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2022年8月15日月曜日

安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』中央公論新社,2022年を読んで

  著者にいただいた安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』を読了した。以下,今回気づかされた点を列挙する。

*泥縄。「大東亜共栄圏」の語が初めて登場したのは,日独伊三国同盟の交渉の過程で,日本の勢力圏を認めさせるためであった。ところがこの勢力圏としての大東亜共栄圏は対米開戦のために実行不可能となった。逆に,より切実でそれなりに具体的な排他的自給圏としての大東亜共栄圏が浮上したのは,対米開戦後,実際に東南アジアを占領してからであった。そんなことで間に合うわけがない。

 大東亜共栄圏が,結果として東南アジアからの資源収奪に終わったことは,原朗「『大東亜共栄圏』の経済的実態」『土地制度史学』第71号,1976年(現在は原朗『日本戦時経済研究』東京大学出版会,2013年)などから理解はしていた。今回,本書からは,大東亜共栄圏が,そもそも経済的に可能だという見通しをもって計画的に試みられたものではなかったことを知ることができた。

*食糧不足という要因。フィリピンでの綿花増産や鉱山復旧については,治安の悪化,ゲリラの抵抗によって困難となったのに対して,北支での銑鉄,アルミナ増産などの経済開発挫折の最大要因は,食糧不足による労働力確保難であった。私は,大陸での小型高炉による銑鉄増産がなぜ挫折したのかについて知りたいと思っていたのだが,食糧不足が基本要因であることを初めて認識した。

*重光葵の外交路線が意味するもの。重光は,大東亜共栄圏から,日本を頂点とする階層秩序である排他的自給圏であるという外観を,なんとか薄めようと努力した。それは,国際経済秩序についての戦後構想を示し,日本の戦争と外交に国際的な正統性を獲得するためであった。重光は大東亜共同宣言を大西洋憲章に対置できるように努力したが,果たせなかった。

 著者からいただいたメールには,重光についての記述に力を入れたとのことなので,その点について,やや話を広げた感慨を述べる。

 本書に先立って,先日加藤陽子『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』朝日出版社,2016年をようやく読んだ。そこで認識を新たにしたのは,大日本帝国がリットン調査団報告以後,対米交渉に至るまで,諸外国から繰り返し「より開放的な国際秩序への復帰」を呼びかけられていながら,これを拒絶してしまったということだった。

 私も経済学者の端くれなので,自由な通商体制によって排他的行動を抑制するという経済思想を,その経済的望ましさによって評価しがちである。しかし,むしろ国際政治の面から,この思想の正統性,他者に対する包容力,説得性を含めて理解することが,デカップリングの可能性が話題となる今日,重要ではないだろうか。つまり,開かれた,多くの諸国を包括する通商体制は,国際秩序から離れて自国中心の秩序をつくろうとする国家に対する批判と説得の論理として,歴史的に重要な局面で用いられてきたということだ。

 当時,日本は開かれた通商に戻れという呼びかけをついに振り切って,国際連盟を脱退し,日独伊三国同盟を結び,対米開戦に踏み出してしまった。しかし,開戦してから泥縄で構築しようとした大東亜共栄圏について,本書が注目した重光は,何とかその閉鎖性を緩和し,国際的な正統性をもたせようとした。それは英米が,領土不拡大・民族自決・自由な貿易をうたった大西洋憲章を提示していたからである。手遅れで,到底無理な試みではあったが,重光はこれに対抗する構想を提示せざるを得なかった。開戦してから慌てて言い訳をするくらいならば,リットン調査団と国際連盟脱退の時点,あるいは三国同盟締結交渉の時点,せめて日米交渉の時点で,もっと国際的に正当性を確保する道を選ぶべきだったのに,と思わざるを得ない。

 当時も,そして遺憾ながら21世紀の今も戦争は政治の延長であり,政治はあからさまな軍事力を含む力関係に規定されている。パワーのない正統性は無力であり,戦争で敗北した国家は,基本秩序(憲法)を転換させられるかもしれない。しかし,正統性を伴わない力は支持を得ることができず,国家はその行使によって国際秩序の中で安定した地位を獲得することができない。その意味では,長い目で見てやはり弱体である。

 開かれた通商体制は,戦争によって踏みにじられるかもしれない。しかし,どの国家も,開かれた通商体制の中で生きるという建前をかなぐり捨てることは難しい。戦争とは軍事力の衝突であると同時に,戦後の開かれた秩序を提示し,それへの支持を獲得する政治的競争でもある。このダイナミズムがかつてどのように作用したかを知ることは,21世紀の目前の問題にとって重要な示唆を与える可能性があるように思われる。


2022年8月28日:9段落目に一文追加。

安達宏昭『大東亜共栄圏 帝国日本のアジア支配構想』中央公論新社,2022年。




2022年8月4日木曜日

資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか:ブランコ・ミラノヴィッチ『資本主義だけ残った』最終章によせて

  学部ゼミでブランコ・ミラノヴィッチ(西川美樹訳)『資本主義だけ残った』(みすず書房,2021年)を読み通した。色々と論点はあったが,ここでは最終章の「資本主義は私的領域まで商品化・市場化し,経済的ユートピアと人間関係のディストピアを築くのか」という問いを考えてみたい。話が大きすぎて明快な切り口を設定するのが難しいが,それでもいくつか考えてみたい。

*資本家のジレンマ

 ミラノヴィッチは,資本主義経済が成長し続けていることには何の疑問も持っていないようである。しかし,資本主義は,成長すればするほど,投資・消費し切れないほどの所得を生み出してしまう。この,成長の果ての停滞というケインズ的問題が全く落ちていて,成長は成長を呼ぶかのように論じるところが,本書の現代資本主義論としての食い足りなさである。
 現実には,先進資本主義経済が長期停滞にある(ローレンス・サマーズ)と言われて久しい。停滞からの活性化を図るためにあh,「新市場開拓型イノベーション」(クリステンセン&ビーバー)が必要とされる。従来の顧客に新製品で奉仕する持続的イノベーションでは市場は広がらずに雇用が徐々に減っていくし,コスト節約型イノベーションではなおさら雇用が減る。それでも生じた利益が再投資される時代だったら経済は成長したが,いまは投資先を見つけられない現預金を企業が抱え込むか,金融資産に繰り返し投下している。そういう観点からすると,ミラノヴィッチが注目するサービス分野の市場化は,経済活性化のカギとなる領域である。
 しかし,サービス分野の商品化は「私的領域」というよりも,個人・家族・コミュニティの再生産に必要な「共同作業」を商品=サービスの売買に変えているといった方がいい。セックスも,育児も,調理や清掃も,介護も,生活に必要な近距離移動も,文化・芸術における交流や評価も,もともと孤立した「私」の営みでもないし,「買い手と売り手」「奉仕者と顧客」だけの関係を処理するものとモデル化するべきではない。大量生産・大量消費になじまなかったために,従来,非市場的・非営利的に営まれてきた「共同」作業だった。そこに,一方では停滞から脱却する必要性によって,他方ではITの発達によってこれを可能とする技術が出現したために,ついに商品化の波が及んでいると理解すべきだろう。

*「官僚化」の失敗

 サービスの商品化は「官僚化」の失敗と表裏一体である。マルクス経済学は,1930-70年代に国家が経済介入を強めた理由を様々にとらえて「国家独占資本主義」論のバリエーションを展開したが,中でも島恭彦や池上惇は,コミュニティの営みが官僚機構によって包摂されていき,その包摂の仕方が資本蓄積に奉仕するものであることを重視した。そこで提起された対抗戦略は,官僚機構の民主的地方自治への転換であった。
 ところが1980年代以降の新自由主義は,コミュニティの共同作業を官僚機構に包摂することを中断した。むしろこれを市場化し,あるいは官僚機構,市場,NPOの協業関係に変形させた。問題とすべきが官僚化から脱官僚化・市場化に変わったのである。

*プラットフォームによる「シェアリング」の「マッチング・ビジネス」化

 ミラノヴィッチは本書でほとんど触れていないが,共同作業の商品化はプラットフォーム・ビジネスを通して行われている。
 プラットフォーマーは,家族やコミュニティの共同作業であったものを,顧客と自営業者(ギグワーカー)の市場取引としての結び付きに変える。使用価値的には「共同作業」であり,お互いの遊休資源を有効活用する「シェアリング」であるものが,市場での価値の取引では「マッチング・ビジネス」として資本主義的に営まれる。食事の宅配であり,保健サービスであり,ライドシェアリングであり,ネット小説であり,個人の対話と交流であり,レストラン情報のやり取りと格付けである。
 ミラノヴィッチによる私的領域の商品化論を読んでいると,自律した個人がサービスを取引し合う自営業者だけの世界が生まれるようにも見える。しかし,そうではない。プラットフォーマーは巨大資本主義企業であり,ネットワーク外部性を活用して独占化する。マッチング・ビジネスにおけるサプライヤーはギグワーカーとなりがちであり,形式上は業務請負業者であっても実態は労働者にほかならず,労働市場で分断され,低い労働条件で働かねばならないことが多い。そして,コミュニティでの評価の代わりにグローバルな採点とその背後のアルゴリズムに直面する。
 なるほど,これは資本主義経済を救う新市場拡大かもしれない。取引相手をサーチする範囲を広げることで資源の有効利用度を高め,稼得機会を社会全体として拡大するかもしれない。確かに,弱体化する親類ネットワークやコミュニティよりも,はるかに広い範囲からのすばやいマッチングを,営利的動機によるプラットフォームへの吸引は可能にする。しかし,プラットフォームによる共同作業の商品化は,独占と激しい経済格差を生み出すものである。また「マッチング・ビジネス」だけがあらゆるところに入り込めば,その網の目がコミュニティをさらに侵食し,人間の共同作業を困難にして,所得をめぐる競争に励むしかないように動機づける。

*ユートピアではない

 これは経済的ユートピアではない。共同作業の別の形での発展の可能性をつみとって,市場取引オンリーに変えるものである。また,人間関係のディストピアにまでたどり着くかは別としても,少なくともユートピアではないだろう。







2022年7月27日水曜日

斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年を読んで

  いま世間で話題のマルクス経済学者と言えば,斎藤幸平氏であろう。実は,私は『人新世の資本論』(集英社新書,2020年)については,共産主義をめざせ的なアジテーションにいま一つついていけなかった。私が政策論としてはグリーン・ニューディール論者だからであろう。しかし,今回,同書より前に出版されている斎藤氏の研究成果である『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』をようやく一読し,新鮮な驚きを覚えた。テレビや一般向けの文章で氏が語ることとはずいぶん異なる印象を受けた。やはり主著を読むべきである。

 斎藤氏が本書を通して言わんとすることは,大きく二つと思える。

 一つ目の主張は,学説史的に言えば,マルクスは『資本論』第1巻を出版した後,自然科学の研究を深め,それまでよりもエコロジカルな視点を強めたということである。なので,マルクスのエコロジーは出版された『資本論』よりも深まっていたということになる。これはマルクスの著作だけからでは読み取ることができないため,斎藤氏は新MEGA(新マルクス・エンゲルス全集)に収録されたマルクスの読書の記録である「抜粋ノート」や,蔵書への書き込みを検討し,解釈することで自説を主張した。マルクスがリービッヒの農芸化学を熱心に研究し,そこからリカードの収穫逓減法則批判の根拠を獲得したことや,土地疲弊の例を中心に物質代謝の攪乱の視点を得たことはよく知られている。しかし,斎藤氏によると,マルクスはその後,フラースの沖積理論と,過剰な森林伐採から地域全体の気候変動を論じる観点を学び,気候や植物が時間とともに変化すること,その変化の過程に与える資本主義的生産の破壊的影響はリービッヒが示唆するよりも広範であり,容易に修復できないことを認識したのである。

 二つ目の主張は,理論的には,マルクスは,『ドイツ・イデオロギー』以後,一貫して「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被るか」(MEGA II/3:57より。『大洪水の前に』110頁)という問いを持ち,そこから人間と自然の物質代謝の亀裂を分析しようとしていたということである。ここで生じるのは「素材」(ものとしての在り方)と「形態」(資本主義の下での経済的規定)の絡み合いである。経済学が対象とするのは「形態」の方(価値や価格や蓄積)だけだと思われがちであるが,そうではない。「マルクスの経済学批判の方法は,このような社会的生産から生じる素材的世界の攪乱を,資本の論理が引き起こした矛盾として,その歴史的特殊性を把握することにある。ここで重要なのは,単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であったということである」(『大洪水の前に』254頁)。だから環境破壊は「資本主義のせいだ」というだけでは十分ではないし,環境破壊について経済学の課題でないとすることも適当ではない。「資本主義の運動が,具体的に環境のどこをどれほどどのように破壊しているか」を分析するのがマルクスの視点であった。

 なので斎藤氏によれば,ある時期以降のマルクスは,自然を人間が思うがままに支配するプロメテウス主義でアンチ・エコロジーだったわけではない。倫理的に「資本主義が環境を破壊する」と告発するだけでもない。また,斎藤氏によればエンゲルスにやや顕著な,自然法則を正しく理解して「自然の復讐」を防ぐという超歴史的視点でのエコロジーをとっていたわけでもない。「労働過程が資本のもとでのその包摂によってどれだけ変化を被る」かを分析し,どのように「物質代謝の亀裂」が入り,資本の「有機的」構成に影響し,素材の弾力性の損傷によって資本の弾力性も損なわれるかを論じようとしたのである。

 私には正確な学説史上の評価を行う素養が不足しているものの,文献学の迷宮のような新MEGA研究の理論的意義がこれまで呑み込めなかっただけに,「抜粋ノート」を読み込んで晩期マルクスの思想を探るという切り口は,たいへん面白かった。現在の温室効果ガスによる地球温暖化とは異なるものであるが,森林伐採による気候変動論をマルクスが自説に取り込もうとしていたということには,率直な驚きを覚えた。

 また「単に経済的形態規定の社会性を明らかにするだけでなく,そうした形態規定を素材的世界の関連で把握することがマルクスの問題意識であった」ことは,もとより産業論の研究者として大いに支持するところであるが,マルクス自身がこの視角をエコロジーまで伸ばそうとしていたことにも新鮮な驚きを覚えた。この視角ならば,単に資本主義の自然破壊を抽象的に告発するのではなく,どのように破壊するのか,元々変動するものである自然に資本主義がどのように影響を与えるのか,文明を崩壊させる限度はどこにあるのかという,具体的で,いまでいう持続可能性を視野に入れた分析が可能になるだろう。

 このように,私は『大洪水の前に』を,マルクス研究としては久しぶりに興奮をもって読むことができた。

 最期に,本書から逆に,マルクスには時間がなくてできなかったことを考えたい。つまり,エコロジーの社会変革論であり階級論である。マルクスは,資本主義は労働者階級を生み出し,彼/彼女らに厳しい労働条件と生活状態を強いることを明らかにする一方で,資本主義的生産は労働者を社会変革の担い手として,また将来社会の生産の担い手として鍛え上げることを論じた。その論じ方が正しかったかどうかは別にして,少なくとも理論的,歴史的に論じたことは事実である。対してエコロジーについては,マルクスは,斎藤氏の言うとおりだとすれば,資本主義による環境破壊を分析する視点を確立する途上で世を去った。とすれば,その先の問題,つまり資本主義による環境破壊が,社会のどのような階級をどのような状態に置き,したがって,どの階級が環境を保全し,そのために必要な社会改革に立ち上がるのかという必然性や蓋然性を検討する時間的余裕を持てなかったのであろう。

 それは,後の世代に残された課題である。斎藤氏がその課題に取り組むためのマニフェストが『人新世の資本論』だとすれば,私は斎藤氏のマルクス研究の成果を学びつつ,現代の課題については,私なりに何かを言えるようになりたいと思うのである。


斎藤幸平『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』堀之内出版,2019年。




2022年7月20日水曜日

リピアーは神永と出会い,神永と融合したウルトラマンに禍特対の人々は出会う。そこにいるのは個体と個体であって,アメリカと日本ではないーーー『シン・ウルトラマン』を観て大澤真幸説と対話する

(この拙文は,映画『シン・ウルトラマン』をすでにご覧になった方に向けたものです) 


 大澤真幸「ウルトラマンはどうして人類を助けるのか?~映画『シン・ウルトラマン』から考える」imidas,2022年7月8日は,は,かつての佐藤健志『ゴジラとヤマトとぼくらの民主主義』文藝春秋,1992年と同様に,ウルトラマンと人類の関係を戦後の日米関係に見立てる論稿である。大澤氏は「『ウルトラマン』では、日米安保条約的な態度と関係性が、無意識のうちに肯定されていた。『シン・ウルトラマン』は、逆に、日米安保条約的な態度と関係性を意識的に拒絶している」という。これは神永や禍特対の人々が,人類を滅ぼそうとするザラブや,人類を資源として管理下に置こうとするメフィラスと日本政府との条約を阻止したことを念頭に置いている。だが「人類はウルトラマンから自立できたことになるのか。人類は、(ほぼ)自分の手で自分たちを救うことに成功したことになるのか」というと,そうではないと大澤氏は言う。「人類だけではゼットンを退けることはできず、むしろ最も難しく肝心なところに関してはウルトラマンのおかげである」からだ。ウルトラマンが人類を助ける理由は結局不明であり,これは「自分たちが発揮できる利他性は同胞の範囲にとどまっているのに、日本人は、その範囲を超えて利他的にふるまってくれる強い他者を必要としている」という日本社会の困難の表れなのだと大澤氏は結論付けている。

 大澤氏と佐藤氏の具体的な意見は異なるが,構図の取り方,ウルトラマンの世界と現実の世界の対応のさせ方はそう変わっていない。ウルトラマンはアメリカで,人類は日本だというのだ(※1)。だが,私は大澤氏の構図の取り方は,作品の構造に即していないと思う。日米関係に関する氏の見解に異を唱えたいのではなく,シン・ウルトラマンに日米関係を読み込むことが適当ではないと思うのである。具体的には,氏は二つのことを見落としていると思う。

 ひとつは,『シン・ウルトラマン』は「光の星」「リピアー(ウルトラマン)=神永」「禍特対」「群れとしての諸国家」という四つのアクターからなっており,このうち国家や社会になぞらえることができるとすれば,光の星と地球の諸国家である。だが,その中間にいるリピアー(ウルトラマン)=神永と禍特対こそが本編の主人公である。どうして,この,身も心もある諸個体を無視して,「アメリカ」と「日本」という二つの国になぞらえることができるのだろうか。どうしてもなぞらえたいならば,せめて光の星=アメリカ,日本政府=日本とすべきだろう。しかし,外星人の出現に右往左往する日本政府を現実の日本とするのはまあいいとして,問答無用で地球を消滅させようとする光の星をアメリカに例えられるのだろうか。

 もうひとつは,主人公であるリピアー(ウルトラマン)が神永新二と融合していることである。言うまでもなくこれはSF的設定であり,現実にあり得ないことである。大澤氏は,「同胞同士の助け合いの行動は、同胞の範囲を超えた利他性を引き起こす力はない」として,リピアーの人間への関心を非現実的だとするが,そんなことは当たり前である。ありえないことを敢えてあるとした上で,そこから何か新しい認識を得ようとするのが,SFの一つの機能である。それをただ非現実的だと見るのは,SFの論じ方として実りあるものとは言えまい。

 本稿は,大澤氏の評論と対話しながら,『シン・ウルトラマン』では国家間の関係よりも,個体と個体の出会いが描かれているという見方を示すものである(※2)。もとより作品の解釈は多様であり,唯一正しい見方などないことは承知である。その上で,どのような見方が整合性を持ち,作品の解釈として説得力を持ち,新たな認識を生み出す力を持つかの問題だ。その判断は読者に委ねたい。

*リピアー=神永の融合

 光の星から来たリピアーは,身を挺して子どもを助けた人間・神永に興味を持った。このように生きる個体もいることに関心を持ち,そのような個体を好ましく思い,知りたいと思った。だから,神永と一体化して彼をよみがえらせた。神永と一体化したリピアー=ウルトラマンは,人類と別の存在として人類を守ってあげているのではない。浅見弘子の「あなたは外星人なの。それとも人間なの」という問いかけに対して,神永は「両方だ。敢えて狭間にいるからこそ,見えることもある。そう信じてここにいる」と答えている。リピアー=ウルトラマンは神永に変身しているのでもないし,普段は神永で,返信した時だけリピアーの人格になるのでもない。ウルトラマンは同時に神永でもあり,外星人でもあれば人間でもあるのだ。だから,神永という人類と同じように,人類の思考や肉体の限界も認識しているし,人類のように思考し,感じ,行動する。外星人を恐れるとともにそれに依存し,仲間を信じると同時に信じられない。ウルトラマンは,そのような人類を外星人として見つめると同時に,そのような人類に自らなっているのだ。だから迷う。だから戸惑う。融合した相手の身になり,それを理解しようとし,しかし,結局,「人間とはわからないものだ」と思う。大澤氏はそこに説得力がないと言うが,リピアー=ウルトラマンは,そこまで共感する力を持った存在として敢えて設定されているのだ。もしもそんな存在がいたら,人はどのように向き合うのか。問題はそこにある。

*ウルトラマン=神永と禍特対の人々の出会い

 ウルトラマンに向き合うのは,抽象的な人類一般でもなければ,単一の群れとしての人類でもない。禍特対のバディ・仲間たちである。ウルトラマン=神永は膨大な量の本を速読しつつ,禍特対の人々と交流し,バディとは何か,仲間とは何か,群れとは何かを知ろうとする。そして,浅見をバディと認めてベータカプセルを託し,ウルトラマンの圧倒的な力に無力感を覚えて自暴自棄になる滝明久に,自分の知識も有限であることを示しながらベータシステムの記述を残す。リピアーは神永を通して人類に関心を持ったのであり,ウルトラマン=神永は,禍特対の人々を通して人間と信じあう経験をするのである。極論を言えば,リピアーにとって大事なのは神永であり,ウルトラマン=神永にとって大事なのは浅見や禍特対の仲間である。仲間と切り離された人類や,その群れ=諸国家それ自体を大事だと思っているわけではない。また,浅見や禍特対を通して知った人間のためであれば,光の星の掟を破ることもいとわない。

*掟ではなく人類ではなく仲間が大切だ

 リピアーが神永と融合したことは,光の星のゾフィーによればすでに禁断の行いであった。そして,リピアー=神永は,ゼットンを繰り出して人類を太陽系もろとも1兆度の火の玉で焼き尽くそうとする光の星の決定に反抗し,人類を守ろうとする。禍特対もまた,地球上の諸国家に歯向かう。人類に対して「上位概念」として君臨し,その資源としての利用をたくらむメフィラスに対して,日本政府は真っ先に技術供与を求め,これに全面的に依存する。それが人類の自立的発展を不可能にすると見抜いたウルトラマン=神永は,禍特対とともに実力でこれを阻止する。神永と禍特対は,日本政府に逆らってでも人類の自立を守ろうとする。

 ウルトラマン=神永は,人類や諸国家にも与せずに行動する。ゼットンの脅威を禍特対に知らせようとした際,「政府の男」らに同行を求められ,諸国家の共同管理下に入らなければ禍特対の安全は保証しないと脅迫されると,きっぱりと拒否する。あげく,「もしそれを実行すれば,私はゼットンよりも早く,ためらうことなく人類を滅ぼす」とまで言い放つ。そして「われわれ禍特対」に干渉するなという。ここでただ一度,ウルトラマン=神永は,「われわれ禍特対」と言っている。ウルトラマン=神永は外星人にして人間であり,ウルトラマンにして禍特対の一員である。大事なのは禍特対の仲間であり,仲間と信じあえるからこそ人類を守る,われわれ仲間を滅ぼすような国家や人類など,守るに値しないし,自分が滅ぼそうとまで断言しているのだ。日本政府は勘違いしている。ウルトラマンは,無条件に人類を守ってくれる神様ではない。仲間が大切だと思うからこそ,仲間が属する人類も守ろうとしているだけなのだ。

 リピアー(ウルトラマン)=神永にとって大事なのはバディとしての浅見であり,仲間としての「われわれ禍特対」である。人類の価値とは仲間を通して知るものだ。仲間を抑圧するならば,人類に守る価値はない。大事なのは掟でなく,人類一般でなく,国家でなく,仲間である。このストーリー展開を,安保条約だの日米関係だのに押し込めるのは筋違いというものであろう。

*個体が個体と出会って,何を問われるのか

 ウルトラマン=神永は言う。「ウルトラマンは万能の神ではない。君たちと同じ、命を持つ生命体だ。僕は君たち人類のすべてに期待する」。大澤氏は,これを「私はあなたたちの救世主ではない、あなたたち人類は自分で自らを守り、救わなくてはならない」という意味にとり,結局人類にはそれはできなかったという。しかし,そうではない。ウルトラマン=神永が言っているのは,スペシウム133のような人類にとって未知の力を駆使できるとしても,ウルトラマンも有限な存在であり,その点は人類と何も変わらないということだ。生きるために,神永=ウルトラマンもたたかい,人類もたたかう。そのようなもの同士として,お互いを尊いと思う。わからなくても尊重する。どちらがどのくらい強いかに関係なく,認め合うことだ。肝心なのはそこだとウルトラマン=神永は言っているのだ。

 リピアーと神永の融合も,ウルトラマン=神永と禍特対の人々との出会いも,どういじったところでアメリカ国家と日本国家が云々という話にはならない。どうしても現実に例えて言わねばならないとしても,これらの関係は国家間の安全保障ではなく,個人と個人の出会いの究極の姿だろう。神永=ウルトラマンに向き合う人類が問われることは,自分自身が主役になり,他者をわき役にして誰かに勝利することではない。他者であるウルトラマンとともにあろうとすることであり,自分にできる最大限のことをすることだ。リピアー=神永にとっても禍特対の人々にとっても大事なことは,様々な隔たりを超えて他の個体と共感し,それを好きになり,理解しようと思い,理解し切れなくてもお互いを尊重して生きることに他ならない。それは難しいことであり,できないかもしれない。滅びてしまうかもしれない。だが,できるかもしれない。挫折を覚悟でそれを試みた時に驚きが生まれ,新しい世界が開ける。光の星の掟を代表するゾフィは,未熟な別の種の個体と一体になり,その生命と未来のためにたたかうリピアー=ウルトラマンという個体のありように驚き,そこまで彼に思わせた人間たちに驚き,「そんなに人間が好きになったのか,ウルトラマン」と言ったのである。

※1 佐藤氏の見解については,未完ながら「佐藤健志氏の金城哲夫論について ウルトラセブンを中心に」で述べたことがある。この拙稿は蛸井潔氏の「糸納豆ホームページ」で公開されている。執筆したのは1994年である。また補足として,「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」Ka-Bataアーカイブ,2018年10月31日もご覧いただけると幸いである。

※2 本稿の見方は,私が以前に『ウルトラマン』最終回と『ウルトラセブン』最終回について示したものと本質的に同じである。ウルトラマンは,ただハヤタを生かしたかったがために地球に居続けたのであり,モロボシ・ダンはただアマギ隊員を助けるために最後の変身をしたのである。前者については「ウルトラマンはハヤタと出会った (2014/7/10)」Ka-Bataアーカイブ,2018年11月8日,後者については前掲「大野隆之教授のご逝去に際してーーウルトラセブン最終回のこと (2017/8/15)」を見て欲しい。ただし,以前の二つの拙文では,ウルトラマンとハヤタの融合,ウルトラセブンのモロボシ・ダンへの変身についての考察が弱い。今回は,リピアーと神永の融合の意味をいくらか掘り下げた。

2022/7/21 当初「リピア」と表記したが,日本語字幕版での表記が「リピアー」であることを知り,修正。最終的には公式発表を待って確定したい。


2022年7月14日木曜日

統一協会(統一教会)が行ってきたことは家庭の破壊であり,「家庭の価値」の尊重ではない

  全国霊感商法対策弁護士連絡会記者会見(7月12日)の報道があった。

「昨日の田中統一教会会長のコメントはあまりにも事実に反すると言わざると言わざるを得ない。統一教会として反省していただいて、こういう家族の悲劇、苦痛について配慮していただきたい。一番私達が一番許せないのは、山上さんのお母さんが平成14年,2002年に奈良地裁で自己破産している。その自己破産は、明らかに過度な献金のためだ。それ以外、考えられない。それを機能の記者会見では,その後の献金はないと。おそらく献金させている。借金させても献金させる。カードでの借金をしたために自己破産した信者はたくさんいる、それを白々しく、ああいう形で証言するのは、人前で述べるのは許されない。」
「今後政治家の皆さんも、ああいう社会的団体とエールを交換することは本当に慎重に考えていただきたい。しかしながら、繰り返しになるが、ああいう凶行は許されない。それだけはここでも強調しておきたい」

 コメントする。
 これまで少なからぬ保守政治家が,「家庭の価値」云々で統一協会やその関連団体に親近感を表明してきた。「神統一韓国のためのTHINK TANK 2022 希望前進大会」で安倍晋三氏も「UPF(天宙平和連合)の平和ビジョンにおいて家庭の価値を強調する点を高く評価いたします」と述べていた(動画確認の上引用)。しかし,統一協会が実際に行ってきたことは,大規模な家庭破壊に他ならなかった。

 もう亡くなった私の父,川端純四郎は,浅見定雄教授とともに,統一協会に入信してしまった若者を救出するための活動に一時期奔走していた。当の若者の思想・信条の自由を尊重したうえで対話と説得を行っていたので,救出には大変な手間と時間がかかり,父の憔悴ぶりは横で見ていて非常に心配であった。彼は救出活動に当たり,当人の自由を尊重することと並んで,もう一つ原則を立てていた。それは,救出を試みるのは,家族による本気の救出要請があった場合に限るということだった。彼は,当人に協会のおかしさに気づいてもらうために必要だからだと私に言っていた。また今にして思うと,他人が説得に入らざるをえないほど事態が深刻であるという指標にしていたのだとも思う。つまり,救出活動の一つ一つが,協会の家庭破壊に対する反撃だったのだ。

「【記者会見の全容】「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の会見『夫からの暴力』『自己破産』旧統一教会の二世信者も出席し"苦悩" 語る」mbs news,2022年7月19日。

安倍演説の該当箇所は以下の動画より。
「安倍晋三、ドナルド・トランプ、潘基文 THINK TANK 2022/2021年9月12日 清心平和ワールドセンター 194ヶ国 200万名以上直接参加。各国の国営放送などを通し、5億名以上視聴」WP,2021年10月28日。
https://youtu.be/WkCveSTsnlM?t=5502

※2022年7月29日。Abeme Timesリンク切れに伴い,報道のリンク先をmbs newsに付け替え。


2022年6月28日火曜日

安倍晋三氏には「悪夢のような」現実を作り出した責任がある

  あいも変わらず「悪夢のような」を繰り返す安倍晋三氏。金融を引き締めたら「『悪夢のような時代』に戻ってしまう」のだそうだ。しかし,悪夢のように忌まわしいのは本当のところ何なのか,誰がどのようにそれを引き起こしたのかを考えてみよう。

 6月20日に投稿したように,日銀はいま,国債買い支え=金融緩和に失敗すれば不況,成功しても,せいぜい高中所得層だけの好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ちになってしまうという,ジレンマにはまり込んでいる。

 問題はなぜこのようなジレンマに日銀が追い込まれたかである。金利を引き上げられないのは,景気が弱々しいからである。金融引き締めが「悪夢」と安部氏は言うが,わずかな引き締めもできない景気の弱さこそ慢性的な「悪夢」だろう。では,なぜ9年にわたって「量的・質的金融緩和」をしても景気が良くならないのか。欧米の景気は回復しているから,コロナだけのせいではない。

 それは,安倍政権以降の政府と黒田日銀が,あまりにも金融政策ばかりに頼ってきたからである。この10年間,日銀が金融を「引き締めない」ところまではもっともだった。アベノミクス期もコロナ禍でも,引き締めれば景気が悪化するほど需要が弱々しかったからだ。しかし,「緩和する」意味はほとんどなかった。金融政策とは紐であり,引くことはできるが押すことはできない。企業がお金を借りて投資するという引張りがないところで,緩めても意味を持たないのだ。現に,アベノミクス期には緩和してもマネーストックは増えず,需要は増えなかった。

 金融を引き締めれば不況になるが,緩和したところで好況にならない。黒田日銀は,ずっとこのジレンマの中にあったのに,とにかく緩和しようとマイナス金利などの無理を重ね,徒労に終わって来たのである。

 間違いの根本は「金融を緩和すれば好況になる」という思い込みにある。日銀にとっては,金融政策しか実施できないのだから,ある意味では仕方がないかもしれない。しかし,この思い込みは黒田総裁や日銀だけのものではなく,安倍政権以来の自民党政権のものである。「デフレは日銀のせいである」「日銀が金融緩和すればデフレから脱却できる」と白川前総裁を攻撃し,政府と日銀の協定書で日銀にデフレ脱却の責任を負わせたのは安部政権である。

 アベノミクスは,「金融を緩和すればそれでいいんだろ」と言わんばかりであったのみならず,「金融緩和は日銀の仕事なんだから」という責任回避の屁理屈で成り立っていた。だから,景気がちょっとでもよくなれば自分の成果,都合の悪いことは日銀のせいで政府への批判は「あたらない」で押し通したのである。安倍政権は金融緩和に頼り切り,コロナ前には適切な財政拡張を行わなかった。消費者が将来不安ゆえに消費できず,消費者の萎縮を見た企業の設備投資も委縮してしまうような状況を改善しなかった。安倍政権も菅政権も,コロナ禍で生活苦に苦しむ人を救済せず,格差や貧困をなくすための制度改革を行わなかった。今日の事態はそれらの結果である。そして岸田首相は,資産課税や再分配でこれを変えるかのように見せて政権につきながら,実際にはほぼ何もやっていない。「悪夢のような」ものとは,わずかな金利引き上げもできないほどの慢性的経済停滞という現実であり,その責任は,さかのぼればいろいろあるとしても,安倍以降の政権にもまちがいなくある。

 今起こっていることは,もはや日銀では解決できないのであり,政府の経済政策が問われている。需要面では,政府が中低所得者の賃金を底上げし,税負担を軽減して,ボトムアップで消費が盛り上がるように,逆に底抜けしないように生活支援を行わねばならない。逆に資本所得が多いような高所得者にはこれ以上貯蓄を積み上げさせずに支出してもらうなり,税収に貢献してもらうなりするのがよい。つまりは賃上げ,税制改革,再分配による下からの消費底支えである。同時に供給面では,国際環境の悪化を受けて,再生可能エネルギー事業と食糧自給を強化することが必要になる。問題は,政府がこうした対策を行うか否か,政治選択においてこうした政策を求める議員が増えるか否かではないか。

「金融引き締めたら「悪夢のような時代に戻る」 自民・安倍晋三元首相」朝日新聞DITITAL(Yahoo!配信),2022年6月22日。

「日銀のジレンマもしくはバクチ打ち」Ka-Bataブログ,2022年6月20日。


追悼・渡辺宙明先生。『組曲バトルフィーバーJ』と『電子戦隊デンジマン音楽集』の日々

 2022年6月27日,渡辺宙明先生が亡くなられた。私にとって最初の渡辺ソングと言えば,小学生時代の「Zのテーマ」であった。人の命が尽きた後も不滅の存在があるのだと信じた。その後,次第にどうかしていきながら高校生となり『組曲バトルフィーバーJ』と『電子戦隊デンジマン音楽集』のLPレコードを購入した(お金が足りず,同じころに出た『宇宙刑事ギャバン音楽集』は隣人に借りてカセットテープに落とした)。その魅力をたどたどしく周囲に訴えるもまったく理解されずに笑われ続け,意固地になって毎日のように聞き耽った。「ダンシングソルジャーズ」「愛のテーマ」「はるかなるデンジ星」「青春のテーマ~一人ぼっちの青春~」「闘争の終り」を聞きながら,何に感動しているのか自分でもわからないのに,誰にもわかってもらえないだろうと思いこんだ。「バトルフィーバーJのテーマ」「哀詩」「勇者が行く」「ベーダ―大出撃」「デンジマンにまかせろ!」を聞きながら,何とどう戦うかわからないのに,戦い続けねばならないのだと思った。当時中二病と言う言葉はなかったが,もう高三で,大学受験は目の前に迫っていた。その後,BJのLPは行方不明となり,デンジマンのLPは母親が納屋にしまうも大家が無断で廃棄,CDで買い直して現在に至る。中二病という言葉は生まれて久しいが,もう57歳で,このまま息絶えるのだろう。これらの曲を聞くことができたのだから,それでもよい。

「バトルフィーバーJ」ミュージック・コレクション,日本コロムビア。

「電子戦隊デンジマン」ミュージック・コレクション,日本コロムビア。




2022年6月20日月曜日

日銀のジレンマもしくはバクチ打ち

  日銀が連続指値オペで国債を買い支えられるかどうか=長期金利を低め誘導し切れるかどうか,それはわからない。しかし,どちらになっても良いことは起きない可能性の方が高い。

 買い支えに失敗すれば長期金利が高騰する。企業の資金繰りは悪化し,景気は冷え込む。円安の進行は止まるだろうが,止まったところでエネルギーと食料のドル建て価格も上がっているのだから,景気に対して十分な救いにはならない。日銀は保有国債を塩漬けにすることになる。政府の国債費が増大し,その多くは日銀に入ることになるだろう。不況に向かう時に,事実上の財政ファイナンスがいよいよ強まり,しかも対策を打とうにも新規発行債の金利は高い。財政運営は大きな困難を抱えることになる。

 成功すれば長期金利は抑えられ,企業の資金繰りは悪化しない。円安がさらに進行するかどうかは,アメリカ金利の引き上げ期待が続くか,市場に織り込まれてしまうかに依存する。私の意見では,注意すべきは円安よりもマネーストックの膨張である。

 現在の指値オペは,やればやるほどマネーストックが膨張するところが,アベノミクス期の買いオペと異なることである。それは,もっぱら銀行から買うのではなく,海外勢を含む機関投資家から間接的に買っているからである。国債は機関投資家→銀行→日銀と流れ,代金は日銀→銀行の日銀当座預金→機関投資家が銀行に持つ口座,と流れる。日銀当座預金のブタ積みで止まってしまい,なんちゃってマネー供給になっていたアベノミクス期とは異なり,真正のマネー供給になっているのだ。

 では,国債買い支えで増えたマネーはどこへ行くのか。運がよければ,企業の資金繰り改善と,コロナ期に「強制貯蓄」させられた高中所得層のリベンジ消費があいまって,好況になるかもしれない。日銀は明らかにこれを狙っている。しかし,マネーが高騰した輸入代金の支払いに消えて,不況のままインフレになるスタグフレーションを招くかもしれない。はたまた,バブルを再興するかもしれない。一つには,日銀が金利上昇を阻止すると,すでに価格上昇傾向を見せている不動産への資金流入が一層強まる可能性があり,また急落した欧米市場の株式より日本の方が買いやすくなるかもしれないからだ。

 つまり,私の理解では,行く手は日銀が買い支えに失敗すれば不況であり,成功しても,せいぜい高中所得層だけの好況,スタグフレーション,バブルの三択ばくち打ちである。所得が低い人ほど被害に遭う確率は高いだろう。

 目の前のことはこのように解釈できるが,問題は,そもそもなぜこのようなことになったのかである。別途整理したい。

続編:「安倍晋三氏には「悪夢のような」現実を作り出した責任がある」2022年6月28日。


2022年6月16日木曜日

「インフレか失業か」という金融政策の限界について

 金融政策では,景気過熱によるディマンドプルインフレに対して利上げで対抗する。それは中央銀行にとって,できることはそれしかないという点ではもっともだ。しかし,この政策がマクロ経済に対して果たす客観的役割は,失業率を高めて労働市場にバッファを作り出すことで,インフレを鎮めるというものである。インフレを更新させない程度の失業率を,マクロ経済学者は「自然失業率」と呼び,失業率を下げられる下限とする。言い換えれば,「完全雇用」と言っても失業率を下げられるのはせいぜい「自然失業率」までであり,それ以上下げようとしても下がらずにインフレだけ起こると言っているのだ。

 しかし,実際の労働市場はあちこちに移動障壁や独占や情報の非対称性や差別が存在するものであり,どの集団や地域も均一に「自然失業率」が生じることなどない。

 たとえば2022年6月16日付けロイターのコラムで,コラムニストのGina ChonはFRBが利上げを行っているアメリカの状況について,以下のように書いている。
「(FRBが--引用者)前のめりの利上げに乗り出した今、これらの労働者は再び見捨てられる危険が出てきている。5月の黒人の失業率は6.2%と、全体の3.6%や白人の3.2%を大きく上回った。そしてFRBの最新見通しに基づけば、失業率自体も今後数年で上昇してしまう。さらに先のニューヨーク連銀調査を見ると、学歴が高卒以下の人々の間でこれから借金を期限通り返済できなくなるとの見通しが強まった。このように全体から置いて行かれたままになる人たちをどう支援するのが最善かを決めるのは、もはや中央銀行当局者ではなく、政治家の仕事になっていくだろう。」

 「自然失業率」と呼ばれているものは実際には自然でもなんでもなく,現在の経済構造を与えられたもの,動かせないものとした場合に成立するものに過ぎない。このコラムの筆者が言う通り,そこに生じる理不尽な格差は,中央銀行ではなく政治の課題である。

 やっかいなのは,現在(2022年6月)のアメリカのようにすでにディマンドプルインフレが加速している時,まして現在のように輸入物価によるコストプッシュも同時に発生している時には,格差是正の措置を財政赤字拡大によって行うことが困難だということである。それは再分配や雇用制度・慣行の改革によって行わねばならない。もっと一ひねりした方法としては,MMTが主張するように,公的セクターが最低賃金で失業者を無制限で雇うという道もある。これなら財政赤字を拡張しながらでも賃金インフレは抑えられるが,実際上の課題が多い(最低賃金への不満の矛先が政府に向かうであろうことと,無制限で雇い入れた政府が有効な事業を創造できるかということが主な問題だ)。

 弱者を対象とした上に再分配を行うという,格差是正の政治的障壁は低くはない。しかし,そこに立ち向かわなければ,マクロ経済政策は「インフレなき完全雇用」を達成することは出来ず,弱者から先に失業させることでインフレを鎮めるという,上出来とはいいがたい方法に頼り続けることになるだろう。

参照
Gina Chon「コラム:FRBの「柔軟な物価目標」、わずか2年で自ら幕引き」REUTERS,2022年6月16日。



2022年6月14日火曜日

「新規学卒採用」に過度に依存する限り,「氷河期」という理不尽はまた起こる

 武田安恵「自己責任も甘えもウソ 氷河期、大卒就職率低下の真実」『日経ビジネス』2022年6月10日は,1990年代半ばから2000年代半ばに就職氷河期が発生したのは自己責任ではなく,1)団塊世代の人件費が重く,企業が採用を抑制した,2)製造業で高卒の働き口が激減し,この世代に大学生が増えた,3)派遣労働の規制緩和で非正規雇用が増えた,4)男女の平等化により女性の4年生大卒労働市場への参入が増えたという社会的要因によると主張している。

 いずれもその通りではあるが,肝心なことを指摘していない。それは,「新規学卒採用」が採用の中心である限り,景気を中心とする時々の事情によって,ある卒業年次が丸ごと有利または不利になるということだ。何年に生まれて,いつ大学を卒業するかが自己責任のわけがない。しかし日本では,何年に大学を卒業するかで就職の有利,不利が決定的に異なる。これが氷河期世代を生み,いまなお若者を採用に関わる「ガチャ」に追い込む問題の核心である。当然,今後も景気によって「氷河期」が生じ得るのだ。

 氷河期世代がその後,今に至るまでよい職を得にくく苦しまねばならない基本的理由も,「新規学卒採用」が正社員採用の中心だからであり,新卒でなくなると正社員採用の門が極度に狭くなるからである。東洋経済『CSR企業総覧』編集部の作成した,「新卒でないと入りにくく,勤続年は長い」ランキングを見ると,転職や中途採用が多くなった現在でも,有名どころ企業が数多く含まれていることがわかる。

 武田氏が指摘している,氷河期の頃から,会社が就職できた学生に対する「自己責任」「会社に頼るな」論を振りまいたことの問題も,「新規学卒採用」と言う慣行に関わる。長期の勤務を想定して,仕事スキルをまだ持っていない新卒者を採用するならば,その企業でしか認められないスキルやコミットメントについて,企業内訓練をすることがは必須であり合理的だからだ。就職氷河期はまた,企業の人材投資が減少した時期でもあり,今に至る日本企業の人材育成の失敗の始まりの時期でもあった。会社人間向きの採用をして「会社人間になるな」と命じる欺瞞的精神論の反省なしに人的投資も何もない。

 このように正社員採用の余りにも多くを「新規学卒採用」方式に頼ることが,良い仕事の不足や人的投資の不足を特定時期に偏って生み出すという理不尽を生み,さらにそれを自己責任扱いする誤った議論を生みだしているのである。

 「新規学卒採用」刊行は,あまりにも日本社会に深く食い込んでいるので,なくすことは難しい。なくしたらなくしたで欧米と同様に若年者の失業が増えるという問題も生じる。しかし,その範囲を調節することはできる。

 よく考えれば「新規学卒採用」は,「長期の勤務を想定し,スキルとコミットメント育成に会社が責任を負い,仕事の割り当てを会社が決める」若者を対象にしているのであり,いわゆるメンバーシップ型雇用の入り口なのである。これを会社の人事政策に応じ,幹部候補生プラスアルファに絞り込んでいくことは可能であろう。そして,それ以外は通年採用,仕事スキルに応じて採用し,転勤をはじめとする過度な会社人間化を求められないジョブ型雇用とする。通年採用は年齢差別が禁止されるので,新卒応募に失敗した若者も中高年もだれでも応募できる。そして,このジョブ型雇用に,ワークライフバランスを重視する層から,現在は差別的に処遇が低い非正規雇用層まで包摂していく。

 このように「新規学卒採用」・メンバーシップ型雇用と通年採用・ジョブ型雇用の境目を変えることが,氷河期や非正規差別をなくすためには有効で,かつ現実的に実行可能な範囲にあると私には思われる。

大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年を読んで

 大藪龍介『検証 日本の社会主義思想・運動1』社会評論社,2024年。構成は「Ⅰ 山川イズム 日本におけるマルクス主義創成の苦闘」「Ⅱ 向坂逸郎の理論と実践 その功罪」である。  本書は失礼ながら完成度が高い本とは言いにくい。出版社の校閲機能が弱いのであろうが,校正ミス,とくに脱...