価値論が資本主義というのでもない。あくまで資本主義社会を念頭に置いて論理的な抽象を行い,説明のために適した順序でものごとを論じているのだ。だから,金が貨幣として必要だというのも現代社会のことであり,しかしそんなものを使っていては不便で仕方がないから金の現物は用いずに,預金貨幣や中央銀行券で代替するというのも現代社会のことであり,同時に起こっていることなのである。


*歴史的経過で経済理論を否定することはできない

 商品貨幣は資本主義以前に主流の貨幣ではなかったと言われれば,そうかもしれない。しかし,それは歴史の問題である。他方,現代社会での信用貨幣の説明は,現在の論理の問題である。マルクス経済学が言っているのは,むかしむかし物々交換と金貨が主流でしたという歴史物語ではない。貨幣としての性質や機能を理解する際に,特定の商品にすべての性質・機能が体現されている状態から出発するのがよいということである。いわば金属貨幣は論理的な万能貨幣である。ところが,現実に貨幣を使う際には,そもそも貴金属の量が限られていること,重さがある物体であること,販売と購買が結合していることなどの制約もあって,不便極まりない。だから代用貨幣が発達するという説明になる。「過去に主要なものとして用いられていた」ことが問題ではなく,「今を説明する際の基本形と設定できる出発点」であることが問題なのである。

 これをやや哲学的に言えば,歴史的経過によって,論理的説明力を否定することはできないのである。


*国家の重要性はどこにあるか

 島倉氏は「歴史学・人類学・宗教学などの知見を総合すれば、近代的な主権国家の登場前も含め、古代以降の様々な貨幣は「神」を含む主権者との関係に基づいて成立していると考えられる」と主張する。経済学が他の諸科学の補完によって経済を説明しなければならないのは確かだろう。例えば,クナップの表券主義による貨幣論にも重要な貢献はある。それは冒頭で私が保留した一点であり,「価格標準は国家が定める」としたことである。価格標準には二つの面があり,ひとつはドルとか円などの貨幣名を定めること,もう一つは貨幣金属の一定量を貨幣名での一単位と対応させ,昔のIMF体制で言えば「金1オンス=35ドル」などと水準を定めることである。このうち前者は今でも機能しているが,後者は機能していない。このことは,現代を説明する上でも確かに有効であり,それはマルクス派も認めるべきことである。だから,国家の貨幣へのかかわりは確かに重要である。


*経済はできるだけ経済で説明すべき

 しかし,だからと言って経済学の論理自体を軽視してよいはずがない。商品交換にとって貨幣が必要とされる論理,購買と販売が後払いによって分離し,後払いの証書として手形が生まれ,手形が流通することによって債権債務の相殺が可能となり,商品貨幣を節約する可能性が生まれることを無視して良いとは思えない。経済のことは,なるべく経済によって説明すべきであり,それが限界に達したところで他の論理による補完を考えるべきだろう。MMTの国定貨幣説は,「それは国家の力による」という説明に安易に頼りすぎている。それゆえ私は,手形債務説によって現代の預金貨幣や中央銀行券を説明する道を選びたい。

2024年4月3日水曜日

ディスカッション・ペーパー「ベトナムにおける共英製鋼の事業展開―発展途上国における技術・生産システム間競争の研究―」

 ディスカッション・ペーパー「ベトナムにおける共英製鋼の事業展開―発展途上国における技術・生産システム間競争の研究―」を公表しました。ダウンロードいただけます。まだ改良して雑誌に投稿しなければなりませんが,コロナ禍で延長した科研費の期間が3月末で終了したため,一区切りとしました。1990年代にベトナムに進出した共英製鋼が21世紀突入後に直面した,技術・生産システム間競争を分析しています。共英製鋼は,苦労の末に発展途上国の条鋼部門では王道とも言えるスクラップ・電炉システムを構築しましたが,日本には存在しない思わぬ伏兵に直面しました。それは,地場企業が構築した小型高炉一貫システムと誘導炉システムでした。本稿はこの競争の過程と帰結,意義を解明することに努めました。

 ディスカッション・ペーパー「ベトナムにおける共英製鋼の事業展開―発展途上国における技術・生産システム間競争の研究―」


2024年3月24日日曜日

『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞によせて:戦前生まれの母へのメール

 『ゴジラ -1.0』米アカデミー賞視覚効果賞受賞。視覚効果で受賞したのは素晴らしいことだと思います。確かに今回の視覚効果は素晴らしく,また,アメリカの基準で見ればおそらくたいへんなローコストで高い効果を生み出した工夫の産物であるのだと思います。

 けれど,私は『ゴジラ -1.0』のストーリーには複雑な気持ちがあります。それは「日本人のことだけ考えるならば感動できるけど,いまどきそれでいいのだろうか」ということです。このことは,いつかきちんと書こうと思っていたのですが,おそらくその時間が取れません。なので,昨日,戦前生まれの母に受賞の感想を聞かれて送ったメールを掲げます。いささか単純で政治的に過ぎるかもしれませんが,こう思ったことは間違いありません。

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 今回の『ゴジラ -1.0』は視覚効果は素晴らしいのですが,ストーリーの作り方に一定のひずみがあります。簡単に言うと,戦後の日本の軍人たちを「人命軽視の戦時体制による被害者」「国民を守る使命を果たせなかった挫折者」と描いています。ゴジラとの戦いは,そのトラウマの回復行動として描かれています(今度こそ,俺たちはやるぞ,という風に)。このような描き方は,戦後しばらくならば,ある種もっともなのですが,加害者的側面の無視は,いまとなってはいささか身勝手でしょう。○○さん(注:母)なら,ご覧になるとすぐにお気づきになると思います。しかも,このような演出は自覚的になされているようで,この映画には外国人がほとんど出てきません。在日朝鮮人や中国人が出ないだけでなく,占領軍がほとんど町を歩いていないのです。日本人の日本人による日本人の心の傷の回復のための物語です。日本軍の人命軽視や特攻は批判されていますが,それは日本人の生命を軽んじたから批判されるのです。戦争とは外国人と殺し合うものであること,日本人以外の生命を奪うものであったことは忘れられたかのようです。

 私は,ゴジラは,人間が身勝手なストーリーで自分を正当化することを否定する他者であろうと思います。だから決して死なずにまたやってきます。今回の映画でも,かろうじてラストシーンでそのような描写があり,ヒロインが「あなたの戦争は終わりましたか」と語る時に,そうではないことが暗示されてはいます。しかし,ここまでのトラウマ回復物語が強すぎて,人間の身勝手さを十分に相対化できていないように,私には思えます。

2024年3月21日木曜日

旅立ちの時

 旅立ちの時

 当ゼミの修了生,博士研究員の銀迪さんは,4月1日から同志社大学商学部助教に就任します。思えば,大学院受験の相談を受けて,出張ついでに銀さんと池袋の喫茶店で会ったのは2015年夏のことでした。それから約9年間,色々なことがありました。とくに後期課程に進んでからは,私は,春も夏も秋も冬も,銀さんの論文が完成するだろうか,仕事が見つかるだろうかという緊張と不安を抱えていましたが,本人にはその数倍の重圧がかかっていたことでしょう。よく耐えてがんばったと思います。博士論文と,単著論文1本,共著論文2本を公刊して,ついに独り立ちする時を迎えました。

 おめでとうございます。

銀迪(2022)「高成長期の中国鉄鋼業における二極構造の形成」博士(経済学)学位論文。

銀迪(2022)「中国の鉄鋼産業政策:設備大型化・企業巨大化・生産集中化の促進とその帰結」『産業学会研究年報』37,133-153。

川端望・銀迪(2021)「中国鉄鋼業における過剰能力削減政策:調整プロセスとしての産業政策」『アジア経営研究』27,35-48。

川端望・銀迪(2021)「現代中国鉄鋼業の生産システム: その独自性と存立根拠」『社会科学』51(1),1-31。



2024年3月1日金曜日

2023年度東北大学⽇本学国際共同⼤学院シンポジウム「中小企業と地域:過去と現在」(2024年3月21日14時より)

 2023年度東北大学⽇本学国際共同⼤学院シンポジウム「中小企業と地域:過去と現在」

対面会場はキャパに限りがございますが,オンラインはどなたでも参加できます。下記リンクからGoogleフォームでお申し込みください。

■ ⽇時

– 2024年3⽉21⽇(木)14時〜17時
– 東北⼤学⼤学院経済学研究科 4階⼤会議室(ハイブリッド開催)

■ 登壇者

– 曽根 秀一⽒(静岡文化芸術大学文化政策学部、教授)
「地域に根差した長寿企業の存続メカニズム」

– 谷本 雅之 ⽒(東京大学大学院経済学研究科、教授)
「在来的発展と大都市ー20世紀東京の中小経営」

 参加希望の方はこちらにご記⼊ください(3⽉14⽇(木)締め切り)

https://forms.gle/FStBY3Pg98LjPQ2X7

連絡先:takenobu.yuki.c1あっとtohoku.ac.jp



ジェームズ・バーナム『経営者革命』は,なぜトランピズムの思想的背景として復権したのか

 2024年アメリカ大統領選挙におけるトランプの当選が確実となった。アメリカの目前の政治情勢についてあれこれと短いスパンで考えることは,私の力を超えている。政治経済学の見地から考えるべきは,「トランピズムの背後にジェームズ・バーナムの経営者革命論がある」ということだろう。  会田...