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2022年1月24日月曜日

「円の購買力が低い」ことと「日本の物価が安い」ことを取り違えている『日経』1面記事

  『日経』は大丈夫か。この記事は電子版では会員限定だが,紙版では1面だ。1面から思い切り間違ったことを書いている。念のため言うが,思想が偏っているから悪いとかいう話ではなく,まるきりテクニカルな問題である。

 見出しは良い。「円の実力低下」「弱る購買力」である。過度な円安により,円の購買力が下がっていることのマイナス面を論じたいのであろう。それはわかる。

 ところが,「日本の物価が安いのがまずい」という,全然別の観点が紛れ込んでいるために,わけのわからない記事になっている。それは,ビッグマック指数の見方に現れている。

 ビッグマックが,いま現に日本では390円で,アメリカでは5.65ドルで売られているのであれば,ビッグマック為替レートは390/5.65=69.03により,1ドル=69.03円である。このレートならば,ドルと円の購買力は同じとなる。ところが実際には1ドル=115円なので,69.03/115=0.6で,ほんらいの60%の購買力しかなくなるほどに円は過小評価されていることになる。これが,ビッグマック指数のほんらいの考え方である。

 ところがこの記事は,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと価格差を埋められない」などと,あたかも,価格が安いことがまずいかのように書いてしまっている。それでは,読者は「え,安くて何が悪いの?」と思って混乱するだろう。ここは,「円相場が1ドル=70円まで上昇しないと,購買力の格差を埋められない」と書くべきだった。円の購買力が低いことと,日本の物価が安いことを混同しているからこんな書き方になったのである。


「円の実力低下、50年前並みに 購買力弱まり輸入に逆風」『日本経済新聞』2022年1月21日。


2022年1月12日水曜日

小売業史から見た日本資本主義論:満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年を読んで

 満薗勇『日本流通史:小売業の近現代』有斐閣,2021年。非常な興奮を持って読んだ。教科書として書かれたものなので,歴史的叙述のところどころに該当する理論解説が入るという形になっているが,非常に書き込まれた近現代史であると思う。私は流通史研究の素人なので,先行研究との関係はわからないのだが。

 何よりも,楽しい。学術的に産業を描写する際の難しいことの一つは,論理的・実証的に厳密に書くことと,学生や一般の読者が,書かれていることを具体的な光景としてイメージしやすく書くことが矛盾することだ。ところが,本書はこの矛盾がほとんどなく,小売店舗が営まれ,人々が買い物をする光景を生き生きと思い浮かべながら,丁寧で,学術的裏付けのある記述を読むことができるのである。どうすればこのように書けるのだろうか。

 一方,古くさく大上段な言い方をすれば,「本書は日本資本主義論である」と思う。どこがそうかというと,著者が日本型流通の成立・展開・変質を歴史的に把握しているところであり,また流通における資本主義原理の貫徹と日本的独自性の統一として把握しているところである。そして,小売業という,圧倒的多数が自営から出発した世界から見ることによって,日本資本主義を深くとらえることができるのである。

 著者によれば,日本型流通を特徴づけるのは卸売業の多段階性と,小売業の小規模稠密性である。この二つの特徴は,明治時代から1940年代までに成立し,1950年代から80年代初頭までに展開し,それ以降,変容を遂げつつある。

 著者によれば,日本型流通が根強く維持されてきた原因は,単に大規模店舗が規制されていたからではない。一方では地域性豊かな消費市場の構造が,画一的な大量流通になじまない状況が長く続いたからであり,他方では家族経営の自営業が頑強に再生産され続けたからである。再びあえて大上段な用語法で読み解くと,ある時期,資本主義的大量流通と自営業の原理は抱合さえしていたことが,スーパーやコンビニエンス・ストアの発展過程から読み取れる。例えば,コンビニエンス・ストアの本部は大量仕入れと小口配送,情報化による単品管理を行い,FCオーナーは家族総出で24時間営業を支え,丁寧なサービスを支え,両者が補完し合ってコンビニは発展したのである。

 しかし,やがてモータリゼーションと情報化によって小売店舗の立地が大きく変わり,また調整機能における多段階・小規模稠密性の優位が失われていくことで,今日私たちが目の当たりにしているような専門量販店とショッピングセンターの優位,Eコマースの成長,そして商店街の苦境が訪れる。そして,気が付けば商店街の苦境を取り仕切るのは中高年の男性たちであり,女性は背後に置かれており,後継者は見つかりにくいのである。

 著者は,日本流通史から「望ましい流通のあり方はただ一つに決まるものではない」という命題を引き出して強調する。そのとおりだろう。しかし,私は著者はそのことに加えて,「流通は,その社会の歴史から逃れられない」ことと,とくに「資本主義は自営業のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということを明らかにしたように思う(おそらく著者も自覚されているが,そんな暗くて重い言い方をすると学生が「引く」と思って書かないのだろうと,私は邪推する)。後者をもっと敷衍すれば,「資本主義はその社会の家族のあり方から自由になろうとするが,なり切れない」ということでもあると思う。このことは,かつて農業を念頭に置いて行なわれた日本資本主義史研究では常識であった。しかし,農業だけでなく,自営業と家族のあり方を念頭に置くべきなのだろう。

 著者も触れているが,私達は上述した流通業態の変化とともに,自営業主が減少し,その分だけ非正規雇用者が増える変化の中にある。このことは何を意味するだろうか。多くの人は,肯定的にであれ否定的にであれ,大資本の力と市場原理の強化として把握するだろう。もちろんその通りなのだが,それはことの半面に過ぎないのではないか。日本の資本主義に対する自営業からの作用が弱体化し,ついに社会編成に質的変化をもたらしたととらえるべきではないか。この変化をとらえるために必要な一つの切り口はもちろん労働であるが,実は小売りも重要な切り口だったのである。本書からはそのような示唆を得ることができると,私は思う。


満薗氏の前著『商店街はいま必要なのか 「日本型流通」の近現代史』講談社現代新書,2015年に関するノートはこちら



2022年1月4日火曜日

動画:現代資本主義におけるマクロ経済政策 第1-7回

  管理通貨制度下における通貨供給,金融政策,財政政策について解説する,学部生向け講義動画を限定的に公開します。管理通貨制度下において信用貨幣が全面的に意義を持つことを述べ,そのことを前提に金融政策と財政政策の原理を論じています。

 この講義は,理論的に十分精緻なものとは言えませんが,以下のようにマルクス派とケインズ派を踏襲しているつもりです。

・管理通貨制度の下で,初めて信用貨幣の原理が全面的に貫徹すると考えている点ではマルクス派内マイノリティです。貨幣は本源的には価値物であることが必要だけれど,制度の発展により価値シンボルや手形で代用されると理解するところがマルクス派で,信用貨幣論に基づき金融において内生的貨幣供給論,財政において外生的貨幣供給論を取るところがマイノリティです。
・資本主義において失業の発生を不可避と見る点はマルクス派とケインズ派に従っています。
・現代の貨幣を信用貨幣と理解するところはマルクス派内マイノリティでもあり現代貨幣理論(MMT)と同じでもあります。そこから,財政赤字が傾向的に増えることを不可避としています。
・利子は投資と貯蓄を裁定しないこと,閉鎖系では純投資が貯蓄を決定すること,資本の限界効率によって投資の不確実性が発生することなどは,オールド・ケインジアンに従っています。

(2022/1/7追記)まず第1-7回を公開します。Youtubeにリンクしています

第1回 管理通貨制度とは何だろうか


第2回 現代の貨幣は信用貨幣:債務が流通している世界 


第3回 債務は債務でしか支払えない:金貨で支払うことのない世界



第4回 銀行は,すでに存在する預金を貸し付けるのではなく,預金を無から創造して貸し付ける:そのことによって通貨が生まれる



第5回 金融システムは貸付・返済により,財政システムは支出・課税により通貨供給を調整する


第6回 金融システムを通して内生的に,財政システムを通して外生的に通貨が供給される


第7回 なぜ政府は,金融・財政政策によって経済に介入しなければならないのか



以下は第1-7回のロングバージョンです。

現代資本主義とマクロ経済政策(1)



全ての動画を掲載しているチャンネルです。

川端望のチャンネル




2021年12月28日火曜日

日本の高炉メーカーは,イノベーターのジレンマにはまりつつあるのか? 高炉における水素利用と水素直接還元製鉄の選択について考えるべきこと

 鉄鋼業をカーボン・ニュートラル化するためには,鉄鉱石を炭素で還元する製造法を改めねばならない。これは,世界の鉄鋼業が等しく直面している難題である。現存技術でこれに貢献できるのは,すでに鉄鋼となって存在している鉄スクラップを電気炉で溶解精錬するスクラップ・電炉法である。もちろん発電でCO2を出さないことが必要であり,発電を再生可能エネルギーで行ったうえで電炉で精錬するということになるだろう。今後,世界の鉄鋼業で電炉法のシェアが高まることは確実である。しかし,それだけで世界の需要をまかないきれるわけではない。どうしても,鉄鉱石を製錬する製造法の脱カーボン化が必要である。いまのところ,その最終的な解決は,炭素でなく水素で鉄鉱石を還元することと想定されている。

 この,水素製鉄に向けての技術選択について,日本とヨーロッパで異なる経路が生じつつある。本稿では,このことの意味を考えてみたい。

 日本鉄鋼連盟や日本製鉄,JFEスチールのゼロカーボン・スチール構想では,最終目標は水素直接還元製鉄とされている。しかし,両者も日本鉄鋼連盟も,その実用化には時間がかかると考えて,当面は高炉での水素利用,カーボンリサイクル高炉,高炉+CCS/CCU(CO2貯留・有効利用)の開発に注力している。これに対して,自然エネルギー財団の「鉄鋼業の脱炭素化に向けて 欧州の最新動向に学ぶ」(2021年12月14日公開)によれば,ヨーロッパでは,まず天然ガスで還元する大型の直接還元製鉄炉(製鋼は電気炉)を2025-2030年に立ち上げ,これを水素還元に切り替えていくというプロジェクトが次々と立ち上がっている。ヨーロッパメーカーは,早々に製鉄法を直接還元法に切り替えようというのである。

 製鉄法が高炉法と直接還元法に分かれると,製鋼法もまた分かれる。高炉法では製造される銑鉄が溶融状態なので,精錬には,酸素を吹き付けるだけで脱炭できる転炉を用いるのが効率的である。一方,直接還元炉で製造されるのは固体としての還元鉄であるため,精錬には加熱・溶解が必要なため酸素転炉が使えず,電炉を使うことになる。高炉は転炉と,直接還元炉は電炉とセットなのである。

 高炉・転炉法は現状では非常にエネルギー効率が良い製造技術であり,それ故高炉・転炉法の技術を蓄積している日本の高炉メーカーは,現在に至るまで競争力を維持できている。しかし,もし水素還元が早期に確立すると,直接還元・電炉法の方がCO2削減効果が大きくなる可能性がある。なぜなら,高炉法では,炉内の装入物の荷重を支え,還元ガスや溶けて降下する鉄の通路を確保するために固体のコークスが不可欠であり,これを,気体である水素に完全に置き換えることができないからである。一方,直接還元炉は還元をガスによって行うことができるので,この制約がない。

 日本の高炉メーカーは,現存する高炉・転炉による一貫製鉄所の設備と,国内に蓄積されている高炉・転炉法の技術・ノウハウを活用する方が,技術的にも手を付けやすく,また当面は低コストであるために,次世代技術の第一弾として高炉での水素利用を選択しているのだと思われる。対してヨーロッパメーカーは,高炉・転炉法のレガシーが強力でないがために,当初より水素直接還元製鉄を目指していると解釈できる。

 もし高炉の水素利用を早期に確立できるならば,当面は日本メーカーが優位に立つかもしれない。高炉・転炉を座礁資産にせずに,長く使うことも可能になるだろう。しかし,技術発展の経路が高炉・転炉法にロックインされると,水素直接還元製鉄技術の最終的確立,CO2排出規制への対応において,ヨーロッパメーカーに遅れを取るかもしれない。

 水素直接還元製鉄は,しばらくの間,エネルギー効率においては高炉・転炉法に追い付かず,したがって通常の意味での生産コストは高いだろう。しかし,CO2排出規制への適応性が高いために,カーボン・プライシングのレベルによっては不利は相殺されるかもしれない。CO2排出の社会的費用を含んだ生産コストでは,水素直接還元製鉄が,早々に優位に立つかもしれない。

 かつて製鋼技術が平炉から純酸素転炉に置き換わる際に,アメリカ高炉メーカーは,すでに巨額の設備投資を行っていた平炉法の維持・改善に固執して転炉導入に後れを取り,そのことがコスト高・競争力喪失につながった。鉄鋼業の脱カーボン化において,日本メーカーは同じ轍を踏まずに済むだろうか。脱カーボン製鉄技術の選択については,エンジニアリングの側面だけでなく,経済の側面からもよく検討する必要があるだろう。

 これをやや一般化して言うならば,既存大企業は,保有する現存の設備・技術を自ら陳腐化させるカニバライゼーションをためらい,従来技術の延長線上にある持続的イノベーションで環境規制に対応しようとする。その分だけ,市場における挑戦者企業よりも新技術採用で後れを取る危険がある。一方,挑戦者企業はレガシーの重みがないために,果敢に新技術に挑戦する。新技術は,しばらくの間は,従来の市場における基準ではパフォーマンスが劣る。しかし,環境規制への適合性が高いために,まず規制や世論による環境基準が高い市場の一部で支持される。その支持を足場にして,挑戦者企業は生産を拡大して生産性とコストを改善する。並行して,技術それ自体も洗練されていく。そして,ついには新技術が従来技術にとってかわり,挑戦者企業が既存大企業にとって代わるかもしれない。クレイトン・クリステンセンの言う「イノベーターのジレンマ」は,カーボン・ニュートラルをめざす環境技術においても生じ得るのである。

 本件は,まだデータによって裏付けられる話ではなく,あり得る可能性についての問題提起と注意喚起にとどまる。しかし,関係者がそれぞれの立場から検討すべき論点であることは,間違いないと思う。拙論への賛否を問わず,生産的な討論が起こることを切望する。

2022/4/16 語句修正。


2021年12月18日土曜日

山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年を読んで:信用創造禁止,シンボル貨幣,ナローバンクがもたらすもの

 山口薫・山口陽恵『公共貨幣入門』集英社,2021年について。日本的経営等についての周辺的な話も交じってはいるが,貨幣制度改革論を中心とした本であり,MMTを批判し大きく異なる通貨改革案を正面から主張しているので読んでみた。

1.主張

 著者たちは以下のことを主張している。

1)現在の貨幣システムは,大部分を債務貨幣が占める債務貨幣システムである。
2)債務貨幣システムのもとでは不況やバブルを克服できないし,累積した債務の利払いを通して富が銀行資本に吸い上げられる。
3)貨幣システム改革の決め手は公共貨幣システムである。

 著者の言う債務貨幣とは,より一般的な言葉で言えば信用貨幣である。また著者の言う公共貨幣とは,債務ではなく資産とみなされる貨幣であり,日本政府の発行する硬貨はこれに当たる。より一般的な言葉で言えば,政府貨幣や,その電子化されたものである。ただし,資産と見なされると言っても固有の価値を持つ商品貨幣ではなく,古典的用語では価値標章,日常用語で言えばシンボルとしての貨幣である。

 著者の主張する公共貨幣システムとは,簡単に言えば次のようなものである。

A)日本銀行を財務省と合併させて政府機関の「公共貨幣庫」とする。つまり,名実ともなる統合政府論である。
B)公共貨幣は政府が創造する,政府にとって債務でなく資産となる通貨である。つまり,中央銀行発行の信用貨幣を廃絶し,シンボル貨幣としての政府貨幣に置き換える。
C)民間銀行の法定準備率を100%とする。つまり,準備金の範囲でしか貸し出せないようにし,無から貸し付けて預金を生み出す信用創造を禁止する。ナローバンク論の一種である。

 これによって,バブルは根絶され,利払いによる銀行の支配もなくなり,通貨発行がゼロサム(MMTの言う「誰かの負債は誰かの資産」)ということもなくなって,通貨発行の度に国全体の金融資産が増え,通貨は民主主義的統制のもとに置かれる,と言うのである。著者は,これが大恐慌下でアービング・フィッシャーらによって提案された「シカゴ・プラン」を継承するものだと自負している。だから,経済学的にはシカゴ学派に近いのだが,銀行の利益と権力を排除して民主主義を拡張することを志向しているためか,リベラル側の社会活動家でも肯定的に見る人がいるようだ。


2.批判

(1)デフレ不況を引き起こする金融システム:信用創造の禁止は,実体経済が要求する通貨供給を不可能にする

 まず重要なことは,著者が,現実の貨幣システムが信用貨幣システムだと認めており,現実の説明としては主流派経済学の外生的貨幣供給論より,MMTを含む信用貨幣論の内生的貨幣供給論が正しいと認識していることである。このため,現実の説明の部分は私にも抵抗なく読めた。

 しかし,著者の提案する公共貨幣システムには問題があると思う。最も大きな問題は,信用創造の禁止により,民間実体経済の要求に対応した柔軟な通貨供給が不可能になるということである。

 現実の信用貨幣システムにおいて,政府の財政支出を別とすれば,民間経済に通貨が供給されるのは,企業が銀行から借り入れを行い,銀行が無から貸付金と預金を創造するからである。それに対応した一定の準備金は中央銀行が銀行に供給する。これが唯一のルートである。こうして預金通貨が供給され,それが引き出されると中央銀行券となる。これらの通貨は,流通に不要となれば預金やたんす預金として遊休することもあるが,企業が倒産などしなければ,結局は,貸付金の返済を通して流通から出て消滅する。経済成長とともに財・サービスの流通に必要な通貨が増える時は,主要には貸付けが返済を上回ること,副次的には遊休している預金やたんす預金の流通への復帰によって賄われる。

 ナローバンクシステムでは,この機能が果たせない。貸出が準備金の範囲までと厳しく制限されている以上,経済成長に対応した預金通貨が供給されないのである。それどころか,運転資金や決済資金が一時的に不足する際の,支払い手段としての通貨についても供給に弾力性がない。したがって,経済成長期には投資のための通貨供給が不足し,経済危機の際には運転資金や決済資金が不足して,恒常的なデフレ不況圧力がもたらさせるだろう(※1)。

 それを防ごうとしたら,政府が公共貨幣を増発して銀行に準備金を供給しなければならないが,政府は基本姿勢としてそれを抑制するだろう。なぜならば,もともとこのシステムは,企業と銀行の取引を通した信用創造がバブルを生むから抑制するという思想で設計されているからである。銀行の貸出量は厳格に制限される方向で運用されるだろう(※2)。

 「手形を振り出し,その手形を与えて貸し付ける」ことによる信用貨幣の伸縮性を否定し,シンボル通貨で金融システムを運用しようとすると,確かにバブルは防げるだろうが,肝心の実体経済が必要とする通貨供給が満たされず,不況を引き起こしてしまうのである。


(2)インフレへの歯止めがない財政システム:財政赤字も利払いもなくなるが支出の歯止めもなくなる

 さて,公共貨幣とナローバンクの下では,経済はデフレ不況気味に推移するだろう。金融システムでの拡張はナローバンクの趣旨からいって限度があるだろうから,デフレ不況に対抗しようとすれば財政を拡張するよりない。すると,今度はインフレの制御が,現行の信用貨幣システムよりも難しくなるし,公共貨幣論は主流派経済学やMMTよりもそれに対して脆弱である。これが副次的な問題である。

 財政システムにおいては,信用貨幣であれ公共貨幣であれ,課税と支出のバランスによって追加供給量が外生的に決まることは同じである。しかし,公共貨幣システムでは金融システムが実体経済の通貨要求に柔軟に反応できない分だけ,財政拡張の必要は強力になる。また,少なくとも本書では,公共貨幣論は財政支出の質に関する理論を示していない。例えば,インフレにならないように財の購入より失業している労働者の雇用に重点を置くと言った話がない。そして,公共貨幣は政府の決定一つで資産として発行できるので,財政赤字もなければ利子を銀行に持っていかれる心配もない代わりに,通貨価値を維持する見地から通貨供給量をチェックするしくみもない。これでは公共貨幣の信認は信用貨幣の信用より揺らぎやすく,通貨価値下落=インフレの圧力は現行システムよりもはるかに強くなる。インフレなき完全雇用実現への道は遠いであろう。


(3)通貨供給の中央集権化による硬直性

 以上のように,著者の主張する公共貨幣システムとナローバンクは,金融システムとしてはデフレ不況を促進するバイアスを持ち,それを補おうとすると財政システムがインフレ促進バイアスを持つ。そのため,マクロ経済の問題を何ら解決しないと,私には思える。

 著者は,政府・公共貨幣庫に対する民主主義的統制と効率的行政によって,必要なだけの公共貨幣を政府が創造し,準備金不足にも対応すれば,財政が膨張しすぎないようにコントロールもするのだと主張するのかもしれない。しかし,準備金供給に関する政府の委員会決定や財政に関する年次での国会での議決だけに通貨供給を委ねるのはあまりに中央集権的であり,日々の企業活動に対する柔軟な反応を期待できない。いかに銀行の行動に問題があろうとも,資本主義経済のままで改革を行うのであれば,銀行による,私的で分権的な預金通貨の供給量調整は認めざるを得ないであろう。率直に言って,公共貨幣システムでの通貨供給の硬直性は,シカゴ学派に由来する提案にもかかわらず,集権的計画経済の硬直性に類似していると思う(※3)。


(4)公共貨幣論の幻想はどこから生まれるか:信用貨幣システムへの不信

 なお,公共貨幣論が有効に見えることがあるとしたら,それは現実の信用貨幣システムが機能不全になっている瞬間を切り取り,それと公共貨幣システムを対比すると後者の方がましだと思えるからである。具体的には,世界大恐慌下の信用収縮を前にすれば,必要な貨幣を民主国家が自ら供給できればこの事態を解決できるかのように見えるだろう。シカゴ学派が,通貨供給量の確保を求めてシカゴプランを提示したというのはこの文脈でであろう。またバブル経済とその崩壊を前にすれば,経済を不安定化させる信用創造がない仕組みの方がよいように見えるだろう。1980年代以来,ナローバンク論が時おり唱えられる理由はここにあるだろう。しかし,これは錯覚であり,政策提案としてはすりかえである。公共貨幣システムは,政府介入によって大不況の時に通貨供給を緊急に増加させたり,バブルを制度的に起こりにくくすることだけはできるかもしれない。それはそれでよい。しかし,通貨システムは,非常事態に対処できればよいというものではないし,バブルさえ起こらなければよいというものでもない。恒常的に多方面にわたって機能するかどうかが重要なのである。公共貨幣システムは,金融システムにおいては信用を収縮させてデフレ不況を引き起こす傾向を持ち,これを反転させようと財政拡張を行えば供給過剰=インフレになるものであり,機能しないであろうと,私は考えるのである。


3.MMT批判のインプリケーション:銀行改革の課題

 さて,批判としてはここまでだが,本書の批判を通して浮き上がってくる理論的インプリケーションがある。それは,本書のMMT批判が,批判としては重要な論点を含んでいることである。

 第一に,利払いの問題である。著者は,MMTが利付き債務の設定を通して貨幣が供給される信用貨幣システムを肯定したまま,マクロ経済政策の改革を行なおうとすることを批判する。財政赤字の累積とともに国債の利払いもまた累積していき,銀行をもうけさせるだけではないかというのである。これはMMTに対する誤解であって,MMTは主流派マクロ経済学とともに,経済成長率が金利を上回ることは必要だと認めているのである。しかし,この批判は,MMTの制約を示してはいる。つまり,MMTは雇用創出を何より重視するのであるが,利払いを賄う程度の経済成長は実現しなければならないし,利子と言う不労所得が発生することは認めざるを得ないのである。MMTは,その面では革命的でなく穏当なマクロ経済政策の改革論なのである。

 第二に,バブルの問題である。著者は,MMTは銀行の信用創造に手を付けないからバブルを防げないではないか,と批判する。これは,ある意味もっともな批判だと私は思う。MMTは,成長率と金利の関係,インフレ,為替レート下落,そしてバブルを指標として財政支出をチェックすべしとする。このうち,バブルの発生を防止する手法の開発が最も難しいであろう。実体経済の好況とバブル,実体経済のための通貨供給と金融的流通に回る通貨供給を区別してコントロールしなければならないが,両者を区別して可視化し,制御することは,確かに難しいからである。この問題への有効な対処を開発することは,MMTにとって深刻な課題であろう。その意味では,著者の批判は批判として成り立つ。

 第三に,より根本的に,通貨発行量に関する意思決定の問題である。著者は,MMTが,銀行と企業が信用供与に関する私的意思決定を認めていることを,バブルと不況期の通貨収縮を生むものとして批判する。確かに,MMTはこの私的意思決定自体はやむを得ないものとしている。その点でもMMTは革命的社会改革を唱えるものではなく,資本主義の下での現実的マクロ経済政策を唱える理論であることは確かである。著者がこれを民主主義の見地から批判するのは,政治論として一理あるだろう。

 このように,本書はMMTに対して,銀行批判,具体的には不労所得批判,バブル批判,通貨供給の私的意思決定批判が弱いではないかと批判し,それによって,MMTが根本的な銀行改革案を持つものではないことを浮き彫りにした。MMTや他の政策論が解かねばならない問題がここに残っていることが明らかになった。

 しかし,著者による対案は,問題を解決せずに悪化させるものであった。バブルは食い止めても,肝心の実体経済への通貨供給を危うくするものであった。政治的に議会の権限を強めるかもしれないが,経済を機能させえないものであった。信用創造の全否定は,いわばお湯といっしょに赤ん坊を流すものだったのである。不労所得を減らし,バブルを失くし,民主的意思決定領域を広げるという,政治的に魅力的に見える提案であっても,必ず経済的に望ましい結果が得られるとは限らない。公共貨幣論は,地獄とまででは言わないが,苦難への道を善意で敷き詰めるものであった。同様のことはどのような通貨改革論にも起こり得るのであり,規範的に経済政策を論じる際に,十分心しなければならないことであろう。


※1 著者らの場合は異なると思うが,ナローバンク論の中には,企業は銀行から借りられなくとも,証券発行や投資銀行経由の金融仲介で資金調達できるだろうという意見がある。これはとんだ勘違いである。証券購入や投資銀行経由で投資しようとしている投資家のお金はどこから来たのか。もともと,経済のどこかで,どの時点かで,企業が銀行から借り入れたから存在しているのである。信用創造を統制すれば,証券投資に回るべき遊休資金もやがて枯渇する。

※2 政府がデフレ不況を防ごうと,節を曲げて銀行への準備金供給を増加させるとどうなるだろうか。その場合,不況から脱出できるかもしれないが,当然バブルの可能性も再燃するので,何のために公共貨幣システムに移行したのかわからなくなる。

※3 本書が述べているわけではないが,準備金増減については,裁量的に調整するかわりにミルトン・フリードマンが通貨供給量について主張した「X%ルール」のようにルール化してはどうかという意見があるかもしれない。「X%ルール」は,公共貨幣システムでも信用貨幣システムでも,借り入れ需要を「伸び率X%」に抑制するためには有効である。つまり,景気過熱,悪性インフレ,バブルを抑制する際には有効であろう。マネタリストが1970年代に勢いを増したのももっともであった。しかし,借り入れ需要が弱いときに通貨供給量を「伸び率X%」まで増やそうとしても無理である。企業に借り入れ意欲がなければ準備金が積み上がるだけに終わるだろう。アベノミクス期の量的金融緩和と同じである。なので,公共貨幣システムがいったん景気をデフレ不況に冷え込ませてしまい,借り入れ需要が低迷すると,これを「X%ルール」で救うことは不可能である。


2021年12月16日木曜日

MMTはケインズ派の困難を克服できるか?

 MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。この点では,MMTはケインズ派の常識的見解とそう外れているものではない。

 だとすれば,MMTに投げかけられるべき疑問は「MMTは,1970年代にケインズ派が陥った困難を克服できるのか」というものだろう。どうしたことか,MMTと聞くと脊髄反射的に「財政赤字をいくらでも出してもいいはずがないだろう」と批判する人が多いが,以前から述べているように,MMTはそんなことは言っていない(※1)。そんな浅い批判でなく,本質的な批判が望まれる。批判によって議論は深まり,理論と政策は鍛えられるからだ。

 ケインズ派は1970年代に経済理論と現実への対処の二つの方面で困難に陥った。ケインズ派の応用としてのMMTがこれらを克服する道を提起しているかどうか,以下,考えてみたい。

1.合理的期待に基づく財政の中立命題

 まず,理論的問題としての,合理的期待に基づく財政の中立命題である。これは単純化すると,以下のようなケインズ派批判であった。財政赤字はいつかは返済されねばならない。すると,現在の財政赤字と将来の財政黒字はプラスマイナスゼロなので,赤字期間と黒字期間を通算すれば,本質的には有効需要は増えない。増えるとすれば,拡張政策を行ったときに,有効需要が増えると国民(納税者)が錯覚して,投資や消費に対する態度を積極的なものに変えた場合である。しかし,将来の財政について合理的に予想できる国民は,そうした錯覚を起こさず,将来の増税を予想する。なので,拡張政策に反応して投資や消費を増やしたりはしないであろう。

 MMTはこの問題にどう立ち向かうだろうか。実は,MMTにとっては,この問題は,本来存在しないものを存在するかのように見せかける偽問題なのである。MMTは,インフレなき完全雇用が保てるならば財政赤字は出し続けてもよく,財政赤字を将来完済する必要はない,むしろすべきではないと考えているからである。

 なぜ財政赤字が常に必要なのか。MMTはケインズやマルクスとともに,自由放任の資本主義経済では有効需要は完全雇用を実現する水準に達せず,失業が不可避だと考えるからである。失業防止のためには通貨供給による需要創造が必要である。現代では,通貨は統合政府の負債であり,失業を救済しながら経済規模に見合った通貨供給を行うには,中央銀行がバックアップする銀行からの信用供与と言う金融ルート(中央銀行と銀行の債務増)だけでなく,課税より大きい財政支出という財政ルート(中央政府の債務増)を併用しなければならない。財政ルートで通貨供給を増やそうとすれば,財政赤字は常に存在し続けるし,経済規模ともに増え続けてもおかしくないのである。国債が自国通貨建てで計上されている限りは,デフォルトすることはない。満期になった国債は借り換えればよい。以前に述べた通り(※2),国債発行は民間貯蓄を吸収しないので,カネのクラウディング・アウトが起こることもなく,金利が高騰することもない。財政赤字が増え続けること自体は問題ないのである。

 もちろん,ここで財政支出の質も重要である。完全雇用達成前はモノのクラウディング・アウト=インフレに注意し,完全雇用達成後はヒトのクラウディング・アウト=悪性の賃金・価格スパイラルに注意し,全過程を通して通貨の金融的流通への滞留=バブルと通貨投機=為替レート急落に注意しなければならない。これを政策プログラムや運営の制度(中央銀行と中央政府の新たな関係)・手法に具体化することは,MMTの重要な課題である。その主要な提言は雇用保証プログラム(JGP)であるが,これは次に述べよう。

 いずれにせよMMTによれば「財政赤字が出た以上,政府はいつかは債務を完済しなければならず,そのための増税がある」というのは合理的期待でも何でもなく,むしろこれこそが錯覚なのである。したがって,財政の中立命題も,もとより成り立たない。なので,この理論的なケインズ批判は,MMTにはあてはまらないのである。

2.スタグフレーション

 次に,現実的問題としてのスタグフレーションである。インフレと不況が共存する状況では,従来の公共事業や呼び水政策によるケインズ政策では,拡張的財政・金融政策も取れず,引き締めもできないというジレンマに陥ってしまうと言う問題である。スタグフレーションの再来は,2021年末の現在でも警戒されているだけに,過去の出来事ではない。

 私の解釈では,MMTは,この問題への反省も行っている。スタグフレーションとは,言い方を変えると,完全雇用に達する前にインフレになってしまうことである。これは,財政支出で作り出されるはずの有効需要が,失業の吸収に結びつかないことによって生じる。この時,財政支出は雇用創造以外の何に作用しているかというと,まず,財の価格を引き上げることに結びついてしまっていると考えられる。政府調達や公共事業における水増し的価格設定,独占による価格つり上げ,ボトルネック財の価格上昇等々である。次に,失業吸収ではなく,既に雇われている労働者の賃金引き上げに結びついていると考えられる。例えば大企業でだけ賃上げが行われ,それが賃金・価格スパイラルを生み出しているのに,失業者は放置されたまま,というような状態である。これがスタグフレーションを引き起こす。そして,経済が混乱して,価格が硬直したままで投資や消費がさらに停滞するとスタグフレーションは深化する。

 こうなってはだめだということを,MMTははっきりと意識している。それゆえ,MMTは呼び水的公共事業には批判的である。そして対案として掲げるのが,公共部門が最低賃金で,希望する失業者を全員雇用するという,雇用保障プログラム(JGP)である。仮にJGPが実施できたとすれば,支出の多くが失業者を雇用して賃金を支払うことに用いられるので,労働市場や財市場を圧迫しない(ヒトやモノのクラウディング・アウトを起こさない)。そしてその賃金水準は最低賃金なので,最低賃金が適度に設定されていれば,デフレも賃金・価格スパイラルも起こさずにすむ。MMTにとって,JGPはスタグフレーションのリスクを乗り越える方策なのである(※3)。

 もちろん,JGPにも種々の問題はある。最低賃金で大量に失業者を雇って,社会的に有用な事業を組織できるかどうかが最大の問題である。また日本に適用しようとすると,そもそも未活用な労働力は家庭に眠ってしまっていたり非正規雇用になっていたりして,完全失業者として現れていないという問題もある。JGPが財政政策の本流になるには,まだ乗り越えねばならない課題は多いだろう。しかし,JGPは原理的に不合理なことを言っているわけではなく,スタグフレーションを回避して,インフレなき完全雇用を実現する一つの道筋は示していると思われる。

 私の理解では,以上が,1970年代にケインズ派が直面した困難をMMTが克服しようとする理論的・政策的方向である。未解決の問題はあるし,具体的な政策に落とし込むまでに至っていない論点も多々あるだろう。しかし,MMTはケインズ派の困難を乗り越える手がかりを示していると,私には思える。重要なことは,現在の地点を否定することでもそこに安住することでもなく,前進することである。

※1「いくらでも財政赤字を出してもいいはずがないだろう」という批判には,ひとつ前の投稿で応えているので,以下を参照して欲しい。「小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い」Ka-Bataブログ,2021年12月14日

※2 MMTがカネのクラウディング・アウトは起こらず,ヒトとモノのクラウディング・アウトは起こり得るとしていることは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。(2024年11月26日追記)この論点について,筆者は自説を修正した。一般的には国債発行は金利上昇圧力を引き起こす。ただし,超過準備が豊富に供給されている現在では引き起こさない。「「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件」Ka-Bataブログ,2024年11月23日を参照して欲しい。

※3 だから,雇用増加を第一に考える姿勢を持たずに,漠然とした「景気対策」で,もっぱら「所得増大」の効果を狙って公共事業を推進しようとするのはMMTではないのである。それでは完全雇用達成前のインフレ,言い換えるとインフレと失業のトレード・オフに直面してしまうからである。インフレ率で財政政策をチェックすることでMMT的な政策を取ったつもりでも,インフレを抑えるために失業を許容することになる。それでは,フィリップス曲線を使った旧来のケインジアンの発想である。

*2021年12月19日。表現を修正。
*2024年11月26日。注2に追記。

2021年12月14日火曜日

小幡績「日本では絶対に危険な『MMT』をやってはいけない」には,あまりにも誤解が多い

  小幡績教授のMMT批判の論稿が出たが,どうも誤解が多い。私もMMT(現代貨幣理論)を理解し,自分が若い頃に学んだ信用貨幣論とすり合わせるのに1年かかったが,小幡教授ももう少し虚心坦懐にMMTの言い分を聞かれてはどうか。

 小幡教授によればMMTの政策には三つの害悪があるそうだ。

「第1に、財政支出の中身がどうであっても、気にしない。
 第2に、金融市場が大混乱しても、気にしない 。
 第3に、インフレが起きにくい経済においては、その破壊的被害を極限まで大きくする。」

 一つずつ検討しよう。

 1番目。MMTが「財政支出の中身がどうであっても、気にしない」というのはまったくの誤解である。MMTは,「インフレなき完全雇用」をめざすものであり,その意味ではマクロ経済学の多くの潮流と同じことを目指している。だから,MMTは,ただ財政支出を増やせばよいと主張しているのではなく,完全雇用達成に貢献するように支出せよ,成長率は金利を上回っていなければならない,雇用増大に貢献しないような財政支出はするな,なぜならば完全雇用になる前にインフレになってしまうおそれがあるから,と主張している。その意味でMMTは小幡教授の主張される「ワイズスペンディング(賢い支出)が必要である」という議論なのである。

 小幡教授は「MMTがインフレ率だけを頼りに財政支出の規模を決めることが誤っている」とも言われるが,MMTにとって財政支出の歯止めはインフレだけではない。まず,雇用増加に貢献するように支出することが大前提であり,その上でインフレ,バブル,為替レートの急落によって財政膨張をチェックするのである。なぜバブルによってもチェックするかと言うと,バブルと言うのは,財政支出で投入した通貨が有効需要に結びつかず,キャピタルゲインを求めて金融的流通を繰り返すことだからである。また為替レート急落に注意するのは,レート急落がインフレとパラレルだからであり,また対外債務の支払いを困難にするからである。MMTが,「国債が自国通貨建てならデフォルトしない」と主張していることはよく知られているが,裏返すと,「外貨建てであればデフォルトし得るから気を付けろ」と言っているのである。

 2番目。小幡教授はMMTにしたがえば「大規模な財政支出により、民間投資が大幅に縮小する、という典型的なクラウディングアウト(英語の元は「押し出す」の意味)を起こす」「投資資金は限られており、金利という価格による需給調節が効かなくても、政府セクターに取られてしまえば、リスク資金は民間へ回ってこない」と言う。しかし,まさにそうした考えが理論的に間違いだとMMTは主張しているのである。財政支出はカネのクラウディングアウト,つまり民間投資資金の押しのけと金利高騰を起こさない。なぜならば,財政支出とは,統合政府が新たに通貨発行量を増加させて支出することだからである。財政赤字を出して支出するたびに通貨供給量も同じ額だけ増えるので,金融はひっ迫しないのである(※1)。

 もっとも,財政支出が一方的に膨張すると,モノやヒトのクラウディング・アウト,つまり機械設備や原材料や人材が公共部門と民間投資とで奪い合いになることはあり得る。その帰結は悪性インフレである。MMTは財政膨張は金利は高騰させないが悪性インフレは起こし得るとして,だからこそインフレに警戒しているのである(※2)。これを避けるためには,財政支出が,なによりも遊休している労働力の稼働に用いられるとともに,利用可能な経済的資源の着実な増大につながる必要がある。

 3番目。小幡教授はMMTでは「インフレが起こりにくい経済においては、財政支出の歯止めが効かないからである。その結果、とことん、経済が破滅的におかしくなるまで、財政支出は拡大され続けるのである」と言われる。しかし,既にみたように,MMTはそんな放漫財政を奨励するものではない。雇用を増大させない支出はすべきではないとし,インフレのみならずバブルをも基準として財政膨張をチェックするのである。

 以上で紹介したMMTの主張は,例えばL・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』(東洋経済新報社,2019年)で懇切丁寧に説明されている。小幡教授は「これ以上、MMT理論を批判する必要はない。もうたくさんだ」と言っているが,全否定する前に,もう少し相手の言い分に耳を傾けてはいかがだろうか。

※1 具体的にカネの流れがどうなるかは,拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(2):財政赤字によるカネのクラウディング・アウトは起こらない」Ka-Bataブログ,2019年9月5日を参照して欲しい。(2024年11月26日追記)この論点について,筆者は自説を修正した。一般的には国債発行は金利上昇圧力を引き起こす。ただし,超過準備が豊富に供給されている現在では引き起こさない。「「カネのクラウディング・アウト」再考:超過準備の存在という条件」Ka-Bataブログ,2024年11月23日を参照して欲しい。


※2 詳しくは拙稿「L・ランダル・レイ『MMT 現代貨幣理論入門』ノート(3):財政赤字によるインフレーション(ヒトとモノのクラウディング・アウト)は重要な政策基準」Ka-Bataブログ,2019年9月22日を参照して欲しい。

小幡績「日本では絶対に危険な「MMT」をやってはいけない:MMTの「4つの誤り」と「3つの害悪」とは何か」東洋経済ONLINE,2021年12月13日。 

+2021年12月17日。「成長率は金利を上回っていなければならない」を追記。

+2022年4月30日追記。コメントをもとに成長率と金利に関して再考したが,やはり「成長率は金利を上回っていなければならない」という記述はない方がよいと考えるに至った。財政運営の観点から具体的に問題になるのは,マクロ指標としての成長率と金利(たとえば名目成長率と長期金利)ではなく,より具体的な税収増加率と利払い費増加率の関係である。後者は長期金利の影響をまともに受けるが,税収増加率は課税のあり方によって相当な幅がある。また,所得に占める税の比率が変化することもありうる。なので,成長率が金利を下回ると債務比率が発散する,とまで定式化することは適切でないと考えた。

2021年12月11日土曜日

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」の早期公開版を公表しました

 唐嫘夢依さんの修士論文を改訂した共著論文「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」が査読を通り,研究年報『経済学』に掲載されることになりました。ただ,掲載巻号が未定であり,年1回しか出ない雑誌であるため,発行までかなりかかると予想されます。そこで許可を得てネット配信可能なTERG Discussion Paper, No. 455として東北大学機関リポジトリTOURに登載してもらいました。DP版は研究年報『経済学』が発行されるまで時限公開します。

 中国のネット小説の世界を一言で言うと,日本で言うラノベやハーレクイン系恋愛小説が紙の本ではなくネットで発表され,スマホで読まれています。また,アマチュアからトップ作家までがシームレスに同じプラットフォーム上で活動しています。その市場規模は2017年に90億元(同年末レートで1556億円)に達しています。中国ネット文学の世界にどうぞ触れてみてください。

起点中文網

起点軽小説

起点女生網

2023/3。最終版が雑誌に掲載されました。以下でご覧いただけます。

唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」研究年報『経済学』79巻1号
http://doi.org/10.50974/00137113


唐嫘夢依・川端望「中国におけるネット小説ビジネス:プラットフォームとユーザー生成コンテンツ(UGC)の視点から」TERG Discussion Paper, No. 455, 東北大学大学院経済学研究科,1-21。→公開停止しました。


2021年12月3日金曜日

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む:CBDCは銀行による貸し出しを困難にするのか

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読む:CBDCは銀行による貸し出しを困難にするのか

※2022年12月5日追記。本稿は原形をとどめないほど大幅に改定し,ディスカッション・ペーパーとして発表しました。こちらです


1.問題の所在

 野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年を読んだ。本書の論旨は多岐にわたり,また中央銀行デジタル通貨(CBDC)の話だけでなく,デジタル人民元の話,リブラ=ディエムの話,ビットコインの話,キャッシュレス決済の話が盛りだくさんに語られている。しかし,論じるべきことがらを対象でなく分野によって分けるならば,マネーやその流通に用いる情報技術の話,それに関連した匿名性の話,デジタル人民元への対抗という政治問題,そしてデジタル技術によって貨幣・信用・金融業がどう変わるのかという経済問題に分かれると思う。情報技術と匿名性,政治問題は他の専門家にお譲りし,またリブラ=ディエム等もいったん対象から外して,ここではCBDCによる,貨幣・信用・金融業の変貌について,本書の気になった点を指摘したい。

 本書は随所に個性的な主張を含みながらも,この変貌を,基本的には経済学における主流派の銀行論によって理解しようとしている。しかし,それ故にこそ,CBDCによる貨幣・信用・金融業の変貌をとらえ損なっている部分があると,私には思える。主流の経済理論ではCBDCの行方を正しく把握できないという,深刻な問題が,本書には表れているのだ。それでは主流派理論でなければ何を使えばよいのかというと,信用貨幣論による銀行論が必要だと私は考える(※1)。

 よって本稿は野口教授個人を批判するというものではなく,野口教授が体現しておられる主流派理論によるCBDCの説明を批判し,その説明ではCBDCによる金融業の変貌をとらえそこなうことに注意を促そうというものである。なお,ここでいう主流派理論とは,銀行を「受け入れた預金を用いて貸し出しを行う」ものと理解していることである。これは,近代経済学においてもマルクス経済学においても多数の見解と思われるので主流派と呼んでいる。これに対して信用貨幣論は,銀行は「貸し付けることによって預金を作り出す」と考えるのである。両者の具体的な違いは行論のうちに明らかとなるだろう。


2.トークン型CBDCとは何か

 野口教授は,CBDCの構想に口座型とトークン型があることを指摘されつつ,トークン型が主流であり,すでに中国,スウェーデンをはじめ導入に向けた動きが進んでいることを指摘される。私もその認識を共有する。

 トークン型CBDCとは,財布の中に日銀券や硬貨を入れる代わりにスマートフォン内のウォレット(電子財布)にCBDC入れ,手渡しで支払う代わりにスマホのウォレットからウォレットへとCBDCを送金する仕組みである。入手するには,預金を下ろしてウォレットに入金すればよい。逆にウォレットから出して預金することもできる。CBDCは日銀券(以下,事例を日本のものとして日銀券とする)と同じく日銀が発行する。そして日銀券と同じく,銀行は日銀当座預金を下ろすことによってCBDCを入手し,預金者の預金引き出しに対応する。CBDCは原理的には個人間でも法人間でも用いることができるし,個人や法人が持つウォレット間を転々と流通する。要は,現金のデジタル化である。

 野口教授は,CBDCに限度額が附されなければ,世の中に流通するマネーはほとんどCBDCになると予想している(Kindle版92, 93ページ他。以下ページはみなKindleによる)。というのは,CBDCは現金取引のコストを大きく下げるからである。個人の買い物や送金だけでなく,企業間の取引もそうなるという。これをイメージするに,買い物も送金もスマホ内のウォレットでCBDCを操作すればよいことになる。企業間の取引も,現金を山のように積み上げたり輸送したり保管したりという手間がなくなるため,CBDCというデジタル現金で取引することが便利となり,口座振替は用いられなくなるということだろう。私も,もし口座振替サービスの革新がなければそうなると思う(※2)。ハイスペックのCBDCは,現金取引を復権させ,口座振替を後退させるだろう。


3.中央銀行は万能になるか

 問題はこの先である。多くの預金が引き出されてCBDCとして流通するようになると,銀行はどうなるのだろうか。野口氏は,まずこう言われる。「CBDCの世界においても,銀行が貸し出しを行うことはもちろん可能である。それによって預金が増大する。それがCBDCの形で引き出されるにせよ預金の形で残っているにせよ,マネーストックは増大する。したがって,信用創造は現在と同じようにできる」(69ページ)。私もそう思う。

 ところが野口教授はこうも言われる。CBDCについてわかりやすく考えるために,中央銀行券の利便性が飛躍的に向上したと仮定してみる。すると「決済手段としての銀行預金はいらなくなり,中央銀行券だけが流通する社会になる。つまり,中央銀行はマネーの総量の決定に対して決定的な力を持ち,銀行はそれに対して関与しない。金利や準備率の操作は必要なくなる。中央銀行の力が最大限に発揮できる。CBDCは,これと同じことを,現実に実現する手段なのである。」(92-93ページ)ここがわからない。いったいどうやってCBDC発行量を中央銀行が直接コントロールするのか。情報技術によってCBDCを生み出したり消滅させたりするという意味では可能である。しかし,制度的には異なる。CBDCの発行と流通が日銀券と同じルールに従うならば,預金者が預金を下ろした際に銀行は無条件でCBDCに交換しなければならない。とすると,CBDCの発行量は,銀行が企業に貸し付けるためにどれほど預金を設定したか,借り手の企業がどれほどその預金をおろしてCBDCに転換したか,流通するCBDCがどれほど預金として還流して来るかにかかっている。それを日銀が直接コントロールすることはできない。できるのは,金融政策によって短期金利と日銀当座預金残高を操作して,銀行の信用創造を間接的にコントロールすることである。つまり,今と変わらないはずである。仮に中央銀行の力を強化できるとしたら,CBDCの発行量を直接操作して預金のCBDCへの交換に規制を加えたり,CBDCのウォレット当たり保有高や1日当たり利用高を規制した場合であろう。それはそうした強い権限を中央銀行に与えた場合に起こることであって,CBDCが増えて預金が減ること自体から生じることではない。現金やデジタル現金の取引が増えただけで中央銀行が万能になるわけではない。

 野口教授がこのように思われる理由ははっきりしないが,中央銀行が発行する以上,中央銀行が発行量を自由に操作できるだろうと仮定しているのかもしれない。野口教授は日本銀行券についてはそうは考えていないはずなのであるが,CBDCの場合は違うというのであろうか(※3)。

 なお,野口教授は,預金が減ることとはまた別に,CBDCでは通貨に直接利子やマイナスの利子をつけることが可能であり,それがまた中央銀行の金融政策を強化する(69ページ)ことを見通しておられる。私は,付利は教授の指摘以上に重大な制度変化を誘発すると思うので,この点は本稿の最後に改めて述べたい。


4.銀行は貸し出しができなくなるか

 野口教授は,送金・決済が銀行預金の振り替えからCBDCに代替されると,預金が必要なくなり,「すると,銀行は貸し出しができなくなる。つまり,銀行の存在意義がなくなってしまうのだ」と言われる(93ページ)。銀行は自己資本の範囲だけしか貸し出すことができなくなり,ナローバンク構想での銀行と似た状態になるという(95,189ページ)。ここでのナローバンクとは預金準備率が100%の銀行のことだ。しかし,69ページでは「信用創造は現在と同じようにできる」と言われていたのに,どうしたことか。

 もし93・189ページの指摘通りだとすると,銀行貸出は著しく縮小する。しかし,そうすればCBDCの流通も成り立たないはずである。なぜならば,これも教授が説明される通り,CBDCとはそもそも銀行預金がおろされることで発行されるものだからである。そして,預金とはそもそも銀行が貸付を行うから設定されるのである。社会に出回る通貨とは,銀行が貸し付けた預金通貨が,その後転々と流通して借りて以外の手元にわたったものであるか,そうした預金が降ろされて現金になったものである(※4)。

 だから,CBDCが豊富に出回るということは,貸し付けの際に預金が豊富に設定されて,それが引き出された結果である。もし銀行が貸付不可能になったり,そこまでいかなくても自己資本の範囲でしか貸し出せないナローバンクになれば,その分だけCBDCに転換できる預金も減り,CBDCも減り,流通に必要な通貨は十分に供給されないだろう。CBDCは豊富に出回るが銀行は貸し出せないという世界は,論理的に存在し得ないので,野口教授の想定は成り立たないのである。

 この「貸し出しができなくなる」という考えは,野口教授が「銀行は,増加した預金の一部を用いて貸し出しを行う。その大部分は預金となって戻ってくる。そこで,さらにその一部を貸し出す」(88ページ),「預金を用いて貸し出しを行う」(189ページ)という風に信用創造を理解されていることに由来している。最初の預金がなくなれば貸し出しもできなくなるというわけだ。これは経済学の主流理論というか,ほとんど常識視されている見方である。

 しかし,私はここに問題があると思う。教授自身が69ページで言われたように,「CBDCの世界においても,銀行が貸し出しを行うことはもちろん可能である。それによって預金が増大する」のである。銀行は,受け入れた預金を取り崩して貸すのではない。自己宛て債務である預金を使って,企業に貸し付けるのである(※5)。やはり教授が言われるように,「それがCBDCの形で引き出されるにせよ預金の形で残っているにせよ,マネーストックは増大する」。そして企業は,返済の際はCBDCを預金に変えて貸し手の銀行に返済する。返済=回収により,預金は消滅し,マネーストックは減少するのである(※6)。あらかじめ預金がなくとも,貸し付けはできるのである。

 野口教授は,なぜか69ページと93・189ページでまったく逆のことを言われているように私には思える。そして,私は69ページの教授が正しいと思う。CBDCが普及し,預金を引き出す人が増えた場合でも,銀行は預金を設定して貸し出すことができるだろう。


5.日銀による準備金供与は不健全か

 では,銀行は貸し出せるとして,何も問題が起こらないのかというと,そうではない。野口教授の思考内部では銀行は機能停止かナローバンク化に追い込まれているが,そこまで行かなくても問題は起こる。それは準備金の不足である。準備金は貸し出しの原資としては不要だが,他のことに必要だからである。

 個人も企業もデジタル現金であるCBDCで支払いを行い,預金を利用しなくなると,預金が増えるのは銀行が企業に貸し出した瞬間と返済の瞬間だけになってしまい,事実上ほとんど滞留しなくなる。すると,銀行にとってバランスシートの負債側では預金が減少し,資産側では日銀当座預金,すなわち準備金が減少する。くどいようだが,準備金は貸し出し原資としては必要ない。しかし,貸し倒れへの備えが必要であるし,銀行間決済で送金側になった際に,日銀当座預金が不足しては困る。そして,預金者が預金を下ろす際にはCBDCが要求されるので,銀行はCBDCに替えられる日銀当座預金を十分に持っておかねばならない。

 つまり,ここで真の問題は,CBDCが使われて口座振替が使われなくなると,銀行にとって日銀当座預金という名の準備金が減少してしまうということなのである。当然,放置すれば短期金融市場はひっ迫し,銀行が資金ショートを起こすかもしれない。つまり,CBDCというデジタル現金が用いられる世界は,預金通貨が用いられる世界よりも金融が引き締まるのである(※7)。

 しかし,これは解決可能であろう。日銀が銀行に貸し付けて日銀当座預金を供給すればよいからである。現代では国債が大量に流通しているので,現に日銀が行っているように買いオペレーションをしてもよいであろう。実は野口教授も,中央銀行が銀行に貸し出してその機能を支える可能性を検討しておられる。ところが教授は,銀行の預金不足を日銀からの信用で補うのは,高度成長期のオーバーローンと同じく不健全ではないかと言われるのである。

 しかし,そうではない。いま,通貨流通はCBDCによって担われ,預金通貨が皆無であったと想定しよう。このCBDCがどうやって発行されたかというと,野口教授が46-47ページで解説されている日銀券の場合と同じようにである。つまり,銀行が日銀に保有している当座預金を取り崩してCBDCを引き出し,預金者が銀行の預金を下ろしてCBDCを受け取ったのである。CBDCは銀行がもつ日銀当座預金を下ろすことでしか発行されないのだから,それが豊富に出回るためには,まずそれと同額の日銀当座預金が設定されねばならない。この預金設定は,当然に必要なことであって,別に不健全ではないのである。


6.銀行が直面する真の問題:競争激化による淘汰

 では,日銀が準備金さえ供給すれば何の問題も起こらないかというと,そうでもない。そして,ここで起こる問題は,野口教授もある程度把握されている。教授はCBDC発行に当たって「中央銀行が直接に利用者と接することが現実的には不可能である以上,中間段階に金融機関が介在せざるを得ない」(99ページ),「仲介機関に選定されなかった金融機関の預金は不利な立場に置かれることになるので,預金が流出する危険がある」(同上)と指摘されている。これは全くその通りだと私にも思われる。ただし,教授が「金融機関が貸し出しできるのは預金があるからだ。だから,預金がなくなれば貸し出しができなくなってしまう」(98-99ページ)と言われるのは,違う。前節で述べた通り,貸し出し自体は預金がなくてもできるし,準備金は日銀が供給すれば確保されるからである。

 弱小な金融機関の困難は貸し出せないことではなく,CBDCへの交換窓口になれないがために,顧客企業が離れてしまうことである。貸し出すことは制度的に可能だが,CBDCに転換できない銀行には,企業が借りに来ないのである。預金とCBDCの交換を行うハード・ソフトのシステムを整備できる大銀行と,それが困難な銀行の経営格差が大きくなり,淘汰が生じることこそが,銀行に降りかかる真の困難なのである。


7.さらに大きな問題:中央銀行制度を一変させるCBDCへの付利

 以上,現金をデジタル化するトークン型CBDCが普及した場合に予想される事態について,野口教授の見解を追いながら,私見を対置してきた。しかし,もう一つ残る問題がある。それはCBDCに金利やマイナス金利が付される場合である。野口教授は,これを中央銀行の権限を強化するものととらえており,私もそれは賛成である。しかし,私見では,付利はCBDCに,現金を置き換えることを超えたまったく新しい性質を持たせる。それは,中央銀行制度をも揺るがすほどの変革である。よって,ここでは野口教授の記述を超えて試論を述べておきたい。

 CBDC自体に金利やマイナス金利をつけることは,情報技術的には可能である。また制度上も,それ自体はできないことはない。現金に利子を課すというのは,現金保有を債権債務関係とみなすことである。これは金貨や国家紙幣については不合理であろう。誰とも貸し借りをしていないのに利子がついてはおかしいからである。CBDCは日銀の債務なので,日銀に対する利子付き債権とみなすことは不可能ではない。そして,金利やマイナス金利を各ウォレットと日銀の間で直接にCBDCによって支払うように設計することも不可能ではないだろう。

 しかし,これはCBDCのウォレット当たり保有高制限などよりはるかに重大な制度変革である。なぜならば,日銀が「銀行の銀行」であるのみならず,企業・個人と直接に金融取引を行うようになるからである。そしてまた,日銀が通貨価値を安定させて民間の取引を間接的に支える立場から,通貨価値を直接操作して金融政策の目的を達成する立場に移行するからである。野口教授は,付利可能なデジタル人民元が中国政府の力を強くする可能性に触れているが(69ページ),中国に限らず,より一般的にCBDCのしくみが持つ可能性/危険性として強調すべきであったと思う。この極度に大きい権限と責任は,多くの国でとられている中央銀行制度,すなわち財政政策は民主主義的に統制され,金融政策は一定の独立性のある中央銀行に委ねられるという制度となじまない。日銀のCBDC金融政策に対して,生活がそれに直接左右される国民の意思を反映しろという要求は不可避であろう。逆に言えば,国民の意思を反映させずとも存続する政治制度下の中央銀行でないと,CBDCへの付利は実現できないかもしれない。CBDCに直接利子をつけることは,民主的なものであれ権威的なものであれ,中央銀行制度の根底的変革を前提としなければならないように思われる。その可否や可能性は,慎重な検討が必要であろう。


8.終わりに:銀行論の転換を

 以上が,野口教授の著書に対する私の論評である。結論を要約すれば,野口教授も私も,CBDCの典型をトークン型とみなす点で一致している。また,ハイスペックでよく機能するCBDCがデジタル化された現金取引を復権させ,口座振替を後退させるという見通しでは一致している。見解が異なるのは,CBDCが普及した時に銀行に生じる問題の所在である。野口教授の見地から見れば,CBDCは直接に金利が付されなくても,普及すると銀行の貸出機能を縮小させ,中央銀行の力を巨大にするものである。一方,私の見地から見れば,CBDCは銀行全体の貸出機能には影響を与えない。そうではなく,銀行間競争を激化させ,銀行間格差を大きくするのである。野口教授と私が見解としては一致しているが,問題の深さについての認識が違うかもしれないのが,CBDCへの付利についてである。もしCBDCに直接金利が付与されると中央銀行が金融政策上の強大な権限を持つことになるという点では一致している。ただ,私はそれだけでなく,この付利は中央銀行制度を根底から変革させずにはおかないものと考えているのである。

 本稿ではいくつかの批判を行ったが,これは野口教授個人への批判ではない。野口教授は主流派理論に依拠してCBDCを理解されているのであり,私の野口教授への批判のほとんどは,主流派理論そのものへの批判なのである。主流派理論における銀行論の根本的な問題は,「銀行は,増加した預金の一部を用いて貸し出しを行う」という命題から出発するところである。銀行は,既に存在しているお金を貸し出しに回すというのである。この命題から出発すれば,銀行は預金が減少すると貸し出せなくなる,日銀からの貸し付けが増えるのは不健全だ,ということになる。しかし,この理解こそが問題である。主流派理論に従って銀行とCBDCを理解しようとすれば,その未来像や,問題の所在を見誤ることになる(※8)。通貨のデジタル化という一大変革を理解するためには,銀行は預金という手形を切り,手形を渡して貸し付けているという理解を経済理論に浸透させねばならない(※9)。信用貨幣論がどうしても必要だと私は考える。


※1 近年,一般に知られている信用貨幣論といえばMMT(現代貨幣理論)であるが,私自身はマルクス派の信用貨幣論に依拠している。ただし,本稿で取り上げている論点については,マルクス派信用貨幣論であってMMTであっても同じ見解になると予想する。

※2 銀行がこの事態に手をこまねいておらず,口座振替サービスをデジタル化によって革新すれば,CBDCによるデジタル現金取引に対抗できるかもしれない。DCJPYはその試みであろう。DCJPYについては「DCJPYはデジタル技術によるデビットカードサービスの付いた預金であり,新たなデジタル通貨ではない -誇大広告をやめ真の可能性を論じよう-」Ka-Bataブログ,2021年11月27日を参照して欲しい。

※3 野口教授のアベノミクス批判を拝見すると(例えば野口悠紀雄「異次元緩和は空回り、日銀は政策変更を」東洋経済ONLINE,2013年7月29日や野口悠紀雄「間違った報道はしないでほしい」note, 2019年3月5日),中央銀行が発行する通貨であっても,その発行量を自由に操作できるわけでないとはっきりと認識しておられる。にもかかわらず,どうして現金がCBDCに置き換わり,預金がCBDCとして引きだされただけで中央銀行の金融政策が強大になるのか,理解に苦しむ。

※4 このことは,日銀券や預金がすでにある状態からCBDCへの交換をイメージされるとわかりにくいかもしれない。こうした交換は過渡期なのである。CBDCの使い勝手を皆が認めて交換が一通り終わり,預金は非常に少なくなったとする。そして,その後,経済成長に伴い新たにCBDCが必要な場面を考えて欲しい。この時,それはどこから供給されるかと言うと,新たに預金が設定され,その預金を誰かがおろしてCBDCに替えることを通してである。それでは,新たに設定される預金はどこで生まれるかと言うと,銀行が貸し付けを行うことによってである。例えば銀行が会社に貸し付け,会社が借入金を預金から引き出してCBDCに替え,仕入れ代金や賃金を払うのである。

※5 わかりやすく言うと,銀行はすでにある預金を貸し付けに用いるのではなく,自分あての手形を切り,その手形を渡すことによって貸し付けているのである。

※6 これもわかりやすく言うと,銀行は金貨や銀貨で返してもらったならば自分の手元にそれを資産として確保するであろうが,この場合は,自分の手形を取り戻したので,それを廃棄するわけである。自分の借用証書を取り戻した人は,当然それを廃棄する。

※7 これは別にデジタル化された世界に限った話ではない。同一の通貨流通量では,預金通貨に対して現金通貨の割合が高くなると金融は引き締まる作用が働くのである。

※8 学問的論争の際に,学会で主流と長年認められている理論には敬意を払わねばならないことは,作法として私も認める。しかし,この論点に関する限り,主流派理論と信用貨幣論に基づく銀行論は根本的に異なっており,争わざるを得ないのである。

※9 主流派の考えは預金先行説・現金の貸し付け説ともいえる。この説の方が自然にイメージできるという方もいらっしゃると思うので,最後にこのモデルの問題点を指摘しておく。預金先行説は,最初の預金に使われる日銀券はどこから来たのかを説明することができない。これでは,個々の銀行の取引はモデル化できても,一社会全体の通貨流通のモデルにはなりえない。日銀券は預金がおろされたから存在しているのであり,その預金はなぜ新規に発生したのかというと銀行が企業に貸し付けたからである。そこをモデル化しなければならない。
 管理通貨制度であって仮に財政赤字はない条件を想定しよう。預金通貨は銀行が貸し付けることで創造され,貸し倒れにならない限り,返済によって消滅する(兌換はされない)。日銀券やCBDCは日銀当座預金が下ろされることによって銀行の手持ちとなり,銀行預金が下されることによって流通に入る。逆に,預金として預けられることによって銀行の手持ちとなり,日銀当座預金として預けられることによって消滅する(兌換はされない)。このように信用貨幣論の貸し付け先行説・手形の貸し付け説で考えることによって,個々の銀行の取引と一社会全体の通貨流通を整合的にモデル化することができるのである。

野口悠紀雄『CBDC 中央銀行デジタル通貨の衝撃』新潮社,2021年。

2021年11月27日土曜日

DCJPYはデジタル技術によるデビットカードサービスの付いた預金であり,新たなデジタル通貨ではない -誇大広告をやめ真の可能性を論じよう-

 1.新たなデジタル通貨?

 2021年11月25日の『日経』紙版の1面(13版)をかざったDCJPY(ディーシージェイピーワイ。呼びづらっ!)は,「デジタル通貨で企業決済」を実現するのだとうたわれている。円と並ぶような新たなデジタル通貨が出現するのだろうか。あるいは,円建てなのだけれど,日銀券でも硬貨でも預金通貨でもないデジタル通貨が出現するのだろうか。ホワイトペーパーを一読した限りでコメントしたい。

2.同一銀行内の支払ができる,デジタルデビットカード付き預金

 結論から言うと,現在開始されようとしているDCJPYはデビットカードをデジタル化し,付加的なサービスをつけたものである。ただし,送金ができるのは同一銀行の範囲に限られる。以下,説明しよう。
 まず思い出しておかねばならないのは,そもそも普通預金であれ当座預金であれ,預金自体がいまやコンピュータ上のデジタル化された存在だということである。そして決済が可能な預金は通貨の一種とみなされる。すでにデジタル通貨は存在しているのである。DCJPYも円建て預金の一種とのことなので,同じくデジタル預金通貨である。それはよい。ただし,これまでの預金通貨はアナログで,DCJPYはデジタル通貨だと言う話は成り立たない。
 DCJPYは確かにデジタル通貨である。ただし,いままでも存在しデジタル通貨の中に登場した新種に過ぎない。いままではアナログな通貨しかなかったところにデジタル通貨が新たに出現したということではないのである。
 さて,DCJPYは円建て預金の一種であり,通常の預金と引き換えに発行される。何が普通の預金と異なるかと言うと,A社がB社にDCJPYを使って払うと,双方が取引口座を持つX銀行内で決済される。そのスピードが速く,付加的な様々なサービスと結合しやすいのが売りとされる。このサービスの負荷とセキュリティに,ブロックチェーンを含むデジタル技術が活躍する。
 だから,預金自体は今までもデジタルであり,今後もデジタルなのであって,何も新しくない。通貨のデジタル化が起こるのではない。新しいのは,情報端末から簡単・迅速に支払い決済を完結させられることである。単純化したイメージでは,スマホなどの端末操作一つで企業間決済が完結するような仕組みであろう。DCJPYが行うのは,預金への支払指図のデジタル技術による効率化であり,わかりやすく言えばデビットカードのデジタル化である。そして,それを企業間決済にも使えるようにするというのである。
 ただ,ホワイトペーパーによれば,「現在は同一の銀行が管理するデジタル通貨口間の送金に限定しており,異なる銀行が管理するデジタル通貨口座間の送金については商用時を見据えて今後検討を続けていく予定です」(9ページ)となっている。つまり,同一銀行内の口座間決済にしか使えない。なので,ますます通貨と呼ぶには値しない。
 以上のように,DCJPYは同一銀行内の決済を,デジタル化されたデビットカードサービスが使える新種の預金なのであって,円と並ぶ新通貨でもなければ,アナログ通貨にとって代わるデジタル通貨でもなんでもないのである。誇大広告をしてはならない。
 DCJPYが同一銀行内で用いられるだけであれば,そもそも普及せずにしりすぼみに終わる可能性もある。成功するとすれば,それは顧客を事項のサービスに囲い込もうとする銀行間競争の手段になるだろう。

3.銀行間送金ができれば通貨になるか

 しかし,ホワイトペーパーが構想しているように,異なる銀行間での送金ができるようになればどうだろうか。そうなればDCJPYはまったく新しいデジタル通貨と言えるだろうか。これも答えはノーである。
 理由を述べよう。送金の送り手をA社,受け手をB社とする。そして,両者の取引銀行が違っていて,A社はX銀行,B社はY銀行と取引しているとする。A社はX銀行に預金としてDCJPYを持っている。これをDCJPYに送ろうとすれば,どうなるか。DCJPYは預金の一種であって現金ではないところがネックになる。
 現金ならば,そもそも銀行を介する必要はない。大規模な電子的決済システムをつくり,A社のスマホ内のデジタル現金をB社のスマホ内に移せばよい(※1)。しかしA社がX銀行に持つ預金である以上,これを引き落とした上で,X銀行からY銀行に送金し,Y銀行が受け取ると同時にB社のDCJPY口座に振り込むしかない。
 では,円建てDCJPYをどうやってX銀行からY銀行に送るのか。これは,通常の銀行間預金振り替えと全く同じで,日銀当座預金を使えばよいし,そうするしかない。新種の預金に対応した制度改正は必要だろうが,DCJPYが預金の一種である以上,原理的に不可能ではないだろう。
 だからDCJPYの銀行間送金は実現するかもしれない。しかし,実現したところで,それは単に新種の預金の振り替えであって,既存の通貨と異なるデジタル通貨が出現したわけでも何でもないのである。

4.DCJPYの真の可能性

 では,DCJPYの銀行間送金が実現したとして,それは何の意味もないものなのかというと,そうではない。銀行間の口座振替がスピードアップした上に,デジタル化されたデビットカードで簡単に送金できるようになるからである。新しいデジタル通貨が出現するわけではないが,飛躍的に便利なデビットカードはデジタル技術で実現する。これはこれで結構なことと言わねばならない。
 このことは,通貨と金融サービスのデジタル化の流れの中で,大きな意味を持つ。このデジタル化には二つの側面がある。一つは,まだデジタル化していない通貨がデジタル化することである。つまりは紙幣や硬貨と言った現金のデジタル化であって,これこそが本当の意味での新たなデジタル通貨の出現である。もう一つは,金融サービスの一丁目一番地である口座振替サービスがデジタル化することであって,DCJPYのようなデジタルデビットカードサービスがここに含まれる。
 通貨と金融サービスのデジタル化が進むとすれば,その最大の要因は中央銀行デジタル通貨(CBDC)である。CBDCの望まれる形は現金の電子化であり,100円玉や1万円札の代わりにスマホをつかってトークンを操作することである。これは預金には本質的にかかわりがない(※2)。預金は中央銀行でなく,各市中銀行の発行する通貨だからである。
 さて,ここで預金の取扱いをCBDCに負けないように便利にするためには何が必要か。預金自体は既にデジタル化されているから,そのスペックを上げる必要はあっても本質を変える必要はない。必要なことは,預金口座の利用の便宜をアップさせ,スマホなどからの簡便な操作で送金ができるようにする必要がある。スマホ操作で口座間送金をすること,預金をおろしてCBDCにすることや,またはその逆だ。もしDCJPYが発展すれば,これを実現することができる。CBDCと補完しあって,通貨・金融サービスのデジタル化を推進することができるだろう。とくに,使い勝手の良いCBDCができた場合は,CBDC,つまりデジタル化された現金取引が優位に立ち,預金通貨による口座振替が縮小することが予想される。DCJPYのような口座振替サービスのデジタル化は,預金通貨の側からこれに対抗するものとなるだろう。これが,DCJPYが持つ真の可能性であり,社会的意義である。

 そして,その新たな土俵の上で,個人や企業はDCJPYのような預金通貨と,CBDCすなわちデジタル化された現金とを使い分けるようになり,預金通貨と現金通貨の割合が変化するだろう。もしDCJPYのようなサービスが先行すれば預金通貨の割合が大きくなるし,もしCBDCが先行すればデジタル現金通貨の割合が大きくなるだろう。

5.結論

 DCJPYは,円に代わる新通貨でもなければ,これまでデジタル化していなかった通貨をデジタル化させるものでもない。デジタル技術によるデビットカードサービス付きの新種の預金である。そして,現在の構想ではそれは,同一銀行内の決済にしか用いられないものである。なのでしりすぼみに終わるかもしれないし,成長したとしても,その意義は銀行間の競争手段としてのものでしかない。
 しかし,もしDCJPYが銀行間送金を十分な範囲で可能にするならば,話は違ってくるかもしれない。それはやはり新種のデジタル通貨の出現ではなく,デジタル技術によるデビットカードサービスであるが,銀行システム全体の便宜を高め,CBDCを補完して通貨と金融サービスのデジタル化を推進する手段となる可能性がある。
 DCJPYの可能性を過大評価も過小評価もせず,誇大広告やミスリードなワーディングに惑わされないように見据えていくことが必要である。

※1 トークン型の中央銀行デジタル通貨(CBDC)はこのように取り扱える。それはトークン型CBDCが現金のデジタル化だからである。

※2 個人が直接中央銀行に預金を持つ「預金の中央集権化」としてのCBDC構想もあるが,いくつもの観点から適切でない。このことは,簡単には2020年7月15日の拙ブログ投稿,詳しくは2019年12月4日の拙ブログ投稿を参照してほしい。


「DCJPY(仮称)ホワイトペーパー」デジタル通貨フォーラム,2021年11月。

「中央銀行デジタル通貨(CBDC)再論:口座型は個人預金の準国営化という奇策であり,トークン型が合理的」Ka-Bataブログ,」2020年7月15日。

「中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき」Ka-Bataブログ,2019年12月4日

「デジタル通貨で企業決済 74社、来年にも まず電力売買 取引数秒・低コスト」『日本経済新聞』2021年11月25日。


大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...