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2024年6月29日土曜日

Waiting for the publishing of C. Y. Baldwin, Design Rules, Volume 2. C. Y. ボールドウィン『デザイン・ルール』第2巻を待ちながら

According to the MIT Press announcement, Carliss Y. Baldwin, Design Rules, Volume 2: How Technology Shapes Organizations, will be published in December this year. The first volume of this book was published in 2000, and a Japanese translation was also published in 2004 by Haruhiko Ando.

 The first volume became the epicenter of the debate surrounding architecture. However, Professor Baldwin is not just discussing whether integral or modular is better. Baldwin is trying to build a general theory of the relationship between technology and organizations.
 Professor Baldwin began writing the second volume in 2016, and the drafts for chapters 1 to 25 are available on Research Gate, SSRN, and the HBS website. In our laboratory, we are reading through these drafts and trying to keep up with Professor Baldwin's new theoretical developments. One of our graduate students, who chose the theme of architecture and organization, is the main person in charge. Reading the 25 chapters at a rapid pace is quite tough, and there is a considerable risk that the finished product will be published before we have finished and we will be forced to compare it with the draft. However, if we can understand the book before other laboratories in Japan and the graduate student's thesis is completed, it will be worth the effort.

 Carliss Y. Baldwin, Design Rules, Volume 2: How Technology Shapes Organizations, The MIT Pressの今年12月が出版が予告されている。本書の第1巻は2000年に出版され,2004年にはボールドウィン&クラーク(安藤晴彦訳)『デザイン・ルール:モジュール化パワー』として邦訳もされている。
 第1巻はアーキテクチャをめぐる議論の震源地となった。しかし,ボールドウィン教授は,インテグラルかモジュラーかというそれだけの議論をしているのではない。技術と組織の関係に関する一般理論を構築しようとしているのだ。
 ボールドウィン教授は,第2巻を2016年から書き始められたそうで,第1章から第25章までのドラフトはResearch GateやSSRN,またHBSのサイトに掲載されている。当ゼミでは,アーキテクチャと組織をテーマとして選択した院生を中心にこれらのドラフトを何とかして読破し,ボールドウィン教授の新たな理論的展開を追跡しようとしている。25章を急ピッチで読むのはかなりきつく,また作業の途中で完成品が出版されてドラフトとの照合を余儀なくされる恐れがかなりあるが,その時はその時だ。国内のよそのゼミより早く本書を理解できて,院生の修論も完成するならば,労力を払う価値はあるだろう。

Carliss Y. Baldwin, Design Rules: How Technology Shapes Organizations, The MIT Press.

2024年6月12日水曜日

神戸製鋼の電炉転換構想をどう理解するか

 神戸製鋼は5月20日の中期経営計画説明会で,今後加古川製鉄所の高炉2基体制を前提とせず,高炉1基,電炉1基の体制に移行していくことを検討していくと発表した。ただし質疑応答記録によれば高炉巻き替え時期は2030年代後半であり,移行は少し先の話となる。2050年の生産体制についてのイメージはまだないとのこと。

 日本製鉄やJFEスチールと比べると,唯一の高炉一貫製鉄所で高炉生産量を半分にするのであるから,神戸製鋼の方針はラディカルな転換ともいえる。しかし,移行時期については,日本製鉄やJFEスチールのそれと比べて保守的とも言える。

 日本製鉄は九州製鉄所八幡地区で2030年までに,JFEスチールは西日本製鉄所水島地区で2027年に,それぞれ高炉1基を停止して電炉に移行することを表明している。電炉へ移行する生産の割合は神戸製鋼より低い。しかし,移行時期は神戸製鋼より早い。また神戸製鋼とJFEスチールは高炉巻き替え(内部耐火物等の寿命により,いったん操業を停止して大規模改修をすること)の機会での,いいかえると現在の高炉を1サイクル使い切ってからの移行であるのに対して,日本製鉄はそれ以前の移行だ(八幡地区の高炉は2014年火入れなので2030年はまだ改修必至時期ではない)。

 神戸製鋼は,次世代の水素還元製鉄技術については,子会社のMIDREX(本社アメリカ)で着々と進めているという優位性がある。オマーンでの直接還元鉄事業も検討中だ。しかし,国内では漸進路線をとろうということだろう。現在,加古川製鉄所の高炉では,海外から調達したHBI(発熱しやすい直接還元鉄をブリケット状にして輸送可能にしたもの)を装入してCO2排出を抑制する操業法を採用している。これでしばらくはしのぎ,続いて相対的に高級でない製品を電炉製鋼に移行しようというのだろう。しかし,HBI装入高炉から一定のCO2は出続けるので,CO2の排出・貯留・再利用(CCUS)か,別のオフセット手段も必要になるだろう。高炉が残ると,どうしてもCCUSやオフセット手段が必要となり,方策が複雑になってしまう。

 神戸製鋼は,水素直接還元鉄の技術開発地体制とプラント建設能力をグループ内に保持している。海外ではもっぱらこちらを活用しようとしている。しかし,現に高炉一貫製鉄所という固定資産と,顧客への高級鋼の継続供給による評判という無形資産を持っている日本国内の生産拠点では,技術のラディカルな転換に踏み切りにくい。このイノベーションのジレンマをどうマネージしていくかが,神戸製鋼の課題である。

KOBELCOグループ中期経営計画(2024~2026年度)説明会

2024年6月7日金曜日

いまはなきダイエーの「1円金券」をめぐるTogetterまとめから貨幣論を考える

 「その昔(昭和30年代)、当時神戸で急成長していたスーパーのダイエーが、あまりに客が来すぎて会計時の釣銭(1円玉)が用意できない事態となり、やむなく私製の「1円金券」を作って釣銭の代わりにお客に渡したところ、その金券が神戸市内で大量に流通しすぎて」云々というわけで,貨幣とは信用だと知るという話。

 一応言っておくと,この場合の「信用」とは単に「信じられる」という意味ではない。「払ってくれる」という意味である。つまり,ダイエーが出していて1円金券は,「ダイエーはすごい,エライ!」とか「中内さんに逆らったら命がない」という意味で信じられていたのではなく,「この1円金券と引き換えにダイエーが1円分のものを確実にくれるなんてすごい!」という意味で信用されていたのである。

 つまり1円金券は「貨幣だとみんなが信じている」(信認説)からでも「発行元が権力的に強制している」(強制通用力説)からでもなく,「その貨幣に対して発行元が支払ってくれる」,つまり債務弁済能力がある(信用貨幣説)ということで流通していたのだ。

 また,1円金券が1円分の商品と等価交換であることは,1円券自体は保証しない。それは,ある商品とある量の商品貨幣が等価として市場で交換されており,その価値量が国家の定めた基準でいうと「1円」という名前であったことが根拠となっている。しかし,商品貨幣など不便で使っていられないから国家が1円玉を代わりに発行していた。さらにそれと同じ価値を持つ信用貨幣をダイエーならば発行できたということである。

 だから,貨幣が本来商品貨幣であることと,実際には1円金券のような価値のない紙切れが流通していること,それが別の角度から言えば信用貨幣であることは何も矛盾しない。「商品貨幣論は間違いで表券主義が正しい」とか「商品貨幣論は間違いで信用貨幣論が正しい」(商品貨幣否定論)とかいうことではない。商品貨幣は国家の力による表券主義という補完によって価格標準を獲得し,さらに商品貨幣の代行として信用貨幣が流通するのである。

「釣銭不足に困った昭和のスーパーが苦肉の策で私製券を出したら「日本の貨幣体制が危ない!」と日銀が大慌てした話」Togetterまとめ,2024年6月4日。


2024年6月4日火曜日

中央銀行デジタル通貨(CBDC)は現金と預金のトークン化であり,それらと異なる新種の貨幣を作り出すわけではない:国際決済銀行(BIS)年次経済報告を読む

 昨年の国際決済銀行(BIS)年次経済報告第3章「Blueprint for the future monetary system: improving the old, enabling the new」(未来の貨幣システムの青写真:古いものを改善し,新しいものを可能にする)をようやくざっと読めた。

BISは一社会の貨幣システムが中央銀行債務と民間銀行債務の二層システムからなっており,しかも単一性が保たれていること,そして銀行が中央銀行に持つ準備金による決済が最終的なものであることを認識している。これは首尾一貫した信用貨幣論によるものであり,全く異論はない。

BISによれば,将来の貨幣とはトークン化された債権である。トークンとはプログラム可能なプラットフォームで取引される債権(債務)である。トークンは従来のデータベースに通常見られる原資産の記録と,その資産の移転プロセスを支配するルールやロジックを統合したものである。トークンとこれを支える統一台帳のシステムを用いることで,金融取引の手間は省け,プライバシーとセキュリティは堅牢になる。書かれていることに関する限り,まったく異論はない。

将来の貨幣の代表はホールセールCBDCとリテールCBDCである。ホールセールCBDCとは準備金(中央銀行当座預金)がトークン化されたものであり,リテールCBDCとは現金がトークン化されたものである。

BISが描く支払い決済のシステムは,基本的に現行のものと同じである。取引銀行を異にするAさんはBさんに対して,銀行預金と中央銀行のペイメントシステムを用いて送金する。国際決済にはコルレスバンキングが必要である。そこは何も変わらない。変わるのは,取引手続きが簡略化されて堅牢になるということである。

もう少し解釈すると,ここで変わるのは金融取引であって,貨幣そのものではない。貨幣はすでに債務証書となっており,それは物理的には電子信号で構わないものとなっている。将来は,すでにデジタル化されている預金がトークン化され,現金もまたトークン化されるだけである。したがい,経済的に新しい性質を持った貨幣が出現するわけではない。以前として中央銀行は準備金(中央銀行当座預金)と現金を自己の債務として発行するし,銀行は自己の債務として預金を発行し,預金が引き出される際には現金を給付するであろう。世界単一通貨は依然として存在せず,ドルやユーロや円や元が用いられるだろう。ただし,それらがデジタル化され,トークン化される。極論すればそれだけである。問題は貨幣の本質が変わるなどといったことでなく,金融取引の便宜であり取引コストであり,プライバシーでありセキュリティである。BISの議論はそう理解すべきであるし,またそれは正しいと思われる。

 デジタル通貨が従来の現金とも預金と並び立つ第三の貨幣であるかのような議論や,ドルやユーロという国毎の通貨の違いを克服する国際決済通貨であるかのような議論は,みな誤りなのである。


2024年5月31日金曜日

日銀エコノミストの祖,深井英五の『通貨調節論』

 4月から研究科長・学部長となり,産業資料を積み上げて事実関係をじっくり解読し,解釈していく作業ができなくなってしまった。しかたがないので,貨幣・信用論の読書だけ続ける。この深井英五『通貨調節論』日本評論社,1932年は,白川方明総裁時代までの日銀エコノミストによる内生的貨幣供給論の淵源と言われている(小栗誠治『中央銀行論』知泉書館,2022年,323-325ページ)。この考え方を,1970-80年代には小宮隆太郎氏,1990-2010年代には岩田規久男氏やリフレーション派エコノミストが「日銀(流)理論」と名付けて攻撃した。

 日銀の金融調節論は,過去から受け継がれてきたというだけではない。実は「日本銀行が行っていた金融調節も他の多くの先進国とまったく同じであったにもかかわらず,不幸なことに,日本銀行の金融調節は『日銀理論』と揶揄されることが多かった」(白川方明『中央銀行』東洋経済新報社,2018年,35ページ)。

 いくら金融緩和をしても通貨供給量も増えず,物価も上昇しなかったというアベノミクス期の実績から言って,リフレーション政策の破綻は明らかである。彼らの日銀攻撃とは何であったのか。その誤りは,貨幣理論の理論的に深いところで,また歴史的な経済学の流れの重要な分岐点で発生しているのではないか。このあたりを,文献をさかのぼりながら考えていきたい。とにかく毎日,少しずつ読む。



2024年5月25日土曜日

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」:異端の信用貨幣論に反応はあるのか

  古い話題で恐縮ですが,いしいひさいちのマンガに,作家・広岡達三ものというのがあります。元プロ野球選手・広岡達朗がモデルですが,とにかく偏屈で頑固で,それ故に墓穴を掘るところがあります。彼のセリフで私が一番好きなのは,危うい表現続出の小説を書いたあげく激怒して断筆を宣言するときに言い放ったものです。

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」

 もしかすると,先月公表した拙稿「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」もこうなるかもしれません。

 この論文は教科書風の説明に徹しているのですが、実は1)常識的な考えとも、2)マルクス経済学の多数とも、3)宇野理論とも異なることを言っています。ついでに言うと4)MMT(現代貨幣理論)とも違います。例えば、

1)銀行業務の本質とは、既に存在している貨幣の融通をすること(金融仲介)ではなく、支払い決済サービスと、新規の代用貨幣発行によって貸しだすこと(信用創造)だとしています。

2)遊休貨幣を集めるところから銀行信用(金融仲介)を説明するのではなく、銀行信用(信用創造)の結果として遊休貨幣が生じるのだとしています。

3)商業信用は既に存在している資金の相互融通だという宇野弘蔵説を採用せず、単に後払いの約束だとしています。手形が成立すると後払い約束証書の方が流通するようになり、それで債権債務の相殺もできるようになります。手形とは貨幣を貸すものではなく、貨幣の現物の代わりに手形で済ます仕組みを作るものなのです。手形が発達したのが預金貨幣であり中央銀行券です。

4)兌換されない信用貨幣が流通する根拠を,MMTのように納税に使えるからだとするのではなく,手形債務だからだとしています。3)で述べたように,手形という後払い約束証書は金などの商品貨幣に代わって流通し,債権債務を相殺できるようになります。貨幣流通の根拠は国家権力を持ち出さずとも,経済そのものによって可能なのです。

 これらは師匠の師匠である岡橋保教授が1930-50年代に確立していた見地なのです。私はそれを再発見し、一部修正し、弱点と思われるところ(準備金論)を補強して、現代の金融システムの説明に使ったに過ぎません。なのでオリジナリティをそれほど主張するわけにはいきません。私の論文は,岡橋説を再発見し,現代の問題を説明できるように一部修正して徹底したことに意味があります。

 ただ,最大の問題は、この主張の特異さを気づいてもらえるかどうかです。昔は、岡橋教授の論文には直ちに反論が寄せられ,それにまた岡橋教授が反論して激論になったことが,文献からうかがえます。だから,拙論に対していろいろなところから矢が飛んできてもいいはずで,私としても批判を受けて討論できることを期待しています。しかし,マルクス経済学や宇野理論で信用理論をやっている先生も昔に比べるとずいぶんと減り,主流派経済学の方は拙論を読んでくださらないでしょう。残るはMMTerの方の批判を待つくらいかもしれません。

「なんの抗議も来ん!誰も読んどらんのだ!」だと寂しいです。批判を歓迎します。


「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」ダウンロードページ

いしいひさいち『わたしはネコである殺人事件』講談社文庫,1996年(Amazonのページ)。引用したセリフは8ページより。
https://www.amazon.co.jp/dp/4063300242



2024年4月30日火曜日

論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」の研究年報『経済学』掲載決定と原稿公開について

 論文「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」を東北大学経済学研究科の紀要である研究年報『経済学』に投稿し,掲載許可を得ました。5万字ほどあるので2回連載になるかもしれません。しかしこの紀要は年に1回しか出ませんので,掲載完了まで2年かかる恐れがあります。そこで,著者最終版原稿(Accepted Manuscript)としてDPで公開します。

 学部講義「日本経済」担当になってから6年。マクロ経済政策論と格闘し,自身の師匠である村岡俊三の信用論を30年ぶりに学び,さらにさかのぼって師匠の師匠である岡橋保の理論の先駆性を確認しました。これまであれこれとブログに書き散らしてきましたが,ようやく一部が論文になりました。

 この論文は学説史的に誰が正しい,誰が間違いだということを主眼とするのではなく,通貨供給システムの半分を占める金融システムを,わかりやすく,あえて言えば学部学生にもわかるように教科書的に書くことに努めました。なお,通貨供給システムのあと半分は財政システムであり,こちらの研究もいつかは書き遂げたいと思います。

ダウンロードいただけます。
https://researchmap.jp/read0020587/misc/46337895/attachment_file.pdf

<目次>

通貨供給システムとしての金融システム
―信用貨幣論の徹底による考察―

Ⅰ はじめに

Ⅱ 金融仲介か信用創造か
 1 問題の所在
 2 信用創造を通した新規の通貨発行
 3 正貨流通下での金融仲介
 4 正貨流通停止下での金融仲介
 5 管理通貨制度下での金融仲介は信用創造を前提とする
 6 小括

Ⅲ 銀行システムの成立
 1 問題の所在
 2 信用貨幣の基礎としての手形流通
 3 銀行による自己あて債務による信用供与
 4 中央銀行による社会的支払い決済システムの成立
 5 信用貨幣としての預金・中央銀行券
 6 小括

Ⅳ 銀行システムにおける準備金の必要性と役割
 1 問題の所在
 2 正貨流通・兌換下での準備金
 3 正貨流通停止・兌換停止・中央銀行成立下での準備金
 4 個別銀行にとっての準備金と社会全体の準備金
 5 中央銀行当座預金を頂点とする代用貨幣のシステム
 6 通貨価値の保全という難題
 7 小括

Ⅴ 管理通貨制度下の金融システムにおける貨幣流通と物価
 1 問題の所在
 2 貨幣流通の基本モデル
 3 預金貨幣の発行と還流:信用創造
 4 中央銀行券の発行と還流:預金からの形態転換
 5 管理通貨制度下における貯水池なき蓄蔵貨幣機能
 6 貨幣流通法則の作用=内生的貨幣供給
 7 遊休と金融的流通
 8 小括

Ⅵ おわりに

2024年4月27日土曜日

岡橋保信用貨幣論再発見の意義

  私の貨幣・信用論研究は,「通貨供給システムとして金融システムと財政システムを描写する」というところに落ち着きそうである。そして,その前半部をなす金融システム論は,「岡橋保説の批判的徹底」という位置におさまりそうだ。

 なぜ岡橋説か。それは,日本のマルクス派の伝統の中で,岡橋氏が最も徹底的に,おそらくはもっとも古く戦前から,首尾一貫性を持って信用貨幣説を論じ,それによって,現在,広く使われている言葉でいう内生的貨幣供給を主張したからである。そして私には,手形流通から信用貨幣の生成をマルクス的に論じる岡橋説の方が,近年興隆しているMMTの租税駆動説や国定貨幣説よりも妥当だと思えるからである。

 なぜ批判的徹底か。それは,私の理解では岡橋説にも不徹底な部分があり,これを信用貨幣論としてさらに徹底する方向で修正・発展させる余地があるからである。

 そして何よりも,岡橋説の批判的徹底により,それによって,現代の通貨供給システムをわかりやすく,敢えて言うなら教科書的に俯瞰できると考えられるからである。

 ところが,岡橋説は,氏が九州大学で教鞭をとられ,学界でも経済論壇でも活躍されていたにもかかわらず,今日の貨幣・信用をめぐる論争でもほとんど顧みられていない。せいぜい昔の学説の例として,一応注記されるだけだというのが現状である(※1)。

 なぜ岡橋説は黙殺されているのか。論文にはなじまないことなので,ここで考えてみたい。

 第1点。岡橋説は,相当に文献をさかのぼらないと理解しにくい。岡橋氏が自説を積極的に,体系的に展開されたのは,1936年発行の『貨幣本質の諸問題』から1957年の『貨幣論 増補新版』までである。あえて加えるならば,1969 年発行の『銀行券発生史論』も金融史についての自説の記述である。ところが,その後の著作は,冒頭何分の一かは自説の説明なのであるが,ページの過半は他者の見解への批判である。それもかなり激烈である上に,「論者は○○だという。××というわけである。……なのだ。かくて貨幣数量説に陥るのである」などと,岡橋氏が批判対象に成り代わって,その論理の帰結を探る文体であるため,時々,どこまでが批判対象の見解で,どこからが岡橋氏の批判なのかがわからなくなる。正直,極めて読みづらい。私は貨幣論を研究する留学生に岡橋説を伝授したが,あえて60年以上前の『貨幣論 増補新版』を使用した。それ以降の文献を留学生が読むのはあまりに難儀と思われたからである。

 第2点。岡橋氏の影響下で多くの研究者が生まれたが,なぜか,楊枝嗣朗氏などごく一部を除いて岡橋氏の信用貨幣論をより徹底させる方向に進まれず,別の方向に進まれた。例えば岡橋氏は預金貨幣と銀行券をともに重視されたが,後続の研究者は,なぜかもっぱら銀行券に注目した。また,岡橋氏は,蓄蔵貨幣や遊休貨幣を集積して貸し付ける「貨幣の貸付」を銀行の基本規定とすることに反対して「自己宛て債務の貸付」を対置されたが,後続の研究者はなぜか氏の批判対象だった見解に組みすることが多かった(※2)。実は私の貨幣・信用論研究は,師匠である村岡俊三氏の著作を読み直すことから始まったのだが,結局,師匠よりもそのまた師匠である岡橋氏の方が正しいという結論に至らざるを得なかった。

 第3点。最近のマルクス派による信用貨幣論研究が,もっぱら宇野派による商品論次元でのものだということである。宇野弘藏氏自身は商業信用も資金の相互融通と捉えるほどであり,手形から出発する信用貨幣論とは縁遠かった。しかし,ある時期以降,宇野派の中に信用貨幣論に転じる研究者が現れた。それは現在では,小幡道昭氏の提起を江原慶氏らが継承した試みとなっている。その内容を一言で表現するのは難しいが,強引に要約すると,商品論の次元で,物品貨幣と信用貨幣を同等の位置づけで導出する試みとなっている。それはそれで注目すべき試みなのであるが,商品論のところでマルクスを再構築するものなので,たいへん抽象度が高い。また,これらの研究はみな,金を本来の貨幣とする従来の観点では,不換制となっている現代の通貨制度を説明できないと想定して議論されている。そのため,岡橋氏の見解は単に過去のものとされ,注1に記した岩田氏の論稿を除いて深く検討されていない。

 第4点。見当違いな(と私には思われる)神話崩しである。これは少し詳しく論じたい。

 上記の宇野派の議論もそうであるが,貨幣史において金属貨幣の使用範囲が従来考えられていたよりも狭かったことや,現代においてもっぱら信用貨幣が用いられていることを根拠に「金などの金属製商品貨幣が本来の貨幣というのはおかしい」とする議論が盛んになっている。だから,マルクスのオーソドックスな理解も,退けられる傾向にある。しかし,これは行き過ぎであろう。

 まず,歴史の時系列順序と経済理論の編成における順序は同じではない。マルクスが金属製商品貨幣を本来の貨幣としているのは,金属貨幣が純粋な価値表現(使用価値で価値を表す)を可能とし,また貨幣の諸機能(価値尺度,流通手段,支払手段,蓄蔵貨幣,世界貨幣など)を統合しているからである。だから,商品流通の世界には,金であるか,金属性であるかどうかはとにかく,何らかの特殊な商品が貨幣になる必然性がある。しかし,発達した商品流通と資本主義生産を機能させるには,商品貨幣の現物利用は不便で仕方がないし,現物利用をしなくても資本主義は発達できる。だから,代用貨幣が発達するのである。金などの金属製商品貨幣から出発するのは,昔,金が貨幣として使われていたからではない。貨幣に必要な機能を金属製商品貨幣が一身に体現しており,理論的に典型だからである。いま,この瞬間の資本主義経済でも,金属製商品貨幣は必要とされている。しかし同時に,その現物利用は不便で仕方がないから,発達した代用貨幣が使われているのである。マルクス派は,「昔々,金が貨幣として使われていました」という歴史を主張しているのではなく,現在の資本主義社会で,「日々,金では不便だから代用貨幣が使用されているのだ」と理論的に説明しているのである。

 そもそもマルクス派の貨幣・信用論とは,「金が貨幣であって,金が使われるべきだ」と言い張るものではなく,「金が貨幣だが,その利用はどんどん節約される」という貨幣節約論なのである。金属製商品貨幣の現物使用が,商品流通と資本主義生産の発展とともに節約され,代わってデジタル信号である預金や紙切れの銀行券が貨幣の役割を果たすようになる理論的根拠を明らかにしているのである。だから現在,金が貨幣として流通していないのは,マルクスの間違いを証明するのではなく,むしろマルクスのパースペクティブの延長上で資本主義と代用貨幣が発展したことを示しているのである。

 安直な神話崩しへのこうした反論は,岡橋氏の理論的遺産を継承すればすんなり言えるはずなのであって,それが忘れられたことによって誰も言わなくなったのだと,私は理解している。

 私は現在,岡橋氏の理論的遺産と,日銀や全銀協の実務家の議論をもとに,通貨供給システムとしての金融システムを描こうとする論稿を準備しているが,上記のような事情ゆえに,ほんのわずかな存在価値はあるように思えるのである。

6/3 追記。論文は研究年報『経済学』(東北大学大学院経済学研究科)に受理されました。現在はディスカッション・ペーパーで原稿を公開しています。「通貨供給システムとしての金融システム ―信用貨幣論の徹底による考察―」ダウンロード

※1 例外的に紙数を割いて検討されたのは,Yoshihisa Iwata (2021). "Even inconvertible money is credit money : Theories of credit money in Japanese Marxian economics from the banknote controversy to modern Uno theories"『東京経大学会誌(経済学)』311,99-120.である。この論文について教えてくださった上垣彰氏に感謝申し上げる。

※2 信用貨幣論を徹底した教科書としては松本朗(2013)『改訂版 入門金融経済:通貨と金融の基礎理論と制度』駿河台出版社がある。

2024年4月24日水曜日

『ウルトラマンタロウ』第1話と最終回の謎

  『ウルトラマンタロウ』の最終回が放映されてから,今年で50年となる。この最終回には不思議なところがあり,それは第1話とも対応していると私は思っている。それは,第1話でも最終回でも,東光太郎とウルトラの母は描かれているが,光太郎と別人格としてのウルトラマンタロウは登場しないことである。

 最近出版された白石雅彦『「ウルトラマンタロウ」の青春』双葉社,2023年には,この番組のメインライターであった田口成光さんの証言が収録されている。「最終回は第一話の裏返しです。東光太郎が,最後は人間に戻るというのは,最初から決めていました。光太郎は旅から帰って来て,また旅立つ。ウルトラマンタロウの時は,本当の自分じゃないんですよ。ですから最終回,またペギーさんが出て来る。タロウは,人間が好きになったんですね」(244ページ)。

 この証言は,「ああ,やっぱり」と思わせるものでもあるが,それでもすんなり受け止められないところはある。例えば,初代ウルトラマンがハヤタという地球人を好きになり,彼を生かし続けようとしたことは,その最終回のゾフィーとの会話で知られている。しかし,タロウのそうした意思を表現するシーンは,『ウルトラマンタロウ』の最終回にはない。またさかのぼってみれば初代ウルトラマンは第1話で,自分と衝突して命を失いかけているハヤタに「申し訳ないことをした」といい,自分が彼と一体化することでその生命を救う。一方,『ウルトラマンタロウ』第1話でも東光太郎は命を失いかけるが,タロウが自らの意思で光太郎と救おうとするシーンはないのである。タロウと光太郎の関係は,「タロウは,人間が好きになった」という風には見えないのだ。

 『タロウ』に即してみてみよう。第1話「ウルトラの母は太陽のように」で東光太郎は,アストロモンスと戦って負傷したところを,実はウルトラの母である緑のおばさんに手当てをしてもらう。そして二度目の戦いでは命を失いかけ,再びウルトラの母に助けられて,ウルトラの命を与えられてタロウとなる。タロウは,赤子の鳴き声とともに出現する。その時にウルトラの母はウルトラ5兄弟に対して「おまえたち兄弟はみな,このようにして生まれたのです」と言っている。タロウは,この時に誕生したものとして描かれているのだ。

 また最終回「さらばタロウよ!ウルトラの母よ!」では,光太郎は「僕も一人の人間として生きてみせる。僕はウルトラのバッジを,もう頼りにはしない」と言って,バッジをウルトラの母に返し,一人の人間に戻って旅に出る。ウルトラの母はそんな光太郎に「光太郎さん,とうとうあなたも見つけましたね。ウルトラのバッジの代わりに,あなたは生きる喜びを知ったのよ。さよなら,タロウ。さよなら」と言って去っていく。ウルトラの母はバッジを自分の胸元に戻したが,タロウを光太郎と分離してウルトラの国に呼び戻したのではない。タロウに別れを告げたのである。

 どちらにも,光太郎と別人格のウルトラマンタロウは登場しない。主人公とウルトラマンが第1話で融合し,最終回で分離するという点では初代ウルトラマンと同じに見えるが,内実は大きく異なる。光太郎とは別人格としての人間とは別のタロウは出てこないのである。唯一の人格は光太郎であって,光太郎の持つウルトラの命,ウルトラの力がタロウなのだ。光太郎がバッジを手放せば,ウルトラの母は光太郎だけでなくタロウとも別れることになる。だからさよなら,光太郎さんではなく,「さよなら,タロウ」と言っているのだ。

 もちろん,『ウルトラマンタロウ』の全編を通してみれば,明らかに光太郎と別にウルトラマンタロウという存在がいて,子どものころからウルトラの国に住んでいる。田口さん自身が第24話「これがウルトラの国だ!」第25話「燃えろ! ウルトラ6兄弟」に見られるように,そうしたタロウを書いている。そしてウルトラマンシリーズを通してみても,タロウは後にウルトラマンメビウスの教官になって,再び地球を訪れたりもする。公式設定では,光太郎とタロウは別人格なのだ。

 しかし,『タロウ』の第1話と最終回だけを見ると,様子は違っている。タロウとは,東光太郎にウルトラの母から与えられた不思議な力であって,もともと存在した別人格ではないのだ。光太郎がウルトラのバッジを捨てたときに,タロウというウルトラの力はなくなって,光太郎という人間だけが残る。そういう風に描かれているとしか思えない。私は昔から,光太郎が一人の人間に戻った後,ウルトラマンタロウはどこに行ってしまったのだろうと気になって仕方がなかった。その答えは,東光太郎がウルトラのバッジを捨てたときに,ウルトラマンタロウはいなくなったということなのだと思う。

 以上の解釈は,それほど無理とは思えない。偶然このように見えるだけにしては,あまりに作りこまれている。私は,田口さんが,基本設定やシリーズ構成からはみ出しながら,しかしぎりぎり破綻して見えないように,第1話と最終回を意図的にこのように書かれたのではないかと思う。その理由は,東光太郎の青春の物語として,『ウルトラマンタロウ』を完結させたかったからではないか。

 この離れ業によって,『ウルトラマンタロウ』の世界は,多少の矛盾をもちつつも,その不都合を相殺して余りあるほどの重層的な奥深さを持つようになった。雑踏に紛れ,去っていった人間としての東光太郎は,長く,強く,私を含む視聴者の心に印象付けられるようになったのである。

参考文献

白石雅彦『ウルトラマンタロウの青春』双葉社,2023年。




2024年4月6日土曜日

信用貨幣は商品経済から説明されるべきか,国家から説明されるべきか:マルクス派とMMT

 「『MMT』はどうして多くの経済学者に嫌われるのか 「政府」の存在を大前提とする理論の革新性」東洋経済ONLINE,2024年3月25日。

https://finance.yahoo.co.jp/news/detail/daa72c2f544a4ff93a2bf502fcd8786b9f93ecab


 島倉原氏によるここの記事は,MMT(現代貨幣理論)の理論の根源を,新古典派やマルクス派とわかりやすく対比して主張しているので面白い。しかし,賛成はできない。私の立場からコメントする。

 島倉氏が,「主流派にせよマルクス派にせよ、『政府がなくても商品経済やその交換手段たる貨幣は成立する』という世界観を有している点では同根であり」というのは,乱暴ではあるがおおむね妥当であろう。ただし,一点留保しなければならないところがあり,これは後で述べる。

 主流派もマルクス派も,商品交換の必要性から貨幣が生まれると考えることは,同じである。だから商品貨幣を本来の貨幣とする。そこまでは確かにそうである。


*主流派における手形の貨幣化論の欠如

 しかし主流派は,貨幣が成り立つ必然性といった論点にはあまり関心がないので,管理通貨制になれば,貨幣流通の根拠は「国家の強制通用力」または「人々の信認」だろうと,あっさりと乗り換えてすませるところがある。しかし,このプラグマティズムには,落とし穴がある。商品貨幣(金貨など)→紙幣での代用,という構図を当然だと思い込んで採用するところである。しかし,現在流通している預金貨幣や中央銀行券は,商品貨幣→商業手形での部分的代用→銀行手形(預金貨幣と銀行券)での代用という風に,手形が貨幣化する過程を必須条件として成立しているのである。手形が抜けると,現代の貨幣の運動がつかめなくなる。手形というのは,債務発生のたびに新規発行され,債務が決済されると消失するものである。現代の預金貨幣は,銀行が貸すたびに新規発行され,返済されるたびに消えるのである。国家紙幣にはそのようなことは起こらない。だから主流派が銀行実務をまったく考慮せずに貨幣を論じると,現実とずれてしまうのである。実は,現代経済においては,毎日毎日,銀行から通貨が新規発行されたり,逆に還流・消滅したりしているのである。この独特な運動を捉え損ねると,銀行とはお金を持っている人から持っていない人に仲介するものだという,当たり前のようでまったく間違いな見解が生じるのである。


*マルクス派の商品貨幣節約論

 マルクス派も,商品貨幣を本来の貨幣とする。しかしマルクス派は,発達する資本主義にとって,商品貨幣の現物を用いることが制約となり,それを乗り越えるために様々な代用貨幣が出現し,商品貨幣に代わって流通するようになることを重視する。商品経済から貨幣が生まれ,貨幣を用いた取引から手形が生まれ,販売と購買の分離,流通する手形を用いた債権債務相殺という手形原理が成立し,銀行手形による貸し付けが出現する,という順序で信用貨幣としての代用貨幣の論理を構築するのである。これにより預金貨幣や中央銀行券の運動が説明可能になる。

 しばしば誤解されているが,マルクス派とは「金が貨幣だから,いまそれが流通していないのは異常事態だ」というものではない。乱暴な単純化を覚悟で言えば「ほんらい金が貨幣なのだが,そんなものを使っていては不便で仕方がないので,代用貨幣,とくに信用貨幣が発達し,金の現物は流通しなくなる」ことを明らかにする見地である。もちろん,マルクスは資本主義に批判的だから,この発達には矛盾も伴うとしている。例えば金兌換が停止されると,財政赤字によるインフレの悪性化のリスクは大いに高まる。信用貨幣が膨張すると,経済は拡大する半面,バブルや金融危機も起こりやすくなる。しかし,そうした矛盾を含めて,代用貨幣が発達し,商品貨幣が流通から姿を消す必然性を述べるのがマルクス派である。


*商品貨幣は歴史的主流でなく論理的基本形

 島倉氏は,経済史の研究成果をもとに,「貨幣が導入される前は物々交換経済があり、貨幣も元々は市場で交換される商品の1つであった」ということを否定し,「商品貨幣論が想定するような物々交換経済はそもそも存在していなかった」とする。しかし,経済史と経済理論は異なる。例えばマルクスの『資本論』は商品論から始まって貨幣論に進み,貨幣が資本に転化する剰余価値論へと進む。しかし,商品論がt時点,貨幣論がt+1時点,剰余価値論がt+2時点での話だと歴史的順序を述べているのではない。商品論が資本主義以前,剰余価値論が資本主義というのでもない。あくまで資本主義社会を念頭に置いて論理的な抽象を行い,説明のために適した順序でものごとを論じているのだ。だから,金が貨幣として必要だというのも現代社会のことであり,しかしそんなものを使っていては不便で仕方がないから金の現物は用いずに,預金貨幣や中央銀行券で代替するというのも現代社会のことであり,同時に起こっていることなのである。


*歴史的経過で経済理論を否定することはできない

 商品貨幣は資本主義以前に主流の貨幣ではなかったと言われれば,そうかもしれない。しかし,それは歴史の問題である。他方,現代社会での信用貨幣の説明は,現在の論理の問題である。マルクス経済学が言っているのは,むかしむかし物々交換と金貨が主流でしたという歴史物語ではない。貨幣としての性質や機能を理解する際に,特定の商品にすべての性質・機能が体現されている状態から出発するのがよいということである。いわば金属貨幣は論理的な万能貨幣である。ところが,現実に貨幣を使う際には,そもそも貴金属の量が限られていること,重さがある物体であること,販売と購買が結合していることなどの制約もあって,不便極まりない。だから代用貨幣が発達するという説明になる。「過去に主要なものとして用いられていた」ことが問題ではなく,「今を説明する際の基本形と設定できる出発点」であることが問題なのである。

 これをやや哲学的に言えば,歴史的経過によって,論理的説明力を否定することはできないのである。


*国家の重要性はどこにあるか

 島倉氏は「歴史学・人類学・宗教学などの知見を総合すれば、近代的な主権国家の登場前も含め、古代以降の様々な貨幣は「神」を含む主権者との関係に基づいて成立していると考えられる」と主張する。経済学が他の諸科学の補完によって経済を説明しなければならないのは確かだろう。例えば,クナップの表券主義による貨幣論にも重要な貢献はある。それは冒頭で私が保留した一点であり,「価格標準は国家が定める」としたことである。価格標準には二つの面があり,ひとつはドルとか円などの貨幣名を定めること,もう一つは貨幣金属の一定量を貨幣名での一単位と対応させ,昔のIMF体制で言えば「金1オンス=35ドル」などと水準を定めることである。このうち前者は今でも機能しているが,後者は機能していない。このことは,現代を説明する上でも確かに有効であり,それはマルクス派も認めるべきことである。だから,国家の貨幣へのかかわりは確かに重要である。


*経済はできるだけ経済で説明すべき

 しかし,だからと言って経済学の論理自体を軽視してよいはずがない。商品交換にとって貨幣が必要とされる論理,購買と販売が後払いによって分離し,後払いの証書として手形が生まれ,手形が流通することによって債権債務の相殺が可能となり,商品貨幣を節約する可能性が生まれることを無視して良いとは思えない。経済のことは,なるべく経済によって説明すべきであり,それが限界に達したところで他の論理による補完を考えるべきだろう。MMTの国定貨幣説は,「それは国家の力による」という説明に安易に頼りすぎている。それゆえ私は,手形債務説によって現代の預金貨幣や中央銀行券を説明する道を選びたい。

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