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2021年3月30日火曜日

低所得で暮らす家計が増えた20年

 「日本経済」講義準備。日本では,20世紀末までは年間所得300-400万円の世帯が一番多かったが,所得の全般的低下の結果,いまでは200-300万円の世帯の方が多いという話(※)。

 世帯数の分布の推移を見るとグラフのようになる。1998-2013年までの傾向は一貫しており,低所得の側では年収100-400万の世帯比率が上昇する。高所得の側では多くの階層で比率が低下する。つまり,全体として所得が低下し,少なくない世帯が階層を降下した結果,100-400万の世帯が拡大したのだ。2013-2018年は曲がりなりにも好況となって雇用が拡大したためか,この傾向に多少の歯止めはかかったが,20年間の趨勢は変わらない。所得の中央値は1998年に544万円だったが,2019年には437万円となった。

 所得の集中については,傾向がはっきりしない。平均所得金額以下の世帯比率は60.6%から61.1%へとわずかに上昇した。

 それより明確なのは,困難にある家計の割合の増加だろう。1998年には所得200万円以下で暮らす家計は14.2%であったが,2018年には19.0%になった。逆に,富裕層と言えない程度の高所得であっても,得ることは困難になりつつある。1998年には所得800万円以上を得る家計が28.6%あったが,2018年には21%になった。

 これらの変化は,世帯あたりの人数の低下(2.81人から2.44人)を考慮しても著しいものだ。日本は過去20年の間に,全体として貧しくなった。

※ひとつ前に投稿したWIDによる所得分布とは切り口が異なる。WIDは国際比較可能な統計を整備するため,個人の税引き前所得を対象としている。これに対してここで使用した日本の厚労省統計からは,世帯の税引き前所得の分布がある程度わかる。他国と比較はできないが,これはこれで直観的に理解しやすい。

4/17追記。 当初この統計を「可処分所得」についてのものと記していましたが,正しくは「所得」でした。修正してお詫びします。





World Inequality DatabaseにみるG7諸国,日本,中国の所得集中(2013-2019年)

 「日本経済」講義準備。世界経済の動態と格差編。ピケティらのWorld Inequality Databaseを使った所得集中のグラフを更新。対象は個人の税引前所得。2年前に作図した後にデータが更新されており,日本の数値は WIDのチームが作成したMarc Jenmana; Rowaida Moshrif and Li Yang(2020),“Regional DINA update for Asia”にしたがっているようだ。

*日本の上位1%の高所得層(年収1392万円以上)への所得集中度は12.4%で,アメリカ,イギリス,ドイツ,カナダほどではなく,G7では5位。ちなみに中国は日本より高い。

*日本の上位10%高所得層への所得集中度は43.3%で,G7ではアメリカに次いで2位。ちなみに中国も日本より低い。

*今回は,下位50%のデータをとることができたのでグラフを追加。日本では年収が270万円以下の人々が成人個人の50%を占めており,その所得のシェアは19.5%に過ぎない。このシェアは1990年代以後,他の先進諸国とともに低下傾向にあり,G7諸国では4位。なお,G7諸国ではアメリカの極端な低さが目立つ。また中国は改革・開放の進行とともに急速にシェアが低下している。

 以前から指摘されているように,日本は1%集中度が低く,10%集中度が高い。そして上位10%とは最新のデータによると年収915万円以上であり,富裕層というほどではない。しかし,その水準に届かない個人が90%だということである。そして,今回確認できたのは,年収270万円以下の人々が全体の50%を占めていることだ。アメリカやイギリスと比べると,超富裕層に所得が集中する問題よりも,下位の低所得層の抱える困難の大きさという問題の比重が相対的に大きいことになる(※)。


※今回,データが2019年まで更新されたのは良いが,過去データもすべて見直された結果,1%や10%の閾値の数値は大きく変わっている。日本の上位1%の年収は,以前は2010年に2161万円以上とされていたが,最新データでは2010年に1193万円以上,2019年に1392万円以上と大幅に低下した。日本の上位10%の収入は,以前は2010年に960万円以上とされていたが,最新データでは2010年は789万円以上と大幅に減少し,2019年は915万円以上となった。なぜこんなに変動したのか,説明が欲しいところだ。

World Inequality Database
https://wid.world/





2021年3月21日日曜日

講義ノート:管理通貨制度下の貨幣流通,蓄蔵貨幣機能,遊休と金融的流通

I 課題

 貨幣流通を考える時に重要なのは,財・サービスの流通する商品世界の要求に応じて貨幣が流通に出入りする内生的貨幣供給の仕組みと,流通外から一方的に貨幣が投じられる外生的貨幣的供給の仕組みを区別し,それぞれどのような場合にあり得るか,どのような運動がみられるかを理解することである。これは,それ自体が価値を持つような正貨=商品貨幣が流通する場合については,比較的よく解明されている。しかし,それに比べると,今日の,中央銀行への発券集中を伴う管理通貨制度の下で,貨幣の流通への出入りがどのような姿をとるかについては,明快に整理され切っていないのではないだろうか (注1)。商品貨幣が流通している世界と管理通貨制度下の世界の関連と相違を明らかにしておく必要がある。


II 貨幣流通の基本モデル

 マルクス(1982-1989)の貨幣流通モデルから出発しよう。これを図解した大谷(2001)から図1を借用する。商品経済における購買を貨幣流通が媒介している。流通に必要な貨幣量は商品経済における,ある時点での度量標準に対応した商品の総価格と貨幣の平均流通速度によって決まる。流通に必要な貨幣には流通手段として流通する貨幣と支払い手段として流通する貨幣とがある。必要流通貨幣量が流通する商品世界の外側には蓄蔵貨幣の貯水池がある。貨幣が商品貨幣である限り,その供給は内生的になるので,必要な貨幣は蓄蔵貨幣の貯水池から商品世界に入って流通し,不要になれば流通から出て貯水池に蓄蔵される。蓄蔵貨幣の貯水池のそのまた外側には,一社会モデルなら産金部門,多社会モデルなら産金部門と外国があり,金取引によって貯水池とつながっている。

 

図1 蓄蔵貨幣貯水池等を通した貨幣流通量の調節
出所:大谷(2001, p. 120)。


 それでは,発券集中を伴う管理通貨制度下での貨幣流通においては,このモデルはどのように変容しているのだろうか。補助貨幣のことを脇に置けば,流通する貨幣は預金通貨と不換の中央銀行券である。そして,政府の財政赤字・黒字,および対外取引による通貨供給量の変動を捨象して考えよう。このもっとも抽象的なモデルにおいて,2種類の貨幣はどのように流通に出入りするのだろうか。また,管理通貨制度の下では,蓄蔵貨幣の機能はどうなるのだろうか。


III 預金通貨の生成と消滅:信用創造

 まず預金通貨について。学問的には内生的貨幣供給論が明らかにしているように(吉田, 2002, 松本; 2013),また実務的には銀行実務の素直な理解によって明らかであるように,預金通貨は銀行が企業に信用を供与することによって,当座預金として生まれる。これがすなわち信用創造である。ここで信用供与とは貸し付けと信用代位を含んでおり,具体的には貸し付け手形割引も含んでいる。これは預金通貨が発生する唯一の方法である (注2)。逆に言えば,預金通貨供給は信用創造によってのみ行われる。次に見るように中央銀行券の形で引き出されることはあっても,それ以前に貸し付けはいったん預金創造でなされる。つまり,預金が引き出されない限りにおいては,貸し付け総額=預金総額=流通貨幣量(通貨供給量)である。借り手企業は預金を設備投資なり運転資金なり賃金なりの支払いに用いる。預金通貨は他の持ち手に移転し,他の銀行に当座預金または定期預金として預けられる。しかし,社会的に見た総額は変わらない。そして最終的に企業が銀行に返済を行うと,銀行の貸付金と借り入れた企業の当座預金が同時に消滅する。預金は貸し付けによって生成して通貨となり,返済によって消滅するのである。手形割引の場合は,割引を行うと手形の譲度人の預金が創造され,期限が来ると取り立てによって銀行の債権と手形の振出人の預金が同時に消滅する。

 通貨供給の増加は信用の拡大とイコールであるため,そこに貸し倒れリスクも必ず伴う。借り手が企業の場合,資本形成や手形割引によって事業を円滑に遂行し,利子を伴って元本を返済してもなお手元に利潤を確保できるかどうかは不確実である。借り手が個人の場合,事後に入手できる収入によって,利子を伴って元本を返済できるかどうかは不確実である。つまり,預金通貨は商品経済の要求によって内生的に供給されるが,リスクを追加する形で供給される。

 ここで,銀行にとって準備金が必要ないのかという疑問に答える必要があるだろう。中央銀行券については後述するとして,預金通貨だけを想定した場合を考えておく。まず,貸し付けの原資としての準備金は必要ない。貸し付けは預金創造によって行うのであり,準備金を取り崩して貸し付けているのではないからである。次に,貸倒に備えた準備金が必要である。手形割引であれ貸し付けであれ,銀行は貸し倒れのリスクを取らねばならないからである。さらに,銀行間決済のリスクに備えた準備金が必要である。借り手が何らかの支払いをすることで,預金がある銀行から別の銀行に移動した場合,銀行間に債権債務が発生し,中央銀行当座預金で決済される。預金が流出した銀行では中央銀行当座預金が減少する。預金が流入した銀行では逆に,中央銀行当座預金が増加する。この動きは社会全体としてはゼロサムであるが,個々の銀行にとってはそうなるとは限らない。そのため,銀行全体としても,リスクヘッジに必要な規模だけ中央銀行当座預金が必要とされる。この中央銀行当座預金は,社会全体としては中央銀行が銀行に貸し付けるか,銀行に対して買いオペレーションを行うことで供給され,個々の銀行の間ではインターバンク市場での貸借によって調整される。


IV 中央銀行券の生成と消滅:預金からの形態転換

 次に中央銀行券について。中央銀行券は,企業や個人が預金を引き出す際に流通に入る。それ以外では入らない。すべての貨幣はいったん預金として生成されるのであり,中央銀行券はそこからの部分的な漏れと見るべきなのである(吉田, 2002,p. iii)。預金が引き出される時,直接には銀行の手持ち現金が預金者に渡されるが(注3),手持ち現金の減少は結局は中央銀行当座預金が減ることで支えられる。つまり,預金が引き出されるとその銀行にとっても社会全体にとっても預金と「準備金=銀行保有現金+中央銀行当座預金」が減少する。そしてこの中央銀行当座預金は,中央銀行が銀行に貸し付けるか,銀行に対して買いオペレーションを行うことで供給される。

 中央銀行券は,企業や個人が銀行に預金として預けることによって流通から出る。そして,一部は銀行で手持ち現金にとどまるが,多くは中央銀行当座預金として預けられる。中央銀行においては当座預金が増え,中央銀行券発券残高がその分だけ減少する(注4)。銀行の手元では,預金と準備金が増加する。

 中央銀行券は,預金の一部が引き出されたものであるから,その流通量の増減は,預金通貨の逆方向の増減と対応している。なので,銀行の貸付総額が変化しない限り,中央銀行券の流通量だけが変化しても,流通貨幣量全体を変化させることはない。

 中央銀行券の運動にとっては,準備金は,預金の一部を中央銀行券に転換させるために必要である。中央銀行券の流通量の増減は,準備金の逆方向の増減と対応している。したがって,預金が中央銀行券として引き出される割合に応じて準備金が必要である。この割合は企業や個人の流動性に対する需要によって左右される。そして,この需要は個々の銀行の経営不安,すなわち預金通貨に対する不安にも左右されることに注意が必要である。


V 経済成長に対応した通貨供給量の拡大=信用創造の拡大

 貸し倒れにならない限り,貸付金は期日になれば返済される。つまり貸し付けと返済は元本分についてはゼロサムである。よって,すべての預金通貨や中央銀行券は,流通に入っても恒久的にとどまることは決してなく,いずれは消滅することを運命づけられている。しかも銀行は割引料や利子を取り立てるので,流通に投入された預金通貨や中央銀行券よりも多くを回収する。なので,一定期間において,商品の流通に必要な貨幣量は確保されるためには,次々と連鎖的に信用創造が行われなければならない。また,経済成長によって商品の流通に必要な貨幣量が増加した場合は,信用創造が拡大していくこと,具体的には,銀行が回収(返済や取り立て)を上回る信用供与(貸し付けや手形割引)を行うことによって,必要な貨幣量が確保されねばならない。社会全体として見た場合に,債務が返済される以上に貸し付けが行われるという運動が連続的に生じることが,通貨供給量を増大させる。通貨供給量の増大イコール信用供与の増大であり,銀行債権とそれ以外の部門の債務の増大なのである。

 なお,このように説明すると,金融とは資金余剰主体から資金不足主体への融通ではないのかという疑問,言い換えると,金融とは遊休貨幣の信用仲介ではないのかという疑問が出てくるかもしれない。これについては,まず遊休貨幣ないし余剰資金の存在形態を確認しておく必要がある。銀行の持つ準備金については前述のように貸し付けの原資ではないので,その取り崩しによって通貨が供給されることはない。よって,信用仲介の対象になりそうなのは,流通内で支出されずに遊休している預金や中央銀行券である。しかし,これらについては,まず預金であり中央銀行券である以上,過去のある時点で信用創造によって生成した預金が持ち手を転換したり,引き出されたりしたものなのである。さかのぼって考えると,まず貸し付けによって預金が生まれる。そして,預金通貨のまま流通したり,中央銀行券に転換されたうえで流通したりする。そしてある時点で,支出されない定期預金や当座預金や手持ちの現金によるたんす預金となって遊休する。これが実際の順序なのである。銀行に関する限り,先ず余剰資金があって,それが貸し付けられるではない。まず信用創造が行われ,結果として遊休貨幣ないし余剰資金が発生するのである(松本, 2013, pp. 63-65)。


VI 管理通貨制度下における貯水池なき蓄蔵貨幣機能

 通貨は商品経済の要求により,まずは預金創造という形で流通に入り,預金消滅という形で流通から出る。その点では内生的に供給される。これをマルクスによる貯水池の比喩で言えば,必要に応じて通貨が流れ込み,流れ出る水路は存在している。ただし,水路の先には蓄蔵貨幣の貯水池がない。預金通貨は貸し付けられたら創造され,返済されると消滅するからである。物的な資源と異なり,通貨と購買力は無から創造され得るし,また消滅もし得る。信用創造とは,無から水が湧き,無に水が帰す水路なのである(注5)。この点が,正貨=商品貨幣の流通との重要な類似性と相違である。大谷(2001)のデザインを借りつつこれを図示すれば,図2のようになる。





図2 貸し付け・割引と返済・回収を通した預金通貨の流通量の調節
出所:著者作成。


 この図は,銀行が預金通貨を創造できることと,恣意的にそうするのではないことをともに意味している。企業が活動を拡大しようとし,社会的に商品の流通が拡大する行動がとられようとする時に,これを支えるのが信用創造なのである。

 ここで,銀行の「準備金=銀行保有現金+中央銀行当座預金」は貯水池ではないのかという疑問が出てくるだろう。準備金の機能は,預金通貨にとってと中央銀行券にとってとでは異なることに注意が必要である。

 まず預金通貨の運動にとっては,準備金は蓄蔵貨幣ではなく,貨幣流通量を調節する貯水池でもない。準備金は貸付けの原資ではなく,貸し倒れリスクに備えることと,個々の銀行間の預金振替を円滑に行うために必要なものだからである。

 中央銀行券の運動にとっては,準備金は,預金の一部を中央銀行券に転換させるために必要である。流通する中央銀行券が増えれば準備金が減り,流通内の中央銀行券が減れば準備金が増える。よって,中央銀行券として流通する分については,準備金が貯水池となるといってもよい。このことを図示すれば図3のようになる。ただし,注意すべき点が二つある。第一に,流通内における中央銀行券の増減は同額の預金が形態転換したものである。なので,預金の預け入れや引き出しを通して中央銀行券の流通量が増減し,それと逆方向に準備金が増減しても,貨幣流通量全体は変化しない。第二に,流通外にあっては,準備金の多くは中央銀行券の形態のままで蓄蔵されるのではなく,中央銀行当座預金という形態で蓄蔵される。

 以上のように,管理通貨制度下においては,蓄蔵貨幣の貯水池が存在しなくとも,内生的に流通貨幣量全体は調節されるのである。その意味では,銀行制度は信用創造により,実体としての蓄蔵貨幣が存在しないのに蓄蔵貨幣機能の一部,つまり必要な時に通貨を創造し,不要な時に消滅させる調整機能を果たすのである。その上で,流通貨幣量(通貨供給量)のうち中央銀行券という形で流通する部分についてのみ,準備金という特殊な形態での貯水池が存在しているのである。



図3 準備金の増減を通した流通する中央銀行券の調節。
出所:著者作成。


VII 遊休と金融的流通

 さて,流通貨幣量を変動させる入り口と出口は銀行による貸し付け・信用代位と返済だけである。これとは別の,流通から貨幣が完全に出る水路も貯水池もない。しかし,返済による消滅や準備金増以外にも,貨幣は財・サービスの流通媒介をしなくなってしまうことがある。

 一つは遊休である。企業の手元には直ちには投資されない現金や預金があり,これが遊休貨幣資本をなす。また,個人はただちに支出しない貯蓄を持っている。貨幣供給ルートに即していえば,貸し付けで生成された預金や,それが引き出されて発行された中央銀行券は,流通していくうちに企業や個人の手元で遊休する。具体的には,たんす預金,定期預金,あるいは当座預金のうち使用する当てがなく積み上がっている分という形をとる。企業や個人が購買や信用仲介にこれを投じれば商品流通の媒介に復帰し得るが,一定期間それがなされないこともあり得る。

 もう一つは,金融的流通である。企業も個人も現預金のまま貨幣を遊休させずに,株式や債券という金融資産で運用することがある。証券の流通市場で運用が行われた場合,預金や中央銀行券は,株式や債券などの金融資産の購入,販売によって持ち手を変える 。そして連続的に金融資産の売買が行われると,連鎖する売り手の銀行預金口座を次々と預金が移動する。また,証券会社を通して売買していれば,投資家たちの口座が置かれている証券会社が銀行に持つ預金口座内に残高が滞留する。これらの預金残高は,金融資産の売買が連続的に行われている間は,財・サービスの流通を媒介していない。金融資産の価格の変動によって,金融的流通にとどまる貨幣の額も変動する。

 遊休状態の貨幣,および金融的流通を媒介している貨幣は,商品経済から出て行ったわけではない。預金通貨や中央銀行券として存在し続けている。しかし,少なくとも一定期間,財・サービスの流通を媒介しないのである 。財・サービスの流通を媒介している通貨とも,貸付金の返済によって水路から出て消滅した貨幣とも性質が異なるこの二つの部分については,独自の立ち入った解明が必要である。


VIII 総括

 まとめよう。発券集中を伴う管理通貨制度のもとでの通貨は,政府財政と対外取引の影響を捨象すると,以下のように流通に出入りする。1)預金通貨も不換の中央銀行券も,内生的に供給される。つまり,商品流通の必要に応じて流通に入り,不要になると流通から出るのであって,商品流通の必要と無関係に外部から投入されるのではない。2)具体的には,銀行が預金を設定して信用を供与することによって流通に入り,貸付金が返済されて銀行が預金と貸し付けを両建てで消滅させることによって流通から出る。ここで預金通貨は内生的に,ただし貸し倒れリスクを伴う形で供給される。準備金は貸し付けの原資としては必要なく,貸し倒れリスクに備えるためと,個々の銀行間の預金振替を円滑に行うために必要とされる。3)中央銀行券は,預金が銀行から引き出されることによって流通に入り,預金として銀行に還流することで流通から出る。中央銀行券は,預金通貨の形で供給された流通貨幣量(通貨供給量)のうち,一部が引き出されたものであるから,その流通量の増減は,預金通貨の逆方向の増減と対応するだけであって,流通貨幣量全体を変化させない。準備金は預金通貨を中央銀行券に転換させる流動性需要に対応して必要とされる。4)商品流通に必要な貨幣量の供給は,連鎖的に信用創造がなされることによって確保される。必要な貨幣量の増大は,返済を上回る貸し付けが行われることによって実現される。5)通貨は流通に入る時に預金という形態で生まれ,流通から出る際に消滅する。必要に応じて水路を出入りするという意味では蓄蔵貨幣機能を果たすが,蓄蔵貨幣の貯水池を形成しない。6)流通に入る中央銀行券の量に対応して,「準備金=銀行の手持ち現金+中央銀行当座預金」という貯水池が存在する。準備金は,流通貨幣量の一部をなす中央銀行券の流通量にのみ対応するのであって,流通貨幣量全体の変化には対応しない。7)遊休したり金融的流通に回ったりする通貨は,商品経済の外に出てはいないが,財・サービスの流通を少なくとも一時的に媒介しないという,独自の状態にある。


<注>

1)このノートのIII,IVにおける信用創造論,預金通貨の流通論の本質的内容は,マルクス経済学の内生的貨幣供給論的理解を示した吉田(2002, 2008)や松本(2013)にしたがいつつ,派生的論理を展開したものである。一方,Ⅴ以降の蓄蔵,遊休,金融的流通に関する論点は,独自の思考によるものである。もっとも信用論の文献を十分にサーベイしたわけではないので,先行研究がすでに指摘しているかもしれない。

2)教科書的な信用創造理解では,本源的預金をもとに信用創造を行うことで,元の何倍もの預金が生成することになっているが,本源的預金論は説明不足であり,結果として論理が転倒している。本源的預金論は,最初に預けた中央銀行券がどこから来たのか説明していない。社会全体として見れば,この中央銀行券は,貸し付けによって生成した預金が引き出されることで流通に入ったのである。それを誰かが預金するというのは,すでに生成された預金と同額を(たいていは生成されたのとは別な銀行に,であるが)銀行に還流させるだけのことである。

3)銀行が手持ちしている現金は,流通内には入っていない。日本の実務においても,「現金通貨」に含まれていない。

4)中央銀行券は債務証書なので,債務者である中央銀行に還流すれば資産にならずに消滅する。

5)この論理をかなり直接的に明示したのはシュムペーター(1977)である。シュムペーターはすべての資源が有効活用されている均衡状態から経済発展へと移行する仕組みを考察している。なぜこのような移行が可能になるかというと,銀行の信用創造によって無から購買力が創造され,その購買力を利用して企業者が他の用途から希少資源を引き抜くからである。ものや人などの資源は,すでにすべて有効されているという想定の下では追加することはできず,既にあるものを別な組み合わせで用いることしかできない。だから企業者行動は創造でなく創造的破壊をもたらし,結合でなく新結合をもたらすと言われる。しかし,同じ条件下でも,信用貨幣による購買力は追加で創造され得るのである。

6)証券購入が発行市場で行われた場合は,投下された貨幣は設備投資や原材料購入や賃金支払いにまわる。証券の発行市場と流通市場は区別する必要がある。

7)この遊休貨幣は,先行研究において示されたより普遍的な概念では休息貨幣にあたる(岡橋, 1957, p. 76)。すなわち,蓄蔵貨幣ではなく,流通を一時休止している流通手段としての貨幣である。


<参考文献>

大谷禎之介(2001)『図解 社会経済学:資本主義とはどのような社会システムか』桜井書店,2001年。
岡橋保(1957)『新版貨幣論』春秋社。
シュムペーター, J. A.(1977)(原著1912年,塩野谷祐一ほか訳)『経済発展の理論―企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究(上)(下)』岩波書店。
松本朗(2013)『改訂版 入門金融経済:通貨と金融の基礎理論と制度』駿河台出版社。
マルクス, K. (1982-1989)(原著1867-1894年,社会科学研究所監修・資本論翻訳委員会訳)『資本論』新日本出版社。
吉田暁(2002)『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社。
吉田暁(2008)「内生的貨幣供給論と信用創造」『経済理論』45(2), 15-25。


2021年3月8日月曜日

日銀がETFを購入するとマネーストックは増えるのか

 講義用Q&A

Q:日銀のETF購入も金融緩和としてなされていますが,日銀がETFを購入するとマネーストックは増えるでしょうか。

A:場合によります。日銀がETFを購入する時には,信託銀行に対して金銭を信託することによって行います。なので,まず日銀は信託銀行が持つ日銀当座預金口座にお金を振り込みます。信託銀行はこれをいったん引き出し,預金とは別の信託勘定に移します。これを用いてETFを購入して保管しますが,これは日銀の資産として記帳されます。

 信託銀行がETFを購入するときは証券会社に発注します。証券会社は株式バスケットを入手し,運用会社に預けてETFを設定してもらいます。このとき,信託銀行の信託勘定にある現金は,証券会社に移動しなければなりません。
 ここで,証券会社が日銀に当座預金を持っていれば,証券会社名義の日銀当座預金として預け入れられます。結果として,日銀当座預金だけが増えていますからマネタリーベースは増えてマネーストックは増えません。もちろん,証券会社が増えた当座預金という資産を運用する仕方によっては増えます。

 証券会社が日銀に口座を持たない会社であれば,預金は以下のように移動します。

・信託銀行の信託勘定で現金減
・証券会社の持つ現金増。預け入れにより銀行に持つ当座預金増
・その銀行が日銀に持つ日銀当座預金増

 この場合,結果が異なります。日銀当座預金残高のみならず,証券会社が銀行に持つ当座預金という預金通貨も増えていますから,マネタリーベースとマネーストックは両方増えることになります。

Q:日銀のETF購入で株価が上がったとすれば,投資家の手持ちマネーは増えるわけですが,この時,マネーストックは増えるでしょうか。

A:直接的には,ある一つの場合を除いて増えません。日銀のETF購入で株価が上がったとして,上がった株は誰かが売って,誰かが買っています。この時,株式の買い手は買うお金を持っていたはずです。自分のものであったり,銀行以外の誰か(個人や証券会社やノンバンク)から借りた場合は,そのお金はもともと経済内部で流通していた,マネーストックに含まれていたお金です。なので,そのお金で株式を買ってもマネーストックは変動しません。株価が高くなるというのは,株式と交換されるマネーの金額が増えるだけです。
 ただし,投資家が銀行からお金を借りて株式を買った場合だけは,信用創造によって預金通貨が増えるので,直接的にマネーストックが増えます。
 また,株価の上昇が実物資産への投資を活発にし,それによって信用創造が盛んになった場合には,間接的にマネーストックが増えます。

 ETFの購入は金融緩和としての効果は限られています。むしろその役割は,上場企業の株価を底支えすることであって,そういうものとして是非を考えるべきと思います。これについての私の意見は以下の記事をご覧ください。


「日本銀行がETFを買うお金はどこから来るか?:日銀のETF購入(1)」2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf1.html

「日銀のETF購入は上場企業優遇の財政政策ではないのか:日銀のETF購入(2)」2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf2.html

「日銀がETFで損失を出すとはどういうことか:日銀のETF購入(3)」2020年4月16日。
https://riversidehope.blogspot.com/2020/04/etfetf3.html

※2024年1月30日。ETFが信託であることを踏まえて記述を訂正。


2021年2月25日木曜日

「私営」でも「国有」でもない「共有企業」という改革案:張春霖「企業所有制の伝統的概念を改める必要について」を読んで

 張春霖「企業所有制の伝統的概念を改める必要について」『財新』2021年2月19日。

 正しく読めたかどうか自信はないが(→留学生に確認したら大丈夫とのこと),著者はおおむね以下のように主張している。

 中国における「公有」「非公有」の二分法は単純に過ぎるので,三分法にすべきである。自由放任資本主義や完全な社会主義と異なり,現代の市場経済では個人の貯蓄が大量に形成されている。それらは,何らかの機構に委託されて投資されるが,受託者は利益に対する排他的な権利を保有している。こうした金融仲介を行う企業,すなわち民営であれ公共管理の下にあるのであれ養老基金,保険会社,商業銀行,投資基金,単位信託基金などは私営とも国有とも異なる「共有企業(jointly owned enterprise)と呼ぶべきである。

 この共有企業の考えを年金保険制度の改革に活かし,個人口座に対する個人の排他的な請求権,基金の受託者責任,政府の非介入を実現すべきである。

 また,国家が保有する国有企業の株式の一部は機関投資家に委託し,その投資収益は国民全体に配分し,政府は制度の運行と受託機関投資家の選択に責任を負って,企業の経営的意思決定には関与しないという運用が可能である。これにより国有資本の国家所有権を保持しつつ「政企分離」を徹底し,国家所有権と市場経済の対立を減らすことができる。また低所得者の保護を手厚くし,国民全体の共通利益を促進することができる。

(感想)

 現代資本主義における機関所有の増大に注目しつつ,これを中国の経済改革に結びつけた面白い発想と思う。ピーター・ドラッカーの年金基金社会主義やアドルフ・バーリの財産なき権力論を,中国の現状に対応させたような感触を得た。これら機関投資家所有に注目したアメリカの議論では,個人所有から機関所有へのシフトに注目し,機関所有家の行動原理は個人投資家と異なるのではないか,異なるべきではないかと問う。そこでの議論のポイントの一つは,一方で個人大資本家が縮小し,他方で労働者が年金基金加入者になって,いずれの資本も機関投資家が管理し,投資先を決定していることである。

 この張春霖氏の論稿の場合,国有資産も個人資産も実は機関投資家に運用を委託されているのだから,機関投資家の行動原理に従うべきではないかという風に構成されている。それによって,一方では国家の個々の企業活動への介入を抑制しようとして,近年危うくなっている政企分離を改めて進めようとし,他方では個人の年金資産や投資にに対する権利を確定しようとしているように見える。巧みな構成である。中国の政治経済においてどのくらい実行可能性を持つか,私の知識では判断できないが,少なくともいきなり政治的に否定されにくい論理になっているように見える。

 ただ,著者の改革が仮に実現しても,その先には,欧米資本主義と同じように,機関投資家が実際にはだれの立場を代表しているのかという問題が生まれだろう。一方で機関投資家が「物言う株主」になった場合に,それは誰の立場をどのように代表しているのかという問題がある。他方で,個人は年金基金に加入していても受益権があるだけで,投資決定や投資先企業の意思決定には参与できないという問題がある。これらは,著者の改革が実現しても難題となるように思える。

 なお部分的なことであるが,銀行は貯蓄を貸し付けに仲介しているのではなく,銀行が(原理的にはその株主が)リスクを取って預金を創造することで同時に貸し付けている。よって,金融仲介を根拠に銀行を「共有」企業に入れることは賛成できない。銀行は,通貨供給と決済という機能を持つ独自の機関であると位置づけた方がよいと思う。

2021年2月24日水曜日

吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社,2002年を読んで。

 吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社,2002年。吉川方人様のご厚意により入手して読むことができた。私が内生的貨幣供給論をあれこれ模索してたどり着いた見地は,貨幣・信用・銀行の一般理論の次元では,故・吉田暁教授の見解とほぼ同じであったことが確認できた。もっと早く気づくべきであった。もっとも,本書は一般理論の書として書かれているわけではない。原論文が書かれた時点でのトピック(CMAなど銀行以外の決済業務への参入と呼ばれた事態やナロウバンク論)に即した論じ方になっているため,その理論的立場は,読者が一定程度努力して読み込む必要がある。

 「はしがき」によれば,吉田教授は1955年に東京大学経済学部を卒業された。ゼミナールでは横山正彦氏,研究会では日高晋氏の指導を受け,マルクスのオーソドックス解釈と宇野理論の双方を学ばれた。志村嘉一,林健久,山口重克といった方々が学友とのこと。卒業して全国銀行協会連合会(全銀協)に1985年まで勤務されてから武蔵大学に転身された。私は本書で,吉田教授の内生的貨幣供給論が,経済原論の学びと銀行系エコノミストとしての研鑽の成果であったことを知った。

 なお,吉田教授の内生的貨幣供給論と,マルクス経済学内部の外生的貨幣供給論の違いは,以下でよくわかる。

吉田暁(2008)「内生的貨幣供給論と信用創造」『経済理論』45(2), 15-25。






2021年2月21日日曜日

「中央銀行デジタル通貨(CBDC)に関する日本銀行の取り組み方針」を読んで:預金減少が起こす問題は信用創造の制限でなく銀行間競争の激化

 日銀は,2021年春に中央銀行デジタル通貨(CBDC)の実証実験を行うとのこと。中国やスウェーデンはすでに実証実験に入っており,カンボジアとバハマではすでに運用が始まっている。今後の動向が注目されるので,日銀が2020年10月に発表した「中央銀行デジタル通貨に関する日本銀行の取り組み方針」を読んでみた。以下,コメントする。

・ホールセール型CBDCと一般利用型CBDCの区分について。ホールセール型CBDCというのは,単に中央銀行当座預金をデジタル技術革新したものである。これは「利用者を一部の先に限定した電子的な中央銀行マネーという点で、民間銀行が中央銀行に保有する当座預金と共通している」(引用。以下,カギカッコ内は同じ)。実際,図表2のベン図でも同じところに入っている。いまでも中央銀行当座預金はデジタル化されているのだら,これを何か別の存在に置換える必要はない。中央銀行当座預金が,何か別の存在に置き換わるかのように言うのは混乱の下であり,やめた方がいいと思う。

・一般利用型CBDCについて。これを間接型で供給し,「現金と同様の中央銀行マネーとして,決済のファイナリティ(支払完了性)および即時決済性」を持たせ「誰でも使える」ようにするという点は注目される。これは要するに,一般利用型CBDCとは中央銀行債務であり,現金=中央銀行券のデジタルトークン化だということである。私の意見では,CBDCを間接供給の,現金のデジタル化として設計することは,そうでない方式に比べて合理的であり,支持できる(※1)。

・「CBDCの発行により、銀行預金からCBDCへの大幅な資金シフトが生じれば、民間銀行の金融仲介機能に影響を及ぼすことになる。例えば、銀行預金よりもCBDCの利便性が高くなると、銀行預金は大きく減少してしまい、そのことを通じて銀行の信用創造が抑制されるとの指摘がある」。これは,非常に不安にさせられる文章である。預金が現金やCBDCで引き出されるとどうなるのかを考えてみよう。

 銀行は,借り手の預金を設定することによって貸し付ける。このとき,中銀に持っておく準備は必要であっても,事前に預金は必要ない。銀行は信用仲介機関ではなく信用創造機関であり,貸し付けることによって預金通貨を創造する(内生的貨幣供給論)。そして,現金やCBDCは貸し付けによって生まれた預金を,借り手aや,その支払先の企業bや個人cが引き出すことによって必要となるのである。この時,aまたはbまたはcの取引銀行は中央銀行券やCBDCを預金者に渡さねならず,それは中銀当座預金をおろして調達するしかない。貸し付けによって預金が生まれ,その預金が引き出されることによって現金やCBDCが流通する。つまり他の条件(過去からの履歴や政府の財政や対外取引)を抜きにすれば,現在の制度では「銀行貸出総額=預金総額+現金総額」である。CBDCが実用化されれば,「銀行貸出総額=預金総額+現金総額+CBDC総額」である。

 先ず信用創造で貸出=預金が生まれ,後からその預金がどこかで引き出される。だから,預金の引き出し額が大きくなっても,それは事前になされた信用創造額を所与として,預金・現金・CBDCの比率が変わるだけである。

 ただし,銀行が預金を失うということは,その分だけ準備=中銀当座預金(と手持ち現金・CBDC)を失うということでもある。預金はいつ現金やCBDCで引き出されるかわからないのであるから,銀行は準備を持っておかねばならない。だから,準備を失うということは,その後の貸し付け能力に制約が加わるということである。この点では,預金がCBDCで引き出されると金融引き締め効果があり,信用創造が制約されると言える。

 もっとも,国債が大量に発行され,かつ低成長のこの時代,銀行は全体として大量の国債を保有してる。そのため,準備は買いオペレーションによって中銀から容易に供給される。現に21世紀になってから日銀当座預金は積み上がるが,マネーストックはなかなか増えないというのが日本の現実である。現代の中央銀行は,現金比率の上昇による引き締め効果には,十分対応できるとみてよい。銀行全体については,預金縮小による信用創造への制約を心配する必要はないだろう。

 しかし,個々の銀行にとっては異なる。預金の降ろされ具合は銀行によって異なり,また全体として預金が減少した場合の影響も銀行によって異なってくる。規模の小さな銀行は苦しくなるだろう。つまり,CBDCで預金が大量に降ろされると資金調達競争が激化し,そこで敗れる銀行が出てくるだろう。これが,本当の問題なのである。

 日銀が,このような問題の構造をつかんでいるのかどうか,上記の引用文の表現ではよくわからない。むしろ,日銀が銀行=信用仲介機関説(外生的貨幣供給論)という,学会で多数ではあるが誤っており,銀行実務にも反する見解に立っているのではないかという疑いを抱く。つまり,信用創造とは本源的預金に基づく現金の貸付,その一部の預金還流,そのまた貸付というたらいまわしであり,預金が流出すれば信用創造の原資が縮小すると考えているのではないかと疑われるのである。

 日銀はかつて「日銀理論」と呼ばれる,銀行=信用創造機関説に近い見地を取っていたのだが,黒田総裁になってから,量的金融緩和を正当化する銀行=信用仲介機関説に完全に転向したと見られる。この転向がCBDCへの見方にも影響を与えているのではないかと懸念する(※2)。

・「CBDCが決済手段として広く用いられるためには、プライバシー保護の面で利用者が安心できる設計・運営が求められる」。もっともである。現金は取引履歴の情報をほとんど記録しない(指紋がついたりすることはあるとしても)。しかし,CBDCについては設計次第である。中央銀行が個人の取引情報を握ってよいという理由はない。この点では,中央銀行や政府の方針に今後とも十分注意する必要がある。


※1「中央銀行デジタル通貨:口座型はまったく不合理であり,トークン型に絞って検討すべき」Ka-Bataブログ,2019年12月4日。


※2 黒田総裁のリブラについての発言からは,日銀,銀行を信用仲介機関とみなしていることがうかがえるという。建部正義「中央銀行デジタル通貨(CBDC)と民間デジタル通貨(libra)をめぐって」『ジャーナル・オブ・クレジット・セオリー』創刊号,信用理論研究会,2020年11月。



「『中央銀行デジタル通貨に関する日本銀行の取り組み方針』の公表について」日本銀行,2020年10月9日。


2021年2月19日金曜日

経済が成長するときに,流通に必要な通貨はどのように供給されるのか

 現代の管理通貨制のもとで経済が成長するときに,流通に必要な通貨はどのように供給されるのだろうか。ここには,一見矛盾する二つのもっともらしいストーリーが存在する。この二つは実は両立するのだが,両立の論理は我々の直感と必ずしも一致しないし,経済学の様々な学派の常識とも必ずしも一致しない。

1.経済が成長すれば必要な通貨量は増大する

 貨幣・通貨の種類は問わずに,資本主義経済が成長し続けていると考えよう。企業は生産活動を行い,利潤をあげ,これを一部は資本所有者の所得として配当し,それ以外は再投資する。労働者は労働力の再生産費を基準とした賃金を得る。経済が成長し続ければ,企業利潤は増大し,雇用は拡大するので賃金総額も増大する。流通する財・サービスの付加価値総額は拡大する。

 したがって,いま貨幣の流通速度を一定とすれば,流通のためにより多くの通貨が必要となる。一方,資本の回転の中で一時的に遊休する貨幣,設備投資のために積み立てねばならないために一時的に遊休する貨幣,資本家個人や労働者個人が一定期間支出せずに貯蓄する貨幣も増大する。

 以上のことは常識であり,何もまちがっていない。

2.預金通貨は貸し付けによって供給され,返済によって消滅する

 現代の通貨の基軸は預金通貨=要求払い預金と現金=中央銀行券である。預金通貨は,銀行が主として企業,場合によって個人に貸し付けることによって創造される。振り込みや小切手などをとおして預金通貨によって支払いがなされると預金は移動するので,個別銀行の預金は増減するが,預金量の総量は変わらない。また預金が降ろされるときは,銀行から企業(や個人)に中央銀行券で支払われる。銀行は中央銀行券を,貸し付けや信用代位によって供給される中央銀行当座預金を降ろすことによって入手する。このときに中央銀行券は発行される。中央銀行券は企業による支払いにも使われるが,主に個人による小口の支払いに使われる。そして預金として預けられることがあると銀行に戻る。銀行はこれを手持ち現金としてもよいし,日銀当座預金に預けても,日銀への返済に使ってもよい。中央銀行に戻った中央銀行券は破棄される。

 いま仮に政府が均衡財政を実施しているとすると,上記の民間経済の仕組みの中では,流通に必要な預金通貨は銀行からの貸し付けによって供給され,返済によって消滅することになる。中央銀行券は,現金流動性の必要に応じて預金通貨が置き替えられたものである。

 以上のことも,少なくとも銀行実務に通じた人にとっては常識である。

3.1と2はどのように両立しているのか。

 では,1と2はどのように両立するのか。1によれば経済成長とともに流通する通貨は増えて行かねばならない。しかし2によれば,通貨は貸し付けられ,回収されるだけであり,その動きは基本的にゼロサムである。ここから理論的な混乱が起こりやすい。

4.典型的な混乱

 混乱a。 1だけを見ると,貨幣は社会の拡大再生産によって増加していくように見えて,2が間違いだと思えてくる。だが,付加価値は増えても,魔法のように中央銀行券が増えるわけではないことはすぐわかる。預金通貨も同じである。企業が利潤を上げる時は,投下した資本よりも高い付加価値を体現した財・サービスを販売して通貨を手に入れるわけだが,そのためには財・サービスの買い手があらかじめ通貨を持っていなければならない。企業と個人の所得がいくら増えても,銀行以外の企業や個人は通貨をつくれない。

 混乱b。そこで,1の常識を延長し,遊休する貨幣が預金となって金融機関に集積され,原資(本源的預金)となって,その何倍かの貸し付けが行われるという,教科書的信用創造論で考える論もある。こうすれば中央銀行券は増えずとも,預金通貨は最初に預けられた現金の何倍かに増えると考えるのである。しかし,これでも解決はしない。最初に遊休する預金通貨や,最初に預金として預けられる中央銀行券はどこからきたのかという問題に答えられないからである。預金は,まず貸し付けによって生まれて,それが点々と流通するのであり,中央銀行券は預金が引き出されたからこそ流通に入るのである。そうした預金が遊休したり,中央銀行券が預金として預けられたからと言って(※1),何も増えることはない。銀行に(ただしおそらくは最初に貸付を行ったのとは別の銀行に)還流しただけであり,元の金額が維持されるだけである。信用創造が行われるとか,信用創造で預金が増えるとかいうのは,貸し付けられた時にだけ起こるのであり,預金が預けられて増えるのではない。

5.両立の論理:返済を上回る貸付と,その範囲での遊休貨幣の動員

 1と2が両立する唯一の論理は,流通に必要な通貨の増大は,返済を上回る貸し付け,すなわち信用創造の拡大によってまかなわれているということである。社会全体として見た場合に,債務が返済される以上に貸し付けが行われるという運動が連続的に生じ続けることが,通貨供給量を増大させる。通貨の増大イコール債務の増大なのである。

 もちろん,いったん貸し付けられた預金通貨や,それが降ろされた現金は,様々な場面で購買手段や支払い手段として流通に入り,財・サービスの価値を実現する。そして様々な形で遊休する。タンス預金もあれば,貯蓄性預金もあるだろうし,流通市場での金融資産購入にまわされる場合もある(なお,発行市場での証券投資は実物経済の投資に結びつく)。だから,ある時点で見れば,必要な通貨の増大は,遊休していた貨幣が流通に引き戻されることによっても実現する(ここで遊休と金融的流通の区別・関連をどう見るか問題があるが,今は脇に置く)。

 しかし,遊休している預金や中央銀行券と言えど,そもそもはどこかで銀行から貸し付けられた預金に由来するものである。その貸し付けは踏み倒すのでない限り,いつかは返済されなければならない。だから遊休貨幣も,結局,返済を上回る貸付という大きな運動によって供給されるものであり,それがなければ存在し得ないのである。

6.マルクスを拡張し,シュムペーターに注目する

 以上の通貨供給論は,マルクスの貨幣流通法則論(商品流通の必要によって貨幣流通量が決まる)を預金通貨と中央銀行券に適用すれば導出可能である。ただし,マルクス当人は預金について多くを書き残さなかったので,この論理展開を導くには,マルクスの個々の記述ではなく体系に依拠し,後続者が独自に理論構築することが必要であった。しかし,その過程でマルクス派も他の学派とともにaやbの迷路にはまりやすかった。また中央銀行券と国家紙幣を混同し,中央銀行券に紙幣流通法則論(投入された紙幣総額によって紙幣流通量が決まる)を適用して万年インフレ論を説くきらいもあった。

 この通貨供給論と親和性の高いことを直接に述べていたのは,実はシュムペーター『経済発展の理論』である。シュムペーターの経済発展論は,まずワルラス的静態均衡を仮定し,しかるのちにこれを経済発展の動態モデルに移行させようとする。すべての資源が有効利用されている均衡状態から出発して,それでも経済発展をさせようと思えば,企業者行動によって生産関数をシフトさせる革新を行うしかない。その際に必要な資源は他部門から引き抜かねばならない。だから創造でなく創造的破壊という。しかし,資本主義経済において資源を略奪するわけにはいかない。ではどういう方法をとるかというと,銀行が信用創造によって企業者に貸し付け,企業者はこれによって資源を調達するのである。ここで重要なことは,シュムペーターは,資源は無から作り出すことはできないが,貨幣だけは銀行によって無から創造され得ると考えていたことである。この理論の重要性は,今日もっと強調されるべきだと思う。

7.財政赤字と通貨供給

 なお,以上の通貨供給論は全くの内生的貨幣供給論である。しかし,これと異なる通貨供給がなされるルートも存在する。それは,財政赤字による通貨供給の増大である。よく知られているのは中央銀行が国債を引き受ける場合であるが,実はそれだけではない。民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する(※2)。このような外生的貨幣供給の作用は独自に検討しなければならない。

※1 この遊休のあり方については別途考察が必要だが,さしあたり単純な形態として,支払を受けた企業が差し当たり事業に投資しないお金を定期性預金にしていると考えておけばよい。

※2 なぜそうなるのかの説明は,以下をご覧いただきたい。「民間銀行が国債を引き受けても,通貨供給量は外生的に増加する」Ka-Bataブログ,2020年12月5日。

後記:上記1-7は,岡橋保,村岡俊三,松井和夫,楊枝嗣朗,大畠重衛,ランダル・レイ,吉田暁ら先学の見解を学びながら考えたものである。特に,最近になって気づいたが,1-6までは吉田暁氏の見解と一致する。吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行』日本経済評論社,2002年,吉田暁「実践感覚から理論への期待」『信用理論研究』20,2002年,「内生的貨幣供給論と信用創造」『経済理論』45(2),2008年などを参照。ただし7はおそらく吉田氏と異なる。他方,2,7は,またおそらく5も現代貨幣理論(MMT)と一致する。

2021/2/23 「混乱b」の項を改訂。サブタイトルを削除。


2021年2月16日火曜日

日経平均株価終値3万円越えの報道に接して:金融緩和の深掘りは止め,財政支出で生活支援を

  2月15日の東京株式市場で,日経平均株価は終値で3万円を超え,30年6か月ぶりの高値になったとのこと。

 株価がつり上がっているのは,金融緩和の副作用である。しかし,庶民にはほとんど良いことはなく,景気全体は停滞している。内閣府の『月例経済報告』によっても「景気は、新型コロナウイルス感染症の影響により、依然として厳しい状況にある」のであって,せいぜい「持ち直しの動きがみられる」程度だ。2020年度実質GDP見通しはマイナス5.2%,うち民間最終消費支出はマイナス6.0%だ。

 もともと不況対策としての金融緩和は,流動性枯渇と信用機構の連鎖的崩壊を防ぐために行うものである。そこまでは意味があるが,現在の低成長経済で成長回復をもくろんでひたすら金融緩和を深堀りしても,実体経済にはほとんど効果はない。金利が下がったから設備投資をし,在庫を増やそうという状態ではないからだ。まして日銀がETFが続けているのは,露骨な上場企業優遇策を国会の議決なしでやっているに過ぎない。

 現下の不況対策は財政政策を中心に,それも,金融資産投資に回らず,確実に実体経済に回るような,生活と営業を支える支出に回るように行わねばならない。低所得者への現金給付,住宅確保給付,営業支援給付,休業者への給付金,失業給付金を地味に続けることが,庶民の生活を救い,バブルという副作用を最小化する道だ。

「株価 終値でも3万円超え 30年6か月ぶりの高値」2021年2月15日,NHK。

2021年2月14日日曜日

地震後も無事でおります

  2月13日に仙台市青葉区の自宅及び大学は震度5強の地震に見舞われました。自宅はほぼ無事で,現在本や書類が散乱して棚が歪んだ研究室の修復中です。ご心配くださった皆様に御礼を申し上げます。


大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...